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2019/08/27

小泉八雲 因果話 (田部隆次訳)

 

[やぶちゃん注:本作(原題も“ INGWA-BANASHI ”)は明治三二(一八九九)年にボストンの「リトル・ブラウン社」(LITTLE, BROWN COMPANY)から出版された作品集“ IN GHOSTLY JAPAN ”」(「霊的なる日本にて」:来日後の第六作品集)の二番目に配された作品である。同作の原文は、「Internet Archive」のこちらから原本当該作画像が、活字化されたものは「The Project Gutenberg」のここの“Ingwa-banashi”で読める。

【2025年3月22日改稿】当初の底本が見られなくなっていたので、より信頼出来る国立国会図書館デジタルコレクションの「小泉八雲全集」第六巻(昭和四(一九二九)年第一書房刊)を底本として、一から、補正する。

 田部隆次(たなべりゅうじ 明治八(一八七五)年~昭和三二(一九五七)年)氏については先に電子化した「人形の墓」の私の冒頭注を参照されたい。

 一部と最後に私の注を附した。]

  

    因 果 話

 

 大名の奧方の病が重くなつて危篤にせまつてゐた、そして奧方は自分でも危篤にせまつて居る事を承知してゐた。文政十年の秋の始めから床を離れる事はできなかつた。今は文政十二年――西洋の數へ方では一八二九年――の四月であつた。櫻の花が開いてゐた。彼女は庭の櫻の花と陽氣な春の事を考へた。彼女は子供の事を考へた。彼女は夫の色々の側室の事――殊に十九歲の雪子の事を考へた。

[やぶちゃん注:「四月」これは英語圏読者向けに合わせたもののようにも見えるが(文政十二年の四月一日はグレゴリオ暦で五月三日に当たる)、近畿などでも八重桜(本文に後出)などは四月中旬に満開を迎えるから、ロケーションが東日本ならば、不審ではない。]

 大名は云つた、『わが妻、この三年の長い間の御身の病氣、さぞ苦しかつたであらう。御身を直すために、――夜晝御身の側で看護をなし、御身のために祈り、又御身のために斷食までもして――あらん限りをつくして居る。しかしその心づくしのかひもなく、最も良い醫師達の配劑のかひもなく、御身の命脈も今甚だ心細くなつて居る。御身が佛の云はれたこの三界の火宅を去つて行かれる事は御身よりも自分等の方がどれ程悲しいか分らない。自分は御身の後生の冥福を祈るために、どんな佛事をも――費用を惜まず――行ひます、又自分等は御身の魂の中有に迷はず、直ちに極樂淨土に赴いて佛果を得るやうにたえず祈ります』

[やぶちゃん注:「中有」「ちゆうう(ちゅうう)」と読み、「中陰」に同じ。仏教で、死んでから、次の生を受けるまでの中間期に於ける存在及びその漂っている時空間を指す。サンスクリット語の「アンタラー・ババ」の漢訳。「有(う)」・「陰(いん)」ともに「存在」の意。仏教では輪廻の思想に関連して、生物の存在様式の一サイクルを四段階の「四有(しう)」、「中有」・「生有(しょうう)」・「本有(ほんぬ)」・「死有(しう)」に分け、この内、「生有」は謂わば「受精の瞬間」、「死有」は「死の瞬間」であり、「本有」はいわゆる当該道での「仮の存在としての一生」を、「中有」は「死有」と「生有」の中間の存在時空を指す。中有は七日刻みで七段階に分かれ、各段階の最終時に「生有」に至る機会があり、遅くとも、七七日(なななぬか)=四十九日までには、総ての生物が「生有」に至るとされている。遺族はこの間、七日目ごとに供養を行い、四十九日目には「満中陰」の法事を行うことを義務付けられている。なお、四十九日という時間は、死体の腐敗しきる期間に関連するものとみられている(以上は小学館「日本大百科全書」に拠った)。]

 彼はその間彼女を撫でさすりながら、この上もなくやさしく云つた。その時、眼を閉ぢたままで、彼女は蟲のやうな細い聲で、彼に答へた、――

 『御親切なお言葉――有難うございます――本當に有難うございます。……はい、全く仰せの通り、私三年の長い間病氣でした、そしてこの上もない御世話と御親切に預かりました。……この最期に臨んで何の迷をいたしませう。……今となつて浮世の事に心を殘すのもまちがひかも分りませんが、――私一つ、たつた一つ、御願がございます。……ここへあの雪子を呼んで下さい、――御承知の通り私雪子を妹のやうに可愛がつて居ります。私あとあとの事色々話して置きたうございます』

 

