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2019/08/07

諸国因果物語 巻之一 炭燒藤五郞死して火雷になりし事

 

    炭燒藤五郞死して火雷(ひかみなり)になりし事

Sumiyaki1
Sumiyaki2

 江州龍花村(りうげむら)に惣兵衞とて燒炭(やきすみ)を商賣する者あり。

 此邊(へん)、おほくは「北山炭」とて、洛中に持はこび、銅壺(どうこ)・水風呂などに、早くおこりて、用を達する事をもてはやされ、毎日、往還して、渡世とするが故に、伊香立(いかだち)・仰木(あふぎ)・途中・龍花・鬘河(かつらがわ[やぶちゃん注:ママ。])など、みな、此[やぶちゃん注:「この」。]つゞき、朽木谷(くつきだに)、若狹海道ちかき鴻(かう)坂、崩(くづれ)坂邊の山々に、前金を渡し、炭竃(すみがま)の數を買伏(ふせ)、めんめんの家に運び取事なり。

[やぶちゃん注:「火雷(ひかみなり)」雷撃。

「龍花村(りうげむら)」現在の滋賀県大津市伊香立途中町(いかだちとちゅうちょう)(グーグル・マップ・データ。以下同じ)。ウィキの「途中越」(とちゅうごえ)によれば、京都市左京区大原小出石町と、先の滋賀県大津市伊香立途中町の境に位置する峠(標高三百八十二メートル)を「途中越」「栃生越(とちゅうごえ)」「竜華越(りゅうげごえ)」「途中峠」と呼ぶとあり、『峠の名称は、延暦寺の僧侶で千日回峰行を創始した相応和尚(そうおうかしょう)が』、『それぞれ開山した無道寺』(貞観七(八六五)年『開山、延暦寺山内にある)と、葛川明王院』(貞観元(八五九)年『開山)の中ほどに位置する「龍花村」を「途中村」と命名したことから』、『途中越と呼ばれるようになったと伝えられている』。『この峠を通る国道』三百六十七『号はかつての鯖街道(若狭街道)をおおむね踏襲しているが、京都から出発して最初の難所がこの峠であった』とある。但し、鷺水は「龍花」と「途中」の地名を別なものとして記しており、しかも後半では「下龍花」という地名も出るから、当時の村内でこのような旧地名を冠した大字、それをまた上下(或いは上中下)に区分した小字があったものと推測される。

「伊香立(いかだち)」上記地点の南東に伊香立を冠する町が並ぶので、その辺りであろう。

「仰木(あふぎ)」滋賀県大津市仰木町(おおぎちょう)

「鬘河(かつらがわ)」大津市葛川(かつらがわ)地区。途中町をさら北に向かった位置に当たる。

「朽木谷(くつきだに)」前の葛川をさらに北に向かうと、朽木を冠した地名がたくさん出現する滋賀県高島市内の一部に至る。

「鴻(かう)坂」不詳。当時、滋賀県高島市勝野にあった大溝(おおみぞ)城は別名を鴻湖城と称し、ここから西方に向かうと、前の朽木地区である。或いは朽木からこの方面に下る坂であったと考えてよいのではないかと思う。

「崩(くづれ)坂」gonzo氏のブログ「路面と勾配」の「【大津市】崩坂(国道367号線 旧々道?)」で発見! 藤五郎の住まいの跡らしき如何にもな山道を写真で辿れる! 必見! そこの示された地図から、この附近に藤五郎の家はあったのだ!

 然るに、惣兵衞が買伏(ふせ)たる炭燒の内、崩坂の藤五郞といひける者は、山を多く持たるゆへ、竃數を、又、次第に多く燒出しけるゆへ、前銀[やぶちゃん注:「まへきん」。]とりしは餘所(よそ)事になり、藤五郞方より「ひた」と惣兵衞かたへ馬をつけて、俵(ひやう)數を積(つみ)、結句、山より其價(あたい)を敷(しく)ほどに分限(ぶげん)なるものなり。

[やぶちゃん注:ちょっと判り難いが、藤五郎の家から惣兵衛の家まで炭俵を積んだ馬を隙間なく連ねた分ぐらいの金は軽く持っていたという意味であろう。]

