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2019/08/17

諸国因果物語 巻之四 人形を火に燒てむくひし事

 

     人形を火に燒(たき)てむくひし事

Ningyou



 寛文のころまで世にもてはやされける說經太夫に、「日暮」といひし者は、たぐひなき譽(ほまれ)を殘して、今も片田舍のものは、折ふし、ことの物忘れぐさに、「しんとく丸」・「さんせう太夫」などいひて、愚なる祖母(うば)・口鼻(かゝ)を泣せ、頽廢(すたれ)たる音曲(をんぎよく)に頑(かたくな)なる耳を驚かす事にぞありける。

[やぶちゃん注:「寛文」一六六一年~一六七三年。第四代将軍徳川家綱の治世。

「說經太夫」中世に勃興して中世末から近世にかけて盛んに行われた語りもの芸能であった説経節(せっきょうぶし)を演じた芸能者。ウィキの「説経節」によれば、『仏教の唱導(説教)から唱導師が専門化され、声明(』しょうみょう:『梵唄)から派生した和讃や講式などを取り入れて、平曲の影響を受けて成立した民衆芸能である』。『近世にあっては、三味線の伴奏を得て洗練される一方、操り人形と提携して小屋掛けで演じられ、一時期、都市に生活する庶民の人気を博し』、京阪では万治(一六五八年~一六六〇年)から寛文(一六六一年~一六七二年)にかけて、江戸では遅れて元禄五(一六九二)年頃まで『がその最盛期であった』。『説経が唱門師(声聞師)らの手に渡って、ささらや鉦・鞨鼓(かっこ)を伴奏して門に立つようになったものを「門説経」(かどせっきょう)、修験者(山伏)の祭文と結びついたものを「説経祭文」(せっきょうさいもん)と呼んでおり』、『哀調をおびた歌いもの風のものを「歌説経」、ささらを伴奏楽器として用いるものを「簓説経」(ささらせっきょう)、操り人形と提携したものを「説経操り(せっきょうあやつり)」などとも称する』。『また、近世』(安土桃山時代)『以降に成立した、本来は別系統の芸能であった浄瑠璃の影響を受けた説経を「説経浄瑠璃」(せっきょうじょうるり)と称することがある』。『徹底した民衆性を特徴とし、「俊徳丸(信徳丸))」「小栗判官」「山椒大夫」などの演目が特に有名で、代表的な』五『曲をまとめて「五説経」と称する場合がある』とある。

「日暮」同前より引用。『説経の者は、中世にあっては「ささら乞食」とも呼ばれた』。『ささらとは、楽器というより』、『本来は洗浄用具であって、茶筅を長くしたような形状をしており、竹の先を細かく割ってつくり、左手で「ささら子」または「ささらの子」というギザギザの刻みをつけた細い棒でこすると「さっささらさら」と音のするものであるが、説経者はこれを伴奏にしたのである』。『北野天満宮、伊勢神宮、三十三間堂』『といった大寺社は、中世から近世初頭の日本にあっては「アジール」の機能を果たして』お『り、非日常的な空間としてさまざまな芸能活動がさかんにおこなわれる空間』であった。説教太夫もそうした中から生じ、発展していったものであった。『近世に入り、説経節は小屋掛けで操り人形とともに行われるようになり、都市大衆の人気を博した。戸外で行われる「歌説経」「門説経」から「説経座」という常設の小屋で営まれるようになった。浄瑠璃の影響を受け、伴奏楽器として三味線を用いるようになったのも、おそらくは劇場進出がきっかけで、国文学者の室木弥太郎は寛永』八(一六三一)年『より少し前を想定している』。また、「さんせう太夫」などの説経節の正本(しょうほん)に『のこる演目は、一話を語るにも』、『相当の時間を要し、かなり高度な力量を必要とした』『とりわけ後述する与七郎や七太夫などといった演者は第一級の芸能者であり、もはや、ただの乞食ではない』。『説経者の流派は、玉川派と日暮派が二分し、関東地方では玉川派、京阪では日暮派が太夫となったが、ともに近江の蝉丸神社』『の配下となり、その口宣を受けた』。『京都では、日暮林清らによって鉦鼓を伴奏とする歌念仏が行われていたが、この一派から』「日暮八太夫」や「日暮小太夫」を名跡とする説教者が登場し、『寛永以前から四条河原で説経操りを興行したと伝えられている』。『正本の刊行などから推定して』、『寛文年間が京都における説経操りの最盛期であったと考えられ、葉室頼業の日記(『葉室頼業記』)によれば、小太夫による』寛文四(一六六四)年の『説経操りは後水尾法皇の叡覧に浴すまでに至っている』。因みに、「日暮小太夫」の名跡自体はずっと後の宝暦(一七五一年~一七六四年)の頃まで続いたと『推定されている』。『説経操りは、大坂・京都を中心とする上方においては』、『義太夫節による人形浄瑠璃の圧倒的人気に押され』、江戸にくらべて早い時期に衰退してしまった。『浄瑠璃が近松門左衛門の脚本作品をはじめ、新機軸の作品を次々に発表して新しい時代の要請に応えたのに対し、説経操りは題材・曲節とも、あくまでもその古い形式にこだわった』結果であった。『上方についで名古屋でも説経操り芝居が演じられた。『尾張戯場事始』によれば』、寛文五(一六六五)年、『京都の日暮小太夫が名古屋尾頭町で説経操りを興行して』おり、『そのときの演目は「コスイ天王(五翠殿)、山桝太夫、愛護若、カルカヤ(苅萱)、小栗判官、俊徳丸、松浦長者、いけにえ(生贄)、小ざらし物語」と記載されており、曲目がこのように明瞭に残された記録は珍しい』とある。