 雪子は大名の命によつてそこへ現れた、それから彼からの合圖に從つて、床の側に跪いた。奧方は眼を開いて、雪子を見て、云つた、――

 『あ〻雪子か。……よく來てくれたね。……私は大きな聲が出ないから、よく聞えるやうに――もう少し近くへ進んでおくれ。……雪子、私もう死にます。そなたはこれから、あの殿樣を萬事につけて御大切に御世話を申上げて、――私の亡きあとには私の代りになつて貰ひたい。……そしていつまでも御寵愛を受けて、――さうです、私の百倍も御寵愛を受けて、――やがて昇進して奧方におなりなさいよ。……そしていつでも殿樣を大事にして他人に寵を奪はれないやうになさいよ。……雪子さん、これが御身に云ひたかつた事です。……分りましたか』

 『あゝ、それは又物體ない御言葉。御存じのやうな私風情の貧しい賤しい生れの者が、――奧方にならうなどとはとんでもない事でございます』雪子は抗言した。

 『いや、いや、今遠慮や他人行儀を云つて居る時ではない、お互に本當の事だけを云ひませう』奧方はかすれた聲で答へた。『私が死んだら、そなたは必ずよい地位に昇進するであらう、そして今又たしかに云うて置くが、私はそなたが奧方になるやうにと願つて居ります、――さうです、私が成佛する事よりもこの事をもつと願つて居ります。……あ〻、忘れようとしてゐた、――雪子、私の願を一つ聞入れておくれ。そなたの知つての通り、庭に一昨年、大和の吉野山から取寄せた八重櫻があります。それが今滿開であると聞いて居る、――それで私その花を見たい。もうぢきに私は死ぬが、――死ぬ前にその花を見たい。私を庭へ、――雪子、すぐに、――その花の見えるやうに連れて行つて貰ひたい。……さあ、背中に、雪子、――おぶつておくれ。……』

 

 かう云つて居るうちに、彼女の聲は段々はつきり强くなつて來た、――丁度その願の强さのために新しい力が出て來たやうであつた、それから不意に彼女は泣き出した。雪子はどうしてよいか分らないから、動かないで跪いてゐた、しかし大名は承諾の意味の合圖をした。

 彼は云つた、『これはこの世の最後の願だ。彼女はいつでも櫻の花が好きであつた、それでその吉野の花をさぞ見たいだらうと察する。さあ雪子、望み通りに致してやれよ』

 子供にとりつかせるために、乳母が背中を向けるやうに、雪子は奧方に彼女の肩を向けて云つた、――

 『用意を致して居りますから、どう致してよいか御指圖を遊ばして下さい』

 『あゝ、こちらへ』――瀕死の女は答へて、殆ど超人間的努力で立上つて雪子の肩にしがみついた。しかし雪子が立つた時、彼女は頸筋から、着物の下へ、彼の細い手をすばやく差し込んで、この少女の乳房をつかんで、物すごい笑を高く上げた。

 『思ひが叶つた』彼女が叫んだ――『私は櫻の花に心が殘つた、――庭の櫻の花ではない。……私の願の叶ふまでは死にきれなかつた。今それが叶つた、――あゝ嬉しい』

 それからさう云つたまま、蹲(うづくま)つて居る少女に倒れかかつて、息は絕えた。

 

 侍者達は直ちに雪子の肩から、その死體を取つて床の上に置かうとした。ところが――不思議にも――この見たところ何でもない事ができなかつた。その冷い手が少女の乳房に何か說明のできないやうな風に固着してゐた、――その生きた肉となつてしまつたやうに見えた。雪子は恐怖と苦痛のために知覺を失つた。

 醫者は呼ばれた。彼等にはどうなつたのか合點が行かなかつた。普通の手段では、死んだ人の手は彼女の犧牲の肉體から離す事ができなかつた、――離さうとすると血が出る程に固着してゐた。これは指がつかんで居るからではなかつた、それは掌の肉が乳房の肉と說明のできないやうに結合してゐたからであつた。

 

 その當時、江戶の最も熟練なる醫者は外國人――オランダの外科醫――であつた。その人を呼ぶ事にきまつた。丁寧に調べたあとで、彼はこんな患者の例は知らないと云つた、それから雪子を直ちに救ふためには、死體から兩手を切斷するより外に方法はないと云つた。乳房から手を離さうとする事は危險であると斷言した。その忠告は用ひられて、兩手は手首から切斷された。しかし手は乳房に固着したままになつた、やがてそこで黑くなつてしなびた、――長く死んだ人の手のやうに。

 

