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2019/08/09

諸国因果物語 巻之一 山賊しける者佛罰を得し事

 

     山賊(やまだち)しける者佛罰(ぶつばち)を得し事

Yamadati

 長門國うけ㙒といふ所より、隆長司(りうちうす)といひし禪の所化(しよけ)、江湖(かうこ)のため、周防(すわう)の岩國の聞えし岩國守の會下(ゑか)へ行ける。

[やぶちゃん注:「山賊(やまだち)」もとは「山立」或いは「山發」で、フラットに狩人や「マタギ」の意もある。中世以降の用法のようである。なお、上に掲げた挿絵は、「ゆまに書房」版の翻刻指示によれば、実は次の「妻死して賴を返しける事」の途中に入れ込まれてある。江戸期のこの手の草子本ではよくあることである。」

「長門國うけ㙒」山口県防府市に江泊浮野(えどまりうけの)がある(グーグル・マップ・データ。以下同じ)。ここか。

「隆長司(りうちうす)」歴史的仮名遣では「りゆうちやうす」が正しい。「長司」はちょっと聴かないが、禅宗寺院で何らかの役職の主担当を示すものであろう。よく知られたものでは仏殿の諸式を司る役或いは時報を司る役として「殿司(でんす)」がある。

「所化(しよけ)」師の教えを受けている修行中の僧や弟子。また、広く、寺に勤める役僧を指す。もとは仏菩薩などにより教化(きょうけ)を受けるべき衆生で、対義語は「能化(のうけ)」(教化する仏菩薩を本来は指し、転じて師として教え導く師、宗派の長老・学頭などの意)。

「江湖(かうこ)」川と湖、特に中国の自然を代表する揚子江と洞庭湖から転じて、「世の中・世間・一般社会」の意。

「周防(すわう)の岩國の聞えし岩國守」歴史的仮名遣は「すはう」が正しい。ウィキの「岩国市」の「歴史」によれば、『岩国の名前は万葉集にも見られ、古くから山陽道の交通の要衝であった。守護大名・大内氏が中国地方を統治していた室町期まで、岩国氏・広中氏といった豪族がこの地を治めていた。関ヶ原の戦いの後、長門・周防の』二『国に減封された毛利家前当主・毛利輝元は、東の守りとして、毛利元就の次男・吉川元春の三男で、吉川家を相続していた吉川広家(広家は武断派と言ってよかろう、関ヶ原の戦いにおいて徳川方に通じ、毛利本家を参戦させないように画策した。結果として家康より広家に対して防長』二『州を与えられたが』、『毛利本家安泰のため固辞した)に岩国を与えた。以後、岩国は、吉川家が治める岩国領』六『万石の城下町として発展していく』(当初は三万石)。『関ヶ原敗戦の原因を毛利両川(小早川の裏切りと吉川の内応)のためと考えていた毛利本家から、幕府に対して支藩としての推挙がなかったため、岩国領と称された。吉川氏が諸侯に列し、大名となったのは』、実に幕府滅亡後の明治新政府による認可で慶応四(一八六八)年のことであった。以下はウィキの「岩国藩」より(以上で見た通り、本篇時制上では「岩国領」)。『初代当主・広家によって岩国吉川家の基礎は固められた』。寛永二(一六二五)年に『広家が没すると、子の第』二『代当主・吉川広正が親政を行ない』、寛永一一(一六三四)年には『本家の長州藩主・毛利秀就と不仲になった長府藩主・秀元と共に本家から独立しようとしたが、失敗に終わった。広正は製紙業を起こし』、寛永一七(一六四〇)年には『紙を専売化している』。『第』三『代当主・吉川広嘉のとき、文化事業に尽力し』、延宝元(一六七三)年に『有名な錦帯橋が完成している。第』四『代当主・吉川広紀も藩営による干拓事業の拡張を行い、岩国領は全盛期を迎えた。だが、これが財政難で苦しむ本家長州藩の妬みを買い、本家と対立するようになっていった』。『第』五『代当主・吉川広逵と第』六『代当主・吉川経永の時代には家格問題が絡まって本家と対立し、さらに岩国内部でも家臣団の対立が起こっている。第』七『代当主・吉川経倫の時代になると、正式な大名に列するための運動や凶作により』、『財政が悪化、製紙業の生産高も半減』、『倹約が励行されるようになった。寛政年間』(一七八九年~一八〇一年)『より財政再建に着手し、天保年間』(一八三〇年~一八四四年)『に』なって『一通りの成功をみた』とある(本書の刊行は宝永四(一七〇七)年)。以上の経緯と合わせ、歴代藩主を見ても正式な官位としての「岩國守」を授された人物はいないので、これは単なる通称である。

「會下(ゑか)」「ゑげ」とも読む。「会座 (えざ:法会・講説などで参会者が集まる場所) に集まる門下」の意で、禅宗や浄土宗などで師の僧の下で修行する場所・集まり、転じて広く師の下で修行する僧を指す。]

