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2019/09/30

小泉八雲 天の河緣起  (大谷正信譯) その4 / 「天の河緣起」~了

 

[やぶちゃん注:本篇についての詳細は「小泉八雲 作品集「天の河緣起そのほか」始動/天の河緣起(大谷正信譯)(その1)」の私の冒頭注を参照されたい。歌の表示はブラウザの不具合を考えて底本のものを上に引き上げてある。小泉八雲の〔 〕書き割注(〔 〕のポイント落ち)も、同ポイントで引き上げた。「万葉集」の校合や注には中西進氏の講談社文庫版を参考にした。小泉八雲は必ずしも順番に引用していない。一部で前後しているので注意されたい。

 

 これ等の歌の多くのものに於て、妻の方が夫に會ひに天の川をまめまめしく渡るのではなくて、夫の方が妻に會ひに川を漕ぎ渡るといふこと、また鳥の橋のことには少しも言ひ及んでないことが觀られるであらう。……自分の飜譯については、日本の詩句を飜譯するの困難を經驗して知つて居らるる讀者諸君は、最も寬容であらるることと自分は思ふ。自分は(アストンが採用した方法に從つて古風な綴音を示す方がよいと考へた一二の場合を除いて)羅馬字綴りを用ひた。そして必要上補充した語なり句なりは、括弧で括つて置いた。

[やぶちゃん注:「綴音」「ていおん」或いは「てつおん」と読み、「二つ以上の単音が結合して生じた音」を指す。

「アストン」イギリスの外交官で日本学者のウィリアム・ジョージ・アストン(William George Aston 一八四一年~一九一一年)。十九世紀当時、始まったばかりの日本語及び日本の歴史の研究に大きな貢献をした、アーネスト・サトウ、バジル・ホール・チェンバレンと並ぶ初期の著名な日本研究者である。詳細は参照したウィキの「ウィリアム・ジョージ・アストン」を参照されたい。]

 

 天の川相向き立ちて我が戀ひし

    君來ますなり紐解きまけな

 

〔この最後の句は非常に古い日本文學に記載されて居る面白い習慣を指して居る。戀人は、分れる前に、互の內側の帶(ヒモ)を結んで、つぎに會ふ時までその結びに手を觸れずに置くことを約束する習はしであつたのである。この歌は養老七年――二十三年――今を去る千百八十二年前に作られだものだといふ〕

[やぶちゃん注:本篇に既出の山上憶良の一首であるが、小泉八雲は、ここで改めて英訳を附し、解説をするために確信犯で掲げているのである。]

 

 久方の天の川洲に船うけて

    今宵か君があがり來まさん

 

〔ヒサカタノは天(そら)の物に關して古の歌人が用ひた「枕詞」であつて、飜譯するのが困難なことが往往ある。アストン氏はヒサカタの文字通りの意味は――ヒサ(久しい)、カタ(堅い、堅固な)で――長く續くといふ意味での『久堅』に過ぎぬと考へて居る。だから、ヒサカタは『蒼空の』といふ意味になると言ふ。處が日本の註譯者は此言葉はヒ(日)、サス(射す)、カタ(方)の三語で出來て居ると言ふ。――この語源說から見るとヒサカタノを『光りを注ぐ』とか『光りを與へる』とかいふやうな言葉で飜譯すゐことが正しいことになる。枕詞のことについてはアストンの日本文語文典を見られたい〕

[やぶちゃん注:「万葉集」巻第八の、やはり山上憶良の一首(一五一九番)。後書に「右は、神龜元年七月七日の夜に、左大臣(ひだりのおほまへつきみ)の宅(いへ)」とある。「神龜元年」は七二四年で、長屋王の屋敷での詠歌。

 ひさかたの天(あま)の川(かは)瀨に船浮(う)けて今夜(こよひ)か君が我許(わがり)來(き)まさむ

「ひさかたの」は以上のような説もあるが、小学館「日本国語大辞典」によれば、現在でも語義・語源は未詳とする。

「日本文語文典」“ A grammar of the Japanese written language ”(一八七二年と一八七七年に二版が出ている)。]

 

 風雲は二つの岸に通へども

    わがとほつまのことぞ通はぬ

[やぶちゃん注:この歌も、やはり、同巻第八の山上憶良が七夕を詠んだ十二首の歌の内の一つ(一五二一番)、前の一五二〇番の長歌に添えられた反歌の一つ目である。

 風雲(かぜくも)は二つの岸に通へども

    わが遠妻(とほづま)の言(こと)そ通はぬ

第四句目は別に、一本では、「はしづまの」とする、という注記が附く。

「わが遠妻」は「私の遠くにいる妻」。「はしづま」は「愛しい妻」の意。]

 

 つぶてにも原註四投げ越しつべき天の川

    隔てればかもあまたすべなき

原註四 古書にはツブテはタブテとある。

[やぶちゃん注:同前の反歌の二つ目(一五二二番)。

 礫(たぶて)にも投げ越しつべき天の川

    隔てればかもあまた術(すべ)無き

後書があり、「右は、天平元年七月七日の夜に、憶良、天の川を仰ぎ見たり。【一に云はく、師(そち)の家の作】」とある。「天平元年」七二九年だが、厳密には神亀六年が正しい。この年の改元は八月五日であるからである。「帥」は大伴旅人。]

 

 秋風の吹きにし日よりいつしかと

    わが待ちこひし君ぞ來ませる

[やぶちゃん注:「万葉集」巻第十の「七夕(なぬかのよ)九十八首」の中の詠み人知らずの一首(二〇八三番)。

 秋風の吹きにし日より天の川瀨に出で立ちて待つと告げこそ

「こそ」は動詞の連用形に付いて、他に対する願望を表わす終助詞。「~してほしい。~てくれ。」。]

 

 天の川いと川波は立たねども

    さもらひがたし近きの瀨を

[やぶちゃん注:既注の「万葉集」巻第八の山上憶良が七夕を詠んだ十二首の歌の一つ(一五二四番)。

 天の川いと川波は立たねども伺候(さもら)ひ難(かた)し近きこの瀨を

「天の川に、ひどく、川波が立っているわけではないのに、川の様子をまず見ようとしても、その舟さえも出せない。これほど、川瀬が近く見えるのに!」の意。何故、舟出出来ないのか不明だが、牽牛の焦りを読んだものではある。]

 

 袖振らば見もかはしつべく近けれど

     渡るすべなし秋にしあらねば

[やぶちゃん注:憶良の同前の次の歌(一五二五番)。

 袖振らば見もかはしつべく近けども渡るすべ無し秋にしあらねば

牽牛の立場からの一首である。]

 

 かげろひの原註五ほのかに見えて別れなば

       もとなや戀ひん逢ふ時までは

原註五 カゲロヒはカゲロウの古語、陽炎。

[やぶちゃん注:憶良の同前の次の一首(一五二六番)だが、初句の読みが現行とは異なる

 玉かぎる髣髴(ほのか)に見えて別れなばもとなや戀ひむ逢ふ時までは

これは「後書」があり、「右は、天平二年[やぶちゃん注:七三〇年。]七月八日の夜に、師(そち)の家に集會(つど)へり」とする。「かぎる」から「かげろひ」は派生したものだが、「玉かぎる」が、しっくりくる。

 玉が一瞬キラリと光るように、ほんのわずかの間、逢っただけで別れてしまったなら、心もとない思いが、ずっと続くのだなぁ……また逢う日まで、ずっと……

といった謂い。]

 

 彥星の妻迎船漕ぎづらし

    天の川原に霧の立てるは

[やぶちゃん注:憶良の同前の次の一首(一五二七番)。

 牽牛(ひこぼし)の嬬迎(つまむか)へ船(ぶね)漕ぎ出(づ)らし天(あま)の川原(かはら)に霧の立てるは

で、作者の「観察景仕立て」である。]

 

 霞立つ天の川原に君待つと

    いかよふほどにものすそ濡れぬ

[やぶちゃん注:憶良の同前の次の一首(一五二八番)。

 霞立(かすみた)つ天の川原(かはら)に君待つといゆきかへるに裳(も)の裾ぬれぬ

で、迎える織姫の立場から。「いゆきかへる」は「い行き返る」で「彷徨(さまよ)う」の意。

 

 天の川水の波音騷ぐなり

    わが待つ君のふなですらしも

[やぶちゃん注:憶良の同前の次の一首(一五二九番)。但し、二句目の読みが現行と異なる

 天の川ふつの波音騷くなりわが待つ君し舟出すらしも

「ふつ」は「皆・すっかり」。「し」は強意の副助詞。]

 

 七夕の袖卷く宵のあかときは

    川瀨のたづは鳴かずともよし

[やぶちゃん注:「万葉集」巻第八の湯原王(ゆのはらのおほきみ)の七夕(なぬかのよ)歌二首の二つ目(一五四五番)。但し、二句目の読みが現行と異なる

 織女(たなばた)の袖つぐ夜(よる)の曉(あかとき)は川瀨の鶴(たづ)は鳴かずともよし

「つぐ」は「続ける・くっつける・交わす」。ただ、「卷く」でもシチュエーションとしては問題はない。]

 

 天の川霧立ち渡るけふけふと

    我が待つ戀ひしふなですらし

[やぶちゃん注:「けふけふ」の後半は底本では踊り字「く」。「万葉集」巻第九の「七夕(なぬかのよ)の歌一首幷(あは)せて短歌」の後者。前書は「反歌」(作者未詳・一七六四番)。但し、現行とは、下の句が異様に異なる。

 天の川霧立ち渡る今日今日とわが待つ君し舟出すらしも

小泉八雲のローマ字の転記ミスと思われる。]

 

 天の川安の渡りに船うけて

    わが立ち待つといもにつげこそ原註六

原註六 日本古語ではイモは「妻」と「妹」と兩方を意味してゐる。「いとしの者」といふ語に譯してよからう。

[やぶちゃん注:「万葉集」巻第九の「七夕(なぬかのよ)九十八首」の中の一首(作者不詳(以下同じ)・二〇〇〇番)。

 天の川安(やす)の渡(わたり)に船浮(う)けて秋立ち待つと妹に告げこそ

「天の川」は高天原神話に登場する「安の川」と同一と考えたもの。そこには川原があって、牽牛が織女のもとへと通う際に乗る、船の船着き場があると捉えたものである。]

 

 おほそらよ通ふわれすらながゆゑに

      天の川路のなづみてぞこし

[やぶちゃん注:同前の次の一首(二〇〇一番)。但し、初句の「よ」は「ゆ」が正しい。小泉八雲の転写ミス。

 大空ゆ通(かよ)ふわれすら汝がゆゑに天の川路(かはぢ)をなづみてぞ來し

「ゆ」は経過点を示す格助詞。万葉時代の歌語。「なづみて」は「漬づみて」で、ここは、現実的に「行き悩む」の意。]

 

 八千矛の神の御世よりともしづま

    人知りにけりつぎてし思へば

〔ヤチホコノカミ、これには他にも名が多くあるが、此神は出雲の大神で、普通にはオホクニヌシノカミ卽ち「大國主神」として知られて居る。地方ではまた結婚の神として崇められて居る――その爲めに此作者はかうこの神の名を持つて來たのであらう。ツマ(ヅマ)といふ語は、古代日本にあつては、妻とも夫とも意味した。だから、この歌は妻の思ひを叙べたものとも、或は夫の思ひを叙べたものとも解してよからう〕

[やぶちゃん注:同前の次の一首(二〇〇二番)。

 八千戈(やちほこ)の神の御代より乏(とも)し妻(づま)人知りにけり繼ぎてし思へば

小泉八雲は、「ともしづま」をかく両用に解説しているが、現行では、「乏し妻」は「逢うことが稀な妻」として、織女を指すものとする訳解が圧倒的である。「繼ぎてし思へば」は「かくも私が絶えることなく思い続けているから」の意。開けっ広げな感懐吐露からも、以下に並べられた首群から見ても、その方が自然である。]

 

 あめつちと別れし時ゆおのがつま

    しかぞてにある秋原註七待つあれは

原註七 古の曆では七月の七日は秋季。

[やぶちゃん注:同前の一首(二〇〇五番)。四句目の字余りは原歌のままである。

 天地と別れし時ゆ己(おの)が妻然(しか)ぞ年にある秋待つ我れは

「天地開闢以来、私の妻には、かくも、年に一度しか会えぬのだ! だから秋を待ち焦がれるのだ! 私は!」の意。]

 

 わが戀ふるにほのおもは今宵もか

    あまの河原に石枕まく

[やぶちゃん注:「おもは」訳者大谷のミス。小泉八雲は正しく“Niho no omo wa”と記している。同前の一首(前歌より前・二〇〇三番)。

 わが戀ふる丹(に)の穗(ほ)の面(おもわ)今夕(こよひ)もか天の川原に石枕(いしまくら)まく

「丹(に)の穗(ほ)の面(おもわ)」「丹色が秀でている顔」で「匂うような美しい顔」。牽牛が織女のことを想像して仮想したもの。石を枕にして独り寝しているのは織女。]

 

 天の川みこもりぐさの秋風に

    なびかふ見れば時來るらし

[やぶちゃん注:同前の一首(二〇一三番)。但し、「みこもりぐさ」が現行と異なる

 天の川水蔭草(みづかげぐさ)の秋風に靡(なび)かふ見れば時は來にけり

「水蔭草」は「川辺の草」の意。]

 

 わがせこに原註八うらこひおれば天の川

    よふね漕ぎとよむかぢのときこゆ

原註八 古代の日本語ではセコという語は夫か兄を意味した。

[やぶちゃん注:同前の一首(二〇一五番)。下の句の字余りは原歌のままである。「おれば」は原本のママ。小泉八雲は口語表記に変えてしまっている。

 わが背子にうら戀ひ居(を)れば天の川夜船漕ぐなる楫(かぢ)の音(おと)聞こゆ

「なる」伝聞推定の助動詞。]

 

 遠妻とたまくらかはし寢たる夜は

    とりがねななき明けばあくとも

〔「玉枕を取り換はす」とは互の手を枕に用ひるといふ意味。この詩的な句は、よく最初の日本文學に用ひられて居る。玉(タマ)[やぶちゃん注:ルビではなく、本文。]といふ語は「貴とい」、「親しい」とかいふ語と同意味に、よく複合詞に用ひられる〕

[やぶちゃん注:同前の一首(二〇二一番)。原歌は以下のように最終句が字余りであり、意味が、微妙に強い意志が伝わってこない

 遠妻(とほづま)と手枕(たまくら)交(か)へて寢(ぬ)る夜は鷄(とり)が音(ね)な鳴き明けば明けぬとも

 「な」は禁止の副詞。最終句は「夜が明けてしまったなら、それはそれで仕方がないのだが」の意。]

 

 よろづよにたづさはり居てあひみども

      おもひすぐべき戀ならなくに

[やぶちゃん注:同前の一首(二〇二四番)。

 万代に攜(たづさ)はり居て相見(あひみ)とも思ひ過ぐべき戀にあらなくに

「思ひ過ぐべき戀にあらなくに」「思いが消えてしまうような恋ではないのに」の意。]

 

 我が爲とたなばたつめのその宿に

     織れる白妙ぬいてきんかも

[やぶちゃん注:同前の一首(二〇二七番)。以上の訓では、恐らく、殆んどの読者は下句の意味が採れない。現行は、

 わがためと織女(たなばたつめ)のその屋戶(やど)に織る白栲(しろたへ)は織りてけむかも

である。「織り終ったかなぁ?」という牽牛の想像である。]

 

 しら雲の五百重かくりて遠けども

    よひさらず見ん妹があたりは

[やぶちゃん注:同前の前の一首(二〇二六番)。現行とは四句目に異同がある

 白雲の五百重隱(いほへがく)りて遠(とほ)けども夜(よる)去らず見む妹があたりは

「白雲の五百重隱(いほへがく)りて遠けども」は「白雲が幾重にも重なり合って、織女のいる方は隠れて見えないし、遠いけれど」の意であり、「夜(よる)去らず見む」は「夕方になるといつも」の意である。これは、「夕方を離れない」の意から「夕方になる毎(たび)に」、則ち、「毎夕」の意である。富山県高岡市に六年住んだ私は、中学一年で、この意味を知ることが出来た。かの地では、「夜が来ること」を「よさり」(夜去り)と、今も言うからである。万葉時代の雅な古語が、今も現に残っているのである。

 

 秋されば川霧たてる天の川

    川に向き居て戀ふ夜ぞ多き

[やぶちゃん注:同前の一首(二〇三〇番)。

 秋されば川霧立てる天の川川に向き居(ゐ)て戀ふる夜そ多き

係助詞「ぞ」は最も古くは清音で、上代には「そ」「ぞ」が併存していた。]

 

 ひととせになぬかの夜のみ逢ふ人の

    戀もつきねばさよぞあけにける

[やぶちゃん注:同前の一首(二〇三二番)。

 一年に七日の夜のみ逢ふ人の戀も過ぎねば夜は更(ふ)けゆくも

であるが、別に、

 一年に七日の夜のみ逢ふ人の盡きねばさ夜そ明けにける

の異形が、「万葉集」には、示されてある。]

 

 年の戀今宵つくして明日よりは

    常のごとくや我が戀居らん

[やぶちゃん注:同前の一首(二〇三七番)。

 年の戀今夜(こよひ)盡して明日よりは常のごとくや我が戀ひ居(を)らむ

「や」疑問の係助詞。]

 

 彥星とたなばたつめと今宵あふ

     天の川戶に波立つなゆめ

[やぶちゃん注:同前の一首(二〇四〇番)。

 彥星(ひこぼし)と織女(たなばたつめ)と今夜(こよひ)逢ふ天の川門(かはと)に波立つなゆめ

「川門」川の流れが狭くなっているところ。渡し場は、そこにあるのである。「な」禁止の副詞。「ゆめ」「努・勤」で、呼応の副詞であり、通常文では、下に禁止・命令表現を伴うが、ここでは、和歌の修辞技巧として、反転させて、強調されているのである。]

 

 秋風の吹きただよはすしら雲は

    たなばたつめの天つひれかも

〔日本の夫人服裝史に於て、時代を異にして、異つた衣裳品が此名で呼ばれて居た。此歌の場合では、云ふところのヒレは、頸のまはりに著けて、肩の上から胸へと下して、其處で垂らしたままで置くか、又は或る飾り結(むすび)に結んだ白いスカアフであつたらしい。ヒレは、今日同じ目的に手巾[やぶちゃん注:「ハンカチ」或いは「ハンケチ」と読んでおく。]を振るやう、それで合圖をするによく用ひた。――で、この歌に叙べてある問ひはかういふ意味らしく思はれる。「あれはタナバタが――自分を呼びに――その襟卷を振つて居るのではあるまいか』極くの昔には普通著る着物は白であつた〕

[やぶちゃん注:同前の次の一首(二〇四一番)。

 秋風の吹きただよはす白雲は織女(たなばたつめ)の天つ領巾(ひれ)かも

「領巾(ひれ)」は、元々は「呪具」であった。私は「魂振り(魂呼び)」の一呪法――フレーザーの言う「類感呪術」――と見る。

 

 しばしばも相見ぬ君を天の川

    船出はやせよ夜の更けぬまに

[やぶちゃん注:同前の次の一首(二〇四二番)。

 しばしばも相見ぬ君を天の川舟出(ふなで)早(はや)せよ夜の更けぬ間に

織女の焦りをモチーフとしたもの。]

 

 天の川霧立ち渡り彥星の

    かぢのときこゆ夜の更け行けば

〔カヂといふ語は今は「舵」。――舳[やぶちゃん注:ママ。「艫」(とも)の誤記か誤植。]に乘せて、同時に舵の役も櫂役もする一本の櫂(ヲオル)で匕橈(スカル)、今、ロ[やぶちゃん注:カタカナの「ろ」であるので注意。]と呼んで居るもの。註釋家の說に據ると、天の川を橫ぎつて居る霧は星神の櫂の飛沫であるといふ〕

[やぶちゃん注:同前の一首(二〇四四番)。第四句は、現行の訓読では、以下のようになっては、いる。

 天の川霧立ちわたり彥星の楫(かぢ)の音(おと)聞こゆ夜の更けゆけば

の第四句は字余りである。但し、私は、字余りで読まない八雲のそれでも、一向によい考える。何故なら、万葉語では「音」は普通に「と」と一音で読むことが、散見されるからである。

 

 天の川かはとさやけし彥星の

     はや漕ぐ舟の波の騷か

[やぶちゃん注:同前の一首(二〇四七番)。

 天の川(かは)川音(かはと)淸(さや)けし彥星の秋漕ぐ舟の波のさわきか

「騷ぎ」は上代は清音である。]

 

 このゆふべ降り來る雨は彥星の

    はや漕ぐ舟の櫂(かい)のちりかも

[やぶちゃん注:同前の一首(二〇五二番)。

 この夕(ゆふべ)降り來(く)る雨は彥星の早(はや)漕ぐ舟の櫂(かい)の散(ちり)かも

「散(ちり)」は水の飛沫。]

 

 あすよりはわがたまどこを打拂ひ

    君といねずてひとりかも寢ん

[やぶちゃん注:同前の前の前の一首(二〇五〇番)。

 明日よりは我が玉床(たまどこ)をうち掃ひ君と寢(い)ねずてひとりかも寢(ね)む

「玉床」は「壻(むこ)迎えのための飾ったベッド」を指す。牽牛の心境であろう。]

 

 風吹きて川波立ちぬ引き舟に

    渡り來ませ夜の更けぬまに

[やぶちゃん注:同前の一首(二〇五四番)。

 風吹きて川波立ちぬ引船(ひきふね)に渡りも來(きた)れ夜の更けぬ間に

だが、別な訓では「渡り來ませ」もあるようだ。]

 

 天の川波は立つとも我が舟は

    いざ漕ぎいでん夜の更けぬまに

[やぶちゃん注:同前の一首(二〇五九番)。

 天の川波は立つとも我が舟はいざ漕ぎ出でむ夜の更けぬ間に

リアルな牽牛の逸る瞬間を、見事に彼になりきって、スカルプティング・イン・タイム(Sculpting in Time)した素敵なリアリズムの一首である。]

 

 いにしへに織りてし機をこのゆふべ

     ころもにぬひて君待つあれむ

[やぶちゃん注:同前の一首(二〇六四番)。

 いにしへゆ織(お)りてし機(はた)をこの夕(ゆふべ)衣(ころも)に縫(ぬ)ひて君待つわれを

「を」は詠嘆の間投助詞。]

 

 天の川瀨を早みかもぬばたまの

    夜は更けにつつあはぬ彥星

[やぶちゃん注:同前の一首(二〇七六番)。

 天の川瀨を早(はや)みかもぬばたまの夜(よ)は更けにつつ逢はぬ彥星

ちょっと変わった、無意識的に少し意地悪な客観観察である。]

 

 わたし守船早や渡せひととせに

     再びかよふ君ならなくに

[やぶちゃん注:同前の次の一首(二〇七七番)。

 渡守(わたしもり)舟早(はや)渡せ一年に二たび通ふ君にあらなくに

ここでは牽牛は自分で漕がずに、渡し舟で船頭の漕ぐそれでやってくる設定にしてあるのである。なんとなく後世の文楽の一場面のような印象がする。]

 

 秋風の吹きにし日より天の川

    川瀨にてたち待つと告げこそ

[やぶちゃん注:同前の次の一首(二〇八三番)。

 秋風の吹きにし日より天の川瀨に出で立ちて待つと告げこそ

この「こそ」は、係助詞ではなく、動詞の連用形に付く、他に対する願望を表わす終助詞である。「~してほしい・~してくれ」である。

 

 七夕のふなのりすらしまそかがみ

      きよき月夜に雲立ち渡る

〔天平十年(紀元七百三十八年)七月の七日、天の川を眺めながら、かの有名な大友[やぶちゃん注:ママ。]宿禰家持が作つたもの。三句目の枕詞(マソカガミ)[やぶちゃん注:ルビではなく、本文。]は飜譯が出來ぬ〕

[やぶちゃん注:「万葉集」巻第十七の、大伴家持の、天平「十年の七月七日に、大伴宿禰家持の、獨り天漢(あまのがは)を仰ぎて、聊(いささ)かに懷(おもひ)を述べたる歌一首」(三九〇〇番)である。現行表記とは、やや異なる

 織女(たなばた)し舟乘(ふなの)りすらしまそ鏡淸き月夜(つくよ)に雲立ち渡る

家持二十歳頃の作で、これは、織女が出向く形だが、これは中国の伝説のままなのであって、おかしくないのである。「まそ鏡」は、もとは、神「聖なる鏡」を褒めていう語で「立派な鏡」のことであったが、「鏡を見る」の意から転じて、「見る」にかかる枕詞となったものである。「霧」は、その織女の乗る舟の乗り出す「飛沫(しぶき)」と、とっているのである。「し」は強意の副助詞であろう。]

 

 しかるに、日本の昔の歌人は星空に何の美をも認め得なかつた! と眞面目に主張され來たつて居る。……

[やぶちゃん注:感嘆符の後の字空けは底本にはない。特異的に入れた。]

 恐らく如上の昔の歌人が了解して居たやうな、七夕傳說は西洋の人の心にはただ微かにしか訴へ得ないであらう。にも拘らず、澄み切つた靜寂の夜、月の昇る前に、この古い物語の妙趣が、熒熒[やぶちゃん注:「けいけい」。小さくきらきらと輝くさま。]たる空からして――科學の奇怪なる事實を、且つまた空間といふ途轍も無い怖ろしいものを自分に忘れさせに――自分へ下(お)りて來る。すると自分はもはや天の川をば、その幾億萬の太陽も奈落を照す力を有たぬ[やぶちゃん注:「もたぬ」。]彼(あ)の恐ろしく大きな宇宙の環とは思はずに、ただ、アマノガハそのものとして、――天つ川として眺める。自分にはその光つて居る川のおののきが見え、その川岸にたゆたふ霧が見え、秋風に靡く水草が見える。白い織姬がその星の機に坐つて居るのが見え、向うの岸に草を喰んで居る牛が見える。――そして自分は降る露は牽牛の櫓が散らす飛沫だと思つて居る。そして天(そら)が非常に近いものにまた暖かいものにまた人間味のあるものに思はれ、身のまはりの靜寂は――とこしへに戀ひ慕ふまたとこしへに年の若い、そしてとこしへに神神の父性智に不滿足で居る――變ること無き、不死不滅の、或る戀の夢に充たされて居る。

[やぶちゃん注:……私は……哀しいことに――思うのだ……、

この小泉八雲の「天の河緣起」が――

真の「日本人」が書いた――

美しき日本の――

美しき七夕の伝承を讃美した――

「最後の作品」

である、と…………

 

小泉八雲 天の河緣起  (大谷正信譯) その3

 

[やぶちゃん注:本篇についての詳細は「小泉八雲 作品集「天の河緣起そのほか」始動/天の河緣起(大谷正信譯)(その1)」の私の冒頭注を参照されたい。歌の表示はブラウザの不具合を考えて、底本のものを上に引き上げてある。]

 

 我が讀者諸君は七夕傳說を取扱つて居る、日本の古歌の次記の選擇を見て興味を感ぜらるる筈と思ふ。これ等は悉く『マンエフシウ』から採つたものである。『マンエフシウ』卽ち『萬の葉の集り』といふは八世紀の半ば前に作られた大歌集である。勅命に依つて編纂されたもので、九世紀の初めに完成された。その中にある歌の數は四千の上にのぼる。『長い歌』(ナガウタ)もあるが、大多數はタンカ卽ち三十一文字に限られて居る作品で、そして作者は廷臣か高官かであつた。つぎに飜譯する初めの十一の短歌は千百年以上も前に筑前の國の守(かみ)であつた山上憶良が作つたものであり、その作のうちの少からずが希臘詩選中のより立派な奇警詩(エピグラム)の或る物と比肩するに足るから、氏の歌人としての名聲は頗る當然のものであつた。その幼兒フルビが死んだ折に物しら、つきの歌は例證とするに足るであらう。――

 

 若ければ道行き知らじ賂(まひ)はせむ

    下(しも)べの使負ひてとほらせ

[やぶちゃん注:九〇五番。九〇四番の長歌の反歌。九〇四の詞書に、「男子(をのこ)の、名は古日(ふるひ)に戀ひたる歌三首【長一首短二首】」とある。自分の幼子「古日」の死を悼むものである。

 稚(わか)ければ道行き知らじ幣(まひ)は爲(せ)む黃泉(したへ)の使(つかひ)負(お)ひて通(とほ)らせ

「道」は死出の旅路、「幣」は贈り物・捧げ物。「通らせ」尊敬の命令形。「行かせてやって下さい」。以下、底本では、一行空けがない(単に改ページであったため、植字工が勝手に行空けを行わなかったものと推察されるため、行空けを行った。]

 

 それよりも八百年前にサアデイス生れの希臘詩人デイオドオラス・ゾオナスはかう書いて居る、――

[やぶちゃん注:「サアデイス」「デイオドオラス・ゾオナス」原文“Diodorus Zonas of Sardis”。この「Sardis」(サルディス又はサルデス)は現代のトルコ共和国マニサ県サルトにかつてあった古代リュディア王国の首都の名。ここ(グーグル・マップ・データ)。但し、言わずもがなであるが、これは、レオナルド・ダ・ヴィンチ(「ヴィンチ村のレオナルド」)と同じく、生地や活躍した場所等を名に入れ込んだもので、原本のそれ全体が固有名詞の名前、通称名である。フランス語の彼のウィキによれば、『紀元前一世紀前半に生きたギリシャの詩人』で、『彼の名前からサルディス出身であることが窺えるものの、彼の生涯については何も知られていない。彼はエピグラム』(epigram:結末に捻りを利かせるか、簡潔でウィットのある主張を伴う短い詩。語源は、ギリシャ語(ラテン文字転写:epigramma:「碑銘・碑文」の意)で、文学的修辞技法として長い歴史を持つ。本邦では「警句・寸鉄詩」と訳す)『を作曲しており、その内の幾つかは、後のギリシャの詩人・作家であった、テッサロニックのフィリッぺ(フランス語音で示した)が書した「詩選」に引かれてあり、後に編纂された「ギリシャ詩選」(ラテン文字転写‘ Anthologia Graeca ’)に纏められた』とある)

 以下は底本では全体が二字下げ。前後を一行空けた。]

 

この蘆の湖の水の上を、冥土指して死者の船を漕ぐなる汝ケエロンよ、キニラスの子が舷[やぶちゃん注:「ふなばた」。]の梯子を登る時、汝が手を伸ばして受け迎へよや。穿てる草履はかの子を滑らしむべく、また岸の砂を肌足にて踏まんことは恐るれば。

 

 然し、デイオドオラスのこの面白い奇警詩は――『キニラスの子』といふはアドニスに他(ほか)ならぬのだから――ただ、神話に感じて作つたのである。然るに憶良の歌は父が子に對する思慕の情を我我に言ひ現はして居るのである。

[やぶちゃん注:「冥途」原文は“Hades”。「ハーデース」はギリシア神話の冥府の神。冥界の代名詞ともなった。

「ケエロン」原文は“Charon”。「カローン」或いは「カロン」が一般的(この大谷の音写では、ギリシア神話の半人半馬の怪物ケンタウロスの一人である「ケイロン」(Cheiron)と誤るので甚だよくないと私は思う)。ギリシア神話に登場する神に準ずる存在で、冥界の河「ステュクス」(「憎悪」の意)或いはその支流「アケローン」(悲嘆)の渡し守で、「エレボス」(闇)と「ニュクス」(夜)の息子とされる。生物学名でご存知と思うが、ラテン語では“h”は、通常は発音しない。

「キニラス」原文は“ Kinyras ”。「キニュラース」或いは「キニュラス」(ラテン文字表記:Cinyras)は、ギリシア神話に登場するフェニキアの王。実の娘であるミュラーに思いを寄せられ、夜の闇によって相手が十二歳の自分の娘だということを知らずに近親相姦を行ったが、やがて相手が自分の娘だということを知ることとなる。彼女との間にアドニスが生まれた。妻はケンクレイス(以上はウィキの「キニュラース」に拠る)。

「アドニス」原文は“ Adonis ”。ラテン文字表記は「Adōnis」。ギリシア神話に登場する美と愛の女神アプロディーテーに愛された美少年(神ではなく人間)。フェニキアの王キニュラースと、その王女であるミュラーの息子。この名は後、「美しい男性」の代名詞としてしばしば用いられる。ウィキの「アドーニス」によれば、『アドーニスは狩りが好きで、毎日狩りに熱中していた。アプロディーテーは狩りは危険だから止めるようにといつも言っていたが、アドーニスはこれを聞き入れなかった。アドーニスが自分よりもアプロディーテーを選んだことが気に入らなかったペルセポネーは、アプロディーテーの恋人である軍神アレースに、「あなたの恋人は、あなたを差し置いて、たかが人間に夢中になっている」と告げ口をした。これに腹を立てたアレースは、アドーニスが狩りをしている最中、猪に化けて彼を殺してしまった』。『アプロディーテーはアドーニスの死を、大変に悲しんだ。やがてアドーニスの流した血から、アネモネの花が咲いたという』とある。]

 

 七夕の傳說は實に、支那から借りたものではあるが、讀者は次記の作に何等支那らしいところを見出されぬであらう。いづれも外國の感化を受けてゐない昔の古典的な歌のその最も純なるものを代表して居るもので、千二百年前の日本人の生活と思想との情態[やぶちゃん注:ママ。大谷の癖。]について、幾多の暗示を我我に提供するものである。如何なる近代の歐洲文學もまだ形を具ふるに至らざる前に、書かれたものであることを想へば、その後の幾世紀の星霜の間に日本の文語がどんなに少ししか變化して居ないか、誰れしも非常に驚く。少しばかりの廢語と發音の樣樣な一寸とした變化とを差引けば、今日の尋常な日本讀書人は、英國の讀書人がエリザベス朝の詩人を硏究するに覺ゆると殆んど同じ位に、餘り困難を感ぜずにその自國の詩神(ミユウズ)のかういふ初期の作物を味ふことが出來るのである。その上、萬葉集の作品の典雅と簡素の妙趣とは、役の日本歌人は終にこれを凌駕し得ず、しかもこれと竝馳することも減多に無かつたのである。

[やぶちゃん注:「エリザベス朝」イングランド王国のテューダー朝の内、特にエリザベスⅠ世の治世期間(一五五八年~一六〇三年)を指す。しばしば「イングランドの黄金期」と呼ばれる。但し、参照したウィキの「エリザベス朝」によれば、『文学の分野で「エリザベス朝」という言葉が使用される場合』は、その後のジェームズⅠ世(一六〇三年~一六二五年)及びチャールズⅠ世(一六二五年~一六四九年)の『在位期間を含めることが多い。エリザベス』Ⅰ『世の頃にはウィリアム・シェイクスピアが現れ、現在に残る戯曲の多くを残した。シェイクスピアはソネットなどにも大きな足跡を残した。クリストファー・マーロウなどによっても多くの詩文が残され、英文学の大きな財産となっている』とある。

「竝馳」「へいち」。「並馳」。肩を並べて進むこと。並び競うこと。

 自分が飜譯した四十幾つの短歌に就いて云へば、その主たる興味は、思ふに、その作者は人間性を我我に洩す處に在つて存する。タナバタツメは今なほ頭が下る程に愛情の深い日本の人妻(ひとづま)を我我に代表して居り、ヒコボシは我我には神の光りは一向に放たず、支那の倫理的習慣がその拘束を生活竝びに文學に加ふるに至らない前の、六世紀若しくは七世紀の一年若い日本の夫(をつと)のやうに思はれる。それからまた此等の歌は、彼等が自然美に對する早くからの感情を表白して居るので、我我には興味がある。その歌に我等は日本の風景と、四季とが高天の蒼野に移されて居るのを見る。――急流がありまた淺瀨があり、石の多い河床の中に突然湧き上つて淙淙[やぶちゃん注:「そうそう」。水が音を立てて淀みなく流れるさま。]の音を立てたり、秋風に靡く水草が岸に生えたりして居る天の川は鴨川だと言つてもよいぐらゐ、――其岸にたゆたふ霧は嵐山の霧そのものである。木の釘の上で動くたつた一挺の櫂で推し進めるヒコボシの船はまだ廢れては居ない。多くの田舍の渡船場で、風雨の夜はそれに乘つて渡つて、とタナバタツメが夫に願つたヒキフネ――綱で河の上を曳つ張つて渡す幅の廣い淺い船――を今なほ諸君は見得るのである。そして少女と人妻とは、氣持ちのいい秋の日には、タナバタツメがその戀人たる夫の爲めに機を織つた如くに、田舍村のその門口で今なほ坐つて機を織つて居るのである。

[やぶちゃん注:以下、一行空けで和歌紹介パートに入るので、ここでブレイクしておく。

 ……因みに……私は、この最終段落の、小泉八雲が想起して呉れる、「不変のもの」としての美しい(ちょっと男にはスパイスが効かせてあるところも含めて)日本の原風景が……もう……多くの日本人に想起出来なくなっており……その風景が消滅しかけていることに……非常な「痛み」を感ずる…………

小泉八雲 天の河緣起  (大谷正信譯) (その2)

 

[やぶちゃん注:本篇についての詳細は「小泉八雲 作品集「天の河緣起そのほか」始動/天の河緣起(大谷正信譯)(その1)」の私の冒頭注を参照されたい。]

 

 七夕祭を初めて日本で行つたのは天平勝寶七年(紀元七百五十五年)の七月七日であつた。恐らく七夕の神の起源は支那に在るといふことが、これを公に崇めるといふこと多くの神社で、いつの世にもしなかつた事實を說明する。

 自分はそれへたつた一つの神社の記錄を見出すことが出來た。それは尾張の國星合村原註三といふ村にあつて、七夕森といふ杜に圍まれて居る七夕神社といふのである。

原註三 ところが近代のどんな地名簿にもそんな村の記載がない。

[やぶちゃん注:尾張ではないが、現在の三重県松阪市星合町(ほしあいちょう)星合神社(波氐(はて)神社)が現存し(グーグル・マップ・データ)、「松阪市観光協会」公式サイト内のこちらによれば、『古くは伊勢国における七夕伝説発祥の神社とされ』、『三雲管内、新田開発以前の白砂青松の地で行われていた七夕祭は「伊勢星合祭」と呼ばれてい』たとし、『現在も「星合」「鵲」という地名が残り、神社の近くには「鵲橋」が存在し』、『主祭神は「天棚機姫神(あめのたなばたひめのかみ)」』で、『古い文献には「多奈波太姫(たなばたひめ)」とあ』るとある。小泉八雲が言っているのは、ここの可能性が高い。]

 が、然し天平勝寶前でも、織姬の傳說はよく知られて居たらしい。といふのは養老八年(紀元七百二十三年)の七月七日の夜に、歌人の山上憶良が、

  天漢(アマノカハ)相向立而(アヒムキタチテ)吾戀之(アガコヒシ)君來益奈利(キミキマスナリ)紐解設奈(ヒモトキマケナ)

といふ歌を作つたといふことが、記錄されて居るからである。

[やぶちゃん注:以上は、「万葉集」巻第八の「山上臣憶良(やまのうへのおみおくら)の七夕の(なぬかのよ)の歌十二首」と前書する、その冒頭の一首である(一五一八番)。整序すると、

 天の川相向き立ちて我が戀ひし君來ますなり紐解き設(ま)けな

で、歌の後に、

 右は、養老八年七月七日に、令旨に應(こた)ふ。

とある。「令旨」は皇太子の命令。但し、講談社文庫の今西進氏の「万葉集」の注によれば、『養老八年は二月に神亀』に『改元』されているから、『六か七の誤り』とある。]

 七夕祭は日本では千百五十年前に、支那の先例に從つて、ただ、宮中の祭りとして、初めて行はれたもののやうに察しられる。其後貴族と武人階級とが帝室の手本を模し、俗に云ふホシマツリ卽ち『星祭』を行ふ習慣が漸次下に及び、終に七月の七日は、其言葉の十分の意味に於て、國民的祭日となつた。が、その行ひ方は、時代によつてまた國を異にするに從つて、餘程違つて居つた。

[やぶちゃん注:ウィキの「七夕」によれば、『日本の「たなばた」は、元来、中国での行事であった七夕が奈良時代に伝わり、元からあった日本の棚機津女(たなばたつめ)の伝説と合わさって生まれた』。『「たなばた」の語源は『古事記』でアメノワカヒコが死にアヂスキタカヒコネが来た折に詠まれた歌にある「淤登多那婆多」(弟棚機)又は『日本書紀』葦原中国平定の』一『書第』一『にある「乙登多奈婆多」また、お盆の精霊棚とその幡から棚幡という。また』、「萬葉集卷十「春雜歌」二〇八〇番の「織女之 今夜相奈婆 如常 明日乎阻而 年者將長」(たなばたの今夜あひなばつねのごと明日をへだてて年は長けむ)『など』、『七夕に纏わる歌が存在する』。『そのほか、牽牛織女の二星がそれぞれ耕作および蚕織をつかさどるため、それらにちなんだ種物(たなつもの)・機物(はたつもの)という語が「たなばた」の由来とする江戸期の文献もある』。『日本では、雑令によって』七月七日が『節日と定められ、相撲御覧(相撲節会』(すまいのせちえ)『)、七夕の詩賦、乞巧奠などが奈良時代以来行われていた』。『その後、平城天皇が』七月七日に『亡くなると』、天長三(八二六)年、『相撲御覧が別の日に移され』、『行事は分化して』、『星合と乞巧奠が盛んになった』。『乞巧奠(きこうでん、きっこうでん、きっこうてん』『、きぎょうでん)は乞巧祭会(きっこうさいえ)または単に乞巧とも言い』、七月七日の『夜、織女に対して手芸上達を願う祭である。古くは』「荊楚歲時記」(著者の宗懍(そうりん)は南朝梁の普通六(五二五)年に秀才となっていたが、五五四年に西魏が江陵を陥落させたときに北へ連行され、北周の武帝の保定年間に六十四歳で没している)『に見え、唐の玄宗のときは盛んに行われた。この行事が日本に伝わり、宮中や貴族の家で行われた。宮中では、清涼殿の東の庭に敷いたむしろの上に机を』四『脚並べて果物などを供え、ヒサギの葉』一『枚に金銀の針をそれぞれ』七『本刺して、五色の糸をより合わせたもので針のあなを貫いた。一晩中香をたき』、『灯明を捧げて、天皇は庭の倚子に出御して牽牛と織女が合うことを祈った。また』「平家物語」『によれば、貴族の邸では願い事をカジの葉に書いた』。『二星会合(織女と牽牛が合うこと)や詩歌・裁縫・染織などの技芸上達が願われた。江戸時代には手習い事の願掛けとして一般庶民にも広がった。なお、日本において機織りは、当時もそれまでも、成人女子が当然身につけておくべき技能であった訳ではない』(太字は私が附した)とある。]

 宮中での儀式は極はめて細細した念入りの者であつた。それは具さに公事根源に――設明の繪圖を添へて――載せてある。七月の七日の宵に、宮居のうちの淸涼殿と呼ぶ建物の東の庭に莚を鋪き、その莚の上に星神に捧げる供物を載せる机四脚を立てる。普通の食物の供物のほかに、その机の上に酒、香、花を活けた朱漆りの華盤、箏と笛、五色の絲を貫いた目の五つある針一本を載せる。其饗宴を照す爲め、机の橫に黑漆りの燈臺をたてる。庭の他の部分にタナバタの星の光りが映るやうに、水盥が置かれ、宮中の貴女達は、其水に映る星影で針に絲を通すことを試みた。首尾よく通した者は翌年中幸運とされてゐた。

[やぶちゃん注:「公事根源」(くじこんげん:小泉八雲の原文は“ Kōji Kongen ”となっている)書名。「公事根源抄」とも呼ぶ。朝廷の年中行事を十二ヶ月に分けて、それぞれの由来を解説した書。全一巻。一条兼良撰。室町時代の応永二九(一四二二)年成立。現存しない行事や、これを通しての民俗信仰を窺うことが出来る好史料である。国立国会図書館デジタルコレクションの「公事根源」のここの「乞巧奠」(きこうでん)を見られたい。

「華盤」「けばん」。華道では花立ての下に置く式台のようなものを指すが、小泉八雲の原文は“vases of red lacquer containing flowers”(「vases」は「花瓶・壺」)で、ここは、「花立て」そのものの意である。]

 宮廷に仕へる貴族(クゲ)はこの祭りの日に宮中へ或る供物をしなければならなかつた。其供物の性質と、其奉呈の仕方とは勅令で極まつて居た。かつぎを冠り、禮裝をした位階ある貴女が、盆に載せて宮中へ運び行くのであつた。其貴女があゆみ行く時、その頭上に、大きな紅い傘を供人がさす。盆の上にはタンザク(歌を書くに用ひる色の美しい紙の縱長い角な[やぶちゃん注:「かくな」。細長い。]切れ)七枚、クズの葉七枚、硯七面、そうめん(一種のヷアミセリ)七すぢ、筆十四管、夜伐つて露が滋く置いて居る芋の葉一束が載せてあるのであつた。式は宮殿の庭で寅の刻――午前四時――に始つた。先づ星神を讚へる歌を書くのに使ふ墨を用意するに先だつて、其硯を丁寧に洗つて、一年一面葛の葉の上に置く。露が置いて居る芋の葉の一束をそれから一つ一つの硯の上に載せる。水を用ひずに、この露で墨の水をつくるのである。此式は凡て、玄宗皇帝の頃、支那の宮廷で流行つて居たものを模倣したもののやうである。

[やぶちゃん注:「ヷアミセリ」“vermicelli”。ヴェルミチェッリ(イタリア語:Vermicelli)。イタリア料理で使われる麺類であるパスタの一つ。名称は「ミミズやヒルのような長い虫」という意味の「ヴェルメ」(verme)の指小形で、「小さいヴェルメ」の意。スパゲッティよりやや太めの二・〇八~二・一四ミリメートルのものを指す。英語読みの「vɜrmɨˈtʃɛli」「vɜrmɨˈsɛli」の「ヴァーミセリ」「バーミセリ」という名でも知られている(ウィキの「ヴェルミチェッリ」に拠る)。]

 

 德川將軍時代になつて、初めて七夕祭は、眞に國民的な祭日となつた。そしてこの日を祝つて伐りたての竹へ、色變りのタンザクを結ひ[やぶちゃん注:「ゆひ」。]付ける通俗の習慣は、漸く文政(千八百十八年)時代に剏まる[やぶちゃん注:「はじまる」。]。前には短册は頗る上等な紙でつくつたもので、この古からの貴族的儀式は念入りであつたが、それに劣らずまた金のかかるものであつたのである。が、德川將軍時代に種種な色の頗る廉價な紙が製造された。それでこの祭日の式は費用をかけずに、どんなに貧しい階級の人達でも、思ふままこれを行ふことが出來るやうになつた。

 このお祭りに關する民習は地方によつて異つた。出雲の――出雲では社會のあらゆる階級が、士も平民も、殆んど同じ樣にしてこの祭日を祝つたものであるが――出雲の慣習は昔は殊に興味あるものであつた。それを簡單に記述すれば、封建時代の幸福な生活の模樣が幾分か偲ばれよう。七月の七日の夜、寅の刻には誰れも起きる。そして硯と筆とを洗ふ。それから家の中の庭で、芋の葉から露を集める。此露をアマノガハノシヅク(『天の川の滴』)と呼んで居た。庭へたてる竹に吊るす歌を書くのに使ふ新しい墨をつくるのに用ひるのである。七夕祭の時に友人同士互に新しい硯を贈るのが常であつた。そして家に新しい硯があれば、新しい墨をそれに使ふのであつた。それから家中の者が銘銘歌を書く。大人は、その能に應じて、星神を讚へる歌を作つた。子供等は云うて貰ふ歌を書きとるか、又は間に合せの歌を作らうとしたりした。餘りに年齡(とし)が若くて手傳つて貰はなければ筆の使へぬ子供は、親か姉か兄かに手を持つて貰つて、お祭りに關した語一つ又は句一つ――例へば『アマノガハ』とか、『タナバタ』とか、或は『カササギノハシ』(鵲の橋)とか――の文字を短册の上に形だけ書いた。庭へ伐りたての竹を、枝葉をそのままに、二本――雄竹(ヲトコダケ)と雌竹(ヲンナダケ)と――たてる。それは六尺許り離して立てるので、その間へ渡した綱へ五色の紙片と、五色の染め絲の總絲を吊るす。その紙片は上衣――キモノ――を現して居るのである。竹の葉と枝とへ、家中の者が歌を書いた短册を結ぴ付ける。そしてその二本の竹の間に、若しくはその直ぐ前へ置く机の上へ、星神への色色な供へ物――果物、素麵、酒、それから胡瓜に西瓜といつた樣な種種な野菜――を入れた器を置くのであつた。

 が、此祭りに關して一番妙な出雲の習慣は、ネムナガシ卽ち『眠流し』式であつた。夜明け前に若い者は、ネムの葉と豆の葉とを交ぜて造つた束を携へて流れ川へ行く。その川へ著くと、その葉束を流れへ投げ込んで、

 

    ネムハナガレヨ!

    マメノハハトマレ!

 

といふ短かい歌を唄ふのであつた。その歌は二樣に解釋が出來よう。といふのはネムといふ語はネムリ(睡眠)といふ意にも亦、ネムリギ或はネムノキ卽ち『睡り木』(英語のミモザ)といふ意にも取れるし、――一方またマメといふ綴りは、カナで書くと、『豆』を意味しもすればまた『活動』、『力』、『元氣』、『壯健』などを意味しもするからである。が、その式は象徴的のもので、歌の心は、

 

    ねむ氣よ、流れ去れよ!

    元氣の葉よ、止りてあれ!

 

といふのであつた。それを濟ますと、若い者は皆その水の中へ飛び込んで、その翌年は怠惰は全く流し去つて、永く元氣な努力心を保たうといふその決心のしるしに、水を浴びたり泳いだりするのであつた。

 

 が、然し七夕祭が其最も繪畫的な光景を示したのは多分エド(今の東京)でであつたらう。お祭りの續く二日――七月の六日と七日――の間、町は、歌が結ひ付けられて居る新しい竹が家家の屋根の上にたつので、大竹藪の觀を呈するのであつた。百姓は其日は竹で大儲けが出來たもので、祭日用にと幾百といふ荷車で竹を町へ持ち込んだ。江戶での此祭りの今一つの特色は、歌の結ひ付けてある竹を手に、町を持ち步く子供の行列であつた。その竹一本一本にまた、七夕の星の名が漢字で書いてある赤塗りの札が結ひ付けてあつた。

 が、德川の治世中は、殆んど到る處、この七夕祭はあらゆる階級の若い者に愉快な祭日で――日の出前に提燈を出して飾るのに始つて、ずつと翌晚まで續く祭日で――あつたものだ。この日は男の子も女の子も、一等いい著物を著て友人と鄰人とへ式の訪問をした。

 

 七月はタナバタヅキ卽ち『七夕の月』と呼ばれてゐた。この月はまたフミツキ卽ち『文の月』とも呼ばれてゐた。それは七月の間は到る處で、天つ空なる戀人をたたへて歌を作つたからである。

[やぶちゃん注:以下、一行空け。]

2019/09/29

40年振りの再会

今日、大学時代の友二人と逢った――

四十年が圧縮して、よき友らが僕の胸を打った――

それは孤独な私の人生への警鐘としての梵鐘のように響いた――

小泉八雲 作品集「天の河緣起そのほか」始動 / 天の河緣起 (大谷正信譯) (その1)

 

[やぶちゃん注:やぶちゃん注:本篇(原題“ THE ROMANCE, OF THE MILKY WAY ”(「恋の物語、天の河に就いての」)は一九〇五(明治三八)年十月にボストン及びニュー・ヨークの「ホートン・ミフリン社」(HOUGHTON MIFFLIN AND COMPANY)刊の“ THE ROMANCE OF THE MILKY WAY AND OTHER STUDIES & STORIES ”(「『天の河の恋物語』そして別の研究と物語」。来日後の第十二作品集)の冒頭に配されたものである。本作品集は“Internet Archive”のこちら(目次ページを示した)で全篇視認でき(本篇はここから)、活字化されたものは“Project Gutenberg”のこちらで全篇が読める(本書では、本編内の見開きなるページには左右上部の角に「小泉八雲」の丸い印影が黒で印刷されてあり、なかなかいい。本篇はここから)。小泉八雲は、この前年の明治三七(一九〇四)年九月二十六日に心臓発作(狭心症)のため五十四歳で亡くなっており、このブログ・カテゴリ「小泉八雲」で完遂した「神國日本」(戸川明三訳。原題は“ Japan: An Attempt at Interpretation ”(「日本――一つの試論」)に次いで、死後の公刊となった作品集である。

 底本は上記英文サイト“Internet Archive”のこちらにある画像データをPDFで落し、視認した。これは第一書房が昭和一二(一九三七)年一月に刊行した「家庭版小泉八雲全集」(全十二巻)の第八巻全篇である。★【2025年3月31日底本変更・前注変更】時間を経て、国立国会図書館デジタルコレクションに本登録し、現行では、以上の第一書房版昭和六(一九三一)年一月に刊行した「學生版小泉八雲全集」(全十二巻)の第七巻が、国立国会図書館デジタルコレクションで公開されてある。(リンクは扉だが、「學生版」の文字はない。しかし、奥附を見て貰うと『學生版 【第二囘豫約】』とあり、『昭和六年一月十日 發行』とあることが確認出来る)、 これが、前掲の底本と同じものであるが、やはり、外国のサイトのそれを底本とするのは、日本人小泉八雲に失礼であると考えた。されば、こちらで、再度、以下の「骨董」の作品群を改めて校正することとする。これが――私の小泉八雲への「義」――である。なお、之よりも前の元版の全集等が先行しているものの、私がそれらと比べた結果、実は先行する同社の「小泉八雲全集」のそれらは、訳が一部で異なっており、訳者等によって、かなりの補正・追加がされていることが、今回の正字補正作業の中で、はっきりと判って来た。いや、同じ「家庭版」と名打ったネット上の画像データでも、驚いたことに、有意に異なっていたのである。そうした意味でも――完全な仕切り直しの総点検――が必要であると決したものである。従って、旧前振りの括弧・鍵括弧の問題も、拡大とガンマ補正で確認し、正確を期する。総標題はここで、本作はここから。

 訳者大谷正信氏については、「小泉八雲 燒津にて 大谷正信譯」の私の冒頭注を参照されたい。

 傍点「ヽ」は太字に代えた。原註は最後にポイント落ち字下げで纏められてあるが、適切と思われる本文の中に同ポイントで挿入した。

 本篇は章立てがないが、かなり長い。適切と私が判断した箇所で、四部に分割して示すこととした。



     天の河緣起

          そのほか

 

 

     古昔は云ひぬ、『天河は水の精なり』と。

     我等は下界の川が時には爲すが如くに

     一年のうちにその川床を移すを視るなり。

                  (古代の學者)

[やぶちゃん注:この添え辞は底本では作品集標題「天の河緣起 そのほか」の次のページ(標題ページの裏・本文ページ(左)の反対の右ページ)に配されて、あたかも標題「天の河緣起 そのほか」への添え辞であるかのように訳されてあるのであるが、これはとんでもない誤りで、本来は作品集巻頭の一篇「天の河緣起」の題の脇に添えられるべきものであって、甚だ具合の悪いものであると私は思う。底本では、二行書きでセンス無く改行しているので、特異的に雰囲気を大事にして三行で配した。上に示した既に示した原本の本篇の標題ページを見られたい。なお、この出典は私は未詳。]

 

 

  天の河緣起

 

 舊日本が行うた幾多の面白いお祭今の中で、一番浪漫的なのはタナバタサマ、卽ち天の川の織姬のお祭りであつた。大都會では此祭日は今あまり守らぬ。東京では殆んど忘れられて居る。然し、多くの田舍地方では、そしてこの首府近くの村でも、今なほ少しは行うて居る。七月の(舊曆の)七日に、古風な田舍町若しくは村を偶〻訪れると、伐り立ての竹が幾本も家家の屋根の上に取り附けるか、又は橫の地面に樹てる[やぶちゃん注:「たてる」。]かしてあつて、その竹一本二本に色紙(いろがみ)の細片(ほそきれ)が澤山に著けてあるのに多分氣付くであらう。極く貧しい村ではその紙片が白いか、或はただ一色かであるを見るかも知れぬ。が、一般の規則としては五通り、又は七通りの異つた色でなければならぬことになつて居る。靑、綠、赤、黃それに白、これが普通飾る色合である。その紙片には皆タナバタと、その夫ヒコボシとを讚へて作つた短かい歌が書いてある。お祭りが濟むと、その竹は拔き取つて、歌をそれに著けたまま、一番近い流れへ投げ込む。

 

 この古いお祭りの緣起を理解するには、七月の七日に、宮中でも、いつもそれに供物をされたこの星神の傳說を知らなければならぬ。この傳說は支那のものである。それを平易に日本譯にするとかうである。――

 天空の大神に太奈八太豆女(たなばたつめ)といふ愛らしい娘が一人あつて、其娘は御父樣の著物を織つて、月日を過ごして居た。仕事が好きで、機を織るより面白いことは他に無いと思つてゐた。ところが或る日、その天の住家の門口で、機の前に坐つて居ると、牛を牽いて通る美くしい百姓を見て、それと戀に陷つた。御父樣は、娘の心に祕めた願ひを察して、其若者を夫として與へた。ところが一緖になつた戀人は餘りに好き合うて、天帝への二人の義務を怠り、梭[やぶちゃん注:「ひ」。シャトル。]の昔はもはや聞えず、牛は世話の仕手が無いので天の河原をさまようた。そこで大神は不興がられてその二人を別にされた。二人はその後は、天の川を中にして、別別に暮すやうにと言ひ渡されたが、一年に一度、七月の七日の夜は互に會ふことを許された。その夜は――空が晴れて居れば――天界の鳥がその軀(からだ)と翼とで、その川の上へ橋を架ける。そしてその橋を渡つて二人の戀人は會ふ事が出來るのである。然し雨が降ると天の川の水嵩が增して、橋を架けることが出來ぬほど廣くなる。だから、此夫婦は七月七日だつても、いつも會ふといふ譯には行かぬ。天氣が惡るい爲めに、續いて三年も四年も會へぬこともある。が、然し二人の戀は依然として不朽に若く永遠に辛抱づよく、二人は――つぎの年の七月の七日の夜には會ふことが出來るといふを樂しみにして――それぞれの勤務(つとめ)を每日失錯無しに引き續き果して居る。

[やぶちゃん注:「失錯」(「しつしやく(しっしゃく)」或いは「しつさく(しっさく)」」)は「怠けたり忘れたりして為すべきことをやり損なう」こと。]

 

 古代の支那人の想像には、我我の所謂乳色の道は光つて居る川で――天の川で――銀河であつた。西洋の著作家はタナバタ卽ち織姬は天琴座の一箇の星であり、その愛人たる牽牛は乳色の道の向う側にある鷲座の一箇の星であると述べて居る。然し兩方とも、極東人の想像には、一群の星によつて現されて居ると云ふ方が一層正しからう。或る古い日本の書物はかう明白に書いて居る。――

[やぶちゃん注:「天琴座」織女(しょくじょ)星は、現在の「こと座」の主星ベガ(Vega)、牽牛(けんぎゅう)星は「わし座」の主星アルタイル(Altair)を指す。因みに実際の二星間の距離は十四・四二八光年もあることが科学的に判明している。牽牛が織女に逢うには光速で走ったとしても十五年半もかかるのである。なお、ウィキの「こと座」によれば、明治七(一八七四)年に『文部省より出版された関藤成緒』(せきとうなるおせきふじしげお:旧備後福山藩士。官吏・教育者)『の天文書』「星學捷徑」で『「リラ」という読みと「琴」という解説が紹介された』。『また、明治一二(一八七九)年にイギリスの天文学者『ノーマン・ロッキャー』(Joseph Norman Lockyer)『の著書』‘ Elements of Astronomy ’(「天文学の要綱」)を『訳して刊行された』「洛氏天文學」(内田正雄・木村一歩訳・文部省刊)『上巻では「リーラ」と紹介され、下巻では』「天琴宿(てんきんしゆく)」『として解説された』。『これらから』、『それから』三十『ほど時代を下った明治後期には「天琴」という呼称が使われていたことが日本天文学会の会報『天文月報』の』第一巻二号『掲載の「五月の天」と題した記事中の星図で確認できる』。『この「天琴」という訳名は』、明治四三(一九一〇)年に『に「琴」と改められ』、『東京天文台の編集により』大正一四(一九二五)年に『初版が刊行された』「理科年表」にも『「琴(こと)」として引き継がれた』。『戦中の』昭和一九(一九四四)年に『天文学用語が見直しされた際も「琴(こと)」が継続して使われることとなった』。『そして、戦後の』昭和二七(一九五二)年七月、『日本天文学会が「星座名はひらがなまたはカタカナで表記する」』『とした際に平仮名で「こと」と決まり』、『以降』、『この呼称が継続して用いられている』とあった。

 以下の引用は底本では、全体が二字下げ。]

ケンギウ〔牽牛〕は天の川の西にあり、一列に竝べる三つ星にして、牛を牽ける人の如くに見ゆ。シヨクヂヨ【織女】は天の川の東にあり、機[やぶちゃん注:「はた」。]を織る女の姿に見ゆるやうに三つ星竝べり。……牽牛は農事にかかはる一切のことを司どり、織女は女の仕事にかかはる一切のことを司どる。

[やぶちゃん注:出典は私は未詳。

「三つ星竝べり」「こと座」は現在の天文学では、主星α星以外に四つの目立つ星(細かく言えば九つある)からなるが、ここは一等星のベガと、孰れも三等星のβ星シェリアク(Sheliak)とγ星スラファト(Sulafat)を指していよう。]

 

 雜話集といふ古い書物に、この二人の神はもと、この世界の人であつたと書いてある。嘗て此世界に夫婦がいて、支那に住んで居た。夫は斿子[やぶちゃん注:「いうし(ゆうし」。「斿」の「游」の本字。]と言ひ、妻は伯陽と言つた。二人は殊にまた最も熱心に月を崇め信じた。晴れた日は每夕、日沒後、その昇るのを熱心に待つて居た。それから地平線近く沈み出すと、その家の近くの小山の頂きへ登つて、少しでも長くその顏を眺めることにして居つた。それから到頭、見えなくなつてしまふと、二人は共に歎き悲しんだ。九十九歲で妻は死んだ。そしてその魂が鵲[やぶちゃん注:「かささぎ」。]に乘つて天上して、其處で一つの星に成つた。夫は、その時百三歲であつたが、月を眺めて妻を亡うた悲しみを忘れた。その昇るのを喜んで迎へ、その沈むのを悲しむ時は、恰も妻がなほその橫に居るやうな氣がするのであつた。

 或る夏の夜――今は不朽に美くしくまた年若い――伯陽は、夫を訪れに、その鵲に乘つて天界から降りて來た。夫はその訪れを非常に欣んだ。だが、その時からして、星に成つて天の川の彼方で伯陽と一緖になれたら、どんなに幸福であらうと、そればかり考へて他のことは考へることが出來なかつた。到頭、自分も亦、鳥に乘つて天界へ昇つて、其處で一つの星に成つた。だが、望んで居たやうに、すぐには伯陽と一緖になれなかつた。といふのは自分の割り當てられてゐる居場處と伯陽が割り當てられてゐる居場處の間に天の川が流れて居たからである。それにどちらの星も、天帝がその川水で每日沐浴をされるので、その流れを渡ることを許されなかつた。が、每年一日――七月の七日に――互に相會ふことを許された。天帝はその日は、佛の法(のり)の說敎を聽きに、いつも善法堂へ行かれる。そこでその時は鵲と鴉とが多勢出て、その空を飛んで居る軀と、擴げて居る翼とで天河の上ヘ橋を架ける。そして伯陽はその擔を渡つて夫に會ぴに行く。

[やぶちゃん注:「雜話集」原文は“Zatsuwa-Shin”。寛永一八(一六四一)年板行の作者・板元不詳の「雑話集」(上・中・下三巻)があるが、それか。「沙石集」で知られた無住一円の嘉元三(一三〇五)年成立の「雜談集」(ぞうたんしゅう)は「七夕由来譚」を載せてはいるものの、それは小泉八雲がここで語るものとは異なる、羽衣伝説と七夕伝説がカップリングされたものである。しかし、飯島吉晴氏の論文「節分と節供の民俗」(PDF)の「七夕由来譚」によれば、『七夕に関連したさまざまな昔話や伝説も各地に伝えられている。とくに、有名なのが、天の羽衣の話である。これは天人女房譚の一種であり、七夕の由来譚がともなっている話もある。たとえば、『雑話集』近江国余呉の湖に織女天降り水浴する。男が衣を奪う。織女』、『天に帰らず、その男の妻となる。子供が生まれ、年ごろになる。天に昇ろうとする志を捨てず』、織女は『常に泣く。男の留守に、この子が父の隠しておいた天衣を出してやると、女は喜んでそれを着て天に昇る。7月7日にこの湖に来て水浴する。この日を待って』(「男は」であろう)『涙を流した、と記されています』というのとは同系話である(但し、『この天人女房譚の昔話が、七夕と結びつけられたのは、後世の作為によるものと考えられている』とも述べておられる)。さらに調べてみたところ、木戸久二子氏の「『伊勢物語』第六十三段 : 古注に登場する牽牛と織女説話」という論文に(PDFでダウンロード可能)、慶応義塾大学図書館蔵「伊勢物語註」(冷泉家流古注)に、この話が、バッチリ、掲載されていることが判った。同論文の翻刻に従つつ、漢字を正字化し、一部に私の推定読みを歴史的仮名遣で施したものを以下に示す。前の漢文(返り点と熟語記号のみ附く)は同論文では全体が三字下げ、後半の訓読文箇所は、恣意的に漢字を正字化し、私が送り仮名や本文のカタカナとなっているものを総てひらがなにし、訓読規則に従い(助詞・助動詞はひらがな書きとする)、さらに句読点・濁音や送り仮名を推定で大幅に補い、改行段落を成形して読み易く示した。□□は論文の長方形の四角(脱字或いは判読不能字或いは意識的欠字)を字数分で示した。最後の「漢書傳……」(ここは訓読せず、論文のままで載せた)の部分は、論文中でも改行と二字下げが施されてある。

   *

史記云瓊在夫-婦夫云遊子女云伯陽百三餘

陽首不ㇾ足契借〔偕〕-老者子二八之候陽三

四之旬愛玉兎而終-夜坐道路-之口暮徊

曉登山-峯舉下而勿絕時陽沒之刻成

深-歎月前進得相-見此執生ㇾ星再下

陰陽之國道-祖半-立之二-神男-女

會-合之媒

 瓊(けい)國の名なり。遊子・伯陽と云ふ人、夫、十六、妻、十二にて、夫妻となれり。共に月を愛してすきし[やぶちゃん注:「好きし」或いは「数寄し」か。]程に、妻の伯陽、九十九にて死ぬ。

 其の時、遊子、百三の年なるに、夫、歎きて云はく、

「汝、死せば、誰(たれ)とか月をも見るべき。」

と云ふ。陽、云はく、

「我、死すとも必ず月を見べし。我、來つて月夜には必ず見るべし。」

と契り、終(つひ)に死ぬ。

 卽ち、葬送すれば、年比(としごろ)かゐける[やぶちゃん注:「飼ひける」。]鳥に乘りて、天を飛びて失せぬ。

 或夜、なくなく月を見るに、此れに乘りて來(きた)れり。

 形をば見れども、物、云ふ事、なし。

 弥(いよい)よ、悲みをなす程に、夫の遊子が思ひ、切に成りて、白鵲(かさゝぎ)に乗りて、天に上(のぼ)りぬ。

 我が妻を尋ねて行くに、天河(あまのがは)を隔てて、えわたらず。

 さて、□□星と成れり。

 而るに、七月七日、相(あ)ふことは、天河水□□尺の寶瓶(はうべい)にそゝぐ程に惣(すべ)て此の河を汚(けが)すことなきなり。況んや、婬事を犯す事、思ひも寄るべからず。七月七日は帝釋の、善法堂へ入り、堂の隙(すき)なり。

 さて、此の日相(につさう)と云へり、烏(からす)と鵲(かささぎ)と、羽をさしちがへて、二星、渡すとも見たり。

 又、木の葉を口にくはへて、橋にわたすとも見えたり。「紅葉の橋」ともよみたり。

 又、云はく、『星、別れを悲みて血淚を流すが、鵲の白羽(しろば)を染(そ)むれば、「紅葉」と云ふ』とも見たり。

  漢書傳云鳥-鵲橋口敷紅葉二-星屋-形前風冷

 此の故に、織女を「つもゝ神」と云ふなり。女を守る神なり。

 牽牛を「つくい神」と名づく。「女をあたふる神」とかけり。「續伊神」なり。

   *

「つくもがみ」は「付喪神」と同語源であろう。但し、本来のそれは百年を経過した器物に宿って、化けたり人に害をなしたりするとされる精霊を指し、ここで言うようなものとは少し異なるが、女の命とされる髪(九十九髪)・櫛・鏡をそれに置き換えて考えれば、私は腑に落ちる。「つくい神」の方は判らぬ。「つくも」を女とした原語を語尾で変えたありがちな男性形に過ぎないかとも思われる。ともかくも、小泉八雲が語っているのは、まさにここに記されたものと、そっくりである。「雜話集」なるものに載るのは、これと同源であることは、最早、疑いようがない。但し、冒頭の漢文の「史記」に載るというのは、私の探し方が悪いのか、見当たらない。原文位置を御存じの方は、お教え願いたい。

「鵲」スズメ目カラス科カササギ属カササギ亜種カササギ Pica pica sericea。博物誌は私の「和漢三才圖會第四十三 林禽類 鵲(かささぎ)」を参照されたい。]

 タナバタといふ日本の祝祭は、元は支那の機織[やぶちゃん注:「はたおり」。]の女神織女(チニウ)の祝祭と同一であつたといふことは、殆んど疑ひを挾み得ない。また、この日本の祭日は、極々[やぶちゃん注:「ごくごく」。原本は「々」は踊り字「く」。]の昔からして、殊に女の祭日であつたものらしく思はれる。そしてタナバタといふ語を書き現す文字は、機を織る少女といふ意味のものである。然し、この星神の二人を、七月の七日に拜んだものであつたから、日本の學者のうちには、そのもの普通の解釋に滿足せずして、元はこれはタネ(種)といふ語とハタ(機)といふ語から出來て居たと說いたものがある。その語源說を受け入れる人達は、タナバタサマといふ名稱を單數とせずに複數にして、これを『種の神樣と機の神樣』卽ち農耕を司どる神と機織を司どる神とする。古い日本の繪には此星神は、そのそれぞれの屬性を上述の如く解して――ヒコボシは天の川へ水を飮ませに牛を牽いて行く百姓で、その川のずつと向うにオリヒメ(タナバタ)が機を織つて居るやうに――描いてある。兩人の服裝は支那風である。そしてこの二神の最初の日本畫は、多分、支那の何かの原書を模寫したものであらう。

[やぶちゃん注:七夕の行事自体は言うまでもなく、中国から伝来し、奈良時代に広まった。その基本は無論、「牽牛星」と「織女星」の伝説であるが、中国には別に、手芸・芸能の上達を祈願する習俗として「乞巧奠(きっこうでん)」があってこれが結びつけられて、本邦固有の行事となったとされる。「七夕」の「たなばた」という当て訓は恐らく「棚機(たなばた)つ女(め)」(「つ」は古い格助詞で「の」の意)の下略されたものとされる。但し、ここで小泉八雲が述べているように、古くから農村では、豊作を祈って種を撒くという「種播祭(たなばたまつ)り」があったことから、宮中で行われていた中国由来の「七夕(しちせき)」が、民間に広まった際にそれと混同されて、「たなばた」と呼ばれるようになったとも言われる。農耕予祝行事と別個な中国の外来習慣が習合するのは、ごくごく普通に見られる現象である。

なお、ここで言っておきたいが、本邦の「七夕」が、中国が濫觴であることは、言うまでもない。それは、本邦のウィキの「七夕」のメインの民俗学的記載の解説の半分以上が中国のそれに費やしている「びっくり」記載からも判るし、別に「牛郎織女」(ぎゅうろうしょくじょ)という漢族の民話を独立まで、御丁寧に設けてさえいることで、明々白々では、あるのである。而して、私は、それらの中国起源の話柄を、引用し、解説することも出来る。しかしだ!――小泉八雲は、あくまで、この「さわり」の部分では、以上の内容を――紹介――してはいるものの、以下、読み進めれば、彼は、あくまで――本邦に於ける「天の川」伝承、日本の民俗としての「七夕(たなばた)」に対して――強い魅力――を感じ、日本人の感性に根付いたそれをこそ、ディグしようとしているのである。さればこそ、私は、中国のそれらを提示して、ダラダラと注する気には――全く――ならないし、やる気も、ない、のである。悪しからず。

「織女(チニウ)」原文“Tchi-Niu”。現代中国音では「織女」は「ヂィーヌゥー」。]

 現存して居る最古の日本歌集――紀元七百六十年の萬葉集――では、男の神は普通これをヒコボシと呼び、女の方はこれをタナバタツメと呼んで居るが、後には兩方ともタナバタと呼んだ。出雲では男神の方をヲタナバタサマ、女神の方をメタナバタサマと通常呼んで居る。兩方共なほ多くの名で知られて居る。男の方はヒコボシと言つたり、ケンギウと言つたりするが、またたカイボシとも呼ぶ。そして女の方はアサガホヒメ『朝貌姬』)原註一、イトオリヒメ(『絲織姬』)、モモコヒメ『一挑子姬』)、タキモノヒメ(『薰物姬』)またササガニヒメ(『蜘蛛姬』)と呼ぶ。このものうちには說明の困難なのがある、――殊にアラクネの希臘傳說を思ひ出させる最後の名は說明が困難である、――多分、この希臘神話と、この支那物語とは共通なところは全然何も無からう。が、古い支那の書物に、一縷の關係がりはせぬかと思はせるやうな、妙な事實が記載されてゐる。支那皇帝ミン・ヒソン(日本人はゲンソウと呼ぶ)の御世には、宮中の淑女達は、七月の七日に蜘蛛を捕へて占ひのため、これを香箱に入れ置くが習はしであつた。八日の朝その箱を開く。若し其蜘蛛が夜の中に厚い網を紡いだならば占ひは吉であつた。が、若し何もせずに居たのであつたら占ひは凶であつた。

原註一 アサガホ、文字通りでは「朝の貌」。英語で「モオーング・グロオリ」と呼ぶ美しい攀登植物の日本名。

[やぶちゃん注:ここに出た蜘蛛を用いた占いは、漢籍の中で、確かに読んだことがあるように記憶するのだが、思い出せない。思い出したら、追記する。

「萬葉集」には百三十首以上もの七夕関連の歌が載る。サイト「万葉集を読む 壺齋散人の万葉集評釈」の「七夕を詠む(一):万葉集を読む」(次へで同(二)が続く)がよい。

「ササガニヒメ」「ササガニ」は「細蟹」「笹蟹」で、蜘蛛の古名である。小泉八雲は説明が困難だと言っているが、私は、織女星ベガが「こと座」の平行四辺形の属星に、線を延ばして捉えると、それが蜘蛛の巣のように見えるからではないか? と秘かに思っている。織り姫だから、蜘蛛の糸とも縁語関係にあるので、それだけでも構わぬと思う。しかし、「アラクネ」(ギリシア神話中の女性。小アジアのリュディアのコロフォンに住んでいたイドモンの娘で、機織りの名手であったが、慢心して女神アテナに腕比べを挑み、女神の面前で神々が人間の女たちと愛欲に耽る情景を美事に織り上げて見せてしまい、怒ったアテナは彼女を、手に持った火で打ち据え、アラクネは首を吊って自殺したが、憐れを催したアテナは、彼女をギリシア語で「アラクネ」と呼ばれる蜘蛛に変えてやったという話)との直接的な意識的伝承伝達連関を殊更に求める必要は、私は――全くない――と考えている。]

 

 數年前、美くしい女が一人、出雲の山の中の或る農夫の住家を訪れて、その家の獨り娘に、人の知らぬ機織の技を敎へた話がある。或る晚その美くしい他國人は、姿を消した。それで其處の人達は、今まで居たのは天(そら)の織姬樣であつたと知つた。その農夫の娘は、機織が上手だといふので評判者になつた。然し自分はタナバタサマのお相手をしたのだといふので――一生結婚しようとはしなかつた。

 

 それから自分ではさうと識らずに、天つ御國を嘗て訪れた男に就いて――愉快なほど茫漠とした――支那物語がある。その男は每年、八月中、責重な木材の浮槎[やぶちゃん注:「ふさ」。原文“a raft of precious wood”。普通、「槎」は人工的な筏をさすことが多いが、ここは非常に高級な材質の流木でよかろう。]がその住つて居る海岸へ漂うて來るのを觀て、何處にその木が生えるのか知りたいと思つた。そこで二箇年の航海に要する食料を一艘の船に積んで、その浮槎がいつも流れ來る方向に船を走らせた。幾月も幾月も、いつも平穩な海を進んで行つて、到頭、不思議な樹木の生えて居る氣持ちのいい海岸へ到著した。船を繋いで單身その知らぬ陸へと進んで行くと、やがてその水が銀のやうに光つて居る川の岸へ來た。向う岸に亭が一つあつた。そして其亭に美くしい女が一人機を織つて居つた。其女は月光のやうに白くて、あたりに光りを放つて居つた。やがてのこと眉目美はしい若い百姓が、川の方へ牛を牽いて近寄つて來るのが見えた。そこでかの男はその若い百姓に、この處と此國との名を聞かせて吳れと賴んだ。ところがその若人はその問ひを不快に感じたらしく、激しい語調で、『此處の名が知りたいなら、汝(おまへ)が來た處へ歸つて嚴君平(げんくんぺい)原註二に聞け』と答へた。そこでこの航海者は、恐ろしくなつて、急いで自分の船に乘つて支那へ歸つた。歸つてからその嚴君平といふ賢者を探し尋ねて、その冒險を物語つた。嚴君平は驚いて手を拍つて叫んだ。『それでは汝(おまへ)だつたのか!……七月の七日に自分はじつと空を見て居ると、牽牛と織女とが出會はうとして居るのが見えた。――ところが其間へ、自分は客星だと思つたが、新奇な星が一つ居た。仕合せ者だなあ! 汝は天の川へ行つて、織女の顏を見たのだ!……』

原註二 これはその支那名を日本風に讀んだもの。

[やぶちゃん注:以上は晋の西張華(二三二年~三〇〇年:文人政治家。方城県(河北省)の人。魏の初めに太常(たいじょう)博士となり、西晋に仕えて呉の討伐に功あり、官は司空に至って壮武郡公に封ぜられたが、「趙王司馬倫の乱」により、一族とともに殺された詩文の才に恵まれ、男女の愛情を歌った華麗な「情詩」五首、「雑詩」三首は特に知られる。若い頃から、占卜・術数・方士の術などにも精通し、天下の異聞・神仙・古代逸話などを集めて「博物志」全十巻を著した。但し、現存するものは、彼の原著のものかどうかは疑わしい)「博物志」の「卷十」の「雜說 下」に載る。以下。

   *

舊說云、天河與海通。近世有人居海濱者、年年八月有浮槎去來不失期。人有奇志、立飛閣於槎上、多齎糧、乘槎而去。十餘日中、猶觀星月日辰、自後芒芒忽忽、亦不覺晝夜。去十餘日、奄至一處、有城郭狀、屋舍甚嚴、遙望宮中多織婦。見一丈夫牽牛渚次飮之、牽牛人乃驚問曰、「何由至此。」。此人具說來意、幷問此是何處。答曰、「君還至蜀郡、訪嚴君平則知之。」。竟不上岸、因還。如期後至蜀、問君平、曰、「某年月日有客星犯牽牛宿、計年月、正是此人到天河時也。」。

   *

「嚴君平」「漢書」に登場し、成都の市場で占いを生業(なりわい)としていたが、「卜筮(ぼくぜい)は賤しい業ではあるが、人々の役に立つ」と考えて、その商売にことよせて、人の道を説いたという、と平凡社「世界大百科事典」の「占い」に記されている。著書に「老子指歸」があったが、散逸して残らない。

「客星」(きゃくせい)は、現われたり、消えたりする星のこと。現代の天文学では新星の現象とされる。]

 

 牽牛と織女とが會ふのは、眼のいい人にはどんな人にでも觀られるといふ。會ふ時はいつも、その二つの星が五通りの異つた色で燃えるからである。タナバタの神へ五色の供物をし、それを賞め讚へての歌を五通り異つた色合の紙に書くのはその爲めである。

 が、前にも言つたやうに、二人はいい天氣の時だけ會へるのである。七日の夜、少しでも雨が降れば、天の川の水嵩が增すので、この戀人はまた全(まる)一年待たなければならぬ。だから、七夕の夜降る雨をナミダノアメ卽ち『淚の雨』と呼ぶ。

 空が七日の夜晴れて居ると、この戀人は幸福である。その星は嬉しさにピカピカ光つて居るのが見られる。その時、牽牛星が非常に光つて輝くと、その秋、米の收穫が多い。織女星がいつもよりも光つて見えると、機織りやあらゆる女の手業の繁昌する時が來る。

 

 舊日本ではこの二人が會ふのは、人間に取つて幸運だと一般に想はれて居た。今日でも、田舍の方方で、タナバタ祭りの晚に――『天氣になあれ!』といふ――短かい歌をうたふ。伊賀では若い者共が、この戀人二人が會ふ時刻だと思ふ時分に、

 

    七夕や餘り急がば轉ぶべし

 

といふ巫山戲た[やぶちゃん注:「ふざけた」。]歌をまた唄ふ。

[やぶちゃん注:これは実際には俚謡ではなく、伊賀上野の人で、芭蕉が若き日に勤仕したこともある藤堂藩藩士であった蕉門の土田杜若(つちだとじゃく ?~享保一四(一七二九)年:名は正祇、通称は小左衛門。初号は柞良)「猿蓑」の巻之三に(これが彼の初出)、

 七夕やあまりいそがばころぶべし 伊賀小年杜若

とある。因みに、この句は、「古今和歌集」の「卷第十九 雜躰」に藤原兼輔(曽祖父)の一首(一〇一四番)、

    七月六日、七夕の心をよみける

 いつしかとまたぐ心を脛(はぎ)にあげて

        あまのかはらをけふやわたらむ

に基づく戯れ句ではある。]

 然し出雲の國では、此處は雨のよく降る地方だが、これと反對な信仰が行はれて居て、七月の七日に空が晴れると、その後に不幸が起こると考へられて居る。この信仰の地方的說明は、かの二つの星が出會ふとその合體からして、旱魃や他の禍ひで國を惱ます惡神が多く生れるといふのである。

 七夕祭を初めて日本で行つたのは天平勝寶七年(紀元七百五十五年)の七月七日であつた。恐らく七夕の神の起源は支那に在るといふことが、これを公に崇めるといふことを多くの神社で、いつの世にもしなかつたといふ事實を說明する。

[やぶちゃん注:以下、一行空け。]

2019/09/27

小泉八雲 蟲の硏究 蟻 四・五・六・七 (大谷正信譯) / 蟲の硏究 蟻~了 / 作品集「怪談」~了

 

[やぶちゃん注:本篇についての詳細は「小泉八雲 蟲の硏究 蟻 一 (大谷正信訳)」の私の冒頭注を参照されたい。]

 

 

       

 さて、もつと不思議な事實がある。

 この間斷無き勞苦の世界は、處女世界以上の世界である。尤も時に、雄が其世界に見出されはするけれども、それは特別な時機にだけ現れ、又、勞働者或は勞働と、全然何等の交涉を有つて居らぬのである。そのうちの一匹も敢て勞働者に言葉を掛けようとは――恐らくは、共同の危險の異常な場合を除いて――しない。また勞働者の方で雄に話をしようなどと思ふものは一匹も居らぬ。といふのは、雄は此不思議な世界では、鬪ふことも働くことも等しく出來ない劣等な物で、單に必要な厄介者として、我慢して置いて貰つて居る物だから。雌のうちの或る特殊の階級が――此種族の母體に選拔されたものが――特別な季節の間、極はめて短かい時機の間、配偶者になつて吳れるのである。だが、母體に選拔されたものは働かぬ。そしてそれは夫(をつと)を受納せざるを得ぬのである。勞働者は雄と交はるなどいふことは夢想だにし得ぬことであらう――それは、そんな交際は最も無駄な時間浪費を意味するからといふ爲め計りで無く、また勞働者は必然的にあらゆる雄を云ふべからざる輕侮の念を以て見て居るからといふ爲め計りで無く、勞働者はしやうにも結婚が出來ぬ軀(からだ)だからである。尤も、勞働者のうちには、單性生殖をすることが出來て、父無し子を生むことが出來る者が居る。だが、一般の規則として、勞働者はその道德的本能だけが眞に女性である。非常な慈悲心と忍耐力と、我我が呼んで『母性的』と云ふ先見とを有つて居るのである。その性は、佛敎の傳說に見る龍女同樣、無くなつて居るのである。

[やぶちゃん注:「處女世界」原文は“Vestal world”。“Vestal”はローマにあった「ウェスタの祭壇」(本邦の「竈神(かまどがみ)」相当)に燃える聖火を守った四人(後に六人)の処女のこと。]

 肉食動物卽ち国家の敵を防ぐが爲めに、勞働者は武器を具へて居る。そしてその上また强大な武力に保護せられて居る。その軍人は、始め一寸見た時には同一種族のものとは信ぜられぬほどに(少くとも或る社會では)勞働者よりは遙か身體が大きい。それが守護して居る勞働者よりも百倍も大きな軍人は珍らしく無い。ところがその軍人が凡て女丈夫である、――否、もつと正確に云へば、半女性である。みな頑强に仕事をやつて行くことは出來る。が、主として戰鬪をするやう、重い物が曳けるやうにと出來上つて居るからして、その用は熟練よりも、力の要求せられる方面に限られて居る。

[やぶちゃん注:最後の段落は所謂、「兵隊アリ」の記載であるが、総てのアリに兵隊アリが居るわけではなく、兵隊アリと呼ばれても、働きアリと区別できない形態のもの、寧ろ働きアリよりも臆病な印象を受けるもの、担当業務が「兵隊」でないもの等、多種多様である。サイト「アントルーム」の「■コロニー(家族)」によれば(改行を省略した)、『アリの種類によっては、同じ働きアリでも、大きさや形が違う個体が現れることがあります。特にオオズアリ』(大頭蟻。膜翅(ハチ)目細腰(ハチ)亜目スズメバチ上科アリ科フタフシアリ亜科オオズアリ属オオズアリ Pheidole noda)『やオオアリ』(ヤマアリ亜科オオアリ属 Camponotus )『には、頭部も体も大きな兵隊アリが現れる種類があります。兵隊アリと名前だけ聞くと、敵と戦うためのアリといったイメージがありますが、オオズアリの場合は、兵隊アリは働きアリよりも臆病な感じがします。実は兵隊アリの本当の役割は、働きアリが集めてきた大きなエサを解体したり、運んだりするなどの力仕事が専門なのです。中にはコツノアリ』(フタフシアリ亜科カレバラアリ属 Carebara yamatonis )『のように、兵隊アリは一切外へは出ずに、巣に運ばれてきたエサを、そ嚢に貯蔵するだけのアリもいるのです。このように兵隊アリが現れるアリであっても、兵隊アリが現れるのはコロニーが数十から百匹を超えないと現れることはありません。これは、働きアリが幼虫に与える量を制限しているためだと言われています。コロニーの数が少ない時期は、外敵に襲われやすく、最も危険な時期なのです。このような大変な時期に、成長するのに多くのエサと時間が必要な兵隊アリを育てている余裕などないため、幼虫に与えるエサを少なくして、体の小さな働きアリをたくさん増やす事に専念するのです。そして、コロニーの数が多くなり、安定してエサが集まるようになると、体の大きな兵隊アリを育て始めるのです。クロオオアリ』(ヤマアリ亜科オオアリ属オオアリ亜属クロオオアリ Camponotus japonicus )『を飼育した場合、働きアリが100匹以上になったころから兵隊アリが現れます。また、大きなコロニーであっても兵隊アリの割合は決まっていて、種類にもよりますが、全体の5~10%ほどが兵隊アリになるようです。生まれた卵が、働きアリか兵隊アリのどちらになるのかは、子育てをする働きアリによって決められてしまうのです。そして、コロニーがさらに成長して、ようやく新女王が育てられるのです』とある。]

 

 〔何が故に、雄で無くて、雌が進化の上に於て軍人及び勞働者に分化したのだらうかといふことは、思ふほど簡單な問題では無いかも知れぬ。これに答へることは確かに自分は出來ない。だが、自然的經濟が此事件を決定したのかも知れぬ。多くの生物體を見るに、雌の方が圖體に於ても精力に於ても、大いに雄に優つて居る。思ふに、此蟻の場合に於て、完全な雌が元もと所有して居た生活力のより大なる貯藏が、或る特殊の戰鬪階級を發達進化せしむるのに、より迅速に且つ有利に利用され得るからであらう。生產力に富んで居る雌に於て、子を產むに費やさるるあらゆる精力が、この蟻の場合、攻擊力或は勞働能力の進化の方へ向けられてあつたやうに察せられる〕

 

 正眞の――母體に選拔されたもの――は實際甚だ少い。そしてそれ等は女王のやうな待遇を受けて居る。彼等は何んの願望も滅多に云ひ出し得ない程までに絕え間無しに且つ恭しくかしづかれて居る。生存のあらゆる心配を後裔を生むといふ義務を除いて――除かれて居る。日も夜もあらんかぎりの世話を受けて居る。彼等だけがあり餘る程に美の供給を受ける。後裔の爲めに彼等は全く王樣のやうに飮食し、また休息せねばならぬのである。そしてその生理的分化は、それに心任せに耽り得られるやうにして居る。滅多に外出をしない。有力な護衞が隨行しなければ決して外出しない。不必要な疲勞や危險を招くことを許容されぬからである。多分、外出したい希望も大して無からう。彼等の周圍には種族全體の大活動が目まぐるしい程行はれて居る。そしてその慧智も勞苦も儉約も悉く皆、この母とその子供の安寧に向けられて居るのである。

 ところが、その母の夫(をつと)が――必要な厄介物が――雄が、これが全種族の最後の最小の地位を有つて居る。前に道べた通り、或る特別な季節だけに現れ、且つ其生涯は甚だ短かい。或るものは、高貴な方に結婚する運命を有つては居るが、尊い家に生れた身だと誇ることさへ出來ない。彼等は高貴な家に生れたものでは無くて――處女から生れ出たもので――單性生殖が造つた子供で、そして殊にその理由で、或る不可思議な隔世遺傳の偶然の所產に過ぎない――劣等なものであるからである。だが、此社會は、どんな種類の雄でも、極く僅少しか――全く母體に選拔されたものの役に立つだけしか――存在を許容せぬ。そしてその少數者は任務を果すと殆んど同時に死滅する。自然の大法の意義は、此異常な世界に在つては、努力無き生活は罪惡なりといふラスキンの敎へと符合して居る。そして雄は勞働者として、或は戰鬪者として役に立たぬのであるから、その生存はただ一時的に肝要なだけのことである。尤も、テストリポカのお祭りの爲め選ばれて、その心臟を裂かれる前二十日の間の新婚旅行を許もれるアズテクの犧牲のやうに――犧牲にされるのでは無い。だが、その幸運の不幸さは殆んどそれに劣らぬ。自分共はただの一と晚、王の花婿になるのだ――婚禮後も生きて行く道德上の權利は有たぬのだ――自分共いづれもにとつて、結婚は必然の死を意味するのだ――數代の間自分よりも生き延ぴる若い寡婦に歎いて貰ふ希望さへ有てぬのだ、――かういふことを知つて居ながら、育てられる靑年を想つても見給へ……!

[やぶちゃん注:雄アリの中には交尾終了後に生殖器ごと内臓が引き抜かれて即死する場合もあると読んだことがある。

「ラスキン」イギリス・ヴィクトリア時代を代表する評論家・美術評論家・社会思想家であったジョン・ラスキン(John Ruskin 一八一九年~一九〇〇年)。同時代の芸術家のパトロンであり、自身も設計製図や水彩画をこなし、篤志家であった。ターナーやラファエル前派と交友を持ち、名著「近代画家論」(‘ Modern painters ’:一八四三年~一八六〇年)を著したことで知られる。

「テストリポカ」原文“Tezcatlipoca”。現行音写は「テスカトリポカ」。アステカ(Aztec:訳の「アズテク」)神話の主要な神の一人で、神々の中で最も大きな力を持つとされる。ウィキの「テスカトリポカ」によれば(下線太字は私が附した、『その名は「煙を吐く鏡」を意味』し、『その神性は、夜の空、夜の風、北の方角、大地、黒耀石、敵意、不和、支配、予言、誘惑、魔術、美、戦争や争いといった幅広い概念と関連付けられている』。『通常』、『身体は黒く、顔に黒と黄色の縞模様を塗った姿として描かれ、しばしば右足が黒耀石の鏡か蛇に置き換わった姿で表現される』。『生贄を要求する神であった』。『アステカ創造神話の一つ』では、『テスカトリポカとケツァルコアトルが力をあわせて世界を創造したという伝説がある。創世が行われる前には』、二『神の前には海しかなく、Cipactli (シパクトリ、ワニの女神)と呼ばれる大地の怪物がいた。怪物をひきつけるためにテスカトリポカは自らの足を餌にし、怪物はその足を食らった』。二『神は怪物を捕らえ、その身体から大地を作った。その後、人間が創造され、人々はシパクトリの苦痛を慰めるため』、『生贄を捧げることになった。この伝説によって、テスカトリポカは片足がない姿で表される』。『一方で他の創世神話において』は、『テスカトリポカが太陽として世界を支配することになったが、ケツァルコアトルは宇宙を敵に支配されることに我慢ができず、テスカトリポカを打ちのめし』、『空から追いやった。怒ったテスカトリポカはジャガーに姿を変え、世界を滅ぼした。ケツァルコアトルは太陽の座をテスカトリポカと替わり、世界の』二『番目の時代を開始』して、『テスカトリポカはケツァルコアトルを打ち倒し、テスカトリポカの送った強風は世界を荒廃させ、生き残った人間は猿に変身させられた』(以下、続くが略す)。『テスカトリポカの祭祀は、アステカ太陽暦の』五『番目の月である Toxcatl (トシュカトル、乾燥)の期間に行われた。祭りの準備は』一『年前から行われ、神官によってテスカトリポカによく似た若い男性が選ばれた。祭りまでの一年間、男性は宝石を身につけ』八『人の従者をつけられ、神のような生活を送った。最後の』一『週間に歌い踊り』、『大いに食べ』、四『人の若い女性と結婚した』。『祭り当日、男性は神本人の如く崇められ、自ら神殿の階段を昇り、神官はその胸を切り裂き』、『心臓を取り出し』、『太陽への生贄とした。生贄の死の直後、翌年の祭りのために新しい犠牲者が選ばれた』。『大英博物館に、テスカトリポカを表したと考えられる人間の頭蓋骨を基材にした黒曜石と翡翠のモザイクのマスクが所蔵されている。マスクは1400年から1521年の間に製作されたと見られる。メキシコで発見され、1860年代にヘンリー・クリスティによって大英博物館に寄付された。モザイクの』嵌め『石はターコイズと亜炭で作られ、その目は貝のリングと黄鉄鉱でできている。それらは30歳代と見られる人間の頭蓋骨の上に直接配置された。歯は頭蓋骨そのままのものだが、上前歯4本が無くなっている。頭蓋骨の後ろの部分は切断され、革が張られていた。頭蓋骨と顎の部分は革でつながれており、動かすことができる。大きさは高さ19.5センチメートル、幅12.5センチメートルである。おそらく着用者の腰の部分につけられたと思われる。マスクの発見場所は知られていないが、高位の神官か皇帝自身が使用したと考えられている』とある(マスクの写真有り。太字下線は私が附した)。]

 

 

      

 だが、これまで述べたことは凡て眞の『昆蟲世界のロオマンス』の序言に過ぎぬ。

 この驚歎すべき文明に關して、取りわけ最も驚くべきは、性の禁止の發見である。蟻生活の或る進步した種類のものに於ては、その大多數の個個のものに性といふものが全然無くなつて居る。殆んど凡での、より高等な蟻生活には、性生活はその種の繼續に絕對に必要な範圍だけに存在して居るやうに思へる。然しその生物學的事實そのものは、その事實が提供する倫理的暗示ほどに驚くべきものでは無い。何んとなれば性槻能の此實際的禁止或は調節は自發的のものであるやうに思へるからである。少くともその種(しゆ)だけのことを云へば自發的である。この不思議な動物は――或る特別な榮養方法で――その幼年者の性を發展せしめる方法、或はその發展を制止する方法を知つて居るといふことを、今は信ぜられて居る。彼等は、本能のうちで最も有力な、そして最も制御し難いものだと普通想像されて居る性的本能を完全に左右することに成功して居るのである。そして種(しゆ)が絕滅しないやうに取り計らふのに必要なだけの範圍內に、性生活をかく嚴正に檢束することは、此種族が成し遂げた多くの生命的經濟の(實に驚くに足るものではあるが)ただ一つに過ぎないのである。利己的な――『利己的』といふ語の普通の意味での――快樂を味ひ得る能力はどの能力も、同樣に生理的變更によつて抑壓されて居る。如何なる自然的食慾に耽ることも、それが直接或は間接に、その種の利益となり得る程度までのことで、それ以外は可能で無いのである。食物及び睡眠といふ必要缺くべからざる要求すらも、健全な活動を維持するに必要な限界にだけ滿足を與へられて居るのである。個個のものは社會共同の利益の爲めにのみ存在し行動し思考し得るのである。そしてその社會は、宇宙の大法の許す限り、にも飢餓にも支配されることをば得得として[やぶちゃん注:得意そうに。自慢げに。]拒絕して居る。

 

 我我人間の多くは、或る種の宗敎的信條――未來の褒美を望み、未來の處罰を恐るる念――無くしては如何なる文明も存在し得ないといふ信仰で育て上げられ來たつて居る。道德觀念に基づける法律が無いならば、又、かかる法律を斷行する有效な警察が無いならば、誰れも彼もが、自己のみの利益を求めて、他の誰れもの不利益を來たすであらうと、かう考へるやうに我我は敎はり來たつて居る。それでは强者は弱者を滅ぼすであらう、憐憫や同情は無くなるであらう、社會の全組域は粉な微塵になるであらうと。……こんな敎へは、人間の性質の現在の不完全さを自白して居るのである。そしてそれは明白なる眞理を含んで居るのである。が、然し幾千幾萬年の往古、其眞理を聲明した者共は、利己といふことが自然的に不可能な社會的生活の一種が在ることを想像しなかつたのである。能動的の善を爲すの愉快が義務の觀念を不必要とする一社會が存在し得るものだ――本能的な道德性があらゆる種類の道德法典を要らぬものにし得る一社會が存在し得るものだ――其處の者は一人殘らず生れながら絕對的に利己心が無く、根氣强く善良で、道德訓練はどんな幼年の者にでも全く貴重な時間の浪費としかなり得ない樣な一社會が存在し得るものだ、といふ積極的な證據を、非宗敎的な自然をして我我に提供せしめることが殘つて居たのである。

 

 進化論者には、かかる事實は、我我人間の道德的理想主義の價値は、ほんの一時的のものであるといふこと、又、その語の現今の人間界での意味の、德といふものよりも善い、深切といふものよりも善い、克己といふものよりも善い或る物が、或る境遇の下(もと)に竟にはそれ等に取つて替りはせぬだらうかといふこと、を必然的に暗示するのである。進化論者は道德觀念無き世界が、そんな觀念に行爲を制限せられる世界よりも道德的により善い世界ではなからうかといふ問題に面と向かはざるを得ないことを見て居るのである。進化論者は、我我人間界に存する宗敎的訓誡や道德的法則や倫理的標準は、我我がまだ社會進化の極はめで初步の階段に居ることを證明しては居ないかとさへ自問せざるを得ぬのである。そしてかかる疑問は當然更なる疑問へと導く。卽ち、人間は、此惑星の上に在つて、そのあらゆる理想を越えて居る或る倫理的情態に――今、我我が惡と呼んで居るもの悉くが萎縮し盡くして存在しなくなつてしまひ、我我が德と呼んで居るもの悉くが變じて本能となつてしまつて居るやうな情態に、――倫理的な槪念や法則が、今でもより高等な蟻の社會に於てさうであらうと同じく、不用になつてしまうやうな利他の有樣に、――いつか到達することが出來るであらうかと。

 

 近代思想の巨人達は此問題に幾分の注意を拂つて居る。そしてそのうちの最も巨大なる者が――一部肯定的に――これに答へて居る。ハアバアト・スペンサア氏は、人類には倫理的に蟻の文明と比較し得べき或る文明情態に到達するであらうといふ、その信心を告白して居られる。――かう言つて居られる。

 『若し下級な生物のうちに、その本性が素質の上に於て變化を來たして、利他的活動が利己的活動と一つになつてしまつて居る實例があるならば、それと同じな事が、同じ事情の下に、人類間に出來するであらうといふことは、否應無しにそれに含まれて居ることである。ところが社會的な昆蟲は、全く此點に凱切な實例を――他の多くの個人の生活に役立つ上に於て、驚くばかりの程度まで、個人の生命を奪つても宜しいといふことを我我に示す實例を――供給して吳れて居る。……蟻も蜂も、我我がその語に與へる意義での義務といふ念を有つて居るとは想像が出來ぬ。又、その語の尋常普通な意味での犧牲に絕えず逢うて居るとも想像することは出來ぬ。……〔これ等の事實は〕利他的目的を追求するのに、他の場合に利己的目的を追求する際に示すのと全く同樣に根氣强く、且つ同樣以上にすら根氣强く、あるやうな本能を造り出すことは、有機組織の可能性のうちに存して居ることを示すのである。――また、かかる場合には、その他の半面から見て利己的な目的を追求して以て、その利他的目的が追求されることを示すのである。その有機組織の必要を滿足せしめる爲めには、他人の安泰を來たすやうな、そんな行動を爲さなければならぬのである。……

[やぶちゃん注:「凱切」「がいせつ」。非常によく当てはまること。また、そのさま。「剴切」とも書く。]

         ………………………………

 あらゆる未來を通じて、自己を思ふ念が、他を思ふ念の爲めに絕えず服從さるべき情態が續かなければならぬといふことは眞理どころか、反對に、他を思ふ念が竟には愉快の大源泉となつで、直接な利己的な滿足よりして生ずる愉快より大きくなるやうなことが出來して來るであらう。……かくして、しまひには、利己と利他とが折衷されて、彼此融合して、一つになる情態がまた出來するであらう。

[やぶちゃん注:引用符の「閉じる」(』)がないのはママ。最終段落前の点罫線の下部はもっと長い。また、最終段落全体も原文では“ ”で括られているから、ハーバート・スペンサーの著作の別な部分からの引用であって、小泉八雲の文ではないので注意が必要である。創作性作品(小説・随筆)傾向が強い本書では、他の論説作品のようには小泉八雲は引用元を明示していないが、以上は調べて見たところ、孰れもスペンサーの一八九七年の「倫理の法則」第一巻(Herbert Spencer“ The Principles of Ethics, vol. 1 ”の「第十四章 調停」(APPENDIX TO PART I. The Conciliation”)の引用であることが判ったこちらの英文サイト“Online Library of Liberty”の同書(全文)で検索を掛けた)。]

 

 

       

 固よりのこと前揭の豫言は、昆蟲社會の種種な階級が、それに因つて分化されて居る組織的分化に匹敵する組織的分化が現すであらうやうな、そんな生理的變化を人間の本性がいつか蒙るであらうといふことを含んでは居ない。活動的な大多數者は、不活動な少數者たる選拔された母の爲めに勞苦する半女性の勞働者と女士軍から成る、といふやうな人類の將來は想像の出來ない事である。スペンサア氏はその『將來の人口』の章に於てさへ、――完全に發達した神經系統について、また人間の出產の大減少についての氏の一般的叙述には、かかる道德的進化は頗る多大な生理的變化を意味するものだといふことが暗示されては居るが――道德的に一層高等な種類の產出に避くべからざる生理的變化に就いては何等細目に涉つての叙述を試みて居られぬ。若しも、相互の利益を圖るの愉快が人生の喜びの全部となるやうな、將來の人類の可能を信ずることが合理ならば、昆蟲生物學の事實が證明して進化的可能の範圍內にあると云うて居るやうな、生理的な又道德的な、他の變態を想像することもまた合理ではなからうか。……自分には分らぬ。自分はハアバアト・スペンサア氏を、これまで此世界に出現したうちの最も偉大な哲學者として最も崇拜的に尊敬して居る。だから、氏の敎へに反對した事を何か書きつけて、それは綜合哲學が鼓吹した意見だと讀者が想像されるやうなことになるのは、自分の甚だ遺憾とするところである。以下記す考察には、自分だけに責任があるので、若し自分が誤つて居るならば、その罪は自分だけの頭上に下らんことを希ふ。

[やぶちゃん注:英文ウィキの「Herbert Spencerに、“The Principles of Biology, Vol. II (1867), Part VI: Laws of Multiplication, ch. 8: Human Population in the Future”(「生物学の基本原則」第二巻・第六部「「乗法(掛け算)の法則」・第八章「将来の人類の人口」:一八六七年刊)とあるのを指すようである。]

 

 スペンサア氏が豫言された道德的變態は、生理的變化の助けによつて始めて、しかも非常な犧牲を拂つて始めて、成し遂げ得るものであると自分は想ふ。昆蟲社會が表明して居るあの倫理的情態は、非常に猛烈な慾求に反抗して幾百萬年の間、死に物狂ひに支持し來たつた努力によつて始めて達し得られた譯のものである。人類も亦それと同樣に無殘な欲求に遭遇して、そして竟にそれを支配しなければならぬかも知れない。精一杯最大な人間の苦しみの時代がまだ、これから來るのだといふこと、又、それは精一杯最大な人口增加の壓迫に伴うであらうといふことを、スペンサア氏は示して居られる。その長期の壓迫よりして生ずる數ある結果のうちに、人類の慧智と同情との異常な增加があるであらう。そしてこの慧智の增加は人間の多產を犧牲に供して成し遂げられるものである、と自分は思ふ。然し生殖力のこの衰退は、聞くところに據れば、最高無上の社會情態を保證するに足るものでは無くて、ただ、人間の困苦の大原因たる人口の壓迫を救ふだけのものである。社會が完全に平均を得て居るといふ情態は、

 社會的昆蟲が既に解決して居るやうに性生活を禁止することによつて經濟問題を解決する何等かの手段が發見されない限り

 人類はそれへ近寄ることは出來ようが、十分にそれへ到達することは決して出來ないことであらう。

[やぶちゃん注:以上の太字(原文は傍点「﹅」)部の改行による独立はママである。原本でもこの部分は斜体で前後が一行空けで載る(左ページ)。]

 

 かかる發見が爲されると假定し、又――今、性生活が要求して居る諸力をば、一層高等な活動力の發展へ移すことを仕果すやうに――自己が產んだ子供の大多數に性の發達することを差し止めることを人類が決心すると假定すると、其結果は蟻の情態同樣に結局は同質異形の情態となるのではなからうか。そして、さうなるといふと、未來の人種は、男性の進化によるよりも寧ろ、女性の進化を經て、そのより高等な部類の者は、大多數の男女何れでも無い者がこれを占めるのではなからうか。

[やぶちゃん注:私は基本、生物学的な意味での、生物種としてのヒトの女性の単為生殖的進化という点で、この小泉八雲の説に組する。但し、その場合でも、人類は早晩、滅亡するであろうという結末を添えて、であるが。

 

 現今でさへ、全く非利己な(宗教的な動機のがあるのは云ふに及ばぬが)動機からして、獨身生活を決心する人の多いことを考へるといふと、今よはもつと高等な進化を來たした人類が、共同の幸福の爲め、殊に其爲め獲得さるる或る利益を思うて、その性生活の大部分を喜んで犧牲に供するであらう事は、ありさうに無いことには思へぬであらう。その或る利益といふ中で――蟻のやうな自然的方法で性生活を人類が支配し得るものといつも假定して――驚く許りに壽命が延びるといふ事が、その一番小さなものではなからう。性を超越した人類の一層高等な種類のものは、一千年の壽命といふ夢想を實現し得るかも知れぬのである。

 我我が今、爲さなければならない仕事をするのに、今の我我の壽命は短か過ぎることを既に我我は知つて居る。それに、發見は絕えず加速度を以て進行するし、休む問無しに知識は增大して行くことであるから、時の進むに連れて、壽命の短かさを悔むべき理由は確かに層一層强うなつて來ることであらう。科學が鍊金術士の希望たりし不老藥をいつか發見するといふことは到底も見込みの無いことである。宇宙の諸力は我我に騙されはせぬ。彼等諸力が我我に讓つて吳れる一一の便益[やぶちゃん注:「べんえき」。便宜と利益。都合よく利益のあること。]に對して、我我は十分な代價を拂はなければならぬ。無代(ただ)では何んにも、は永久の大法である[やぶちゃん注:原文は“For every advantage which they yield us the full price must be paid: nothing for nothing is the everlasting law.”で、「彼ら(宇宙のあらゆるエネルギ)が我々に齎す総ての便宜と利益のためには、その代価たる全額を支払わねばならない――無対価(ただ)の「永遠の法則」はどこにもありはしないのだ」の謂いである。]。恐らくは長壽といふ代價が、蟻がそれに對して拂うた代價なのであらう。恐らくは、地球よりも年長な或る惑星では、その代價が既に早、拂はれて居て、子孫を產出する力は、我我の想像の出來ない方法で、その種(しゆ)の他の者とは形態學的に分化して居る一階級のものに限られて居るのではなからうか。……

[やぶちゃん注:この最後の部分は多分に霊的な存在を念頭に置いている感じがする。

「不老藥」原文は“Elixir”。音写は「エリクシール」「エリクサー」等。中世ヨーロッパの錬金術(英語:alchemy)で、飲めば不老不死になれると伝えられる霊薬の名。ウィキの「エリクサー」によれば、かのアイザック・アイザック・アシモフ(Isaac Asimov 一九二〇年~一九九二年)の「化学の小歴史」( A Short History of Chemistry :一九六五年刊)の「第二章 錬金術 アラビア人達」に『よれば、語源は、乾いた粉と考えられていたことからギリシア語の』「xerion」(「乾いた」の意)『がアラビア語に翻訳されて』「al iksir」となったとし、一方、ドイツの作家ハンス・J・シュテーリヒ(Hans Joachim Storig 一九一五年~二〇一二年)の「西洋科学史」に『よれば、イスラム錬金術の祖ジャビル・イブン・ハイヤン、ラテン名ジーベル(他にゲベル、ジャビル)が、金属の四元素四性質(温・乾・湿・冷)を変性し、作り出した一性質のみの元素を』「al iksir」としたが、この「al iksir」を十三世紀に翻訳した名が「elixir」で『あるとする』などの説がある。『錬金術の至高の創作物である賢者の石』(ラテン語:lapis philosophorum(ラピス・フィロソフィウム):但し、これが文献上に現れるのはエリクサーよりもかなり後とされる)『と同一、あるいはそれを用いて作成される液体であると考えられている』とある。]

 

 

      

 然し昆蟲生物學の事實が人類進化の未來の進路に關して、かくも多く暗示を與へると同時に、倫理と宇宙律との關係に就いて、最も重大な或る物をもまた暗示しはせねか。確かに、人間の道德經驗があらゆる時代に於て非難して居る事柄を爲し得る動物には、最高の變化は許しはされぬのであらう。確かに、あらゆる力の中で、最高の力は無私無慾の力である。殘忍に對し或は淫慾に對して無上の力が與へられるといふことは決して無い事であらう。神といふものは無いものかも知れぬ。然し生物のあらゆる形態を構成したり分解したりする諸力は、神よりも、もつと酷烈無假借なものに思へる。星の振舞ひに『戲曲的傾向』のあることを證明する事は出來さうに無い。が、然しそれにも拘らず、宇宙の過程に、人間の利己といふことに根本的に反對して居る人間の倫理制度悉くの價値を肯定して居るやうに思へるのである。

