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2019/08/16

諸国因果物語 巻之四 死たる子立山より言傳せし事

 

     死(しゝ)たる子立山より言傳(ことづて)せし事

Tateyamanokotodute



 京都六条の寺内(じない)に木綿(もめん)かせを賣ける市左衞門といふ者、むす子一人あり、市之介といひける。親市左衞門は淨土宗にて、殊外の信心者なり。年毎の山上(さんじやう)も、袈裟筋(けさすぢ)を繼(つぎ)て、大峯(おほみね)にわけいり、若王(にやくわう)寺の補任(ぶにん)も數通(すつう)さづかり、本山の先達(せんだち)となり、又は、水無月の大河(おほかわ[やぶちゃん注:ママ。])を勤(つとめ)て、冨士の山上(せんじやう)も、二、三度に及びぬ。其外、諸寺の靈佛開帳の名尊(めいそん)あると、ある事にかゝりて報謝をなし、寄進を心にかけ、人をも勸(すゝめ)、我も隙(ひま)を盡し、隨分の作善(さぜん)をいとなみける。

[やぶちゃん注:「京都六条の寺内(じない)」「寺内町(じないちょう/まち)は、ウィキの「寺内町」によれば、『室町時代に浄土真宗などの仏教寺院、道場(御坊)を中心に形成された自治集落のこと。濠や土塁で囲まれるなど防御的性格を持ち、信者、商工業者などが集住した』。『寺内町は自治特権を主張または獲得し経済的に有利な立場を得た。これらの特権は』、一五三〇年代(享禄三年~天文八年)に『大坂の石山本願寺』(現在の大阪城本丸の場所にあった浄土真宗の本山。現在は廃寺。明応五(一四九六)年に蓮如が建立、天文元(一五三二)年に山科本願寺が焼かれて後、証如がここを本願寺とした。織田信長と対立し、天正八(一五八〇)年に降伏し、退去の際に焼失した)『が管領細川晴元から「諸公事免除(守護代などがかけてくる経済的あるいは人的負担の免除)」「徳政不可」などの権限を得たことが始まりとされる。また、以後』、『これらの特権を「大坂並」とも言うようになった。寺内町がこれらの特権の維持を図って』、『一揆を起こすこともあった』。『商業地である門前町とは異なる』とある。さて、この「寺内」を浄土真宗の西本願寺の寺内町(そこでよいとするならば、個人サイト「古い町並を歩く」の「京都市西本願寺寺内町の町並み」に詳しい。地図もある。それによれば、現在の西本願寺境内外の六条から七条の間の南北に当たる。そう思われる方は以下は無用となるが、私はそれを採らない)ととっても問題はないとは言えるが(浄土真宗とは本来は親鸞が、『師法然の浄土宗の「真」(まこと)の教え』という一般名詞で用いた語で、浄土宗と別個な宗派を指すわけではなかったからである)、あくまで浄土真宗の寺ではなく、浄土宗に拘るとならば、浄土宗で、京都の「六条通」にある現存する知られた寺としては、下京区本塩竈町六条上ル本塩竈町富小路通にある知恩院(京都市東山区)を本山(本文の「本山」はそれでとる)とする負別山(ふべつざん)蓮光寺が挙げられる(グーグル・マップ・データ。以下同じ)。

「木綿(もめん)かせ」「かせ」は「桛」「綛」などと漢字表記し、紡(つむ)いだ糸(ここは木綿)を、巻き取るためのH型・X型をした道具のこと。

「年毎の山上(さんじやう)」「大峯(おほみね)」奈良県の南部にある大峰山(おおみねさん)か。古くから、山岳信仰や神仙思想・道教・仏教の修行と習合した修験道のメッカである。

「若王(にやくわう)寺」読みとの一致を採るだけならば、滋賀県大津市大石中にある浄土宗金剛山大日院若王寺(にやくおうじ)であるが、特にこの寺が浄土宗門で特別な位置にあった事実は見出せない(この書き方はそういう寺であるとしか読めない)から、違うか。

