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2019/08/04

小泉八雲 燒津にて 大谷正信譯 附・やぶちゃん注

 

[やぶちゃん注:本作は明治三二(一八九九)年九月にボストンの「Little Brown and Company」から出版された「霊の日本にて」(In Ghostly Japan:全十四篇構成)の最終章(原題:At Yaidzu)である。小泉八雲が亡くなる(明治三七(一九〇四)年九月二十六日)五年前の作品集である。同作の原文は、「Internet Archive」のこちらから原本当該作画像 原文は英文サイト「Internet Sacred Text Archive」のこちらで電子化された活字で読める。

 底本は【2025年3月21日追記】当初の底本が見られなくなっていたので、より信頼出来る国立国会図書館デジタルコレクションの「小泉八雲全集」第六巻(昭和四(一九二九)年第一書房刊)を底本として、一から、補正する。

 本作を取り上げた理由は、私のブログ・カテゴリ「小泉八雲」内で先に完結した『小泉八雲「神國日本」(戸川明三訳)附やぶちゃん注』の、戸川秋骨明三氏の「あとがき」の私の注の中で、八雲が晩年、避暑に非常に好んだ焼津の定宿(旅宿ではなく、二階を借りた)としていた魚商人山口乙吉のこと(初回の旅は明治三〇(一八九七)年八月で、以後の夏は殆んどここで過ごした。現在、乙吉さんの家があったところ(現在の静岡県焼津市城之腰(じょうのこし)の民家の前)に「小泉八雲滞在の家跡碑」が建っている(リンクはグーグル・マップ・データ)。同家屋は現在、愛知県犬山市の「明治村」に移築復元されてあり、「明治村」公式サイトのこちらで解説と写真が見られる)なお、本篇は記述内容から、その初めての焼津での一夏の記憶に基づくものを主としているものであろう)に触れたからである。

 訳者大谷正信(明治八(一八七五)年~昭和八(一九三三)年)はペン・ネーム(俳号)を繞石(ぎょうせき)と称した松江市末次本町生まれの英文学者・俳人で、島根県尋常中学校での小泉八雲の教え子であり、学生の中でも最もハーンの信任を得た人物の一人であった。私の電子化注の「小泉八雲 落合貞三郎他訳 「知られぬ日本の面影」 第十九章 英語教師の日記から (十八)」にも、『姓名や容貌』で『最も長く自分の記憶にはつきり殘るであらうと思ふ』『學生』の一人として特異的に『Otani-Masanobu』とフル・ネームで登場している(他の四人は姓のみである)。大谷氏は、御覧の通り、パブリック・ドメインである。

 傍点「ヽ」は太字に代えた。ストイックに注を各段落末に附した。文中の「譯者註」は右上ポイント落ちであるが、同ポイントで、本文中に挟んだ。その関係上、底本の末尾にある纏めた『譯者註』も【 】で括った上、その適切な位置に動かした(註は本文五字下げで記されてあるが、頭から置いた)。

 本作が未読で、小泉八雲の性質(たち)をよく御存じない読者は、ここの「二」での八雲の行動には――きっと吃驚させられる――ことであろう。私などは――「やっぱり! 八雲先生だ! 凄過ぎ!!」――と快哉を叫んだ、本篇を初めて読んだ若き日のことを思い出す……

 

  燒 津 に て

 

       

 燒津といふこの古い漁師町は、輝かしい日の光を受けると、或る特殊な妙味を有つた間色(かんしよく)になる。――その――小さな入江に沿うて彎曲して――占めて居る荒れた灰色の海岸のその灰色を、丁度蜥蜴のやうに、この町は帶びるのである。この町は、大きな丸石で堅めた異常な壘壁によつて荒海に傷められぬやうに庇はれて居る。この壘壁は、海に面した方は、臺地(テレス)の段々の恰好に造られてゐて、それを構成して居る丸石は、深く地中に突き立ててある幾列もの棒杙の間に、編んだ竹籠細工のやうなもので、崩れ落ちぬやうされて居て、その棒杙がその段々を別々に支へて居るのである。この築造物の嶺から陸の方を眺めると、――寺の庭の在り場を示す松の木立が此處其處にある、灰色瓦の屋根と雨風に曝されて灰色になつた家々の木材とが、一面に幅廣く延びて居る――燒津町全體がずらりと眸裏に收まる。海の方は、數浬の水面を越えて、巨大な紫水晶の塊のやう、地平線へくつきりと群れ集うて居る鋸の齒なす紺靑の連蜂が見え――其先きに、左手に、あらゆるものの上に巍然として吃立して居る壯麗な富士の靈峰が見えて――實に壯大な眺望である。防波壁と海との間には砂は少しも無い、――石の、主として圓い漂石の、灰色な傾斜面があるだけである。それが大波と一緖に轉がるのであるから、風の强い日に岸打つ浪の橫を通らうとするのは、厭(いや)な仕事である。一度石の浪に打たれると――自分は幾度もやられたが――其の經驗は直ぐには忘れられぬ。

[やぶちゃん注:「庇はれて」「おほはれて」。

「臺地(テレス)」原文「terrace」。高台・段丘・路よりも高くしたり、坂道に沿った連続する住居の並びのことで、所謂、「テラス」であるが、英語の原発音は音写するなら、ここにルビされてある通り、「テレェス」で、近い。