 

[やぶちゃん注:これを以って作品集作品集「怪談」(原題“ KWAIDAN: Stories and Studies of Strange Things ”。来日後の第十作品集)は終わっている。]

2019/09/26

小泉八雲 蟲の硏究 蟻 二・三 (大谷正信譯)

 

[やぶちゃん注:本篇についての詳細は「小泉八雲 蟲の硏究 蟻 一 (大谷正信譯)」の私の冒頭注を参照されたい。]

 

 

        

 或る非基督敎國民が我我西洋人の文明よりも倫理的に優つて居る文明を產み出したことを語ることは、種種な社會に於て、背德だと考へられて居ると同じ理由で、或る種の人達には自分がこれから蟻に就いて云はうとすることが氣に入らぬであらう。然し自分が到底そんなになり得る希望の抱けぬ程に比較を絕して遙か賢明な人で、基督敎の祝福とは離れて昆蟲のことを考へ文明のことを考へる人が世には在る。そして自分は新出版の『劒橋大學博物學』に激勵を見出す。この書には、デヸツド・シヤアプ敎授が、蟻に關して書かれた次記の言葉があるのである。

[やぶちゃん注:『劒橋大學博物學』原文“ Cambridge Natural History ”。「ケンブリッジ大学博物誌」。

「デヸツド・シヤアプ敎授」デヴィッド・シャープ(David Sharp 一八四〇年~一九二二年)はイギリスの医師で著名な昆虫学者。一八八五年にケンブリッジ大学動物学博物館学芸員に招聘され、この当時も現職であった。]

 

 『この昆蟲の生活に存する非常に顯著な現象が觀察によつて啓示せられた。この昆蟲は、多くの點に於て、我我人間が知つて居るよりか、遙か完全に社會に於ける共同生活の術を會得して居り、且つ彼等は社會生活を大いに容易ならしむる諸產業、諸藝術の習得に於て我我に先んじて居る、といふ結論を實際殆んど避け得ないのである』

 

 見聞の廣い人ならば、修業を積んだ一專門家のこの平明な叙述を兎や角と論諍[やぶちゃん注:「ろんじやう(ろんじょう)」。論争に同じい。]さるる人は多くあるまいと自分は想ふ。現代の科學者は蟻や蜂に就いて感傷的にならるるやうなことは無くて、社會變化に關しては、この蟲の方が『超人』的に進んで居るやうに思へることを承認するに躊躇されはせぬであらう。ハアバアト・スペンサア氏は――誰れも氏に浪漫的傾向があるとの非難はしなからうと思ふが――氏はシヤアプ敎授よりも餘程、步を進めて、蟻は經濟的にと同樣に眞の意味に於て倫理的に人類よりも進んで居る――蟻の生活は全然愛他的目的に獻(ささ)げられて居るからと我我に示して居られる。實際シヤアプ敎授は、次記の如き用心深い陳述で以て、その蟻の賞讚をば稍〻不必要にも制限して居る。

[やぶちゃん注:「ハアバアト・スペンサア」小泉八雲が心酔するイギリスの哲学者で社会学の創始者の一人としても知られるハーバート・スペンサー(Herbert Spencer 一八二〇年~一九〇三年)。私の『小泉八雲 落合貞三郎訳 「知られぬ日本の面影」 第十五章 狐 (一五)』の私の注を参照されたい。私がこのブログ・カテゴリ「小泉八雲」で完遂した「神國日本」(戸川明三訳。原題は“ Japan: An Attempt at Interpretation ”(「日本――一つの試論」)。英文原本は小泉八雲の没した明治三七(一九〇四)年九月二十六日(満五十四歳)の同九月にニューヨークのマクミラン社(THE MACMILLAN COMPANY)から刊行された)もスペンサーの思想哲学の強い影響を受けたものである。]

 

 『蟻の能力は人間の能力のやうなものでは無い。その能力は個體の繁榮に占用されて居ると云はんよりも寧ろ種の繁榮に占用されて居る。個體は云はばその團體の利益の爲めに犧牲にされ、若しくは分化されて居るのである』

 此文に明らかに含まれて居る意味は――卽ち、どんな社會的情態[やぶちゃん注:ママ。以下同じ。]でも、其個體の進步改善が一般共同の繁榮の犧牲となつて居る國家は、餘程まだ不完全なものであるといふことは――現在の人間の見地からは或は正しいであらう。といふのは、人間はまだ不完全にしか進化して居ないので、人間社會は人間がもつと個體化することによつて大いに利益するであらうから。然し社會的な昆蟲に關しては、敎授の文に含まれて居る批評は疑間を挾むべき餘地が十分ある。ハアバアト・スペンサア氏は云うて居る。『個人の改良進步は個人を社會的共力協同に一層よく適合せしむるに在る。そしてこれは社會の繁榮を來たすことになるから、其人種の維持となつて來る』語を換へて云ふと、個人の價値は社會に關係してのみ在り得るのである。そこでこれを許容するといふと、個人を其社會の爲めに犧牲に供するのが善であるか惡であるかは、その社會がそれを形成する個體が一層個體化することによつて何を得するか損するかによつて定まるに相違ない。……然し、やがて分るであらうやうに、最も我我の注意に値ひする蟻社會の狀況は其倫理的狀況である。これはスペンサア氏が道德進化の理想は『利己主義と愛他主義とが彼此の區別無きまでに融和され折衷されて居る國家』だと述べて居られる其理想を實現して居るのだから、人間の批評を絕して居るのである。言ひ換へれば、利己ならざる行爲を爲すの快樂が快樂になつて居る國家である。卽ち、も一度スペンサア氏の文を引用すれば、蟻社會の活動は『個個の安寧を後にして、全く團體全體の安寧を計るの活動であつて、個個の生活はただ社會生活に至當な注意を可能ならしむるに必要なだけの範圍に於て注意されて居るやうに見え……個個は、その體力を維持するに必要なだけの食物と休息とを取つて居るやうに思へる』のである。

 

 

       

 蟻は園藝や農業を實行して居る事、蟻は茸の培養に熟練である事、蟻は(現今の知誠に據ると)五百八十四種の異つた動物を飼ひ馴らして居る事、蟻は堅固な巖[やぶちゃん注:「いはほ」。]にトンネルを穿つ事、蟻はその子供等の健康を危からしめるやうな大氣の變化に對應する方法を知つて居る事、又、蟻は昆蟲としては、その壽命は例外的で、そのうち高等な進化を遂げた種類のものは餘程の年數を生きるといふ事、これを讀者は御承知であると思ふ。

[やぶちゃん注:以上はウィキの「アリ」に詳しくはないが、各個的に書かれてあるので参照されたい。なお、アリの寿命については、サイト「自然のチカラ~昆虫や野生動物、植物の不思議」の「アリの寿命ってどれくらい?」によれば、働きアリ・雄アリ・女王アリで異なり、働きアリと雄アリは一~二年程度であるが、アリ社会の頂点に立つ女王アリは平均で十年、最高では二十年という記録があるとある。これは小型昆虫の寿命としては破格に永いと言える。ギネスに載る最長記録は五十年という記載があるとあるが、それは同様の高度な社会生活性を示すものの、アリ類とは縁のすこぶる遠い網翅上目ゴキブリ目シロアリ科 Termitidae のシロアリ類での報告であるので注意されたい。]

 

 だが、それは殊に自分が述べたいと思ふ事柄では無い。自分が話したい事は、蟻の非常

    註 これに關して興味ある事實は、
    アリの日本語は「蟲」といふ字と、
    「道德の端正」「禮儀」(義理)を
    を意味する字とを合せて成つた表
    意文字である事である。だから、
    漢字では實際に『義の蟲』の意で
    ある。

な禮節――恐ろしい德義――である。行爲に就いて我我の最も驚くべき理想も、蟻の倫理に比べると――進步の程度を時間で計算すれば――後れること幾百萬年を下らぬ!……此處で『蟻』と自分のいふは、蟻の最高の種類を指すので、もとより蟻科全體を云ふのでは無い。蟻には約二千の種(しゆ)のあることが今までに分つて居る。そしてそのものは、その社會組織に於て、進化の甚だしく異つた度合を示して居る。生物學上最も重要な、そして倫理問題に對しての、その不思議な關係に於てそれに劣らず重要な、或る社會的現象は、最も高等な進化を遂げた蟻社會の生涯に於てのみ、有利に硏究し得られるのである。

[やぶちゃん注:原註(ポイント落ち字下げであるが、本文と同じにして、一行数を減じた)の漢字の解字としては小泉八雲の謂う通りである。和訓の「あり」は、諸説あり(洒落か!)、「あ」が「小」を、「り」が助詞で「小虫」の意味とする説、多く集まって集団生活をする虫であることから「あつまり」を中略したものとする説、穴に出入りすることから「穴入(あないり)」の略とする説、よく歩(あり)くの略とする説、前後に縊(くび)れが有ることから「くびれり」の略とする説、最後の二説から派生したと思われる「脚有(あしあり)」の簡約説もあるという。

「蟻には約二千の種(しゆ)のあることが今までに分つて居る」ウィキの「アリ」によれば、現在は世界で一万種以上が、本邦だけで二百八十種以上がいるとされる。]

 

 蟻の長命に於ける相對的經驗の蓋然價値に就いて、近年色々書物に書かれて居ることてあるからして、蟻に個性の存することを、まさか否定される人はあまりあるまいと自分は思ふ。この小動物が全然、新規な困難に遭遇してこれに打勝ち、また、これまで全く經驗したことの無い境遇に適應して行く智慧は、自主的思索の力が餘程多くあることを證明して居るのである。だが、この事だけは少くとも確實である。卽ち蟻は純然たる我利的方面に使用され得る個性は少しも有つて居ない事である。此處で自分は『我利的』といふ語をその尋常普通の意義に使用して居る。貪慾な蟻、好色な蟻、七つの重大罪惡のどれ一つでも、否、小さな恕し[やぶちゃん注:「ゆるし」。]得べき罪でも、犯し得る蟻、そんなものは思ひも寄らぬものである。同じく思ひも寄らぬものは、云ふまでも無く、浪漫的な蟻、觀念論者的蟻、詩人的蟻、或は哲學的思索に耽らんとする蟻である。どんな人間の心も、蟻の心の絕對的實際性に到達することは出來なからう。現今の體制を有つて居る人間はどんな人間も、蟻の習慣ほどに缺點無しの實際的な心的習性を養ふことは出來なからう。だが、この最高無上の實際的な心は道德的過失を爲し得ぬのである。蟻には宗敎的我念は全く無いといふことを說明するのは或は困難であらう。しかしそんな觀念は蟻には何等の用を爲さぬといふことは事實である。道德的弱點に陷り得ない者には『精神的指導』の必要は無いのである。

 

 蟻社會の特徵及び蟻道德の性質は、我我はただ、朧氣に想像することが出來る丈である。で、これを爲すのにすら、我我は人間社會及び人間道德のまだ不可能な或る情態を想像しようと力め[やぶちゃん注:「つとめ」。]なくてはならぬ。そこでつぎに述べるやうな一世界を想像して見よう。其處では絕え間無しにそして猛烈に仕事をして居る者がその全部は女であるやうに思へるが――充ちて居る世界を。[やぶちゃん注:句点はママ。]其女の誰れ一人も、その體力を支へるに必要以上の食物を一粒でも取るやうに勸めることも欺くことも出來ぬ。又その女の誰れ一人もその神經系統を立派に働かせて行くに必要以上の睡眠は一秒たりとも爲ない[やぶちゃん注:「しない」。]。そして其女が凡て、少しでも不必要な放慢をすれば必ず何か機能の錯亂を來たすといふやうな特殊な團體を有つて居る。

 この女勞働者が日日行ふ仕事のうちには道路築造、橋梁架設、木材切斷、種類の無數な建築物建造、園藝農業、百と種類を異にする家畜の飼養保護、樣樣な化學的製品の製造、無數な食糧の貯臟保存、竝びにその種族の子孫の世話が含まれて居る。如上の勞働は悉くみな國家の爲めにするので――その國家の市民で、公有物としては考へるが『財產』などいふことを考へることさへ出來るものは一人も無い。そしてこの國家の唯一の目的はその幼者を――その殆んど全部は女の子であるが、それを養育し訓練するに在るのである。幼年の時機は長い。幼兒は長い間、啻に[やぶちゃん注:「ただに」。]手緣りない[やぶちゃん注:「たよりない」。]計りで無く、不恰好なもので、その上に極く一寸した氣溫の變化にも非常に注意して保護してやらなければならぬほどに虛弱なものである。幸にもその保姆[やぶちゃん注:「ほぼ」。]は保健の法則を心得て居る。換氣、消毒、排水、濕氣、それから病菌の――顯微鏡下に我我人間の眼に見えるやうに、その近眼には多分、見えるやうになつて居る病菌の――危險に關して保姆の心得て居なければならぬことは一切完全に銘銘が心得て居る。實際、衞生に關する事柄は實に十分に理解されて居るので、どんな保姆も自分の附近の衞生情態に就いて嘗て何等の過失を爲さぬ程である。

[やぶちゃん注:残念乍ら、小泉八雲の謂うようにはアリの複眼はそんなによくはない(但し、人間に見えない偏光は見えるし、対象物の大雑把な形・大きさは判る)。寧ろ、触角を通して微妙な環境変化を素早く察知するものであることは言うまでもない。]

 

 この絕え間無しの勞働にも拘らず、どの勞働者も亂髮で居ることは無い。何れも一日に幾度も化粧をして、入念に身綺麗にして居る。ところが、どの勞働者も非常に美しい櫛と胴毛とをその手先にくつつけて生れて來て居るから、化粧室で無駄な時間を費やすといふことが無い。それからいつも自分の身を嚴に淸潔にして居るほかに、勞働者は其子供等の爲めに、その家屋と庭園とを缺點無しに整頓して置かなければならぬ。地震、噴火、洪水、或は絕體絕命の戰爭以下の事に、塵掃ひ、掃き掃除、摩り磨き及び消毒といふ每日の課程の妨げをさせぬことにして居る。

[やぶちゃん注:ちょっと言っておくと、働きアリの中には、仕事をしているふりをして、怠けている個体が存在することが判明している。さればこそ、それこそ人間社会と変わらないとも言えるかも知れないな。]

 

小泉八雲 蟲の硏究 蟻 一  (大谷正信譯)

 

[やぶちゃん注:本篇(原題“ ANTS ”)は明治三七(一九〇四)年四月にボストン及びニュー・ヨークの「ホートン・ミフリン社」(BOSTON AND NEW YORK HOUGHTON MIFFLIN COMPANY)から出版された、恐らく小泉八雲の著作の中で最も日本で愛されている作品集「怪談」(原題“ KWAIDAN: Stories and Studies of Strange Things ”。来日後の第十作品集)の最後に配された「蝶」・「蚊」・「蟻」三篇からなる第十八話“ INSECT STUDIES ”の作品集の掉尾となる第三番目の話である。なお、小泉八雲はこの年の九月二十六日に五十四歳で心臓発作により急逝した。

 同作品集はInternet Archive”のこちらで全篇視認でき(リンク・ページは挿絵と扉標題。以下に示した本篇はここから)、活字化されたものは“Project Gutenberg”のこちらで全篇が読める本篇はここ)。

 底本は上記英文サイト“Internet Archive”のこちらにある画像データをPDFで落し、視認した。これは第一書房が昭和一二(一九三七)年一月に刊行した「家庭版小泉八雲全集」(全十二巻)の第八巻全篇である。★【2025年3月31日底本変更・前注変更】時間を経て、国立国会図書館デジタルコレクションに本登録し、現行では、以上の第一書房版昭和一二(一九三七)年一月に刊行した「家庭版小泉八雲全集」(全十二巻)の第七巻が、国立国会図書館デジタルコレクションで公開されてある。(リンクは扉だが、「家庭版」の文字はない。しかし、奥附を見て貰うと『家庭版 【第四囘豫約】』とあり、『昭和十二年一月十五日 發 行』とあることが確認出来る)、これが、前掲の底本と同じものであるが、やはり、外国のサイトのそれを底本とするのは、日本人小泉八雲に失礼であると考えた。されば、こちらで、再度、以下の「骨董」の作品群を改めて校正することとする。これが――私の小泉八雲への「義」――である。なお、之よりも前の元版の全集等が先行しているものの、私がそれらと比べた結果、実は先行する同社の「小泉八雲全集」のそれらは、訳が一部で異なっており、訳者等によって、かなりの補正・追加がされていることが、今回の正字補正作業の中で、はっきりと判って来た。いや、同じ「家庭版」と名打ったネット上の画像データでも、驚いたことに、有意に異なっていたのである。そうした意味でも――完全な仕切り直しの総点検――が必要であると決したものである。従って、旧前振りの括弧・鍵括弧の問題も、拡大とガンマ補正で確認し、正確を期する。総標題はここで、本作はここから。

 訳者大谷正信氏については、「小泉八雲 燒津にて 大谷正信譯」の私の冒頭注を参照されたい。

 傍点「﹅」は太字に代えた。大谷氏は全体に「!」の後を空けていないが、特異的に挿入した。

 全七章と長いので、分割して示す。]

 

 

  

 

 

        

 今朝の空は、昨夜の嵐の後で、眩しい程眞つ靑である。空氣は、――その美妙な空氣! は――强風に吹き折られて散らばつて居る、無數の松の枝が放つ芳ばしい松脂の香に充ちて居る。近くの竹藪には、妙法蓮華の經を讚へる鳥の笛のやうな啼き聲がきこえ、大地は南風の爲めに甚だ靜かである。今や長い間手間取つた夏が實際遣(や)つて來て居る。珍らしい日本色彩の蝶が翔け𢌞つて居り、蟬がゼイゼイ鳴いて居り、蜂がブンブン唸つて居り、蚊が日の光に躍つて居り、そして蟻がいためられたその住み家を忙しく修繕して居る。……自分は不圖、或る日本の詩を思ひ出す。

[やぶちゃん注:「蚊が日の光に躍つて居り」これは前の「蚊」で小泉八雲が問題にした、吸血性で夜を好む「蚊」ではなく、正の走光性を持ち、昼間でも飛翔する、刺しもしない、「蚊」を大きくしたように見える双翅(ハエ)目糸角(カ)亜目ガガンボ下目ガガンボ上科ガガンボ科 Tipulidae のガガンボ類か、或いは、やはり刺さないカ下目ユスリカ上科ユスリカ科 Chironomidaeユスリカ類の「蚊柱」(一匹のユスリカの♀と多数の♂で作られる「群飛」)ではないか、特に後者ではないか、と私は思う。

 

    行衞無き蟻の住家や五月雨  曉 臺

 

[やぶちゃん注:「曉臺」加藤暁台(きょうたい 享保元(一七三二)年~寛政四(一七九二)年)は尾張生まれ。本姓は岸上、名は周挙、通称は平兵衛、別号に他朗・買夜・暮雨巷(ぼうこう)など。武藤巴雀・白尼(はくに)父子に入門し、のち暮雨巷一門を起こした。蕉風復興を目指して天明中興俳諧の中心となり、「去來抄」などを翻刻した。この句、こちらの「曉臺句集 上」(PDF)の「夏之部」の「五月雨」のパートには、

 行方なき蟻のすまひや五月雨

の表記で載る。暁台の句は個人的に好きな俳人である。]

 

 だが、自分の庭に居るあの大きな黑蟻は、何等同情を要しさうに思へぬ。大きな樹木が根こぎにされ、家屋が粉な微塵に吹飛ばされ、道路が水に洗はれて無くなつたりする間に、彼等は想像も及ばぬ許りにその嵐に堪へて來て居る。でも、その颱風前に、その地下の都市の門戶を塞ぐだけで、何等眼に見える用心を彼等はしなかつた。そして今日彼等が意氣揚揚と働いて居る眺めは、蟻の題の隨筆を書くことを自分に强ひる。

 出來ればこの自分の論文の前書きに何か昔の日本文學から得來たつたものを――何か感情的な或は哲理的な物を置きたかつたのである。が、此題目に就いて自分の日本の友人達が見つけることの出來たものは――あまり價値の無い僅かの詩を除いて――凡て支那のものであつた。この支那の材料は主としていくつかの妙な物語から成つて居つた。處が、そのうちの一つは引用の價値があるやうに思へる。――他にいいものが無いから。

[やぶちゃん注:「――他にいいものが無いから。」訳では判らないが、原文はここは“ — faute de mieux. ”フランス語で「他にもっと良いものがないのだから・仕方なく・止む無く」で、英語にそのまま慣用語として採り入れられているフレーズである。]

 

 支那の臺州といふ國に信心深い或る男が居て、數年の間、每日熱心に或る女神を信心した。或る朝のこと、御祈禱をして居ると、黃色い著物を著けた美しい婦人がその部屋へ入つて來て、その男の前へ立つた。非常に驚いて、何が欲しいのか、どうして案內もされずに入つたのかとその男が訊ねた。その女の答へるには『私は女ではありません。私はあなたがあんなに長い間あんなに忠實(まめやか)に信心して下さる女神です。あなたの信心が無效では無かつたといふことを、あなたに證明をしに今來たのです。……あなたは蟻の言葉が分りますか』その信心者が答へるに『私は卑しいもので、また無學な人間であります。――學者ではありません。優れた人達の言葉さへ、私はちつとも分りません』その言葉を聞くと女神は微笑して、その懷から香箱のやうな形をした小さな笛を取り出した。其箱を開けて、指をそれに浸して、膏のやうなものをそれから取り出して、それをその男の兩耳に塗つた。『さあ』とその女神がその男に『蟻を見付けなさい。そして見つかつたら、しやがんで、注意して、その談話を聰いて御覽なさい。解るでせうから。そして何かあなたの利益(ため)になることを御ききになるでせう……だが、一つよく記憶しておいでなさい、蟻を嚇したり又は困らせたりしてはいけません』かう云つて、その女神は姿を消した。

 その男は直ぐと蟻を探しに表へ出た。門口の閾をまたぐが早いか、その家の柱の一本を支へて居る石の上に蟻を二匹見つけた。彼はそれへ身體を屈めて、耳を欹てて[やぶちゃん注:「そばだてて」。]聰いた。そして、その談話(はなし)聲がきこえ、云ふことの意味が解るのに驚いた。『もつと暖かい處を見つけようぢや無いか』と二匹のうちの一匹が提儀した。『どうしてもつと暖かい處を』と片方が訊ねた、『此處がどうだと言ふのだ』『下(した)があまり濕つてて冷たい。大層な寳が此處に埋めてある。それで日が當つてもこのあたりの地面は暖たまらぬ』と口をきいた蟻が云つた。それからその二匹の蟻は連れ立つて他處へ行つたから、その話を聴いた男は鍬を取りに走つて行つた。

 その柱のあたりを掘つて見るといふと、やがてのこと、金貨の一杯入つてる大きな壺が幾つも見つかつた。この寳を發見したので、その男は非常な富有者(かねもち)になつた。

 その後、何度か蟻の會話を聽かうとして見た。然しもう二度とその談話を聞くことが出來なかつた。女神の膏塗りは、蟻の不思議な言語にたつた一日の間だけ耳を開けて吳れたのであつたから。

[やぶちゃん注:少し手こずったが、原拠を発見した。「四庫全書」の「説郛卷一百十七上」(陶宗儀撰)に、唐の傅亮(ふりょう)撰とする「靈應錄」からとして以下が載っていた。

   *

   台州民

台州有民、姓王、常祭厠神。一日至其所見着黃女子。民問、「何許人。」。答云、「非人厠神也。感君敬我、今來相報。」。乃曰、「君聞螻蟻言否。」。民謝之、「非惟鄙人自古不聞此。」。遂懷中取小合子、以指少膏如口脂塗民右耳下、戒之曰、「或見蟻子、側耳聆之、必有所得。」良久而滅。民明日一見柱礎下羣蟻紛紜、憶其言乃聽之、果聞相語云、「移穴去暖處。」、傍有問之、「何故。」、云、「其下有寳甚寒、住不安。」。民伺蟻出訖、尋之獲白金十鋌卽。此後不更聞矣。

   *

「厠神」(便所の神)というのは小泉八雲が流石に避けたものらしい。【2025年3月31日追記】この話、実は、酷似した話を、私の後に電子化した『「南方隨筆」底本 南方熊楠 厠神』の中に、『淵鑑類凾より引れし厠神狀如大猪と云る話』とあるのに対する私の注で、原文を電子化してある。見られたい。

 

 ところで自分は、この支那の信心者同樣に、甚だ無學な男であり、本來、蟻の會話を聽くことの出來ぬ男だと自白せざるを得ぬ。然し科學の仙女が時折、自分の耳と眼とを其杖で觸(さは)つて吳れる。すると一寸の間、きこえぬ事がかこえ、見えぬことが見えるのである。


小泉八雲 蟲の硏究 蚊  (大谷正信譯)

 

[やぶちゃん注:本篇(原題“ MOSQUITOES ”)は明治三七(一九〇四)年四月にボストン及びニュー・ヨークの「ホートン・ミフリン社」(BOSTON AND NEW YORK HOUGHTON MIFFLIN COMPANY)から出版された、恐らく小泉八雲の著作の中で最も日本で愛されている作品集「怪談」(原題“ KWAIDAN: Stories and Studies of Strange Things ”。来日後の第十作品集)の最後に配された「蝶」・「蚊」・「蟻」三篇からなる第十八話“ INSECT STUDIES ”の第二番目の話である。なお、小泉八雲はこの年の九月二十六日に五十四歳で心臓発作により急逝した。

 同作品集はInternet Archive”のこちらで全篇視認でき(リンク・ページは挿絵と扉標題。以下に示した本篇はここから)、活字化されたものは“Project Gutenberg”のこちらで全篇が読める本篇はここ)。

 底本は上記英文サイト“Internet Archive”のこちらにある画像データをPDFで落し、視認した。これは第一書房が昭和一二(一九三七)年一月に刊行した「家庭版小泉八雲全集」(全十二巻)の第八巻全篇である。★【2025年3月31日底本変更・前注変更】時間を経て、国立国会図書館デジタルコレクションに本登録し、現行では、以上の第一書房版昭和一二(一九三七)年一月に刊行した「家庭版小泉八雲全集」(全十二巻)の第七巻が、国立国会図書館デジタルコレクションで公開されてある。(リンクは扉だが、「家庭版」の文字はない。しかし、奥附を見て貰うと『家庭版 【第四囘豫約】』とあり、『昭和十二年一月十五日 發 行』とあることが確認出来る)、これが、前掲の底本と同じものであるが、やはり、外国のサイトのそれを底本とするのは、日本人小泉八雲に失礼であると考えた。されば、こちらで、再度、以下の「骨董」の作品群を改めて校正することとする。これが――私の小泉八雲への「義」――である。なお、之よりも前の元版の全集等が先行しているものの、私がそれらと比べた結果、実は先行する同社の「小泉八雲全集」のそれらは、訳が一部で異なっており、訳者等によって、かなりの補正・追加がされていることが、今回の正字補正作業の中で、はっきりと判って来た。いや、同じ「家庭版」と名打ったネット上の画像データでも、驚いたことに、有意に異なっていたのである。そうした意味でも――完全な仕切り直しの総点検――が必要であると決したものである。従って、旧前振りの括弧・鍵括弧の問題も、拡大とガンマ補正で確認し、正確を期する。総標題はここで、本作はここから。

 訳者大谷正信氏については、「小泉八雲 燒津にて 大谷正信譯」の私の冒頭注を参照されたい。

 傍点「﹅」は太字に代えた。]

 

 

  

 

 自己防衞の目的で、自分はホワアド博士の『蚊』を讀んで居つた。自分は蚊に宭められて居るのである。自分の近處には種種な種類のが居るが、その中のたつた一つだけが――全身に銀色の點點があり、銀色の斑理(しま)がある、小さな、針のやうな奴が、容易ならぬ呵責者である。そやつの刺傷は電氣の火傷[やぶちゃん注:「やけど」。]のやうに猛烈で、其奴のブウンといふ聲にすら、來たるべき痛みの性質を豫言する、刺すやうな音色がある――丁度、或る特殊な臭ひが、或る特殊な味ひ[やぶちゃん注:「あじはひ」。]を思はせると同じで。此蚊は、ホワアド博士がステゴマイア・フアスシアタ或はキユレツクス・フアスシアタスと呼んで居る奴に餘程似て居ると知つた。またその習性がステゴマイアの習性と同一であることも認めて居る。例へば、夜間のものでは無くて寧ろ晝間のもので、そして午後中が一番に煩はしい。それから自分はこの蚊は自分の庭の後ろのお寺の墓地――非常に古い墓地――からやつて來ることを發見した。

[やぶちゃん注:「ホワアド博士」レナード・オシアン・ハワード(Leland Ossian Howard 一八五七 年~一九五〇年)はアメリカの昆虫学者。当時は米国農務省昆虫学局局長であった。彼の「蚊」( Mosquitoes )は一九〇一年刊で、本作品集刊行の三年前の出版である。

「宭められて居る」は私は「さいなめられてゐる」と訓じたい。「宭」は原義は「群がって住む・群居する」の意であるが、「或対象に迫る・行き詰まる・極まる・苦しむ」、「たしなめる」、「慌ただしい・急な」の意があるが、「む(群)れい(居)る」でも訓じ得ないし、音「クン・グン」でも読めないからである。なお、原文は“persecuted”でこれは「迫害された・虐げられた」の意あるから、「いぢ(苛)められている」と訓じてもよいが、同じ当て訓でも「宭」をそう訓ずることを要求するのはかなり無理がある。因みに、一九七五年恒文社刊の平井呈一氏の訳(「骨董・怪談」)でも、この部分を『攻められているのである』と訳しておられるから、「せめられている」が穏当ではあろうが、個人的には、それでは、ここは、よっぴきならぬ蚊の波状的攻撃の表現が弱いと思うのである。

「全身に銀色の點點があり、銀色の斑理(しま)がある」所謂、「藪蚊(やぶか)」の代表種、双翅(ハエ)目長角亜目(糸角・カ)亜目カ下目カ上科カ科ナミカ亜科ヤブカ属シマカ亜属ヒトスジシマカ Aedes (Stegomyia) albopictus に比定していいだろう。よく似たやや大型(前者の約四・五ミリメートルに対して六ミリメートル)のトウゴウヤブカ Aedes togoi も、ともに本邦全土に分布している。

「ステゴマイア・フアスシアタ」原文“ Stegomyia fasciata ” 。ヤブカ属シマカ亜属ネッタイシマカ Aedes (Stegomyia) aegypti の旧称(シノニム)(ウィキのこのページの英文解説を見られたい)。ウィキの「ネッタイシマカ」によれば、『全世界の熱帯・亜熱帯地域に分布し、黄熱、デング熱などのウイルス性の感染症を媒介する蚊として恐れられている。日本では琉球諸島と小笠原諸島から記録されている』。『天草諸島で1944年に異常発生し、1952年までに駆除された。1970年以降は天草での採取例はなく、以後は国内での定着は確認されていない。沖縄でも20世紀初頭に確認されたが、いつの間にか姿を消し、ヒトスジシマカに席巻されている』。『2002年、日本生態学会により日本の侵略的外来種ワースト100に選定された。国外から侵入定着する危険が指摘されて』おり、既に都内のビルの貯水槽から屍骸が出たというニュースを何年か前に聴いた。

「キユレツクス・フアスシアタス」原文“ Culex fasciatus ”。同じく前掲のネッタイシマカ Aedes (Stegomyia) aegypti のシノニム。

「自分の庭の後ろのお寺」執筆当時に住んでいて、小泉八雲の終焉の地となったのは、東京都新宿区大久保(グーグル・マップ・データ。以下、同じ)であるが、周辺に寺院を認めない。「新宿観光振興協会」公式サイト内の「小泉八雲旧居跡」によれば、小泉八雲は明治二九(一八九六)年に『日本に帰化し』、『同年、東京帝国大学(東京大学)で英語・英文学を講ずることなって上京。この地に、約』五『年間住み』、『樹木の多い自証院一帯の風景を好んだ八雲は、あたりの開発が進んで住宅が多くなると、西大久保に転居し』たとある。東京都新宿区富久町に自證院あり、現在の「小泉八雲旧居跡」の碑(成女学園内)は、そこから北北東に百三十二メートルで、また、現在、東北七十七メートルの直近にも善慶寺という寺を認めるから、この孰れかであろう。時系列地形図閲覧サイト「今昔マップ on the web」でそこを見ると、一八九六年から一九〇九年のそれでは、小泉八雲旧居のすぐ西北方に、自證院(字が潰れているが)の敷地が広がっていることが判る。ところが、その当時は、現在の前慶寺の位置には「修行寺」(推定)という寺があり、これも敷地が最も近い。なお、小泉八雲は、必ずしも同時時制で作品を書いていないことは、他の作品でも見られることで、奇異なことでも何でもない。既に見た通り、寧ろ、熊本での出来事を、松江に移して書いたりもしているのである。

 

 ホワアド博士の書物は、近處に蚊を居なくするには、それが育つ停滯水の中へ少量の石油又はケロシン油を注ぎさへすればいいと言明して居る。油は一週に一度『水面十五呎[やぶちゃん注:「フィート」。Feet。十五フィートは約四・五七センチメートル。]平方每に一オンス[やぶちゃん注:ounce。二十八グラム強。]、それよりも表面が狹ければそれに應じた量、といふ割合で』使はなければならぬさうだ。……だが、自分の近處の情態[やぶちゃん注:ママ。]をまあ一つ考へて貰ひたい。

[やぶちゃん注:「ケロシン油」ケロシン(kerosene)は石油の分留成分の一つ。私たちに馴染みの灯油は、成分的にはほぼケロシンである。ジェット燃料・ロケット燃料などの石油製品の原料である。]

 自分の呵責者はお寺の墓地からやつて來ると云つた。その古い墓地にある殆んどどの墓の前にも水を容れるもの卽ち水溜、日本語でミヅタメといふ物がある。大多數の場合、このミヅタメはその石碑を支へて居る幅の廣い臺石に、彫り込んである楕圓形の窪みに過ぎないが、金のかかつた墓石で、この墓石の水溜の無い者の前には、一枚石を彫つたもので、一家の紋所や表象的な彫刻で裝飾が施してある、別な大きな水槽[やぶちゃん注:「みづをけ」。]が置いてある。極く下等な部類の墓石で、ミヅタメの無いのへは、茶椀や他の容れ物に入れて水が置いてある――人[やぶちゃん注:亡くなった人。]は水を貰はなければならぬからである。死人へは其の上にまた花を供へなければならぬのである。だから、どの墓の前にも竹筒か他の花立てかが一對あつて、固よりのことそれには水が入つて居る。墓地には墓への水を供給する井戶がある。死人の親類や友人が墓詣りをする時はいつも水溜や水入れの茶椀へ新しい水を注ぐ。處が、こんなやうな古い墓地には幾千といふミヅタメがあり、幾萬の花立てがあることだから、それ等凡ての水を每日新しく取り換へることは出來ぬ。停滯する、そして住む奴の數が多くなる。底の一層深いミヅタメは滅多に乾かぬ。――一年十二箇月のうち九箇月はそんな水溜にいつも少しは、水を溜まらせて置く程に東京は雨が多いのである。

 

 さて、自分の敵が生れるのは此水溜と花立てとの中である。彼等は死者の水からして幾百萬と現れ出るのである。――そして、佛敎の敎へに從ふといふと、彼等の或る物は、前世の罪に因つてジキケツガキ卽ち食血餓鬼の身に生れる運命を得た、その死者そのものの化身かも知れぬ。……兎に角キユレツクス・フアスジアタスの惡意は、或るよこしまな人間の精神が壓縮されて、あのウンウン泣き叫ぶ一點の身體(からだ)になつたのではなからうか、との疑念をさうだと思はせるに足るものがある。……

[やぶちゃん注:先行する「小泉八雲 餓鬼 (田部隆次譯)」(作品集「骨董」所収)の本文で小泉八雲は既に登場させている。そこでも掲げている「正法念處經」によれば、食血餓鬼は、肉食(にくじ)を好んで殺生をし、しかも妻子には分け与えなかった者が、なる餓鬼で、生物から出た血だけを食べる、それだけが食べられる餓鬼であるから、吸血昆虫は確かに相応しい。餓鬼は餓鬼道ばかりにいるのではなく、人間道にも共時的に存在するとされるし、餓鬼道を終えて、人間道の蚊に転生するというルートでも説明出来るから問題ない。]

 

 そこで、ケロシン油の題目へ立ち還へると、どんな地方の蚊でも、そこにある一切の停滯した水の表面を、ケロシンの薄皮で蔽うて絕滅し得るのである。幼蟲は呼吸(いき)をしに上ると死ぬる。成蟲の雌はその卵の集團(かたまり)を下ろしに水に近づくと死ねる。ホランド博士の書物で讀んだが、人口五萬の或る亞米利加の街から、蚊を全くとつてしまふ實費は、三百弗を超えない! のださうな。……

[やぶちゃん注:底本では「!」の後には字空けがないが、特異的に挿入した。以下の段落でも同様の処理をした。

「三百弗」本書刊行の翌年の明治三三(一九〇〇)年から明治三八(一九〇八)年で、為替レートは一ドルが約二円で安定しており、少し溯る明治三〇(一八九七)年頃で、一円は現在の二万円相当という信頼出来るデータに従うなら、六百万円以下となる。五万人の都市の蚊の完全駆除対策の衛生費用(レナード・ハワードの「蚊」は一九〇一年刊)としては、腑に落ちる額である。]

 

 若しか[やぶちゃん注:「もしか」。]東京市廰が――これは攻勢的に學問的で又進步的だが――突然命令を發して、お寺の墓地の一切の水の表面を規則正しく一定の間を置いて、ケロシン油の薄皮で蔽へと云つたなら、世間の人は何んといふであらうかと自分は怪しむ。如何なる生物でもその生命(いのち)を奪(と)ること――眼に見えぬ生物の生命でも――それを奪(と)ることを禁ずる宗敎が、どうしてそんな布達に服從し得るであらうか。孝の念がそんな命令に同意することを夢想だもするであらうか。それにまた、東京の墓場にある幾百萬のミヅタメと幾千萬の竹の花立てとへ、七日目七日目に、ケロシン油を注ぎこむ勞働と時間との費へを考へて見給へ!………不可能なことである! この都市から蚊を取り去るには、古昔からの墓場を破毀[やぶちゃん注:「はき」。破棄・毀損と同じ。]しなければならぬことになるであらう。――といふ事は墓場に附隨して居るお寺の破滅といふことになるであらう。――そして、又それは、蓮池があつたり、梵字の記念塔があつたり、反り橋があつたり、神聖な木立があつたり、奇しき微笑を浮べて居る佛像があつたりする、あんなに多くの美しい庭園の消滅といふことになるであらう! だから、キユレツクス・フアスシアタスの根絕は祖先傳來の祭祀の詩美の破壞となることであらう――これは確かに餘りに高價な費用! である。……

 

 それにまた、自分は、自分があの世へ行く時節が來れば――自分の地下の友達が、明治の流行だの、變化だの、崩壞だのを少しも意に介しない、古い人達であるやうに――何處か昔風なお寺の墓場へ埋めて貰ひたいものと思つて居る。自分の庭の後ろの、あの古い墓地が適當な場處かと思ふ。あそこにある物はいづれも皆、異常な驚くばかりの珍奇といふ一種の美を有つて居るので美くしい。一木一石悉く、今生きて居るどんな頭腦にも、最早存在して居ない、或る古い古い理想が造つたもので、物の影さへ今時のもの、この今の太陽のものでは無くして、蒸汽或は電氣或は磁氣或は――ケロシン油! なるものを知らなかつた、今は人の忘れて居る或る世界のものである。それからまた、あの巨大な鐘のボオンと響く音には、自分の身體の十九世紀の部分凡てと、不思議なほど遠く距つて居る感情を――その感情が微かに盲目的に動くといふと自分には恐ろしい――美妙に恐ろしい――その感情を目覺ます一種古雅な音色がある。あの大波のやうな音を耳にするといふと、自分の魂の奈落の底に潛んで居るものが或る努力を試み、或る騷ぎを爲して居ることを――幾百千萬の生死の晦蒙[やぶちゃん注:「かいもう」。真理に冥(くら)く道理を弁えない愚かなこと。]を越えての光明に到達せんと悶えて居る記憶の如き感を――覺ぬえぬことは一度も無い。自分はあの鐘の聞える處にいつまでも居たいと思ふ。……そして、自分は食血餓鬼の境涯に入る運命を或は有つて居るかも知れぬと考へると、自分の孱細い[やぶちゃん注:「かぼそい」と訓じておく。「孱」は音「セン・サン」で、「弱い・劣る.・小さい」の意であるからである。]辛辣な歌をうたひながら、自分の知つて居る或る人々を囓みに、そつと出て行かれるやうに、竹の花筒かミヅタメかの中に再生する機會を有ちたい[やぶちゃん注:「もちたい」。]と思ふ。

[やぶちゃん注:小泉八雲とセツさんの比翼塚は雑司ケ谷霊園にある(リンク先は公式マップ(PDF)。㉔がそれ)。一九七九年三月、大学を卒業した私が、四年過ごした東京を去るに当たり、最初に訪れたのが、小泉八雲の墓(リツさんとの二基の夫婦墓であった)であった。後年の私の偽作「こゝろ佚文」(二〇〇五年作)の「上 先生と私 十三後 佚文一」の冒頭で、「先生」が霊園から出て来るが、則ち、私はKの墓の位置を秘かに小泉八雲の墓に設定したものであった。そこに「先生」と「私」の間に立ち現れる「男」を描いたが、それは無論、Kの霊なのである(実は「『東京朝日新聞』大正3(1914)年4月24日(金曜日)掲載 夏目漱石作「心」「先生の遺書」第五回」の私の注でも書いたが、実際の「こゝろ」の中にも、Kの亡霊が出るとする研究者が実は、いる)。則ち、学生たちから慕われた小泉八雲を結果的に追い払った形で後釜となったものの、学生たちから総スカンを食らって、怒って退職し、作家になった夏目漱石の、かの名篇「こゝろ」の、この拙作の偽作で、私は秘かに小泉八雲先生の仇を討ち、しかもKの霊を出すことで、実は幽霊を好まれた八雲先生へのオマージュとしたのであった。……これは、ここで初めて明かすことである。……しかも!……今日は奇しくも!……小泉八雲の命日であったのだった!!!――1904年9月26日(満54歳)――

小泉八雲 蟲の硏究 蝶 三・四 (大谷正信譯) / 蟲の硏究 蝶~了

 

[やぶちゃん注:本篇についての詳細は「小泉八雲 蟲の硏究 蝶 一 (大谷正信譯)」の私の冒頭注を参照されたい。]

 

 

       

 

 蝶に關した日本の物語の大半は、既に述べたやうに、支那起源のもののやうに思へる。だが、多分土產(どさん)かと思へるのが一つある。それは極東には『浪漫的な戀』は無いと信じて居る人達の爲めに語る價値があるやうに自分には思へる。

[やぶちゃん注:「土產」原文“indigenous”で「土着の・原産の・固有の」の意。]

 東京の場末の宗參寺といふ寺の墓地の後ろに、高濱といふ老人が住つて居た小さな一軒家があつた。愛想のいい人だつたので、近處の人に好かれて居たが、殆んど誰れもがこの男を少し氣が狂つて居ると思つて居た。僧侶の誓約をしたのならいざ知らず、人は誰れも結婚をするもの、そして一家を作るものと思はれて居る。處が高濱は宗敎生活を送つて居る人間ではなかつたのに、いくら勸めて妻を貰はうとはしなかつた。又、どんな女とも戀の關係のあつたことを聞いた者も無かつた。五十年以上全く獨身で暮して居たのである。

[やぶちゃん注:「宗參寺」原文“Sōzanji”。恐らく現在の東京都新宿区弁天町にある曹洞宗雲居山(うんござん)宗参寺(そうさんじ)グーグル・マップ・データでここ)と思われる。天文一三(一五四四)年創建と伝える。知られた江戸前期の儒者で兵学者の山鹿素行の墓があることで知られる。]

 或る年の夏、病氣に罹つて、自分は長くは生きて居れぬと知つた。そこで、後家になつて居たその義理の妹とその一人息子――高濱が好いて居た二十歲許りの靑年――とを呼びにやつた。二人は直ぐと來て、この老人の末期を慰めに出來る限りのことをした。

 或る蒸し暑い午後のこと、其後家さんと息子とが病床で看病して居るうちに、高濱は眠つた。と同時に非常に大きな白い蝶が一匹部屋へ這入つて來て、病人の枕へとまつた。甥は扇子で拂ひのけたが、直ぐ枕へ還つて來る。また逐つても、また歸つて來るばかりであつた。そこで甥は追つかけて庭へ出て、その庭を橫斷り[やぶちゃん注:「よこぎり」。]、開いて居た門を通り拔け、近處のその寺の墓地へ行つた。ところが、遠くへ追はれるのをいやがるやうに、いつも彼の前の處を飛び𢌞つて、いかにもその素振りが變なので、蝶だらうか、それとも魔だらうかと、不審に思ひ出した。またも追つかけて、ずつと墓地の中まで隨いて[やぶちゃん注:「ついて」。]行くと、とある墓を後ろにして――女の墓を後ろにして――飛んで居るのが見えた。すると不思議にもその姿が見えなくなつた。いくら探しても居ない。それからその石塔を調べて見た。あまり聞き慣れぬ姓と共にアキコといふ名が彫つてあつて、アキコといふは十八の歲に死んだといふことも彫つてあつた。見たところ、確かに五十年許りも前に立てた石塔らしかつた。苔がそれにつき出して居たのであつた。だが、よく世話がしてあつた。前には新しい花が供へてあり、水槽[やぶちゃん注:「みづをけ」。]の水は近い頃一杯にしたものであつた。

 病人の部屋へ歸つて來ると、その靑年は叔父が呼吸をしなくなつたと聽かされて吃驚した。死はこの眠つて居た男に苦痛無しに來たのであつた。死に顏は微笑して居た。

 靑年は墓地で見たことを、その母に語つた。

 『あ〻』と後家さんは叫んだ、『それでは、アキコだつたに違ひ無い』……

 『アキコつて誰れですか、おつかさん』と甥は訊ねた。

 後家さんが答へるには、

 『このお前の叔父さんの若い時分に、叔父さんは、近處の人の娘で、可愛いいアキコといふもの娘と許嫁(いひなづけ)なされた。が、結婚の約束の日のほんの少し前に、アキコは肺病で死んだので、その亭主になる筈のこの叔父さんは大變悲しまれた。アキコを埋めてから一生、妻は貰はぬと叔父さんは誓はれた。そしていつも墓に近く居れるやうに、あの墓地の近くに此小家を建てられたのだ。それは皆んな五十年よりもつと前の事だ。その五十年の每日每日――冬も夏も同じやうに――お前の叔父さんは墓地へ行つて、墓を拜んで、石塔を掃除して、その前へお供へ物をしてやられた。だが、人にその事を云はれるのが嫌ひで、一とこともその事を口にはされなかつた、……では、到頭、アキコが迎ひに來たのだ。あの白い蝶はアキコの魂だつたのだ』

[やぶちゃん注:この話、小泉八雲の聴き書きなのだろうか。原話があれば、是非、読みたい、しみじみとした私好みの話なのである。

「五十年よりもつと前の事」本作品集「怪談」(“ KWAIDAN: Stories and Studies of Strange Things ”)の刊行は明治三七(一九〇四)年四月であるから、この高濱が、あき子と死に別れたのは幕末、単純計算で安政元(一八五四)年「よりもつと前の事」、嘉永・弘化(一八四八年から一八四八年まで)の頃の事ととなる。

「叔父」は総て「伯父」の訳でないと設定と合わない。]

 

 

       

 

 も少しで書き忘れさうであつたが、古昔、宮廷で演ぜられた、蝴蝶のやうな服裝をした舞人が舞ふ蝴蝶の舞ひといふ古い舞ひが日本にある。今日でも時折、其舞ひが舞はれるかどうか、自分は知らぬ。餘程習ひにくい舞ひだといふ話である。本式に演ずるには舞人が六人要(い)る。特殊な恰好をして――足踏、姿勢、身振、一度一度凡て傳統的な規則に從つて――手鼓と太鼓、小さな笛と大きな笛、それから西洋のパンの知らぬ形の簫の音に合せて、極はめてゆるやかに互に旋り合うて――動作しなければならぬ。

[やぶちゃん注:「蝴蝶の舞ひ」の底本の傍点は「ひ」にはないが、おかしいので特異的に「ひ」も太字とした。なお、「一」の冒頭注で述べた通り、この本篇“BUTTERFLIES”の本文開始の前ページには、“butterfly dance”とキャプションした雅楽の胡蝶の舞の図を原本から(底本の訳書には載らない)。この舞楽については、ウィキの「胡蝶(舞楽)」を見られたいが、ここでは、You Tube TheAccessPower氏の、二〇一二年四月二十八日に伊勢神宮で催された(演奏・神宮楽師)「伊勢神宮 春季神楽祭2012 舞楽・胡蝶」の動画をリンクさせておく。

「旋り」「めぐり」「まはり」「かへり」の読みが出来る。孰れでも、いい気がする。ハイブリッドに読まれれば、最も、よかろう。前のリンクの動画を見ると、そんな気がしたのである。

 最後のパートの原文は“― and circling about each other very slowly to the sound of hand-drums and great drums, small flutes and great flutes, and pandean pipes of a form unknown to Western Pan.”であるが、ちょっと訳が逐語的に過ぎる。一九七五年恒文社刊の平井呈一氏の訳(「骨董・怪談」)では『羯鼓(かっこ)、大皷(おおかわ)、笛、簫、篳篥(しちりき)――西洋のパンの神などの存じもよらない形をした笛――などの音にあわせて、ごくゆるやかにめぐりながら舞うのである』と訳しておられ、日本語として躓かない。但し、敢えて言わさせ貰うと、『簫、篳篥――西洋のパンの神などの存じもよらない形をした笛――』の箇所は、『西洋のパンの神などの存じもよらない形をした笛』で、原文のその前が“small flutes and great flutesであるからには、“great flutesが「西洋のパンの神などの存じもよらない形をした笛」でなくてはならぬから、私は『簫、篳篥』ではなく、『篳篥、笙(しょう)』とすべきかと思う。

2019/09/25

小泉八雲 蟲の硏究 蝶 二 (大谷正信譯)

[やぶちゃん注:本篇についての詳細は「小泉八雲 蟲の硏究 蝶 一 (大谷正信譯)」の私の冒頭注を参照されたい。

 なお、多数掲げられる発句は底本では四字下げであるが、ブラウザでの不具合を考えて上に引き上げた。]

 

       

 蝴蝶に就いてのホツクの小蒐集は、この題目の審美的方面の日本人の趣味を說明する役に立つかも知れぬ。或る物はただ繪である――十七文字で出來て居る小さな色附けのスケツチである。或る物は一寸面白い思ひ付きか或は優雅な暗示かに他ならぬ。だが、讀者は變化を見出さるることであらう。讀者は或はこの詩句そのものは餘り好かれぬかも知れぬ。エピグラム風な日本の詩に對する趣味は徐徐に得なければならぬ趣味であつて、かかる作品の可能性を立派に評價の出來るのは、根氣づよい硏究の後、次第次第でなければならぬことである。十七文字の詩の爲めに辯護して何等眞面目な要求を爲すなど『途方も無いことだ』と輕卒な批評を下した人がある。然し、それではケエナの結婚饗宴譯註五の奇蹟を詠んだクレイシヨオの有名な句はどうだ。――

    おとなしのニムフ神見つ顏染めつ

 たつた十四綴音、しかも不朽の文字である。ところが日本の十七文字では、これと全く同じな不思議な事が――いや、もつと不思議な事が――一度や二度では無い、恐らく千度もこれまで爲されて居る。……とは云ふが、つぎに揭ぐるホツクには、これは文學的では無い理由で選擇したので、驚歎すべき處は少しも無い。

譯註五 新約約翰書第二章參照。

[やぶちゃん注:「エピグラム風な日本の詩」原文“The taste for Japanese poetry of the epigrammatic sort”。「エピグラム」(epigram)は「ある思想・見解・感懐を端的に鋭く表わした風刺的短詩・警句」を指す語。言わずもがな、「発句・俳句」を指している。

「綴音」「ていおん」或いは「てつおん」と読み、「二つ以上の単音が結合して生じた音」を指す。

「クレイシヨオ」リチャード・クラショー(Richard Crashaw 一六一六年~一六四九年)はイギリスの形而上派詩人・宗教詩人。ジョン・ダンの形而上詩などに比べると、内面の緊張や哲学的錯綜の深さに欠けるといわれることもあるが、イギリス文学ではバロック感覚を最大限に示す詩人である。そのイメージはカトリックの伝統に深く根ざし、十字架にかけられたキリストを想って涙するマグダラのマリアを「かの女(ひと)は燃える噴水か、はてまた涙する炎か」と形容し、涙の尽きない彼女の両の眼を「二つの歩く浴槽、二つの涙の動き/携帯用の簡便な二つの大海原」(詩「涙する人」から)と表現するように、感覚的、官能的な、身ぶりの大きいイメージを重厚に積み重ねて、カトリックの法悦境を歌い上げている(小学館「日本大百科全書」に拠った)。

「おとなしのニムフ神見つ顏染めつ」原文は“ Nympha pudica Deum vidit, et erubuit. ”でラテン語のオリジナル訳で示されてある。私が馬鹿なのか、この「十四綴音」という数え方が判らぬ(たまたま前の訳文は十四文字であるが、これは大谷の訳であって原文にはない)。識者の御教授を乞う。なお、これには以下の小泉八雲の原註が附されてある。

"The modest nymph beheld her God, and blushed." (Or, in a more familiar rendering: "The modest water saw its God, and blushed.") In this line the double value of the word nympha — used by classical poets both in the meaning of fountain and in that of the divinity of a fountain, or spring — reminds one of that graceful playing with words which Japanese poets practice.

訳してみる。

   *

「内気なるニンフは彼女の神を見、顔を赤らめた。」(又は、より判り易い表現で、「控えめなる水(の精)は、神を見、赤面した。」)この行にあって単語「nympha」の持つ二重の意味合い――その古典的詩人は現実の「泉」の意と、「泉や水の神性」或いは「春」の意味の、両方で、それを用いている――は日本の詩人らが、常の優雅な言葉の遊びとしている表現法を想起させる。

   *

「新約約翰書」は前の「日廻り」(田部隆次訳)の訳注に出たが、「新約」聖書の「約翰福音書(ヨハネふくいんしよ)」である。前後するが、本文の「ケエナの結婚饗宴」とは、「ヨハネによる福音書」の第二章にある、ガリラヤのカナに於ける婚礼の場でワインが無くなってしまったのを、キリストが六つの壺に水を入れさせ、瞬時に、それらを総てワインに変じさせた奇蹟を指し、先のクラショーの詩篇がそれをイメージして読まれていることを言っているのである。

 以下の発句の作者については、『小泉八雲 蟬 (大谷正信訳) 全四章~その「三」・「四」』及び小泉八雲 螢 (大谷正信訳)」で注した人物注は省略した。なお、「蝶」「蝴蝶」(=胡蝶)は春の季詞・季語。]

 

 脫ぎかくる羽織すがたの蝴蝶かな 乙 州

 

 鳥さしの竿の邪魔する蝴蝶かな  (讀人不知)

[やぶちゃん注:一九七五年恒文社刊の平井呈一氏の訳(「骨董・怪談」)では、作者を一茶と示してある。これは「文政句帖」所収の一句で、文政七(一八二四)年の作。そこでは、

 鳥さしの竿の邪魔する小てふ哉

 の表記である。]

 

 釣鐘にとまりて眠る蝴蝶かな   蕪 村

[やぶちゃん注:蕪村没(天明三(一七八四)年十二月二十五日)後の寛政一一(一七九九)年刊の丈左編「俳諧発句題苑集」に所収するものを発見した。そこでの表記は、

 釣鐘にとまりて眠る胡蝶哉

である。]

 

 寢るうちも遊ぶ夢をや草の蝶   護 物

[やぶちゃん注:谷川護物(たにかわごぶつ 安永元(一七七二)年~天保一五(一八四四)年)は伊勢の人。初め、井上士朗・高桑闌更の門に入り、後、江戸に出て鈴木道彦に学んだ。別号に田喜庵・鶴飛。]

 

 起きよ起きよ我が侶にせん寢る蝴蝶 芭 蕉

[やぶちゃん注:貞享四(一六八七)年(芭蕉四十四歳)或いは前年の作。数書には、

 起(おき)よ起よ我(わが)友にせんぬる蝴蝶(こてふ)

で出るが、真蹟短冊に、

    獨酌

 起よ起よ我友にせむ醉(よふ)蝴蝶

という異形(初案か)がある。例の荘子の話を諧謔した一句である。]

 

 籠の鳥蝶を羨む目付きかな  (讀人不知)

[やぶちゃん注:一九七五年恒文社刊の平井呈一氏の訳(「骨董・怪談」)では、作者を一茶と示してある。「文政句帖」所収の一句。文政六(一八二三)年作。そこでは、

 籠の鳥蝶をうらやむ目つき哉

の表記である。]

 

 蝶とんで風なき日とも見えざりき 曉 臺

 

 落花枝にかへると見れば蝴蝶かな 守 武

[やぶちゃん注:読みは「らつかえだにかへるとみればこてふかな」(歴史的仮名遣。今までもそうだが、小泉八雲の原本でのローマ字表記は殆んどが現代仮名遣に近く、ここ(原本。右ページ)も音写すれば「らっかえだにかえるとみればこちょうかな」である)。荒木田守武(文明五(一四七三)年~天文一八(一五四九)年)は室町時代の連歌・俳諧作者。伊勢内宮一禰宜(いちのねぎ)。連歌を宗祇・宗長・猪苗代兼載(けんさい)に学び、天文一〇(一五四一)年に「俳諧之連歌独吟千句」(守武千句)を詠み、山崎宗鑑とともに連歌から俳諧が独立する基礎を築いた立役者である。]

 

 散る花に輕さ爭ふ蝴蝶かな    春 海

[やぶちゃん注:青野(椿丘(ちんきゅう))太筇(たこう/たいこう/たきょう/たきゅう)輯「俳諧發句題叢 前編」のここに載る(「早稲田大学図書館古典籍総合データベース」の画像。右頁の六句目)。そこでは、

 ちる花にかるさあらそふ胡蝶哉

の表記で、俳号の右上に「江戶」と記す。編者太筇(明和元(一七六四)年~文政一一(一八二八)年)は江戸後期の俳人で下総香取郡出身。通称は慶次郎。今泉恒丸つねまる)に学び、小林一茶・夏目成美らと交わった。晩年は越後長岡と江戸で、半年ずつ暮らしたという。春海なる人物も並びから見て、同時代人である。]

 

 蝶々や女の足の後や先      素 園

[やぶちゃん注:「素園」は加賀千代女の法名で、別号としても用いたもの。こちらの「千代尼句集」(PDF)の「乾」の「蝶」の部に(「々」は踊り字「く」)、

 蝶々やをなごの道の跡や先

という別句形で見出せる。]

 

 蝶々や花ぬすびとを踉けて行く  丁 濤

[やぶちゃん注:原本では、確かに、

   Chōchō ya!

  Hana-nusubito wo

      Tsukete-yuku!

であるが、一九七五年恒文社刊の平井呈一氏の訳(「骨董・怪談」)では、

 蝶々や花ぬすびとをつけて行き  丁濤

と訂して(?)掲げてある。作者丁濤は不詳。]

 

 秋の蝶友なければや人に附く   可都里

[やぶちゃん注:五味可都里(ごみかつり 寛保三(一七四三)年~文化一四(一八一七)年)は甲斐の人。通称は宗蔵、益雄。別号に葛里・蕪庵・鶏鳴館など。加藤暁台・高桑闌更に学んだ。]

 

 追はれてもいそがぬふりの蝴蝶かな 我 樂

[やぶちゃん注:「我樂」不詳。]

 

 蝶は皆十七八の姿かな       三津人

[やぶちゃん注:松井三津人(みつんど ?~文政五(一八二二)年)は江戸中・後期の俳人。別号に月夜庵・落橙舎・不関居。大坂船町に住んだ。八千房駝岳(だがく)に学ぶ。]

 

 蝶とぶやこの代のうらみ無きやうに(讀人不知)

[やぶちゃん注:一九七五年恒文社刊の平井呈一氏の訳(「骨董・怪談」)でも作者を記さない。]

 

 蝶とぶや此世に望無いやうに   一 茶

[やぶちゃん注:「文化句帖」補遺所収。文化六(一八〇九)年作。

 蝶とぶや此世に望みないやうに

で載るが、「五とせ集」では、上五が変わり、

 飛蝶や此世に望みないやうに

とあり、文政版「一茶発句集」では、

 蝶とぶや此世の望みないやうに

とある。]

 

 波の花にとまりかねたる蝴蝶かな 文 晁

[やぶちゃん注:江戸後期の画家として知られる谷文晁(宝暦一三(一七六三)年~天保一一(一八四一)年)であろう。江戸出身。通称は文五郎、別号に写山楼・画学斎など。狩野派・土佐派・南宗画・北宗画・西洋画などの手法を採り入れ、独自の画風を創出して江戸文人画壇の重鎮となり、田安徳川家に仕え、松平定信編「集古十種」の挿絵も描いた。渡辺崋山ら、優れた門人も多い。彼は発句も嗜んだ。この句も絵描きらしい視点で詠じているのが窺われる。]

 

 睦しや生れかはらば野邊の蝶   一 茶

[やぶちゃん注:「七番日記」所収。文化八(一八一一)年作。そこでは、

 むつましや生れかはらばのべの蝶

の表記。]

 

 撫子に蝶々白し誰の魂      子 規

[やぶちゃん注:「誰の魂」は「たれのこん」。明治二八(一八九五)年作。季語「撫子」で「夏」。「須磨古跡」と前書する。]

 

 一日の妻と見えけり蝶二つ    蓼 太

[やぶちゃん注:「蓼太句集 二編」所収。]

 

 來ては舞ふ二人靜の蝴蝶かな   月 化

[やぶちゃん注:広瀬月化(延享四(一七四七)年~文政五(一八二二)年)。豊後国日田(現在の大分県日田市)出身。商家広瀬氏(元は筑前福岡黒田藩の武士)第四代当主で名は貞高。通称は平八。俳号は桃潮・静斎・月下・秋風庵など。当初は其角門下の淡々の流れを学んだが、後に大島寥太に私淑し、蕉風へと移った。甥に著名な儒学者広瀬淡窓がいる。「二人靜」は実景としてはセンリョウ目センリョウ科チャラン属フタリシズカ Chloranthus serratus の、四月から六月に咲く花(茎の先に数本(二本の場合が多い)の穂状花序を出して小さな白い花をつける)であるが、その和名が、この花序を能楽「二人静」の、静(しずか)御前と、その亡霊の舞姿に喩えたものであるように、ここも花と蝶をそれにオーバー・ラップさせていると読むべきであろう。]

 

 蝶を追ふ心もちたしいつまでも  杉 長

[やぶちゃん注:医師で俳人の井上杉良(さんりょう(推測) 明和七(一七七〇)年~文政一一(一八二八)年)の辞世の句とされる。個人ブログ「半坪ビオトープの日記」のこちらの記事に、千葉の野島崎灯台の近くの白浜海洋美術館の『入り口の岩の上に「杉長墳」なる石碑がある。杉長とは俳人井上杉良』『のことで、江戸で俳諧を学び、家督の医業も継いだ。小林一茶とも親交があり、松平定信の侍医も勤めたことがある。辞世の句は「蝶を追ふ心もちたしいつまでも」という』。五十九『歳で桑名にて没したあと、門人らによりこの地に「杉長墳」が建立された』とあるのに拠った。]

 

 蝶に關した詩の如上の見本の外に、同じ題目での、日本の散文學の珍らしい實例の提供したいのが一つある。自分はただ、其自由譯を試みたのだが、原文はムシイサメ(蟲諫)といふ珍奇な古本に見出すことが出來るもので、これは蝶に向つて談論をして居る形式を採つたものである。然し實際は、社會の浮沈の道德的意義を暗示した、敎訓的譬喩談である。――

[やぶちゃん注:「ムシイサメ(蟲諫)」不詳。或いは、国立国会図書館の書誌データにある江村北海(正徳三(一七一三)年~天明八(一七八八)年)作の随筆「虫の諫」(全三巻・宝暦一二(一七六二)年板行)のそれか? 判らぬ。である。【2025年3月31日追記】今回、再校訂の中で調べたところ、揖斐高他五名の方の共同論文「国立国会図書館所蔵『虫の諫』 ─ ─翻刻と解題─ ─」(『成蹊人文研究』第三十一号(2023年)発行所収・PDF)で原文が確認でき、間違いないことを確認出来た。個人的には、理知の巧知は認めるが、これでもかという波状的なイカにもな換喩警句の機銃掃射は、途中でイヤ味を感じさせて、好きになれない。今どきのハナで笑うチョウチョウ発止の若者なら、面白がるであろうが。

 

 『さて、春の日の下に、風は穩かに、花は淡紅ゐに咲き、草は軟かく、人々の心は喜ばしい。蝶は到る處に嘻嘻として翔けり飛ぶ。如何にも多くの人が或は漢詩に、或は和歌に蝶のことを詠む。

 『そして今の季節は、嗚呼蝴蝶よ、實にお前の幸福繁榮の季節だ。實に今はお前は美しくて、全世界にお前ほど美はしいものは無い程だ。その爲めに他の蟲が、皆んなお前を賞めて羨む。お前を羨まぬものは一人もありはせぬ。また蟲だけがお前を羨むのでは無い、人間もお前を羨んで賞める。支那の莊周は、夢にお前の姿を採つた。日本の佐國は死んでからお前の姿を執つて、幽靈になつて現れた譯註六。お前が起こす羨みの念は、ただ、蟲と人間とが有つて[やぶちゃん注:「もつて」。]居るだけでは無い。魂の無い物まで、その形をお前の姿に變へる。――大麥を見よ、蝶に成るでは無いか譯註七

譯註六 發心集に『佐國愛華成蝶事』といふ題にて人の蝶となりし記事あり。

譯註七 搜神記に『朽葦爲螢、麥爲蝴蝶』とあり。

[やぶちゃん注:「發心集」(鴨長明(久寿二(一一五五)年~建保四(一二一六)年)晩年の仏教説話集)の巻一の第八話目「佐國愛華成蝶事 六波羅寺幸仙愛橘木事」(佐國(すけくに)、華を愛し、蝶となる事 付(つけたり) 六波羅寺、幸仙、橘木(きつぼく)を愛する事」の主話部。画像で入手した和綴じ本「長明發心集」(慶安四(一五五一)年版)を視認し、カタカナをひらがなに直し、漢文読みは訓読し、難読箇所の読みのみを補い(読みを本文に出した箇所もある)、段落を成形したものを以下に示す。歴史的仮名遣の誤りは原本のママ。踊り字「く」は正字化した。濁点を一部に添えた。

   *

 或る人、圓宗寺(ゑんさうじ)の「八講(はつかう)」[やぶちゃん注:法華八講。延久四(一〇七二)年に始められた。]と云ふことに參りたりけるに、時待つほど、やゝ久しかりければ、其のあたり近き人の家をかりて、且(しばら)く立ち入りたりけるが、かくて、其の家を見れば、つくれる家(いゑ)の、いと廣くも非(あら)ぬ庭、前栽(せんざい)をゑもいはず、木共(きども)うへて、うへに假屋(かりや)のかまへをしつゝ、聊(いさゝ)か水をかけたりけり。

 色々の花、かずをつくして、錦をうちをほへるが如く見えたり。

 殊(こと)に、さまざまなる蝶、いくらともなく遊びあへり。

 事(こと)ざまの、有難(ありがた)く覚へて、わざと[やぶちゃん注:わざわざ。]あるじをよび出でゝ、此の事を問へり。

 あるじの云ふ樣(やう)、

「是れは、なをざりの事にも非ず。思ふ心ありてうへて侍(はん)べり[やぶちゃん注:以下総て読み同じ。]。をのれは、佐國[やぶちゃん注:大江佐国(生没年未詳)。大江道直の子。従五位下掃部頭。漢詩人として知られた。]と申して、人に知られたる博士(はかせ)の子にて侍べり。彼(か)の父、世に侍べりし時、ふかく花を興(けう)じて、折りにつけて、これを翫(もてあそ)び侍べりき。且(かつ)は、その心ざしをば詩にも作れり。

『六十餘國、見れども、未だ、あかず。他生(たしやう)にも、定めて花を愛する人、たらん。』

なんど、作り置きて侍べりつれば、

『自(おのづか)ら、生死(しやうし)の會執(ゑしう)にもや罷(まか)り成りけん。』

と、疑はしく侍りし程に、ある者の夢に、

『蝶に成つて侍る。』

と、見たる由(よし)を語り侍べれば、罪深く覚へて、

『然(しか)らば、若(も)し、これらにもや、迷ひ侍べるらむ。』

とて、心の及ぶ程、うへて侍る也。其れにとりて、唯(たゞ)、花ばかりは、なほ、あかず侍べれば、「あまづら蜜(みつ)」[やぶちゃん注:蔓性植物の一種とされる甘葛(あまずら)から採った甘い液体。当時、甘味料として使用していたという。]なんどを、朝ごとにそゝぎ侍べる。」

とぞ、語りける。

   *

「搜神記」六朝時代の志怪小説。全二十巻。東晉の歴史家干宝(三一七年頃に在世)の著。以下は第十二巻の冒頭に配された、著者自身による化生(けしょう)的な自然の変化の摂理を述べた部分に出る。

   *

故腐草之爲螢也、朽葦之爲蛬[やぶちゃん注:「きやう」。コオロギ。]也、稻之爲也、麥之爲蝴蝶也。羽翼生焉、眼目成焉、心智在焉。此自無知化爲有知、而氣易也。

   *]

 『だから、お前は高慢になつてかう思つて居る。「およそ此世に自分に優るものは何も無い」お前の心の中は大抵推察が出來る。お前は自分の身に滿足し過ぎて居る。だからこそ、お前はどんな風にも輕輕と吹かれて飛んで居るのだ。だから、お前は、いつも、いつも、「およそ此世に自分ほど、幸福な者は無い」と考へて――ちつとも、ぢつとしては居ないのだ。

 『だが、お前の身の生立ちを少し考へて見たらよからう。懷ひ出して見る價値がある。お前の生立ちには下等な方面があるのだから。どうして下等な方面なんかとお前は云ふだらう。うん、お前が生れてから後隨分と長い間、お前の姿を嬉しがるやうな、そんな理由はちつとも無かつたのだ。其時分はお前はただの菜蟲、毛の生えた地蟲だつた。お前は裸身を蔽ふ一枚の著物さへ有てぬ位に貧乏だつた。そしてお前の姿は實に胸が惡るくなるやうなものだつた。其時分には誰れもお前を見ることをいやがつた。實際自分を恥づかしがるのは尤もだつた。お前は恥づかしさの餘り、其中へ隱れるやうに小枝や屑を集めて、隱れ場を造つて、それを枝へ吊るした。すると皆んなが「蓑蟲だ、蓑蟲だ」とお前を囃し立てたものだ。そして又お前の一生のうちの其時代は、お前の罪は實に深いものだつた。美しい櫻の木の柔かい靑葉の間へお前や、お前の朋輩が集つて來て、何んとも云へぬ醜い樣を見せた。櫻の美しさを讚めに遠方から來た、當てにして居た人達の眼はお前達を見ていやに思つた。それから、これよりももつと惡るい位な罪をお前は犯して居る。お前は知つてゐよう、貧乏な貧乏な男ども女どもが、その畠で大根を栽培して居たことを。その大根の世話をしなければならぬので、皆んなの心は辛い苦しいと思ふ念で一杯になる位、暑い日の下で骨折つて働いて動いて居たことを。だのに、お前は朋輩に勸めてお前と一緖にその大根の葉の上に、それからその貧乏な人達が植ゑた他の野菜の葉の上に集まらせた。そしてお前の貪慾から其葉を荒らし、それを囓んで色んな醜い形にした――その貧乏人の苦勞を少しも顧みずに。……さうだ、そんな者だつたお前は、そんなことをお前はしたのだ。

 『處が、今は美くしい姿をして居るものだから、舊友を、蟲を、お前は輕蔑する。そして偶〻其うちの誰れかに遇ふと、いつもお前は知らぬ顏をする。今はお前は友人に金のある、地位の高い人だけを有たう[やぶちゃん注:「もたう」。持とう。]とする。……噫[やぶちゃん注:「ああ」。]、お前は古昔を忘れたのだ。え、さうかい。

 『尤も、お前の過去を忘れて、今のお前の優しい姿や、白い翅を見て魅せられて、お前のことを詩につくつたり、歌に詠んだりする人が澤山にある。お前の前の姿であつたなら、お前を見ることさへ到底も出來なからうと思へる位の少女が、今は喜んでお前を眺め、自分の簪にとまつで吳れればいいと思ひ、降(お)りてとまつて吳れるかと、その綺麗な扇子を差し出したりされる。さう云へば想ひ出すが、お前に就いての支那の古い話がある。いい話ではない。

 『玄宗皇帝の御世に、宮中には幾百幾千といふ美しい婦人が居られた。餘りに數が多いので、そのうち誰れが一番可愛らしいか、誰れにもそれを極めることが六つかしい位だつた。そこでその美しい人を皆んな一と處へ集められた。そしてその中へお前を放して飛ばせられた。お前がその人の簪の上へとまつた少女を帝(みかど)のお部屋へお召しになることに定められた。その時分、妃は二人あつてはならぬことになつて居た。それは結構な律(おきて)であつた。ところが、お前の爲めに、玄宗皇帝は其國へ非常な禍ひを加へられた。といふのは、お前の心は輕くで不眞面目だ。そんなに澤山の美しい女の中に、心の淸い人が幾人かあつたに相違ないのに、お前は美しいことだけ見ようとした。そこで、お前は外觀(みかけ)が一番に美くしい人の處へ行つた。其爲め近侍の女達の多くは、婦人の履むべき[やぶちゃん注:「ふむべき」。]正しい道を考へることは全く止めて、男の眼に美くしく思へるやうにするにはどうしたらと、そればかり考へるやうになつた。そしてその結末は、玄宗皇帝は痛ましい、憫れな死に方をなされることになつた。これ皆お前の輕薄不眞面目な心からのことだ。實際、お前の本當の性質は、他の事でのお前の行狀から容易く見ることが出來る。例を舉げて云ふと、樹木――常磐[やぶちゃん注:「ときは」。]の樫とか松とかいうやうな、葉が枯れたり落ちたりしないで、いつも靑靑として居る樹木がある。こんな木は情(こころ)のしつかりした木だ。堅固な性質をもつ木だ。ところがお前は、あの木は頑固で四角張つて居ると言ふ。そしてお前はそれを見るのを嫌つて一度も訪ねない。櫻と、海棠と、芍薬と、黃薔薇とだけへ行く。見榮のいい花の咲く木だから、お前はそんな木が好きなので、しかもそれをただ悅ばせようとだけする。そんな行爲は、わしは斷言するが、誠に不都合だ。この木どもは、美しい花を著けるには著けるが、飢ゑを充たして吳れる實は結ばず、贅澤や虛飾の好きな人だけに感謝して居る。お前の羽ばたく翅や花車な[やぶちゃん注:「きやしや」。華奢に同じい。]姿をその木共が喜ぶのはその爲めだ。お前に對して深切なのは全くその爲めだ。

 『ところで、この春の季節に、お前は富者(かねもち)の庭をじやれて踊り步いたり、花盛り櫻の美しい小路の中をさまよつたりしながら、かう思つて居る。「この廣い世界に、自分ほどの愉快を有つて居るもの、自分が有つて居るやうな立派な友達を有つて居る者は一人もおりはせぬ。そして人が何んと云はうとも、自分は芍薬が一番好きだ、――それから金色の黃薔薇は自分獨りの寵人(おもひもの)だ。どんな一寸した命令(いひつけ)も皆んな聽いてやらう。あれは自分の自慢もの、自分の好きな奴だから」さうお前は云ふ。だが、花の裕かな美しい季節は極く短かいものだ。直ぐに枯れて落ちる。すると、夏の暑い頃には、靑葉だけになる。やがて秋風が吹くと、その葉すらも雨のやうにパラリパラリと落ちる。そしてお前の運命はさうなると、タノムキノモトニアメフルといふ諺の中にある不幸な人間の運命と同じにならう。といふ譯は、お前は舊友を、根を切る蟲を、地蟲を、探して、昔の穴へ歸らせて吳れと賴むだらう。ところが今、お前は翅を生やして居るから、翅のあるが爲めに、穴へ這入ることが出來ぬ。また天地の間、何處へも身を隱すことが出來ぬ。そしてその時分には沼草も皆んな枯れてしまつて居て、お前は舌を潤ほす一滴の露も吸ふことが出來なからう。――するとお前には仆れて死んでしまふほか爲(す)ることが殘つて居らぬことにならう。これ凡てお前の輕薄不眞面目な心の致す處だ。――噫、何んといふ憫れな最期だらう!』……

[やぶちゃん注:現代の生物学から考えると、狭義の蝶でない蓑虫の箇所などに、やや問題はあるものの、当時の倫理的見解からは、市井の人は横手を打つものでは、ある。
「タノムキノモトニアメフル」原文は“ Tanomi ki no shita ni ame furu [Even through the tree upon which I relied for shelter the rain leaks down]  ”。諺で「賴む木(こ/き)の下(もと)に雨漏(も)る」が一般的。「折角、木蔭に雨宿りしたにも拘わらず、その甲斐もなくそこにも雨がひどく漏ってくる」から、「頼みにしていたにも拘わらず当てが外れること」の意。]

小泉八雲 蟲の硏究 蝶 一 (大谷正信譯)

 

[やぶちゃん注:本篇(原題“ BUTTERFLIES ”)は明治三七(一九〇四)年四月にボストン及びニュー・ヨークの「ホートン・ミフリン社」(BOSTON AND NEW YORK HOUGHTON MIFFLIN COMPANY)から出版された、恐らく小泉八雲の著作の中で最も日本で愛されている作品集「怪談」(原題“ KWAIDAN: Stories and Studies of Strange Things ”。来日後の第十作品集)の最後に配された「蝶」・「蚊」・「蟻」三篇からなる第十八話“ INSECT STUDIES ”の第一番目の話である。なお、小泉八雲はこの年の九月二十六日に五十四歳で心臓発作により急逝した。

 同作品集は“Internet Archive”のこちらで全篇視認でき(リンク・ページは挿絵と扉標題。以下に示した本篇はここから。なお、この前のページには“BUTTERFLY DANCE”とキャプションした雅楽の胡蝶の舞の図が載る。原本の挿絵の英文解説中には“Keichū Takéunouchi”とあるが、これは浮世絵師・挿絵画家であった武内桂舟(たけうちけいしゅう 文久元(一八六一)年~昭和一七(一九四二)年)のことではないかと疑う(彼であればパブリック・ドメインである)。以下に挿絵を示しておく。上記原本画像(PDF)自体からは何故か絵が取り込めないため、プリント・スクリーンを行い、加工ソフトでトリミングし、演者外の余白部分の汚点は清拭した。なお、この舞楽についてはウィキの「胡蝶(舞楽)」を見られたい)、活字化されたものは“Project Gutenberg”のこちらで全篇が読める本篇はここ)。

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 底本は上記英文サイト“Internet Archive”のこちらにある画像データをPDFで落し、視認した。これは第一書房が昭和一二(一九三七)年一月に刊行した「家庭版小泉八雲全集」(全十二巻)の第八巻全篇である。★【2025年3月30日底本変更・前注変更】時間を経て、国立国会図書館デジタルコレクションに本登録し、現行では、以上の第一書房版昭和六(一九三一)年一月に刊行した「學生版小泉八雲全集」(全十二巻)の第七巻が、国立国会図書館デジタルコレクションで公開されてある。(リンクは扉だが、「學生版」の文字はない。しかし、奥附を見て貰うと『學生版 【第二囘豫約】』とあり、『昭和六年一月十日 發行』とあることが確認出来る)、 これが、前掲の底本と同じものであるが、やはり、外国のサイトのそれを底本とするのは、日本人小泉八雲に失礼であると考えた。されば、こちらで、再度、以下の「骨董」の作品群を改めて校正することとする。これが――私の小泉八雲への「義」――である。なお、之よりも前の元版の全集等が先行しているものの、私がそれらと比べた結果、実は先行する同社の「小泉八雲全集」のそれらは、訳が一部で異なっており、訳者等によって、かなりの補正・追加がされていることが、今回の正字補正作業の中で、はっきりと判って来た。いや、同じ「家庭版」と名打ったネット上の画像データでも、驚いたことに、有意に異なっていたのである。そうした意味でも――完全な仕切り直しの総点検――が必要であると決したものである。従って、旧前振りの括弧・鍵括弧の問題も、拡大とガンマ補正で確認し、正確を期する。総標題はここで、本作はここから。

 訳者大谷正信氏については、「小泉八雲 燒津にて 大谷正信譯」の私の冒頭注を参照されたい。

 傍点「﹅」は太字に代えた。最後に纏めて字下げポイント落ちである訳者注は、適切な箇所に同ポイントで、引き上げて附した。

 なお、本篇「蝶」は四章からなり、注を附し始めたところ、長くなりそうなので、章で分割して公開することとした。]

 

 

    蟲 の 硏 究

 

 

  

 

       

 日本文學には廬山譯註一にといふ名で知れて居るあの支那の學者の幸運を、自分は希望出來ればと思ふ! 十日每に訪ねて來ては蝶の話をして吳れた、天人であつた、靈の少女二人に愛せられて居たからである。處で、支那には蝶に關した不思議な物語――靈的な物語――があるので、自分はそれが知りたいのである。だが、永久自分は支那文を、いや日本文すらも、讀む事が出來なからう。それで自分が非常な困難をして、どうにかして飜譯しようとする僅かの日本詩歌にも、支那の蝶物語を引いて居るところが甚だ多いので、自分はタンタラスの苦に苦しめられて居るのである。……そして、固よりの事、自分のやうな懷疑的な男をいつか訪ねて吳れるやうな靈の少女は一人もあるまい。

譯註一 廬山は劉子鄕とあるべきもの。稽神祕苑に『劉子鄕居廬山。有五綵雙蝶、遊花上、其大如燕、後化二女、來号歡、云云」とある。

[やぶちゃん注:底本では「!」の後に字空けはないが、今まで通り、躓くので、入れた。

「稽神祕苑」は無名氏撰で、宋代以前に書かれた呉楚地方の伝承を記したものとされる。当該書からの引用は探せなかったが、中文サイトで「太平廣記」の「神五」に以下の「劉子卿」を見出せた。原拠は「八朝窮怪錄」とある。一部の漢字を正字化した。

   *

宋卿子卿。徐州人也。居廬山虎溪。少好學、篤志無倦。常慕幽閑、以爲養性。恆愛花種樹、其江南花木。溪庭無不植者。文帝元嘉三年春、臨翫之際、忽見雙蝶、五彩分明、來游花上、其大如鷰、一日中、或三四往復。子卿亦訝其大。九旬有三日、月朗風淸。歌吟之際、忽聞扣扃、有女子語笑之音。子卿異之、謂左右曰、「我居此溪五歲、人尙無能知、何有女子而詣我乎。此必有異。」。乃出戶、見二女。各十六七、衣服霞煥、容止甚都。謂子卿曰、「君常怪花間之物。感君之愛、故來相詣、未度君子心若何。」。子卿延之坐、謂二女曰、「居止僻陋、無酒叙情。有慙於此。一女曰、「此來之意、豈求酒耶。況山月已斜、夜將垂曉、君子豈有意乎。子卿曰、「鄙夫唯有茅齋、願申繾綣。」。二女東向坐者笑謂西坐者曰、「今宵讓姊。餘夜可知。因起、送子卿之室。入謂子卿曰、「郎閉戶雙棲、同衾並枕、來夜之歡、願同今夕。」。及曉、女乃請去。子卿曰、「幸遂繾綣、復更來乎。一夕之歡、反生深恨。」。女撫子卿背曰、「且女妹之期、後卽次我。將將原作請。據明鈔本改。出戶、女曰、「心存意在、特望不憂。」。出戶不知蹤跡。是夕二女又至、宴如前。姊謂妹曰、「我且去矣。昨夜之歡。今留與汝。汝勿貪多誤、少惑劉郞。」。言訖大笑、乘風而去。於是同寢。卿問女曰、「我知卿二人、非人間之有。願知之。」。女曰、「但得佳妻、何勞執問。乃撫子卿曰、「郞但申情愛、莫問閑事。」。臨曉將去、謂卿曰、「我姊實非人間之人、亦非山精物魅、若說於郞、郞必異傳、故不欲取笑於人代。今者與郞契合、亦是因緣。慎跡藏心、無使人曉。卽姊妹每旬更至。以慰郞心。」。乃去、常十日一至、如是數年會寢。後子卿遇亂歸鄕、二女遂絕。廬山有康王廟。去所居二十里餘。子卿一日訪之、見廟中泥塑二女神。幷壁畫二侍者。容貌依稀、有如前遇、疑此是之。

   *

「タンタラス」原文“Tantalus”。古代ギリシア語のラテン転写では“Tántalos”。タンタロス。ギリシア神話の神でゼウスの息子。シピュロス山の王であったが、罪を犯したために地獄に落され、永劫の罰を受けている。罪については諸説あるが、ピンダロスは神々の食卓から神聖な食物(アンブロシアとネクタル)を盗んでそれを人間に与えたからとする。ホメロスを始め、多くの詩人は、地獄に落された彼は飢えと渇きに苦しめられ、池の中に首までつかりながら、水を飲もうとすれば、水はさっと引いてしまい、また、頭上には、たわわに成った豊かな果樹の枝が垂れ下がっているが、実に手を伸ばすと、風がその果実を攫ってゆくとされる。また、ピンダロスによると、彼の頭上には大石がまさに落ちようとしており、彼は常に大石に押しつぶされる恐怖に憑りつかれているとされる(「ブリタニカ国際大百科事典」に拠る)。]

 例を舉げて云へば、その女を蝶が花だと思つて、群を爲して後を追つた――それ程に匀ひ香んばしく又美はしかつたといふ、あの支那の少女の身の上總てが知りたい。それからまた、蝴蝶[やぶちゃん注:「胡蝶」に同じ。蝶の異名。]に自分の愛人を選ばせたといふ玄宗皇帝卽ちミン・ヒソン帝の蝶譯註二に就いてもつと知りたいものだと思ふ。……帝はその驚くべき庭園でいつも酒宴を催された。それには非常に美しい婦人が侍んべつて居た[やぶちゃん注:「ん」ママ。]。そして籠に入れてある蝶をその美人の間へ放たれると、蝶はその中の一番美しい婦人の處へ行つてとまる。するとその一番美しい婦人へ帝の寵は與へられるのであつた。ところが、玄宗皇帝が楊貴妃(支那人はヤン・クエイ・フエイと呼ぶ)を眼にせられてからといふもの、蝶に愛人を選ばせることをさせられなかつた。――それは不幸な事であつた、楊貴妃が帝を非常な困難へ陷らしめたから。……それからまた、日本では莊周といふ名で有名な支那の學者が、自分が蝶になつた夢を見、その夢の裡で蝶が有つあらゆる[やぶちゃん注:ママ。「有」(あり)とあらゆる」の誤植であろう。]感じを經驗したといふ、その經驗に就いてもつと知りたいものだと思ふ。この人の精神は實際、蝶の姿になつてさまよひ步いたのであつた。それで眼が覺めた時、蝴蝶生活の記憶や感情がその心中に餘りに生き生きと殘つて居たので、人間のやうな行爲が出來なかつたといふことである。……最後に自分は種種な蝶をば或る皇帝とその從者との靈魂だと認めた支那の或る公認の原文を知りたいものだと思ふ。

譯註二 開元遺事に『明皇宮中春宴、令妃嬪各插額花、帝親捉粉蝶放之、隨蝶所止幸之、謂元蝶、幸柳妃、專寵、不復此戲』とあり。

[やぶちゃん注:「ミン・ヒソン帝」これは音写訳がおかしい。原文は“Ming Hwang”で、玄宗は「唐明皇」とも呼ばれたが、これはその「唐」を除いた「明皇」の中国音を示したものであり、音写するなら、「ミィン・ファン」である。

「開元遺事」「開元天寶遺事」。盛唐の栄華を物語る遺聞を集めたもの。五代の翰林学士などを歴任した王仁裕(じんゆう 八八〇年~九五六年)が後唐の荘宗の時、秦州節度判官となり、長安に至って、民間に伝わる話を収集し、百五十九条を得て、本書に纏めたという。但し、南宋の洪邁(一一二三年~一二〇二年)は本書を王仁裕の名に仮託したものと述べている。玄宗・楊貴妃の逸話を始め、盛唐時代への憧憬が生んだ風聞・説話として味わうべき記事が多い(小学館「日本大百科全書」に拠る)。以下は、調べたところ、同書の巻一に、

   *

開元末、明皇每至春月、旦暮宴於宮中、使妃嬪輩爭插艷花。帝親捉粉蝶放之。隨蝶所止幸之。後因楊妃專寵。遂不復此戲也。

   *

とあるのと一致する。

「ヤン・クエイ・フエイ」原文“Yang-Kwei-Fei”。「楊貴妃」は音写するなら「イァン・グゥェイ・フェィ」である。

「莊周……」以下は私の偏愛する「莊子」(そうじ)の「內篇」の「齊物論」にある有名な以下である。

   *

 昔者、莊周、夢爲胡蝶。栩栩然胡蝶也。自喻適志與。不知周也。俄然覺、則蘧蘧然周也。不知周之夢爲胡蝶與、胡蝶之夢爲周與。周與胡蝶。則必有分矣。此之謂物化。

 昔者(むかし)、莊周、夢に胡蝶と爲る。栩々然(くくぜん)として胡蝶なり。自(みづか)ら喻(たの)しみて志に適(かな)ふか、周なることを知らざるなり。俄然として覺むれば、則ち、遽々然(きよきよぜん)として周なり。知らず、周の夢に蝴蝶と爲るか、蝴蝶の周と爲るか。周と蝴蝶と、必ず、分(ぶん)、有らん。此れを「物化(ぶつか)」と謂ふ。

   *

・「栩々然」嬉しげに楽しむ様子。・「遽々然」明白なはっきりとした見かけ上のさま。・「必ず、分(ぶん)、有らん」まあ、見かけ上は区別はあることはあるといった軽くいなした謂い。・「物化」万物の変化など実際には本質の絶対的な変化などはない、荘周と蝶は一如(いちにょ)という境地を示すための、「見かけ上の下らない物の変化現象」を指している。

「種種な蝶をば或る皇帝とその從者との靈魂だと認めた支那の或る公認の原文」私は不学にして知らない。識者の御教授を乞う。]

 

 蝴蝶に關する日本文學の大半は、僅かの詩歌を除いて、支那起源のものであるらしい。日本の藝術や歌や習慣にあんなに愉快に表現されて居る此題目に就いてのあの古い國民的審美感情すらも、初めは支那の敎への下に啓發されたものかも知れぬ。日本の詩人及び晝工が、そのダイメイ[やぶちゃん注:「代名」。雅号。]卽ち職業上の稱呼に、テフム(蝶夢)イツテフ(一蝶)といふやうな名をあんなに屢〻好んだのは、支那に先例があつたからだといふので、確かに說明が出來る。そして今日に至るまで、テフハナ(蝶花)テフキチ(蝶吉)・テフノスケ(蝶之助)といふやうな源氏名を藝者が好んで用ひて居る。蝴蝶に同係のある源氏名のほかに、そんな種類の實際の名(ヨビナ)[やぶちゃん注:ルビではなく、本文。]――「蝴蝶」といふ意味のコテフ或はテフといふやうな――が今なほ用ひられて居る。そんな名は、槪して女だけが有つて居る、――尤も珍らしい例外はあるけれども。……そして此處へ書いてもよからうと思ふが、陸奧の國では、一家の末娘をテコナと呼ぶ珍奇な古い習慣が今なほ存在して居る。他では癈語になつて居るこの奇妙な語は、陸奥の方言では蝶といふ意味である譯註三。古典時代にはこの語はまた、美女といふ意味も有つて居た。……

譯註三 倭訓栞に『てふ蝶をよむは音なり。相模下野[やぶちゃん注:「しもつけ」。]陸奧にてテフマ津輕にカニベ又テコナ云云』とあり。

[やぶちゃん注:「僅かの詩歌を除いて、支那起源のものであるらしい。日本の藝術や歌や習慣にあんなに愉快に表現されて居る此題目に就いてのあの古い國民的審美感情すらも、初めは支那の敎への下に啓發されたものかも知れぬ」ここで「僅かの詩歌を除いて」と小泉八雲が言っているのは、「万葉集」に蝶を対象物として実詠したものが一首もないことを意識しているものと思われる。則ち、「万葉集」の時代以前の日本人の「古い國民的審美感情」は、「支那の敎への下に啓發されたもの」でない、特殊な忌避感情が働いていたことの証左であると私は思う。空中を美しくも妖色を呈して浮かぶように飛ぶ軽い、眼につく不思議な生きものとしての蝶は、後で小泉八雲が述べる通り、人間の魂(生きた人間から離脱した幽体或いは死者の霊魂)として強く意識された結果としての忌避が形成されていたと考えてよい。京では、古くは、死者の遺体は郊外の野原に風葬されたり、不十分に土葬されたが、そうした領域は、蝶が、市中より、より群舞する環境にあり、また、一部の蝶は、遺体に群がることさえもあったからかも知れぬ。そうしたネガティブな「囲い込み」があれば、蝶が和歌からは厭避されて不思議でない。無論、以後、漢籍の多量の流入によって、「支那の敎への下に啓發された」本邦の蝶に対する逆ベクトルとしての嗜好的「國民的審美感情」が形成されたとする論説は少しも誤ってはいないと言える。いや、小泉八雲自身、後段で、もっと古くには、ポジティヴな、或いは、フラットな霊的認識があって、「そんな信仰は或は支那そのものよりも古いものかも知れぬ」とも述べているのである。

「蝶夢」知られたところでは、江戸中期の時宗僧で蕉門の流れを汲む俳人蝶夢(享保一七(一七三二)年~寛政七(一七九六)年)がいる。名は九蔵。号は洛東・五升庵・泊庵など。京出身で京都帰白院の住職。当初は其角系の門人であったが、後に支麦(美濃派・伊勢派)系に転向し、その後、蕉風復興運動を志し、住職を辞し、明和五(一七六八)年、洛東岡崎に五升庵を結んだ。「芭蕉翁発句集」など芭蕉作品の集成・芭蕉墓所である義仲寺の護持・俳諧法要「時雨会(しぐれえ)」の主催など、芭蕉顕彰に力を注いだ(平凡社「百科事典マイペディア」他に拠る)。

「一蝶」英一蝶(はなぶさいっちょう 承応元(一六五二)年~享保九(一七二四)年)が知られる。江戸中期の画家で大坂の人。名は信香、朝湖と号した。江戸で狩野安信に入門し、後、岩佐又兵衛・菱川師宣らの風俗画をとり入れ,軽妙洒脱な画風を形成した。芭蕉・其角らの俳人や役者の市川團十郎ら、通人との交渉が多くあったが、将軍綱吉の生母桂昌院の周辺をも巻き込んだ醜聞事件に連座し、元禄一一(一六九八)年に三宅島に遠流となった。十一年後の宝永六(一七〇九)年に将軍代替わりの恩赦を受けて江戸に帰り、この時、「英一蝶」と改めている(同前)。

「倭訓栞」「わくんのしほり」と読む。江戸後期の国語辞書。全九十三巻。谷川士清(ことすが 宝永六(一七〇九)年~安永五(一七七六)年)編。彼の死の翌年安永六(一七七七)年に刊行が始まるが、最終的完成は谷川の死後、実に百年余後の明治二〇(一八八七)年であった。全三編からなり、前編には古語・雅語、中編には雅語、後編には方言・俗語を収録する。第二音節までを五十音順に配列し、語釈を施して出典・用例を示す。よく整備されたもので、日本最初の近代的国語辞書とされる(以上は諸辞書の記載を綜合した)。

「てふ蝶をよむは音なり」『「てふ」〔と〕「蝶」を讀むは「音」なり。』の意。「蝶」には訓がない。

「相模下野陸奧にてテフマ」小学館「日本国語大辞典」の「ちょうま(テフマ)」(漢字は「蝶馬」)にはここで引用されているものを「物類稱呼」(江戸中期の方言辞書。全五巻。越谷吾山(こしがやござん)著。安永四(一七七五)年刊。諸国の方言を収集、天地・人倫・草木など七部門に分けて考証・解説を付したもの)として例示初出を引く。

「津輕にカニベ又テコナ」「カニベ」は不詳だが、以下の小学館「日本国語大辞典」の記載によれば、「てこな」(漢字は「手児名・手児奈」)の記載中に、やはり「物類稱呼」の『蝶 てふ』『津軽にて、かかべとも、てこなとも云』とあるから、ここは大谷のミスか植字工の誤植で、「カカベ」が正しいと考えてよい。「かかべ」を引くと、岩手県でも採取されている。一方の「テコナ」は「手兒(てこ)な」(「な」は美称・親愛の接尾語)で「可愛らしい幼児」のことから「蝶」の異名とする。小泉八雲も後段で述べているように、悲劇の美少女「眞間の手兒奈」は万葉以来の古伝承であるから、陸奥の、その愛称に、無関係とは言えないが、特にそれと強く結びつけて考察する必要があるかどうかは微妙に留保する。であれば、伝承地である千葉や、そこにごく近い江戸に於いて、蝶を「てこな」と呼ぶことが行われ、異名として残っていてもおかしくないよい(「てこな」の音は美しい)と私は思うからである。]

 

 蝴蝶に關する日本人の奇妙不思議な信仰のうちで、其源を支那に發して居るものがあるといふことは、また有りさうな事である。が、そんな信仰は或は支那そのものよりも古いものかも知れぬ。一番興味ある信仰は生きて居る人間の魂が蝶の姿になつて、さまよひ步くことがあるといふのだらうと自分は思ふ。この信仰からして面白い空想が發展し來たつて居る。例へば、蝶が客間へ入つて來て、葭戶の裏へとまると、一番好きな人が會ひにやつて來て吳れるといふ考へなどそれである。蝶は誰れかの魂かも知れぬといふ事は、蝶を恐わがる理由にはなつて居らぬ。が然し、蝶でも非常に澤山に出て來て、それで人の恐怖心を惹起し得る時がある。現に日本の歷史にそんな出來事の記錄がある。平ノ將門が、その有名な謀叛を私かに[やぶちゃん注:「ひそかに」。]準備して居る時に、京都に莫大な蝶の群が現れたので、時の人は、この出現を凶兆と考へて大いに畏怖した。……多分、その時の蝶は、戰に死ぬる運命を有つて居つて、そして何か不可思議な死の前知らせの爲めに、戰爭のつい前に動搖を感じた、幾千の人の魂であると思はれたのであつた。

譯註四 吾妻鏡に『寳治元年三月十七日庚午、黃蝶飛、凡充滿鎌倉中、是兵革兆也、承平則常陸下野天喜。亦陸奥出羽四箇國之間、有其怪、將門貞任等及鬪戰訖。而今此事出來。猶若可有東國兵亂歟之由。古老之所疑也』とあり。

[やぶちゃん注:底本は「吾妻鏡」の引用の冒頭を、実は「寬文五年」とするのだが、これは「寬元五年」の誤りで、さらに寛元五年は二月二十八日に「寶治」に改元しているので二重に誤っている。致命的な誤りなので、本文を特異的に訂した。「吾妻鏡」の寳治元(一二四七)年三月十七日のそれは以下。

   *

十七日庚午。黃蝶群飛【幅假令一許丈。列三段許。】。凡充滿鎌倉中。是兵革兆也。承平則常陸下野。天喜亦陸奥出羽四箇國之間有其怪。將門貞任等及鬪戰訖。而今此事出來。猶若可有東國兵亂歟之由。古老之所疑也。

○やぶちゃんの書き下し文

十七日庚午。黃蝶、群飛ぶ【幅は假令(たとへば)一許(ばか)りの丈(じやう)[やぶちゃん注:約三メートル。]、列は三段許り。】。凡そ鎌倉中に充滿す。是れ、兵革の兆しなり。『承平(じようへい)には、則ち、常陸・下野、天喜にも亦、陸奥・出羽四箇國の間に、其の怪、有り。將門・貞任等(ら)、鬪戰に及び訖(をは)んぬ。而るに今、此の事、出來(しゆつたい)す。猶ほ若(も)し、東國に兵亂有るべきか』の由、古老の疑ふ所なり。

   *

「承平」(六三一年~九三八年)の五(九三五)年に、藤原忠平の元家人で桓武天皇玄孫の平将門が亡き父良将の遺領を巡る紛争の末、伯父の平国香を殺し、「平将門の乱」の濫觴の淵源となり、将門は、天慶二(九三九)年に常陸・下野・上野の国府を占領、一時、関東を支配下において「新皇」を称したが、翌年、平貞盛・藤原秀郷らに討たれた。「天喜」(一〇五三年~一〇五八年)は「前九年の役」の一つの特異点。平安後期に起った源頼義・義家による陸奥の俘囚長安倍氏討伐戦であるそれは長く続いた(古くは「奥州十二年合戦」と呼ばれた)。当時、陸奥六郡を支配して勢力のあった安倍頼良(頼時)が国府に貢賦を納めず、徭役(ようえき:無償強制労働及びその代替としての物納)も務めないことから、太守藤原登任(なりとう)、秋田城介平繁成らはこれを討伐しようと攻めたが、失敗、朝廷では永承六(一〇五一)年、源頼義を陸奥守に任じてこれを追討させた。頼良は一旦は帰服したが、頼義の任期終了間際の天喜四(一〇五六)年に反乱を起し、頼義側の宿営を襲撃して衣川に拠った。頼義は重任して安倍氏征伐に当たり、翌年、頼良を敗死させたが、頼良の子貞任を中心にした安倍氏の結束が堅く、頼義らの苦戦は続いた。しかし、出羽の俘囚清原光頼・武則らの応援を得、康平五(一〇六二)年、漸く貞任を倒してこの乱を鎮定したのであった。「陸奥・出羽四箇國」は不審な表記。陸奥・出羽と、「四箇國」ではなく六郡(胆沢郡・江刺郡・和賀郡・紫波郡・稗貫郡・岩手郡の総称。現在の岩手県奥州市から盛岡市にかけての地域に相当)ならば史実に合う。「東國に兵亂有るべきか」この三ヶ月後に鎌倉幕府内のクーデタ「宝治合戦」(三浦氏の乱)が起こっている。執権北条氏と有力御家人三浦氏の対立から宝治元(一二四七)年六月五日、鎌倉で武力衝突が発生、北条氏とその外戚安達氏らによって三浦一族とその与党が滅ぼされた。但し、「吾妻鏡」は後代に編纂されたもので、北条氏の謀略が主導した同合戦の辻褄合わせをした可能性が高いとされている。]

 が然し、日本人の信仰では、蝶は生きて居る人の魂のこともあるが、死人の魂のこともある。現に、最後に肉體を離れる事實を知らせる爲めには、魂は蝶の姿を採ることになつて居る。それで、その爲めに、どんな蝶でも家の中へ入る蝶は、深切に取り扱つてやるべきものである。

[やぶちゃん注:私は、亡き母もそう言って、送り出していたのを思い出す。]

 通俗な戲曲の中には、上述の信仰竝びにをれに關聯したいろんな奇異な信仰を暗示して居る處が澤山に在る。例を舉げると、「トンデ―デル―コテフ―ノ―カンザシ」卽ち『飛んで出る蝴蝶の簪』といふよく人の知つて居る芝居がある。蝴蝶といふ美人があつて、無實の罪を著せられ、殘酷な取扱ひを受けるので自殺する。女の仇を討つてやらうといふ男がその非違の本人を長い間かかつて探すが分らぬ。然し到頭死んだその女の簪が蝶に變じて、その惡漢が隱れて居る場處の上を飛んで仇計ちの手きをする。

[やぶちゃん注:「『飛んで出る蝴蝶の簪』といふよく人の知つて居る芝居」竹塚東子作の「飛秀胡蝶(とんででるてふてふのかんざし)」。文化八(一八一一)年。草双紙の合巻中の一作。

「非違」(ひゐ)は「法に背くこと」。「非道」と同じい。]

 

 ――婚禮の場合に出て來るあの大きな紙製の蝶(雄蝶と雌蝶)は固より何等靈的な意義を有つて[やぶちゃん注:「もつて」。]居るものと考へてはならぬ。象徵として、睦まじい合體の喜悅と、新婚夫婦が恰も樂しい庭園を輕輕と――或は飛び上り、或は舞ひ下りるが決して遠くは離れずに――翔る番ひ[やぶちゃん注:「つがひ」。]の蝶のやうに一緖に、一生を過ごすやうにとの希望とを表すものに過ぎない。

[やぶちゃん注:小学館「日本大百科全書」の「雄蝶雌蝶(おちょうめちょう)」に『結婚式の杯事(さかずきごと)のときに使う銚子(ちょうし)や提子(ひさげ)につける、折り紙の雄雌の蝶のこと。通例は金銀や紅白の紙を蝶の形に折り、そこに金銀の水引(みずひき)で蝶の触覚をつけて用いる。婚礼の式場が普通の家に設けられる場合は、両親のそろった男女の子供が選ばれて、そこで新夫婦の杯に同時に双方から酒をつぐ。このため』、『雄蝶雌蝶の名称は、もとの意味から転じて、この』二『人の男女の子供をさしていう場合もある』とある。グーグル画像検索「雄蝶雌蝶」をリンクさせておく。]

小泉八雲 蓬萊  (田部隆次譯)

 

[やぶちゃん注:本篇(原題“ HI-MAWARI ”)は明治三七(一九〇四)年四月にボストン及びニュー・ヨークの「ホートン・ミフリン社」(BOSTON AND NEW YORK HOUGHTON MIFFLIN COMPANY)から出版された、恐らく小泉八雲の著作の中で最も日本で愛されている作品集「怪談」(原題“ KWAIDAN: Stories and Studies of Strange Things ”。来日後の第十作品集)の十七話目である。なお、小泉八雲はこの年の九月二十六日に五十四歳で心臓発作により急逝した。

 同作品集は“Internet Archive”のこちらで全篇視認でき(リンク・ページは挿絵と扉標題。以下に示した本篇はここから。)、活字化されたものは“Project Gutenberg”のこちらで全篇が読める本篇はここ)。

 底本は上記英文サイト“Internet Archive”のこちらにある画像データをPDFで落し、視認した。これは第一書房が昭和一二(一九三七)年一月に刊行した「家庭版小泉八雲全集」(全十二巻)の第八巻全篇である。★【2025年3月30日底本変更・前注変更】時間を経て、国立国会図書館デジタルコレクションに本登録し、現行では、以上の第一書房版昭和六(一九三一)年一月に刊行した「學生版小泉八雲全集」(全十二巻)の第七巻が、国立国会図書館デジタルコレクションで公開されてある。(リンクは扉だが、「學生版」の文字はない。しかし、奥附を見て貰うと『學生版 【第二囘豫約】』とあり、『昭和六年一月十日 發行』とあることが確認出来る)、 これが、前掲の底本と同じものであるが、やはり、外国のサイトのそれを底本とするのは、日本人小泉八雲に失礼であると考えた。されば、こちらで、再度、以下の「骨董」の作品群を改めて校正することとする。これが――私の小泉八雲への「義」――である。なお、之よりも前の元版の全集等が先行しているものの、私がそれらと比べた結果、実は先行する同社の「小泉八雲全集」のそれらは、訳が一部で異なっており、訳者等によって、かなりの補正・追加がされていることが、今回の正字補正作業の中で、はっきりと判って来た。いや、同じ「家庭版」と名打ったネット上の画像データでも、驚いたことに、有意に異なっていたのである。そうした意味でも――完全な仕切り直しの総点検――が必要であると決したものである。従って、旧前振りの括弧・鍵括弧の問題も、拡大とガンマ補正で確認し、正確を期する。本作はここから。

 田部隆次(たなべりゅうじ 明治八(一八七五)年~昭和三二(一九五七)年)氏については先に電子化した「人形の墓」の私の冒頭注を参照されたい。

 傍点「﹅」は太字に代えた。]

 

 

  蓬 萊

 

 天とつらなる靑海原――明るい靄のうちに入りまざつて居る海と空。日は春、時は朝。

 ただ空と海ばかり――一面の大きな淡靑……前面には漣が銀の光りをとらへて、細(こまか)い泡が漂うて居る。しかし少し向うにはもう何の動くものも見えない、また靑色の外には何物もない。水の黃ばんだ靑色がはるかに空の靑色と融け合つて居る。地平線はない、ただ遠い彼方が高く空となり――無限の凹みが、見る人の前にでき、巨大な弓形が見る人の上にできて――色が高さとともに濃くなつてゐる。しかしはるか中間の靑色のうちに月のやうに曲つた、角のある屋根のついた、かすかな、かすかな塔がかかつて居る、――記憶と云ふもののやうに柔らかな日光によつて照された不思議な、そして古い何かの榮華の影である。……私が今こんな風に說明しようとして居るものは掛物である、――卽ち私の床の間にかけである、絹にかいた日本の繪、――その名は蜃氣樓である。しかしこの蜃氣樓の形はまがふべくもない。それは仙境蓬萊の微かに光る門であり、又あれは龍宮の新月狀の屋根である、――その造りは(現代の日本畫家の筆で描かれたのではあるが)二千百年以前の支那の物の造りそのままである。

 その當時の支那の書物にその場所についてこんな事が書いてある、[やぶちゃん注:読点はママ。]

 蓬萊には死も苦もない、それから冬がない。そこの花は決して凋まない、果實は決して落ちない。人がこの果實を只一度味へば、決して再び飢渴を覺ゆる事はない。蓬萊には凡ての病氣を直す「さうりんしや」「六合葵」「ばんこんとう」と云ふ魔物のやうな草木がある。それから死者を蘇生させる「ようしんし」と云ふ魔法のやうな草がある。この草は一度飮めば、不老になれる不思議の水で養はれて居る。蓬萊の人々は極めで小さい椀で米飯を喰べる。しかしその椀の中の米飯は――どれ程喰べても喰べる人の滿足するまでは少くなる事はない。それから蓬萊の人々は極めて小さい杯から酒を飮む。しかし何人も[やぶちゃん注:「なんぴとも」。]――どれ程飮んでも――心地よい醉の眠氣を催すまでは、その杯を飮み乾す事ができない。

[やぶちゃん注:「さうりんしや」は訳者のミスか誤植。原文は“So-rin-sh”である。因みに一九七五年恒文社刊の平井呈一氏の訳(「骨董・怪談」)では「さうりんし」に「相鄰子」、「六合葵」に「りくごうあおい」のルビ(原文“ Riku-go-aoi ”)、「ばんこんとう」に「万根湯」、さらに「ようしんし」に「養神子」の漢字が当てられてあるのであるが、私はこれらが漢籍の如何なる書物に載っているか、不学にして知らない。識者の御教授を乞うものである。]

 

 泰の時代の傳說に、こんな事やもつと澤山の事がある。しかしこの傳說を書いた人が蓬萊を蜃氣樓でなりと見たとは信じられない。事實、一度喰べたら永久に滿腹する仙果や――死者の蘇生する魔草や――不老の泉や――米のなくならない椀や――酒のなくなる事のない杯はないから。悲しみと死が決して蓬萊に入り込まないといふ事は事實でない、――冬のない事もまた事實でない。蓬萊の冬は寒い、――冬の風は骨を嚙むやうである。それから龍王の屋根には驚くほど雪がつもる。

 それでもやはり蓬萊には不思議なものがある。そのうちの最も不思議なものについてはどの支那の記者も何も云つてゐない。それは蓬萊の大氣である。この土地に特有の空氣である、そのために蓬萊に於ける日光は、どこの外の日光よりも白い、――乳のやうな光りではあるが、目をまぶしくさせる事はない、――驚くほど澄み渡つて居るが、甚だ柔かである。この大氣は私共人間の時代のものではない、それは非常に古い――どれ程古いか考へようとすると恐ろしくなる程古い、――そしてそれは窒素と酸素の混合物ではない。それは全く空氣でできて居るのではない。それは精靈――幾萬億の幾萬億の靈魂――私共の考へ樣と少しも似てゐない考へ樣で考へる人々の靈魂の本質が、混合して一つの大きな半透明體となつたものである。どんな人間でもその大氣を呼吸する人は、その血液のうちにその靈感を取り入れる、そしてその魂はその人の內部の感覺を變へる――時空の觀念をつくり直す――それでその人は、それ等の魂が見た通りに見、感じた通りに感じ、考へた通りに考へるやうになる。これ等の感覺の變化は眠りのやうに柔かである。その變化を通じて見た蓬萊は、つぎのやうに說明してよからう、

 

 『蓬萊では邪念の何たるかを知らないから、人々の心は決して老ゆる事はない。そして心はいつも若いから、蓬萊の人々は生れてから死に到るまで――神々が彼等の間に悲しみを送る時、その時にはこの悲しみのなくなるまで顏は覆はれる、その時の外は――いつも微笑して居る。蓬萊の凡ての人々は一家族の人々のやうに、互に相信じ相愛して居る、――それから婦人の心は鳥の魂のやうに輕いから、言葉は鳥の歌のやうである、――そして戲れに乙女の袖のゆれる時は、柔かな廣い翼のひるがへるやうである。蓬萊では悲哀の外、隱されるものは何にもない、恥づべき理由はないからである、――それから盜みはないから鍵はない、――恐れる理由はないから夜も晝と同じく、どの戶口にも閂(くはんぬき)はさされない。それから人々は――不死ではないが――神仙であるから、蓬萊にある一切のものは龍王の宮殿を除いて、凡て小さくて奇妙で、奇體である、――そしてこの神仙の人々は甚だ小さい椀で米飯を喰べ、甚だ小さい杯で酒を飮む……』

 このやうに見ゆるわけは、その靈氣を吸入したためである事も多からうが――しかしそれだけではない。死者が及ぼした魔力は、ひとへに理想の美、古への希望の魔力である、――そしてその希望は多くの人の心に――無私の生涯の素朴な美はしさのうちに――婦人のやさしさのうちに――實現されて居るから。……

 

 ――西の國から邪惡の風が蓬萊を吹き荒んで居る、靈妙な大氣は、悲しいかな、薄らいで行く。今はただ日本の山水畫家が描く風景の上の長い雲の帶の如く、切れとなり、帶となつて僅かに漂うて居る。その帶と切れの下にだけ、蓬萊はなほ存して居る。しかし外にはない。蓬萊は觸れる事のできない、まぼろしと云ふ意味の蜃氣樓とも云はれる。そしてこのまぼろしは、ただ繪と歌と夢のうちでなければ、再び現れないやうに、消えかかつて居る。……


2019/09/24

小泉八雲 日廻り (田部隆次譯)

 

[やぶちゃん注:本篇(原題“ HI-MAWARI ”)は明治三七(一九〇四)年四月にボストン及びニュー・ヨークの「ホートン・ミフリン社」(BOSTON AND NEW YORK HOUGHTON MIFFLIN COMPANY)から出版された、恐らく小泉八雲の著作の中で最も日本で愛されている作品集「怪談」(原題“ KWAIDAN: Stories and Studies of Strange Things ”。来日後の第十作品集)の十六話目である。なお、小泉八雲はこの年の九月二十六日に五十四歳で心臓発作により急逝した。

 同作品集はInternet Archive”のこちらで全篇視認でき(リンク・ページは挿絵と扉標題。以下に示した本篇はここから。)、活字化されたものは“Project Gutenberg”のこちらで全篇が読める本篇はここ)。

 底本は上記英文サイト“Internet Archive”のこちらにある画像データをPDFで落し、視認した。これは第一書房が昭和一二(一九三七)年一月に刊行した「家庭版小泉八雲全集」(全十二巻)の第八巻全篇である。★【2025年3月30日底本変更・前注変更】時間を経て、国立国会図書館デジタルコレクションに本登録し、現行では、以上の第一書房版昭和六(一九三一)年一月に刊行した「學生版小泉八雲全集」(全十二巻)の第七巻が、国立国会図書館デジタルコレクションで公開されてある。(リンクは扉だが、「學生版」の文字はない。しかし、奥附を見て貰うと『學生版 【第二囘豫約】』とあり、『昭和六年一月十日 發行』とあることが確認出来る)、これが、前掲の底本と同じものであるが、やはり、外国のサイトのそれを底本とするのは、日本人小泉八雲に失礼であると考えた。されば、こちらで、再度、以下の「骨董」の作品群を改めて校正することとする。これが――私の小泉八雲への「義」――である。なお、之よりも前の元版の全集等が先行しているものの、私がそれらと比べた結果、実は先行する同社の「小泉八雲全集」のそれらは、訳が一部で異なっており、訳者等によって、かなりの補正・追加がされていることが、今回の正字補正作業の中で、はっきりと判って来た。いや、同じ「家庭版」と名打ったネット上の画像データでも、驚いたことに、有意に異なっていたのである。そうした意味でも――完全な仕切り直しの総点検――が必要であると決したものである。従って、旧前振りの括弧・鍵括弧の問題も、拡大とガンマ補正で確認し、正確を期する。本作はここから。

 田部隆次(たなべりゅうじ 明治八(一八七五)年~昭和三二(一九五七)年)氏については先に電子化した「人形の墓」の私の冒頭注を参照されたい。

 標題「日廻り」は向日葵(キク目キク科キク亜科ヒマワリ属ヒマワリ Helianthus annuus )のことである。う~ん、ひらがなか漢字の方がいいな。本文では「廻」が「𢌞」であるのはママである。

 詩の原文と訳は全体がポイント落ち四字下げであるが、同ポイントで上に引き上げた。また、最後に配された訳注群(ポイント落ち字下げ)は適宜、本文当該段落末に配置換えをした。

 

 

  日 廻 り

 

 家のうしろの水立のある丘の上に、ロバート譯註一と私は「仙人の輪」譯註二をさがしてゐた。ロバートは八歲、みめ美しく、その上大層かしこい、――私は七歲と少し――それで私はロバートを敬つて居る。よく日の照る、すばらしい好い天氣の八月の或日である、暖かい空氣は松脂の强い芳ばしい香で滿ちて居る。

譯註一 野原などに一種の菌[やぶちゃん注:「きのこ」類。]の作用で、一夜のうちに黑い輪のできる事がある。これを「仙人の輪(フヱアリ リング)」或は「仙人の圓(フヱアリサークル[やぶちゃん注:字空け無しはママ。])」或は「仙人の踊(フヱアリ ダンス)」と云つて、善或は惡の魔力を有する小さい妖精が前夜踊つたところと歐州で信ぜられるもの。

[やぶちゃん注:「仙人の輪」原文“fairy-rings”。「菌輪(きんりん)」。茸(きのこ)が地面に環状或いはその断片としての弧状を成して発生する現象、或いは、その輪自体を指す。「菌環(きんかん)」とも呼ばれ、英語では「フェアリー・リング」(妖精の輪:“fairy/faery”は主に妖精と訳される西洋の神話や伝説に登場する超自然的な存在で、人間と神の中間的なものとされる種族の総称。人とも神とも違う性格と行動は、しばしば「気まぐれ」と形容される。名前はラテン語で運命を意味する“Fata”という語に由来する。説によっては元々は神の使いであったともされる)の他、“elf circle”(エルフ・サークル。“elf”は、ゲルマン神話に起源を持つ、北ヨーロッパの民間伝承に登場する妖精族。北欧神話に於ける彼らは元は自然と豊かさを司る小神族であった。しばしば、とても美しく若々しい外見とされ、森・泉・井戸や地下などに住むとされ、また、不死或いは長命で魔法を働かす力を持っとされる)・“pixie ring”(ピクシィ・リング。“pixie”は、イングランドのコーンウォールなど南西部諸州の民間伝承に登場する妖精の一種。 普段は透明で人間には見えないが、頭に四葉のクローバーを乗せると、姿を見られるようになるとする。 身長二十センチメートルほどの小人で、赤い髪の毛、上に反った鼻をしているとされる)などとも呼ばれる。ウィキの「菌輪」によれば、『菌輪はときとして直径10m以上にもなり、構成している菌類が生育し続ける限り安定である。特に大きな菌輪では直径600m、菌体の総重量は100t、菌輪としての年齢は700歳にも達した例がフランスで報告されている』。『またイギリス南部では、ユキワリ』(菌界担子菌門真正担子菌綱ハラタケ目シメジ科ユキワリ(雪割)属ユキワリ Calocybe gambosa :食用)が、『やはり齢数百年の菌輪を形成したと報告されている』。『菌輪は主に森林内の地上に見出されるが、草原や牧草地にもしばしば発生する。菌類の肉眼的な子実体(いわゆるキノコ)の配列として視認できるほか、草が環状に枯死したり、逆に草が徒長したりすることでも人目につく。このような菌輪が発生した地中には、構成菌の菌糸体が発達している』。また、「伝承の中の菌輪」の項に、『菌輪は Fairy rings と英語で表現される事からもわかる通り、各国の神話や民話の中に多く登場する』。『イギリスの民話では、菌輪はエルフ・フェアリー・ピクシーといった妖精たちが輪になって踊り、草を踏み均した痕跡であると語られている。アイルランドの詩人で』小泉八雲とも手紙のやりとりがあった『ウィリアム・バトラー・イェイツ』(William Butler Yeats 一八六五年~一九三九年:書簡は後述)『は菌輪についてこう記している。"...the fairies dance in a place apart, Shaking their milk-white feet in a ring,..."』(……妖精たちは離れた所で踊り、輪になって乳白色の足を振って、……)。『幾つかの伝説では、菌輪のキノコにカエルが座って毒を撒くのだと伝えられている。従ってこれらのキノコは "toadstool"(カエルの腰掛け)と呼ばれている。他にサセックス州では "hag tracks"(魔女の足跡)、デヴォン州では妖精たちが馬を乗り回した跡であるなどと言われている』。『スカンディナヴィアの民話では、菌輪は妖精や魔女のしわざだとして "älvdanser"、すなわち「妖精の踊り」「妖精の輪」「魔女の輪」などとされている。他のヨーロッパ諸国、例えばドイツでも "Hexenring"、フランスでは "Rond de sorcière" と綴られ、いずれも意味するところは「魔女の輪」である。このようは表現は、これらの輪は魔女の集会所を意味するという中世の考えに基づく。オーストリアではドラゴンの吐炎が地表を焦がしたものである、という多少異なった解釈がされている。このような民話はチェコ、スロバキア、ポーランド、ロシアなどの中欧・東欧各国にも存在しており、チェコでは』、『ドラゴンの休息の場であると伝えられている』。『もう一つのパターンとして、菌輪は妖精の世界への入り口であり、別の場所や過去・未来へ行き来できる扉であると解される場合もある。また、肌が荒れるという迷信から、若い女性は菌輪の草の露に触れてはいけないと言われる地方もある』とある。発生機序等はリンク先を見られたい。画像もある。]

譯註二 ロバート エルウツド、著者の從兄。その母は著者の父チヤールス、ヘルンの姉。この家はロバートの富有なる兩親の家。場所はウエールス山中としてあるが、實はアイルランドの西端メイヨ州。著者は幼時大叔母とともに時々ここに滯在した。

[やぶちゃん注:「ロバート エルウツド」Robert Elwood。こちらのJohn Moran氏の“How Patrick Lafcadio Hearn travelled around the world for 150 years, before making his mark in Waterford”(原文(二〇一五年六月二十三日附『アイリッシュ・タイムズ』紙掲載)及び「みずたにじゅんじ」氏の邦訳附き)が非常に参考になる。

「チヤールス、ヘルン」チャールス・ブッシュ・ハーン(Charles Bush Hearnn 一八一八年~一八六六年)はアイルランド人で英国陸軍軍医補。小泉八雲(Patrick Lafcadio Hearn)は一八五〇年六月二十七日、当時はイギリスの保護領であったレフカダ島(一八六四年にギリシャに編入)は彼とレフカダ島と同じイオニア諸島にあるキティラ島の裕福なギリシャ人名士の娘であった母ローザ・カシマティ(Rosa Antonia Cassimati 一八二三年~一八八二年)との間に生まれた。ウィキの「小泉八雲」他によれば、一八五一年、『父の西インド転属のため、この年末より』『母と通訳代わりの女中に伴われ、父の実家へ向かうべく出立』、『途中』、『パリを経て』一八五二年八月、『両親とともに父の家があるダブリンに到着』、『移住し、幼少時代を同地で過ご』した。『父が西インドに赴任中の』一八五四『年、精神を病んだ母がギリシアへ帰国し、間もなく離婚が成立。以後、ハーンは両親にはほとんど会うことなく、父方の大叔母サラ・ブレナン』Sarah Brenane『に厳格なカトリック文化の中で育てられた。この経験が原因で、少年時代のハーンはキリスト教嫌いになり、ケルト原教のドルイド教に傾倒するようになった』。『フランスやイギリスのダラム大学の教育を受けた後』、一八六九『年に渡米。得意のフランス語を活かし』、二十『代前半からジャーナリストとして頭角を顕し始め、文芸評論から事件報道まで広範な著述で好評を博』した。明治二三(一八九〇)年四月四日、『アメリカ合衆国の出版社の通信員として来日』(横浜)したが、直後に新聞社との『契約を破棄し、日本で英語教師として教鞭を執るようになり、翌年』、小泉セツ(節子)と『結婚』した。

「ウエールス山中」ウェールズ(英語:En-us-Wales.ogg Wales/ウェールズ語:Cymru(カムリ))はグレート・ブリテン及び北アイルランド連合王国(イギリス)を構成する四つの「国(イギリスのカントリー)」(country)の一つ。グレート・ブリテン島南西に位置する。ここ(グーグル・マップ・データ・以下同じ)。

「アイルランドの西端メイヨ州」メイヨー州(英語:County Mayo/アイルランド語:Contae Mhaigh Eo)は、アイルランドのコノート地方の州。ここ。]

 私共には「仙人の輪」は見出せない。しかし、高草の中に非常に澤山の松かさを見つける。……私はロバートに古いウヱールスの話、――氣がつかないで「仙人の輪」の中で眠つてしまつて、七年間見えなくなつたが、友達が魔法から救ひ出してから、口も利かない喰べもしなかつたと云ふ人の話をする。

 『針のさきしか喰べないのだからね』ロバートは云ふ。

 『誰が』私は尋ねる。

 『お化けさ』ロバートは答へる。

 これを始めて聞いて驚きと恐れで、私は默つてしまふ。……しかし不意にロバートは叫び出す。……

 『竪琴彈きが來た、うちへ來るのだ』

 それから丘を下つて、私共はその竪琴彈きを聽くために走る。……しかし何と云ふ竪琴彈き譯註三だらう。繪本にある白髮の樂人とは少しも似てゐない。顏の淺黑な、からだの丈夫さうな髮の蓬々とした[やぶちゃん注:「ほうほうとした」。髪がのびて乱れているさま。]浮浪人で、不機嫌な黑い眉の下に黑い、圖々しい眼を光らして居る。伶人[やぶちゃん注:「れいじん」。楽人。]よりはむしろ煉瓦屋である、さうして、着物は勞働者の着る、厚い木綿のうね織である[やぶちゃん注:「うね織」畝織(うねおり)で、畑の畝のように横、又は、縦に高低を附けた織物。]。

譯註三 この浪人の藝人はダン・フイツパトリツクと云ふその地方ではよく知られた男。おはこの歌はこの歌であつたと言ふ。

[やぶちゃん注:Dan Fitzpatrick。音写は「ダン・フィッツパトリック」。先のJohn Moran氏の記事の翻訳に拠った。]

 『ウヱールス語で歌ふのか知らん』ロバートはつぶやく。

[やぶちゃん注:「ウヱールス語」ウェールズ語(英語:Welsh/ウェールズ語:Cymraeg [kəmˈrɑːɨɡ])ケルト語派に属する言語で現存するケルト語中で最も有力。英語とは全く異なる固有の言語で、中世には文語も確立していたが、十六世紀にウェールズが英国に併合されて、新教を採用、以後は主として教会の用語として維持された。十九世紀に復古運動があったが、口語としては英語に圧迫されている。現在、教育やマスメディアにおいて使用されており、話し手の数は約五十万人である(以上は平凡社「百科事典マイペディア」に主に拠った)。]

 私は、何を云ふのもいやになる程失望した。竪琴彈きはその竪琴――大きな樂器――をうちの入口の階段に立てて、汚れた指で絃を悉くかきならして見て、怒つたやうなうなり聲で咳拂ひをして、それから始めた。

 

 Belicve me, if all those endearing young chrms,

 Which I gaze on so fondly to-day...

