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2019/08/13

諸国因果物語 巻之三 盗せしもの神罰をかうふる事

 

     盗せしもの神罰をかうふる事

Jyukusigaki

 丹波桑田郡篠村に与八といふ物あり。

[やぶちゃん注:「丹波桑田郡篠村」、京都府南桑田郡にあった村。現在の亀岡市篠町(しのちょう)の各町。この中央周辺(グーグル・マップ・データ)。嵐山の西方で因幡へ越えるルートである。]

 心だてよろしからぬ男にて、神佛をも蔑(ないがしろ)にし、人を人とも思はず。常に雇はれありく身として、何によらず、「ほしき」とおもふ物あれば、盗とりて歸り、後日に恥をかく事あれども、何とも思はず、不敵なるくせ者也。

 同じ心の友とて、其邊(あたり)近く住ける小左衞門といふ者、是も能なしにて、博突(ばくち)といふ事に身を打こみ、方々とかせぎありきけるに、与八も無二の友にて、いづく迄も往來して、酒をのみ、人をむさぼりて、たのしみ暮しける。

 ある時、小左衞門は博突に打ほうけ、仕合、さんざんにて、此ほど、因幡より歸りけるが、

『此まゝにて宿へ歸りては、妻子どもの待うけつる甲斐もなく、飢たる色を見んも心うし。よしや、姿を替、何ものにもあれ、剝(はぎ)とりて設(まうけ)にせばや。』

と、おもひ、新八幡の鳥居なる木隱(こがく)れに、旅すがたのまゝにて、隱れ居たり。

[やぶちゃん注:「新八幡」同篠町篠の上中筋旧村社の篠村八幡宮(グーグル・マップ・データ航空写真)が鎮守の森とともに現存するので、この境内に新たに建てられたか、近隣の林に末社としてあったものであろう。この神社は中世史では足利尊氏縁りの神社として知られたもので、ウィキの「篠村八幡宮」によれば、『社伝や本殿の棟札によれば』、延久三(一〇七一)年に『勅宣によって源頼義が誉田八幡宮(大阪府羽曳野市)から勧請し』、『創建したとされ』、延久四(一〇七二)年五月十三日『付の頼義の社領寄進状も現存する。篠村の荘園は藤原氏によって開かれたものであったが、いつの頃からか源氏が相伝することになり、その荘園に勧請されたものとされる』。現在の主祭神は誉田別命(ほんだわけのみこと=応神天皇)で、仲哀天皇と神功皇后を合祀神とする。『当地は足利高氏(尊氏)が鎌倉幕府打倒の挙兵をした地として知られ、亀岡市指定史跡にも指定されている。高氏は』、元弘三(一三三三)年四月二十九日に『篠村八幡宮に戦勝祈願の願文を奉じ』、十『日間滞在したのち、六波羅探題を滅ぼして建武中興の礎を築いた。また後醍醐天皇と決別したのち』、建武三(一三三六)年一月参〇日に『京都攻防戦で敗れたため』、二月一日まで『篠村八幡宮で敗残の味方の兵を集めるとともに』、『社領を寄進して再起祈願を行なっている。そして尊氏は九州へ逃れ、体勢を立て直すと』、『京都に戻り』、『室町幕府を開くこととなる』のである。『現在も高氏(尊氏)旗揚げの願文(京都府指定文化財)や御判御教書(寄進状)が伝わるほか、境内には矢塚や旗立楊が残されている』。『本殿は一間社流造。境内には、高氏挙兵にまつわる「矢塚」が残』り、「太平記」によれば、『高氏は篠村八幡宮に願文とともに一本の鏑矢を供えたといい、多くの武将もそれに続けて供え、矢がうず高く積み上げられたという。矢塚は、これらの矢を埋納した場所とされ、塚上には椎の木が植えられている』とある(或いは、ここで拝殿に稲を積み上げて奉納しているのは神饌であると同時に、この矢奉納の再現かも知れない)。『尊氏にとっては』二『度の岐路で篠村八幡宮により大願が成就したことから』、貞和五(一三四九)年八月十日には『尊氏自身が当社にお礼参りをしたほか、歴代足利将軍からも多くの社領を寄進され、盛時にはその社域は篠の東西両村に渡ったという』。『この頃、別当職は醍醐寺三宝院門跡が務めていた』。『しかし、のちの応仁の乱や明智光秀の丹波侵攻によって社伝・社域の多くを失ったという』。『江戸時代に入り』。寛永年間(一六二四年~一六四三年)に『亀山城主・菅沼定芳によって本殿が改修され、以後』、『亀山城主の直轄神社として庇護された』とあるので、新はこの菅沼定芳の新本殿を称している可能性が高い(と言っても本書刊行は再建から八十七年後の宝永四(一七〇七)年ではあるが)。何故なら、次の冒頭に出る「やたつの森」は「矢立の森」で、以上の鎮守の森内の「矢塚」のことではないかとも思われるからである。しかも、以下で、与八が「矢を射かけられた」と言っているのもそれに合致するからである。則ち、本話にはこの篠村八幡宮に纏わる歴史的事実が強く作用しているのである。]