「棒杙」「ばうくひ(ぼうくい)」。

「數浬」「すうかいり」。原文は「leagues」。古くからある英米の距離単位で、一リーグは約三マイル(一マイルは千六百九メートル強であるから、四・八二八キロメートル)であるから、六掛けだと、約二十九キロメートルとなる。

「巍然」「ぎぜん」。高く抜きん出て聳えて偉大なさま。

「漂石」「へうせき(ひょうせき)」。ここは、岩石が崩壊し、川や海の作用によって摩耗して海岸に漂着したもの。軽石の一種で、「礫(れき)」と、ほぼ同義。]

 

 或る時刻に、幾列もの妙な恰好の船が――此地方に特有な形の漁船が――ごつごつな此の傾斜面の大部分を占める。それは――一艘四五十人は乘ることの出來る――非常に大きな船である。それは變な高い船首(みよし)を有つてゐて、それへ佛敎或は神道の護符(マモリ或はシユゴ)が普通貼り附けてある。神道の護符(シユゴ)の普通の形式のは、この目的の爲め、富士の女神の神社から供給されるものである。其の文句は斯うなつて居る。――フジサン、チヤウジヤウ、シンゲングウ、ダイギヨ、マンゾク。――それは、漁業好運の場合には、富士の頂上にその神社のある神樣の爲めに非常な苦行をなすことを此船の持主は誓ふ、といふ意味である。

[やぶちゃん注:「護符(マモリ或はシユゴ)」「(マモリ或はシユゴ)」はルビではなく、本文。

「フジサン、チヤウジヤウ、シンゲングウ、ダイギヨ、マンゾク」原文を見ると、「Fuji-san chôjô Sengen-gu dai-gyô manzoku」で、これは、「富士山 頂上 淺間宮 大漁 滿足」であって、二つ目の単語のカタカナ音写を大谷が誤読したものである。

 以下、一行空け。]

 

 日本のうちで海岸のある國にはどの國にも――同じ國の漁村でも村が異ればその村々にすらも――その國或は村に特有な船と漁具との形式がある。實際、互に五六哩しか離れて居ない村で、數千哩距つて住まつて居る人種の發明かと思へる程に、型の異つた網や船を各〻製造して居ることを時々認める。この驚くべき多種多樣は、或る度までは、地方的傳統を重んずる念に――數百年の久しきが間祖先の敎示と慣習とを改めずに保存する殊勝な保守主義に――基づいて居るのかも知れぬ。が然し、處を異にして住んで居る仲間のものが、種類の異つた漁獲を營んで居るといふ事實に依つて、一層能く說明されるのである。だから何處でも或る一箇處で造る網なり船なりの形は、能く檢べて見ると、大抵は或る特殊の經驗によつての發明だといふ事が判かる。燒津の此の大きな船は此の事實の例證である。燒津の漁業は、日本帝國のあらゆる部分へ乾したカツヲ(英語のボニト)を供給するのであるが、その漁業の特殊の要求に應ずるやうにその船は工夫したもので、非常な荒海を乘り切ることの出來るやう造らなければならなかつたのである。それを海ヘ出したり海から引き上げたりするのは骨の折れる仕事である。が、村中が手傳ふ。傾斜地へ平たい木の枠を一線に置いて、瞬く間に、一種の斜路の卽席製造をする。そしてその枠の上へ、底の扁平なその船を、長い綱で曳きずり上げたり下ろしたりする。ただの一艘をさういふ風に動かすのに、百人或は百人以上のものが――男、女、子供が、陰氣な妙な歌に合はせて、一緖に曳つぱつて――働いて居るのが見られる。颱風がやつて來る時は、その船をずつと後ろへ、街路の處まで、上げる。そんな仕事を手傳ふのは中々面白い。手傳ふ者が他國ものであれば、漁師はその勞に酬ゆるにその海の不思議な產物を以てするであらう。驚く許りに長い足をした蟹だとか、途方も無く大きく腹を膨らます風船魚だとか、手に觸はつて見なければ自然の物とは殆ど信じられぬやうな異常な恰好をした色んな他の動物だとか。

[やぶちゃん注:「五六哩」「數千哩」「哩」は「マイル」。一マイルは約一キロ六百九メートルであるから、前者は凡そ八キロから九キロメートル半強で腑に落ちるが、後者はごく過少にとって三千マイルとしても、四千八百キロメートル超となってしまうので、一見、誇張表現のように見える。確かに、現行の日本の南北(沖ノ鳥島から宗谷岬まで)は約二千八百四十五キロメートル、東西(小笠原諸島の南鳥島から与那国島まで)は約三千百四十二キロメートルしかないのだが、実は、本作が書かれた当時は台湾、及び、南樺太と択捉島が日本の領土であったから、試みにそれで測定してみたところ、孰れ(南樺太北端と択捉島東北端)も優に三千六百キロメートルを超える。されば、過少な三掛け(私は「数~」は六掛けを基準とする)では正しいことになろう。

「度」「ど」。程度。

「カツヲ(英語のボニト)」原文は「katsuo (bonito)」。条鰭綱スズキ目サバ科マグロ族カツオ属カツオ Katsuwonus pelamis 。「カツオ」の英語「Bonito」は、ポルトガル語とスペイン語で、よく聴く「ボニート」で、「可愛い奴・素晴らしい奴」の意であるが、これは大型魚類の通称総称でもあるものの、カツオを特定する語ではない。他にも同様の呼称として「Skipjack tuna」或いは単に「Skipjack」がある。世界的には魚種を子どもでも数多く知っている国民というのは、極めて珍しいのである。

