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2019/08/26

赤い婚禮 小泉八雲(LAFCADIO HEARN)(戸澤正保訳)

 

[やぶちゃん注:本作(原題は“THE RED BRIDAL”)は明治二八(一八九五)年にボストン及びニュー・ヨークの「ホートン・ミフリン社」(BOSTON AND NEW YORK HOUGHTON MIFFLIN COMPANY)から出版された作品集“OUT OF THE EAST:Reveries and Studies in New Japan”」(「東方の国から――新日本に於ける夢想と研究――」:来日後の第二作品集)の第八章(大見出しナンバー)に配された作品である。同作の原文は、「Internet Archive」のこちらから原本当該作画像が、活字化されたものは「The Project Gutenberg」のここの“VIII The Red Bridal”で読める(後者冒頭の目次の“BED”は誤字)。なお、私が標題に小泉八雲の元の名(正確には Patrick Lafcadio Hearn)の名を添えた理由は、本書刊行時は未だ「小泉八雲」を名乗っていないからで、それについては先に公開した「生と死の斷片 小泉八雲(LAFCADIO HEARN)(田部隆次訳)」の私の冒頭注を見られたい。【2020年1月12日追記】なお、本篇は本作品集以前に、『大西洋評論』(Atlantic Monthly)の前年の一八九四年七月号が初出である。

 底本は、サイト「しみじみと朗読に聴き入りたい」の別館内のこちらにある、昭和二五(一九五〇)年新潮文庫刊の古谷綱武編「小泉八雲集 下巻」の「赤い婚禮」(PDF)を視認した。但し、同サイトではこれを田部隆次訳のパートに入れてあるが、PDF自体の本篇最後に『戶澤正保譯』とあり、サイト主の誤りである。

 訳者戶澤正保(明治六(一八七三)年~昭和三〇(一九五五)年:パブリック・ドメイン)はイギリス文学者。東京外国語学校校長。「姑射」の号でシェイクスピア作品の翻訳を浅野馮虚(ひょうきょ)とともに手がけ、「沙翁(さおう)全集」を刊行したことで知られる。茨城県生まれ。菊池庸の二男であったが、戸沢正之の養子となった。明治三二(一八九九)年に東京帝国大学文科大学英文科を卒業(これから見て小泉八雲の教えを受けた可能性が高い)、大学院に進学、明治三五(一九〇二)年に山口高等学校教授となり、明治四〇(一九〇七)年からは嘗て小泉八雲や夏目漱石が罪人した第五高等学校教授を務めた。イギリス留学を経て、再び山口高等学校教授となり、昭和四(一九二九)年に弘前高等学校校長に就任、昭和七(一九三二)年、東京外国語学校校長に転じ、昭和一三(一九三八)年退官(以上はウィキの「戸沢正保」及び講談社「日本人名大辞典」などを参照した)。底本では「戸沢」ではなく「戶澤」と表記している。

 一部で私の注を当該段落の後或いは文中に禁欲的に附した。]

 

 

    赤 い 婚 禮

 

 一と目で戀をする事は日本では西洋で程普通でない、其理由(わけ)は一つは東洋の社會の特殊な組織からで、一つは兩親の執成(とりなし)で、戀の悲みを知らぬ中に早く結婚するからである。然るに一方に戀故の自殺は餘り珍らしくもない、ただ其場合は大低二人一緒であるといふ特殊性がある。且又大抵は不義の關係の結果と考へられる。でも正直な勇敢な除外例もある。そしてそれは普通田舍に多い。そんな悲劇の戀は最も無邪氣な、自然な、幼馴染(をさななじみ)から突然發展したものなどで、尋ぬれば二人の幼年時代に溯る歷史を有(も)つのがある。併しそんな時でも西洋の情死と日本の情死との間には、甚だ奇妙な相違がある。日本の情死は苦惱から起こる盲目な急速な狂氣の結果ではない。冷靜で秩序ある上に宗敎的でもある。死を以て誓約書とする一種の結婚を意味する。男女は神々を證(あかし)にしてお互に誓詞を立て、遺言狀を認め、そして死ぬのである。如何なる誓詞もこれよりもつと神聖であることは出來ない。だから若し思ひ掛けぬ外部の妨害と醫療とで、情死の片割が死の手からもぎ離された時は、其片割は愛と名譽の嚴かな誓約に依つて、出來るだけ早い機會を捉へて命を捨てる義務がある。勿論雙方救はれた時は問題はない。併し一旦女と死ぬる誓をした後に、女だけを一人で冥途に旅立たせた男として後指さされるよりは、惡虐な罪過を犯して半生を牢獄の裡に送る方が遙かに優(まし)だとされて居る。女は誓に背くことがあつても幾分寬大視されるが、男は妨害に逢うて死に損ね、一度目的が挫かれたばかりに、おめおめと生き存へようものなら、終生僞誓者、殺人犯、人非人、人間の面汚(つらよご)しとして見らるるが常である。自分はそんな實例を一つ知つて居る――併し自分は今寧ろ東國の或る村にあつた、賤が家の戀物語を紹介する。

 

       

 

 村は廣いが極淺い川に臨んで居て、其川の石多い川床は雨季の間のみ完全に水に蔽はれる。そして此川は、南北は地平線に連らなり、西は靑い山脈に圍(かこ)ひ込まれ、東は森林の茂れる丘陵に仕切られてる、廣濶な水田の中を橫斷して居る、村と丘陵との間は僅に半哩[やぶちゃん注:「はんマイル」。約八百五メートル弱。]の水田に隔てられてる計りであるが、其手近い丘陵の頂上に、十一面觀音の堂があつて、其附屬地に村の主なる墓地がある。村は物資の集散地として餘り詰まらぬ村ではない。普通の田舍風の藁葺家が數百軒ある外に、繁盛な二階建ての商店、綺麗な瓦屋根の宿屋などが一杯並んで居る街路が一筋ある。其外に又風雅な氏神、卽ち日の女神を奉祀した神道の社(やしろ)と、桑畠の中に蠶神を祭つた美しい祠(ほこら)がある。

 明治の七年に此村の内田といふ染物屋に、太郞といふ男子が出生した。處が其出生の日が惡日であつた――陰曆の八月七日であつた。そこで舊弊な兩親は心配し且つ悲しんだ。併し同情せる隣人は彼等に說いて、曆は敕令に依つて改正せられた、其新曆では其日は吉日であるから萬事意の如く運んだではないかと、思ひかへさせようとした。此忠告は幾分か兩親の心配を緩和した、併し小兒が氏神へ宮詣りの折には、神前へ大きな紙燈箭を獻納し、凡ての殃禍(わざはひ)を小兒の身上から拂はせ給へと熱烈に祈願した。神主は古風な儀式を繰り返し、神聖な御幣を小さな坊主頭の上ヘ振り𢌞はし、小兒の頸へ掛ける小さな護符を作つて吳れた。兩親はそれから更に丘の上の觀音堂へ參詣し、そこでも供物を供へて、彼等の初生子(うひご)を護らせ給へとあらゆる佛に祈願した。

[やぶちゃん注:「明治の七年」「陰曆の八月七日」明治政府が天保暦(太陰太陽暦)を廃止し、グレゴリオ暦に移行したのは、この僅か一年半前である。明治五(一八七二)年五年十二月二日=グレゴリオ暦一八七二年十二月三十一日をもって天保暦を廃止し、その翌日から明治六(一八七三)年一月一日となった。則ち、明治五年には十二月三日から十二月三十日までの二十八日間が存在しないのである(ここはウィキの「明治5年」に拠った)。明治七年旧暦八月七日は一八七四年九月十四日で、調べたところ、新暦での六曜は大安であった。]

 

       

 