「補任(ぶにん)」寺社などが、回峰祈誓を実務担当者に託した補任状のことであろう。

「水無月の大河(おほかわ)」不詳。陰暦六月に行われる浄土宗門の何らかの法会の実務主幹か。因みに、現在の知恩院では、法然が師と仰いた初唐の名僧善導大師の忌日法要(祥月命日は三月十四日であるが、知恩院では何故か)を六月中旬に行ってはいる。但し、これがそれだと私は言っているわけではない。識者の御教授を乞うものである。]

 其子市之介をも、十三の歲より、大河をつとめさせ、山上させ、商(あきなひ)のひまには、ともに佛事を手つだはせけるに、元祿十四の年[やぶちゃん注:一七〇一年。]卯月はじめつかたより、時疫(じえき)[やぶちゃん注:流行病。]を煩ひ、もつての外に重り、十死一生と見えけるほどに、一人子なりしかば、父母の悲しみ、尋常(よのつね)ならず、

「何とぞして、此たびの病氣、ほんぷく。」

とて、まどひ、我々の命に替(かへ)ても取とめたく思はれ、あるとある療治、さまざまの祈禱を盡し、昼夜(ちうや)、まくらもとも離れず、看病しけるに、其となりは、又、日蓮宗の信者にて、何事にも、「法花經」ならで功能(くのう)あるものなしと、深くおもひ込し人也ければ、市之介が病氣を見舞ながら來りて、さまざまと勸(すゝめ)こみつゝ、

「此經をたもち、此宗に入る人は、一さいの惡病・厄難もなやます事、あたはず。たとへば、此心を『陀羅尼品(だらにぼん)』に說(とき)給ひし旨をもつて申さば、「『若不順我呪惱亂說法者頭破作(にやくぶじゆんがじゆなうらんせつほうしやづさ)七分(ぶん)』と、仏も、のたまひけり。此心は、『若(もし)、我(わが)此經、意(い)を讚(ほめ)て眞言(しんごん)を述(のべ)し心に違(たが)ひ、此妙法を說(とかん)ものを惱(なやま)し亂(みだり)て障㝵(しやうげ)[やぶちゃん注:既出。「障碍」に同じい。]せば、頭(かしら)より十羅刹女(らせつによ)の手にかけ、七分(ぶん)に破(やぶり)くだき、父母を殺し、人をあざむくに、二舛(ふたます[やぶちゃん注:ママ。])をつかひ、僧を破却(はきやく)せし是らの罪どもを一つにしたる程の殃(わざはひ)をさづくべし』と也。我[やぶちゃん注:話し相手を指す二人称。市左衛門のこと。]、此すゝめを聞て、市之介を日蓮宗になし給はゞ、早速、病氣も平癒し給ふべし。」

と、かきくどきけるにぞ、親の身の悲しき、子を思ふ闇にまよふ心から、

「さらば、受法させて給(たべ)。」

と、曼荼羅を守りにかけさせ、題目をとなへさせなどして、さまざまに氣を盡しけれども、定業(ぢやうごう[やぶちゃん注:ママ。])にやありけん、十八の正月といふに、眠れるが如くして、終に、あだし㙒のけぶりと立のぼりぬ。

[やぶちゃん注:「陀羅尼品(だらにぼん)」「妙法蓮華経陀羅尼品第二十六」のこと。「島根龍泉寺龍珠会」公式サイト内のこちらによれば、「陀羅尼品」(リンク先では「だらにほん」と清音表記である)は、「法華経」を『弘めるにあたって必ずや遭遇するであろうさまざまな迫害や災難を、二人の菩薩と二人の天王と十人の羅刹(らせつ)が秘密神呪(ひみつじんじゅ)をもって守護するということを表明した』ものであるとし、『陀羅尼というのは、インドの古い言葉のダーラニーを音写したもので、一字一字の意味はない。あえて漢訳すれば』、「『すべてをよく保持して忘れないということ』」の意から、「総持(そうじ)」、『あるいはまた』、『悪法をよくさえぎることから』、「能遮(のうしゃ)」とも『訳される。しかし、もともとこの陀羅尼というのは』、『一種の秘密の言葉』、『いわゆる』、『呪文として考えられ、これをただ口にして唱えるだけで、さまざまな障害を除き、数々の功徳が得られると信じられている』とある。その『大意』は『法華経を受持する者を守護するために、薬王(やくおう)菩薩・勇施(ゆうぜ)菩薩・毘沙門天王(びしゃもんてんのう)・持国天王(じこくてんのう)・十羅刹女(じゅうらせつにょ)及び鬼子母神(きしぼじん)等がそれぞれ咒文(じゅもん)を説かれた。つまり、本品では、迷いと動揺に対し、守護と咒文をもって応えたものと言える』とする。また『陀羅尼には次の四つの力がある』とあって。『病を直す力』・『法を護る力』・『罪を滅す力』・『悟りを得る力』で、『このように、陀羅尼には病気を治す力があり、正法を守護する力があり、人間がつくるさまざまな罪を滅してくれ、そうして最後に悟りを得させてくれる、そういう力があるという』とある。