「驚く許りに長い足をした蟹」甲殻亜門軟甲綱真軟甲亜綱ホンエビ上目十脚目抱卵亜目短尾下目クモガニ科タカアシガニ属タカアシガニ(高脚蟹)Macrocheira kaempferi 。本種は岩手県沖から九州までの太平洋岸及び日本領海内の東シナ海に主に分布し、近年までは日本近海の固有種とされていたが、一九八九年には台湾の東方沖で発見されている。水深百五十から八百メートルほどの深海砂泥底に棲み、脚は雌雄ともに非常に細長いが、成体の♂では鉗脚が、その脚よりもさらに長くなり、大型個体の♂では、その鉗脚を広げると三・八メートルにも達する(ここはウィキの「タカアシガニ」に拠った)。

「途方も無く大きく腹を膨らます風船魚」フグ目フグ科 Tetraodontidae のフグ類。でも! 八雲先生! それって、ちゃんと有毒部位を除去しないといけませんよ!

 以下、一行空け。]

 

 船首に神聖な文句を貼り附けて居るこの大きな船が、此濱での一番奇異な物といふのでは無い。竹を裂いて造つた餌籠がもつと異常なぐらゐである。高さ六呎、まはり十八呎、その圓頂閣の恰好した頂に小さな穴が一つある籠である。乾かす爲めに防波壁に沿うて列べてあると、少し遠くから見ると、何かの住み家か小家かと間違へられさうである。それから、鋤のやうな恰好をして、金屬が打ち附けてある木製の大きな錨がある。爪の四つある鐡の錨がある。杭を打ち込むのに使ふ素敵に大きな槌がある。何の爲めに使ふのか想像も出來ない、まだまだ珍らしい、他の色んな道具がある。見るもの悉くが何とも言へず古めかしく奇妙であるといふ事が、眼に見えて居る物が現實かどうかを疑はせる、彼(あ)の無氣味な遠隔といふ感じを――時間に於ても空間に於ても己(み)は遙か遠く離れて居るといふ無氣味な感じを――起こす。それに燒津の生活がまた確に數世紀前の生活である。そこの人達がまた舊日本の人達で、子供のやうに――善良な子供のやうに――淡白で親切で、過ぎると思ふ程正直で、後の世のことは思ひもせず、古昔からの因襲と古昔からの神々とに忠實である。

[やぶちゃん注:「竹を裂いて造つた餌籠」「高さ六呎」(「呎」は「フィート」で約一メートル八十三センチメートル)「まはり十八呎」(五メートル四十九センチメートル弱)「その圓頂閣の恰好した頂に小さな穴が一つある籠」「高知県公式」サイト「高知家の○○」の「高知県立歴史民俗資料館」を紹介したこのページの、下の方の二枚の写真を見られたい。二枚目にはレポーターの女性が横に立っているから、その異様な大きさが判る。しかも、小泉八雲の示す高さは、この写真の餌籠(カツオを獲るためのイワシを入れておくもの)よりも、一段と高いことが判る。]

 

       

 自分は偶〻盆の卽ち死者の祭日の三日間饒津に居た。だから三日目の最後の日の、美しいお訣れの儀式を見たいものと思つた。日本の多くの地方では、精靈にその航海用の極めて小さな舟を――帆船や漁船の小さな模型のもの、その一艘一艘に食物と水と焚いた香との御供物の入つて居るのを、その精靈舟を夜送り出す時は、小さな提燈か燈籠を添へて――提供する。ところが燒津では燈籠だけ流すので、暗くなつたらそれを水へ下ろすと自分に話した。他の地方では夜中(よなか)がその普通の時刻だから、燒津でも亦それがお訣れの時刻だと自分は想つた。そしてそれを見物に間に合ふやう眼を覺ます積りで、夕食後輕率にも自分は一とまどろみに耽つた。ところが自分が再び濱邊へ行つた十時までに、一切濟んで、誰れも彼れも家へ婦つてしまつてゐた。海を見ると、遠くに螢火の長い群のやうなものが――列を爲して海へ漂ひ出る燈龍が――見えた。が、もう餘程遠くへ流れ出てゐて、色のついた火の點々としか見えなかつた。自分は大いに失望した。また二度とは歸つて來ないかも知れぬ好機會をなまけて取り逃がしたやうな氣がした、――こんな古い盆の慣習は急速に失せつゝあるから。と思ふその次の瞬間に、思ひ切つて泳いで行けば十分その明かりの處へ行ける、といふ念が浮かんだ。燈籠はゆるやかに動いて居るのであつた。自分は衣物を渚へ脫いで飛び込んだ。海は穩かで、美しく燐光を放つてゐた。手足の一と漕ぎ每に黃色な火の流れが燃えた。自分は迅く泳いだ、そして思つたよりも早くその燈籠艦隊の最後のものに追ひついた。自分はこの小さな船出の邪魔をするのは、卽ちその靜かな進路を橫へ外らすのは、不親切なことだらうと思つた。だから自分はそのうちの一つに近く身を置いて、その委曲を硏究するに甘んじた。

[やぶちゃん注:「お訣れ」「おわかれ」。]

