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« 大和本草卷之十三 魚之上 いだ (ウグイ) / 魚之上(河魚)~了 | トップページ | 諸国因果物語 巻之一 炭燒藤五郞死して火雷になりし事 »

2019/08/07

青木鷺水 諸国因果物語 始動 / 序・巻一目録・巻之一 商人の金を盗み後にむくひし事

 本カテゴリ「怪奇談集」で青木白梅園主鷺水「諸國因果物語」の電子化注に入る。

 青木鷺水(あおきろすい 万治元(一六五八)年~享保一八(一七三三)年)は江戸前・中期の俳人で浮世草子作家。名は五省、通称は次右衛門、白梅園(はくばいえん)は号。京都に住んだ。俳諧は野々口立圃或いは伊藤信徳門下であったと思われるが、松尾芭蕉を尊崇し、元禄一〇(一六九七)年跋の「誹林良材集」の中では、彼は芭蕉を「日東の杜子美なり、今の世の西行なり」(日本の杜甫であり、今の世の西行である)と絶賛している(「早稲田大学古典総合データベース」の同書原典の当該頁画像を見よ。但し、彼が芭蕉の俳諧に倣おうとした形跡は殆ど認められない)。「俳諧新式」「誹諧指南大全」などの多くの俳書を刊行したが、元禄後期からは、浮世草子作者として活躍し、本書の他、既に本「怪奇談集」で電子化注を完結している「御伽百物語」(六巻)・「古今堪忍記」(七巻)・「新玉櫛笥」(六巻)などを書いた。

 本「諸國因果物語」宝永四(一七〇七)年に江戸で開版したものであり、末尾の筆者本人の跋文の冒頭で、『近代諸國因果物語六卷はさきたちて梓(あづさ)に入(いれ)し百物語の撰次後編(せんしこうへん)なり』とあり、末尾には『近日出來申候』との後添えを持つ「近代 芭蕉翁諸國物語」全六巻の広告もあり(但し、こちらは刊行されなかったようであり、原稿も残っていない)、それを合わせて三部作と成し、確信犯で「百物語」+「因果物語」+「諸国物語」という仮名草子怪異小説の全パターンを開陳する算段であったことが判る。それだけに、彼が尊崇した芭蕉仮託の「芭蕉翁諸國物語」が開版されなかったことは返す返すも惜しい。

 私は同作を昭和六〇(一九八五)年ゆまに書房刊・小川武彦編「国文学資料文庫三十四 青木鷺水集 第四巻」で所持しているが、生憎、当該書は新字体表記であるので、加工データとして当該書をOCRで読み込み、それを改めて「東京大学附属図書館霞亭文庫」の当該板行原本画像で視認し、正字化することとした。挿絵(絵師不詳)は、その「ゆまに書房」版を使用させて貰った。見開き二枚の場合は、合成して近づけていおいた(因みに言っておくと、パブリック・ドメインの芸術作品を平面的に写真に撮っただけのものには著作権は発生しないというのが文化庁の見解である。そもそも日本の公立美術館サイトやある種の古典籍の刊行本に、パブリック・ドメインの平面絵画画像や挿絵に対して著作権を偉そうに主張しているのを見かけるが、これらには実は全く法的根拠はないのである。外国人から見ると、これは頗る異常に見えるものと思われる。海外の美術館で写真撮影が禁止されていること自体が稀である。日本はそうした意味で、芸術作品の非現代的な占有が未だにまかり通っている事実はもっと批判されねばならないといつも思っているので、一言、謂い添えておく。但し、「ゆまに書房」版にはそのような不当な注意書きはないので誤解のないようにされたい)。

 原本はかなりの漢字に読みが振られているが、それは私が読みが振れると判断したもののみに附すこととした。「ゆまに書房版」は翻刻に於いては正統派で、句読点を打っておらず、原本通り、全一話ベタ書きを踏襲しておられるが、少し長いものでは、それはかなり読み難い。そこで、私の判断で句読点・記号・字下げ等を加え、台詞及びシークエンスごとの改行等を施して読み易くした。踊り字「〱」は正字化した。なお、「ゆまに書房版」は変体仮名の「八」「三」のそれをカタカナ「ハ」「ミ」等で起しているが、私は生理的に厭なので「は」「み」等とひらがなで示しておいた。原本の漢字の崩しで表記に迷った場合は正字を採用した。また、本書には濁点は一切ない(これが寧ろ難読の元凶)で「ゆまに書房」版でも同様)が、大幅に私の判断でそれを加えた(例えば、先に引用した跋の「梓」の読みは「あつさ」であり、以下の「序」の冒頭の「しばしば」は「しはしは」である)、無論、それは多量であるので、特に注記を入れていない。時には濁点に誤りがあるかも知れぬ。清音であれば意味が大きく変化すると感じられた方は御一報戴けると嬉しい。

