諸国因果物語 巻之六 目録・十悪の人も報をうくるに時節ある事
諸國因果物語卷之六
十悪の人も報(むくひ)を受(うく)るに時節ある事
夫に不孝なる妻盲目になりし事
貪欲(とんよく)の者人魚(ぎよ)に生れし事
犬(いぬ)密夫(まおとこ)をくらひ殺す事
正直の人を倩(そねみ)てむくひる受し事
[やぶちゃん注:「まおとこ」はママ。「倩」は「猜」の誤記。]
諸國因果物語卷之六
十悪の人も報をうくるに時節ある事
江州下坂本(しもさかもと)に太郞兵衞といふ者あり。卅五六まで定(さだま)る妻もなく、手まへもよろしく暮しけれども、いかなる心にや召つかふ人もなく、手せんじにて、年ごろを過(すぎ)し、家なども、居宅の外に、二、三間(げん)もありしかど、
「是も世話なり。」
とて、入用(いりやう)もなきに、賣はらひ、とかくに「世の中の替(かは)りもの」と人にもいはるゝ行跡なり。
[やぶちゃん注:本篇には特異的に二枚(頁枚数では三枚)の挿絵がある。二枚目は適切と思われる個所に途中で挿入した。
「十悪」既出既注。
「江州下坂本」現在の滋賀県大津市下阪本(グーグル・マップ・データ。以下同じ)。ウィキの「下阪本」によれば、『中世は大和荘のうちにあり、江戸時代には下坂本村となった』(ここに出る通り、「坂」)。『村高は寛永郷帳で』三千五百十七『であり』、その内、『延暦寺領が』三千四百二十七『石、西教寺領が』九十『石であった』とある。
「手せんじ」「てせんじ」で「手煎」。自炊すること。通常は貧乏で使用人を雇えない生活を言うが、ここは例外。]
此弟は「輕都(かるいち)」とて、座頭なりしが、師の坊につれられ、おさなきより、江戸に住(すみ)て、かなたこなたと勤(つとめ)ける程に、藝などもすぐれ、心だて、又、「しほらしき者なり」とて、人々の情(なさけ)ふかく、年若き内より、四度、勾當(こうたう)に經(へ)あがり、出世も、日にそいて、まさる勢ひに、大かた、その比の座頭ども、輕都を、およそ、やすからぬ事にうらやみ、そねむものも多かりけり。
[やぶちゃん注:「勾當(こうたう)」中世・近世に於ける盲官(視覚障碍を持った公務員)の一つ。最高位の「検校(けんぎょう)」の下に降順で「別当」・「勾当」・「座頭(ざとう)」・「紫分(しぶん)」(以下の「衆分(しゅぶん)」と同じ)・「市名(いちな)」・「都(はん)」などがあった。
「そねむもの」は「ゆまに書房」版では『ほふもの』と判読しているが、見た感じ、「もの」の前は二字ではなく三字である(ここの最終行)。「む」と判読するは厳しいが、意味の通るように私はそう判じた。]
かくて、元祿二年[やぶちゃん注:一六八九年。]の夏は、衆分(しゆぶん)より勾當・檢校の三つを一度に經あがり、此序(ついで)に、御定(さだま)りの「凉(すゞ)み」もつとめたきねがひありて、前年より方々とかけめぐりて、旦那どもをたのみけるに、さなきだに、氣かさなりける、江戶人、
[やぶちゃん注:「凉(すゞ)み」古くからある盲人の職能集団である当道座(とうどうざ)の中では鎌倉時代以降、「平家物語」を琵琶で語る「平曲」の「座」が象徴的権威となっており(座衆内では師匠の系譜によって「一方(いちかた)」と「城方(じょうかた)」の平曲二流に分かれており、彼らは公的に諸国往来の自由を獲得し、平曲上演の縄張を拡大して、室町時代に至り、彼らの平曲が最盛期を迎えていた)、天夜尊(あまよのみこと:仁明或いは光孝天皇の皇子人康(さねやす)親王ともいう)を祖神とする由来が形成され、その祖神に因む二月十六日の「積塔(しやくとう)」、六月十九日の「涼(すずみ)の塔」に上位の盲官らが参集して祭祀を執行した。盲官内での昇進も金が物を言い、莫大な金が動いた。江戸中期以降は、その貯蓄を以って専ら金貸しばかりしていた上位盲官もおり、幕府が取締ったりしたが、効果はなかったようである。恐らくは、この「涼(すずみ)の塔」の祭祀に参加するだけでも、ここで言う「官錢」=膨大な参加料・賄賂を総検校や関連の公家らに渡す必要があったことも頷ける。]
