諸国因果物語 巻之二 女の執心夫をくらふ事
女の執心夫(おつと)をくらふ事
京都新在家(ざいけ)烏丸[やぶちゃん注:「からすま」。]の邊(へん)に、何の伊織[やぶちゃん注:「いおり」。]とかやいひしは、元來、江戶の住人にてありけるが、少のしるべによりて、京都に登り堂上[やぶちゃん注:「だうしやう」。公家。]方にたよりを求め、纔(わづか)の扶持(ふち)方を申おろし、牢浪(らうらう)の餘命をつなぎ、出世の時を待れける身也。
[やぶちゃん注:「京都新在家(ざいけ)烏丸」現在の京都府京都市上京区元新在家町((グーグル・マップ・データ。以下同じ)とその東を縦に貫く烏丸通(地下鉄今出川駅の南の端の方の、京都御所北西角の交差点は「烏丸今出川」)の間辺り。]
そのかみ、江戸に居られし比、數寄屋橋通寄合町にて、去[やぶちゃん注:「さる」。]人のむすめと深くいひかはされし事、何か人しれず、馴(なれ)むつびて、行すゑは夫婦(ふうふ)ともなるべき堅めの誓紙(せいし)までとりかはせし中なりけれども、今、かく逼塞(ひつそく)の折といひ、有付を待(まつ)身として、人のおもはん所もあれば、
「何事も、時を得てこそ表むきのいひかはしはせめ、互ひの心だにかはらずば。」
などゝ忍び忍びに、いひなぐさめつゝ過(すぐ)しけるに、其比、上がたより、
『似合しき有付の口もなきにあらず、先(まづ)、その事、首尾する迄は、かゝる事にも身をよせまじや。』
と、いゝひおこせし人あるに任せて、元祿のはじめの年、霜月中ばに旅だちて、京都へ引こしける也。
[やぶちゃん注:「數寄屋橋通寄合町」江戸切絵図と比較対照してみると、現在の東京都中央区銀座八丁目のこの中央附近に当たる。
「逼塞」落ちぶれて世間から隠れてひっそり暮らすこと。
「有付」「ありつき」。ここはなにがしかの職にありついて、安定した生活を送ることを指す。
「何事も、時を得てこそ表むきのいひかはしはせめ、互ひの心だにかはらずば。」『「こそ」~(已然形)、……』の逆接用法。「如何なることも、それに相応しい時を得てこそ、言い交しはしたのだけれども、なに、お互いのお互いを思う気持ちさえ変わらないならば、離れていても、不安など無用じゃ。」という説得である。しかし、この歯が浮いたような定番の謂い方に、既にして伊織の薄情さは目に見えているとは言えまいか?
「元祿のはじめの年、霜月中ば」元禄元年(貞享五年九月三十日(グレゴリオ暦一六八八年十月二十三日改元) の十一月半ばは、グレゴリオ暦で一六八八年十二上旬。旧暦十一月十五日(この月は大の月)は十二月七日である。当時は一般的に徒歩でだと(伊織の場合、金もないから総て徒歩であろう)、江戸―京都間は十三日から十五日前後はかかった。江戸日本橋から京都三条大橋までの距離は約四百九十二キロメートルで、十五日としても一日平均約三十三キロメートルも歩く計算になる(「横浜国道事務所」公式サイト内の「東海道への誘い」の「旅について」に拠った)。]
その折ふし、彼女も跡をしたひつゝ、
「諸ともに。」
と、泣うらみしかども、世をはゞかる身の、「何の心ありて女まで連(つれ)たるぞ」と京なる親類にも思はれん所を恥(はぢ)て、さまざまといひ慰め、
「よしや。しばし待給へ。上がたへ登り、兎も角も首尾さへ繕(つくろひ)たらば、少の養ひをも請(うく)る便(たより)もある間、いかやうにしても和御前(わごぜ)ひとりは呼(よび)むかへつべし。心ながく待給はゞ、三年がほどには、必(かならず)むかへに文して申べし。」
