諸国因果物語 巻之五 美僧は後生のさはりとなる事
美僧は後生のさはりとなる事
鎌倉建長寺のかたはらに、念性司(しやうず)といふ所化(しよけ)あり。生れつき美くしく器量よき僧にて學問も人にすぐれ、手をよく書けるほどに、人のもてはやしも、おほく、心ばへ[やぶちゃん注:ママ。]、又、やさしき人がらなれば、若きも老たるも、
「念性、念性。」
と、いひて、馳走し、假初(かりそめ)の齋(とき)・非時(ひじ)にも、かならず呼(よび)、衣類のすゝぎなども、我人と、あらそひて、此僧の事には隙(ひま)をいとふ事なくぞありける。されば、ゆくゆくは事なくぞありける。されば、ゆくゆくは似合しき寺にも肝いりて自他の菩提をも心よくとぶらはればやとおもふ者も、すくなからざりける。
[やぶちゃん注:「建長寺」流石に鎌倉史をずっとやってきた私にして注を附ける気になれない。私の「新編鎌倉志卷之三」をリンクさせておく。「かたはらに」とあるが、建長寺外を考える必要はあるまい。話の展開からも建長寺の塔頭の一つと読んで問題ない。なお、ここにあるような伝承や類似譚は鎌倉には全く現存しない。
「齋(とき)・非時(ひじ)」仏教では僧の戒律として、本来は正午を過ぎての食事を禁じており、食事は日に午前中に一度のみ許される。しかし、それでは実際には身が持たないので、時間内の正式な午前の食事を「斎食(さいじき)」「斎(とき)」と呼び、午後の時間外の補食を「非時食(ひじじき)」「非時(ひじ)」と呼んだ。それらの語が時刻に関わるものであったところから、後に仏教では食事を広く「とき」と呼ぶようになった。さすれば、「とき」には「僧侶や修行者が戒に従って、正午前にとる正式な食事」又は「精進料理」、広く「法会の際に供される施食(せじき)」、果ては「法会や仏事の俗な呼称」になった。それにつれて、破戒僧も等比級数的に増殖したと言えるだろう。]
此所の地頭より世話をやかれ、龜谷坂のあたりに草堂を取たて、念性司を爰(こゝ)に居(すへ)たりしに、近鄕の百性ども、おのづから此僧になつき、纔(わづか)半年ばかりが間に、樣子よく居黑め、しほらしく住つきけるまゝに、折ふしは、鎌倉一見の旅客(たびゝと)、あるひは、貴人(きにん)の御馬をもよせらるゝ程なり。
[やぶちゃん注:「地頭」江戸時代には知行取りの旗本を指す(又は各藩で知行地を与えられて租税徴収の権を持っていた家臣も指す)。現在の鎌倉や大船地区の多くは、江戸時代はさえない農漁村となっていて、寺社領以外は複数の旗本に、かなり神経症的に細かく分割されて与えられていた。
「龜谷坂」「かめがやつざか」。底本は「谷」の右に『かへ』と振るが、採らない。建長寺門前から百八十メートルほど県道二十一号を大船方向に戻ったところを、左南西に扇が谷(おおぎがやつ)に下る亀ヶ谷坂。坂上の角(北西)に臨済宗建長寺派宝亀山長壽寺がある。]
爰に粟舩といふ所に、小左衞門後家といふものあり。年、やゝ六十にあまり、七十にちかき身にて、子は一人もなく、纔の田地を人にあてゝ、身のたすけとしけれども、万(よろづ)たのしき後世(ごせい[やぶちゃん注:ママ。「ごぜ」が普通。])なりしかば、あけくれ、寺まいりを事とし、假(かり)にも仏道を忘るゝ事なく、賴(たのも)しき行跡(こうせき)也しかば、
「此人なくては、仏になるべき人もなし。」