 (本當に、たとへ、今日私が嬉しくながめて居る

  そのなつかしい若い美しさが皆……)譯註四

譯註四 アイルランドの國民詩人、トマス・ムーア(一七七九―一八五二)の歌。ムーアはスコツトランドのロバート・バーンス、フランスのペランヂヱとともに、十九世紀に於ける流行歌をつくる三大詩人の一人と云はれた人。この歌は『あなたは私が年を取つてもやはり愛しますか』と女から問はれた返事に擬した二節のもので、世界的にひろく知られて居る。

[やぶちゃん注:詩篇引用は、原本では、斜体。ここでは、四字下げで、訳も同じ字下げでポイント落ち。

「トマス・ムーア」Thomas Moore(一七七九年~一八五二年)はダブリン出身。アイルランドの国民的な詩人として親しまれる。代表作に“ The Minstrel Boy ”や“ The Last Rose of Summer ”などがある。その“ Believe Me, if All Those Endearing Young Charms ”は一八〇八年作。原詩全篇は英文ウィキのこちらで読める。小泉八雲の引用はその「Ⅰ」の冒頭の一節である。この曲、皆さんも知っている。You Tube のLadyGreyCarolyn氏の“John McDermott - Believe Me (If All Those Endearing Young Charms)をお聴きあれ。また、やはりYou Tube TokinoMai氏の「春の日の花と輝く Believe Me, If All Those Endearing Young Charms(東京混声合唱団・訳堀内敬三)には、本篇全部の原文と訳詩が載るので是非見られたいが、その「Ⅱ」の最終に“sun-flower”が詠み込まれてあるのが判る。因みに、その解説文には『作曲者は不明です。この曲はこの他にもさまざまな歌詩がつけられています。1836年に米国ハーヴァード大学の創立200年祭時に発表された卒業式歌「Fair Harvard 麗しきハーヴァード」(作詞者はサミュエル・ジルマン教授)でも使われおり、また、1841年に英国の会衆派の牧師の妻であったジェマイマ・トンプソン・リューク夫人作詞の賛美歌467番「思えば昔イェスきみ」にも使われている世界的な名曲です。日本語訳は堀内敬三氏の名訳です』とある。]

 口調、態度、聲、悉く云ひ難い反感を起させる――度し難い野卑の、いやな感じを新しく起させる。『お前はその歌をうたふ資格はない』と、大きな聲で叫んでやりたい。實はそれが、私の小さな世界で最もなつかしい、最も麗しい人の唇で歌はれるのをこれまで聽いて居る[やぶちゃん注:私の後注(太字)参照。]、――そして、この野卑な下等な男が、それを敢て歌ふなどとは、嘲弄のやうに私を惱ませる――侮辱のやうに私を怒らせる。しかし、ほんの暫くの事。……『to-day』と云ふ文句を歌ひ出すと共に、その深い、物すごい聲が不意に、名狀のできないやさしいふるへ聲になる、――それから不思議に變つて、大きなオルガンの低音のやうな朗かな豐かな調子となつて冴える、――同時に、これまで感じた事のない一種の感情が私の喉をつかむ。……どんな魔法を彼は知つて居るのであらう。どんな祕密を彼は見つけたのであらう、――この不機嫌な顏の浮浪人は。……外にこんなに歌ふ事のできる人は全世界にあるだらうか。……そして歌ふ人の姿が搖らめいてかすむ、――それから家も芝生も、凡て見ゆるものの形が、眼の前にふるへて泳ぐ。それでも本能的に、私はその男を恐れる、――憎むと云つてよい。そして彼の力で自分をこんなに感動させるので、怒りと恥ぢとで赧くなる[やぶちゃん注:「あかくなる」。]のが自分でも分る。……

譯註五 著者の伯母、ヱルウツド夫人のこと。當時はアイルランドでは家庭で客をする時でも、主婦がトマス、ムーアの歌を歌ふ程の事はしたもの、ことにこの夫人は音樂の嗜み深く、ムーアの歌は最も得意であつたと云はれる。

やぶちゃん注:「譯註五」の注記号は本文にないが、内容から見て、「私の小さな世界で最もなつかしい、最も麗しい人の唇で歌はれるのをこれまで聽いて居る」の部分が、それに相当する箇所であろうと思われる。

「著者の伯母、ヱルウツド夫人」“Catherine Elwood”。但し、先のJohn Moran氏の記事の翻訳によれば、『叔母』とある。ところが、同翻訳を読む限りでは、私は――これはエルウッド夫人ではないのではなかろうか?――と思えてくるのだ。それは、幼少期の小泉八雲に『最も影響を与えた女性は、乳母のキャサリン・“ケイト”・ローナンだろう。アイルランド・英国在住期間を通して彼の面倒を見ており、ゴースト話やアイルランド民話を聞かせ、子守唄を歌った。ハーンは日本からW.B.イェーツへ宛てた手紙において、ダブリンでの幼少期についてこう記している、「私にはコノートの乳母がいて、妖精やゴーストの話を私に良く聞かせてくれた。だから私はアイルランドのことを愛すべきであり、現に愛している。」彼女は、アメリカ、西インド諸島、日本などハーンが旅したあらゆる場所について書いた作品における一般的な働く女性の見本となっていたと思われる』とあるからである。John Moran氏の原文では「キャサリン・“ケイト”・ローナン」は“Catherine “Kate” Ronane”である。『子守唄を歌った』とあるところが、少なくとも、John Moran氏は、この「私の小さな世界で最もなつかしい、最も麗しい人」を彼女だと思って書かれているように思われるからである。因みに、「コノート」(“Connaught”。“Connacht”(ゲール語では“Connachta”であるが、現地では慣習上、“Cúige Chonnacht”と書く)とも綴る)アイルランド島北西部の地方。「コナハト」「コンノート」とも音写するが、現地音に最も近いのは「コナハト」。アイルランド王コルマクの息子コン“Conn”の子孫の国の意。ゴールウェイ・リートリム・メイヨー・ロスコモン・スライゴの六州から成る。中心は南部がゴールウェイ市、北部がスライゴ市で、現在もゲール語が一部の地域(ゲールタハト:アイルランドの言語回復を図るためにアイルランド自由国政策の一部として公認されたゲール語公用語地域)で話されている(以上はウィキの「コノート」によった)。]

 

 『君は泣いたね』ロバートは同情して云ふので、私は一層どぎまぎする、――同時に竪琴彈きは六ペンスの銀貨を一つ貰つて禮も云はないで、大跨[やぶちゃん注:「おほまた」。]にあるいて去る。……『しかしあれはきつとヂブシーだね。ヂプシーはいけない人達だよ、――それから皆、魔術使ひだよ。……林の方へ行かう』

[やぶちゃん注:「ヂブシー」原文“gipsy”。“gypsy”とも綴る。但し、本文でも語られるように「ジプシー」は差別的意味合いが強いので、今は使用すべきではない。小学館「日本国語大辞典」によれば、バルカン諸国を中心に、アジア西部からヨーロッパ各地・アフリカ・南北アメリカ・オーストラリアなどに広く分布する民族。十世紀頃、故郷であるインド北西部から西に向かって移動を開始し、十五世紀にはヨーロッパ全域に達した。皮膚の色は黄褐色かオリーブ色で、目と髪は黒。馬の売買・鋳掛け・占い・音楽などで生計を営んでいたが、近年は定住するものも多い。その固有の音楽や舞踏は、ハンガリーやスペインの民族文化に影響を与えた。自称は「人間」の意の「ロマ」である。]

 私共は又松林の方へ丘を上る、そして、そこで日の斑らに當る草の上に坐つて、町と海の方を見る。しかし、私共は前のやうに遊ばない。魔術使ひの魔力は二人の上に强くかかつて居る。……『多分あれはお化けだらう』私は漸く云つて見る、『それとも仙人かね』

 『いゝえ、――ただのヂプシーさ』ロバートが云ふ。『しかし、ジプシーでも惡い事は同じぐらゐだ。あれは子供さらひだからね』

 『ここへ來たらどうしよう』私は、私共の居るところが淋しいので急に怖氣(おぢけ)がついて、息を切らして云ふ。

 『なに、そんな事はやれないさ』ロバートは答へる――『明るい時にはできないよ』

 

       *

 

 〔つい昨日、高田村の近くで、日本人が私共と殆んど同じやうに「日𢌞り」と呼んで居る花が目にとまつた、――そして四十年の間隔を跳び越えて、その浮浪の竪琴彈きの聲がひびいて來た。

[やぶちゃん注:「高田村」現在の東京都豊島区南部の高田か。]

 

 As the Sunflower tums on hcr god, when he sets,

 The same look that she turned when he rose.

 (日の入る時、日𢌞りの花がその方へ向ふやうに、

 彼の立つ時、同じ眼つきを彼女は向けた)

[やぶちゃん注:同前。これは、同詩篇の「Ⅱ」の最終節である。]

 

 再び私は遠いウヱールスの丘の上の斑らに日の當る影を見た。そして少女のやうな顏と黃金の卷き毛をしたロバートは一時、再び私のわきに立つた。私共は『仙人の輪』をさがしてゐた、……しかし本當のロバートはずつと前に海の變化をうけて、立派な不思議なものになつた筈である。…… 『人、その友のためにおのれの生命をすつるは、これより大なる愛はなし』……〕

譯註六 「海の變化」はシヱーキスピーヤ、「テンペスト」の文句。最後の句は新約全書、「約翰福音書」第十五章十三節の句。このロバートはのち英國海軍に入り、遠洋航海中、支那の沖にて甲板から落ちた友人を救はうとして自分も溺死したため、これ等の句が引用してある。

[やぶちゃん注:「海の變化」原文は“sea-change”。古英語で、「海の作用による変化」。シェークスピアの造語で、一六一〇年作の「テンペスト」( The Tempest )の第一幕二場で使われたもの。ファーディナンドの死んだ父が、「海の変化」により、骨は珊瑚に、目は真珠に変えられている(But doth suffer a sea-change)と、妖精のエアリエルが歌うもの、と「英辞郎」のこちらにあった。

『新約全書、「約翰福音書」第十五章十三節』「新約全書」は「新約聖書」のことで、「約翰福音書」はこれで「ヨハネふくいんしよ」と読む。小泉八雲の引用原文は“ Greater love hath no man than this, that a man lay down his life for his friend. . . . ”。同箇所の普通の英訳では最後は“friends”と複数形である。]

小泉八雲 力ばか (田部隆次譯)

 

[やぶちゃん注:本篇(原題“RIKI-BAKA”)は明治三七(一九〇四)年四月にボストン及びニュー・ヨークの「ホートン・ミフリン社」(BOSTON AND NEW YORK HOUGHTON MIFFLIN COMPANY)から出版された、恐らく小泉八雲の著作の中で最も日本で愛されている作品集「怪談」(原題“KWAIDAN: Stories and Studies of Strange Things”。来日後の第十作品集)の十五話目である。なお、小泉八雲はこの年の九月二十六日に五十四歳で心臓発作により急逝した。

 同作品集は“Internet Archive”のこちらで全篇視認でき(リンク・ページは挿絵と扉標題。以下に示した本篇はここから。)、活字化されたものは“Project Gutenberg”のこちらで全篇が読める本篇はここ)。

 底本は上記英文サイト“Internet Archive”のこちらにある画像データをPDFで落し、視認した。これは第一書房が昭和一二(一九三七)年一月に刊行した「家庭版小泉八雲全集」(全十二巻)の第八巻全篇である。★【2025年3月30日底本変更・前注変更】時間を経て、国立国会図書館デジタルコレクションに本登録し、現行では、以上の第一書房版昭和六(一九三一)年一月に刊行した「學生版小泉八雲全集」(全十二巻)の第七巻が、国立国会図書館デジタルコレクションで公開されてある。(リンクは扉だが、「學生版」の文字はない。しかし、奥附を見て貰うと『學生版 【第二囘豫約】』とあり、『昭和六年一月十日 發行』とあることが確認出来る)、これが、前掲の底本と同じものであるが、やはり、外国のサイトのそれを底本とするのは、日本人小泉八雲に失礼であると考えた。されば、こちらで、再度、以下の「骨董」の作品群を改めて校正することとする。これが――私の小泉八雲への「義」――である。なお、之よりも前の元版の全集等が先行しているものの、私がそれらと比べた結果、実は先行する同社の「小泉八雲全集」のそれらは、訳が一部で異なっており、訳者等によって、かなりの補正・追加がされていることが、今回の正字補正作業の中で、はっきりと判って来た。いや、同じ「家庭版」と名打ったネット上の画像データでも、驚いたことに、有意に異なっていたのである。そうした意味でも――完全な仕切り直しの総点検――が必要であると決したものである。従って、旧前振りの括弧・鍵括弧の問題も、拡大とガンマ補正で確認し、正確を期する。本作はここから。

 田部隆次(たなべりゅうじ 明治八(一八七五)年~昭和三二(一九五七)年)氏については先に電子化した「人形の墓」の私の冒頭注を参照されたい。

 傍点「﹅」は太字に代えた。

 本書の序で小泉八雲は『「力ばか」の事件は實際の經驗である。私は話した人が云つた』姓『だけを變へて、あとはそれを殆んどそのまま書いた』と述べている。しかし、以下に見る通り、「力ばか」には名字は出ないから、名前とするところを小泉八雲が取り違えたものか、もとは「○○ばか」のそれが、姓であったのを、名のように変えたことを意味しているものと思われる。

 作中の「善導寺」は、福岡県久留米市善導寺町飯田に同名の寺があるが(ここ。グーグル・マップ・データ)、比定はしない(小泉八雲は熊本に移っているから、候補となってもおかしくはない)。しかし、名も変名にしたからには、「力ばか」のためにも、これも穿鑿されないようにするための変名としたいからである。]

 

  力 ば か

 

 彼の名は力(りき)であつた。しかし、人々は彼を呼んで「力ばか」と云つた――永久の子供に生れついてゐたからであつた。同じ理由で人々は、彼に對して親切であつた、――マツチをもやして蚊帳につけ、家を一軒燒き、その火熖を見て拍手した時にでも。十六になつて脊の高い强い少年になつたが、精神は幸福な二歲の年齡にいつも相當してゐた。それで極めて小さい子供と遊び續けた。四つから七つまでの近所の大きい子供は、彼が自分等の歌や遊戲を覺えないから一緖に遊ぶ事を好まなかつた。彼の好きなおもちやは箒であつた。それを木馬にして遊んだ。そして引續き何時間でも、この箒に乘つて私の家の前の坂を、驚くべく高い笑聲を上げて、いつも上つたり下つたりしてゐた。しかし遂にこの騷々しい聲がうるさくなつて來た、それで私はどこか外(ほか)へ行つて遊ぶやうにと、云はずに居られなくなつた。彼は素直にお辭儀をして、それから――悲しさうに箒を引きずりながら――外(ほか)へ行つた。いつでも柔和で、火をおもちやにする機會さへ與へなければ、全く無害なので誰にも小言を云はれるわけは殆んどなかつた。私共の町の日常生活と彼との關係は犬や鷄のそれと殆んど同じであつた。それで、彼が最後に消えてしまつた時も、私は別に不足を感じなかつた。幾月も幾月も經つてから、何かの事で力の事を思ひ出した。

 『力はどうなつたらう』私はこの邊へ薪を持つてくる老人の薪屋に尋ねた。力はこの男の薪を運ぶ手傳をよくしたものであつた。

 『力ばかですか』老人は答へた。『あゝ、力ばかはかはいさうに死にました。……はい、一年程前に、全く急に死にましたんで、お醫者樣達は何か頭の病氣だと云ひました。ところで、今そのかはいさうな力について妙な話があります。

 『力が死んだ時、おふくろが、力の左の手に、その名前の力ばかを書きました、「力」を漢字で「ばか」をかなで書いたのです。それからおふくろは度々、祈願をしたさうで――もつと幸な[やぶちゃん注:「しあはせ」。]身分に生れ扁つて來るやうにと云ふお祈なんです。

 『ところが、三ケ月程前に麹町の何某樣のお屋敷に、左の手のひらに、文字のある男の兒が生れました。その文字は「力ばか」と全くはつきり讀めました。

 『そこでそのお屋敷の人達は、これは誰かの祈願の結果に相違ないと思ひましたので、方々を詮詮議しました。たうとう八百屋が、牛込に力ばかと云ふ子供がゐたこと、それから昨年の夏に死んだ事を知らせて來ました。そこで二人の下男をやつて、力のおふくろを尋ねました。

 『下男達は力のおふくろを見つけて、事の次第を話しますと、おふくろは非常に喜びました、――その何某樣の家は大層富んだ名高い家でしたから。しかし下男達は、その御屋敷では赤ちやんの手の「ぱか」と云ふ字で大層立腹しておいでになると云ひました。「一體お前さん處の力さんの墓はどこですか」と下男達は尋ねました。「善導寺の墓地でございます」とおふくろは答へました。下男たちは「どうか墓石のかけを少し下さい」と賴みました。

 『そこで母親は一緖に善導寺に行つて力の墓を見せました。それから下男達は、墓石のかけを少し風呂敷に包んで持つて行きました。……力の母親には金をいくらか――十圓だか、やりました』……

 『しかしそんな石のかけをどうするのだらう』私は尋ねた。

 『左樣』老人は答へた、『そんな名を手のひらに持つたままで生長するわけには參せんから。ところでそんな風に子供のからだについて來た文字を除くには、どうも外に仕方もありません。その前生のからだを葬つてある墓石から取つた土で皮膚をこすらねばなりません』……

 

[やぶちゃん注:「十圓」本書の刊行は明治三七(一九〇四)年四月である。明治三十三年の東京での白米の小売価格は一円十銭、大卒初任給が二十三円で、明治三十年頃まで溯れば、十円は現在の二十万円ほどの価値ともなる。

 これに酷似した話は、江戸時代の市井話に頻繁に載る。今すぐには示せないが、私の電子化したものの中にもあるはずである。

 最後に……私は、この小品が、好きだ……私は、一歳半で左肩関節に結核性カリエスを罹患した……されば、いじめられっ子であったから、こうした人々に強い親和感を持つようになったからである……私には……「力ばか」君の姿が……はっきりと……懐かしい親友として……既視感の中に……明確に想起されるからである…………]

2019/09/23

小泉八雲 安藝之助の夢 (田部隆次譯) 附・原拠参考文・陳翰「槐宮記」(書き下し文)

 

[やぶちゃん注:本篇(原題“ THE DREAM OF AKINOSUKE ”)は明治三七(一九〇四)年四月にボストン及びニュー・ヨークの「ホートン・ミフリン社」(BOSTON AND NEW YORK HOUGHTON MIFFLIN COMPANY)から出版された、恐らく小泉八雲の著作の中で最も日本で愛されている作品集「怪談」(原題“ KWAIDAN: Stories and Studies of Strange Things ”。来日後の第十作品集)の十四話目である。なお、小泉八雲はこの年の九月二十六日に五十四歳で心臓発作により急逝した。

 同作品集はInternet Archive”のこちらで全篇視認でき(リンク・ページは挿絵と扉標題。以下に示した本篇はここから。)、活字化されたものは“Project Gutenberg”のこちらで全篇が読める本篇はここ)。

 底本は上記英文サイト“Internet Archive”のこちらにある画像データをPDFで落し、視認した。これは第一書房が昭和一二(一九三七)年一月に刊行した「家庭版小泉八雲全集」(全十二巻)の第八巻全篇である。★【2025年3月30日底本変更・前注変更】時間を経て、国立国会図書館デジタルコレクションに本登録し、現行では、以上の第一書房版昭和六(一九三一)年一月に刊行した「學生版小泉八雲全集」(全十二巻)の第七巻が、国立国会図書館デジタルコレクションで公開されてある。(リンクは扉だが、「學生版」の文字はない。しかし、奥附を見て貰うと『學生版 【第二囘豫約】』とあり、『昭和六年一月十日 發行』とあることが確認出来る)、これが、前掲の底本と同じものであるが、やはり、外国のサイトのそれを底本とするのは、日本人小泉八雲に失礼であると考えた。されば、こちらで、再度、以下の「骨董」の作品群を改めて校正することとする。これが――私の小泉八雲への「義」――である。なお、之よりも前の元版の全集等が先行しているものの、私がそれらと比べた結果、実は先行する同社の「小泉八雲全集」のそれらは、訳が一部で異なっており、訳者等によって、かなりの補正・追加がされていることが、今回の正字補正作業の中で、はっきりと判って来た。いや、同じ「家庭版」と名打ったネット上の画像データでも、驚いたことに、有意に異なっていたのである。そうした意味でも――完全な仕切り直しの総点検――が必要であると決したものである。従って、旧前振りの括弧・鍵括弧の問題も、拡大とガンマ補正で確認し、正確を期する。本作はここから。

 田部隆次(たなべりゅうじ 明治八(一八七五)年~昭和三二(一九五七)年)氏については先に電子化した「人形の墓」の私の冒頭注を参照されたい。

 傍点「ヽ」は太字に代えた。

 最後に原拠とされる陳翰(ちんかん)「槐宮記(かいきゅうき)」(晩唐の屯田員外郎であった陳翰の撰になる伝奇か。但し、先行する酷似した中唐の李公佐撰の伝奇小説「南柯太守傳(なんかたいしゅでん)」がある)を訓読したものを附した。]

 

 

  安藝之助の夢

 

 昔、大和國、遠市と云ふ處に宮田安藝之助と云ふ鄕士がゐた。……〔ここで私は、日本の封建時代には兵士兼農夫の特殊階級、英國の鄕士(ヨーメン)の階級に相當するものがあつて、鄕士と呼ばれた事を讀者に告げねばならない〕

[やぶちゃん注:「鄕士」(がうし(ごうし))は江戸時代、城下町に住む武士に対して、農村に居住する武士を指して言った。本来、諸藩の家臣は兵農分離によって城下町に住むべきものとされていたが、農民支配の末端機構として郷士を利用する藩も少くなかった。また、財政難のために藩士を帰農させることもあり、新田開発に郷士を動員することもあった。郷士は地方によって呼び名が異なっており、薩摩藩の「外城家中」や土佐藩の「一領具足」、紀州藩の「地士」、藤堂藩の「無足人」などがその例である。その存在形態も異なるが、一般的に郷士は城下町の武士よりも身分的に低いものとされた(「ブリタニカ国際大百科事典」に拠った)。

「英國の鄕士(ヨーメン)」原本では“yeomen”と複数形。イングランドの独立自営農民ヨーマン(Yeoman)のこと。ウィキの「ヨーマン」によれば、十四『世紀半ば以降、イングランドでは百年戦争やペストの流行で』、『かつての封建制に異変が起こった。 貨幣経済の進展で地代が労働から生産物・貨幣になる中、ペストの大流行により』、『農奴が不足し、荘園制が古典荘園から純粋荘園へと移行した。 そして百年戦争や薔薇戦争で貴族が没落し』、『農奴が自立し始めた中ヨーマンが現れた』。十五『世紀のイングランドでは、ヨーマンが多数を占めたことにより、封建貴族の勢力が衰退し始めた。だが、農村内部が上層農民(後にジェントリ階級』(gentry:下級地主層の総称。「郷紳(きょうしん)」と訳される。貴族階級である男爵の下に位置し、正式には貴族に含まれないものの、貴族とともに上流階級を構成した)『を形成する)と没落農民とに区分されるようになり、農村共同体内部に利害の対立が起こった』とある。]

 安藝之助の庭に大きな古い杉の樹があつて、蒸し熱い日には彼はいつもその下で休んでゐた。或大層暖かな午後、彼がこの樹の下に、同じ鄕士の友人二人と酒を飮みながら、雜談に耽つて居るうちに、突然眠りを催した、あまり眠いので、お客の前だが、少しまどろむ事を許して貰ひたいと友人に賴んだ。それから、その樹の根に橫になつて、こんな夢を見た、――[やぶちゃん注:読点はママ。原文は“:—”であるから、穏当。]

 庭に橫になつて居ると、何か立派な大名行列のやうな行列が、すぐそばの坂を下つて來るのを見たので、それを見物しに起き上つたと思つた。大層立派な行列である事が分つた、――これまで見たことのない程いかめしいものであつた。それからそれが彼の家に向つて前進して來た。その先驅[やぶちゃん注:「さきがけ」。]に立派な服裝をした若い人々の一隊があつて、きらきらする靑い絹のかかつた御所車を曳いて居るのを見た。家に近く來た時行列がとまつた、それから立派な服裝の人――確かに位の高い人――がその行列から進み出て安藝之助に近づき、鄭重にお辭儀をして、それから云つた、

 『わが君さま、御前に參りましたのは常世(とこよ)の國王の家來でございます。主人國王は私に代つて御挨拶を申し上げ、そして御用を何でも私に仰せつけ下さるやうにと申しました。國王は又宮殿へ御出で下さる事をお願致ししますと、申上げよと申します。それ故どうかお迎にさし上げましたこの御車にすぐお召し下さいませ』

[やぶちゃん注:「常世」(とこよ)は、本邦で言うところの「不老不死の仙境」。中国伝来の神仙思想と結びついて形成された非常に古い観念とされる。「古事記」に既にある語である。]

 かう云ふ言葉を聞いて安藝之助は何か適當な返答をしたかつた。しかし彼は言葉の出ない程驚き且つ當惑した、――それと同時に彼の意志は彼からとけて行くやうであつた。それで家來が命じた通りにしかできなかつた。彼は車に乘つた。家來は彼のわきに乘つて、何か合圖をした。曳き手は絹の綱をとつて、南の方へその大きな車を向けた、――それから旅行が始まつた。

 驚いた事には、忽ちのうちに、車がこれまで見た事のない支那風の大きな樓門の前で止まつた。ここで家來は下りて云つた、「私は御着(おちやく)を知らせに參ります』――それから見えなくなつた。しばらく待つたあとで、安藝之助は、紫の絹の着物と、高い位を示す形の、高い帽子を冠つた二人の氣高い人が門から來るのを見た。この人々は恭しく彼に挨拶したあとで、車から下りる手傳をして、大きな門を通つて廣い庭を橫ぎつて、宮殿の入口に案內した。その宮殿の表ては東西へ數哩[やぶちゃん注:「マイル」。一マイルは約一キロ六百九メートル。]の距離に廣がつて居るやうであつた。安藝之助は、それから非常に大きな立派な應接室へ通された。案內者は彼を上席に導いて、彼等は恭しく離れて坐つた。その間に禮裝した侍女は茶菓を運んだ。茶菓のすんだあとで、二人の紫の着物をきた侍者は安藝之助の前に低くお辭儀をして、つぎの言葉を彼に申し述べた、――宮中の儀式に從つて銘々代る代る述べながら、――

 『只今、申上げまする事は、私共の光榮ある義務でございます、……こちらへお招きした理由につきまして。……主人國王は、あなたに御養子になつて戴く事をお願でございます。……そして丁度今日、結婚式をあげる事は王の願、又命令でございます、……王の姬君、內親王と。……私共はすぐに謁見室へ御案內致します。……そこで陛下は丁度お待ち受けてございます。……しかし先づあなたに適當な禮服を……お着せ申す事が必要と存じます』

 かう云つて侍者は一緖に立ち上つて、金蒔繪の大きな簞笥の置いてある床の間へ進んだ。簞笥を開いて、そのうちから立派な品の色々の着物と帶、それから冠をとり出した。それ等のものを安藝之助に着せて內親王の花婿にふさはしくした。それから謁見所へ案內した。そこで安藝之助は常世の國王がいかめしい高い黑の帽子を冠り、黃色の絹の着物を着て玉座の上に坐して居るのを見た。玉座の前にはお寺の佛像の如く、不動の姿勢で華やかに左右に大勢の大官が居ならんでゐた。そして安藝之助は、その眞中へ進んできまりの三拜の最敬禮をした。王は丁寧な言葉で彼に挨拶して、それから云つた。

 『わが面前へ呼ばれた理由については、すでに聞かれた通りである。御身をわが獨り娘の婿にするときめたから、――それで婚禮は今行ふ事にする』

 王の話が止むと、樂しい音樂の音が聞えた。それから美しい官女の長い行列が幕のうしろから進んで、花嫁の待つて居る部屋へ安藝之助を案內しに來た。

 部屋は非常に廣かつた。それでも婚禮を見に集つた大勢の客を入れる事は中々できなかつた。安藝之助が王女に面して、設けてある座蒲團の上に坐つた時――一同が、安藝之助に對して敬禮した。花嫁は天津乙女のやうに見えた、彼女の着物は夏の空のやうに美しかつた。そして婚禮は大歡喜のうちに行はれた。

[やぶちゃん注:「天津乙女」「あまつをとめ」。文は“a maiden of heaven”。天女。] 

 そのあとで新夫婦は、宮殿の一部分にかねて準備してあつたいくつかの部屋へ導かれた。そこで彼等は大勢の貴い人々の祝詞と數へきれぬお祝の品々をうけた。

 

 幾日か後に安藝之助は、再び玉座のある部屋へ呼ばれた。今度は以前よりも一層鄭重に迎へられた、それから王は、彼に云つた。

 『わが領土の西南に萊州[やぶちゃん注:「らいしう」。]と云ふ島がある。御身を今度その島の知事に任命した。その人民は忠實で柔順である。しかしそこの法律は未だ常世の國の法律と一致してゐない。それからそこの習慣は正しく整理されてゐない。責任を以てできるだけ、そこの社會狀態を改良する事を任せる、それで親切と智慧を以て彼等を治めて貰ひたい。萊州への旅行に必要な準備は、もう既にできて居る』

 

 そこで海岸までは貴族や役人の大護衞に伴はれて安藝之助と花嫁は常世の國の宮殿から出かけた。そして王の準備した立派な船に乘つた。それから順風におくられて、安全に萊州に行つた。そしてその島のよい人民が、彼等を歡迎するために岸に集つて居るのを見た。

 

 安藝之助は直ちに、彼の新しい任務にとりかかつた。その任務は別にむつかしいものではなかつた。知事となつての初めの三年間は、法律を制定してそれを行ふ事に重に忙しかつた。しかし彼は助けてくれる賢い相談役をもつて居た、そして彼はその仕事を不快と思はなかつた。全く終つた時に、昔の習慣できまつて居る儀式や、禮儀に出席するより外になすべき實際の任務はなかつた。病氣や貧苦のない程に、この國は健康地であり、又肥沃であつた。人民は善良で、法律を破る事はかつてなかつた。安盛之助はそれから萊州に二十年住んで治めた、――合せて二十三年とどまつた。その間に何の悲しみの影も彼の生涯をよぎらなかつた。

 しかし彼が知事になつてから二十四年目に一大不幸が彼に來た。七人の子供――五人の男の子と二人の女の子――を生んだ彼の妻は病死した。彼女は壯麗な儀式をもつて範龍口の地方の美しい丘の頂上に葬られた。そして非常に立派な記念碑が墓の上に建てられた。しかし安藝之助は、もはや生きてゐたいと思はない程、彼女の死を悲しんだ。

[やぶちゃん注:「範龍口」原文は“Hanryōkō”。原拠とされる「槐宮記」や、明らかにその濫觴である「南柯太守傳」では孰れも「盤龍岡(ばんりようこう(ばんりょうこう))」である。

 

 さて、きまり通りの忌服が終つた時、常世の宮殿から萊州へ使者が來た。使者は安藝之助にくやみの言葉を傳へて、それから彼に云つた、

 『私共の主人常世の國の王が、あなたにくりかへして云ふやうにと、命令なさる言葉はかうであります「今御身を御身の人々と御身の國へ送りかへすつもり。七人の子供の事は、王の孫であるから適當に養育する。それ故その子供については心配には及ばない」』

 この命令を受けで安藝之助は、おとなしく出發の用意をした。一切の事務が片つき、顧問や信賴した役人達に別れを告げる儀式も終つた時に、彼は港まで恭しく見送られた。そこで彼のために送られた船にのつた。船は碧い空の下を靑い海へと乘り出した。そして萊州の島の形までも靑くなつた。それから灰色になつた、それから永久に消えた。……そして安藝之助は不意に目をさました――彼自身の庭園の杉の樹の下で。……

 

 しばらく彼はぼんやりして目がくらんだ。しかし二人の友人は未だ彼のそばに坐つて、――酒を飮みながら談笑して居るのを見た。彼は當惑したやうに彼等を見つめて、大きな聲で叫んだ、

 『不思議だな――』

 『安衞之助殿は夢を見られたに相違ない』一人は笑つて、叫んだ。『何か不思議なものを見ましたか』

 それから安藝之助は自分の夢の話、――常世の領土の萊州の島に、二十三年間とどまつた夢の話をした、――しかし彼等は實際彼が數分間しか眠らなかつたから驚いた。

 一人の鄕士は云つた、

 『なる程、君は不思議なものを見ました。私共も君が眠つて居る間に妙なものを見た。小さい黃色の蝶が一つ君の顏の上をちよつとの間飛んでゐた。そして私共はそれを見てゐた。それからそれがその樹のそばで、君のわきの地面にとまつた。それからそれがとまると殆んど同時に大きい蟻が穴から出て來て、それを捕へて穴の中へ引きこんだ。丁度君が眼をさます前に、正しくその蝶が又穴から出て來て、前のやうに君の顏の上をヒラヒラ飛んで居るのを見た。がそれが不意に消えた、どこへ行つたのだか分らない』

 『多分それは安藝之助殿の魂だ』今一人の鄕士が云つた、――『たしかに安藝之助殿の口ヘ飛び込むのを見たと思つた。……しかしたとひ、その蝶が安藝之助殿の魂であつたとしても、その事はその夢の證明にはなりさうにない』

 『蟻が說明するかも知れない』初めの人が云つた。『蟻は不思議なものだ……或はお化けかも知れない。……とにかくあの杉の樹の下に大きな蟻の巢がある』

 『見よう』この思ひつきにひどく感心して、安藝之助が叫んだ。それから彼は鍬を取に行つた。

 

 杉の樹の𢌞りから下へかけての地面は最も驚くべき風に、蟻の巨大な群によつて掘られてゐた。さらにその上に蟻はその掘つた處へ建築した。そして藁と粘土と蔕(へた)や莖でできた極めて小さい建造物は、奇妙に小さい都會に似てゐた。外のものより著しく大きな建物の眞中に、黃色のやうな羽と、長い、黑い頭をもつた大層大きな蟻の身の𢌞りに、小さい蟻の驚くべき群がゐた。

 『あ〻、私の夢の王が居る』安藝之助が叫んだ、『そして常世の御殿がある。……こりや大變だ。……萊州はそこの、どこか西南にある筈だ――あの大きい根の左の方に、……さうだ、ここにある。……あ〻、不思議だ。今度はきつと範龍口[やぶちゃん注:ママ。]の山と姬君の墓を見つけられる』……

 彼はこはれた巢の中をしきりにさがした。そしてたうとう小さい丘を見つけた、その上に佛敎の碑に似た形の、水で角のとれた小石が据ゑであつた。その下に彼は粘土につまれた――雌蟻の死體を見つけた。

 

[やぶちゃん注:私は原拠として挙げるのであれば、先行する中唐の李公佐撰の「南柯太守傳」(リンク先は「中國哲學書電子化計劃」の同作)を示すべきかと思うのだが、ちょっと長いので、講談社学術文庫一九九〇年刊小泉八雲著・平川祐弘編「怪談・奇談」が「原拠」と推定しつつも、あくまで『参考』として載せる、★小泉八雲旧蔵の帝国文庫本「馬琴傑作集」所収の「三七全傳南柯夢」の「序」に引かれている陳翰の「槐宮記」を掲げてお茶を濁すこととする。但し、「南柯太守傳」は好きな作品なので、何時か、別に電子化訓読をしたいと思っている。その時は追記する。

 底本は、国立国会図書館デジタルコレクションのこちらを視認した。但し、ご覧の通り、「槐宮記」パートは句点のみが打たれた白文であるから、訓読した。訓読に際しては、講談社学術文庫(同書は白文を示した後に訓読文を掲げてある。但し、漢字は新字である)のそれを一部で参考にさせてもらった。句点を適宜読点に代え、読点や記号を追加し、段落も成形し(白文の句点位置には従わなかった部分がある)、読みも一部で歴史的仮名遣で補った。オリジナルに注を附した。なお、最後にある「簑笠隱居」という署名は曲亭馬琴の晩年の別号である。

   *

 淳于棼(じゆんうふん)、廣陵に家す。宅南に、古き槐(えんじゆ)、有り。生(せい)、其の下に豪飮し、因りて醉ふて疾(しつ)に致れば[やぶちゃん注:悪酔いしてしまったので。]、二友、生を扶(たす)けて、歸る。

 夢に、一(ひとり)の玄(くろ)き衣(ころも)の使者、曰はく、

「槐安國王(かいあんこくわう)、奉邀(はうよう)す。」

と。

[やぶちゃん注:「槐」バラ亜綱マメ目マメ科エンジュ Styphonolobium japonicum 。落葉高木。中国原産で、街路樹によく用いられる。志怪小説等を読むと、中国では霊の宿る木と考えられていたらしい。

「奉邀す」お出迎え申し上げる。御招聘なされておられます。「邀」は「招く」の意。]

 生、二使に隨ひて上車するに、古き槐を指して一穴中に入る。大城、朱門、題して「大槐安國」と曰(い)ふ。

 一騎有り、傳呼して曰はく、

「駙馬、遠降(えんこう)せり。」

と。

[やぶちゃん注:「駙馬」は元は「天子の副え馬」を指したが、昔、中国で天子の娘の夫は「駙馬都尉(ふばとい)」に任ぜられたところから「天子や貴人の婿」を謂い、ここは後者である。

「遠降」は「遠くにいる異民族が従いなびくこと」(投降)。ここは――人間である異民族――が、召しに応じて参上したことを上奏して言っている。]

 生を引きて、廣殿に升(のぼ)る。見るに、一人、素練(それん)[やぶちゃん注:白い練絹(ねりぎぬ)。]の服を衣(き)、朱華(しゆくわ)の冠(かんむり)す。生をして王を拜せしめ、王、曰はく、

「前(さき)に賢尊の命、あり。女(むすめ)の瑶芳(えうはう)をして君子に奉事(はうじ)せしむを許す。」

と。

[やぶちゃん注:「賢尊の命」貴君(淳于棼)の御尊父からの命令(婚姻許可)。

「君子」ここは王の娘婿となる淳于棼生を敬して呼んだもの。]

 僊姬(せんき)、數十有り。樂を奉じ、燭を執りて引き導く。金翠(きんすい)の步障(ほしやう)、玲瓏(れいろう)、斷へず。

[やぶちゃん注:「僊姬」仙女のように美しい女たち。

「金翠の步障」金と翡翠で作った美しい「步障」(竹・木などで枠を作り、布帛(ふはく)を張り巡らした囲い。目隠しとしたり、女性が外出時に身を蔽い隠したりするのに用いた)。

「玲瓏」実は原文は「玲」が「珍」となっている。意味が通らぬので特異的に変えた。所持する「南柯太守傳」でも「玲瓏」になっている。「玉のように輝くさま」又は「玉などの触れ合って美しく鳴るさま。音声の澄んで響くさま」を指す。美姫たちと、仙楽であるから、二重にとれる。]

 一門に至る。「金儀宮」と號(がう)し、一女子「金枝公主」と號(よば)はる。儼(おごそか)なること、神僊のごとし。交驩(かうくわん)して禮を成せり。情禮、日に洽(あまね)し。

[やぶちゃん注:「交驩」互いに親しく交わり楽しむこと。

「情禮」愛情と夫への礼節。

「洽(あまね)し」「情禮」が日増しに厚いものとなってゆく。]

 王、曰はく、

「吾が南柯郡は、政事、理(をさま)らず。屈(ま)げて、卿守(けいしゆ)と爲(な)れ。」

と。

 有司[やぶちゃん注:官吏。]に勅(ちよく)し、金玉・錦綉(きんしう)を出だし、僕・妾・車馬、旋(たちま)ち、廣衢(くわうく)に列し、公主の行くを餞(せん)す。

[やぶちゃん注:「卿守」郡の最高責任者(司令官)であろう。

「錦綉」錦(にしき)と刺繡を施した美しい織物・衣服。

「旋」は底本では「施」であるが、どうも読めない。ここは講談社学術文庫が『施(旋)』とし「たちまちに」と訓じているのに従った。

「廣衢」広い道。大通り。]

 夫人、子(こ)を戒めて曰はく、

「淳于郞は、性、剛(かう)にして、酒を好めり。婦の道爲(た)るは、柔順に在るを貴(たふと)む。爾(なんぢ)、善(よ)く之に事(つか)へよ。」

と。

[やぶちゃん注:「夫人」王の夫人。娘である金枝公主に忠告として添えた言葉。]

 生は日を累(かさ)ねて郡に至る。官吏・僧・道、有り。音樂もて來迎す。車を下り、風俗を省(かへり)み、疾苦を察すれば、郡中、大ひに理(をさ)まる。

[やぶちゃん注:「官吏・僧・道」出迎えた郡の役人と僧侶と道士。]

 凡そ二十載、百姓(ひやくせい)、生きながらにして祠(ほこら)を立て、王は爵を賜ひ、邑(いう)を錫(たま)ふ。位(くらゐ)は台輔(たいほ)に居(を)らしむ。五男二女、生まれ、榮盛(えいせい)、比(くら)ぶるもの莫(な)し。

[やぶちゃん注:「百姓、生きながらにして祠を立て」淳于棼の善政に感謝して、生きながらにして神として祀られ、祠が建てられたのである。中国では実際にあった。

「邑」領地。

「台輔」天子を補佐し、百官を統率する者。宰相。]

 公主、疾(しつ)に遇ひて薨(かう)ず。生は請ひて、喪を護り、國へ赴く。王は夫人と素服(そふく)にて、郊(こう)に慟哭す。儀杖・羽葆(うほ)を備へ、鼓吹して、主を盤龍岡(ばんりようこう)に葬る。

[やぶちゃん注:「素服」喪服。

「郊」郊外まで王と夫人が遺体を迎えに来たのである。

「儀杖」底本は「備儀」であるが、おかしい。「南柯太守傳」で「杖」を補った。

「羽葆」儀式用の鳥の羽飾りのついた車(ここは霊柩車)の覆い。車蓋(しゃがい)。]

 生は貴戚を以つて威福、日に盛んなり。人、有り。上表して云ふ、

「玄象(げんしやう)に謫見(たくけん)し、國に、大恐、有り。都邑(という)は遷徙(せんし)し、宗廟は崩壞す。事は蕭牆(せうしやう)に生ず。」

と。

[やぶちゃん注:「玄象」天(日月星辰)の状態。

「謫見」「謫」は普通でない「気(き)」を指す。異常な気の動きが漂っていることを言う。

「遷徙」都が遷ることになること。

「蕭牆」現代仮名遣「しょうしょう」。本来は「君臣の会見する所に設けた囲い」であるが、転じて「内輪・一族・国内」の意。これは国内。]

 時に議するに、生の僭侈(せんし)の應(おう)を以つてす。

[やぶちゃん注:「僭侈」は身分不相応に奢り昂ぶること。これは、「凶兆の原因は、淳于棼が王を敬わず、好き勝手にしているからである。」というのである。所謂、讒言である。「南柯太守傳」を見ると、最初に異民族が原因と言っているので、淳于棼が人間であるから禍いを齎すという作品構造の根幹に触れる箇所がある。

 王は、因りて、生に命じて曰はく、

「卿は暫く本里に歸り、親族に一見すべし。諸孫は以つて、念を爲すこと、無かられ。」

と。

[やぶちゃん注:後半部は「孫たち(淳于棼の子どもたち)のことは全く心配はいらない。」の意。]

 復た、二使者をして、一穴より、送り出ださしむ。

 遂に寤(さ)む。

 見れば、家僮(かどう)は庭にて彗(はうき)を擁し、二客は榻(とう)にて足を濯ふ。斜日は未だ西垣に隱れず。餘樽、尙ほ、東牖(とういう)に湛(たた)へり。

[やぶちゃん注:「家僮」家で使っている少年のボーイ。

「彗」箒(ほうき)。

「二客」最初と対応していない。「南柯太守傳」では気分が良くなるまで待って、「足を洗って帰る」と淳于棼に言っていて、齟齬がない。

「榻」底本は「搨」。「南柯太守傳」で訂した。次の段落の「榻」も同じ誤りをしている(訂した)。長椅子。

「餘樽」底本は「餘尊」。「南柯太守傳」で訂した。

「東牖」東側の窓際。]

 因りて、二者と、古き槐の下の穴を尋ぬ。洞然として明朗[やぶちゃん注:ぽっかりとして明るい。]、一榻(とう)を容(い)るるべし。土壤を上げ、城・廟・臺殿(だいでん)の狀を爲す。蟻(あり)、數斛(こく)有り。二つの大きなる蟻は、素翼(そよく)にして朱首(しゆしゆ)、乃(すなは)ち、槐安國王なり。又、一穴を窮むれば、直(た)だ、南枝に上る。群れたる蟻、亦、其の中に處(を)る。卽ち、南柯郡なり。又、一穴は盤屈して、龍蛇の狀のごとし。小墳、有り。高さ尺餘り。卽ち、盤龍山岡(ばんりようざんこう)なり。

[やぶちゃん注:「洞然として明朗」「朗」は底本では「郞」。「南柯太守傳」で訂した。ぽっかりとして明るい様子。

「斛」一斛は十斗(約百八十リットル)。何万匹もいたのである。]

 生は追想して、感歎す。遽(には)かに遺(のこ)して掩塞(えんそく)す。

[やぶちゃん注:淳于棼は妻の塚を友人らに壊されたくなかったから、慌ててそこを埋め戻したのである。]

 是の夕(ゆふべ)、風雨、暴(には)かに發す。

 且つ、視れば、其の穴、遂に失せ、群れたる蟻の之(ゆ)く所、知る莫し。

「國記に、大恐、有り。都邑は遷徒す。」

とは、此れ、其の騐(しるし)なり。  右陳翰「槐宮記」

 

[やぶちゃん注:以下、馬琴の識語。カタカナをひらがなに直し、読みの一部を本文に出した。ほぼ総ルビであるが、読みは一部に留めた。クレジットと署名は引き上げた。なお、これは講談社学術文庫版にはない。前半部分に本原拠の絡みがあるので、電子化した。但し、後半の「三七全傳南柯夢」に関わる注は附さなかった。]

 

「槐宮記(くわいきうき)」は淳于棼(じゆんうふん)が故事なり。陳翰、嘗つて、棼が夢に嫁(か)して、榮枯得喪(とくそう)の理(り)を推(お)すこと、沈既濟(ちんきせい)が「枕中記」に一般(おな)じ。皆、是れ、寓言といへども、蒙昧を醒ますに足(た)れり。予も亦、取ることあつて、三勝半七(さんかつはんしち)が奇耦(きぐう)を述べ、名づけて「三七全傳南柯夢(さんしちぜんでんなんかのゆめ)」と謂ふ。事(こと)は米谷山(こねだにやま)の楠南柯(なんなんか)に起こつて、千日寺(せんにちでら)の南无佛(なむぶつ)に畢(を)はる。文辭、荒唐(くわいたう)にして、君子は一噱(いちぎやく)を惹(ひ)く似たり。然(しか)れども、艷曲淫奔(ゑんきよくいんほん)の脚色(きやくしき)を借(か)らずして、勸懲(くわんちやう)の微意(びい)每卷(まきごと)に存す。閲(み)る者の利害、彼(かれ)と此れと、如何(いかん)。因(よつ)て數行(すごう)を卷端(くわんたん)に題すと云。

 

文化四年丁卯夏盂   飯 台  簑笠隱居

   *

「沈既濟」沈既済(しんきせい 七五〇年~八〇〇年頃)は盛唐末から中唐にかけて生きた歴史家で小説家。蘇州呉の人。

「枕中記」「ちんちうき」。馬琴は「しんちうき」とルビしている。八〇〇年頃の成立。確かに、夢落ち構造が非常によく似ている。「南柯太守傳」(八〇二年成立)との影響関係は判らないが、以上の通り、両作は殆んど同時期に書かれたものと推定されてはいる。なお、私はサイト版で、

『黃粱夢 芥川龍之介 附 藪野直史注 + 附 原典 沈既濟「枕中記」全評釈 + 附 同原典沈既濟「枕中記」藪野直史翻案「枕の中」他」』

という、長大なものを公開している。お暇な折りに覗いて戴けると嬉しい。

「奇耦」奇遇に同じい。

「一噱」普通は「いちきやく(いっきゃく)」で「噱」は「大笑いすること」の意。「一笑」に同じ。

「飯台」馬琴の別号に「飯台陳人」がある。

「文化四年」一八〇七年。]

小泉八雲 十六日櫻  (田部隆次譯) 附・原拠

[やぶちゃん注:本篇(原題“ JIU-ROKU-ZAKURA ”。されば、正しくは「十六櫻」である)は明治三七(一九〇四)年四月にボストン及びニュー・ヨークの「ホートン・ミフリン社」(BOSTON AND NEW YORK HOUGHTON MIFFLIN COMPANY)から出版された、恐らく小泉八雲の著作の中で最も日本で愛されている作品集「怪談」(原題“ KWAIDAN: Stories and Studies of Strange Things ”。来日後の第十作品集)の十三話目である。なお、小泉八雲はこの年の九月二十六日に五十四歳で心臓発作により急逝した。

 同作品集はInternet Archive”のこちらで全篇視認でき(リンク・ページは挿絵と扉標題。以下に示した本篇はここから。)、活字化されたものは“Project Gutenberg”のこちらで全篇が読める本篇はここ)。

 底本は上記英文サイト“Internet Archive”のこちらにある画像データをPDFで落し、視認した。これは第一書房が昭和一二(一九三七)年一月に刊行した「家庭版小泉八雲全集」(全十二巻)の第八巻全篇である。★【2025年3月29日底本変更・前注変更】時間を経て、国立国会図書館デジタルコレクションに本登録し、現行では、以上の第一書房版昭和六(一九三一)年一月に刊行した「學生版小泉八雲全集」(全十二巻)の第七巻が、国立国会図書館デジタルコレクションで公開されてある。(リンクは扉だが、「學生版」の文字はない。しかし、奥附を見て貰うと『學生版 【第二囘豫約】』とあり、『昭和六年一月十日 發行』とあることが確認出来る)、これが、前掲の底本と同じものであるが、やはり、外国のサイトのそれを底本とするのは、日本人小泉八雲に失礼であると考えた。されば、こちらで、再度、以下の「骨董」の作品群を改めて校正することとする。これが――私の小泉八雲への「義」――である。なお、之よりも前の元版の全集等が先行しているものの、私がそれらと比べた結果、実は先行する同社の「小泉八雲全集」のそれらは、訳が一部で異なっており、訳者等によって、かなりの補正・追加がされていることが、今回の正字補正作業の中で、はっきりと判って来た。いや、同じ「家庭版」と名打ったネット上の画像データでも、驚いたことに、有意に異なっていたのである。そうした意味でも――完全な仕切り直しの総点検――が必要であると決したものである。従って、旧前振りの括弧・鍵括弧の問題も、拡大とガンマ補正で確認し、正確を期する。本作はここから。

 田部隆次(たなべりゅうじ 明治八(一八七五)年~昭和三二(一九五七)年)氏については先に電子化した「人形の墓」の私の冒頭注を参照されたい。

 最後に原拠とされるものを附した。

 なお、田部は原本で標題下に配されてある俳句、

   Uson no yona,―

   Jiu-roku-sakura

    Saki ni keri!

を省略してしまっている。これは無記名であるが、正岡子規の句で、

    松山十六櫻

 うそのやうな十六日櫻咲きにけり

で、「寒山落木」巻五の明治二九(一八九六)年春の部に載る。なお、子規は、本書刊行の二年前に逝去している。言わずもがなであるが、中七は「いざよひざくら」と読むのが正しい。而して、以下の本文も、「いざよひざくら」として読むべきである。

 

 

  十六日櫻

 

 伊豫國溫泉郡山越村に『十六日櫻』と云ふ大層名高い櫻の古い樹がある。その名の理由は每年陰曆の正月十六日しかもその日にだけ花が咲くからである。それで櫻の元來の性質から云へば、春を待つて花咲くのであるが、――この樓の開花は大寒の時節である。しかし十六日櫻は自分のものでない――少くとも元來自分のものではなかつた生命で花をつける。その樹には或人の魂が潛んで居る。

[やぶちゃん注:「伊豫國溫泉郡山越村」原文は“In Wakegori, a district of the province of Iyo”で「和氣郡」となっているが、後掲する原拠通りに田部は郡名を代えている。なお、本来は、「郡」は「ぐん」ではなく、「こおり」(歴史的仮名遣「こほり」)、江戸時代以前では、「の こほり」或いは「の ごほり」と読むのが、一般的である。小泉八雲が「和氣郡」としたことについて、講談社学術文庫一九九〇年刊小泉八雲著・平川祐弘編「怪談・奇談」の布村弘氏の「解説」では、『再話で地名を「伊予の和気郡」としたのは』本作品集で先行する「姥櫻」(リンク先は私の電子テクスト)『で、同じ伊予の温泉郡とあったことの反復を避けるためだろう』と述べておられるが、果たしてそうだろうか? 確かに原拠とされるものでは「溫泉郡(おんせんごほり)」とするのであるが、個人ブログ「松山市の6名桜花」によれば、現在の「十六日桜」は松山市御幸(みゆき)にある天徳寺(グーグル・マップ・データ。以下、無指示は同じ)にあり、確かにここは旧温泉郡であるが、『松山市で一番早く開花する「十六日桜」、松山市指定の天然記念物「十六日桜・イザヨイザクラ」で、桜を見たいと願う病父のため孝子「吉平」が桜に祈ったところ旧正月』十六『日に花が咲いた。この奇蹟により老父は長寿を得たという伝説がある』とあるものの、「松山市」公式サイト内の「十六日桜」には、『御幸』一『丁目の天徳寺境内と桜ヶ谷の吉平屋敷跡とにあり、ヤマザクラの早咲きの品種で、旧正月』十六『日ごろに開花するというので、この名がある』。『この桜については、伝承が種々残されているが、老翁がもう花を見ることもあるまいと嘆いたことから、これに感応した桜が早く咲くようになったというもの、長く病床にあった父が桜の花を見たいと願うので、子の吉平が庭の桜に祈ったところ、寒中の』一『月にもかかわらず』、十六『日に花が咲いた。この奇跡によって老父は以後』、『長寿を保ったというもの、の』二『種に大別される。小泉八雲が著書『Kwaidan』の中で、正岡子規の「うそのよな 十六日桜 咲きにけり」を引用し、『文藝倶楽部』の第七巻二号』(三号の誤りと思われる)『に『掲載された前者の伝承を元に英訳再話したことでも有名』。『十六日桜の古いものは戦前』、『山越』(やまごえ)『の龍穏寺』(りゅうおんじ)『にあったが、戦災で焼け枯死した。現在、前記』二『ヵ所のものは、龍穏寺からの株分けが元であるといわれているが、花期も遅く、十六日桜の形質を保ったものではなく、実生による変異品種のようである』とあるのである。則ち、現在の「十六桜」は伝承のそれとは異なるものである。さて、しかもこの龍穏寺(『文藝俱樂部』版も「溫泉郡」としながら、この寺名を出す)は実は旧和気郡山越村なのである(現在の「十六桜」がある天徳寺の西南西三百六十メートルの直近。ここ。近代の行政区画としての原型(後に統合して広域で再構成される)の温泉郡は、明治一一(一八七八)年の発足である)。後で原拠とされるそれを掲げるが、どうも、展開が有意に異なるのが非常に気になる小泉八雲は『文藝俱樂部』版を参考にはしたものの、別に、誰かから、変形したヴァージョンの話を聞き書きした可能性が窺われ、或いは、そこで原木の「十六桜」が正しく旧和気郡にあった龍穏寺のものであると聴いたのを、かく提示したのではなかったろうか?

 

 その人は伊豫の武士であつた。樹はその人の庭にあつて、時が來れば――卽ち三月の終りか四月の始め頃には、いつも花が咲いた。子供の時にはその樹の下で遊んだ。兩親や祖父母や祖先は、百年以上も續いて季節每に讚美の歌を書いた短册を、花の咲いた枝にかけて來た。彼自身も大層老いて――子供達には皆先だたれた、それでこの世に心殘りのものはその樹の外に何にもなかつた。ところで或年の夏、その樹が凋んで枯れた。

 この上もなく老人はその樹のために悲しんだ。そこで親切な隣人達は――老人を慰めるために――綺麗な櫻の若木を見つけて、その庭に植ゑた。そこで老人は禮を云つて嬉しさうな顏をした。しかし實際老人の心は痛みに滿ちてゐた、餘りに老樹を愛してゐたので、何物も代つてそれをなくした悲しみを慰める事ができないのであつた。

 遂に老人によい思ひつきが浮んだ。枯れかかつで居る樹の助かる方法を思ひ出した。(それは一月十六日であつた)獨りで庭へ出で凋れた樹の前に平伏して、云つた、『どうか御願だからもう一度花を咲かして貰ひたい――自分はお前の身代りになるから』(卽ち神々のなさけによつて、人は外の人、或は動物或は樹木のためにでも、實際生命をすてる事ができる――そして身代りに立つ事ができるものと信じられて居る)それからその樹の下に白布といくつかの敷物を敷いて、その敷物の上で武士の式通りの切腹を行つた。それでこの人の魂はその樹に移つて、その時刻に花を咲かせた。

 それで一月十六日、雪の時節に、每年今もなほ花が咲く。

 

[やぶちゃん注:前掲した講談社学術文庫「怪談・奇談」の布村弘氏の「解説」によれば、『文藝俱樂部』第七巻第三号の「諸國奇談」六篇の中の一つである、愛媛の「淡水生」なる人物が書いた「十六日櫻」が本篇の原拠とされる。しかし、既に述べた通り、隣人たちが老人のために若木の桜を植えてやったり、老人が切腹して桜に自らの命と引き換えに再び生命を与えたというドラマテックな展開部が全く存在しない。「十六桜」の伝承にそうした数奇な伝承譚がないとならば、これは、小泉八雲が、そうした創作を補ったと考える方が自然であると私は思う。小泉八雲の死後、五年後の明治四二(一九〇九)年松山市勧業協会刊の東(ひがし)俊造著「松山案內」の「十六日櫻」の条には(リンク先は国立国会図書館デジタルコレクションの画像)、旧地にあった桜についての碑文が活字化されているが、やはり孝行譚なのである。

 以下は講談社学術文庫「怪談・奇談」に「原拠」として示されたものを、漢字を恣意的に正字化して示した。総ルビであるが、読みは一部に留めた。歴史的仮名遣の誤りはママである。

   *

      十六日櫻   愛媛  淡水生

 伊豫國溫泉郡(をんせんごほり)山越村(やまごえむら)龍穩寺の境内に十六日櫻と言ふ一つの櫻樹あり、每年陰曆正月十六日には氣候の寒暖にかゝわらず蕾(つぼみ)を結び必ず其日に花を開く、又此櫻の一名を節會櫻(せちえざくら)とも言ひて舒明天皇[やぶちゃん注:生没年は推古天皇元(五九三)年(?)から舒明天皇一三(六四一)年。在位は六二九年から六四一年。]道後溫泉に行幸(みゆき)遊ばされしときも此櫻を叡覽あらせ給ひしと聞く、冷泉院爲村[やぶちゃん注:江戸中期の公卿・歌人。生没年は正徳二(一七一二)年から安永三(一七七四)年。]卿の歌にも『初春のはつ花櫻(さくら)めづらしく都の梅の盛(さかり)とも見る』と詠(よま)れしとかや、今櫻の由來を尋るに往昔(むかし)此里に花を愛する翁(をきな)ありしが、或年の正月十六日此樹下(じゆか)にたゝずみて吾が齡(よはひ)已に八旬に餘りたれば、又花咲く春に逢ふこともあるらんかと獨言(ひとりごと)せしに不思議や櫻樹(わうじゆ)忽ち二三の蕾綻(ほころ)びければ、翁の喜び言はんかたなく見る人皆淚を催しける、實(げ)に草木さえも心ありて其情(じやう)に感ぜしならん、夫(それ)より今に至る迄日を違(たが)えず蕾を結び花咲くと言ふ、此日は遠近(をちこち)の文人墨客(ぼくきやく)樹下に會(くわい)して終日(しゆふじつ)花を愛し樂(たのしみ)を盡して歸る、諸君も道後溫泉に入浴の際には一度杖を曳き賜(たま)え何でも道後よりは二十町[やぶちゃん注:約二キロメートル。実測で二・五キロメートル。]に不足(ならぬ)そうな。

   *]

2019/09/22

小泉八雲 靑柳のはなし  (田部隆次譯) 附・原拠「多滿寸太禮」の「柳情靈妖」

[やぶちゃん注:本篇(原題“ THE STORY OF AOYAGI ”)は明治三七(一九〇四)年四月にボストン及びニュー・ヨークの「ホートン・ミフリン社」(BOSTON AND NEW YORK HOUGHTON MIFFLIN COMPANY)から出版された、恐らく小泉八雲の著作の中で最も日本で愛されている作品集「怪談」(原題“ KWAIDAN: Stories and Studies of Strange Things ”。来日後の第十作品集)の十二話目である。なお、小泉八雲はこの年の九月二十六日に五十四歳で心臓発作により急逝した。

 同作品集は“Internet Archive”のこちらで全篇視認でき(リンク・ページは挿絵と扉標題。以下に示した本篇はここから。)、活字化されたものは“Project Gutenberg”のこちらで全篇が読める本篇はここ)。

 底本は上記英文サイト“Internet Archive”のこちらにある画像データをPDFで落し、視認した。これは第一書房が昭和一二(一九三七)年一月に刊行した「家庭版小泉八雲全集」(全十二巻)の第八巻全篇である。★【2025年3月29日底本変更・前注変更】時間を経て、国立国会図書館デジタルコレクションに本登録し、現行では、以上の第一書房版昭和六(一九三一)年一月に刊行した「學生版小泉八雲全集」(全十二巻)の第七巻が、国立国会図書館デジタルコレクションで公開されてある。(リンクは扉だが、「學生版」の文字はない。しかし、奥附を見て貰うと『學生版 【第二囘豫約】』とあり、『昭和六年一月十日 發行』とあることが確認出来る)、これが、前掲の底本と同じものであるが、やはり、外国のサイトのそれを底本とするのは、日本人小泉八雲に失礼であると考えた。されば、こちらで、再度、以下の「骨董」の作品群を改めて校正することとする。これが――私の小泉八雲への「義」――である。なお、之よりも前の元版の全集等が先行しているものの、私がそれらと比べた結果、実は先行する同社の「小泉八雲全集」のそれらは、訳が一部で異なっており、訳者等によって、かなりの補正・追加がされていることが、今回の正字補正作業の中で、はっきりと判って来た。いや、同じ「家庭版」と名打ったネット上の画像データでも、驚いたことに、有意に異なっていたのである。そうした意味でも――完全な仕切り直しの総点検――が必要であると決したものである。従って、旧前振りの括弧・鍵括弧の問題も、拡大とガンマ補正で確認し、正確を期する。本作はここから。

 田部隆次(たなべりゅうじ 明治八(一八七五)年~昭和三二(一九五七)年)氏については先に電子化した「人形の墓」の私の冒頭注を参照されたい。

 作中の和歌は孰れもポイント落ちであるが、本文と同ポイントで示し、少し上に上げた。漢詩の訳注は作品の最後に、字下げポイント落ちで附されてあるが、漢詩の後に同ポイントで示した。

 最後に示した原拠である「玉すだれ」或いは「多滿寸太禮」は、辻堂非風子(詳細事蹟不祥)作で、元禄一七(一六九四)年序の浮世草子怪談集。全七巻。明代の志怪小説「剪燈新話」・「剪燈余話」からの翻案を多く収める。その原拠「柳情靈妖」を附した。なお、私はこの一篇、浄瑠璃のように切なく、すこぶる附きで好きである。【2025年3月29日追記】私は、後の2023年にブログ・カテゴリ「怪奇談集Ⅱ」 で「多滿寸太禮」全篇の電子化注を完遂している。但し、そこにある「多滿寸太禮卷第三 柳情靈妖」は、ここで電子化したもの(小泉八雲旧蔵本)とは異なるものを底本として、全くのゼロから起こして注しているので、そちらも、是非、参照されたい。

 

  靑柳のはなし

 

 文明年間(西曆一四六九~一四八六[やぶちゃん注:小泉八雲の誤りで、文明は十九年まであり、西暦では一四八七年である。])能登の國の大名、畠山義統(よしむね)の家臣に友忠と云ふ若い侍があつた。友忠は越前の生れであつたが、若い時小姓として、能登の大名の屋敷へ引取られ、大名の監督の下に武藝を職とするやうに敎育を受けた。生長するに從つて、文武兩道の達人となつたので、引續き君侯の覺えめでたかつた。快活なる性質と人好きのする應接ぶりと、それから甚だ立派な風采とを生れつきもつてゐたので、彼は武士仲間に甚だ敬愛せられてゐた。

[やぶちゃん注:「畠山義統」(?~明応六(一四九七)年)は室町後期から戦国前期の武将。守護大名。室町幕府相伴衆・能登守護。能登畠山氏の第三代当主。第二代代当主畠山義忠の嫡男畠山義有の嫡男。永享一二(一四四〇)年頃、父が祖父に先立って戦死(文明五(一四七三)年の記録に義統三十余歳という記録があるので、義統が誕生して間もないころだと思われる)したため、祖父より世子として指名された。その後、享徳四(一四五五)年に祖父が隠居したため、家督を継いで当主となった。但し、若年であったため、祖父による補佐を暫くは受けた。「応仁の乱」では同族の畠山義就(よしひろ/よしなり)を支持し、山名宗全が総大将である西軍に与し、細川勝元や畠山政長の東軍と戦った。「応仁の乱」が終わると、能登に帰国し、以後は在国大名として守護大名としての権力再編・強化に務めた。文明一一(一四七九)年頃には、越後守護上杉房定と婚姻関係(具体的な婚姻関係は未詳)を結び、越中侵攻を企てている。長享元(一四八七)年、加賀の一向一揆が起こると、加賀守護富樫政親を支援した。やがて、延徳二(一四九〇)年に能登門徒による義統暗殺計画が発覚、義統は越後守護代長尾能景と連合して越中・加賀の一向一揆と開戦した。しかし、一揆側は畠山一族の勢力削減を図る管領細川政元の支援を受けており、決着はつかなかった。義統は文化人でもあり、「応仁の乱」で荒廃した京都から、多くの文化人が能登に下向してきたため、能登は大いに繁栄した(以上はウィキの「畠山義統」に拠った)。

「友忠」原拠では岩木七郎友忠である。事蹟は不詳である。]

 友忠が二十の頃、畠山義統の親戚京都の大大名細川政元へ內密の出向の使にやられた。趙前を通つて旅するやうに命ぜられたので、この靑年は途中、一人ぐらしの母を訪れる事の許しを願ひ出て、許可を得た。

 出かけた時は、その年の最も寒い時であつた。雪は野山を蔽うてゐた。彼は强い馬に乘つてゐたが、進みのおそいことは仕方がなかつた。彼のたどつた道は山ばかりの所で、人家は少く、且つその間は遠く離れてゐた。彼の旅行の第二日目に、長時間の乘馬にくたびれたあとで、夜おそくまで目的の宿屋に着く事ができなかつたので、彼は當惑した。彼の心配したのも無理はなかつた、烈しい吹雪が、恐ろしく寒い風を伴うて來て、馬は疲勞の徵し[やぶちゃん注:「きざし」と訓じておく。]を表はして來たから。しかし、その苦しい時に思ひがけなく、友忠は柳の木のある近い坂の上に茅屋の屋根を認めた。やつとの事で疲れた馬をはげまして、その家に赴いた。それから、風の入らぬやうにしめ切つてある雨戶を烈しくたたいた。一人の老婦人がそれをあけて、その立派な見知らぬ人を見て、氣の毒がつて聲をかけた、『まあ、お氣の毒、――若いお方がこんな天氣に獨りで旅をされて。……さあ、どうぞお入り下され』

 

 友忠は馬から下りた。それから後ろの物置へ馬を連れて行つたあとで、その茅屋の中に入つた。そこには老人と一人の娘が割り竹を焚いてあたつてゐた。彼等は恭しく、火に近づくやうに友忠を誘つた。そして老人達は、お客のために酒を暖め、食物を用意しにかかつた。そして彼の旅行に關して質問をした。そのうちに、若い娘は屛風のうしろにかくれた。友忠は彼女の非常に綺麗である事を見て驚いた、――たとへ彼女の身なりはみすぼらしく、又ほどいた長い髮は亂れてゐたけれども。彼はそんな麗しい女が、そんなに貧しいそして淋しい處に住んで居る事を不思議に思つた。

 老人は彼に云つた、――

 『お客樣、つぎの村は遠うございます、それに雪もひどく降つてゐます。風は身を切るやうで、道は大變惡うございます。だから、今夜これからさきへおいでになることは、先づ先づ危うございませう。このあばら屋はお泊りになれるやうな處ではございませんが、それに私共は御意に召すやうなものを何もさし上げる事はできませんが、それでも今夜はこんな貧しい屋根の下でも御泊りなさる方が、或は安全でございませう。……御馬の方は私共が大切にお世話致します』

 友忠はこの謙遜な申し出でを受けた、――內心かうしてもつとこの若い女を見る事の機會が與へられたのを喜んだ。やがて粗末ながらも澤山の食事が、彼の前に置かれた。そして少女は屛風のうしろから酒の給仕に出て來た。彼女はもう粗野ながらさつぱりした手織縞の着物に着かへてゐた。そして長い下げ髮は、綺麗に櫛で撫でつけてあつた。彼女が酒を注ぐために屈んだ時、友忠は彼女がこれまで見たどの女よりも比較にならぬ程綺麗である事を見て驚いた。そして彼女の一舉一動には、彼を驚かすしとやかさがあつた。しかし老人達は彼女のために云ひわけをし始めた、『旦那さま、私共の娘の靑柳はこの山中で、殆んどひとりで育てられましたので、上品な作法は何も存じません。どうか愚かでものを知らない事を御赦し下さい』友忠はそれをさへぎつて、そんな綺麗な乙女に給仕される事を幸福と思ふと云つた。彼は彼女から眼を脇へ向けることがでかなかつた、――感心して見つめてゐては、彼女を赤面させるだらうと知つてはゐたけれども、――そして彼は前にある酒や肴に手をふれなかつた。母は云つた、『旦那樣どうか少し飮んだり、喰べたりして戴きたうございます、――この斬るやうな風で、冷えなさつたに相違ありませんから、――この百姓の食物(たべもの)はまことにまづいものばかりでございますが』それから老人達の氣に入るやうに、友忠はできるだけ飮んだり、喰べたりした。しかし顏を赧らめて[やぶちゃん注:「あからめて」。]居る少女の愛らしさは益〻彼の心を引きつけた。彼は彼女と話した。そして彼女の言葉は彼女の容貌と同じく麗しい事が分つた。山の中で育つたと云ふ事は、或は本當かも知れない――しかしそれなら、彼女の兩親はいつかは高位の人であつたに相違ない。彼女は身分ある人の娘のやうに語り、且つ振舞つたから。突然彼は彼女に歌を詠みかけた――それがやはり問であつた――彼の心の喜びに動かされて、――

 

 尋ねつる花かとてこそ日をくらせ

    明けぬになどかあかねさすらん

 

 一刻のためらひもなく、彼女はこんな歌で答へた。

 

 出づふ日のほのめく色をわが袖に

        つつまば明日も君やとまらん

 

 そこで友忠は彼女が自分の賞讚を受けてくれた事を知つた。そしてその歌の文句が表はした保證を喜ぶと共に、彼女の感情を歌に表はす技倆にも同じく驚いた。彼は今目の前のこの田舍娘よりも、もつと綺麗な怜悧な少女に遇ふ事はとても望まれない、ましてわがものとする事は一層望まれない事を知つた。そして彼の心のうちの聲は熱心に『神佛が自分に授けたこの幸福を取れ』と叫んで居るやうであつた――要するに、友忠は魅せられてしまつた――何等の前置きもなく老人夫婦に、娘を自分にくれることを願つた程魅せられたのであつた、――同時に彼の名と血統と、能登の大名の家來のうちでの彼の位地とを彼等に告げて。

[やぶちゃん注:それぞれの歌には原本では小泉八雲による訳注が附いている。前の和歌には、

“Being on my way to pay a visit, I found that which I took to be a flower: therefore here I spend the day... Why, in the time before dawn, the dawn-blush tint should glow—that, indeed, I know not.”

とある。訳してみる。

   *

 人を訪ねて行く道すがら、私は自分が花ではあるまいかと思ったものを見つけた。だから、私はここで一日(ひとひ)を過ごすのだ……なぜ、夜明け前の時間だというのに、夜明けの赤らみのような色がさすのだろう?――その理由(わけ)を、私は、知らない。

   *

同じく後の注も示して訳す。

“If with my sleeve I hid the faint fair color of the dawning sun,—then, perhaps, in the morning my lord will remain.”

   *

 もしも、私の袖をもって、私が夜明けのお日さまの、ほのかな色合いを覆って隠したなら――そう、そう致しましたなら……多分、朝になりましても――私のあなたさまは、お残りになられるでしょう。

   *]

 彼等は有難さの驚きの歎聲を度々あげて、彼の前にお辭儀をした。しかし、しばらく躊躇したやうなやうすのあとで、父は答へた、――

 『お客樣、あなたは高い位地のお方でございます。そしてもつと高い位地へお登りになる事と存じます。あなたが私共へ與へて下さる御恩は大きすぎます、――全く、私共のそれに對して有難く思ひますその心の深さは申しつくされません。量る事もできません。しかし私共のこの娘は賤しい生まれの、愚かな田舍者でございまして、何のしつけも敎育もございませんので、立派なお侍の御家內[やぶちゃん注:「おいへ」と訓じておく。「御内室」(ごないしつ)である。]に致しますのは、不相應でございます。こんな事をお話し致す事さへ實に以ての外でございます。……しかし、娘がお氣に入りまして、田舍育ちをお赦しになり、又甚だ無作法なのをお見逃し下さると云ふ事であれば、私共は喜んで數ならぬ御側づかへとしてさし上げます。それ故娘の事は思召し通りにお任せ致します』

 朝になるまでに嵐は納まつた、そして日は雲なき東から現れた。たとへ靑柳の袖が、彼女の愛人の眼からあかつきの薔薇色をかくしたとしても、彼はもはやとまつては居られなかつた。しかし、又彼は娘と別れる事は耐えられぬ事であつた。そして旅行の準備が一切できた時、彼はかう云つて彼女の兩親に話した。

 『これまでお世話になつた上、更にお願[やぶちゃん注:「おねがひ」。]するのに恩知らずのやうですが、お孃さんを下さるやうに、もう一度お願しなければなりません。今お孃さんと別れる事は、私には中々できません。それでお孃さんも私と一緖に行く事はおいやではないのですから、差支なければ、このまま私はおつれして參りたい。お孃さんを下さつた上は、私はあなた方を私の兩親と思つていつも大切に思ひます。……それはとにかく、あなた方の御親切なもてなしの御禮までに少々ながらこれをお受けになつて下さい』

 さう云つて、彼は彼の謙遜な主人の前に黃金の包みを置いた。しかし老人は度々平伏したあとで、その贈りものを押しかへして、云つた、――

[やぶちゃん注:「黃金」「こがね」と読んでおく。金貨。]

 『御親切な旦那樣、黃金は私共には何の使ひ途[やぶちゃん注:「みち」。]もございません。あなたは長い寒い旅の間、多分それが必要でございませう。ここでは私共は何も買ひません。そして私共はたとへ買ひたくとも、私共のためにお金をそんなに貰ふ事はできません。……娘の事は、もうあなた樣に差上げたものでございますから、――あなたのものでございます。それ故つれて行つて下さるのに、別に私共の許しをお求めになるに及びません。もうすでに娘はあなたのお伴をしたい、そしてお氣に召す間はあなたのはしためとなつてゐたいと私共に申しました。あなたが娘を引き取つて下さると云ふ事を聞いて、私共は喜ぶばかりでございます。どうか私共のために御心を惱まして下さらないやうお願ひ致します。ここでは娘に相應な身なりを整へてやる事はできません、――支度金はなほさら整へられません。その上、老人のこと故、何れ[やぶちゃん注:「いづれ」。]遠からぬうちに娘と別れねばなりません。それ故今あなたが娘をつれて行つて下さると云ふ事は、大層仕合せでございます』

 

 友忠が老人夫婦に贈りものを受けるやうに說かうとしても駄目であつた。この人々はお金を何とも思つてゐない事が分つた。しかし友忠は老人夫婦が、娘の一生を彼に託する事を實際望んで居る事を知つた。そこで彼女を彼の馬に乘せて、心からの感謝の言葉を幾度か云つて、老人夫婦に當分の別れを告げた。

 『お客樣』父は答へた、『感謝すべきは、あなたでなく、私共でございます。あなたが娘にやさしくして下さる事を信じてゐますから、娘のために心配する事はございません』……

 

 〔ここで、日本語の原文では話の自然の進行に妙な故障がある、それで話が變につじつまが合はなくなつて居る。友忠の母や靑柳の兩親や、能登の大名についてはこれ以上何にも云つてない。明らかに著者はここで仕事に倦きて來たので、無頓着にその話を進めて、その驚くべき結末に急いだのである。私はこの省略を充たす事も、構造の缺點を補ふ事もできない。しかし說明になる詳細な點を少し入れて見る。それがなければあとの話がまとまらないから。……友忠は輕率にも靑柳を京都へつれて行つて、そしてそこで面倒な事が起つたらしい、しかしその後どこで暮らしてゐたか書いてない〕

 

 ……さて侍は君侯の承諾がなくでは結婚はできないもの。そして友忠は自分の使命が果されないうちはこの許可は得られさうにはなかつた。そんな事情の下に、友忠は靑柳の美貌は危險な注意を引きはしないか、又彼女を彼から奪ひ取るための策が講ぜられはしないかを恐れる理由があつた。それ故京都では彼女を物珍らしい目から隱すやうにつとめた。しかし細川侯の家來が或日靑柳を見て、彼女と友忠との關係を發見した。そしてその事を大名に報告した。そこで――殿樣で、綺麗な顏がすきな大名はその少女を御殿ヘつれて來るやうに命じた。彼女はいきなり無理にそこへつれられた。

 

 友忠は非常に悲しんだ、しかし彼は自分が無力である事を知つた。彼は遠國の大名に仕へて居る卑しい使者に過ぎない。そして今はそれよりもつと有力な大名の思ひ通りになつて居るのであつた、その人の意志は如何ともする事はできない。その上友忠は自分は拙い事、――武士の法規の禁ずる内綠を結んで自ら不幸を招いた事を知つた。今彼に取つては一縷の望、――絕對絕命の望――しかなかつた。それは靑柳が望んで自分と一緖に逃げ出す事ができるかどうかと云ふ事であつた。長い間考へたあとで、彼は彼女に手紙をやつて見る事にきめた。この企ては勿論危險であらう、彼女にやる書きつけは何でも大名の手に落ちさうであつた。そして、御殿の中に居る人に戀文を送る事は赦し難い犯罪であつた。それでも彼はその冒險を敢てしようと決心した。そして、詩の形にして手紙を書いて、彼女に傳へる事を工夫した。詩はただ二十八字であつた。しかし、その二十八字で彼は彼の熱情の深さを悉く表はし、彼の絕望の凡ての苦しみをほのめかす事ができた、――

 

    公子王孫逐后塵譯註一

    綠珠垂ㇾ淚滴羅巾

    侯門一入深如ㇾ海

    從ㇾ是蕭郞是路人

 

譯註一  唐の詩人崔郊の名高い詩。崔郊は一旦奪はれた愛人をこの詩によつてとりもどす事ができた。

[やぶちゃん注:「崔郊」(さいこう)は唐の憲宗の元和年間(八〇六年~八二〇年)に秀才(科挙制度の前段階の一つである院試に及第した者)になった詩人で、以上の詩は、彼の詩としてよく知られた「贈去婢」という題の七言絶句。但し、「名高い詩人」というのは、やや誇張。訓読する。

   去る婢に贈る

 公子王孫 后塵(こうぢん)を逐(お)ふ

 綠珠(りよくじゆ)淚を垂れ 羅巾に滴(したた)る

 侯門一たび入りて 深きこと 海のごとし

 是れより蕭郞(せうらう) 是れ 路人(ろじん)

私の「柴田天馬訳 蒲松齢 聊斎志異 鞏仙」の柴田氏の注九に『崔郊に婢があったが、はなはだ端麗で音律をよくした。貧乏になってから、婢を連帥千蝢』(れんすいせんけつ)『の家に鬻(ひさ)いだが、郊は思慕やまなかったのである。やがて寒食の節になり、婢は崔の家にきて郊にあい、柳の陰に立って馬上で泣くのだった。崔は詩を贈って言うのであった、「公子王孫後塵を逐う、疑珠垂涙羅布を湿す、侯門一たび入って深きこと海のごとし、これより粛郎これ路人」と。公はその詩を見て、令して崔生を召し、婢に命じて帰(とつ)がしめたということが、全唐詩話に見えている。』とある。小泉八雲は直後に以下のように英訳している。

Closely, closely the youthful prince now follows after the gem-bright maid;—

The tears of the fair one, falling, have moistened all her robes.

But the august lord, having once become enamored of her—the depth of his longing is like the depth of the sea.

Therefore it is only I that am left forlorn,—only I that am left to wander along.