 構造は頗る單簡であつた。その底は眞四角な、縱橫十吋位の、厚い板片であつた。その四隅に高さ十六吋許りのか細い棒が立つて居て、この眞つ直ぐに立つた四本が、十文字に組んだ板片で上の處で結び附けられて居て、紙貼りの四方を支へて居るのであつた。そして、長い釘がその底の中心を通して上へ突き立ててあつて、その釘の尖(さき)に、點した蠟燭が揷し留めてあつた。上の方は明けつ放しである。四方は五色が――靑、黃、赤、白、黑と――現はしてあつた。此五色は、形而上的に五佛と同一の佛敎の五大を――空、風、火、水、地を――それぞれ象徵して居るのである。その紙壁の一方は赤、一方は靑、一方は黃で、四番目の壁の右半分が黑く、左半分が、色無しで、白を表はして居るのであつた。この透かし明かりのどれにも戒名は書いて無かつた。內側にはちらちら光つて居る蠟燭があるだけであつた。

The-lights-of-the-dead

[やぶちゃん注:以上の挿絵は英文サイト「Internet Sacred Text Archive」のこちらにある(旧底本・新底本ともに所収しない)、本篇の精霊流しの燈籠を描いた「THE LIGHTS OF THE DEAD」(死者の燈火)とキャプションした原本の挿絵である。この挿絵の海上の幻想的事実――しかもそれを見ている小泉八雲はたった一人で岸から離れて内海に泳ぎ出ているのだ!――は、群を抜いて、凄絶にして美しい!

「十吋」「吋」は「インチ」。二十五・四センチメートル。

「十六吋」四十一センチメートル弱。

「五佛」真言宗の「両部曼荼羅」に於いて、中央仏の大日如来とその四方に居(ま)す四仏を指す語。「金剛界曼荼羅」では、大日如来と阿閦(あしゅく:東)・宝生(ほうしょう:南)・阿弥陀(西)・不空成就(北)の四如来を、「胎蔵界曼荼羅」では、大日如来と宝幢(ほうどう:東)・開敷華王(かいふげおう:南)・阿弥陀(西)・天鼓雷音(てんくらいおん:北)の四如来を指す。金剛と胎蔵のそれらは、実際には同体である。「五智如来」とも呼ぶ。

「佛敎の五大」小泉八雲が述べる通り、仏教で宇宙を構成しているとされる「地」・「水」・「火」・「風」・「空」の五つの要素(フィフス・エレメント)のこと。

 以下、一行空け。]

 

 自分は夜を通して漂ひ行く、しかも漂ひ行くにつれて風と波との衝動のもとに次第に遠く離ればなれに散らばつて行く、この明かるい脆い恰好したものをぢつと見て居つた。その各〻が、色のをのゝきをさせて、物に怯ぢて居る或る生物のやうに――そのまた外(そと)暗黑の中へそれを運んで行く盲目の流れに戰慄して居る生物のやうに――思はれた。……我々自らも、より、深い且つよりほのぐらい海へ船下ろしされて、避く可からざる分解へと漂ひ行くにつれて、始終互々に次第に遠く遠く、離れ行く燈籠の如き身では無いのか。間も無く銘々の思想の光は燃え盡きる。するとその憐れな肉體や、甞ては美しい色であつたものの殘つて居る總ては、永久に色無き『空』ヘ溶けこまねばならぬのである。……

 斯く考へるその刹那にすら、自分は眞實此處に一人きりで居るのか知らと疑ひ始め――自分の橫で波に搖られて居る物のうちに、光りの唯だのをのゝき以上の或る物が居はせぬか知ら、消え行くその炎を惱まし、それを看て居る者を看て居る或る者が居はせぬか知ら、と考へ始めた。微かな冷たいをのゝきが自分の身體中をすうつと通つた――恐らくは水の深みから昇り來る或る冷たさであつたらう――或は恐らくは或る靈的な空想が潜行しただけのことであつたらう。と、此海岸地方の古い迷信が――『精靈』が旅をする折は危險だといふ古い漠とした警戒が――自分の心へ浮かんで來た。夜間斯うして此海へ出て居る自分の身へ――『死者』の光明を妨害して居る、或は妨害して居るやうに思へる自分の身ヘ――何か禍が落ちて來でもすれば、自分は今後の或る無氣味な物語の主題となることであらう、と想つた。……そこで自分は佛式の訣れの文言を囁いた――その光りに。――そして急いで岸を指して泳いだ。

 足が石へ再び觸はると、前の方に白い影が二つ見えたので自分はびつくりした。が、水は冷たいかと尋ねるやさしい聲が自分を安心させた。それはその妻と一緖に自分を探しに來た、自分の宿の老主人の、魚賣りの乙吉の聲であつた。

『氣持ちのいい程冷たいだけだ』自分は二人と一緖に歸宅しようと着物をひつかけながら答ヘた。

『あゝ、盆の晚に海へ出るのは宜う御座いません』と乙吉の妻は言ふ。

『遠方へは行かなかつたよ。ただ燈籠が見て見たかつたのだ』と自分は答へる。

 乙吉はかう抗辯するのであつた。『河童だつて時々水で死にます。此村の者で、乘つて居た船が破れてから、非道い天氣の日に、七里泳いで戾つた者がありました。だがあとで水へはまつて死にました』