 此僧は、極て肝ふとく、大力(たいりき)にて武邊も人に超たる人なり。あまり殺生を好み、物の命を取事を何とも思はぬ生れつきゆへ[やぶちゃん注:ママ。]、親ども、見あまして、出家させし人なり。

 されば、夜道を行、山坂をふみ迷ふといへども、それを苦にする事なく、思ひたちたる事あれば、何時といもはず、踏出(ふみだ)す氣質にまかせ、此岩國へゆくにも、かろがろしき旅すがたにて、假初(かりそめ)のやうに、出ける。

 爰に、あい坂というゟ、今市(いまいち)へかゝる道に山坂あり。人かげもなき所を、秋の日の七つに下(さが)りて、此坂口に行(ゆき)かゝりぬ。

[やぶちゃん注:「あい坂」「今市(いまいち)」現在の江泊浮野から岩国へ向かう山陽道ルートで「今市」を地名に持つ場所としては山口県周南市樋口今市がある(他にも複数あるが、浮野より西であったり、岩国のずっと北方であったりして肯んぜないものが多い)。地図を見ると、この今市地区の西直近に周南市大字呼坂という地名を見出せる。航空写真を見ると、今市地区とこことは張り出した丘陵が三稜ほど見られる。取り敢えず、ここに措定比定しておく。

「秋の日」「七つ」「下(さが)り」定時法なら、午後五時から六時の間、不定時法なら午後六時から六時半となる。]

 餘りに足のくたびれけるまゝに、馬(むま)を借りて打(うた)せしが、馬士(むまかた)のいふやう、

「此道は一里半が間、坂つゞきといひ、殊に暮(くれ)ては、用心も惡(わろ)き所なり。若(もし)もの事あらば、我らを恨み給ふな。」

と、つぶやくを、聞(きゝ)のがしに、ひた物打(うち)たてゝ、いそぎける所に、案のごとく、むかふの坂に、大きなる男(おのこ[やぶちゃん注:ママ。])、大小さし、こはらして、立はだかり、道の眞中(まんなか)を踏(ふみ)ふさぎて、

「こりや、こりや、坊主、酒價(さかて)置(おい)て行(ゆく)べし。」

と、のゝしるを、隆長司は、小いねぶりして、聞(きか)ぬ顏(がほ)に通らんとするを、やにはに、走りかゝり、馬(むま)より引おろして、酒代を乞(こひ)ける程に、いろいろと侘言(わびごと)すれど、聞(きか)ず、剩(あまつさへ)、わきざしを拔(ぬき)はなし、此僧を殺さんとしける時、隆長司の得物なりしかば、かいくゞりて、脇差を奪ひとり、却(かへつ)て追剝(おひはぎ)が眞向(まつかう)を立割(たてわり)にと、拜み討(うち)ふしけるが、手の内(うち)まはりて、肩先より袈裟にかゝりて、胸のあたりまて切(きり)さけられ、

「あつ。」

と、いひて、仆(たふれ)しかば、隆長司は、

『いやいや。此分(ぶん)にて退(のか)ばや。同類も出來(いでき)たらば、難義ぞ。』

と、おもひ、馬(むま)を尋ぬるに、早(はや)、馬士(まご)は迯(にげ)かへりて、跡かたもなし。逸足(いちあし)を出して壱里あまり迯のびけるに、夜(よ)は、はや、四つに過(すぎ)、夜半ごろ也。

[やぶちゃん注:「隆長司の得物」(えもの)「なりしかば」隆長司が最も得意とするところであったので。

「四つに過(すぎ)、夜半ごろ」午後十時を過ぎて午前零時に近い時刻。]

 餘り疲れたりしかば、宿からばや、とおもへども、坂半(さかなか)なる程に、家はなし。爰かしこと知らぬ路を分(わけ)ゆきけるに、遙なる谷に、火の影みえしを幸に(さいわい[やぶちゃん注:ママ。])に、立寄(たちより)て、いろいろと断(ことわり)をいひければ、あるじは留守と見えて、年寄(としより)たる祖母(はゝ)と娵(よめ)ぞとおもふ者、たゞ二人あり。

[やぶちゃん注:「祖母(はゝ)」原文通りとした。当初、「ばゝ」或いは「ばゞ」としたが、後で「母」とも出、ここは年取った「母」の意として濁点を振らないことにした。]

 是らが謀(はからひ)にて、庭にあら筵を敷(しき)て、寢させつ。

 心うき事ながら、寢たりけるに、程なく、表に人音(をと)して、はいる人あり。

 みれば最前の男に、一かさ大なるが、大小をさしこなして、二人、來て、

「御亭(ごてい)は、最早、拵(こしらへ)が出來たか。」

と問(とふ)。

 女房、居ながら、

「いや。是の人は、明(あか)き内より出て、いまだ歸られぬ。」

といふ程に、みなみな、何國(いづく)へか行(ゆき)たりと覺えしが、やゝありて、立歸り、

「是の亭主はさんざんの仕合(しあはせ)にて深手を負(おひ)て居たりし故、我々が肩にかけて歸りし也。ケ樣(かやう)の不覚も有物(あるもの)なれば、何(いつ)とても三人一所に行べし、といひし物を。」