 太郞が六歲になつた時、兩親は村の近處に建てられた新しい小學校へ通はせようと決心した。太郞の祖父が筆紙、敎科書、石板などを買ひ與ヘて、或る朝早く手を引いて學校へ連れて行つた。太郞は大悅喜[やぶちゃん注:「おほよろこび」と訓じておく。]であつた。石板だの其他のものは新たな玩具の樣に思はれるし、又誰れも彼れも學校は面白い處で、遊ぶ時間が澤山あると云ふ上に、學校から歸ると澤山菓子をやるといふ母の約束もあつた。

 ガラス窓のある大きな二階建ての學校へ到着すると、校僕が大きな質素な室へ案内する。其處には嚴肅(まじめ)な顏をした人が机を控へて坐つて居た。太郞の祖父は其嚴肅な人に丁寧にお辭儀をして先生と呼び懸け、恭しく此小兒を御敎授下されと乞うた。先生は立ち上がつて禮を返し、鄭重に挨拶した上、太郞の頭へ手を載せて優しい言葉をかけた。併し太郞は直に怖(こは)くなつた。祖父が別辭を述べた時益〻怖くなつて、逃げて還りたくなつた。が、先生は彼を連れて、大勢の男女の子供が腰掛に並んで居る、大きな、天井の高い、白壁の室へ往つて、一つの腰掛を指し、坐るやうに命じた。男女の生徒は悉く頭を轉じて太郞の方を見ながら、互に耳語(ささや)きあつて笑つた。太郞は笑はれると思ふと、甚だ悲くなり出した。大きな鐘が鳴つた。と、室の一方の敎壇に上がつた先生は、太郞を喫驚(びつくり)させた程の聲で靜かにと命じた。一同靜まり返つた處で先生は喋り始めた。其詞は太郞に恐ろしく感ぜられた。學校は面白い處だと先生は云はない、學校は遊ぶ處でない、勉强する處だと告げた。又勉强は苦しいものだ、併し苦しくてもむつかしくても生徒は勉强せねばならぬと告げた。又守るべき校則の話や、それに背いたり不注意の時に蒙るべき處罰の話をした。一同恐懼して肅然(しん)とした處で、先生は全く語調を變へて慈父の如く語り出した――我が子の如く一同を愛すると約束して。つぎに學校は天皇陛下の叡慮に依つて建てられたことや、それに依つて此國の男兒も女兒も賢男善女となり得ることや、天皇を深く敬愛し陛下の爲めには喜んで身命をも抛つべきことを告げた。それから又彼等は父母を愛すべきこと、彼等の父母は彼等を學校へ通はす爲めに職業に一層骨を折つて居ること、それに勉强すべき時間に怠けて居るのは忘恩悖德の所業であることを告げた。それが濟むと先生は生徒を一一指名して、今告げたことに就て試問をした。

[やぶちゃん注:「太郞が六歲になつた時」満年齢なら、明治一三(一八八〇)年、数えなら、その前年。本書を読むのは外国人で無論、前者でとる。]

 太郞は先生の詞の一部分しか聽き取れなかつた。彼の小さい心は彼が初めて室で入つた時、生徒一同が彼を見て笑つた事實で殆ど一杯になつて居たのだ。何を笑はれたかが彼には非常に切なかつたので、其外の事などは考ふる餘裕もない、從つて先生が彼の名を呼んだ時にも全く彼には用意がなかつた。

『内田太郞、お前は一番何が好(すき)か』

 太郞は驚いて起立して正直に答へた。

『菓子です』

 男生女生悉く彼の方を見て又笑つた。先生は叱るやうに問ひ返した。『内田太郞、お前は父母よりも菓子が好か。お前は天皇陛下に盡くす忠義よりも菓子が好か』

 其時太郞は何か大きな間違ひを云つたなと氣が附いた。それで顏は熱くなる。一同には笑はれる、遂に泣き出した。それも一同を益〻笑はせるに過ぎなかつた。先生が一同を叱り飛ばして、同じ問をつぎの生徒に懸けるまで笑ひは止まなかつた。太郞は袖を眼に當てて啜り泣いた。

 軈て鐘が鳴つた。先生はつぎの時間には、他の先生から初めての習字の授業があるが、先づ敎室を出て暫く遊んで來てもよいと告げて出て行つた。男女の生徒は悉く校庭へ遊びに出た、誰れあつて太郞を顧みるものもない。太郞は初めに衆目環視の的となつた時よりも、かう打棄れた事を一層心外に感じた。先生の外に誰れ一人言葉をかけるものもなかつたが、今は其先生も彼の存在を忘れた樣だ。太郞は小さい腰掛に又腰を下ろして泣きに泣いた。生徒等が又腰を下ろして泣きに泣いた。生徒等が又歸つて來て笑はれぬやうに聲を立てまいと苦心しながら泣いた。

 突然彼の肩に手が掛けられ、優しい聲が耳元に聞こえた。振り囘るとこれ迄に見た事がないやうな情深い二つの眼を認めた――太郞より一歲(ひとつ)位年長(としかさ)な小娘の眼であつた。

『どうしたの』彼女はやさしげに問うた。

 太郞は一寸啜り泣いて、手緣りなげに[やぶちゃん注:「たよりなげに」。]鼻を鳴らした後に答へた。『面白くない。家(うち)へ歸りたい』

『何故』と娘は腕を太郞の頸へそつとかけながら問うた。

『皆(みんな)が己れを嫌ふんだ。口もきいて吳れず、遊ばうともしない』

『さうぢやあないよ』娘は云つた。『誰れもお前を嫌やアしないよ、ただお前は新參だからよ。妾(わたし)が去年初めて學校へ上がつた時も、丁度其通りだつたよ。怒(おこ)つちやいけない』

『外の奴はみんな遊んでる、己ればかりここに居るんだ』と太郞は抗議を持ち込んだ。

『アレ焦(じ)れちやアいや、サアお出で、妾と遊ばう。妾がお友達になつてあげる。サア』

 太郞は聲を舉げて泣き始めた。自ら憐むの念と、感謝と、新たに得た同情の喜びとが、彼の小さい胸に一杯になつたので、遂に制へ切れなかつたのだ。泣いてるのを慰められるのはそれ程嬉しかつたのである。

 併し娘はただ笑つて、素早く太郞を室外に誘ひ出した。彼女の胸にある小さい母性愛が機を察して動いたのである。『泣きたいならお泣き』娘は云つた。『だが、遊ぶのもいいよ』かくて二人は愉快に遊んだのである。

 學校が濟んで太郞の祖父が迎へに來た時、太郞は又泣き出した。それは此小さい遊び友達に別かれを告げなければならなかつたからである。

 祖父は笑つて云つた。『およしぢやアないか――宮原およしだ、およしも一緖に來て家で遊ぶがよい。丁度歸り途だ』

 太郞の家で二人は一緖に約束の菓子を食べた。およしはからかふ樣に先生の嚴格な態度を模(ま)ねながら問うた。『内田太郞、お前は妾よりもお菓子が好か』

 

       

 

 およしの父は若干の田を手近に所有(も)つて居る上に、村にも店(みせ)を持つて居た。母は武士の子で、士族の解放された時、宮原家へ養はれたのであつた。子供は大勢生んだが末子のおよしのみが生き殘つて居た。其母もおよしがまだ赤ん坊の時死んで了つた。宮原は中年を超えて居たが、小作人の娘の伊東お玉といふ若い娘を後妻に娶つた。お玉は新しい銅貨のやうに赤黑かつたが、目立つて綺麗な百姓娘で、丈高く丈夫で活潑であつた。併し讀み書きは少しも出來ないので、人々は宮原が此娘を選んだのを奇異に思つた。奇異の思ひはやがて可笑しさに變つた。それはお玉を家に入れると、直ぐお玉は絕對主權を握つて、それを振り𢌞はしたからである。併しお玉の人となりが段々分かると、隣人は宮原の意氣地なしを笑ふのを中止した。お玉は良人の事業を良人よりも能く了解して、萬事を監督し、巧妙に家政を處理するので、二年と經たぬ中に彼の收入は倍加した。宮原は明らかに、お蔭で金持ちになれる女房を貰つたのである。繼母としては自分の長子が生まれた後までも親切に舉動(ふるまつ)たから、およしは手厚き介抱を受け、學校へも正式に通はせられた。