「われ、一。」
と、すゝみだちて、官錢(くはんせん)、つゝがなく請取(うけとる)けるまゝ、
「此たびの上京は、ひとしほ、譽(ほまれ)ある身のおさまり。」
と、うれしさ、別して、
「坂本なる兄にも知らせ、故鄕の人々にも、この出世をひけらかさばや。」
と、おもひつゝ、矢橋より、右につきて、先(まづ)、下さかもとへと尋ねよりけるに、太郞兵衞も、大かたならずよろこび、心ばかりのもてなし、酒などもくみかはして、彼(かの)座頭、先、江戶よりたくはへ來りし官錢八百兩餘(よ)の金を取いだして、太郞兵衞に預け、
[やぶちゃん注:「八百兩」同時代(江戸中期の初期)の一両を六千文ほどとして現在の約七万五千円とするデータがある。それだと、実に六千万円に相当する大金である。]
「いまだ『凉(すゞみ)』とても日數あり、御職(おしよく)へ案内しては、物ごとにむつかしければ、しばらく爰に休息すべし。」
[やぶちゃん注:「御職」総検校や「涼(すずみ)の塔」の祭祀を担当した上級実務職のことか。「物ごとにむつかしければ」とは、そうした人物たねの挨拶と捧金の間合いや順序がなかなかに難しいものがあるというのであろうか。]
とて、二、三日も居たりける内、何とかしたりけん、喉痺(こうひ)を煩ひいだし、咽(のど)、はれふさがりて、四、五日も打臥ゐたりし程に、太郞兵衞、才覚して、
[やぶちゃん注:「喉痺」咽喉(のど)が腫れて痛む病気、或いは咽喉に発生した腫瘍。]
「何とぞ、此咽の腫(はれ)を破りたらば、藥も通るべし。又は食(しよく)などもすゝみて治(ぢ)するに心やすかるべければ、先、何とぞして破るこそよけれ。いで。我(わが)するまゝになれ。」
と、小脇差にありける赤銅(しやくどう)の割笄(わりかうがい)をはづして、輕都(かるいち)が咽(のど)をのぞき、さまざまとせゝりしが、不圖、惡心おこりけるに任せ、彼(かの)笄をもつて、咽の穴へ、かしらの見えぬ程、さしこみしかば、輕都は、聲をたてゝ、さけばんとすれども、其あとへ手ぬぐひをおしこみ、口に手をあて、やゝしばらくおさへけるに、苦しげなるうめきの音、しきりに聞へしかば、隣(となり)あたりのものども、見舞しかども、只、
[やぶちゃん注:「赤銅」銅に金三~四%、銀約一%を加えた銅合金。硫酸銅・酢酸銅などの水溶液中で煮沸すると、紫がかった黒色の美しい色彩を示すので、日本では古くから紫金(むらさきがね)・烏金(うきん)などと呼ばれて重用された。
「割笄」元は髪を掻き上げるのに用いる笄(こうがい)の一種。根本が一つで、中途から二つにわかれた婦人用のものと、箸や小刀のように、二本からなる刀の鞘に鍔を通して差し添えたものがある。尖端を鋭く尖らせてナイフ状に成し、投擲用の実戦用の武器(飛び道具)ともなった。ここはその後者。]
「咽の、腫(はれ)ふさがりて、此ほど、食などもすゝまず、別して、今朝(けさ)より苦病と見えて、苦しがり候。」
などゝ僞り、なみだなどこぼして語りけるに、
「誠は。太郞兵衞と兄弟のかうなり。何に付ても始在(しよざい)あるべきにあらず。」
[やぶちゃん注:「かう」不詳。「孝」を思うが、「孝」はあくまで父母に対するもので、兄弟のそれは「弟(てい)」である。
「始在」不詳。「所在」で、「(何らかの)問題・行為」の意か。]
などいひて、さのみ氣もつけざりけるを幸と、思ふまゝにしめ殺し、此金をあわせて、大分の德(とく)、付(つき)しより、俄に、欲の心おこり、京の方へのぼりける序(ついで)、五条邊(へん)に母かたの伯父の、日錢借(ひぜにかし)といふ事をして居たるを、賴み、此金を元手にあづけけるに、壱步(ぶ)八の利足(りそく)、月々にまはるを、面白く、半年にもならんとおもふ比(ころ)、彼(かの)伯父の肝煎にて、西京山内(にしのきやうやまのうち)といふ所に、百石ばかりの田地をもちたる後家の方へ、入むこに遣(つかは)しぬ。
