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2019/08/14

諸国因果物語 巻之四 目録・腰ぬけし妻離別にあひし事

 

諸國因果物語卷之四

腰ぬけし妻を離別せし人の事

播磨灘舩ゆうれいの事

死たる子立山より言傳(ことづて)せし事

人形を火に燒(やき)てむくひを請(うけ)し事

狸の子を取(とり)て死罪にあふ事

 

 

諸國因果物語卷之四

Kosinuke



     腰ぬけし妻離別にあひし事

 大坂長町(ながまち)に、京や七兵衞といふ男、きはめて無得心(むとくしん)の者也。元來は京にて丸太町邊(へん)に居たりしが、女房、とし久しく腰氣(こしけ)を煩ひ、さまざま療治せしかども、露ばかりも驗(げん)なく、此一兩年は腰ぬけとなりて、朝夕の食物(くひもの)はいふに及ばず、大小用をさへ、漫器(まる)にとらるゝ身のはて、悲しけれども、七つと四つになる娘まである中也。

[やぶちゃん注:「大坂長町」現在の大阪市日本橋(中央区・浪速区)の旧町名。「名護町」「名呉町」とも書いた。ウィキの「長町」によれば、『豊臣秀吉が大坂から堺へ通う便宜のため』に『開いた町といわれ』、十七『世紀末までには長町と呼ばれるようになった』。『江戸期から明治初期まで貧民窟として知られ』、『幕末・明治初期に長町から日本橋筋に改称された』とある。この附近(グーグル・マップ・データ。以下同じ)。

「無得心」「むどくしん」とも読む。不人情であること。残忍であること。無情。無慈悲。

「丸太町」京都府京都市中京区丸太町(まるたまち)。「丸太町通」は、現在の京都御所(京都御苑)の南端を走る。嘗つて、この通り沿いの西堀川に沿って材木商が多かったことに由来するといわれている。

「腰氣(こしけ)」現行の「帯下(こしけ)」と同じ。血液以外の女性生殖器からの分泌物が不快感を起こすほどに増量した症状を指す。この女房は女性生殖器に腫瘍や筋腫等と大きな疾患があり、それが悪化して腰が立たなくなったものと推定される。

「漫器(まる)」所謂、「おまる」である、漢字では「御虎子」が知られる。「おまる」は「大小便を排泄する」意の動詞「まる」に基づく便器の古称で、古くは木製の浅い桶で小判形をしていたため、小判を「虎の子」と呼んだところから「虎子」の字が当てられたともいう。「漫」は「みだりに」「締りがない」「一面に広がる」の意があり、音「マン」が「まる」に似ていることから当て字したものであろう。]

 親とては、父ひとり、それも越中の井波といふ所に瑞泉寺といふ一向宗の御堂(みだう)あるを、のぞみて剃髮の後(のち)、承仕(しやうし)の僧となりて彼(かしこ)へ下り給ひぬ。今は、一門とては挨(ほこり)ほどもなき身也。

[やぶちゃん注:「瑞泉寺」戦国時代の越中一向一揆の拠点として知られる、現在の富山県南砺市井波にある真宗大谷派井波別院杉谷山(すぎたにさん)瑞泉寺。明徳元(一三九〇)年、本願寺第五代綽如により建立され、慶長七(一六〇二)年の本願寺の分立では「准如を十二世法主とする本願寺教団」(現在の浄土真宗本願寺派。本山は本願寺(西本願寺))に属したが、慶安二(一六四九)年、「教如を十二代法主とする本願寺教団」(現在の真宗大谷派。本山は真宗本廟(東本願寺))に転派した。

「承仕(しやうし)」読みはママ。「しょうじ」とも読む。歴史的仮名遣では「しようし」或いは「しようじ」となる。堂内の仏具の管理などの用に従事する僧。]

 夫の七兵衞は、近比(ちかごろ)ためしなき情しらぬ者とは兼ても知りたれども、かくなり下りたる因果の程を觀(くはん[やぶちゃん注:ママ。])じて、万に[やぶちゃん注:「よろづに」。]氣をかねて[やぶちゃん注:気兼ねして。遠慮して。]、

「亭主の心に背(そむ)かじ。」

と詞(ことば)をたれ、機嫌をとりて、明(あか)し暮すにも、只、同じくは、

『いかにもして死なば、此世を早く去(さり)つゝ、夫の心をもやすめ、我も思ふ事なくなりてよ。』

と佛にも祈り、心にも願へども、つれなき命は、心にもあらで、長く、夫は尋常なる時さへ、むごくつらかりし者の、今、かゝる腰ぬけとなりては、日比より猶、きびしく、無得心にて、朝夕の食事もおしみ憎みて、思ふまゝには食せず、兎(と)に付、角(かく)につけても、