「ことの物忘れぐさ」京阪の都市部では既に、後に出る通り、「頽廢(すたれ)たる音曲(をんぎよく)」となっていたから、日常中では、何となくもう忘れられてしまったような古い話及びその題名として。

「しんとく丸」「信德丸」。伝承上の人物を主人公とした「俊徳丸(しゅんとくまる)伝説」(高安長者伝説)を元にした語り物。ウィキの「俊徳丸」によれば、『河内国高安の長者の息子で、継母の呪いによって失明し落魄するが、恋仲にあった娘・乙姫の助けで四天王寺の観音に祈願することによって病が癒える、というのが伝説の筋で、この題材をもとに謡曲の』「弱法師(よろぼし)」、本説教節の「しんとく丸」、人形浄瑠璃や歌舞伎の「攝州合邦辻(せっしゅうがっぽうがつじ)」などが『おなじ説教節』の「愛護若(あいごのわか)」『との共通点も多い』とある。詳しく各種のシノプシスはリンク先を読まれたい。

「さんせう太夫」「安寿と厨子王」伝承や森鷗外の小説「山椒大夫」で知られる。ご存じとは思うが、ウィキの「安寿と厨子王丸」をリンクさせておく。

「口鼻(かゝ)」「嚊」(但し、「鼻息が荒いの意」であって、「母」の意はない)の字を分解したもの。「嬶」(「鼻息の荒い女」の意からできた国字)。「日本語俗語辞書」の「かかあ」の記載によれば、『妻や母に対する親しみを込めた呼び方』で、「はは」や「かか(さま)・かかあ・(おつ)かあ」は、古代には「蛇」の意味で使われていた「かか」が時代とともに転訛していき、庶民間で「母」や「妻」(自他ともに)という意味で使われた。古代に於いては「k」音と「h」音の発音が曖昧であったため、「かか」と「はは」の二種が定着したもとされている、とある。]

 されば、元祿十一年[やぶちゃん注:一六九八年。]の比迄、日暮小太夫という者ありて、美濃・尾張・因幡・筑紫など、いたらぬ所もなく、秋入の時節[やぶちゃん注:陰暦七月。]を窺、雨ごひの悅びを手つだいて、行脚のごとく、國々にめぐりて、說經をかたり、辻打(つじうち)の芝居に傀儡(でく)を舞(まは)して渡世(とせい)としけるが、それも、世くだり、人さかしく成て、如何なる國のはて、鄙(ひな)の長路(ながぢ)の口すさびにも、「あいごの若」などいふ、古びたる事をいはず、只、わつさりと、「時行歌(はやりうた)」・「角太夫ぶし」こそよけれ、と行(ゆく)も歸るも、耳をとらへ、顏をかたぶけて、「七(なゝ)小町」・「杉山兵衞」などゝいふものをしぼりあげ、又は、上がたへのぼりて纔(わづか)に「讀賣(よみうり)」・「歌びくに」などの口まねを、はしばし覺えて、日待の家、祝言(しうげん)の酒に長じて、

