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2019/08/11

諸国因果物語 巻之二 二十二年を經て妻敵(めがたき)を打し事

 

     二十二年を經て妻敵(めがたき)を打し事

Megataki

 下㙒國(しもつけのくに)宇津宮めつた町に重右門といふ者あり。田地なども多く持(もち)て、有德(うとく)のもの也。

[やぶちゃん注:「宇津宮めつた町」不詳。「宇都宮市」公式サイト内の「宇都宮市町名一覧」を見ても、それらしき地名は見出せない。変わった名前なので調べてみると、江戸神田にあった。個人サイト「江戸町巡り」の「【神田②】メッタ町」によれば、『神田多町は古くは「メッタ町」と呼ばれた。由来は田地を埋め立てして町家としたからである。延宝年間』(一六七三~一六八一年)『以降は「田町」と呼ばれ、後に「神田多町」に』なったとある。さすれば、この宇都宮の「めつた」も「めった」で「た」は「田」の可能性がある。「田」の字を含む宇都宮の現在町名ならば、多数ある(「多」はない)。特にちょっと気になるのは栃木県宇都宮市幕田町(まくたまち)である(グーグル・マップ・データ。以下同じ)。]

 此重右門を宿として、京都より年久しく通ふ小道具商人(あきびと)あり。竹屋の庄兵衞といふ也。いつも秋の比(ころ)は爰に下り、宇津宮の町、または、日光山の町々に行(ゆき)、その外、京染物・小間物など迄、調(とゝの)へ持(もち)て要用(ようやう)に立ける程に、輪王寺宮(りんわうじのみや)さまを始(はじめ)、坊舍千人位御屋敷[やぶちゃん注:「位御屋敷」で「くみやしき」と読んでいるようである。]その外、社家(しやけ)樂人衆(がくにんしう)のこる所なく、御出入申せし故、手代なども召連(めしつれ)、まい年(ねん)、おりのぼりの度(たび)には、心やすさの儘、かならず、重右門方に逗留したりしに、去る延宝四年[やぶちゃん注:一六七六年。]の春中(はるなか)、

「のぼりせん。」

とて、宵より荷物したゝめ、馬など、やくそくして、寢(ね)たり。

[やぶちゃん注:「輪王寺宮(りんわうじのみや)さま」東叡大王(とうえいだいおう)のこと。ウィキの「東叡大王」より引く。『三山管領宮の敬称の一つ。江戸時代の漢文の教養のある人々の間で、漢文風にこう呼ばれた。「東叡山寛永寺におられる親王殿下」の意味である』。『江戸時代の宮門跡の一つ、上野東叡山寛永寺貫主は、日光日光山輪王寺門跡を兼務し、比叡山延暦寺天台座主にも就任することもあり、全て宮家出身者または皇子が就任したため、三山管領宮とも称された。これは、敵対勢力が京都の天皇を擁して倒幕運動を起こした場合、徳川氏が朝敵とされるのを防ぐため、独自に擁立できる皇統を関東に置いておくという江戸幕府の戦略だったとも考えられる。こうすれば、朝廷対朝敵の図式を、単なる朝廷の内部抗争と位置づけることができるからであり、実際に幕末には東武皇帝(東武天皇)』(北白川宮能久(よしひさ)親王)『の即位として利用している』。『「三山管領宮」「日光宮」「上野宮」「東叡大王」など様々な呼称をもつ。朝廷や公家からは』「輪王寺宮様」、『江戸幕府や武士からは「日光御門主様」、江戸庶民からは「上野宮様」と呼ばれた。漢文の中では東叡大王ともいう』。十三代、続いた。『そのうち第』七『代に限り、上野宮(寛永寺貫主)と日光宮(日光輪王寺門跡)が別人であるが、第』七『代日光宮は第』五『代の重任であるため、人数の合計』は十四『人にはならない。また出身は閑院宮から』三『人、伏見宮から』二『人、有栖川宮から』三『人、あとはすべて皇子であ』った。『主に上野の寛永寺に居住し、日光には年に』三『ヶ月ほど滞在したが、それ以外の期間で関西方面に滞在していた人物もいる』。但し、『歴代中には例外的に天台座主には就任しなかった人も』おり、十三代中、四『人は早世または在位期間が短いため』、『天台座主を兼任していない。最後の公現入道親王も戊辰戦争勃発のため』、『在任期間が短く、天台座主に就任しなかった一人である。東叡山寛永寺貫主と日光山輪王寺門主とは就任も退任も同時であり』、『この二つの地位は即応である。が、天台座主は他の僧侶も任じられるので、在任中は天台座主でない時期があることになるのである』とある。

「樂人衆(がくにんしう)」社寺に付属する雅楽を奏でる伶人。]