[やぶちゃん注:「士族の解放された時」士族解体は段階的に行われたが、一つのそれは明治九(一八七六)年の「廃刀令」施行と同年の秩禄給与の全廃処分(秩禄とは廃藩置県後に維新政府が授産の目的で士族に貸付けた公債。明治六(一八七三)年 十二月に家禄・賞典禄を返還した百石未満(後に百石以上にも適用された)の士族に対し、禄高に応じて永世禄として六ヶ年分、終身禄として四ヶ年分を現金と公債証書に折半して支給する布告が出された。公債は三ヶ年据置きで八分利付、七ヶ年で償還する条件で一千六百万円余が発行された。金禄公債交付への前段階的処置であった。ここは「ブリタニカ国際大百科事典」に拠った)を以って捉えられる。但し、明治期には士族認識は一般には行われ、戸籍の族籍記載が撤廃されたのは大正三(一九一四)年、士族の族称が私的にも公的に廃止されて死語となるには、実に第二次世界大戦敗戦後を待たねばならなかった。なお、「七」でここに記した「公債證書」の話が登場する。]

 子供等がまだ學校通ひをして居る中、久しく待ち設けられた驚くべき事件が起こつた。頭髮と髮の赤い、長(せ)の高い妙な人間――西洋人――が日本人の勞働者を大勢連れて此村へやつて來て鐡道を造り上げた。それは田甫[やぶちゃん注:「たんぼ」と読んでおく。]と村の後ろの桑畠の向うの、低い丘陵の麓に沿うて出來たのだが、觀音堂へ行く舊道と交叉する處に小さい停車場が建てられて、步廊(プラツトフオーム)に立てた白い札に村の名が漢字で記された。少し經つてから一列の電信柱が線路と並行に立てられた。も少し經(た)つてから汽車が來て、笛を吹いて、停まつて、そして出て行つた――古い墓地にある佛像を蓮華の臺石から搖(ゆ)り落とさぬばかりにして。

 子供等は此不思議な、水平な、灰の撒布されてる道に、二本の鐡がぴかぴか南北へ延びて雲烟の中に沒し去るのを見て驚嘆した。更に列車が嵐を吹く龍の樣に、大地を震るはせながら、吼えたけり煙を吐きつつ來るのを見て恐怖した。併し此恐怖の後には好奇心が入れ替つた。――此好奇心は敎師の一人が黑板に圖を描いて、機關車の構造の說明をしたので一層强められた。其敎師は又、電信の更に一層不思議な作用を敎へた。そして新東京と京都との間は鐡道と電線で結び附けられるから、兩都の間を二日以内で旅行も出來るし、數秒で通信も出來るといふことを告げたのである。

[やぶちゃん注:東海道線の全面開通は後の明治二二(一八八九)年七月一日の全線開通であるから、この時(話柄内時制を明治一三(一八八〇)年と前に示した)、教師は近い将来のそれを想定して述べたものである。]

 

 太郞とおよしは大仲善しになつた。一緖に勉强もし、遊びもし、相互の家を訪問しあつた。併し十一の時およしは學校を下げられて、繼母の手傳ひをさせられる事になつたので、太郞がおよしに會ふことは稀になつた。する中に彼は十四になつて學校を卒業し、父の家業を習ひ始めた。悲みは來たつた。彼の母は一人の弟を生んで死亡した。其年の中に、彼を初めて學校へ連れてつた親切な祖父も、母の後を追うた。それから後は世界が暗くなつたやうに思はれた。併し彼が十七になる迄、彼の生活には其後何の變化も起こらなかつた。折々はおよしと話しをする爲めに宮原の家を訪れた。およしはすらりとした美しい女になつた。が彼には樂しかつた昔の面白い遊び仲間に過ぎなかつた。

[やぶちゃん注:「およし」「十一」先の換算では「およし」は太郎の一つ上だから明治一七(一八八四)年となる。

「彼は十四になつて學校を卒業」同前で明治二一(一八八八)年。

「十七」同前で明治二四(一八九一)年。既に東海道本線は開通している。]

 

       

 

 或る柔らかな春の日に、太郞は甚だしく淋しさを覺えておよしに逢つたら樂しからうといふ考へがふと浮かんだ。多分彼の記憶には、淋しいといふ一般感覺と、彼の初めての學校生活の特殊な經驗との間に或る確かな關係が存在したのであらう。兎に角胸の中の或る物――多分死んだ母の愛が作り上げた、さうでなければ他の死んだ祖先に屬する或る物が――一片の情味を要求した、そしておよしから其情味が貰へると信じたのである。そこで太郞はおよしの小さい店へと步を運んだ。店の間近まで來た時、およしの笑ひ聲が聞こえて、それが馬鹿に優しく響いた。およしは年老いた百姓に物を貰つてる所であつたが、百姓は滿足な樣子で聲高に喋つて居た。太郞は待たせられて早くおよしの談話を獨占し得ぬのを腹立たしく感じた。併しおよしの近くに居るだけでも少しは晴れ晴れしくなつた。彼はじろじろ彼女を眺めて居たが、突然今迄彼女がこんなに美しいとは思はなかつたのを不思議に思ひ始めた。實際彼女は美しかつた――村の何の娘よりも美しかつた。太郞は且つ眺め且つ驚きつつあつたが、彼女は益〻美しくなるやうに見えた。餘り不思議なので彼には譯が分からなかつた。併しおよしはその熱烈な凝視の下に、初めて恥づかしく覺えて耳の根まで眞赤になつた。其時太郞は彼女が世界中の何の女よりも美しく、可愛く、立ち優つて居ることを確信し、それを彼女に云ひたいと思つた。と忽ち老いたる百姓が只だの女にでも話すやうに、およしに喋々と饒舌(しやべ)つて居るのが癪に障つて堪らぬのを感じた。數分にして太郞には全宇宙が全く一變した、しかも彼はそれに氣が附かぬ。彼はただ暫く逢はぬ中に、彼女が天女の樣になつたのを認めた。それで機會が來るや否や、彼が愚かしき心中を打明けた、彼女も同じく心中を打明けた。そして二人の心がかうも同じであつた事を不思議に思つた。さてそれが大難の始めであつた。

 

       

 

 太郞が、およしに話してるのを見た年老いた百姓といふのは、ただ買ひ物に彼(か)の店を訪れたのではなかつた。彼は本業の外に仲人(なかうど)卽ち媒介を職業にして居たので、其時は岡崎彌一郞といふ富める米商の手先きを勤めて居たのであつた。岡崎はおよしを見て非常に氣に人つたので、此仲人業者に賴んで、彼女の身性(みじやう)と家族の狀況を調べようとして居たのであつた。

 岡崎彌一郞は百姓共や、村の隣人等にも酷く嫌はれる中老の男で、粗野で醜男(ぶをとこ)で騷がしい無作法者であつた。彼は又邪樫な男と評判された。一年飢饉の折に米相場をして儲けた事は知られた事實で、百姓共はそれを罪惡だとして赦さない。彼は此縣に生まれた者でもなく親戚があるのでもない。十八年前に女房と一人の子を連れて西國の方から此村へ移住したのである。女房は二年前に死に、虐待されたといふ評判の一人息子は、突然家出をして行方知れずである。其外彼には色々の惡い評判がある。其一つは西國に居た時、激せる暴民に家藏を掠奪されて、命からがら逃げたといふのである。今一つは彼が結婚の晚に地藏尊に御馳走を出させられたといふのである。