「若不順我呪惱亂說法者頭破作七分」中文(繁体字)のサイト「千佛山全珠資訊網」の「妙法蓮華經午疑―陀羅尼品第二十六」の最後に(一部表記を改めてある)、

   *

卽於佛前、而說偈言、

若不順我呪  惱亂說法者

頭破作七分  如阿梨樹枝

如殺父母罪  亦如壓油殃

斗秤欺誑人  調達破僧罪

犯此法師者  當獲如是殃

   *

ここに出る文字列と全く同じものを見出だせる。この「陀羅尼品」は、こちらで詳細な現代日本語訳がなされており、そこを拾って(ややダブりが多いので)少し書き変えてみると、

  《引用補足合成開始》

一心に呪を説いて、

「法華経」を受持し、読誦する法師を守護しようとする精神に逆らい、説法者を悩ます者があれば、

その者は罪の報いとして、頭が阿犂樹(ありじゅ)の枝の如く裂けるであろう。阿犂樹の木は、強い風で枝が折れてしまうとき、七分八裂して地に落ちるように、その者の頭が、阿犂樹の枝の如く、裂き割れてしまう。

羅刹女や鬼子母が唱えた呪は、「法華経」の説法者を悩ます者の罪は父母を殺する罪と同じ大罪(たいざい)を犯すことだから、「油を圧(お)す殃(つみ)」と同じだ(昔のインドで自分勝手な非常に悪い譬えとして語られていた用語。当時のインドでは油を絞るとき、原料の植物の上に重し石を置いて造ったが、その原料に虫が湧く。丁度、良い重しの石は虫を圧し潰さないので美味しい油が出来るが、この重し加減が悪いと、虫は圧し潰されて死んで不味(まづ)い油が出来上がることにより、「他の生命を尊重せず、自分だけ良ければいい」という行為を強く戒めた譬えである)。