と、いひのゝしりし。

 圍爐裏の側(そば)へおろすを、隆長(りうてう[やぶちゃん注:ママ。])も氣味わろく覚(おぼへ)て、筵の下(した)より見上(みあげ)たれば、疑ひもなく、我手にかけつる山賊也。

『こは、いかゞすべき。』

と、胸(むね)、さはげども、今さら、すべき樣なく、

『南無阿弥陀佛、たすけ給へ。』

と縮(ちゞみ)かへりて居たるに、祖母や女房、

「あ。」

とや、枕にひれふして、泣さけび、

「如何(いかゞ)はすへき。」

などゝ、悲しむ中に、友だちの盜人、印籠(いんらう)より氣付(きつけ)を取(とり)いだして、舐(ねぶ)らせ、手づから、

「水くみに行(ゆく)。」

とて、此旅僧を見つけ、

「是[やぶちゃん注:「この」。]御坊(ごぼう)、さいわい[やぶちゃん注:ママ。]の事也。かゝる所に泊り合せたる不肖(ふせう)[やぶちゃん注:不運。]には、起き、ともどもに看病したまへ。」

と、引たてられ、是非なく此手負の側に寄(より)て世話やくに、手負は此僧を白眼(にらみ)つめて、

「ひた。」

と、おめけども、舌、こはりて[やぶちゃん注:こわばって。]、詞(ことば)の文(あや)も聞えねば、氣味惡き中にも、安堵したる樣にて、兎角する程に、女房も母も詞を揃えていふやう、

「何(いつ)なき事に、宿を借(かす)のみならず、しかも御出家を留(とめ)しも、不思議の緣なり。辿(とて)もの不肖に、此病人の伽(とぎ)を賴(たのむ)べし。そのゆへは[やぶちゃん注:ママ。]、死するには極(きはま)りて、生るに賴(たのみ)なし。山中の事なれば、然るへき療治を賴むの筋なければ也。かならず、今宵の内は守り居て、若(もし)死なば、知らせ給へ。」

と賴まれ、隆長は心ならず、請合(うけあひ)、手負を請取(うけとり)て看病しける程に、妻子(さいし)は次の間の納戶に入りて、臥(ふし)たり。

 手負は、又、深痕(ふかきず)ながら、急処(きうし[やぶちゃん注:ママ。])をはづれたる疵也ければ、次第に心つよく持(もち)なをし[やぶちゃん注:ママ。]、氣を張(はり)て、

「ひた。」

と、此隆長司を見詰(みつめ)、

「おのれ、おのれ。」

という聲も、夜、ふくるに從ひ、何とやらん、文(あや)の聞ゆるやうに成しかば、隆長も口には高々と念佛となへながら、

『哀(あはれ)。』

何ど、そして、

『殺さばや。』

と思ひ、其あたりを見まはしけるに、石臼の挽木(ひきゞ)ありけるを、おつ取(とり)、此ものゝ咽吭(のどぶえ)にさしこみ、力に任せて押(おし)ふせければ、大力(だいぢから)におしこまれ、此挽木、むないたの骨を碎(くだき)て、吭(ふえ)のくさりを留(とめ)けるゆへ、終に死(しゝ)たる時、

「今こそ亭主、落いり給ふ也。」

と大声に呼(よび)おこせしかば、母も女も起出(おきいで)て泣さはぎけるが、剩(あまつさへ)、㙒送りの吊(とふらひ)まで賴み、卅五か日まで、とゞめて、もてなし、歸しけるとぞ。

 此咄(はなし)は、僧の身として、破戒の罪あるに似たれども、年久しく山賊(やまだち)せし因果によりて、今、此僧の手にかゝりて報(むくひ)をうけしも埋(ことは)りなり。

[やぶちゃん注:エンディグはかなり衝撃的で、劇的な奇談に仕上がっている。やはり流石は鷺水、ただものではない。

「文(あや)の聞ゆるやうに成しかば」「何か、意味(具体な恨み言か)を持った言葉のように聴こえるようになったので」か。

「吭(ふえ)のくさりを留(とめ)けるゆへ」肺と喉笛(気管)の繋がりを絶ったため、の謂いか。

「卅五か日」死後五回目の忌である「五七日(ごひちにち)忌」(掛け算で三十五日目の供養)の法要である。現在、一般に知られている「忌明け法要」は「四十九日(七七日(なななのか)忌)」に行うが、現在でも地域・宗派或いは遺族の状況によってはこの「三十五日(五七日忌)」で行う場合がある。ある葬儀社の解説によれば、ケースとしては、「四十九日(忌中)が三ヶ月に跨る場合、それを嫌って、三十五日に繰り上げて「忌明け」とする場合があるらしい。しかし、さらに調べてみると、「始終、苦が身(み=「三」)につく」という単なる言葉の語呂合わせとする説や、大阪商人が月末の忙しい集金日を三月(みつき)もとられてはかなわんから、三十五日に切り上げるようになった、という説さえあった。私自身の葬儀は献体で行わないからして何ら関係ないが。]

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