などゝ、世のうわさにもいひなしける人也けるに、此後家、過(すぎ)し元祿十年[やぶちゃん注:一六九七年。]の冬、腹をわづらひて死(しに)けるを、彼(かの)念性に賴(たのみ)て、とりをき[やぶちゃん注:ママ。]、位牌なども、此草堂に居(すへ)て、毎日の仏餉(ぶつしやう)、夜毎(よごと)、廻向(えかう)をもうけさせける念性も、油斷なく勤(つとめ)、おこたらぬ人也しかば、朝暮(てうぼ)、佛前のつとめ、かゝさず。
[やぶちゃん注:「粟舩」「あはふね」。底本は「粟」にのみ「あふ」と振るが、採らない。現在の私の住んでいる大船の古い広域呼称。中世前までは現在の境川から柏尾川の筋を深沢やおこ大船地区近くまで粟を満載した輸送用の大型船が進入出来たことに基づくとされる。
「仏餉(ぶつしやう)」「仏聖」とも書き、仏に供える米飯。「仏飯(ぶっぱん)」「仏供(ぶっく)」。]
ある夜、逮夜に行事ありて、おそく歸り、
「いまだ、けふの勤もせざりけるよ。」
と、いつもの如く、佛前にむかひ、香などもりそへ、燈明のあふらなとさして行ひにかゝらんとせしに、彼後家が位牌、にはかに、手足出來て、うごき出たり。
[やぶちゃん注:「逮夜」(たいや)ここはこの老女の月命日の前夜のことととっておく。]
「こは、いかに。狐狸(きつねたぬき)の我をたぶらかさんとて、かゝるあやしき事をなすにや。」
と、心をしづめ、
「きつ。」
と、座しけるに、此いはい[やぶちゃん注:ママ。「位牌」は「ゐはい」が正しい。]、佛壇よりおりて、念性に、とりつき、
「かなしや、我、此世にありける間は、年の程に恥(はぢ)、人めをおもひて、露ばかりもいはず、死しては、此まよひによりて、成仏(じやうぶつ)に疎(うと)く、中有(ちうう[やぶちゃん注:ママ。])にまよふこそ悲しけれ、我、念性司の庵に、毎日、おとづれ、佛餉を手づから奉り、衣(ころも)のせんたく、こぶくめの縫くゝり迄、二こゞろなくつとめしを、何と請(うけ)給ひしぞや。語り出すも恥かしながら、我、君(きみ)に心ありて、人しれぬ戀とはなりぬれども、今までは、つゝみ參らせし。今此はかなき姿なりとも、一たびの枕をかはし給はゞ、浮世の妄執、はれて、年ごろのつみ、すこしは消滅すべし。」
[やぶちゃん注:「成仏(じやうぶつ)」「ゆまに書房」版は『処仏』と翻刻するが、これでは意味も採れず、読みもおかしいので、採らない。
「中有(ちうう)」(歴史的仮名遣は「ちゆうう」でよい)は「中陰」に同じ。仏教で、死んでから、次の生を受けるまでの中間期に於ける存在及びその漂っている時空間を指す。サンスクリット語の「アンタラー・ババ」の漢訳。「陰(いん)」・「有(う)」ともに「存在」の意。仏教では輪廻の思想に関連して、生物の存在様式の一サイクルを四段階の「四有(しう)」、「中有」・「生有(しょうう)」・「本有(ほんぬ)」・「死有(しう)」に分け、この内、「生有」は謂わば「受精の瞬間」、「死有」は「死の瞬間」であり、「本有」はいわゆる当該道での「仮の存在としての一生」を、「中有」は「死有」と「生有」の中間の存在時空を指す。中有は七日刻みで七段階に分かれ、各段階の最終時に「生有」に至る機会があり、遅くとも、七七日(なななぬか)=四十九日までには、総ての生物が「生有」に至るとされている。遺族はこの間、七日目ごとに供養を行い、四十九日目には「満中陰」の法事を行うことを義務付けられている。なお、四十九日という時間は、死体の腐敗しきる期間に関連するものとみられている(以上は小学館「日本大百科全書」に拠った)。
