小泉八雲 振袖 (田部隆次訳)
[やぶちゃん注:本作(原題は“FURISODÉ”)は明治三二(一八九九)年にボストンの「リトル・ブラウン社」(LITTLE, BROWN COMPANY)から出版された作品集“IN GHOSTLY JAPAN”」(「霊的なる日本にて」:来日後の第六作品集)の二番目に配された作品である。同作の原文は、「Internet Archive」のこちらから原本当該作画像が、活字化されたものは「The Project Gutenberg」のここの“FURISODE”で読める。
底本は、サイト「しみじみと朗読に聴き入りたい」の別館内のこちらにある、昭和二五(一九五〇)年新潮文庫刊の古谷綱武編「小泉八雲集 下巻」の田部隆次氏の訳の「振袖」(PDF)を視認した。
田部隆次(たなべりゅうじ 明治八(一八七五)年~昭和三二(一九五七)年)氏については先に電子化した「人形の墓」の私の冒頭注を参照されたい。
最後に私の注を附した。]
振 袖
近頃、私は古物商の多く住んで居る小さい町を通つて居る間に、一軒の店にかかつて居る派手な紫の振袖を見た。德川時代に位の高い貴婦人が着たやうな着物であつた。私はそれについて居る五つの紋所を見るために足を停めた、同時に昔江戶の破滅の原因となつたと云はれる同じ着物のつぎの傳說を憶ひ出した。
殆んど二百五十年前、將軍の都の或富んだ商人の娘が、どこかの祭禮で、著しく美麗な若い侍を群集のうちに認めて、直ちに戀に落ちた。彼女に取つては不幸にも、彼女の從者によつてその侍の何人であるか、どこの人であらうかを知る事ができないうちに、彼は雜沓の間に見えなくなつた。しかし彼の印象ははつきりと、――着物の最も些細な點まで、――彼女の記憶に殘つた。その當時若い侍の着た晴着は若い女の着物と同じ程派手であつた、そしてこの立派な侍の上着は戀に惱んだ少女に取つては非常に綺麗に見えた。彼女は同じ紋をつけた同じ色と地の着物を着たら何かの折に彼の注意を惹く事もできようと想像した。
そこで彼女は當時の習慣によつて大層長い袖のこんな着物を作らせた、そしてそれを非常に大切にした。外山の度每にそれを着た、そして家ではそれを部屋にかけて、彼女の知らない愛人の姿がその中に潜んで居る事を想像して見ようとした。どうかすると何時間でも、その前で――或は物思ひをしたり或は泣いたりして――すごす事もあつた。彼女は又この靑年の愛を得るために神佛に祈つて――日蓮宗の題目『南無妙法蓮華經』をよく唱へた。
しかし彼女は再び靑年を見なかつた、それで彼女は彼を慕うて煩つた、病氣になつて、死んで葬られた。葬られてからいそんなに彼女が大事にしてゐた振袖は檀那寺へ寄贈された。死んだ人の着物をこんな風に處分するのは古い習慣である。
住職はその着物を高く賣る事ができた。それは高價な絹で、その上に落ちた淚の痕は殘つてゐなかつた。それを買つたのは死んだ婦人と殆んど同年の少女であつた。彼女はただ一日だけそれを着た。それから病氣になつて、妙な素振をするやうになつた――綺麗な靑年が目について仕方がない、そのために自分は死ぬのだと叫び出した。それから暫くして彼女は死んだ。それから振袖は再び寺へ寄贈された。
又住職はそれを賣つた、それから又それが若い婦人の物となつて、その婦人は一度だけそれを着た。それから又彼女は病氣になつて、綺麗なまぼろしの事を口走つて、死んで、葬られた。それから着物は三度目に寺へ寄附された、そこで住職は驚いて訝つた。
それにも拘らず彼はもう一度その不吉な着物を賣つて見た。もう一度或少女がそれを求めて、もう一度それを着た、そしてそれを着た少女は煩つて死んだ。そして着物は四度目に寺へ寄附された。そこで住職は何か惡い力がそのうちに籠つて居ると信じた。それで彼は小僧達に、寺の庭で火を焚いてその着物を燒く事を命じた。
そこで、彼等は火を焚いて、その中へ着物を投じた。ところがその絹が燃え出すと、突然その上に火焰の目映(まばゆ)いやうな文字――『南無妙法蓮華經』の題目――が現れた、――そしてこれが一つ一つ、大きな火花のやうになつて寺の屋根へ飛んだ、そして寺は燒けた。