「今は、都にても、かゝる歌をこそ諷(うた)へ。」

と、我しりがほに頭をふり、聲をはりてどよめくに、一座の人は、何をいかにと、聞(きゝ)わけたる方もなけれど、

「ようよう。」

と、

「ほめや、いや。」

と。わめきて、說經を聞て、なぐさまんといふもなく、是にうつりて、たまさか、年よりし者の噂するもあれど、

「昔の小太夫は、上手にて、聞(きく)に、袂(たもと)をぬらさぬはなかりき。今の世の若き者どもの、たまたまにかたるは、說經ではなくて、居ざりの物貰ひが、節つけて、袖ごひするに、似たり。」

などゝいやかるに付て、渡世、おのづから、うとく、

「市がけの芝居にやとはれて、せめて人形づかひになりとも行ばや。」

と、かせげども、それも、今時の人形づかひは、「おやま五郞右門」が風ぞ、「手づま善左門」が流(りう)などゝ、さまざまの身ぶりを移し、中々に生(いき)たる人の如く、細やかに氣をつくして遣ふのみか、衣紋(ゑもん[やぶちゃん注:ママ。])といひ、髮形(かみがたち)其まゝの、人形と見えぬを手がらに、「我、一[やぶちゃん注:「われ、いち」。]」と、たしなむほどに、それも望[やぶちゃん注:「のぞみ」。]たへて、次第につまり行、身過(みすぎ)のたね、今は何喰(くふ)べき便(たより)もなく、衰(おとろへ)ゆくに任せて、恥をすて、顏を隱して、袖ごひを仕(し)ありき、今迄、たばひ置し、人形の衣裳を剝(はぎ)て「守袋(まもりぶくろ)」・「けぬき入[やぶちゃん注:「毛拔き入れ」。]」の切(きれ)に賣(うり)、あか裸の人形を相割(わり)て、火に燒(たき)、雪の夜嵐(よあらし)の朝(あした)、石竃(いしくど)にまたがりて、尻をあぶり、食(めし)を燒(たき)て打くらひ、今まで此影(かげ)にて何ほどの身をたすかり、妻子をはぐゝみし恩を思はず、手あしをもぎて、楊枝につかひ、きせるをさらへなどしけるが、中にも、「おやま人形」一つは殘して、在々所々へ持まはり、「地藏の道行」など、やうやうに諷(うた)ひ舞(まは)せて、袖ごひのたねとしけれども、かゝる零落のみぎりには、する程の事、心にたがひて、一人の口にだに、たらぬ米の溜りやうなれば、歸りて、そのまゝ、此人形を石に投付(なげつけ)、足にかけて蹴とばし、人形の科(とが)のやうに恨(うらみ)のゝしりける事、およそ半年ばかり也。

[やぶちゃん注:「傀儡(でく)」操り人形。「木偶(でく)の坊」。もとは平安時代の「傀儡(くぐつ)」という木彫りの操り人形のこと。人形が「木偶の坊」(「坊」は「小さな人」の意であろう)と呼ばれるようになった由来は、「でくるぼう」とも言われたことから、「出狂坊(でくるひぼう)」を語源とする説や、「手くぐつ」が訛った「でくる」からなどが有力とされるが、正確な語源は未詳である。

「あいごの若」「愛護の若(わか)」。古い説経節の曲名。また、その主人公。万治四(一六六一)年以前に成立。長谷観音の申し子の「愛護の若」は、継母によ、り盗人の汚名を着せられて自殺するが、後、山王権現として祀られるストーリー。この題材は浄瑠璃や歌舞伎などの一系統として発展した(小学館「大辞泉」に拠る)。

「角太夫ぶし」「角太夫節(かくだいふぶし(かくだゆうぶし))」。古浄瑠璃の一派。寛文(一六六一年~一六七三年)頃に京都で山本角太夫(後に土佐掾(とさのじょう)を名乗る)が創始した。この派から「文弥節(ぶんやぶし)」が生まれた。「土佐節」とも呼ぶ。