   *

暴虎馮河で訳してみる。

   *

みるみるうちに、若々しい王子が宝石のように輝いている召使いに今まさに迫ってくる――

その美しい人の涙が、滴(したた)っている、そうして彼女の礼服を湿らせる。

しかし、堂々たる領主のお目に一たびとまってしまえば、そのお方の思いの深さは海の如く深い。

それ故に、私独りが悄然(しょんぼり)と去るばかり、――私だけが、ただ、路頭に彷徨(さまよ)うばかり。

   *

但し、転句はやや解釈が叙情的で、原詩のそれは、言わずもがなだが、「王子の屋形に一度召し上げられてしまえば、その深さは、海のようで、最早、救い出すことは出来ぬ」の意である。]

 

 この詩の送られたそのつぎの日の夕方、友忠は細川侯の御前に呼び出された。靑年は直ちに自分の祕密が裏切られたと疑つた。そして、彼の手紙が大名に見られたのなら嚴罰を逃れる事は覺束ないと思つた。『今度は私に死を命ずるであらう』友忠は考へた、――『しかし靑柳が私にかへらぬ以上生きてゐたくない。その上死刑の宣告が下つたら、私はせめては細川を殺すやうにやつて見る』彼は兩刀を帶にはさんで、御殿へ急いだ。

 謁見室に入つて友忠は細川侯が、禮服禮帽をつけた高位の侍にとりまかれて上段の間に坐して居るのを見た。一同は銅像のやうに默つてゐた、友忠が敬禮をして進む間、その寂として居る事は彼には氣味惡く重苦しく思はれた。丁度嵐の前の靜けさのやうに。ところが、突然細川は上段の間から下りて、靑年の手をとつて『公子王孫逐后塵﹅﹅﹅﹅』の詩の文句をくりかへし始めた。……そして友忠が見上げると、君侯の眼にやさしい淚が見えた。

 それから細川は云つた、――

 『互にそれ程愛し合つて居るから、自分は親戚能登守に代つてお前の結婚を許す事にした。それでお前の結婚は今自分の面前で行ふ事にする。お客は集つて居る、引出物も用意してある』

 君侯よりの合圖で、向うの部屋を隱してあるふすまは開けられた。そして友忠は儀式のために集つた殿中の澤山の高位高官の人々、及び花嫁の衣裳を着て、彼を待つて居る靑柳を見た。……かくして彼女は彼にかへされた、――婚禮の儀式はにぎやかに且つ立派であつた、――それから貴重な引出物は君侯及び君侯の一族の人々によつてこの若い夫婦に贈られた。

 

       *

 

 その結婚の後、五年間友忠と靑柳は樂しく一緖にくらした。しかし或朝靑柳は何か家事向きの事について、夫と話して居る間に不意に苦しみの叫びを發して、それから眞靑になつて動かなくなつた。しばらくして、弱つた聲で彼女は云つた、『こんなに失禮に呼び出した事を赦して下さい――そんなに急に痛み出したのです。……あなた、私共が一緖になつたのは前世の何かの因緣からに違ひありません、その有難い緣でこれからさき何世も、私共は又一緖になれると思ひます。しかし私共のこの今の世ではその緣は今終りました、――私共は別れる事になります。どうか私のために念佛を唱へて下さい、――私はもう死にかかつてゐますから』

 『おい、何を變な妙な事を考へてゐるのだ』驚いた夫は叫んだ、――『お前はただ少し病氣なのだ、ね――……少しお休み、そしたら直る』……

 『い〻え、い〻え』彼女は答へた――『私は死にます。神經ぢやありません、――私に分つてゐます、……そして今では、あなた、本當の事を隱して置いてももう駄目です、――私人間ぢやありません。木の魂が私の魂です、――木の心が私の心です、――柳の養分は私の生命です。そして今、この意地の惡い時、誰か私の木を伐り倒して居るのです、――それで死なねばならないのです。……泣く事も今では私の力に餘ります……早く早く私のために念佛を唱へで下さい。……早く……あ〻』

 

 もう一度苦しみの叫びをあげて彼女は綺麗な頭をわきへ向けて、袖の下に顏をかくさうとした。しかし殆んど同時に彼女の全身は最も不思議な風[やぶちゃん注:「ふう」。]に消えて、段々下の方へ下の方へと沈んで行つて――床と同じ高さになつて行くやうであつた。友忠は彼女を支へるために飛び出した。――しかしそこに支へるものは何にもなかつた。疊の上には美しい人のもぬけの着物と髮につけてゐた飾りだけしかなかつた。からだは影もかたちもなくなつてゐた。……

 

 友忠は頭を剃つて佛門に入り、雲水の僧になつた。諸國を行脚して、聖地を訪ふ每に靑柳の魂のために祈りをあげた。巡禮の間に越前に着いて彼の愛人の兩親の家をさがした。しかし兩親の家のあつた山の間の淋しい場所に着いた時、その家は既になくなつて居る事を見出した。家のあつた場處のしるしになるものさへ何にもなかつた。ただ三本の柳の切り株があるだけ――二本の老木と一本の若木と――それが彼の着くずつと以前に伐り倒されたのであつた。

 それ等の柳の木の株の側に彼は諸々の經文を彫刻した塚を建てた。そしてそこで靑柳及び彼女の兩親の魂のために多くの佛事を行つた。

 

[やぶちゃん注:原拠は或いは「多滿寸太禮」(辻堂非風子(詳細事蹟不祥)作で、元禄一七(一六九四)年序の浮世草子怪談集。全七巻。明代の志怪小説「剪燈新話」・「剪燈余話」からの翻案を多く収める)の巻三の第三話「柳情靈妖(りうせいのれいよう)」。富山大学「ヘルン文庫」のこちらで丸ごと総てをダウン・ロード出来る。それを底本とした。読みは振れると判断したものに限り、句読点・記号を打ち、段落を成形した。一部に濁点を施した。一部に〔 〕で私の推定読みを施した。踊り字「く」は正字化した。なお、漢詩の訓点は総て除去した。

   *

   柳情靈妖

 文明の年中、能登の國の大守畠山義統(よしむね)の家臣に、岩木七郞友忠と云ふ者、有(あり)。幼少の比より、才、智世に勝れ、文章に名を得、和漢の才に冨(とみ)たり。ようぼう、いつくしく、いまだ廿(はたち)にみたず、義統、愛敬(あいきやう)して常に祕藏し給ふ。生國は越前にして、母一人古鄕にあり。

 世いまだ靜ならねば、行どふらふ[やぶちゃん注:「ゆきどうふらふ」。危険なので気軽に行き来する。]事もなし。或とし、義統、將軍の命をうけ、山名を背き、細川に一味して、北國の通路をひらきぬ。杣山(そまやま)に山名方の一城あれば、是を責むとて、義統柚山の麓に出陣して日を送り給へは此ひまをうかゞひ、母の在所も近ければ、友忠、ひそかに只一人、馬(むま)に打乘(うちのり)、おもむきける比〔ころ〕しも、む月[やぶちゃん注:一月。]の始(はじめ)つかた、雪、千峯を埋み、寒風、はだへを通し、馬、なづむで[やぶちゃん注:行き悩んで。]、進まず。

[やぶちゃん注:「杣山」現在の福井県の中央部の南越前町にある山。標高四百九十二メートル。日野川と支流の阿久和川・田倉川によって三方を囲まれた要害の地で、南北朝時代には新田義貞と斯波高経の合戦の際、瓜生保が新田氏に応援してここで兵を挙げている。山頂に城塁、山麓に居館の跡がある。ここ(グーグル・マップ・データ航空写真)。]

 路に旁(かたはら)に、茅舍の中(うち)に煙(けふり)ふすぶりければ、友忠、馬をうちよせてみるに、姥(むば)・祖父(ほゞぢ)、十七、八の娘を中に置(おき)、只、三人、燒(たき)火に、眠(ねふ)り居たり。その躰(てい)、蓬(よもぎ)の髮は亂れて、垢(あか)付たる衣は裾みじかなれども、花のまなじりうるはしく、雪の肌(はだへ)、淸らかにやさしく媚(こび)て、誠(まこと)にかゝる山の奧にも、かゝる人、有けるをしらず。神仙の住居(すみか)かとあやしまる。

 祖父(ぢい)夫婦、友忠をみて、むかへ、

「たつていたはしの少人(せうじん)や。かく山中に獨りまよはせ給へるにや。雪ふり積り、寒風忍びがたし。先〔まづ〕、火によりてあたり給へ。」

と、念比(ねんごろ)に申せば、友忠、よろこび、語るに、

「日、已に暮て、雪はいよいよ降(ふり)つもる。こよひは、こゝに一夜を明させ給へ。」

と侵(すゝめ)れば、おゝぢ、

「かゝる片山陰(かたやまかげ)のすまひ、もてなし、申さむ、よすがもなし。さりとも雪間(ゆきま)をしのぐ旅のそら。こよひは何かくるしかるべき。」

とて、馬の鞍をおろし、ふすまをはりて、一間をまふけて、よきにかしづきける。

 此娘、かたちをかざり、衣裳をかへて、帳をかゝげて友忠をみるに、はじめ、見そめしには、且(かつ)、まさりて、うつくしさ、あやしきほどにぞ有ける。

 山路の習ひ、濁り酒など、火にあたゝめ、夜寒をはらし給へど、主(ぬし)よりして、はじめて、盃(さかづき)をめぐらしける。

 友忠、何となくむすめにさす。[やぶちゃん注:目をちらと向けることか。]

 夫婦うち笑ひ、

「山家(やまが)そだちのひさぎめにて、御心にはおほぼさすとも、旅の屋どりのうきをはらしに、御盃をたうべて上〔あげ〕まいらせ。」」

といらへば、娘も、顏、うちあかめて盃を、とる。

 友忠、此女の氣〔め〕しき、よのつねならねば、『心をも引みむ』と思ひて、何となく、

 

  尋(たづね)つる玉かとてこそ日をくらせ明〔あか〕ぬになとかあかねさすらん

 

と、口ずさみけれは、娘も、又、

 

  出〔いづ〕る日のほのめく色をわか袖につゝまばあすも君やとまらむ

 

とりあへず、『その歌から、詞(ことば)のつゞき、只人(たゞびと)にあらじ』と思ひければ、

「さいあいのつまもなし。願(ねがはく)は、我にたびてんや。」

といへば、夫婦、

「かくまで賤しき身を、いかにまいらせん。たゞかりそめに御心をもなぐさめ給へかし。」

と申せば、むすめも、

「此身を君にまかせまいらするうヘはともかくもなし給へ。」

と、ひとつふすまにやどりぬ。

 かくて、夜も明ければ空もはれ、嵐もなぎて、友忠、

「今は暇(いとま)を申さん。又、逢までの形見とも、み給へ。」

とて、一包(つゝみ)の金(こがね)を懷中より出〔いだ〕して、これをあたふ。

 主のいはく、

「これ、さらによしなき事なり。娘に、よき衣をもあたへてこそ參らすべきに、まづしき身なれば、いかゞせん。われら夫婦は、いかにともくらすべき身なれば、とくとく、つれて行〔ゆき〕給へ。」

と。

 更に請(うけ)ねば、友忠も力なく、娘を馬にのせ、別(わかれ)をとりて、歸りぬ。

 かくて、山名細川の兩陣、破れて、義統(よしむね)も上洛して、都、東寺に宿陣ありければ、友忠、ひそかにぐして[やぶちゃん注:青柳をこっそりと隠して囲って。]、忍び置けるに、如何(いいかゞ)しけむ、主(しう)の一族なりし細川政元、此女を見そめ、深く戀侘(こひわ)び給ひしが、夜にまぎれ、奪(ばい)とらせ、寵愛、なゝめならざりしかば、友忠も、無念ながら、貴族に敵對しがたく、明暮と思ひしづみける。

 或時、あまりの戀しさに、みそかに[やぶちゃん注:秘かに。]傳(つて)をもとめ、一通のふみをかきて、遺しける。その文のおくに、

 

 公子王孫逐后塵  緑珠垂淚滴羅巾

 門一入深如ㇾ海  從是蕭郎是路人

 

とぞ書〔かき〕たりける。

 いかゞしけむ、此詩、政元へ聞えければ、政元、ひそかに友忠を召〔めし〕て、

「物いふべき事あり。」

と云(いひ)きしければ、友忠、思ひよらず、

「一定、これは、わが妻の事、顯はれ、恨(うらみ)の程を怖れて、吾を取込(とりこめ)討(うつ)むずらん。たとへ死すとも、いま一たび、見る事もや。折もよくば、恨の太刀(たち)、一かたなに。」

と、思ひつめて行ける。

 政元、頓(やが)て出あひ、友忠が手をとりて、

「『候門[やぶちゃん注:ママ。]一たび入〔いり〕て、深き事、海のごとし』と云(いふ)句は、これ、汝の句なりや。誠に深く感心す。」

とて、淚をうかめ、則(すなはち)、かの女を呼(よび)出〔いだ〕し、友忠にあたへ、剩(あまつ)さへ、種々(しゆしゆ)の引出物して、返し給ふ。

 こゝろさしいとやさし。尤(もつとも)、文道(ぶんだう)の德なりけり。

 これより、夫婦、偕老同穴のかたらひ、いよいよ深く、とし月を送るに、妻の云けるは、

「吾、はからずして、君(きみ)と、五とせの契りをなす。猶、いつまでも、八千代(やちよ)をこめむと思ひしに、ふしぎに、命、こよひに究(きは)まりぬ。宿世(すくせ)の緣(ゑん)を思ひたまはゞ、跡、よく、弔ひ給へ。」

と。

 泪(なみだ)、瀧のごとくにながせば、友忠、肝をけし、

「ふしぎなる事。いかに。」

と、とへはば、妻、かさねて、

「今は何をかつゝみ候はん。みづから、もと人間の種(たね)ならず。柳樹(りうじゆ)の精、はからずも、薪(たきゞ)の爲に伐(きら)れて、已に朽(くち)なむとす。今は歎(なげく)にかひなし。」

とて、袂(たもと)をかざす、とぞ、みえしが、霜の消えるごとくに、衣(ころも)斗(ばかり)、のこれり。

「これは。」

と思ひ立〔たち〕よれば、小袖のみにして、形躰(かたち)もなし。

 天にこがれ、地にふして、かなしめども、さりし面影は、夢にだにみえず。

 せんかたなければ、遂に、もとゞり、切〔きり〕て、諸國修行の身とぞ成〔なり〕にける。

 妻の古鄕のもとへ尋〔たづね〕て、ありし蹟を見るに、すべて、家もなし。

 尋〔たづぬ〕るに、隣家(りんか)もなければ、たれ、しる人も、なし。

 唯、大きなる柳のきりかぶ、三もと、殘れり。

 うたがひもなき、

「これ、なんめり。」

と思ひ、其傍(かたはら)に塚をつき、なくなく、わかれ、去(さり)けり。

   *]

馬の夢

暫くいい夢を見なかった――一昨日金曜の夜、本当に久しぶりに書きたい夢を見た…………

   *

僕は裏山の道を歩いている――

見知らぬロシア人のような貴婦人が、一頭の鮮やかな栗毛の馬を連れて向うからやってくる。馬は雌だ――

馬は僕の前で止まって、僕の右手の掌を頻りに舐める――

連れていた貴婦人は消えてしまった――

僕は馬の手綱を執ると、馬を連れてどこまでも海に向かって歩いてゆく…………

[やぶちゃん注:「裏山の道」は嘗て亡き次女と三女のアリスを散歩させた道である。「ロシア風の貴婦人」はアンドレイ・タルコフスキイの「アンドレイ・ルブリョフ」の鐘のシーンに出る聖母マリア風の女性とそっくりであった。馬はアリスだ。貴婦人は亡き母だと目覚めた瞬間に悟った。馬への変換は鬣を切られた名馬のニュースをテレビで見たからだろう。……しかし、この夢は何かの予兆のような気がしてならない。…………]

2019/09/21

小泉八雲 雪女  (田部隆次譯)

 

[やぶちゃん注:本篇(原題“ YUKI-ONNA ”)は明治三七(一九〇四)年四月にボストン及びニュー・ヨークの「ホートン・ミフリン社」(BOSTON AND NEW YORK HOUGHTON MIFFLIN COMPANY)から出版された、恐らく小泉八雲の著作の中で最も日本で愛されている作品集「怪談」(原題“ KWAIDAN: Stories and Studies of Strange Things ”。来日後の第十作品集)の十一話目である。なお、小泉八雲はこの年の九月二十六日に五十四歳で心臓発作により急逝した。

 同作品集は“Internet Archive”のこちらで全篇視認でき(この標題部分の左ページにキャプションに“BLOWING HER BREATH UPON HIM”(「彼に彼女の息を吹きかけている」で「雪女」の一節) とする挿絵がある。原本の挿絵の英文解説中には“ Keichū Takéunouchi ”とあるが、これは浮世絵師・挿絵画家であった武内桂舟(たけうちけいしゅう 文久元(一八六一)年~昭和一七(一九四二)年)のことではないかと疑う(彼であればパブリック・ドメインである)。以下に挿絵を示しておく。上記原本画像(PDF)自体からは何故か絵が取り込めないため、プリント・スクリーンを行い、加工ソフトでトリミングした。本篇はここから。)、活字化されたものは“Project Gutenberg”のこちらで全篇が読める本篇はここ)。

Blowing-her-breath-upon-him

 底本は上記英文サイト“Internet Archive”のこちらにある画像データをPDFで落し、視認した。これは第一書房が昭和一二(一九三七)年一月に刊行した「家庭版小泉八雲全集」(全十二巻)の第八巻全篇である。★【2025年3月29日底本変更・前注変更】時間を経て、国立国会図書館デジタルコレクションに本登録し、現行では、以上の第一書房版昭和六(一九三一)年一月に刊行した「學生版小泉八雲全集」(全十二巻)の第七巻が、国立国会図書館デジタルコレクションで公開されてある。(リンクは扉だが、「學生版」の文字はない。しかし、奥附を見て貰うと『學生版 【第二囘豫約】』とあり、『昭和六年一月十日 發行』とあることが確認出来る)、これが、前掲の底本と同じものであるが、やはり、外国のサイトのそれを底本とするのは、日本人小泉八雲に失礼であると考えた。されば、こちらで、再度、以下の「骨董」の作品群を改めて校正することとする。これが――私の小泉八雲への「義」――である。なお、之よりも前の元版の全集等が先行しているものの、私がそれらと比べた結果、実は先行する同社の「小泉八雲全集」のそれらは、訳が一部で異なっており、訳者等によって、かなりの補正・追加がされていることが、今回の正字補正作業の中で、はっきりと判って来た。いや、同じ「家庭版」と名打ったネット上の画像データでも、驚いたことに、有意に異なっていたのである。そうした意味でも――完全な仕切り直しの総点検――が必要であると決したものである。従って、旧前振りの括弧・鍵括弧の問題も、拡大とガンマ補正で確認し、正確を期する。本作はここから。

 田部隆次(たなべりゅうじ 明治八(一八七五)年~昭和三二(一九五七)年)氏については先に電子化した「人形の墓」の私の冒頭注を参照されたい。

 本篇は現在に至るまで、不思議なことに原拠が特定されていない作品である。しかし、小泉八雲は本書の原序で、『……一つ妙な話、「雪女」は、西多摩郡調布の或農夫が、その土地の傳として、私に聞せてくれたものである。日本の書物に出て居るか、どうか私は知らない、しかしそこに書いてある異常な信仰はたしかに日本の各地に、種々の珍らしい形式で存在してゐたものである。……』(底本では、ここ)と述べているのを私は信ずる。また、彼が日本来日直後の松江での聞き書きという設定で、『小泉八雲 落合貞三郎他訳 「知られぬ日本の面影」 第二十五章 幽靈と化け物について (一)』(リンク先は私の電子化注。但し、この執筆当時は「小泉八雲」ではなく、パトリック・ラフカディオ・ハーン(Patrick Lafcadio Hearn))で、早くも「雪女」を語っていることにも注目せねばならぬ。

   *

 朝のうちひどく雪が降つたが、もう天(そら)も、刺すやうに寒い靜かな空氣、ダイアモンドのやうに澄み渡つて居る、それから脆い雪は步く時足の下で快くばりばり音を立てる、それで私は思ひついて云ふ。『金十郞さん、雪の神樣と云ふ物はありますか』

 『分りません』金十郞は答へた。『私の知らない神樣は澤山あります、神樣の名を殘らず知つて居る人はありません。しかし雪女と云ふ物はあります』

 『それはどんな物です』

 『眞白な物で、雪の中で色々變な顏をして見せます。別に害を加へる事はないが、ただ恐ろしがらせるだけです。晝のうちは顏を上げて、獨り旅の人をおどかすだけですが、夜になると時々樹よりも高くなつて暫らくあたりを見𢌞してから、急に雪になつて降つて來ます』【註一】

     註一。日本の他の地方では、私の聞
    くところでは、雪女は甚だ綺麗な女
    なつて現れ、若い男を淋しい場所
    誘つて、血を吸ふと云はれて居る。 

 『どんな顏をしてゐますか』

 『白い――眞白です。非常に大きな顏です。それから淋しい顏です』

〔金十郞の云つた言葉は淋しいであつたが、私の考では、それは『陰氣な氣味の惡い』と云ふ意味であつた〕

 『金十郞さんあなたは見た事がありますか』

 私は見た事はありません。しかし私の父が子供の時分に、外の子供と遊ぶつもりで、雪の中を隣りのうちへ行かうと致しますと、途中で、雪の中から大きな白い顏が出て淋しさうにあたりを見𢌞したさうです、恐ろしさの餘り聲を出して逃げて歸つたと申します。そこでうちの人が皆出て見ると何にもない、雪ばかり、それで皆がこれは雪女を見たのだとさとりました』

 『ところで、金十郞さん、この節、人は雪女を見ますか』

 『はい。大寒の時節に、やぶ村へ參詣する人は、時々見ます』

 『やぶ村に何かありますか』

 『やぶ神社があります、それはやぶ天皇さんと云ふ風の神の名高い古い神社です。松江から九里ばかりの山のずつと上にあります。その神社の大祭は二月の十日と十一日にあります。それでその日には妙な事があります。ひどい風を引いて居るものがやぶ神社の神樣になほるやうにお祈りをして、その大祭の日に神社へ裸參りを致しますと誓ひます』

 『裸ですか』

 『さうです、わらぢをはいてふんどしや、ゆもじ一つでお參りを致します。それで大勢の人は、その頃雪が深いのですが、神社の方へ雪の中を裸で行くのです。それから男は銘々御幣と拔身の刀を泰納します、女は銘々鏡を奉納します。それから神社では、神主がその人々を迎へて妙な儀式を行ひます。古式によつて、神主は病人のやうななりをして、寢てうなります、それから漢方で處方致します草根木皮のくすりを飮みます』

 『寒さで死ぬ人はありませんか』

 『ありません、出雲の農夫は達者です。その上早く走りますから神社へ着く頃は熱い程です。それから歸る前に厚い暖い着物を着ます。しかし時々途中で雪女を見ます』

   *

とあるのである(但し、リンク先の私の注を見て貰いたいが、実際には彼にこの話を語った「金十郞」なる人物は、実は小泉八雲の妻であるセツ夫人である)。

 さても、私は現行、諸本に語られる「雪女」伝説の内、展開と人物名が一致する多くのものは(例えば、青木純二「山の伝説 日本アルプス篇」の「雪女(白馬岳)」(国立国会図書館デジタルコレクション))、寧ろ、小泉八雲の本篇に基づくものではないかと疑っている

 なお、本篇の原拠問題・成立過程を緻密に考証した牧野陽子氏の『「雪女」の〝伝承〟をめぐって― 口碑と文学作品―」PDF。『成城大学経済研究』(二〇一三年七月発行))が非常に優れているので、一読を強くお薦めする。なお、牧野氏には先行する「ラフカディオ・ハーン『雪女』について」PDF。『成城大學經濟研究』(一九八九年七月発行)もある。但し、牧野氏は小泉八雲の本篇が「雪女」の起原とする考え方には留保され、寧ろ、否定的ではある(といって牧野氏もやはり決定打としての先行原拠を提示出来てはおられない)。

 しかし、「雪女」という妖怪変化のそのものは、江戸時代の記載は、無論、ある。例えば、私の電子化注したものでは、

「宗祇諸國物語 附やぶちゃん注 化女 苦し 朧夜の雪」

「古今百物語評判卷之四 第七 雪女の事幷雪の說」

「諸國里人談卷之三 黑塚」(これは注の発句中のみ)

さらに本篇より後代であるが、民俗社会に遡上する、

「佐々木(鏡石)喜善・述/柳田國男・(編)著「遠野物語」(初版・正字正仮名版) 一〇二~一〇五 小正月の事」

があるが、しかし、その、どれも――本篇のような展開の妙味や、劇的なダイナミズムを――全く――以っていない――のである。日本人に普通にある「雪女」のイメージは、

元日本人ではなかった、だが日本人よりも、遙かに日本人の精神をより保持し得た稀有の存在たる――「魂の日本人」小泉八雲――によって形成された、美しく、しかも哀しい女

なのであるのである。牧野氏は否定的に留保しているが、私はこの作品の展開自体――小泉八雲の幼少期の母喪失の癒しがたいトラウマ――と深く係わっているものと強く感ずるものである。第一、私は、この愛し合った二人に――「十人」もの「子」が出来た――という設定の「雪女」伝承例を――寡聞にして、知らないのである……

 傍点「﹅」は太字に代えた。]

 

  雪 女

 

 武藏の國の或村に茂作、巳之吉と云ふ二人の木こりがゐた。この話のあつた時分には、茂作は老人であつた。そして、彼の年季奉公人であつた巳之吉は、十八の少年であつた。每日、彼等は村から約二里離れた處ヘ一緖に出かけた。その森へ行く道に、越さねばならない大きな河がある。そして、渡し船がある。渡しのある處に度々、橋が架けられたが、その橋は洪水のある度每に流された。河の溢れる時には、普通の橋では、その急流を防ぐ事はできない。

[やぶちゃん注:「茂作」原文“Mosaku”。「もさく」。

「巳之吉」原文“Minokichi”。「みのきち」。]

 

 茂作と巳之吉は或大層寒い晚、歸り途で大吹雪に遇つた。渡し場に着いた、渡し守は船を河の向う側に殘したままで、歸つた事が分つた。泳がれるやうな日ではなかつた。それで木こりは渡し守の小屋に避難した――避難處の見つかつた事を僥倖に思ひながら。小屋には火鉢はなかつた。火をたくべき場處もなかつた。窓のない一方口の、二疊敷の小屋であつた。茂作と巳之吉は戶をしめて、蓑をきて、休息するために橫になつた。初めのうちは左程寒いとも感じなかつた。そして、嵐はぢきに止むと思つた。

[やぶちゃん注:「大吹雪」「おほ(おお)ふぶき」。]

 老人はぢきに眠りについた。しかし、少年巳之吉は長い間、目をさましてゐて、恐ろしい風や戶にあたる雪のたえない音を聽いてゐた。河はゴウゴウと鳴つてゐた。小屋は海上の和船のやうにゆれて、ミシミシ音がした。恐ろしい大吹雪であつた。空氣は一刻一刻、寒くなつて來た、そして、巳之吉は蓑の下でふるへてゐた。しかし、たうとう寒さにも拘らず、彼も亦寢込んだ。

 彼は顏に夕立のやうに雪がかかるので眼がさめた。小屋の戶は無理押しに開かれてゐた。そして雪明かりで、部屋のうちに女、――全く白裝束の女、――を見た。その女は茂作の上に屈んで、彼に彼女の息をふきかけてゐた、――そして彼女の息はあかるい白い煙のやうであつた。殆んど同時に巳之吉の方へ振り向いて、彼の上に屈んだ。彼は叫ばうとしたが何の音も發する事ができなかつた。白衣の女は、彼の上に段々低く屈んで、しまひに彼女の顏は殆んど彼にふれるやうになつた、そして彼は――彼女の眼は恐ろしかつたが――彼女が大層綺麗である事を見た。しばらく彼女は彼を見續けてゐた、――それから彼女は微笑した、そしてささやいた、――「私は今ひとりの人のやうに、あなたをしようかと思つた。しかし、あなたを氣の毒だと思はずには居られない、――あなたは若いのだから。……あなたは美少年ね、巳之吉さん、もう私はあなたを害しはしません。しかし、もしあなたが今夜見た事を誰かに――あなたの母さんにでも――云つたら、私に分ります、そして私、あなたを殺します。……覺えていらつしやい、私の云ふ事を』

 さう云つて、向き直つて、彼女は戶口から出て行つた。その時、彼は自分の動ける事を知つて、飛び起きて、外を見た。しかし、女はどこにも見えなかつた。そして、雪は小屋の中へ烈しく吹きつけてゐた。巳之吉は戶をしめて、それに木の棒をいくつか立てかけてそれを支へた。彼は風が戶を吹きとばしたのかと思つて見た、――彼は只夢を見てゐたかも知れないと思つた。それで入口の雪あかりの閃きを、白い女の形と思ひ違ひしたのかも知れないと思つた。しかしそれもたしかではなかつた。彼は茂作を呼んで見た。そして、老人が返事をしなかつたので驚いた。彼は暗がりへ手をやつて茂作の顏にさはつて見た。そして、それが氷である事が分つた。茂作は固くなつて死んでゐた。……

 

 あけ方になつて吹雪は止んだ。そして日の出の後少ししてから、渡し守がその小屋に戾つて來た時、茂作の凍えた死體の側に、巳之吉が知覺を失うて倒れて居るのを發見した。巳之吉は直ちに介抱された、そして、すぐに正氣に歸つた、しかし、彼はその恐ろしい夜の寒さの結果、長い間病んでゐた。彼は又老人の死によつてひどく驚かされた。しかし、彼は白衣の女の現れた事については何も云はなかつた。再び、達者になるとすぐに、彼の職業に歸つた、――每朝、獨りで森へ行き、夕方、木の束をもつて歸つた。彼の母は彼を助けてそれを賣つた。

 

 翌年の冬の或晚、家に歸る途中、偶然同じ途を旅して居る一人の若い女に追ひついた。彼女は背の高い、ほつそりした少女で、大層綺麗であつた。そして巳之吉の挨拶に答へた彼女の聲は歌ふ鳥の聲のやうに、彼の耳に愉快であつた。それから、彼は彼女と竝んで步いた、そして話をし出した。少女は名は「お雪」であると云つた。それからこの頃兩親共なくなつた事、それから江戶へ行くつもりである事、そこに何軒か貧しい親類のある事、その人達は女中としての地位を見つけてくれるだらうと云ふ事など。巳之吉はすぐにこの知らない少女になつかしさを感じて來た、そして見れば見る程彼女が一層綺麗に見えた。彼は彼女に約束の夫があるかと聞いた、彼女は笑ひながら何の約束もないと答へた。それから、今度は、彼女の方で巳之吉は結婚して居るか、或は約束があるかと尋ねた、彼は彼女に、養ふべき母が一人あるが、お嫁の問題は、まだ自分が若いから、考へに上つた事はないと答へた。……こんな打明け話のあとで、彼等は長い間ものを云はないで步いた、しかし諺にある通り『氣があれば眼も口ほどにものを云ひ』であつた。村に着く頃までに、彼等はお互に大層氣に入つてゐた。そして、その時巳之吉は暫く自分の家で休むやうにとお雪に云つた。彼女は暫くはにかんでためらつてゐたが、彼と共にそこへ行つた。そして彼の母は彼女を歡迎して、彼女のために暖かい食事を用意した。お雪の立居振舞は、そんなによかつたので、巳之吉の母は急に好きになつて、彼女に江戶への旅を延ばすやうに勸めた。そして自然の成行きとして、お雪は江戶へは遂に行かなかつた。彼女は「お嫁」としてその家にとどまつた。

 

 お雪は大層よい嫁である事が分つた。巳之吉の母が死ぬやうになつた時――五年ばかりの後――彼女の最後の言葉は、彼女の嫁に對する愛情と賞讚の言葉であつた、――そしてお雪は巳之吉に男女十人の子供を生んだ、――皆綺麗な子供で色が非常に白かつた。

 田舍の人々はお雪を、生れつき自分等と違つた不思議な人と考へた。大槪の農夫の女は早く年を取る、しかしお雪は十人の子供の母となつたあとでも、始めて村へ來た日と同じやうに若くて、みづみづしく見えた。

 或晚子供等が寢たあとで、お雪は行燈の光で針仕事をしてゐた。そして巳之吉は彼女を見つめながら云つた、――

 『お前がさうして顏にあかりを受けて、針仕事をして居るのを見ると、わしが十八の少年の時遇つた不思議な事が思ひ出される。わしはその一時、今のお前のやうに綺麗なそして色白な人を見た。全く、その女はお前にそつくりだつたよ』……

 仕事から眼を上げないで、お雪は答へた、――

 『その人の話をして頂戴。……どこでおあひになつたの』

 そこで巳之吉は渡し守の小屋で過ごした恐ろしい夜の事を彼女に話した、――そして、にこにこしてささやきながら、自分の上に屈んだ白い女の事、――それから、茂作老人の物も云はずに死んだ事。そして彼は云つた、――

 『眠つて居る時にでも起きて居る時にでも、お前のやうに綺麗な人を見たのはその時だけだ。勿論それは人間ぢやなかつた。そしてわしはその女が恐ろしかつた、――大變恐ろしかつた、――がその女は大變白かつた。……實際わしが見たのは夢であつたか、それとも雪女であつたか、分らないで居る』……

 お雪は縫物を投げ捨てて立ち上つて巳之吉の坐つて居る處で、彼の上に屈んで、彼の顏に向つて叫んだ、――

 『それは私、私、私でした。……それは雪でした。そしてその時あなたが、その事を一言でも云つたら、私はあなたを殺すと云ひました。……そこに眠つて居る子供等がゐなかつたら、今すぐあなたを殺すのでした。でも今あなたは子供等を大事に大事になさる方がいゝ、もし子供等があなたに不平を云ふべき理由でもあつたら、私はそれ相當にあなたを扱ふつもりだから』……

[やぶちゃん注:「雪」言わずもがな、彼女の名前である。自称であるから、「お」はないのである。]

 彼女が叫んで居る最中、彼女の聲は細くなつて行つた、風の叫びのやうに、――それから彼女は輝いた白い霞となつて屋根の棟木の方へ上つて、それから煙出しのたを通つてふるへながら出て行つた。……もう再び彼女は見られなかつた。

2019/09/20

小泉八雲 葬られたる祕密  (戶川明三譯) 附・原拠「新撰百物語」の「紫雲たな引密夫の玉章」

 

[やぶちゃん注:本篇(原題“ A DEAD SECRET ”)は明治三七(一九〇四)年四月にボストン及びニュー・ヨークの「ホートン・ミフリン社」(BOSTON AND NEW YORK HOUGHTON MIFFLIN COMPANY)から出版された、恐らく小泉八雲の著作の中で最も日本で愛されている作品集「怪談」(原題“ KWAIDAN: Stories and Studies of Strange Things ”。来日後の第十作品集)の十話目である。なお、小泉八雲はこの年の九月二十六日に五十四歳で心臓発作により急逝した。

 同作品集は“Internet Archive”のこちらで全篇視認でき(リンク・ページは挿絵と扉標題。以下に示した本篇はここから。)、活字化されたものは“Project Gutenberg”のこちらで全篇が読める本篇はここ)。

 底本は上記英文サイト“Internet Archive”のこちらにある画像データをPDFで落し、視認した。これは第一書房が昭和一二(一九三七)年一月に刊行した「家庭版小泉八雲全集」(全十二巻)の第八巻全篇である。★【2025年3月28日底本変更・前注変更】時間を経て、国立国会図書館デジタルコレクションに本登録し、現行では、以上の第一書房版昭和六(一九三一)年一月に刊行した「學生版小泉八雲全集」(全十二巻)の第七巻が、国立国会図書館デジタルコレクションで公開されてある。(リンクは扉だが、「學生版」の文字はない。しかし、奥附を見て貰うと『學生版 【第二囘豫約】』とあり、『昭和六年一月十日 發行』とあることが確認出来る)、これが、前掲の底本と同じものであるが、やはり、外国のサイトのそれを底本とするのは、日本人小泉八雲に失礼であると考えた。されば、こちらで、再度、以下の「骨董」の作品群を改めて校正することとする。これが――私の小泉八雲への「義」――である。なお、之よりも前の元版の全集等が先行しているものの、私がそれらと比べた結果、実は先行する同社の「小泉八雲全集」のそれらは、訳が一部で異なっており、訳者等によって、かなりの補正・追加がされていることが、今回の正字補正作業の中で、はっきりと判って来た。いや、同じ「家庭版」と名打ったネット上の画像データでも、驚いたことに、有意に異なっていたのである。そうした意味でも――完全な仕切り直しの総点検――が必要であると決したものである。従って、旧前振りの括弧・鍵括弧の問題も、拡大とガンマ補正で確認し、正確を期する。本作はここから。

 戸川明三は英文学者で評論家としても知られる戸川秋骨(明治三(一八七一)年~昭和一四(一九三九)年)の本名である。彼の著作権は既に満了している。本ブログ・カテゴリ「小泉八雲」では、彼が訳した小泉八雲の遺作となった大作「神國日本」(“Japan: An Attempt at Interpretation”)を全電子化注している。

 なお、実は、私は、柴田宵曲 續妖異博物館 「死者の影」 附 小泉八雲 “A DEAD SECRET”+同戶川明三譯(正字正仮名)+原拠「新選百物語/紫雲たな引密夫の玉章」原文で、一度、八雲の原文と訳を電子化している。しかし、今回は、底本異なることもあり、全くゼロから起こした。

 

  葬られたる祕密

 

 むかし丹波の國に稻村屋源助といふ金持ちの商人が住んで居た。此人にお園といふ一人の娘があつた。お園は非常に怜悧で、また美人であつたので、源助は田舍の先生の敎育だけで育てる事を遺憾に思ひ、信用のある從者をつけて娘を京都にやり、都の婦人達の受ける上品な藝事を修業させるやうにした。かうして敎育を受けて後、お園は父の一族の知人――ながらやと云ふ商人に嫁(かたづ)けられ、殆んど四年の間その男と樂しく暮した。二人の仲には一人の子――男の子があつた。然るにお園は結婚後四年目に病氣になり死んでしまつた。

 その葬式のあつた晚にお園の小さい息子は、お母さんが歸つて來て、二階のお部屋に居たよと云つた。お園は子供を見て微笑んだが、口を利きはしなかつた。それで子供は恐はくなつて逃げて來たと云ふのであつた。其處で、一家の內の誰れ彼れが、お園のであつた二階の部屋に行つて見ると、驚いたことには、その部屋にある位牌の前に點(とも)された小さい燈明の光りで、死んだ母なる人の姿が見えたのである。お園は簞笥則ち抽斗[やぶちゃん注:「ひきだし」。]になつて居る箱の前に立つて居るらしく、其簞笥にはまだお園の飾り道具や衣類が入つて居たのである。お園の頭と肩とは極く瞭然(はつきり)見えたが、腰から下は姿がだんだん薄くなつて見えなくなつて居る――恰もそれが本人の、はつきりしない反影のやうに、叉、水面に於ける影の如く透き通つて居た。

 それで人々は、恐れを抱き部屋を出てしまひ、下で一同集つて相談をした處、お園の夫の母の云ふには『女といふものは、自分の小間物が好きなものだが、お園も自分のものに執著して居た。多分、それを見に戾つたのであらう.死人でそんな事をするものも隨分あります――その品物が檀寺にやられずに居ると。お園の著物や帶もお寺へ納めれば、多分魂も安心するであらう』

 で、出來る限り早く、この事を果すといふ事に極められ、翌朝、抽斗を空(から)にし、お園の飾り道具や衣裳はみな寺に運ばれた。しかしお園はつぎの夜も歸つて來て、前の通り簞笥を見て居た。それからそのつぎの晚も、つぎのつぎの晚も、每晚歸つて來た――爲めにこの家は恐怖の家となつた。

 

 お園の夫の母はそこで檀寺に行き、住職に事の一伍一什[やぶちゃん注:「いちごいちじふ(じゅう)」一から十まで。始めから終わりまで。一部始終。「伍」「什」は「五」「十」の換え字。]を話し、幽靈の件について相談を求めた。その寺は禪寺であつて、住職は學識のある老人で、大玄和尙として知られて居た人であつた。和尙の言ふに『それはその簞笥の內か、又はその近くに、何か女の氣にかかるものがあるに相違ない』老婦人は答へた――『それでも私共は抽斗を空に居たしましたので、簞笥にはもう何も御座いませんのです』――大玄和尙は言つた『宜しい、では、今夜拙僧が御宅へ上り、その部屋で番を居たし、どうしたらいいか考へて見るで御座らう。どうか、拙僧が呼ばる時の外は、誰れも番を致して居る部屋に、入らぬやう命じて置いて戴き度い。

[やぶちゃん注:「大玄和尙」不詳。江戸時代中期の僧(延宝八(一六八〇)年~宝暦六(一七五六)年)で、祐天に師事し、増上寺四十五世大僧正となった大玄がいるが、ご覧の通り、彼は浄土宗であるから違う。後で提示する原拠では、『禅僧太元(だいげん)和尚』とある。江戸後期の臨済僧(妙心寺派)の白隠禅の法嗣である太元孜元(たいげんしげん 明和六(一七六九)年~天保八(一八三七)年)がいるが、原拠の「新撰百物語」の板行は推定で明和三(一七六六)年であるから、彼でもない。

「番を致して居る部屋」訳が不親切である。ここの一文の原文は“You must give orders that no person shall enter the room while I am watching, unless I call.”であるから、「拙僧(わたし)が靈を待つて居る部屋」或いは、全体を「靈を待って居(を)る拙僧が、內より呼ばはる時の外は、誰(たれ)も部屋に入らぬよう、命じて置いて戴き度い」と訳すべきところである。]

 

 日沒後、大玄和尙はその家へ行くと、部屋は自分のために用意が出來て居た。和尙は御經を讀みながら、其處にただ獨り坐つて居た。が、子の刻過ぎまでは、何も顯れては來なかつた。しかし、その刻限が過ぎると、お園の姿が不意に簞笥の前に、何時となく輪廓を顯した。その顏は何か氣になると云つた樣子で、兩眼をじつと簞笥に据ゑて居た。

 和尙はかかる場合に誦するやうに定められてある經文を目にして、さてその姿に向つて、お園の戒名を呼んで話しかけた『拙僧(わたし)は貴女(あなた)のお助けをするために、此處に來たもので御座る。定めしその簞笥の中には、貴女の心配になるのも無理のない何かがあるのであらう。貴女のために私がそれを探し出して差し上げようか』影は少し頭を動かして、承諾したらしい樣子をした。そこで和尙は起ち上り、一番上の抽斗を開けて見た。が、それは空であつた。つづいて和尙は、第二、第三、第四の抽斗を開けた――抽斗の背後や下を氣をつけて探した――箱の內部を氣をつけて調べて見た。が何もない。しかしお園の姿は前と同じやうに、氣にかかると云つたやうにぢつと見つめて居た。『どうして貰ひたいと云ふのかしら?』と和尙は考へた。が、突然かういふ事に氣がついた。抽斗の中を張つてある紙の下に何か隱してあるのかも知れない。と、其處で一番目の抽斗の貼り紙をはがしたが――何もない! 第二、第三の抽斗の貼り紙をはがしたが――それでもまだ何もない。然るに一番下の抽斗の貼り紙の下に何か見つかつた――一通の手紙である。『貴女の心を惱して居たものはこれかな?』と和尙は訊ねた。女の影は和尙の方に向つた――その力のない凝視は手紙の上に据ゑられて居た。『拙僧がそれを燒き棄てて進ぜようか?』と和尙は訊ねた。お園の姿は和尙の前に頭を下げた。『今朝すぐに寺で燒き棄て、私の外、誰れにもそれを讀ませまい』と和尙は約束した。姿は微笑して消えてしまつた。

 

 和尙が梯子段を降りて來た時、夜は明けかけて居り、一家の人々は心配して下で待つて居た。『御心配なさるな、もう二度と影は顯れぬから』と和尙は一同に向つて云つた。果してお園の姿は遂に顯れなかつた。

 手紙は燒き棄てられた。それはお園が京都で修業して居た時に貰つた艷書であつた。しかしその內に書いてあつた事を知つて居るものは和尙ばかりであつて、祕密は和尙と共に葬られてしまつた。

 

[やぶちゃん注:本書の原拠は講談社学術文庫一九九〇年刊小泉八雲著・平川祐弘編「怪談・奇談」によれば、明和三(一七六六)年(推定)に、上方の版元吉文字(きちもんじ)屋が板行した新作怪談本「新撰百物語」(著者不詳)の巻三にある「紫雲たな引(びく)密夫(みつふ)の玉章(たまづさ)」である(「玉章(たまづさ)」は手紙のこと。「玉梓(たまあずさ)」が音変化したもので、古えには便りを伝える者が梓の杖を持って正規の使者(配達人)の証明としていたことに拠る)。以下は、富山大学の「ヘルン文庫」の旧小泉八雲蔵本を底本とした(同書の画像は「富山大学学術情報リポジトリ」のこちらから全篇をダウン・ロード出来る)。句読点・記号を附加し、段落を成形して読み易くした。但し、読みは振れそうな部分のみに留めた。漢字は正字とするか略字ととるか迷ったものは正字を採った。歴史的仮名遣の誤りはママである。踊り字「く」は正字化した。一部で清音の個所を濁音に直した(そこは指示した)。一部が汚損して読み難くなっているが、そこは講談社学術文庫を参考に比定した。

   *

   ○紫雲たな引密夫の玉章

 小夜衣(さよごろも)など書(かき)やりしは、鳴呼、貴むべし貞女とも節女とも、古今に(こゝん)に秀(ひいで)し稀者(まれもの)、末世までも、その名を殘せり。かゝる賢女を當世に「不膵(ぶすい)」といひ、「練(ねれ)ぬ」といひ、「白(しろ)い」といひ、「土(つち)」といふ。これ、皆、西南の「蚯蚓(みゝず)」にして、𢙣(にく)むべし。人をして𢙣(あく)に導(みちびく)の罪人なり。かくのごときものをば、「鼠」といふと、その所以(ゆへ)を問ヘば、食ふ事のみを好んで、人前へ出(いづ)る事あたはざるがゆへなりと。宜(むべ)なるかな、子は親の心にならふものなれば、假令(かりそめ)にも不義・淫亂のことをいはず、女子(によし)は取(とり)わけ、孝を第一にして、つゝしを敎(おしゆ)べし。芝居の御姬さまの、かちや、はだして[やぶちゃん注:「裸足で」か。]、出奔なされ、後(のち)には傾城やへ賣(うら)れ給ふの、イヤ、「私夫(まぶ)」のといふ名は勿論、聞(きか)すも毒なるに、母親(はゝご)の好(すき)とて、娘子(むすめご)を鰹汁(だし)にして、一番太皷(いちばんたいこ)のならぬ中(うち)から、幼(いとけ)なき子の手を引(ひい)てしこみ給ヘば、曆々の黑き膵(すい)と成(なつ)て、男(おとこ)の子は、代々の家をもち崩し、辻(つぢ[やぶちゃん注:原典「つち」。])だちの狂言するやうになり、女子(によし)は密夫(まおとこ)の種(たね)と成ものぞかし。

[やぶちゃん注:「小夜衣(さよごろも)」は中世の擬古物語。作者不詳。全三巻。兵部卿宮と山里の姫君(対(たい)の君)の恋に、継子いじめ譚を絡ませたもの。鎌倉中期以後に成立したと考えられている。梗概は参照したウィキの「小夜衣」を見られたい。

「不膵」ママ。「膵」は膵以外の意はない。「無粹(粋)」を書き誤まるとは思えないので、臓器の「膵」臓がないから、女だてらにこんな辛気臭いものを書くという洒落ででもあったか。後の「黑き膵」から見て、賤しい道理を外れた腹黒の者の謂いとも採れる。

『西南の「蚯蚓(みゝず)」』「蚯蚓」は下手な筆文字を卑称する「蚯蚓書き」のことであろう。女性の草書の崩し字を揶揄していると読む。「西南」が判らぬ。「粋でない」ことを関西以南でこう呼ぶものかと思い、調べたが、方言辞典でも出てこない。本書の出版元吉文字屋は大阪の書肆である。

「食ふ事」読本作家は紙を食うと掛けたか。

「一番太皷」芝居小屋の開場を知らせるそれ。ここは母親が子供らが好きだからなどという見え透いた嘘をついて、不倫・心中物の浄瑠璃や歌舞伎やらの寄席に足繁く遊興することを批難したもの。

「辻(つち[やぶちゃん注:ママ。])だちの狂言する」大道芸の語りや講談師に落魄(おちぶ)れること。]

 今はむかし、丹波の國に、「稻村や善助」とて、吳服商賣する人ありて、お園といふ娘をもちしが、只ひとりの娘といひ、諸人にまされる容色なれば、父母の寵愛、すくなからず、

「田舍育(いなかそだち)となさんも、惜し。」

と、一年のうち、大かたは京・大坂に座敷をかり、乳母・婢(こしもと)を多くつけ置(おき)、「地下(ぢげ)でも堂上(たうしやう)まさりじや」と名にたつ師をとり、和歌を学(まなば)せ、「茶の湯も少し知(しら)いでは」と、利休流の人へたのみ、長板(ながいた)までもたてまへ覚へ、「𢌞り炭(すみ)に心をくだけば[やぶちゃん注:原文「は」。]、お精がつきやう」と、婢(こしもと)とも、琴・三絃(さみせん)を取出し、「明日は芝居にいたしましよ」と女形(をんながた)の容貌(すがた)に氣をつけ、聲音(こはいろ)をうつし、仕立(したて)あけたる盛(さかり)の年(とし)、二九(にく)からぬ目もと・口もと、田舍にまれなるうつくしさ、引手(ひくて)あまたの其中に、「長良(なから[やぶちゃん注:ママ。])や淸七」とて、これもをとらぬ身代がら、兩替商賣。

[やぶちゃん注:「𢌞り炭」茶道の炉での作法の一つ。亭主と客の両者で炉の炭の組み方を各自の好みの趣で炉の中へ炭を並べ入れること。

「お精がつきやう」「廻り炭」などをちまちまとなさっていては、精神的に疲れてしまうだろう、と。

「仕立(したて)あけたる」「あけたる」は「明けたる」で修業が終わったの意であろう。]

 目利(めきゝ)の嫁子(よめご)、白無垢娘(しろむくむすめ)、二世かけて夫婦の中(なか)は黃金(わうごん[やぶちゃん注:原文「わうこん」。])はだへ、振手形なきむつましさ。

[やぶちゃん注:「振手形」両替屋の預金者がその両替屋を支払人として、或いは、両替屋相互に相手を支払人として発行する手形。記名式で持参人払い。大坂で多く流通したため、「大坂手形」とも称した。ここでの否定形は、夫の生業に洒落て、信用不信用の思惑も不要な、の意。]

 はや、其としに懷妊して、玉のやうなる和子(わこ)をもふけて、世話に、「すがたも變らねば[やぶちゃん注:原文「は」。]、下地(したぢ)のよいのは各別」と讃(ほめ)そやされし身なりしが、秋の末にはあらねども、いつともなしにぶらぶらとさして、病氣といふにもあらず、只、何となく面瘦(おもやせ)て、氣むつかしげに衰へて、物おもはしき氣色なれば、兩親(ふたおや)・舅姑(しうとしうとめ)・聟(むこ)、にはかに驚き、医者へも見せ、「藥よ鍼(はり)よ」と騷ぎたち、諸神(しよじん)諸佛へ立願(りうぐはん)をかけ奉る御寶前に肝膽(かんたん)をくだき、いのれども、終(つゐ)に此世の緣つきて、會者定離(ゑしやじやうり)とは知りながら、戀こがれしも、あだし野の露と消(きへ)ゆく花ざかり、鳥部(とりべ)の山に植(うへ)かへて、淚の種(たね)となりけらし。

 ふしぎや、野邊に送りし夜より、お園が姿、ありありと影のごとくにあらはれて、物をもいはず、しよんぼりと單笥のもとにたゝずめり。

 みなみな、傍(そば)に立(たち)よりて、

ノフ、なつかしや。」

と取すがれど[やぶちゃん注:原文「と」。]、たゞ[やぶちゃん注:原文「ゝ」。]雲霧のごとくにて、手にもとられぬ水の月。

「何ゆへこゝに來りしぞ。」

と尋ぬれども、返事もせず、淚にむせぶ斗(ばかり)にて樣子もしれねば、詮かたなく、

「可愛(かあい)や。わが子が淸七に、こゝろ殘りて、迷ひしならん。」

と、さまざまの佛事をなし、跡ねんごろに吊(とふら)へども、所も違(たが)はず[やぶちゃん注:原文「す」。]、姿もさらず。

[やぶちゃん注:「可愛(かあい)や」感動詞的用法で「ああ、可哀想に!」の意。]

「扨は。簞笥の衣類の中か、手道具などにも執着せしか。」

と、殘らず、寺へ送れども、猶も、姿は、しほしほと、はじめにかはらぬ有樣なれば、一門中(もんちう)、ひそかにあつまり、

「衣類・手道具、寺へおくり、かたのごとく佛事をなせども、すこしもしるしのなき時は、なかなか、凡慮の及ばぬ[やぶちゃん注:原文「はぬ」]所、道得知識(どうとくちしき)のちからならでは、此妖怪は退くまじ。」

[やぶちゃん注:「道得知識」「道得」は仏法を身につけて、よく言い表わすことが出来ることを指す。「だうて(どうて)」とも読む。「知識」は「仏法を説いて導く指導者・善知識」のこと。]

と、其ころ、諸國に名高き禪僧太元(だいげん)和尚にくはしく語れば、和尚、しばらくかんがへて、

「後ほど參り、ようすを見とゞけ、迷ひをはらし得さすべし。」

と、初夜[やぶちゃん注:現在の午後八時頃。仏教で、一昼夜を晨朝(じんじょう)・日中・日没 (にちもつ)・初夜・中夜・後夜 (ごや)の六つに分けたもの。この時刻毎に、念仏や読経などの勤行をした。]すぐる比、たゞ一人、「長良や」に來られしに、見れば、一家(け)の詞(ことば)にちがはず、亡者のすがた、霞のごとく、簞笥のもとにあらはれて、目をもはなさず、簞笥をながめ、淚をながしかなしむ有さま、和尚、始終をよくよく見て、

「亡者の躰(てい)を考(かんがふ)るに、ひとつの願ひあるゆへなり。暫く此間(ま)の人を、はらひ、障子・ふすまをたて切(きる)べし。いかやうの事ありとも、一人も來(きた)るべからず。追付(おつつけ)、しるしを見せ申さん。」

と。

 其身は、亡者のすがたに向ひ、いよいよ窺ひ居たりしが、立(たち)あがり、簞笥の中、一一[やぶちゃん注:「いちいち」。原文は後者は踊り字「く」。]に、よくあらため、顧(かへりみ)れども[やぶちゃん注:原文は「とも」。]、始(はじめ)にかはらず。

 とてもの事に、

「簞笥の下を。」

と、引(ひき)のくれば、不義の玉章、數(す)十通、ひとつに封じかくしたり。

「これぞ、迷ひの種なるべし。」

と、幽霊にさしむかひ、

「心やすく成佛すべし。此ふみ共は、燒(やき)すて、人目には見せまじ。」

と、約束かたき、誓ひの言葉。

 亡者のすがたはうれしげに合掌するぞと、見へけるが、朝日に霜のとくるがごとく、消(きへ)て、かたちは、なかりけり。

 和尚は歡喜(かんぎ)あさからず、一門、のこらず呼出(よびいだ)し、

「亡者はふたゝび來るまじ。猶なき跡を吊(おふら)ふべし。」

と、立歸り、彼(かの)ふみども、佛前にて燒(やき)すつる煙(けふり)の中に、まざまざと、亡者は、再び、姿をあらはし、

「大悟知識(たいごちしき)の引導にて、則(すなはち)、たゞ今、佛果を得たり。」

と、紫雲に乘じて飛(とび)されりと。

 大元和尚の宗弟(しうてい)[やぶちゃん注:門弟。]の物がたりぞと聞(きゝ)およぶ。

   *]

2019/09/19

小泉八雲 ろくろ首  (田部隆次譯) 附・ちょいと負けない強力(!)注・原拠

 

[やぶちゃん注:本篇(原題“ROKURO-KUBI”)は明治三七(一九〇四)年四月にボストン及びニュー・ヨークの「ホートン・ミフリン社」(BOSTON AND NEW YORK HOUGHTON MIFFLIN COMPANY)から出版された、恐らく小泉八雲の著作の中で最も日本で愛されている作品集「怪談」(原題“KWAIDAN: Stories and Studies of Strange Things”。来日後の第十作品集)の九話目である。なお、小泉八雲はこの年の九月二十六日に五十四歳で心臓発作により急逝した。

 同作品集は“Internet Archive”のこちらで全篇視認でき(リンク・ページは挿絵と扉標題。以下に示した本篇はここから。)、活字化されたものは“Project Gutenberg”のこちらで全篇が読める本篇はここ)

 底本は上記英文サイト“Internet Archive”のこちらにある画像データをPDFで落し、視認した。これは第一書房が昭和一二(一九三七)年一月に刊行した「家庭版小泉八雲全集」(全十二巻)の第八巻全篇である。★【2025年3月28日底本変更・前注変更】時間を経て、国立国会図書館デジタルコレクションに本登録し、現行では、以上の第一書房版昭和六(一九三一)年一月に刊行した「學生版小泉八雲全集」(全十二巻)の第七巻が、国立国会図書館デジタルコレクションで公開されてある。(リンクは扉だが、「學生版」の文字はない。しかし、奥附を見て貰うと『學生版 【第二囘豫約】』とあり、『昭和六年一月十日 發行』とあることが確認出来る)、これが、前掲の底本と同じものであるが、やはり、外国のサイトのそれを底本とするのは、日本人小泉八雲に失礼であると考えた。されば、こちらで、再度、以下の「骨董」の作品群を改めて校正することとする。これが――私の小泉八雲への「義」――である。なお、之よりも前の元版の全集等が先行しているものの、私がそれらと比べた結果、実は先行する同社の「小泉八雲全集」のそれらは、訳が一部で異なっており、訳者等によって、かなりの補正・追加がされていることが、今回の正字補正作業の中で、はっきりと判って来た。いや、同じ「家庭版」と名打ったネット上の画像データでも、驚いたことに、有意に異なっていたのである。そうした意味でも――完全な仕切り直しの総点検――が必要であると決したものである。従って、旧前振りの括弧・鍵括弧の問題も、拡大とガンマ補正で確認し、正確を期する。本作はここから。

 田部隆次(たなべりゅうじ 明治八(一八七五)年~昭和三二(一九五七)年)氏については先に電子化した「人形の墓」の私の冒頭注を参照されたい。

 傍点「﹅」は太字に代えた。

 最後に原拠である「怪物輿論」の「轆轤首悕念却報福話」(轆轤首(ろくろくび)の悕念(きねん)却つて福を報ふ話)を添えた。]

 

  ろくろ首

 

 五百年程前に、九州菊池の侍臣に磯貝平太左衞門武連(たけつら)と云ふ人がゐた。この人は代々武勇にすぐれた祖先からの遺傳で、生れながら弓馬の道に精しく非凡の力量をもつてゐた。未だ子供の時から劒道、弓術、槍術では先生よりもすぐれて、大膽で熟練な勇士の腕前を充分にあらはしてゐた。その後、永享年間(西曆一四二九―一四四一)の亂に武功をあらはして、ほまれを授かつた事度々であつた。しかし菊池家が滅亡に陷つた時、磯貝は主家を失つた。外の大名に使はれる事も容易にできたのであつたが、自分一身のために立身出世を求めようとは思はず、又以前の主人に心が殘つてゐたので、彼は浮世を捨てる事にした。そこで剃髮して僧となり――囘龍と名のつて――諸國行脚に出かけた。

[やぶちゃん注:「九州菊池」肥後の豪族。寛仁三(一〇一九)年の「刀伊(とい)の入寇」(平安中期の外敵侵入事件。刀伊とは朝鮮語で夷狄の意であるが、本邦では沿海州地方に住んでいた女真族を指した。この年の三月に高麗(こうらい)襲った女真族が五十艘余りの船に分乗し、壱岐・対馬に襲来、ついで筑前国怡土(いと)郡を侵し、志麻郡・早良(さわら)郡を略奪したが、大宰府が警固所に派遣して防戦に当たったため、賊は警固所や筥崎宮の攻略に失敗、ほぼ一週間で、日本近海から退散した)を撃退した大宰府の官人藤原政則の子孫で、「元弘の乱」では鎮西探題を攻め、以後、一貫して南朝方に組し、九州宮方(みやがた)の中心勢力となった。南北朝合一後は肥後守護となったが、次第に衰え、戦国時代に大友氏に滅ぼされた(以上は諸辞書の記載)。ウィキの「菊池氏」によれば、その滅亡は、『父である』第十八『代菊池兼朝を追って当主に就いた』第十九『代菊池持朝のころから』、『菊池氏一族の間で家督をめぐる争いが持ち上がるようになっていたが』、第二十『代菊池為邦の弟で』、『宇土氏の養子になっていた宇土為光が、甥である』第二十一『代菊池重朝に対し』、文明一六(一四八四)年に挙兵し、『敗れたものの』、重朝の没後の文亀元(一五〇一)年に再度、『挙兵した。為光に追われた』第二十二『代菊池能運』(よしゆき)『は有馬氏を頼って玉名を経由して島原に逃れ、翌』年、他の豪族らと『呼応して為光を自刃させた。能運は戦いに勝利したものの、戦傷がもとで』永正元(一五〇四)年、わずか二十三歳で『死亡し、以後』、『菊池氏の家督は庶流から輩出されるようになり、菊池氏家督は阿蘇氏や大友氏に横取りされ、こうして菊池氏は滅亡した』。『能運の死後肥後国では下克上が進み』、『戦国時代に突入したとされるが、菊池氏の遺領は菊池三家老と言われた赤星氏・城氏・隈部氏らが領するところとなった』とあるから、そうした連中に対して、この主人公武連は武士の一分として許し難いものを感じたのであろう。まさに本文の「外の大名に使はれる事も容易にできたのであつたが、自分一身のために立身出世を求めようとは思はず、又以前の主人に心が殘つてゐたので、彼は浮世を捨てる事にした」という下りが、それを如実に物語っていると思う。なお、西郷隆盛もこの菊池氏の末裔と伝えられるともある。

「磯貝平太左衞門武連」「囘龍」(後者は原文が“Kwairyō”であるから、「かいりやう(かいりょう)」と読まねばならない。原拠「怪物輿論」でもその読みである)でも同名であるが、不詳。

「大膽で熟練な勇士」底本は「勇士」が「勇土」であるが、原文は“a daring and skillful soldier”(大胆で熟練した兵士)であるので、誤植と断じて特異的に訂した。

「永享年間(西曆一四二九―一四四一)の亂」永享の乱。室町時代の永享一〇(一四三八)年に関東地方で発生した戦乱。鎌倉公方足利持氏と関東管領上杉憲実の対立に端を発し、室町幕府第六代将軍足利義教が持氏討伐を命じた戦い。]

 しかし僧衣の下には、いつでも囘龍の武士の魂が生きてゐた。昔、危險をものともしなかつたと同じく、今は又難苦を顧みなかつた。それで天氣や季節に頓着なく、外の僧侶達の敢て行かうとしない處へ、聖い[やぶちゃん注:「きよい」。]佛の道を說くために出かけた。その時代は暴戾亂雜[やぶちゃん注:「ぼうれいらんざつ」。荒々しく道理に背いており、残酷で徳義に悖(もと)る、乱れ切った状態にあること。まさに下剋上である。]の時代であつた。それでたとへ僧侶の身でも、一人旅は安全ではなかつた。

 

 始めての長い旅のうちに、囘龍は折があつて、甲斐の國を訪れた。或夕方の事、その國の山間を旅して居るうちに、村から數里を離れた、甚だ淋しい處で暗くなつてしまつた。そこで星の下で夜をあかす覺悟をして、路傍の適當な草地を見つけて、そこに臥して眠りにつかうとした。彼はいつも喜んで不自由を忍んだ。それで何も得られない時には、裸の岩は彼にとつてはよい寢床になり、松の根はこの上もない枕となつた。彼の肉體は鐡であつた。露、雨、霜、雪になやんだ事は決してなかつた。

 橫になるや否や、斧と大きな薪の束を脊負うて道をたどつて來る人があつた。この木こりは橫なつて居る囘龍を見て立ち止まつて、しばらく眺めてゐたあとで、驚きの調子で云つた。

 『こんなところで獨りでねて居られる方は、そもそもどんな方でせうか。……このあたりには變化のものが出ます――澤山に出ます。あなたは魔物を恐れませんか』

 囘龍は快活に答へた、『わが友、わしはただの雲水ぢや。それ故少しも魔物を恐れない、――たとへ化け狐であれ、化け狸であれ、その外何の化けであれ。淋しい處は、かへつて好む處、そん處は默想をするのによい。わしは大空のうちに眠る事に慣れて居る、それから、わしのいのちについて心配しないやうに修業を積んで來た』

[やぶちゃん注:「そん處」はママ。私は別段、口語表現として違和感はない。寧ろ、元猛者の武士ならば、猶更である。]

 『こんな處に、お休みになる貴僧は、全く大膽な方に相違ない。ここは評判のよくない――甚だよくない處です。「君子危きに近よらず」と申します。實際こんな處でお休みになる事は甚だ危險です。私の家はひどいあばらやですが、御願です、一緖に來て下さい。喰べるものと云つては、さし上げるやうなものはありません。が、とにかく屋根がありますから安心してねられます』

 熱心に云ふので、囘龍はこの男の親切な調子が氣に入つて、この謙遜な申出を受けた。きこりは往來から分れて、山の森の間の狹い道を案內して上つて行つた。凸凹の危險な道で、――時々斷崖の緣を通つたり、――時々足の踏み場處としては、滑りやすい木の根のからんだものだけであつたり、――時々尖つた大きな岩の上、又は間をうねりくねつたりして行つた。しかし、やうやく囘龍は或山の頂きの平らな場所へ來た。滿月が頭上を照らしてゐた。見ると自分の前に小さな草ふき屋根の小屋があつて、中からは陽氣な光がもれてゐた。きこりは裏口から案內したが、そこへは近處の流れから、竹の筧で水を取つてあつた。それから二人は足を洗つた。小屋の向うは野菜畠につづいて、竹藪と杉の森になつてゐた。それからその森の向うに、どこか遙かに高い處から落ちて居る瀧が微かに光つて、長い白い着物のやうに、月光のうちに動いて居るのが見えた。

[やぶちゃん注:「筧」(かけひ(かけい))は「懸け樋」とも書く。地上に掛け渡して水を導く、竹や木の樋(とい)のこと。]

 

 囘龍が案內者と共に小屋に入つた時、四人の男女が爐にもやした小さな火で手を暖めて居るのを見た。僧に向つて丁寧にお辭儀をして、最も恭しき態度で挨拶を云つた。囘龍はこんな淋しい處に住んで居るこんな貧しい人々が、上品な挨拶の言葉を知つて居る事を不思議に思つた。『これはよい人々だ』彼は考へた『誰かよく禮儀を知つて居る人から習つたに相違ない』それから外のものが『あるじ』と云つて居るその主人に向つて云つた。

 『その親切な言葉や、皆さんから受けた甚だ丁寧なもてなしから、私はあなたを初めからのきこりとは思はれない。多分以前は身分のある方でしたらう』

 きこりは微笑しながら答へた。

 『はい、その通りでございます。只今は御覽の通りのくらしをしてゐますが、昔は相當の身分でした。私の一代記は、自業自得で零落したものの一代記です。私は或大名に仕ヘて、重もい[やぶちゃん注:ママ。]役を務めてゐました。しかし餘りに酒色に耽つて、心が狂つたために惡い行をいたしました。自分の我儘から家の破滅を招いて、澤山の生命を亡ぼす原因をつくりました。その罸[やぶちゃん注:「ばつ」。]があたつて、私は長い間この土地に亡命者となつてゐました。今では何か私の罪ほろぼしができて、祖先の家名を再興する事のできるやうにと、願つてゐます。しかしさう云ふ事もできさうにありません。ただ、眞面目な懺悔をして、できるだけ不幸な人々を助けて、私の惡業の償ひをしたいと思つて居ります』

 囘龍はこのよい決心の告白をきいて喜んで主人に云つた。

 『若い時につまらぬ事をした人が、後になつて非常に熱心に正しい行をするやうになる事を、これまでわしは見てゐます。惡に强い人は、決心の力で、又、善にも强くなる事は御經にも書いてあります。御身は善い心の方である事は疑はない。それでどうかよい運を御身の方へ向はせたい。今夜は御身のために讀經をして、これまでの惡業に打ち勝つ力を得られる事を祈りませう』

 かう云つてから囘龍は主人に『お休みなさい』を云つた。主人は極めて小さな部屋へ案內した。そこには寢床がのべてあつた。それから一同眠りについたが、囘龍だけは行燈のあかりのわきで讀經を始めた。おそくまで讀經勤行に餘念はなかつた。それからこの小さな寢室の窻[やぶちゃん注:「窓」の異体字。]をあけて、床につく前に、最後に風景を眺めようとした。夜は美しかつた。空には雲もなく、風もなかつた。强い月光は樹木のはつきりした黑影を投げて、庭の露の上に輝いてゐた。きりぎりすや鈴蟲の鳴き聲は、騷がしい音樂となつてゐた。近所の瀧の音は夜のふけるに隨つて深くなつた。囘龍は水の音を聽いて居ると、渇きを覺えた。それで家の裏の筧を想ひ出して、眠つて居る家人の邪魔をしないで、そこへ出で水を飮まうとした。襖をそつとあけた。さうして、行燈のあかりで、五人の橫臥したからだを見たが、それには何れも頭がなかつた。

 直ちに――何か犯罪を想像しながら――彼はびつくりして立つた。しかし、つぎに彼はそこに血の流れてゐない事と、頭は斬られたやうには見えない事に氣がついた。それから彼は考ヘた。『これは妖怪に魅(ばか)されたか、或は自分はろくろ首の家におびきよせられたのだ。……「搜神記」に、もし首のない胴だけのろくろ首を見つけて、その胴を別の處にうつして置けば、首は決して再びもとの胴へは歸らないと書いてある。それから更にその書物に、首が歸つて來て、胴が移してある事をさとれば、その首は毬のやうにはねかへながら三度地を打つて、非常に恐れて喘ぎながら、やがて死ぬと書いてある。ところで、もしこれがろくろ首なら、禍[やぶちゃん注:「わざはひ」。]をなすもの故、――その書物の敎へ通りにしても差支[やぶちゃん注:「さしつかへ」。]はなからう』……

[やぶちゃん注:「搜神記」六朝時代、四世紀の晋の干宝の著になる志怪小説集。神仙・道術・妖怪などから、動植物の怪異・吉兆・凶兆の話等、奇怪な話を記す。著者の干宝は有名な歴史家であるが、身辺に死者が蘇生する事件が再度起ったことに刺激され、古今の奇談を集めて本書を著したという。もとは 三十巻あったと記されているが、現在伝わるものは系統の異なる二十巻本と八巻本である。当時、類似の志怪小説集は多く著わされているが、本書はその中でも、比較的、時期も早く、歴史家らしい簡潔な名文で、中国説話の原型が多く記されており、後の唐代伝奇など、後世の小説に素材を提供し、中国小説の萌芽ということが出来る(「ブリタニカ国際大百科事典」に拠る)。なお、同書の巻十二に載るそれは、「古今百物語評判卷之一 第二 絕岸和尙肥後にて轆轤首見給ひし事」そこでは、実は最後の原拠(注の内)の電子化も既に行っている(二〇一八年十月四日公開)。但し、今回のは後で述べる通り、原本底本の私の決定稿となるの私の注で原文を電子化してあるが、そこでは白文表示のみであったので今回は訓読して示す

   

 秦の時、南方に「落頭民」有り、其の頭(かうべ)は能く飛ぶ。其の種の人、部(ぶ)[やぶちゃん注:民族集団。]に祭祀有り、號して「蟲落(ちゆうらく)」と曰ふ。故に因りて名を取る[やぶちゃん注:半可通。「落」は判るが、「蟲」は判らぬ。中国音の音通でもない。]。

 吳の時、將軍朱桓(しゆこう)[やぶちゃん注:孫権の下で将軍を務めた。「三国志」に伝が載る。]、一婢を得(う)。每夜、臥(ふ)するの後(のち)、頭、輒(すなは)ち飛び去る。或いは狗竇[やぶちゃん注:犬潜(くぐ)り。犬が自由に出入り出来るように家に開けた穴。]より、或いは天窗中(てんさうちゆう)[やぶちゃん注:空いた天窓。]より出入(しゆつにふ)し、耳を以つて翼と爲(な)す。將(まさ)に曉(あかつき)ならんとして、復た、還る。

 數數(しばしば)此くのごとくすれば、傍(そば)の人、之れを怪しみ、夜中、照らし視るに、唯だ、身、有りて、頭、無し。其の體(からだ)微(わづ)かに冷たく、氣息(きそく)、裁(わづ)かに屬(つ)ぐ[やぶちゃん注:呼吸がやっと続いている。]。

 乃(すなは)ち、之れを蒙(おほ)ふに被(ひ)[やぶちゃん注:懸け布団。]を以つてす。

 曉に至り、頭、還るも、被に礙(さへぎ)られて安んずるを得ず[やぶちゃん注:体と接合出来ない。]。兩三度[やぶちゃん注:二、三度。]、地に墮(お)ち、噫咤(あいた)して[やぶちゃん注:溜め息をついて。]甚だ愁ふ。體氣(たいき)[やぶちゃん注:呼吸。]、甚だ急にして、狀、將に死せんとするがごとし。乃(すなは)ち、被を去れば、頭、復た、起き、頸に傅(つ)く。頃(しばら)く有りて、和平せり[やぶちゃん注:落ち着いた。]。

 桓、以つて大怪と爲し、畏れて敢へて留めず、乃ち、之れを放遣(はうけん)す[やぶちゃん注:解雇した。]。

 既にして、之れを詳らかにすれば[やぶちゃん注:その後に詳しく調べたところが。]、乃ち、天性なるを知れり。

 時に南征の大將も亦、往往にして之れを得。

 又、嘗つて覆(おほ)ふに銅盤を以つてする者、有り。頭、進み得ずして、遂に死せり。

   *]

 彼は主人の足をつかんで、窻まで引いて來て、からだを押し出した。それから裏口に來て見ると戶が締つてゐた。それで彼は、首は開いてゐた屋根の煙出しから出て行つた事を察した。靜かに戶を開けて庭に出て、向うの森の方へできるだけ用心して進んだ。森の中で話し聲が聞えた、それでよい隱れ場所を見つけるまで影から影へと忍びながら――聲の方向へ行つた。そこで、一木の樹の幹のうしろから首が――五つとも――飛び𢌞つて、そして飛び𢌞りながら談笑して居るのを見た。首は地の上や樹の間で見つけた蟲類を喰べてゐた。やがて主人の首が喰べる事を止めて云つた、

 『あ〻、今夜來たあの旅の僧、全身よく肥えて居るぢやないか、あれを皆で喰べたら、さぞ滿腹する事であらう。……あんな事を云つて、つまらない事をした、――だからおれの魂のために、讀經をさせる事になつてしまつた。經をよんで居るうちは近よる事がむつかしい。稱名を唱へて居る間は手を下す事はできない。しかしもう今は朝に近いから、多分眠つたらう。……誰かうちへ行つて、あれが何をして居るか見屆けて來てくれないか』

 一つの首――若い女の首――が直ちに立ち上つて蝙蝠のやうに輕く、家の方へ飛んで行つた。數分の後、歸つて來て、大驚愕の調子で、しやがれ聲で叫んだ、

 『あの旅僧はうちにゐません、――行つてしまひました。それだけではありません。もつとひどい事には、主人の體を取つて行きました。どこへ置いて行つたか分りません』

 この報告を聞いて、主人の首が恐ろしい樣子になつた事は月の光で判然と分つた。眼は大きく開いた、髮は逆立つた、齒は軋(きし)つた。それから一つの叫びが唇から破裂した、忿怒の淚を流しながらどなつた、

 『からだを動かされた以上、再びもと通りになる事はできない。死なねばならない。……皆これがあの僧の仕業だ。死ぬ前にあの僧に飛びついてやらう、――引き裂いてやらう、――喰ひつくしてやらう。……あ〻あすこに居る――あの樹のうしろに隱れて居る。あれ、――あの肥(ふと)つた臆病者』……

 同時に主人の首は他の四つの首を隨へて、囘龍に飛びかかつた。しかし强い僧は手ごろの若木を引きぬいて武器とし、それを打ちふつずて首をなぐりつけ、恐ろしい力でなぎたててよせつけなかつた。四つの首は逃げ去つた。しかし、主人の首だけは、如何に亂打されても、必死となつて僧に飛びついて、最後に衣の左の袖に喰ひついた。しかし囘龍の方でも素早くまげをつかんでその首を散々になぐつた。どうしても袖からは離れなかつたが、しかし長い呻きをあげて、それからもがくことを止めた。死んだのであつた。しかしその齒はやはり袖に喰ひついてゐた。そして囘龍のありたけの力をもつてしても、その顎を開かせる事はできなかつた。

 彼はその袖に首をつけたままで、家へ戾つた。そこには、傷だらけ、血だらけの頭が胴に歸つて、四人のろくろ首が坐つて居るのを見た。裏の戶口に僧を認めて一同は『僧が來た、僧が』と叫んで反對の戶口から森の方へ逃げ出した。

 東の方が白んで來て夜は明けかかつた。囘龍は化物の力も暗い時だけに限られて居る事を知つてゐた。袖について居る首を見た――顏は血と泡と泥とで汚れてゐた。そこで『化物の首とは何と云ふみやげだらう』と考へて大聲に笑つた。それから僅かの所持品をまとめて、行脚をつづけるために、徐ろに山を下つた。

 直ちに旅をつづけて、やがて信州諏訪へ來た。諏訪の大通りを、肘に首をぶら下げたまま、堂々と濶步してゐた。女は氣絕し、子供は叫んで逃げ出した。餘りに人だかりがして騷ぎになつたので、捕吏(とりて)が來て、僧を捕へて牢へ連れて行つた。その首は殺された人の首で、殺される時、相手の袖に吹ひついたものと考へたからであつた。囘龍の方では問はれた時に微笑ばかりして何にも云はなかつた。それから一夜を牢屋ですごしてから、その土地の役人の前に引き出された。それから、どうして僧侶の身分として袖に人の首をつけて居るか、何故衆人の前で厚顏にも自分の罪惡の見せびらかしを敢てするか、說明するやうに命ぜられた。

 囘龍はこの問に對して長く大聲で笑つた、それから云つた、

 『皆樣、愚僧が袖に首をつけたのでなく、首の方から來てそこへついたので――愚僧迷惑至極に存じて居ります。それから愚僧は何の罪をも犯しません。これは人間の首でなく、化物の首でございます、それから化物が死んだのは、愚僧が自分の安全を計るために必要な用心をしただけのことからで、血を流して殺したのではございません』……それから彼は更に、全部の冒險を物語つて、五つの首との會戰の話に及んだ時、又一つ大笑ひをした。

 しかし、役人達は笑はなかつた。これは剛腹頑固な罪人で、この話は人を侮辱したものと考へた。それでそれ以上詮索しないで、一同は直ちに死刑の處分をする事にきめたが、一人の老人だけは反對した。この老いた役人は審問の間には何も云はなかつたが、同僚の意見を聞いてから、立ち上つて云つた、『先づ首をよく調べませう、これが未だすんでゐないやうだから。もしこの僧の云ふ事が本當なら、首を見れぱ分る。……首をここへ持つて來い』

 囘龍の背中からぬき取つた衣にかみついて居る首は、裁判官達の前に置かれた。老人はそれを幾度も𢌞して、注意深くそれを調べた。そして頸の項(うなじ)にいくつかの妙な赤い記號らしいものを發見した。その點へ同僚の注意を促した。それから頸の一端がどこにも武器で斬られたらしい跡のない事を見せた。かへつて落葉が軸[やぶちゃん注:茎のこと。]から自然に離れたやうに、その頸の斷面は滑らかであつた。……そこで老人は云つた。

 『僧の云つた事は全く本當としか思はれない。これはろくろ首だ。「南方異物志」に、本當のろくろ首の項(うなじ)の上には、いつでも一種の赤い文字が見られると書いてある。そこに文字がある。それはあとで書いたのではない事が分る。その上甲斐の國の山中には餘程昔から、こんな怪物が住んで居る事はよく知られて居る。……しかし』囘龍の方へ向いて、老人は叫んだ――『あなたは何と强勇なお坊さんでせう。たしかにあなたは坊さんには珍らしい勇氣を示しました。あなたは坊さんよりは、武士の風がありますな。多分あなたの前身は武士でせう』

[やぶちゃん注:「南方異物志」唐の房千里撰の南方の物産誌。一巻。中文サイトで調べたところ、そこに、

嶺南溪峒中、有飛頭蠻者、項有赤痕。至夜以耳爲翼飛去、將曉復著體。

勝手に訓読を試みると、

嶺南の溪峒中に、飛頭蠻なる者、有り。項(うなじ)、赤痕、有り。夜に至りて、耳を以つて翼と爲して飛び去り、將に曉に復た體に著(つ)かんとす。

となろう。私の「古今百物語評判卷之一 第二 絕岸和尙肥後にて轆轤首見給ひし事」一節にも(下線太字は私が附した)、

   *

絕岸和尙といふ僧、西國行脚の折から、肥後へ行(ゆき)て、「しころ村」といふ所に一宿せられしに、軒(のき)あばらなる、かり枕、風、凄(すさ)まじく吹き落ちて、夢もまどかならざりければ、夜更(よふくる)まで念佛稱名して居(ゐ)給ひしに、うしみつばかりに、其屋の女房の首、むくろよりぬけて、窓の破(やぶ)れより、飛出(とびい)でぬ。『あやし』と思ひて、念比(ねんごろ)に見れば、其首の通(かよ)ひしあとに、白きすじの[やぶちゃん注:ママ。以下同じ。]やうなる物、見えたり。『是れこそ轆轤首よ』とおそろしく、誠に過去の業因までおしはからるゝに、夜明がたになりて、其すじ、動(うごく)やうにて、又、もとの處より、彼(か)の首、かへり、「につこ」と笑ふやうにて、おのがふしどに入りぬ。夜明(よあけ)て、其女房を見れば、首のまはりに筋あるやうにて、別のかはりなし。

   *

とある。

「甲子夜話卷之八」に出る「轆轤首の事」にも(私の『柴田宵曲 妖異博物館 「轆轤首」』で全文を電子化している)。

   *

世の人、云ふ。轆轤首は其人の咽に必ず紫筋(むらさきのすぢ)ありと。

   *

とあり、近世ではかなり知られた識別特徴であるようであるが、これが差別を呼んだことは、私の「耳囊 卷之五 怪病の沙汰にて果福を得し事」でも明らかだ。則ち、撫で肩でほっそりとして、そのために首が幾分長く見え、美人ではある(家族総てが轆轤首の本篇のケースを除いて、私の知るそれは、轆轤首或いは轆轤首と噂される女の場合は殆んど総てが、皆、美人であるのだけれども、血行不良等で顔色が悪く、しかも首の皮膚の横筋が特に目立つ場合、それがアダとなって、「あの娘は轆轤首だ」などという心ない(美人故に流されるイジメとしての)噂が立ったのだと私は認識している。]

 『如何にもお察しの通り』と囘龍は答へた。『剃髮の前は、久しく弓矢取る身分であつたが、その頃は人間も惡魔も恐れませんでした。當時は九州磯貝平太左衞門武連と名のつてゐましたが、その名を御記億の方も或はございませう』

 その名前を名のられて、感嘆のささやきが、その法廷に滿ちた。その名を覺えて居る人が多數居合せたからであつた。それからこれまでの裁判官達は、忽ち友人となつて、兄弟のやうな親切をつくして感嘆を表はさうとした。恭しく國守の屋敷まで護衞して行つた。そこでさまざまの歡待饗應をうけ、褒賞を賜はつた後、やうやく退出されたを許された。面目身に餘つた囘龍が諏訪を出た時は、このはかない娑婆世界でこの僧程、幸福な僧はないと思はれた。首はやはり携へて行つた――みやげにすると戲れながら。

 

 さて、首はその後どうなつたか、その話だけ殘つて居る。

 諏訪を出で一兩日のあと、囘龍は淋しい處で一人の盜賊に止められて、衣類を脫ぐ事を命ぜられた。囘龍は直ちに衣(ころも)を脫して盜賊に渡した。盜賊はその時、始めて袖にかかつて居るものに氣がついた。さすがの追剝ぎも驚いて、衣を取り落して、飛ぴ退いた。それから叫んだ、『やあ、こりやとんでもない坊さんだ。おれよりもつと惡黨だね。おれも實際これまで人を殺した事はある、しかし袖に人の首をつけて步いた事はない。……よし、お坊さん、こりやおれ達は同じ商賣仲間だぜ、どうしてもおれは感心せずには居られない。ところで、その首はおれの役に立ちさうだ。おれはそれで人をおどかすんだね。賣つてくれないか。おれのきものと、この衣(ころも)と取り替へよう、それから首の方は五兩出す』

 囘龍は答へた、

 『お前が是非と云ふなら、首も衣も上げるが、實はこれは人間の首ぢやない。化物の首だ。それで、これを買つて、そのために困つても、わしのために欺かれたと思つてはいけない』

 『面白い坊さんだね』追剝ぎが叫んだ。『人を殺してそれを冗談にして居るのだから、……しかし、おれは全く本氣なんだ。さあ、きものはここ、それからお金はここにある。――それから首を下さい。……何もふざけなくつてもよからう』

 『さあ、受け取るがよい』囘龍は云つた。『わしは少しもふざけてゐない。何かをかしい事でも若しあれば、それはお前がお化けの首を、大金で買ふのが馬鹿げてゐてをかしいと云ふ事だけさ』それから囘龍は大笑をして去つた。

 

 こんなにして盜賊は首と、衣を手に入れて暫らく、お化の僧となつて追剝ぎをして步るいた[やぶちゃん注:ママ。]。しかし諏訪の近傍に來て、彼は首の本當の話を聞いた。それからろくろ首の亡靈の祟りが恐ろしくなつて來た。そこでもとの場所へ、その首をかへして、體と一緖に葬らうと決心した。彼は甲斐の山中の淋しい小屋へ行く道を見つけたが、そこには誰もゐなかつた。體も見つからなかつた。そこで首だけを小屋のうしろの森に埋めた。それからこのろくろ首の亡靈のために施餓鬼を行つた。そしてろくろ首の塚として知られて居る塚は今日もなほ見られる。(とにかく、日本の作者はさう公言する)

 

[やぶちゃん注:「ろくろ首の塚」今に伝わらぬものと思う。サイト「座敷浪人の壺蔵」の「あやしい古典文学の壺」の十返舎一九の「列国怪談聞書帖」(私は未見)の「ろくろ首」が訳されてあるが、そのエンディングは主人公の、もと僧(名を信。還俗して武士となっていた)の『右膳は再び仏門に入って、巡国の後、女の墓をたてた。「ろくろ首の塚」といって、駿河と甲斐の境の山中に今もある』とある。展開は本話の原拠とは全く異なるものの、塚のある場所を「甲斐」するところで強い親和性がある。この塚、今もるなら、激しく、見たい!

 本篇の原拠は、十返舎一九の「怪物輿論」の「卷之四」の巻頭にある「轆轤首の悕念(きねん)却(かへ)つて福(さいはひ)を報(むく)ふ話(はなし)」を示す。実は私は既に先に示した私の『柴田宵曲 妖異博物館 「轆轤首」』(轆轤首集成で必見。本話の原拠もそこで電子化している。但し、今回の最後のものはブラッシュ・アップした原典版である)で全文を電子化しているのであるが、それは一九九〇年講談社学術文庫刊の小泉八雲作・平川祐弘編「怪談・奇談」の「原拠」に載るものを参考に恣意的に正字化した不完全なものであった。ところが、今回、幸いなことに、「人文学オープンデータ共同利用センター」のこちらで同書原本の全画像データを入手することが出来たので、それを底本としてゼロから視認して改めて電子化することとした。但し、原文の読みは一部の振れると判断したものに限った。但し、読み難いと判断した部分には〔 〕で推定の歴史的仮名遣の読みを振った。二度目の電子化で原本底本であるから、歴史的仮名遣や清音はそのままで、それらについてのママ注記は五月蠅いので省略した。読みの内、( / )となっているものは(右/左)に二様の読み(後者は一種の意味注)を示す。読み易さを考え、句読点(原典は句点を読点として使用している)と直接話法の鍵括弧や他の記号を附し、段落を成形した。踊り字「く」「ぐ」は正字或いは「々」に代えた。漢字で正字か略字が迷ったものは正字を採った。なお、底本の解凍ファイル「200020593_00045」には挿絵がある。是非、見られたい。

   *

      轆轤首悕念却報福話

[やぶちゃん注:訓点に従うと、「轆轤首の悕念(きねん)却つて福(さいわい)を報(むく)ふ話(はなし)」(歴史的仮名遣誤りはママ)である。「悕念」は「思い・願い・悲しみ」の意であるが、どうもソフト過ぎてしっくりこない。]

 九刕[やぶちゃん注:「州」の異体字。]菊池の侍臣(じしん)磯貝平太(いそがいへいだ)左衞門武連(たけつら)なるもの、農祖(のうそ)[やぶちゃん注:逆立ちしても「農」だが、「先祖・祖先」の意の「曩祖(なうそ)」(現代仮名は「のうそ」)の誤記である。]より相(あい)傳へて、弓馬の道、他門に越(こへ)、鎗術(さうじゆつ)に精(くはし)く、代々力量の血緣(けちみやく)、連綿として、雷名(らいめい)頗(すこぶる)遠近(ゑんきん)に漏達(らうたつ/もれいたり)し、永享の亂(みだれ)に屢(しばしば)武功を露(あらは)して、各國に威を震(ふる)ふといへども、主家(しゆか)、終(つゐ)に大內義弘が爲に滅亡せしかば、武連、それより薙髮(ちはつ)して囘龍(くわいりやう)と名乘(なのり)、空(くうの)門[やぶちゃん注:一切を空と考える大乗仏教の教えから転じて「仏門」のこと。]に入(いり)て、斗藪行脚(とさうあんぎや/しゆつけのぎやう)[やぶちゃん注:衣食住に対する欲望を払い除け、身心を清浄にして、諸国を巡る修行。]をこゝろざし、面(おもて)に皁紗(かうしや/くろきころも)を着(ちやく)すといへども、性質は徃昔(むかし)に變らず、剛强狼戾(かうきやうらうれい/がむしやもの[やぶちゃん注:後者は「狼戾」(「乱暴」「狼藉」の意)にのみ左ルビする。])にして、深山・幽谷・曠野(くはうや)といへども、夜に入れば、草を補(しき)て安宿(あんしゆく)し、吾妻(あづま)の方へ杖(そもと)をすゝめて出行ほどに、甲斐の山中に着(いた)り、既に、日、暮(くれ)ければ、岩上(ぐわんしやう)に袖うち敷(しき)て、木の根に枕し、寬々(くわんくわん)と安臥(あんぐわ)し居たり。時に樵夫(しやうふ/きこり)とおぼしく、身に綴衣(つゞれ)を引まとひ、柴を束(つかね)て負(おふ)たるが、忽然と出來り、囘龍を見て、いふ。

「足下(そくか)、何人なれば、斯(かゝ)る山中に奇宿(きしゆく)して、惡獸の害を恐れざるや。」

 囘龍、いふ。

「我、雲水の旅客(りよかく)なれば、行路、難の山川にあらざる事を觀念し、患苦(くはんく)を好(このん)で行(ぎやう)とすれば、敢て一命をも惜むに非ず。去〔さり〕ながら、武門に生立(おひたち)、聊(いさゝか)其藝にも達(わた)りたれば、何ぞ徒(いたづら)に畜獸の餌(ゑ)に遭(あは)んや。是を以て、奈何なる邊土幽辟(へんどゆうへき)の地に臥すとも、曾而(かつて[やぶちゃん注:二字へのルビ。])恐るゝ叓[やぶちゃん注:「事」の異体字。]なし。」

と。

 樵夫、いふ。

「誠に御坊は狼戾(らうれい)なり。されど、『君子は危(あやふき)に近よらず』。好(このん)で怪を索(もとめ)給ふは、眞勇丈夫(しんゆうじやうぶ)の所爲(しよゐ)に非ず。我(わが)茅屋(ぼうをく)、いぶせくは候へ共、投宿あつて、羈旅の勞(らう)を休(やすめ)給へ。」

と。

 懇請、他事なく聞へければ、囘龍、怡悅(いえつ)し[やぶちゃん注:喜んで。]、

「さあらば、足下の詞(ことば)に隨ひ、一夜(ひとよ)の報謝に預るべし。」

と。

 打連(〔うち〕つれ)て九折(きうせつ/さかみち)の道をたどり、岩角(いはかど)を攀(よぢ)り、木のねを傳ひて、頓(やが)て一箇(ひとつ)の弊屋(あばらや)に着(いた)り視るに、いかにも、古木、苔蒸(こけむし)て、寂々(せきせき)たる軒墀(けんち/のきには)[やぶちゃん注:「墀」は「階段(きざはし)」で通常は「軒墀」で「富貴な人の家」を指す。山上の家であるから「階」はよいとしても、この熟語はその家の感じからは相応しい用語ではない。]の邊(ほとり)、筧(かけひ)つたふ水を結(むすん)で、足を泛(そゝ)ぎ、竹の編戶、押明(おしあけ)て內に入るに、男女(なん〔によ〕)四、五人打擧(〔うち〕こぞり)て、榾(ほた)折〔をり〕くべたる圍爐裏〔いろり〕の火にまたがりながら、囘龍を見て、膝を折、手を束(つか)ねて、蹲踞(うづくまる)。囘龍、主(あるじ)の承仕應答(しやうじおうたう/たちゐふるまひあひさつ)、尋常ならざるを感賞し、其長成(しやうせい)を商問(せめと)ふに[やぶちゃん注:「商問」は漢語では「相談」の意。]、主、いふ。

「我々、此山中に隱遁して、擧家(きよか/かない)五人、糧(かて)を啗(くら)ひ、水を吞(のみ)て、祥(さいはひ)に露命を繫ぎ、潦倒(らうたう/おちぶれたる)の住居(すまゐ[やぶちゃん注:ママ。])をなすといへども、以前は當國の主將に仕(つかへ)て、肖(かず)ならねども、重役を勤(つとめ)、聊(いさゝか)弓馬に名たゝる者の嫡孫なり。我、暗昧(あんまい)[やぶちゃん注:道理に冥く愚かなこ。暗愚。]にして父の家業を受繼(うけつぎ)しより、色に耽り、酒に溺れ、剩(あまつさへ)、諂諛(てんゆ/へつらひおもねる)人を欺くの舌頭に載(のせ)られ、無名[やぶちゃん注:無実。冤罪。]の刑罪を管內(くはんだい/りやうない)[やぶちゃん注:領内。]に施行(せぎやう/ふれながら)し、人をして打屠(〔うち〕ほふ)る事、幾許(いくばく)の數をしらず。其積悪のなす所にや、今、身に報ひて如斯(かくのごとく)零落し、雜戶(ざつと)[やぶちゃん注:ここは低い身分に落とされたことを指すようだ。]に堕入(おちいり)、千辛萬苦し、あはれ、再び父祖の家名を起さんとするに、不期(ふご/おもひもよらぬ)の故障(さはり)出來りて、兎角、心神(しんじん)を安んずる事、能はず、因玆(これによつて)、かゝる罪障の深きを愁ひ、前禍(ぜんくわ)を追悼のあまり、山中通行の旅人(りよじん)を止(とゞめ)て、是に供養し、懺悔(さんげ)滅罪の功德(くどく)を仰ぐ。」

と。

 囘龍、聞(きき)て、

「實(げに)。さる事もあるものなり。凡(およそ)、積善に餘慶、積悪に餘殃(よわう)[やぶちゃん注:先祖の行った悪事の報いが、後に災いとなって、その子孫に残ること。「余慶」の反対語。]ある事、「唐書(とうしよ)」に[やぶちゃん注:「に」はルビであるが、特異的に出した。]曰(いふ)、雍州(ようしう)の孝政が蜜蜂(みつほう/みつはち)に湯を泛(そそ)ぎて、其仇(あた)に沒落し、又、「類篇」に、梅香(ばいこう)[やぶちゃん注:原本の「梅」は(上)に「木」で(下)に「毎」の異体字。]は鼈(かめ)を活(いか)して熱病を痊(いや)したり。鳥獸虫魚といへども、是に報ずるの速(すみやか)なるは、則、天史(てんり)[やぶちゃん注:「史」は「吏」の誤字。]の默報(もくほう/てんのむくひ)なり。况んや、萬物の霊長たる人間に於て、其報を全(ひか)ざらんや[やぶちゃん注:その応報をことごとく受けないなどということがあろうか、いや、ない。]。「北辰神咒經(ほくしんじゆきやう)」に曰、暴虐濁乱(ぼうぎやくじよくらん)にして諸(もろもろ)の群臣を縱(ほしいまゝ)にし、百姓を酷虐(こくぎやく/むごくしいたげ)せば、我、能(よく)、是を退(しりぞ)け、賢能(けんのう)を召(めし)て、其位に代(かへ)んと。是(こゝ)を以て見る時は、國王のみに非ず、諸侯・太夫・庶人といへども、怨枉(えんわう/うらみよこしま)[やぶちゃん注:道理に背いたお門違いの怨み。]を保(たもち)、民物(みんもつ)を枉(まげ)[やぶちゃん注:人民に無理強いをし。]、無名の[やぶちゃん注:「の」はルビを出した。]刑罪を施し、人を殺害(せつがい)せしむる逆罪、爭(いかでか)、其報を免(まぬが)るゝ事、有(あら)んや。「阿含經(あごんきやう)」に「慚愧(ざんき/はぢはづ)」の二字を解(とき)たるは、則〔すなはち〕、慚悔(さんげ)の意(こゝろ)なり。足下、今、徃(わう)を改め、來(らい)を修(しゆ)し、慚愧懺悔(ざんぎさんげ)し、滅罪の功德を願ふ、近ころ、奇特(きどく)千万なり。愚僧、因(ちなみ)に諸佛を請じ、終夜(よすがら)、讀經念誦して、その驗(けん)を祈るべし。」

と。

[やぶちゃん注:「唐書」これは書名ではなく、中国の書の意と採った。以下の話は、「太平広記」の「報應三十一殺生」の「陸孝政」に「法苑珠林」を出典として出る。

   *

唐雍州陸孝政、貞觀中爲右衛隰川府左果毅。孝政爲性躁急、多爲殘害。府內先有蜜蜂一龕、分飛聚於宅南樹上、孝政遣人移就別龕。蜂未去之間、孝政大怒、遂以湯就樹沃死、殆無孑遺。至明年五月、孝政於廳晝寢、忽有一蜂螫其舌上、遂卽紅腫塞口、數日而死。

   *

「類篇」は一〇六七年に北宋の皇帝に奉られた部首引きの官製字書。但し、中文サイトで調べて見たが、以下の下りは見当たらなかった。

「梅香」人名。

「北辰神咒經」「七佛八菩薩諸說陀羅尼神呪經」(「妙見神呪經」とも)のことであろう。道教の北極星信仰と仏教が集合して出来た妙見菩薩についての仏教経典。以下。

   *

心無慚愧 暴虐濁亂 從諸群臣 酷虐百姓 我能退之 徴召賢能 代其王位

   *

「阿含經」仏教の全資料の中でも最古の初期仏教経典の総称。サンスクリット語・パーリ語の「アーガマ」の漢音写。その意は「伝来」で、「代々伝承されてきた経」の謂い。ゴータマ・シッタルダ(釈迦)の言行を収め、仏弟子たちのそれも混じっている。以下は「中阿含經慚愧經」か。]

 對話、數刻(すこく)を費し、頓(やが)て、囘龍、別間の端居(はし〔ゐ〕)に出て安居(あんご)し、一心に經を讀(よみ)、鈴(りん)打ならし、信念勤行の聲、稍(すこ)しも絶間なかりけるが、夜も深々(しんしん)と更渡(ふけわた)り、淸風(せいふう)、稠木(ちうぼく)[やぶちゃん注:茂った木々。]のうちに戰(そよ)ぎ、月光、露のきらめくに移りて、虫の音(ね)、冷々(れいれい)と心耳(しんに)を澄(すま)し、筧の水の歷々たるに、囘龍、頃刻(しばらく)、讀經をとゞめて、感情を催(もよふ)し、猶、左右を顧るに、擧家(きよか/かない)、おのづから閑寂(かんじやく/しづか)にして、各(おのおの)睡眠(すいみん/ねふる)の体(てい)なりける。囘龍、茶水を需(もとめ)んとて、何心なく破襖(やぶれぶすま)、引明(ひきあけ)、勝手のかたを編見(すかしみ)るに、こは、怪(くわい)なるかな、主(あるじ)を初め、宅眷(たくけん/かないのもの)すべて、五人ながら、骸(からだ)[やぶちゃん注:漢字はママ。]のみ臥(ふし)て、その首、なし。

 囘龍、懈慱(げでん/びつくり)し、

『かゝる奇怪は正敷(まさしく)狐狸の我を誑(たぶらか)すものなる歟(か)。但しは、かの傳聞(つたへきく)、「轆轤首(ろくろくび)」といへるにや。「搜神記」に曰(いはく)、尸頭蠻(しとうばん/ろくろくび)あり。頭(かしら)飛去(とびさつ)て後(のち)、其身を別の所に移せば、頭歸て三度、地に落(おち)、息(いき)、喘(あへぎ)、急にして死す、と謂(いへ)り。診(こころみ)に其(その)如くして慰(なぐさみ)ん[やぶちゃん注:気晴らしをしてやろう。流石! 回龍ならではの一言!]。』

と。

 探寄(さぐりよつ)て、主が骸(からだ)をひき起し、壮前(そうぜん)に[やぶちゃん注:不詳。「勇ましくも即座にの意か。]持出(もち〔いだし〕)、投屠(なげほふり)て、猶、

『その動靜(やうす)を點檢(てんけん/ぎんみ)せん。』

と、暗(あん/ひそか)に立出(たちいで)、爰彼所(ここかしこ)を伺ひ見るに、斬墀(けんち/には)を離れし樹林のこなたに、人の聲して虫物(ちうもつ)を喰(くら)ふ、五つの首、あり。

 主の首、さゝやかに云やう、

「今宵の旅僧こそ全身(ぜんしん/そうみ)、肥(こへ)、盛んにして、是を啗(くら)ふに恐らくは飽滿(はうまん/あきみつ)せん。我なまじゐにいらざる事を、不問語仕出(とはずがたりしだ)して、渠(かれ)、經をよみ、称名(しやうめう)を唱ふる故に、近寄(ちかよる)事、叶(かなひ)がたく、空(むなし)く彼を喰(くら)ふことの延引せり。最早、旅僧、眠(ねふ)りつらん、誰(たれ)か見屆來るべし。」

と、詞(ことば)の中(うち)より一箇(ひとつ)の首、㸃頭(てんとう/うなづく)して忽(たちまち)に飛去(とびさり)、稍あつて立歸り、いふ。

「旅僧、如何(いかゞ)せしや、別間に見へず。其上、何者の仕業(しわざ)にや、主の身体(しんたい)、是、なし。」

と。

 急に告(つげ)て走去(はしりさる)主の首、大〔おほひ〕に悲傷慟哭(ひしやうどうこく/かなしみいたみさけびなく)し、

「いかなる事ぞや、我〔わが〕身体を失ひなば、再び合(がつ)する事、叶はず。既に死に臨むの外、なし。必定、彼(かの)旅僧が所爲(しわざ)、紛れなし。我、俱に渠(かれ)を死地(じち)に誘引せずんばあるべからず。」

と、忿怒(ふんぬ/いかる)を顯(あらは)し、飛出(とびいで)しが、囘龍、傍(かたはら)に跼蹐(きよくせき/ひくがまへ)し居(い)たるを見つけて、

「すは、旅僧こそ、爰にあれ。」

と、五筒(いつつ)の頭(かしら)、一齊(〔いち〕どき)に飛還(とびかへ)るを、囘龍、手頃(てごろ)の樹木を引拔(〔ひき〕ぬき)、打振(〔うち〕ふつ)て、前後左右に薙𢌞(なぎまは)る。

 威(いきほ)ひ、猛(もう)に激しければ、主の首、忽(たちまち)に打倒(たを)され、殘りし首も一同に逃(にげ)去れば、囘龍、悠然と、もとの弊室(へいしつ)[やぶちゃん注:普段は使われていない部屋。]に歸り見るに、擧家者(かないのもの)、皆、俱に、其頭(かしら)、本躰(ほんたい)に復し居(ゐ)たりけるが、囘龍を見て、

「あな、恐しや、今の法師こそ、又、我々を打斃(〔うち〕たを)しに來〔きた〕るなれ。」

と、狼敗(らうばい/うろたへ)し、迯惑(にげまど)ふ。

 囘龍、靜(しづか)に頭陀袋(づだふくろ)打懸〔うちかけ〕、杖(つえ)を曳(ひき)て、たち出るに、主の首、再び飛出(とびいで)、

「汝、我(わが)身体(しんたい)を屠(ほふ)りしゆへ、我、本(もと)に歸る事、能はず。看(み)よ、汝が首筋より喰切(くひきり)、其五体を、奪ふべし。」

と。

 牙(きば)を嚙(かん)で、喰付(くひつき)かゝるを打倒(〔うち〕たを)せば、飛上つて、囘龍が袂(たもと)に喰付〔くひつく〕。

 敲(うて)ども放れず、突(つけ)どもたゆまず、唯、其儘に死(しゝ)たりける。

 不敵の囘龍、わざと、其首を袂に附(つけ)て事ともせず、

「我〔わが〕編參(へんさん)の家土産(いへつと)、斯(かゝ)る怪異に出合〔であひ〕たる、其證に携(たづさへ)ん事、究竟(くつきやう)なり。」

と。

 强而(しゐて)是を取捨(とりすて)ず、自後(それより)、信刕(しんしう)諏訪に着(いた)り、終日(ひねもす)、城下を徘徊せしに、往來の男女、囘龍が袂に生首の下(さが)りたるを見て、各(おのおの)怕(おそ)れ魂(たましひ)[やぶちゃん注:漢字は(上)が「云」で(下)が「鬼」。]を飛〔とば〕し、神色(いろ[やぶちゃん注:二字へのルビ。])を失ひ、逃走(にげはし)る。

 官吏(くはんり/やくしよ)の諸士、此(この)体(てい)を不審(いぶかしく)、囘龍を捕(とらへ)て、いふ。

「汝、那里(いづく)にてか、人を害し、迯(にげ)きたる者と覺ゆるなり。有体(ありてい)に申べし。陳疏(ちんそ/あらがふ)[やぶちゃん注:条理に従って上申すること。箇条を挙げて陳述すること。]せば、縲紲(るいせつ/なはめ)[やぶちゃん注:「縲」は罪人を「縛る黒繩」。「紲」は「繩」或いは「繫ぐ」の意で、罪人として捕らわれることを指す。]の誡(いましめ)にかけ、糺明すべし。」

と、捕吏(ほり/とりて)に命じ、官府(くはんふ/やくしよのところ)に率(ひか)んと、ひしめきける。

 囘龍、人々を看て、怪異に遭(あひ)ひたる[やぶちゃん注:「ひ」は衍字であろう。]始末を詳(つまびらか)に物語るに、猶、

「其(その)分說(いゝわけ)、不審なり。」

と、聊(いさゝか)も信ぜずして、捕吏(ほり)、既に攻擊(せめうた)んとす。

 其裡(そのうち)、頭(かしら)取〔とり〕たる侍、囘龍が袂に附(つき)たる首を更見(あらため)て、いふ。

「誠(まこと)に旅僧が分說(いゝわけ)、分明(ふんみやう)なり。「南方異物志」に曰、飛頭蠻(ひとうばん/ろころくび)は項(くびすぢ)に赤痕(せきこん/あかきすぢ)ありと。今、此首に赤痕あり。甲斐の國の山中に、かゝる奇怪ある事、粗(ほゞ)風聲(ふうせい/うはさ)に聞(きこ)へたり。去(さる)にても希代(きたい)の饒勇(きやうゆう/ふてき)[やぶちゃん注:「ぜうゆう」が正しい。有り余るほどに凄い勇気。]、法師の所業(しよげう)にあらず。」

とて、其〔その〕長成(ちやうせい)[やぶちゃん注:「成」長して「成」ったところの「事蹟」んの意であろう。]を訊問し、官吏に偈(いざな)ひ、吹擧(すいきよ)して、褒賞を與へければ、囘龍、面目(めんぼく)、身に餘り、國主の仁慈寬容なるを感服して、そこを立出、上州路(ぢ)へさしかゝるに、或山中にて盜賊に出合〔であひ〕、連(しきり)に酒錢(しゆせん)を乞(こは)れて、囘龍、いふやう、

「我、一所不住にして、樹下一宿の觀行(くはんぎやう)[やぶちゃん注:自身の心を見つめて仏・菩薩や象徴的像及び宗教上の真理を出現させて直観する修行法のこと。]なれば、何ぞ路金(ろきん)の貯(たくはへ)あらん。餘人を待(まつ)て乞(こふ)べし。」

と、索笑(さくしやう/ほほゑむ)して取敢(とりあへ)ざれば、賊、怒(いか)つて、

「汝、否(いな)む事なかれ。我(わが)黨(とう)、一囘(ひとたび)、舌頭(ぜつとう)を動(うごか)して、空(むなし)くせし例(ためし)、なし。路用の過餘(くはよ/あまり)なきに於ては、着類(きるい)脫捨(ぬぎすて)、通るべし。」

と。

 聞(きく)より、囘龍、態(わざ)と其意に應諾し、鼠色木綿布子(ぬのこ)を脫捨(ぬぎすて)、

「左あらば、足下へ與(あた)ふべし。」

と、差出したるに、賊徒、其袂に下(さが)りし首を見て、大〔おのい〕に恐怖し、

「汝、桑門(そうもん/しゆつけ)の身として人を害し、怨恨をひき、斯(かく)の如く、頭(かしら)に、念、慮止(とどま)り、你(なんぢ)に附添(つきそふ)ものならん。されど、是を晏然(あんぜん/なにごとなく)と著(ちやく)しおるは、誠に不敵大膽の法師也。我、其强勢(きやせい)を感ずる餘り、我〔わが〕衣服をして是に更(かへ)ん。」

と、賊が着たるを、囘龍に与へ、かの鼠色の木綿布子を、賊、引とりて、是を著(ちやく)し、

「我(わが)黨、累年(るいねん)、此業を以て事とするに、人を怕〔おそ〕れしめん事、かゝる衣服の怪異にこそ、言(いは)ずして强(きやう)を示す究竟(くつきやう)の一物(いちもつ)なり。」

と。

 猶、囘龍に方金(はうきん/こつぶ)[やぶちゃん注:方形の金貨。一分金・二分金・一朱金・二朱金などであるが、これは江戸時代のことで、相応の金の塊りと考えてよい。]を與へ、道路を送(くり)て立逝(たちさら)しむ。

 囘龍、心中に思はざる怪事(くはいじ)より、彼是(かれこれ)、徳(とく)、附(つき)たるを喜び、

「幸(さいはひ)にして役害物(やくかいもの)[やぶちゃん注:厄介物。]を讓(ゆづり)たり。」

と、抃笑(べんしやう/てうちわらふ)して立別れぬ。

 此賊、后(のち)に甲斐の國に着(いた)り、囘龍が話に據(より)て其影跡(えいせき/あとかた)を尋(たづぬ)るに、如何(いかゞ)しけん、荒廢(あれすたれ)たる空家(くうか/あきいへ)のみ殘りて、其人もなく、其原(げん/もと)を知や者も、なかりける。

 賊、かの首を土中に堙(うづ)み、墳(しるし)を建(たて)て、今も甲斐の山中に「轆轤首の墳(つか)」として、草莽(そうぼう/くさはら)に殘れり、と言傳(いひつた)ふ。

 猶、此「ろく轤首」といふ事は、元(げん)の陳孚(ちんぷ)が記事の詩に曰、

  鼻飮如瓴甋  頭飛似轆轤

[やぶちゃん注:原典の訓点に従うと、

   鼻に飮(の)んで 瓴甋(れいてき)のごとく

   頭(かしら)飛んで 轆轤に似たり

である。「瓴甋(れいてき)」は陶器製の吸飲み(すいのみ)のようなものを指すものと私は考えている。

 是、南方、「尸頭蠻(しとうばん/ろくろくび)」の詩なり。依(よつ)て、其号(な)、此(ここ)に本(もとづ)くものならん。又、「瀛涯勝覽(えいかいしやうらん)」の「落頭民(らくとうみん/ろくろくび)」、「本草綱目」の「飛頭蠻(ひとうばん/ろくろくび)」、其外、「博物志」・「星槎勝覽(せいさしやうらん)」等(とう)に、粗(ほゞ)記す所なれば、敢てなき例(ためし)にも、あらざるべし。[やぶちゃん注:最後の「あらざるべし」は、改行して下(一字上げインデント風)に配されてある。]

   *

「元(げん)の陳孚(ちんぷ)が記事の詩」「鼻飮如瓴甋  頭飛似轆轤」「元詩紀事」巻九に、元の政治家陳孚(一二五九年~一三〇九年)の詩として「安南卽事」の詩を引き(彼は一二九二年に安南(現在のベトナム)に官人として赴いている)、そこに、

 鼻飮如瓴甋

 頭飛似轆轤

の詩句を見出せる。中文サイト「中國哲學書電子化計劃」のこちらで原文と注が読めるが、かなり長いものである。而してその注には、『習以鼻飮、如牛然。酒或以小管吸之。峒民頭有能飛者、以兩耳爲翼、夜飛往海際、拾魚蝦而食、曉複歸、身完如故、但頸下有痕、如紅線耳』とあり、詩本文(五言排律)だけなら、中文サイトのこちらでも読め、その注に『習以鼻飮、如牛然、酒或以小管吸之。峒民頭有能飛者、以兩耳爲翼、夜飛往海際、拾魚蝦而食、曉復歸、身完如故、但頸下有痕如紅線耳』(漢字の一部と記号を変更した)とある。

「尸頭蠻」本邦の妖怪或いは変化である「ろくろっくび」の、中国に古くからある漢名。

「瀛涯勝覽」(えいがいしょうらん)明の馬歓(ばかん)によって書かれた東南アジア及びインド洋沿岸諸国の地誌。チャンパ国からメッカに至る二十ヶ国について記している。馬歓は鄭和による遠征の随行者であった。但し、中文サイトの同書を調べたが、「落頭民」はない。但し、

   *

其曰尸頭蠻者、本是人家一婦女也。但眼無瞳、人爲異。夜寢則飛頭去、食人家小兒糞尖、其兒被妖氣侵腹必死。飛頭囘合其體、則如舊。若知而候頭飛去時、移體別處、囘不能合則死。於人家若有此婦不報官、除殺者、罪及一家。

   *

という記載は発見した。

『「本草綱目」の「飛頭蠻」』明の李時珍撰の同書の巻五十二の「人之一」の掉尾の「人傀」の末尾に、

   *

而荒裔之外、有三首、比肩、飛頭、垂尾之民。此雖邊徼餘氣所生、同於鳥獸、不可與吾同胞之民例論、然亦異矣。

   *

とあり、その後に、

   *

「南方異物志」云、嶺南溪峒中、有飛頭蠻。項有赤痕。至夜以耳爲翼飛去、食蟲物、將曉復還。如故也。「搜神記」載、『吳將軍朱桓、一婢、頭能夜飛』、卽此種也。

   *

とあるのを指すのであろう。

「博物志」十巻。もとは三国時代の魏から西晋にかけての政治家で博物学者であった張華(二三二年~三〇〇年)が撰したものであるが、散佚してしまい、後代、諸書に記された引用を集めたものが残る。博学な著者が山川や不思議な動植物・物名などについて、様々な珍しい話を集めて記した書である。「太平廣記」の「蠻夷三」に、

   *

飛頭獠

鄴鄯之東、龍城之西南、地廣千里、皆爲鹽田。行人所經、牛馬皆布氈臥焉。嶺南溪洞中、往往有飛頭者、故有飛頭獠子之號。頭飛一日前、頸有痕、匝項如紅縷、妻子遂看守之。其人及夜、狀如病、頭忽離身而去。乃於岸泥、尋蟹蚓之類食之、將曉飛還、如夢覺、其腹實矣。梵僧菩薩勝又言、闍婆國中有飛頭者、其人無目瞳子。聚落時。有一人據於民志怪。南方落民、其頭能飛、其欲所祠、名曰蟲落、因號落民。昔朱桓有一婢、其頭夜飛。「王子年拾遺」言、漢武時、因墀國有南方有解形之民、能先使頭飛南海、左手飛東海、右手飛西海、至暮、頭還肩上、兩手遇疾風、飄於海外(出「酉陽雜俎」)。

 又南方有落頭民、其頭能飛、以耳爲翼、將曉、還復著體。吳時往往得此人也(出「博物志」)。

   *

とある最後の部分を言っているようである。

「星槎勝覽」明の費信が著わした東南アジア・南アジア方面の旅行記。一四三六年成立。著者は鄭和の遠征に参加し、自らその地域を調査した上、他の記録を参照しつつこれを書いている。同書の巻一に、

   *

歲時縱人採生人之膽、鬻於官、其酋長或部領得膽入酒中、與家人同飮、又以浴身、謂之曰通身是膽。相傳屍頭蠻者、本是婦人也。但無瞳人爲異。其婦與家人同寢、夜深飛頭而去、食人糞尖、飛囘復合其體、仍活如舊。若知而封固其項、或移體別處、則死矣。人有病者、臨糞時遭之、妖氣入腹、病者必死。此婦人亦罕有、民家有而不報官者、罪及一家。番人愛其頭、或有觸弄其頭者、必有生死之恨。

   *

とあるのを指すか。

 なお、手っ取り早く、轆轤首の古典文芸史をコンパクトに読まれたい方には、森信壽氏の「非科學時代の迷信」(PDF)がよかろう。]

2019/09/18

小泉八雲 貉 (戶川明三譯) 附・原拠「百物語」第三十三席(御山苔松・話)

 

[やぶちゃん注:本篇(原題“ MUJINA ”)は明治三七(一九〇四)年四月にボストン及びニュー・ヨークの「ホートン・ミフリン社」(BOSTON AND NEW YORK HOUGHTON MIFFLIN COMPANY)から出版された、恐らく小泉八雲の著作の中で最も日本で愛されている作品集「怪談」(原題“ KWAIDAN: Stories and Studies of Strange Things ”。来日後の第十作品集)の第八番目に配されてある、本作中、恐らく最も人口膾炙したものであろう。なお、小泉八雲はこの年の九月二十六日に五十四歳で心臓発作により急逝した。

 同作品集はInternet Archive”のこちらで全篇視認でき(本篇はここから。)、活字化されたものは“Project Gutenberg”のこちらで全篇が読める本篇はここ)。

 底本は上記英文サイト“Internet Archive”のこちらにある画像データをPDFで落し、視認した。これは第一書房が昭和一二(一九三七)年一月に刊行した「家庭版小泉八雲全集」(全十二巻)の第八巻全篇である。★【2025年3月28日底本変更・前注変更】時間を経て、国立国会図書館デジタルコレクションに本登録し、現行では、以上の第一書房版昭和六(一九三一)年一月に刊行した「學生版小泉八雲全集」(全十二巻)の第七巻が、国立国会図書館デジタルコレクションで公開されてある。(リンクは扉だが、「學生版」の文字はない。しかし、奥附を見て貰うと『學生版 【第二囘豫約】』とあり、『昭和六年一月十日 發行』とあることが確認出来る)、これが、前掲の底本と同じものであるが、やはり、外国のサイトのそれを底本とするのは、日本人小泉八雲に失礼であると考えた。されば、こちらで、再度、以下の「骨董」の作品群を改めて校正することとする。これが――私の小泉八雲への「義」――である。なお、之よりも前の元版の全集等が先行しているものの、私がそれらと比べた結果、実は先行する同社の「小泉八雲全集」のそれらは、訳が一部で異なっており、訳者等によって、かなりの補正・追加がされていることが、今回の正字補正作業の中で、はっきりと判って来た。いや、同じ「家庭版」と名打ったネット上の画像データでも、驚いたことに、有意に異なっていたのである。そうした意味でも――完全な仕切り直しの総点検――が必要であると決したものである。従って、旧前振りの括弧・鍵括弧の問題も、拡大とガンマ補正で確認し、正確を期する。本作はここから。

 戸川明三は英文学者で評論家としても知られる戸川秋骨(明治三(一八七一)年~昭和一四(一九三九)年)の本名である。彼の著作権は既に満了している。本ブログ・カテゴリ「小泉八雲」では、彼が訳した小泉八雲の遺作となった大作「神國日本」(“Japan: An Attempt at Interpretation”)を全電子化注している。

 なお、実は、『柴田宵曲 續妖異博物館 「ノツペラポウ」 附 小泉八雲「貉」原文+戶田明三(正字正仮名)訳』で、既に原文と訳文を電子化している。しかし、ここでは、底本が異なるので、ゼロからやり直してある。

 

  

 

 東京の、赤坂への道に紀國坂といふ坂道がある――これは紀伊の國の坂といふ意である。何故それが紀伊の國の坂と呼ばれて居るのか、それは私の知らない事である。この坂の一方の側には昔からの深い極はめて廣い濠(ほり)があつて、それに添つて高い緣の堤が高く立ち、その上が庭地になつて居る、――道の他の側には皇居の長い宏大な塀が長くつづいて居る。街燈、人力車の時代以前にあつては、その道は夜暗くなると非常に寂しかつた。ためにおそく通る徒步者は、日沒後に、ひとりでこの紀國坂を登るよりは、むしろ幾哩も𢌞り道をしたものである。

 これは皆、その道をよく步いた貉のためである。

[やぶちゃん注:「貉」(むじな)現代では、種としては、食肉目イヌ型亜目クマ下目イタチ小目イタチ上科イタチ科アナグマ属アジアアナグマ Meles leucurus(ユーラシア大陸中部(中央部を除く)に広く分布)及び本邦固有種ニホンアナグマ Meles anakuma に同定されているが、江戸時代以前の本邦の民俗社会では、古くからタヌキ(=イヌ科タヌキ属亜種ホンドタヌキ Nyctereutes procyonoides viverrinus )やハクビシン(食肉目ネコ型亜目ジャコウネコ科パームシベット亜科ハクビシン(白鼻芯)属ハクビシン Paguma larvata )を指したり、これらの種を区別することなく、総称する名称として使用することが多いが、前者との混淆はいいとして、後者ハクビシンは私は本来、本邦には棲息せず、後代(江戸時代或いは明治期)に移入された外来種ではないかと考えているので含めない。なおまた、アナグマは、しばしばタヌキにそっくりだとされるが、私は面相が全く違うと言いたい。アナグマについては、私の「和漢三才圖會卷第三十八 獸類 貉(むじな) (アナグマ)」を参照されたいが、ここで小泉八雲が用いている「むじな」は、動物学上の呼称ではなく、近代まで考えられていた民俗社会に於いて、人に化け、驚かしては騙すと考えられていた魔魅の妖獣で、狐は除外したところの、妖怪としての狸(動物としては上記のホンドタヌキ)又は混同視されていた穴熊(動物しては上記のニホンアナグマ)の俗称である。「狢」とも書く。小学館「日本大百科全書」の「狢」によれば、以上の二種は妖怪視されることが多く、化けて人を騙したり、山道を歩いていると、砂をまき掛けたりするほか、高僧になりすましていたところが、逆に犬に噛み殺された話や、近代でも、汽車に化けて、本当の汽車にひき殺された話などがある。人を化かす点では、妖獣としての狐と同じであるが、どこか憎めないところがある。『関東から東北にかけて』、十月十日の『十日夜(とおかんや)の藁(わら)鉄砲を「狢ばったき」といい、狢追いをする。福井県の一部では、小(こ)正月に青年たちが狢狩りという予祝行事をしたという』とあるのが、ここでの、怪しい「獣(けもの)」としての説明に相応しいかと思う。

「紀國坂」(きのくにざか)は「紀伊國坂」「紀之國坂」「紀ノ國坂」とも表記する。現在の東京都港区元赤坂一丁目から旧赤坂離宮の外囲堀端を喰違見附まで上る坂で、「赤坂」「茜坂(あかねざか)」などとも呼ばれる。小泉八雲は坂の命名は知らないとするが、これは坂の西側に紀州藩上屋敷があったことに由るものである。ここ(グーグル・マップ・データ)。

「皇居」原文は“an imperial palace”。現行の赤坂御所の赤坂御料地を指しており、前注で示した通り、ここが、もとの紀州徳川家上屋敷(紀州藩赤坂藩邸)であった。江戸切絵図(国立国会図書館デジタルコレクションの画像)では、ここの左端に「紀伊国坂」とある。小泉八雲にしては、ちょっと迂闊で、この前に「今の東京では」と添えて欲しかった。

「哩」は「マイル」。一マイルは千六百九メートル。]

 

 貉を見た最後の人は、約三十年前に死んだ京橋方面の年とつた商人であつた。當人の語つた話といふのはかうである、――

[やぶちゃん注:「約三十年前」本書は明治三七(一九〇四)年四月刊行であるから、機械換算で一八七四年、明治七年没となり、ロケーション時制は話柄から幕末期となる。冒頭注に示した通り、汽車に化けるとあるように、狐狸に化かされるというのは、文明開化もなんのその、近代まで続いた特異的に息の長い都市伝説(urban legend)で、河童と並ぶ生き残り妖怪の一種である。現在、都市部では流石に潰滅してしまったが、狐火は今も地方では現存している。私の父は、敗戦の二年後、師であった考古学者酒詰仲男先生とともに、現在の群馬県藤岡市鬼石(おにし:グーグル・マップ・データ航空写真)の神流川(かんらがわ)上流域への考古学調査に同行したが、泊まった農家で、山に登ってゆく狐火の列を成したそれを目撃している。農家の主人が、当たり前のように、「狐火が、また、出とる。」と平然と言ったのを、しっかり記憶している。

