小泉八雲 人形の墓 (田部隆次訳)
[やぶちゃん注:本作は明治三〇(一八九七)年にボストン及びニュー・ヨークの「ホートン・ミフリン社」(BOSTON AND NEW YORK HOUGHTON MIFFLIN COMPANY)から出版された作品集“GLEANINGS IN BUDDHA-FIELDS STUDIES OF HAND AND SOUL IN THE FAR EAST”」(「仏陀の畑(仏国土・浄土)の落穂集 極東に於ける手と魂の研究」:来日後の第四作品集)の第六章に配された作品である。同作の原文は、原本では「Internet Archive」のこちらから読め、活字化されたものは「The Project Gutenberg」のここで読める。
底本は、サイト「しみじみと朗読に聴き入りたい」の別館内のこちらにある、昭和二五(一九五〇)年新潮文庫刊の古谷綱武編「小泉八雲集 下巻」の田部隆次氏の訳の「人形の墓」を視認した。
田部隆次(たなべりゅうじ 明治八(一八七五)年~昭和三二(一九五七)年)氏は富山県生まれの英文学者。東京帝国大学英文科で小泉八雲に学び、後に八雲の研究と翻訳とで知られた。富山高等学校(現在の富山大学)にハーンの蔵書を寄贈して「ヘルン文庫」を作った。四高(現在の金沢大学)・女子学習院・武蔵高を経て、津田塾大教授。第一書房版「小泉八雲全集」を大谷正信らと共訳している。御覧の通り、彼はパブリック・ドメインである。
なお、「子供はつづけた、『未だおばあさんに……」の段落部の一部の会話を、誤読或いは躓く虞れを感じたので、特異的に改行してある。転載される場合は、ベタで続けられんことをお忘れなく。
登場人物の一人である「萬右衞門」は「まんゑもん」と読む(原文“Manyemon”)。
また、本文からは読み取り難いが(冒頭シーンにそれが匂わせてある)、この少女は恐らくは門付(かどづけ)芸人であろう。或いは以前にも何度か「萬右衞門」の家に訪ねてきたことがある者とも読める。
遠い二十歳の頃に読んで以来、忘れ難い掌品である。最後に附した注も読後に必ず参照されたい。【二〇一九年八月二十日公開 藪野直史】]
人 形 の 墓
萬右衞門はその女の子をすかして内に入れて、喰べさせた。賢い、氣の毒な程おとなしい、十一ばかりの子供に見えた。名は稻であつた、そしてその弱々しくほつそりして居るのがその名をふさはしく思はせた。
萬右衞門の穩やかな勸めによつて彼女が話を始める時、私は彼女の聲がその話につれて變つて來た事から何か風變りな話があると豫想した。彼女は全く一樣な高い細い可愛い聲で話し出した、炭の火の上で小さい鐡瓶が吟じて居ると同じ樣に變化のない、感情の現れない聲であつた。日本では人は屢々こんな落着いた平板なそしてよく透る聲で、決してありふれた事でない何か感ずべき或は殘酷な或は恐るべき話を、女や女の子が話すのをきく事がある。その實、いつでも感情は抑制されて居るのである。
『うちには六人ゐました』稻は云つた『母さんと父さんと、大へん年とつた父さんの母さんと兄さんと私とそれから妹と。父さんは表具屋でした、ふすまを張つたり又かけものの表裝をしたり致しました。母さんは髮結でした。兄さんは版木屋に年季奉公に行つてゐました。
『父さんも母さんも景氣がよかつたのです。母さんの方が父さんよりもつとお金をまうけました。私共はよい着物を着てよい物を食べてゐました、そして父さんが病氣になるまで私共には本當の心配といふ物はありませんでした。
『暑い季節の眞中でした。父さんはいつも達者でした。私共は父さんの病氣はさう惡いとは思ひませんでした、そして父さんもさう思ひませんでした。しかし丁度その翌日死にました。大へん驚きました。母さんは胸の中をかくして前の涌りお客の前に出るやうにしてゐました。しかし母さんは丈夫ではありませんでした、そして父さんのなくなつたと云ふ心配が餘り急に參りました。父さんの葬式のあと八日たつて母さんが又なくなりました。餘り不意だつたので驚かない者はありませんでした。それから近所の人達は直ぐに人形の墓を造らないではいけない、造らないと又私共のうちでもう一人死ぬだらうと申しました。兄さんはその話は本當だと云ひましたが、云はれた通りにする事は延しました。私に分らないけれども多分金がそれ程なかつたからでせう、とにかく墓はできませんでした』……
『何ですか、人形の墓とは』私は遮つた。