[やぶちゃん注:「五条」京の五条通。
「壱步(ぶ)八の利足」こまごまと貸すのではなく、百両単位でポンと貸し、その代り、貸与した金額に対して八割というとんでもない高額の利息を附けたのであろう。でなければ、半年で京に土地を買えるほどの莫大な金を得られようがない。
「西京山内」現在の西京(にしきょう)区には当該地名を探し得ない。京都府京都市右京区山ノ内山ノ下町かとも思ったが、以下の叙述で田がかなり多いので違うようにも思われる。よく判らぬ。【2019年8月23日改稿・追記】いつも情報をお寄せ下さるT氏よりメールを戴いた。
《引用開始》
現「右京区」は江戸時代は京と認識されていません。「西京」は江戸時代には葛野郡(かどの)西ノ京村を指し、ウィキの「西ノ京(京都市)」によれば、「西ノ京」を冠する町は現在、六十一町あるようです。
《引用終了》
そこでウィキの「葛野郡」を見てみると、「町村制以降の沿革」の項に、西院(さいいん)村(現在の京都市下京区と右京区)と、山之内村(現在の京都市右京区)が西院村に統合された旨の記載があった(後者は後に旧名が復活して現在に至ったということになる)。T氏の続きを示す。
《引用開始》
「山内」はやはり「京都府京都市右京区山ノ内」で旧「葛野郡山之内村」で、「西ノ京村」の南西に「山之内村」が位置します(「西京山内」は 京の西の端という感じで、具体的場所をぼかしています)。これらは豊臣秀吉の構築した御土居の西側ラインが貫通している場所です。北野天神の西を流れる天神川を利用する村々で、寺・公家の所領地がやたら錯綜しています。
《引用終了》
そこで再度、地図を見ると、この附近には、現行地名に「山ノ内」を冠する地名が複数あり、その東に嘗つて統合された「西院」地区があることが判る(地図では京福電気鉄道嵐山本線山ノ内駅(右京区山ノ内宮前町)をポイントしてある)。やはり、ここで良かったのであった。T氏に御礼申し上げる。]
此後家、太郞兵衞に五つばかりも姊(あね)にて、大みつちやの痘瘡顏(いもがほ)にて、色黑く邊土(へんど)にてそだちたれば、風俗、また、大に見にくきに、年たけたれば、髮かたちにもかまはず、萬うちとけたるありさまも見るに、心うく、さながら、女房とて、人中に立ならび、同じうき世に住ながら欲ゆへの妻よ、といはるゝもうるさければ、又、例の惡心おこり、
「いかにもして、此女さへなき物にしたれば、外におもふ事なし。」
などゝ、常々に心がけける折から、いつも秋のころは、田かり、稻こきに隙(ひま)なく、大ぜいの人をやとひ、年ごとに役をあてがひ、夜を日につぎてはたらくは、かゝるあたりの習ひにて、雇(やとは)るゝ男女(おとこをんな[やぶちゃん注:ママ。])も、また、大分(だいぶん)なり。
[やぶちゃん注:「大みつちや」「みつちや(みっちゃ)」は以下に述べる天然痘の瘢痕(あばた)が異様に多いことを言う。それがまた甚だ激しいのである。「みっちゃくちゃ」とも呼んだ。「めっちゃくちゃ」の語源らしい。
「痘瘡顏」痘瘡(天然痘)に罹患するも、治癒したが(天然痘(取り敢えず撲滅宣言は一九八〇年五月八日に成された)の致死率は平均で約二十~五十%と非常に高い)、顔面の激しい瘢痕(一般的に「あばた」と呼んだ)が残ったのである。]
されば、此秋の田かりもちかく、
『二、三日の内に。』
と思ひたちけるまゝ、いつも用の時はめしよせてつかふ者あり、今年もかはらず、約束して、
「秋中(ちう[やぶちゃん注:ママ。])のはたらきを賴來(たのみきた)るべし。」
と、みづから、暮がたより立出(たちいで)、西(さい)藏といふ所まで行たるを、
「ねがふ所のさひわひ。」