「京橋」は現在の東京駅の東のここで(グーグル・マップ・データ)、以下のロケーションからは、それが店へ戻るのだとするなら、明らかに位置関係がおかしい。無論、この商人が、この恐怖体験をした頃には四谷・新宿辺り(紀国坂上の北或い西)にお店(たな)を持っていたか、妾(めかけ)の家がそこにあったかしたものならば、これ、問題はない。……はて?……でなかったら? 京橋にやっぱりお店があったとしたら?……既にして彼は「貉」に化かされていて、自分のお店とは……反対方向に……せっせと……紀国坂を登らされていたのでは?……なんて、ね!……

 

 この商人が或る晚おそく紀國坂を急いで登つて行くと、只ひとり濠(ほり)の緣(ふち)に踞(かが)んで、ひどく泣いて居る女を見た。身を投げるのではないかと心配して、商人は足をとどめ、自分の力に及ぶだけの助力、若しくは慰藉を與へようとした。女は華奢な上品な人らしく、服裝も綺麗であつたし、それから髮は良家の若い娘のそれのやうに結ばれて居た。――『お女中』と商人は女に近寄つて聲をかけた――『お女中、そんなにお泣きなさるな!……何がお困りなのか、私に仰しやい。その上でお助けをする道があれば、喜んでお助け申しませう』(實際、男は自分の云つた通りの事をする積りであつた。何となれば、此人は非常に深切な男であつたから。)しかし女は泣き續けて居た――その長い一方の袖を以て商人に顏を隱して。『お女中』と出來るだけやさしく商人は再び云つた――『どうぞ、どうぞ、私の言葉を聽いて下さい!……此處は夜若い御歸人などの居るべき場處ではありません! 御賴み申すから、お泣きなさるな!――どうしたら少しでも、お助けをする事が出來るのか、それを云つて下さい!』徐ろに女は起ち上つたが、商人には背中を向けて居た。そして其袖のうしろで呻き咽びつづけて居た。商人はその手を輕く女の肩の上に置いて說き立てた――『お女中!――お女中!――私の言葉をお聽きなさい。只一寸でいいから!……お女中!――お女中!』……するとそのお女中なるものは向きかへつた。そして其袖を下に落し、手で自分の顏を撫でた――見ると目も鼻も口もない――きやッと聲をあげて商人は逃げ出した。

 一目散に紀國坂をかけ登つた。自分の前はすべて眞暗で[やぶちゃん注:「まつくらで」。]何もない空虛であつた。振り返つて見る勇氣もなくて、ただひた走りに走りつづけた舉句、やうやう遙か遠くに、螢火の光つて居るやうに見える提燈を見つけて、其方に向つて行つた。それ道側(みちばた)に屋臺を下して居た賣り步く蕎麥屋の提燈に過ぎない事が解つた。しかしどんな明かりでも、どんな人間の仲間でも、以上のやうな事に遇つた後には、結構であつた。商人は蕎麥賣りの足下に身を投げ倒して聲をあげた『あ〻!――あ〻!!――あ〻!!!』……

 『これ! これ!』と蕎麥屋はあらあらしく叫んだ、『これ、どうしたんだ? 誰れかにやられたのか?』

 『否(いや)!――誰れにもやられたのではない』と相手は息を切らしながら云つた――『ただ……あ〻!――あ〻!』……

 『――只おどかされたのか?』と蕎麥賣りはすげなく問うた『盜賊(どろぼう)にか?』

 『盜賊(どろぼう)ではない――盜賊(どろぼう)ではない』とおぢけた男は喘ぎながら云つた『私は見たのだ……女を見たのだ――濠の緣(ふち)で――その女が私に見せたのだ……あ〻! 何を見せたつて、そりや云へない』……

 『へえ! その見せたものはこんなものだつたか?』と蕎麥屋は自分の顏を撫でながら云つた――それと共に、蕎麥賣りの顏は卵のやうになつた……そして同時に燈火は消えてしまつた。

 

[やぶちゃん注:これは所謂、妖怪「のっぺらぼう」であるが、小泉八雲は、その語は、全く用いていない。「のっぺらぼう」についてはウィキの「のっぺらぼうが」が、よく纏まっているので見られたい。

 原拠は增子和男氏の論文「のっぺらぼう考(上)――中國古典文學の點から――(『文学 海を渡る―梅光学院大学公開講座論集』第五十六集・笠間書院・二〇〇八年七月発行・PDF)によれば、明治二七(一八九四)年七月、東京の扶桑堂刊の、町田宋七(書肆である扶桑堂の主人)編「百物語」(全一冊・活字本)の「第三十三席」の話者「御山苔松」の話に基づくと考えられている(同書は小泉八雲旧蔵本にある)。また、同論文にも記されているが、東峰夫氏は、私も所持する「百物語の百怪」(二〇〇一年同朋舎刊)で、本「百物語」は明治二五(一八九二)年十一月に浅草の料亭「奧山閣」で催された百物語の会で語られたものに基づくことはほぼ確実であろう、と指摘しておられるのである。【2019年11月7日:以下を改稿】幸い、增子氏の論文にはそれが正字で全文載っているので、それを視認して、以下に電子化しておく。一部の読みは、講談社学術文庫一九九〇年刊小泉八雲著・平川祐弘編「怪談・奇談」で活字化されている(但し、新字体)「ヘルン文庫」版のそれで補った(一部の読みは歴史的仮名遣や不審さから、そちらを採った箇所もある)。今回、小泉八雲が原拠としたものと同一の出版物と考えて間違いない「百物語」を国立国会図書館デジタルコレクションで発見したので、それで新ためて校合し、加えるべき修正を施した。但し、出版年も出版社及び編輯・発行・印刷者は確かに町田宗七であるが、以上の書誌にない著者が示されており、「条野採菊」著とする(但し、画像のどこにもそれは書かれてはいない。しかし国立国会図書館がかく書誌する以上、本作の真の編著者は彼と採って間違いあるまい)。ウィキの「条野採菊」によれば、条野採菊(じょうのさいぎく 天保三(一八三二)年~明治三五(一九〇二)年)は幕末から明治中期の東京の戯作者・ジャーナリスト・実業家・作家・劇評家。本名は条野伝平。号に山々亭有人(さんさんていありんど)・採菊散人・朧月亭・朧月亭有人・弄月亭有人など。何よりも画家鏑木清方の実父である。しかも彼は明治二五(一八九二)年十一月に、『三遊亭円朝・五代目尾上菊五郎・三遊亭円遊・田村成義らを集めて、百物語を主宰した』とあり、上に述べた浅草の料亭「奧山閣」で催された百物語の会と、この記載がと完全に一致することから、以上は最早、間違いないと断言出来るである。なお、当該話の画像はここからである。読点が少なく、やや読み難いかとも思われるので、適宜、読点を補い、会話記号も入れ、また段落も成形した。読みは私が振れると判断したもののみに限った。踊り字「く」は正字化した。なお、話者「御山苔松」は不詳。但し、增子氏の注にもある通り、これは「おやま(の)たいしやう」(御山の大将)の捩(もじ)りで、話のオチと同じく、人を食った落語的芸名である。

   *

      第三十三席 御山苔松

 拙者の宅に年久しく仕へまする佐太郞といふ實直な老僕が御坐りますが、この男が若い時に遭遇した話しださうで御坐いますが、或日のこと、赤坂から四谷へ參る急用が出來ましたが、生憎、雨は降(ふり)ますし、殊に夜中の事で御坐いますから、ゾットいたしません次第で御坐いますが、急用ゆゑ、致方(いたしかた)なく、スタスタとやツて參り、紀の國坂の中程へ差掛(さしかか)ツた頃には、雨は車軸を流すが如くに降(ふつ)てまゐり、風さへ俄(にはか)に加はりまして、物凄きこと、言はむ方も御坐りませんから、なんでも早く指(さ)す方[やぶちゃん注:目的地の方。]へまゐらうと、飛ぶが如くに駈出(かけだ)しますと、

「ポン。」

ト、何やら、蹴附(けつけ)たものがありますから、

「ハツ。」

ト、思ツて、提燈を差し付(つけ)て見ると、コハ如何(いかに)、高島田にフサフサと金紗(きんしや)をかけた形姿(みなり)も賤しからざる一人(ひとり)の女が仰向(うつむけ)に屈(かが)んで居りますから、驚きながらも、

「貴女(あなた)どうなさいました。」

ト、聞(きく)と、仰向(うつむい)たまゝ、

「持病の癪(しやく)が起りまして。」

といふから、

「ヲゝ、夫(それ)ハ嘸(さぞ)かし、お困り。ムゝ、幸ひ、持合(もちあは)せの薄荷(はつか)がありますから差上ませう。サヽ、お手をお出しなさい。」

と言ふと、

「ハイ、誠に御親切樣(さま)に、ありがたう御坐います。」

と禮を述(のべ)ながら、

「ぬッ。」

と上(あげ)た顏を見ると、顏の長さが、二尺もあらうといふ化物(ばけもの)、

「アツ。」

と言(いつ)て逃出(にげだ)したのなんのと、夢中になッて、三、四町[やぶちゃん注:約三百二十七~四百三十六メートル。]もまゐると、向ふの方から、

「蕎麥うわウイー、チン、リン、リン。」[やぶちゃん注:踊り字「〱」は「リン」の後にある。かく採った。]

と、一人の夜鷹蕎麥屋(たかそばや[やぶちゃん注:「夜」にはルビがない。])がまゐりましたから、

「ヤレ、嬉しや。」

と、駈寄(かけよつ)て、

「そゝ、蕎麥屋さん、助けてくれ。」

ト申しますと、蕎麥屋も驚きまして、

「貴郞(あなた)、ト、ど、如何(どう)なさいました。」

「イヤ、もう、どうのかうのと言(いつ)て、話しにはならない化物に、此先(このさき)で遭ひました。」

「イヤ。夫(それ)は夫は。シテ、どんな化物で御坐いました。」

「イヤ、モ、どんなと言(いつ)て、眞似も出來ません、ドヾ、どうか、ミ、水を、一杯下さい。」

ト言ふと、

「お易い御用。」

と、茶碗へ水を汲(くん)でくれながら、

「モシ。その化物の顏ハ、こんなでハ、御坐いませんか。」

ト、言ッた、蕎麥屋の顏が、また、貳尺。

 今度は、

「あツ。」

と言(いつ)た儘(まゝ)、氣を失ツてしまひまして、時過(ときすぎ)て、通りかゝツた人に助けてもらひましたが、後(のち)に聞(きゝ)ますると、それハ、御堀に栖む瀨(かはうそ)の所行(しはざ)だらうといふ評判で御坐いましたが、この說話(はなし)は、決して「獺(うそ)の皮」ではないさうで、御坐います。

   *

 さて、では、これは近代の落語的作話かというと、決してそうではない。実は本話に酷似した怪談(特に所謂、〈再度の怪〉形式の部分)は、延宝五(一六七七)年一月に、京都の松永貞徳直系の貞門俳人荻田安静(おぎたあんせい)の編著になる京の知られた書肆西村九郎右衛門から板行された怪談集「宿直草(とのゐぐさ)卷一 第三 武州淺草にばけ物ある事」や(私の全篇電子化注の一つ)、その直後の延宝五(一六七七)年四月に京都で板行された、百話完備の唯一の百物語系怪談本のごく初期の作品集である「諸國百物語」(著者未詳。私はこれはこちらで全電子化注を終えている)の「卷之一 十九 會津須波の宮首番と云ふばけ物の事」に既に見出せるのである。しかも、この同じ奇怪な顔に遭遇するという構造が怪奇譚として非常に好まれ、〈再度の怪〉ならぬ、〈再話の怪〉談として連綿と怪談史の中に続いていることが、例えば、五十五年後の、三坂春編(みさかはるよし)が記録した会津地方を中心とする奇譚を蒐集したとされる寛保二(一七四二)年の序の「老媼茶話巻之三 會津諏訪の朱の盤」などによって(これも私の全篇電子化注の一つ)、盛んに再生産されていることが知れるのである。されば、この小泉八雲の「貉」の淵源も、遙かに溯ることが確実に出来ると私は思うのである。なお、ここでは、妖獣としては、「貉」ではなく、「獺」となっているが、本邦の民俗社会では、川獺(カワウソ)は、狐狸に次いで、人を化かすものと認識されていたのである。私の「和漢三才圖會卷第三十八 獸類 獺(かはうそ) (カワウソ)」を見られたい。

 なお、真正の「のっぺらぼう」(目鼻口のない妖怪)の濫觴と思しきものは、增子の論文によれば、寛文三(一六六三)年(第四代将軍家綱の治世)の開板とされる「曾呂利(そろり)物語」の「御池町の化け物の事」(巻四の二)に、『「のっぺらぼう」と明記こそされぬものの、その先驅けとも見なしうる 化け物が登場する』とし(図有り)、『白きもの着たる坊主、丈七尺ばかりなるが、目、鼻、口もなきが、唐臼(からうす)を踏み、後に三人の方へ顏を向けける』と引用されておられるのが古い。]

2019/09/17

小泉八雲 食人鬼  (田部隆次譯)

 

[やぶちゃん注:本篇(原題“JIKININKI”)は明治三七(一九〇四)年四月にボストン及びニュー・ヨークの「ホートン・ミフリン社」(BOSTON AND NEW YORK HOUGHTON MIFFLIN COMPANY)から出版された、恐らく小泉八雲の著作の中で最も日本で愛されている作品集「怪談」(原題“KWAIDAN: Stories and Studies of Strange Things”。来日後の第十作品集)の七話目である。なお、小泉八雲はこの年の九月二十六日に五十四歳で心臓発作により急逝した。

 同作品集はInternet Archive”のこちらで全篇視認でき(本篇はここから。)、活字化されたものは“Project Gutenberg”のこちらで全篇が読める本篇はここ)。

 底本は上記英文サイト“Internet Archive”のこちらにある画像データをPDFで落し、視認した。これは第一書房が昭和一二(一九三七)年一月に刊行した「家庭版小泉八雲全集」(全十二巻)の第八巻全篇である。★【2025年3月28日底本変更・前注変更】時間を経て、国立国会図書館デジタルコレクションに本登録し、現行では、以上の第一書房版昭和六(一九三一)年一月に刊行した「學生版小泉八雲全集」(全十二巻)の第七巻が、国立国会図書館デジタルコレクションで公開されてある。(リンクは扉だが、「學生版」の文字はない。しかし、奥附を見て貰うと『學生版 【第二囘豫約】』とあり、『昭和六年一月十日 發行』とあることが確認出来る)、これが、前掲の底本と同じものであるが、やはり、外国のサイトのそれを底本とするのは、日本人小泉八雲に失礼であると考えた。されば、こちらで、再度、以下の「骨董」の作品群を改めて校正することとする。これが――私の小泉八雲への「義」――である。なお、之よりも前の元版の全集等が先行しているものの、私がそれらと比べた結果、実は先行する同社の「小泉八雲全集」のそれらは、訳が一部で異なっており、訳者等によって、かなりの補正・追加がされていることが、今回の正字補正作業の中で、はっきりと判って来た。いや、同じ「家庭版」と名打ったネット上の画像データでも、驚いたことに、有意に異なっていたのである。そうした意味でも――完全な仕切り直しの総点検――が必要であると決したものである。従って、旧前振りの括弧・鍵括弧の問題も、拡大とガンマ補正で確認し、正確を期する。本作はここから。

 田部隆次(たなべりゅうじ 明治八(一八七五)年~昭和三二(一九五七)年)氏については先に電子化した「人形の墓」の私の冒頭注を参照されたい。

 傍点「ヽ」は太字に代えた。

 最初に言っておくが、原文の通り、「食人鬼」は、文章の最後に至るまで、「じきにんき」と読まれたい。

 なお、本篇は私が本書「怪談」の中で最も偏愛する一篇の一つで、十一歳の冬に読んだ、角川文庫の田代三千稔(みちとし)氏訳の「怪談・奇談」の中でも最も印象に残った、謂わば、私の中の〈小泉八雲原体験原衝撃〉群の中の一篇なのである。さすれば、特異的に私は自身のサイトで、十四年前の二〇〇五年十一月十三日に

英文原文(注の私の訳附き)

私の藪野直史の暴虎馮河の「人食鬼」日本語訳(この当時は神奈川県公立高等学校の国語科教師であった関係上、まだ本名を名乗っていない)

を既に公開している。御笑覧戴ければ、幸いである。

 なので、私には実は注の全く不要な作品なのであるが、ここは私の本篇へのオマージュの最後の仕上げとして、訳した頃を思い出しつつ、注を文中に附すこととした。

 なお、仏教の餓鬼に――人や人の遺体を食う餓鬼は――いるウィキの「餓鬼」によれば、既に先行する小泉八雲の「餓鬼」に出た、餓鬼の三大分類の「少財(しょうざい)餓鬼」は膿・血などの、ごく僅かな飲食だけが可能な餓鬼で、人間の糞尿・嘔吐物・死体などの不浄なものを飲食するとされる。また、細分類では、邪悪な呪術で病人を誑かした者が「等活地獄」の苦しみを経た後に転生(てんしょう)するとされる「食小児(じきしょうに)餓鬼」は、生まれたばかりの赤ん坊を食べ、餓鬼のチャンピオンとも言うべき、、生き物を殺しては、大宴会を催し、少しの飲食(おんじき)を高値で売った者がなるとされる「羅刹(らせつ)餓鬼」は、四つ辻で人を襲っては狂気に落とし入れ、殺害して食べるとある。

 最後に本篇の原拠である長岡乗薫(じょうくん)編の「通俗佛敎百科全書」の中の一篇を掲げた。同書は大分出身の真宗大谷派の僧長岡乗薫(じょうくん)編の「通俗仏教百科全書」(開導書院・明治二三(一八九〇)年刊)。但し、これは江戸前期の真宗僧明伝(みょうでん 寛永九(一六三二)年~宝永六(一七〇九)年)の編になる「百通切紙」(全四巻。「浄土顕要鈔」とも称する。延宝九(一六八一)年成立、天和三(一六八三)年板行された。浄土真宗本願寺派の安心と行事について問答形式を以って百箇条で記述したもので、真宗の立場から浄土宗の教義と行事を対比していることから、その当時の浄土宗の法式と習俗などを知る重要な資料とされる)と、江戸後期の真宗僧で京の大行寺(だいぎょうじ)の、教団に二人しか存在しない学頭の一人であった博覧強記の学僧信暁僧都(安永二(一七七三年?~安政五(一八五八)年:「御勧章」や仏光版「教行信証」の開版もした)の没年板行の「山海里(さんかいり)」(全三十六巻)との二書を合わせて翻刻したものである。

 また、かなり似た類話で、小泉八雲も執筆時の参考にしたと考えてよい、やはり私の強力に偏愛せる、より構築度が高く、堕落した平安旧仏教に対する鎌倉新仏教の禅宗の勝利の暗示さえ感ぜられる、上田秋成(享保一九(一七三四)年~文化六(一八〇九)年)の読本「雨月物語」巻の五の「靑頭巾」原文拙訳、及び、好きが昂じて全くオリジナルに教師時代に授業化した私の「授業ノート」も公開しているので、お読み戴ければ、恩幸これに過ぎたるはない。

 

  食 人 鬼

 

 昔、禪僧の夢窻國師、美濃の國を獨りで旅行してゐた時、路を敎へてくれる人もない或山中で路に迷うた。長い間、たよりなくさまようて、もう、夜の宿を求める事はできないとあきらめかけて居る時、日の最後の光で照らされて居る山の頂きに、淋しい僧のために造つてある例の庵室と云ふ小さい隱者の家が一つ見えた。その家は荒れはてて居るやうであつたが、國師は熱心にそこへ急いで行つて、老僧が一人住んで居ることを見て、一夜の宿を乞うた。老僧は荒々しく斷つたが、それでも夢窻に隣りの谷で宿と食物の得られる村を敎へてくれた。

[やぶちゃん注:「夢窻國師」夢窓疎石(建治元(一二七五)年(伊勢生まれ)~正平六/観応二(一三五一)年(京都にて没):「窻」は「窓」の異体字)鎌倉末から南北朝期の臨済僧。九歳の時、甲斐平塩寺の空阿の弟子となって、密教を学び、十八歳で得度し、奈良東大寺戒壇院で慈観について登壇受戒した。二十歳で上京し、建仁寺の無隠円範に参じて禅に帰し、後に中国より一山一寧が来日した際には鎌倉に下って学んだが、機縁は契(かな)わなかった(一山は日本語が全く出来ず、来日も本意ではなかったことが大きかったものと推察される)。その後、奥州を遊歴し、甲斐や美濃に草庵を営んだ後、土佐国五台山に吸江庵を結んだ。正中二(一三二五)年、後醍醐天皇の勅により、南禅寺の住持となったが、北条氏に請われて鎌倉に入った。直後の北条氏と幕府滅亡後は、再び上京し、南禅寺に入った。後の京都騒乱後には足利尊氏の帰依を受け、天竜寺の開祖となった。足利氏は、末代に至るまで、疎石の門徒に帰依することを約束し、室町時代を通じて、夢窓派が隆盛することとなった。多くの弟子を教化し、義堂周信や絶海中津ら、優れた禅僧を輩出させている。庭園設計・詩偈・和歌にも優れた。疎石述の法話集「夢中問答(集)」(全三巻。夢窓が足利尊氏の弟直義の問いに対し,仏教の本質・俗信・禅の本旨などについて、九十三項目に渡って平易にして懇切に答えたもの。夢窓の存命中の興国五/康永三(一三四四)年に大高重成が南禅寺の竺仙梵僊(じくせんぼんせん)の跋を得て開版している。禅参学の徒の手引として広く利用され、室町から江戸にかけて、幾度も開版されている。ここは平凡社「世界大百科事典」に拠った)が著名(以上は「ブリタニカ国際大百科事典」を主文に私の見解を添えてある。

「庵室」原文の“ anjitsu ”の通り、古式の読みである「あんじつ」と読まねばならない。田部氏はルビを振るべきであった。

「村」原文“hamlet”。英語では「教会を持たない村落」を指す。ここは大事である。]

 夢窻はその村へ行く道が分つた。それは家が十二三軒まではない農村であつた。そして村の庄屋の家に親切に迎へられた。夢窻の着いた時四五十人の人が重もな[やぶちゃん注:「おもな」。]座敷に集まつてゐたが、彼は別の小さい部屋へ通されて、そこで直ちに食物や寢床を與へられた。大層疲れてゐたから、早く寢るために橫になつた。しかし、眞夜中少し前に、つぎの部屋で大きな聲で泣いて居る音で眠りをさまされた。やがてふすまは靜かに開いて、提燈を持つた若者が部屋へ入つて、恭しく彼に挨拶をして云つた。

[やぶちゃん注:「庄屋」原文は“headman”で、庄屋制度は近世以降の制度呼称であり、本話の時制には相応しくない。原拠にも出ない。ここは、ごく小さな山村であり、周辺の複数の村が集合して行政単位となっていたものと思われるから、「村長(むらおさ)」とすべきところである(中世には村落支配の頂点に「名主(みょうしゅ)」がいるが、この小単位では、それにも当たらない)。平井呈一氏も「村長」と訳しておられる。]

 『御出家樣、困つた事でございますが申上げねばなりません。私は今この家の責任ある戶主でございます。昨日私は單に長男でした。しかし、あなたがこちらへ御出でになつた時、御疲れのやうでしたから、御迷惑になるやうな、どんな事があつてもならないと思ひました。それで父がつい二三時間前に死んだ事もお話し致しませんでした。つぎの部屋で御覽になつた人々はこの村の人々です、ほとけに最後の挨拶をしにここへ集まつて居ります。そして、今一里程隱れた外の村へ行く處です、――そのわけはこの村では誰か死んだあとで、その晚は一人も、この村に殘つてゐてはならない習慣になつて居るからでございます。私共はそれぞれの供物や祈禱をあげて、――それから死骸を殘して出て行きます。そんな風にして死骸が殘りますと、その家ではいつでも變な事が起ります。それで私共と一緖にお出で下さる方が、おためによからうかと考へます。外の村でよい宿を見つけてさし上げます。尤も、あなたは御出家ですから、或は化物や妖怪を恐れなさらないでせう。それで死骸と一緖に殘る事が恐ろしくなければ、このつまらない家を御使ひ下さいます事は至極結構でございます。しかし申上げねばなりませんが、御出家でなければ、今夜ここに殘らうと云ふものは誰もございません』

 夢窻は答へた、

 『御親切な志しと有難いおもてなしには深く感謝致します。しかし參りました時に御父上樣のなくなつた事を聞かせて下さらなかつたのが殘念です、と申しますのは少しは疲れてゐましたが、出家としての私の義務をつとめるのが苦しい程には、たしかに疲れて居りませんでした。御話し下さつたら、御出かけ前に讀經を致すところでした。がしかし、御出かけのあとで、讀經を致しませう。そして明朝まで遺骸の側にゐます。獨りでここに居ることがあぶないと色々御話しでしたが、私にはその意味が分りません。しかし私は幽靈やお化けは恐れません。それ故どうか私のために御心配はなさらないやうに』

 若者はこの斷言を聞いて喜んだやうであつた。それで適當な言葉で感謝の意を表はした。それから家族の外の人々と隣りの部屋に集つた人々は、出家の親切な約束を聞いて、御禮に來た、――それからうちの主人が云つた。

 『そこで、御出家樣、あなたを御ひとりにして行くのが大層殘念でございますが、私共は御別れしなければなりません。村のおきてによりまして、十二時すぎには一人もここにゐてはなりません。御願ですから、どうか私共が御側にゐない間、御からだに御注意なされて下さい。それから私共の留守の間に、何か變つた事を御聞きになつたり御覽になつたり、なさる事がございましたら、どうか明朝私共の戾りました節、その事を御聞かせ下さい』

 

 それから出家を除いて一同は家を去つた。出家は死骸の置いてある部屋へ行つた。普通の供物は遺骸の前に置いてあつた。それから小さい燈明は燃えてゐた。出家は經を讀んで供養を濟ました、――そのあとで瞑想に入つた。瞑想しながら靜かな數時間ぢつとしてゐた。無人になつて居る村には音一つしなかつた。ところが、夜の靜けさの最も深くなつた時、音も立てずに朧げな大きなものが入つて來た。同時に夢窻は自分が動く力も、物云ふ力もなくなつて居る事に氣がついた。彼はそのものが抱き上げるやうに死骸をあげて、猫が鼠を喰べるよりも早く、それを喰べつくすのを見た、――頭から始めて、何もかも、髮の毛も、骨も、それから經かたびらさへも喰べるのを見た。それから、その怪しいものがこんなにして死骸を喰べつくしてから、供物の方へ向いて、それも又喰べた。それから來た時と同じく不可思議に出て行つた。

[やぶちゃん注:「經かたびら」原文は“the shroud”。「シュラウド」は「埋葬する死体を包む白布」を指す。「經帷子(きょうかたびら)」は、本邦で死者に着せる浄衣(じょうえ)を指し、経文・名号・陀羅尼・梵字の種子(しゅじ)などを書き、死者の罪業を滅し、菩提を得るものとされる。この習俗自体は真言宗に於いて鎌倉時代頃から始まったとされるから、その点では問題はないが、ここでは何も書かれていない白衣(びゃくえ)でないと都合が悪い。以上のような書写がなされたものでは食人餓鬼は容易にそれに手が出せないし、食うことも出来ない。そもそもが、この村にはそれが書ける者はいないと考えるのが自然だからである。私が古い拙訳で単に「帷子(かたびら)」(袷(あわせ)の片枚(かたひら)の意で、古くは広く裏を附けない衣服の総称。単衣(ひとえ))としたのには、そうした意識が働いたからである。]

 村の人々が翌朝歸つた時、彼等は庄屋の家の入口で、彼等を待つて居る僧を見た。一同は代る代る挨拶した。そして入つて部屋を見𢌞した時、遺骸や供物のなくなつて居るのを見て驚いたものは一人もなかつた。しかし、うちの主人は夢窻に云つた、――

 『御出家樣、あなたは多分夜の間にいやなものを御覽でしたらう。私共は皆あなたの事を心配してゐました。しかし今私共はあなたが生きて御無事でおいでになるのを見て大層嬉しく思ひます。できる事なら私共は喜んで御一緖にゐたかつたのです。しかし昨晚申し上げた通り村の掟で、死人があつたら私共は家を去つて、死骸だけを殘さねばならない事になつてゐます。これまでこの掟を破りますと、何か大かな祟りがありました。掟に從ふと、死骸や供物が留守中になくなります。多分あなたは、その成行きを見屆けになりましたでせう』

 そこで夢窻は朧げな恐ろしい形のものが、死人の部屋に入つて來て、死體や供物を喰べつくした事を話した。その話を聞いて驚くものは一人もないやうであつた。それから家の主人は云つた。

 『御出家樣、御話はこの事について、昔からある話と一致して居ります』

 夢窻はそれから尋ねた、――

 『山の上のあのお坊さんが死んだ人のために時々葬式を致しませんか』

 『どんなお坊さんですか』

 『昨晚、この村へ私を案內したあのお坊さんです』夢窻は答へた。『向うの山の上のそのお坊さんの庵室を訪ねました。私に宿を拒んだが、こちらへ來る道を敎へました』

 聞いて居る人々は驚いたやうに互に顏を見た。それからしばらく默つたあとで、家の主人は云つた、

 『御出家樣、山の上にはお坊さんもゐません、庵室もございません』

 この事について夢窻はもう何も云はなかつた。親切な人達は、彼が何かお化けにでもだまされて居ると思つた事が明らかであつたから。しかし、その人々に別れを告げて自分の行く路について必要な知識を悉く得たあとで、夢窻は山上の草庵をさがして、自分が實際だまされて居るかどうかを、たしかめようと決心した。彼は造作なく庵室を見出した。そして今度はその庵主は入るやうに誘つた。入ると、庵主は恭しく夢窻の前に頭を下げて叫んだ、『あ〻恥ぢ入ります、――甚だ恥ぢ入ります、――實に恥ぢ入ります』

 『私に宿をしてくれなかつたからといつて、別に恥ぢ入るには及びません』夢窻は云つた。『あなたが向うの村を敎へてくれたので、そこで親切にもてなされました。それでその御蔭になつた御禮を申します」

 『私は誰の宿もできません』庵主は答へた、――『私が恥ぢ入るのは、それを拒んだためではありません。只あなたに私の本當の姿になつた處を見られたから恥ぢ入るのです。昨夜、あなたの目前で死骸や供物を喰ひつくしたのは私です。……御出家樣、私は食人鬼でございます。私を憐んで下さい、そしてこんな有樣になつた祕密の罪を懺悔さして下さい。

 『昔し昔し、私はこの淋しい地方の僧でした。何里四方の間に外に僧はありませんでした。それでその頃は死んだ山の人の死體は、私が引導するためにここに、――時には隨分遠方から、運ばれたものでした。しかし、私は商賣仕事のやうにのみ勤めをくりかヘし、式を行うてゐました。――私はその聖い[やぶちゃん注:「きよい」。]天職で得られる食物や着物の事ばかり考へました。それでこの利慾の邪念のため、死ぬと直ちに生れ變つて食人鬼となりはてました。それ以來この地方で死ぬ人々の死骸を喰べねばならぬ事になつてゐます。一人も殘らず昨夜御覽になつたやうな風に喰ひつくさねばなりません。……今御願です、御出家樣、私のために施餓鬼を行うて下さい。御賴み致します。あなたの御祈りでこの恐ろしい境遇から逃れられるやうに、私を御助け下さい』

 

 この願を云ふや否や、庵主は消え失せた。それから庵室も又同時に消え失せた。夢窻國師は高草のうちに獨りで、或僧の墓であるらしい五輪の石と云ふ形の古い苔むした墓の側に跪づいて居る事に氣がついた。

 

[やぶちゃん注:原拠は長岡乗薫(じょうくん)編の「通俗佛敎百科全書」(明治二四(一八九一)年仏教書院編刊。国立国会図書館デジタルコレクションのこちらで全篇を画像で読める)の「第二卷」の「第六十九 いろいろの話」の中の一篇である(これは冒頭注で述べた「山海里」が原本)。以下の電子化では同国立国会図書館デジタルコレクションの画像を視認した。本文はここからである。原拠は読みは総ルビであるが、必要と思われる箇所のみに附した。ベタ文なので、句読点や記号を施し、段落も成形して読み易くした。踊り字の「く」「ぐ」は正字化した。歴史的仮名遣の誤りはママである。

   *

 又、禪僧の夢窓國師、美渡の國にて山中を通りたまふに、日くれになりけるところ、人里もちかきにはなく、只、はなれ家(や)の草庵あるゆゑ、立(たち)よりて見たまへば、老僧一人(いちにん)住(すみ)けるさまなり。

 一夜の宿を乞(こひ)たまへども、

「人は、とめがたし。」

とて、宿をかさず、是非なく、山を下(おり)て、人里にて宿をかりたまふに、家内(かない)には、眷屬(けんぞく)あつまりて愁歎(しうたん)して居(ゐ)けるさまなり。

 そのよしをたねづたまふに、其家の主人、死去せしを、みな、あつまりて、なげきけるのよしをこたへけるが、日、暮(くれ)ければ、其死人(しにん)を、そのまゝ、家(いへ)に置(おき)て、死骸の前には供物・灯明(とうみやう)などをそなへならべて、家内・眷屬は一人ものこらず、外へ出(いで)ゆきけり。

 禪師は、不審ながら、其家(いへ)の一間(ま)の內に座禪して居(ゐ)らるゝに、夜更(よふけ)て、ひそかに、一人(ひとり)、來(きたり)し物ありて、死人をいだきをこして、猫の鼠を食(くう)がごとくにもありたるならん、尻も、頭も、手も、足も、みな、食ひつくして、腹をふくらし、そなへものも、みな、くらひしまひて、あとかたなくして、去(さり)にけり。

 夜のあけぬれば、妻子・眷屬、みな、家に歸(かへり)けるゆゑ、禪師は不審におもひて、子細を問(とは)るゝに、その眷屬のいふに、

「此所のならひにて、人、死すれば、男女老少(なんによらうせう)にかぎらず、野邊(のべ)へも送らず、家の內にをきて、妻子・眷屬は、みな、外の里にゆきて、一夜(いちや)泊(とまり)て歸ることなり。しからざれば、家にたゝり、身にたゝる事あり。一夜のうちに、その死骸も、供物も、あとかたなくなりてあれば、何となる事やら、しるもの、なし。昨夜は、御僧、泊りてありしゆゑ、『いかなる事にもあひたまわざらんや』と、覺束(おぼつか)なくおもひしに、無事にて夜(よ)をあかしたまへば、死骸は何となりたるや、御らんは、なかりしにや。」

と、たづぬるに、禪師は、ありのまゝに見たるとをりを語たまへば、

「さてこそ、さてこそ、むかしより、人のいふにたがはぬ事よ。」

と、みな、いひける。

 それより、夢窓禪師は、昨日、庵室のありし山にのぼりて、庵主の老僧にあひたまヘば、老僧のいふには、

「さて、はづかしや、はづかしや。」

と、はじ入(いり)たる躰(てい)なれば、禪師、たづねて、

「何たる事のはづかしきぞ。」

と、いへるに、老僧、曰(いはく)、

「あさましき事なれども、昨夜、貴僧の見たまひし死人を食たるは、我、なり。貴僧をたのみて懺悔(ざんげ[やぶちゃん注:ママ。近世までは「さんげ」が正しい。])いたさん。此あたり十里ばかりの山中には、僧たるものは、愚老(ぐらう)一人(いちにん)なるゆゑに、死人あれば、『引導してくれ』といひけるを、承知して、その業(わざ)、渡世となりて、衣食に富(とみ)てくらせしが、一期(いちご)の命(いのち)終りたれば、餓鬼道に生(しやう)じて、『食人鬼(しょよくにんき)』となりて、このあたりの人の死(しに)けるをまちて、死人を食(くう)事、見たまひたるがごとし。とむらひて、たすけたまへ。」

と、いふうちに、老僧も失(うせ)て、庵室(あんしつ)もなく、草村(くさむら)の中に、その老僧の塚と見えて、五輪の石(いし)のあるのみなりしとぞ。

 これも、いろいろのはなしの、うち、なり。

   *]

小泉八雲 鏡と鐘  (田部隆次譯) 附・原拠「夜窓鬼談」の「祈つて金を得」オリジナル電子化注

 

[やぶちゃん注:本篇(原題“ OF A MIRROR AND A BELL ”)は明治三七(一九〇四)年四月にボストン及びニュー・ヨークの「ホートン・ミフリン社」(BOSTON AND NEW YORK HOUGHTON MIFFLIN COMPANY)から出版された、恐らく小泉八雲の著作の中で最も日本で愛されている作品集「怪談」(原題“ KWAIDAN: Stories and Studies of Strange Things ”。来日後の第十作品集)の六話目である。なお、小泉八雲はこの年の九月二十六日に五十四歳で心臓発作により急逝した。

 底本は上記英文サイト“Internet Archive”のこちらにある画像データをPDFで落し、視認した。これは第一書房が昭和一二(一九三七)年一月に刊行した「家庭版小泉八雲全集」(全十二巻)の第八巻全篇である。★【2025年3月28日底本変更・前注変更】時間を経て、国立国会図書館デジタルコレクションに本登録し、現行では、以上の第一書房版昭和六(一九三一)年一月に刊行した「學生版小泉八雲全集」(全十二巻)の第七巻が、国立国会図書館デジタルコレクションで公開されてある。(リンクは扉だが、「學生版」の文字はない。しかし、奥附を見て貰うと『學生版 【第二囘豫約】』とあり、『昭和六年一月十日 發行』とあることが確認出来る)、これが、前掲の底本と同じものであるが、やはり、外国のサイトのそれを底本とするのは、日本人小泉八雲に失礼であると考えた。されば、こちらで、再度、以下の「骨董」の作品群を改めて校正することとする。これが――私の小泉八雲への「義」――である。なお、之よりも前の元版の全集等が先行しているものの、私がそれらと比べた結果、実は先行する同社の「小泉八雲全集」のそれらは、訳が一部で異なっており、訳者等によって、かなりの補正・追加がされていることが、今回の正字補正作業の中で、はっきりと判って来た。いや、同じ「家庭版」と名打ったネット上の画像データでも、驚いたことに、有意に異なっていたのである。そうした意味でも――完全な仕切り直しの総点検――が必要であると決したものである。従って、旧前振りの括弧・鍵括弧の問題も、拡大とガンマ補正で確認し、正確を期する。本作はここから。

 田部隆次(たなべりゅうじ 明治八(一八七五)年~昭和三二(一九五七)年)氏については先に電子化した「人形の墓」の私の冒頭注を参照されたい。

 傍点「ヽ」は太字に代えた。最後に全体が三字下げポイント落ちで示される訳者の注は、当該段落の後に同ポイントで挟み込んだ。

 最後に本篇の原拠「夜窓鬼談」上巻の「祈得金」(きとくきん/祈つて金を得)を掲げた。]

 

  鏡 と 鐘

 

 八百年以前、近江國無間山[やぶちゃん注:「むげんやま」。]の僧達は、寺のために大梵鐘を鑄たいと思つた。そこで檀家の女達に梵鐘の地金になる古い唐金の鏡を喜捨してくれるやうに賴んだ。

[やぶちゃん注:「近江國無間山」原拠(後掲)では「遠州」とある。静岡県の赤石山脈の深南部にある標高二千三百三十メートルの大無間山(だいむげんざん)が実際にあるが、所持する二〇〇三年春風社刊「夜窓鬼談」(小倉斉・高柴慎治訳注)の注によれば、無間山を静岡県掛川市佐夜鹿(さよしか)にある古来からの歌枕の峠(最高点の標高は二百五十二メートル)「小夜の中山」とする(グーグル・マップ・データ。以下、無指示は同じ)。同書はこの鐘のあった寺について、『無間の鐘で有名な観音寺のこと。これを撞くと現世で富裕になれるが、来世には無間地獄に落ちるという』とあった。とする。改めて、今度は「無間の鐘」で調べると、小学館「日本国語大辞典」に『静岡県掛川市東山に』あった『曹洞宗の寺、観音寺にあった鐘。この鐘をつくと』、『来世では無間地獄に落ちるが、この世では富豪になるという伝説があった』とあるわけだ。則ち、本話柄の、その「観音寺」は現存しないわけである。こうなると、旧観音寺の跡が、どこか知りたくなるのが私の悪い癖で、検索をするうち、shinreisanpo氏の「豊橋心霊散歩」の「遠州七不思議 無間の鐘」小夜の中山の北西直近の「粟ヶ岳」附近であることが判明した(静岡県掛川市東山)。その続きのページで「無間の鐘 廃寺散策編」に於いて、そのおどろおどろしい廃寺跡らしきものが(あくまで「らしき」で同定されているわけではない)、写真で紹介されている。一見の価値あり!

「唐金」(からかね)は青銅の異名。中国から製法が伝わったことに由来する。]

 〔今日でも、どこか日本のお寺の中庭に、そんなつもりで喜捨してある古い唐金の鏡が、山のやうに積んであるのを見る事があらう。私の見たこの種類の最も大きな山は、九州博多の浄土宗の或寺の庭にあつた。鏡は、三丈三尺の高さの阿彌陀佛の靑銅の像をつくるために、寄附されたものであつた〕

[やぶちゃん注:「九州博多の浄土宗の或寺」不詳。

「三丈三尺」約十メートル(九・九九九メートル)。]

 

 その當時、無間山に住んで居る農夫の若い妻があつた。やはり鐘の地金にするために鏡を寄進したが、あとで鏡が惜しくなつて來た。母がその鏡について話した事を想ひ出した。母ばかりでなく母の母及び母の祖母のものであつた事を想ひ出した。それからその鏡にうつつた色々の美しい微笑を想ひ出した。勿論鏡の代りに幾分の金額を僧にさし出して賴めばその家寶をとりもどす事ができたであらう。しかし、彼女はそれに必要な金をもたなかつた。寺へ行く度每に、欄干のうしろの中庭に、一緖に積み上げてある數百の鏡の間に、自分の鏡のあるのを見た。母が始めてその鏡を見せた時、子供心に喜んだ、その裏にある浮彫の松竹梅があるので分つた。彼女は機會を見て鏡を盜んで、――これからいつまでもそれを大事にしまつて置くために――それを隱さうと思つた。しかし、その機會は來なかつた。それで彼女は非常につまらなくなつた、――自分の生命の一部を愚かにも捨てたやうな氣がした。彼女は鏡は女の魂と云ふ古い諺(多くの靑銅の鏡の裏に、魂と云ふ漢字で神祕的に表してある諺)を考へた。これまでは思ひもよらなかつたが、今では、それが不可思議にも、本當であるとつくづく思つた。しかし自分の惱みを誰にも云はうとはしなかつた。

 

 さて、無間山の梵鐘のために喜捨された鏡が悉く坩堝(るつぼ)へ送られた時、鐘の鑄造方(がた)は、一つ溶けない鏡のある事を發見した。幾度もそれを溶かさうとしたが、それは駄目であつた。その鏡を寺に寄附した婦人は、たしかにそれを後悔したに相違ない。全く心からその寄進をしたのではなかつた。そこで鏡に執着のある彼女の利己的な魂が、坩堝の眞中でそれをかたく冷たくして居るのであつた。

 勿論その事を誰でも聞いてゐた。そして溶けないのは誰の鏡かそれもすぐに分つた。結局、彼女の祕密の缺點が公けに暴露されたので、この不幸な女は甚だ恥ぢ入り、又甚だ怒つた。そしてその恥を忍ぶ事ができないので、つぎのやうな文句の書置を殘して、身を投げた。

 

  『私が死んだら、鏡を溶かして鐘をつくる事は

  たやすい。しかし鐘をつきこはす人には私の魂

  の力で福を授ける』

 

 怒つて死ぬ人、或は怒つて自殺をする人の最後の願や約束は超自然的な力があると一般に想像されて居る事を讀者は知つて置かねばならない。この死んだ女の鏡が溶けて、鐘が首尾よく鑄造されたあとで、人々は書置の文句を想ひ出した。この女の魂が鐘をこはすものに福を授けるといふ事を信じた。そこで鐘が寺の庭にかかるや否や、それをつくために人は群をなして集まつた。必死の力で撞木をふるつた。しかし鐘はよい鐘で、勇敢に其攻擊にたへた。しかも、人々は容易に落膽しなかつた。每日每日時を擇ぱず、盛んに烈しく鐘を撞いて、寺僧の抗議を少しも意に介しなかつた。そこで鐘の音が苦痛になつた。寺僧はそれに耐へられなくなつた。それで彼等は鐘を山の下の沼の中へころがし落して、やうやく厄拂をした。沼は深いので、それを呑み込んでしまつた――それが梵鐘の最期であつた。ただその傳說だけが殘つて居る。その傳說に、それは無間の鐘と呼ばれて居る。

 

 さて、日本の古い信仰に、「なぞらへる」と云ふ動詞によつて、說明はされないが、暗示される一種の精神作用の不思議な力がある。この言葉だけでも、どの英語にも適當に譯されない、この言葉は多くの信仰上の宗敎的行爲や、又多くの種類の擬態の魔術に關して使はれるのである。辭書によれば「なぞらへる」の普通の意味は「まねをする」「比較する」「似せる」である。しかし祕傳による意味は、何か魔術的奇蹟的結果を得るために想像の上に或物や或行爲を他のものと置き換へる事である

 たとへば、讀者は佛寺を建立する資力はないが、もし建てるだけの資力がある場合には、直ちにそれを建てないでは居られない程の信仰心と、同じ程度の信仰心で、佛像の前に小石を一つ置く事は容易にできる。その小石を一つ捧げる功德は、一寺を建立する功德と同等、もしくは殆んど同等にあたる。……讀者は六千七百七十一卷の佛の經文を讀む事はできない。しかしそれを納めた𢌞轉書棚をつくつて、卷揚機械のやうにそれを押して、それをまはす事はできる。もし六千七百七十一卷の經文を讀みたいと云ふ熱心な願をもつてそれを押せば、それを讀んで得たと同じ功德が得られる。……「なぞらへる」の宗敎的意味を說明するには、これだけで恐らく充分であらう。

[やぶちゃん注:ここに記されたそれは、所謂、「摩尼車」(マニぐるま)を想起させるが(「マニ車」はチベット仏教で用いられる仏具で「転経器(てんきょうき)」とも訳す)、本邦の寺院にあるものは、かなり大きなもので、「輪蔵(りんぞう)」と呼び、中国由来である。ウィキの「輪蔵」によれば、『経蔵の中央に、中心軸に沿って回転させることが可能な八面等に貼り合わせた形の書架を設け、そこに大蔵経を収納した形式のものである(回転式書架)。一般には、この経蔵を回転させると、それだけで経典全巻を読誦したのと同等の御利益が得られるものと信じられている』。『その起源は、中国南朝梁の傅大士によるものと伝えられており、輪蔵の正面には、傅大士』(ふだいし 四九七年~五六九年中国の南北朝時代の在俗仏教者。斉の東陽の人。本名は傅翕(ふきゅう)。「善慧大士」と号し、双林寺を建て、大蔵経を閲覧する便をはかって、「転輪蔵」を創始した。後世、経蔵などにその像が置かれ、俗に「笑い仏」と称せられる))『とその二子による三尊像が奉安されている』とある、それである。]

 魔術の意味は種々の變つた例がなければ、說明は全くできさうにない。しかし今の目的にはつぎの例が役に立たう。もし人が、シスターヘレン譯註一が蠟の人形をつくつたと同じ理由で、藁人形をつくつて、――そして丑の刻に此の森のどこかの樹に、四寸以上の釘をそれに打つて、――そして、その小さい藁人形で想像上代表された人が、それから恐ろしい苦悶のうちに死ぬとしたら――それが「なぞらへる」の一つの意味の說明にならう。……或は泥捧が夜、人の家に入つて財寶を盜み去つたと假定する。もし庭園にその盜賊の足跡を發見して、それから直ちに大きなもぐさを置いてもやせぱ、賊の足のうらが燒けて來るので、賊が自分で赦しを乞ふために戾つて來るまでは、落ちついて居られなくなる。それは又「なぞらへる」と云ふ言葉で表はされた擬態の魔術の別の種類である。それから、第三の種類は無間の鐘の種々の傳說で說明される。

譯註一 「シスターヘレン」は中世紀の信仰によつたロセツテイの詩。愛人にうらぎられたヘレンが蠟でつくつた武人の形を火にとかして、呪ひ殺す話。

[やぶちゃん注:この藁人形の呪いのそれは、フレーザー(サー・ジェームズ・ジョージ・フレイザー(Sir James George Frazer 一八五四年~一九四一年:イギリスの社会人類学者。スコットランド生まれ。原始宗教・儀礼・神話・習慣などを比較研究した私の愛読書である「金枝篇」(The Golden Bough:一八九〇年~一九三六年)に詳しい)の言う「共感呪術」で、足跡のそれは「感染呪術」の典型例である。小泉八雲は若き日に西インド諸島を放浪しており、思うに、ここはブードゥ教の呪術を目の当たりに見ている体験に基づくのではないかとも思われる。

「シスターヘレン」“Sister Helen”は田部氏の注にある通り、イギリスの画家で詩人(ラファエル前派の一員に数えられる)のダンテ・ゲイブリエル・ロセッティ(Dante Gabriel Rossetti 一八二八年~一八八二年:詩人クリスティーナ・ロセッティの兄)のバラード。三木菜緒美氏他によるサイト「英国バラッド詩アーカイブ」のこちらで読める。原文はこちら訳文はこちら(孰れもPDF)。]

 

 梵鐘が沼澤のうちへころがし込まれたあとで、勿論、それをつきこはすやうにならす方法はなかつた。しかし、この機會のなくなつた事を殘念がつた人々は、想像上鐘の代りになるものをたたき破る事にした、――かうして、そんな面倒をひき起した鏡の持主の靈を慰めようとした。その人々のうちに、平家の武士梶原景季との關係から日本の傳說で名高い――梅ケ枝と云ふ女があつた。この二人が一緖に旅をして居る間に、或日梶原は金がなくなつて非常に窮した。そこで、梅ケ枝は無間の鐘の傳說を想ひ出して、唐金の鉢を取つて、心にそれを鐘に擬して、それをたたいて、――同時に黃金三百兩欲しいと叫びながら――たたき破るた。この二人が泊つてゐた宿の客が、その物音と叫びの理由を聞きただして、その困窮の話を聞いて、正しく梅ケ枝に黃金三百兩を贈つた。それから梅ケ枝の唐金の鉢について歌ができた。その歌は今日も唄ひ妓(め)に歌はれて居る。

    梅ケ枝の手水鉢

    たたいてお金がでるならば、

    皆さん身うけを

    そうれ賴みます。

[やぶちゃん注:「梶原景季」(応保二(一一六二)年~正治二(一二〇〇)年)は鎌倉初期の相模国の武士。景時の嫡男。寿永三/元暦元(一一八四)年の源義仲追討の「宇治川の戦い」に於いて、頼朝から与えられた名馬磨墨(するすみ)に騎って、同じく賜った生月(いけづき)に騎る佐々木高綱と争った先陣争いで最も知られる。正治元(一一九九)年、父景時が三浦義村ら有力御家人と対立した際、ともに追放され、翌年、上洛の途中、駿河の狐崎(きつねざき)で討手(謀略の可能性が高い。私の「北條九代記 梶原平三景時滅亡」の注を参照されたい)のため、一族とともに戦死した。私は後掲する原拠以外では、この梶原景季と梅ヶ枝の話は、文楽の「ひらかな盛衰記」の「神崎揚屋(かんざきあげや)の段」ぐらいでしか知らない。文楽のその話は個人サイトの鑑賞コメントのこちらを参照されたいが、先に示した春風社刊「夜窓鬼談」の梅ヶ枝の注には、『愛する男にとって必要な金を調達するためならば、たちえ来世で無間地獄に落ちることも厭(いと)わぬという、激情の美女。「梅が枝の手水鉢」と俚謡にうたわれたり、黄表紙などの庶民文芸にしばしば登場したり、江戸町人の間で格別』に『人気のあった女性』とある。]

 

 この事があつてから、無間の鐘の評判は大きくなつた。そして梅ケ枝の例にならつて、その幸運にあやからうとするものも多かつた。そのうちに、無間山の近く、大井川のほとりに住む放蕩な農夫がゐた。放埓な生活で家產を蕩盡してから、この農夫は自分の庭の泥で無間の鐘の粘土製の模型を造つて、それから大きな富が欲しいと叫びながら、その粘土の鐘をたたき割つた。

 その時、彼の前の地面から、長い解いた髮を垂れた白衣の婦人の姿が葢[やぶちゃん注:「ふた」。]をした壺をもつて現れた。その婦人は云つた、『その熱心な祈りは聞き屆くべきもの故、ここに現れて、御答へを申す。それ故この壺をもつて行かれよ』さう云つて婦人は壺をその男の手に渡して消えた。

 この幸運兒は、妻によい知らせをもつて行くために、自分の家へ走つた。妻の前に葢のある壺を置いた、――壺は重かつた、――それから二人であけて見た。二人は丁度ふちまで一杯になつて居る……を見た

 しかし、いけない、――何が入つてゐたか、これはどうしても云へない。

 

[やぶちゃん注:……何が入ってたかどうしても知りたい?……知らない方がいいと思うけど……え?……しょうがないねえ……じゃあ以下の原拠を……お読みな…………

 さて。本篇の原拠は、漢学者(絵もよくした)石川鴻斎(天保四(一八三三)年~大正七(一九一八)年)が明治二二(一八九九)年九月に刊行した全篇漢文(訓点附き)の怪奇談集(国立国会図書館デジタルコレクションのこちらで全篇を画像で読める。富山大学の「ヘルン文庫」の小泉八雲旧蔵本はこちらでダウン・ロード(PDF)出来る)の「夜窓鬼談」上巻の「祈得金」(きとくきん/祈つて金を得)である。後者の小泉八雲旧蔵本で電子化する。但し、底本の訓点に従って書き下したものを示す。原文はベタであるが、段落を成形し、原典は句点のみであるが、一部を句読点・濁点を施し、さらにそれを増やし、記号も追加してある。一部の難読と思われる箇所には歴史的仮名遣で推定読みを〔 〕で添えた。( )は原文のルビ(但し、原本ではルビもカタカナ)である。傍線は原典では右にある。歴史的仮名遣の誤りはママ。

   *

        祈(いの)つて金を得

 遠州無間山、古へ、巨刹(きよさつ)有り。寺僧、施を募(つの)つて、鐘を鑄(い)る。

 一民家の婦、愛する所ろの妝鏡(かゞみ[やぶちゃん注:二字への左ルビ。意味訓である。音は「シヤウキヤウ(ショウキョウ)」で、化粧鏡の大きな姿見を指す。])を喜捨(きしや)す。後、意、甚〔はなはだ〕悋(おし)む。

 鐘、成(な)るに及〔および〕て、鏡、融化(いうくわ)せず。

 婦、之を耻(は)ぢ、終〔つひ〕に水に沒(ぼつ)して死す。沒(ぼつ)するに臨(のぞ)んで、誓(ちか)つて曰く、

「若〔も〕し此鐘を撞破〔だうは〕する者有らば、授くるに萬金を以てせん。」

 貧鄙(ひんぴ)の人、屢々、來〔きたり〕て、力に任せて、之を撞(う)つ。

 寺僧、之を厭(いと)ひ、遂に深溪に埋(うづ)むと云ふ。

 俗說に梶原景季の妾〔せう〕梅枝なる者、有り。夫の急を救(すく)はんが爲めに、三百金を得んことを欲す。術〔すべ〕の施すべき無し。乃〔すなは〕ち、水盤を鐘に擬(ぎ)して之を擊(う)つ。客、有り。其誠心を憐(あはれ)み、樓上より金を擲(なげう)つて、之に與(あと)ふ。

 事、演戲(えんぎ)[やぶちゃん注:芸能。浄瑠璃・歌舞伎。]に傳へて、兒女、皆な、能く之を識(し)る。

 大井川邊に、豪農、有り、數世、慳悋(けんりん)[やぶちゃん注:欲深く、吝嗇(けち)であること。]、家、巨萬を積む。近隣、皆な、其不仁を惡(にく)む。或は曰く、

「其祖、無間山の鐘を撞(つ)いて、暴富を得る者。」

と。

 一子有り、名、富生〔ふせい〕、富家に生(うま)れて、貸財の貴〔とふとき〕を知らず。年、長ずるに及んで、日に酒色に耽(ふけ)り、或は、花街(くるわ[やぶちゃん注:左ルビ。])に遊んで財を散ずること、泥土のごとし。或は、賭博(とばく)を爲して、一擲(てき)千金を輸く[やぶちゃん注:読み不詳。「輸」には「負ける」の意があるので、「まく」と訓じていると思われる。「全部を使い果たすというありさまであった」の意。]。父母、沒するに及んで、愈々、其志を恣〔ほしい〕まゝにし、常に惡友と交(まぢ)はり、自ら魁首〔くわいしゆ〕[やぶちゃん注:悪党の頭(かしら)。]と爲る。

 親族、之を厭(いと)ひ、與(とも)に胥齒(しよし/つきあふ[やぶちゃん注:前が右ルビ。後が左ルビ意味注。「胥」には「ともに」の意があるから、「齒」は「年・年をとること」だから、「一緒に仲間でいること」の意か。])する者、無し。

 未だ十年に及ばず、田宅・資財、爲に蕩盡(とうじん)せり。

 遂に岳父に依り、僅に廢宅(あばらや[やぶちゃん注:左ルビ。])を借りて、妻と居る。

 重きを負ふ能はず、田を耨(くさぎ)ること能はず、人の爲めに傭(やと)はられ、裁(はず)かに[やぶちゃん注:僅かに。]數錢を得て、口を糊〔のり〕するのみ。寒暑、唯、繿縷(らんろう/つづれ[やぶちゃん注:襤褸(ぼろ)に同じい。])、酒醬、口に入らず、饘粥(せんじゆく/かゆ[やぶちゃん注:「饘」も「かゆ」の意。])飽(あ)かず[やぶちゃん注:粥でさえも腹いっぱいに食い足りることがなく。]。甑中(そうちう)塵を積み[やぶちゃん注:「甑」は「こしき」で、米を蒸す道具。]、貧、亦、極まれり。竊〔ひそか〕におもへらく、

「彼〔か〕の無間山の梵鐘(ぼんしやう)、地中に埋(うづ)むと雖ども、往(ゆ)ひて[やぶちゃん注:ママ。]、之を祈らば、或は、應(しるし[やぶちゃん注:左ルビ。])無からざることを得んか。」

 卽夜(そのよ[やぶちゃん注:左ルビ。])、鐘を埋る處に到(いた)り、祝(しく)して曰、

「我、鐘を撞破して、大福を求めんと欲す。而れども、鐘、今、深溪に在り。假(かり)に土塊(どくわい)を以て鐘に擬(なぞ)らへ、我、今、之を碎韲(さいじん)[やぶちゃん注:砕き潰し、鱠(なます:刺身)のように切り刻むの謂い(「韲」)であろう。]し、神、若〔も〕し、靈、有らば、彼〔か〕の梅枝女の例に倣(なら)ひ、我に惠(めぐ)むに、多金を以てせよ。」

 叩頭(かうとう)百拜、祝し訖(をわ)つて、將(まさ)に返らんとす。

 忽ち、一婦人、有り。樹間より出で、生を呼で、曰く、

「汝、願ふ所ろ、我、之を納(い)る。乞ふ所ろ、亦た、甚だ易きのみ。我に隨て、金庫に來〔きた〕れ。」

 乃〔すなは〕ち、相伴(ともな)ふて山を下る。行くこと里餘、漸く庫前に到る。鑰(やく/かぎ)[やぶちゃん注:鍵。]を開〔あけ〕て中に入れば、金銀山積、光輝(ひかり[やぶちゃん注:左ルビ。])眼を眩(げん)ず。

 婦、曰く、

「汝、巨嚢(おほぶくろ)を携るや否や。」

 曰く、

「無し。」

 婦、曰く、

「幸に兩桶(ふたつのおけ[やぶちゃん注:左ルビ。])有り。皆、金を盛れり。請ふ、之を持ち去れ。」

 生、大に喜ぶ。臥伏(ふふく)萬謝、遂に桶を擔(にな)ふて還(かへ)る。

 十步、一憩(けい)、四更[やぶちゃん注:午前一時から午前三時頃。]、漸く家に抵(いた)る。戶を叩(たゝ)いて、妻を呼ぶ。妻、眼を揩(こす)りて出で迎ふ。

 生、曰く、

「我、神に祈て、金を獲(ゑ)たり。富、將に昔時に復せんとす。」

 乃ち、桶、捧(さゝ)げて室に入り、誤て閾(しきみ[やぶちゃん注:かくも読む。])躓(つまづ)き、桶を床下(とこ[やぶちゃん注:左ルビ。])に倒(たほ)す。

 妻、燈を携へて之を見れば、糞汁(ふんじう)流溢(りういつ)、臭(にほひ[やぶちゃん注:左ルビ。])勝(た)ゆべからず。

 生、大に驚き、尙ほ、一桶を見れば、相同〔あひおな〕じきのみ。

[やぶちゃん注:原文は、ここで初めて改行し、残りは全体が一字下げで、筆者石川の評言パートとなっている。一行空けておく。]

 

 嘗て「聊齋志異」を讀む。此れと相似〔あひに〕たる事、有り。濱州の一秀才、曾て狐仙と親(したし)み、金錢を給せんことを乞ふ。乃ち、與〔とも〕に密室に入れ、錢、梁間より下る。廣大の舍、約(およそ)三、四尺を積む。之を取用〔とりもちひ〕せんと欲すれば、皆、烏有(から[やぶちゃん注:左ルビ。])と爲る。秀才、望〔のぞみ〕を失ひ、頗る其誑(きやう)を懟(うら)む。狐仙、曰く、『我、本と、君と文字[やぶちゃん注:詩文。]の交(まじは)りをなす。君と賊[やぶちゃん注:盗み。]を作〔な〕すことを謀(はか)らず。便(すなは)ち、秀才のごときは、只、合〔まさ〕に梁上の君子(ぬすびと[やぶちゃん注:左意味ルビ。盗人の異称。])を尋ねて交るべし。我、命〔めい〕を承ること、能はず。』。遂に衣を拂て去る。

 夫〔そ〕れ、金錢は、本〔もと〕、人造の物。神仙の有する所ろに、非ず。而して[やぶちゃん注:意味は逆接。]、諸(これ)を人に求めず、反つて神に求めんと欲す。神、豈〔あに〕人の金錢、與奪する者ならんや。

   *

最後の石川の言うそれは、清の蒲松齢(一六四〇年~一七一五年)の書いた、私の偏愛する志怪小説集「聊齋志異」(りょうさいしい)の、「巻四」の「雨錢」である。但し、この狐仙はありがちな若い女ではなく、老人の男であるので注意されたい。因みに、二〇〇三年春風社刊「夜窓鬼談」(小倉斉・高柴慎治訳注)の訳では、この「雨錢」の最後のシーンで衣を払って去って行くのを、人間の秀才として訳しているが、これは誤りである。怒って去って行くのは狐仙の老人の方である。【2025年3月28日追記】国立国会図書館デジタルコレクションで、私が最も素晴らしいと思っている、まさに「天馬空を翔(ゆ)く」が如き柴田天馬先生の訳で「雨錢」が読める。「定本聊斎志異」卷五(修道一九五五年刊)のここから。戦後の出版だが、嬉しいことに、正字正仮名である。どうぞ! ゆるりと読まれよ!

小泉八雲 術數  (田部隆次譯) 附・原拠

[やぶちゃん注:本篇(原題“ DIPLOMACY ”。同語は交渉に於ける「駆け引き」の意。訳語の「術数」は「はかりごと・たくらみ」の意)は明治三七(一九〇四)年四月にボストン及びニュー・ヨークの「ホートン・ミフリン社」(BOSTON AND NEW YORK HOUGHTON MIFFLIN COMPANY)から出版された、恐らく小泉八雲の著作の中で最も日本で愛されている作品集「怪談」(原題“ KWAIDAN: Stories and Studies of Strange Things ”。来日後の第十作品集)の五話目である。なお、小泉八雲はこの年の九月二十六日に五十四歳で心臓発作により急逝した。

 底本は上記英文サイト“Internet Archive”のこちらにある画像データをPDFで落し、視認した。これは第一書房が昭和一二(一九三七)年一月に刊行した「家庭版小泉八雲全集」(全十二巻)の第八巻全篇である。★【2025年3月28日底本変更・前注変更】時間を経て、国立国会図書館デジタルコレクションに本登録し、現行では、以上の第一書房版昭和六(一九三一)年一月に刊行した「學生版小泉八雲全集」(全十二巻)の第七巻が、国立国会図書館デジタルコレクションで公開されてある。(リンクは扉だが、「學生版」の文字はない。しかし、奥附を見て貰うと『學生版 【第二囘豫約】』とあり、『昭和六年一月十日 發行』とあることが確認出来る)、これが、前掲の底本と同じものであるが、やはり、外国のサイトのそれを底本とするのは、日本人小泉八雲に失礼であると考えた。されば、こちらで、再度、以下の「骨董」の作品群を改めて校正することとする。これが――私の小泉八雲への「義」――である。なお、之よりも前の元版の全集等が先行しているものの、私がそれらと比べた結果、実は先行する同社の「小泉八雲全集」のそれらは、訳が一部で異なっており、訳者等によって、かなりの補正・追加がされていることが、今回の正字補正作業の中で、はっきりと判って来た。いや、同じ「家庭版」と名打ったネット上の画像データでも、驚いたことに、有意に異なっていたのである。そうした意味でも――完全な仕切り直しの総点検――が必要であると決したものである。従って、旧前振りの括弧・鍵括弧の問題も、拡大とガンマ補正で確認し、正確を期する。本作はここから。

 田部隆次(たなべりゅうじ 明治八(一八七五)年~昭和三二(一九五七)年)氏については先に電子化した「人形の墓」の私の冒頭注を参照されたい。

 本話の原拠は特定されていないようである(新しい論文の中にそれを見出したらしいものが見られるが、未見)。中国の伝奇・志怪小説の中に斬首に処せられた罪人が言葉を発したりする類話は多く見られるので、或いは、それらをもとに小泉八雲が創作したものかも知れないと考えている。原拠を知り得た際には追記する。【二〇二三年八月十三日削除・追補】これは山崎美成が天保一四(一八四四)年十二月に刊行した随筆集「世事百談」の巻三にある「○欺きて寃魂(ゑんこん)を散(さんず)」が原拠であった(柴田宵曲「随筆辞典 奇談異聞篇」の「一念」の本日の電子化で判明した)。「富山大学学術情報リポジトリ」で、「ヘルン文庫」のもの(原版本)が、こちらでPDFでダウン・ロード出来る。左から三つ目の「PDF」の「32」コマ目である。

 

  術 數

 

 屋敷の庭で死刑が執行される事にきまつた。その罪人は引き出された。今も讀者が日本庭園で見られるやうな飛石の一列が眞中にある、砂を敷いた廣場へ坐らされた。彼は後ろ手に縛られてゐた。家來は手桶の水と小石の滿ちた俵を運んだ。それから坐つて居る男のまはりに俵をつめた、――動けないやうにくさびどめにして置いた。主人が來て、その準備をを見た。滿足らしく、何も云はなかつた。

 不意に罪人は彼に呼びかけた、――

 『お侍樣、今から御仕置を受ける事になつたが、私の過[やぶちゃん注:「あやまち」。]は、なにも知つて犯したんぢやございません。その過の元は只私が馬鹿だつたからです。何かの因果で愚鈍に生れて來たのでいつも間違をせずには居られない。だがなにも愚鈍に生れついたつて云ふわけで、人を殺すのはそりやひどい。――そんな無法は胸晴しをせずには居られない。どうでも私を殺すと云ふなら、きつと私は復讐する。――あなたが恨みを懷かせるから、復讐になる、つまり仇に報ゆるに、仇をもつてするんだ……』

 人がはげしい恨みを呑みながら殺されると、その人の幽靈は殺した人に恨みを報ゆる事ができる。この事を侍は知つてゐた。彼は甚だ穩かに――殆んど愛撫するやうに――答ヘた。

 『お前が死んだあとで、――自分等をおどかすことはお前の勝手だが、お前の云はうと思つて居ることは分りにくい。お前の恨みの何か證據を――首が切れたあとで――自分等に見せてくれないか』

 『見せるともきつと』男は答へた。

 『宜しい』侍が長い刀をぬいて云つた、――『これからお前の首を切る。丁度前に飛石がある。首が切れたら、一つその飛石をかんで見せないか。お前の怒つた魂がそれをやれるなら、自分等のうちにもこはがるものもあるだらう。……その石をかんで見せないか』

 『かまずにおくものか』大變に怒つてその男は叫んだ、『かむとも。かむ』――

 刅 [やぶちゃん注:「やいば」。底本は右手の点がない字体。]は閃いた。風を斬る音、首が落ちて、からだの崩れる音がした。縛られたからだは、俵の上へ弓なりになつた、――二つの長い血の噴出しが[やぶちゃん注:ママ。「噴(き)出したが」の誤植であろう。]、切られた首から勢よく迸つて[やぶちゃん注:「ほとばしつて」。]居る。それから首は砂の上にころがつた。飛石の方へ重苦しさうにころがつた。それから不意に飛び上つて、飛石の上端を齒の間に押へてしばらく、必死となつてかじりつき、それから力弱つてポタリと落ちた。

 

 物を云ふものがない、しかし家來達は恐ろしさうに、主人を見つめてゐた。主人は全く無頓着のやうであつた。彼は只すぐ側に居る家來に刀をさし出した。その家來は柄杓で柄から切先まで水をそそいで、それから丁寧に柔かな數枚の紙で幾度かそのはがねをふいた。……そしてこの事件の儀式的部分は終つた。

 

 その後數ケ月間、家來達と下部等はたえず、幽靈の來訪を恐れてゐた。誰もその約束の復讐の來る事を疑ふものがなかつた。そのたえざる恐れのために、ありもしないものを多く、聞いたり見たりするやうになつた。竹の間の風の音をも恐れた、――庭で動く影にも恐れた。遂に相談の結果、その恨みを呑んで居る靈のために、施餓鬼を行ふやうに主人に願ふ事にきめた。

 家來の總代が一同の願を云つた時に、『全く無用』と侍が云つた。……『あの男が死ぬ時に復讐を誓つたのが、つまり恐れの原因(もと)であらうと思ふ。しかし、この場合恐れる事は何もない』

 その家來は賴むやうに主人を見たが、この驚くべき自信の理由を問ふ事をためらつた。『あ〻、その理由は極めて簡單だ』その言葉に表はれない疑を推しはかつて侍が云つた。『彼の最後のもくろみだけが、ただ、危險になれたのだ。そして自分が彼にその證據を見せろといどんだ時、復讐の念から彼の心をわきへ向けた。つまり飛石にかじりつかたい一念で死んだのだ。その目的を果す事ができたが、ただ、それつきり。あとはすつかり忘れてしまつたに違ひない。……だからお前達はそんな事にもう、かれこれ心配しないでもいい』

 ――そして實際、死人は何も祟るところがなかつた。全く何事も起らなかつた。

 

[やぶちゃん注:なお、『柴田宵曲 妖異博物館 「執念の轉化」』で、小泉八雲の原文と原拠を示してあるので、見られたい。

【2025年3月28日追加】先に示した柴田宵曲「随筆辞典 奇談異聞篇」の「一念」のものは、漢字が新字体な上に、表記を、かなり弄っていることが判ったので、心機一転で、ここは一つ、国立国会図書館デジタルコレクションの『日本隨筆大成』卷卷(昭和二(一九二七)年日本随筆大成刊行会刊)のこちらで、正字体の原拠を視認して、以下に再度、示すこととした。但し、総ルビであるが、振れると思ったのみのパラルビとしつつ、自身の屋上屋にならぬよう、読み易さを考え、一部に読点・記号を打ち、段落を成形した。そのため、一部の「ゝ」を正字化した。

   *

   〇欺(あざむき)て寃魂(ゑんこん)を散(さんず)

 人は、初一念(しよいちねん)こそ大事なれ。

 たとへば、臨終一念の正邪(しやうじや)によりて、未來善惡の因(いん)となれる如く、狂氣するものも、金銀のことか、色情か。事にのぞみ迫りて狂(きやう)を發する時の一念をのみ、いつも口ばしりゐるものなり。

 ある人の、

「主命にて人を殺すは、わが罪にはならず。」

と云(いふ)を、

「さにあらず、家業(かげふ)といへども、殺生の報(むくひ)はあること。」

とて、

「庭なる露しげくおきたる樹(き)を、ゆり見よ。」

と、こたへけるまゝ、やがてその木の下(もと)に行きて動かしければ、その人に、おきたる露、かゝれり。

 さて、その人、云(いふ)やう、

「怨みのかゝるも、その如く、云(いひ)つけたる人よりは、太刀取(たちとり)にこそ、かゝれ。」

と、いひしとかや。

 諺にも「盜(ぬすみ)する子は惡(あし)からで、繩とりこそ、うらめし。」といへるは、なべての人情といふべし。

 これにつきて、一話(はなし)あり。

 何某(なにがし)が家僕(かぼく)、その主人に對し、さしたる罪なかりしが、その僕を斬らざれば、人に對して義の立(たゝ)ざることありしに依(より)て、主人、その僕を手討(てうち)にせんとす。

 僕、憤り怨みて云(いふ)、

「吾、さしたる罪もなきに、手討にせらる。死後に、祟りをなして、必ず、取殺すべし。」

と云(いふ)。

 主人、わらひて、

「汝、何(なに)ぞ、たゝりをなして、我をとり殺すことを得んや。」

といへば、僕、いよいよ、いかりて、

「見よ、とり殺さん。」

といふ。

 主人、わらひて、

「汝、我を取殺さんといへばとて、何(なに)の證(しよう)もなし。今、その證を、我に見せよ。その證には、汝の首を刎(はね)たる時、首、飛(とん)で、庭石に、齧(かみ)つけ。夫(それ)を見れば、たゝりをなす證とすべし。」

と云(いふ)。

 さて、首を刎たれば、首、飛びて、石に齧(かみ)つきたり。

 その後(のち)、何のたゝりも、なし。

 ある人、その主人に、その事を問(とひ)ければ、主人こたへて云(いふ)、

「僕、初(はじめ)には、『たゝりをなして我を取殺さん。』と、おもふ心、切(せつ)なり。後(のち)には、『石に齧つきて、その驗(しるし)を、見せん。』と、おもふ志(こゝろざし)のみ、專(もは)ら、さかんになりしゆゑ、たゝりをなさんことを忘れて、死(しし)たるによりて、祟り、なし。」

と、いへり。

   *]

 

小泉八雲 姥櫻  (田部隆次譯) 附・原拠

[やぶちゃん注:本篇(原題“ THE STORY OF O-TEI ”)は明治三七(一九〇四)年四月にボストン及びニュー・ヨークの「ホートン・ミフリン社」(BOSTON AND NEW YORK HOUGHTON MIFFLIN COMPANY)から出版された、恐らく小泉八雲の著作の中で最も日本で愛されている作品集「怪談」(原題“ KWAIDAN: Stories and Studies of Strange Things ”。来日後の第十作品集)の四話目である。なお、小泉八雲はこの年の九月二十六日に五十四歳で心臓発作により急逝した。

 同作品集はInternet Archive”のこちらで全篇視認でき(本篇はここから。)、活字化されたものは“Project Gutenberg”のこちらで全篇が読める本篇はここ)。

 底本は上記英文サイト“Internet Archive”のこちらにある画像データをPDFで落し、視認した。これは第一書房が昭和一二(一九三七)年一月に刊行した「家庭版小泉八雲全集」(全十二巻)の第八巻全篇である。★【2025年3月28日底本変更・前注変更】時間を経て、国立国会図書館デジタルコレクションに本登録し、現行では、以上の第一書房版昭和六(一九三一)年一月に刊行した「學生版小泉八雲全集」(全十二巻)の第七巻が、国立国会図書館デジタルコレクションで公開されてある。(リンクは扉だが、「學生版」の文字はない。しかし、奥附を見て貰うと『學生版 【第二囘豫約】』とあり、『昭和六年一月十日 發行』とあることが確認出来る)、これが、前掲の底本と同じものであるが、やはり、外国のサイトのそれを底本とするのは、日本人小泉八雲に失礼であると考えた。されば、こちらで、再度、以下の「骨董」の作品群を改めて校正することとする。これが――私の小泉八雲への「義」――である。なお、之よりも前の元版の全集等が先行しているものの、私がそれらと比べた結果、実は先行する同社の「小泉八雲全集」のそれらは、訳が一部で異なっており、訳者等によって、かなりの補正・追加がされていることが、今回の正字補正作業の中で、はっきりと判って来た。いや、同じ「家庭版」と名打ったネット上の画像データでも、驚いたことに、有意に異なっていたのである。そうした意味でも――完全な仕切り直しの総点検――が必要であると決したものである。従って、旧前振りの括弧・鍵括弧の問題も、拡大とガンマ補正で確認し、正確を期する。本作はここから。

 田部隆次(たなべりゅうじ 明治八(一八七五)年~昭和三二(一九五七)年)氏については先に電子化した「人形の墓」の私の冒頭注を参照されたい。

 最後に原拠を電子化注しておいた。]

 

  姥 櫻

 

 三百年前、伊豫國温泉郡[やぶちゃん注:「おんせんのごほり」。]朝美村に德兵衞と云ふ人があつた。この德兵衞は郡第一の長者で村では名主であつた。大槪の事には幸運であつたが四十になつても未だあとを取らすべき子寶がなかつた。それを歎いて彼は妻と共に朝美村西法寺と云ふ名高い寺の不動明王に願をかけた。

[やぶちゃん注:「三百年前」原拠(後掲)は明治三四(一九〇一)年六月発行なので、慶長六(一六〇一)年、安土桃山時代最末期(江戸開府は慶長三年)に相当する。

「伊豫國温泉郡朝美村」現在の愛媛県松山市朝美(あさみ:グーグル・マップ・データ。以下、無指示は同じ)。

「朝美村西法寺」この漢字表記の寺は現在の朝美、及び、近辺にはない。松山市内の朝美からかなり離れた位置に同名の寺が二つあるが、後掲する原拠でも、『朝美』『村西山の不動明王』とするので違う。「愛媛県生涯学習センター」公式サイト内の「愛媛県史 民俗 下」(昭和五九(一九八四)年刊)の「三 愛媛の伝説①」の、「(2)植物」の「桜」での小泉八雲の本篇の紹介では、『西方寺』とする。しかし、この名の寺も朝美には、ない。朝美地区には寺院を三つ現認出来るが、不動明王を持つかどうかが判らないので同定出来ない。識者の御教授を乞う。【2019年9月17日17:00追記】いつも情報を寄せて下さるT氏からメールを頂戴した。

   《引用開始》

朝美村は明治二二(一八八九)年の町村制施行により、旧温泉郡衣山村・沢村・辻村・味酒村の一部と、南江戸村が合併し、温泉郡朝美村として発足しています。則ち、江戸時代は南江戸村で、大宝寺(松山市南江戸五丁目)がこの「姥櫻」のあるお寺です。

ウィキの「大宝寺(松山市)」にも、姥櫻の記載があります。

但し、「大宝寺」は本尊は阿弥陀如来で、他に釈迦如来・阿弥陀如来(秘仏とされ、永らく薬師如来として信仰された)があります。

「姥桜(うばさくら)に伝わる話」(大宝寺本堂の前にある桜の木に纏わる話)に「西山」(松山城のある勝山の西の山の意)が出てきます。

但し、藪野様の引用されている「「愛媛県生涯学習センター」公式サイト内の「愛媛県史 民俗 下」では

>〔温泉郡〕 印桜…大宝寺、南江戸村に在り 古照山薬王院大宝寺と号す 旧蹟俗談に云 此寺両度の火災にて数株の桜焼亡し漸く一樹残れり

>昔崇徳院讃岐より此地へ御幸の時御車を返し桜を叡覧ありて

>名にしおはばまた来て見ん花の春夕影残す雪の古寺

>と御製ありしは此寺にて足より古寺ともいひ習はせり

と、崇徳院と結びつけられています。

他に、西法寺(松山市下伊台大九六七番地)には、「薄墨櫻」があります。[やぶちゃん注:リンク先は「薄墨桜と西法寺」(薄墨賢衛氏発行の昭和四七(一九七二)年刊の非売品書籍の電子化らしい。]

また、松山市にあるもう一つの桜は、「十六日桜」[やぶちゃん注:リンク先は「松山市」公式サイト内のそれ。]で江戸時代は和気郡山越村龍穏寺にありましたが、戦災で焼失し、株分けされた桜が御幸一丁目の天徳寺境内と桜ヶ谷の吉平屋敷跡といわれていますが、花期も遅く、十六日桜の形質を保ったものではなく、実生による変異品種のようです。

個人ブログ「EEKの紀行 春夏秋冬」の「松山市の6名桜花」が良くまとまったサイトです。

   《引用開始》

大宝寺は現在の朝美地区の接した位置(松山市南江戸)にあり「西山」の麓に大宝寺があるのであった。また、ウィキの「大宝寺(松山市)」には、『うば桜伝説』の項があり、そこに、『角木』(すみき)『長者伝説とも呼ばれる。その昔、この地に角木長者と呼ばれる豪族がいた。彼は子宝に恵まれなかった。薬師如来に祈りを捧げたところ娘が生まれた。娘の名を「露」と名付けた。露には「お袖」という名の乳母を雇い』、『大切に育てた。お袖の乳の出が悪くなり、再び薬師如来に祈ると乳が出るようになった。そこで、お礼にお堂を建立した。これが大宝寺の始まりという』。『露は』十五『歳になった時に重病にかかった。お袖は自分の命と引き替えに露を助けて欲しいと薬師如来に祈った。すると露の病気は平癒した。その祝いの席でお袖は病に倒れた。お薬師様との約束と言って、お袖は薬も飲まず』、『治療を拒み、とうとう亡くなった。亡くなる直前に「お薬師様へのお礼に桜の木を植えて下さい。」と言い残した。長者は約束どおりお堂の前に桜の木を植えた。その桜は枝が伸びないうちから幹に』、二、三『輪の花が咲いた。その花はお袖の乳房のような形で、母乳のような色であったという。その後、母乳の出が悪い女性が参拝に訪れるようになった』。『この話は明治時代、小泉八雲によって英語に訳された。また、『怪談』にも納められている』とあった。いつもながら、T氏に感謝申し上げるものである

 遂に願がかなつて、德兵衞の妻は娘を生んだ。綺麗な子であつた。それから名を露とつけた。母の乳が足りないため、お袖と云ふ乳母を雇つた。

 

 お露は生長して大層綺麗になつたが、十五の歲に病氣になつて、醫者の力も及ばなくなつた。その時、實の母同樣に、お露を愛してゐた乳母のお袖は西法寺に詣でて、熱心に娘の病氣平癒を不動に祈願した。三七日[やぶちゃん注:「さんしちにち」。二十一日。]の間每日參詣して祈つた。その滿願の日にお露は急に全快した。

 

 德兵衞の家では上から下まで大喜ぴ、そのお祝に親戚友人を招いて宴をはつた。しかしその宴會の夜、お袖は突然病氣になつた。それから看護してゐた醫者は、翌朝臨終が迫つて居る事を通知した。

 そこで悲歎にくれた家族は訣別のために床の周圍に集まつた。しかし乳母は云つた。

 『皆樣が御存じのない事を申上げる時が參りました。私の願が屆きました。私は不動樣に御祈りして、お孃樣の身代りになるやうに願ひました。それが有難くも許されました。それ故皆樣、私の死ぬ事を悲しんで下されてはいけません。……しかし私に一つ御願がございます。私はお孃樣の病氣平癒の際、西法寺の境內に、御禮と記念のために櫻を二株奉納する事を、不動樣にかたく誓ひました。今私は自分でその樹をそこへ植ゑる事ができません。それで私に代つてその誓ひをはたして下さるやう、御賴みいたします。……さやうなら、皆樣どうか覺えてゐて下さい。私はお孃樣のために死ぬ事が嬉しうございます』

 

 お袖の葬式のあとで、この上もなく立派な櫻の若木を、お露の兩親が西法寺の庭に植ゑた。樹は生長して繁茂した、翌年の二月十六日――お袖の命日には、見事に花が咲いた。それから二百五十四年間――每年二月二十六日に――續いて花が咲いた、――その花は紅色と白とで、丁度乳で濕つた女の乳房のやうであつた。それで人はそれを乳母櫻と呼んだ。

 

[やぶちゃん注:講談社学術文庫一九九〇年刊小泉八雲著・平川祐弘編「怪談・奇談」では、本作の原拠を明治三四(一九〇一)年六月一日発行の『文藝倶樂部』(第七巻第八号)の「諸國奇談」十三篇中の一つで、愛媛の淡水の書いた「姥櫻」であるとして本文を載せる。以下に漢字を概ね正字化して示す。総ルビであるが、読みの振れそうな一部のみとした。一部に読点を〔、〕で追加し(句点は三箇所を除いて、ない)、記号も添え、シークエンスを考えて恣意的に改行して段落を施した。踊り字「〱」は正字化した。

   *

      姥 櫻  愛媛  淡水生

 今を去る凡三百年の頃ならん、伊豫國溫泉郡朝美村の名主に德兵衞と言ふ者あり、慈悲の心深く〔、〕己が名の如く德高き人なれば、一村〔、〕皆〔、〕能く命(めい)に從ひ〔、〕敬ひ尊びける、

 自然と國主に聞へて〔、〕御覺も目出度〔、〕益々〔、〕家〔、〕富榮(とみさか)へ〔、〕何の不自由なく暮しけり、

 月に叢雲(むらくも)〔、〕花に風、儘に成らぬは浮世の習ひ、德兵衞は〔、〕早(はや)四十の年を越ゆれども〔、〕未だ家名をつがすべき子とても無ければ、其妻と共に〔、〕血筋の絕えんことを恐れて常に嘆きしが、遂に相談の上、同村西山の不動明王へ三七日の心願をこめ〔、〕一心に祈りしに、不動も其願の哀れを不便(ふびん)と思ひけん〔、〕不思議にも其月より姙娠し、やがて月滿ちて玉を欺(あざむ)く如き女子(ぢよし)を生み落しければ〔、〕夫婦の喜びは筆や言葉に盡されず、名をば〔、〕お露と名付け、一人の乳母をつけ、蝶よ花よと愛(いつく)しみ〔、〕「匍匐(はへ)ば起(た)て、起てば步め」と親心、我身の年の老(よ)るも忘れ〔、〕其子の成長を樂みしが、月日には關守なく〔、〕隙(ひま)行く駒の追(おひ)がたく、年(とし)の步みの近づきて〔、〕早くもお露は十五の春を迎へければ、いよいよ容貌美くしく〔、〕起居振舞の溫和なれば〔、〕村中の評判も高く、父母の寵愛も增々深かりしに、滿(みつ)れば缺(か)くる世の習ひ、如何なる惡しき月日(つきひ)の下(もと)に生れしや〔、〕或日〔、〕お露は風の心地と打臥(うちふし)けるに、日を經(ふ)るにしたがひて〔、〕追々〔、〕病(やまひ)の激敷(はげしく)なりしかば、醫師よ〔、〕祈禱とて〔、〕種々)しゆじゆ)に手を盡すと雖も、次第次第に名に呼ぶ露の〔、〕いとはかなげに瘦せ衰へて〔、〕今は消えなん計りなり、

 燒野(やけの)の雉子(きぎす)〔、〕夜(よる)の鶴〔、〕子故(ゆゑ)の闇に迷ふは親心〔、〕まして掛替(かけがへ)なき唯一人(ひとり)の愛娘(まなむすめ)のことなれば、夫婦の嘆きは言ふも更なり、傍(そば)に付添ふ乳母(うば)の袖、たとへ潮腹(しほばら)[やぶちゃん注:意味不明。識者の御教授を乞う。]を痛めずとも〔、〕十五ケ年の其間、手鹽に掛けて御養育申せし御方なれば〔、〕

「己(おの)が命(いのち)を縮めても〔、〕二度は御命を助けんもの」

と〔、〕不動に參詣し、寢食を忘れ、三七日の間〔、〕一心にお露の病氣平癒を祈りしに、不動も乳母の忠節を感ぜしか、今にも知れぬ大病も、恰(あたか)も薄紙をはぐ如く〔、〕次第次第に平癒に向ひ、今は起居(たちゐ)にも自由と成りければ、名主夫婦の喜びは言ふ迄もなく、乳母の喜びは譬ふるに物なく、手の舞(まひ)〔、〕足の踏む處も知らざりしが、心ひそかに〔、〕不動の靈驗著しきに感じ、難有淚(ありがたなみだ)にむせびけり。

 話し替りて〔、〕爰に名主夫婦は醫者さへ匙を地げる程の娘の大病も〔、〕僅かの間に平癒せしを不審に思ひ居たりしが、遂ひに[やぶちゃん注:ママ。]袖が忠節を盡せしことを知り〔、〕大に嬉し淚をこぼしけり、間もなく〔、〕又〔、〕乳母袖は熱病に罹りければ〔、〕名主夫婦は大に驚き〔、〕種々〔、〕手を盡し〔、〕別けて〔、〕お露は〔、〕命の親の病氣なれば、片時も傍を去らず〔、〕介抱に怠りなけれども〔、〕病は日々に募る計りにて、今は賴(たのみ)少なくなりにけり、

 或時〔、〕夫婦は〔、〕袖が枕元に來り〔、〕

「とても〔、〕汝の病氣は〔、〕今の所にては〔、〕本復(ほんぷく)六ケ敷(むつか)し〔、〕此世に言ひ殘すことあらば〔、〕遠慮なく申すべし、如何なる事にてもかなへ得させん」

と〔、〕淚を流して申されければ、袖は重き頭を上げ〔、〕苦しき息をつき〔、〕名主夫婦の顏を眺め〔、〕

「何一つとて不足なき御恩を蒙りながら〔、〕最後(いまは)の際(きは)に言殘すことのなけれども〔、〕唯〔、〕一言〔、〕云ひ殘し置(おく)は〔、〕孃樣御病氣の際〔、〕妾(わらは)は不動に心願込め、

『孃樣の御病氣平癒の曉(あかつき)には〔、〕櫻樹(あうじゆ)一株〔、〕寺の境內に植(うゑ)奉らん』

と堅く誓ひしに、今は御病氣も御全快遊ばされ候はゞ〔、〕何卒〔、〕妾死去の其後(そののち)には彼(か)の西法寺へ〔、〕一株の櫻樹を植ゑ、妾と思召(おぼしめ)し〔、〕御寵愛被下(くださ)らば〔、〕草葉の影から嬉しく成佛仕らん」

と〔、〕言了りて〔、〕終に歸らぬ旅に赴きぬ。

 名主夫婦は更なり〔、〕お露は悲しさやるせなく〔、〕空しき骸(むくろ)に取(とり)つき〔、〕聲を限りに泣き伏しが、何(い)つ迄嘆けど〔、〕歸らぬことなれば〔、〕泣くなく野邊(のべ)の送(おくり)も濟(すま)し、翌日〔、〕遺言の如く西法寺の境內に櫻樹を植しに〔、〕不思議にも〔、〕每年二月十六日には花を開き〔、〕其花〔、〕恰(あたか)も〔、〕乳(ちゝ)の形を成せりと言ふ、

 惜哉(をしいかな)、今を去る〔、〕五〔、〕六十年前〔、〕其頃〔、〕植し櫻は枯れ〔、〕今日(こんにち)ある櫻は〔、〕其後〔、〕植たるものなりと聞く、

 花の形〔、〕今は乳の狀を示さゞれども〔、〕必ず〔、〕二月十六日には花を開くと言ふ、

 蓋(けだし)〔、〕二月十六日は〔、〕乳母の死せし日なりとぞ、

 世人〔、〕是を呼(よん)で「乳母櫻」と稱す。

   *]

2019/09/16

小泉八雲 お貞のはなし (田部隆次譯) 附・原拠「夜窓鬼談」の「怨魂借體」のオリジナル訓読注

[やぶちゃん注:本篇(原題“ THE STORY OF O-TEI ”)は明治三七(一九〇四)年四月にボストン及びニュー・ヨークの「ホートン・ミフリン社」(BOSTON AND NEW YORK HOUGHTON MIFFLIN COMPANY)から出版された、恐らく小泉八雲の著作の中で最も日本で愛されている作品集「怪談」(原題“ KWAIDAN: Stories and Studies of Strange Things ”。来日後の第十作品集)の三話目である。なお、小泉八雲はこの年の九月二十六日に五十四歳で心臓発作により急逝した。

 同作品集は“Internet Archive”のこちらで全篇視認でき(本篇はここから。)、活字化されたものは“Project Gutenberg”のこちらで全篇が読める本篇はここ)。

 底本は上記英文サイト“Internet Archive”のこちらにある画像データをPDFで落し、視認した。これは第一書房が昭和一二(一九三七)年一月に刊行した「家庭版小泉八雲全集」(全十二巻)の第八巻全篇である。★【2025年3月28日底本変更・前注変更】時間を経て、国立国会図書館デジタルコレクションに本登録し、現行では、以上の第一書房版昭和六(一九三一)年一月に刊行した「學生版小泉八雲全集」(全十二巻)の第七巻が、国立国会図書館デジタルコレクションで公開されてある。(リンクは扉だが、「學生版」の文字はない。しかし、奥附を見て貰うと『學生版 【第二囘豫約】』とあり、『昭和六年一月十日 發行』とあることが確認出来る)、これが、前掲の底本と同じものであるが、やはり、外国のサイトのそれを底本とするのは、日本人小泉八雲に失礼であると考えた。されば、こちらで、再度、以下の「骨董」の作品群を改めて校正することとする。これが――私の小泉八雲への「義」――である。なお、之よりも前の元版の全集等が先行しているものの、私がそれらと比べた結果、実は先行する同社の「小泉八雲全集」のそれらは、訳が一部で異なっており、訳者等によって、かなりの補正・追加がされていることが、今回の正字補正作業の中で、はっきりと判って来た。いや、同じ「家庭版」と名打ったネット上の画像データでも、驚いたことに、有意に異なっていたのである。そうした意味でも――完全な仕切り直しの総点検――が必要であると決したものである。従って、旧前振りの括弧・鍵括弧の問題も、拡大とガンマ補正で確認し、正確を期する。本作はここから。

 田部隆次(たなべりゅうじ 明治八(一八七五)年~昭和三二(一九五七)年)氏については先に電子化した「人形の墓」の私の冒頭注を参照されたい。

 最後に原拠となった「夜窓鬼談」の「怨魂借體」(えんこんしゃくたい)を訓読して(原本は漢文)電子化注しておいた。]

 

  お貞のはなし

 

 昔、越後國新潟の町に長尾長生と云ふ人があつた。

[やぶちゃん注:原文は“A long time ago, in the town of Niigata, in the province of Echizen, there lived a man called Nagao Chosei.”で、田部は「越前」の誤りを訂して訳している。]

 長生は醫者の子であつた。それで父の業をつぐべき敎育をうけた。小さい時に父の友人の娘お貞と云ふのと婚約ができてゐた。長尾の修行の終り次第婚禮をあげる事に兩家とも一致してゐた。しかしお貞の健康のすぐれない事が分つて來た。それから、十五の年にお貞は、不治の肺病にかかつた。死ねことが分つた時、彼女は、わかれを告げるために長尾に來て貰つた。

 長尾が彼女の床のわきに坐ると、彼女は云つた。

 『長尾さま、私達は子供の時からお互にきまつてゐました。そして今年の末に結婚する筈でした。しかし今私は死にかかつてゐます、これも神佛の思召です。もう何年か生きてゐましたら私は他人の迷惑や心配の種子[やぶちゃん注:「たね」。]になるばかりでせうから。こんな弱いからだではよい妻になれるわけはありません。ですからあなたのために生きてゐたいと願ふ事さへ餘程我ままな願でせう。私全くあきらめてゐます。それであなたも悲しまない事を約束して下さい。……それに私達は、又あへると思ひます。それをあなたに云ひたいのです』……

 『本當だ、又あへるとも』長尾は熱心に答へた。『そしてあの淨土では別れると云ふ苦痛はないのだから』

 『い〻え、い〻え』彼女は靜かに答へた[やぶちゃん注:句読点なしはママ。]『淨土での事ではありません。明日葬られますけれども――この世で再びあふ事にきまつて居ると信じてゐます』

 長尾は不思議さうに彼女を見た。彼の不思議さうにして居るのを見て、微笑して居る彼女を見た。彼女はおだやかな夢のやうな聲で續けた、

 『さうです。この世のつもりです――あなたのこの今の世でです。長尾さま、……全くあなたもおいやでなければ。……たださうなるために私もう一度子供に生れかはつて女に成人せねばなりません。それまで、あなたは待つてゐて下さるでせう。十五年、十六年、長い事ですね、……しかし私の約束の夫のあなたは今やつと十九です……』

 彼女の臨終を慰めようと思ふばかりに、彼はやさしく答へた。

 『私の約束の妻、あなたを待つて居る事は義務であり嬉しい事です。私共は七生の間お瓦に誓つてあるのです』

 『しかしあなたは疑ひますか』彼女は彼の顏を見つめながら尋ねた。

 『他人のからだになつて、他人の名になつて居るあなたが分るかどうか疑はれます、――何か、しるしか證據を私に云つてくれなければ』彼は答へた。

 『それはできません』彼女は云つた。『どこでどうしてあふか神佛だけが御存じです。しかしきつと本當にきつと、もしあなたがおいやでなければ私はあなたの處へかへつて來る事ができます。……それだけ覺えてゐて下さい』

 彼女はものを云はなくなつた。それから眼を閉ぢた。彼女は死んでゐた。

 

       *

 

 長尾は心からお貞になついてゐた。それだけに彼の悲しみは深かつた。彼はお貞の俗名を書いた位牌を造らせた。そしてその位牌を佛壇に置いて、每日その前に供物を捧げた。彼はお貞が丁度死ぬ前に云つた不思議な事について色々考へた。そして彼女の魂を慰めようと思つて、もし彼女が他人の體でかへつてくる事があつたら、彼女と結婚しようと云ふ眞面目な約束を書いた。この書附にした約定に彼の印を捺し[やぶちゃん注:「おし」。]、それを封じて佛壇にあるお貞の位牌のわきに置いた。

 

 しかし長尾は一人息子であつたから、結婚する事が必要であつた。彼は家族の願に餘儀なく從つて、父の選んだ妻を迎へねばならなくなつた。結婚してからも續いて、お貞の位牌の前に供物を捧げた。そしていつも情け深く彼女を覺えてゐた。しかし彼女の姿は、彼の記憶から次第にうすくなつて行つた。――思ひ出し難い夢のやうに、そして歲月はすぎ去つた。

 

 その歲月の間に多くの不幸が彼の身の上に起つた。兩親がなくなつた、――それから彼の妻と一人兒がなくなつた。それで彼はこの世界に只一人となつた。彼は淋しい家を捨てて悲しみを忘れるために長い旅に上つた。

 

 旅の間に、或日、――温泉とその周圍の美しい風景とのために、今も名高い山の村、伊香保についた。彼の泊つた村の宿で、一人の若い女が彼の給仕に出た。彼女の顏を始めて見て、未だかつて覺えない程の胸のとどろきを覺えた。それ程不思議にも彼女はお貞にそつくりなので、彼は夢でないかと、自分をつめつて[やぶちゃん注:「つねつて」に同じ。]見た程であつた。彼女が火やお膳を運んだり部屋をかたづけたりして、行つたり來たりする時――彼女の立居振舞は彼が若い時の約束の少女の貴き記憶を彼に起させた。彼は彼女に話しかけた。彼女は柔かなはつきりした聲で答へた、その聲の美しさは、ありし日の悲しさで、彼を悲しくさせた。

 それで彼は甚だ不思議に思うて、かう彼女に問うた、

 『ねいさん、あなたは昔、私の知つてゐた人にあまりによく似て居るので、あなたがこの部屋へ始めてはひつて來た時、びつくりしましたよ。それで失禮だが、あなたの鄕里と名前をきかして下さい』

 直ちに――亡くなつた人の忘れられない聲で――彼女は答へた。

 『私の名はお貞です、そしてあなたは私の許嫁の夫、越後の長尾長生さんです。十七年前、私は新潟で死にました。それからあなたは、もし私が女のからだをしてこの世にかヘつて來れば、私と結婚すると云ふ約束を書附になさいました、――そしてあなたはその書附に判を捺して封をして、佛壇の私の名のある位牌のわきに納めました。それで私歸つて參りましたの』

 彼女はこの最後の言葉を發した時、知覺を失つた。

[やぶちゃん注:最後の一文は、原文では、“As she uttered these last words, she fell unconscious.”で、これは、「彼女はこれらの最後の言葉を発しながら、意識を失った。」である。]

 

 長尾は彼女と結婚した、そしてその結婚は幸福であつた。しかしその後どんな時にも彼女が伊香保で彼の問に對する答に於て、何を云つたか思ひ出せない。なほ彼女の前世については何も覺えてゐない。その面會の刹那に不思議に燃え上つた――前世の記憶は、再び暗くなつて、そしてそれから後そのままになつた。

 

[やぶちゃん注:本篇の原拠は、漢学者(絵もよくした)石川鴻斎(天保四(一八三三)年~大正七(一九一八)年)が明治二二(一八九九)年九月に刊行した全篇漢文(訓点附き)の怪奇談集(国立国会図書館デジタルコレクションのこちらで全篇を画像で読める。富山大学の「ヘルン文庫」の小泉八雲旧蔵本はこちらでダウン・ロード(PDF)出来る)「夜窓鬼談」(漢文)の上巻の「怨魂借體」である。後者の小泉八雲旧蔵本で電子化する。但し、底本の訓点に従って書き下したものを示す。原文はベタであるが、段落を成形し、原典は句点のみであるが、一部を読点・濁点を施し、さらにそれを増やし、記号も追加してある。一部の難読と思われる箇所には歴史的仮名遣で推定読みを〔 〕で添えた。( )は原文のルビ(但し、原本ではルビもカタカナ)である。傍線は原典では右にある。私は実は、この「夜窓鬼談」の愛読者で、何時かオリジナルに全訓読文を電子化してみたいと考えていた。その一つを、ここで遂に成し遂げることができた。感無量である。

   *

     怨魂借體〔ゑんこんしやくたい〕

 長尾杏生〔ながをきやうせい〕は、越後新潟の人なり。家世、軒岐(けんぎ)の術[やぶちゃん注:医術の異称。]を業とす。弱冠[やぶちゃん注:数え二十歳。]にして父に代〔かはり〕て患者を診す。

 某樓に一妓有り。阿貞〔おさだ〕と名つく。久しく悒鬱〔いふうつ〕の病[やぶちゃん注:鬱病。]を患ふ。偃臥〔えんぐわ〕[やぶちゃん注:腹這いで寝ること。]數旬、客に接すること、能はず。生、屢〔しばし〕ば之を診視す。三月を閱〔けみ〕して全癒を得たり。生、標致秀雅(ひやうちしうが)[やぶちゃん注:美男子で優雅であること。]、又、詼謔(たわむれ)[やぶちゃん注:諧謔に同じい。]を能〔よく〕す。常に人をして喜笑せしむ。阿貞の癒〔いゆ〕る、藥劑(やくざい)の效によると雖ども、實は杏生の其〔その〕鬱悶を慰諭するを以てなり。

 一夜、阿貞、盛醼〔せいえん〕[やぶちゃん注:饗宴。]を設け、生を招〔まねき〕て曰く、

「君の厚意によりて、枯骨に肉することを得たり。聊か薄饌〔はくせん〕[やぶちゃん注:粗末な捧げもの。]を供して、將に以て鄙忱〔ひしん〕[やぶちゃん注:粗末な料理。]を表せんとす。冀〔ねがは〕くは一杯を喫せよ。」

 乃〔すなは〕ち、諸妓を聘して、歌舞、興を扶〔たす〕く。生醉〔なまゑふ〕ること、甚し。玉山[やぶちゃん注:宴席。]、已に頽〔くづ〕れ、盃盤、狼籍たり。貞、水を與へ、背を撫して曰く、

「夜〔よ〕深く、雨、催す。請ふ、床に就て睡〔ねむ〕れ。」

 生、未だ醒めず。乃〔すなは〕ち、一室に入り、裾に坐して戲〔たはむれ〕て曰く、

「久しく客に接せず、耦〔つれあひ〕[やぶちゃん注:連れ合い。ここは馴染みの懇意な客。]を思ふこと、無きや否〔いなや〕。」

 貞、笑て曰く、

「懇君〔ねんごろのきみ〕のごとき者[やぶちゃん注:杏生を指す。]、無し。安〔いづく〕んぞ、耦を思はん。」

 生、曰く、

「卿〔おんみ〕[やぶちゃん注:尊称の二人称。]、若〔も〕し僕を欺かずんば、僕、亦た、誠〔まこと〕を竭〔つくさ〕んのみ。」

 貞、流涕して曰く、

「重恩の人、何を以てか、之を報ぜん。君、若〔も〕し、醜〔しこ〕[やぶちゃん注:貞の卑称。]を棄〔すて〕ずんば、命を以て、之に事〔つか〕へん。」

 生、喜ぶ。

 遂に同衾の歡を爲す。

 爾來、屢〔しばし〕ば、此に來〔きた〕る。膠漆[やぶちゃん注:「かうしつ(こうしつ)」。ニカワとウルシ。しっかりと密着させる接合剤から転じて、極めて親しく離れ難い関係の喩え。]、啻〔ただ〕ならず、稍〔や〕や他妓の嬲(なぶらるる)[やぶちゃん注:揶揄される。]所〔ところと〕爲る。

 生の父、其の遊蕩を憤り、念[やぶちゃん注:情念。]を一時に斷たしめんと欲し、貲〔し〕[やぶちゃん注:学資金。]を齎〔もたらし〕て、江都[やぶちゃん注:江戸。]に遣る。醫博士某に從〔したがひ〕て業を硏せしむ。

 生、已むことを得ず、簦〔かさ〕[やぶちゃん注:枝のついた旅用の傘。]を擔〔になひ〕て鄕を去る。

 復た、信[やぶちゃん注:書信。手紙。]を通ずることを得ず。

 呵貞、聞て大に歎じ、病、再び發し、遂に、左[やぶちゃん注:左の目。]、明を失し、幾無〔いくばくもなく〕して亡〔う〕せり。

 生、學に就くこと、五年、父〔ちちを〕省〔かへりみ〕、鄕に歸る。

 父、其遊蕩に懲りて、急に某氏を娶〔めと〕りて、之に妻〔めあ〕はす。

 生、弟、有り。繼母の出〔しゆつ〕と爲〔なす〕。

 母、弟をして家を繼がしめんと欲す。

 生、其意を知り、妻を携へて、再び、東京に來り、業を下谷に開く。

 名聲、漸く聞へ、履屐(ひとあし)[やぶちゃん注:人の履き物。ここは医院への受診者の換喩。]、門に滿つ。

 時に年四十、偶〔たまた〕ま、左耳を聾〔ろう〕す。百治、驗〔しるし〕無し。自(みづから)以て不治の症と爲す。復た、甚だ、療せず。

 鄰巷〔りんかう〕[やぶちゃん注:隣町。]に術者、有り。能く吉凶禍福を知る。生と相ひ熟す[やぶちゃん注:非常に親しかった。]。

 生、術者に謂て曰く、

「餘の聾を病む、亦た、禍源[やぶちゃん注:禍いのもととなる悪しき原因。]、有りや。」

 術者、沈思、稍や久し。眉を顰〔ひそめ〕て曰く、

「二十年前、一婦人を欺くこと、無きか。」

生、曰く、

「記憶する所ろ、無し。」

曰く、

「此の婦、晚[やぶちゃん注:晩年。]に、左、明を失して、遂に悒鬱〔いふうつ〕して死す。怨念、滅せず。今猶ほ、累〔るい〕[やぶちゃん注:厄介な因縁。]と爲る。君、其れ、熟〔よ〕つく[やぶちゃん注:ちやんと。]思へ[やぶちゃん注:思い出してみよ。]。」

生、愕然として始て、阿貞、祟りを爲すことを知る。因〔よつ〕て、具〔つぶ〕さに前事を告ぐ。

 曰く、

「君は盛德の人。怨鬼、近づくことを得ず。然れども、一念の凝結する所ろ、年を經て、猶ほ未だ、銷(しやう)せず[やぶちゃん注:消えていない。]。宜しく靈を祀り、罪を謝すべし。」

 乃〔すなは〕ち、「解怨の法」を授く。

 生、則ち、壇を設け、靈を祀り、香華を供して、罪を謝す。且つ、翰[やぶちゃん注:書簡。]を書し、曰く、

――余、盟[やぶちゃん注:約束。]に負〔そむ〕くは、已むことを得ざるを以てなり。卿〔おんみ〕、若し、尙ほ、余を慕ふこと有らば、願くは再生して盟を尋〔き〕け。然れども、余、年老〔おとろ〕へ、氣、衰ふ。或は、魂を、容貌、卿〔おんみ〕に肖〔に〕たる者に憑託〔ひやうたく〕せよ。今世、復た、前緣を果〔はた〕すこと、有らん。我れ、今ま、子、無し。幸に妾〔めかけ〕爲〔する〕ことを得て、一子を生まば、我の願〔ねがひ〕、亦、足れり。――

 書し了る。之を壇前に焚〔た〕く。

 是れより、耳〔みみの〕聾、稍や輕し。三年の後、全く瘳〔いゆ〕ることを得たり。

 是より前〔さ〕き、父、歿す。

 生、亦、屢ば鄕に之〔ゆ〕く。十三年の忌辰〔きしん〕[やぶちゃん注:命日。]に了〔をはり〕て、又、鄕に於て祭を修す。

 歸途、伊香保溫泉に浴す。

 客舍に在る數日、婢、有り、年、僅に破瓜〔はか〕[やぶちゃん注:古く女の十六歳を指す語。]に埀(なんなん)とす。而〔しかして〕、容貌・音聲、酷〔はなは〕だ、阿貞に肖〔に〕たり。

 日夜、飮食・起臥の事、亦、甚だ務む。

 柔順・優愛、生を慕ふに似たり。

 一夜、更、深け、生、未だ眠らず、床に在〔あり〕て書を讀む。

 婢、來〔きたり〕て膏〔あぶら〕[やぶちゃん注:行灯の油。]を加ふ。

 生、戲れに婦〔をんな〕に謂て曰く、

「汝の容貌、酷〔ひど〕く我が知る所の女に肖〔に〕たり。知らず、何れよりか來る。」

 婢、生の手を捕〔とり〕て嘕然〔えんぜん〕[やぶちゃん注:如何にも楽しそうに。]として曰く、

「君、貞を忘ること、無〔なき〕や否や。」

 生、驚〔おどろ〕て、曰く、

「汝は阿貞の再生する者か。」

 曰く、

「君の誓言を信じて、君の歸鄕を待つ。圖らず、故病、再び起り、遂に怨〔うらみ〕を呑〔のみ〕て亡〔う〕せり。一念、滅せず。往〔ゆき〕て、君〔きみが〕身を腦ます。後、君の書翰を得て、再生を俟たず、此女に體を借〔かり〕て、以て前緣を果さんと欲す。君、約を爽〔たが〕へず、速〔すみやか〕に相伴〔あひともな〕ひ去れ。婢、妾〔めかけと〕爲〔な〕るを、厭はざるなり。」

言ひ訖〔をへ〕て悶絕〔もんぜつす〕。

 氣脈、斷〔たた〕んと欲す[やぶちゃん注:今にも呼吸も脈も停止しそうになった。]。

 生、急に水を與へ、藥を啣(ふく)ましむ。

 少頃〔しばらく〕ありて驀然(ぼ/さむる[やぶちゃん注:前者は「驀」にのみルビしたもので「ぼぜん」であろう。後者は左ルビ。意味注。「c」は「たちまち。にわかに」の意。])として甦〔せい〕す。

 生、問ふ、

「言ふ所ろ、記憶するや否〔いなや〕。」

 曰く、

「知らず。唯だ、一女、體中に入るを覺ゆ。復た、怨を述〔のぶ〕るを聽くのみ。」

 生、又、姓名と鄕里を問ふ。泣〔なき〕て曰く、

「妾〔わらは〕、名は貞。高崎某士の二女、父母、姊と、夙〔とく〕に世を辭す。田園・家財、盡く負債〔ふさいの〕爲めに奪はれ、孤惸落魄(こけいらくはく)[やぶちゃん注:「孤惸」は「 身寄りのないひとりもの」。]、口を糊〔のり〕すること能はず。遂に此に來〔きたり〕て傭〔やとひ〕と爲る。主人、妾〔わらは〕が薄命を憐れみ、且つ、其幺弱〔ようじやく〕(よわし[やぶちゃん注:小さく虚弱なこと。])なるを以て、甚だ使役せず。獨り、老媽〔らうぼ〕有り、裁縫を事とす。妾、就〔つき〕て學ぶのみ。」

 言終〔いおひをは〕り、歔欷〔きよきし〕、雙淚、袖を濕〔うるほ〕す。

 生、之を憐れみ、遂に其主に乞ふて、妾〔めかけ〕と爲す。

 主も亦、大に喜び、爲に衣服・妝具〔さうぐ〕[やぶちゃん注:服飾装具。]を貽〔おく〕る。

 駕〔かご〕を命じて、之を送る。

 生、携へ歸〔かへり〕て、之を他室に置く。幾〔いくばく〕も無くして、男を擧〔あ〕ぐ。

 生の妻、子、無〔なき〕を以て、之を愛すること、己〔おのれ〕の出〔しゆつ〕のごとし。又、貞を愛すること、妹のごとし。

 貞、長ずるに及んで、言語・擧動、毫も阿貞に異なること無〔なし〕。

 數年の後、妻、病を以て歿す。死に臨んで、生に謂て曰く、

「貞、性、溫厚謹直、妾〔わらは〕、死するの後、請ふ、貞を以て、繼妻と爲せ。他人を娶ること、勿れ。」

と。

 是に於て、貞、妻と爲る。時に、年二十有五。

 阿貞、二十有五にして、生〔せいに〕別る。

 貞、二十有五二して、正妻と爲る。

 亦、奇なり。

 友人靑木氏、余が爲めに話す。

   *

 正直、原話は、時代から見て、このようなコンセプト(阿貞は芸者で、長生には正妻がいる)が当り前のようにも見えるのだが、小泉八雲の作品と比較すると、遙かに八雲の話の方が、原話の各所に配された妙な些細な五月蠅い飾り部分が全くなく、読者が稀有の奇蹟の到来を非常に心地よく受け取れる名佳品となっている。軍配は小泉八雲だ!]