[やぶちゃん注:以下は底本では五字下げで、乙吉の最後の『死にました』」の前に二行で入るが、見た目、おかしく、躓く。原文でも、[ ]で括ってページ下にあるので、かく位置を変更した。]

  『カツパモオボレシタ』とは普通の諺で
  ある。カツパといふは水に、殊に川に、
  住む怪物である。

 七里と云へば十八哩少し足らずである。此村で今どき若い者でその位泳げる者が居るかと自分は訊ねた。

 老人は答へて曰ふに『多分ありませう。强い泳ぎ手は多勢居ります。此處の者は皆んな泳ぎます、――小さな子供でも。だが漁師がそんな長い間泳ぐのは、生命を助からうとする時だけであります』

『また戀をする時に』と、その妻が言ひ添へた。『羽島(はじま)娘のやうに』

『誰れがだつて』と自分は問うた。

『さる漁師の娘でありました』と乙吉は言ふ。『七里離れた網代(あじろ)に戀人が居りました。それで、夜その男の處へ泳いで行つては、朝泳いで歸りました。男はその女の道しるべに明かりを燃やして置くのでありました。ところが或る闇の夜にその明かりを不精して燃やしませんでした――それとも風で消えたのでしたか。その娘は道に迷つて死んでしまひました。……これは伊豆で名高い話であります』

 

――『それでは、極東では、可哀想に、泳ぐのはヘロである。そして、斯んな事情の下に在つて、レアンダー【譯者註一】に對する西洋の評價は何であつたであらうか』斯う自分は心で思つた。

【譯者註一 レアンダーはアピドスの靑年で、レスボスの塔に住んで居る戀人のヘロに會ひに、夜每ヘレスポントの海峽を渡つた。處が、或る嵐の夜、塔の明かりが消えて、道を失して溺死した。翌朝その死體を見たヘロは海に投じて死んだ。この物語はヴージルもオヸツドも語つて居るが、シルレルの物語唄(バラツド)とグルルパルツエルの戲曲とで最も能く近代の人に知られて居る。】

[やぶちゃん注:「羽島(はしま)娘」原文「the Hashima girl」。これは「波島」「端島」で、現在の東伊豆の網代の東方六キロメートルほどの相模湾に浮かぶ初島(はつしま:グーグル・マップ・データ)の古称である。同内容の伝承は各地に散在する。私も確かに読んだことがあるのだが、今は探し得なかった。見つけたら、追記する。

「ヘロ」「レアンダー」原文は「Hero」及び「Leander」。ギリシャ神話の「ヘーロー」と「レアンドロス」のこと。

「アピドス」(大谷註)は「Abydos」(アビュドス)で現在のトルコのチャナッカレの近く。

「ヘレスポントの海峽」「Hellespont」はチャナッカレが面するダーダネルス海峡の古名「ヘレスポントス」。

「レスボス」エーゲ海に浮かぶ、トルコ沿岸に位置するギリシア領のレスボス島。ここ(グーグル・マップ・データ)。チャナッカレ付近から海上を実測すると、百キロメートルを有に越えていておかしい。以上の神話はウィキの「ヘーローとレアンドロス」によれば、『ヘレスポントス(現在のダーダネルス海峡)のヨーロッパ側セストス』『の塔に住むアプロディーテーの女神官ヘーロー』と、『海峡の対岸アビュドス』『に住む青年レアンドロス』『の物語で』、『レアンドロスはヘーローに恋し、毎晩』、『彼女に会うためにヘレスポントスを泳いで渡った。ヘーローは塔の最上階でランプを灯し』、『恋人を導いた』。『ヘーローはレアンドロスの耳に快い言葉と、アプロディーテーは愛の女神として処女崇拝など軽蔑する筈だという主張に折れて、彼の愛を受け入れた』。『この日課は暖かい夏の間中』、『続いたが、ある冬の嵐の夜』、『レアンドロスは波に巻き込まれ、風がヘーローの明りを吹き消し、レアンドロスは方向を見失い』、『溺死し』てしまう。『ヘーローは彼の死体を目にして発狂し、恋人の後を追って塔から身を投げた』とあるから、八雲の記憶違いと思われる。なお、同ウィキの「文化的影響」の項には小泉八雲の本篇も挙げられてある。

「ヴージル」共和政ローマ末期の内乱期からオクタウィアヌスの台頭に伴う帝政確立期に生きた詩人プーブリウス・ウェルギリウス・マーロー(Publius Vergilius Maro 紀元前七〇年?~紀元前一九年)のことであろう。英文ウィキの「Hero and Leander」の中に彼の名を見出せる。

「オヸツド」帝政ローマ最初期の詩人プーブリウス・オウィディウス・ナーソー(Publius Ovidius Naso 紀元前四三年~紀元後一七年又は一八年)のことであろう。ウィキの「ヘーローとレアンドロス」によれば、彼の「名婦の書簡」の第十八及び第十九書簡でこの恋人たちのやり取りを描いているとある(但し、この書簡については偽作説もある)。

「シルレルの物語唄(バラツド)」ドイツの詩人ヨーハン・クリストフ・フリードリヒ・フォン・シラー(Johann Christoph Friedrich von Schiller 一七五九年~一八〇五年)の本悲恋を扱ったバラード「Hero und Leander」(一八〇一年作)。