 しかしこれは恐ろしさのただ始まりであつた。

 しなびて血のないやうに見えてゐながら、その手は死んでゐなかつた。時々――そつと、大きな灰色の蜘蛛のやうに――動き出す。そしてそれから每晚――いつでも丑の刻から――つかんで、締めて、責め始める。寅の刻になつてやうやくその苦痛が止む。

 雪子は剃髮して巡禮の尼になつて、脫雪と名を改めた。彼女は彼の亡くなつた奧方の戒名、――妙香院殿知山涼風大姊、――のある位牌を造らせて、每日その前に赦しを願つて、その嫉妬の心の止むやうに囘向した。しかしこんな苦痛の源となつて居る因果は中々に消滅はしなかつた。每晚丑の刻になると、その手はきまつて彼女に責苦を與ヘた、――彼女が下野の國河內郡田中村の野口傳五左衞門と云ふ人の家に泊つた時、最後にこの話を聞いた人達の證言によれば、――それがもう十七年以上にもなる。それが弘化三年(一八四六年)であつた。この尼のその後の話は分らない。

[やぶちゃん注:「下野の國河內郡田中村」現在の栃木県下野市薬師寺附近である(グーグル・マップ・データ)。

 本作は「耳囊」(旗本で南町奉行であった根岸鎮衛が天明(元年は一七八一年)から文化(元年は一八〇四年。根岸は文化一二(一八一五)年十一月没)にかけて三十余年間に亙って死の直前まで書き継いだ随筆。全電子化訳注済み)の中でも私が最も偏愛する一篇「卷之九 不思議の尼懴解物語の事」の話とコンセプトがほぼ同じであるから、それが小泉八雲の素材の一つであることは疑いようがない。「耳囊」の同篇は、教師時代に、オリジナルな古文教材として教案を作り、サイトで「やぶちゃんと行く江戸のトワイライト・ゾーン」の第三話として授業案(訳・語注・考証附き)を公開もしているので、是非、お読みあれかし。

 なお、講談社学術文庫一九九〇年刊小泉八雲著・平川祐弘編「怪談・奇談」では、本作の原拠を講談師初代松林亭伯圓(しょうりんていはくえん 文化九(一八一二)年~安政二(一八五五)年:或いは単に「松林(まつばやし)」とも称した)の語った「百物語」の第十四席(全三回)とする。確かに旧蔵本には町田宗七編「百物語」(東京・明治二七(一八九四)年刊)があり、「富山大学附属図書館所蔵 ヘルン(小泉八雲)文庫目録」にも載り(2285番)、そこで『注:ハーン作品の底本となったもの』『第14席 松林伯円が語った話 ― 「因果話」』とある。但し、ネットでは「ヘルン文庫」の公開分にそれは含まれていない【以下、底本を変更したので、一部を削除線で削除した。但し、後に示す原拠への手入れは、以下と同じ仕儀に則ったので少し書き変えて残した。】同作を平川氏の「怪談・奇談」に載るものを恣意的に概ね漢字を正字化して以下に示す。但し、読みは振れそうなもののみのパラルビとした(歴史的仮名遣の誤りはママである)。但し、句読点がなく、若い読者には非常に読み難いであろうからして、私が恣意的に適宜、句読点を打ち、記号を挿入し、全文ベタで行頭からあるものを、適宜、段落を成形した。読みの歴史的仮名遣の誤り等は底本のママである。踊り字「〱」は正字化した。第二回以降には、展開の効果上からダッシュとリーダも用いた。【1019年11月6日:改稿】今回、小泉八雲が原拠としたものと同一の出版物と考えて間違いない「百物語」を国立国会図書館デジタルコレクションで発見したので、それで新ためて校合し、加えるべき修正を施した。但し、出版年も出版社及び編輯・発行・印刷者は確かに町田宗七であるが、以上の書誌にない著者が示されており、「条野採菊」著とする(但し、画像のどこにもそれは書かれてはいない。しかし国立国会図書館がかく書誌する以上、本作の真の編著者は彼と採って間違いあるまい)。ウィキの「条野採菊」によれば、条野採菊(じょうのさいぎく 天保三(一八三二)年~明治三五(一九〇二)年)は幕末から明治中期の東京の戯作者・ジャーナリスト・実業家・作家・劇評家。本名は条野伝平。号に山々亭有人(さんさんていありんど)・採菊散人・朧月亭・朧月亭有人・弄月亭有人など。何よりも画家鏑木清方の実父である。しかも彼は明治二五(一八九二)年十一月に、『三遊亭円朝・五代目尾上菊五郎・三遊亭円遊・田村成義らを集めて、百物語を主宰した』とあり、「小泉八雲 貉 (戸川明三訳) 附・原拠「百物語」第三十三席(御山苔松・話)」の注で述べた通り、上記「貉」の原拠でもある上記「百物語」は明治二五(一八九二)年十一月に浅草の料亭「奧山閣」で催された百物語の会での話が原話とする記載と、「百物語の会」と完全に一致するので、最早、間違いはないのである。なお、当該話の画像はここからである。