 殊に此惣兵衞には、二、三代も續(つゞき)たる得意といひ、なじみたる家なり。そのうへ、田舍ものゝ習ひとはいひながら、親惣兵衞などは別しての律義もの也しかば、藤五郞も心やすく賴もしう思ひけるほどに、二八月の仕切(しきり)にも[やぶちゃん注:「につぱつぐわつ」で、一年の内で商売が低調で景気が悪いとされる二月と八月の「仕切り」(商売で帳簿又は取引の締め括りをつける決算のこと。]、銀[やぶちゃん注:「かね」。]の入事[やぶちゃん注:「いること」。]なき時は、壱錢も乞事なく、また藤五郞より馬の便りに一筆の斷(ことはり)を聞(きく)時は、廿兩・卅兩の事といへども、早速、惣兵衞が世話にして算用を立(たて)けるゆへ、年々の指引帳面(さしひきちやうめん)[やぶちゃん注:収支決算帳簿。]なども、立會(たちあひ)て吟味する事もなく、互の文通のみにて、心やすくいひかはせし中也けり。

 然るを、今の惣兵衞、また二心なき者にて、いとよく親の仕向(しむけ)しごとく、萬(よろづ)たまかに[やぶちゃん注:誠実に。実直に。]氣をつけて支配しければ、いよいよ心やすくて因(ちなみ)をなしけるに、其身、生れてより、不自由を知らず、金銀の設(まふけ)にくき事をも弁(わきま)へぬ程の身上の中に育(そだち)たる身とて、昼夜遊びつゞくるを苦(く)にし[やぶちゃん注:普通の遊びに完全に飽きて楽しくなくなってしまい。]、冬の日といへども、一日を暮す長さに退屈してさまざまの事をおもひ付、あらゆる慰(なぐさみ)にたづさはり、碁・將棊(しようぎ[やぶちゃん注:ママ。])・鞠・楊弓(やうきう)・手蹟(しゆせき)・讀物、およそ人の学ぶといふ事は、其妙をこそ得ねども、心をなぐさむるの種(たね)に、と氣をつくしてつとめけるが、是も此ほどは、珍しげ、なくなるにまかせて、上方の花ざかり、床しく名にしあふ祇園・淸水も、父が御堂參りの比、おがみしまゝにて、覺束なく、歌舞妓・あやつりの芝居も望におもひけるまゝ、しばらくの逗留にて、京都に登り、今出河寺町邊に炭の得意ありしを賴みて、河原町四條のあたりに借(かり)座敷を構へ、每日の遊山に氣をのぼし、茶屋・旅籠(はたご)屋の飯に美食をくひならひ、是より外の樂しみ、またあらし、とおもひしも馴(なる)れば、やがて面白さも薄く、嶋原の風景、このもしうなりて、假初(かりそめ)に入そめしを、身上の窪(くぼみ)時としそめて、衣服・腰のもの・髮かたちより、万に上がたの風流をみならひて、心いたり、氣高ぶりけるほどに、故郷の事を忘れ、奢(おごり)に目をくらまし、大分の金銀おほかたは、惡性にとられ、剩(あまつさへ)、博奕(ばくち)といふ物に迄、身の皮を剝(はぎ)て打いれしゟ、ほうほう[やぶちゃん注:ママ。]の体(てい)にて、在所に歸り、手前の不自由、今、にはかに目に見え、心に思ひあたりしより、筋もなき欲をおこし、各別の氣にぞなりにける。

[やぶちゃん注:「楊弓(やうきう)」「ゆまに書房」版は「揚弓」とするが採らない。

「是より外の樂しみ」「ゆまに書房」版は「外」を「他」とするが、「霞亭文庫」版は明らかに「他」ではなく「外」の崩し字である。

「惡性」「あくしやう(あくしょう)」。心や振る舞い・身持ちが悪く、特に酒色に耽るような性悪(しょうわる)の連中。

「筋もなき」あり得ないほどに道理を外れた。

「各別の氣」常軌を逸した異常な思い。]

 かゝりける程に、藤五郞方より山價(やまて)・炭竃(すみがま)の仕入などに入用の事ありて、いつもの如く、いひおこせし金、三百兩ありしかども、指替(さしかゆ[やぶちゃん注:ママ。])べき銀[やぶちゃん注:「かね」。]もなく、此手あひになりて、借(かす)人もなければ、兎角と首尾わろく、不屆をいひかけ[やぶちゃん注:「只今、手元不如意につき、用立て出来ない」と返信し。]、