「グルルパルツエルの戲曲」オーストリアの劇詩人フランツ・グリルパルツァー(Franz Grillparzer 一七九一年~一八七二年)が一八三一年に創った、本悲恋を扱った悲劇「海の波と恋の波」 (Des Meeres und der Liebe Wellen)のこと。]

 

 

        

 いつも盆時代には海が荒れる。だからその翌朝浪が段々高まるのを見ても自分は驚きはしなかつた。一日中高まつた。午後の中頃までには波は非常なものとなつた。で、自分は防波壁の上にに坐つて、日暮までそれを見て居つた。

[やぶちゃん注:「盆時代」お盆の時期。]

 それは長い、ゆるやかな――巨大なそして恐ろしい――うねりであつた。時折、それが碎けるつい前に、聳え立つ大浪が、丁度、慄へる硝子の音のやうなヂリンといふ音を立ててその緣の長さ全體に罅を入れる。それから自分の足の下の壁を震はす程の轟(とどろき)を以て落ちて平らになる。……自分は、その軍隊を海の如くに――劍戟の波の上に波を以てし――萬雷に次ぐに萬雷を以てして――襲擊させた今は亡き露西亞の偉大な將軍のことを考へた。……まだ殆ど風といふ程の風は無かつた。が、何處かほかで天氣が荒れて居つたに相違無い。で、岸打つ大浪はずんずん高まりつつあつた。自分はその浪の運動に心を奪はれた。斯んな運動は筆舌の及ばぬ許りにどんなに複雜なものであり――しかも、永遠にどんなに新しいものであることか! その運動の五分間すら誰れが完全に記述することが出來よう。正(まさ)しく同じに碎ける二つの波を見た人間は未だ嘗て一人も無い。

【譯者註二 偉大な將軍といふはミカイル・スコペレフ(一八四四―一八八二)を指す。】

[やぶちゃん注:「ミカイル・スコペレフ」(大谷註)はロシア帝国の軍人で歩兵大将であったミハイル・ドミトリーエヴィチ・スコベレフ(Михаил Дмитриевич Скобелев 一八四三年~一八八二年)は「露土(ろと)戦争」やトルクメニスタンの占領などで活躍した。詳しくはウィキの「ミハイル・スコベレフ」を見られたい。

「嘗て」前の「かつて」と直後のそれが「甞」で字体が異なるのはママ。]

 そしてまた恐らくどんな人間でも、捲き返す海の大波を眼に見、その雷なす音を耳にして、眞面目な氣持ちにならぬ者は未だ甞つて無いであらう。動物――牛や馬――でも、海の前では默想的になることを自分は氣附いて居る。彼等はその洪大な物の姿と音とが此世の他の凡てを忘れしめたかのやうに、ぢつと立つて、一と所を見つめて、そして耳をすまして居るのである。

[やぶちゃん注:以下、一行空け。]

 

 此處の海岸に或る民間俚諺がある。それは『海には魂があり耳がある』といふのである。そしてその意味は斯う說明される。海を恐(こは)いと思ふ時、その恐いといふ念を口に出してはならぬ。恐いといふ事を言ふと、浪は突然高くなる。……さて此の想像は自分には徹頭徹尾自然のやうに思はれる。海へ入つて居るか、船で海へ出て居るかする時、海は生きては居ない――海は意識のある、そして我々に敵意のある力を有つては居ない――とは充分に信ずる事が自分には出來かねる、と自白せざるを得ぬ。理性は、その當座は、此の空想に對して何の役にも立たぬ。海といふものはただ水が集まつて成つて居るに過ぎぬと、斯う考へることが出來るやうになるには、その非常に大きな浪が、小さな漣が鈍く這うて居るとしか見えぬやうな、どつか高い處に自分は居なければならぬのである。

 然し此原始的な空想は晝の明かるい時よりか夜の暗闇の時の方がもつと强い位に起こり得るのである。燐光の夜、汐の光りが潜んだり閃いたりするのが、如何に生きて居るやうに見えることか! その冷たい炎の色合が微妙に移り變はるのが、如何に爬蟲的であるか! 斯んな夜の海にもぐりこんで、その靑黑い暗がりの中で兩眼を開いて、そして眼の運動に伴なふ明かりの無氣味な迸出を心留めて見て見よ。水を通して見る光つた點が一々みな、眼を開いたり閉ぢたり! するやうである。そんな瞬間には、何か奇怪な有情に包まれて居るやうな――そのどの部分もが同じやうに觸官を有ち視官を有ち意志を有つて居る、或る生きた物質のうちに、無限無窮の軟らかい冷たい『靈』のうちに、吊り下げられて居るやうな――氣が誰れしも實際するのである。

[やぶちゃん注:「迸出」「へいしゆつ(へいしゅつ)」或いは「はうしゆつ(ほうしゅつ)」と読み、「迸(ほとばし)り出ること」。]

 

 

       

 その晚自分は長い問床で眼を覺まして居て、その偉大な汐の雷と轟き碎ける音に耳を澄まして居た。その分明にきこえる衝擊の音よりも深く、またより近い浪の突擊の音よりも深く、はるか遠い大波のベエスの音がきこえるのであつた。それは自分の家がそれに震へる程の、絕え間無い底知れずの囁き聲で、――想像には、無限の騎兵隊の馬蹄の響のやうに、無數の砲車の集中する響のやうに、日の出からして世界程の幅の大軍隊が突進するやうに、きこえる音であつた。