 与八は、又、此「やたつの森」に付たる田刈にて、拜殿に大ぶん、稻を刈(かり)つみけるを見置たれば、

『何てもあれ、今宵のまふけに、一、二荷(か)ぬすみとりて、食物にせんや。』

と思ひ立(たち)、枴(ほうこ)に繩をまきそへて打かたげ、夜中に過(すぎ)たる空の星あかりを侍つけて、宮(みや)の方へ步みけるを、小左衞門、よくすかして見るに、

[やぶちゃん注:「枴(ほうこ)」の歴史的仮名遣は「あふご」が正しい(現代仮名遣「おうご」。「おうこ」とも)。「朸」とも書き、物を担う天秤棒のこと。挿絵参照。]

『与八よ。』

と見るまゝに、日ごろ、心やすき中なれば、後より、そろそろと付て行[やぶちゃん注:「ゆき」。]、与八を目當(めあて)に石を打かけ、

「やれ、賊め。」

と、声をかけけるに、与八は小左衞門が邪興(じやけう[やぶちゃん注:ママ。])にするとは知らず、

『こは見付られしよ。』

と、心まどひ迯(にげ)て、森の方へ隱れんとせしを見て、小左衞門、いよいよ、可笑さに、

「やい、うろたへ者。我なるとは知らぬか、知らぬか。」

と、ひた物、小石を打かけて、追付(おひつく)やうにすれば、与八は、なをなを[やぶちゃん注:ママ。]、迯まどひ、かたはらなる柹(かき)の木に、

「ぼう。」

と行あたりける。

[やぶちゃん注:「ぼう」底本「ほう」。「ボン!」とぶち当たったオノマトペイア。]

 折しも、

『石、ひとつ、首筋の程へあたりしよ。』

と、おもへば、いかゞしたりけん、頭より血のながるゝやうに覺えて、心ち、あし。

 それは先[やぶちゃん注:「まづ」。]、手につきたる物も、腰なる手ぬぐひにて拭(のご)ひ、星の光りにすかし、神前の灯明(とうめう[やぶちゃん注:ママ。])にてよく見るに、疑もなき、

『血也。』

と思ふより、目まひ、しきりにして、一あしも引れねば、森の入口にて、

「どう。」

と仆(たほれ[やぶちゃん注:ママ。])たる所へ、小左衞門、はしり寄(より)、

「与八が。何とせしにや。」

と問(とは)れて、漸(やうやう)、息の下より、いひけるは、

「我、としごろ、神佛をあなどり、何もなき物と思ひこなして、宮寺(みやでら)の物、おほく盗みとりつゝ、世を渡る便(たより)とせし罪科(つみとが)、今といふ今、身に報ひて、拜殿の刈稻を盗まんと手を懸し所に、社の内より、聲をかけ給ふとおもひしが、あやまたず、白羽の矢、一筋きたりて、我首の骨を射ぬき、あれなる柹の木に射つけられしを、やうやう、迯(にげ)のびたりと思へど、今は、命、ながらふべきやうにも思はず、殊に所もあしければ、夜明(よあけ)て、人の目にかゝり、恥を得ては、いよいよの罪つくりぞかし。日ごろのよしみには、そなたが手にかけて殺してくれよ。」