小泉八雲 をしどり (田部隆次譯) 附・原拠及び類話二種

[やぶちゃん注:本篇(原題“ OSHIDORI ”)は明治三七(一九〇四)年四月にボストン及びニュー・ヨークの「ホートン・ミフリン社」(BOSTON AND NEW YORK HOUGHTON MIFFLIN COMPANY)から出版された、恐らく小泉八雲の著作の中で最も日本で愛されている作品集「怪談」(原題“ KWAIDAN: Stories and Studies of Strange Things ”。来日後の第十作品集)の二話目である。なお、小泉八雲はこの年の九月二十六日に五十四歳で心臓発作により急逝した。

 同作品集は“Internet Archive”のこちらで全篇視認でき(本篇はここから。)、活字化されたものは“Project Gutenberg”のこちらで全篇が読める本篇はここ)。

 底本は上記英文サイト“Internet Archive”のこちらにある画像データをPDFで落し、視認した。これは第一書房が昭和一二(一九三七)年一月に刊行した「家庭版小泉八雲全集」(全十二巻)の第八巻全篇である。★【2025年3月28日底本変更・前注変更】時間を経て、国立国会図書館デジタルコレクションに本登録し、現行では、以上の第一書房版昭和六(一九三一)年一月に刊行した「學生版小泉八雲全集」(全十二巻)の第七巻が、国立国会図書館デジタルコレクションで公開されてある。(リンクは扉だが、「學生版」の文字はない。しかし、奥附を見て貰うと『學生版 【第二囘豫約】』とあり、『昭和六年一月十日 發行』とあることが確認出来る)、これが、前掲の底本と同じものであるが、やはり、外国のサイトのそれを底本とするのは、日本人小泉八雲に失礼であると考えた。されば、こちらで、再度、以下の「骨董」の作品群を改めて校正することとする。これが――私の小泉八雲への「義」――である。なお、之よりも前の元版の全集等が先行しているものの、私がそれらと比べた結果、実は先行する同社の「小泉八雲全集」のそれらは、訳が一部で異なっており、訳者等によって、かなりの補正・追加がされていることが、今回の正字補正作業の中で、はっきりと判って来た。いや、同じ「家庭版」と名打ったネット上の画像データでも、驚いたことに、有意に異なっていたのである。そうした意味でも――完全な仕切り直しの総点検――が必要であると決したものである。従って、旧前振りの括弧・鍵括弧の問題も、拡大とガンマ補正で確認し、正確を期する。本作はここから。

 田部隆次(たなべりゅうじ 明治八(一八七五)年~昭和三二(一九五七)年)氏については先に電子化した「人形の墓」の私の冒頭注を参照されたい。

 傍点「﹅」は太字に代えた。

 禁欲的に注を附し、最後に原拠となった「古今著聞集」のそれと、類話を二つ、電子化注しておいた。]

 

  を し ど り

 

 陸奥の國、田村の鄕の住人、村允(そんぜう)と云ふ鷹使でありかつ獵師である男がゐた。或日獵に出たが鳥を得ないで空しく歸つた。その途中赤沼と云ふ所でをしどりが一つがひ泳いで居るのを見た。をしどりを殺すのは感心しないが、飢ゑてゐたので、村允はその一つがひを目がけて矢を放つた。矢は雄鳥を貫いた。雌鳥は向うの岸の蘆の中に逃げて見えなくなつた。村允は鳥の屍を家に持ち歸つてそれを料理した。

 その晚村允はものすごい夢を見た。美しい女が部屋に入つて來て、枕元に立つて泣き出すやうな夢であつた。餘りはげしく泣くので聰いて居ると胸が裂けるやうであつた。女は叫んだ。『何故……あ〻……何故……夫を殺しました。殺されるやうな、どんな罪を犯しましたか。赤沼で私共は樂しく暮してゐたのです、それにあなたは夫を殺しました。……あなたに一體、何の害をしたでせうか。自分で何をしたか、あなたは分つてゐますか、――あ〻どんな殘酷な、どんな惡い事をしたか、分つてゐますか。……あなたは私も殺しました、――夫がゐないでは私は生きて居る氣はない。……私はただこの事を言ひに來ました』……それから又、大聲で泣き出した――餘りはげしく泣いたので、その泣き聲が村允の骨の髓までしみ渡つた、――それからつぎの歌を、泣き泣きよんだ、――[やぶちゃん注:この女の台詞の冒頭は、底本では『何故あ〻何故夫を殺しました。』であるが、特異的に私が勝手にリーダを三箇所に挿入した。無論、掟破りの確信犯である。]

 『日暮るれば さそひしものを、

  あかぬまの

  眞菰がくれの ひとりねぞうき』

 この歌の文句を吐き出したあとで、彼女は叫んだ、――

 『あ〻、あなたは知らない――何をしたか分る譯はない。しかし明日赤沼へ行けば分ります――分ります……』さう云つて又悲しさうに泣いて歸つた。

 朝、目がさめた時、この夢が心にはつきり殘つてゐたので村允は甚だ困つた。

『しかし明日赤沼へ行けば分ります――分ります』と云ふ言葉は、彼にとつて忘れられなかつた。そこで彼は、その夢は、夢以上のものであるか、どうかをたしかめるために、直ちにそこへ行かうと決心した。

 そこで彼は赤沼へ行つた。岸についた時、見ると雌鳥がひとりで泳いでゐた。同時にその鳥が村允を認めた。しかし逃げようとしないで不思議な風に、わき目もふらずに村允を見つめながら、眞直にその方に向つて泳いで來た。それからくちばしで、不意に自分の胸をつき破つて村允の目の前で死んだ。……

 

 村允は頭を剃つて、僧となつた。

 

[やぶちゃん注:「陸奥の國、田村の鄕」現在の福島県郡山市のこの附近に「田村町」を冠する地名が集合する(グーグル・マップ・データ。ポイントは「田村金屋」。以下無指示は同じ)。東北位置に「中田町(なかたまち)赤沼」も現認出来る

「赤沼」福島県郡山市中田町赤沼。しかも同地区内に沼杉並板碑群」という場所があり、そのサイド・パネルの写真を見たところ、おしどりの碑(おしどり伝説発祥の地)」の石造りの碑が現認でき、その下に、より古い石碑の画像が数枚、続いた後、突如――小泉八雲の本作「をしどり」がここをルーツとするとする新聞切り抜き(新聞社不明)の画像――が挿入されてあった(額入り・室内写真と思われる)。但し、沼自体は現存せず、碑の東南一帯が、昔の「赤沼の跡」とされているらしい同定地附近の同航空写真、及び、「ひなたGIS」の同位置も添えておく(しかし、戦前の地図でも池らしいものは確認出来ない)。この同定地や碑については末尾の注でも後述する【2025年3月28日追記:この注は、今回、内容を、より詳しく大幅に書き変えた。】

『日暮るれば さそひしものを、 あかぬまの 眞菰がくれの ひとりねぞうき』新潮社日本古典集成「古今著聞集 下」(西尾光一・小林保治校注)の「巻第二十 魚虫禽獣」の「馬允某、陸奥国赤沼の鴛鴦を射て出家の事」(小泉八雲が原拠とした原典。後で掲げる)の頭注では、『日が暮れれば誘い合せて一緒に夜を過したのに、夫がうたれてから、赤沼のまこものかげでただ一人で寝るのは何ともつらいことです』と訳されてある。但し、引用元にはなかったが、「あかぬまの」は「赤沼」の名に、

――そうして毎夜二人で過ごすことは私たち二人には少しも「飽かぬ間」(飽くことなき二人の時間)であったのに――

の意を掛けてあるのは、言うまでもない。

「眞菰」単子葉類植物綱イネ目イネ科エールハルタ亜科 Ehrhartoideae Oryzeae 族マコモ属マコモ Zizania latifolia ウィキの「マコモ」によれば、『東アジアや東南アジアに分布しており、日本では全国に見られる。水辺に群生し、沼や河川、湖などに生育。成長すると大型になり、人の背くらいになる。花期は夏から秋で、雌花は黄緑色、雄花は紫色。葉脈は平行』とある。[やぶちゃん注:『しかし明日赤沼へ行けば分ります――分ります』の段落の開始位置が一字下げになっていないのはママ。

 原拠は「古今著聞集」(ここんちょもんじゅう:鎌倉中期の説話集。全二十巻。橘成季(たちばなのなりすえ)の編。建長六(一二五四)年成立。平安中期から鎌倉初期までの日本の説話約七百話を、「神祇」・「釈教」・「政道」など三十編に分けて収める)の「卷第二十 魚蟲禽獸」の「馬允某(むまのじようなにがし)、陸奥國赤沼の鴛鴦(をしどり)を射て出家の事」(読みは私が推定で附した)。まず、最初に小泉八雲が執筆に際して参考とした原本、富山大学「ヘルン文庫」の小泉八雲旧蔵本(PDFを視認して、そのままに、まず、電子化した。歴史的仮名遣の誤りは総てママである(但し、踊り字「〲」は正字化した)。

   *

みちのくに田村の鄕(ごう)の住人馬允(ぜう)なにがしとかやいふおのこ鷹(たか)をつかひけるが鳥を得ずしてむなしく歸りけるにあかぬまといふ所にをし鳥一つがひゐたりけるをくるりをもちていたりければあやまたずおとりにあたりてげりそのをしをやがてそこにてとりかひてえがらをばえぶくろにいれて家にかへりぬその次の夜の夢にいとなまめきたる女のちいさやかなるまくらにきてさめざめとなきゐたりあやしくて何人のかくはなくそと問ければきのふあかぬまにてさせるあやまりも侍らぬにとしごろのおとこをころしたまへるかなしびにたへずして參りてうれへ申也此思によりてわが身もながらへ侍まじき也とて一首の哥をとなへてなくなくさりにけり

   日くるればさそひし物をあかぬまの

    まこもかくれのひとりねそうき

あはれにふしぎに思ほどに中一日ありて後えがらをみければえぶくろにをしの妻(め)とりのはらをおのがはしにくひかはしにてつらぬきて死にて有けりこれをみてかの馬允、やがてもとゞりを切て出家してげり。この所は前刑部大輔仲能(なかよし)朝臣が領(れう)になん侍也

   *

しかし、これは余りに読み難いので、歴史的仮名遣が補正されている先に掲げた新潮社日本古典集成「古今著聞集 下」を参考に、記号等を加え、段落も成形し、また、一部を漢字化し、漢字を恣意的に正字化し、一部の読みも推定で歴史的仮名遣で振ったものを次に掲げた

   *

 みちのくに、田村の鄕(がう)の住人(ぢうにん)、馬(むま)の允(じよう)某(なにがし)とかやいふをのこ、鷹(たか)をつかひけるが、鳥を得ずして、むなしく歸りけるに、「赤沼(あかぬま)」といふ所に、鴛鴦(をし)の一つがひ、ゐたりけるを、「くるり」をもちて射たりければ、あやまたず、雄鳥(をとり)にあたりてけり。

 そのをしを、やがて[やぶちゃん注:すぐに。]、そこにて、鳥飼ひて、「餌(ゑ)がら」をば、「餌囊(ゑぶくろ)」に入れて、家に歸りぬ。

 その次の夜(よ)の夢に、いとなまめきたる女の、小(ちひ)さやかなる、枕にきて、さめざめと泣きゐたり。

 あやしくて、

「何人(なにびと)のかくはなくぞ。」

と、問ひければ、

「きのふ、赤沼にて、させるあやまりも侍らぬに、年來(としごろ)のをとこを、殺し給へるかなしみにたへずして、參りてうれへ申すなり。この思ひによりて、わが身も、ながらへ侍るまじきなり。」

とて、一首の歌をとなへて、泣く泣く去りにけり。

  日暮るれば誘ひしものをあか沼の

     眞菰隱れの獨り寢ぞ憂き

あはれにふしぎに思ふほどに、中(なか)一日(ひとひ)ありて後(のち)、「餌がら」を見ければ、餌囊に、をしの妻鳥(めとり)の、嘴(はし)を己(をの)が嘴に啣(く)ひ交(かは)して、死にてありけり。これを見て、かの馬の允、やがて[やぶちゃん注:直ちに。]、髻(もとどり)を切りて、出家してけり。

 此(この)所は、前(さき)の刑部(ぎやうぶ)の大輔(たいふ)仲能(なかよし)朝臣(あそん)が領(りやう)になん侍るなり。

   *

以下、語釈を施す(一部で新潮社日本古典集成「古今著聞集 下」を参考にしたが、そこは指示した)。

・「みちのくに田村の鄕」既に本文内で注したが、それ以外に、koba0333氏のブログ「壁紙自然派」の『地名こぼれ話17(3)・「おしどり物語」のルーツは郡山市中田町か』に(一部の改行を詰めた。リンクはママ)、『「陸奥国」は、当初は「道奥」(みちのおく)と呼ばれ、平安時代まで「陸奥」(みちのく)、その後は「陸奥」(むつ)と呼ばれた。「陸奥」は時代によって範囲が多少異なるが、福島県から青森県までの沿岸部の地域を指す。現在は「みちのく」といえば、ほぼ東北地方全体を指すようになった。陸奥国の田村郡を支配していた戦国大名に田村氏がいる。wikipedia-田村氏によると、『田村郡(たむらぐん)は福島県(陸奥国・磐城国)の郡』で、『平安時代、桓武天皇より征夷大将軍に任命されて蝦夷討伐で活躍した坂上田村麻呂を祖とし、その子孫が代々田村郡を領してきたとされる』。『鎌倉期以降、田村荘の領主は藤原仲能系と考えられている田村庄司家であった』とあり、『古今著聞集のおしどり物語では、「田村の郷」を「ここは前形部太輔仲能朝臣の領土」と記している。秋田県横手市大雄田村も「みちのくの田村の郷」で、「赤沼のおしどり物語」が伝わるが、古今著聞集の記述や歴史的背景から見て、郡山市中田町起源説に軍配が上がりそうである』とされ、『中田町のおしどりの碑には次の碑文が刻まれている』として、そこでは、正和三(一三一四)年の民話「赤沼のおしどり」とクレジットを特定し、『右馬允(うまのじょう)という武士が、赤沼のほとりでつがいのオシドリの雄を矢で射止めて帰ると、夢に美しい女が現れ、「日くるればさそいしものを赤沼の まこもがくれの一人寝ぞ憂き」と詠んで去った』。『翌日、雄を射た場所を訪れてみると雌が自分のくちばしで腹を突き刺して死んでいた。武士は発狂したとも、出家したともいわれている』。正和』三『年は鎌倉時代だが、古今著聞集編纂時の建長』六(一二五四)年から』六十『年後である。出典に記された年と考えられるが、古今著聞集は成立後に増補がなされているので、その増補版かもしれない』。『古今著聞集は猟師の馬ノ允だが、碑文は武士の右馬允で、説明版のイラストでは右馬允が殿様になっている。脚色された過程が面白い』と述べておられる。但し、この碑の正和三年は、何に拠ったものか示されていないので、以上の說の信憑性に就いては、私は、留保する。

・「馬の允」新潮社頭注に、『「田村郡郷土史」』(福島県田村郡教育会編・明三七(一九〇四)年刊)『によれば、田村氏の臣、築館』(「つきだて」と読むか)『の館主赤沼右馬允(赤沼弾正四代の孫)』とする。「田村郡鄕土史」は国立国会図書館デジタルコレクショで画像で読むことができ、当該箇所はここであるが、そこには「赤沼古跡」の条に本話の梗概が載り、その当該条は『文化十二年風早中納言實秋ノ撰文ニ係ル』とあって、その次に「築舘趾」の条に『宮城村大字赤沼』(ここは既に出た赤沼と同一)『ニ在リ田村氏ノ臣赤沼彈正ノ居舘ニシテ大永年間ニ築キシモノナリト云』とある。風早実秋(かざはやさねあき 宝暦一〇(一七六〇)年~文化一三(一八一六)年)は江戸中・後期の羽林家の公卿であり、大永年間は一五二一年から一五二八年の戦国時代。この話を調べて行くと、妙に後代の限定時制がぼろぼろ登場するのが、これまた如何にも面白い。近世以降、ここを、歌枕、或いは、伝説の場所としようとした、人々の複数の力を感ずるのである。

・「くるり」「矪矢(くるりや)」。所持する小学館「日本国語大辞典」によれば、『桐または檜』『で小さな目無鏑(めなしかぶら)をつくり、その先端に矪根(くるりね)という半月形の小雁股(こがりまた)』の鏃(やじり)を『つけた矢』で、『水鳥や魚を射るのに用いる』とある。ネットの同辞典精選版のここに図が載る

・「鳥飼ひて」彼の鷹に餌として、そのオシドリの雄を餌として与え、の意。

・「餌(ゑ)がら」新潮社頭注に、『食べ残した餌。すなわち雄鳥のからだの一部』とある。

・「餌囊(ゑぶくろ)」新潮社頭注に、『鷹の餌を入れて携帯する柳で編んだ籠。鷹が捕えた小鳥なども入れた』とあるので、相応に大きなものであることが窺われる。

・「仲能朝臣」新潮社頭注に、藤原『秀郷流、寿永二年(一一八三)二月、伊賀守に補任された田村仲教の子。評定衆・刑部大輔。代々、田村荘の領主であった』とある。彼は「吾妻鏡」にも頻出し、調べてみると、養子になって水谷姓となっているともあった。

 ご覧の通り、原話は、

――翌々日、雄の遺骸の一部(嘴が出るから首であろう)が入っている餌袋の中に――何時の間にか――雌が潜み入って――雄の嘴で自死しているのを見出す――

という展開部であるものが、小泉八雲の再話では、

――雌の自死のシークエンスを赤沼に、再度、ロケーションし――毅然として馬の允に向かって泳ぎ来たって――自身の嘴で以って――自身の胸を突き差して自死する――

という、驚愕の結末の衝撃映像として見せる点で遙かに優れている。

 さらに、この話、類話が多くあるので、その一部も示しておく。

 まず、古くは平安末に成立した「今昔物語集」の巻第十九の「鴨雌見雄死所來出家語第六」(鴨(かも)の雌(めどり)、雄(をどり)の死せる所に來たるを見て出家する語(こと)第六)である。小学館「日本古典全集」版を参考に、恣意的に漢字を正字化して示す。

   *

 今は昔、京に一人の生侍(なまざむらひ)有りけり。何れの程[やぶちゃん注:いつ頃。]と云ふ事を知らず。家、極めて貧しくして、世を過ぐすに便り無し。

 而る間、其の妻、產して、專(もはら)に宍食(ししじき)[やぶちゃん注:肉食(にくじき)。産後の消耗に、栄養価の高いものとして摂取を望んだのである。]を願ひけり。

 夫(をうと)、身貧しくして、宍食を求め得難し。田舍の邊(ほとり)に尋ぬべき人も無し。市(いち)に買はむと爲(す)れば、其の直(あたひ)無し。

 然(しか)れば、心に繚(あつか)ひて[やぶちゃん注:思い悩んで。]、未だ明けざる程に、自(みづか)ら弓に箭(や)二筋許りを取り具して、家を出でぬ。

『池に行きて、池に居たらむ鳥を射て、此の妻(め)に食はしめむ。』

と思ふ故に也。

『何方(いづかた)に行くべきにか有らむ。』

と思ひ𢌞らすに、「美々度呂池(みみどろのいけ)」[やぶちゃん注現在の京都市北区上賀茂にある深泥池(みどろがいけ)。]こそ、人離(ひとはな)れたる所なれば、其(そこ)に行て伺はむ。』

と思ひ得て、行きにける。

 池の邊(ほとり)に寄りて、草に隱れて伺ひ居たるに、鴨の雌雄(めどりをどり)、人有りとも知らずして、近く寄り來たり。

 男、此れを射るに、雄を射つ。

 極めて喜(うれ)しく思ひて、池に下(お)りて鳥を取りて、忩(いそ)ぎて家に返るに、日、暮れぬれば、夜に入りて來たれり。

 妻に此の由を告げて、喜び乍ら、

『朝(つと)めてに調美(てうび)して、妻(め)に食はしめむ。』

と思ひて、棹(さを)[やぶちゃん注:衣桁(いこう)。]の有るに、打ち懸けて置きて、臥しぬ。

 夫(をうと)、夜半許りに聞けば、此の棹に懸けたる鳥、

「ふたふた。」

と、ふためく。

 然れば、

『此の鳥の生き返(かへ)たるか。』

と思ひて、起(た)ちて、火を燈(とも)して行きて見れば、死にたる鴨の雄(をどり)は死に乍ら、棹に懸りて有り。

 傍らに、生きたる鴨の雌(めどり)、有り。

 雄に近付きて、ふためく也けり。

『早う、晝(ひ)る、池に並びて飡(は)みつる雌の、雄の射殺しぬるを見て、夫(をうと)を戀ひて、取りて來たる尻に付きて、此(ここ)に來にける也。』

と思ふに、男、忽ちに道心發りて、哀れに悲き事、限り無し。

 而るに、人、火を燈して來れるを恐れずして、命を惜しまずして、夫と並びて居たり。

 此れを見て、男の思はく、

『畜生也と云へども、夫を悲しぶが故に、命を惜しまずして、此(か)く來れり。我れ、人の身を受けて、妻(め)を悲しむで鳥を殺すと云(いへ)ども、忽ちに、此(か)く、宍(しし)を食はしむ。』

事を慈(いつくし)びて、寢たる妻を起こして、此の事を語りて、此れを見しむ。

 妻、亦、此れを見て、悲しぶ事、限り無し。

 遂に、夜明けて後(のち)も、此の鳥の宍を食ふ事、無かりけり。

 夫(をうと)は、尙、此の事を思ふて、道心深く發(おこ)りにければ、愛宕護(あたご)の山[やぶちゃん注:京都府京都市右京区にある愛宕山。比叡山と並び、古くより、信仰の山とされ、神護寺などの寺社が愛宕山系(愛宕山東方)の高雄山にある。]に貴(たふと)き山寺に行きて、忽ちに髻(もとどり)を切りて、法師と成りにけり。其の後(のち)、偏へに聖人(しやうにん)と成りて、懃(ねむご)ろに勤め行ひてなむ有りける。

 此れを思ふに、殺生の罪重しと云へども、殺生に依りて道心を發(おこ)して出家す。然(しか)れば、皆、緣、有る事也けり、となむ語り傳へたるとや。

   *

 次に明らかに「古今著聞集」を下敷きとしたものと考えられる「沙石集」(しゃせきしゅう:鎌倉時代の仏教説話集。全十巻。無住一円著。弘安六(一二八三)年成立)の「鴛の夢に見ゆる事」を引く(底本は一九四三年岩波文庫刊筑土鈴寛校訂「沙石集 下巻」を用いたが、適宜、段落を成形し、読点を追加した。「(と)」は校訂者の挿入)。

   *

 中比、下野の國に、阿曾沼[やぶちゃん注:「あそぬま」。現在の栃木県佐野市浅沼町(あさぬまちょう)に嘗て存在した沼。]と云ふ所に、常に殺生をこのみ、ことに、鷹つかふ、俗、有けり。

 ある時、鷹狩の歸りさまに、鴛の雄(をんどり)を一[やぶちゃん注:「ひとつ」。]とりて、餌袋に入て歸りぬ。

 その夜の夢に、裝束尋常なる女房、姿かたちよろしきが、恨みふかき氣色にて、さめざめと打ちなきて、

「いかにうたてく、わらはが夫(をつと)をばころさせ給へる。」

といふ。

「さることこそ候はね。」

といへば、

「たしかに今日めし(と)りて候ものを。」

と云ふ。猶、かたく、論ずれば、

 日暮(くる)ればさそひしものをあそぬまのまこも隱れの獨寢ぞうき

と打ちながめて、ふつふつとたつを見れば、鴛の雌(めんどり)なり。

 打ちおどろきて、あはれに思(おもふ)ほどに、朝(あした)見れば、昨(きのふ)の雄(をんどり)と、嘴(はし)くひあはせて、雌の死せるありける。

 是を見て、發心し、出家して、やがて遁世の門に入り侍けるとなん、語傳へて侍る。

 あはれなりける發心の因緣也。漢土に法宗といひけるも、鹿のはらみたる中腹(なかばら)を射やぶるに、子のおちたるを、矢をふくみながら子をねぶりたるを見て、やがて弓矢を折りすて、髮をそりて道に入る。法華の持者にて、をはり、めでたき事、法華の傳に見へたり。發心の緣、定りなき事也。

   *

「沙石集」は諸本あり、別本では和歌は、

 日暮(くるれ)ばいさやといひしあそ沼の眞薦(まこも)のうへに獨りかもねむ

等の異同がある。なお、最後に引かれている中国の法宗の鹿の話は、私は原典を知らない。ご存じの方は、お教え願えると、恩幸、これに過ぎたるはない。]

2019/09/15

小泉八雲 耳無芳一の話 (戶川明三譯)


[やぶちゃん注:本篇(原題“ THE STORY OF MIMI-NASHI-HOICHI ”)は明治三七(一九〇四)年四月にボストン及びニュー・ヨークの「ホートン・ミフリン社」(BOSTON AND NEW YORK HOUGHTON MIFFLIN COMPANY)から出版された、恐らく小泉八雲の著作の中で最も日本で愛されている作品集「怪談」(原題“ KWAIDAN: Stories and Studies of Strange Things ”。来日後の第十作品集)の第一話である。なお、小泉八雲は、この年の九月二十六日に五十四歳で心臓発作により急逝した。

 同作品集はInternet Archive”のこちらで全篇視認でき(本篇はここから)、活字化されたものは“Project Gutenberg”のこちらで全篇が読める本篇はここ)。

 底本は上記英文サイト“Internet Archive”のこちらにある画像データをPDFで落し、視認した。これは第一書房が昭和一二(一九三七)年一月に刊行した「家庭版小泉八雲全集」(全十二巻)の第八巻全篇である。★【2025年3月27日底本変更・前注変更】時間を経て、国立国会図書館デジタルコレクションに本登録し、現行では、以上の第一書房版昭和六(一九三一)年一月に刊行した「學生版小泉八雲全集」(全十二巻)の第七巻が、国立国会図書館デジタルコレクションで公開されてある。(リンクは扉だが、「學生版」の文字はない。しかし、奥附を見て貰うと『學生版 【第二囘豫約】』とあり、『昭和六年一月十日 發行』とあることが確認出来る)、これが、前掲の底本と同じものであるが、やはり、外国のサイトのそれを底本とするのは、日本人小泉八雲に失礼であると考えた。されば、こちらで、再度、以下の「骨董」の作品群を改めて校正することとする。これが――私の小泉八雲への「義」――である。なお、之よりも前の元版の全集等が先行しているものの、私がそれらと比べた結果、実は先行する同社の「小泉八雲全集」のそれらは、訳が一部で異なっており、訳者等によって、かなりの補正・追加がされていることが、今回の正字補正作業の中で、はっきりと判って来た。いや、同じ「家庭版」と名打ったネット上の画像データでも、驚いたことに、有意に異なっていたのである。そうした意味でも――完全な仕切り直しの総点検――が必要であると決したものである。従って、旧前振りの括弧・鍵括弧の問題も、拡大とガンマ補正で確認し、正確を期する。本作はここから。

 戸川明三は英文学者で評論家としても知られる戸川秋骨(明治三(一八七一)年~昭和一四(一九三九)年)の本名である。彼の著作権は既に満了している。本ブログ・カテゴリ「小泉八雲」では、彼が訳した小泉八雲の渾身の遺作となった大作「神國日本」(“ Japan: An Attempt at Interpretation ”)の全電子化注を終わっている。

 本篇原本本文は非常にお洒落な造りとなっており、例えば、タイトル・ページの題名は版画風の朱印で、先のページを、一ページめくると判る通り、左右ページの肩(左ページは左肩に、右ページは右肩に)に、それぞれ、朱色で「怪談」の漢字が印刷されてある。

 禁欲的に注を附し、最後に原拠となった一夕散人(いっせきさんじん)作「臥遊奇談(がゆうきだん)の「卷之二」所収の「琵琶祕曲泣幽靈」(「琵琶の祕曲、幽靈を泣かしむ」)のそれ(底本は、まさに八雲が用いたものである)を電子化注しておいた。

 

  耳無芳一の話

 

 七百年以上も昔の事、下ノ關海峽の壇ノ浦で、平家則ち平族と、源氏則ち源族との間の、永い爭ひの最後の戰鬪が戰はれた。此壇ノ浦で平家は、其一族の婦人子供幷びに其幼帝――今日安德天皇として記憶されて居る――と共に、全く滅亡した。さうして其海と濱邊とは七百年間その怨靈に祟られて居た……他の個處[やぶちゃん注:「かしよ」。]で私は其處[やぶちゃん注:「そこ」。]に居る平家蟹といふ不思議な蟹の事を讀者諸君に語った事があるが、それは其背中が人間の顏になつて居り、平家の武者の魂であると云はれて居るのである。しかし其海岸一帶には、澤山不思議な事が見聞[やぶちゃん注:「みきき」と訓じたい。]される。闇夜には幾千となき幽靈火が、水うち際にふはふはさすらふか、若しくは波の上にちらちら飛ぶ――則ち漁夫の呼んで鬼火則ち魔の火と稱する靑白い光りである。そして風の立つ時には大きな叫び聲が、戰の叫喚のやうに、海から聞えて來る。

[やぶちゃん注:「七百年以上も昔の事」「壇ノ浦の戦い」は元暦二/寿永四年三月二十四日(ユリウス暦一一八五年四月二十五日/グレゴリオ暦換算五月二日)で、本書刊行の七百十九年前となる。

「他の個處で私は其處に居る平家蟹という不思議な蟹の事を讀者諸君に語った事がある」既に全電子化注を終えた「骨董」の「平家蟹」を指す。]

 平家の人達は以前は今よりも遙かに焦慮(もが)いて居た。夜、漕ぎ行く船のほとりに立ち顯れ、それを沈めようとし、又水泳する人をたえず待ち受けて居ては、それを引きずり込まうとするのである。これ等の死者を慰めるために建立されたのが、則ち赤間ケ關の佛敎の御寺なる阿彌陀寺であつたが、其墓地も亦、それに接して海岸に設けられた。そして其墓地の內には入水[やぶちゃん注:「じゆすい(じゅすい)」。]された皇帝と、其歷歷の臣下との名を刻みつけた幾箇かの石碑が立てられ、且つそれ等の人々の靈のために、佛敎の法會が其處で整然(ちやん)と行はれて居たのである。この寺が建立され、その墓が出來てから以後、平家の人達は以前よりも禍ひをする事が少くなつた。しかしそれでもなほ引き續いて折折、怪しい事をするのではあつた――彼等が完き平和を得て居なかつた事の證據として。

[やぶちゃん注:「赤間ケ關の佛敎の御寺なる阿彌陀寺」現在の山口県下関市阿弥陀寺町にあった聖寿山阿彌陀寺。赤間関(「下関」の旧称)に貞観元(八五九)年に創建(創建当時は真言宗で、後に浄土宗となったが、江戸時代には、もとの真言宗に戻っている)されたと伝え、建久二(一一九一)年、後鳥羽天皇の勅命により、安徳天皇御影堂が建立され、建礼門院所縁の尼を奉仕させ、平家一門の供養塔も造立された。以後も勅願寺として崇敬を受けたが、明治の神仏分離により、阿弥陀寺は廃されてしまい、安徳天皇を祀る天皇社から赤間宮となり、今の赤間神宮(グーグル・マップ・データ)に変わった経緯がある。現在でも神社の境内に平家一門十四名の供養塔が並ぶ。名前に「盛」の字を含む者が多いことから「七盛塚」とも称する。グーグル画像検索「七盛塚」をリンクさせておく。]

 

 幾百年か以前の事、この赤間ケ關に芳一といふ盲人が住んで居たが、この男は吟誦[やぶちゃん注:「ぎんじゆ(ぎんじゅ)」。]して、琵琶を奏するに妙を得て居るので世に聞えて居た。子供の時から吟誦し、且つ彈奏する訓練を受けて居たのであるが、まだ少年の頃から、師匠達を凌駕して居た。本職の琵琶法師としてこの男は重もに[やぶちゃん注:「おもに」。]、平家及び源氏の物語を吟誦するので有名になつた、そして壇ノ浦の戰[やぶちゃん注:「たたかひ」。]の歌を謠ふと鬼神すらも淚をとどめ得なかつたといふ事である。

 

 芳一は出世の首途(かどで)の際、甚だ貧しかつたが、しかし助けてくれる深切な友があつた。則ち阿彌陀寺の住職といふのが、詩歌や音樂が好きであつたので、度度[やぶちゃん注:「たびたび」。]芳一を寺へ招じて彈奏させ又、吟誦さしたのであつた。後になり住職は此少年の驚くべき技倆に酷く[やぶちゃん注:「ひどく」。]感心して、芳一に寺をば自分の家とするやうにと云ひ出したのであるが、芳一は感謝して此申し出を受納した。それで芳一は寺院の一室を與へられ、食事と宿泊とに對する返禮として、別に用のない晚には、琵琶を奏して、住職を悅ばすといふ事だけが注文されて居た。

 

 或る夏の夜の事、住職は死んだ壇家の家で、佛敎の法會を營むやうに呼ばれたので、芳一だけを寺に殘して納所[やぶちゃん注:「なつしよ(なっしょ)」。寺の会計・庶務を取り扱う下級僧。]を連れて出て行つた。それは暑い晚であつたので、盲人芳一は涼まうと思つて、寢間の前の緣側に出て居た。この緣側は阿彌陀寺の裏手の小さな庭を見下して居るのであつた。芳一は住職の歸來を待ち、琵琶を練習しながら自分の孤獨を慰めて居た。夜半も過ぎたが、住職は歸つて來なかつた。しかし空氣はまだ中中[やぶちゃん注:「なかなか」。]暑くて、戶の內ではくつろぐわけには行かない、それで芳一は外に居た。やがて、裏門から近よつて來る跫音が聞えた。誰れかが庭を橫斷して、緣側の處へ進みより、芳一のすぐ前に立ち止つた――が、それは住職ではなかつた。底力[やぶちゃん注:「そこぢから」。]のある聲が盲人の名を呼んだ――出し拔けに、無作法に、丁度、侍が下下(したじた)を呼びつけるやうな風に――

 『芳一!』

 芳一はあまりに吃驚(びつくり)して暫くは返事も出なかつた、すると、その聲は嚴しい命令を下すやうな調子で呼ばはつた――

 『芳一!』

 『はい!』と威嚇する聲に縮み上つて盲人は返事をした――『私は盲目で御座います!――何誰(どなた)がお呼びになるのか解りません!』

 見知らぬ人は言葉をやはらげて言ひ出した、『何も恐はがる事はない、拙者はこの寺の近處に居るもので、お前の許(とこ)へ用を傳へるやうに言ひつかつて來たものだ。拙者の今の殿樣と云ふのは、大した高い身分の方で、今、澤山立派な供をつれてこの赤間ケ關に御滯在なされて居るが、壇ノ浦の戰場を御覽になりたいといふので、今日、其處を御見物になつたのだ。處で[やぶちゃん注:「ところで」。]、お前がその戰爭(いくさ)の話を語るのが、上手だという事をお聞きになり、お前のその演奏をお聞きになりたいとの御所望である、であるから、琵琶をもち卽刻拙者と一緖に尊い方方の待ち受けて居られる家へ來るが宜い[やぶちゃん注:「よい」。]』

 當時、侍の命令と云へば容易に、反く[やぶちゃん注:「そむく」。]わけには行かなかつた。で、芳一は草履をはき琵琶をもち、知らぬ人と一緖に出て行つたが、其人は巧者に[やぶちゃん注:「こうしやに(こうしゃに)」。非常に手慣れた感じで。器用に。但し、ここは後の続きを見るに、「ちゃっちゃと素早く」の謂いであろう。]芳一を案內して行つたけれども、芳一は餘程急ぎ足で步かなければならなかつた。また手引きをしたその手は鐵のやうであつた。武者の足どりのカタカタいふ音はやがて、その人が悉皆(すつかり)甲冑[やぶちゃん注:「よろいかぶと」と訓じておく。]を著けて居る事を示した――定めし何か殿居(とのゐ)の衞士ででもあらうか、芳一の最初の驚きは去つて、今や自分の幸運を考へ始めた――何故かといふに、此家來の人の「大した高い身分の人」と云つた事を思ひ出し、自分の吟誦を聞きたいと所望された殿樣は、第一流の大名に外ならぬと考へたからである。やがて侍は立ち止つた。芳一は大きな門口に達したのだと覺つた――處で、自分は町のその邊には、阿彌陀寺の大門を外にしては、別に大きな門があつたとは思はなかつたので不思議に思つた。「開門!」と侍は呼ばはつた――すると閂[やぶちゃん注:「かんぬき」。]を拔く音がして、二人は這入つて行つた。二人は廣い庭を過ぎ再び或る入口の前で止つた。其處で此武士は大きな聲で「これ誰れか內のもの! 芳一を連れて來た」と叫んだ。すると急いで步く跫音、襖のあく音、雨戶の開く音、女達の話し聲などが聞えて來た。女達の言葉から察して、芳一はそれが高貴な家の召使である事を知つた。しかしどういふ處へ自分は連れられて來たのか見當が付かなかつた。が、それを兎に角考へて居る間もなかつた。手を引かれて幾箇かの石段を登ると、其一番最後(しまひ)の段の上で、草履をぬげと云はれ、それから女の手に導かれて、拭(ふ)き込んだ板鋪[やぶちゃん注:「いたじき」。ここは廊下。]のはてしのない區域を過ぎ、覺え切れないほど澤山な柱の角を𢌞り、驚くべきほど廣い疊を敷いた床を通り――大きな部屋の眞中に案內された。其處に大勢の人が集つて居たと芳一は思つた。絹のすれる音は森の木の葉の音のやうであつた。それから又何んだかガヤガヤ云つて居る大勢の聲も聞えた――低音で話して居る。そしてその言葉は宮中の言葉であつた。

 芳一は氣樂にして居るやうにと云はれ、座蒲團が自分のために備へられて居るのを知つた。それでその上に座を取つて、琵琶の調子を合はせると、女の聲が――その女を芳一は老女則ち女のする用向きを取り締る女中頭と判じた――芳一に向つてかう言ひかけた――

 『只今、琵琶に合はせて、平家の物語を語つて戴きたいといふ御所望に御座います』

 さてそれを悉皆[やぶちゃん注:「すつかり」。]語るのには幾晚もかかる、それ故芳一は進んでかう訊ねた――

 『物語の全部は、一寸[やぶちゃん注:「ちよつと(ちょっと)」。]は語られませぬが、何(ど)の條下(くさり)[やぶちゃん注:「一齣(ひとくさり)」。謡い物・語り物などの一段落のこと。]を語れといふ殿樣の御所望で御座いますか?』

 女の聲は答へた――

 『壇ノ浦の戰(いくさ)の話をお語りなされ――その一條下(ひとくさり)が一番哀れの深い處で御座いますから』

 芳一は聲を張り上げ、烈しい海戰[やぶちゃん注:「うみいくさ」と訓じておく。]の歌をうたつた――琵琶を以て、或は橈[やぶちゃん注:「かい」。「櫂」に同じい。]を引き、船を進める音を出さしたり、はツしと飛ぶ矢の音、人々の叫ぶ聲、足踏みの音、兜にあたる刅 [やぶちゃん注:「やいば」。底本は右手の点がない字体。]の響き、海に陷る[やぶちゃん注:「おちいる」。]打たれたもの音等を、驚くばかりに出さしたりして。その演奏の途切れ途切れに、芳一は自分の左右に、賞讚の囁く聲を聞いた、――「何といふ巧(うま)い琵琶師だらう!」――「自分達の田舍ではこんな琵琶を聽いた事がない!」――「國中に芳一のやうな謠ひ手はまたとあるまい!」すると一層勇氣が出て來て、芳一は益〻うまく彈き且つ謠つた。そして驚きのため周圍は森[やぶちゃん注:「しん」。]としてしまつた。しかし終りに美人弱者の運命――婦人と子供との哀れな最期――雙腕に幼帝を抱き奉つた二位の尼の入水を語つた時には――聽者は悉く皆一樣に、長い長い戰(をのの)き慄へる苦悶の聲をあげ、それから後といふもの一同は聲をあげ、取り亂して哭き悲しんだので、芳一は自分の起こさした悲痛の强烈なのに驚かされた位であつた。暫くの間はむせび悲しむ聲が續いた。しかし、徐ろに哀哭の聲は消えて、又それに續いた非常な靜かさの內に、芳一は老女であると考へた女の聲を聞いた。

 その女はかう云つた――

 『私共は貴方が琵琶の名人であつて、又謠ふ方[やぶちゃん注:「はう」。]でも肩を竝べるもののない事は聞き及んで居た事では御座いますが、貴方が今晚御聽かせ下すつたやうなあんなお腕前をお有ち[やぶちゃん注:「おもち」。]になろうとは思ひも致しませんでした。殿樣には大層御氣[やぶちゃん注:「ごき」。]に召し、貴方に十分な御禮を下さる御考へである由を御傳へ申すやうにとの事に御座います。が、これから後六日の間每晚一度づつ殿樣の御前(ごぜん)で演奏(わざ)をお聞きに入れるやうとの御意に御座います――その上で殿樣には多分御歸りの旅に上られる事と存じます。それ故明晚も同じ時刻に、此處へ[やぶちゃん注:「ここへ」。]御出向きなされませ。今夜、貴方を御案內いたしたあの家來が、また、御迎へに參るで御座いませう……それからも一つ貴方に御傳へするやうに申しつけられた事が御座います。それは殿樣がこの赤間ケ關に御滯在中、貴方がこの御殿に御上りになる事を誰れにも御話しにならぬようとの御所望に御座います。殿樣には御忍びの御旅行ゆゑ、斯樣な事は一切口外致さぬやうにとの御上意によりますので。……只今、御自由に御坊に御歸り遊ばせ』

 

 芳一は感謝の意を十分に述べると、女に手を取られてこの家の入口まで來、其處には前に自分を案內してくれた同じ家來が待つて居て、家につれられて行つた。家來は寺の裏の緣側の處まで芳一を連れて來て、そこで別れを告げて行つた。

 

 芳一の戾つたのはやがて夜明けであつたが、その寺をあけた事には、誰れも氣が付かなかつた――住職は餘程遲く歸つて來たので、芳一は寢て居るものと思つたのであつた。晝の中芳一は少し休息する事が出來た。そして其不思議な事件に就いては一言もしなかつた。翌日の夜中に侍が又芳一を迎へに來て、かの高貴の集りに連れて行つたが、其處で芳一はまた吟誦し、前囘の演奏が贏ち得た[やぶちゃん注:「かちえた」。「勝ち得た」に同じい。]その同じ成功を博した。然るにこの二度目の伺候中、芳一の寺をあけて居る事が偶然に見つけられた。それで朝戾つてから芳一は住職の前に呼びつけられた。住職は言葉やはらかに叱るやうな調子でかう言つた、――

 『芳一、私共はお前の身の上を大變心配して居たのだ。目が見えないのに、一人で、あんなに遲く出かけては險難[やぶちゃん注:「けんのん」と読みたい。]だ。何故、私共にことわらずに行つたのだ。さうすれば下男に供をさしたものに、それから又何處へ行つて居たのかな』

 芳一は言ひ逭れる[やぶちゃん注:「のがれる」。]やうに返事をした――

 『和尙樣、御免下さいまし! 少々私用が御座いまして、他の時刻にその事を處置する事が出來ませんでしたので』

 住職は芳一が默つて居るので、心配したといふより寧ろ驚いた。それが不自然な事であり、何かよくない事でもあるのではなからうかと感じたのであつた。住職は此盲人の少年が或は惡魔につかれたか、或は騙されたのであらうと心配した。で、それ以上何も訊ねなかつたが、密かに寺の下男に旨をふくめて、芳一の行動に氣をつけて居り、暗くなつてから、また寺を出て行くやうな事があつたなら、その後を跟ける[やぶちゃん注:「つける」。]やうにと云ひつけた。

 

 すぐその翌晚、芳一の寺を脫け出して行くのを見たので、下男達は直ちに提燈をともし、その後を跟けた。然るにそれが雨の晚で非常に暗かつた爲め、寺男が道路へ出ない內に、芳一の姿は消え失せてしまつた。正しく[やぶちゃん注:「まさしく」。]芳一は非常に早足で步いたのだ――その盲目な事を考へてみるとそれは不思議な事だ、何故かと云ふに道は惡るかつたのであるから。男達は急いで町を通つて行き、芳一がいつも行きつけて居る家へ行き、訊ねて見たが、誰れも芳一の事を知つて居るものはなかつた。しまひに、男達は濱邊の方の道から寺へ歸つて來ると、阿彌陀寺の墓地の中に、盛んに琵琶の彈じられて居る音が聞えるので、一同は吃驚した[やぶちゃん注:「びつくりした」。]。二つ三つの鬼火――暗い晚に通例其處にちらちら見えるやうな――の外、そちらの方は眞暗[やぶちゃん注:「まつくら」。]であつた。しかし、男達はすぐに墓地へと急いで行つた、そして提燈の明かりで、一同はそこに芳一を見つけた――雨の中に、安德天皇の記念の墓の前に獨り坐つて、琵琶をならし、壇ノ浦の合戰の曲を高く誦して[やぶちゃん注:「じゆして(じゅして)」。]。その背後(うしろ)と周圍(まはり)と、それから到る處澤山の墓の上に死者の靈火が蠟燭のやうに燃えて居た。未だ嘗て人の目にこれほどの鬼火が見えた事はなかつた……

 『芳一さん!――芳一さん!』下男達は聲をかけた[やぶちゃん注:句読点なしはママ。]『貴方は何かに魅(ばか)されて居るのだ!……芳一さん!』

 しかし盲人には聞えないらしい。力を籠めて芳一は琵琶を錚錚嘎嘎[やぶちゃん注:「さうさうかつかつ(そうそうかつかうつ)」。「錚錚」は「楽器の音が冴えて響くさま」。「嘎嘎」は擬音語で、短くてよく透る音を表わす。「きいっ!」「がきっ!」という感じ。]と鳴らして居た――益〻烈しく壇ノ浦の合戰の曲を誦した。男達は芳一をつかまへ――耳に口をつけて聲をかけた――

 『芳一さん!――芳一さん!――すぐ私達と一緖に家にお歸んなさい!』

 叱るやうに芳一は男達に向つて云つた――

 『この高貴の方方の前で、そんな風に私の邪魔をするとは容赦はならんぞ』

 事柄の無氣味なに拘らず、これには下男達も笑はずには居られなかつた。芳一が何かに魅(ばか)されて居たのは確かなので、一同は芳一を捕(つかま)へ、その身體(からだ)をもち上げて起たせ、力まかせに急いで寺へつれ歸つた――其處で住職の命令で、芳一は濡れた著物を脫ぎ、新しい著物を著せられ、食べものや、飮みものを與へられた。其上で住職は芳一のこの驚くべき行爲を是非十分に說き明かす事を迫つた。

 芳一は長い間それを語るに躊躇して居た。しかし、遂に自分の行爲が實際、深切な住職を驚かし且つ怒らした事を知つて、自分の緘默[やぶちゃん注:「かんもく」。]を破らうと決心し、最初、侍の來た時以來、あつた事を一切物語つた。

 すると住職は云つた……

 『可哀そうな男だ。芳一、お前の身は今大變に危ふいぞ! もつと前にお前がこの事を悉皆(すつかり)私に話さなかつたのは如何にも不幸な事であつた! お前の音樂の妙技がまつたく不思議な難儀にお前を引き込んだのだ。お前は決して人の家を訪れて居るのではなくて、墓地の中に平家の墓の間で、夜を過して居たのだといふ事に、今はもう心付かなくてはいけない――今夜、下男達はお前の雨の中に坐つて居るのを見たが、それは安德天皇の記念の墓の前であつた。お前が想像して居た事はみな幻影(まぼろし)だ――死んだ人の訪れて來た事の外は。で、一度死んだ人の云ふ事を聽いた上は、身をその爲(す)るがままに任したといふものだ。若しこれまであつた事の上に、またも、その云ふ事を聽いたなら、お前は其人達に八つ裂きにされる事だらう。しかし、何れにしても早晚、お前は殺される……處で、今夜私はお前と一緖に居るわけに行かぬ。私は又一つ法會をするやうに呼ばれて居る。が、行く前にお前の身體を護るために、その身體に經文を書いて行かなければなるまい』

 

 日沒前住職と納所とで芳一を裸にし、筆を以て二人して芳一の、胸、背、頭、顏、頸、手足――身體中何處と云はず、足の裏にさへも――般若心經といふお經の文句を書きつけた。それが濟むと、住職は芳一にかう言ひつけた。――

 『今夜、私が出て行つたらすぐに、お前は緣側に坐つて、待つていなさい。すると迎へが來る。が、どんな事があつても、返事をしたり、動いてはならぬ。口を利かず靜かに坐つて居なさい――禪定に入つて居るやうにして。若し動いたり、少しでも聲を立てたりすると、お前は切りさいなまれてしまふ。恐(こ)はがらず、助けを呼んだりしようと思つてはいかぬ。――助けを呼んだ處で助かるわけのものではないから。私が云ふ通りに間違ひなくして居れば、危險は通り過ぎて、もう恐はい事はなくなる』

[やぶちゃん注:「納所」「なつしよ(なっしょ)」と読み、寺の会計や雑務を扱う下級の僧。「納所ぼん」とも呼ぶ。本来は、禅寺の役職名であったが、江戸時代には、他宗でも広く用いられた。

「禪定」(ぜんじやう(ぜんじょう))は、身体を安静に保ち、心静かに人間本来の姿を瞑想すること。心を一つに集中させ、動揺させない修行法。所謂、「座禪」と同じい。「禪」はサンスクリットの「ディヤーナ」の漢音写で、「定」は、以上の修行行為の意味を示す。古代インドでは、仏教以前から広く行われていた修行法の一つであるが、仏教に於ける最も代表的な修行法となった。]

 

 日が暮れてから、住職と納所とは出て行つた、芳一は言ひつけられた通り緣側に座を占めた。自分の傍の板鋪の上に琵琶を置き、入禪の姿勢をとり、じつと靜かにして居た――注意して咳もせかず、聞えるやうには息もせずに。幾時間もかうして待つて居た。

 すると道路の方から跫音のやつて來るのが聞えた。跫音は門を通り過ぎ、庭を橫斷り、緣側に近寄つて止つた――すぐ芳一の正面に。

 『芳一!』と底力のある聲が呼んだ。が盲人は息を凝らして、動かずに坐つて居た。

 『芳一!』と再び恐ろしい聲が呼ばはつた。ついで三度――兇猛な聲で――

 『芳一』

 芳一は石のやうに靜かにして居た――すると苦情を云ふやうな聲で――

 『返事がない!――これはいかん!……奴、何處に居るのか見てやらなけれやア』……

 緣側に上る重もくるしい跫音がした。足はしづしづと近寄つて――芳一の傍に止つた。それから暫くの間――その間、芳一は全身が胸の鼓動するに連れて震へるのを感じた――全く森閑としてしまつた。

 遂に自分のすぐ傍(そば)であらあらしい聲がかう云ひ出した――『此處に琵琶がある、だが、琵琶師と云つては――只その耳が二つあるばかりだ!……道理で返事をしない筈だ、返事をする口がないのだ――兩耳の外、琵琶師の身體は何も殘つて居ない……よし殿樣へこの耳を持つて行かう――出來る限り殿樣の仰せられた通りにした證據に……』

 その瞬時に芳一は鐵のやうな指で兩耳を摑まれ、引きちぎられたのを感じた! 痛さは非常であつたが、それでも聲はあげなかつた。重もくるしい足踏みは緣側を通つて退いて行き――庭に下り――道路の方へ通つて行き――消えてしまつた。芳一は頭の兩側から濃い温いものの滴つて來るのを感じた。が、敢て兩手を上げる事もしなかつた……

 

 日の出前に住職は歸つて來た。急いですぐに裏の緣側の處へ行くと、何んだかねばねばしたものを踏みつけて滑り、そして慄然(ぞつ)として聲をあげた――それは提燈の光りで、そのねばねばしたものの血であつた事を見たからである。しかし、芳一は入禪の姿勢で其處に坐つて居るのを住職は認めた――傷からはなほ血をだらだら流して。

 『可哀そうに芳一!』と驚いた住職は聲を立てた――『これはどうした事か……お前、怪我をしたのか』……

 住職の聲を聞いて盲人は安心した。芳一は急に泣き出した。そして、淚ながらにその夜の事件を物語つた。『可哀そうに、可哀そうに芳一!』と住職は叫んだ――『みな私の手落ちだ!――酷い私の手落ちだ!……お前の身體中くまなく經文を書いたに――耳だけが殘つて居た! 其處へ經文を書く事は納所に任したのだ。處で納所が相違なくそれを書いたか、それを確かめて置かなかつたのは、重重[やぶちゃん注:「ぢゆうぢゆう(じゅうじゅう)」。]私が惡るかつた!……いや、どうもそれはもう致し方のない事だ――出來るだけ早く、その傷を治(なほ)すより仕方がない……芳一、まア喜べ!――危險は今全く濟んだ。もう二度とあんな來客に煩はされる事はない』

 

 深切な醫者の助けで、芳一の怪我は程なく治つた。この不思議な事件の話は諸方に廣がり、忽ち芳一は有名になつた。貴い人々が大勢赤間ケ關に行つて、芳一の吟誦を聞いた。そして芳一は多額の金員[やぶちゃん注:「きんゐん」。金銭。]を贈り物に貰つた――それで芳一は金持ちになつた……しかし此事件のあつた時から、この男は耳無芳一という呼び名ばかりで知られて居た。

 

[やぶちゃん注:本話の原拠は天明二(一七一二)年板行された一夕散人(詳細事蹟不祥)作の読本「臥遊奇談」(板元は京都)の「卷之二」の巻頭にある「琵琶祕曲泣幽靈」(琵琶の祕曲、幽靈を泣かしむ)である。但し、類話に、それに先行する延宝五(一六七七)年板行の荻田安静編著の「宿直草(とのゐぐさ)」の「第十一 小宰相の局幽靈の事」があるので見られたい(私は「宿直草」を総て電子化注している)。その注で解説しているように、「臥遊奇談」のそれは、この「宿直草」の影響を明らかに受けて書かれたものであるとされているからである。

 底本は富山大学の「ヘルン文庫」(PDF)のもの(挿絵有り)を用いたが、読みは振れそうなもののみに留めた。読み易く句読点・記号・濁点を添え、段落も作った。歴史的仮名遣の誤りはママ。字体も正確に転写し、正字か、異体字か、迷ったものは正字を採用した。踊り字「〱」「〲」は正字化した。

   *

     琵琶祕曲泣幽霊

 長州赤間關は古(いにしへ)源平戰爭の地にして、千載(せんざい)の遺恨をとゞむ。幽魂、長く消(せう)する事能はず、月明(あきら)かなれば、海面にあやしき声をきゝ、雨しきる夜(よ)は、平砂(へいさ)[やぶちゃん注:砂浜。]に鬼火を飛(とば)す。

 後世にいたつて一宇を建立し、幽㚑[やぶちゃん注:「靈」の異体字。]を慰(い)する。其名を「阿弥陀寺」と名づく。一門の縉紳(しんじん)[やぶちゃん注:普通は清音「しんしん」。「縉」は「挿」、「紳」は「帯」の意で、官位にある者の象徴である笏を「帯」に「挿」していた官吏を指す。ここは高位高官。]及び兵士多少の古墳を連ぬ。

 爰(こゝ)に阿弥陀寺の近邊に瞽者(こしや/めしゐ[やぶちゃん注:後者は左側に配された訓読み(意味読み)。後も同じ。])あり、「芳一」といふ。幼少より琵琶に習熟して、長ずるに隨ひ、其妙を極む。三位伯雅(さんみはくが)の昔を悲しみ、關(せき)の蝉丸の面影をうつして、明(あけ)て彈じ、暮(くれ)てかきならす。其頃、世に稱じて「芳一が平家をかたるや、人をして感泣せしめ、鬼神(きしん)を動かす」とぞ、もてはやしける。

[やぶちゃん注:「三位伯雅」「伯」は「博」の誤りで、平安中期の公卿で雅楽家の源博雅(ひろまさ 延喜一八(九一八)年~天元三(九八〇)年)のこと。醍醐天皇の第一皇子兵部卿克明(よしあきら)親王の長男。官位は従三位・皇后宮権大夫。博雅三位(はくがのさんみ)と呼ばれた、管絃の名手。琵琶の名器「玄象(げんじょう)」を羅城門から探し出したことでも知られる。

「關の蝉丸」(生没年不詳)は「百人一首」で知られる彼平安前中期の歌人。ウィキの「蝉丸」によれば、盲目で『あり』、『琵琶の名手という伝承』『から、仁明天皇の第四宮人康親王と同一人物という説もある』「平家物語」の巻十の「海道下り」では、『醍醐天皇の第四宮として山科の四宮河原に住んだとあり、平家を語る琵琶法師・盲僧琵琶の職祖とされている』とあり、また、前の源博雅は、三年間、彼の下に通い続けて、遂に琵琶の秘曲「流泉(りゅうせん)」・「啄木(たくぼく)」を伝授されたとも言われる。]

 又、阿弥陀寺の住職和尚、常に是を賞じて、彼を寺中に滯留せしめ、琵琶を弾(だん)ぜしむる事、連夜。

 一日、和尚、法務によつて他に出らるに當つて、芳一、暑威(しよゐ)をさけんがため、客殿の椽上(ゑんじやう)に獨座し、琵琶を弾じけるに、夜(よ)、深更に及(およん)で、門外、人、あり、內に入て、椽下(ゑんか)に立(たち)、

「芳一、芳一。」

と、呼ぶにぞ、撥(ばち)をとゞめて、

「誰(たれ)にてわたり候や。」

と問へば、

「くるしからず。近邊の者なるが、去(さ)る縉紳の御方、歌枕に事寄(よせ)られ、檀[やぶちゃん注:ママ。]の浦の陣跡(ぢんせき)をさぐらせられんが爲、此地に遊歷まし、宿を近邊に投ぜらる。しかるに、汝が琵琶端正(たんえい/とくゐ)を極(きはむ)るの旨、風說あれば、こよひの御つれづれ、御旅館に召さしむ。我に從ひ來るべし。」

と。

 芳一、心に思ひけるは、

『かゝる高貴の御方、我を召出さるこそ、道(みち)の冥加に叶ひたるといふべし。』

と、自(みづか)ら悅び、つゐに、其人に從ひ出行に、やがて一つの門を過(すぎ)て、殿中にいたり、

「芳一こそ召(めさ)れ候ひき。」

と云(いひ)入給へば、官女とおぼしく、多く立出、手を取て一間(ま)に入。

 是、高貴の御座所(ござどころ)とおぼしく、左右、相つゝしんで、物云、ものなし。

 しばらく有て、老女の聲にて、

「平家を語り、琵琶を弾ずべし。」

との命あるにぞ、

「いづれの卷(まき)をか語り申べし。」

と伺ふに、

「所がら、檀の浦合戰の篇こそ、あはれも深からめ。」

と有により、已(すで)に曲を奏すれば、初めのほどは、左右、たゞ感賞し給ふ声の、

「ひそひそ。」

と聞へぬるが、「一門入水(じゆすい)」の篇にいたりて、男女、感泣して、其声、しばしは、やまざりけり。

 已にして曲終れば、又、老女、芳一にむかひ、

「汝が妙手、甚(はなはだ)感じおぼし召。追(おつ)て賜物も有べき間(あひだ)、是より又、六夜、御旅館にいたるべし。世間をはゞかり給ふ御身なれば、かたく他にもらし申べからず。」

と、御暇(いとま)を給はり、以前の武士に引進(あんない)せられて、寺內へぞ、かへりける。

 翌晚も召されて、夜ふけて歸れば、寺中、是をあやしみ、和尚に、

「かく。」

と告(つぐ)るにぞ、頓(やが)て芳一を呼出し、

「毎夜、いづくへ行しや。」

と尋(たづね)らるれども、

「たゞ、所用あつて、他出(たしゆつ)致候。」

とて、申さざりければ、

「今夜も又、如此(かくのごとく)出去(いでさ)らば、其後(あと)を認尋(みとめたづぬ)べし。」

と。

 衆僧、芳一が出去るを待(まち)、案のごとく、夜に至つて、芳一が見へざれば、衆憎・下部(しもべ)にいたるまで、村落・境內(けいだい)、搜索(そうさく/さかしもとむ)するに、今夜は、こと、雨ふりて、例の鬼火(きくは)、四方に飛(とび)さり、いとゞ淋しき夜のみちなど、

「近邊にあらんや。」

と、みなみな、精もつきぬる比(ころ)、はるかに琵琶の聲の聞へければ、これをしたひて、一所(しよ)にいたるに、安德帝御陵(みさゝぎ)の御前に、芳一、琵琶を弾じて座す。

「扨、こそ。」

と、大勢よりかゝり、

「汝、決して狐狸の爲に化(ばか)されし物成べし。」

と罵れば、芳一、声をひそめ、

「御前なるぞ。みだりに來り給ふべからず。」

と、制す。

 衆僧、大に笑ひて、理不盡に芳一をとらへ、寺に歸つて、和尚に偈(ゑつ)[やぶちゃん注:ママ。「謁」が正しい。]し、件(くだん)の趣(おもむき)を申せば、和尚、芳一に向ひ、

「いかゞして、かやうの所にはいたりけるぞ。」

と尋らるれども、たゞ首をたれて有無のこたへ、なし。

 和尚、色を變じて、盤詰(ぎんみ)[やぶちゃん注:本来は「ばんきん」で、これは「詰問」と同義なので、「吟味」を当て訓したもの。]あれば、やむ事を得ず、初よりの次㐧を語る。

 和尚、大に驚き、

「是、必定(ひつじやう)、幽魂、汝が名曲を賞じ、すかして弾(ひか)せしむる成べし。汝、連夜、彼地に至らば、恐らくは、陽氣陰氣に壓(おさ)れて命(めい)を害するに及(およぶ)べし。」

 芳一、これを聞て、色、靑ざめ、後悔す。

 和尚、良(やゝ)久しく計較(けいかう/しあん[やぶちゃん注:思案。])して、

「うれふることなかれ。これをまぬかる一計(けい)あり。汝、宜(よろし)く我(わが)言(ことば)を用ゆべし。背(そむ)かば、命(めい)を落すならん。」

と、芳一を裸體にして、和尚、自筆をとり、又、衆僧にも命じ、芳一が身に明所(あきどころ)なく、「般若心經」を書せしむ。

 寫(うつ)し卒(おはつ)て、

「汝、今夜、例の通り、琵琶を弾ずべし。いかやうの怪事ありとも言葉を發する事なかれ。」

と、得(とく)と云含め、其儘、客殿の椽上に座さしめ、和尚をはじめ、衆僧は、みな、おのれおのれ龍(りやう)象窟へ引取り、尚、やうすをぞ待居ける。

[やぶちゃん注:「龍象窟」「龍象」は「りゆうざう(りゅうぞう)・りやうざう(りょうぞう)」で、高徳の優れた人物を、「龍」と「象」に喩えたものであって、多く、「聖者」「高僧」の意に用いるが、単に僧の敬称としても用いるので、各人の僧の自室のことである。]

 芳一は、命にしたがひ、ひたすら、おしかへし、曲を奏しけるに、深更に至つて、例のごとく、

「芳一、芳一。」

と呼ぶ。

『ここぞ。』

と、直(すぐ)に、琵琶をさし置(おき)、默然(もくねん)として、ひそみ居けるに、此人、椽下に至り、

「あやしむべし。声なし。」

と、直(ぢき)に殿にのぼり、

「いつも此所に座(ざ)しぬるに、今夜、いかなれば其人、なし。只、兩耳のみ、おとしけるぞ。知覺がたし[やぶちゃん注:「しりおぼえがたし」。]。此耳を證見(しやうこ)[やぶちゃん注:ママ。]に上へ訴へ申べし。」

と、兩の耳朶(みゝたぶ)に諸手(もろて)をかけ、何氣なく引ちぎり、殿を下つて、出去りぬ。

 芳一は耳朶(しくはく/みゝのぐるり)を割落(そぎおと)され、いたみにたへずといへども、猶、忍びてゐけるに、夜も明ぬる比おひ、和尚、衆僧を召具し、客殿に出て、

「芳一は、いかゞしけるぞ。」

と椽上をみれば、血、流れて、板を染む。

「憐むべし、命(めい)をおとしけるや。」

と此所に至れば、芳一、兩耳をかゝへ、忍び泣(なき)に哭(こく)しける。

 和尙の來(きたり)給ふを聞(きゝ)て、

「あ。」

と、叫びけるを、和尙、

「我なるぞ。氣をたしかに持(もつ)べし。」

とあれば、初(はじめ)て人心付。

 此時、和尙、次第を尋らるゝに、耳を取られし始末(しまつ/はじめおはり)をかたりければ、和尙、大きにあきれ、

「我、誤つて耳を落して經文を書せず、汝にかゝる難をかけたり。しかれ共、今より後(のち)、來るまじければ、命(めい)恙(つゝが)なかるべし。」

と示して、尚、芳一に養生を加へられけるに、其後(そののち)、寺中、夜更(よふけ)て芳一を呼ぶ者、なし。

 あやふき命を拾ひける。

 琵琶は、尚々、妙をきはめて、世に「耳きれ芳一が琵琶」と称じけるとぞ。

   *

 最後に、一九七八年恒文社刊「小泉八雲」の八雲の妻小泉セツ(明治二四(一八九一)年~明治三七(一九〇四)年:小泉八雲より十八歳下)さんの「思い出の記」(新字新仮名)から引用する。なんと、素敵なエピソードである……

   *

 『怪談』の初めにある芳一の話は大層ヘルンの気に入った話でございます。なかなか苦心いたしまして、もとは短い物であったのをあんなにいたしました。「門を開け」と武士が呼ぶところでも「門を開け」では強みがないというので、いろいろ考えて「開門」といたしました。この『耳なし芳一』を書いています時のことでした。日が暮れてもランプをつけていません。私はふすまを開けないで次の間から、小さい声で、芳一芳一と呼んで見ました。「はい、私は盲目です、あなたはどなたでございますか」と内から云って、それで黙っているのでございます。いつも、こんな調子で、何か書いている時には、そのことばかりに夢中になっていました。またこの時分私は外出したおみやげに、盲法師の琵琶を弾じている博多人形を買って帰りまして、そっと知らぬ顔で、机の上に置きますと、ヘルンはそれを見るとすぐ「やあ、芳一」と云って、待っている人にでも遇ったという風で大喜びでございました。それから書斎の竹籔で、夜、笹の葉ずれがサラサラといたしますと「あれ、平家が亡びて行きます」とか、風の音を聞いて「壇の浦の波の音です」と真面目に耳をすましていました。

   *]

小泉八雲「怪談」(戶川明三・大谷正信・田部隆次共譯)始動 / 原序

 

[やぶちゃん注:本書は明治三七(一九〇四)年四月にボストン及びニュー・ヨークの「ホートン・ミフリン社」(BOSTON AND NEW YORK HOUGHTON MIFFLIN COMPANY)から出版された、恐らく小泉八雲の著作の中で最も日本で愛されている作品集「怪談」(原題“ KWAIDAN: Stories and Studies of Strange Things ”。来日後の第十作品集)である。なお、小泉八雲はこの年の九月二十六日に五十四歳で心臓発作により急逝した。

 同作品集はInternet Archive”のこちらで全篇視認でき(リンク・ページは挿絵(キャプションは“BLOWING HER BREATH UPON HIM”(「彼に彼女の息を吹きかけている」で「雪女」の一節)と扉標題。以下に示した原序原文部はここから。)、活字化されたものは“Project Gutenberg”のこちらで全篇が読める(原序は冒頭の“INTRODUCTION”の後にある)。

 底本は上記英文サイト“Internet Archive”のこちらにある画像データをPDFで落し、視認した。これは第一書房が昭和一二(一九三七)年一月に刊行した「家庭版小泉八雲全集」(全十二巻)の第八巻全篇である。★【2025年3月27日底本変更・前注変更】時間を経て、国立国会図書館デジタルコレクションに本登録し、現行では、以上の第一書房版昭和六(一九三一)年一月に刊行した「學生版小泉八雲全集」(全十二巻)の第七巻が、国立国会図書館デジタルコレクションで公開されてある。(リンクは扉だが、「學生版」の文字はない。しかし、奥附を見て貰うと『學生版 【第二囘豫約】』とあり、『昭和六年一月十日 發行』とあることが確認出来る)、これが、前掲の底本と同じものであるが、やはり、外国のサイトのそれを底本とするのは、日本人小泉八雲に失礼であると考えた。されば、こちらで、再度、以下の「骨董」の作品群を改めて校正することとする。これが――私の小泉八雲への「義」――である。なお、之よりも前の元版の全集等が先行しているものの、私がそれらと比べた結果、実は先行する同社の「小泉八雲全集」のそれらは、訳が一部で異なっており、訳者等によって、かなりの補正・追加がされていることが、今回の正字補正作業の中で、はっきりと判って来た。いや、同じ「家庭版」と名打ったネット上の画像データでも、驚いたことに、有意に異なっていたのである。そうした意味でも――完全な仕切り直しの総点検――が必要であると決したものである。従って、旧前振りの括弧・鍵括弧の問題も、拡大とガンマ補正で確認し、正確を期する。新底本の扉(標題)はここで、本「序」はここから。

 なお、この原序は誰が訳したものか不明である。最初の「耳無芳一」は戸川明三訳であるが、「怪談」の大半を訳しているのは田部隆次で、底本巻末の「怪談」の解説を担当しているのも田部であるから、私は田部による訳ではないかと推定している。]

 

 

   怪 談

      不 思 議 な 事 の 硏 究 と 物 語

 

 

  原 序

 

 次の怪談の多くは、「夜窻鬼談」、「佛敎百科全書」、「古今著聞集」、「玉すだれ」、「百物語」のやうな古い日本の書物から取つたものである。そのうち支那から來たらしいものもある。たとへば甚だ珍らしい「安藝之助の夢」の如きは明かにもとは支那のものである。しかし日本の作者は、いつもその借りたものの形と色とを變へて、それを歸化させて居る。……一つ妙な話、「雪女」は、西多摩郡調布の或農夫が、その土地の傳說として、私に聞せてくれたものである。日本の書物に出て居るか、どうか私は知らない、しかしそこに書いてある異常な信仰はたしかに日本の各地に、種々の珍らしい形式で存在してゐたものである。……「力ばか」の事件は實際の經驗である。私は話した人が云つた性だけを變へて、あとはそれを殆んどそのまま書いた。

 日本 東京 一九〇四年一月二十日。 L・H・ㅤㅤㅤ      

 

[やぶちゃん注:「原序」などという英文標題は原文にはない。

「夜窻鬼談」「窻」は「窓」の異体字。漢学者(絵もよくした)石川鴻斎(天保四(一八三三)年~大正七(一九一八)年)が明治二二(一八九九)年九月に刊行した全篇漢文(訓点附き)の怪奇談集。国立国会図書館デジタルコレクションのこちらで全篇を画像で読める。富山大学の「ヘルン文庫」の小泉八雲旧蔵本はこちらでダウン・ロード(PDF)出来る(以下旧蔵本は同じ)。

「佛敎百科全書」大分出身の真宗大谷派の僧長岡乗薫(じょうくん)編の「通俗仏教百科全書」(開導書院・明治二三(一八九〇)年刊)。但し、これは江戸前期の真宗僧明伝(みょうでん 寛永九(一六三二)年~宝永六(一七〇九)年)の編になる「百通切紙」(全四巻。「淨土顯要鈔」とも称する。延宝九(一六八一)年成立、天和三(一六八三)年板行された。浄土真宗本願寺派の安心と行事について問答形式を以って百箇条で記述したもので、真宗の立場から浄土宗の教義と行事を対比していることから、その当時の浄土宗の法式と習俗などを知る重要な資料とされる)と、江戸後期の真宗僧で京の大行寺(だいぎょうじ)の、教団に二人しか存在しない学頭の一人であった博覧強記の学僧信暁僧都(安永二(一七七三年?~安政五(一八五八)年:「御勸章」(ごかんしょう)(「御文」(おふみ)のこと。浄土真宗本願寺八世蓮如が、その布教手段として、全国の門徒へ消息として発信した仮名書きの法語を集成したもの。「本願寺派」は「御文章」(ごぶんしょう)、大谷派は「御文」、興正派は「御勧章」と名を変えて言う。本願寺の東西分裂以前は、総て「御文」と呼ばれていた)や仏光版の親鸞「敎行信證」の開版もした)の没年板行の「山海里」(さんかいり)(全三十六巻)との二書を合わせて翻刻したものである。国立国会図書館デジタルコレクションのこちらで全篇を画像で読める。私もいろいろな場面で使用させて貰っている。

「古今著聞集」(ここんちょもんじゅう:現代仮名遣)は鎌倉中期の説話集。全二十巻。橘成季(たちばなのなりすえ)の編。建長六(一二五四)年成立。平安中期から鎌倉初期までの日本の説話約七百話を「神祇」・「釈教」・「政道」などの三十編に分けて収める。小泉八雲旧蔵本はこちら

「玉すだれ」或いは「多萬寸太禮」。辻堂非風子(詳細事蹟不祥)作で、元禄一七(一六九四)年序の浮世草子怪談集。全七巻。明代の志怪小説「剪燈新話」・「剪燈余話」からの翻案を多く収める。【追記】私は2022年に、ブログ・カテゴリ「怪奇談集Ⅱ」で同書全部の電子化注を終えている。

「百物語」「骨董」の「おかめのはなし」の原拠に徴すれば、小泉八雲旧蔵「新撰百物語」(明和三(一七六六)年(推定)に上方の版元吉文字(きちもんじ)屋が板行した新作怪談本)があるが、ここでは、本作中の「貉(むじな)」の原拠とされる、明治二七(一八九四)年七月に刊行された東京・町田宗七編「百物語」(全一冊・活字本)を指すようである(書誌データは講談社学術文庫一九九〇年刊小泉八雲著・平川祐弘編「怪談・奇談」の解説に拠った)。

「力ばか」は「りきばか」と読む。

「性」とあるが、原文は“a family-name”であるから、「姓」の誤植である。但し、「力ばか」には名字らしい感じはないから、名前とするところを小泉八雲が取り違えたものか。私は、もとは「○○ばか」のそれが、如何にもな「姓」名漢字であったのを、通称名のような「力」に変えたことを意味しているものととる。

小泉八雲 夢を食ふもの(田部隆次譯)~作品集「骨董」全篇電子化注完遂

 

[やぶちゃん注:本篇(原題“ The Eater of Dreams ”)は一九〇二(明治三五)年十月にニュー・ヨークのマクミラン社(MACMILLAN COMPANY)刊の“ KOTTŌ ”(来日後の第九作品集)の話柄数では二十番目の掉尾に配されたものである。作品集“KOTTŌ”は“Internet Archive”のこちらで全篇視認でき(本篇はここから。但し、これは翌一九〇三年の再版本である)、活字化されたものは“Project Gutenberg”のこちらで全篇が読める本篇はここから)。

 底本は上記英文サイト“Internet Archive”のこちらにある画像データをPDFで落し、視認した。これは第一書房が昭和一二(一九三七)年一月に刊行した「家庭版小泉八雲全集」(全十二巻)の第八巻全篇である。★【2025年3月26日底本変更・前注変更】時間を経て、国立国会図書館デジタルコレクションに本登録し、現行では、以上の第一書房版昭和六(一九三一)年一月に刊行した「學生版小泉八雲全集」(全十二巻)の第七巻が、国立国会図書館デジタルコレクションで公開されてある。(リンクは扉だが、「學生版」の文字はない。しかし、奥附を見て貰うと『學生版 【第二囘豫約】』とあり、『昭和六年一月十日 發行』とあることが確認出来る)、これが、前掲の底本と同じものであるが、やはり、外国のサイトのそれを底本とするのは、日本人小泉八雲に失礼であると考えた。されば、こちらで、再度、以下の「骨董」の作品群を改めて校正することとする。これが――私の小泉八雲への「義」――である。なお、之よりも前の元版の全集等が先行しているものの、私がそれらと比べた結果、実は先行する同社の「小泉八雲全集」のそれらは、訳が一部で異なっており、訳者等によって、かなりの補正・追加がされていることが、今回の正字補正作業の中で、はっきりと判って来た。いや、同じ「家庭版」と名打ったネット上の画像データでも、驚いたことに、有意に異なっていたのである。そうした意味でも――完全な仕切り直しの総点検――が必要であると決したものである。従って、旧前振りの括弧・鍵括弧の問題も、拡大とガンマ補正で確認し、正確を期する。新底本の本話はここから。

 傍点「﹅」は太字に代えた。挿絵は底本にはないが、原本では各話の前後に同じ絵がサイズを変えて配されてある。“Project Gutenberg”版にある最初に配された大きい方のそれを使用した。挿絵画家は既に述べた通り、佐賀有田の生まれの画家江藤源次郎(えとうげんじろう 慶応三(一八六七)年~大正一三(一九二四)年)である。但し、本底本最後の田部隆次氏の「あとがき」によれば、『マクミランの方でヘルンが送つた墓地の寫眞と「獏」の繪「獏」の繪の外に、當時在英の日本畫家伊藤氏、片岡氏などの繪を多く入れたので、ヘルンは甚だ喜ばなかつたと云はれる』とある。それを考えると、挿絵の多くは、スルーされた方が、小泉八雲の意には叶うと言うべきではあろう。但し、この絵は「白澤」と書かれている通り、獏ではなく、聖獣(後述)白沢(はくたく)である(腹部に人間の目が三つ書かれてあるのが判るが、これは日本の白沢図の特徴なのである。サイト「思考回廊」の『【ゆっくり文庫】小泉八雲「夢を啖(くら)うもの」』によれば、三つ以上の目があるという特徴を加えたのは江戸中期の絵師で妖怪画を得意とした鳥山石燕、正徳二(一七一二)年~天明八(一七八八)年である)。ただ、この白澤は後述(引用)する通り、獏と混同されていたので、江藤の過誤とは言えない

 田部隆次(たなべりゅうじ 明治八(一八七五)年~昭和三二(一九五七)年)氏については先に電子化した「人形の墓」の私の冒頭注を参照されたい。

 添え題にある発句は出典や作者は判らなかった。原文には“ Old Japanese Love-song. ”とあるが、田部氏は略している。ご存じの方は御教授願えると、嬉しい。

 「獏」はウィキの「獏」を主文にして先に注しておく。『獏(ばく)は、中国から日本へ伝わった伝説の生物。人の夢を喰って生きると言われるが、この場合の夢は将来の希望の意味ではなく』、『レム睡眠』(Rapid eye movement sleep:REM sleep:急速な眼球運動を伴う睡眠)『中にみる夢である』(但し、かなり以前に「ノンレム睡眠(Non-REM sleep:徐波睡眠)」中でも夢を見ているという論文を読んだことがある。私はそれを支持する)『悪夢を見た後に「(この夢を)獏にあげます」と唱えると同じ悪夢を二度と見ずにすむという』。『中国で「獏(貘)」は古くから文献に見えるが、どんな動物であるかについては文献によって一定しない。『爾雅』釈獣には「白豹」であるといい、『説文解字』には「熊に似て黄黒色、蜀中(四川省)に住む」(『爾雅』疏に引く『字林』も同様だが「白黄色」とする)であるという。『爾雅』の郭璞注には「熊に似て頭が小さく脚が短く、黒白のまだらで、銅鉄や竹骨を食べる」とあり、ジャイアントパンダ』(哺乳綱食肉目クマ科ジャイアントパンダ属ジャイアントパンダ Ailuropoda melanoleuca )『を指したようである』。『段玉裁『説文解字注』でも「今も四川省にいる」とあるので、やはりパンダである』と考えてよかろう。『後に、白黒まだらであることからバク』(哺乳綱奇蹄目有角亜目 Tapiroidea 上科バク科バク属 Tapirus に現生五種がいる)『と混同され、また金属を食べるという伝説が大きく取り上げられることになった』。『『本草綱目』にも引かれている白居易「貘屏賛」序によると、鼻はゾウ、目はサイ、尾はウシ、脚はトラにそれぞれ似ているとされる』。『中国の獏伝説では悪夢を食らう描写は存在せず、獏の毛皮を座布団や寝具に用いると疾病や悪気を避けるといわれ、獏の絵を描いて邪気を払う風習もあり、唐代には屏風に獏が描かれることもあった』。『こうした俗信が日本に伝わるにあたり、「悪夢を払う」が転じて「悪夢を食べる」と解釈されるようになったと考えられている』。『『後漢書』や』『『唐六典』の注に伯奇(はくき)が夢を食うといい』、『これが獏と混同されたとの説もある』。『なお』、『この「伯奇」を「莫奇」と書いてある文献もあるが、江戸時代の小島成斎『酣中清話』の記載を孫引きしたもののようである』。『日本の室町時代末期には、獏の図や文字は縁起物として用いられた。正月に良い初夢を見るために枕の下に宝船の絵を敷く際、悪い夢を見ても獏が食べてくれるようにと、船の帆に「獏」と書く風習も見られた』。『江戸時代には獏を描いた札が縁起物として流行し、箱枕に獏の絵が描かれたり』、『獏の形をした「獏枕」が作られることもあった』。『中国の聖獣・白澤』(白沢。人語を解し、万物に精通するとされる聖獣で、徳の高い為政者の治世に姿を現すとされる)『と混同されることもある。東京都の五百羅漢寺にある獏王像も、本来は白澤の像とされている』(私の好きな像である)。『奇蹄目バク科の哺乳類のバクは、この伝説上の獏と姿が類似する事から、この名前がついた』。『なお、京都大学名誉教授 林巳奈夫の書いた『神と獣の紋様学―中国古代の神がみ―』によれば、古代中国の遺跡から、実在する動物であるバクをかたどったと見られる青銅器が出土している。このことから、古代中国にはバク(マレーバク』( Tapirus indicus )『)が生息しており、後世において絶滅したがために、伝説上の動物・獏として後世に伝わった可能性も否定はできない』とある。以上と注がダブる部分があるが、私の「和漢三才圖會卷第三十八 獸類 貘(ばく)(マレーバク・ジャイアントパンダその他をモデルとした仮想獣)」や、「和漢三才圖會卷第三十八 獸類 白澤(はくたく)(仮想聖獣)」も参照されたい。]

 

Kotto_045

 

  夢を食ふもの

 

   「短夜や獏の夢食ふひまもなし」

 

 その動物の名は獏、或は『しろきなかつかみ』、その特別の任務はを食ふ事である。それは色々に表はされ又記(しる)されても居る。私の所有する古い書物には雄の獏は馬の胴、獅子の顏、象の鼻と牙、犀の前髮、牛の尾、虎の足をもつて居ると書いてある。雌の獏は、雄とは餘程形が違ふと云はれるが、その相違は明瞭には述べてない。

[やぶちゃん注:先に示した、サイト「思考回廊」の『【ゆっくり文庫】小泉八雲「夢を啖(くら)うもの」』によれば、日本の陰陽道(おんみょうどう)で『「豹尾神(ひょうびしん)」は八将神の中央に位置するため、「なかつかみ」と呼ばれる。獏は、『爾雅』釈獣において「白豹」と呼ばれるため、「白き中つ神」、すなわち「しろきなかつかみ」と呼ばれる。しかし明治時代、獏を「しろきなかつかみ」と呼ぶ習慣があったかどうか、私は確認できなかった』とある。]

 

 古い漢學の時代に日本の家に獏の繪がかけられる習慣があつた。こんな繪はその動物と同じやうなよい力を揮ふものと解せられた。私の古い書物にはその習慣に關するこんな傳說がのつて居る。

[やぶちゃん注:「私の古い書物」小泉八雲が、この書名を示さなかったのは、百年余りの憂いが残った。

 以下は底本では全体が三字下げのポイント落ち。区別するために、前後を一行空けた。]

 

『「松聲錄」に黃帝が東の海岸へ狩獵に出て居る間に、或時動物の體をしてゐて、人語を話す獏に遇つた。黃帝は云つた、「天下泰平の時、何故、吾人はなほ怪物を見るべきであらうか。妖鬼を退治する爲に、獏が必要なら、それなら獏の繪を人の家の壁にかけて置く方がもつとよからう。そして置けば、たとへ惡鬼の出現する事があつても、何の害をも加ふる事はできなからう」』

[やぶちゃん注:「松聲錄」これは「渉世錄」が正しい。獏ではなく、日本の古典作品に白澤(獏ではない点に注意!)を語る、図する絵図「白澤避怪圖」・「白澤圖」等にしばしば「引用」されている漢文で書かれた書の書名なのであるが、原本は現存しない熊澤美弓氏の論文「『渉世録』について 「白澤避怪図」にみえる妖怪資料」(『愛知県立大学大学院国際文化研究科論集』第八巻・二〇〇七年刊所収。PDF愛知県立大学学術リポジトリのこちらからダウン・ロード可能)を読むと、本邦で作られた偽書の可能性もある。或いは、伝承だけが引き継がれてあって、原本は、元々、存在しないのかも知れない。前の引用にもある通り、本邦では獏と白澤が混同され、小泉八雲もその混同のままにこの前半部を書いてしまっているため、読んでいて、ごちゃついた感じが否めない(しかし、ここを我慢して読むと、後がステキに「キョワい」のだ!)。ここは「獏」の話なのだから、あまり白澤の注をしたくはないのだが、bigbossman氏のブログ「怖い話します」の『「白澤避怪図」について』によれば、『日本では、安政年間』(一八五五年から一八六〇年)『にコレラが大流行した際、白澤図を枕元に置く家が多かったということです。また、旅人の道中の必携品ともなっていたと江戸時代の旅行案内には書いてあります。道中、怪異から身を守るだけでなく、野犬や狼などの害、盗賊の害なども避けることができるそうです』として、『旅人が携帯した白澤図』が掲げられている。この「枕元に白澤図を置いた」という辺りに、獏との混淆の元があるのではないかとも疑われる気が私にはする。そして、以上から、その混同誤認は江戸の後期までしか溯れないのではないかとも思われるのである。但し、熊澤氏の論文によれば、この白澤の名(形状や属性は記されない)は三一七年の葛洪撰「抱朴子」に初出し、図は一五八七年の「大明會典」巻六十一に官人の制服の意匠の一つとして初出し、ここで掲げられている黄帝と白澤の神話は、北宋の道教の類書で張君房撰になる「雲笈七籤」(うんきゅうしちせん:成立は一〇一七年から一〇二一年の間)に所収する「軒轅(けんえん)本紀」(軒轅は黄帝の本名)に載る(熊澤氏の論文で本文が見られる)。]

 

 それから惡鬼の長い名前と、その出現の徴候があげてある。

[やぶちゃん注:同前。]

 

『鷄が眉が柔かな卵を生む時、その魔物の名は「タイフ」

『蛇が一緖に相纏ふ時、その魔物の名は「ジンジユ」

『犬が耳をうしろに向けてあるく時、その魔物の名は「タイヨウ」

『狐が人間の聲で話す時、その魔物の名は「グアイシユ」

『人のきものに血の見ゆる時、その魔物の名は「ユウキ」

『米櫃が人間の聲で話す時、その魔物の名は「カンジヨウ」

『夜の夢が惡夢である時、その魔物の名は「リンゲツ」……


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[やぶちゃん注:この附近にある(原本はここ)これはまず獏らしき(龍みたようだが、鼻が長いのがそれっぽい)絵。一目瞭然、江藤源次郎ではない。左に署名があるが、「貞景」か(落款は「笑醒」か)。だとすると、江戸後期の浮世絵師歌川貞景(初代 生没年未詳 文政・天保(一八一八年~一八四四年)頃の人で、初代歌川国貞の門人である。江戸目白台但馬屋敷に住み、国貞風の美人画を得意とした。二代貞景も初代国貞の門人で、五湖亭の号を継いでいる。判らない。先行する「餓鬼」にも、彼の絵らしきものがあった。]

[やぶちゃん注:以上は、先の熊澤氏の論文に原文(漢文)が載っている((二)『渉世録』文章の復元」の章。そこには前の黄帝との邂逅の部分も復元されてあり、孰れも訓点が打たれてあるので、読み易く、必見である)。それによれば(訓読し、一部で送り仮名や読みを私が附したた)、

「タイフ」は「大扶」。但し、『鷄が眉が柔かな卵を生む時』ではなく、「赤虵(せきじや)[やぶちゃん注:赤い蛇。]、地に落つ。鬼を大扶と名づく」で出現条件が違う。

「ジンジユ」誤訳。小泉八雲の原本は“Jinzu”で「ジンズウ」が正しい。漢字は「神通」。

「タイヨウ」「大陽」。但し、熊澤氏の復元では「狗行及耳鬼名大陽」で、これがはたして「犬が耳をうしろに向けてあるく時」の意であるかどうかは微妙に留保したい。

「グアイシユ」「懷珠」。但し、条件は「狐」だけでなく、「狐狸」とある。

「ユウキ」「血、人衣(じんえ)を汚す。鬼を遊光と名づく」であるから、「ユウキ」ではなく「ユウクワウ(ユウコウ)」でなくてはならない。

「カンジヨウ」これは「飯甑(はんそう:古代中国を発祥とする米などを蒸すための土器。竹や木などで造られたそれが蒸籠(せいろ))、聲を作(な)す。鬼を歛女と名づく」であるから、「カンジヨ」でないとおかしいし、「米櫃」ではない。

「夜の夢が惡夢である時、その魔物の名はリンゲツ」復元原文「夜夢不祥鬼名臨月」で「夜、不祥を夢みる。鬼を臨月と名づく。」である。小泉八雲はこれを出したいがために、この迂遠な引用をしたものである。

 

 それから、その書物は更に進んで云ふ、

[やぶちゃん注:同前。]

 

『いつでも何かこんな魔がさしたら、獏の名を呼ぶがよい、さうすればその惡魔は直ちに地の下へ三尺沈む』

 

 しかし惡鬼の問題については、私は語る資格がない。それは支那の鬼神學と云ふ未だ人に知られない物すごい世界のもので、日本の獏の問題と事實殆んど關係はない。日本の獏は夢を食ふものとしてのみ普通知られて居る。それからこの動物の崇拜に關する最も著しい事實は、帝王、諸侯の漆塗の木枕にはいつも、獏と云ふ漢字を金で書いてあつた事である。枕にあるこの字の功德で、眠るものは惡夢になやまないやうに保護されると考へられてゐた。今日こんな枕をさがす事は餘程むつかしい、獏(或は時として白澤とも云はれる)の繪さへ、甚だ珍らしくなつて居る。……しかし獏に對する古い願ひの文句、『獏くらへ、獏くらへ』は普通の會話に今も殘つて居る。……讀者が魘されれたあとで、或は何か甚だ不幸な夢からさめたあとで、三度早くその願ひの文句をくりかへさねばならない、――さうすると獏はその夢を食ふ、それからその不幸或は恐れを幸運或は喜びにかへてくれる。

[やぶちゃん注:画像検索では「獏」の字を書いた木枕は見出せなかったが、獏の姿を描いたり、枕そのものが獏らしい感じのものは結構ある。例えば、サイト「紙半豊田記念館」こちらの右上の「獏(悪夢を食べる)枕」の木枕の写真を見られたい。なお、サイト「思考回廊」の『【ゆっくり文庫】小泉八雲「夢を啖(くら)うもの」』にも記されてあるが、初夢に悪い夢を見ないように枕の下に獏の絵を敷いて寝るという俗信は聴いたことがある。そこには『宝船の帆に「獏」の字を書いたものはあった』とある。]

 

     *

 

 私が最後に、獏を見たのは、夏の土用中の甚だ蒸しあつい夜であつた。私は悲しんで、眼をさましたところであつた、時は丑の刻、その時獏が窓から入つて來て尋ねた、『何か喰べるものはありますか』

 私は有難く思つて答へた。

 『あるとも。……獏さん、私のこの夢をきいて下さい、――

 『私はどこか大きな白壁の部屋に立つてゐたが、そこにはランプがいくつかともしてあつた。ところが私はその敷物のない床の上に影を投げてゐない、――それからそこの鐡の寢臺の上に私自身の死骸があつた。どうして死んだのか、いつ死んだのか、覺えてはゐない。女達が六七人、寢臺のそばに坐つてゐたが、一人も知つた人はゐない。若くもなく、年寄でもない、皆喪服を着て居る、お通夜の人達だと私は思つた。皆は身動きをしないで默つて居る。その場には何の音もない、それで私は何とはなしに夜が更けたと思つた。

 『同時に、私は部屋の雰圍氣に、何だか名狀できないもの、――意志を壓迫する一種の重苦しさ、――見えない麻痺させるやうな威力が徐々に增して來る事に氣がついた。その中に通夜の人達が、そつと互に見張合つて來た、皆が恐ろしくなつて來たのだと私に分つた。音も立てずに一人立つて部屋を出た。又一人續いた。それから又一人續いた。そんな風にして一人づつ影のやうに輕く皆出て行つた。結局、私と私自身の死骸とだけになつた。

 『ランプはやはり、明かに輝いてゐたが、空氣の中の例の恐ろしいものは段々、濃くなつて來た。通夜の人達は、それに氣がつくと殆んど同時にそつと逃げ出したのであつた。しかし私は未だ逃げる暇があると思つた、――もう少し後れても大丈夫と思つた。恐ろしいもの見たさの好奇心が私を止めた。私は自分の死骸を見てよくそれを檢査したいと思つた。私はそれに近づいた。それを見た。不思礒に思つた、――その屍骸が大層長い、――不自然に長いやうだから。……

 『それから一方の瞼が動くのを見たやうに思つた。しかし動くやうに見えたのはランプの熖がゆれた爲めかも知れない。眼が開くかも知れないと恐れたから、靜かに甚だ要心深くく私は進んで見た。

 『「これは自分だ」私は屈んだ時考へた。――「しかし變だぞ」……その顏は長く延びて行くやうであつた――。「これは自分ぢやない」私はもつと低く屈んだ時に、又考へた、――「しかし、外の人である筈はない」それから、私は一層恐ろしく、言葉では云はれない程恐ろしくなつて來た、眼が開くかも知れないと思つて。……

 『眼が開いた、――恐ろしくも開いた、――それからそのものが飛びかかつた、――寢臺から私を目がけて飛びついて、――唸り、かみつき、かきむしつて、私を離さなかつた。あ〻、恐ろしさの餘り狂氣になつて、どんなに私はそのものと爭つたであらう。しかしそのものの眼、その呻き、その觸りの、氣味惡さ、餘りの事に精神錯亂して私の全身が今にも破裂しようとしてゐたが、その時、――どうしたわけか――手に一挺の斧のある事に氣がついた。私はその斧で打つた、――私はその呻くものを打ち割つた、たたき潰した。粉碎した――かくて私の前にあるものはただ、わけの分らない、恐ろしい、血まみれのかたまり、――私自身の氣味の惡い殘骸であつた。……

 

 『獏くらへ、獏くらへ、獏くらへ。あ〻獏さん、この夢を食つて貰ひたい』

 『いや、めでたい夢は食ひません』獏は答へた。『そんなめでたい夢――運のよい夢――は外にありません。斧――さうです――妙法の斧をもつて自我の怪物を退治する。……極上の夢です。私は佛の敎を信じます』

 

 それから獏は窓を出て行つた。私は彼のあとを見送つた、――月光に照された數哩の屋上を――屋根から屋根へと、――大きな猫のやうに――驚くべく靜かに跳び移つて、飛んで行くのが見えた。……

[やぶちゃん注:「哩」は「マイル」。一マイルは約千六百九メートル。六掛けで九キロメートル半。]

2019/09/14

ここに配されるべき小泉八雲の「草雲雀」(大谷正信訳)について


 ここに配されるべき「草雲雀」(原題“ Kusa-Hibari ”)、“ KOTTŌ ”(来日後の第九作品集)の十九番目に配されたそれは(作品集“KOTTŌ”は“Internet Archive”のこちらで全篇視認でき(本篇はここから。今回は添え辞“ issun no mushi ni mo gobu no tamashii.—Japanese Proverb. ”がある標題ページから示した。但し、これは翌一九〇三年の再版本)、活字化されたものは“Project Gutenberg”のこちらで全篇が読める本篇はここから))のであるが、大谷正信氏の訳を底本として電子化注し、公開している(挿絵も含む)【2025年3月26日削除・改稿】リンク先の私の電子化注は、当初の底本が見られなくなっていたので、より信頼出来る国立国会図書館デジタルコレクションの「小泉八雲全集」第七巻(昭和四(一九二九)年第一書房刊)を底本として、一から、補正してある。

小泉八雲 眞夜中  (田部隆次譯)

 

[やぶちゃん注:本篇(原題“ Pathological ”)は一九〇二(明治三五)年十月にニュー・ヨークのマクミラン社(MACMILLAN COMPANY)刊の“ KOTTŌ ”(来日後の第九作品集)の話柄数では十八番目に配されたものである。作品集“ KOTTŌ ”はInternet Archive”のこちらで全篇視認でき(本篇はここから。但し、これは翌一九〇三年の再版本である)、活字化されたものは“Project Gutenberg”のこちらで全篇が読める本篇はここから)。標題は猫を例にとった、人間を含めた動物の記憶や夢の持つ「病理的な」側面の謂いであろう。因みに、一九七五年恒文社刊の平井呈一氏の訳(「骨董・怪談」)では標題は『病のもと』である。

 底本は上記英文サイト“Internet Archive”のこちらにある画像データをPDFで落し、視認した。これは第一書房が昭和一二(一九三七)年一月に刊行した「家庭版小泉八雲全集」(全十二巻)の第八巻全篇である。★【2025年3月26日底本変更・前注変更】時間を経て、国立国会図書館デジタルコレクションに本登録し、現行では、以上の第一書房版昭和六(一九三一)年一月に刊行した「學生版小泉八雲全集」(全十二巻)の第七巻が、国立国会図書館デジタルコレクションで公開されてある。(リンクは扉だが、「學生版」の文字はない。しかし、奥附を見て貰うと『學生版 【第二囘豫約】』とあり、『昭和六年一月十日 發行』とあることが確認出来る)、これが、前掲の底本と同じものであるが、やはり、外国のサイトのそれを底本とするのは、日本人小泉八雲に失礼であると考えた。されば、こちらで、再度、以下の「骨董」の作品群を改めて校正することとする。これが――私の小泉八雲への「義」――である。なお、之よりも前の元版の全集等が先行しているものの、私がそれらと比べた結果、実は先行する同社の「小泉八雲全集」のそれらは、訳が一部で異なっており、訳者等によって、かなりの補正・追加がされていることが、今回の正字補正作業の中で、はっきりと判って来た。いや、同じ「家庭版」と名打ったネット上の画像データでも、驚いたことに、有意に異なっていたのである。そうした意味でも――完全な仕切り直しの総点検――が必要であると決したものである。従って、旧前振りの括弧・鍵括弧の問題も、拡大とガンマ補正で確認し、正確を期する。新底本の本話はここから。

 傍点「﹅」は太字に代えた。挿絵は底本にはないが、原本では各話の前後に同じ絵がサイズを変えて配されてある。“Project Gutenberg”版にある最初に配された大きい方のそれを使用した。挿絵画家は既に述べた通り、佐賀有田の生まれの画家江藤源次郎(えとうげんじろう 慶応三(一八六七)年~大正一三(一九二四)年)である。但し、本底本最後の田部隆次氏の「あとがき」によれば、『マクミランの方でヘルンが送つた墓地の寫眞と「獏」の繪「獏」の繪の外に、當時在英の日本畫家伊藤氏、片岡氏などの繪を多く入れたので、ヘルンは甚だ喜ばなかつたと云はれる』とある。それを考えると、挿絵の多くは、スルーされた方が、小泉八雲の意には叶うと言うべきではあろう。

 田部隆次(たなべりゅうじ 明治八(一八七五)年~昭和三二(一九五七)年)氏については先に電子化した「人形の墓」の私の冒頭注を参照されたい。

 特に注の必要を感じない、壮大な生命史的哲学断章である。]

 

Kotto_041

 

  眞夜中

 

 黑く、寒く、そして靜かで、――あまりに黑く、あまりに靜かなので、私は未だ自分のからだがあるかどうかと思ひながら自分で觸つて見る。それから手さぐりをして、私は未だ地下に――光と音の永久に達しない所へ葬られて――居るのではない事をたしかめる。……時計が三時を打つ。再び日の光が見られよう。

 少くとももう一度。或は未だ何千度。しかし決して明けない夜、――決して何の音も破ることのない靜寂がいつかは來るに違ひない。

 これは確かである。私が存在すると云ふ事實が確かである程確かである。

 その他の事はそれ程に確かではない。理性も僞り、感情も僞り、總ての感覺も僞る。しかしその夜が來ると云ふ確かな知識には何等僞はない。

 實體の實在、精靈の實在、人間の信仰、神々、を疑へ、――正と邪、友情と愛、美の存在、恐怖の存在、を疑へ、――しかしそこに疑ふ事のできないものがいつでも殘る、――一つの無限の、盲目の、黑い必然の事。

 

 一切のものにこの同じ暗黑が來る、――動物の眼にも天の眼にも、――一切のものにこの同じ運命が來る、――蟲類にも人類にも、蟻の山にも都會にも、如何なる人種にも、如何なる世界にも、太陽にも天の河にも、避け難き解體、消滅、及び忘却が來る。

 忘れるやうに、思はないやうにと云ふ人間の努力は一切無駄である。空虛をかくさうとして古い信仰が織つたは永久に裂かれた、――さうして墳墓は私共の前に露出して居る、――それで破壞には被(おほ)ひがない。

 私が存在する事を確かに信ずる如く、それ程又確かに、私は死ぬ事を信ぜねばならない。――それが恐ろしい。……しかし――

 私は實際生きて居ると信ぜねばならないか。……

 

 そんな事を自問自答して居るうちに、暗黑が壁のやうに、私の周圍に立つた。さうして云つた、――

 『自分はやがて過ぎ去るただの、しかし實在は來て過ぎ去る事がない。

 『自分はただの。自分のうちに光、――一億萬の太陽の微光――が潛む。それから自分のうちに聲がある。實在の來ると共に、光も、聲も、起きることも、望みもなくなる。

 『しかしお前の遙か上には、今後、數百萬年の間、やはり太陽があり、――暖かさ、若さ、愛と喜び、――無限に碧い空と海――夏の花の香、――草や森に聞ゆるさへづり、すだき、――影のゆらめき光のひらめき、――水の笑と少女の笑――があらう。お前に取つては、あるものは暗黑と沈默、――それから冷い盲目の蠢動』

 私は答ヘた、

 『このやうな思想を今私は恐れる。しかしそれは今眠りを破られたからで外に理由はない。私の頭が全く覺めた時には恐れる事はない。この恐れはただ、動物的な恐怖である、――本能生活の幾百萬年以來、遺傳して來た深い朧げな原始的恐怖である。……もうそれがなくなつて來た、私は死を、夢のない眠り、――喜び或は苦しみの感覺のない眠りと考へて見る事ができる』

 暗黑がささやいた、――

 『感覺とは何ぞ』

 しかし私は答へられなかつた、そこで暗黑は重くなつて、私を押へて云つた。

 『感覺を知らないのか。それならどうしてお前の塵――お前の體の分子、靈魂の原子にとつて苦痛があるかないか分るか。……原子――それは何か』

 再び私は返事ができなかつた。そこで暗黑の重さが一層增した――ピラミツドの重さになつた――そこでささやきが聞えた、――

 『原子の斥力、引力とは何か。そのものすごき抱合及び跳躍。……これは何か。……燃えつくした生命の煩惱、――飽く事を知らぬ貪慾の熖、――永久の憎惡の炎、――終る事のない呵責の狂ひ、……お前は知らないと云ふか。しかしお前はもうさきに苦痛はないと云ふ……』

 それから、私はこの嘲弄者に對して叫んだ、

 『私はさめて居る――さめて居る――すつかりさめて居る。私は恐れることはなくなつた、――あ〻、思ひ出した。……現在の自分は卽ち過去の自分である。の始まる以前に私はゐた、――永久の究極のめぐりの未ださきまで私は永續する。私は死ぬやうに見えてもただ幾百萬の幾百萬倍の變つた形體となるだけである。形體としては、私はただにすぎない、本質としては私はである。岸のない海である、――疑ひ恐れ苦しみは私の深い海の面に忽ちに來りて忽ちに去るうす暗い影にすぎない。……眠つて居る時、時のまぼろしを見る、しかしさめてゐるとき私がに超越して居る事を知つて居る。形も名もない生命をもつて居るもの、それから又始まるものと終るものと同一のもの、――墳墓、及び墳墓をつくるものとも――屍及び屍を喰ふものとも、同一のものである事を知つて居る……』

 

       *

 

 一羽の雀が屋根で囀ると一羽がそれに答へた。ものの形が柔かな灰色のうすあかりのうちにはつきりし出した、――そして暗さが次第に光つて來た。町が眼をさましてつぶやく音が私の耳に達して、次第に大きく次第に增加して來た。それからおぼろなものが赤くなつた。

 その時美しい聖い太陽、力强き生命を與ふるもの、力强き腐敗を與ふるもの――その力は私の力でもある、――あの無限の生命の壯大なる象徵である太陽が上つた。……

 

小泉八雲 病理上の事  (田部隆次譯)

 

[やぶちゃん注:本篇(原題“ Pathological ”)は一九〇二(明治三五)年十月にニュー・ヨークのマクミラン社(MACMILLAN COMPANY)刊の“ KOTTŌ ”(来日後の第九作品集)の話柄数では十七番目に配されたものである。作品集“ KOTTŌ ”は“Internet Archive”のこちらで全篇視認でき(本篇はここから。但し、これは翌一九〇三年の再版本である)、活字化されたものは“Project Gutenberg”のこちらで全篇が読める本篇はここから)。標題は猫を例にとった記憶の病理の謂いであろう。因みに、一九七五年恒文社刊の平井呈一氏の訳(「骨董・怪談」)では標題は『病のもと』である。それもまた、訳として悪くない。

 底本は上記英文サイト“Internet Archive”のこちらにある画像データをPDFで落し、視認した。これは第一書房が昭和一二(一九三七)年一月に刊行した「家庭版小泉八雲全集」(全十二巻)の第八巻全篇である。★【2025年3月26日底本変更・前注変更】時間を経て、国立国会図書館デジタルコレクションに本登録し、現行では、以上の第一書房版昭和六(一九三一)年一月に刊行した「學生版小泉八雲全集」(全十二巻)の第七巻が、国立国会図書館デジタルコレクションで公開されてある。(リンクは扉だが、「學生版」の文字はない。しかし、奥附を見て貰うと『學生版 【第二囘豫約】』とあり、『昭和六年一月十日 發行』とあることが確認出来る)、これが、前掲の底本と同じものであるが、やはり、外国のサイトのそれを底本とするのは、日本人小泉八雲に失礼であると考えた。されば、こちらで、再度、以下の「骨董」の作品群を改めて校正することとする。これが――私の小泉八雲への「義」――である。なお、之よりも前の元版の全集等が先行しているものの、私がそれらと比べた結果、実は先行する同社の「小泉八雲全集」のそれらは、訳が一部で異なっており、訳者等によって、かなりの補正・追加がされていることが、今回の正字補正作業の中で、はっきりと判って来た。いや、同じ「家庭版」と名打ったネット上の画像データでも、驚いたことに、有意に異なっていたのである。そうした意味でも――完全な仕切り直しの総点検――が必要であると決したものである。従って、旧前振りの括弧・鍵括弧の問題も、拡大とガンマ補正で確認し、正確を期する。新底本の本話はここから。

 傍点「﹅」は太字に代えた。挿絵は底本にはないが、原本では各話の前後に同じ絵がサイズを変えて配されてある。“Project Gutenberg”版にある最初に配された大きい方のそれを使用した。挿絵画家は既に述べた通り、佐賀有田の生まれの画家江藤源次郎(えとうげんじろう 慶応三(一八六七)年~大正一三(一九二四)年)である。但し、本底本最後の田部隆次氏の「あとがき」によれば、『マクミランの方でヘルンが送つた墓地の寫眞と「獏」の繪「獏」の繪の外に、當時在英の日本畫家伊藤氏、片岡氏などの繪を多く入れたので、ヘルンは甚だ喜ばなかつたと云はれる』とある。それを考えると、挿絵の多くは、スルーされた方が、小泉八雲の意には叶うと言うべきではあろう。

 田部隆次(たなべりゅうじ 明治八(一八七五)年~昭和三二(一九五七)年)氏については先に電子化した「人形の墓」の私の冒頭注を参照されたい。

 簡単な私の注も添えた。]

 

Kotto_039

  病理上の事

 

 大層私は猫好きである、洋の東西で色々の時、色々の風土で、私が飼つた色々の猫の事を書いて一册の大きな書物にする事もできようと私は思ふ。しかしこれは猫の本でない、それで私はただ心理上の理由で「玉」の事を書く。玉は私の椅子の側で寢ながら一種特別の聲を發して居るが、それは私の心に特別の感動を與へる。その聲は猫が子猫に對してのみ發する聲で、――柔かなやさしい震へ聲――全く愛撫の音調である。それから橫に寢て居るその姿勢は何かもつて居る、――何か捕へたばかりのものをもつて居る猫の姿勢である。前足は何かつかむやうにのばして眞珠のやうな爪は動いて居る。

 

 玉と呼んで居るのは、綺麗だからではない、(但し綺麗ではある)たゞ玉と云ふ名は普通飼猫につける女性の名であるからである。三毛猫は日本では珍らしいので、――始めて私の處へ重寳な進物として贈られて來た時は、甚だ小さい子猫であつた。日本の或地方ではこんな猫は緣起のよい猫で、鼠と同樣にお化をも退治する力があると信じられて居る。玉は今二歲である。脈管に外國の血があると思はれる。一般の日本の猫よりももつと優美でもつとほつそりしてゐて足は著しく長い。それだけが日本人の眼から見ると缺點である。多分彼女の祖先の一人が家康の時分にオランダかスペインの船で日本へ來たのであらう。しかしどんな祖先から來たにしても玉はその習性では全く日本の猫である。――たとへば玉は米飯をたべる。