 すると自分は、子供の折に、海の聲を聽いた時の漠たる恐怖の念について考へて居つた。――そして、後年、世界の種々な地方での種々な海岸で、磯打つ浪の音がいつもその子供らしい感情を復活したことを懷ひ出した。確に此の感情は、幾千萬世紀も自分よりか古いもので――祖先の無數の恐怖の遺傳された總額なのである。が、やがてのこと、海を恐がる念は、その聲が覺ます種々雜多な畏怖心のただ一要素を現はすに過ぎない、といふ確信が自分に起こつて來た。といふのは、この駿河海岸の荒汐を聽いて居ると、人間に知られて居る恐怖のありとあらゆる音を聞き分けることが出來たからである。すさまじい戰鬪の音――いつまでもの一齊射擊の音――際限無しの進擊の音のみならず、その上に、野獸の咆り吼ゆる聲、火のパチパチシユウシユウいふ音、地震のゴオゴオいふ音、破壞のドシンガチヤンといふ音、それからそんな音に抽んでて、號叫と抑壓されたわめきとのやうな連續した叫喚、卽ち水に溺れて死んだ者の聲だと云はれて居る聲とが、きき分けられるのであつた。憤怒と破滅と絕望との想像し得らるる限りのあらゆる反響を結合しての――怖ろしい極みの大擾亂なのである!

[やぶちゃん注:「咆り」「たけり」。]

 そして自分は斯う思つた。――海の聲が我々を眞面目ならしめるのは不思議であらうか。靈經驗の遙か偉大な海に動いて居る、いつからとも知れぬ恐怖のあらゆる波が海の種々な發言に相和して、之に應答せざるを得ぬのである。深淵相呼號すである。眼見得る[やぶちゃん注:「まなこみうる」と訓じておく。]『底無し』が、それよりも年長な實在たる眼見得べからざる『底無し』に――その流轉が我々の靈魂を造り成したその眼見得べからざる『底無し』に――呼ばはるのである。であるからして、死者の言葉が海の怒號であるといふ古昔からの信仰には、確に少からざる眞理があるのである。眞實、過去の死者の恐怖と苦痛とが、海の怒號が喚起するあの漠とした深い畏怖の念で、我々に物言うて居るのである。

【譯者註三 『詩篇』第四十二篇の七に『なんぢの大瀑のひゞきよりて淵々よびこたへ、なんぢの波なんぢの猛浪ことごとくわが上をこえゆけり』とあり。】

[やぶちゃん注:「靈經驗の遙か偉大な海」原文は「the vaster sea of soul-experience」。「霊魂の経験を孕んだ広大広漠たる海」か。この段落、訳が日本語としてこなれておらず、難解である。ここは私が最も腑に落ちると感ずる、所持する上田和夫氏(昭和五〇(一九七五)年新潮文庫刊「小泉八雲集」)の本段落を引用して示す。

   《引用開始》

 そしてわたしはひとりつぶやいた――海の声が、われわれを厳粛にするのは、なんと不思議なことであろうか、と。海のさまざまな発言に合わせて、魂の経験という、より広大な海に動いている、太古からの恐怖のあらゆる波がこたえざるをえないのである。「淵々(ふちぶち)呼びこたえる」。目に見える淵は、その潮の流れでわれわれの霊魂をつくったより古い、目に見えぬ淵に叫びかけるのである。

   《引用終了》

「『詩篇』第四十二篇の七」言わずもがなであるが、「旧約聖書」のそれである。Wikisource」の「口語 聖書」(昭和三三(一九五五)年日本聖書協会年刊)の「詩篇」のそれを引用しておく。

   《引用開始》

あなたの大滝の響きによって淵々呼びこたえ、あなたの波、あなたの大波はことごとくわたしの上を越えていった。

   《引用終了》

以下、一行空け。]

 

 然し海の聲よりももつと深く、しかももつと妙な具合に、我々の心を動かす音が――時々我々を眞面目にならせる、しかも頗る眞面目にならせる者が――ある。音樂の音である。

 大音樂は、我々心裡の過去の神祕を想像も及ばぬ許り深く攪亂する、心靈的一暴風である。大音樂は――その異つた聚器と聲との各〻が、各〻異つた幾萬億の生誕前の記憶に別々に訴へる所の――一種絕大な魔法である、とも或は言へよう。靑春と哀憐とのあらゆる精靈を呼び起こす音色がある。死んだ熱情のあらゆる幻の苦痛を喚起する音色がある。莊嚴と威力と光榮との死んで居る感情總てを――滅(めつ)してしまつて居るあらゆる大歡喜を――忘られて居るあらゆる慈悲寬容を――復活する音色があるのである。まことや音樂の力からは、自分の生命は百年に足らぬ前に始まつたのだ! と愚かにも夢想して居る人間には、不可解に思へることであらう。然しながら、『我』の本體は太陽よりも古いものであると知つて居る人にはどんな人にも、この神祕は判明するのである。その人は、音樂は一種の魔法だといふことを知るのである。その人は、旋律のありとあらゆる漣に對して、諧調(ハアモニイ)のありとあらゆる巨浪に對して、千古の快樂と苦痛との無限の或る渦卷が、『生死の大海』から、その心裡で應答するのであると悟るのである。

[やぶちゃん注:「大音樂」原文「Great music」。偉大なる音楽。]

 快衆と苦痛、此二者は大音樂には常に混合して居る。だからこそ音樂は海洋の聲、或は他のどんな聲もが爲し得ないほど、深く深く我々に感動を與へ得るのである。が然し、音樂のより大なる發言に在つては、低音調を成して居るものは常にこの悲哀である――『靈の海』の波の囁き聲である……。音樂といふ念が人間なるものの頭腦に開展し來り得る迄に經驗されたに相違ない所の悲喜の總額が、如何に巨大なものであるか、思ふも不思議な位である!

