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« 諸国因果物語 巻之一 妻死して賴を返しける事 / 巻之一~了 | トップページ | 諸国因果物語 巻之二 虵の子を殺して報をうけし事 »

2019/08/10

諸国因果物語 巻之二 目録・人の妻嫉妬によりて生ながら鬼になりし事

 

諸國因果物語卷之二

 

人の妻嫉妬により生ながら鬼になりし事

虵(くちなは)の子を殺して報(むくひ)を請(うけ)し事

二十二年を經て妻敵(めがたき)を討(うち)し事

女の執心夫をくらふ事

妄語の罪によりて腕なへたる人の事 

 

諸國因果物語卷之二

    人の妻嫉妬によりて生ながら鬼になりし事

Sittooni

 大坂順慶町(じゆんけいまち)五町めに、古手や久兵衞といふ者あり。年ごろつれそひたる女房あるうへに、又、外の妻を持て通ふ事あり。此女は紣屋(くけや)の何がしとかや、貨物(くはもつ)の家に、腰元ながら、妾となりて懷胎(はらみ)しが、產して後金百兩を添(そへ)て隙(ひま)をとらせしとかや。

[やぶちゃん注:「順慶町(じゆんけいまち)」小学館「日本国語大辞典」によれば、現在の大阪市中央区南船場一丁目から三丁目(旧順慶町通。グーグル・マップ・データ。以下同じ)に当たる。江戸時代は新町遊郭の東口筋に相当した、とある。

「古手や」古手屋。古着や古道具を売買する店。

「紣屋(くけや)」「紣」は「綷」の俗字。音「サイ・スイ」で、絵絹(えぎぬ:五色を合わせ施した絹織物)で「綷雲(さいうん)」(「彩雲」(五色の美しい雲)に同じい)や「綷縩(すいさい)」で「絹擦れの音」の意があるので、ここは或いは絹原材や織物を主に扱うお大尽(手切れ金に百料出せる)の運送業者ととってよいか。

「百兩」本作は宝永四(一七〇七)年開版で、同時代(江戸中期の初期)の一両を六千文ほどとして現在の約七万五千円とするデータがある。それだと、七百五十万円となる。]

 久兵衞、もとより、色好みといひ、右の妻に心をかけて、何(いつ)となく取いりて、夫婦のかたらひをなしけるより、今は宿の本妻を離別し、この女を呼(よび)むかへば、

『今迄の元債(もとで)のうへに、猶、此百兩を合せてかせがば、よき事。』

と思ひたちしかど、今までの女房、難波にては、父母とてもなし、親類も、皆、死(しに)うせて、かゝるべき便[やぶちゃん注:「たより」。]もなき者也。母かたの從兄弟(いとこ)とて、折々、行かよふ者、やうやう一人ありて、生玉(いくたま)の邊(へん)、かするなる住居せしばかり也。

[やぶちゃん注:「生玉(いくたま)の邊(へん)」大阪府大阪市天王寺区生玉町(ちょう)附近。生國魂神社(いくくにたまじんじゃ)があることで知られる。

「かするなる」「借(か)するなる」で「借りているとかいう」の意ととる。]

 年比の馴染といひ器量も人なみに勝れたれば、離(はなれ)がたく、心うきながら、百兩に魂をとられて、さまざまと分別を仕出し、漸々に商(あきなひ)をすぼめ、代物(しろもの)[やぶちゃん注:有意な金品。]を後づれ[やぶちゃん注:「のちづれ」。妾。]の方に運び隱して、身上(しんしやう)を不自由に仕かけ、一日一日と、手まへを貧に仕(し)て、人のものを買(かひ)かゝり、間もなき盆の仕舞を掛乞(かけごひ)にせたけられ、ほうほうに十四日を過して[やぶちゃん注:「掛乞」は節季ごとに掛売の代金(掛金)を取立てたこと。ここは八月十五日の盂蘭盆をその支払期限の区切りとしたもの。]、

「今は我運も是まで也。誠に今までは壱錢もすべなき錢を遣(つかは)ず、遊山翫水(ぐわんすい)[やぶちゃん注:野山や水辺で遊ぶこと。郊外に出て、山水を眺めて遊ぶこと。]の栄耀(えよう)事を見ずといへども、不圖(ふと)したる買かけより、損を仕(し)そめて、諸事、なすほどの事、左(ひだ)いまへ[やぶちゃん注:「左前」の訛り。]になるは、前生(ぜんしやう)の業(がう[やぶちゃん注:ママ。])とはいへども、かくては、諸(もろ)ともに乞食(こつじき)するより外はあるまじう覚ゆる也。何と思はるゝぞ、あかぬ中とはいへども、一たん、又、夫婦の中をはなれて、共に奉公の身となり、給銀[やぶちゃん注:「きふきん」。]の少も儲(まふけ)ためて、二たびかせぎてもみばや、とは、おもひ給はずや。」