「七なゝ小町」小野小町の伝説に取材した七つの謡曲及びそこから派生した芸能の総称。謡曲のそれは「草子洗小町」・「通(かよい)小町・「鸚鵡小町」・「卒都婆(そとば)小町」・「関寺小町」・「清水小町」・「雨乞小町」の七曲で、それに基づく浄瑠璃・歌舞伎・歌謡などが生れた。

「杉山兵衞」もとは「天下一石見掾藤原重信(天満八太夫)」を正本とする説経節。延宝(一六七三年~一六八一年)から元禄(一六八八年~一七〇四年)頃に成立。大津にある石山寺の十一面観音の本地を、蓮花上人の生涯を通して説く物語。ブログ「猿八座 渡部八太夫古説経・古浄瑠璃の世界」の「忘れ去られた物語たち 15 説経石山記(蓮花上人伝記) ①」以下六回に亙って詳細なシノプシスが載る。それによれば、「杉山兵衞」はこの蓮花上人の俗名で、明徳(一三九〇年~一三九三年:足利義満の治世)頃の、もと近江の国高嶋郡(滋賀県高島市)の「杉山兵衛の尉」、紀州の藤白(和歌山県海南市藤白)にいた猛悪無道の荒くれ者で「下河辺弾正左衛門国光(しもこうべだんじょうさえもんくにみつ)」と称した人物とある。ここはそれを発展させた古浄瑠璃「江州杉山兵衛国替付(つけた)り石山開帳之事」の後であろう。

「讀賣(よみうり)」江戸時代、世間の出来事を摺り物とした瓦版を面白く読み聞かせながら、街を売り歩いたもの。唄本なども売り歩き、後には、二人一組みとなって連節(つれぶし)で売って回った。幕末には長編の事件物も売られ、明治の演歌師に引き継がれた(小学館「日本国語大辞典」に拠る)。

「歌びくに」近世の下級宗教芸能者。中世の遊行宗教者である熊野の「絵解(えとき)比丘尼」や「勧進比丘尼」が零落したもので、ビンザサラを伴奏とした小歌などを唄い、盛場に出て、売色を専らとしたが、春になると、無紋の地味な小袖に幅広帯を前に結び、黒木綿を折った帽子を頭に、脇に箱を抱え、柄杓を持った小比丘尼を連れて、勧進に出た。江戸中期には年の過ぎた者が「御寮(おりょう)」と称し、山伏などを夫に持って、江戸浅草などで「比丘尼屋」を出し、売色をして繁盛したが、天明年間(一七八一年~一七八九年ま)以降、次第に廃れた(平凡社「世界大百科事典」)。

「日待」集落の者が集まって信仰的な集会を開き、一夜を眠らないで籠り明かすこと。「まち」は本来は「まつり(祭)」と同語源であるが、後に「待ち」と解したため、日の出を待ち拝む意に転じた。期日として正月の例が多い。但し、転じて単に仲間の飲食する機会をいうところがあり、休日の意とするところもある。