[やぶちゃん注:「三毛猫は日本では珍らしい」確かに“a cat-of-three-colours (miké-neko) being somewhat uncommon in Japan”(厳密には「やや稀れな」)と言っているが、これは小泉八雲の勘違いで、日本では普通に見かける。或いは、ウィキの「三毛猫」にあるように、『日本では珍しくないネコだが、日本国外では比較的珍しく、キャリコまたはトーティ・アンド・ホワイトと呼ばれる。フランス語風にトリコロール、あるいはトライカラー(Tricolor)と呼ばれることがある。ただし』、『英語のトライカラーは錆び猫』(黒の被毛と赤の被毛が入り混じってモザイク模様を成している猫の総称。英語で「トータスシェル」( Tortoiseshell:「鼈甲」の意)、或いは、縮めて「トーティ」(Tortie)と言う。ここは当該ウィキに拠った)『も含み、かつ「真の」トライカラーは赤(茶、オレンジ)、白、黒の』三『色、もしくは赤黒が「薄まった」色がすべてある猫である、ただし』、『白の部分が極めて少なく』二『色に見える場合も含む』。『西欧や北米にあっては、ジャパニーズボブテイルが「ミケ」(Mi-ke)の愛称で珍重されている』という諸外国の事実を、本邦の事実として誤認したものか、或いは、ご存じの通り、『ネコの遺伝子の特徴』によって、三毛猫は『そのほとんどがメスであり』、『オスはめったに出現しない』という驚くべき事実を誤って認識して「オスがいない珍しい」猫」としての属性を述べたものかも知れない。または、『オスの三毛猫を船に乗せると』、『福を呼び』、『船が遭難しないという言い伝えがあ』り、『江戸時代には高値で取引されていたという説もある』(但し、『実際の取引事例は不明である』とある)こと、また、『縁起物である招き猫において、三毛猫がモデルにされることが多い』ことから、そうした意味での「珍しい稀れにみる目出度い猫」という話を人から聴いた際に、その「稀にみる」を物理的に「希少の存在である」の意で受け取ってしまったものかも知れない。なお、滅多にオスがいないことについては、『基本的に三毛猫の性別はメスであるが、ごくまれにオスの三毛猫が産まれることがあ』るものの、『その希少性は』三『万匹に』一『匹程度とされる』。『これは、ネコの毛色を決定している遺伝子がどの染色体に存在するかに原因が求められる。ぶち(白斑)や黒などを決定する遺伝子は常染色体上に存在するが、オレンジ(茶)を決定するO遺伝子のみはX染色体上に存在し、伴性遺伝を行う。そのため、三毛猫が産まれるのはO遺伝子が対立するo遺伝子とのヘテロ接合になった場合となる。これは哺乳類では』二『つのX染色体のうち、どちらか一方がランダムに胚発生の初期に不活性化されることにより、毛色がオレンジになる(O遺伝子が発現)部分と他の色になる部分に分かれるからである。ゆえに、原則として三毛猫はメス (XX)となる』。『オスの三毛猫が生まれる原因は、クラインフェルター症候群』(Klinefelter syndrome:♂の性染色体にX染色体が一つ以上多いことで生じる一連の症候群)『と呼ばれる染色体異常(X染色体の過剰によるXXYなど)やモザイクの場合、そして遺伝子乗り換えによりO遺伝子がY染色体に乗り移ったときである』。『染色体異常の場合は通常繁殖能力を持たないが、モザイク、遺伝子乗り換えの場合は生殖能力を持つことがある。なお、クラインフェルター症候群のオスの出生率は』三『万分の』一『である』。『生殖能力のある三毛猫のオスは』一九七九年に『イギリスと』、一九八四年に『オーストラリアで確認されたものの他』、二〇〇一年には『日本でも確認され』ている。しかし、『生殖能力のあるオスの三毛猫が交配しても、オスの三毛猫の子猫が生まれる確率は変わらず、その可能性は非常に小さい』とある。]

 

 始めて子供をもつた時には全く立派な母である事を證明した。子供の世話に精力と智慧のあらん限りをつくしたので、たうとう子供の養育と子供のための骨折とで氣の毒な程、又をかしい程やせてしまつた。彼女は子供等に、淸潔法や、――遊ぶ事、跳ぶ事、相撲を取る事や――狩獵の法を敎へた。初めのうちは勿論、ただ自分の長い尾をおもちやにして遊ばせてゐた。しかし、後に外のおもちやを見つけてやつた。野鼠家鼠ばかりでなく、蛙、とかげ、蝙蝠までも持つて來た。それから或日小さな八ツ目鰻をもつて來たが、それは近所の水田で、何とか工夫して捕へて來たものに相違ない。日が暮れてから私はいつも臺所の屋根から狩に出られるやうに、――書齋に通ずる階段の上の小さい窓を、彼女のために開けて置いた。そこで或晚その窓から、彼女は子猫のおもちやに大きな藁草履を持ち込んで來た。野原で彼女はそれを見つけた。それから一丈の板塀を越えて、家の板壁を上つて、臺所の屋根に上つて、それから小窓の格子をくぐつて、階段へ持ち込んだに相違ない。そこで彼女と子猫は朝までそれをもつて大騷ぎして遊んだ。それから草履は泥だらけであつたので階段をよごした。母としての第一の經驗で玉よりももつと幸運な猫はゐなかつた。

 しかしそのつぎは運がよくなかつた。彼女はあぶない程離れた外の町で友達の猫を訪問する習慣がついてゐた。それで或晚そこへ行く途中或野蠻な人間に害を加へられた。ぼんやりして弱つて歸つ來た。それから子猫は死んで生れた。私は彼女も死ぬだらうと思つた。しかし誰に想像できない程早く囘復した、――それでも明かに心はやはり子猫をなくした事で惱まされて居る。

[やぶちゃん注:「そのつぎ」二度目の玉の妊娠と出産(死産)を指す。]

 

 或種類の一時的の經驗に關しては動物の記憶は奇態に薄弱で朦朧として居る。しかし動物の本質的記憶、――數へきれぬ幾千億の生活の間に蓄積された経驗の記憶は超人間的に生々として殆んど誤る事はない。……溺れた子猫の呼吸作用を囘復する驚くくべき巧妙な手際を思ひ見よ。始めて見た危險な敵、例へば毒蛇に面する時の敎へられた事のない技倆を思ひ見よ。小さい動物とその習慣に關する彼女の廣い知識――彼女の草木に關する藥物學的知識――狩獵の場合又戰鬪の場合に處する彼女の戰略上の能力を思ひ見よ。彼女の知識は全く博い[やぶちゃん注:「ひろい」。]。それから彼女はそれを完全に、若(もし)くは殆んど完全に知つて居る。しかしそれは過去の生活の知識である。現在の生活の苦惱に關する彼女の記憶は憐れむべく短い。

 

 玉は自分の子猫が死んだ事は明らかに覺えてゐない。子猫はある筈だとだけ知つて居る。それで庭に葬られて餘程になつてからもどこでもさがし、どこででもそれを呼んで見た。友達に色々愚痴をこぼした。私にも押入れ、戶棚を悉く――何遍となく――子猫がうちにはゐない事を證明するために、あけさせた。たうとうもうこれ以上さがしても駄目と云ふ事が自分でも分つて來た。しかし彼女は夢のうちに子猫と戲れる。それでやさしい愛撫の聲を出して居る。それから彼等のために、色々小さいまぼろしのものを捕へて來る、――事によれば記憶のどこか朧げな窓から、まぼろしの藁草履をさへもつて來てやる。……

[やぶちゃん注:最後の一文、“But she plays with them in dreams, and coos to them, and catches for them small shadowy things,—perhaps even brings to them, through some dim window of memory, a sandal of ghostly straw....”は、胸を撲つ。]

小泉八雲 默想  (田部隆次譯)

 

[やぶちゃん注:本篇(原題“ Revery ”(「レヴェリィ」は「何かに夢中になってぼうっとした状態」或いは「目覚めていながら夢を見ているようなぼんやりとした状態」を指す語であるから、叙述内容からみても訳は「夢想」の方がしっくりくる。平井呈一氏訳も「夢想」である)は一九〇二(明治三五)年十月にニュー・ヨークのマクミラン社(MACMILLAN COMPANY)刊の“ KOTTŌ ”(来日後の第九作品集)の話柄数では十六番目に配されたものである。作品集“ KOTTŌ ”はInternet Archive”のこちらで全篇視認でき(本篇はここから。但し、これは翌一九〇三年の再版本である)、活字化されたものは“Project Gutenberg”のこちらで全篇が読める本篇はここから)。

 底本は上記英文サイト“Internet Archive”のこちらにある画像データをPDFで落し、視認した。これは第一書房が昭和一二(一九三七)年一月に刊行した「家庭版小泉八雲全集」(全十二巻)の第八巻全篇である。★【2025年3月26日底本変更・前注変更】時間を経て、国立国会図書館デジタルコレクションに本登録し、現行では、以上の第一書房版昭和六(一九三一)年一月に刊行した「學生版小泉八雲全集」(全十二巻)の第七巻が、国立国会図書館デジタルコレクションで公開されてある。(リンクは扉だが、「學生版」の文字はない。しかし、奥附を見て貰うと『學生版 【第二囘豫約】』とあり、『昭和六年一月十日 發行』とあることが確認出来る)、これが、前掲の底本と同じものであるが、やはり、外国のサイトのそれを底本とするのは、日本人小泉八雲に失礼であると考えた。されば、こちらで、再度、以下の「骨董」の作品群を改めて校正することとする。これが――私の小泉八雲への「義」――である。なお、之よりも前の元版の全集等が先行しているものの、私がそれらと比べた結果、実は先行する同社の「小泉八雲全集」のそれらは、訳が一部で異なっており、訳者等によって、かなりの補正・追加がされていることが、今回の正字補正作業の中で、はっきりと判って来た。いや、同じ「家庭版」と名打ったネット上の画像データでも、驚いたことに、有意に異なっていたのである。そうした意味でも――完全な仕切り直しの総点検――が必要であると決したものである。従って、旧前振りの括弧・鍵括弧の問題も、拡大とガンマ補正で確認し、正確を期する。新底本の本話はここから。

 傍点「﹅」は太字に代えた。挿絵は底本にはないが、原本では各話の前後に同じ絵がサイズを変えて配されてある。“Project Gutenberg”版にある最初に配された大きい方のそれを使用した。挿絵画家は既に述べた通り、佐賀有田の生まれの画家江藤源次郎(えとうげんじろう 慶応三(一八六七)年~大正一三(一九二四)年)である。但し、本底本最後の田部隆次氏の「あとがき」によれば、『マクミランの方でヘルンが送つた墓地の寫眞と「獏」の繪「獏」の繪の外に、當時在英の日本畫家伊藤氏、片岡氏などの繪を多く入れたので、ヘルンは甚だ喜ばなかつたと云はれる』とある。それを考えると、挿絵の多くは、スルーされた方が、小泉八雲の意には叶うと言うべきではあろう。

 田部隆次(たなべりゅうじ 明治八(一八七五)年~昭和三二(一九五七)年)氏については先に電子化した「人形の墓」の私の冒頭注を参照されたい。

 簡単な私の注も添えた。]

 

Kotto_037


  默 想

 

 生れ兒が世の中へ出る時、どんな愛の手がそれを受けようとして待つて居るか知る事ができないで泣くやうに人間は死を恐れると云はれて居る。この比較は確に科學的檢査にはたへない。しかし都合のよい空想としては美しい。そんな空想が何等宗敎的の意味をもたらさない人々、――個人の精神は肉體と共に死滅する、それから個性の永遠の連續は永遠の不幸になるばかりと信ずる人々に取つても美しい。思ふにこの空想が美しいのはは母性愛を無限に擴大したものであるといふ事を廣い知識の人々に分らせたいと云ふ希望、それをそんな卑近な方法であらはして居るからである。この想像は西洋風よりもむしろ東洋風である、しかも私共の西洋の多くの信條に漠然と表れて居る情操と一致して居る。と見る古い冷い考のうちに、その後次第に注がれて來たのは、無限にやさしい新しい明るい夢であつた、としてのの記憶から創造された一切のものを變形し理想化する希望であつた。それで各人種が一段高い方へ進化すればする程その神の觀念は一層女性的になる。

 逆に又この考は、どんな不信者にでも、凡ての人間の經驗の範圍では母性愛程貴いものは外にない、――神聖と云ふ名に相當するものはこの外にない事を思はせる。母性愛のみがこの哀れな小さい星の表面で弱い命の心を育たしめ、生かしめたのであらう、その無上の無私の力によつてのみ、貴い種類の感情が人間の頭腦の內に花咲く力を得たのであらう、――母性愛の助けによつてのみ、靈界に對する高尙なる種類の信任が生れ出づる事を得たのであらう。

 

 しかしこの種類の空想は自然に私共を導いて、何處へ行く及び何處より來れるの神祕に關する情緖的質問に自答させる。進化論者は母性愛を單に物質的親和力――原子と原子の引力の必要なる結果と考へねばならないだらうか。或は東洋の古への思想家とともに、凡ての原子傾向は一つの永久の道德法によつて律せられる事、それから或者は、四つの大きな感情の表現であるから、それ自身神聖である事を進んで主張する事ができようか。……如何なる智慧が私共のために決定を與へてくれるであらう。それから私共の最高の感情は神聖である事を知つた處で――人類そのものが絕滅すべく運命をもつて居る以上、――何の役に立つか。母性愛が人類のためにその最善をつくした時、その最善が無駄であつた事にならないだらうか。

[やぶちゃん注:「東洋の古への思想家」老子・荘子・孔子であろう。

四つの大きな感情」喜怒哀楽。但し、ここで小泉八雲が言っているのは、仏教で言う「七情(しちじょう)」、「喜・怒・哀・楽・愛・悪(お)・欲」という抑制すべきものとしてではなく、人間が人間たる所以としての絶対的属性を主張すること(者)を指して言っている。但し、「それ自身神聖である事を進んで主張する事ができようか」という留保部分には、仏教の「七情」という戒があることを意識しているとは言える。]

 

 初めに考へた所では、全くこの避くべからざる絕滅は想像し得る悲劇の中の最も暗黑なるもの、――最大の悲劇に見えるに相違ない。結局私共の地球は死滅するに相違ない、空氣の碧い靈も消散し、海は涸れ、土さへも全然無くなつて、殘るものは砂と石の廣漠たる荒敗――世界の枯渴した屍――だけになるに相違ない。それでも暫らくはこのミイラが太陽のまはりをまはるであらうが、ただ死んだ月が今日、夜を橫切つてまはるやうに――一方は永久に焦げるやうな炎を舉げ、他方は氷のやうな暗黑のままでまはるであらう。そんな風に髑髏のやうに白く、禿げて、まはるであらう、それから髑髏のやうに晒され、ひびが入り、それから崩れて、絕えず、その燃える親なる太陽の方へ、近く引寄せられて、最後にその旋風の如き呼吸の電光のうちに、不意に消滅するであらう。一つ一つ殘りの惑星も同じ跡を追ふであらう。それからその巨大な星、太陽それ自身も衰へて來る、――光の色物すごく變つて動搖し――赤くなつてその死の方へ赴くであらう。それから最後にこの巨大な、裂目のある燃えがらは、どこかの巨大な太陽の燃燒材料の中へまき込まれて、幽靈の見る夢の中の夢よりももつと稀薄な蒸汽となつて消えるであらう。……

 それなら、これまでの一生――際限のない深淵のうちに消失した跡を示すべきしるしさへもなくなつた一生の働きは、何の役に立つであらう。それなら母性愛に何の價値があらう、犧牲と希望と記億、――その聖い喜び、さらに一層聖い苦痛、――その微笑と淚と神聖な愛撫、消失した無數の神々に對するその熱心なる無數の祈り――のあつた人間の愛情の亡びた世界全體に何の價値があらう。

 

 こんな疑や恐れは東洋の思想家を惱ます事はない。西洋の人を惱ます理由は重に誤れる思想の習慣、及びそのために私共がそれ程長く、靈魂と呼んで來たものは本質でなく形體に屬するものなることを承知する事が、盲目的に恐ろしいからである。……形體は永久に連續して現れ又消える、しかし本質だけはである。百萬の宇宙は消散しても、眞なるものは失はれない。全き破滅、永久の死、――總てこんな恐怖の言葉は、永久の變化の法則を除いて、外に何等眞なるものに關係する處はない。形體が亡びると云つても、波が去つて碎けると同じ事にすぎない、ひき去るのは新たに又漲るためである、――何物も失はれる事はない。……

 雲散霧消した私共のもやのうちに、これまで人生にあつたものの總ての本質、――善なり惡なりをつくる力の遺傳、その親和力、その傾向、幾百萬代の間に蓄積された凡ての勢力、これまで人種の强さをつくつた凡ての精力をもつて、――これまであつたもの及び現在あるもの凡て一つ一つの存在物は生き殘るであらう。――それから數へ切れぬ程、度々これ等のものが、生命と思想を得るやうに形成されるであらう。變形變質も行はれるであらう。親和力の多少、偏向の增減によつて變化も又起るであらう。卽ち私共の塵がその時、數へられない程の他の世界、及びその人類の塵と混淆して居るだらうから。しかし本質そのものは何も失はれてゐない。私は必ず未來の宇宙を造るために――そのうちから新たなる智慧が徐ろに進化して來るその實質に――私共の分を遺すであらう。消散した無數の世界から私共の精神作用の幾分を遺傳したに相違ないと同じく、未來の人類も、私共からばかしでなく、又今日存在して居る數百萬の惑星からも遺傳するであらう。

 私共の世界の消滅は、宇宙の消滅から見れば、思ひが消滅した只一つの極めて小さい例を表はすに過ぎない。私共と同じ運命にあふべき人類の棲息せる天體の數は天に見ゆる光よりも多いから。

 しかしその無數の太陽の火とそれに伴ふ目に見えない數百萬の生きた惑星は、とにかく再び現れるに相違ない、再び自ら消滅して自ら生れ出た不可思議な宇宙は、永遠の深淵を超えて恒星としての𢌞轉を再び續けるであらう。それから死と永久に爭つた愛は再び永遠の戰を新たにするために、苦痛の新しい無窮を通つて起き上るであらう。

 母の微笑の光は私共の太陽よりも長く生きるであらう、――母のキスの動悸は星の動悸以上に續くであらう、――母の子守歌のよい音調は、未だ出現しない世界の子守歌までにも殘るであらう、――母の信仰のやさしさは、他の天の神々――現在の以外の時の神々に對してなすべき祈禱に熱を加へるであらう。それから母の胸の甘い乳汁は決して止まる事はない。その白い流れは私共の夜の天にかかつて居る天の河が、永久に空間から消失して居る頃、私共の人生よりもつと完全な人生の生命をはぐくむために、續いて流れるであらう。

2019/09/13

小泉八雲 尋常の事 (田部隆次譯)

 

[やぶちゃん注:本篇(原題“ A Matter of Custom ”)は一九〇二(明治三五)年十月にニュー・ヨークのマクミラン社(MACMILLAN COMPANY)刊の“ KOTTŌ ”(来日後の第九作品集)の話柄数では十五番目に配されたものである。作品集“ KOTTŌ ”はInternet Archive”のこちらで全篇視認でき(本篇はここから。但し、これは翌一九〇三年の再版本である)、活字化されたものは“Project Gutenberg”のこちらで全篇が読める(本篇はここから)。

 底本は上記英文サイト“Internet Archive”のこちらにある画像データをPDFで落し、視認した。これは第一書房が昭和一二(一九三七)年一月に刊行した「家庭版小泉八雲全集」(全十二巻)の第八巻全篇である。★【2025年3月26日底本変更・前注変更】時間を経て、国立国会図書館デジタルコレクションに本登録し、現行では、以上の第一書房版昭和六(一九三一)年一月に刊行した「學生版小泉八雲全集」(全十二巻)の第七巻が、国立国会図書館デジタルコレクションで公開されてある。(リンクは扉だが、「學生版」の文字はない。しかし、奥附を見て貰うと『學生版 【第二囘豫約】』とあり、『昭和六年一月十日 發行』とあることが確認出来る)、これが、前掲の底本と同じものであるが、やはり、外国のサイトのそれを底本とするのは、日本人小泉八雲に失礼であると考えた。されば、こちらで、再度、以下の「骨董」の作品群を改めて校正することとする。これが――私の小泉八雲への「義」――である。なお、之よりも前の元版の全集等が先行しているものの、私がそれらと比べた結果、実は先行する同社の「小泉八雲全集」のそれらは、訳が一部で異なっており、訳者等によって、かなりの補正・追加がされていることが、今回の正字補正作業の中で、はっきりと判って来た。いや、同じ「家庭版」と名打ったネット上の画像データでも、驚いたことに、有意に異なっていたのである。そうした意味でも――完全な仕切り直しの総点検――が必要であると決したものである。従って、旧前振りの括弧・鍵括弧の問題も、拡大とガンマ補正で確認し、正確を期する。新底本の本話はここから。

 傍点「﹅」は太字に代えた。挿絵は底本にはないが、原本では各話の前後に同じ絵がサイズを変えて配されてある。“Project Gutenberg”版にある最初に配された大きい方のそれを使用した。挿絵画家は既に述べた通り、佐賀有田の生まれの画家江藤源次郎(えとうげんじろう 慶応三(一八六七)年~大正一三(一九二四)年)である。但し、本底本最後の田部隆次氏の「あとがき」によれば、『マクミランの方でヘルンが送つた墓地の寫眞と「獏」の繪「獏」の繪の外に、當時在英の日本畫家伊藤氏、片岡氏などの繪を多く入れたので、ヘルンは甚だ喜ばなかつたと云はれる』とある。それを考えると、挿絵の多くは、スルーされた方が、小泉八雲の意には叶うと言うべきではあろう。

 田部隆次(たなべりゅうじ 明治八(一八七五)年~昭和三二(一九五七)年)氏については先に電子化した「人形の墓」の私の冒頭注を参照されたい。

 簡単な私の注も添えた。【2019年10月9日追記】なお、この主人公(話者)の禅僧については、底本の田部隆次氏の「あとがき」に『當時牛込區富久町八番地臨濟宗妙心寺派道林寺の住職であつた丹羽雙明師』と特定され、その事蹟も非常に詳しく載っているので、是非、読まれたい。

 

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  尋常の事

 

 時々私をおとづれる禪宗の老僧、――生花その外古い藝術の名人――がある。色々の古風な信仰に反對の說敎をして綠起や夢合などを信じないやうに說き、ただ佛の敎をのみ信ずるやうに勤めて居るが、それでも檀家には評判がよい。禪宗の僧でこんなに懷疑的なのも少い。しかしこの私の友人の懷疑も絕對ではない、先日遇つた時、話は死者の事に及んだが、何だか氣味の惡い事を聞かされた。

 

 『幽靈だの、お化けのと云ふ事は愚僧は信じない』僧は云つた、『時々檀家の人が來て幽靈を見た、不思議な夢を見た、と云つて來る、しかし詳しく尋ねて見るとそれには相應の說明のつく事が分つて來る。

 『たゞ、愚僧は一生に一度中々說明のつかない妙な經驗をした事がある。その頃九州にゐて若い沙彌であつた、若い時にはだれもやらねばならぬ托鉢をやつてゐた。或晚山地を旅して居る間に禪寺のある村に着いた。きまり通りそこへ行つて宿を賴んだが、主僧は何里か離れた村へ葬式に出かけて、一人の老尼だけが留守に殘つてゐた。尼は主僧の留守中、人を入れる事はできない、それから主僧は七日間は歸るまいと云つた。……その地方では檀家に死人があれば、僧が行つて七日の間、每日讀經して佛事を行ふ習慣となつてゐた。……愚僧は食物はいらない、たゞ眠る所さへあれば結構と云つた。その上非常に疲勞して居る事を話して賴んだので、尼はたうとう氣の毒がつて、本堂の須彌壇の近くに蒲團を敷いてくれた。橫になると愚僧はすぐに眠つてしまつた。夜中に――大層寒い晚であつたが――愚僧の休んで居る近くの所で木魚をたたく音と、誰かが唱へる念佛の聲で眼がさめた。眼を開けたが、寺は眞暗で、――鼻をつままれても分らない程の暗さであつた。それで愚僧は不思議に思つた。こんな暗がりのうちで木魚をたたいたり、讀經をしたりするのは一體誰だらう。しかし響きは初めは餘程近いやうだが、何だかかすかでもあつた、それでこれは自分の思ひちがひに相違ないとも考へて見た、――主僧が歸つて來て寺のどこかでお勤めをして居るのだとも考へて見た。木魚の音と讀經の聲に頓着なく、愚僧は又寢込んで、そのまま朝まで眠りつづけた。それから起きて顏を洗つて着物を整へるとすぐに老尼をさがしに行つた。それから昨晚の御禮を云つたあとで、「昨夜あるじは御歸になりましたね」と云つて見た。「歸りません」老尼の答は意地惡さうであつた。「昨日申しました通り、もう七日間は歸りません」「ところで昨晚誰か、念佛を唱へて木魚をたたくのを聞いたので、それで、あるじが御歸りになつた事と思ひました」と愚僧は云つた。「あ〻それならあるじぢやありません、それは檀家です」と老尼は叫んだ。愚僧は分らなかつたから「誰です」と尋ねた。「勿論死んだ人です。檀家の人が死ぬといつでもさう云ふ事があります。そのほとけは木魚をたたいて念佛を唱へに來ます」……老尼はそんな事には長い間慣れて來たので、云ふまでもない事と思うて居るやうな口振で云つた』

[やぶちゃん注:「沙彌」「しやみ(しゃみ)」或いは「さみ」。サンスクリット語「シュラーマネーラ」の漢音写。出家はしているものの、まだ具足戒(出家者としての生活に入ろうとする者は、これを受けて初めて出家者の集団(僧伽)に入ることができた。「四分律」では,男性の修行者は二百五十戒,女性は三百四十八戒であるとされ、数が異なるのみでなく、内容的にも差異がある)を受けず、出家修行者である比丘になる以前の少年(本邦では通常は二十歳未満で具足戒を受ける)を指す。

「須彌壇」「しゆみだん(しゅみだん)」は堂内に仏像を安置するために、床面より高く設けられた壇で、須弥山(しゅみせん:サンスクリット語「スメール」「メール」の音写。仏教やヒンドゥー教で、世界の中心にあると考えられている想像上の山。山頂は神々の世界に達し、周囲は幾重もの山岳や海に囲まれているという。ヒンドゥー教の文献などでは、時に「黄金の山」などとも呼ばれ、中国語訳では「妙高」「安明」などと訳される)を模したものとされる。平面は普通は四角であるが、八角・円形などもある。なお、古くは土製・石製で比較的簡素なものであったが、平安時代以降に堂内が板敷となるに伴い、木製に変化するとともに諸種の荘厳(しょうごん)が加えられるようになった。]

小泉八雲 餓鬼 (田部隆次譯)

 

[やぶちゃん注:本篇(原題“ Gaki ”)は一九〇二(明治三五)年十月にニュー・ヨークのマクミラン社(MACMILLAN COMPANY)刊の“ KOTTŌ ”(来日後の第九作品集)の話柄数では十四番目に配されたものである。作品集“ KOTTŌ ”は“Internet Archive”のこちらで全篇視認でき(本篇はここから。但し、これは翌一九〇三年の再版本である)、活字化されたものは“Project Gutenberg”のこちらで全篇が読める本篇はここから)。

 底本は上記英文サイト“Internet Archive”のこちらにある画像データをPDFで落し、視認した。これは第一書房が昭和一二(一九三七)年一月に刊行した「家庭版小泉八雲全集」(全十二巻)の第八巻全篇である。★【2025年3月26日底本変更・前注変更】時間を経て、国立国会図書館デジタルコレクションに本登録し、現行では、以上の第一書房版昭和六(一九三一)年一月に刊行した「學生版小泉八雲全集」(全十二巻)の第七巻が、国立国会図書館デジタルコレクションで公開されてある。(リンクは扉だが、「學生版」の文字はない。しかし、奥附を見て貰うと『學生版 【第二囘豫約】』とあり、『昭和六年一月十日 發行』とあることが確認出来る)、これが、前掲の底本と同じものであるが、やはり、外国のサイトのそれを底本とするのは、日本人小泉八雲に失礼であると考えた。されば、こちらで、再度、以下の「骨董」の作品群を改めて校正することとする。これが――私の小泉八雲への「義」――である。なお、之よりも前の元版の全集等が先行しているものの、私がそれらと比べた結果、実は先行する同社の「小泉八雲全集」のそれらは、訳が一部で異なっており、訳者等によって、かなりの補正・追加がされていることが、今回の正字補正作業の中で、はっきりと判って来た。いや、同じ「家庭版」と名打ったネット上の画像データでも、驚いたことに、有意に異なっていたのである。そうした意味でも――完全な仕切り直しの総点検――が必要であると決したものである。従って、旧前振りの括弧・鍵括弧の問題も、拡大とガンマ補正で確認し、正確を期する。新底本の本話はここから。

 傍点「﹅」は太字に代えた。挿絵は底本にはないが、原本では各話の前後に同じ絵がサイズを変えて配されてある。“Project Gutenberg”版にある最初に配された大きい方のそれを使用した。挿絵画家は既に述べた通り、佐賀有田の生まれの画家江藤源次郎(えとうげんじろう 慶応三(一八六七)年~大正一三(一九二四)年)である。但し、本底本最後の田部隆次氏の「あとがき」によれば、『マクミランの方でヘルンが送つた墓地の寫眞と「獏」の繪「獏」の繪の外に、當時在英の日本畫家伊藤氏、片岡氏などの繪を多く入れたので、ヘルンは甚だ喜ばなかつたと云はれる』とある。それを考えると、挿絵の多くは、スルーされた方が、小泉八雲の意には叶うと言うべきではあろう。

 田部隆次(たなべりゅうじ 明治八(一八七五)年~昭和三二(一九五七)年)氏については先に電子化した「人形の墓」の私の冒頭注を参照されたい。

 底本の最後に纏めてポイント落ち字下げで示されてある原註・譯註は、注記号の位置の近くの適切な位置に、字下げせず、本文同ポイントで附した。簡単な私の注も添えた。]

 

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  餓 鬼

 

   ――「那伽犀那尊者よ、この世に夜叉と云ふ

      やうなものは居りますか」

   ――「居りますとも、王よ」

   ――「彼等はいつか、その夜叉たるの狀態を

      脫離いたしますか」

   ――「はい、いたします」

   ――「しかし、尊者よ、もしさうとすれば、

      夜叉の遺骸なるものを見たもののない

      のは……どう云ふ理由ですか」

   ――「その遺骸はあります、大王よ。……惡

      き夜叉の遺骸は、蠕蟲、甲蟲、蟻、蛇、

      蠍、及び百足……の體形となつて現は

      れてゐます」――

               ――「彌蘭陀王問經」譯註一

譯註一 「彌蘭陀王問經」は一國の大權を統率する王者と三界の大導師をもつて任ずる一僧との佛敎の敎理に關する質問應答を集成したもの。問者ミランダ王(ミリンダ或はメナンダ)はギリシヤよりアフガニスタンに到るギリシヤ種族の大王、答者ナガセナは中印度の名僧、ともに紀元前百十年頃の人々。この經の邦語譯は國譯大藏經にある。

[やぶちゃん注:添辞は底本ではポイント落ち。

「那伽犀那尊者」現行、「なかさいなそんじゃ」と読まれるが、小泉八雲の原文(英訳)では“Nagasena”で「ながせんな」である。この音の方が私にはしっくりくる。何故かというと、彼は十六羅漢の第十二とされる阿羅漢(あらかん/あらはん:サンスクリット語「アルハット」が語源らしく、直訳すると「~するに値する人」「~を受ける資格のある人」という意で、「修行を完成して尊敬するに値する人」「悟りを得た人」「悟りをひらいた高僧」の意)である。しばしば羅漢図では、巨大な蟒(うわばみ)に座して描かれるが、古代インド神話に於いてサンスクリット語で「蛇神」「蛇の精霊」を「ナーガ」と呼ぶからである。

「夜叉」は古代インド神話に登場する鬼神。後に仏教に取り入れられると、護法善神の一尊となったが、ここで語られているのは、原義の鬼神である。ウィキの「夜叉」によれば、『一般にインド神話における鬼神の総称であるとも言われるが、鬼神の総称としては他にアスラという言葉も使用されている(仏教においては、アスラ=阿修羅は総称ではなく固有の鬼神として登場)』。『夜叉には男と女があり、男はヤクシャ(Yaksa)、女はヤクシーもしくはヤクシニー と呼ばれる。財宝の神クベーラ(毘沙門天)の眷属と言われ、その性格は仏教に取り入れられてからも変わらなかったが、一方で人を食らう鬼神の性格も併せ持った。ヤクシャは鬼神である反面、人間に恩恵をもたらす存在と考えられていた。森林に棲む神霊であり、樹木に関係するため、聖樹と共に絵図化されることも多い。また水との関係もあり、「水を崇拝する(yasy-)」といわれたので、yaksya と名づけられたという語源説もある。バラモン教の精舎の前門には一対の夜叉像を置き、これを守護させていたといい、現在の金剛力士像はその名残であるともいう』とある。

「彌蘭陀王問經」ウィキの「ミリンダ王の問い」によれば、『Milinda Pañha』(『ミリンダ・パンハ)は、仏典として伝えられるものの一つであり、紀元前』二『世紀後半、アフガニスタン・インド北部を支配したギリシャ人であるインド・グリーク朝の王メナンドロス』Ⅰ『世と、比丘ナーガセーナ(那先)の問答を記録したものである。パーリ語経典経蔵の小部に含まれるが、タイ・スリランカ系の経典には収録されていない(外典扱い)。ミャンマー(ビルマ)系には収録されている』。『戦前のパーリ語経典からの日本語訳では』「彌蘭王問經」「彌蘭陀王問經」『(みらん(だ)おうもんきょう)とも訳される』とある。成立経緯や内容はリンク先を見られたい。]

 

     

 

 これまでただ朧げにのみ知られた眞理――種々なる推理の方法によつて始めて曖昧ながら達せられた信仰――が突然感情上の信念と云ふ明白な性質を帶びて來る時が一生のうちにある。こんな經驗が先日駿河の海岸で私に起つた。汀を飾る松の樹の下に休んで居る間にその時刻の輝いた穩かさと生命を與ふる暖さの故で、――風と光の動搖する悅びの故で――甚だ不思議にも、私の古い信仰が蘇つて來た。萬有は一と云ふ信仰である。風のそよぎ、波の走りも、――影のどの閃きも、日光のどの動搖も、――空と海の靑色も、――陸の大きな綠の靜寂も、――自分と同一であると感じた。始りはなかつたらう――終りもなからうと云ふ事を、一種新しい不思議な風に信じて來た。しかしその時感じたこの考は新しいものではない、ただこの經驗の新奇な點は、この考は全く特別の强さをもつて現れて來て、私に、閃き飛ぶ蜻蛉も、長い灰色のこほろぎも、頭上に鳴く蟬も、松の木の根で動く小さい赤い蟹も、悉く皆自分の兄弟姉妹であると感じさせた事であつた。私はこれまでは分らなかつたが、今始めて、自分の魂と云ふ不可思議なものが、過去の種々の體形の生存狀態のうちに生きてゐるに相違ない事、それから今後數百年の間無數の未來の生存狀態の眼によつてやはり續いて必ず太陽を見るに相違ない事を悟つたやうに思つた。それから私は長い灰色のこほろぎの長いのろい心、――矢のやうに閃きながら飛ぶ蜻蛉の心、――日に暖まりながら鳴く蟬の心、――松の根の間から鋏を上げるいたづらの小さい蟹の心、――その心になつて見ようと思つた。

[やぶちゃん注:「駿河の海岸」ほぼ間違いなく焼津である。「小泉八雲 燒津にて 大谷正信譯 附・やぶちゃん注」の私の冒頭注を参照されたい。【後日追記】但し、以上の神秘的経験は、後に電子化した「小泉八雲 海のほとりにて (大谷正信譯)」で、より詳細に描出されているので、是非、読まれたい。施餓鬼棚の絵もある。

 

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[やぶちゃん注:この附近に挿絵がある。一目瞭然、江藤源次郎ではない。左に署名があるが、「貞景」か。だとすると、江戸後期の浮世絵師歌川貞景(初代 生没年未詳 文政・天保(一八一八年~一八四四年)頃の人で、初代歌川国貞の門人である。江戸目白台但馬屋敷に住み、国貞風の美人画を得意とした。二代貞景も初代国貞の門人で、五湖亭の号を継いでいる。判らない。描かれた仏画は象に乗っているから、まず普賢菩薩と考えるのが普通だ。理知・慈悲を司り、また延命の徳を備える。文殊とともに諸菩薩の首位に置かれる。「一」の段落の万有の全一性と関わらぬとも言えないが、私にはぴんとはこない。外国人読者は添辞の「那伽犀那尊者」かと思うのではなかろうか? まあ、大蛇に乗るんだから、象にも乗ろうとは思う。第一、普賢菩薩が経文(だろう)を読んでいるというのは、これ、見たことがない。識者の御教授を乞う。]

 やがて私はこんな事を考へると來世に於ける私の魂の細胞の改造に何か影響せぬであらうかと疑つた。數千年間、東洋では、この世での思ひ又行ひは、――何か元子傾向の形成、或は兩極性のために、――私共の體の未來の位置、及び私共の心の未來の狀態を決定すると敎へられて居る。この說には成程と思はれる所がある、――しかし如何程考ヘて見ても、この說を確める事も、反駁する事もできない。他の佛說と同じく、大方何か洪大無邊の眞理を暗示して居るやうである、しかしその文字通りの立論には疑がある。卽ち思ひと云ふ事を强く見てある點は、疑はねばならないからである。私の心も體も、無限の過去全體によつて造られたのである。しかし刹那の念が、どうして永劫の力に反して、私を造り直す事ができよう。……佛敎では、その次第を述べて居る。それから、その述べ方には反駁ができない、――しかし私は疑ふ。

[やぶちゃん注:「何か元子傾向の形成、或は兩極性のために、」これでは何となく日本語として難しく言い換えをされて誤魔化された感じのする半可通な表現に見えるが、確かに原文は“—through some inevitable formation of-atom-tendencies, or polarities,—”で難解である。「避けることが出来ない絶対的必然としての属性を持つ最小単位としての原子(げんし)のその傾向、又は、対峙対象の絶対的必然としての極性の形成を通して、」と訳してみるが、これも半可通の謗りを免れまい。因みに、一九七五年恒文社刊の平井呈一氏の訳(「骨董・怪談」)の「餓鬼」では、『ある原子の性向の必然的な形成、つまり、帰一性によって、』と訳されている。これは躓かない。躓かないが、しかし、その訳でよいかと考えると、ちょっと、首をひねってしまうのである。]

 とにかく佛說によれば行ひも思ひも、ものを創造する。見ゆるものは行ひと思ひによつて造られる、星の宇宙でも形と名のある一切のものでも、それから總ての種類の存在も。私共の思ひも行も刹那のものでなく無限の時のものである。世界を造る事、――未來の幸福と苦痛を作る事に向けられる力である。これを記憶すれば、私共は神々の境に向上する事ができる。それを無視すれば再び人間に生れかはる權利をもなくして、地獄に再生する程の罪はなくとも、動物、昆蟲、或は餓鬼の形體となつて生を受けねばならぬやうになる。

 來世に於て昆蟲となるか餓鬼となるかは、全く私共自身の故である、それから佛敎の系統では、昆蟲と餓鬼の相違は思つた程よく差別はしてない。幽靈と昆蟲、むしろ靈魂と昆蟲との不可思議なる關係に關する信仰は、東洋では非常に古い信仰で、無數の形式となつて存して居る、――非常に恐ろしい名のもあれば又物凄い美しさのこもつたものもある。キラカウチ氏譯註二の『白蛾』は小說としては日本の讀者は何とも思ふまい。卽ち夜の蛾或は蝶は多くの日本の歌や傳說には死んだ妻の魂として現れて居るからである。夜鳴くこほろぎの細い悲しい啼聲は、或は昔人間であつたもののなげきの聲である、――蛾の頭の上の妙な赤いしるしは戒名の文字である、――蜻蛉やこほろぎは死者の馬である。總てこれ等の昆蟲は愛情に近い憐みをもつて憐まるべきである。しかし有害な危險な昆蟲は別種の業報――怪物魔神を生ずる業報の結果の現れたものである。こんな蟲には物すごい名のついたのがある。例へば「うすばかげろう」を「蟻地獄」と云ふ、蛙や魚を捕へて生きたまま喰べて、河童の恐ろしい傳說を極めて小さく實現する大きな「がむし」を「河童蟲」と云ふ。蠅は又殊に餓鬼と同一視される。蠅の季節になると惱まされる人が「今日の蠅は餓鬼のやうだ」と云つて居るのをどんなによく聞く事であらう。

譯註二 サー・アーサー・キラカウチ(Sir Arthur Quillcller-Couch 一八六三――)英國の小說家兼批評家。

[やぶちゃん注:アーサー・トーマス・キラークーチ(Sir Arthur Thomas Quiller-Couch 一八六三年~一九四四年(本底本は昭和一二(一九三七)年刊)なので存命中)はイギリスの小説家・文芸評論家・大学教授。「Q」のペンネームで、数々の人気小説を書いた。参照したウィキの「アーサー・キラークーチ」によれば、『コーンウォール、ボドミンに生まれる。オックスフォード大学で教育を受けた後執筆業に携わ』った。一九一二年『ケンブリッジ大学エドワード』Ⅶ『世英文学教授職に』就いた。一九一七年には『ケンブリッジ大学英文科』を『設立』している。『その小説は今ではもはや読まれることが少なくなり、文学論も、後発のリーヴィス』(F・R・リーヴィス(Frank Raymond Leavis 一八九五年~一九七八年:イギリスの評論家、ケンブリッジ大学で緻密な実践批評を推進した)『らに批判されたが、英文学を独立した学問として発展させた功績は少なくない』とある。

「うすばかげろう」有翅昆虫亜綱内翅上目脈翅(アミメカゲロウ)目ウスバカゲロウ(薄翅蜉蝣)上科ウスバカゲロウ科 Myrmeleontidae に属するウスバカエロウ類(種群)を指す。彼らは真正のカゲロウ類(節足動物門昆虫綱カゲロウ目 Ephemeropteraに属するカゲロウ類)ではない。それについては、「生物學講話 丘淺次郞 第八章 團体生活 一 群集」の私の「かげろふ」の注を読まれたい。

「蟻地獄」ウスバカゲロウ類の中の一部の幼虫を「アリジゴク(蟻地獄)」と呼ぶ(総てのウスバカゲロウ類がアリジゴク幼生を過ごすわけではない)ウィキの「アミメカゲロウ」によれば、『捕らえた獲物には消化液を注入し、体組織を分解した上で口器より吸汁する。この吐き戻し液は獲物に対して毒性を示し、しかも獲物は昆虫病原菌に感染したかのように黒変して致死する。その毒物質は、アリジゴクと共生関係にあるエンテロバクター・アエロゲネスなどに由来する。生きているアリジゴクのそ嚢に多数の昆虫病原菌が共生しており、殺虫活性はフグ毒のテトロドトキシンの』百三十『倍といわれている』。『吸汁後に残る外骨格は、再び大顎を使ってすり鉢の外に放り投げる。 アリジゴクは飢餓と渇きに強く』、一『ヶ月以上飲まず食わずで体が小さく縮まっても生存している』。『アリジゴクは、後ろにしか進めないが、初齢幼虫の頃は前進して自ら餌を捉える。また、アリジゴクは肛門を閉ざして糞をせず、成虫になる羽化時に幼虫の間に溜まった糞をする。幼虫は蛹になるとき土中に丸い繭をつくる。羽化後は幼虫時と同様に肉食の食性を示す』。『かつてはウスバカゲロウ類の成虫は水だけを摂取して生きるという説が存在したが、オオウスバカゲロウなど一部の種では肉食の食性が判明している』。『成虫も幼虫時と同じく、消化液の注入により』、『体組織を分解する能力を備えている。ウスバカゲロウの成虫はカゲロウの成虫ほど短命ではなく、羽化後』二=三『週間は生きる』。『一般にはアリジゴクは、羽化時まで糞だけでなく尿も排泄しないということが通説化していたが』二〇一〇『年にこれが覆されたと報道された』。『報道によれば、千葉県袖ヶ浦市在住の小学校』四『年生がアリジゴクの尻から黄色い液体が出ることを発見し、日本昆虫協会に報告した』。一九九八『年には研究者が「糞は排泄しないが尿はする」ことを調べ、尿の成分に関する論文も発表していたが』、『多くの人が長年確かめようとしなかった昆虫の生理生態を小学生が自力で発見したことが評価され、この研究に対して協会より「夏休み昆虫研究大賞」が授与された』とある。

『蛙や魚を捕へて生きたまま喰べて、河童の恐ろしい傳說を極めて小さく實現する大きな「がむし」を「河童蟲」と云ふ』鞘翅(コウチュウ)目多食(カブトムシ)亜目ハネカクシ下目ガムシ上科ガムシ(牙虫)科 Hydrophilidae のガムシ類。ウィキの「ガムシ」によれば、『多くの種は淡水の水中で生活するが、水生昆虫として同様に繁栄しているゲンゴロウ類(形態・習性に似るところがあるが、鞘翅目食肉(オサムシ)亜目オサムシ上科ゲンゴロウ科ゲンゴロウ亜科 Cybistrini 族ゲンゴロウ属ゲンゴロウ Cybister chinensis で全く縁遠い)『と異なり、必ずしもすべての種が典型的な水生昆虫というわけではない(およそ』三分の一『が陸生)。ただし、典型的な水生昆虫ではない種であっても』、『全く水に縁がない訳ではなく、湿原の水際の地表であるとか、ウシやウマのような湿り気の多い塊状の糞をする草食獣の糞塊中が、いわゆる陸生のガムシ類の生活の場である』。『成虫の食物はおおむね水中のデトリタスである。しかし、ガムシ』(Hydrophilus acuminatus:体長三十二~三十五ミリメートルで日本産ガムシ科中最大種)『やコガタガムシ H. bilineatus cashimirensis』『のような大型種では、アオミドロのような糸状藻類、クロモのような水生植物もよく摂食する。ゲンゴロウ類のように生きた動物を襲うことはあまりないが、死んだ動物質を与えると』、『積極的に摂取するものが多い。陸生ガムシ類のうち、草食獣の糞塊で暮す種は、糞自体を摂食する糞食性と考えられる』。『呼吸に必要な空気の大半は上翅と腹部の間の空隙に蓄えられるが、表面張力によって体の腹面に密生した細毛の間にも保持される。上翅の下の空気の塊と、腹面に保持された空気の塊は腹部の両脇越しに連結しており、呼吸によってこの空気塊の酸素が消費され、二酸化炭素が増加すると、水に広い面積で接した腹面の空気塊から水中への二酸化炭素の溶出と水中の溶存酸素の空気塊への拡散が起こると考えられる。こうして保持した空気の中の酸素が不足してくると、ガムシ類の成虫は水面に浮上するが、ゲンゴロウ類と異なり尾端ではなく、頭部の側面を水面に接する。頭部にある、「くの字」状で先端に球桿がある』一『対の触角は、水中では水中に突き出されることはなく、腹面の空気塊の中に折りたたまれているが、この時になると』、『頭部の水面に接した側の側面の触角を空気塊をまとわりつかせたまま伸ばし、腹面の空気塊を水面上の空気と連結させてしまう。するとすかさず腹部をポンプのように動かして上翅の下に蓄えられた空気を出し入れして、体に保持した空気を入れ替えてしまう』。『ゲンゴロウと同じように飛翔力を持ち、夜間、灯火に飛来することがある』とある。ヒトにも噛みつき、かなり痛いのでご用心。それにしても、「河童虫」とは実に謂い得て妙である。但し、辞書類では、「河童虫」を半翅(カメムシ)目異翅(カメムシ)亜目タイコウチ下目タイコウチ上科コオイムシ科タガメ亜科タガメ属 タガメ Kirkaldyia deyrolli の異名としている。]

 

 

     

 餓鬼に關する古い日本の、或はもつと正しく云へぱ、支那の佛典では餓鬼の名は大槪梵語になつて居る。中には支那の名しかないものもある。印度の信仰は支那及び朝鮮を經て日本に渡來したものだから途中で特別の着色を受けたらしい。しかし大體に於て餓鬼の日本の分類は餓鬼の印度の分類とよく似て居る。

 佛法では餓鬼道はあらゆる存在の最下層なる地獄道からただ一階だけ離れて居る。地獄道の上は餓鬼道、餓鬼道の上は畜生道、その又上は修羅道、その上が人間道になつて居る。

[やぶちゃん注:その上に「天上道」があり、これらを「六道」と呼ぶ。ウィキの「六道」によれば、天上道は『天人が住まう世界で』、『天人は人間よりも優れた存在とされ、寿命は非常に長く、また苦しみも人間道に比べてほとんどないとされる。また、空を飛ぶことができ享楽のうちに生涯を過ごすといわれる。しかしながら』、『煩悩から解き放たれておらず、仏教に出会うこともないため』、『解脱も出来ない。天人が死を迎えるときは』五『つの変化が現れ』、『これを五衰(天人五衰)と』呼ぶ。「衣裳垢膩」(えしょうこうじ:衣服が垢で油染みる)・「頭上華萎」(ずじょうかい:頭上の華鬘(けまん)が萎(な)える)・「身體臭穢」(しんたいしゅうわい:身体が汚れて臭い出す)・「腋下汗出」(えきげかんしゅつ:腋の下から汗が流れ出る)・「不樂本座」(ふらくほんざ:自分の席に戻るのを嫌がるようになる)がそれである(異説もある)。天上道『の中の最下級のものは』、『三界のうち』、『欲界に属し、中級のものは色界に属し、上級のものは無色界に属する』とされる。]

 そこで地獄へやられた人間が、その業報が盡きると地獄から放たれるが直に人間界へ生れかはる事はなく、その間の凡ての『界』を徐々に經上[やぶちゃん注:「へあが」。]らねばならない。餓鬼の多數は地獄にゐたものである。

 しかし又地獄に墮ちた事のないものもある。或種類、或程度の罪は、この世界でその人が死んでから直ちに、餓鬼となつて再生する原因になる。最大程度の罪だけがその人を直ちに地獄に堕す。第二の程度のものは餓鬼道に堕す。第三のものは畜生道卽ち動物に再生させる。

 

 日本の佛敎は三十六の重なる[やぶちゃん注:「おもなる」。]種類の餓鬼を認める。正法念處經は云ふ、大別して云へば、餓鬼に三十六種類ある、しかし總ての異なつた種類を舉げようとすれば、その數は無數である。この三十六種類を二大別する。一は餓鬼世界住を包含する、――卽ち餓鬼道そのものに住する餓鬼であるから、人間には決して見えないもの。今一方は人中住と云はれる。この餓鬼はこの世界にいつも住して居るから時として見られる。

[やぶちゃん注:「正法念處經」(しやうぼうばふねんじよきやう(しょうぼうねんじょきょう))。新字表記「正法念処経」。全七十巻。元魏の般若流支訳。原典の成立は四~五世紀頃で、経名に「念処」とあるように、内観を通して三界六道の因果を詳しく説いており、大乗的色彩も見られて、特に地獄に関する内容が詳しく記されている。法然は「選択本願念仏集」の「十二」で、行福論の深信因果について「これに付いて二有り。一には世間の因果、二には出世の因果なり。世間の因果とはすなわち六道の因果なり。『正法念経』に説くがごとし」と記している(サイト「新纂 浄土宗大辞典」のこちらに拠った)。]

 懺悔の苛責の性質によつて、もう一つの分類がある。總ての餓鬼は飢渇に苦しむ。しかしこの苦しみにも二つの程度がある。無財餓鬼[やぶちゃん注:「むざいがき。原文ローマ字表記に拠る。以下、餓鬼名の読みはそれ。]は第一の程度を表はす。何の榮養をうける事なくして、間斷なく飢渇を覺えねばならない。少財餓鬼は[やぶちゃん注:原文“ Shōzai-gaki ”と口語表記。]は第二の程度の苦しみを受ける。彼等は時々不潔なものでも喰べる事ができる。有財餓鬼[やぶちゃん注:「うさいがき」。]はもつと幸である、彼等は人間の棄てるやうな殘飯殘肴、或は神佛の前や祖先の位牌に捧げられた供物を喰べる事ができる。このあとの二種類の餓鬼は特に面白い。それはこの餓鬼は人間の事にも干涉すると思はれて居るからである。

 近代の科學が或種類の病の性質と原因に關する正確なる知識を弘めるまでは、佛敎徒はこんな病の症を說明するに餓鬼の臆說によつた。たとへば或種頓の間歇性の熱病は餓鬼が榮養と體温を得ようとして人體に入り込むために起ると云はれた。始め患者が寒氣のために震へるのは餓鬼が寒く、つめたいからである。それから餓鬼が次第に温まるから、寒氣がなくなつて、燒けるやうな熱になる。最後に滿足した餓鬼は去る。それで熱はなくなる。しかし又別の日に、それからいつも第一回の攻擊の時刻に相當する時刻に、第二回の瘧[やぶちゃん注:「おこり」。]で又餓鬼が歸つて來た事が分る。その他の傳染性の病氣は同じく餓鬼の作用として充分に說明ができる。

[やぶちゃん注:「瘧」(田部の意訳原文は、“a second fit of ague”で「悪寒の再発」)が出てきて判るように、ここに語られているのは周期的に繰り返し発熱が起こる典型的なマラリア(熱性マラリア)の症状である。]

 

 正法念處經では三十六種類の餓鬼の大多數と腐爛、疾病、死とを結びつけてある。その他は明かに蟲類と同一になつて居る。或特別の種類の餓鬼と或特別の種類の蟲と名は同一であるわけではないが、その餓鬼の說明は蟲の生活狀態を思はせる、それから一般の迷信を知つて居るものには、一層强くさう思はせる。次のやうな餓鬼の說明は或は明瞭でないかも知れない、卽ち食血餓鬼[やぶちゃん注:「じきけつがき」。以下、総て食は「じき」。]、[やぶちゃん注:ここで田部は“the Jiki-niku-gaki, or Flesh-eaters;”を落としている。「食肉餓鬼、『肉を食らうもの』」。何故か、平井呈一氏も落としている。]食唾餓鬼食糞餓鬼食毒餓鬼食風餓鬼食香烟餓鬼[やぶちゃん注:「じきかえんがき」。原文は“the Jiki-ké-gaki, or Smell-eaters;”。原拠によるもの。]、食火炭餓鬼(飛んで火に入る蟲の如きものであらう)、疾行餓鬼(屍骸を食つて疫病を傳染させる)、熾燃餓鬼(さまよふ火となつて夜あらはれる)、鋠口餓鬼(口は針孔のやうに小さく食を得ても喰べる事ができないので飢渇する)、鑊身餓鬼[やぶちゃん注:「かくしんがき」。](沸騰した鐙瓶のやうに肉身の液をたぎらせる火熖の滿ちた白熱の坩堝のやう)。しかし次の抄錄原註一の示す所は少しも不明瞭ではない。

原註一 正法念處經より摘錄、餓鬼に關する驚くべき一章の全譯は、讀者の神經をひどく苦めるであらう。

[やぶちゃん注:ここ以下に出る餓鬼の因縁と習性は、概ね(ないものもある)ウィキの「餓鬼」に小泉八雲が示す「正法念処経」の内容で個別に細かく書かれてあるので参照されたい。但し、小泉八雲の解説とはやや異なるものもある。

 以下は、底本では、全体が三字下げでポイント落ち。]

 

食鬘餓鬼。この餓鬼は或佛像の飾りとなつて居る鬘の毛を食してのみ生きる。……佛寺から貴いものを盜む人の來世の境遇はかうなるのである。

[やぶちゃん注:読者が読むなら、「じきまんがき」だが、実際には「じきばん」が正しいウィキの「餓鬼」に、『仏や族長などの華鬘』(けまん)『(花で作った装身具)を盗み出して自らを飾った者がなる。華鬘のみを食べる』とある。]

不淨菴陌餓鬼。この餓鬼は往來の不潔物汚物をのみ食し得る。僧、尼、又は施しを行ふべき巡禮に腐敗した或は不衞生な食物を與へた結果は、この狀態である。

[やぶちゃん注:原文は“ Fujō-ko-hyaku-gaki ”「菴」は「巷」の誤字か誤植で、ウィキの「餓鬼」では住不浄巷陌(じゅうふじょうこうはく)餓鬼とあり、『修行者に不浄の食事を与えた者がなる。不浄な場所に住み、嘔吐物などを喰う』とある。]

塚間住食熱灰土餓鬼。これは火葬の薪の屑や墓石の破片を喰ふもの。……利益のために寺院を掠めたものの魂である。

[やぶちゃん注:原文は“ Cho-ken-ju-jiki-netsu-gaki ”であるが、「住塚間食熱灰土餓鬼」(じゅうちょうかんじきねつかいどがき)が正しい。ウィキの「餓鬼」に、『仏に供えられた花を盗んで売った者がなる。屍を焼いた熱い灰や土を食べる。月に一度ぐらいしか食べられない。飢えと渇き・重い鉄の首かせ・獄卒に刀や杖で打たれる三つの罰を受ける』とあり、「寺院を掠」(かす)「めたもの」とは、寺の物を盗んだ者」の意。]

樹中餓鬼。この魂は樹木の材のうちに生じてその組織の生長と共に苛責を受ける。……この境遇は、木材を賣るために、陰を與へる樹木を切倒した應報である。墓地や寺院の境內の樹水を切倒した人は殊に樹中餓鬼原註二になり勝ちである。

原註二 樹木の精に關するつぎの話は代表的なものである、――

近江國愛知川村の薩摩七左衞門と云ふ武士の家に甚だ古い榎があつた。(榎は普通お化の樹と考へられる)昔から、この家の祖先はこの榎の枝を伐る事や、その葉を除く事を決してしないやうに注意してゐた。しかし剛情な七左衞門は、或日、この樹を伐る事にしたと云ひ出した。その夜七左衞門の母の夢のうちに大きなものが現れて、榎を伐ると、この家の人を一人も生かして置かないと云つた。この警告を七左衞門に話したが、彼はただ笑つて、取合はない、それから人をやつて、その樹を伐らせた。その榎が倒れると同時に七左衞門は烈しく狂ひ出した。幾日間も發狂のままであつたが、時々「樹が、樹が、あの樹が」と叫んだ。樹が枝を手のやうにのばして自分を引き裂くと云つた。こんな狀態のままで死んだ。それから間もなく妻が發狂して、樹が自分を殺しに來たと云つて、恐怖のために叫びながら死んだ。代る代るその家の人々は悉く、下女下男まで殘らず發狂して死んだ。その家は永く住む人がなかつた、庭に入る事をさへ敢てする人はなかつた。最後にこんな事件が未だ起らない頃、この薩摩家の女が一人尼になつて、慈訓と云ふ名で、山城の或寺に居る事が分つて來た。この尼を迎へる事になつた、それから村の人々の願によつて、この尼はそれから死ぬまでその家に住んで、――每日、樹の中にゐた魂のために勤行讀經を怠らなかつた。その家に尼が住む事になつてから、樹の精は穩かになつた。この話は、尼自身の口からそれを聞いたと云ふ俊行と云ふ僧から出た確かな話である。

[やぶちゃん注:「愛知川村」滋賀県愛知郡(えちぐん)にかつてあった愛知川町(えちがわちょう)内の一部。現在の愛知郡愛荘町(あいしょうちょう)愛知川(グーグル・マップ・データ)。小泉八雲がこの話を何で知ったかは不明。デーティルが詳しく、聞書きとは思われない。発見し次第、追記する。]

 蛾、蠅、甲蟲、毛蟲、蛆、その他の不快な蟲はかくの如く表はしてあるらしい。しかし餓鬼の中には蟲と同一に視られないものがある、――たとへば食法餓鬼と云ふ種類の如きはそれである。これはどこかの寺院で說敎を聞いてゐなければ生存ができない。說敎を聽いて居る間だけ苛責は和げられるが、外の時には云ふべからざる責苦を受ける。こんな境遇に置かれさうなのは、たゞ利慾の爲めに佛法を說く僧尼の死後である。……それから時に綺麗な人間の姿となつて現れる餓鬼がある。これは慾色餓鬼[やぶちゃん注:原文“ Yoku-shiki-gaki ”。]で西洋中世時代のインキユバス、サツキユバス譯註三と云ふ男女の妖魔に相當して居る。彼等は隨意に男女の性を變ヘる、それから好きなやうに身體を大きくも、小さくもする事ができる。針の目よりも、小さい孔を通る事ができるから、聖い魔除けや呪文でなければ如何なる家からも追ひ出す事ができない。若い男を誑す[やぶちゃん注:「たぶらかす」。]には綺麗な女の姿になる、よく給仕女や舞妓[やぶちゃん注:「まひこ(まいこ)」。]となつて酒店にも現れる。女を誑すには美少年の形になる。――この欲色餓鬼の境遇は何か前世の淫慾の結果であるが、彼等の境遇に伴ふ超自然の力は、惡業報でも全く打消す事のできない善い業報の結果である。

譯註三 インキユバス及サツキユバスは、ともに中世時代に夢魔を起すものと考へられた妖魔。

[やぶちゃん注:「夢魔」は古く古代ローマ神話に起原を持ち、後の中世キリスト教で形成された悪魔の一つ。「淫魔」とも呼ぶ。夢の中に現れて性交を行うとされる下級の悪魔で、昔、睡眠中の人を襲ったり、窒息させると信じられた想像上の魔物。睡眠中の女性を犯すとされる性魔を“incubus”(インキュバス/インクブス)、男性を犯すそれを“succubus”(サッキュバス/スクブス)と呼ぶが、これらは小泉八雲の謂うように同一の存在ともされる。]

 しかし欲色餓鬼について見ても、この餓鬼は蟲になれる事が明かに述べてある。人間の姿になるのが普通であるが、また動物にでも何にでもなれる。それから「自由にどこへでも飛」べる――或は體を「小さくして人間に見えないやう」にもする事ができる。……蟲は皆、必ずしも餓鬼ではないが、大多數の餓鬼は必要に應じて蟲の形になれる。

[やぶちゃん注:仏教の餓鬼と虫の関係を見ると、小泉八雲の謂う見方(餓鬼と虫が相互変態可能とするもの)とは別な興味深い構造が見えてくる。それは餓鬼の中に毒虫に襲われて責苦を受けるものがおり、また、地獄でも虫に食われるそれがあるからで、彼らはそうした入れ子構造的変換をすることで、六道全体に転生輪廻して、謂わば「責苦を補助して応報に奉仕をしていている」とも言える点である。]

 

 

     

 こんな信仰は今日私共に奇怪に思はれるが、古への東洋の想像が蟲類と惡魔幽靈とを一緖に考へた事は不自然ではない。私共の目に見える世界では蟲類程不可思議な神祕的な動物はゐない。それから或種類の蟲類の實際の歷史は全く神話の夢を實現して居る。原始人間の心に取つては、蟲類の變形[やぶちゃん注:完全変態をする虫類を指す。]は怪しく思はれたに相違ない。枯葉や花や草の附根[やぶちゃん注:「つけね」。茎のこと。]と同一であるから、どんなに銳敏な人間の眼でも、步き出したり飛び始めたりして始めてその存在が分る程奇體な生物は妖怪變化の術としか說明できないではないか。今日の昆蟲學者に取つても、蟲類は動物の中で依然として最も不可解のものである。昆蟲學者は、――蟲類は生存競爭では「有機體中、最も成功するもの」と認められねばならない事――その構造の複雜微妙な事は、顯微鏡時代以前に驚異に値すると思はれた如何なるものよりも優れて居る事、――またその感覺の精巧な點では、私共の方が盲目で聾であると云つてよい程、私共の感覺と比べて遙かに優れて居る事を敎へて居る。それでも昆蟲の世界は、依然として絕望の謎の世界である。無數の複眼を有せる眼の祕密、それと連結せる視神經の祕密を私共に說明のできる人はあらうか。その不可思議な眼は、物質の究極の構造を透視するのであらうか、その視力はレントゲンの光線のやうに、不透明體を貫くのであらうか。(さもなければ、足長蜂が木目の內部に潛んで居る他の昆蟲の幼蟲に達するやうに、固い木を貫いてその產卵管をつきさす狙ひの手際の確かな事は、どうして說明できよう)それから胸や股や膝や足にある不思議な耳、――人間の感覺の範圍以上に音聲を聰く耳はどうして說明できよう。それからあの神仙のやうな好音[やぶちゃん注:「よきおと」と訓じておく。]を出すやうに進化して來た音樂的構造の說明は何であらう、流れる水の上を步く不可思議の足の說明は何であらう。私共の電氣科學では眞似もできない冷い綺麗な光となる――あの螢のあかりを點火する化學の說明は何であらう。それからその新しく發見された、比べものがない程、纖細な機關、――最も聰明な人々もその性質を決定する事ができないから、未だ名をつけない機關、――或人が云つて見て居るやうに、その機關によつて、人間の感覺には分らない事――磁氣が見える事、光の香ひ[やぶちゃん注:「にほひ」。]、音聲の味――が蟲類には分るやうになつて居るのであらうか。……蟲類に關して私共の知る事のできる事は極めて僅かであるが、それだけでも恐怖に近い驚きをもつて充たされるのである。手である唇、眼である角、錐である舌、同時に四通りに動く複雜な魔物の如き口、生きた鋏と鋸と孔をうがつポムプ[やぶちゃん注:「ポンプ」。]と曲り柄の錐、最も繊巧な時計ぜんまいのはがねででも、人間わざではうつしとれない微妙な魔法のやうな武器、――これ等のものを見て、古への迷信は何を想像した事であらう。實際、顏の無いものを夢に見て魘される[やぶちゃん注:「うなされる」。]事も、まぼろしの美を想像して有頂天になる事も、昆蟲學に表れた驚くべき事實と比べては、氣の拔けた空しいものとしか思はれない。しかし昆蟲の美そのものは何か妖怪らしい處、何か氣味の惡い處がある。……

[やぶちゃん注:「足長蜂」は誤訳。以下の小泉八雲の解説を見ても判る通り、これは所謂、「ファーブル昆虫記」で知られた「狩り蜂・寄生蜂」の仲間の習性で、原文は“ichneumon-fly”とある。これは昆虫綱膜翅(ハチ)目細腰(ハチ)亜目寄生蜂下目ヒメバチ上科ヒメバチ科 Ichneumonidae のそれを指すからである(足長蜂は細腰亜目スズメバチ上科スズメバチ科アシナガバチ亜科 Polistinae であり、このような他種昆虫の体内への産卵行動は行わない)。ウィキの「ヒメバチによれば、『多くのヒメバチは、メスが膜翅目、甲虫目、鱗翅目、双翅目など完全変態昆虫の幼虫や蛹、クモの成体や卵囊などに産卵し、幼虫はそれらに捕食寄生する』。『植物組織内や繭内など何かに覆われた中にいる寄主に産卵するため、多くのヒメバチのメスは、腹端から突出した長い産卵管をもっている』。『ほとんどの種は寄主の体内、体上や近傍に産卵するが、寄主に直接産卵せず葉上に産卵するヒメバチもいる』。『幼虫は細腰亜目』Apocrita『の他の種と同様の形態を取る。幼虫が成熟すると、寄主の体内、あるいはすぐ近傍で繭を作って蛹になり、羽化して成虫となる』とある。]

 

 

     

 餓鬼は存在するものかどうかは別として、死者は蟲になると云ふ東洋の信仰にはとにかく多少の眞理が漂つて居る。疑もなく私共人間の土塊[やぶちゃん注:「つちくれ」。死体が土に戻ったそれ。]は、數百萬代の間くりかへしくかへし無數の不思議な形態の生命を形成する助けをしなければならない。しかし松の樹の下の私の空想したあの問題、――卽ち現在の行ひや思ひがその土塊の未來に於ける分配及び再生に何か影響があるかどうか、――人間の行爲そのものは人間の原子が造り直される形體を豫め決定する事ができるものかどうか、――この問題については――何の答もできない。私は疑ふ――が分らない。誰にもやはり分らない。

 

 しかし宇宙の秩序は全く佛說の通りであると想像しても、それから私はこの世で何か拙い事をしたために來世には蟲の生活を送らねばならないと、豫め定まつて居る事が分つて居ると想像しても、私はその想像で驚き恐れる事はない。平氣では考へられない蟲がある、しかし獨立の高尙な機關の相應な蟲の狀態はそんなに惡いわけはない。私は多少の喜ばしい好奇心をもつて甲蟲、かげろふ、或は蜻蛉の驚くべき複眼によつて世界を見る機會を樂しみにして居る程である。かげろふとなつては、實際私は三種の違つた眼をもつて、今全く想像のできない色を見る力をもつ事ができよう。人間の時間の測定から見れば、私の生命は短いかも知れない、――夏のたゞ一日はその一生の大部分にもあたらう、しかし、かげろふの意識から見れば、二三分は一季節にも見えよう、それから私の羽のある生活の一日は――或は災難もあるだらうが、それを除いて――黃金の空氣中に踊ると云ふ疲勞のない悅びの連續であらう。それから私の羽のある生活狀態では本當の口も胃もないから飢ゑも渴きも感じないだらう。私は實際に風を食ふものとして生きる事になる。……或はそれよりももつと俗な蜻蛉の境遇になつても差支はない。その時には、私は肉食の飢ゑを感じて盛に狩をせねばなるまい、しかし蜻蛉でも烈しい狩の喜びの後に淋しい默想に耽る事ができる。その上私の羽はその時どんなものであらう――それからどんな眼であらう。……私は確に「あめんぼう」原註三になつて子供が私を捕へて、長い綺麗な足をもぎ取るかも知れないが――水の上を走つたり滑つたりできる事をさへ喜んで豫想する事ができる。しかし私はむしろ蟬――風にゆられる樹にとまつて日向ぼつこをして、露ばかり吸つて、曉から日暮まで歌つて居る大きな怠惰な蟬の生涯を樂しみたい。勿論遭遇すべき災難、――鷹や鴉や雀からの危險、――肉食蟲からの危險、――惡童のもち竿の危險、――がある。しかしどの生命の境遇にも危險はある。それにも拘らずアナクレオン譯註四の蟬の讚、『汝土より生れたるもの――歌を愛する――苦痛のない汝は――殆んど神々と同一である』と云ふ讚辭は事實を過大に云つてゐない。……實際、私は再び人間となつて再生する事をこの上もない恩澤とばかり考へる事ができない。もしかう考へてかう書く事が來世の因緣をつくるものなら、それなら私の望みはかうである、――私は杉の樹に上つて日のあたる所で極めて小さいシムバルを震動させたり、――或は紫水晶と黃金の色の翼を音もさせずに飛ばせて、蓮池の貴く靜かなあたりを往來したりする蟬か蜻蛉の生涯にせめて生れ變りたい。

原註三 日本の或地方では游泳の達人になりたいものは「あめんぼう」の脚を食はねばならないと云はれて居る。

[やぶちゃん注:ずっと調べているが、この「地方」は不詳。]

譯註四 アナクレオンは紀元前九六三年頃生れて四七八年頃歿した名高いギリシヤの抒情詩人。

[やぶちゃん注:「アナクレオン」(Anakreōn 紀元前五七〇頃~?)はギリシアの抒情詩人。ここは『小泉八雲 蟬 (大谷正信訳) 全四章~その「一」』の本文及び私の注を参照されたい。]

2019/09/12

小泉八雲 露の一滴 (田部隆次譯)

 

[やぶちゃん注:本篇(原題“ A Drop of Dew ”)は一九〇二(明治三五)年十月にニュー・ヨークのマクミラン社(MACMILLAN COMPANY)刊の“ KOTTŌ ”(来日後の第九作品集)の話柄数では十三番目に配されたものである。作品集“ KOTTŌ ”はInternet Archive”のこちらで全篇視認でき(本篇はここから。今回は標題ページから示した。添辞“Tsuyu no inochi.” “―Buddhist proverb.”はここにのみ示されてあるからである。但し、これは翌一九〇三年の再版本である)、活字化されたものは“Project Gutenberg”のこちらで全篇が読める本篇はここから)。

 底本は上記英文サイト“Internet Archive”のこちらにある画像データをPDFで落し、視認した。これは第一書房が昭和一二(一九三七)年一月に刊行した「家庭版小泉八雲全集」(全十二巻)の第八巻全篇である。★【2025年3月26日底本変更・前注変更】時間を経て、国立国会図書館デジタルコレクションに本登録し、現行では、以上の第一書房版昭和六(一九三一)年一月に刊行した「學生版小泉八雲全集」(全十二巻)の第七巻が、国立国会図書館デジタルコレクションで公開されてある。(リンクは扉だが、「學生版」の文字はない。しかし、奥附を見て貰うと『學生版 【第二囘豫約】』とあり、『昭和六年一月十日 發行』とあることが確認出来る)、これが、前掲の底本と同じものであるが、やはり、外国のサイトのそれを底本とするのは、日本人小泉八雲に失礼であると考えた。されば、こちらで、再度、以下の「骨董」の作品群を改めて校正することとする。これが――私の小泉八雲への「義」――である。なお、之よりも前の元版の全集等が先行しているものの、私がそれらと比べた結果、実は先行する同社の「小泉八雲全集」のそれらは、訳が一部で異なっており、訳者等によって、かなりの補正・追加がされていることが、今回の正字補正作業の中で、はっきりと判って来た。いや、同じ「家庭版」と名打ったネット上の画像データでも、驚いたことに、有意に異なっていたのである。そうした意味でも――完全な仕切り直しの総点検――が必要であると決したものである。従って、旧前振りの括弧・鍵括弧の問題も、拡大とガンマ補正で確認し、正確を期する。新底本の本話はここから。

 傍点「﹅」は太字に代えた。挿絵は底本にはないが、原本では各話の前後に同じ絵がサイズを変えて配されてある。“Project Gutenberg”版にある最初に配された大きい方のそれを使用した。挿絵画家は既に述べた通り、佐賀有田の生まれの画家江藤源次郎(えとうげんじろう 慶応三(一八六七)年~大正一三(一九二四)年)である。但し、本底本最後の田部隆次氏の「あとがき」によれば、『マクミランの方でヘルンが送つた墓地の寫眞と「獏」の繪「獏」の繪の外に、當時在英の日本畫家伊藤氏、片岡氏などの繪を多く入れたので、ヘルンは甚だ喜ばなかつたと云はれる』とある。それを考えると、挿絵の多くは、スルーされた方が、小泉八雲の意には叶うと言うべきではあろう。

 田部隆次(たなべりゅうじ 明治八(一八七五)年~昭和三二(一九五七)年)氏については先に電子化した「人形の墓」の私の冒頭注を参照されたい。]

 

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  露の一滴

 

    露のいのち。――佛敎の諺

 

 書齋の窓の竹格子に、一滴の露が垂れて居る。

 その小さい球面には、朝の色、――空と野と遠くの樹の色が映つて居る。逆さの影がそのうちに見える、――それから、戶ロに子供の遊んで居る小さい家のさまが、顯微鏡面の繪のやうに映つて居る。

 見える世界以上のものが、その露の一滴にあらはれて居る、見えない世界、不可思議な世界も亦そのうちに再現して居る。その一滴の內にも外にも、たえざる運動――原子と力との永久に不可解な運動、――それから空氣と日光に觸れて複雜な色彩を示すかすかなる戰慄がある。

 

 佛敎は魂と云はれる今一つの小宇宙の象徴をこの露の一滴に見る。……人間とは正しく目に見えない究極の元素が、假に暫く一團となつて、――空氣と土と生命を反映する、永久に不可思議な戰慄に滿ちた、――それから自分を取りまく靈の力のどの響きにも、どうにかして應ずる――ものでなくて何であらう。……

 

 やがてその小さい光の球は不思議な色や逆さの繪と共に消え失せる事であらう。丁度その通り、私共も――讀者も私も間もなく解けて消え失せねばならない。

 露の消えるのと人間の消えるのと、その間に何の差別があらう。言葉の違ひだけ。……しかしその露の一滴はどうなるだらう。

 太陽のために原子は分れて、上つて、さうして散る。雲と土に、河と海に行く、それから陸と川と海から再び引き拔かれて、再び新たに落ちて散る。乳色の霧の中に這ひ込み、霜、霰、雹、雪のうちに白くなる、――大宇宙の形狀色彩を再び反映する――未だ生れ出でない赤い心臟の小さい鼓動と共に動く。それぞれの露の一滴は外の滴――霧と雨との滴、血と汗と淚の滴となるためには、無數の同じ原子と、再び結合せねばならない。……

[やぶちゃん注:ここで小泉八雲は「リグ・ヴェーダ」に現れるインド神話の、創造神が、ヒラニヤ・ガルバ(Hiranyagarbha:英語:「黄金の胎児」などと訳される)として、原初の水の中に孕まれて生まれたとする説を意識しているように私には思われる。]

 幾度であらう。この太陽の未だ燃え出ぬ以前、幾十億代の昔、それらの原子は多分外の滴とともにどこかの宇宙で世界の空の色と大地の色を反映しながら、搖れてゐたであらう。それからこの現在の宇宙が空間から消失したあとでも、その原子自身は、――それを造つた不可解の力によつて――多分引續き露と結んで、未來の惑星の朝の美を映すであらう。

 

 自己と私共が名づけるその合成物の原子も正しくこれと同樣。日月星辰以前に私共の原子はあつた、――さうして生動し、活動して、――物の外貌を反映した。それから目に見ゆるの星が悉く燃えつくしても、その原子は疑もなく心の形成に與かるであらう、――思想、情緖、記憶のうちに――未だ進化せんとする世界に、未だ生きんとする人々の再び凡ての喜びと悲しみのうちに再び顫動するであらう。……

[やぶちゃん注:「日月星辰」「辰」は「日・月・星の総称」で、より広範な「天体・空・宇宙」の謂いとなる。

「顫動」「せんどう」。小刻みにふるえ動くこと。]

 

 私共の個性、――私共の特性はどうなるだらう。私共の觀念、情操、回想、――私共の特別の希望と恐怖と愛憎はどうなるであらう。さて露の萬億每に原子の戰慄と反映の極少量の差別があるに相違ない。それから生死の大海から引き上げられた靈の蒸氣の無數の粒の一つ一つに同じやうに極少量の特質がある。私共の個性は永遠の眞理から見れば、一滴の戰慄のうちの微分子の特殊な運動と丁度同じ事である。恐らくどの外の滴に於ても、その戰慄と映象は全く同一である事は決してあるまい。しかし露はいつまでも結びかつ解けよう。さうしていつも搖れ動く繪があらう。……迷のうちの迷は、死を無と解することである。

[やぶちゃん注:「映象」「えいしやう」と読んでおく。原文は“the picturing”であるから、「目に見得る上での形状・属性」の意であろう。「映像」でよかろう(平井呈一訳も『映像』である)が、或いは直後の訳と同じ「繪」でもよい。]

 無ではない――無くなるべき自我はないからである。何であつたとして、私共はそのものであつた、――何であるにしても、私共はそのものである、――何であらうとも、私共はそのものにならねばならない。人格、――個性、――それは夢のうちの夢の幻影に過ぎない。あるものはただ無窮の生命だけ、それからあるらしく見えるものはただ、その生命の顫動に過ぎない、――日、月、星辰、――地、空、及び海、――それから人間、及び空間時間。一切のものは影である。その影は現れて又消える、――影を造るものは永久に造る。

小泉八雲 螢  (大谷正信譯)

[やぶちゃん注:やぶちゃん注:本篇(原題“ Fireflies ”。「fly」には「dragonfly」(蜻蛉(とんぼ))のように蠅以外に飛ぶ虫の総称でもある)は一九〇二(明治三五)年十月にニュー・ヨークのマクミラン社(MACMILLAN COMPANY)刊の“ KOTTŌ ”(来日後の第九作品集)の話柄数では十一番目に配されたものである。作品集“ KOTTŌ ”は“Internet Archive”のこちらで全篇視認でき(本篇はここから。但し、これは翌一九〇三年の再版本)、活字化されたものは“Project Gutenberg”のこちらで全篇が読める本篇はここから)。ホタル(昆虫綱鞘翅(コウチュウ)目多食(カブトムシ)亜目コメツキムシ下目ホタル上科ホタル科 Lampyridae のホタル類)についての自在なエッセイである。

 底本は上記英文サイト“Internet Archive”のこちらにある画像データをPDFで落し、視認した。これは第一書房が昭和一二(一九三七)年一月に刊行した「家庭版小泉八雲全集」(全十二巻)の第八巻全篇である。★【2025年3月25日底本変更・前注変更】時間を経て、国立国会図書館デジタルコレクションに本登録し、現行では、以上の第一書房版昭和六(一九三一)年一月に刊行した「學生版小泉八雲全集」(全十二巻)の第七巻が、国立国会図書館デジタルコレクションで公開されてある。(リンクは扉だが、「學生版」の文字はない。しかし、奥附を見て貰うと『學生版 【第二囘豫約】』とあり、『昭和六年一月十日 發行』とあることが確認出来る)、これが、前掲の底本と同じものであるが、やはり、外国のサイトのそれを底本とするのは、日本人小泉八雲に失礼であると考えた。されば、こちらで、再度、以下の「骨董」の作品群を改めて校正することとする。これが――私の小泉八雲への「義」――である。なお、之よりも前の元版の全集等が先行しているものの、私がそれらと比べた結果、実は先行する同社の「小泉八雲全集」のそれらは、訳が一部で異なっており、訳者等によって、かなりの補正・追加がされていることが、今回の正字補正作業の中で、はっきりと判って来た。いや、同じ「家庭版」と名打ったネット上の画像データでも、驚いたことに、有意に異なっていたのである。そうした意味でも――完全な仕切り直しの総点検――が必要であると決したものである。従って、旧前振りの括弧・鍵括弧の問題も、拡大とガンマ補正で確認し、正確を期する。新底本の本話はここから。

 傍点「﹅」は太字に代えた。挿絵は底本にはないが、原本では各話の前後に同じ絵がサイズを変えて配されてある。“Project Gutenberg”版にある最初に配された大きい方のそれを使用した。挿絵画家は既に述べた通り、佐賀有田の生まれの画家江藤源次郎(えとうげんじろう 慶応三(一八六七)年~大正一三(一九二四)年)である。但し、本底本最後の田部隆次氏の「あとがき」によれば、『マクミランの方でヘルンが送つた墓地の寫眞と「獏」の繪「獏」の繪の外に、當時在英の日本畫家伊藤氏、片岡氏などの繪を多く入れたので、ヘルンは甚だ喜ばなかつたと云はれる』とある。それを考えると、挿絵の多くは、スルーされた方が、小泉八雲の意には叶うと言うべきではあろう。

 訳者大谷正信氏については、「小泉八雲 燒津にて 大谷正信譯」の私の冒頭注を参照されたい。

 原註は最後にポイント落ちで本文四字下げで纏められているが、本篇は少し長めなので、それぞれを適切と思われる本文内に同ポイントで行頭からとして移した。傍点「﹅」は太字に代えた。なお、私は「蛍」という新字が生理的に嫌いなため、本注でも「螢」で表記した。

 途中に注を附したが、ちょっと膨大になった。小泉八雲の本文のリズムを阻害しているので、まずは私の注を飛ばして読まれんことをお薦めする。

 

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 自分は日本の螢のことを話したい。が、昆蟲學的にでは無い。諸君が然かあるべきであるやうに、此問題の科學的方面に趣味があるならば、目今、東京帝國大學で講義をして居られる生物學の一日本人敎授に啓蒙を求めらるべきである。その敎授は Mr,S. Watase(S といふ字はその名前の Shōzaburō を表はして居る)と自署されるが、敎授は亞米利加で學生をして居られ、又、敎授もして居られた人で、その數數の講義が――動物の燐光、動物の電氣、昆蟲及び魚類の發光器官、その他生物學の驚くべき題目に就いての講義が彼地で出版になつて居る原註一。敎授は螢の形態、螢の生理、螢の光度測定、その發光物質の化學、その光りの分光器的分析、及びエエテル振動の語辭でのその光りの意義に就いて知られて居る一切のことを語り得る人である。温度と環境との條件が尋常な場合には、日本の螢の或る一種が出す光りの脈搏は、平均一分間に二十六であること、此蟲が捕へられて怯えると、俄に其率が上つず一分間に六十三となることを、實驗によつて敎授は諸君に示し得られる。それから又敎授はもつと小さい或る他の種類の螢は、手で捉へると、其光りの脈搏の數を增して、一分間に二百以上にも上す[やぶちゃん注:「のぼす」。]ことを證明し得られる。敎授は、此光りは、多くの厭はしい毛蟲や蝶の『警戒色』同樣、此蟲にとつて或る保護的價値のあるものかも知れぬ、螢は味はふと非常に苦いもので、鳥はこれを食へぬものと見て居るらしいからと、かう述べられる。(敎授の云つて居られるに、蛙は味のまづいのに頓著はしないもので、蠟燭の炎の光りが瀨戶の壺を透して明るく見えると殆んど同じやうに、光りが腹を通ほして輝くまでに其冷たい腹へ螢を一杯に詰め込む)然し保護的價値があるか無いかは知らぬが、種種な方法に――例へば光線電信として――微小なダイナモが使用されて居るやうに思はれる。他の昆蟲が音響で或は觸感で交話するやうに、螢は其感情を光りの脈搏で發言する。其談話は光りの言語である。……自分は決して純學術的なものでは無い敎授の其講義の性質に就いて二三の暗示を諸君に與へようとして居るだけのことである。そして自分の此非科學的な隨筆の最も好い部分――殊に日本に於ける螢の捕獲竝びに販賣に關した部は、敎授が昨年東京で日本の聽衆に向つてされた面白い講演に負うて居るのである。

原註一 渡瀨敎授はジョンス・ホプキンス大學の卒業生である。この論文が書かれてから、その螢に關する通俗な日本語講演が美くしい單行本で再出版になつて居る。その色刷の口繪――螢が夜、柳の枝に止つて居る處を示したもの――だけでもその書の代價の價値がある。

[やぶちゃん注:「渡瀨敎授」動物学者渡瀬庄三郎(文久二(一八六二)年~昭和四(一九二九)年)。江戸生まれの名前は「荘三郎」とも表記する。東京帝国大学動物学教室第五代教授で日本哺乳類学会初代会頭。東京英語学校・東京大学予備門を経て明治一三(一八八〇)年に札幌農学校に入学、明治一七年に卒業し、東京大学動物学科撰科生となった。明治九(一八八六)年、アメリカのジョンズ・ホプキンズ大学(Johns Hopkins University:メリーランド州ボルティモアに本校がある私立大学)に留学し、一八九〇年に博士号を取得、以後、クラーク大学講師・シカゴ大学教授として細胞学・比較組織学を研究した。明治三二(一八九九)年に帰国し、東京帝国大学動物学科講師となり、明治三四(一九〇一)年に同教授となって大正一三(一九二四)年まで務め、発光動物(ホタル・ホタルイカ)を研究するとともに、生態学・動物地理学にも関心を示し、「渡瀬線」(屋久島・種子島と奄美大島間の生物分布境界線)を発見した。また、史跡名勝天然記念物調査会委員として固有動物の保護に努める一方、ネズミやハブ(爬虫綱有鱗目クサリヘビ科ハブ属ハブ Protobothrops flavoviridis )駆除のためのマングース(哺乳綱食肉目マングース科エジプトマングース属フイリマングース Herpestes auropunctatus :ミャンマー・中国南部・バングラデシュ・ブータン・ネパール・インド・パキスタン・アフガニスタン・イランを原産地とする)の移入(明治四三(一九一〇)年。但し、失敗(マングースは殆んど鼠や蛇を捕食しなかった)で現在の深刻な生態系攪乱を惹起させた)、食用蛙(両生綱無尾目アカガエル科アメリカアカガエル属ウシガエル  Lithobates catesbeiana )の移植(大正七(一九一八)年。ルイジアナ州ニューオリンズから移植し、私の住む大船の岩瀬地区に最初の養殖場を作った。しかし、ここが洪水で決壊し、牛蛙と.その餌用にやはり移入された甲殻綱十脚(エビ)目ザリガニ下目アメリカザリガニ科アメリカザリガニ属アメリカザリガニ亜属アメリカザリガニ Procambarus( Scapulicambarus ) clarkii が流出、孰れも日本全土に広がってしまった)、キツネ養殖の指導、捕鯨法の歴史学的研究など、応用動物学方面でも活躍した(ここは小学館「日本大百科全書」を主文として使用したが、私は、公的許可に基づく外来種移入(以上だけではなく他にも問題のある外来種移入が数種ある)の御用学者として、生体系破壊の元凶的な非常に問題のある人物と考えているので、大幅に私の見解を加えてある)。彼の明治(一九〇二)年(本書と同年。但し、本書刊行の一ヶ月後)開成館刊「學藝叢談 螢の話」は国立国会図書館デジタルコレクションのここで読める。]



     

 今日書かれて居る螢(ホタル)[やぶちゃん注:以上はルビではなく、本文。]といふ日本の名は、表意文字學の方から見ると、蟲といふ記號の上へ、火といふ記號を二つ竝べた字で出來て居る。しかし、この語の眞の起源は疑はしいので、種種な語原說明がこれまで提出されて居る。古代に在つては此稱呼は『火の初兒[やぶちゃん注:「うひご(ういご)」と読んでおく。]』といふ意味であつたと考へて居る學者がある。一方ではまた、もと『星』といふ意味の綴音と『垂れる』といふ意味の綴音と、二つ合して出來たものだと信じて居る學者がある。かく提出されて居る二つの由來のうち、遺憾ながらより詩的な方が一番尤もらしく無いものと思惟されて居る。だが、ホタルといふ語の最初の意味は何であつたにせよ、今なほ此蟲に與へられて居る、或る民間名稱が浪漫的性質を有つて居ることに就いては、何の疑ひも有り得ない。

[やぶちゃん注:「螢」という漢名は「虫」に「熒」(音「ケイ」)を組み合わせたもので、「熒」は「めぐらした篝火」が原義で、転じて「小さな光り」の形容でもある。しかし、本来は「篝火・松明(たいまつ)のような光を発する虫」の意である。不審に思われるかも知れぬが、中国産のホタルには巨大で強く大きな光りを発する種がいる。かの芥川龍之介も大正一〇(一九二一)年(三月から七月)の毎日新聞社特派員の肩書で行った中国旅行の際に見ており、『ふとあたりを透かして見ると、何時か道が狹くなつた上に、樹木なぞも左右に茂つてゐる。殊に不思議に思はれたのは、その樹の間に飛んでゐる、大きい螢の光だつた。螢と云へば俳諧でも、夏の季題ときまつてゐる。が、今はまだ四月だから、それだけでも妙としか思はれない。おまけにその光の輪は、ぽつと明るくなる度に、あたりの闇が深いせいか、鬼灯(ほほづき)程もありさうな氣がする。私はこの靑い光に、燐火を見たやうな無氣味さを感じた。と同時にもう一度、ロマンテイツクな氣もちに涵(ひた)るやうになつた』と述べている。私の「江南游記  四 杭州の一夜(中)」の本文及び注を是非、参照されたい。注に施したリンクで、巨大ホタルの画像も見られる。

「『火の初兒』といふ意味であつたと考へて居る學者がある」これは曲亭馬琴が文化八(一九一一)年に板行した「燕石雑志」の巻之一の「物の名」に『ほたろは火太郞(ほたらう)なり』とあるそれであろう。

「『星』といふ意味の綴音と『垂れる』といふ意味の綴音と、二つ合して出來たものだと信じて居る學者」(「綴音」「ていおん」或いは「てつおん」と読み、「二つ以上の単音が結合して生じた音」を指す)貝原益軒の「大和本草」(宝永七(一七〇九)年刊)の巻十四の「螢火」に『「ホ」ハ「火」ナリ。「タル」ハ「埀」也。下體光ル故、名トス。』(句読点や記号は私が補った。以下同じ)とある。同書を批判した小野蘭山述の「重訂本草綱目啓蒙」(弘化四(一八四七)年刊)の「螢火」には、それを引用した後に『一說ニ、「星垂ル」ノ意ナリト云リ』と記す。小学館「日本国語大辞典」の「ほたる」の語源説パートを見るに、一番に『ホタリ(火垂)の転』として「和句解」・「日本釈名」・「大言海」を挙げているし、私自身も、身体から火を垂らす「火垂(ほたる)」説でよいと思う。]

 廣く日本に分布して居る螢が二種ある。これは一般にゲンジボタル及びヘイケボタル卽ち『源氏螢』及び『平家螢』と呼ばれ來つて居る。此二種の螢は、古の源氏と平家の武士の幽靈で、蟲の姿形で居ても、かの十二世紀の恐ろしい氏族戰爭を覺えて居て、每年一度四月二十日の晚原註二、宇治川で大合戰をする、かう或る傳說は主張する。だから、その晚にはその合戰に加はり得られるやうに、籠の螢は放してやらねばならぬといふ。

原註二 これは舊曆の四月二十日。新曆に據ると、螢合戰は餘程後になる。昨年(千九百一年[やぶちゃん注:明治三十四年。])は六月の十日であつた。[やぶちゃん注:今年(二〇一九年)では五月二十四日である。本邦の代表種で最も優勢に棲息するホタル科ゲンジボタル属ゲンジボタル Luciola cruciata の場合は、成虫は五月から六月にかけて発生するが、その前の蛹の後期(既に皮から上陸して泥の中にいる)、皮膚越しに成虫の黒い体が浮かび上がるようになると、発光も始まるので、何ら不審はない。]

[やぶちゃん注:「ゲンジボタル及びヘイケボタル」ゲンジボタルウィキの「ゲンジボタル」によれば、『成虫の体長は15mm前後で、日本産ホタル類の中では大型の種類である。複眼が丸くて大きい。体色は黒色だが、前胸部の左右がピンク色で、中央に十字架形の黒い模様があり、学名のcruciataはここに由来する。また、尾部には淡い黄緑色の発光器官がある。オスとメスを比較すると、メスのほうが体が大きい。また、オスは第6腹節と第7腹節が発光するが、メスは第6腹節だけが発光する。日本で「ホタル」といえばこの種類を指すことが多く、もっとも親しまれているホタルである』。『成虫の期間は2-3週間ほどしかない』。『日本固有種で、本州、四国、九州と周囲の島に分布し、水がきれいな川に生息する』。『幼虫は灰褐色のイモムシのような外見で、親とは似つかないが、すでに尾部に発光器官を備えている。幼虫はすぐに川の中へ入り、清流の流れのゆるい所でカワニナ』(腹足綱吸腔目カニモリガイ上科カワニナ科カワニナ属カワニナ Semisulcospira libertina )『を捕食しながら成長する。カワニナを発見すると軟体部にかみつき、消化液を分泌して肉を溶かしながら食べてしまう。秋、冬を経て翌年の春になる頃には、幼虫は体長2-3cmほどに成長し、成虫よりも大きくなる』。『春になって充分に成長した幼虫は雨の日の夜に川岸に上陸する。川岸のやわらかい土にもぐりこみ、周囲の泥を固めて繭を作り、その中で蛹になる』。和名は『平家打倒の夢破れ、無念の最期を遂げた源頼政の思いが夜空に高く飛び舞う蛍に喩えられた。 平家に敗れた源頼政が亡霊になり』。、蛍となって戦うと言う伝説があり、「源氏蛍」の名前もここに由来している』。『また、腹部が発光する(光る)ことを、「源氏物語」の主役光源氏にかけたことが由来という説もあ』る。『より小型の別種のホタルが、最終的に源平合戦に勝利した清和源氏と対比する意味で「ヘイケボタル」と名づけられたという説もある』とある。一方のヘイケボタル(ゲンジボタル属ヘイケボタル Luciola lateralis )は『ゲンジボタルより小型で、より汚れた水域にも生息する。ゲンジボタルが日本固有種なのに対し、東シベリアや朝鮮半島などにも分布する。また、ゲンジボタル、クメジマボタルと並んで幼虫が水中棲息するホタルであり、日本産水生ホタル3種の中では最も小型である』。『名称は、ゲンジボタルとの対比で、似ているがより小型であることからの名づけられたものと思われる。ゲンジボタルが渓流のような清冽で、流れのはやい水域に生息するのに比べ、ヘイケボタルは水田、湿原といった止水域を主たる繁殖地としている。幼虫の餌になるのは、止水に生息するモノアラガイ』(腹足綱直腹足亜綱異鰓上目有肺目基眼亜目モノアラガイ上科モノアラガイ科モノアラガイ属イグチモノアラガイモノアラガイ Radix auricularia japonica )『などである』。『雄の光の点滅の速さはゲンジボタルより明らかに早く、明滅時に星が瞬くような光り方をする。発生期間も長く、2種が同じ水域で発生することも多い。山間部の農村では、水田周辺に本種が、河川付近にゲンジボタルが発生し、実際には両者が一部で入り交じって発光する。ただし、ゲンジボタルのように、短い期間に集中的に発生することが少なく、発生は長期に渡るが密度は高くならないのが普通である』。『かつては水田周辺ではどこでも簡単に見られたものだが、水田への農薬散布や水田周辺の環境変化に伴い、生息環境が狭められている』とウィキの「ヘイケボタル」にある。また、源氏・平家については、柳田國男は「蟷螂考(とうろうこう)」(昭和二(一九二七)年九月『土のいろ』初出)の「八」で、この「源氏」説を一蹴している。そこではカマキリの異名考察から脱線して、トンボの異名を語った中で、『動物のゲンザをもって呼ばれるもので、いちばん著名なのは蜻蛉である』とし、その中で「ゲンザッポウ」というトンボの異名を示し(引用は「ちくま文庫」版全集第十九巻に拠った。踊り字「〱」は正字化した)、

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『常陸国誌』にはケンザッポウは蜻蛉の小さきものとある。しかるに近江滋賀郡の鵜川村などでは、最も大なる蜻蛉をゲンジというのである。蛍なども一種大形の光る部分に横筋のあるものを、ゲンジという地方は多い。字にはよく源氏蛍と書いているけれども、それは理由のないことである。児童の蛍捕りの唄は各地一様でないが、多くは、

   ほうたる来い、山ぶし来い

 または山吹(やまぶき)来い山吹来いとも歌っている。その山吹もしくは山臥(やまぶし)が、右にいうゲンジ蛍のことらしくて、しかも誰もまだどうしてそういうかは考えていなかった。沖縄県でも宮古(みやこ)の諸島だけは、蛍をヤンプまたはエンブという語があるから、あるいは別の説明も付くかも知れぬ。しかし自分のみはゲンジ(験師)だからすなわち山伏ともいうので、何かは知らずこの大形の蛍だけに、一種の力を感じていた名残かと思っている。蜻蛉のゲンザに至っては、ことに験者(げんざ)という名称の依り所があったと思う。験者とは修験者、祈禱師または魔術者を意味して、古く俗間にも用いられた語である。一つには眼の畏ろしさ、二つには見かけ以上に軽捷(けいしょう)であって、よくいろいろの生き物を襲い殺す。ゆえに蟷螂にもまた蜻蛉と同じく、験者という名を命じたのが、後に普通の源太等に、なってしまったのではあるまいか。ゲンべという言葉は福井県のどこかで、動物の荒く強いことを意味しているが、それはあるいは関係のないことかも知れぬ。しかし遠州小笠郡の大洲(おおす)村などで、鴉(からす)のことをゲンジ、また東京あたりのゲジゲジという虫の名のごときは、多分同じ趣旨の験者から出た名であろう。ゲンザの問題を起した越中でも常陸でも、ともにそのゲジゲジをカジワラといっているが、やはりこれもいやな奴という意味であろう。すなわち気味が悪いゆえに嫌われたのである。

   *

と述べている。ここで柳田は「げんじぼたる」の「げんじ」は、虫のくせに不思議な光を放って飛ぶ(火の玉のような)霊的な力を持った修「験者」の意であると言っているのである。一見、牽強付会の気もしないでもないが、実は荒俣宏氏は「世界大博物図鑑1 蟲類」(平凡社一九九一年刊)の「ホタル」で、これを取り上げられて概説した後(ピリオド・コンマを句読点に代えた)、『これに関して昭和初期に名著《ホタル》を刊行した生物学者神田左京』(明治七(一八七四)年~昭和一四(一九三九)年:長崎生まれ。東京で英語教師をしていたが、三十三歳で渡米し、生物学を勉強して四十一歳で帰国するも、定職に就かず、在野でホタル研究に没頭、「私は螢と心中する」と妻帯もしなかった。英国学会からの会員慫慂や皇室の進講の誘いにも「権威は嫌い」と悉く断ったという。生活は彼を理解する少数の篤志家による援助のみで赤貧洗うが如き生活の中、昭和一〇(一九三五)年に「ホタル」を自費出版した。これは未だにホタル研究家の間では聖典とされる名著だそうである。以上はcamus氏のブログ「オフサイト」の「わたしはホタルと心中する 神田左京」に拠った)『は、あるいは山伏がホタルを燈火がわりに使っていたために、両者を結びつけて考える習慣が生まれたのかもしれない、としている』とあり、さらに『ゲンジボタル、ヘイケボタルというよび名が生れたのは比較的後代のことらしく、虫の各地の方言を集めた小野嵐蘭山の《本草綱目啓蒙》にも、このふたつの名はみあたらない。神田左京《ホタル》によると、昔はゲンジボタルはウシボタル、オオボタル、イッスンボタル、宇治ボタルとよばれ、ヘイケボタルはユウレイボタル、ネンネボタルなどとよばれていた。ここより神田は、ゲンジ・ヘイケの名は明治以降に生まれたもので、その後地方に赴任した小学校教員などの影響で徐々にひろまっていたのではないか、としている』(この近代誕生説は後藤好正氏の論文「ゲンジボタル和名考~江戸文学の視点から~」の「江戸時代にゲンジボタルという呼び名はあったか」の考証を見ても、江戸期の成立は、まず、否定される。『神田左京はまた、《源氏物語》の主人公光源氏が、〈光る源氏〉すなわちゲンジボタルという名の誕生に少なくとも間接的に関わっているはずだ、としている。そしてゲンジボタルの名ができたあと、ヘイケボタルという名は源平合戦の連想から生まれたのだろう、と結論した(〈ゲンジボタル、ヘイケボタルの和名に就いて〉《動物学雑誌》』。また、『さらにゲンジボタルの名は、《源氏物語》の〈源氏螢の光を借りて玉蔓(たまかずら)の容姿を示す〉という』シークエンス(第二十五帖「螢」)に『由来するという説もある(大場信義《ゲンジボタル》)』ともあり、加えて『〈顕示〉ボタルの意味だと解する人もいる。暗闇で光を放ち、みずから存在を顕示しているからだそうだ(三石暉弥《ゲンジボタル 水辺からのメッセージ》)』と書き添えておられる。こう語られると、「源氏」はその光の如く妖しい感じがしてはくる。ここまで書いて、ある検索を掛けていたところ、後藤好正氏の論文「ゲンジボタル和名考~江戸文学の視点から~」(二〇一七年三月発行『豊田ホタルの里ミュージアム研究報告書』第九号所収・PDF)というのを見つけた。そこでは五説(顕示説・山伏(験師説・源氏物語説・源頼政亡魂説・螢合戦説)について、かなり細かな解説がなされており、必見なのだが、「螢合戦説」は、小泉八雲の以上の段落の最後の語りと関わるので引用しておく(ピリオド・コンマを句読点に代え、注記号は省略した)。

   《引用開始》

 小西(1999)は神田の源氏物語説を紹介した後で、「往時はホタルが川の上で集団群飛するのを「螢合戦」と呼び、これを源平の合戦に見立てたということも考えられる」と、螢合戦が語源である可能性についても示唆している。この説は古く、ジャーナリスト・著作者・文化史家等として知られる宮武外骨の著書『面白半分』の「螢合戦は恋の争い」の文中に、「此美観を螢合戦と称し随つて源氏螢、平家螢の名も出來たのであるが(宮武、1923)」とある.また,平凡社刊『世界大百科事典(改訂版)』の〔ホタル・民俗〕の項には「ホタルの大きいものを源氏螢,小さいものを平家螢というのは螢が乱舞する様子を螢合戦とよんで合戦にみたてたところから出たらしく(千葉、2005)」と、東京堂出版刊『民俗辞典』の〔螢狩〕の項でも「戦国時代には,螢が交尾のために入り乱れて飛びかうさまを螢合戦といっているが,源氏螢・平家螢の名はここからでたものであろう(森末、1957)」と,それぞれ螢合戦を名前の由来としている。この説は、螢合戦を源平争乱になぞらえることにより、ゲンジボタルだけでなくヘイケボタルの名の由来を説明できるという利点がある。しかし、螢合戦を戦国時代の合戦で亡くなった武将や兵士の亡魂とする地方も少なくなく、源平の合戦に見立てたとするだけではやや説得力にかけるきらいがある。

   《引用終了》

なお、筆者の後藤氏は以下、江戸文学を根拠として「源氏物語説」と「源頼政亡魂説」を評価しておられ、その考証は緻密で説得力がある。是非、読まれたい。他に、萩原義雄氏の『「螢 Cruciata di Luciola」のこと』PDF)というものも、語源考証や各種の螢を載せる文献の渉猟がなされたもので必見である。]

 

 源氏螢は日本の螢の中で一番大きなもの――琉球諸島を含めないで、少くとも日本本土での一番大きな種(しゆ)である。九州から奥州に至る日本の殆んど到る處に居る。平家螢はもつと北に亘つて居て、殊に蝦夷に普通であるが、中部幷びに南部諸國にも居る。源氏螢より小さくて、あれよりも弱い光りを放つ。東京、大阪、京都その他の都會で蟲商人が普通賣る螢は大きい方の種類である。日本の觀察者は、此兩方ともその光りは『茶色』(チヤイロ)[やぶちゃん注:以上はルビではなく、本文。]と記載して居る。葉の性質がいい場合には、普通日本で茶を湯に滲ました色は、澄んだ綠がかつた黃である。然し立派な源氏螢が放つ光りは非常に光輝のあるもので、餘程眼の銳い人で無ければ、その綠色は見分けられぬ。一寸見ると、その閃きは木を燃やした火の炎のやうに黃色に見える。次記のホツクはその强い光りを讃め過ぎては居ない、――

   篝火も螢もひかる源氏かな原註三

原註三 カガリビといふ言葉は、よくボンフアイアと譯すが、此處では、或る祭禮の折、田舍町や村の門邊門邊の前で焚く、木を燃やしての小さな火を指す。盆踊りの間には歸つて來る魂を迎へに田舍の方方で燃やされる。

[やぶちゃん注:冒頭、小泉八雲は慎重を期して書いているが、ゲンジボタルは本邦の最大種である。なお、本邦には約四十種のホタルがいる。

 以上の句は立圃(りゅうほ)の作。野々口立圃(文禄四(一五九五)年~寛文九(一六六九)年)は京生まれの江戸前期の俳人。名は親重。通称、庄右衛門。別号に松翁・松斎など。家業により雛屋(ひなや)と称し、別に紅屋ともいった。貞門の古老的存在であったが、「犬子集(えのこしゅう)」(寛永一〇(一六三三)年板行)の編集で同門の重頼(しげより)と争い、師の下を去り、以後、独自で優雅な俳風を確立。京から江戸・福山・大坂などに移り住み、多くの門人を育てて、晩年はまた、京に戻った。早くより連歌や和歌を学び、古典にも精通して、「源氏物語」の梗概書「十帖源氏」「おさな源氏」の著もある。絵画にも優れ、その軽妙な筆致は俳画の祖と称されている(小学館「日本大百科全書」に拠る)。まさにその松江重頼編・立圃序の「犬子集」所収の句。如何にも「源氏物語」通の立圃らしい仕立てではある。「源氏物語」の帖名「篝火」(第二十七)と「螢」(第二十五)で、孰れも玉蔓絡みの印象的な帖である。但し、それに「螢」「ひかる」と「光源氏」を掛けただけの洒落に堕したもので実景性に乏しい。なお、これはゲンジボタルの「源氏物語説」の有力な傍証とされるものである。]

 源氏螢及び平家螢といふ名稱は、今なほ一般に使用されては居るけれども、兩方とも他の俗名で知られて居る。國國で名を異にして、源氏はオホボタル卽ち『大螢』、ウシボタル卽ち『牛螢』、クマボタル卽ち『熊螢』、それからウヂボタル卽ち『宇治螢』と呼ばれて居る。普通の西洋人には面白味が分るまいと思ふが、コムソウボタルとか、ヤマブキボタルとかいふやうな、繪のやうな名稱は言ふまでも無い。平家螢はまたヒメボタル、卽ち『姬螢』、ネンネボタル卽ち『ねんね螢』、それからユウレイボタル卽ち『幽靈螢』と呼ばれて居る。だが、上記のは手當たりに遊んだ見本に過ぎぬ。殆んど日本到る處に、この蟲の特別な俗の名があるのである。

 

 

     

 螢で有名な處――ただ螢を眺めて樂しむ爲めに夏時、人が行く處――が日本に多い。往古はそんな場處のうち一番有名であつたのは、近江の湖水近くの石山といふ小さい谷であつた。今でもホタルダニ卽ち螢谷と呼ばれて居る。元祿(一六八八――一七〇三)前には、蒸暑の季節のあひだ、此谷での螢の群集は、日本の自然的不思議の一つに數へられて居たものである。螢谷の螢は今でも大きいので有名であるが、古の作者が記述して居るその不思議な群集は最早、そこで見ることは出來ぬ。現今では螢で一番名高い處は、山城の宇治附近である。宇治は、あの有名な茶處の中心にある小綺麗な町で、宇治川に臨んで居て、その茶に名高いのに劣らずその螢で名高い。每夏京都及び大阪から宇治へ特別列車が發せられて、螢の見物人を幾千人と運ぶ。だが、その非常な美觀を――ホタルカツセン卽ち螢合戰を目擊し得るのは、町から數哩[やぶちゃん注:「マイル」。一マイルは千六百九メートル。この町とは大津のことであろう。直線でも大津市街から五キロ以上ある。]距つた地點の、川の上である。川の流れは其邊は草木に蔽はれた小山の間をうねりくねつて居て、數千萬の螢が、兩岸から矢の如く飛び出して、水上で出會つて絡み合ふ。時には非常に群れ集つて、見る眼には光つた雲か、火花の大きな球かと思ふ程のものに成る。其雲は直ぐに散る。或は其球は落ちて流れの表面で碎けて、其落ちた螢は光りながら流れ去る。だが、直ぐと又別な群集が同じ場處で集まる。見物人は終夜、河上に船を浮べて此稀有の光景を眺める。ホタルカツセンが濟むと、宇治川は漂ひ流れる螢のなほ煌煌(きらきら)と光つて居る軀(むくろ)に滿面蔽はれてミルキイヱイ[やぶちゃん注:原文“the Milky Way”。]のやうな、卽ち日本人がもつと詩的に言うて居る言葉の天の川のやうな、觀を呈するといふことである。

 有名な女詩人加賀の千代が、

 

   川ばかり暗は流れて螢かな

 

といふ句を作つたのは、多分、そんな光景を見た後のことであつたらう。

[やぶちゃん注:「近江の湖水近くの石山といふ小さい谷であつた。今でもホタルダニ卽ち螢谷と呼ばれて居る」現在の滋賀県大津市螢谷(ほたるだに)(グーグル・マップ・データ)。寺島良安の「和漢三才圖會卷第五十三 蟲部 螢」(リンク先は私の電子化注)に、

   *

江州石山寺〔(いしやまでら)〕の溪谷(たに)[やぶちゃん注:二字へのルビ。]【「試(こゝろみ)の谷」と名づく。】、螢、多くして、長さ、常の倍なり。因りて其處を呼びて「螢谷」と名づく。北は勢多橋に至る【二町許り。】。南は供江瀬〔(くがうのせ)〕に至る【二十五町。】其の間、群(むらが)り飛ぶこと、高さ十丈許り、火〔の〕熖(ほのを)のごとく、或いは、數百、塊(かたまり)を爲し、毎(まい)芒種の後(のち)五日より、夏至の後五日に至るまで【凡そ十五日。】、盛りと爲す。風雨無くして甚だ晴れざる夜、愈々多し。但し、北は橋を限り、東は川を限りて、甞て、之れ、有らず。又、時節を過ぐるときは、則ち、全く、之れ、無し。其の螢、下〔りて〕山州宇治川に到りて【約三里許り。】、夏至・小暑の間、盛りと爲〔す〕。然れども、石山の多〔き〕には如〔(し)〕かず。此れも西は宇治橋を限りて、下(さが)らざるなり。俱に一異と爲すなり。茅根〔(かやのね)〕・腐草の化する所は常なり[やぶちゃん注:ここは植物が螢となるという化生説である。医師で博物学者であった良安だが、彼は結構、トンデモ化生説の信望者である。]。此の地は特に茅草〔(かやぐさ)〕の多からず、俗に以つて、源の頼政の亡魂と爲〔(す)〕るも亦、笑ふべし。此の時や、螢見の遊興、群集〔(ぐんじゆ)〕にして、天下の知る所なり。

   *

とある(〔 〕は私が添えたもの。歴史的仮名遣の誤りや漢字表記は原典のママである)。

「加賀の千代」加賀千代女(元禄一六(一七〇三)年~安永四(一七七五)年)は加賀の松任(まっとう)の表具屋福増屋六左衛門(一説に六兵衛)の娘。美人の誉れが高かった。五十一歳頃に剃髪して千代尼と呼ばれた。半睡・支考・廬元坊らの教えを受けた。通説では十八歳の頃に金沢藩の足軽福岡弥八に嫁し、一子をもうけたが、夫や子に死別して松任に帰ったとも、結婚しなかったという説もある。

「川ばかり暗は流れて螢かな」「暗」は「やみ」。「早稲田大学図書館古典籍総合データベース」で同句集の写本を見たが(ここ)、

 川ばかり闇は流れて螢かな

が表記としては正しいようである。「千代尼句集」所収。ロケーションは不明だが、非常に優れた句である。]



 

     

 夏の幾月の間、螢を捕りそれを賣つて、生計を營む人が日本には多い。この商賣は範圍が廣いから當然、一種特別な生業[やぶちゃん注:「なりはひ(なりわい)」。]と思つていい程である。この生業の重もな[やぶちゃん注:「おもな」。]中心點は、江州の琵琶湖畔の、石山附近一帶の地で、そこの數多[やぶちゃん注:「あまた」。]の家が、日本の方方[やぶちゃん注:「はうばう(ほうぼう)」。]へ、殊に大阪と京都との大都市へ、螢を供給する、その重もなる家では、この忙しい季節中、一軒で六十人から七十人の螢捕りを傭ふ[やぶちゃん注:「やとふ」。]。この職業には訓練が要る。未熟者は一と晚のうちに、百匹捕へるのは容易ならぬ事と思ふかも知れぬが、熟練家は三千匹は捕るといふ。捕獲の法は單純極はまつたものだが、見ては甚だ興味あるものである。

 日が暮れると直ぐ、螢捕りは、長い竹竿を肩にかつぎ、鳶色の蚊帳布の長い袋を、帶のやうに、腰のあたりに纏うて出かける。螢がよく往來する木立のところ――普通は川か湖水かの土手の、柳の木の植わつて居るところ――へ行き著くと、立ち止つて、その樹を見守つて居る。もう十分と思ふ程、その樹に光りがちらつき出すと、其網を用意して、一番よく光る木へ近寄つて行つて、その長い竿で枝を打つ。螢はその打擊で打ち拂はれると、もつと活潑な蟲が同じ事情の下でするやうに、直ぐに飛ぶことはしないで、甲蟲同樣、意氣地無くも地面へ落ちる。そしてその光りが――恐ろしい或は苦しいと感じた瞬間はいつも常よりか鮮かなその光りが――蟲を目だたせる。四五秒も地面にじつと居らして置けば飛び去る。然し螢捕りは、驚くばかりに迅速に、一度に兩手を使用して、拾ひ上げて、手際よく口の中へ投げ込む――一つ一つ袋へ入れるに要(かか)る時間が惜しいからである。口にもう入らぬやうになつてからやつと、何の怪我も螢に與へずに、袋の中へ吐き落とす。

 かくして螢捕りは螢が樹木を去つて露に濡つた[やぶちゃん注:「うるほつた」。]地面をさがす朝の二時頃――昔の日本で幽靈の出る時別まで働く。螢は人目に見えずに居るやうに、地面へその尻を埋めるといふことである。だが、今度は螢捕りはその兵略を變更する。竹の箒で、輕くそして速く、芝生の表面を掃く。箒が觸れるかそれに驚くかすると、螢はいつもその提燈を出して見せて、早速、撮み[やぶちゃん注:「つまみ」。]取られて袋へ入れられる。夜明け少し前に螢捕りは町へ歸る。

 螢商店では、捕つた螢を――光りの强い程値が高いから――其光りの强弱によつて出來るだけ早く擇(よ)り分ける。それから紗張りの箱か籠かへ、其一つ一つに濡らした草を少し入れて、入れる。等級に應じて二つの籠へ百から二百入れる。この籠へ、購客の名――旅館の持主、料理屋の主人、卸賣りまた小賣りの螢商人、それから特殊の饗宴用に多數の螢を注文する私人、などの名――を書いた小さな木札を附ける。其箱をば――此種の荷物は通運會社へ依賴しては不安心だから――敏速な使者でそれぞれ宛名先へ急送する。

 夏期、夜の宴會に、人に見せる爲めに、非常に澤山の螢が注文される。日本の客間の大きなのは通例庭園を見晴らして居る。そして蒸暑い季節に行ふ宴會とか、他の夜の饗應(もてなし)とかの間、お客がそのきらきら光るのを見て樂しむやうにと、日沒後、庭園へ螢を放すことが慣習になつて居る。料理屋の主人が澤山に買ふ。大阪の有名な道頓堀には、蚊帳布で取り卷いた廣い場處に幾百萬といふ螢を飼うて居る家が一軒あつて、其處の顧客はその圍ひの中へ入つて、一定の數だけ捕つて持ち歸つてもいいことにされて居る。

 

 生きで居る螢の卸し値は、季節と品質に應じて、百について三錢から十三錢を往來する。小賣り商人は籠に入れて賣る。東京では螢入りの籠一つの値が、三錢から幾弗[やぶちゃん注:「ドル」。本書刊行は明治三五(一九〇二)年であるが、この頃の為替レートは一ドルは約二円で、これは現代に換算すると四万円ほどである。]までもある、一番廉い[やぶちゃん注:「やすい」。]籠で、螢が三匹か四匹しか入つて居ないのは、二吋[やぶちゃん注:「インチ」。約五センチ。]四方を出ぬ位の大いさだが、高價な籠――竹細工の眞に不思議な品物で、美しい飾りのあるの――は鳴禽の籠ほどの大いさである。形面白い或は風變な――家屋の模型だとか、帆船だとか、お寺の提燈とかの――螢籠は三十錢乃至一弗の價で買へる。

 死んで居ても、生きて居ても、螢は金になる。螢は一體弱い蟲で、閉ぢ籠めて置くと暫時しか生きて居らぬ。蟲店で死ぬる數は大したもので、或る有名な蟲屋は一と季節に五升を下らぬ――卽ち一ペツク[やぶちゃん注:“peck”。ぺック。穀物などの乾量単位で約九リットル。例えば、米だと七・五キログラム弱。]許りの――螢を始末するのださうなが[やぶちゃん注:「だが」の誤植と思われる。]、それは大阪の製造會社へ賣るのである。以前は煉藥[やぶちゃん注:「ねりぐすり」。]や丸藥の製造に、それから又漢方に特有な藥品の調製に、現今よりも、もつと餘計に螢を使用したものである。今日でも螢から成る妙な越幾斯[やぶちゃん注:「えきす」。原文“extracts”(「イクストラクト」)。「抽出物・エキス・エッセンス」のこと。]を取る。その一種のホタルノアブラ卽ち螢脂といふのは、竹を曲げて造つた品物を硬ばらせる[やぶちゃん注:「こは(わ)ばらせる」。]目的に、指物屋が今でも使用して居る。

[やぶちゃん注:幾つかのフレーズで検索してみたが、現行の漢方薬には使用されていない模様である。螢の発光は「ルシフェリン(luciferin)―ルシフェラーゼ(luciferase)反応」(後者の酵素によって酸化されて発光。因みに、この名は「堕天使・悪魔」である「ルシファー」(Lucifer:原義は「光りをもたらす者」である)に由来する)によるが、ルシフェリンに特殊な薬学的に効用があるとは聴いたことはないが、先に紹介した萩原義雄氏の『「螢 Cruciata di Luciola」のこと』(PDF)に、『醫藥としては、『廣益本草大成』に、「螢火明ㇾ目療清盲、辟鬼惡邪毒蟲、治小兒火瘡」とし、『本草綱目』には、「螢火能辟邪明ㇾ目、蓋取其炤幽夜明之義耳」とし』、『「神仙感應篇」を引用し』て、『「務成子が螢火を以て丸と爲した螢火丸は、主辟疾病惡氣百鬼虎狼蛇蚖蜂蠆諸毒五兵白刃盗賊兇害」とし、「螢火丸」の故事が描かれている』とある。これは次の段落で小泉八雲が述べる怪しい薬剤、蠱毒のホワイト・マジックのようなものであろうかと思われる。次の「武威丸」の注を参照されたい。]

 古風な文學を學んだ人が書いたなら、螢藥に就いて頗る奇妙な一章が出來るかも知れぬ。此題目での最も奇妙な部分は支那のもので、醫治よりも寧ろ、鬼神學に屬するものである。家へ盜賊が入らぬやうにする、或はどんな毒でもそれを消す、或は『百魔』を追ひ拂ふ力がある、と主張されて居る軟膏を昔は螢で造つたものである。それから、切られても傷を受けないやうにして吳れると信じられて居た丸藥を、螢から取つた物質で昔は造つた。そんな丸藥のうちの一種に、カンシヨウグワン卽ちといふのがあり、またブヰグワン『武威丸』といふがある。

[やぶちゃん注:「監將丸」不詳。但し、次注参照。

「武威丸」不詳。但し、「抱朴子」の「內篇」に、

   *

或以月蝕時刻、三千歲蟾蜍喉下有八字者血、以書所持之刀劍、或帶武威符熒火丸、或交鋒刃之際,乘魁履剛、呼四方之長、亦有明效

   *

と出るのを発見した。これは、

或いは、月蝕の時刻を以つて、三千歲の蟾蜍(せんそ)[やぶちゃん注:ヒキガエル。]の喉の下に「八」の字有る者の血をば、以つて持つ所の刀劍に書し、或いは、武威符・熒火丸(けいくわぐわん)を帶び、或いは、鋒刃を交ふる際、魁(くわい)[やぶちゃん注:北斗七星。]に乘り、剛(かう)[やぶちゃん注:「陽」の気か。]を履(ふ)みて、四方の長(ちやう)[やぶちゃん注:方位の四神(しじん)のこと。青龍(東)・朱雀(南)・白虎(西)・玄武(北)の四聖獣。]を呼ぶも、亦、有明なる效、有り。

で、どうも、「監將丸」も「武威丸」も、これを塗ったり、ただ帯びたりしていれば、敵や害獣や魑魅魍魎から危害を受けることがなく、それらを退却させることが出来るという魔法の薬であると捉えてよいように思う。並んでいる「熒火丸」なんて、モロ、螢っぽいぞ?!]