燃える寺からの燃殼がやがて近所の方々の屋根に落ちた、それですぐ町が全部燃えた。その時、海の風が起つてその破滅を遠くの町々へ吹き送つた。それで區から區へ、殆んど江戶の全部が消滅した。そして明曆元年(一六五五)正月十八日に起つたこの火災は今でも東京では振袖火事として覺えられて居る。
『紀文大盡』と云ふ話の本によれば、振袖を作つた少女の名は『おさめ』であつた、そして彼女は麻布百姓町の酒屋、彥右衞門の娘であつた。綺麗であつたので、彼女は又麻布小町と呼ばれた。同じ書物によれば、その傅說の寺は、本鄕の本妙寺と云ふ日蓮宗の寺であつた。それから着物の紋は桔梗であつた。しかしこの話には、色々違つた說がある、私は『紀文大盡』は信じない、何故なれば、それには、その綺麗な侍は實は人間ではなく、上野、不忍池に長く棲んでゐた龍の化身であると說いて居るからである。
[やぶちゃん注:底本では、最終行に一字上げインデントで『(田部隆次譯)』、次の行に同じインデントで『Furisodé. (In Ghostly Japan.)』とある。
「明曆元年(一六五五)正月十八日に起つたこの火災は今でも東京では振袖火事として覺えられて居る」当時の江戸の大半を焼失するに至った「明暦の大火」は明暦三年一月十八日に発生し、二日後の二十日(グレゴリオ暦一六五七年三月二日から四日)に鎮静した大火災。ウィキの「明暦の大火」によれば、『明暦の大火・明和の大火・文化の大火を江戸三大大火と呼ぶが、明暦の大火における被害は延焼面積・死者ともに江戸時代最大であることから、江戸三大火の筆頭としても挙げられる。外堀以内のほぼ全域、天守を含む江戸城や多数の大名屋敷、市街地の大半を焼失し、死者数については諸説あるが』三万から十万人とも『記録されている。この大火で焼失した江戸城天守は、その後』、『再建されることがなかった』。『関東大震災・東京大空襲などの戦禍・震災を除くと』、『日本史上最大の火災であり、ローマ大火・ロンドン大火・明暦の大火を世界三大大火とする場合もある』という世界史レベルでも未曾有と言ってもよい大カタストロフであった。この『明暦の大火を契機に江戸の都市改造が行われ、御三家の屋敷が江戸城外に転出するとともに、それにともなって武家屋敷・大名屋敷、寺社が移転し』、『また、市区改正が行われるとともに、防衛のため』、『千住大橋だけであった隅田川の架橋(両国橋や永代橋など)が行われ、隅田川東岸に深川など』の『市街地が拡大されるとともに、吉祥寺や下連雀など』、『郊外への移住も進んだ』。『さらに防災への取り組みも行われ、火除地』(ひよけち)『や延焼を遮断する防火線として広小路が設置された』(『現在でも上野広小路などの地名が残』る)。幕府は防火のための建築規制を施行し』、『耐火建築として土蔵造』『や瓦葺屋根』『を奨励した』。『もっとも、その後も板葺き板壁の町屋は多く残り、「火事と喧嘩は江戸の華」と言われるとおり、江戸はその後もしばしば大火に見舞われた』とある。
私は既に後に書かれた根岸鎮衛の「耳囊」(旗本で南町奉行であった根岸鎮衛が天明(元年は一七八一年)から文化(元年は一八〇四年。根岸は文化一二(一八一五)年十一月没)にかけて三十余年間に亙って死の直前まで書き継いだ随筆。全電子化訳注済み)の「卷之二 本妙寺火防札の事」(ブログでは「強氣の者召仕へ物を申付し事」とカップリング。「卷之二」のサイト一括版はこちら)で、この「本妙寺」や「明暦の大火」について詳しく注しているので、そちらを見られたいが、何分、九年前の仕儀で、上記ウィキも改稿が行われているので、特に同前ウィキの内、「諸説ある火元」の項に載る三説を改めて引用しておく。まず、ここに語られた伝承と同じ「本妙寺失火説」。『本妙寺の失火が原因とする説は、以下のような伝承に基づく。なお、この伝承が振袖火事の別名の由来にもなっている』。『お江戸・麻布の裕福な質屋・遠州屋の娘・梅乃(数え』十七『歳)は、本郷の本妙寺に母と墓参りに行ったその帰り、上野の山ですれ違った寺の小姓らしき美少年に一目惚れ。ぼうっと彼の後ろ姿を見送り、母に声をかけられて正気にもどり、赤面して下を向く。梅乃はこの日から寝ても覚めても彼のことが忘れられず、恋の病か、食欲もなくし寝込んでしまう。名も身元も知れぬ方ならばせめてもと、案じる両親に彼が着ていた服と同じ、荒磯と菊柄の振袖を作ってもらい、その振袖をかき抱いては彼の面影を思い焦がれる日々だった。