 必要と認めた語等については、文中或いは段落末・各話の末尾にストイックに注を附した。【2019年8月7日始動】]

 

 諸國因果物語

 

    序

 月波(つきなみ)の會、滿座の後(のち)、しばしば酒など酌(くみ)かはして、かたみに好(すけ)る道の事、こしかたの事、面白きおかしき心にうつり行まゝに語りあはせ、いどみあふ中に、生德(しやうとく)、はなしを好(すき)て、爰(こゝ)かしこ、浮岩(うかれ)ありき、古きあたら敷(しき)の品(しな)を、わかず、聞入て、おもしろがる人、有。しかも、

「今宵は當(とう)にあたりたり。」

とて、日のうちより、袴うち着て、我が梅園の筵に庖丁を取、膳をふくの、世話燒(せわやき)に來りぬ。されば、連衆(れんじゆ)よりのぞみけるは、

「亭主かたの氣にすける取なり、けふの骨折がいに、いざ、何てまれ、はなしを始てよ。」

といふ程こそあれ、各(おのおの)こぞり、寄耳(よりみゝ)をかたぶけ、額をあつめ、

「何をがな。」

と案じわづらふに、例の亭主がいはく、

「いざとよ、かゝる大勢が中には、手打、腹かゝゆるやうのはなしは、必(かならづ)、かまびすしき物ぞ。彼(かの)女・わらはべの交(まじらひ)に、おのかじゝ、語り出しても、跡、こはし。」

などゝいひさして、

「おぢおのゝくなる因果はなしこそ、望(のぞま)しけれ。」

とつぶやく。

「さらば、夫(それ)こそやすけれ。」

迚の事に、

「新しく、聞(きゝ)なれぬを。」

と、極(きは)めて、かたはしより、順講(じゆんかう)のごとく、せがみ立て、語らせ賡(つぎ)けるほどに、いつとなく、はなしの數つもりて、是も六卷の文書とはなれりける樣る

           白梅園鷺水撰

成る

[やぶちゃん注:本文の最後の「樣る」(推定判読)と末尾の「成る」(同前)は「ゆまに書房版」にはない。思うに、この「成る」は「樣る」を誤ったのを「見せ消ち」で直したものではないかとも思われる。識者の御教授を乞う。

「浮岩(うかれ)ありき」水面に浮いている軽石が流れ動くことに換喩したものであろう。樋口一葉の「曉月夜(あけつきよ)」(明治二六(一八九三)年発表)の冒頭に、『櫻の花に梅が香とめて柳の枝にさく姿と、聞くばかりも床しきを心にくき獨りずみの噂、たつ名みやび男(を)の心を動かして、山の井のみづに浮岩(あくが)るゝ戀もありけり』とある。

「今宵は當(とう)にあたりたり」「今夜は私が接待の役に当たりましょう」の謂いか。

「亭主かたの氣にすける取なり」先の接待役を自律的に引き受けた男と鷺水の亭主方(がた)の、如何にも細やかな気配りと執り成し方。

「骨折がいに」「がい」はママ。「骨折り甲斐に」。接待への報謝として。

「いざとよ、かゝる大勢が中には、手打、腹かゝゆるやうのはなしは、必(かならづ)、かまびすしき物ぞ。彼(かの)女・わらはべの交(まじらひ)に、おのかじゝ、語り出しても、跡、こはし。」「いやいや! このように大勢が集まった中にあっては、手を打って、腹を抱えるような面白い話は、必ずや、さわにあって大騒ぎとなろうほどに。聴いたそれをまた、のちのち、女子(おなご)や頑是ない子どもらとの交わりの最中、おのおの方がこれ、軽率にうっかりと話しまうと、あとあと、面倒なことになろうぞ。」といった謂いか。ここで鷺水が警戒しているのは艶笑話ではないかと私は推測している。