と、誠(まこと)しく、いひ懸(かけ)けるに、女房もなみだながら、指[やぶちゃん注:「さし」」。]あたりての貧(ひん)にいふべき詞(ことば)もなければ、離れがたき中をなくなくわかれて、奉公の口を聞たて有を[やぶちゃん注:「ききたてある」。奉公人を探しているという噂があったのを。]幸(さいはひ)に、新うつぼといふ所の魚(うを)屋へありつき、腰もと奉公を勤め、出入三年の請狀[やぶちゃん注:「うけじやう」。]まで濟(すま)しぬ。

[やぶちゃん注:「新うつぼ」靱(うつぼ)。現在の大阪府大阪市西区靱本町(うつぼほんまち)及びそこに西で接する江之子島二丁目東部に概ね該当する地域。江戸時代、ここの海部堀川沿いには、海産物市場が形成され、荷揚場は永代浜と呼ばれ、海産物を中心とする問屋街も広がっていた(ウィキの「靱」に拠る)。]

 久兵衞は、たゝみしまゝに仕(し)すまして、心うれしく女房を去(さり)て、いまだ五日も過ざるに、彼(かの)後(のち)づれの妻を呼むかへ、今までの元銀[やぶちゃん注:「もとがね」。]に、妻の百兩をあはせて、手びろく賑はしく見せ店(だな)をかざり、おもふまゝに過(すぐ)しぬ。

 もとの妻は、年ごろの馴染といひあきあかぬ中を、貧ゆへに別れ、久兵衞も男奉公に出る[やぶちゃん注:「いづる」。]よし、いつわりけるを、実(まこと)とおもふより、露わするゝ隙なく[やぶちゃん注:それを全く信じて、知り得る暇とてもなく。]、朝夕の寢ざめにも、人しれぬ淚をこぼし、戀しくなつかしくて、

「いかなる所にか、我つま[やぶちゃん注:「夫」。]の久兵衞どの、いかなる勤[やぶちゃん注:「つとめ」。]にか、行て仕(し)つけぬ。官仕(みやづかへ)し給ふらん。」

と泣(なか)ぬ日もなく、心もとなき月日を送りながらも、何とぞして、給金の内、すこし宛(づゝ)も溜(ため)て、心ばかりの見繼(つぎ)にもなして、二たび、夫婦ともならばやの心を便(たより)に、隨分と奉公しけるゆへ、主人も、殊外、よろこび、『此をんな、なくては』と萬[やぶちゃん注:「よろづ」。]に心を付て、不便(ふびん)をくわへ[やぶちゃん注:ママ。]、めし使けるが、有時、主人の妻、

「道頓堀の芝居けん物すべし。」

と、宵より、身ごしらへして、駕籠など借らせ置(おき)、明(あく)れば、食すぎより、物まふでするやうにもてなし、彼(かの)腰元をめしつれつ。

[やぶちゃん注:「見繼」(みつぎ)は「見次」とも書き、この場合は「貢」とも書いて、経済的援助をすることを指す。但し、夫久兵衛とは全く逢っていないから、将来、夫に渡そうと、女中部屋に貯金していたのである。

「食すぎ」朝食の後であろう。]

 村を南へ仁德の稻荷へ參りて、順慶町を東むきにあゆみ、四丁めより三休橋(きうばし)へと、御内義のさし圖に任せ、駕籠をはやむるにつきても、腰元は、先[やぶちゃん注:「まづ」。]、かの久兵衞を忘れず、

『今さら、何の面目ありてか、五町めを通るべきや。』

と、恥かしくも、悲しくもありながら、

『宮づかへの身は、心に任すべき事にもあらねば、せめて、いにしへの跡、なつかしく、移りかはる世のならひぞかし。今は何人か此家には住けるや。』

と、淚ながら見いれたれば、久兵衞は、何心もなく、くわ箒(ばうき)片手に、塵取(ちりとり)引さけげ、小歌機嫌(きげん)にて、門を掃(はき)に出けるが、折しもこそあれ、互に顏を見あはせ、