   *

 

    第十四席    松林伯圓

     第一回

 諸君のお咄ハ實錄にて、しかも、面白い事許り。其中へ、小生の話は、何か、昔の草双紙(くさざうし)めくとお笑ひも有りませうが、是れは全くの事實にて、いさゝかも小生(わたくし)が見て來たやうな虛(うそ)では有りません。扨、長(なが)口上は御退屈、早速、本文(ほんもん)を說出(ときだ)します。

 今は昔し、下野(しもふさの[やぶちゃん注:ママ。])國河內郡(かはちごほり)藥師寺と申所は日光東街道として舊蹟の多い所で有り、當所の隆行寺(りうかうじ)と云ふ寺には引削(ゆげ)[やぶちゃん注:ママ。「弓削」が普通。]の道鏡の古墳が有ります。其他(そのた)、千年餘(よ)の寳物抔(など)もあり、太古をしたふ人は、今も杖をとどめて、古墳を探します。

 夫れはさて置き、此藥師寺驛の東に田中村と申所がありまして、此村の豪士に野口傳五左衞門と云(いふ)舊家は、則ち、小生(わたくし)伯圓が實の姉(あね)が嫁したる家にて、只今は姉も亡き人に成りましたゆゑ、一ト年(とし)、小生も墓參(ぼさん)の爲、筑波山の見物をかけて、下野(しもふさ[やぶちゃん注:ママ。])・常陸の地方へ旅行致し、彼の野口の家に滯在して、一ツの怪談を聞出升(きゝだしまし)た。

 弘化三年[やぶちゃん注:一八四六年。]秋の末に、此家(このいへ)へ、或日の夕景(ゆふけい)に、年頃(としごろ)三十七、八とも見ゆる、人物のよろしい比丘尼(びくに)が訪ね來りて、

「わたくしは諸國の靈場巡拜の尼で有りますが、今日は餘程の道にて、勞(つか)れ、殊に、少々、病(やまひ)が起り、誠に難義で有りますゆゑ、何卒(どうぞ)、一夜(や)の御宿(おやど)を願ひます。御大家(おたいけ)を見込みてのおねがひ、けつして、不足は申ませねば、物置小屋にてもくるしからず。」

と申ますゆゑ、早速、小者が奧へ取次(とりつぐ)と、主人の野口は慈善家故、

「其ハ何より御安い事だ。サアサア、上へお通りなさい。」

と、小者や下女に申附(つけ)、丁寧に世話をなし、奧の離れ室(しつ)へ招持し、やがて、夕飯をすゝめたるに、漸(やうや)く一椀を食し、又、浴室へ案內せんとせしに、尼は、

「イエイエ、お湯は御免を蒙ります。」

と、やがて、風呂敷包より經卷を出して、靜かに讀經の外(ほか)餘念無き有さまに、主人ハ、

『奧ゆかしき尼御前(あまごぜ)。』

と心に敬ひ、其室(しつ)へ出で來り、四方山(よもやま)の物語の末に、

「尼御前は、御(お)言葉も江戶の樣子、殊に昔は左(さ)こそと思はるゝ美人の末(すゑ)、すべて高尙なる其(その)風情、失禮ながら、由(よし)有る方の果(はて)と愚案しますが、若(も)し苦しからずば、御身の上のお咄(はなし)を御聞せ被成(なすつ)ては如何でござります。」

と尋(たづ)ねに[やぶちゃん注:ママ。「との」の脱字か。]、尼は、しとやかに、

「御深切なる御尋ね、去りながら、子細の有りて、身の上咄(はなし)もする事ならず、御主人の推量の如く、江戸に產れて或大諸侯に召仕(めしつかは)れ、何不自由無く年月を送りましたが、今を去る十八年前、廿年(はたち)の時より出家して、見る影も無き乞食尼(こじきあま)、死ぬにも死なれぬ此身の罪業(ざいごふ)、せめてハ諸國の靈塲を、夫(それ)から夫れと巡拜して、所(とこ)ろ定めぬ捨小舟(すてをぶね)、憂きに漂ふ尼なれば、語つて益無き身の來歷、是れにて御免下されたし。」