萬右衞門は答へた『多分あなたは人形の墓を澤山御覽になつてゐてお氣がつかなかつたのでせう。丁度見たところ子供の墓のやうです。一家のうちで同じ年に二人死んだら三人目に死ぬ人が必ずあると信じられてゐます。「いつでも墓は三つ」と云ふ諺があります。ですから一家内で同年に二人の葬式があつたらその二人の墓のつぎに第三番目の墓を造ります、そしてそのうちへほんの小さい藁人形のある棺を入れます、そして墓の上に戒名を書いた小さい墓石を建てます。その墓地をもつて居るお寺の僧侶はこんな小さい墓石に戒名を書いてくれます。人形の墓をたてると死なないやうになると考へられてゐます……稻、話のあとをきかしておくれ』
子供はつづけた、『未だおばあさんに兄さんと私と妹と四人ゐました。兄さんは十九でした。父さんがなくなつた丁度前に年季奉公を終つたところでした、これも私共を神樣が憐んで下さるやうだと思ひました。兄さんは家の主人となつてゐました。仕事が大へん上手で、澤山同情して下さる方がありましたから私共を養つてくれる事ができました。初めの月に十三圓まうけました、版屋としてはそれは中々いゝのです。或晚病氣して婦りました、頭が痛いと申しました、丁度その時母の四十七日になつてゐました。その晚兄さんは食べる事ができませんでした。翌朝も起きられません、――大へん高い熱がありました、私共は一所懸命看護して夜ねないでわきにゐました、しかしよくなりませんでした。病氣になつてから三日目の朝私共は驚きました、兄さんが母さんに話をし始めたからです。母さんがなくなつてから四十九日でした、四十九日に魂が屋根を離れます、そして兄さんは丁度母さんが呼んで居るやうに物を云ふのでした
「はいはい、母さん、ぢきに參ります」
それから兄さんは母さんが袖を引つぱつて居ると申しました。指をさして私共に
「あれ、あすこに居る、あすこに、見えないか」
と申します。私共は何(なん)にも見えないと申します。さうすると
「あゝ、早く見なかつたからだ、母さんは今かくれて居る、今疊の下へはひつた」
と申します。午前中こんな風な事を云ひました。仕舞におばあさんは立ち上つて、床の上で足をふみならして大きな聲で母さんを叱りました。
「たか」
おばあさんは申しました。
「たか、お前は大へん間違つた事をして居る。お前の生きて居る時は私共は皆お前を大事にした。お前に邪見な事を云つた者は一人もない。今どうしてあの倅をつれて行かうとするのか。あれはうちの大黑柱である事はお前も知つて居るだらう。あゝ、たか、これはひどい、これは恥知らずだ、これは無茶だ」
おばあさんは大へんに怒つてからだがふるへました、それから坐つて泣きました、そして私と妹が泣きました。しかし兄さんはやはり母さんが袖を引つぱると云ひました。日の沈む頃、なくなりました。
『おばあさんは泣いて、私共をなでて、自分で作つた歌を歌ひました。今でも覺えてゐます、――
親のない子と濱邊の千烏
日ぐれ日ぐれに袖ぬらす
『そこで第三の墓ができましたが、人形の墓ではありませんでした、そしてそれが私共のうちのお仕舞でした。私共は冬になるまで親類にゐましたが、その時おばあさんがなくなりました。おばあさんは夜誰も知らないうちになくなりました。朝眠つて居るやうでしたが、なくなつてゐたのです。それから私と妹は分れました。妹は父さんのお友達の疊屋の養女になりました。大事にされてゐます、學校へも參ります』
『あゝ不思議な事だ、困つたね』と萬右衞門はつぶやいた。それから暫らくの問同情の沈默があつた。稻はお辭儀をして、歸らうとして立ち上つた。草履の鼻緖に足を入れた時、私は老人に質問をしようと思つて、彼女の坐つてゐた場所へ動いて行つた。彼女は私の意向を認めて直ちに萬右衞門に何か不思議の合圖をした。萬右衞門は丁度私が彼女の側に坐らうとしたのを止めて、その會圖に答へた。
彼は云つた『稻は旦那樣に先づその疊をおたたき下さいと願つてゐます』
『しかし、何故』と私は驚いて問うた、ただその子供の坐つてゐた場所が心地よく暖まつて居る事だけを、靴をはかない足に感じた。
萬右衞門は答へた、
『外の人のからだで暖かくなつた場所に坐ると、その人の不幸を皆取る事になるから、初めにその場所をたたかないといけませんとこの子は信じて居るのです』
そこで私はその『まじなひ』をしないで坐つた、そして私共二人は笑つた。
『稻』萬右衞門は云つた『旦那樣はお前の不幸を御自分にお取りになります。旦那樣は』(私は萬右衞門の使つた敬語を譯する事はとてもできない)『外の人の苦しみがお分りになりたいと思つておいでです。お前は心配をしなくてもいゝよ、稻』