「業(がう[やぶちゃん注:ママ。])ざらしめよ、賊(すり)めよ。」

[やぶちゃん注:これは罵倒の卑称。前者は、世の業(ごう:歴史的仮名遣は「がふ」が正しい)によってかくも現世に於いて下半身不自由となり、その無様な姿を晒して生きているという『「業晒し」めが!』であり、後者は「賊」に「掏摸(すり)」を当て訓した「盗っ人女郎(めろう)めッツ!」といった、聴くに忌まわしい差別的な罵詈雑言である。]

と、いひのゝしり、又は、

「おのれが親の根性、よからず、一生、欲ばかりさらし、人を取つぶしても、おのれが身の德づかん事をせし報(むくひ)ぞかし。とく、死(しに)うせよかし。夫に漫器(まる)をとらせぬばかりにて、食物(くらいもの[やぶちゃん注:ママ。])まで人にさせ、のけのけとくらふは、よき物ぞ。」

[やぶちゃん注:人物設定が今一つ明瞭でないが、まず、この腰の悪い女房の父こそが、先に語られた、自ら望んで剃髪し、瑞泉寺の承仕僧となっている、宗門の中ではとるに足らぬ存在である、という存生(ぞんしょう)の人物であろう。さすれば、妻(腰の悪い女房の母)はもはやおらず、娘と二人、この丸田町で家を借り、何かの商売をしていたところへ、この七兵衛が婿入りで入ったものと読んでよかろう。さて、その父はこれがまた、現役であった頃は、他人の店を腰砕けに潰してでも儲けるといった、かなりのヤリ手商人(あきんど)であったが(仮定推定)、晩年、そうした自身の欲得尽(づ)くの過去を顧み、ふと、『これ、極楽往生、覚束なし』と思うや、恐懼し、店や娘や婿を放擲して出家し、北の地の承仕法師となって音沙汰なしと相成った勝手さを、七兵衛は自身を棚に上げておいて、ここでは激しく罵倒しているのではあるまいか? と、とって私は初めて腑に落ちるのである。

「とく、死(しに)うせよかし」「さっさと、死に失せちめえッツ!」。無論、腰の立たない妻に言っている暴言である。

「夫に漫器(まる)をとらせぬばかりにて、食物(くらいもの[やぶちゃん注:ママ。])まで人にさせ、のけのけとくらふは、よき物ぞ。」「とりえと言やぁ、夫に『おまる』の始末をさせぬというだけがとりえで、食事の世話さえ人にさせ、のうのうと食ってただただ生きているってえのは、如何にも、まんず、いい御身分じゃあねえかッツ!」といった謂い。]

などゝいひ、二つめには杖・棒をふり、庭へ踏(ふみ)おとし、髮をかなぐりて、門(かど)中へ引出しなど、日に幾度となく、わめきちらし、

『追(おひ)出さばや。』

と思へども、近邊(きんぺん)隣(となり)の衆など、立あひつゝ、七兵衞をなだめ、あるひは、見る目も不便(びん)さに、年寄・家主など呼(よび)付て異見せられしかば、いよいよ、㙒心さしおこり、打敵(うちがたき)など、隙(ひま)なくせしかば、今は家ぬしも、せんかたなさに[やぶちゃん注:「年寄」は狭義の役職としての町方役人を考える必要はあるまい。]、

「宿(やど)をかへ給へ。」

と使(つかひ)を立、少(すこし)の遣銀(つかいぎん[やぶちゃん注:ママ。])までとらせけるに、七兵衞も、是非なく、毎日、

「宿を見立に。」

とて、出けるが、岩神通西(いわかみどをりにし[やぶちゃん注:ママ。])に借屋(しやくや)を極(きは)め、近々に替(かゆ)べきよし、家主へも斷(ことはり[やぶちゃん注:ママ。])、妻にもいひ聞せ、何かと、心用意して、着替(きがへ)なども洗濯をあつらへ、

「腰ぬけの役(やく)に仕立(したて)よ。」

[やぶちゃん注:京都府京都市中京区岩上町岩上通六角下る附近。丸太町からは、「堀川通」(この「堀川」の名は本文に後で出る)を真南にわずかに一キロメートルちょっとの、ごく近距離である。

「心用意して」「こころよういして」。心遣いをして。

「腰ぬけの役(やく)に仕立(したて)よ」着替え用の着物を洗い張りをして再び仕立てる際に、「腰が悪い者が着用し易いように配慮して仕立てよ」と命じたのである。]

と、日を操(くり)て[やぶちゃん注:その仕立て直しの日限を急かして。]、いそがせ、漸(やうやう)、宿替(やどがへ)の朝(あした)にもなれば、何(いつ)なき事にて、七兵衞、手づから、飯(めし)などもりて、女房にも食(くは)せ、我も、機嫌よく、酒など吞(のみ)ていひけるは、