と、打しほれたる容貌(かんばせ)に、主人は强ひて問ひもせず、

「お休み有れ。」

と會釋して、納戶の方(かた)へ立歸る。

 其夜もいたく更行(ふけゆ)きて、頃しも秋の末なれば、風に數散(かずち)る木の葉の、

「バラバラ。」

と、音も哀れに、山寺の鐘ハ四更(かう)[やぶちゃん注:現在の午前一時又は二時からの二時間。丑の刻。]を告(つぐ)る頃、遙かに聞ゆる奧の一室(ま)、彼(か)の旅尼(たびあま)が、最(いと)悲しげなる、蟲よりも細き聲にて、

「南無阿彌陀佛、〻〻〻〻〻〻。」

と、次第に苦しき念佛の聲は消えたり、又ハ聞え、斯くの如く數囘(すくわい)なれば、主人を始め、眠りを覺(さま)し、家內(かない)の者も、二、三人、『不思儀な尼が念佛の非常の苦聲(くせい)は故こそあらめ』と云ひ合さねど、離れ家(や)の障子の蔭に忍び來(き)て、中(うち)のやうすを窺ふとハ、夢にも知らぬ旅尼が、正面の床の間に旅行李(たびかうり)を置き、其上へ、小サキ位碑をかざり、其身は殊勝に墨染衣(すみぞめのころも)、珠數を手にかけ、

「南無阿彌陀佛、々々々々。」

ト、又もや佛名を唱へて居りました。

 

       第二回

 

 尼は又もや苦しき聲を押へて、「南無阿彌陀佛」も苦痛の体(てい)、暫時(しばらく)有つて、尼は、やうやう胸を押(おさ)へ、苦しき息を、

「ホツ。」

と、吐(つ)き、

「もうし、奧樣、イヤ、ナニ、『妙香院殿知山(ちやま)凉風大姉』尊靈よ、夫程、憎しと思召(おぼしめ)す私の此身体(からだ)、ナゼ、早く、冥途へは引寄せて下さらぬぞ。十八年の永の月日、行方(ゆくへ)定めぬ旅枕、あらゆる靈塲を尋ね、最(いと)も尊(たふと)き御佛(みほとけ)を禮拜(れいはい)なすも、私(わたくし)の罪消(ざいしやう)のみを祈るに非らず、せめて、貴孃(あなた)の後世(ごせい)安樂御成佛遊ばす樣と、世に望み無き尼が身は、朝暮(あさくれ)、忘れぬ『普門品(ふもんぼん)』女人解脫(によじんげだつ)を御佛へ願ひまゐらす甲斐も無く、此身を苦しめ玉ふのは、餘りと申せば、貴孃(あなた)より、私が、お恨み申まする。モウ、能(よ)い加減に許してたべ。御勘忍遊ばしませ。」

と、誰(たれ)に語るか訴ふるか、尼が苦痛の念佛の間(あひだ)に搔口說(かきくどき)たる言葉のはしはし、障子の蔭に聞居(きゝゐ)る人々、理由(わけ)は知らねど、怖氣立(こわげだ)ち、思はず、

「アツ。」

と、聲を立(たつ)れば、尼は驚き、衣紋(えもん)を繕ひ、手早く位牌を行李に納む。

[やぶちゃん注:「普門品」「法華経」第二十五品「観世音菩薩普門品」のこと。仏教では釈迦の教え以来、女性は如何に修行しても男に一度生まれ変わらなければ往生は出来ない、とする「変生男子(へんじょうなんし)」が説かれて、著しい女性差別が支配的である。しかし、「法華經」の「普門品」ではなく、その二つ前の第二十三の「藥王菩薩本事品」(薬王菩薩は過去世に於いて一切衆生喜見菩薩(皆が見るのを喜ぶ修行者の意)という美男の菩薩であったが、「法華經」を供養するため、自らの体に香油を塗り、自ら身に火を放って身を灯明とし供養した(「焼身供養」と呼ぶ)とされる捨身行の菩薩である。而して、ここにはまた、「もし、女人あって、是の経典を聞いて説のごとく修行するならば、此こに於いて命終し、即ち、安楽世界の阿弥陀如来の大菩薩衆の囲繞(いにょう)せる住処(すみか)に往き、蓮華の中の宝座の上に生ぜん」と女人往生を説いている(ここは一部をサイト「仏教ウェブ入門講座」の「法華経とは」に拠った)。そもそも阿弥陀如来はその修行時代の第十八誓願に於いて、総ての衆生を極楽往生させない限り、如来にはならない、と言っている以上、女性だろうが、如何なる生物であろうが、極楽往生は決定(けつじょう)しているのであるから、変生男子説は無効であると私は勝手に思っている。]