などゝ、くれぐれいひ堅めて、のぼりぬ。
[やぶちゃん注:「和御前」「我御前」とも書く。二人称。女性を親しんで呼ぶのに用いる。そなた。]
今、かく新在家に住宅をかまへ、堂上の勤(つとめ)、ひまなく、ある時は西山・ひがし山の花にあそび、小野・廣澤の月にうかれありき、又は、風流なる京をんなの物ごし・つまはづれ、武藏㙒の月にあこがれて、金龍山(きんりうざん[やぶちゃん注:ママ。])の曉(あかつき)の鐘に、おき別れし吉原の色うる里人よりは美しく、詞(ことば)つかひ、何かにつきても、やさしく情(なさけ)あるに、心、うかれ、故鄕の假寢にいひ置(をき[やぶちゃん注:ママ。])し私語(さゝめごと)もいつしか忘れて、三年[やぶちゃん注:「みとせ」。]は夢と暮ゆく、年の矢のたつ春の正月(むつき)は、元祿七年、
「今は、よも、武藏㙒の草のゆかりに賴[やぶちゃん注:「たのみ」。]をきし女を、あらたなる夫(おつと)まふけて、心々の世や經(へ)ぬらん、あはれ、女は、はかなき物哉[やぶちゃん注:「かな」。]、あたふる一言につながれ、『我を見捨じ』と誓紙を書(かき)、親におもひかへても、京へのぼらんといひしよな。其日より、七年のけふ迄、文とても下(くだ)さねば、さぞ恨みにも恨みけん。よし、今は死けんとぞおもふらん。」
と、夕ぐれの淋しさに、つくづくとおもひ出して、心むつかしければ、酒など、あたゝめさせ、近きあたりの友まねきなどして、夜ふくるまで、吞(のみ)ふかしぬ。
[やぶちゃん注:この前の部分、切れ目のない雅文調であるが、鷺水は、その流れに酔うあまり、確信犯で、文としての不全性を露わにしている。「武藏㙒の月にあこがれて」は表向き伊織が江戸の言い交した女や吉原で買った女郎を懐かしく思い出すことを匂わせながらも、その実、前の「京をんなの物」腰や仕草(後注参照)に「あこがれて」いるのである。
「小野」山科区の南端の小野地区。地名はまさにかの小野小町の一族小野氏に由来する。
「廣澤」右京区嵯峨広沢町附近。「広沢の池」で知られる。
「つまはつずれ」「褄外れ・爪外れ」で名詞。裾(すそ)の捌(さば)き方。転じて、身のこなし。所作。
「金龍山(きんりうざん)」不詳。寺の山号ならば、左京区黒谷町にある浄土宗七大本山紫雲山金戒光明寺の塔頭の一つである金龍山瑞泉院がある。
「元祿七年」一六九四年。
「今は、よも、武藏㙒の草のゆかりに賴[やぶちゃん注:「たのみ」。]をきし女を、あらたなる夫(おつと)まふけて、心々の世や經(へ)ぬらん」まず、自分に都合よく勝手な空想をしているのである。「今頃は、もう、武蔵野の若紫の縁(ゆかり)の若かったあの女――私をたのみにしていた女も、別に新しい夫の元に嫁入りし、最早、私のことなど思いもせぬ、離れ離れになってしまった心を抱いて、この世に生きているのだろうか。」といった感じか。
「親におもひかへても」親の心にに背いても。
「よし、今は死けんとぞおもふらん。」「縱(よ)し」は副詞で「仕方がない。ままよ。どうでもいい」の意。「ままよ! あの女、私は今は死んでしまった、とでも思うておるやも知れぬな。」の謂いであろう。
「心むつかし」不快なこと。伊織というこいつ、自分を棚に上げておいて、如何にも自分勝手な厭な奴である。
「吞(のみ)ふかしぬ」「吞み更かしぬ」か。酒を飲みに飲んで、夜更かした。]
此隣(となり)は、石井の何がしとて、冨貴(ふうき)の家なり。此家の後室(こうしつ)、夜(よ)ふくるまで、手まはりの人をよせつゝ、寢られぬまゝに、歌がるたとらせなどして、慰み、夜半過(すぐ)る比、ねやに入りて臥(ふし)給ひしに、漸(やゝ)ありて、座敷の上の櫺子(れんじ)の障子を、