「今は。年々の帳面、立會て、急度(きつと)、勘定すべし。」

と藤五郞方より催促せられ、さしあたりての無分別おこりて、此藤五郞が姪の、幼少より我方に來り、内の賄(まかない[やぶちゃん注:ママ。])して居たりしを、若さかりのころ、寢ざめのつれづれに、何かと、情がましう、いひかはせし事ありしを、屑(とりへ)に[やぶちゃん注:ママ。意味不明。「屑」には「俄かに・急に」の意があり、それなら意味は通る。]、さまざまとだましすかして、在所へ達し、藤五郞が判を盜出(ぬすみだ)させて謀判(ばうはん)[やぶちゃん注:花押や押印された文書を偽造すること。]をこしらへけるまゝ、帳面の吟味しまひて、高六十貫匁[やぶちゃん注:本作が刊行された一七〇〇年代で金一両は銀六十匁で銭四貫文(四千文)であったから、「匁」を「文」と読みかえれば、二百四十両となる。]の過上ありといひ懸(かけ)られ、藤五郞は覺えなき借り越(こし)に、立腹、よのつねならず、奉行所を經て、戦決(たいけつ)[やぶちゃん注:ママ。]におよぶ。

 此、年貢の納銀[やぶちゃん注:「なうきん」。]を引替て借しける由、跡かたもなき虛言(うそ)に引おとし、公義の上納を不足したりければ、藤五郞理分ながら[やぶちゃん注:藤五郎方の申し立ては理屈は通っていたものの。]、みすみすの空言に言消れ[やぶちゃん注:「いひけされ」。]、判形、まがひなきにいひ分立ずして[やぶちゃん注:「いひわけたたずして」。]、六十貫匁の銀を上納すべしとの仰[やぶちゃん注:「おほせ」。]、おもく、何と、そして、此無實、申わけして、一度、曇りなき旨を露顯したく、種々と歎き、日をこめて[やぶちゃん注:何度も。]、奉行所に訴へけれども、何を證據にいひ出すべき術(てだて)もなければ、延引の科(とが)、いよいよ增り[やぶちゃん注:「まさり」。]藤五郞が家を闕所(けつしよ)あるべきに極りける。

[やぶちゃん注:「闕所」土地・家屋などを没収する財産刑。但し、江戸時代には闕所は庶民に対する死刑・遠島・追放などの付加刑として規定され、その主罰の軽重によって田畑・家屋敷・家財等の範囲で没収に違いがあった。ここは、後の展開からは藤五郎は軽追放で家屋敷と家財の没収であったようである。]

 是を恨におもひて、藤五郞、

「今は。よし。此の謀判によりてかゝる無實にあふとも、おのれ死して、此いきどほりは散ぜんものを。」

と、いそぎ家財をあげて、未進(みしん)につき、立殘る山・林(はやし)を妻子にとらせなどして、かたづけ、其身は、

「三年が内に惣兵衞を取殺し、急度(きつと)、おもひしらすべし。」

との書おきをしたゝめ、山を出て、下龍花(しいもりうげ)に來り、道中に座して、心よく自害して死たり。

[やぶちゃん注:「未進(みしん)につき」未納とされた年貢分を山を売り払ってその支払に当てた。それでも残ったから、「立殘る」(たちのこれる)で、僅かな山林であるが、それを妻子に分け与えることが出来たのである。]

 惣兵衞は、一反[やぶちゃん注:「いつたん」。「一旦」。]、此大事をいひぬけ、理潤(りじゆん)[やぶちゃん注:似非の理屈で利潤(損害を被らずに済んだ)を得た。]になしたるを悅び、いよいよ、非義・不理屈を好みて、身上をかせぎけるが、藤五郞が死期(しご)の一念、こはく心にかゝりけるまじ[やぶちゃん注:「まじ」は中世以降、打消推量ではなく、単純な推量(「む」に同じ)に用いられた。ここもそれ。]。終に何ほどの事あれども、下龍花に行[やぶちゃん注:「ゆく」。]事なく、二年あまりつゝしみゐけるに、惣兵衞が母は禪宗にて、死期(しご)の遺言に任せ、途中村の何首座(しうそ)とかやいふ庵(あん)に葬(はうふり)を賴みける故、今年七年忌のとふらひ、默止(もくし)がたく、逮夜[やぶちゃん注:「たいや」。葬儀の前夜。]より、途中[やぶちゃん注:地名。]に行て、年忌、心ゆくばかり執行ひ[やぶちゃん注:「とりおこなひ」。]、明る齋過て[やぶちゃん注:「あくるときすぎて」。明けた翌日の御前中が過ぎて。]、酒に醉つぶれ、何かとくだをまき、ながながと口上を述(のべ)て立(たち)かねける程に、いとゞしく短き秋の空、昼にかたぶきて、道のほど、心もとなければ、下男にすゝめられて、荷馬(にむま)に、いだき[やぶちゃん注:「抱き」。]乘(のせ)られ、ふらふらと醉ざめの眠(ねふり)、しきりなるを、鞍つぼにとりつきつゝ、行ぬ。