 主人野口を始め、家內四人が一間へ這入(はい)れば、愈々、尼は恥しむ。

 其有樣に、主人は、聲かけ、

「イヤイヤ、決して心配に及ばず。お宿(やど)を申した其時から、宵にいろいろ御樣子を伺ひましても、何事もお隱し被成(なさ)るゝ尼御(あまご)の素性(すぜう)、理由(わけ)有る事と其儘に、納戶(なんど)の中(うち)で眠られず、丑滿頃から奧の間の、苦しき聲の御(お)念佛、家內(かない)の眼(め)を覺(さま)し、餘りの不思議に、失禮ながら、一間の中(なか)を伺へば、最前よりの此(この)体裁(ていさい)、何か仔細が無くてはならぬ。尼御前よ、モウ、隱すにも及びますまい。懺侮に罪も消(きえ)るとやら。お物語り、成被(なさ)ませ。」

と、主人の言葉に、家內も共々、

「尼が來歷、聞きたし。」

と、問詰(とひつ)められて、旅尼(たびあま)は漸々(やうやう)重き顏を揚げ[やぶちゃん注:底本「け」であるが、濁点を打った。]、

「今迄、丁度、十八年、深くも包む因果咄(いんぐわばなし)、御主人始め、皆さんがお進めに、默止難(もだしがた)く、淺間(あさま)しくも、又、恥かしく、又た、恐ろしい此身の素性(すぜう)、お咄し申す。其前に、一寸(ちよつと)、御目に掛(かけ)る物、あり。是れぞ、今年で十八年、夜(よ)の丑滿の時分になると、私しの胸を責(せめ)惱ます其種(そのたね)は、是れ、此通りの物なり。」

と、――尼が――諸肌――押脫(おしぬげ)ば――

――コハ

――抑(そも)如何に

――コハ

――如何に

――尼が乳房(ちぶさ)の左右の上より

――乾(ほ)しかためたる如くに見ゆる

――二本の腕

――白骨(はくこつ)にもならず

――肉皮(にくかは)も其儘

――爪も生(はへ)たる形(かた)ちさながら

――細大根(ほそだいこん)の如く

――其色

――靑黑(あをくろ)にして死物(しぶつ)の如く

――活物(くわつぶつ)の如く

野口傳五左衞門始め、悴(せがれ)も、嫁――卽ち――伯圓の實姊(じつし)――も、只、茫然と見詰(みつめ)たり。

 尼ハ、やうやう泪(なみだ)を拂ひ、

「サ、是よりは此腕(このかひな)のお咄し、事長(ことなが)くとも、聞いてたべ。」

と、語り出しまする物語りは、左(さ)の通りでございます。

[やぶちゃん注:以下底本では、「第二回」の最後までは全体が一字下げである。一種の義太夫節の前振り(プレ梗概)を圧縮したのである。]

……明治廿七年を去(さ)る事、殆んど六十六年前頃ハ文政十年[やぶちゃん注:一八二七年。]の頃、東國にて大掾(だいぜう)[やぶちゃん注:本来は国司の三等官。ここは単に大きな領地。]を領し玉ふ大諸侯あり。奧方の外に愛妾(あいせう)二人、公達(きんだち)・姬君も多くありて、能く家政を修め玉へば、江戸・國共(くにもと)[やぶちゃん注:「共」はママ。]に平安無事、誠に目出度(めでたき)君(きみ)にぞまします。然るに、文政十年の頃より、奧方は假初(かりそめ)の病(やまひ)の爲に臥(ふし)玉ふに、次第に重き症(せう)となり、今は早や、賴み少なくなり玉へば、主公(しゆこう)を始め、一家中、俄に、心配、大方ならず。元より富貴(ふうき)の諸侯の事とて、其頃名高き名醫の配劑、又ハ、尊(たふと)き神社佛閣、加持や祈禱も怠りなく施し玉へど、死生(しせい)命(めい)ある世の譬へ、命數に限りあれば、今日臨終と云ふ其日は、いつそ[やぶちゃん注:ママ。「いつぞ」で強意であろう。]、文政十二年の彌生の中旬(なかば)、世界は今ぞ、櫻時(さくらどき)、嵐にもろき奧方の、花の姿も散り際の、名殘を告(つげ)んと表より、君公(くんこう)始め、數多(また)の女中、屛風の蔭に、しほとしほと[やぶちゃん注:ママ。後半は踊り字「〱」。]泪(なみだ)と共に座(ざ)したりけり。……

 

      第三回

 