 亭主重右門は、夜半(よなか)よりおきて、出立の世話をやきつゝ、拵(こしらへ)たるに、此重右門妻は、

「おさなき子の、煩熱(ほどおり)たり。」

とて、いまだ納戶に寢たり。

[やぶちゃん注:「煩熱」通常は「はんねつ」で「発熱に苦しむこと、或いは、その熱」を意味する。読みの「ほどおり」は歴史的仮名遣としては正しくは「ほとほり」(現代仮名遣ならば「ほどおり」でよい)で、上代よりある語であって、「熱(ほどほ)る」という動詞の連用形の名詞化したもの。「発熱すること、また、その熱気」を謂う。今の「ほとぼりが冷める」の「ほとぼり」の元である。]

 庄兵衞も手代を起し、出たちのしたためなど、仕舞(しまひ)、馬も荷を付て待て居る程なれば、

「京へたち出る。」

とて、重右門にも暇ごいして出んとしけるが、

「いつも御内義の御目にかゝるに、子ども衆、寢させて居たまへばとて、暇ごひせぬも、心がゝり也。」

とて、態(わざ)々、納戶の口まではいりて、

「やがて下(くだ)り申べし。たゞいま、上方へのぼり申也。」

といへども、返事せず。

『よく寢いり給ひたり。』

と、出(いで)んとする時、何やらん、足に、

「ひやひや。」

と踏(ふみ)つけたり。

 氣味わろく覺えて、立出(たちいで)つゝ、灯(ひ)の影にて見れば、血也。

「こはいかに。」

と、驚(おどろき)て、重右門にも見すれば、重右門も周章(あはて)て、いそぎ、火をとぼし、納戶に行て見れば、女房は何ものか殺しけん、一かたなにさし殺して、首は取てや歸りけん、むくろばかり、有。

「こは、何ものゝ仕業ぞ。」

と家(や)さがしをして尋(たづぬ)れども、斬人(きりて)しれず。

 庄兵衞も、此難義、見すてがたくて、其日は旅立をやめける。

 扨、一門を呼(よび)て、さまざまと談合し、相手を吟味するにいたりて、舅(しうと)のいふやう、

「是程にせんさくすれども、他所(たしよ)より來りたる体(てい)もなく、血のこぼれたる筋もなきは、不思議なり。兎角、心やすき中也。」

とて、人の妻女たる者の寢間へ踏込(ふみこみ)て、いとま乞せしも心得ず。是は庄兵衞が殺(ころせ)しに紛(まぎれ)なし。」

といふ。

 重右衞は、又、日比(ひごろ)の氣だてをも知りたる上に、殺さぬとは知れたる事なれば、達而(たつて)、いひわけを立(たて)、庄兵衞も、さまざま恐しき誓文(せいもん)を立(たて)て、いひわけをすれども、舅は、中々、聞入(きゝいれ)ず。

 剩(あまつさへ)、重右門迄、うらみける程に、是非なく、庄兵衞をつれて、奉行所へ出たり。檢使(けんし)なども請(うけ)しかども、分明(ぶんめう)ならぬにより、終にいひわけ立がたく、庄兵衞は、しばらく牢舍(ろうしや[やぶちゃん注:ママ。])せしかども、誰(たれ)ありて庄兵衞が科(とが)なき樣(よう[やぶちゃん注:ママ。])を申ひらく者なければ、程なく切るべきに極りける故、手代、なくなく、死骸を申請けるに、骸(むくろ)ばかりを給りしかば、新町口の㙒はづれ、海道ちかき所に埋(うづ)め、心ばかりのとぶらひを勤(つとめ)、重右門にも暇こひて、上方へのぼりぬ。

[やぶちゃん注:「新町」栃木県宇都宮市新町か。]

 京には、其おりふし、三才の子あり。庄市郞といひしを、亭主に立て、庄兵衞と名のらせ、後家(ごけ)も、ういうい敷(しく)、後(うしろ)見をして家を治め、手代、また二心なくかせぎけるほどに、分限(ぶんげん)も存生(しやう)の時にかはらず、けふと暮(くれ)、明日(あす)と移りて、庄兵衞も、今は二十二才になりぬ。是また、利發にて親の跡をよく仕にせ、年々の仕込(しこみ)おりのぼりの算用、諸事、手代と心を合せて働けるに、今年、元祿八年のころは、手代も、やうやう、年よりたれば、

「田舍下りも心うし。今よりは、又、珍ら敷(しき)下㙒(つけ)へも下り給へ。」

とて、引付[やぶちゃん注:紹介。]のため、此手代が案内して、庄兵衞をつれ下りぬ。

[やぶちゃん注:「よく仕にせ」「能く仕似(しに)せ」であろう。

「仕込(しこみ)おりのぼり」「仕込(しこみ)」(製品の「原価」か)の「下(お)り上(のぼ)り」で「高低」であろう。]