「見苦しかるべき物は、そなたの役(やく)に見はからひて、それぞれに荷を認(したゝめ)させ給へ。とても足たゝぬ身の、先だちて行たればとて、埒(らち)もあくまじければ、着物をも着がへ、引繕(ひきつくろ)ひて待(まち)給へ。我、先(まづ)、行て、勝手などもよくかたづけ、其うへにて、駕籠を迎へに參らすべし。日も長(たけ)て時分よくば、爰(こゝ)に飯(めし)もあるぞ。」

[やぶちゃん注:「見苦しかるべき物は」ちょっと人目に触れてはそなたが恥ずかしく思うような日用の生活・台所用品などは、という意。]

などゝ、念比(ねんごろ)にいひ置(をき[やぶちゃん注:ママ。])、さて、錢二百文、あてがひ、

「もしや、日雇賃(ひようちん)などの入事[やぶちゃん注:「いること」。]もあるべし。是、おぬしが腰に付て居たまへ。」

などゝいひて、大かたの道具は車に積(つみ)て、人、おほく雇ひ、手ばしこく仕舞(しまひ)、今、跡に殘る物とては、古き着籠(つゞら)一つ、半櫃(はんびつ)一つと、女房の後(うしろ)にもたれ物とし、あら筵(むしろ)の上につきすゑ、二人の娘も留主(るす)に置(おき)て、出行たり[やぶちゃん注:「いでゆきたり」。]。

 同じ長屋の亭主、近所の内義など、日ごろ、馴染たる人ども、立かはり見舞に來りけるにも、女房、先(まづ)、なみだをおとして、いふやう、

「是(これ)のおやらは御存[やぶちゃん注:「ごぞんじ」。]の通(とほり)、日ごろは白き齒をも見せず、假初(かりそめ)にもむごくいはるゝ人の、何と、思ひなをして[やぶちゃん注:ママ。以下も同じ。]、心入[やぶちゃん注:「こころいれ」。]なをりけん。今朝(けさ)も、かうかういはれし也。我、この年ごろの恨めしさも、此一言にて千盃(ばい)ぞかし。」

などゝ悅びいさみて、迎(むかひ)の駕籠を待(まち)居けるに、日も、はや、八つに過[やぶちゃん注:「すぎ」。午後二時過ぎ。]、七つ[やぶちゃん注:午後四時。]にかたぶけども、今朝(けさ)行ける雇人(やとびと)も歸らず、まして、亭主も見えねば、あまり心もとなくて、姊娘を隣へやりて、相借(あいじやく)屋の亭主を賴み、岩神の其所(そこ)とかや、聞はつりしを、しるべに見せに遣しけるが程なく、此亭主、引かへして語りけるは、

[やぶちゃん注:「相借(あいじやく)屋」(歴史的仮名遣は「あひじやく」が正しい)同じ棟に借屋すること。相店(あいだな)。]

「今朝(けさ)、この家より車に積て出たる道具どもは、一つも殘らず、堀川の道具やに有りて、市を立、悉(ことごとく)賣(うり)たて、銀(かね)を請取て、本人は歸りたるよしにて、道具や共、打寄(うちより)つゝ、分(わけ)取て行(ゆく)を、見つけたり。岩神には、もとより、借屋の跡かたもなし。」

と、いひけるにぞ、初(はじめ)て仰天の心付(づき)、急ぎ、葛籠(つゞら)をあけて、吟味するに、女房の着替、二つ、三つ、娘の古き着がへ、少々のこして、暇(いとま)の狀を認(したゝめ)入たり[やぶちゃん注:「いれたり」。]。

「こは、如何に。だまされしよ。」

と思ふり、狂氣して、さまざまに泣(なき)のゝしり、狂ひけるが、町内にも、此よしを聞(きゝ)て、哀(あわれ[やぶちゃん注:ママ。])がり、其夜は開家(あきいゑ[やぶちゃん注:ママ。])に一夜、置つゝ、

「腰ぬけなれば、よも、怪我(けが)はあらじ。」

などゝ油斷して置ける夜の間に、二人の娘をしめ殺し、我(われ)も首くゝりて、死(しゝ)たり。

 かくて七兵衞は此大坂に下り、長町(ながまち)に宿を借り、少の商(あきなひ)に取付、かなたこなたと挊(かせぎ)ける内、太左衞門橋[やぶちゃん注:大阪府大阪市中央区宗右衛門町に現存する道頓堀直近の橋。]の邊(へん)にて、歷々の人の後家なるよし、去(さる)子細ありて、逼塞(ひつそく)[やぶちゃん注:落魄(おちぶ)れて世間から隠れてひっそり暮らすこと。]の身となり、東高津(ひがしかうつ)[やぶちゃん注:大阪市天王寺区東高津町(ひがしこうづちょう)。]のほとりに屋敷をかまへ、世を捨たるにはあらで、交(まじは)りを止(やめ)、心に任(まか)せたる髮切[やぶちゃん注:「かみきり」。ここは尼僧。]有しを、何(いつ)の比(ころ)にか、見初(そめ)、露忘るゝ隙もなく、餘りせんかたなきまゝに、色々と媒(なかだち)を賴(たの)みて、兎角(とかく)いひ寄(より)けるに、終に心のごとく、なびきて、