「極(きは)めて」決して。一同、約束して。

「順講(じゆんかう)」順番に講義・話をすること。既にして百物語の体裁である。

「賡(つぎ)ける」「賡」は音「ショク・ゾク・コウ・キョウ」で「継ぐ・続ける」の意。

 以下、巻之一の目録。各標題は原本では四字下げであるが、引き上げた。]

 

 

諸國因果物語卷之一

商人(あきんど)の銀(かね)を盜(ぬすみ)て後に報(むくひ)し事

炭焼藤五郞死して火雷(ひかみなり)になりし事

男の亡念下女の首を絞殺(しめころ)せし事

山賊(やまだち)しける者佛罰(ぶつばち)を得し事

妻死して賴(たのみ)を返(かへ)せし事

 

 

諸國因果物語卷之一

     商人の金を盜み後にむくひし事

Akindo

 元祿三年の比(ころ)なりしか、京より河内(かはち)がよひして、木綿の中買(ちうかい[やぶちゃん注:ママ。])するものあり。名は㐂(き)介とぞいひける。

 惣(そう)じて、かやうのたぎひは、木綿類によらず、何の道にても、根元(こもと)[やぶちゃん注:製造元。]へ行て買出(かひいだ)すは、まどしき物なり[やぶちゃん注:「その作り手は貧しい者たちである」の謂いか。]。されば、此㐂介も、年ごろ通ひなれ、よくその買(かひ)口を知るといへども、家ごとに五十端・二十端と織(おり)ためてある事、なし。此ゆへに、一日一日と日數をこめて[やぶちゃん注:詰めて。そうしないと品のストックがなくなるからである。]、爰かしこをかけめぐり、二反・三反づゝ買とり、二圓(まる)[やぶちゃん注:「圓」は布巻物の数詞。]・三圓と荷ごしらへして、京に持はこびつゝ、渡世とする事なり。

 此年の霜月廿日に、また、いつもの如く仕入せんため、金三四十兩、打かえ[やぶちゃん注:「打交」で「うちかへ」が正しい。着物の裾の打ち合わせたところ。広い意味の「裾」。]にいれ、河内に下り、爪割村(うりわりむら)といふ所に常宿ありければ、先[やぶちゃん注:「まづ」。]、是に落着(おちつき)て休みぬ。

 明(あく)れば、平㙒(ひらの)・万願寺・六万寺などゝいふ村々をめぐりて、かいためし[やぶちゃん注:ママ。]、木綿どもを宿へはこばせ、暮かゝる空ともいはず、いつもありきなれたる所とて、猶、織(おり)おろしを買んため、山よせの㙒を、はるばると行過(ゆきすぎ)ける比、山畠に出し百姓どもは、暮ちかくなる鐘と共に、おのが里々へ歸りける折なれば、人影とては一人もなかりけりと見えて、いともの淋しき㙒景色也。

 爰に大窪村ちかく、追頭越(おふたうごゑ[やぶちゃん注:ママ。])にかゝる山よせの畑に、山畑村(やまたけむら)より出作りせし弥右衞門といふもの、其日はおそく仕舞(しまひ)て、たゞ一人、鋤(すき)打かたけ、歸らんとせし折から、此㐂介を見付、

『肝ふとき旅人かな。定て此筋を暮(くれ)て急がぬは、木綿男なるべし。あはれ、金もこそあるらめ。折ふし、見とがむる人かげもあらず。打殺して取ばや。』

と、おもひけるより、音もせず、とある木かげに待かけたるを、㐂介は、かゝる事もしらず、鼻歌を諷(うた)ひて何こゞろなく行過る所を、弥右衞門、うしろより鋤をふりあげ、なさけなく大けさに打かけしに、絕入(ぜつじゆ)して、眞(ま)あふのけに仆(たを[やぶちゃん注:ママ。])るゝ所を吭(ふゑ)[やぶちゃん注:のどぶえ。]のあたりを、散々に衝切(つききり)、先、ふところへ手を入て見るに、案のごとく、金子二十四、五兩もやあるらんと見えて、小(ちいさ)き宰府に入たるを、『天のあたへ』と悅び、この金を取て、弥右衞門は、ひそかに歸りぬ。