[やぶちゃん注:以下、一行空け。]

 

 何處かで斯ういふ事が言はれて居る。人生は神々の音樂である、――人生の啜り泣きと笑ひ聲、人生の歌と叫びと祈禱、人生の喜悅と絕望との絕叫、此等は不死不滅の者の耳にはいつも完全な諧調となつて立ち昇る、と。……だからして紳々は苦痛の音色を鎭めようと欲し給はなかつたのである。鎭めれば音樂を打ち壞す事になるであらう! 苦悶の音色が籠もつて居ない音の組み合はせは、神聖な耳には聞くに堪へぬ不協音となる事であらう。

 そして或る點に於ては我々自らも神々の如くである。無數の過去生涯の苦痛と喜悅とが總括されて居ればこそ、遺傳的記憶によつて、音樂の消魂的快樂が感ぜられるからである。死んだ幾代(だい)のあらゆる嬉さ悲さが、諧調と旋律との無數の形式を採つて我々の心へ宿りに歸つて來るのである。正(まさ)しくそれと同樣に、――我々が太陽を眺め得なくなる幾萬年の後に――我々自らの生涯の嬉さ悲さが、より微妙な音樂と共に、我々ならぬ他の人々の心情へ移りはいつて、其處で或る不可思議な刹那の間、逸樂的苦痛の或る深いそして絕妙な戰慄を起こさせることであらう。

[やぶちゃん注:底本では、既に分割配置した大谷氏の『譯者註』が五字下げ一でややポイント落ちで並び、最後の『譯者註三』の末尾に下一字空けで『(大谷正信)』とあって、その次の行に下一字空けで、『At Yaidzu.In Ghostly Japan.)』と記されてある。参考までに、ここでは、まず、敬愛する平井呈一氏の訳(一九七五年恒文社刊「日本雑記 他」所収)の最終段落を掲げる。

   《引用開始》

 だが、ある意味からいうと、人間自身も、そういう神によく似たところがある。つまり、記憶という器官によって、音楽の法悦感を人間に与えるものは、じつは、劫数(こつしゅ)無尽の過去世における、人間の悲・喜・哀・楽の総和だからである。消え滅びた世々の、あらゆる悲・喜・哀・楽が、語調と韻律の無尽無量の形のうちに、われわれの心に還ってくるのである。それと同じように、われわれが太陽を仰げなくなる百万年後には、こんにち生きているわれわれの悲・喜・哀・楽は、また別の生命の中に豊かな調べをそそぎ入れて、未来世におけるある神秘な瞬間に、なにかしら心たのしい悲哀の深い微妙な感動のおののきを起させることであろう。

   《引用終了》

とある。「劫数(こつしゅ)」は現行では「こうじゅ」「こうしゅ」「ごうしゅ」「ごうじゅ」と読むの一般的で、インド哲学や仏教などで、極めて長い宇宙論的な時間の単位である「劫(こう)」を一単位として数えられる途方もない時空間の経過を指す語である。次に、先に示した上田和夫氏のそれをも示す。

   《引用開始》

 そして、ある意味では、われわれ自身も神のような存在である――生来の記憶をとおして、音楽のもつ恍惚(こうこつ)をわれわれに感じさせてくれるのは、過去の無数の生活の苦痛と歓喜とが集約されているからである。いまは滅んだ幾世代ものあらゆる喜びと悲しみが、数知れぬ諧音(ハーモニー)と旋律(メロディー)となって、われわれのもとへ立ち帰ってはなれようとしない。それにしても――われわれが陽を見なくなってから百万年後に――われわれ自身の生の喜びと悲しみとが、さらに豊かな音楽にともなって他の人びとの心のうちに移り――そこで、ある神秘な一瞬、官能的な苦痛をともなう深い強烈な感動をおこさずにはおかないであろう。

   《引用終了》

 以前、とある翻訳家が「翻訳には賞味期限がある」と言っているのを読んだことがある。それは確かに、特に近現代の日本語の急速な変化・変質(私は敢えて「進化」とは思わない。寧ろ、「退化」或いは「半崩壊」とさえ表現したい人間である)に伴って言える一つの見方ではあろうと思う。平井・上田両氏の訳の方が、大谷氏のものよりも、今の日本人には耳に優しく、一聴、判り易いようには見えるとは言える。但し、判り易いことと、それが原作者の込めた達意・言志の訳文であることとは、必ずしも一致しない、とも言っておきたい。特に本訳者の大谷正信氏は小泉八雲の直弟子である。作者と直に接した人物の訳は、古い表記であっても、その心は「至宝」であると言ってよいのである。なお、「焼津市」公式サイト内の「焼津小泉八雲記念館」の「焼津に関連する小泉八雲作品」で、静岡大学名誉教授村松眞一氏の本篇の全新訳(PDF・縦書)が読めるので、ご紹介しておく。]

 

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