「今宵、かならず。」

との返事、うれしく、出たゝんと思ふにも、衣類のなければ、心やすき方に借(かり)とゝのへ、小者一人、やとひ、度(た)し揃はぬ始末をあはせて[やぶちゃん注:加え揃えることが出来ない格好の悪い部分も何とか始末をつけて。]、東高津へと急ぎけるに、聞(きゝ)しには勝りて夥(おびたゞ)しき居なし[やぶちゃん注:「ゐなし」「居成し」。屋敷の立派さをいう。]、心も詞(ことば)も及(および)がたきに、下女・はした・腰元など、さしつどひ、行(ゆき)歸りて、一かたならぬ饗應(もてなし)も、何くれと過(すぎ)て、夜も、早、八つ[やぶちゃん注:これは定時法のそれで午前二時頃であろう。怪異出来の時刻でもあるからである。]に近からんとおもふ比、玉をみがき、錦をかざりたる床(とこ)の上に、偕老の衾(ふすま)を並ぶるとぞ見へしが……漸(やゝ)ありて、次の間に臥(ふし)たりし小者が手をとり、七兵衞、みづから、顏におしあて、さめざめと泣(なく)を、餘り、不思議さに、手をのばして、ふところへ入て、さぐりけるに、大きなる虵(へび)の、ふしたけ二丈ばかり[やぶちゃん注:「臥丈二丈」。蜷局(とぐろ)を巻いた縮んだ状態の見かけ上でも六メートルは有にある。]もやあるらんとおもふが、七兵衞を、足より胸いた[やぶちゃん注:「胸板」。]迄、

「くるくる。」

と卷(まき)て、鐮首を、もつたて[やぶちゃん注:もたげて。]、七兵衞が咽(のど)をくわへたり[やぶちゃん注:ママ。]。

小者は、肝つぶれ、心まどひ、

「こは、いかに。」

と、おそろしさ、しばらくも溜(たま)られず[やぶちゃん注:とどまって居られず。]、急ぎ、迯(にげ)出んとするに、

『腰元は、ふすはよ。』

と見へかし。

[やぶちゃん注:判読に非常に時間が掛かった。自信はないが、「臥(ふ)すはよ」で、「(人間なのに、べたっと)伏すようじゃないか?!」という小者の目線からの観察であろうと採った。「ゆまに書房」版は『腰元はすはよと見えかし』で、であれば、「腰元は『すはよ』と見えかし」となろうが、これでは、文意が微妙に通らない気がする。「すはよ」は、「今だわ!」の謂いとも採れなくはないが、小者の視線のみから、そのような感情認識表現は私のは無理が感じられるのである。原本はここ(左頁二行目)である。当該部は、印字が何とも怪しいので、私を含めて、判読に誤りがある可能性がある。識者の御教授を乞う。]

 みな、狐などの化(ばか)せしにや、其邊(そのへん)には小虵(こへび)、いくらともなくありて、踏(ふみ)も分(わけ)がたきに、七つばかりなる女の子の声として、

「嬉しや。本望(ほんもう)をとげたり。」

と、いへば、二、三人の声して、

「我も、さあり。本望かな。」

といふに、いとゞ轉(こけ)まどひ、命からがらにて、歸りぬ。

 後に、程へて、樣子を聞けるに、岡山のおくに、人を取(とる)「うはばみ」あり、七兵衞が屍(かばね)を卷立(まきたて)、くらひながら、蝮(うはばみ)も死(しゝ)てありとぞ語りしか。

 誠に、おそろしき怨念にもぞありける。

 正(まさ)しく元祿六年の事也。

[やぶちゃん注:本話のコーダの特異性は、閨房入りの直後から、突如として、名もない小者の視点から描かれていることで(特異的にそこにリーダを挟んだ)、これは、なかなかに面白い。但し、読解には、かなり高度な読者としての第三者的冷静な視点が必要とされ、これは寧ろ、現代の映画的なカメラ・ワークであるように私には思われる。確かに、おぞましい七兵衛の見た目やその感懐なんどは、確かにいらないとは思う。しかし、ただの私の大いなる勘違いかも知れぬ。私の判読・読解にこそ大いなる誤りがあるのかも知れぬ。識者の御叱正を乞うものはである。

「元祿六年」一六三五年。]

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