しかし痛ましくも病は悪化、梅乃は若い盛りの命を散らす。両親は葬礼の日、せめてもの供養にと娘の棺に生前愛した形見の振袖をかけてやった』。『当時、棺にかけられた遺品などは寺男たちがもらっていいことになっていた。この振袖は本妙寺の寺男によって転売され、上野の町娘・きの(』十六『歳)のものとなる。ところが』、『この娘もしばらくして病で亡くなり、振袖は彼女の棺にかけられて、奇しくも梅乃の命日にまた本妙寺に持ち込まれた。寺男たちは再度それを売り、振袖は別の町娘・いく(』十六『歳)の手に渡る。ところがこの娘もほどなく病気になって死去、振袖はまたも棺にかけられ、本妙寺に運び込まれてきた』。『さすがに寺男たちも因縁を感じ、住職は問題の振袖を寺で焼いて供養することにした。住職が読経しながら』、『護摩の火の中に振袖を投げこむと、にわかに北方から一陣の狂風が吹きおこり、裾に火のついた振袖は人が立ち上がったような姿で空に舞い上がり、寺の軒先に舞い落ちて火を移した。たちまち大屋根を覆った紅蓮の炎は突風に煽られ、一陣は湯島六丁目方面、一団は駿河台へと燃えひろがり、ついには江戸の町を焼き尽くす大火となった』。『この伝承は、矢田挿雲』(やだそううん 明治一五(一八八二)年~昭和三六(一九六一)年:金沢市出身の小説家で俳人。本名は義勝)『が細かく取材して著し、小泉八雲も登場人物名を替えた小説を著している。伝説の誕生は大火後まもなくの時期であり、同時代の浅井了意は大火を取材して「作り話」と結論づけている』。次に「幕府放火説」。『江戸の都市改造を実行するため、幕府が放火したとする』トンデモ謀略説である。『当時の江戸は急速な発展による人口の増加にともない、住居の過密化をはじめ、衛生環境の悪化による疫病の流行、連日のように殺人事件が発生するほどに治安が悪化するなど都市機能が限界に達しており、もはや軍事優先の都市計画ではどうにもならないところまで来ていた。しかし、都市改造には住民の説得や立ち退きに対する補償などが大きな障壁となっていた。そこで幕府は大火を起こして江戸市街を焼け野原にしてしまえば』、『都市改造が一気にできるようになると考えたのだという。江戸の冬はたいてい北西の風が吹くため』、『放火計画は立てやすかったと思われる。実際に大火後の江戸では都市改造が行われている。一方で、先述のように江戸城にまで大きな被害が及ぶなどしており、幕府放火説の真偽はともかく、幕府側も火災で被害を受ける結果になっている』。次は「本妙寺火元引受説」。『本来、火元は老中・阿部忠秋の屋敷だった。しかし「火元は老中屋敷」と露見すると』、『幕府の威信が失墜してしまうため、幕府が要請して「阿部邸に隣接する本妙寺が火元」ということにして、上記のような話を広めたとする説』で、『これは、火元であるはずの本妙寺が大火後も取り潰しにあわなかったどころか、元の場所に再建を許されたうえに』、『触頭にまで取り立てられ、大火前より大きな寺院となり、さらに大正時代にいたるまで阿部家が多額の供養料を年ごとに奉納していることなどを論拠としている。江戸幕府廃止後、本妙寺は「本妙寺火元引受説」を主張している』とある。
「紀文大盡」三世河竹新七作の浄瑠璃「紀文大尽廓入船(くるわのいりふね)」(明治一一(一八七八)市村座初演)か(原本を見ていないので確かなことは言えない)。これは二世為永春水(染崎延房(そめざきのぶふさ 文政元(一八一八)年~明治一九(一八八六)年)作の合巻をもとに、講談師放牛舎桃林(天保(一八三〇)年~明治三〇(一八九七)年)が講釈化したものの脚色であるから、その原型類なのかも知れない(長唄の曲名に「紀文大尽」があるが、これは明治四四(一九一一)年初演なので違う)。一説に紀伊国屋文左衛門の初代は材木商で、この振袖火事で木曾の木材を僅かな手付け金で買い占めて大儲けしたとも伝えられる。しかし、サイト「歴史くらぶ」のこちらによれば、『明暦の振袖火事の際、木曾の木材を買い占めて巨利を博したのは河村瑞賢』で、『紀文ではない』とある。文左衛門は実在したものの、多分に脚色された伝説的存在部分が有意にある人物である。]
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