 不人望な農民が結婚の時、花聟に地藏を饗應させるのは今でも或る地方では行はれる。巖疊な[やぶちゃん注:「がんでふな」。頑丈に同じい。]若い衆の一隊が、石地藏を大道から或は近處の墓地から借りて來て、花聟の家に擔(かつ)ぎ込むと、大勢が後からついて行くのである。さて石像を座敷に置いて、酒肴をしこたま供養せよと命ずる。これは勿論彼等自身への供養の意味で、それを拒むのは非常に危險だ。そして此の招かれざる客共は、もう飮めぬ食へぬと云ふ迄御馳走になるのである。こんな饗應をさせられるのは、公然の懲戒であるばかりでなく、消すに消されぬ公然の恥辱であるのだ。

[やぶちゃん注:この地蔵饗応或いはそれに類似した婚礼習俗というのは「石打ち」などと呼ばれ、村落共同体の中に入り込んだ他国の者(多くは男)が村民の相手を娶る際に、かなりポピュラーに全国的に行われていたもので、ここで小泉八雲が言っているような悪因縁をつけた暴挙としてではなく、旧来の風俗として、現在も残っている。かなり以前にテレビで見た記憶があり、ネットで調べても複数のそれを見出せる。例えば、「AELA dot.」の「結婚式でお地蔵さんをかつぐ地方は? ご当地別結婚のしきたり」に、ここは他村の嫁のケースであるが、『「花嫁が早くその土地に腰を据えられるように、と地域のお地蔵さまを担いで持ち寄る風習があります。先月行われた結婚式では出し物としてお地蔵さまを』一『体だけお借りしてお化粧をし、『生き地蔵』がそれを持って神輿に担がれるなどしました」』とあり、また、『山口県在住の回答者からは、こんな驚きの情報が寄せられた。調べてみたところ、このお地蔵さまは式後、新婚夫婦などの手により、地域に返されるという。一体だけでなく、多くのお地蔵さまが持ち寄られた場合は、元の場所が分からなくなってしまうこともあるそうだ。祝いの席だからと』、『ひと肌脱いだお地蔵さまにとっても、困った事態である』とある。「愛媛県生涯学習センター」公式サイト内の「愛媛県史 民俗 下(昭和59331日発行)」の「婚姻の習俗」にも(下線太字は私が附した)、

   《引用開始》

 事例1 宇和島市日振島。青年が夫婦石(一二~二〇貫)を婚家の角に置き、座りがよいようにとの縁起から石を三回打ちつけ「一つの石 のっけの石 御免の石 二つの石は御祝儀の石 三つの石は止めの石」と唱えた。青年は祝儀として酒二升を貰った。

 この事例は、広くみられる石打ちと呼ばれる風習である(内海村網代・魚神山ほか)。運びこまれる石のことをオチツキ石(南予)と呼ぶ。墓石(河辺村・柳谷村・広田村・小田町・双海町ほか)・川石(城川町・大洲市稲積ほか)・地蔵(保内町)がつかわれ、二個の夫婦石には注連縄が張られる例が多い(宇和町ほか)。この風習は「石になるまで=死ぬまでその家にいるように」・「ここで石碑になるように」(久万町)「どっしり落ちつくように」(大洲市)「この岩のようにいつまでも離れないように」(城川町)といった理由から行われる。この風は、式が終わったときにみられるが、柳谷村のように祝言の翌朝になるところもある。この石は、たいてい新夫婦が翌朝にかたづけるが、松山市北土居のように一、二か月とか二、三年の間、床の間に置くところもある。石は大きい方が喜ばれたので、青年たちは婚礼が近づくと、山へ行って大きい石を捜したのである(宇和町明石)。南予では、庭先にオチツキ石をいつまでも置き、嫁がつらくて泣くことがあるとき、このオチツキ石を見て気を取り直すことが多かった(城辺町日土)。また野村町中筋では、昔、婚礼は多く年末に行われ、翌年の旧正月一五日の夜に若者が石塔や木材を婚家の入口に並べて戸があかないようにしたり、大石を庭へ運び込んで落ち着きよしとしたりして、酒肴を振舞われた。これをホタルククルと呼んだのである。

   《引用終了》

とある。現行も生き残ったのは、本来の制裁的ニュアンスや異邦人の村落加入への限定的許諾儀礼としての粗暴でネガティヴな本質をポジティヴな意味に逆転させた結果であろうと私には思われる。]

 

 岡崎は年にも恥ぢず若い美しい妻を娶らうといふ贅澤な野心を持つて居た。併し彼の富みを以てしても此願望は思つたやうに容易くは達せられなかつた。緣談を申し込まれた家の中には、實行不可能な條件を並べて卽座に謝絕したのが少くない。村の村長はもつと無遠慮に己れの娘はお前に遣る位なら鬼に遣ると云ひ放つた。そこで此米商は縣外で嫁探しをするより外はないと諦めるだらうと思つてると、最後に偶然にもおよしを見附けたのである。此娘が又非常に氣に入つたし、家は定めて貧乏であらうから、幾らか金でもやつたら手に入るだらうと考へた。それで仲人を通して宮原家と談判を開始しようと試みたのである。小作人の娘であるおよしの繼母は、全く無敎育ではあるが、一條繩で行く女ではない。彼女は其繼娘を少しも愛しては居ぬが、怜俐だから理由なく虐待する樣な事はしない。且つおよしは彼女の邪魔になる處ではない、忠々(まめまめ)しく働きもするし從順で、氣輕で、家の役にも立つて居るのである。併しおよしの美點を認めた其冷靜な敏惑は、同樣に結婚の市場に於けるおよしの價値をも計算した。岡崎は狡智に於て己れよりも生來上手(うはて)な女を相手にするとは夢にも思はなかつたのであらう。お玉は岡崎の經歷を大分知つて居り、富の程度をも知つて居た。彼女は亦岡崎が村の内外の處々から女房を貰ひ損ねたことも聞いて居た。それでおよしの美顏が眞に彼の熱情を惹起したのではないかと推察した。そして老人の熱情は多くの場合利用し得るものだといふことも知つて居た。およしは實の處驚くべき程の美人でもないが、實際綺麗で優しく何處か愛嬌のある娘で、先づこれ位の娘を手に入れるには、此近鄕では望みがない。此娘を女房にする爲めに岡崎が金を惜しむ樣なら、外にもよい心當たりの若者がお玉にはあつたのである。およしを岡崎に遣ることは遣るが、それには並大抵でない條件を附ける。先づ最初の申し込みをはねつけて見ると、其後の彼の出方で心の底が分からう。ほんとにおよしに執心なら、此界隈の人では誰れにも出來ない程の支度金を仰せ附ける事も出來よう。そこで岡崎の眞の執心の程度を知ることが非常に肝要で、又それ迄は當分此事をおよしに知らせぬやうにする必要がある。仲人業の評判のよしあしは沈默の點にあるのだから、仲人が此祕密を漏らすといふ恐れはなかつた。

 宮原家の政策はおよしの父と繼母との協議で定められた。老宮原はとにかく女房の計畫に反對する樣な男ではないが、お玉は先づ用心深く、結婚は色々の廉[やぶちゃん注:「かど」。「角」と同語源で、「特に取り上げるべき事項・箇所」の意。]で娘の利益(ため)になるやうにせねばならぬといふことを强く說法した。そして岡崎に遣るとした時の經濟上の利益を話し合つた。この結婚には面白くない多少の危險もあるが、それは豫め岡崎に二三の契約を結ばせれば防ぐことも出來ると說いた。それから宮原が此芝居で演ずべき役割を敎へた。そして此談判中は太郞にも成るたけ度々來るやうに勸める事にした。此二人が好き合つてるのは、ほんの蜘蛛の巢の樣な薄つぺらな情愛だから、必要な時には拂ひ退けるに手間暇はいらぬが、當分は之を利用して遣るがよい。岡崎が若い鞘當て筋があると聞いたら、決心を早めて此方(こつち)の思ふ壺にはまるであらう。