 屍(かばね)はいたづらに狼の餌食となり、手足を、爰かしこに引ちらしけるを、明(あく)る日、里の者ども見付、やうやうに取隱し、山ぎわに埋(うづ)みぬ。

 此事のありさま、誰(たれ)しる人もなくて、七年を過(すぐ)しけるに、弥右衞門、手まへ、何としても次㐧に不仕合つゞき、今日を暮すべき手だてもなく成ゆくまゝに、

『彼(かの)大窪の田畠(でんぱく[やぶちゃん注:ママ。])を質(しち)に入、綿作る糞(こやし)が銀にもせばや。』

と思ひ、庄屋・肝煎(きもいり)を賴み、垣内村(かきのうちむら)の冨貴(ふうき)なる家に談合しかけ、金二十七兩を借りとゝのへ、此よろこびに酒(さけ)長(ちやう)しけるほどに、日くれて、三人打つれ、山畑村へと歸りしに、折しも、廿三日の夜なりしかば、月は眞夜半(まよなか)ならで出る氣色なく、宵の明星、あかあかと暮わたる空にきらめき、薄々と、物の色あひ、見ゆる比、彼(かの)追頭越(おふとうごゑ[やぶちゃん注:ママ。])ちかくなりゆくまゝに、弥右衞門にも、与風(ふと)、おもひ出るまゝ、

『哀や。過(すぎ)つるころ、もめん買を手にかけて金を奪ひしも、爰の程にこそ。』

と心の内に念佛して足ばやに行すぐる、遙(はるか)の後(うしろ)より、

「弥右衞門、弥右衞門。」

と呼かへす者、あり。

「こは誰(たれ)ぞ。聞なれぬ聲なるが。」

と立歸りてとがむれども、後先(あとさき)に人かげとては、見えず。

 又、打つれて行んとすれば、又、

「弥右衞門。」

と呼(よぶ)ほどに、庄屋も肝煎も、何とやらん、うす氣味わろく、足ばやになりて、さきへ步むに、弥右衞門は、いかにしても不審はれず、身の毛たちて、氣味わろけれども、

『何ものなれば、我をよぶにや。若狐(ぎつね)などのたぶらかすにてあらば、打殺しても、のけばや。』

の心にて、其あたり、木陰(こかげ)、山よせの草むらなど、心を配りて見まわりしに、思ひもよらず、弥右衞門が足もとより、大きなる聲を出して呼(よぶ)。

「はつ。」

と、おもひて、さしのぞくに、いかにも、しやれたる髑髏(どくろ)なり[やぶちゃん注:「しやれ」は「曝(さ)る」の連用形の音変化。永い間、陽や風雨に曝されてて形が崩れるの意。]。

『扨は。日ごろの怨念、この頭(かしら)に殘り、今、また、我を呼(よぶ)なりけり。』

と、おもふに、首筋より、つかみ立るやうなりしかば、つきたる杖に、此されかうべを指(さし)つらぬき、

「己(おのれ)、にくい奴かな。我、手にかけてより此かた、七年なるべし。尤(もつとも)うらみは有べけれども、其恩には、我、またとふらふ事、度々なるに、今、我名を呼(よび)て、何とするぞ。」

と、つぶやきなから、やかて遙の脇へ投(なげ)やり、何の氣もなき顏して歸りける。

 その隙(ひま)に、庄屋・年寄などは歸りたりと思ひしに、此ふしぎに心もとなく、弥右衞門をあながちに呼(よび)しも疑はしくて、こはく、物かげに隱れ、此ひとり言(ごと)を聞屆(とどけ)しより、弥右衞門が惡事、つゐに露顯して、奉行所にひかれ、御仕置にあひけるも、ふびんの事也。

