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2019/08/15

諸国因果物語 巻之四 幡摩灘舟ゆうれいの事

 

     幡摩灘(はりまなだ)舟(ふな)ゆうれいの事

Hunayuurei



 是も大坂立賣堀(いたちぼり)はいや町(てう[やぶちゃん注:ママ。])の住人にて、湯川朔庵といふ儒醫あり。

[やぶちゃん注:標題「ゆうれい」はママ。

「大坂立賣堀(いたちぼり)はいや町」大阪市西区立売堀(いたちぼり)は現存するが(グーグル・マップ・データ。以下同じ)、「はいや町」(歴史的仮名遣では「ちやう」が正しい)は不詳。「灰屋」であろうかと推測はする。ウィキの「立売堀」によれば、『江戸時代から地域の南部に立売堀川、北西部に薩摩堀川、西端部に百間堀川が流れていたが、昭和中期に埋め立てられた。江戸時代から』、『材木の集散地として栄え』た。「摂津名所図会大成」に『よると、大坂冬の陣・夏の陣で』、『伊達氏が』、『この付近に堀をつくり陣地を構えていたこと、その跡を掘り足して川としたことから』、『はじめは伊達堀(だてぼり)と呼んでいたが、そのうち「いたちぼり」と呼ばれるようになった。後に材木の立売りが許されるようになったので』、『漢字のみ「立売堀」と改められた、とのことである』。『江戸時代の町名は三右衛門町(さんえもんちょう)・中橋町・船坂町・薩摩堀中筋町・薩摩堀東之町・納屋町(なやまち)・百間町(ひゃっけんまち)・吉田町・西国町・立売堀一から四丁目・孫左衛門町・助右衛門町・立売堀中之町・立売堀西之町となっていた』とあって、「はいや町」に類似する町名は、ない。]

 生れ付たる器用とて、およそ灘波(なには)の津におゐては、肩を並ぶべき者もなき学者なりしかば、講談、日をかさねて、門弟も多く、醫の道、また、發明にして難治の症、ことに、かならず、卽効(そくかう)の妙をあらはしける程に、人みな、此德になつきて、東西にもてはやし、門(かど)に、藥取の使(つかひ)たゝぬ時なく、席(せき)に敎義の書生なき日もなくて、普(あまね)く西海・東武の人にちなみけるまゝに、其比、伏見兩替町(ふしみれうがへてう[やぶちゃん注:ママ。])邊(へん)にて、小西の何某とかやいひける人の子息も、朔庵の弟子になりて、醫學を稽古しける樞機をもつて、猶、學業のくはしき事をも窺はんために、彼小西の子息を勸(すゝめ)、我(わが)一跡をも引こして、長崎の津に渡りぬ。朔庵の妻女、又、堺の生れにて、占辻(うらのつじ)邊(へん)に名高き人の娘なり。

[やぶちゃん注:京都市伏見区両替町(まち)

「樞機」ここは「縁故」の意。

「堺」「占辻」大阪府堺市堺区市之町大小路(おしょうじ)辻附近。「ホウコウ株式会社」公式サイト「堺意外史」(中井正弘氏執筆)の中の「Vol.36 晴明辻(大小路付近)の信仰」に、『堺の旧市街を南北に分ける摂津と和泉の国境線に当たる大小路と大道に近い、東六間筋との交差点を古くから晴明辻とか占い辻と呼ばれ、ここで吉凶を占うとよく当たると伝えている』「堺鑑(さかいかがみ)」(天和四年・貞享元(一六八四年)に『よると』、かの陰陽師安倍『晴明が泉州信太村(堺・和泉市)から』、『この辻を通ったときに、占い書を埋めて』、『辻占いを行ったと伝えている。しかし、同じ江戸時代の』「全堺群志」(宝暦七(一七五七)年)では、『「皆、拠無の説なり」と、晴明がこの道を往環したから付会したにすぎない、とすでに一蹴している』。『この辻から真東』一・三キロメートルの『ところに摂津泉三国の接点・三国ヶ丘に方違神社がある。ここでも、方位・日時など諸事に忌みがあるとし、今でも出向・引っ越しなどの安全祈願をする人を見かける。いずれも境界にあたるところに、特別な意味を持たせたものと思われる』とある。]

 彼是よき由緣あるに付て、長崎におゐても、又、發向し、彼方此方(かなたこなた)にもてはやされ、殊に療治は、入船(にうせん[やぶちゃん注:ママ。])の異國人を試(こゝろみ)に申免(ゆる)されて、出嶋(でじま)の出入なども自由しけるにぞ、近比の名醫と唐人も感じ、所の衆にも類(たぐひ)なき事にぞ、いひあひける。

 かゝる折しも、朔庵の父、いまだ大坂にあり、今年元祿七年[やぶちゃん注:一六九四年。]の夏也しに、大病を得て、十死一生なるよし、種々、藥を服し、針・按摩にいたる迄、術(てだて)をかへ、治(ち)をつくせども、驗(げん)なし。