 丁度其時、太郞の父は太郞の爲めにおよしを貰ひたいと初めて申し込んだ。併し右の理由で宮原家は唯(はい)とも云はなければむげに斷わりもしなかつた。只だおよしは太郞よりも一つ年上だといふこと、それからそんな配偶は習慣には背くといふことを述べた――それは實際其通りである。けれどもそれは薄弱な故障であつた。尤もそれは明らかに薄弱なればこそ、そんな文句を選んだのであつた。

 同時に岡崎の最初の申し込みは其誠意が疑はしいと云はん計りの態度で迎へられた。宮原夫婦は仲人の意味が分からぬと稱して、明瞭な證言をも頑固に腑に落ちぬ風を裝うたので、岡崎は遂にこれならばと思ふ誘惑的な提議を持ち出すといふ政略に出た。宮原老人は其時此一件は妻の手に委ねて決定を待つことにする由を告げた。

 するとお玉はあらゆる侮蔑的驚愕の態度で其提議を卽座に拒絕した。そしてつぎの樣な不快な話しをした。昔、金のかからぬ美しい女を手に入れようと思ふ男があつた。到頭一日に二粒の販しか食はぬといふ美人を見附けて結婚した。其女は每日二粒の飯しか口にしないので彼は大いに滿足して居た。然るに或る夜旅から歸つて來た時、天窓(てんまど)から竊に覗いて居ると、彼女は食ふも食ふ、山程の飯と魚とを頰張つた上に、あらゆる食物を頭の頂上(てつぺん)の髮の毛に隱れて居る穴の中へ押し込んで居るのを見た。そこで結婚した女は山嫗[やぶちゃん注:「やまうば/やまんば」。]であつたことを知つた。

[やぶちゃん注:「山嫗」一般には「やまうば」或いは「やまんば」と読むが、ここでは原文が“Yama-Omba”とあるので、「やまおんば」と訓じておくこととする。但し、ここに出るそれは、明らかに妖怪「二口女(ふたくちおんな)」、後頭部に二つ目の口を持つ女怪で、髪を使って後頭部の口に食べ物を運ぶとされる。江戸時代の「絵本百物語」(戯作者桃花園三千麿作とされる天保一二(一八四一)年に板行された怪奇談集)などに記述があるが「絵本百物語」のそれ(梗概や絵図はウィキの「二口女」にあるそこでは、下総国をロケーションとする)は作者の創作に過ぎないのでここでの参考にはならない。絵図は参考としてよろしい。]

 お玉は謝絕の結果を一と月も待つた。欲しいと思ふ物の價値は、手に入れる困難が增せば增すやうに思はれるといふことを知つて居るから安心して待つた。すると案の定仲人が再び現はれた。此度は岡崎は前の樣に鄭重でなく單刀直入に問題に觸れた。最初の申し出を增額した上に誘惑的な約束をまで附け加へた。お玉はもう岡崎はこつちのもの、どうにでもなると知つた。彼女の作戰は混入(こみい)つたものではないが、本能的に人間の醜い方面を知つて、其處に建てられた計畫であつた。そして彼女は成功を確信した。併し約束は愚者の餌食、契約證書は律義者の罠に過ぎぬ。およしを手に入れる前に岡崎は財產の少からぬ部分を抛たねばならなくなつた。

 

       

 

 太郞の父は太郞とおよしとの結婚を心から願つて、それを成り立たせようと一通りの手を盡くして見たが宮原家から判然(はつきり)した返答が得られぬのに驚かされた。彼は質朴な率直な人間だが同情的な性分に特有な直覺力があるので、平生好かぬお玉のわざとらしい丁寧な熊度から、これは望みがないなといふ疑惑を起こした。寧そ其疑惑は太郞に話すが宜いと考へて、打明けた處が、太郞は焦慮の餘り熱病に罹つた。併しおよしの繼母は、作戰の初期に太郞を失望に陷れようといふ意志はない。それで病中は親切げな傳言を人に託したり、およしにも手紙を出させたりしたので、彼の希望も又生き返るといふ、思ふ通りの結果を來たした。恢復後に太郞が尋ねて行くと、歡待して店でおよしと談話をさせた。が彼の父からの申込に就ては一言も云はなかつた。

 好いた同志には、又氏神の境内で折々出遇ふ機會もあつた。およしは繼母が末の孩兒を背負つて屢〻其處へ出懸けたのである。其處では守娘(もりつこ)や子供等や若い母達の間に混じつて、噂に上る憂ひもなく言葉を交はす事が出來た。一と月程の間は彼等の希望もかういふ風に何の邪魔も受けなかつたが、やがてお玉はからかひ半分に太郞の父に迚も出來さうもない金錢上の相談を持ち懸けた。彼女は己が假面(めん)[やぶちゃん注:二字へのルビ。]の片隅を持ち上げたのである。岡崎は彼女の張つた網に掛かつて猛烈にもがいて居たが、もがきやうが激しいので、もう最後の決定も遠くないと見込んだからである。およしはまだこんないきさつは知らなかつたが、どうも太郞の處へ嫁(や)つて吳れぬではなからうかといふ不安を感じて、日增しに肉は瘦せ色は靑ざめつつあつた。

 太郞は或る朝およしに逢ふ機會もがなと思つて、末の弟を連れて氏神の境内に往つた。丁度出逢つたので何やら心配になるよしを告げた。それは太郞が子供の時、母が頸に掛けて吳れた小さい木の護符が、絹の袋の中で破(わ)れて居たといふのであつた。

『それは緣起が惡るい[やぶちゃん注:ママ。以下同じ。]のではありません』およしが云つた。『神樣が貴君を守つて下さつた證據(しるし)です。村に疫病が流行つた時、貴君も罹つたでせう、そして快くなつたでせう。護符(まもり)が守つて下さつたのです。だから破(わ)れたのです。今日にも神主に話して新しいのをお貰ひなさい』

 彼等は心甚だ樂まない[やぶちゃん注:ママ。]、遂ぞ今迄人に惡るい事をした覺えもない。それで自然因果應報の道理に話しが向いた。

 太郞は云つた。『己れ達はたしか前世で仇だつたのだらう。己れがお前に惡るい事をしたか、お前が己れにしたか、どつちかだらう。これは報(むく)いなんだ。坊さんはさう云ふよ』

 およしは例の冗談を交じへて答へた。『其時妾(わたし)は男で、貴君は女だつたのね。妾は貴君を思つて思ひぬいたのに、貴君は妾を嫌つたの。よく覺えて居ますよ』

『菩薩ぢやアあるまいし』太郞は悲み[やぶちゃん注:ママ。]を抑へて微笑みながら答へた。『前世の事を覺えて居られるものか。十階ある菩薩道の第一階に達した時、やつと覺えて居られるといふぢやアないか』