[やぶちゃん注:「爪割村(うりわりむら)」現在の大阪市平野区瓜破(うりわり)附近(グーグル・マップ・データ。以下同じ)。

「平㙒(ひらの)」大阪府大阪市平野区附近

「万願寺」大阪府八尾市東山本町(ひがしやまもとちょう)及びその南の東山本新町附近の旧地名。

「六万寺」大阪府東大阪市六万寺町附近

「大窪村」大阪府八尾市大字大窪附近。

「追頭越」この文字列ならば歴史的仮名遣は「おふとうごえ」が正しい。大阪府八尾市と奈良県生駒郡平群町を山越えで結んでいる立石街道と合わせた街道の一部の名称で、現在は一般には「おおと越(ごえ)」と呼ばれているようである。ウィキの「立石街道・おおと越」によれば、『大阪と奈良を結ぶ奈良街道の一つとして整備され、信貴山に朝護孫子寺』(平安中期建立か)『が開かれてからは、その参拝道としても機能した』とあり、『おおと越は、元は「大道越」「おうとうごえ」などと呼ばれていたようであるが、いつしか、「おうとごへ」→「おと」などと短く訛って呼ばれるようにもなった。桃林堂前の道標は「をうとう越」、中高安小学校前の道標は「おうと越」、玉祖神社近くの道標は「おと越」となっている。 なお、八尾市は看板などで「おと越」と案内している』。『八尾市服部川で立石街道と分かれると中高安小学校の北側をかすめ通って東進、少しずつ北に向きを変えながら古い民家が立ち並ぶ坂道を登っていく。このあたりの道は入り組んでいて分かりにくいが、ガードレールや電柱のいたる所に黒い文字で「おうとごえ」「おうと」「オト」などと矢印とともに落書きされており、道標となっている。(だれが何の目的で書いたかは不明。) 玉祖神社を遠くに見渡せる場所で山道に向かうが、前述のとおり』、『廃道同然となっており、前述の落書き道標は用を成さない』。『奈良県側では、落書きの類を含めて おおと越を示す道標は十三街道との分岐点に存在する。石造りの道標には「左 ひらの 住吉」と記されており、「おおと越」の名称は認知されていないようである。 道としては分岐点から雑草に埋もれてしまっており、道標がないとそこに道があったことさえ見落としてしまいそうな状況である』とある。ウィキの「大窪」によれば、「御祖神社跡」(グーグル・マップ・データ)がそのルート途中となり、『旧集落の西外れのため池近くにあった神社(式内小社)。現在は玉祖神社に合祀されており、跡地は児童公園となっているが、大きなクスノキが何本かそびえており』、『往時を偲ばせる。東脇の細い道はかつての「おと越え」の道筋で、北のガードレールに方向を示す落書きがある』とある。喜助が弥右衛門に襲われたのは、ここを東へ行った山麓部と考えられる。

「山畑村(やまたけむら)」大阪府八尾市山畑(やまたけ)。因みに、ここはかの「俊徳丸(しんとく丸)伝説」の主人公の生地とされる場所である。

「出作りせし」以上の地理から、弥右衛門のここの持ち畑は、住んでいる山畑村よりも有意に南の山の方に離れており、だから出張(でば)って耕作をするという「出作り」と表現しているのである。

「庄屋・肝煎(きもいり)」孰れも、当時の村政を担当した村役人の一つで、村方三役の内の呼称。庄屋の呼称は関西・北陸に多く、関東では名主というが、肝煎という呼んだところもある。法令伝達・年貢納入の決算事務・農民管理などを実務担当する、領主支配の末端の行政官であったが、身分は農民で、世襲や一代限り或いは隔年交代などと任期は一定しないが、入会・水利の管理維持や農業技術の指導などの面で、村落共同体の指導者的性格も持っていた(以上は「ブリタニカ国際大百科事典」に拠った)。平凡社「百科事典マイペディア」の「村方三役」には、一般に東国では名主・組頭・百姓代、西国では庄屋・年寄・百姓代(組頭)で構成される。「地方(じかた)三役」とも呼ぶ。三役の名称は地域・時代により種々あり、名主・庄屋を肝煎・小割元(こわりもと)・乙名(おとな)、或いは、組頭・年寄を肝煎・長百姓、百姓代を長百姓・村横目などと呼ぶ場合もあったとある。「肝煎」は「肝を入れる」(仲をとりもつこと)に由来する。ここはそうした纏め役が複数おり、最後の部分では「庄屋・年寄」と言い換えてあるから、恐らくはそれぞれには差がなくほぼ同等で、かく呼び分けていただけととっておく。

「垣内村(かきのうちむら)」大阪府八尾市垣内(かいち)附近。

「廿三日の夜なりしかば、月は眞夜半(まよなか)ならで出る氣色なく」午前零時半を過ぎないと月は出ない。

「首筋より、つかみ立るやうなりしかば」後ろから、大きな何者かが、襟首を摑んで引き上げるような気がしたので。弥右衛門の恐怖心のなせる技ととるのがよい。自ら、殺害の罪を口にして墓穴を掘るとしてこそ、弥右衛門は致命的に救いようがなくなるからである。]

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