秤(はかり:目方や量)を誤魔化して人を騙(だま)す罪も、同じような重い罪である。

信仰者の共同体である「僧伽(さんが)」の和合を打ち壊すことは 非常に大きな罪なのである。

「法華経」の説法者を悩乱させる者の罪は、以上のような大罪に等しいのである。

  《引用補足合成終了》

という謂いと考えてよかろう。また、「教えのやさしい解説」『大白法』五百十四号「若悩乱者頭破七分(にゃくのうらんしゃずはしちぶ)」というページに(『大白法(だいびゃくほう)』とは日蓮正宗法華講本部の機関紙である)、「若悩乱者頭破七分 有(う)供養者福過(ふっか)十号」という言葉を解説して、『「若悩乱者頭破七分」とは正法(しょうぼう)誹謗(ひぼう)の罰(ばち)をいい、「有供養者福過十号」とは正法受持の功徳をいいます』。『「若悩乱者頭破七分」は、妙楽大師の『法華文句(もんぐ)記(き)』に説かれた文(もん)で、「若(も)し悩乱する者は頭(こうべ)七分(しちぶ)に破(わ)る」と読みます。これは法華経『陀羅尼品(だらにほん)』に、「若し我(わ)が咒(しゅ)に順ぜずして 説法者を悩乱せば 頭破れて七分に作(な)ること 阿梨樹(ありじゅ)の枝の如くならん」(新編法華経』『)と示される、法華経の行者を悩乱する者の頭を鬼子母神(きしもじん)・十羅刹女(じゅうらせつにょ)が阿梨樹の枝のように破る、との誓いを釈(しゃく)した文です』。『また『種々御振舞御書』に』、『「頭破作七分と申すは或(あるい)は心破作(しんはさ)七分とも申して、頂(いただき)の皮の底にある骨のひゞたぶるなり。死ぬる時はわるゝ事もあり(中略)これは法華経の行者をそ(謗)しりしゆへにあたりし罰(ばち)とはし(知)らずや」(御書』『)とあるように、「頭破七分」は「心破作七分」ともいいます。日蓮大聖人は、三大秘法の大御本尊および大御本尊を信ずる人を誹謗する者は、頭(あたま)が破(わ)れ、心(精神)が錯乱(さくらん)すると御教示(ごきょうじ)されています』。(中略)『『御本尊七箇之(しちかの)相承』に、「本尊書写の事、予(よ)が顕わし奉るが如くなるべし。若し日蓮御判(ごはん)と書かずんば』、『天神・地神もよも用(もち)い給わざらん。上行(じょうぎょう)・無辺行(むへんぎょう)と持国(じこく)と浄行(じょうぎょう)・安立行(あんりゅうぎょう)と毘沙門(びしゃもん)との間には、若悩乱者頭破七分有供養者福過十号と之(こ)れを書く可(べ)し。経中の明文(みょうもん)等心(こころ)に任(まか)す可(べ)きか」(日蓮正宗聖典』『)『と御相伝(ごそうでん)のように、両文(りょうもん)は、御本尊の右肩(みぎかた)と左肩にそれぞれ認(したた)められています』(以下略)とあることで、以上から本文の意味は概ね理解できるものと思う。

「二舛(ふたます)をつかひ」そもそもこの「舛」という漢字は「ます」とは読めないことに注意しなくてはならない。「舛」は「枡」ではない。「舛」は「背く・違(たが)う・悖(もと)る」或いは「入り混じる・交り乱れる」の意である。先の中文サイトの「斗秤欺誑人」の「斗秤」(合成引用の「秤(はかり)を誤魔化して人を騙(だま)す」の部分)を鷺水が勝手に解釈(誤訳)してしまったものと推定される。

 二親の歎き、いふばかりなく、明暮、こひこがれ、なきかなしみ、たもとのかはく間もなけれども、いひかひなき事ともなれば、香花の手(た)むけ、心ゆくばかりして、二七日[やぶちゃん注:「ふたなぬか」。十四日。]も過(すぎ)ぬ。

 かゝる所へ、冨士先達の同行なりける人、久しき望(のぞみ)にて、白山・立山の山上を心がけ、彌生のすゑより、思ひたちて、先(まづ)、加州の白山に詣(まふで)、かへるさに、立山を仕舞、樣子よくば、すぐにこれゟ冨士にも、と心がけ、立山にかゝりけるに、山上の、思ひがけもなき所にて、市之介に逢(あひ)たり。

 見れば、さのみ拵(こしらへ)たる旅すがたにもあらず、かろらかなる風流(ふり)して、此先達を見つけ、なつかしげに近より、

「我、此程は冨士山上(せんじやう)いたし、これより立山を拜みにと、すぐに思ひ立[やぶちゃん注:「たち」。]しにまかせ、爰(こゝ)まで、やうやうと參りし也。なを[やぶちゃん注:ママ。]白山・湯殿山なども心にくければ、つゐでに[やぶちゃん注:ママ。「序でに」。]參詣せばやと思ふに付て、故鄕(ふるさと)へ言傳(ことづて)たき物の侍る。これ、參らせん。」

とて、小き紙につゝみたる物一つと、あわせの袖をすこし、おし切て、渡し、道のほど、日數(かず)をつもりたる旅なれば、急ぎ申也。かまへて、よく淚し給り候へ。」

と、いひて、別れぬ。

[やぶちゃん注:「よく淚し給り候へ」聴きなれない言い方であるが、「どうか、格別に、我らとの別れを惜しんで下されませ」という意であろう。霊の別れの言葉となら、不思議ではない。]