『妾が菩薩でないこと、どうして分かります』

『お前は女ぢやないか。女は菩薩になれやしない』

『併し觀音樣は女ぢやないの』

『それはさうさ。併し菩薩なら、お經の外に何も愛さないよ』

『お釋迦樣だつて奧樣も子供もあつたわ。そしてどちらも愛したぢやないの』

『さうさ。併しお釋迦樣は後に妻子を棄てたのだよ』

『お釋迦樣でもそれは惡るいわ。併し妾、其話みんな虛僞(うそ)だと思ひます。貴君妾を貰つたら、後で棄てるの』

[やぶちゃん注:「十階ある菩薩道の第一階」修行中である菩薩の境涯や位階は降順で妙覚・等覚・十地・十廻向・十行・十住・十信の五十二階位とすることが多いが(詳しくはウィキの「菩薩」を見られたい)、ここで言っている(原文は“It is only in the first of the ten states of Bosatsu that we begin to remember.”)ニュアンスとはどうも一致しないように思われ、これは寧ろ、「法華経」の「方便品」に説かれる因果律の「十如是(じゅうにょぜ)」の第一の「相(そう)」を指しているようである。ウィキの「十如是」によれば、『相(形相)・性(本質)・体(形体)・力(能力)・作(作用)・因(直接的な原因)・縁(条件・間接的な関係)・果(因に対する結果)・報(報い・縁に対する間接的な結果)・本末究竟等相(相から報にいたるまでの』九『つの事柄が究極的に無差別平等であること)をいい、諸法の実相、つまり存在の真実の在り方が、この』十『の事柄において知られる事をいう。わかりやすくいえば、この世のすべてのものが具わっている』十『の種類の存在の仕方、方法をいう』とある、その「相」は、一切のもののありのままの姿、あらゆる現象の仮の姿の奥にある真実の相の認知を指す。そこに至れば、輪廻の総てが知れるはずである。因みに、平井呈一氏の訳(一九七五年恒文社刊「東の国から・心」所収の「赤い婚礼」)]でも、『人間が前世のことをおもいだすのは、菩薩の十如の第一を観じて、はじめてできるんだそうだよ』と訳しておられる。

「觀音樣は女ぢやないの」観世音菩薩は女性的に造形されることが殆んどであるが、元は男性で、俗で信仰される中で女性化して行った(但し、インド土着の女神が仏教に取り入れられた可能性はある)。ブッダ以来、仏教は激しい女性差別宗教であって、変生男子へんじょうなんし)説(女性は如何なる功徳や修行を積んでも、一度、男性に生まれ変わらなければ浄土には行けない)が当たり前であったことはあまり理解されているとは思われない。]

 彼等はこんな理窟を云ひあつて時には聲を立てて笑つた。一緖に居るのがそんなに嬉しいのであつた。併し突然娘は嚴肅(まじめ)な顏をして云つた。――

『あのね、昨夜(ゆうべ)妾(わたし)は夢を見たの。知らない河と海があつて、妾は河が海へ流れ込む直ぐ傍(そば)に立つて居ましたの。すると何だかが理由(わけ)も分からずに慄然(ぞつ)としたんです。見ると河にも海にも水はなくつて、其代りに佛(ほとけ)の骨が一杯あるんです。それが丁度水の樣に動いて居るんですの。

『すると又いつか家(うち)に還つて居て、貴君から絹地の反物を貰つたのを衣服(きもの)に仕立てて着ましたの。處が驚いた事には、初めは色々の色模樣があつたのに、いつか眞白になつて仕舞つたんです。それを又何(なん)て頓馬でせう、死人の着るやうに左前に着たんです。それから親類廻はりをして、これから冥途へ參りますつて、暇乞ひをしましたの。みんなから何故行くかつて尋ねられて、返事が出來なかつたんです』

『それは善い夢だ』太郞が答へた。『死人の夢は目出度いんだ。多分夫婦になれる吉兆(しるし)だらうよ』

 此度は娘が答へなかつた。微笑さへしなかつた。

 太郞も暫く默つて居たが附け加へて云つた。『善い夢でないと思ふんなら、庭の南天の木へみんな小聲で話して了ふんだね。さうすると眞夢(まさゆめ)にならないよ』

 然るに其日の夜になつて、太郞の父は、およしは岡崎彌一郞の嫁に遣るといふ通告を受けた。

[やぶちゃん注:「南天」私も遠い昔に誰かから聴いた記憶があるが、恐らくは「なんてん」=「難転」(難が転ずる)の語呂合わせであろう。]

 

       

 

 お玉は實に怜悧な女であつた。今迄に遂ぞ大きな誤り等をしたことがない。彼女は愚劣な人間を何の苦もなく操(あやつ)つて成功して行くやうに巧く出來てる人間の一人であつた。忍耐、狡智、惡る賢い知疊、素早い先見、强固な勤儉など先祖代々の農民としての經驗が、彼女の無學な腦髓の中の完全な機關(からくり)に集中して居たのである。其機關は之を生み出した環境の中で完全に運轉した。そしてその機關にぴつたり當て嵌まるやうな百姓といふ特殊な原料を處理して行つた。併し祖先傅來の經驗でも說明することが出來ないので、お玉には理解の出來ぬ別種の人間があつた。彼女は武士と平民とは性來(しやうらい)が違ふといふ舊思想を强く疑つて居た。國法と習慣とで作り上げた差違の外には、武士階級と農民階級の間に何も相違はない。そして此國法と習慣とは惡るかつたと考へて居た。此國法と習慣との結果が昔の武士階級を無力に、阿房にして仕舞つたのだと考へて、竊に凡ての士族を輕蔑して居た。彼女は彼等が荒い勞働は出來ず、商法は全く知らぬ爲めに、金持ちから貧乏に落ちたのを見た。又新政府から彼等に與へた公債證書は、彼等の手から尤も卑劣な狡猾な山師の把握に歸したのを見て居た。彼女は意氣地なしと無能とを排斥した。そして極下等な八百屋でも、老體を晒して當初(そのかみ)通行の度每に、履物(はきもの)を脫いで土下座をさせた者から憐みを乞ふ家老の果てよりは遙かに優れた人間だと考へて居た。それでおよしの母が士族の女であることを何の光榮とも思はず、却つておよしの弱々しいのはそれが原因だと考へ、不幸な血統だと思つて居た。彼女は又およしの性格の中で、劣等階級に屬する彼女にも讀まれるだけは明瞭に讀み取つた。中にも此子は猥りに虐待しても何の德もないといふことを讀み取つた。そしてそんな性質はお玉も滿更嫌ひでもなかつた。けれどもおよしには彼女が判然と見定めることの出來ぬ他の特質があつた――妄りに現はしはしないが、道義上の過誤に非常に敏感な事、傷つけ難き自尊心、如何なる肉體の苦痛にも打勝ち得る意志の力を深く藏して居る事などである。それが爲め岡崎へ嫁(い)くのだと告げられた時のおよしの態度には、反抗を豫期して居たお玉はすつかり欺(だま)されて了つた。彼女は誤算をしたのである。

[やぶちゃん注:「阿房」「あほう・あほ」。「阿呆」に同じい。当て字であるが、これは意味ある当て字とされ、秦(紀元前二二一年~紀元前二〇六年)の始皇帝が建設を進めた「阿房宮」に因むとされる。記録に残るその宮殿の前殿だけで、東西約七百メートル、南北約百二十メートルにも及び、殿上には一万人の人間が参集して座ることができるだけの空間があったとされることから「馬鹿でかい」から転じたとするものである。]

 

 およしは初めは死人の樣に眞靑になつた。が、つぎの瞬間には顏を赧くして[やぶちゃん注:「あかくして」。]、微笑を浮かべて、お辭儀をした。そして孝心深い言葉遣ひで、萬事御兩親の仰せに從ひます、と答へて宮原夫婦を驚かした。彼女の態度にはその外に心中の不服を漏らすやうなところは見えなかつた。それでお玉は喜んで萬事をおよしに打明け、緣談進行中に起こつた喜劇を話したり、岡崎がどれ程の犧牲を拂はせられたかを精しく話しなどした。更に進んで、當人の承諾も求めずに、老人へ嫁(や)られる事になつた若い娘へ云ふやうな管々しい慰藉の詞の外に、岡綺操縱の方法といふ實際巧妙な祕訣を授けた。其間太郞の名は一度も口頭に上らない。およしは繼母の告諭にはおとなしくお辭儀をして好意を謝した。そしてそれは確に立派な告諭であつたのだ。實際怜悧な百姓娘が、お玉の樣な良敎師に十分に敎育されたら、岡崎の好伴侶となり得るに相違ない。併しおよしは全くの百姓娘ではない。彼女に保留せられて居た運命の宣告を聞いた後、最初は眞靑になり、つぎに眞赤になつたのは、お玉には全く推量も出來ぬ二樣の情緖から起こつたのである。そしてどちらもお玉が打算的の經驗に現はれたよりももつと複雜な、もつと迅速な頭腦の閃きを示すものである。