[やぶちゃん注:「途中村の何首座(しゆざ)とかやいふ庵(あん)」不詳。但し、現在の途中町内には地図上では三つの寺を現認でき、その内、禅宗寺院は明星寺(みょうじょうじ)と臥雲寺であり(孰れも臨済宗で、明星寺は確実に江戸時代には既にあった)、そのどちらかの異名か、あるいはそれらの塔頭(たっちゅう)であったのかも知れない。「首座(しうそ)」(しゅそ:「そ」は「座」の唐音)は禅宗の寺院内に於ける修行僧の内の第一の位の者を指し、彼らは後に師の法嗣を受けると、当該寺の住持となるか、或いは別に或いは住持から隠居後に、当該寺内に独立寺院格である塔頭(「~庵」「~院」と呼ぶ)を作るのがごく一般的であった。]

 『彼(かの)藤五郞が死たりし[やぶちゃん注:「ししたりし」。]山あいも程ちかくなるよ』と思ふころ[やぶちゃん注:下男が、である。]、不思議や、今まて晴わたりし空、俄にかき雲り、時ならぬ電(いなびかり)、おそろしくひらめき、飛礫(つぶて)[やぶちゃん注:二字へのルビ。]のやうなる雨、橫ぎりに吹(ふき)つけ、跡先(あとさき)も見わかぬ迄、暗くなりたれば、惣兵衞も与風(ふと)、心づきて、小氣味わろく、おそろしかりければ、馬を打たてゝ、一さんに馳(はせ)けれども、雷(いかづち)、おびたゞしく鳴(なり)ひゞきて、

「けしからぬ天氣、こは、そも如何に。」

と心も暗む折ふし、後の方に、雲一むら、殊に眞黑(まつくろ)に墨を打あげたるやうなるが、近(ちか)々と舞さがり、惣兵衞が乘(のり)たる馬の上へかゝるよ、と見えし時、殊にすさまじき稻光の、ほのほを蒔(まき)たるやうに光りけるに、あやまたず、續(つゞい)て、大きなる神鳴、

「びしびし。」

と落かゝり、山も谷もゆるぎたちて、しばらくは、はためきける。

 これに氣をとられて、下男(しもおとこ[やぶちゃん注:ママ。])も遙なる谷へ、

「ずらずら。」

と、踏みはづし、こけ入て、死ぬばかりの体(てい)なりけり。

 されども、やうやう、此神鳴より、空、晴(はれ)て、跡、すゞしくなりけるまゝに、下男も、漸(やうやう)と、谷より、はい上り、

「扨も、旦那はいかゞ成給ひけん。」

と其邊(へん)、目をとめて見ありきけるに、馬も二町[やぶちゃん注:二百十八メートル。]ほど脇なる岩陰に鞍繩(くらなわ[やぶちゃん注:ママ。])もちぎれ、鞍もかたぶきて、嘶(いなゝき)立たり。

「こは、何といふ事ぞ。旦那は何所(いづく)にか。」

と、いよいよ、尋ねめぐりける足もとに、身内の骨といふ物は、雷(いかづち)のために、拔(ぬか)れ、手・足・頭・目・鼻、五体は、少も[やぶちゃん注:「すこしも」。]疵つく所なくて、只(ただ)、皮ばかり、續き、澁(しぶ)紙をひろげたるやうになりて、居たり。

 されども、目は、

「きろきろ。」

と、はたらき、口も、少づゝ動きける程に、旦那を少(ちい)さく押(おし)たゝみて、馬に付、やうやうと上龍花に歸り、さまざまと寮治しけれども、叶へ(かなふ)べき事ならねば、角(かく)て、廿日ばかりありて、死(しゝ)たり。

[やぶちゃん注:このエンディングはなかなかに素敵にキョワい(骨抜きの皮だけの眼玉の「きろきろ」(或いは「ぎろぎろ」かも知れぬ)が、かなり、クる!)が、最下劣の悪党に堕落した惣兵衛息子(私は何よりかつてたらし込んで肉体関係を持った藤五郎の姪を使って印形(いんぎょう)を盗ませたというところが甚だ許せない)には何等の憐みも感じぬ故、これでこそよい、これでよい。]

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