……此時、君侯は、今、息を引取(ひきとら)うといふ奧方に向はれ、

「三歲(みと)せ此方(このかた)、御身の病氣、予も寢食を忘るゝ計(ばか)り、是迄、心を盡せしが、爰(こゝ)に命運盡き果てゝ、今日(こんにち)、御身に別るゝ悲しみ、火宅を去つて安樂界(あんらくかい)へ行く御身より、殘る予が心の中(うち)は、いか計り。せめては、後世(ごせい)の冥福は、財を惜まず行ふ程に、決して、心を殘さずに、迷はず、佛果を得玉へ。」

と、君侯は自ら奧方の胸のあたりを撫(なで)さすり、介抱してぞ、おはしける。

 此時、奧方、漸(やうや)く苦しき息を、

「ホツ。」

と、吐(つ)き、虫より細き聲音(こはね)にて、

「誠に難有き今のお言葉、三年間の病中に、殘る方(かた)無きお手當を受け、死ぬるに、何んぞ、迷ひませう。此上のお願ひには、兩人(ふたり)ある御愛妾の中に、雪子は最も緣深く、妹(いもと)のやうに思ひます。何卒(どうぞ)、雪に、跡々(あとあと)の賴みの事も言置(いひお)きたく、どうか、爰(こゝ)へ呼んで、たべ。」

と、仰せに、君侯も心得て、雪子を病間(べうま)へ召(めさ)れたり。

 奧方は兩眼(れうがん)を見開きて、

「オヽ、雪か。よう來て玉(たも)つた。妾(わらは)は最(も)う死ぬ程に、其方(そなた)は是から万々年(ばんばんねん)、吾儕(わなみ)に代りて、殿樣を御大切(ごたいせつ)にお世話して、今迄よりか、百倍の御寳愛(てうあい)[やぶちゃん注:「寳」はママ。「寵」の誤字であろう。]を戴いて、軈(やが)て立派に系圖を拵らへ、奧樣に昇進せよ。君子(きみこ)(今一人の妾(めかけ)の名なり)[やぶちゃん注:本文同ポイントで挿入されてある。]に寵(てう)を奪はれな。心得たか。」

[やぶちゃん注:「吾儕(わなみ)」一人称の人代名詞。対等の者に対して自身を指して言う語。「儕」(音「サイ・セイ」)は「輩(ともがら)・仲間」の意。]

との遺言に、雪子は驚き、

「是は又、勿體無い其御言葉、私(わた)くし風情が奧樣抔(など)と。」

「イヽヤ、イヤ、遠慮に及ばず。吾儕(わなみ)は死ねば、其方(そなた)が出世、妾(わらは)、佛果(ぶつくわ)を得るよりも、其方が當家(たうけ)の奧方と尊敬さるゝを祈ります。夫(それ)に付いて、賴みが有る。其事ハ、外ならず、一昨年、大和の吉野から庭へ移せし八重櫻、丁度、滿花(まんくわ)と聞きましたが、病(やまひ)の床の出(で)る事ならず、今日、臨終の思ひ出に、椽(えん)迄出(で)て、花を見たい。私は其方(そなた)に背負れて、アノ椽先まで行たい程に、爰へ來て、脊負ふて、たも。」

と、不思儀[やぶちゃん注:ママ。後も同じ。]やな、枕も上らぬ大病人(たいべうにん)が、判然(はつきり)と言語(ことば)もはかり、

「是非に。おぶつて吳れヨ。」

と、有るに、雪子、元來、優しき性質(せいしつ)、只、モジモジと淚ばかり。

 君公は打頷(うつうなづ)き、

「奧が櫻に思ひを殘し、一ト目見たしと、生前(せうぜん)の賴み、又、氣に入りの雪の肩、背負れて行たしと、是れも又、病婦(べうふ)の望み。コリヤ、コリヤ、雪、望みの通りに致してやれよ。」

と殿の一言。

 雪子は、

「ハツ。」

と、奧方の病床に靜かに座(ざ)し、

「何(ど)う致すのでござります。」

「オヽ、斯(か)うするの。」

と、奧方は、中腰に立(たち)玉ひ、雪子の脊に取附(とりつ)いて、細き兩手を、道筋(くびすぢ)[やぶちゃん注:「道」はママ。「首」或は「頸」の誤字であろう。]から、乳房(ちぶさ)の邊りへ差入(さしい)れて、雪の肌(はだへ)に冷めたき腕(かひな)。

 奧方、

「ニツコリ。」

笑ひ玉ひ、

「是にて、望みは、叶ひたり。庭前の櫻より、此花に、心が殘りて、死にきれず。今こそ、念願、成就せり。アラ、嬉しや。」

ト、其儘に敢無(あへな)く息は、絕え玉ふ。

 時に、奧方、三十三歲。

 さても、君公、始めとして、兼(かね)て覺悟の上ながら、臨終際(りんじうぎは)の不思儀さに、只々、呆れて、言葉無し。

 斯(か)くと聞(きく)より、醫師方(がた)も、追々、出仕の其上にて、雪子の肌(はだ)に取付(とりつき)し兩手を、靜かに離さんと、奧方の尊体(そんたい)を後ろへ𢌞りて抱きかゝえ、前から一人、手首を取り引(ひか)んとせしに、