此先達、此おりふし、歸り着て、まづ、彼(かの)市左衞門かたへ立より、

「扨も。是の市之介は、若き人の、奇特(きどく)に信心を發して、しかも一人旅と見えつるが、立山にて、逢たり。よくぞ心ざしをたすけて、祕藏子ともいはず、參らせ給ひし。」

などゝ、褒(ほめ)あげ、さて、件(くだん)の言傳(ことづて)し紙つゝみを渡しけるにぞ、人めをも、恥も、二人の親は、聲をあげて泣さけびつゝ、

「羨(うらやま)しや、是下(そこ)には、市之介に、あひ給ひしよな。我は分れてより、夢にだに見ず。戀し戀しと思ふ餘りには、命を仏に奉りても、來世に逢(あふ)と賴みさへあらば、と願ふ方には、つれなくて、此うき便(たより)を聞(きく)事よ。」

と、泣(なき)かなしみけるにぞ、

「扨は。市之介は死(しに)けるか。亡魂(ぼうこん)の出むかひて、我に詞をかはしけるも、心こそあらめ、先、その物、ひらきて見たまへ。」

と、すゝめられ、紙つゝみを、なくなく、開きて見けるに、市之介の末期(まつご)にいたりて、珠數(じゆず)きらせける時、かけさせつる題目の曼荼羅なりけり。

 扨、立山にておし切(きり)て添つる袷(あはせ)の袖は、死するまで着せたりし袷の袖。

 いかにしてか、袖下の切(きれ)たりしとおもひしも、今、引合せて見るに、

「これも、正(まさ)しく、亡者の態(わざ)よ。」

と、思ひしりぬ。

「さては心にもあらぬ事に、むざとは、宗旨をも替まじき事にこそ。」

と、其後は、ひとへに淨土宗門のとぶらひをなしける。

[やぶちゃん注:題目(南無妙法蓮華経)を書いた曼荼羅(挿絵にあるそれ。そこでは左右に梵字の種子(しゅじ)が見え、左は「カ」(地蔵菩薩或いは五大の「風(ふう)」)に近く、右は「キャ」(十一面観音)に近い。まあ、絵師がいい加減に入れたものではあろう。題目の髯文字も上手くないから、絵師は日蓮宗ではない)真言宗などで言うものとは異なるもので、日蓮が始めた題目曼荼羅のこと。題目の周囲に漢字或いは梵字で記された如来・菩薩・仏弟子天台系名学僧或いはインド・中国・日本の神々の名号などを配した、日蓮宗系の諸派で本尊として使用される。「法華経」の世界を図や名号などで表わした「法華曼荼羅」の一種である)を霊となって諸霊山回峰をする市介が返してよこしたということは、それは霊としての彼には意味のないものであったからにほかならない。それが真に有効で霊験あらたかなものであるなら、霊はそれを持ったままで霊としての回峰を続けるはずであるからである。則ち、市之介は日蓮宗の題目曼荼羅を断固拒否したのである(「袖」は、言わずもがな、本人認証の証しである)。また、市之介は、何故、この現世で霊峰登山をしているのかを考えてみるに、まず、彼はこの世にあって迷っているのではないということである。万一そうだったら、彼は霊峰巡りなどは以ての外で、寧ろ、立山の地獄谷で熱湯に煮られているのが関の山となるからである。ということは、彼は極楽往生した後、衆生を済度するために、現世へ戻って回峰していると読むべきであろう。これは所謂、中国の浄土教に於いて、南北朝時代の僧で中国浄土教の開祖とされる曇鸞が「浄土論註」の巻下で説いた、「回向」の二種、「往相(おうそう)回向」と「還相(げんそう)回向」の後者であると私は読むのである。前者が自他の区別をなくして、誰しも皆ともに浄土に往生するもので、対する「還相回向」とは「還来穢国の相状」の略で、浄土へ往生した者が、再び、この世で衆生を救うために、敢えて還りきたる行為を指し、これらは阿弥陀如来の本願力の回向による絶対他力によるものとするのである。即ち、市之介は浄土宗の最も至高の存在となって戻ってきたのであると私は思うのである。それを知ったからこそ、父市左衛門も、再び、浄土宗に戻ったのである。無論、本篇から見ても、筆者青木鷺水は浄土宗の信者であったものと考えてよいように思われる。

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