譚海 卷之三 薩摩曆の事
薩摩曆の事
○島津重豪朝臣、明和八年公儀へ御願有(あり)。その邦に天文臺を建(たて)らる。朝士御徒士衆(てうしおかちしゆう)に吉田靫負(かげひ)と云(いふ)人天學に精しく、御取立(おとりたて)にて改曆の事を仰付(おほせつけ)られ、牛込神樂坂に第を賜(たまは)り、高き所なれば殊更に司天臺を築(きづく)に及(およば)ずとて、其地にて測量の事を行(おこなは)れ、三年をへて業(げふ)卒(おは)り、今行(おこなは)るゝ所は則(すなはち)其新曆也。此時節、薩摩より願(ねがひ)ありて、家中一人、鞍負門人になり、隨身(ずいじん)して、曆學、稽古し、其うへ、上京して土御門家へ伺候し、彼(かの)家曆法、悉く傳へ、又、三年をへて、薩州へ歸れり。是より薩摩にても造曆の法、行るゝ也。近來(ちかごろ)、學校をも、その邦に建られ、上梁(じやうりやう)しぬと云(いへ)り。此朝臣、豁達(かつたつ)の人にして書も能書(のうしよ)也、京都にて某檢校平家琵琶に上手なるをも、二百石にて抱(かかへ)られたり。在城中に三重の閣を建られ、八仙卓の興行も時々ありとぞ。鎌倉賴朝卿の墓所をも再興せられし人也。
[やぶちゃん注:「薩摩曆」「さつまごよみ」。安永(一七七二年~一七八一年)頃から薩摩藩で領主及び重役に頒布した仮名暦。幕府天文方より、特例として認められたもので、他の当時の暦にはない独特の暦法を持つ。「薩州暦(さっしゅうれき)」とも呼ぶ。
「島津重豪」(しげひで 延享二(一七四五)年~天保四(一八三三)年)は薩摩藩第八代藩主で島津家第二十五代当主。第十一代将軍徳川家斉の御台所(正室)広大院の父。将軍家岳父として「高輪下馬将軍」と称された権勢を振るった一方で、諸学問やヨーロッパ文化に強い関心を寄せた「蘭癖大名」としても知られる。参照したウィキの「島津重豪」によれば、安永二(一七七三)年、『明時館(天文館)を設立し、暦学や天文学の研究を行っている』とある。
「明和八年」一七七一年。
「朝士御徒士衆(てうしおかちしゆう)」幕府派遣の宮中警護職。
「吉田靫負」ウィキの「天文方」(てんもんがた)の「吉田家」の項に、『佐々木長秀(後に吉田秀長)が宝暦の改暦(宝暦暦)の際に西川正休の息子忠喬の作暦手伝となり、明和元年』(一七六四年)に『天文方に任』ぜられ、『宝暦暦修正事業を命じられた。以後、吉田家は幕末まで天文方を継承した』とあり、そこに『吉田秀長-秀升-秀賢-秀茂』と継承者を載せる。吉田秀長(元禄一六(一七〇三)年~天明七(一七八七)年)は「朝日日本歴史人物事典」によれば、『江戸中期の幕府天文方吉田家の初代。佐々木文次郎長秀と称していたが』、後に『秀長と改め』、『さらに』安永九(一七八〇)年、『本姓の吉田に復し』、『四郎三郎と改めた。宝暦暦の改暦準備で天文方が上京中に』、『西川正休の養子要人の暦作手伝を勤めた。宝暦』二(一七五二)年には『御用もないため』、『出仕におよばず』、『といい渡されたが』、『宝暦暦の欠陥が明らかになると』、明和元(一七六四)年に、『再び召し出され』、『天文方に任命され』、同六年に『宝暦暦の修正案をまとめ』(これが本文の「三年をへて業(げふ)卒(おは)り、今行(おこなは)るゝ所は則(すなはち)其新曆也」とあるのと一致する)、「修正宝暦甲戌元暦」・「修正宝暦甲戌元暦続録」など十四『巻を上呈した。この暦法は明和』八『年暦から用いられたが』、実は『独創性もなく』、ただ『定数を少々変えただけであった』とある。但し、彼に「靫負」の通称は見当たらない。
【2019年8月6日追記】いつもお世話になっているT氏より情報を頂戴した。先に結論を言うと、「吉田靫負」は前の引用に出た「吉田秀升(ひでのり)」で、「吉田秀長」の嫡子(嗣子)であった。T氏の示して下さった「寬政重修諸家譜」卷第千二百九十八(リンク先は国立国会図書館デジタルコレクションの当該頁の画像。])に、
「吉田靫負」は初名を秀房(ひでふさ)、吉十郞、靫負とあって、『明和二年十二月二十八日より父』吉田秀長『に添』ひ『て新曆脩正の事をつとめ、』(中略)『明和四年閏九月十一日』、『天文方見習』ひ『となり、七年四月二十三日』、『さきにうけたまわりし脩正の事』、『成』る『により』、『黃金二枚をたまふ。安永八年十二月二十六日』、『天文方となり、天明七年十二月四日』、『遺跡を繼』ぐ[やぶちゃん注:以下、【 】は割注]『【時に四十三歳』、『廩米二百俵】』。『寬政元年八月十七日』、『さきに阿蘭陀永續曆の和解を改正し、且』、『彼』の『曆は天度に合』は『ざるのむねを述』べ、『別に考ふるところありて』「曆日永年捷見」『となづけし書を献ぜしかば』、『白銀七枚をたまはる。二年五月二十七日』、『御弓槍奉行に轉じ、天文方をかぬ。九年十二月二十七日』、『さきに京師におもむき、改曆の事をうけたまはり』、『つとめしにより黃金五枚をたまはる』とあった。