 最初のは、繼母が道義的に全く無感覺な事、抗辯の全然望みなき事、此結婚は不必要な利得を得ようとする唯一の動機から、此身を醜い老人に賣るに等しいこと、緣談の談合が殘酷で恥づベき所爲であつた事等を認めるに伴なつて起こつた恐怖の衝擊であつた。併しながら最惡の場合に面する勇氣や力と、强固な猾智に對抗する機智とが必要だといふ十分な認識が、直ぐ後から彼女の心に突進したのである。彼女が微笑したのは其時であつた。そして微笑した時には彼女の若い意志は、刅(は)もこぼさずに鐡を割く鋼(はがね)となつたのである。彼女は直ちに己が爲すべきことを精確に自覺した――武士(サムラヒ[やぶちゃん注:カタカナはママ。])の血がそれを敎へた。そして時機を伺はうといふ目算を立てたのである。彼女は其時既に聲を立てて笑はうとしたのをやつと制へ[やぶちゃん注:「おさへ」。]附けた程の勝算があつた。お玉は彼女が眼の中の光に完全に欺かれて、それはただ滿足の感を現はすものと思ひ、更に其滿足感は金持ちとの結婚で得られる利益の點を俄に悟つたものと想像した。

 其日は九月の十五日であつた。そして婚禮は十月の六日に舉げられる筈であつた。然るに其三日後に、お玉が朝早く起きて見ると、およしは夜の中に消え失せて居たのを發見した。内田の太郞は前の日の午後から父親に姿を見せなかつたといふ。併し二三時間後には兩人からの手紙が到着した。

 

       

 

 京都發の一番汽車が入つて來た。小さい停車場は雜沓と雜音に滿たされた。下駄の音、話し聲、菓子辨當を賣る村の子供の斷續する――『菓子よろし』――『壽司よろし』――『辨當よろし』――。五分間經つた。下駄の音も、列車の扉の開閉の音も、賣り子の叫び聲もはたと止んで、笛が鳴り列車が一と搖(ゆ)り搖れて動き出した。そして囂々[やぶちゃん注:「がうがう(ごうごう)」。]といふ音を立て煙を吐いて北の方へと徐に姿を隱すと、小さい停車場は空虛(からつぽ)になつて了つた。改札口に見張つて居た巡査も、木戶を締めて砂を撒いた步廊[やぶちゃん注:既出。「プラツトフオーム」。]に出て、稻田を見渡しながら步き廻はり始めた。

 秋――大明の節――が來て居た。太陽の光は俄に白く、影は鋭く、物の輪廓は凡て裂(わ)れたガラスの緣(ふち)の樣にかつきりと見える。夏の暑さで反(そ)り返つて久しく目に附かなかつた苔は復活して、凡て火山灰から出來た黑土の物陰になつてる明地(あきち)は、明かるく軟らかい綠色が一面に若しくは帶狀に擴がつて居る。松の樹の森は悉くツクツクボウシの鋭い聲で慄(ふる)へて居る。そしてあらゆる小さい堀や溝の上には、音のしない小さい電光の閃きが見える――濃綠色や薔薇色や鋼(はがね)色の光が稻妻形に音もなく動いて居る――蜻蛉が飛び違つて居るのである。

[やぶちゃん注:「大明の節」ここの原文は“Autumn had come,—the Period of Great Light.”であるが、二十四節気にはこんな節気はない。澄んだ空気の中、抜けるような大気の彼方の太陽から、乱反射しない強く逞しい豊饒を齎す光線が射す時節の意である。]

 朝の空氣の非常に透明なのに依るか、巡査は此時北の方を見ると軌道の遙か彼方に、何か或る物を見附けた。すると驚いて手を目の上に翳(かざ)し、そしてつぎに時計を引き出した。併し槪して日本の巡査の目は空を舞ふ鷹の眼の樣に、其視域内に何か變はつた事があると、屹度直ぐ見附ける。自分は嘗て遠い隱岐の國で、泊まつて居る宿屋の前の街路に假裝踊りがあるのを、人に見られずに見ようと思つて、二階の障子に小さい穴を明けて覗いたことがある。すると、下を雪白の制服と帽子被(ぼうしおほ)ひとを着けた巡査が濶步して居た。時は夏の眞中であつた。彼は踊り子と見物の中を分けて進んだが、何を見る樣子もなく、首を左右に曲げることさへしなかつた。然るに彼は突然足を停めて眼を丁度障子の穴へ据ゑた。それは彼が直に其恰好から外人の眼だと思つたものを認めたからである。そして宿屋へ這入つて來て自分の旅劵に就て問ひ質した。併しそれは既に檢べられて居たものであつた。

[やぶちゃん注:ここに記されたエピソードは載らないが、私の『小泉八雲 落合貞三郎他訳 「知られぬ日本の面影」 第二十三章 伯耆から隱岐ヘ (六)』から最後の『(三十五)』までが(一部脱線が含まれるが)隠岐旅行の随想である。巡査が絡んだ野次馬のエピソードなら『(三十一)』がある。]

 さて停車場で巡査が認めて後に報告したのは、停車場の北半哩餘[やぶちゃん注:既出既注。約八百五メートル余り。]の處で二人の人間が、明らかに村のずつと北西方の百姓小舍から出て來て、田甫を橫切つて軌道に達した事であつた。其一人は女で衣服と帶の色で極若い女だと彼は斷定した。其時東京發の急行列車が、あと十分で到着する筈で、其進んで來る煙は既に停車場から見分けられるのであつた。二人は列車の來る軌道に沿うて走り始めたが、曲り角を過ぎると見えなくなつた。

 此二人は太郞とおよしであつた。彼等が走つたのは一は巡査の目を逃れる爲め、一は出來るだけ停車揚から離れて列車に出會ふ爲めであつた。併し曲り角を曲ると煙の來るのが見えたので走るのを止めて步いた。汽車の車體が見え出すと機關士を驚かさぬ爲めに一旦軌道を離れた、そして手に手を取つて待つて居た。忽ち低いどよめきが聞こえたので、時こそ至れりと、再び軌道に步み還つた。くるりと方向(むき)をかへると兩腕をお互に捲きかけ頰と頰とを押し附けて、靜に素早く、其時既に突進して來る汽車の震動で、金砧[やぶちゃん注:「かなとこ」。金床。]の樣に唸つて居る内側の鐡軌へ橫さまに寢轉んだ。

 太郞は微笑んだ。およしは太郞の頸へ廻はした腕をしめて耳元へささやいた。

『二世も三世も妾は貴君の妻、貴君は妾の夫ですよ、ね! 太郞さん』

 太郞は何も云ふ暇(ひま)もなかつた。其瞬間に、空氣制動機のない汽車は、停めようと焦(あせ)つても距離は百碼餘りしかないので、遂に二人の上を通過した――大きな鋏の樣に平等に切斷して。

[やぶちゃん注:「空氣制動機」原文“airbrakes”。圧縮空気でブレーキ・シリンダーを動かしてブレーキをかける装置。後の汽車には装備された。

「百碼」九十一メートル強。]

 

       

 

 村人は比翼塚の上へ花を一杯挿した竹筒を立て、線香を燒いて祈りを上げる。これは決して正則ではない、といふのは佛法では情死を禁じてあるのに、此處は寺の慕地であるから。併しこれには宗敎がある――深い崇敬を値する宗敎がある。