 いつもの宿なれば、重右門方に落着、庄兵衞をも引渡しける序(ついで)、

「親庄兵衞の墓所をも敎(をしへ)申さん。」

とて、同道したりしに、折しも、此庄兵衞、石塔にむかひ拜み居たるを見て、其あたりを通り合せし百性[やぶちゃん注:ママ。]二人づれにて、此ていを見て、偸(ひそか)にいひけるは、

「誠にあの墓を見るにつきても、いたわしや。無實ゆへ[やぶちゃん注:ママ。]に、あたら、商人を殺したりける勘左衞門こそ憎けれ。」

と囁(さゝやき)けるを聞とがめて、庄兵衞、何となく此人に引そふて問(とひ)聞けるに、

「元來、此重右門が妻は、美人にてありし也。蓬萊町にて歷々の人の娘なりしを、此人の方へ呼(よび)むかへて、此杉原町に勘左衞門とて貧なる鍛冶(かぢ)ありしが、筋なき戀を仕かけ、かなはぬを恨みて、ある夜、忍び込て、殺せし也。」

と、語りしかば、是より敵(かたき)の名、露顯して、重右門と心をあはせ、奉行所へ申けるに、早速、勘左衞門はめしとられ、段々の責(せめ)にあひて、科(とが)のほど、顯れ、打首になりぬ。

「扨、庄兵衞には神妙なる仕形、主從ともに、めづらしき心ざしの者也。此度の恩賞に、汝が親庄兵衞を、二たび、歸し下さる。」

との仰也。

 手代も庄兵衞も、不審、晴がたく、

「一度、死罪にあひたる人を、今また、御免(ゆるし)とは。いかゞ。」

と思ふに、程なく、上りやより、白髮の老翁を召つれて來るを、能(よく)見れば、

「なる程。旦那也。」

と、手代のいふに驚きぬ。

「こは。いかなる事にて、此世にはましませしぞ。」

と問(とひ)けるに、奉行所の御發明(はつめい)より出たる事とぞ。其故は、

「重右門が妻は殺されしかども、庄兵衞が科にあらぬ證據は、夫の重右門、『妻敵(めがたき)は庄兵衞ならず』といふにて、明白なり。舅は庄兵衞に科を課(おほせ)しも一理あり。去(さる)によりて、庄兵衞を科に落ざれば、此論(ろん)、長く止(やま)ず。誤(あやまり)て庄兵衞を殺し、後にまことの科人出たる時は、政道あきらかならざる所ある故に、しばらく僞(いつわり[やぶちゃん注:ママ。])て、外の罪あるものを庄兵衞と号し、御成敗ありしゆへ[やぶちゃん注:ママ。]、今、此時節にいたりて、親庄兵衞を渡し給ひたり。」

とぞ、有がたき御仕置(しおき)なるべし。

[やぶちゃん注:名奉行の采配で、めでたしめでたしとなる、如何にも拵えた感のある終わり方である。しかし、斬罪にされるよりはマシとはいえ、十九年の間(後述)、牢屋に入っていた庄兵衛の苦痛を考え、また、百姓たちが真犯人をとっくに知っていたことを思えば、この奉行、ロクな探索もさせず、実はその大呆け振りが逆に見え透いていくるというものであろう。なお、後半部の時制は元禄八(一六九五)年となるが、考えてみると、この標題はおかしいことに氣づく。「二十二年」は子の庄兵衛の年齢であって、重右門の妻が殺害された延宝四(一六七六)年には子庄兵衛(幼名庄市郎)は「三才」だったのだから、ここは「二十二年」ではなくて「十九年」でなくてはおかしいのである。しかも「妻敵(めがたき)を打し事」というのも重右門主体の謂い方であるが、本篇では彼は舞台の奥に見えるだけで、人品も今一つちゃんと描かれていない(ちょっと失敗している)。寧ろ、庄兵衛父子こそが本話の主体者たちなのであるから、「十九年を經て父の敵(かたき)を打し事」の方がより正しいと言えるのではあるまいか?

「蓬萊町」現在の栃木県鹿沼市蓬莱町か。宇都宮の西近くでロケーションとして問題はない。

「杉原町」現在の栃木県宇都宮市塙田(はなわだ)附近と思われる。ウィキの「塙田」の記載に『杉原村の一部』が塙田であること見られたい。

「上りや」「あがりや」で「揚がり屋」のことであろう。江戸にあったそれは、御目見 (おめみえ)以下の武士や僧侶・医師・山伏などの未決囚を収容した牢屋。小伝馬町の牢屋敷にあった(対して、五百石以下で御目見 以上の旗本の未決囚を収容した幕府の牢屋は「揚がり座敷」と称し、監房は独居制で、同じ小伝馬町の牢屋敷の一隅にあった)。ここは単なる未決囚の牢のということであろう。]

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