『迚(とて)も死すべき命ならば、恩愛の子にも心よく暇乞(いとまごひ)して、なき跡の事をも語らひ置(おか)ばや。』

と狀のほしに聞へしかば、朔庵も心ならず、奉行所に御いとまを願ひ、大坂へと思ひ立けるに、妻も此たびの序(ついで)、嬉しく、舅の病氣をも尋ね、一つは故鄕(ふるさと)の二親にも逢(あひ)まひらせ[やぶちゃん注:ママ。]たければ、

「道すがらの事也、堺へも立よりて。」

と朔庵に願ひて、是も同じ旅にと、物いそぎして、六月廿日餘りより、舟出し、海路(かいろ)つゝがなく、夜を日につぎて、漕(こぎ)わたりけるに、播州赤穗(あこ[やぶちゃん注:ママ。])の御崎(みさき)へかゝらんとする比、何とか仕たりけん、不圖(ふと)、手あやまちを仕出し、朔庵が乘たる住吉丸といふ舩、片時(へんじ)の[やぶちゃん注:瞬く間であること。]炎(ほのほ)となりて、もえあがる折ふし、塩あひにて、舟さしよすべきも便(たより)なし。

[やぶちゃん注:「播州赤穗(あこ)の御崎(みさき)」兵庫県赤穂市御崎

「塩あひ」「潮合」。潮流。]

 其うへに、助舟(たすけぶね)なども如何したりけん、さのみも出ず、卒尒(そつじ)に[やぶちゃん注:急なこととて。]寄(より)つかるゝ物にもあらず、水をいとふは、舩のならひとて、只、いたづらに手をつかねて、多(おほく)の荷物、乘合(のりあひ)の男女、目の前に燒死(やけじに)、あるひは[やぶちゃん注:ママ。以下同じ。]、炎を恐れ、心まどひ、

「せめて、海にいらば、もしや、たすかる。」

と水心さへしらぬ身の、着のまゝも飛いらず、金銀大小、あるひは、妻や子の手に手を取て、千尋(ちいろ)の海に身を投れば、思はず、潮(うしほ)に呼吸(こきう[やぶちゃん注:ママ。])をきられ、身につけし資財にほだしをうたれ、たちまち、八寒八熱のくるしみ、叫喚阿鼻の呵責を目の前にあらはし、數(す)万の荷物、いくばくの命を捨(すて)けん、誠に舩の火事こそ、殊に哀なる事のかぎり也けれど、人毎(ひとごと)に念佛し、廻向(えこう[やぶちゃん注:ママ。])せぬものは、なかりけれ。

[やぶちゃん注:「ほだしをうたれ」「絆しを打たれ」で「行動の自由を妨げるものとして枷(かせ)の如くに束縛されて」の意。]

 されば、此あまた失(うせ)たりし亡者の中にも、朔庵夫婦は、子もなくて、他國に住居(すまゐ)し、親あれども、孝にうとく、名を思ひ、譽(ほまれ)を願ふ貧欲(とにょく)に着(ちやく)して、日夜になす所、みな化(あだ)たる世の事わざ也しに、一人は老病[やぶちゃん注:老いて病んだ父。]の名殘おしまんため、一人は故鄕のなつかしさ、やるかたなさに、おもひたちたる心ざしをも、遂得(とげえ)ずして、此舟にうかび、此難に逢(あひ)て死期(しご)のかなしさ、いかばかりか。

 『流轉のきづなを生(しやう)せざらんや』と、いひしに違(たがは)ず、それより、後(のち)、大坂堺より通ふ舩とだにいへば、夜にいりて、此沖を過る比、かならず、海の表十間[やぶちゃん注:約十八メートル。]四方ほどの間は、底より、俄に、火熖(くはゑん[やぶちゃん注:ママ。「くわえん」が正しい。])おこりて、

「くわつ。」

と、燃あがるよとおもふに、男女の聲して、

「なふ、悲しや。」

といふ木玉(こだま)、物がなしく、乘合の者の耳に入けるとぞ。

 此沙汰、そのころ、もつぱら也しかば、大坂堺の舷乘・中間より、僧を請(しやう)じ、流灌頂(ながれくはんてう)をつとめ、法事、一かたならず、とぶらひしより、此炎、二たびおこらざりしとぞ。

[やぶちゃん注:海上の怪火の舟幽霊譚であるが、わざわざ仔細に語った登場人物らの前振りが、あまり成功していないように思われ、ちょっと残念である。

「流灌頂(ながれくはんでう)」歴史的仮名遣は「ながれくわんぢやう」が正しい(現代名遣「ながれかんぢょう」)。川端や海辺に、四方に竹や板卒塔婆を立てて布を吊り広げ、柄杓を添えて、そばを通る人や船客などに水を注がせる法要の一習俗。主として難産で死んだ女性の供養のために行ったが、地方によっては水死者のためにも行い、供養の仕方にも違いがある。布の色や塔婆の文字が消えるまでは死者は成仏出来ないとされる。「あらいざらし」「流水灌頂」とも呼ぶ。]

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