「這(こ)は如何に。」

[やぶちゃん注:「這(こ)」指示代名詞。宋代に「これ」「この」という意味の語を「遮個」「適個」と書いたが、その「遮」「適」の草書体を誤って「這」と混同したことによる。但し、現代中国語では、その用法が生きている。]

奧方の兩腕は、雪子の肌(はだ)に固着して、何樣(どのやう)になすとても、離すの術(じゅつ)無し。

 其日は、空敷(むなしく)彼是(かれこれ)の評定(へうぜう)に時を移し、早や、翌日は、御同家(ごどうけ)幷びに分家方(がた)へも、夫々(それぞれ)、報知せねばならず。

 然るに、前に述べたる如く、死物(しぶつ)は活物(くはつぶつ)に着いて、離れず。

 雪子ハ、次第に、身体(しんたい)、勞(つか)れ、

「よくよく深き因緣なれば、此儘、殺し下さらば、奧さまと御一緖に冥土とやらへ行きます。」

と、苦しき賴みは、中々に聞入(きゝい)れ得べき事にも非らず。

 遂には、君侯の英斷に、其頃、名高き闌醫(らんい)[やぶちゃん注:「闌」はママ。「蘭」の誤字。以下も同じ。]を召され、極內々の御賴みに、餘儀無く闌醫は診察して、世に淺猿(あさま)しき事ながら、雪子の肌に固着せし奧方の兩手をば、殘して、遂に、切斷せり。

[やぶちゃん注:「淺猿(あさま)しき」。中世以降に見える当て字。]

 鳴呼、此貴婦人は、其身、大家(たいけ)の姬と產れ、妙齡にして諸侯の內室、常に翠帳紅閨(すゐでうこうけい)の中に眠り、世(よの)憂き事も知らずして、榮華の夢も見盡して、病の爲に此世を去るは、定命(でうめう)なれば、是非なけれど、愼むべきは嫉妬の一念。死しての後に手足(しゆそく)を異(こと)にし、自ら求めて、五體不具、醜き死骸を埋葬され、噂(うは)さを世々(よゝ)に殘すとハ、淺猿しかりける次第なり。

 其後(そのご)、雪子は壯健なれど、我(わが)物ならぬ死腕(しにうで)の、此身にまつハり居る事故(ゆゑ)、入浴なすも、人目を憚り、いつしか、君侯に暇(いとま)を乞ひ、尊(たふと)き聖人(ひじり)の敎化(けうげ)を受け、頭(かしら)を丸め、墨染の衣(ころも)に替る尼法師(あまばうし)、花の姿も風情無き、名を「脫雪(だつせつ)」と改めて、諸國の靈塲を巡禮して、一(ひとつ)にハ、奧方の惡靈解脫、二(ふたつ)には、此身の罪障消滅守らせ玉へと、明暮(あけくれ)に佛(ほとけ)に仕へ、念佛三昧、行方(ゆくゑ)定めぬ旅から旅、十八年の星霜も、夢路を辿る悲しさも、未だ未だ、恨みが晴れぬかして[やぶちゃん注:ママ。「晴れぬ。かくして」か?]、夜每に、時も丑滿の、大陰(たいいん)極(きはま)る頃に至り、死したる怪しき兩(れう)の腕(うで)が、此身の胸を〆付(しめつけ)る。其苦しさも、一時(とき)計り、永(なが)の年月(としつき)馴れたれど、死ぬにも死なれぬ身の因果、お咄し申すも恥かしき永(なが)物語りも、主君の御名前、名乘るは、故主(こしゆ)へ不忠の限り、聞(きい)て益無き事なれば、許して、たべ。……

ト許りにて、又も、時雨(しぐ)るゝ尼が袖。

 聞く人、哀れを催したり。

 其後(そのゝち)、尼は如何なりしか、存(ぞん)ぜず。

   *

なお、原拠には二葉の挿絵が載る。ここここ。二枚目は、かなり、クるものが、ある。

 なお、この小泉八雲のものは、オランダ医師(原文の“a Dutch surgeon”は「オランダ人外科医」としか訳しようがなかろう)が診断するというところが、時代的には無理がある。種本の「蘭醫」(邦人で蘭学を学んだ蘭方医)を小泉八雲が誤訳したものであろう。

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