一方、父「吉田秀長」は初名長秀(ながひで)で、後に文次郎、四郎三郎とあって、『延享三年』、『御徒にめしくはへられ、のち辭して處士となる。明和元年十一月十九日』、『めされて天文方とねり、廩米二百俵をたまひ、二年二月二十二日』、『測量のことをうけたまわり、京師におもむく。』(中略)明和『七年四月二十三日』、『さきに土御門家にをいて[やぶちゃん注:ママ。]、新曆製作あるところ、日食』(につしよく)、『差』(さしつか)『へるにより、秀長脩正すべきむねおほせをかうぶり、』(中略)『黃金三枚を賜ふ。安永八年十二月二十六日』、『御書物奉行に轉じ、九年五月二十七日』、『こふて家號を吉田にあらたむ』とあった。
以上から、T氏はメールで、
《引用開始》
ということで「吉田親子」ともども明暦の改暦に携わっています。
「譚海」の「家中一人、鞍負門人になり」と言う部分は「吉田秀長」「吉田靫負」のいずれに弟子入りしたかは不明ですが、「明和八年公儀へ御願」から考えると、「吉田靫負」が実質、教えたものかと考えます。
《引用終了》
と述べておられる。いつも不明箇所をT氏に助けられる。まことに有り難く、御礼申し上げるものである。
「天學」天体運行及び暦を作成する当時の天文学。
「司天臺」幕府天文方の観測施設。ウィキの「天文方」によれば、『渋川春海が天文方に任じられた翌貞享』二(一六八五)年に『牛込藁町の地に司天台を設置し』、元禄二(一六八九)年に『本所、同』一四(一七〇一)年には『神田駿河台に移転する。春海の没後、延享』三(一七四六)年に『神田佐久間町、明和』二(一七六五)年に『牛込袋町に移り、天明』二(一七八二)年には『浅草の浅草天文台(頒暦所とも)に移った。この時に「天文台」という呼称が初めて採用された。高橋至時』(しげとき)『や間重富が寛政の改暦に従事したのは牛込袋町・浅草時代であり、伊能忠敬が高橋至時の元で天文学・測量学を学んだのも浅草天文台であった。その後』、天保一三(一八四二)年に渋川景佑』(かげすけ)『らの尽力で九段坂上にもう』一『つの天文台が設置されて天体観測に従事した』。その後、明治二(一八六九)年、天文方とともに浅草・九段の両天文台も廃止された、とある。
「土御門家」元来、編暦作業は朝廷の陰陽寮の所轄で、土御門家がそれに当たっていた。「譚海 卷之一 江戶曆商賣の者掟の事」のウィキの「天文方」の引用を参照されたい。
「上梁」棟上げ。
「豁達」度量が広く、小事に拘らないさま。
「閣」底本では編者によってこの字の右に『(階)』と振られてある。
「八仙卓」清朝以前の中国料理の特徴的な正方形の食卓のこと。伝説上の八人の仙人に由来し、一辺に二人ずつで八名が正餐のテーブルであった。現在の中華料理店の円卓も八人掛けが標準である。
「鎌倉、賴朝卿の墓所をも再興せられし」島津重豪が安永八(一七七九)年に建てた供養塔というか、勝手に創り上げた偽墓である。ウィキの「島津氏」によれば、『島津家の家祖・島津忠久が鎌倉殿・源頼朝より薩摩国・大隅国・日向国の』三『国の他、初期には越前国守護にも任じられ、鎌倉幕府有力御家人の中でも異例の』四『ヶ国を有する守護職に任じられて以降、島津氏は南九州の氏族として守護から守護大名、さらには戦国大名へと発展を遂げ、その全盛期には九州のほぼ全土を制圧するに至った。また江戸時代以降、薩摩藩主・島津氏は徳川将軍家と特別な閨閥家となり、幕末期に近代化を進めて雄藩の一つとなって明治維新の原動力となり、大正以降は皇室と深い縁戚関係を結ぶに至る。尚武の家風として知られ、歴代当主に有能な人物が多かったことから、俗に「島津に暗君なし」と称えられる。これにより鎌倉以来』、『明治時代に至るまで家を守り通すことに成功した』。『島津姓については、諸説ありとし、忠久が』元暦二(一一八五)年八月十七日に、『近衛家の領する島津荘の下司職に任じられた後、文治元』(一一八五)年十一月二十八日の『文治の勅許以降、源頼朝から正式に同地の惣地頭に任じられ』、『島津を称したのが始まりとされている。忠久の出自については』、「島津国史」や「島津氏正統系図」に『おいて、「摂津大阪の住吉大社境内で忠久を生んだ丹後局は源頼朝の側室で、忠久は頼朝の落胤」とされ、出自は頼朝の側室の子とされている』。『同じく九州の守護に任じられた島津忠久と豊後の大友能直に共通していることは、共に後の九州を代表する名族の祖でありながら、彼らの出自がはっきりしないということ、いずれも「母親が頼朝の側室であったことから、頼朝の引き立てを受けた」と伝承されていること』が注目される。『忠久は摂関家の家人として京都で活動し、能直は幕府の実務官僚・中原親能の猶子だった。この当時、地頭に任じられても遠隔地荘園の荘務をこなせる東国武士は少なかったと見られ、島津氏も大友氏も軍功ではなく』、『荘園経営能力を買われて九州に下っている形が共通している』とある通り、島津氏は源頼朝嫡流の血脈であるという家伝を保持し続けたのであった。『私の「『風俗畫報』臨時増刊「鎌倉江の島名所圖會」 源賴朝墓」の私の注なども参照されたい。]