と、太郞兵衞も暮過(くれすぎ)てより、宿(やど)を出(いで)、苧屑頭巾(をくづずきん)、まぶかにかぶり、すそ、ほつきたる柹(かき)の惟子(かたびら)に、繩帶(なはおび)を引しめ、蒲脚半(がまきやはん)・足半(あしなか)、かろがろと出たち、二尺あまりなる大わきざし、ねたばをあはせて、西の土堤(どて)づたひに、北へとあゆむ。
[やぶちゃん注:「西藏」京都府京都市南区吉祥院西ノ内町に浄土宗の延命山西蔵寺という寺があるが、この附近か。
「苧屑頭巾」苧(からむし:双子葉植物綱イラクサ目イラクサ科カラムシ属ナンバンカラムシ変種カラムシ Boehmeria nivea var. nipononivea)の茎を編んで作った頭巾。切妻の屋根に似た形で、頭部を覆うように深く被る。鷹匠や猟師などが用いた。「おくそずきん」「ほくそずきん」或いは「山岡頭巾」「強盗(がんどう)頭巾」「細頭巾」とも呼ぶ。こちらの小学館「日本国語大辞典」の図を参照。以下、賎民の扮装をしているのである。
「ほつきたる」解(ほつ)れた。
「柹(かき)の」柿色の。防水用の柿渋を塗ってあるのである。
「蒲脚半」蒲(単子葉植物綱イネ目ガマ科ガマ属ガマ Typha latifolia)の繊維で拵えた脚絆(きゃはん)のこと。古くは脛(すね)に着ける装飾・防護用の「脛巾(はばき)」が一般的用語であったが、室町以後は専ら「脚絆」が用いられている。但し、その後も東北地方では布製のものを「脚絆」と称し、蒲・藺草・藁などで編んだものを「脛巾(はばき)」と呼んで区別している。基本的には、四角形又は扇形に編んで、上下に紐をつけ、これを足に巻いて固定する。かつては農作業や山仕事のほかに、旅行・外出・雪中や雨中の歩行に用いられた(諸辞書・事典を合成した)。
「足半」芯緒緒(芯繩)を利用して鼻緒を前で結んだ小さな形の藁草履。大きさが足裏の半ばほどしかないので「あしなか」と呼ばれ、我々が想起する草履である長草履と区別したもの。足裏に密着し、鼻緒が丈夫なことから、滑り止めとして、鎌倉・室町時代の武士階級がよく利用した。鼻緒の結び方や名称は地方により異なるが、冬の夜なべにこれをつくる農山村が多かった。この草履をはいて山野へ行くと,マムシに咬まれないとされた(以上は「ブリタニカ国際大百科事典」に拠った)。
「ねたばをあはせて」「寝刃を合はす」とは刀剣の刃を研ぐことであるが、転じて、「こっそりと悪事を企(たくら)む」ことの意に用いる。ここは前の大脇差に続けて両様の意を掛けたととるべきであろう。
「西の土堤(どて)づたひに、北へとあゆむ」西京山内や西蔵が今一つどこであるか判らないのであるが、孰れにせよ、これは太郎兵衛は一度、南を大回りして、桂川の西の堤を北上したのであろう。犯罪を犯そうとする彼が、犯人は自分が西京山内から来た者でないように大きく迂回して西蔵に向かうという偽装を施したルートを指すものとは思われる。【2019年8月23日一部修正・追記】T氏より『行き違いの可能性が大き過ぎると思います』と御忠告を得た。山内が確定してみれば、西蔵が西蔵寺方面だとすると、確かに桂川の西堤をわざわざ下って北に上る必要はなく(西にダイレクトに速やかに進んで待ち伏せしていればよいだけである)、それでは如何にもとぼけた迂遠な行動となってしまうことに気がついた。さすれば、まず、この西堤というのは桂川ではなく、T氏による前の追記に出る天神川で(確か旧天神側の流域は現在と異なり、かなり真っ直ぐに南に下っていた)、そこ、則ち、旧天神川の西堤まで西京山内から出て、そこでやおら少し北に向かって歩み、北から強殺犯が来たように見せかけたとするのがよかろうか。]
ころは、九月廿日あまり、宵闇の鼻つまむもしらぬ薄ぐもり、草むらを分(わけ)てしのびゆくに、ありき馴たる道とて、女房はくらき夜ともいはず、殊に㙒みちなれば、人通りとてもなき所を、高々と田歌(たうた)口ずさみて歸る所をやりすごして、後(うしろ)より、土堤(どて)の上にかけ上り、ぬきまふけし脇ざし、とりもなをさず、腰のつがひを、眞(ま)ふたつに切(きり)はなせば、