「はつ。」

と、思ひたる顏つきにて、久兵衞は内へ迯こみぬ[やぶちゃん注:「にげこみぬ」。]。

[やぶちゃん注:「仁德の稻荷」大阪府大阪市中央区博労町にある難波神社(なんばじんじゃ)。摂津国総社として「難波大宮」「平野神社」「上難波仁徳天皇宮」「上難波神社」「難波上宮」「稲荷社」(「博労稲荷神社」があるため)と呼ばれていたという。境内にある『博労稲荷神社』は『商売繁盛の神様として船場の多くの商人から篤い信仰を受けていた。江戸時代を通じて難波神社は仁徳天皇を祭った神社としてではなく、博労稲荷神社がある神社として有名であり、難波神社のこと自体を指して「稲荷社」と呼んでいた』とウィキの「難波神社」にある。旧順慶町の西端の北直近にある。

「三休橋」現在の三休橋(さんきゅうばし)交叉点旧順慶町の南側ウィキの「三休橋筋」によれば、『道路名の由来となった三休橋が長堀川に架けられていたが』、昭和三九(一九六四)年に『長堀川の埋立に伴い撤去された。三休橋の名称の由来は、長堀川に架かる橋の中で』、『往来の多い心斎橋・中橋・長堀橋の三橋を休めるための橋と言われている』とある。]

 腰元も心ならねば、

『何として、爰に居給ふや。所も多きに、此家へ奉公に出られしも、ふしぎ。』

と、足袋の紐する体(てい)にもてなし、立どまりて、樣子を聞に[やぶちゃん注:「きくに」。窺うに。]、廿ばかりなる女、内より出て、

「なふ、こちの人、今のは、前の御内義さまが。少、見送りてやりませう。」

と、いふ音(をと[やぶちゃん注:ママ。])を聞より、腰元、むね、せきあげ、

『扨々、水くさき男めや。まんまと、我は、だまされて、思はぬ離別せられしよ。』

と、思ひしより、一日の内を幾度か淚をこぼして、狂言も見る空なく、奉公も心にそまず、うかうかと勤(つとめ)て、歸るさの足も覚えなくて、着物も着がへず、すぐに二階へあがり、打ふして、明る日になれども、起ねば、旦那も傍輩(ほうはい)も、心もとながりて、下より呼(よべ)ども、答(いらへ)ず。

 餘り、ふしぎさに、下女を上て見せけるに……恐しや…………

……此腰元の……かほ……

……生ながら……角……はへ出……

……口は……耳まで……引さけ……

……眼(まなこ)より……血の淚をながし……

……其かたち……大きになりたる事……四帖敷(でうじき)に……一盃(ぱい)はゞかりて……

……呻(によひ)ふしたり……

[やぶちゃん注:怪異出来(しゅったい)の要(かなめ)であるので、特異的に太字リーダ改行で示した。

「はゞかりて」「憚る」には「いっぱいに広がる」の意がある。

「呻(によひ)ふしたり」「呻吟ひ臥したり」。現代仮名遣では「によいふしたり」。「によふ」は「うめく・呻吟(しんぎん)する」というハ行四段活用の動詞である。]

 此形に驚きて、誰しも、見る程の人、絕入(ぜつじゆ)せずといふ事なし。

 旦那は、つねづねの彼が、心ざしを盡して、奉公よく勤しに感じて、あまり不便さに、此女を加持させんがために、多田の普明寺(ふめうじ)の龍馬(りうめ[やぶちゃん注:ママ。])にそなへし御供(ごくう)并に御影[やぶちゃん注:「みえい」。]を申うけて、いたゞかせ、漸(やうやう)、人心つきし。

 此久兵衞を呼(よび)よせ、此ありさまを語りけるに、久兵衞かたにも、そのゝち、恐しき事、度(たび)々有しかば、此嫉妬に恐れて、急ぎ、後の妻を送りかへし、又、此女房を呼むかへて、今に有とぞ。

[やぶちゃん注:エンディングが小さくハッピーに収束してしまっていて、意外。正直、久兵衛と妾(こ奴の「なふ、こちの人、今のは、前の御内義さまが。少、見送りてやりませう。」という台詞は私でさえ怒り心頭に発するぞ!)が鬼に変じた本妻にぶち殺されねば、私は、おさまらないが。或いは、鷺水は前に出した生玉辺りに住む従兄弟(伏線かと思ったら、全然、死んでいて、ちょっとおかしい)も繰り出しての展開を考えていたのではなかったろうか?

「多田の普明寺(ふめうじ)の龍馬(りうめ)」兵庫県宝塚市波豆字向井山にある曹洞宗慈光山普明寺(ふみょうじ)。寺宝として、「有角馬の頭」があり、ウィキの「普明寺(宝塚市)」によれば、『源満仲が龍女の頼みで大蛇を退治したときに授けられたと伝えられる、二本の角を持つ馬の頭骨』『雨乞いに使われる』とある。「御影」はその頭骨を描いたものである。角絡みで選んだか。]

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