 讀者は、かういふ死者に人々は何故(なぜ)又、どうして祈るかと疑ふであらう。が凡ての者が祈る譯ではない、ただ戀をする者、殊に不幸な戀人が祈るのである。其他の者はただ香花を供へ、經文を唱へるだけである。併し戀する者は靈驗ある同情と助けを祈るのである。自分も其故を尋ねた事があるが、答は單に『此二人は並々ならぬ苦痛を甞めたからです』といふにあつた。

 されば、この祈りを促す思想は、佛敎よりも古く同時に新しいものであるやうに見える――卽ち永遠の苦痛の宗敎といふ思想である。

[やぶちゃん注:底本では、最終行に一字上げインデントで『(戶澤正保譯)』、次の行に同じインデントで『The Red Bridal.Out of the East.)』とある。

「佛法では情死を禁じてある」小泉八雲が何の資料を以ってかく言っているのか是非とも知りたいところだが、仏教では情死(心中)や自殺を決して禁じていない(積極的に認めているわけではないが)。寧ろ、「心中」の根本には、古来からの仏教的な教えとされる「世の契り」(相愛の者同士は現世・来世及びとその次世まで結ばれ続けるとするもの。親子の結びつきは二世までとされる)が語り伝えられ、現世では事実上結ばれなくても、来世で結ばれると固く信じられたことが江戸時代の心中美化と心中物の流行を生んだことは周知の通りである。

 最後に。本話のロケーションであるが、「七」で、二人が心中する場所の近くの駅に「京都發の一番汽車が入つて來」、少し遅れて「東京發の急行列車が」「到着する」(通過ではないことに注意)と述べていること、「壽司」や「辨當」といったしっかりした昼食がその駅で車両に対して売られていること、駅の傍の空き地は「火山灰から出來た黑土の物陰になつて」いると言っていることが鍵となる。これは総合的に考えるなら、火山灰由来の黒土は東京・神奈川でも見られるが、当時の東海道本線沿線で、京都発の一番電車が昼過ぎ頃には着き、急行列車が停車する駅に近い、則ち、東海道線の丁度、中間部辺りの、現在の中・大型都市部近くの、やや平地内陸の農村の何処かであることを意味していると私は読む。しかも小泉八雲はロケーションに富士山を全く語っていないから、静岡以東は外さねばならない。とすると、愛知県の東部か静岡静岡の中西部か。「一」に川幅の大きな浅い川が登場するので、これを磐田市・袋井市を南流して遠州灘に流れ込んでいる太田川(グーグル・マップ・データ。天竜川では浅いとは言えないのでこちらを挙げた)ととると、駅は掛川が、村はその太田川の中流平野部附近(グーグル・マップ・データの航空写真。「一」の「西は靑い山脈に圍(かこ)ひ込まれ、東は森林の茂れる丘陵に仕切られてる、廣濶な水田の中を橫斷して居る」というのは地形的には一致しそう。但し、「南北は地平線に連らなり」というのは外れる。しかし、南北に開けている場所は、まず、東海道全体を考えても見出すのは難しい気がする)が一つの候補となるのではないかと考えている。

 追記。小泉八雲は本篇本文で一度も“red”という単語を使っていない。読者はコーダの鮮血の色がそれだと思うだろうが、そんな即物的にしてスプラッターな情感を小泉八雲は決して持たないと私は絶対に思うのだ。さすれば、この「赤い婚礼」とは、私たちがよく知っている伝承――結ばれる二人は目に見えない「赤い」糸で結ばれている――というそれをこそ暗示した題名ではなかったろうか?

【二〇一九年十月二十二日:追記】
別な作品について小泉八雲が素材とした実際の事件を調べていたところ、「青空文庫」の本作の林田清明氏の訳と解説(初登録二〇一六年十二月十九日)に、本作の素材としたとされる実際の事件の記事(英文雑誌掲載)と訳、及び、その解説が載るのを見出した(林田清明氏の著作権は存続している。但し、原著(訳)者を表示し、無改変であれば、翻訳著作権者に断りなく自由に利用・複製・再配布が許諾されてある。以下、引用させて戴くが、孫引きは誤りを齎す可能性があるので、なさらず、原ページから成されたい)「赤い婚礼」の解説(図書カード内)に、『松江時代の、“Suicide on Railway”, in Japan Weekly Mail 1891年2月28日付の新聞記事 (同記事の全文と試訳は本文の訳注に掲載)にヒントを得て、約3年弱ほど温められた後、熊本時代に書き上げられて』、本作の初出である明治二七(一八九四)年『 Atlantic Monthly 誌に掲載された』とされ、『上の Japan Weekly Mail 記事の時期の前後にも、作者は実際に松江で起きた若者による心中事件を詳細に書き留めている。1891(明治24)年1月25日と同年4月15日である。1月の事件は作品「心中」でも触れられているが、当事者の源氏名が「よし子」というのも本作品の登場人物名に関連するかもしれない。また主人公たちへの作者の一貫した共感はつぎのものに現れているように思う。「私は変わり者だから、血気盛んな青春時代に恋や名誉のために自殺できるような気性の人々はもっと心が広く、もっとも勇気ある人々の仲間だと信じている。」(「島根・九州だより」(桝本幹生訳)『ラフカディオ・ハーン著作集第15巻』(恒文社、1988)472ー473頁)』とあって、林田清明氏の訳「赤い婚礼」本編の最後の訳註(d)に、以下のようにある。なお、一部に字下げやインデントが成されてあるが、字配はブラウザの不具合を考えて再現していない。これは改変の類には入らないものと思うが、一言断っておく。

   《引用開始》

(d)本作品は “Suicide on the Railway”, Japan Weekly Mail 1891年2月28日付の記事にヒントを得たものと言われている。同記事全文と試訳はつぎのとおりである。

    SUICIDE ON THE RAILWAY
The officials in charge of a train on the Takasaki line reported on Monday at Uyeno a painful incident that occurred on the trip to the capital. After leaving Honjo, about four miles from the station, the train having then attained a high speed, the driver observed two persons standing at the side of the line, and concluded that they intended to cross after the passage of the train. But when the engine was within less than a hundred yards away, the pair, who by this time could be seen to consist of a youth and a girl, the latter exceedingly pretty, turned to each other, embraced, and then, thus clasped together, lay down on the nearest rail. Of course not a moment was lost in the endeavour to stop the train, but on this line vacuum brakes are not in use, and under the circumstances described ordinary brakes were of little value. The train stopped some twenty minutes by the poor mangled bodies, while arrangements were made for their disposal, and during the interval it was found that, being forbidden to wed, the unhappy couple had chosen to die in each other's arms.
(出典:原文画像を参照)

   「鉄道自殺」
 月曜日、高崎線の当局者は東京行上り列車で発生したる痛ましき事故につき鉄道管理局上野駅に報告せり。本庄駅発車後、約六・四キロメートルの地点で高速となりしが、機関士が線路の傍に立てる二名を発見するも、通過後に横断せんとするものなりと判断す。しかるに機関車が一〇〇メートルばかりに接近せしときに、彼の二名が青年と甚だ容姿端麗なる少女なりと認むるも、両名は向き合うと抱擁し、互いをひしと抱き着きたるまま近くの線路の上に横たわりし。直ちに列車を緊急停止せんとするも、本線の機関車には空気圧式ブレーキの装備なく、かかる事情下にありては通常の機械ブレーキは殆ど効かざるにして、停止する能わず。列車は轢断されしを処置せんが為二〇分ばかり停車せり。この間判明せしは、不幸なる両人が結婚を禁じられたるが故に互いの腕に抱かれて死ぬるを選べりしとぞ。
(林田・訳)

   《引用終了》]

 

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