「あつ。」
と、いひける一こゑのみにて、屍(かばね)は、左右(さゆう[やぶちゃん注:ママ。])へ、わかれたり。
[やぶちゃん注:「ころは、九月廿日あまり」叙述の流れから見るとは、元禄三(一六九〇)年か翌年となろう。前者なら、グレゴリオ暦で十月二十一日辺り、後者なら閏八月を挟むため十一月九日頃となる。
「ぬきまふけし」「拔き設けし」あらかじめ抜刀して構えていた。]
『仕(し)すましたり。』
と、おもひて、何氣なく衣類を替、我宿へ歸りけるに、あまり遲きをふしんがりて出入のおのこども[やぶちゃん注:ママ。]、道まで迎ひに行しが、此体(てい)を見つけしより、太郞兵衞も始ておどろきたる顏して、しばらくは詮議もするやうにもてなして濟(すま)しぬ。
それより爰も沽却(こきやく)して[やぶちゃん注:売り払って。]田地なども賣ける程に、彼是あはせて、千二、三百兩あしの身上(しんしやう)誰(たれ)うらやまぬ物もなく[やぶちゃん注:「あし」は「足」で「金銭」「額」の意か。]、坂本の家も拂ひて、みなみな、金とし、今はたとひ何程の榮耀を極(きは)めたりとも、一代は、らくに暮すべき身の程、いまだあきたらずや有けん、有德(うとく)なる人の娘の敷錢(しきがね)[やぶちゃん注:持参金。持ち金。]あるを聞(きゝ)たて、
「妻にせん。」
とたくみけるが、いまだ運つよき身のほどとて、下京松原にて名高き合羽(かつぱ)屋の娘、しかも惣領にて、家督もいかめしき迄ありけるに、取(とり)むすび、よく盤昌(はんじよう)[やぶちゃん注:漢字表記も読みもママ。]の花をさかせ、二年ばかり過けるまゝ、一人の子をまふけたり。
[やぶちゃん注:「下京松原」京都府京都市下京区松原通はこの附近。]
太郞兵衞、殊に、てうあひにて、しばらくも見えねば、尋ねまはりて可愛がりけるが、やうやう五つばかりになりける年、疱瘡(はうさう)をしたり。
煩惱(ほゝをり[やぶちゃん注:ママ。読みは不詳。こんな読みは見たことがない。「ゆまに書房」版もこの判読である。])も人よりは强く、何樣(なにか[やぶちゃん注:ママ。何につけても。])に心もとなき事のみ也しかば、
「かかる事には立願(りうぐはん)こそ世に賴(たのみ)ある物なれ。」
と、太郞兵衞みづから、「はだし參り」をおもひ立て、毎日曉(あかつき)ごとに淸水(きよみづ)へまいり、一心に立願し、明(あけ)て歸るを、役(やく)のやうにせしに、四日にあたりたるあしたは、寢(ね)まどひて、八つの比、宿を出(いで)、六はらを東へ㙒にかゝりけるころ、安井(やすゐ)を南へ、六はらの道を東へと、いそぎ行(ゆく)ものあり。
[やぶちゃん注:「はだし參り」「裸足(跣)參り」で、祈願のために日数を限って神社に裸足で詣でること。よく知られる「御百度参り」は境内の御百度石から社頭までを裸足で往復する。
「淸水」京都府京都市東山区清水にある、当時は法相宗の音羽山清水寺。本尊は千手観音。
「寢(ね)まどひて」眠れなくて。
「八つ」定時法で午前二時。
「六はら」「六波羅」。京都の鴨川東岸の五条大路から七条大路一帯の地名。現在の京都市東山区の一部。「六原」とも書く。天暦五(九五一)年に浄土教の先駆者で口称念仏の祖である空也がこの地に西光寺を創建し、後に中信が、この寺を補陀洛山(ふだらくせん)六波羅蜜寺(江戸時代には現在と同じく真言宗)と改名したことからこの一帯が「六波羅」と呼ばれるようになったとされる。この辺りは洛中から京都の住民の葬地であった鳥辺野に入る際の入口に当たったことから、この他にも六道珍皇寺など沢山の寺院が建てられ、信仰の地として栄えた(以上はウィキの「六波羅」に拠った)。鴨川の東岸で清水寺の西方の麓。
「安井」安井金比羅宮附近であろう。下京松原から東に鴨川を渡ってすぐにあり、そこを南下して六波羅でそこをまた東に折れれば、清水寺である。]