と、苦しげにいふにぞ、小左衞門も、身の毛たち、おそろしくおぼえ、先、手をあてゝ与八が首すぢを探り見るに、いかにも、血にまみれつゝ、腦なども碎けるにか、肉なども、出たり。

「よしや、思ひきれ、与八。此疵にて、たすかる事、叶ふまじ。汝か跡は、念比(ねんごろ)にとぶらいてとらすべし。觀念せよ。」

と、一かたなに指殺(さしころ)して、歸りぬ。

 夜明て、聞ば[やぶちゃん注:「きけば」。]、

「何ものゝ仕業にや。与八は、宮の森に刺殺(さしころ)してあり。」

と、村中の取沙汰して、我も我もと、集(あつま)りて見るを、小左衞門も、何となく、行(ゆき)て、人の後(うしろ)より、のぞきてみるに、我手にかけし疵ばかりにて、与八が頭には、何の跡も、なし。

 餘りふしぎさに、近々と立寄(たちより)、おし動かして、よく見れば、彼(かの)柹の木に行あたりける時しも、上より、熟柿(じゆくし)一つ落(おち)て、頭(かしら)にあたり、潰れたるを、与八は心に雲りある氣から、白羽(しらは)の矢と思ひて、心よはくなり、我も罪の深きに、『「深手ぞ」と見付て、殺したる也』と合點する程、おそろしく、かなしく、

『これぞ、誠(まこと)の神罰にてありける。』

と、心におもひこみけるより、其場にて、小左衞門は、髻(もとゞり)切(きり)て、遁世し、四國・西國をめぐり、年をへて、二たび、國に歸り、此事をさんげしけるとぞ。

[やぶちゃん注:因みに、私は帰国して「さんげ」(懺悔:本邦では近世まで一貫して「ざんげ」ではなく「さんげ」である)をした(篠村八幡宮神官及び別当寺である醍醐寺三宝院へ出向いたものと思う)小左衛門は処罰されなかった可能性が高いと判断する。まず、与八は神饌を盗もうとした神仏をも畏れぬ悪逆の窃盗罪である(但し、これは未遂(準備を整えて宮に入り、実行行為に移っていたと判断されるから未遂犯である)であるが、死に臨んでの同様の余罪が多いことを白状しており、その自白(懺悔)は相応の価値はあると見做されるものの、寺社は彼の死に至る経緯については情状酌量の余地は持たないはずである)、小左衛門は追剥を計画するも、その与八を見つけて、その実行行為を中断しているから、未遂ではあっても情状酌量の余地がある。また、小左衛門が与八を刺殺したのは、被害者である与八の誤認による嘱託殺人(自殺幇助罪)に相当するものであるが、与八は死ぬ以外に道はない致命傷と誤認し、暗がりの中で、かく依頼されて小左衛門自身も同じく救い得ぬ重傷と迂闊にも誤認した訳で(但し、小左衛門には状況を今少し冷静に判断して与八の命を救うべき手だてがあったという点では非難されるべき有意な責任性はある)、しかも即座に遁世僧となり、西国を行脚して与八の冥福を弔い、而して帰郷し、事実を寺社に対して公的に懺悔した以上、三宝院(京都市伏見区醍醐にある真言宗醍醐派総本山醍醐寺の塔頭・大本山・門跡寺院にして真言宗系修験道当山派を統括する本山。しかも三宝院門跡は醍醐寺座主を兼ねており、真言宗醍醐派管長の猊座にあった)は彼を与八の殺人犯として訴え出ることはなく、寧ろ、懇ろに保護したと考えるのが至当と思うからである。]

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