[やぶちゃん注:底本では、最終行に一字上げインデントで『(田部隆次譯)』、次の行に同じインデントで『Ningyō-no-Haka. (Gleanings in Buddha-Fields.)』とある。
「十三圓」「野村ホールディングス」と「日本経済新聞社」の運営になる、こちらの記事によれば、本作が発表された明治三〇(一八九七)年頃は、『小学校の教員や』巡査『の初任給は月に』八~九『ぐらい』で、『一人前の大工』『や工場のベテラン技術者で月』二十『円ぐらいだったようで』、『このことから考えると、庶民にとって当時の』一『円は、現在の』二『万円ぐらいの重みがあったのかもしれ』ないとするから、二十六万円ほどとなり、兄は相当な稼ぎ手であったことになる。
本作については、非常に繊細に本掌篇を扱われた、牧野陽子氏の論文『「人形の墓」を読む―ラフカディオ・ハーンと日本の〝近代〟―」(二〇一四年七月発行『成城大學經濟研究』(第二百五号)所収。こちらからPDFでダーン・ロード可能)があるが、牧野氏も『物語は、語り手の「私」の家に、門つけの少女が現れるところから始まり、その少女が、〝人形の墓〟という風習にまつわる一家の悲劇を語る、という構成をとっている』と、彼女を門付芸人としている。また、ここに出現する興味深い習俗としての第三の墓、「人形の墓」に就いては、
《引用開始》
この物語のもとになったのは、「熊本で雇い入れた梅という名の子守の身の上話」(田部隆次[やぶちゃん注:牧野氏注に『田部隆次『小泉八雲』北星堂、一九八二年、二三二頁』とある。])であり、話に登場する老僕の万右衛門とは実際はセツ夫人のことだったとされている。また、〝人形の墓〟をつくるのは熊本地方の習慣で、人の座ったあとの畳をたたいて座るのは出雲の習慣だと田部氏の解説にある。作品中の「私」は、「その人形の墓ってなんですか?」と口をはさみ、ついで万右衛門が異国の民俗を説明するのだが、ちなみに、柳田国男の『葬送習俗語彙』をみると、「スラバカ」という項目に、「阿蘇の黒川村では、一家に二人つづけて死人があると、三人つづかぬやうに人形をつくって葬式する風があるといふ。同宮地町ではかかる際には、スラ墓といふ作り墓を造る(葬號)。空言をスラゴツといふ所だから、多分ソラ墓であらう。」[やぶちゃん注:牧野氏注に『柳田国男『葬送習俗語彙』昭和十二年、国書刊行会(昭和五十年)、一五六頁』とし、さらに『なお、『綜合日本民俗語彙』(平凡社、昭和三十年)の「スラバカ」の項も、同文の説明である』とある。]とある。そして「葬號」と挿入があるため、柳田の記述が、『旅と傳説』「誕生と葬禮號」(昭和八年七月)に掲載された全国各地の報告文のうち、熊本懸[やぶちゃん注:ママ。「縣」の誤字であろう。]宮地地方の葬礼についてまとめた八木三二という地元の人の記事[やぶちゃん注:牧野氏注に『『旅と傳説』「誕生と葬禮號」(昭和八年七月)、三元社、一八三頁』とある。]に依拠したものだとわかる。あるいは、ハーンの雇った梅という子守も、阿蘇の黒川村か、宮地町の出身だったのかもしれない[やぶちゃん注:牧野氏注の一部に『後の民俗学の研究によって、全国各地に』これと『類似の習俗があることが明らかになっている』とある。]。そしてハーンに、その身の上を話したのだろう。
《引用終了》
という、素材の種明かしと、小泉八雲による作品内現在時制部分に於けるシチュエーションの再物語化という創作過程が明かにされてある。同論文は本篇の要(かなめ)々を原文並置で和訳されつつ、全体の構造分析から、小泉八雲の類話への指摘など、すこぶる興味深いものがある。強く一読をお薦めする。【2019年11月22日:追記】英文サイト“Internet Archive”のこちらにある、第一書房が昭和一二(一九三七)年三月に刊行した「家庭版小泉八雲全集」(全十二巻)の第六巻(画像データ)の田部氏の「あとがき」にも、『「人形の墓」は熊本で雇入れた「梅」と云ふ子守の身の上話であつた。その後八年間小泉家に仕へて後鄕里で嫁して幸福に暮らして居ると聞いて居る。「人形の墓」は熊本の習慣、最後に人の坐つたあとの疊をたたいて坐ると云ふのは出雲の俗說である』とある。
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