「さらさら。」
と開(あく)る音しけるに、驚(おどろき)て、与風(ふと)、目をひらき、見あげたるに、廿六、七と見ゆる女の、鐵漿(かね)くろぐろと付たるが、白き着物のうへに、靑き小袖ならん、ぬきがけして、髮うちさばきたるが、此櫺子につくばひ、天井の緣をとらへて、
「しげしげ。」
と見舞し、しのびやかなる聲して、
「伊織殿は、いづくにぞ。」
と、とふ。
此後室も、何がしの娘なりしかば[やぶちゃん注:相応な高い身分の家の出の娘であったので。]、少もさはがず、起(おき)かへりて、
「伊織殿は此東隣なり。何ものぞ。」
と、いはれて、
「うれしや。よく敎(おしへ)給ひたり。恨(うらむ)事ありて、參りし也。恥かし。」
と、いひて、失(うせ)ぬ。
[やぶちゃん注:「後室」身分の高い人の未亡人。
「櫺子(れんじ)」窓や戸に木や竹の桟を縦又は横に細い間隔で嵌め込んだ格子。
「ぬきがけ」不詳。手を通さずに被るか引っ掛けるかすることか。]
かくて、夜明しまゝ、何となく、隣りへ人を遣(つかは)して窺(うかゞひ)見するに、
彼(かの)江戶に殘しをきつる女の、いまだ緣にも付ずして[やぶちゃん注:「つかずして」。]、けふ・明日と便りを待し内ゟ[やぶちゃん注:「まちしうちより」。]、くだりける商人(あきびと)、此伊織殿の事をよく知りたる者ありて、
「今は上がたにて仕官したまひ、うつくしき妾(てかけ)などかゝへ、江戶などの事を覚しめし出る事には及ばず。」
と語りしより、此女、
「はつ。」
と、思ひたる氣色にて、打ふしたるが、其夜、生㚑(いきれう[やぶちゃん注:ママ。])の來りて、伊織をとらへ、此年ころのうらみ一つ一つ、いひ出し、かき口說(くどき)ては、喰(くひ)つき、うらみては、喰(くひ)つき、終に、身の内、續く所なく、喰(くひ)やぶりて、果(はて)は、咽(のど)ぶゑにくらひつきて、殺され給ひし、とぞ。
下々(したした)の、はなしに聞(きゝ)てぞ、人みな、舌をふるはしける。
[やぶちゃん注:或いは読者の中には、この生霊が「廿六、七と見ゆる女の、鐵漿(かね)くろぐろと」、則ち、既婚女性がしたとされる鉄漿(おはぐろ)を附けているのを奇異に感ずるかも知れぬが、ウィキの「お歯黒」によれば、『江戸時代以降は皇族・貴族以外の男性の間ではほとんど廃絶』し、『また、悪臭や手間、そして老けた感じになることが若い女性から敬遠されたこともあって』、既婚女性、未婚でも十八〜二十歳以上の女性、『及び、遊女、芸妓の化粧として定着した』とあるのでおかしくはないのである。また、私はこの女(当時の二十六、七ではもう大年増であるが)は、お歯黒を附けることで、伊織以外の男の寄りつくのを断然、拒絶していたのではないか、それほどに伊織に執心していた、だからこそ生霊となって彼を襲いながら、彼は実際に全身を食い千切られて死んだのである。生霊が物理的にはっきりした致命的傷害を与えて怨んでいる人間を殺すというのは、必ずしもポピュラーでなく、それだけに、この最後のスプラッターなコーダは鷺水の独擅場であるとも言えよう。そうして気づく、鷺水は、伊織に捨てられた、この女をちゃんと憐れんでやっているのである。でなくてどうして、標題を「女の執心夫(おつと)をくらふ事」とするであろう。]
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