星あかりにすかして見るに、座頭なり。
江戶ぶし、おもしろく諷(うた)ひ、杖に拍子をとりて行(ゆく)也。
[やぶちゃん注:「江戶ぶし」「江戶節」。三味線音曲の一つで、上方に対する江戸生まれの楽曲の呼称。具体的には「江戸肥前節」(始祖は江戸肥前掾)・「江戸半太夫節」(始祖は江戸半太夫)・「江戸河東節(かとうぶし)」(始祖は江戸太夫河東)のこと。柔らかみのあるもので、当初は主として「江戸半太夫節」のことを指していた(浄瑠璃で「江戸」または「江戸カカリ」というのは殆んどが「江戸半太夫節」のことを指した)が、「江戸半太夫節」が衰退してからは「江戸河東節」を指すようになった(「ブリタニカ国際大百科事典」に拠る)。]
太郞兵衞も、夜ぶかに出(いで)て、道のほども心ぼそく、殊におさなき者の煩ひ、重きを苦にして、思ひ過(すご)しせられ、萬(よろづ)にものがなしく、氣のよはくなりたる比なれば、
『能(よき)つれこそ。』
と、四、五間口[やぶちゃん注:七メートル強から約九メートル。「口」(ぐち)は「程」「許り」の意。]もこなたより、詞をかけて、
「座頭どの、夜ぶかに何所(どこ)へ御ざる。」
といへば、座頭は、すこし立どまるやうにて、
「我らは、願(ぐはん)の事ありて、淸水へ參るなり。」
といふも、賴もしく、
「さらば、我も淸水へ參るもの也。我は一人むす子の疱瘡になやみて、殊下(ことのほか)、重く見へ[やぶちゃん注:ママ。]、十死一生(しやう)のありさまを見るが心うくて、其願に參る者也。いざ、つれだち候はん。」
といふに、座頭は手を打て、
「扨は。そなたは太郞兵衞殿か。我は、また、そなたに預けたる、銀、あり。此官(くはん)錢を取かへさんと、年比、うかゞへども、其方の運がつよくありしゆへ[やぶちゃん注:ママ。]、めぐり逢(あは)ず。此たびの愁(うれへ[やぶちゃん注:ママ。])も、これ、みな、我なす事也。覚えあるべし。」
とて、ふりかへるを見れば、以前手にかけて殺せし輕都(かるいち)にて、すさまじき眼(まなこ)を見出し、口より、火をふきつゝ飛かゝり、太郞兵衞をとらへんと、大手(おほで)をひろげて追(おひ)まはる程に、太郞兵衞は、氣も心も身にそはず、かなたこなたと逃まはりしが、あまりにつよく迫れて、息、絕(たへ[やぶちゃん注:ママ。])、氣をとり失ひ、しばらくは、死(しゝ)てありしが、我(われ)と、本性(ほんしやう)になりて、起あがり、いよいよ、心おくれ、空おそろしくなりて、今は、一あしも行(ゆか)れざりければ、足に任せて走り歸りけるに、松原寺町の辻にて、めでつかふ[やぶちゃん注:「愛で使ふ」。]下女に行(ゆき)あひたり。
[やぶちゃん注:「松原寺町」松原通と寺町通が交差する、この中央部。]
「こは。何をして、今時(いまどき)はありくぞ。子は何とぞあるや。」
と、いふに、下女も肝(きも)つぶしたる顏して、
「あまり、旦那の、夜ぶかに出させ給ひて、しかも、御歸りおそさに、人を仕立(したて)、御むかひに參らせんとて、駕籠の者を呼(よび)に參る也。御子は、今……わらはが……食(くひ)ころしたり――」
と、いひて、ふりかへりたるを見れば、山内(やまのうち)にて、手にかけたる女房なり。
また、これに、氣をとりうしなひ、やゝしばらく絕入(ぜつじゆ)して居たりし内、おひおひに、宿より、人をはしらせ、子の病(やまひ)、おもりたるよしを知らせ、醫師(くすし)などのかたへも、人をつかはさんと迎(むかへ)に出しけるものども、此体(てい)を見つけ、やうやうに、たすけ、歸りしが、終に、是より、病(やみ)つきて、太郞兵衞も死ぬ。
その跡、次第にすいびして、今は、その人の名も、しりたる者なく、絕はてたり。
[やぶちゃん注:最後の台詞のコーダ部分に特異的にリーダとダッシュを用いた。]
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