「こぶくめ」判読・字起こしに非常な時間がかかった。「ゆまに書房版は『とふくめ』とするが、従わない。これは「小服綿(こぶくめん)」の省略形である。「小服綿」とは、僧侶が着用した十徳(じっとく:「直綴(じきとつ)」の転か。男子の上着の一つで、丈は短く、羽織に似る。武家のものは素襖(すおう)に似ていて胸紐がある。鎌倉末期から用いられ、中間や小者は四幅袴(よのばかま)の上に着た。江戸時代には医師・儒者・茶人などの礼服となった)に似た略衣で、白色の袷(あわせ)が通常であったが、尼は紅色を着用することもあり、室町時代頃から用いられた。また、広く「綿入れの着物」の意にも用いる。以上は小学館「日本国語大辞典」によるが、それを確定し辞書を引くに至るまでに、最大の確信を与えて呉れたのは、昭和二三(一九四八)年中央公論社刊の真山青果著「西鶴語彙考証 第一」の「こぶくめ」であった(国立国会図書館デジタルコレクションの画像)。心より感謝する。]
などゝ、かきくどきけるに、念性も、今は、心みだれ、おそろしさいふばかりなければ、ふり切(きつ)て迯(にげ)けるに、足もとなる火桶より、雀(すゞめ)、いくらともなく飛出(とびいで)、念性をとりまはし、つゝきかゝりし程に、
「なふ、かなしや、たすけ給へ。」
と、大こゑをあげて、なげきさけびけるこゑにおどろき、近邊の人ども、出あひ、先(まづ)、念性を引すへ、氣付(きつけ)などのませ、聞きゝけるに、右のやうすを語りぬ。
「あまり、ふしぎなる事也。よもや、さほどの怪しみ、あるべき事に、あらず。定(さだめ)て、氣のくたびれしより、物にさそはれ、かゝる怪しき事、見たまひし事ぞ。」
と、藥などのませて、夜ひとよ、人々とりまわしつゝ[やぶちゃん注:ママ。]、守りあかしけるに、何事もなかりしまゝ、みなみな、心ゆるして、歸りぬ。
又の夜は、近所の人、
「もしや、心あしき事もこそ。」
と、宵の程、かはるがはる、見まひしに、事もなし。
いよいよ、藥など、すゝめ置て、
「又、明日(あす)こそまいらめ。」
と、いひて、歸りぬ。
それより、二、三日も過(すぎ)て、ある朝(あした)、久しく草堂の戶のあかぬ事あり。
「いかなる事ぞ。齋(とき)に行(ゆか)れつる体(たい)もなかりしが。」
と、不審して、窓(まど)よりのぞきて、聲をかくるに、答(こたへ)ず。
戶は、内よりしめたれば、門口よりはいるべき樣もなくて、心もとなきまゝに、生垣(いけがき)をくゞり、庭より簀(す)がきの下(した)へ、人を入つゝ、居間を尋(たづね)させけるに、念性が咽吭(のどぶえ[やぶちゃん注:ママ。])、くひ切(きり)たるあと有て、佛壇の間に、ふんぞりて、死(しゝ)てあり。
「こは、いかに。」
と、あたりを見れば、後家が位牌に、血、つきて、彼(かの)くひかきたる咽ふゑの、皮肉(ひにく)、此まへにありけるこそ、ふしぎなれ。
[やぶちゃん注:位牌に手足が生えて変化した七十歳に近い老女の亡霊から、若き美僧が「一たびの枕をかはし給は」れと言い寄られるシークエンス、コーダの、喉笛を喰いちぎられて死んだ彼のそばに、後家の位牌が血だらけになってあり、その前に美僧の喉笛の皮と肉が飛び散っていたというそれは、想像するだに素敵に慄っとするではないか?!]
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