「居ざり」躄(いざり)。

「おやま五郞右門」義太夫節の創始者で初世竹本義太夫(慶安四(一六五一)年~正徳四(一七一四)年)。始め五郎兵衛、次いで清水(きよみず)五郎兵衛,清水理(利)太夫から竹本義太夫となり、やがて受領(ずりょう)して竹本筑後掾と称した。大坂天王寺村の農民であったが,清水理兵衛(井上播磨掾門下で,近くで料亭を営み「今播磨」と呼ばれた)の門に入り、さらに、京都で人気の宇治嘉太夫(宇治加賀掾)のワキを語った。四条河原での独立興行に失敗、中国筋巡業の後、貞享元(一六八四)年、道頓堀に竹本座を建て、旗揚げし、「世継曽我」を手始めに、「藍染川」「以呂波物語」を興行して成功した。翌年の新暦採用に際し、加賀掾は下坂して井原西鶴作「暦」を上演、一方、義太夫は「賢女手習并新暦」で対抗して好評を得た。次いで、加賀掾は西鶴作「凱陣八島(かいじんやしま)」を出し、近松門左衛門作「出世景清」を演じる義太夫を圧しだしたところ、芝居から火を発したため、加賀掾は京都へ帰ってしまう。これ以後、大坂における義太夫の地盤は固まり、元禄一一(一六九八)年には竹本筑後掾藤原博教を受領、また元禄一六(一七〇三)年の世話物第一作「曽根崎心中」が大当りし、積年の借財を一気に返済し得たと伝えられている。宝永二(一七〇五)年からは、竹田出雲が座本となって竹本座の経営に当たり、近松門左衛門を座付作者に迎えて、「丹波与作待夜のこむろぶし」「傾城反魂香」「堀川波鼓(ほりかわなみのつづみ)」「嫗山姥(こもちやまんば)」などの名作を上演していった。音声は大音で、生涯に百三十編余の作品と多数の門弟を残した。なお、二世は大坂の生れで、初世義太夫に師事し、近松晩年の世話物などを初演し、「竹本政太夫」を名乗ったが、享保一九(一七三四)年に二世義太夫を襲名、翌年、竹本上総少掾を受領し、のち竹本播磨少掾を再受領しているが、ここは初世でよかろう。「おやま」は人形浄瑠璃で女役の人形のこと。語源はいろいろ説があるが,承応(一六五二年~一六五五年)頃に活躍した女役の人形遣小山次郎三郎の「小山人形」から出たとするのが有力である。ここは竹本義太夫の「おやま」の「クドキ」を真似たことを言うのであろう。

「手づま善左門」「手づま」は「手妻人形」で浄瑠璃の手遣人形の一つ。引き糸により、顔面の変化や五体の一部の早替わりなどの出来る人形。からくりの併用によって、元禄から享保(一六八八年~一七三六年)頃にかけて流行し、大坂の人形遣山本飛騨掾が特に知られた。「善左門」は不詳。

「地藏の道行」江戸初期の遊里を中心として流行した歌謡の一つ。座敷浄瑠璃と称されるものの一つで、謡物に近く、江戸浄瑠璃の初期の姿が窺がわれる。]

 此心いれなれば、いよいよ、乞食し、いよいよ、短氣になりて、ある日の事なるに、朝(あさ)より暮迄ありきけれども、米一つかみ、麥一つふさへもらはず、いたづらにありきくらして、すでに渴(かつへ)に及びけるまゝ、大きに腹だちて、此人形を踏(ふみ)たり、蹴(け)たり、石を以て、さんざんに打敲(たゝき)、なを[やぶちゃん注:ママ。]、あきたらずや有けん、目より高くさしあげ、力にまかせて投げるいきほひに、道々、拾ひためたりし木切・竹の枝・捨薦(すてこも)などを火にたき、菜のはを水に煮て食せんとおもひて燒(たき)たてし炎の中へ、

「ほう。」

と打こみければ、衣裳も、髮も、たまらず、

「めらめら。」

と、やけける間、

「よしよし。是も、ましに、なまじいに、おのれを賴にしてありくゆへ[やぶちゃん注:ママ。]、腹立(はらたつ)事もある也。よいきみ。」

と、いひつゝ、猶、あしにてふみこみけるに、此人形の首、さかんに燃る時、

「ぱちぱち。」

と鳴音(なるおと)して、二つに割(われ)て、飛(とぶ)とぞ、見えしが、その片割(かたわれ)の火、小太夫がむないたに、

「ひし。」

と、取つきぬ。

[やぶちゃん注:「ましに、なまじいに」なまじっか、ますます。]

 あつさ、堪がたく苦しければ、あわてゝ、此火をはらひ落さんとするに、あをたれて[やぶちゃん注:ママ。「煽(あふ)られて」か。]、いよいよ、おこり、いよいよ、焦(こげ)いりけるまゝに、せんかたなく、其ほとりにありける小川へはしり行て、

『水をかゝらばや。』[やぶちゃん注:ママ。]

と思ひ、息をきりて、走り行とて、㙒中の井戶へ、まつさかさまに踏(ふみ)はづして、落(おち)たり。

 此きほひに、つみたる石の井戶側(がわ[やぶちゃん注:ママ。])、くずれて、なんなく、小太夫は、生(いき)ながら、埋(うづ)まれて、死たりとぞ。

[やぶちゃん注:人形浄瑠璃好きの私としてはこの結末は快哉。挿絵も強力に本文を外れて幻想的でオリジナルにいい。]

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