 

 

     

 螢捕りは職業として、比較的近代のものである。が、螢狩りは娛樂として、餘程古くからの習慣である。往古はこれは貴族的な慰みであつて、大貴族は螢を狩る會合を――ホタルガリを――したものである。この多忙な明治の世にあつては、ホタルガリは大人の慰みでは無くて寧ろ子供の慰みである。が、大人も時に餘暇を見出して其遊戲に加はる。日本中何處でも子供は每夏螢狩りをする。そんな遠出には普通月の無い夜を選ぶ。女の子は紙製の團扇を携へてその狩りに隨行し、男の子は尖端(さき)に新しい笹の把[やぶちゃん注:「たば」。「束」に同じい。]を結びつけた長い輕い竿を持つて行く。螢は、團扇や笹把で打たれると、實地飛んでるのを一度邪魔されてからは翅(はね)を立てるのが遲いから、容易に捉へられる。この光る獲物の心を惹くと想像されて居る短かい歌を子供は狩りながら歌ふ。此歌は地方によつて異ふ。そして、その數は驚く許りに多い。が、此處へ引用して然るべき程の興味のあるものは甚だ少い。例を二つだけ出せば十分であらう。

 

    (長門の國)

   ホウタル、來い! 來い! コイ點もせ!

   日本一の孃さんが

   提燈ともして、來いといな!

 

    (下ノ關方言)

   ホオチン來い! ホオチン來い!

   關の町の坊んさんが

   提燈ともして、來い! 來い!

[やぶちゃん注:丸括弧部分は底本ではポイント落ち。

「螢は、團扇や笹把で打たれると、實地飛んでるのを一度邪魔されてからは翅(はね)を立てるのが遲いから、容易に捉へられる」「實地飛んでるのを」は日本語として、こなれていない。原文は、

When struck down by a fan or a wisp, the insects are easily secured, as they are slow to take wing after having once been checked in actual flight.

で、これは、

この虫たちは、実際に飛んでいるところを、一度、邪魔されてしまうと、再度、羽を立てることが鈍(のろ)いために、団扇(うちわ)や笹葉叩(ささっぱはた)きに打たれるや、容易に捕まってしまうのである。

といった意味であろう。

「點もせ!」は「ともせ!」。]

 

 固よりのこと、首尾よく螢を狩る爲めには、螢の習慣を幾分知つて居る要がある。そして此題目に就いては日本の子供は多分、我が讀者の大多數よりも餘計に知つて居る。次記の記事は、その我が讀者には珍らしい興味を有つて居るかも知れぬ。

 

 螢は水の附近を往來し、又、其上を飛び𢌞はることを好む。が、或る種類のものは不潔な水、或は停滯した水を嫌がつて、綺麗な流川か湖水の附近だけに居る。源氏螢は沼や濠や不潔な掘割を避ける。が、平家螢はどんな水にも滿足して居る樣である。總じて螢は木陰の草の生えて居る土手を好んで求めるが、或る木は嫌つて、或る木には惹きつけられる。例へば松の木は避けるし、薔薇へは下りぬ。然し柳の木――殊に枝垂れ柳には群を爲して集まる。時たま夏の夜、枝垂れ柳が螢で一杯に蔽はれて光つて居て、其枝が『火の芽を吹いて居る』やうに見えるのを見ることがあらう。煌煌たる月の夜には、螢は出來るだけ影へ身を置いて居る。が、追はれるといふと、自分の微かな光りが前よりも見つかりにくい樣に、月光の中へすぐと飛び出る。ランプの光りや人工の强い光りはどんな光りでも、螢はそれを見ると逃げる。が、小さな光りには引寄せられる。例へば小さな炭火の光りや、暗がりで點(つ)けて居る小さな煙管火[やぶちゃん注:「きせるび」。]にはおびき寄せられる。然しおびき寄せの一番いいのは、綺麗な硝子の罎かコツプの中へ、勢のいい螢をたつた一匹入れて置いて光らせた燈である。

 

 子供は大抵、明白な理由の爲め、仲間を組んででなければ螢狩りはせぬ。螢に關して氣味の惡るい或る信仰があつたが爲め、古昔は單身で螢狩りをするのは、向う見ずだと思はれて居たのである。そして、日本の或る地方ではその信仰が今なほ行はれて居るのである。螢火と見えるものが、道行く人を欺く爲めにともして居る、惡意のある幽靈か或は化け物の火か或は狐火かも知れぬ。本當の螢火でも、いつも當てになるものとは限らぬ。螢の一族の氣味惡るさは柳の木を好くのでも察することが出來よう。柳ならぬ他の木には、その特別な、(いいのもあり惡るいのもあるが、)魂があり、木の精か化け物が棲んで居るが、柳は特に死人の木であり、人間の幽靈が好く木である。どんな螢でも、それは或は幽靈かも知れぬ。それは誰れにも分らぬ。その上にまた、まだ生きて居る人間の魂が時に螢の姿になるといふ古くからの信仰がある。つぎに記すのは自分が出雲で聞いた短かい譚[やぶちゃん注:「はなし」と訓じておく。]である。

 

 或る寒い冬の夜、松江の若い士族が、或る婚禮の宴會から歸宅の途中、自分の住宅の前の堀割の上を螢が一匹飛んで居るのを見て驚いた。雪の季節に外(そと)を飛んで居るのは、と怪しみながら立ち停つてそれを眺めて居ると、其光りが不意に士族の方へすいと飛んで來た。杖でそれを打つた。が、其螢はついと外れて、自分の家の鄰りの屋敷の庭へ飛んで行つた。

 明けの朝、鄰人や朋友へ夜前の不思議な出來事を物語らうと思つて、其鄰家を訪問した。處がまだ、そのことを口にする折を見つけないうちに、其家の姉娘が、この靑年が訪ねて來て居ることを知らずに偶ま[やぶちゃん注:「たまたま」。]客間へ入つて來で、驚いて叫んでかう言つた。『まあ! 驚しました! あなたがお出になつて居ると誰れも言ひませんでしたから。それに丁度、此部屋へ入る時にあなたのことを考へてゐましたから。昨夜私は實に妙な夢を見ました! 私は夢に飛び步いてゐました――私の家の前の堀割の上を。水の上を飛びあるくのは大變気持ちが好いやうに思へました。すると、其處を飛んで居るうちに、あなたが土手沿ひに步いておいでになるのが見えました。そこで、私はあなたの方へ飛んで行つて、私は飛ぶことを覺えましたよと申し上げようとしました。處が、あなたが私をおぶちになつたものですから、怖ろしくて怖ろしくて、今でもそのことを考へると恐はい気がします……』これを聽いてから此客は、この暗合を話せば、自分が許嫁になつて居る此娘の心を驚かすであらうと思つて、暫時、自分が見た事の話はせぬがよからうと思つた。

[やぶちゃん注:なお、この話、「螢」ではなく、それを「火の玉」とする類話は、多数、ある。私のブログ・カテゴリ「怪奇談集」他に複数ある(面倒なので各話へのリンクはしない。悪しからず)。この原話を探し出した際には追記する。

「驚しました!」「びつくりしました!」。]

 

 

     

 螢は古昔から日本の詩歌に詠まれて居たもので、初期の古典的な散文にも屢〻記載されて居る。例を舉げると、――十世紀の末近くか、十一世紀の初めかに書かれた、――あの有名な小説、源氏物語五十四帖の一つは『螢』といふ題で、それには螢を澤山に捕へて、それを不意に放すといふ策略を用ひて、或る貴族が暗がりで或る貴女の顏を一瞥し得たといふ話を作者が書いて居る。螢に關しての最初の文學趣味は、支那の詩を硏究して起こつたのでは無いにしても、その爲めに促されたものであらう。今日でも貧乏の爲めに苦しんで居る折、螢を一杯に入れた紙袋の明かりで勉强したといふ、あの有名な支那の學者を歌つた短かい歌を知らぬ日本の兒童は一人も無い。が、詩人の感激の本源は何であらうとも、日本の詩人はこれまで一千年以上の間、螢の詩を作り來たつて居る。此題での作物は日本の詩歌のあらゆる形式に見出し得ることである。しかし螢の詩の大多數はホツク――あらゆる詩形のうちの一番短かい僅か十七の綴音から成つて居るもの、――である。螢に關した近代の戀歌は無數にある。が、それ等はドドイツといふ二十六綴音の通俗な形式で書いてあるものでその大多數は、此蟲が光りを無言で燃やして居るのを、口には一度も出さぬ身を燒くやうな情熱にたぐへた、古典的な一つの詩想の變體變形に過ぎないやうに思はれる。

 多分、我が讀者はつぎに掲ぐる螢詩の拔萃に興味を感じられることであらう。

[やぶちゃん注:「あの有名な支那の學者を歌つた短かい歌」「小学唱歌集初編」(明治一四(一八八一)年刊)に載った「螢の光」(原曲はスコットランド民謡 「オールド・ラング・サイン」(Auld Lang Syne:「久遠の昔」。スコットランド民謡でイギリスの非公式準国歌)。作詞は稲垣千頴(ちかい)である。「支那の學者を歌つた」というのは苦労して勉学に励むことを意味する「螢雪の功」の諺のもととなった話のこと。これは晋(二六五年~四二〇年)の時代の歴史を記した史書「晋書」の「車胤傳」にある故事による。「車胤」(しゃいん)と「孫康」(そんこう)という二人の青年がおり、二人は当然、官吏を志望していたが、夜に本を読むための灯火の油を買うこともできぬほどにともに家が貧しかった。そこで、車胤は夏の夜に螢を数十匹つかまえて絹の袋に入れ、蛍の光で本を読んで勉強し、孫康は冬の夜に窓辺に雪を積み上げ、雪明かりで勉強し続けた。二人の努力は報われ、の後に高級官吏に出世したとする話に基づく。中国の高級官吏は同時に優れた文人でなくてはならいから、「學者」というのも、まあ、違和感はない。

 以下、前書は底本ではポイント落ちで、全体が本文三字分下げであるが、ブラウザでの不具合を考え引き上げ、字間も縮めてある。また、原本には和歌を含めて作者の名は掲げていない(例えば最初の部分はこちら。例によってローマ字表記の原句の後に小泉八雲の英訳はつく形)。「小泉八雲 燒津にて 大谷正信譯」の大谷の解説で示した通り、彼は英文学者であると同時に、俳号を「繞石(ぎょうせき)と称した俳人でもあった。小泉八雲が最も信頼した教え子の一人でもあり、小泉八雲にここに出るような俳句資料を提供しており、恐らくは、その意味を英語で伝えた主たる人物も、彼であると考えられる。『小泉八雲 蟬 (大谷正信訳) 全四章~その「三」・「四」』 の最後には、小泉八雲は、彼の蟬の句をわざわざ引いて秘かに謝意を示しているほどである。則ち、そうした発句提供者の彼なればこそ、訳文に原文にはない作者名を記すことが出来たのである。

 

   螢 取 り

 迷ひ子の泣く泣くつかむ螢かな    流水

 暗きより暗き人呼ぶ螢かな      (讀人不知)

 言ふ事のきこえてや高く飛ぶほたる  曉臺

 追はれては月にかくるゝ螢かな    蓼太

 奪ひ合うて踏み潰したる螢かな    巳百

 

   螢の光

 螢火やまだ暮れやらぬ橋のうら    柳居

 水草原註四の暮るゝと見えて飛ぶほたる  探志

原註四 「クルルトミエテ」の句はイエエツ氏の「空の人」の第二節の一句を想ひ出させる。

 奥の間へ放して見たる螢かな     可麿

 夜の更くる程大きなる螢かな     汶村

 草刈の袖よりいづる螢かな      卜枝

 此處かしこ螢に靑し夜の草      鳳朗

 提燈の消えて尊き螢かな       正秀

 窓暗き障子をのぼる螢かな      不交

 燃えやすきまた消えやすき螢かな   去來妹千子

 一つ來て庭の露けき螢かな      其禮

 手のひらを這ふ足見ゆる螢かな    萬乎

 恐ろしの原註五手に透き通る螢かな    吐月

原註五 赤く半透明になることを思はしめることから考えると作者は婦人である。

 さびしさや一尺消えて行くほたる   北枝

 行く先のさはるものなき螢かな    月菓

 はゝき木にありとは見えて螢かな   貢雨

 袖へ來て夜半のほたるさびしいか   山幸

 柳葉の暗吹かへす螢かな       好秋

 水底の影をこはがる螢かな      眞久妻

 過ぎたるは眼にものすごし飛ぶほたる 雪武

 螢火や草におさまる夜明がた     怒風

 

   戀の句

 群れよほたる物言ふ顏の見ゆるほど  花讚女

 音もせで思にもゆる螢こそ

      啼く蟲よりも哀れなりけれ 源重之

 夕されば螢よりきにもゆれども

      光見ねばや人のつれなき  紀友則

 

   雜

 すいと行く水際すゞし飛ぶ螢     牧童

 水へ來て低うなりたる螢かな     東籬

 葛の葉の裏打つ雨や飛ぶ螢      普成

 雨の夜は下ばかり行く螢かな     (讀人不知)

 ゆらゆらと小雨降る夜の螢かな    楚流

 明けぬれば草の葉のみぞ螢籠     應澄

 夜が明けて蟲になりたる螢かな    阿音

 晝見れば首筋赤き螢かな       芭蕉

 螢かうて芝四五枚に風情かな     蝶羅

 

  螢賣りの句

 二つ三つ放して見せぬ螢賣      吳竺

 三つ四つはあかりに殘せ螢賣     古聲

 己が身は闇に歸るや螢賣       千士

[やぶちゃん注:以下の人名(俳号)注は、信頼出来ると判断した記事・辞書・学術論文等を参考に附した。不安の残るデータしか見れなかったものは「不詳」とした。ご存じの方は御教授願いたい。

「流水」不詳。

「暗きより暗き人呼ぶ螢かな」「(讀人不知)」一九七五年恒文社刊の平井呈一氏の訳(「骨董・怪談」)では作者を『風笛』(「ふうてき」か)とする。人物は不詳であるが、この句は「曠野」の巻之三の「仲夏」に、

 闇きよりくらき人呼(よぶ)螢かな

の表記で載る。

「曉臺」加藤暁台(きょうたい 享保元(一七三二)年~寛政四(一七九二)年)は尾張生まれ。本姓は岸上、名は周挙、通称は平兵衛、別号に他朗・買夜・暮雨巷(ぼうこう)など。武藤巴雀・白尼(はくに)父子に入門し、のち暮雨巷一門を起こした。蕉風復興を目指して天明中興俳諧の中心となり,「去来抄」などを翻刻した。私の好きな俳人である。

「蓼太」大島蓼太(りょうた 享保三(一七一八)年~天明七(一七八七)年)は信濃生まれ。本姓は吉川、名は陽喬、通称は平助、別号に宜来・老鳥・豊来など。雪中庵第二代桜井吏登(りとう)に入門し、延享四(一七四七)年、雪中庵第三代を継いだ。松尾芭蕉所縁の地を吟行した。俳書を多く編集し、門人も三千人を超えた。

「巳百」不詳。読みは「みはく」か。

「柳居」佐久間柳居(りゅうきょ 貞享三(一六八六)年~延享五(一七四八)年)は幕臣で俳人。名は長利、通称は三郎左衛門、別号に松籟庵・長水・眠柳など。貴志沾洲(せんしゅう)の門に入ったが、江戸座の俳風に飽き足らず、中川宗瑞(そうずい)らと「五色墨」を出す。後、中川乙由(おつゆう)の門下となり、蕉風の復古を志し、芭蕉の五十回忌に俳諧集「同光忌」を撰している。

「探志」(たんし 生没年未詳)江戸前期の俳人。元禄(一六八八年~一七〇四年)頃の近江膳所(ぜぜ)の鞘師(さやし)で近江蕉門の一人。通称は小兵衛、別号に探芝・探子・探旨など。作品は「ひさご」「千句づか」などにのせられている。

『イエエツ氏の「空の人」の第二節の一句』原註は、ちゃんと、その詩句を引用している(原本ではここの左ページ下部の「1」)。原註全文を示す。

More literally: "The water-grasses having appeared to grow dark, the fireflies begin to fly." The phrase kururu to miété reminds one of the second stanza in that most remarkable of modern fairy-ballads, Mr. Yeats' "Folk of the Air":—

     "And he saw how the weeds grew dark

       At the coming of night-tide;

     And he dreamed of the long dim hair

       Of Bridget his bride."

   *

訳してみる。

   *

 これは、より文字通り、「水草が暗くなってゆき、ホタルが飛び始める。」 という「暮るる」から「見えて」詩句が、現代妖精バラードの中で最も注目すべきイェイツ氏の「空(そら)の者たち」の第二スタンザ(連)の部分を想起させる。

『そして彼は雑草がどのように暗くなったかを見た

 夜の到来の時、

 そして彼は長くほの暗い夢を見ていた

 ブリジットの、彼の花嫁の。』

と言った感じか。全詩は英文サイトのこちらで読める。アイルランドの詩人で劇作家のウィリアム・バトラー・イェイツ(William Butler Yeats 一八六五年~一九三九年)は、『幼少のころから親しんだアイルランドの妖精譚などを題材とする抒情詩で注目されたのち、民族演劇運動を通じてアイルランド文芸復興の担い手となった』。『モダニズム詩の世界に新境地を切り』拓き、二十『世紀の英語文学において最も重要な詩人の一人とも評される』(ウィキの「ウィリアム・バトラー・イェイツ」より)。小泉八雲とは(イェイツは十五歳下)書簡のやり取りが残されている。

「可麿」幕末から明治の江戸生まれの医師で俳人であった松本顧言(こげん 文化一四(一八一七)年~明治一四(一八八一)年)がおり(名は順亭)、彼の別号に可磨斎があるが、彼かどうかは、調べ切れていない。

「汶村」(ぶんそん ?~正徳二(一七一二)年)。近江彦根藩士で、姓は松井或いは松居。別号に九華亭・野蓼斎。蕉門の森川許六(きょりく)に俳諧・画を学んだ。

「卜枝」(生没年未詳)近江の人であったが、後に尾張津島の蓮花寺に寓居していたという。貞門に入門した後、蕉門に移った。俳号は他に遠方とも。「曠野」(既に号の上に「津島」と小さく振る)となどに入句しており、この句も「曠野」の巻之三の「仲夏」に、

 くさかりの袖よる出るほたる哉

の表記で出る。

「鳳朗」田川鳳朗(たがわほうろう 宝暦一二(一七六二)年~弘化二(一八四五)年)は肥後生まれ。名は東源・義長、別号に対竹・自然堂・芭蕉楼など。もとは肥後熊本藩士であったが、寛政一〇(一八九八)年に藩士を辞して諸国を遊歴した後、江戸で俳諧師となり、「眞正芭蕉風」を称した。成田蒼虬(そうきゅう)・桜井梅室とともに「天保三大家」と称された。

「正秀」水田正秀(みずたまさひで 明暦三(一六五七)年~享保八(一七二三)年)は近江膳所の生まれ。通称は孫右衛門、別号に竹青堂。藩士又は町人であったとされるが、後年は医業に就いた。江左尚白(こうさしょうはく)に学び、後に芭蕉に入門した。「ひさご」連衆の一人で、義仲寺の無名庵(むみょうあん:この名は義仲寺の元の名でもある)建設に尽力した。

「不交」(生没年未詳)美濃生まれの蕉門。「曠野」に入集しており、この句も「曠野」の巻之三の「仲夏」に、

 窓くらき障子をのぼる螢かな

の表記で載る。

「去來妹千子」(?~貞享五(一六八八)年(この年元禄に改元。以下のリンク先の記載によれば享年は二七、八歳か))長崎出身の蕉門十哲の一人向井去来の妹で「ちね」と読む。個人ブログ「Pilgrim 東西南北巡礼記」の「千子(ちね) 向井去来の妹」の兄との伊勢参りを詳しく綴った記事が、なかなか読ませる。

「其禮」「きれい」と読んでおくが、不詳。但し、平井呈一氏は『其孔』とする。こちらでも不詳。

「萬乎」(まんこ ?~享保九(一七二四)年)は伊賀蕉門の一人。伊賀上野の豪商大坂屋次郎大夫。 米と金銀の交換を業とした金融業者で倉庫業も営んだ。「猿蓑」・「有磯海」・「笈日記」に入集している。元禄四(一九九一)年三月二十三日に自邸に芭蕉を招待した折りに入門した。

「吐月」飯島吐月(享保一二(一七二七)年~安永九(一七八〇)年)は上総生まれ。名は友七、通称は四郎左衛門、別号に吏中・子規亭。桜井吏登・大島蓼太に学び、江戸で判者となり、山村月巣(げっそう)とともに「蓼太門の両輪」と謳われた。小泉八雲の推理は残念ながら、はずれである。

「北枝」蕉門十哲の一人立花北枝(?~享保三(一七一八)年)金沢生まれ。刀研ぎを生業とした。通称は研屋源四郎、別号に鳥(趙)翠台・寿妖軒・趙子など。一時は土井姓を名乗った。俳諧は初め貞門であったが、のち、「奥のほそ道」の旅で金沢に来訪した芭蕉に逢って、その場で入門した。芭蕉の教えを書き留めた「山中問答」を著している。

「月菓」平井呈一訳では『月巣』で、それが正しいと思われる。山村月巣(げっそう 享保一五(一七三〇)年~天明五(一七八五)年)出羽寒河江(さがえ)の生まれ。名は春安、別号に雪屋人・未来坊・盤古など。江戸で雪門(服部嵐雪に始まる俳諧流派)三代の大島蓼太に学び、宝暦一四(一七六四:この年に明和に改元)年、駿河の時雨窓初代となり、東海地方の雪門を指導した。先の飯島吐月とともに「蓼太門の両輪」と謳われた。

「はゝき木」ナデシコ目ヒユ科バッシア属ホウキギ Bassia scoparia 。成熟した果実が秋田県の「とんぶり」として知られる。但し、この句は今一つの幻しの木「ははきぎ」をも匂わせていよう。信濃の原野にあって、遠くからはあるように見えるが、近づくと消えてしまうという、箒(ほうき)に似た伝説上の木で、転じて、「情があるように見えて実のないこと」・「姿は見えるのに会えないこと」などの喩えとされる。明滅する蛍に、それを掛けている、と私は読む。

「貢雨」不詳。

「山幸」大島蓼太の連衆に見える雪穿居山幸であろう。

「好秋」不詳。

「水底の」原文“Mizu soko no”。

「眞久妻」平井呈一訳では『呉久妻』。孰れも不詳。

「雪武」不詳。

「怒風」高宮怒風(寛文三(一六六三)年~寛保三(一七四三)年)。美濃大垣藩士。「笈の小文」の旅の途中の芭蕉に逢い、蕉門に入る。「続猿蓑」・「笈日記」・「有磯海」・「炭俵」などにかなりの数が入句している。

「花讚女」(かさめ 文化五(一八〇八)年~文政一三(一八三〇)年)は江戸の人。名は「まつ」。横山万旧と結婚して三児を生む。夫とは採荼庵(さいたあん)万里の同門。享年二十三歳。没年に、夫が、花讚や、古友尼らの手向けの句、及び、和歌を収め、「萩陀羅尼(はぎだらに)」を刊行している(講談社「日本人名大辞典」に拠る)。小学館「日本国語大辞典」では「くわさんぢよ(かさんじょ)」と読んでいる。

「源重之」(?~長保二(一〇〇〇)年頃)、清和天皇の曾孫で三河守源兼信の子であったが、父兼信は陸奥国安達郡に土着したため、伯父の参議源兼忠の養子となった。最終官位は従五位下・相模権守か。三十六歌仙の一人。兼信の子。後半生は不遇で、九州や奥州を渡り歩き,陸奥で没した。旅の歌人で,地方の名所を詠んだ歌が目立つ。東宮時代の冷泉天皇に奉った百首歌は現存最古のものの一つ。以上は「ブリタニカ国際大百科事典」のものだが、水垣久氏の「やまとうた」の「源重之」によれば、『父兼信は陸奥国安達郡に土着したため、伯父の参議兼忠の養子となった』。『康保四』(九六七)年『十月、右近将監(のち左近将監)となり、同年十一月、従五位下に叙せられる。これ以前、皇太子憲平親王(のちの冷泉天皇)の帯刀先生(たちはきせんじょう)を勤め、皇太子に百首歌を献上している。これは後世盛んに行なわれる百首和歌の祖とされる。その後』、『相模権介を経て、天延三』(九七五)年『正月、左馬助となり、貞元元』『(九七六)『年、相模権守に任ぜられる。以後、肥後や筑前の国司を歴任し、正暦二』(九九一)年『以後、大宰大弐として九州に赴任していた藤原佐理のもとに身を寄せた。長徳元』(九九五)年『以後、陸奥守藤原実方に随行して陸奥に下り、同地で没した』。享年は『六十余歳かという』とある。本歌は、「後拾遺和歌集」の「巻第三 夏」に(二一六番)、

   螢をよみ侍りける

 音もせで思ひに燃ゆる螢こそ

    鳴く蟲よりもあはれなりけれ

と出る。

「夕されば螢よりきにもゆれども光見ねばや人のつれなき」三十六歌仙の一人である紀友則(生没年未詳:紀貫之の従兄弟。延喜四(九〇四)年、大内記。寛平(八八九年~八九八年)の頃から宮廷の歌合に出詠し、醍醐天皇の命を受けて「古今和歌集」の撰者の一人となったものの、完成前年、死去した。「古今和歌集」には四十六首が載る)の「古今和歌集」の「卷第十二 戀歌二」の一首(五六二番)。但し、原文は上句の第二句目が“Hotaru yori ki ni”となっているが、正しくは、「き」ではなく、「け」である。

 夕されば螢より異(け)にもゆれどもひかり見ねばや人のつれなき

この「異(け)に」は形容動詞で、「いっそう強く。格別に」の意である。

「牧童」立花牧童(?~享保初年(一七一六)頃か)先に出た北枝の兄。弟とともに研師で、加賀藩の御用を勤めた。当初、談林俳諧に親しんだが、芭蕉の加賀来遊の際に弟と一緒にその門に入った。北枝とともに加賀蕉門の中心をなした。

「東籬」不詳。文化(一八〇四年~一八一八年)年間に「東籬」「東籬園」「東籬庵」(同一人物かどうかは不明。陶淵明の「飲酒」のそれで如何にも号につけたがる者は多かろうから)と称した俳人はいる。但し、平井呈一訳では『車籬』とする。不詳。

「普成」大島蓼太門(則ち「雪門」)の夜雪庵普成かと思われる。

「雨の夜は下ばかり行く螢かな」「(讀人不知)」平井呈一訳では『含呫』とする。含呫は(生没年不詳)蕉門。「曠野」に多数入句し、これもその「卷之三」の「仲夏」に、

 あめの夜は下ばかり行(ゆく)螢かな

とあるもの。

「楚流」享保(一七一六年~一七三六年)年頃の俳人に、この号の者がいる。

「應澄」不詳。

「阿音」不詳。

「蝶羅」下郷蝶羅(しもさとちょうら 享保八(一七二三)年~安永五(一七七六)年)は尾張鳴海の人。名は玄雄、別号に春麗園・鈴波。下郷蝶羽の十四男で、酒造業「千代倉」の江戸北新川支店を営んだ。俳諧を大島蓼太・岡田米仲・横井也有に学んだ。

「吳竺」平井呈一訳では『呉笠』。「呉竺」なら、寛政五(一七九三)年板行版の蝶夢編「新類題發句集」に載る俳人である。

「古聲」(延享三(一七四六)年~文政八(一八二五)年)は越智吉左衛門。屋号は麦屋。備後国田房上市の人。庄原の板倉氏の出で、越智家に入家し、これを継いだ。俳諧を京の五升庵蝶夢に学び、初め風路、後ちに古声・桃甫・眠亭と号した(ここは銀漢(天の川)氏のブログ「銀漢(天の川)のブログ」の「芸備の俳人……篤老・古声・玄蛙」に拠った)。

「千士」平井呈一訳では『千工』。孰れも不詳。]

 

 

      

 然し螢の眞のロオマンスは、日本の民間傳說の不思議な野原にも、また日本詩歌の古雅な庭園にも見出さるべきものでは無くて、科學の洪大な深淵に見出さるべきものである。科學に就いては自分は殆んど或は全く知らぬ。それが天使も踏み込むことを恐れる處へ自分が盲進することを憚らぬ所以である。若し自分が、渡瀨敎授が螢に就いて知つて居られることを知つて居るならば、相對的經驗の境域を気儘に跨ぐ氣にはならぬであらう。が、無遠慮だから自分は敢て學說を立て得るのである。

 

 生理的及び精神的進化の素敵な假說は最早自分には假說とは思へぬ。自分はこれに疑ひを挾むことを夢想だにしない。自分は生きて居ないと云はれて居るものから[やぶちゃん注:ここの傍点は「◦」なので、今までのそれと区別して下線を施した。]が發達して來ること――無機物から有機物が發展し來たること――を怪しまなくなつた。自分の想像力がどうもそれに慣れることの出來ない有機的進化の一つの驚くべき事實は、生の物質が系統的構造の不可解な複雜なものへ出來上つて行く潛在的能力或は傾向を所持して居るといふ事實である。其物質が射光を或は電気を進化さして行く力は、それが色を變化さして行く力より、より以上に不思議なものでは實際無い。夜光蟲或は光る百足蟲或は螢が光りを造り出すことは、植物が靑い花や紫色の花を造り出すよりか餘計に不思議だと思ふべき譯は無いのである。だが、此光りが出來て來る機械作用の此特殊な奇蹟をば、此現象の生物學的說明は、依然としてこれまで同様に、自分を驚歎したなりに殘して居る。『發電装置』といふ専門的名稱の下(もと)に包含せらるる一切の物の顯微鏡的微細な運轉模型が此蟲の體內に納められて居るのを見ることは、實地實際に存在して居るものを發見するほどに驚くべき發見では無いであらう。今現に此處に、その無限小的なるダイナモ[やぶちゃん注:原文“dynamo”。発電機。]を以てして、『蠟燭の炎に費やさるる勢力の消費の四百分の一で』純粹な冷たい光りを造り出し得る螢が一匹居るのである!……さて、我我の最も偉大な生理學者及び化學者すらまだ其作用を理解し得ない、又、我我の最善の電気學者すらそれを模倣するの可能なるを思ひ得ないほど、それほどに精緻な有效な發光機械が、何が故にこの小さな動物の尻に開展進化されたものであらうか。蜉蝣[やぶちゃん注:「かげろふ(かげろう)」。]の視覺器だとか、電氣鰻の電氣器官だとか、或は螢の發光器官だとかいふやうな、實に人を啞然たらしめるほどに錯雜した、そして美しいものを構成するやうに、生きた組織が何が故にそんな構造に固まつたり出來上つて來たりするのであらうか。……この事の不可思議を思ふと、神さまが働かれるのだなんかとは、到底、自分には想像されぬ。蜉蝣の眼だとか、螢の尻だとかいふこんな奇怪な物は、ただの神さまなんかがいつまで經つても工夫の出來かねるものである。

[やぶちゃん注:ホタルの発光メカニズムについては、二〇〇六年三月十六日附の独立行政法人「理化学研究所」のプレスリリースの「ゲンジボタルの発光現象の仕組みをとらえる―世界最大の放射光施設 SPring-8 の光が解き明かす小さな光の謎―」(PDF)がよい。その冒頭に『ゲンジボタルで黄緑色に光るのは、「ルシフェラーゼ」という名前の発光酵素の働きであることはわかっていました。理研播磨研究所メンブレンダイナミクス研究グループは、この「ルシフェラーゼ」が独特の立体構造を持ち、その構造から、発光するメカニズムを明らかにしました』。『さらに、天然の状態での黄緑色とは異なり、赤く発色する「ルシフェラーゼ」を人工的に合成。その構造を天然型の酵素と比較し、色が調節される仕組みを解明することにも成功しました』。『ホタル発光は、「この世に存在する、もっとも効率の高いエネルギー変換装置」といわれています。90%という高い効率で、化学エネルギーを光エネルギーに変換できるからです。そのため、今回の発見は、単にホタルの神秘が科学的に解明されたということにとどまらず、より効率的なエネルギー変換装置の設計という技術開発に貢献できる点でも、有意義なものと評価できるでしょう』とある。但し、このメカニズムは既に、私が高校生時代に、既に知られていた。なお、日本産の発光生物については、naturalist2008氏のブログ「むしのみち」の「日本産陸上発光動物一覧」がよい。

「夜光蟲」アルベオラータ上門 Alveolata 渦鞭毛植物門ヤコウチュウ綱ヤコウチュウ目ヤコウチュウ科ヤコウチュウ属ヤコウチュウ Noctiluca scintillans 。単細胞で、太く長い一本の触手をもち、中央部が陥入して口となる。直径一~二ミリメートル(原生動物としては非常に巨大である)。暖海にプランクトンとして生活する。刺激を受けると、青白く発光する。夏に異常増殖して赤潮を引き起こし、魚介類に被害を与えることがある。発光はホタルと同じ「ルシフェリン―ルシフェラーゼ反応」による。

「光る百足蟲」本邦産では、唇脚綱ジムカデ目オリジムカデ科 Oryidaeヒラタヒゲジムカデ属ヒラタヒゲジムカデ Orphnaeus brevilabiatus がいる。体長は二~三センチメートル(最長五センチメートル)で、熱帯・亜熱帯に棲息し、沖縄本島に分布する。但し、彼の発光は体内バクテリアによるものらしい。

「蜉蝣」我々が一般に言っている昆虫の「かげろう」は、複数の全くの別種(中には縁の遠い種もいる)を含む。簡単には説明出来ないので、私の「生物學講話 丘淺次郞 第八章 團體生活 一 群集」の私の「かげろふ」の注を読まれたいが、取り敢えず、脱線だが、真正の「カゲロウ」=節足動物門昆虫綱カゲロウ(蜉蝣)目 Ephemeropteraに属するカゲロウ類の眼は、頭には三個の単眼と、よく発達した一対の複眼が頭のかなりの部分を占めている。特に♂の複眼は大きく、上下二段に分かれた複眼のうち、上の複眼が巨大な円柱型になる種もいる。これは、その形から「ターバン眼」(turban eyes)と呼ばれ、カゲロウ目に特有のものであるとウィキの「カゲロウ」等にある。

「電氣鰻」条鰭綱新鰭亜綱骨鰾上目デンキウナギ目デンキウナギ亜目ギュムノートゥス科 Gymnotidae(或いはデンキウナギ科 Electrophoridae)デンキウナギ属デンキウナギ Electrophorus electricus。その発電器官の機序については、私の「生物學講話 丘淺次郞 第五章 食はれぬ法 四 嚇かすこと~(4)」の「しびれうなぎ」の私の注を見られたい。]

 生物學はつぎの如く答へるであらう。『こんな構造は、機能が構造に及ぼす效果の累積によつて成つたものと考へられないにしても、好都合な變形の逐次の選擇がこんな者を造り出したものかも知れぬといふことは考へ得られる』と。そしてハアバアト・スペンサアの學說を奉ずる者は誰れもこれ以上遠くへさ迷ひ出ることを實際是認されて居ないのである。が、然し自分は、物質[やぶちゃん注:同前で、傍点は「◦」。]といふものは、盲目的に誤り無しに、記憶するものであるといふ意見、それからまた、あらゆる終局的な分子には悉く、幾億幾十億の消えた宇宙の、破滅することの出來ぬ無窮な經驗が入つて居るといふ、ただ、それだけの理由によつて、生きて居る物質の一一の單位には、無窮の潛勢力が眠つて居るのであるといふ意見、――これを自分は頭から離すことが出來ないのである。

[やぶちゃん注:「ハアバアト・スペンサア」小泉八雲が心酔するイギリスの哲学者で社会学の創始者の一人としても知られるハーバート・スペンサー(Herbert Spencer 一八二〇年~一九〇三年)。私の『小泉八雲 落合貞三郎訳 「知られぬ日本の面影」 第十五章 狐 (一五)』の私の注を参照されたい。私がこのブログ・カテゴリ「小泉八雲」で完遂した「神國日本」(戸川明三訳。原題は“ Japan: An Attempt at Interpretation ”(「日本――一つの試論」)。英文原本は小泉八雲の没した明治三七(一九〇四)年九月二十六日(満五十四歳)の同九月にニュー・ヨークのマクミラン社(THE MACMILLAN COMPANY)から刊行された)もスペンサーの思想哲学の強い影響を受けたものである。]

2019/09/10

小泉八雲 平家蟹 (田部隆次譯)

 

[やぶちゃん注:本篇(原題“Heiké-gani”)は一九〇二(明治三五)年十月にニュー・ヨークのマクミラン社(MACMILLAN COMPANY)刊の“KOTTŌ”(来日後の第九作品集)の話柄数では十番目に配されたものである。作品集“KOTTŌ”は“Internet Archive”のこちらで全篇視認でき(本篇はここから。但し、これは翌一九〇三年の再版本)、活字化されたものは“Project Gutenberg”のこちらで全篇が読める本篇はここから)。

 底本は上記英文サイト“Internet Archive”のこちらにある画像データをPDFで落し、視認した。これは第一書房が昭和一二(一九三七)年一月に刊行した「家庭版小泉八雲全集」(全十二巻)の第八巻全篇である。★【2025年3月25日底本変更・前注変更】時間を経て、国立国会図書館デジタルコレクションに本登録し、現行では、以上の第一書房版昭和六(一九三一)年一月に刊行した「學生版小泉八雲全集」(全十二巻)の第七巻が、国立国会図書館デジタルコレクションで公開されてある。(リンクは扉だが、「學生版」の文字はない。しかし、奥附を見て貰うと『學生版 【第二囘豫約】』とあり、『昭和六年一月十日 發行』とあることが確認出来る)、これが、前掲の底本と同じものであるが、やはり、外国のサイトのそれを底本とするのは、日本人小泉八雲に失礼であると考えた。されば、こちらで、再度、以下の「骨董」の作品群を改めて校正することとする。これが――私の小泉八雲への「義」――である。なお、之よりも前の元版の全集等が先行しているものの、私がそれらと比べた結果、実は先行する同社の「小泉八雲全集」のそれらは、訳が一部で異なっており、訳者等によって、かなりの補正・追加がされていることが、今回の正字補正作業の中で、はっきりと判って来た。いや、同じ「家庭版」と名打ったネット上の画像データでも、驚いたことに、有意に異なっていたのである。そうした意味でも――完全な仕切り直しの総点検――が必要であると決したものである。従って、旧前振りの括弧・鍵括弧の問題も、拡大とガンマ補正で確認し、正確を期する。新底本の本話はここから。

 冒頭の挿絵(私は断然、私の大好きな平家随一の猛将平能登守教経の絵姿と見た!)底本にはないが、原本では各話の前後に同じ絵がサイズを変えて配されてある。“Project Gutenberg”版にある最初に配された大きい方のそれを使用した。挿絵画家は既に述べた通り、佐賀有田の生まれの画家江藤源次郎(えとうげんじろう 慶応三(一八六七)年~大正一三(一九二四)年)である。但し、本底本最後の田部隆次氏の「あとがき」によれば、『マクミランの方でヘルンが送つた墓地の寫眞と「獏」の繪「獏」の繪の外に、當時在英の日本畫家伊藤氏、片岡氏などの繪を多く入れたので、ヘルンは甚だ喜ばなかつたと云はれる』とある。それを考えると、挿絵の多くは、スルーされた方が、小泉八雲の意には叶うと言うべきではあろう。 なお、本文内の挿絵(同じく“Project Gutenberg”版を使用した)は彼ではない。作者は不明。まず、パブリック・ドメインでない可能性は頗る低いであろう。著作権を主張する方は、ます“Project Gutenberg”を提訴され、それが消えた後、削除請求に応じる。この絵は、なかなかにヘイケガニの映像を伝えてはいるが、生物学的に正しいかどうかは私は微妙に留保したい。背部の起伏の陰影にかなり誇張が成されてあること(光の当て方にもよるが、実際には私たちが想起するようなシミュラクラの人面(主体は内蔵器の及ぼした外様形状である)は乾燥標本でもそれほど強烈ではなく、生体での目視上では遙かに地味で、こうは、見えない)や、特に二枚目のヘイケガニの前頂部辺縁(ここはカニ類の識別では極めて重要な箇所である)の描き込みに、かなりの不審がある、と私は思っているからである。  

 田部隆次(たなべりゅうじ 明治八(一八七五)年~昭和三二(一九五七)年)氏については先に電子化した「人形の墓」の私の冒頭注を参照されたい。

 一部に簡単に注を附したが、ヘイケガニについての詳細は、私の「日本その日その日 E.S.モース(石川欣一訳) 第十六章 長崎と鹿児島とへ 平家蟹」及び『毛利梅園「梅園介譜」 鬼蟹(ヘイケガニ)』を是非、参照されたい。]

 

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  平 家 蟹

 

 信仰、思想、習慣、及び藝術が、私共自身のものと何等共通點がないと云ふ理由で、その國の人々が私共に異樣に思はれるやうな色々の國々では、土地の性質にも何か、――その植物或は動物にも何か、――それに類する異樣な特色のあるものが存する事がある。多分かう云ふ地方ではその割合に奇軀な異國的自然が、異國的精神と見られる奇異な性質を多少發達せる助けとなつたのであらう。思想や感情の國民的相違も、草木や昆蟲の形と同じく、進化論的に解釋せらるべきものである。それから或人種の精神的進化に於て、環境が人の想像に及ぼす影響をその一要素として數へねばならない。……

 

 長州から蟹――特に私共が日本らしいものと考へるやうになつて居る例の奇怪な種類の蟹の箱を送られたので、こんな事を考へるやうになつた。この蟹の背には不思議に人間の面――歪んだ面――日本の工人が何か藝術的氣まぐれの瞬間に作つたと思はれるやうな浮彫りの面の形に、不思議に似通つた凸凹がある。

 二種類のこんな蟹――よく乾して磨いた蟹は、赤間ケ關(外國人には下の關としてもつと知られて居る)の店に賣物にしてたえず出してある。それは壇の浦と云ふ海岸の近傍一帶で取れる、そこは七世紀以前將軍家がその敵源氏と、海上に戰つて全滅になつた處である。日本歷史の讀者は、二位尼がその恐るべき悲劇の眞最中に歌を詠んで、若い安德天皇を抱いて海に身を役じた事を覺えて居る。

 ところで此海岸の奇怪な蟹は平家蟹と云はれて居る。それは平家の溺死戰死した士卒の魂がこんな形になつたと云ふ傳說によるのである、死にもの狂ひの憤怒と苦痛は、蟹の背中の顏に今猶あらはれて居ると云はれる。しかし此傳說の興味を感ずるためには壇の浦の戰の古い繪――物凄い鐡の假面をつけて、大きな恐ろしい眼をした鎧武者の錦繪をよく知つて居らねばならない。

 

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[やぶちゃん注:これは十脚目短尾下目ヘイケガニ科ヘイケガニ属ヘイケガニ Heikeopsis japonica 、或いは、近縁種のマルミヘイケガニEthusa sexdentata であろう。なお、前者は北海道南部・相模湾から紀伊半島・瀬戸内海・有明海、及び、朝鮮半島・中国北部・ベトナムまでの東アジア沿岸域に広く分布し、棲息水深は十~三十メートルで、後者は犬吠埼、及び、対馬以南から鹿児島県沿岸までと、アンダマン海にも分布し、棲息水深は四十から三百六十メートルほどである。ヘイケガニ類(ヘイケガニ科 Dorippidae)の棲息環境は、孰れも、貝殻の多い砂泥底である。則ち、壇ノ浦に限定的に棲息する種ではない。]

 

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[やぶちゃん注:一方の、こちらは、特有の背甲のざらつき感や奇体な凹凸から見て、ヘイケガニ科キメンガニ属キメンガニ Dorippe sinica 、或いは、ヘイケガニ科サメハダヘイケガニ属サメハダヘイケガニ Paradorippe granulate と思われる。前者は、北海道から台湾までの東アジア沿岸域に広く分布し、水深二十~百五十メートル程度に棲息する。後者は、東北地方からオーストラリアまでの西太平洋と、インド洋に広く分布し、水深七十メートル程度まで棲息する。背面のごつい感じからは、前者の可能性が高いか。]

 小さい方の蟹はただ「平家蟹」として知られて居る。平家蟹は一つ一つ、普通の侍――ただの平家の武士の亡魂の生きかへつたものと想像されて居る。しかし大きい方の蟹は又「大將蟹」或は「龍頭(たつがしら)」と名がついて居る。大將蟹や龍頭は、西洋の紋章學では分らない怪物や、光り輝く角(つの)や、金の龍を兜の上にのせた平家の大將達の亡魂の生きたものと想像されて居る。

 

 私は日本の友人に、ここに出した二つの平家蟹の箱をかいて貰つた。私はその正確なことを保證する。しかし私はその龍頭の繪にも、又蟹の背中の本ものの形にも兜に似たものは何にも見ることができないと云つた。

 『君に分かりますか』私は尋ねた。

 『さあ、分りますね――先づこんな風に』と答へながら、下の略圖をつくつた、――

 

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 『なる程、兜の幾分は分る』私は云つた、――『しかし君のかいた略圖は實際通りではない、――それから、その顏はお月樣の顏のやうに氣が拔けて居る。本物の蟹の背中の、その見ると魘(うな)されさうなものを御覽なさい……』


2019/09/09

小泉八雲 或女の日記 (田部隆次譯) 附・オリジナル注

 

[やぶちゃん注:本篇(原題“ A Woman's Diary ”)は一九〇二(明治三五)年十月にニュー・ヨークのマクミラン社(MACMILLAN COMPANY)刊の“ KOTTŌ ”(来日後の第九作品集)の大項目で二話目(冒頭に配された“ Old Stories ”(全九話)を大項目で一群とした場合)、話柄数では十番目に配されたものである(以下、後者を使う)。作品集“ KOTTŌ ”は“Internet Archive”のこちらで全篇視認でき(本篇はここから。但し、これは翌一九〇三年の再版本)、活字化されたものは“Project Gutenberg”のこちらで全篇が読める本篇はここから)。

 底本は上記英文サイト“Internet Archive”のこちらにある画像データをPDFで落し、視認した。これは第一書房が昭和一二(一九三七)年一月に刊行した「家庭版小泉八雲全集」(全十二巻)の第八巻全篇である。★【2025年3月25日底本変更・前注変更】時間を経て、国立国会図書館デジタルコレクションに本登録し、現行では、以上の第一書房版昭和六(一九三一)年一月に刊行した「學生版小泉八雲全集」(全十二巻)の第七巻が、国立国会図書館デジタルコレクションで公開されてある。(リンクは扉だが、「學生版」の文字はない。しかし、奥附を見て貰うと『學生版 【第二囘豫約】』とあり、『昭和六年一月十日 發行』とあることが確認出来る)、これが、前掲の底本と同じものであるが、やはり、外国のサイトのそれを底本とするのは、日本人小泉八雲に失礼であると考えた。されば、こちらで、再度、以下の「骨董」の作品群を改めて校正することとする。これが――私の小泉八雲への「義」――である。なお、之よりも前の元版の全集等が先行しているものの、私がそれらと比べた結果、実は先行する同社の「小泉八雲全集」のそれらは、訳が一部で異なっており、訳者等によって、かなりの補正・追加がされていることが、今回の正字補正作業の中で、はっきりと判って来た。いや、同じ「家庭版」と名打ったネット上の画像データでも、驚いたことに、有意に異なっていたのである。そうした意味でも――完全な仕切り直しの総点検――が必要であると決したものである。従って、旧前振りの括弧・鍵括弧の問題も、拡大とガンマ補正で確認し、正確を期する。新底本の本話はここから。

 本文内の読み以外の( )や〔 〕は小泉八雲による挿入注である。原註(原文の原註は五十四項もあるが、田部はその内の十項だけを抄訳(さらに一部は内容を簡略化している)・訳者註(一つだけ)は最後にポイント落ち字下げで纏めてあるが、読みづらいので、適当な本文内に同ポイント挿入した。原註三の占いの記号は、特殊なものであるので、原本から、画像でトリミングし、拡大して添えておいた。

 長い作品なので、私の注を禁欲的に同じく適当な文中に配した。

 傍点「﹅」は太字に代えた。挿絵は底本にはないが、原本では各話の前後に同じ絵がサイズを変えて配されてある。“Project Gutenberg”版にある最初に配された大きい方のそれを使用した。挿絵画家は既に述べた通り、佐賀有田の生まれの画家江藤源次郎(えとうげんじろう 慶応三(一八六七)年~大正一三(一九二四)年)である。但し、本底本最後の田部隆次氏の「あとがき」によれば、『マクミランの方でヘルンが送つた墓地の寫眞と「獏」の繪「獏」の繪の外に、當時在英の日本畫家伊藤氏、片岡氏などの繪を多く入れたので、ヘルンは甚だ喜ばなかつたと云はれる』とある。それを考えると、挿絵の多くは、スルーされた方が、小泉八雲の意には叶うと言うべきではあろう。

 田部隆次(たなべりゅうじ 明治八(一八七五)年~昭和三二(一九五七)年)氏については先に電子化した「人形の墓」の私の冒頭注を参照されたい。

 本作は、悲惨小説でもなく、またひね曲がって変質してしまった日本の有象無象の自然主義を標榜する作品群とも全く異なる、日本人作家小泉八雲(彼の帰化手続が完了して「小泉八雲」と改名したのは明治二九(一八九六)年二月十日である)が書いた、真の日本の自然主義の、プレにして正統なる稀有な自然主義文学作品の一篇であると私は大真面目に思う。本篇を含む本書“ KOTTŌ ”は明治三五(一九〇二)年十月刊行である。因みに、日本製「自然主義」で金字塔扱いされる島崎藤村の「破戒」は、明治三九(一九〇六)年、田山花袋の「蒲團」は、その翌年の発表である。因みに、瞥見した銭本健二氏が担当された小泉八雲の年譜(一九八八年恒文社刊「ラフカディオ・ハーン著作集 第十五巻」所収)の明治三四(一九〇一)年の条によれば、本篇は小泉八雲の家の女中であった「お米(よね)」が嫁いだ鈴木幸三なる人物の先妻が残したものが素材であると明記されてある。]



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  或 女 の 日 記

 

 この頃やや珍らしい草稿が私の手に入つた、――細長い十七枚の柔い紙を、絹の紐で綴ぢて、表紙に麗しい文字が書いてあつた。それは或婦人が自分の結婚生活の歷史を自分で書いた日記のやうなものであつた。書いた本人が亡くなつてから、その人の持つてゐた針箱のうちに見出されたのであつた。

 この草稿を貸した友人は私に、公けにしてもよいと思ふだけ、如何程でも飜譯してもよいと云ふ許しを與へた。私はこの無類の好機會を利用して、下層社會の婦人の思想感情、喜びと悲みを、――丁度この婦人が、苟も[やぶちゃん注:「いやしくも」。]外國人がそのつつましい哀れな日記を讀まうなどとは夢にも思はないで、思ひ切つてあからさまに書き殘した通り、その儘英語に直す事にした。

 しかし彼女の優しい靈を尊敬してたとへこの人が生きてゐてこの文を讀む事があつても、少しも迷惑にならないやうに、その草稿を用ふるやうにした。神聖だと思つたので省いた處もある、又たとへ註釋を加へても西洋の讀者に分りさうにない習慣や地方的信仰に關する些細な事で省いたものも少しはある。それから勿論姓名は皆變へてある。その他の點ではできるだけ原文通りにして、――直譯では充分に分らない場合の外は一句も變へた所はない。

 

 この日記に述べてあり又暗示してある事實の外に、私は本人の履歷などは知る所殆んどない。この婦人は最下層社會の人であつた。彼女の話で見ると、三十近くまで未婚であつたらしい。妹の方が數年前から結婚してゐた。日記ではこの世間並でない事の理由は分らない。日記と一緖にあつた小さい寫眞で見ると、この人は綺麗とは云へなかつたことが分る。しかし顏付の優しいつつましげな一種人好きのする風に見える。夫はどこか大きな事務所の小使であつた、重に[やぶちゃん注:「おもに」。]夜勤であつて月給は十圓であつた。家計の助けに女は煙草屋の紙卷煙草を作つた。

[やぶちゃん注:後で日記に明治二八(一八九六)年及び明治三三(一九〇〇)年というクレジットが出る。当時の前者で給与所得者の平均年収は二百四十四円、大卒初任給平均は二十円、白米十キログラムの小売価格(東京)が八十銭であった。後者では給与所得者の平均年収は二百七十四円、大卒初任給平均は二十三円、白米十キログラムは一円強である。]

 

 日記を見ると、彼女は數年學校に行つた事があるに相違ない事が分る。假名[やぶちゃん注:「かな」。]は中々巧みに書けるが漢字は澤山は知らなかつたので、この日記は小學生の少女が書いたもののやうである。しかし誤りのない慣れた風に書いてある。東京語(市民の通用語)で、癖のある言葉が多いが、下卑な所は少しもない。

 

 日常の生活さへ困難であるのに讀んで貰へさうにもない日記を、御苦勞にも書くなどとは如何なる理由だと、無理ならぬ疑を起す人もあらう。このやうな問を發する人には、昔から日本の敎では悲しい時に歌や詩を作るのは、一番よい藥になつてゐる事を知らせたい。又下層社會に於ても今日でもなほ凡て喜びや悲しみの場合には歌を作ると云ふ事實を知らせたい。この日記の後半は淋しい病氣の時に書かれたのである。淋しさの餘り氣も狂ひさうな時に、重に心を靜める爲めに書いたのであらうと思はれる。死ぬ少し前には元氣も沮喪してゐた、それでこの日記の終りの部分は弱い便りない肉體に對して、精神が最後の奮戰をした事を示して居るやうである。

 

 草稿の表には『昔話』と題してあつた。昔とは數百年前の事實、或一個人の過ぎ去つた昔の事を云ふのである。勿論この場合ではあとの方の意味に使つてある。

[やぶちゃん注:以下、日記の部分は、全体が、ポイント落ちで以上の本文二字分の下げ位置で始まっているが、同ポイントで引き上げて示した。]

 

      昔  話

 明治二十八年九月二十五日の夕方、向ひの家の人が來て問うた。――

 『御宅の御總領の事ですが、お片つきになつてもい〻のでせう』

 そこで返事はかうであつた。

 『出したい事は出したいのですが、何分支度ができてゐませんので』

 向ひの人は云つた。――

 『しかし、さきでは支度などはいらないと云ふのですから、私の云ふ人におやりになつて下さいませんか。中々堅氣な人だと云ふ評判です。年は三十八歲です。御總領は二十六位だと思ひますから、先方へ云ひ出して見たのですが……』

 『い〻え……二十九ですよ』と答へた。

 『あ〻……それなら先方へ今一應話して見なければなりません。先方に話してから御相談に參ります』

 さう云つて向ひの人は出て行つた。

 

 翌晩、向ひの人が又來て――今度は岡田氏の細君(うちの知人)と一緖に――それから云つた。

 『先方は滿足です――そこであなたも御承諾ならこの緣談は整ひます』

 父は答へて、

 『二人とも〔七赤金〕原註一だから合性です――大丈夫差支ゐりますまい』

 仲人は尋ねた、

 『それでは見合は明日致すことに取計つて如何です』

 父は答へた。

 『全く何事も緣ですから……それでは明晚の今頃岡田さんの宅で會ふ事にして下さい』

 こんな風に、約束が雙方でできた。

原註一 七赤金。父はたしかに「三世相」のやうな占ひの本か、或は專門の占師に相談したのである。

[やぶちゃん注:「三世相」「さんぜさう(さんぜそう)」と読む。本来は過去・現在・未来 の三世の因果吉凶を仏教・卜筮(ぼくぜい)・陰陽五行の説などと絡めて、各人の生年月日や人相などから解明できるとした占術法の名。唐の袁天綱の創始とされ、本邦では江戸時代にこの考えを日常生活に必要な、十干十二支・月の上弦下弦・日食月食・夢判じ・呪いなど全二百八項目について、百科全書的に絵入りで解説した「三世相」という本が流行した(「ブリタニカ国際大百科事典」に拠る)。ここも後者のそれである。同名を書名中に含む沢山の占い本が、明治から昭和前期にかけて有象無象、多数、出版されている。試みに国立国会図書館デジタルコレクションの画像で、その一つの明治二五(一八九二)年出版の櫻井貢著「永代三世相 萬曆大雜書 全 附 元三大師みくじ大全」をリンクさせておく。なお、私はその方面への興味が全くないので「七赤金」については調べない。]

 向ひの人は翌晚岡田の宅へ私を連れて行かうと云つたが、私は何分一度踏み出した以上、のつぴきならぬ事ですから、母と二人だけで參りたいと云つた。

 母とその家へ行つた時「こちらへ」と云つて迎へられた。それから始めてお互に挨拶した。しかし何だかきまりが惡くて顏を見る事ができなかつた。

 それから岡田氏は並木氏(夫の姓)に向つて『あなたは內で相談する人もないのだし、善は急げと云ふから、早速よいと思つたら、きめなすつては如何ですか』

 その返事はかうであつた、

 『私の方は充分滿足ですが、先方は如何考へて居なさるか分りません』

 『御覽の通りで引取つてもよいと思召すやうなら……』原註二と私は云つた。

 仲人は云つた。

 『それなら婚禮の日はいつがよいでせう』

 『明日はうちに居りますが、十月一日の方がい〻でせう』と並水氏は答へた。

 しかし岡田氏は直ちに云つた、

 『並木氏の留守の間に家の心配もあるから、明日の方がよくはないでせうか――どうでせう』

 初めはそれは餘り早過ぎると思はれたが、私は直ぐに翌日は〔大安日〕原註三であることを思ひ出した。それで私は承諾して、それから歸宅した。

原註二 「御承知になつて居る通り、私はお金も着物もない貧乏な女ですが、それでも貰つてやると云ふ御思召なら、私も喜んで參ります」と云ふ意味。

原註三 吉日、不吉日は日本の曆によれば、このやうな名で表してゐる。

Kotto_note01_01  先勝、――午前よし、午後わるし。

Kotto_note01_02  友引、――午前よし、午後は始めと終わりよく、中わるし。

Kotto_note01_03  先負、――午前わるし、午後よし。

Kotto_note01_04  佛滅、――全部不吉。

Kotto_note01_05  大安、――全部よし。

Kotto_note01_06  赤口、――正午だけよく、あとは全く不吉。

[やぶちゃん注:六曜(古く中国で時刻の吉凶占いとされたものが日本に伝わり、明治六(一八七三)年の太陽暦採用後に、近代化の波に負けずに、装い新たに日の吉凶占いとして民間で積極的に取り入れられてしまい、現在も広く行われているもの。「先負」は「せんぶ」、「赤口」は「しゃっこう」と読む)。図が描かれているので、“Project Gutenberg”版の画像を取り込んだ。なお、現行では「友引」は「⦿」、「赤口」は友引の白黒部分の反転型で示される場合が多い。

「並木氏の留守の間に家の心配もあるから」訳が半可通である。原文は“As there is cause for anxiety about the house being unoccupied while Namiki-Shi is absent [on night-duty],”]で「並木氏は――夜勤の折りに――家が留守なのが、いつも不安の種であられるから、」の謂いである。]

 父に話したら、不機嫌であつた。餘り早過ぎる、せめて三四日位の猶豫がなければならないと云つた。それから方角が宜しくない、外によくない事もあると云つた。

 私は云つた、――

 『でも、もう約束してしまひました、もう日を變へて下さいと賴む事はできません。實際留守の間に泥棒でも入つたら氣の毒です。方角が惡いと云つて、よしそれで死にましても私不服はございません、夫の家で死ぬのですもの……』それから又云つた。『それで明日は忙しくて後藤(妹婿)へ行く暇がありますまいから、只今行つて參ります』

 後藤へ行つた、しかし會つたら、私は云ひに來た事をその儘云ふのがこはくなつた。私はただかう云つてほのめかした。

 『私明日よそへ行かねばなりませんの』

 後藤は直ぐに尋ねた、……

 『御嫁さんにですね』

 もぢもぢしながらやうやく云つた、――

 『え〻』

 後藤は『どんな人ですか』と尋ねた。

 私は答へた、――

 『私の考へがきまる程、その人をよく見る事ができるやうな私なら、なにもわざわざ母に一緖に行つて貰ふわけがないぢやないの』

 彼は云つた、『それぢや、姉さんは一體何のために見合に行つたんです。……しかし』大分愉快さうに云ひ足した、『おめでたう』

 私は云つた、『とにかく、明日の事なんです』

 それから私は家へ歸つた。

 

 さて約束の日になつて見ると(九月二十八日)どうしてよいか分らぬ程澤山用意する事があつた。それに幾日も雨降りであつたので道が大層惡く、そのために一層困つた。ただ幸に、その日は雨が降らなかつた。私は何かこまごましたものを買はねばならなかつたが、母に何でも賴むと云ふわけにも行かなかつた、(賴みたかつたのだが)何分年の故(せゐ)で、母の足は餘程弱くなつてゐたから。そこで私は隨分早起きをして獨りで出かけて、できるだけの事を一所懸命にしたが、それでもまだ充分準備できないうちに午後二時になつた。

 それから髮を結ひに髮結の處に、又風呂にも行かねばならず――それがまたみんな暇が取れた。それから着物を着換へに歸つたが、並木氏からは何の使ひも來てゐなかつた。私はそれが少し心配になつた。丁度、夕飯が濟んだ時、使が來た。一同に一々暇乞を云うて居る暇さへなかつた、それからもう一生歸らない覺悟で出かけた、そして岡田氏の家に母と步いて行つた。

 そこで又母とも分れねばならなかつた。岡田氏の家內は私の世話をして、一緖に船町の並木氏の家へ行つた。

[やぶちゃん注:「九月二十八日」調べてみたところ、明治二八(一八九五)年の同日は土曜日で六曜は大安であった。しかし、縁談を決めてしまった前日の二十七日は仏滅であった。

「船町」原文“Funamachi”。ロケーションを隠しているので判らぬが、冒頭の小泉八雲の言葉に「東京語」と出、後で地名の「赤坂」「淺草寺」「東大久保」が頻繁に出るので、文字通りに東京市内市街近辺で、例えば、現在の東京都新宿区舟町(ふなまち)が強い第一候補に挙げられるか(グーグル・マップ・データ。以下同じ)。]

 三々九度の盃事も無事にすみ、又御開き原註四の時も思ひの外早く來たので御客は皆歸つた。

 『あとには二人差向ひとなり、胸打ち騷ぎ、その恥かしさ筆紙につくし難し』譯者註

 全く私の感じた事は、始めて兩親のうちを出て花嫁となり、知らぬ家の娘となつた事の覺えのある人にだけ分るであらう。

原註四 日本の婚禮では、不吉な意味のこもつた言葉、或は間接になりとも不幸をほのめかすやうな言葉を避けることになつて居る。

「すむ」「終る」「歸る」などその他澤山の言葉は婚禮では禁句である。それで一同お暇をすることを「お開き」と云ふ言葉に普通改める。[やぶちゃん注:改行はママ。原文ではベタであるから、不審(田部は一部を圧縮しているが、改行をするような大幅なカットはされていないから、なお不審なのである)。]

譯註一 著者はこの文句を譯して、更に原文はこの通りと、ローマ字で殘して置いた。これに依つて原文の體裁も想像できる。[やぶちゃん注:原本のここの左ページ最下部の注「3」がそれ。]

 あとで食事の時、私は大層きまりが惡かつた。……

 

 二三日後に夫の先妻(なくなつた)の父が私を訪ねて來て、云つた、――

 『並木氏は本當によい人です――堅い着實な人です。しかし小さい事にもやかましく小言を云ひ勝ちな人だから、氣をつけて、氣に入るやうになさるがよい』

 私は初めから夫の樣子を注意して見てゐて、實際中々嚴しい几帳面な人だと思つた。それで萬事氣に逆らはぬやうにしようと決心した。

 

 十月五日が里歸りの日であつた、それで始めて二人で一緖に出かけた。途中後藤を訪れた。後藤の家を出てから、急に天氣が惡くなつて雨が降つて來た。そこで雨傘を借りて相合傘にさした。こんなにして步いて居るのを以前の近處の人にでも見られはしないかと氣が氣でなかつたが、幸に無事に兩親の家に着いて挨拶をした。幸に雨はまもなく止んだ。

 

 同月九日初めて一緖に芝居へ行つた。赤坂演伎座に行つて山口一座の芝居を見た。

[やぶちゃん注:「赤坂演伎座」東京赤坂溜池(国会議事堂の南西)にあった劇場。明治二五(一八九二)年に福禄座として開場し、二年後の明治二十七年に演伎座となっている。大正一四(一九二五)年に焼失し、再建されなかった。

「山口一座」俳優山口定雄(文久元(一八六一)年~明治四〇(一九〇七)年)が率いた一座。彼は徳島生まれ。初めは旅役者一座の一人で、転じて歌舞伎の女形で「我若」(がじゃく)と称したとされるが、後、明治二一(一八八八)年に書生芝居の興った機運に乗じ、一座を組織した。突然、演技を中断して演説を始めたり、街で奇行を演じたりもしたと伝える。明治二五(一八九二)年に「明治裁判辯護譽」「大地震尾濃日記」を引っ提げて東京市村座に進出、川上音二郎一座・福井茂兵衛一座と三座鼎立時代を作った。探偵実話を脚色上演したり、衣装に豆電球を使った「ケレン」の宙乗りで活躍したが、明治三五(一九〇二)年に宙乗りに失敗して大怪我をして再起できず、晩年は不遇に終わった。河合武雄・喜多村緑郎ら新派の大立て物を育てた人物でもある(「ブリタニカ国際大百科事典」他に拠った)。]

 

 十一月八日淺草寺に參り、それから御酉樣にも參詣した。

 その年の十二月に夫と自分の春着をこしらへた。その時始めてかういふ仕事の面白い事が分つて大層嬉しいと思つた。

 二十五日東大久保の天神樣に參り、そこの御庭を散步した。

[やぶちゃん注:「御酉樣」「おとりさま」の通称で親しまれ、十一月の酉の日の例祭は「酉の市(とりのいち)」として広く知られる東京都台東区千束(せんぞく)にある鷲神社(おおとりじんじゃ)。「酉の市」は本来は「酉の祭(まち)」と呼ばれた神祭である。但し、十一月ではあるが、この明治二八(一八九五)年十一月八日は己未(つちのとひつじ)で酉の日ではない

「東大久保の天神樣」東京都新宿区新宿にある西向天神社(にしむきてんじんしゃ)。安貞二(一二二八)年に栂尾明恵上人が創建したと伝えられ、社殿が西を向いているため、「西向天神」と呼ばれる。旧東大久保村鎮守。富士信仰の東大久保富士がある。

 

 二十九年[やぶちゃん注:一八九六年。]の一月十一日に岡田を訪れた。

 十二日に後藤へ二人で行つて面白かつた。

 二月九日『妹背山』を見に二人で三崎座に行つた。途中思ひがけなく後藤氏にあひ、それから一諸に行つた。しかし歸りには折惡しく雨降り出し道がひどくぬかつた。

 同月二十二日、天野で二人の寫眞を取つた。

[やぶちゃん注:「妹背山」歌舞伎「妹背山婦女庭訓(いもせやまをんなていきん)」。私は文楽で数度見ている。御存じない方は、ウィキの「妹背山婦女庭訓」を見られたい。

「三崎座」(みさきざ)明治二四(一八九一)年に東京神田三崎町三丁目に開場した観客定員千五百名の小劇場。ウィキの「三崎三座」によれば、『三崎座は初めて女優を主体とする芝居を上演し、また東京で唯一常に女優が興行する劇場』であった。『明治時代には市川鯉昇、松本錦糸、岩井米花らが中心となって活動し、その他にも沢村源之助、大谷馬十、尾上幸蔵などの俳優や女優市川粂八一座も活躍した』が、大正十二(一九二三)年九月一日の『関東大震災の影響により焼失し、翌』年の三月に『再建したものの、第二次世界大戦の戦災で再度焼失し、廃座となった』とある。

「天野」写真館の名であろう。]

 

 三月二十五日『春木座』に行き『鶯墳(うぐひすづか)』の芝居を見た。

 この月のうちに一緖に一同(兩親、親戚、友達)打連れて花見に行く約束をしたが、中々都合よく行かなかつた。

[やぶちゃん注:「春木座」現在の東京都文京区本郷三丁目に明治初期から昭和の戦前まであった、回り舞台や花道のある大劇場であった。ウィキの「本郷座」によれば、明治六(一八七三)年に『本郷の地主奥田某が本郷区春木町に奥田座を開場』、三年後の明治九年に『所在地の名を取って春木座と改名した。主に歌舞伎を上演し』た。明治三五(一九〇二)年には『区名を採って本郷座と改称した』とある。

「鶯墳(うぐひすづか)」歌舞伎「鶯墳長柄故うぐひすづかながらのふるごと」か。明治二(一八六九)年初演の新作「河內國名所鴬墳」というのもある。因みに、一九七五年恒文社刊の平井呈一氏の訳(「骨董・怪談」)では「螢塚」と誤っているが、これは恒文社の誤植の可能性が高い。]

 

 四月十日、午前九時、二人で散步に出た。初めは九段招魂社へ參詣し、それから上野公園まで行き、そこから淺草へ行つて觀音樣に參詣し、また門跡樣にも參詣した。それから淺草奥山の方へ𢌞るつもりの處、先づ御飯をと云ふので――そこで或料理屋へ入つた。食事をして居るうち、戶外に大喧嘩があるのかと思はれる程の大騷ぎやら叫び聲やらが聞えた。その騷ぎは見せもの小屋に火事が起つたからであつた。見て居るうちにも火が早く擴がつて、その町の見せもの小屋は大抵燒けた。――私共はすぐ料理屋を出て淺草公園をあちこち、見物しながら步いた。

[やぶちゃん注:「四月十日」明治二九(一八九六)年の同日は金曜日である。小泉八雲が冒頭で記すように、この並木という夫は夜勤の多い仕事のようである

「九段招魂社」東亰招魂社(とうけいしょうこんしゃ)。本殿竣工は明治五(一八七二)年。現在の東京都千代田区九段北にある靖国神社の旧正式名称。改称は明治一二(一八七九)年。

「門跡樣」東京都台東区西浅草にある浄土真宗東本願寺派本山東本願寺の別称。

「淺草奥山」浅草寺観音堂の裏手一帯の俗称。江戸時代から香具師の本拠となって見世物小屋が並び、軽業や居合抜きなどの芸を見せながら物を売って「奥山見世物」と呼ばれたが、明治になって、その多くは、「六区」に移転した。この火事は特に記録にないようだが、或いは、彼女のこの記録はまさに。その末期の面影であったのかも知れない。]

 (つぎに原稿にはこの婦人が作つた小さい歌がある)

    今戶の渡しにて原註五

    あひ見た事のなき人に

    不思議に三めぐり稻荷

    かくも夫婦になるのみか

    初めの思ひに引きかへて

    いつしか心も隅田川

    つがひ離れぬ都鳥

    人も羨めば我身もまた

    咲きみだれたる土手の花よりも

    花にも增したその人と

    白鬚やしろになるまでも

    添ひとげたしと祈り念じ

 ……それから、うちの方へと吾妻橋を渡つた。蒸汽で曾我兄弟の御寺の開帳に行つた。そして私共や兄弟姉妹がいつも仲よく樂しくくらせるやうにと祈つた。その晚歸つたのが七時過。

 

 ――同月二十五日、私共は『錄物の寄席』に行つた。

原註五 今戶の渡し船のことを云つて居るやうで、實はこの婚禮を媒酌した仲人のこと。……[やぶちゃん注:リーダは原註の一部を略したことを示している。原註では以下も同じであるので、基本、この注は略す。]

[やぶちゃん注:「今戶」台東区今戸。浅草寺の東北直近の隅田川右岸で、そこに架かる現在の桜橋附近に渡しがあった。それに仲を繋いだ仲人に掛けたのである。

「不思議に三めぐり稻荷」は今戸の対岸の東京都墨田区向島にある三囲神(みめぐりじんじゃ)に、「めぐりめぐって」不思議な縁(えにし)で結ばれたと掛けたもの。この神社は伝承によれば、もとは「田中稲荷」と呼ばれていたが、荒廃し、その後、文和年間(一三五三年~一三五五年)に、近江三井寺の僧源慶が東国遍歴の途次に荒れたこの祠を見出し、弘法大師所縁ともいう言い伝えを聴いて、改築せんとしたところ、土の中から白狐に跨った老翁の像を得、その時、白狐が現われ、その神像を三度回ったことから、「三圍」(みめぐり)の名としたとされる。

「白鬚やしろ」同じく東京都墨田区東向島にある白鬚神社(しらひげじんじゃ)の名に掛けて偕老同穴を願うのである。孰れも判り易い、古典作品や地名・社名等の名称を上手く掛詞に用いているのであるが、例えば、それが。悉く、隅田川の極めてごくごく限定された場所での「もの尽くし」ともなっていて、しかも全く破綻がないところをみても、彼女は、なかなかに知性的な女性であることが見てとれるのである。

「吾妻橋」はここだが、ちょっと悩ましいのは、「うちの方へと」とあることで、浅草寺からを吾妻橋を渡ってしまうとなると、彼らの家は東京都墨田区以東にあるように読めてしまう。ところが、嫁入り後に彼女がお参りしたり、散歩したりするのは、山の手附近が殆んどで、私は漠然と、ここまでは、その辺りに彼らの家を想定していた。どうもこれだと、並木家がどこにあるのか、よく判らぬ。特定出来ぬように事実でない操作を仕込んである可能性も、冒頭の小泉八雲自身の謂いから、感じ取れなくはない。ただ、後で浅草から神田を経由して彼女の実家に寄って帰宅したという記載が出るので、やはり山の手に並木家はあることは間違いない。

「蒸汽」小型蒸気船。ポンポン蒸汽。

「曾我兄弟の御寺の開帳」場所が判らないが、所謂、出開帳であろう。曽我兄弟所縁の寺となると、二人の墓がある静岡県富士市久沢にある通称曽我寺、正しくは曹洞宗鷹岳山福泉寺のそれか。普通、同宗派の寺でないと出開帳は出来ないから、吾妻橋からは徒歩では距離があり、蒸気船で恐らく隅田川を溯った位置にある曹洞宗の寺か(その辺りには固まって曹洞宗の寺院があるからである)。

「錄物の寄席」原文は“the Rokumono-no-Yosé”で、原注があり(左下の「1」)、そこには、

Name of a public hall at which various kinds of entertainments are given, more especially recitations by professional story-tellers.

とある。これは、

種々の演芸、特に専門の語り芸人による公演が行われるところの、公共のホールの固有名称である。

と言った意味であるが、このような寄席(演芸場・亭名)を知らない。但し、ウィキの「寄席」によれば、この時制より十年も後の明治三九(一九〇六)年末時点のデータであるが、『東京市内・近郊で寄席の数は計』百四十一『軒』あったとあり、『内訳は、まず講談が、おおむね各区ごとに一つはあ』って二十四『軒』で、『当時「色物席」という形で分けていた落語・色物の定席は』七十五『軒。中には、有名な人形町の末廣亭や神田・立花亭、上野・鈴本亭も含まれる。 浪花節席は』三十『軒。神田市場亭(後に入道舘→民衆座)が見られる。まんべんなくあるが、特に下谷区浅草区から本所区、深川区にかけて多く分布してい』た。『現在は消滅した義太夫専門の定席が』三『軒ある。神田・小川亭、日本橋・宮松亭、浅草・東橋亭の名。さらに、祭文』(さいもん:デロレン祭文。『上州祭文と思われる』と注記がある)『の席として下谷・竹町に佐竹亭の存在が確認できるのが、浪花節の歴史の点からも特筆される。この他に、混成の席の中で、内藤新宿に末廣亭(旧・堀江亭。浪曲・色物)、品川に七大黒(色物・義太夫)の存在が確認できる』とあるが、『演目は決して固定されていたわけではなく、多くが家族経営の零細企業であった寄席は』、『かかる演目は席亭主の意向で自在に変わり、例えば』、『色物席でも年に一度は必ずと言っていいほど義太夫がかかっていたという』。『寄席の開演時間については昼席公演は少なく、夜席が多く、その終演は「午後』十『時から』十一『時に至るを常と』」す『とある』。『これにより』、『一人当たりの口演時間が長い講談・浪花節でも「二軒バネ、三軒バネ」が可能であったことがわかる』とある。さても、そもそもが、この「錄物」とは「金銭」の謂いであるから、これはれっきとした寄席の固有名称なのではなく、町屋で掘立小屋を建てて臨時興行し、木戸銭を稼いでいた大道寄席の別名なのではなかろうか?

 

    *

 

 五月二日つつじを見に二人で大久保に行つた。

 同月六日私共は招魂社へ花火を見に出かけた。

 ――これまで二人の間に何の風波もなかつた。そして私は二人で出かけたり見物に行つたりする時にきまりの惡い事もなくなつた。今ではお互に氣に入るやうにとばかりつとめて居るやうだ。そして、私は二人はどんな事があつても離れる事はないと信じて居る。……私共の關係はいつもこんなに幸であるやうにと祈る。

 

 六月十八日は須賀神社の祭禮なので父の家に招かれた。髪結が間に合ふやうに來てくれないので大變困つた。しかし妹のおとりさんと父の家に出かけた。やがてお幸さん(かたづいて居る妹)も參り――にぎやかであつた。晚になつて後藤氏(お幸の夫)が見え、最後に私が一心に待つてゐた夫が見えた。それから大へん嬉しかつた事が一つあつた。夫と私が一諸に出かける時、よく私がこしらへた新しい春着を着ませうと云ひ出しても、夫はその度每に古いので澤山だと云つて聞き入れなかつた。それでも今度は――父の招待だから着なければならないと思つて――新しい方を着てくれた。一同折よくこんなに集つたので皆が一層機嫌よくなつた。そして仕舞に別れる時にただ夏の夜の短かさをかこつた。

[やぶちゃん注:「須賀神社」東京都新宿区須賀町にある須賀神社。ご覧通り、私が当初推定した船町の南直近である。

「妹のおとりさん」原文では本文内中で“[a younger sister]”とあることから、筆者の下の妹の名である。

「お幸さん」原文により、読みは「おこうさん」である。]

 つぎのはその晚私共の作つた歌である、――

[やぶちゃん注:ブラウザの不具合を考えて、全体に引き上げ、字空けも詰めた。]

 

 二夫婦そろうて祝ふ氏神の

    祭りも今日はにぎはひにけり 並木(夫)

 

 氏神の祭りめでたし二夫婦     同じく並木

 

 いくとせもにぎやかなりし氏神の

    祭りにそろふ今日の嬉しさ  妻

 

 祭りとて一家集る樂しみは

    げに氏神の惠みなりけり   妻

 

 二夫婦そろう今日の親しみも

    神の惠みぞめでたかりけり  妻

 

 氏神の惠みも深き夫婦づれ     妻

 

 祭りとて對に仕立てし伊豫がすり

    今日樂しみに着ると思へば  妻

 

 思ひきやはからずそろふ二夫婦

    何にたとへん今日の吉日   後藤

 

 祭りとて始めてそろふ二夫歸

    後のかへりぞ今は悲しき   お幸

 

 故鄕の祭りにそろふ二夫婦

    語らう間さへ夏の短夜    お幸

[やぶちゃん注:「語らう」はママ。原文(ローマ字写し部分)は口語表現で“Katarō ma saë”である。]

 

 七月五日に播摩太夫のかかつた金澤亭に『三十三間堂』をきいた。

[やぶちゃん注:「播摩太夫」文楽の義太夫節太夫の四代目竹本播磨太夫(天保一〇(一八三九)年~明治三七(一九〇四)年(或いは前年とも))。江戸生まれ。鶴沢団六の子。当初は歌舞伎の子役であったが、三味線を志して、鶴沢清六に入門。鶴沢亀太郎や亀鳳を名乗り、花沢伊左衛門の弟子に転じ、紋左衛門から伊左衛門を襲名した。しかし、その後に太夫となり、明治一二(一八七九)年に播磨太夫を襲名、特に東京で活躍した(日外アソシエーツ「新撰 芸能人物事典 明治~平成」に拠る)。

「金澤亭」寄席名であるが、不詳。

「三十三間堂」浄瑠璃「祇園女御九重錦(ぎをんにようごここのへにしき)」(時代物。五段。若竹笛躬 (わかたけふえみ)・中邑阿契 (なかむらあけい)合作。宝暦一〇(一七六〇)年、大坂豊竹座初演)の三段目の、柳の精であるお柳が、一子緑丸と別れを告げる場のみを上演する際の別外題「卅三間堂棟由来(さんじふさんげんだうむなぎのゆらい)」のこと。私は三度見ている好きな演目である。]

 

 八月一日夫の先妻の一周忌につき淺草寺に參詣、それから吾妻橋のそばの鰻屋で中飯。そこに居るうちに丁度、正午の時分に地震があつた。河に近いので家が大へんゆれて、隨分恐ろしかつた。

 ――先に櫻の時分に來た時大火事を見たのを思ひ出してこの地震は心配になつた。今度は雷でも落ちはせぬかと思つた。原註六

原註六 「地震、火事、雷、三十日、飢饉、病のない國へ行きたい」と云ふ佛敎から出た諺による。

[やぶちゃん注:「三十日」は「みそか」で「晦日」、近代まで、月末は払いの切りをつけねばならない一と月の中で最も忙しく(嫌な・危険な)時期を指した。昔は他の意味合いも含めて「尻」(物事のけじめとしての〆(しめ)や、飲食の作法としての終り等、いい加減な行為や暴飲暴食による体調不良などへの戒めをも含んだようである)とも謂ったが、現代では死語となって、これが並列されることは殆んどなくってしまった。ただ、これは仏教というよりも、もっと以前の民俗的な道徳的訓戒に元はあるように思われる。因みに、現行の一般に言われる「親父」は怒れる父親ではなく「台風」の異称であるとする説もあるようだ。]

 二時頃に鰻屋を出て淺草公園に入つた。そこから鐡道馬車で神田に行き、それから神田の涼しい處で暫く休んだ。途中父を訪ねて歸つたのは九時過。

[やぶちゃん注:「鐡道馬車」東京馬車鉄道のこと。ウィキの「東京馬車鉄道」によれば、明治一五(一八八二)年六月二十五日に、『新橋と日本橋の間を結んで営業を開始した。停留所は基本的に汐留本社、新橋、終着地のみで、途中の停留所は存在せず』、『利用者が降りたい所を車掌に言えば下車できた。乗るのも手を上げれば乗れたらしい』。同年十月一日には、日本橋―上野―浅草―『日本橋間の環状線も短時間で竣工させた。開業当初に営業運転に当たった馬車は』三十一『両あり、すべて英国製で一等車が』二十九『両でオールドバリー製で、二等車がスターバック製であった。二等車のうち』一『両が「夏用車」と謳ってあり』、『この馬車は現在で言うと』、『オープンカー形状の馬車であり、当時好評でかなり使われていた。夏用車(オープンカー)車体天井部分には東京市街馬車鉄道と記してあり側面には車体番号が記してあった。逸話として当初』は一、二『両を試験的に英国から輸入し、あとは東京馬車鉄道が国内で模造し』。、量産するつもりでいたが、依頼先の鉄道局で製作する材料と車輪鉄具の製作ができず、仕方なく』、『夏用車をすべて輸入したようである。馬は宇都宮や関東地区近隣から購入して使った。開業時』は四十七頭で開業年の末には二百二十六頭に『増やした。新橋から全区間の所要時間は』二『時間程度で、新橋から浅草橋経由浅草広小路までは』四十六『分、新橋から万世橋経由浅草広小路まで』四十二『分、浅草広小路から上野広小路まで』十六『分であった。料金は』三『区分制を採っており』、『一区あたり一等車』三『銭、二等車』二『銭であった。一等車』三『銭は』二〇〇〇『年代の流通貨幣で』千五百『円程度の価値』となり、『全区間(』三『区間)×』三『銭を乗車すると』当時の『の流通価値で』四千五百円にもなり、二等の場合でも三千『円の金額になる』。これは実に二〇〇〇年代の『タクシー乗車金額相当の運賃であり、庶民が毎日使えるものではなかった』とある。]

 

 同月十五日八幡神社の祭禮、後藤と妹と、後藤の妹と宅へ來てくれた。私は一同揃つて宮寺りをしたいと思つてゐたが、この朝夫が少しお酒を飮み過ぎたので、そこで仕方なく夫を置いて出かけた。參詣してから後藤の宅へ行き、しばらくしてから歸つた。

[やぶちゃん注:「八幡神社」京都新宿区市谷八幡町に市谷亀岡八幡宮(いちがやかめがおかはちまんぐう)や、新宿区筑土八幡町にある東筑土(つくど)八幡神社、新宿区若宮町の神楽坂若宮八幡神社などが候補となるか。]

 

 九月お彼岸の中日にひとりで寺參りをした。

 

 十月二十一日おたかさん靜岡より來らる。私は翌日芝居へ案內したかつたが、おたかさんは翌朝早く東京を立たねばならぬ事になつた。それでも夫と私は翌晚柳盛座に赴いて『松岡美談貞忠鑑』を見物した。

[やぶちゃん注:「おたかさん」親族関係不明。呼び方から、血族親族で、姻族ではないように思われる。

「柳盛座」旧浅草向柳原町附近の劇場か。

「松岡美談貞忠鑑」“ Matsumaë Bidan Teichū-Kagami. ”で「松前」の誤り。読みは「まつまえびだん ていちゅうかがみ」。歌舞伎・浄瑠璃の外題。初演は明治二八(一八九五)年十月東京真砂座初演。作品内容未詳。]

 

      *

 

 六月二十二日父から賴まれた着物を仕立てはじめたが、加減が惡くて充分できなかつた。しかし新年(明治三十年)[やぶちゃん注:一八九七年。]の元日に仕上げる事ができた。

 ……今度は子供が生れるので大へん嬉しい。それから私は兩親が初孫をもつてどんなにか得意になつて喜びなさるかと思つた。

 

      *

 

 五月十日母と鹽釜樣原註七へ參詣し、それから泉岳寺に參詣に出かけた。そこで四十七士のお墓や色々の寶物を拜觀した。新宿まで汽車で歸つた。鹽町三丁目で母と別れ、うちについたのは六時。

原註七 鹽釜神社は歸人が安產をいのるために參詣する神社。……

[やぶちゃん注:東京都港区新橋にある鹽竈神社であろう。元禄八(一六九五)年に仙台藩主伊達綱村が陸奥国一宮鹽竈神社の御分霊を汐留の江戸上屋敷内に勧請したことに始まる。安政三(一八五六)年、伊達慶邦により中屋敷(現在の社地)に遷され、一般の参拝も許されるようになり、安産の神として広く信仰を集めた。泉岳寺へは南西に直線で三キロメートル強。

「新宿まで汽車で歸つた」明治二九(一八九六)年当時の山手線(当時の私鉄日本鉄道)の開通状況はウィキの「山手線」のこちらの図で判る。まだ環状路線とはなっていない。因みに、現在のような環状運転が開始されるのは国有化(明治三九(一九〇六)年十一月一日)後の大正一四(一九二五)年十一月一日のことであった。

「鹽町」新宿区四谷本塩町(ほんしおちょう)附近であろう。或いは、ここより南に並木家はあるか。]

 

      *

 

 六月八日午後四時男子出生。母子共この上もなく健やかに見えた。子供は夫によく似てゐた。大きい黑目がちな目をしてゐた。……しかし大へん小さい兒であつた。八月に生るべき筈の處六月に生れたのでゐつた。……同日午後七時藥を飮ます時になつて、ランプの光で見ると大きな眼を開いて、その邊を見𢌞してゐた。その晚一晚私の母の懷に眠つてゐた。八月子だから餘程暖かくしてやらねばならないと聞いたから夜晝懷に入れて置く事にした。

 翌日――六月九日――午後六時半子供は突然死んだ。……

[やぶちゃん注:「八月子だから餘程暖かくしてやらねばならない」昔から、冬生まれは「暑がり」、夏生まれは「寒がり」だと言う。こちらのフードアナリスト協会会長代表横井裕之氏のブログの『冬生まれは「暑がり」夏生まれは「寒がり」が多い理由。』の解説に、『生まれたばかりの赤ちゃんは、すぐに死なないように外気に対して免疫が備わっているので、その免疫の有効期限が切れるのが半年くらいなので自分が生まれた季節の反対の季節に対して抵抗力が弱くなる、という事を以前雑誌で読んだことがあります』とあった。]

 

 ――『嬉しき間は僅かにて、又悲しみと變ず、生るるものはみな必ず死す』とあるは實にこの世のよい戒である。

 

 僅か一日母と呼ばれ、ただ死ぬのを見るために子供を生んだのであつた。――本當に生れて二日位で死ぬのなら生れない方がよかつたのにと思ふ。

 十二月から六月まで私は隨分病氣であつた。それからお產をしていくらかよくなつて喜んでゐた。今度の慶事につき方々から御祝ひを受けたが、それに子供が死んでしまつた。――本當に私は悲しさにたへない。

 六月十日大久保、泉福寺と云ふ御寺で葬式を行ひ、それから小さいお墓をたてた。

 その時の歌――

    思ひきや身にさへかへぬ撫子に

          別れし袖の露のたもとを

 

    さみだれやしめりがちなる袖のたもとを

 

それから間もなく人が卒塔婆を逆さに立てて置けば、こんな不幸に再びあはないと聞かせてくれた。そんな事をするのは餘程かはいさうに思はれて、色々迷つたが、八月九日遂に卒塔婆を逆さに立てた。……

原註八 卒塔婆は經文を書いて墓の前にたてる細長い木の板である。卒塔婆の詳細なる記事は『異國情緒と懷古のことども』のうち『死者文學』と題する一篇を見られよ。著者はこ〻にある珍しい迷信の事を叙述、解釋する事はできない、しかし著者の「佛の畠の落穗」に託した不思議な習慣と多分同種類のものであらう。

[やぶちゃん注:「泉福寺」東京都新宿区新宿にある浄土真宗大谷派白蓮山専福寺か。

「原註八」本のここ(右ページ下の注番号1)。原文は、

The sotoba is a tall wooden lath, inscribed with Buddhist texts, and planted above a grave. For a full account of the sotoba, see the article entitled "The Literature of the Dead," in my Exotics and Retrospectives, p. 102. I am not able to give any account or explanation of the curious superstition here referred to; but it is probably of the same class with the strange custom recorded in my Gleanings in Buddha-Fields, p. 126.

で、訳してみると、

   *

 卒塔婆は仏教の章句が刻まれた、背の高い木製のラス[やぶちゃん注:薄く細長い小幅の板。]で、墓の上に差し植えられる。卒塔婆についての詳細な説明については、私の「異国風物と回想」[やぶちゃん注:明治三一(一八九八)年十月刊。]の一〇二ページの「死者たちの文学」という標題の記事を見られたい。私にはここで語られている奇妙な迷信についての何らかの説明をすること、又は、解釈を示すことは、とてものことに出来ないのであるが、それは恐らくは、私の「仏陀の畑[やぶちゃん注:仏国土・浄土の意。]の落穂集」の一二六ページに収めた不思議な慣習[やぶちゃん注:「人形の墓」(“ NINGYŌ-NO-HAKA ”)を指す。リンク先は私の田部隆次譯の電子化注。]と同類のものであろう。

   *

となろう。私もこの「逆さ卒塔婆」の葬礼習俗については判らないが、反転させることで、ある不吉な流れを堰き止め得るというような意識の意味合いは感じられる。「人形の墓」の私の注の中の牧野陽子氏の論文の引用が示唆に富む。]

 

 九月九日赤坂の芝居に二人で行つた。

 十月十八日木鄕春木座へ獨りで行き大久保彥左衞門の芝居を見た原註九。そこで下足札をうつかりなくし、皆出てしまふまで殘らねばならなかつた。それから漸く草履を見つけて歸る事ができた。しかし眞暗な夜で途中が大へん淋しかつた。

原註九 この芝居見物を單に遊興と見るのは公平ではあるまい。むしろ苦痛を忘れるため、それから多分夫の命令で行つたものであらう。……

[やぶちゃん注:「大久保彥左衞門の芝居」明治二一(一八八九)年東京市村座初演の「大久保彥左衞門」のそれか。「……」は原註で続く大久保彦左衛門の説明をカットしたことを示している。]

 

 三十一年[やぶちゃん注:一八九八年。]正月の節句原註十に堀の伯母と友人內海さんの奥さんと話をして居る最中、急に胸が痛み出したので驚いて簞笥の上にあらる水天宮のお守りを取らうとする途端に氣が遠くなつて倒れた。親切に介抱されて直ぐ正氣づいたが、そののち長い間病氣になつた。

原註十 節句と名のつく祭日は一年に五度ある。この五節句は人日(一月七日)、上巳(三月三日)、端午(五月五日)、七夕(七月七日)、及び重陽(九月九日)でゐる。

[やぶちゃん注:「堀の伯母」「堀」は姓か。

「上巳」「じやうし(じょうし)」。小泉八雲はここを“ Joki ”と記しており、「上已」を「上己」と見間違えたものか、或いは半可通の助力者の誤り、或いは、小泉八雲の発音の聴き取りの誤りと思われる。]

 

      *

 

 四月十日が東京遷都三十年祭なので、父の家に集る事にした。重之助〔多分親戚〕と一諸に先に行つて、夫を待つてゐた。夫はその日朝のうち、一寸役所へ行く筈であつた。八時半頃に夫は父の家に來て、皆と一諸になつた。それから私共三人だけ一緖に出かけて市中の景況を見た。麹町から永田町に行き櫻田門を通つて日比谷見附に出て、それから銀座通から眼鏡橋を通つて上野に出た。そこで色々見物ののち、又眼鏡橋に出た。その時餘程疲れてゐたので私は歸らうと云ひ出したら、夫もやはり疲れてゐたので贊成したが、重之助は『こんなよい時に大名行列を見落してはつまらないから銀座へ行かう』と云つてきかない。そこで重之助と別れて小さい天ぷら屋に入つて天ぷらを喰べた。それから運のよい事には折よくその家から大名行列を見ることができた。その晚歸つたのは六時半。

[やぶちゃん注:「東京遷都三十年祭」公的には「東京奠都(てんと)三十年祭」が正しい。明治維新のとき、江戸が東京とされ、ウィキの「東京奠都」によれば、明治維新の際、『江戸が東京とされ、都として定められ』、『京都との東西両京としたうえで、慶応四年七月十七日(一八六八年九月三日)に『江戸が東京と改称され、同年』九『月に元号が明治に改められ、同年』十月十三日に『天皇が東京に入り明治』二(一八六九)年に政府が京都から東京に移された』ことを祝うもの(「遷都」の語義はリンク先を見られたいが、「遷都」は「都を移す」で、「奠都」は「都を定める・置く」の意という。遷都の場合は天皇の勅令が出される決まりであるが、明治天皇による遷都の詔勅は出されておらず、現在に至るまで東京を首都とする法令も政令も存在しない。則ち、首都東京には正式な誕生日が存在しない状態という。別に明治元(一八六八)年七月十七日に「江戸ヲ稱シテ東京ト爲スノ詔書」は発布されているが、これは「江戸」改め「東京」が京都(平安京)と相並ぶ帝都に昇格したということを宣言しただけのものなのだそうである)。ここにある通り、東京奠都三十年祭は明治三一(一八九八)年四月十日に挙行された。何故、この日付なのかは私は知らない。

「重之助」原文“Jiunosuké”。

「眼鏡橋」アーチ二連の石造りの旧萬世橋(現在の万世橋の場所ではなく、少し上流の現在の昌平橋と万世橋との中間にあった)の当時の通称。この記載されたルートだけでも、地図で実測で辿ってみると、実に十キロメートルはあるので、時間的に見ても人力車を使用した部分もあろうと思われる。]

 

 四月の半ばから妹おとりの事で隨分心配した〔その事は書いてない〕

 

      *

 

 明治三十一年[やぶちゃん注:一八九八年。]八月三十一日二番目の子供が殆んど何の苦痛もなく出生――女であつた。初[やぶちゃん注:原文“Hatsu”。]と名づけた。

 

 出產の時に世話を受けた人々を七夜に招いた。

 ――母はそれから二日程ゐてくれたが、妹のお幸の胸がひどく痛むので、せん方なく歸られる事になつた。幸に夫がこの頃きまつた休暇を得たので、できるだけの世話をしてくれた――洗濯や何かの事まで。しかし自分のそばに女がゐないので私は時々大へん困つた。

 夫の休暇がなくなつてから母は時々夫の留守に來てくれた。二十一日もこんなにして過ぎたが母子共健康であつた。

 ――娘が生れてから百日になるまで時々呼吸が苦しさうに見えるのでたえず心配した。しかしそれも漸くなくなり段々强くなるやうであつた。

 それでも一つ不幸な事があつた。それは不具の事で、初は生れた時から片方の手の拇指が二本あつた。手術を受けに病院へ連れて行く氣には長い間なれなかつた。しかしつい近處の婦人が新宿の大へん上手な外科醫の事を話してくれたのでたうとう行く事にきめた。手術の間、夫が膝に子供をのせてゐた。私は手術を見る事はとてもできなかつた、どうなる事かと思うて、心配と恐ろしさで胸一杯になつてつぎの室で待つてゐた。しかし濟んでから子供は何事もなかつたやうな顏をしてゐた。暫くして、いつものやうに乳を飮んだ。それで案じたよりも好都合に事が濟んだ。

 うちに歸つて前の通り續いて乳を飮んだ。そして小さいからだに何事もなかつたやうに見えた。しかし大へんに幼いからあんな手術などを受けて、何か病氣の種でも作りはしなかつたかと心配した。用心のために三週間程每日病院に通つた。しかし惡い樣子は少しも見えなかつた。

[やぶちゃん注:「七夜」原文“ the shichiya ”。子供が生まれて七日目の夜。昔は七夜までに生児が死亡する場合が多く、「お七夜(ひちや)」は、生児の生存への一つの大事な通過儀礼であった。この日にその子に命名をし、親と子の両方の祝いの意を込めて、産婆・仲人・親戚などを招いて、披露の祝いをする。

「生れた時から片方の手の拇指が二本あつた」手足の先天性形状異常の一つである多指(趾)症。手足の先天性異常では、比較的多くの割合を占める。]

 

 三十二年[やぶちゃん注:一八九九年。]三月三日の初節句に父と後藤と兩方から內裏雛、その外御祝ひの品々、簞笥鏡臺[やぶちゃん注:「きやうだい」。]針箱を貰つた。私共もこの時に子供のために茶臺、御膳、その外の小さい物を色々買つてやつた。後藤と重之助はその日見えて、にぎやかであつた。

[やぶちゃん注:「茶臺」原文は確かに“ chadai [teacup stand] ”とあるが、これは「高坏(杯)(たかつき)」のことであろう。高い一脚をつけた丸い皿で、ここに並んで記されてある雛飾りの一つで、一対で用いられる菓子などを供える器のことである。]

 

 四月三日穴八幡〔早稻田〕に參詣して子供の息災延命を祈つた。……

 四月二十九日初は病氣のやうで私は醫者に診て貰ふことにした。

 醫者がその朝來てくれる約束をしながら、來てくれない、一日中待つてゐたが駄目であつた。一日中待つてゐたが來てくれない。夕方になつて初は段々惡くなり、胸のところが大へん苦しさうであつたので、翌朝早く醫者へつれて行かうと決心した。一晚中心配でならなかつたが、朝になって少しよくなつたらしい。そこでおんぶして獨りで出かけて赤坂の或醫者へ行つた。診て下さいと賴むと未だ患者を診る時刻でないから待つて居るやうにと云はれた。

 待つて居るうちに子供が前より一層ひどく泣き出して乳にも吸付かず、ただ步いて見かり休んで見たりして、すかすより外に仕方がなく、大へん困つた。やうやくの事で醫者が見えて子供を診て貰つたが、その時子供の泣き聲が段々弱くなつて、唇が段々蒼くなつた事に氣が付いた。そこでそれを見て默つて居られないので『如何な[やぶちゃん注:「どんな」。]樣子でせうか』と尋ねると『晩までもたない』と云はれた。『何かお藥をやつて下さいませんか』と尋ねると『飮めたらよいがね』と云はれた。

 私はすぐ歸つて夫や父のうちへ云つてやりたいと思つたが餘りひどく驚いたので――一時に力がなくなつた。幸に或親切な老婦人が、傘や何かを持つて車に乘る世話をして下さつたので、人力車で歸宅する事ができた。それから人を賴んで夫と父に傳へた。三田の奥さんが世話に來て下さつた。そのお蔭で子供を助けるためにできるだけの事をした。……それでも未だ夫が歸つて來なかつた。しかし心配や世話したことは皆無駄になつた。

 それで三十二年五月二日子供は十萬億土の歸らぬ旅へ赴いた。

[やぶちゃん注:「穴八幡〔早稻田〕」東京都新宿区西早稲田にある穴八幡宮(あなはちまんぐう)。ウィキの「穴八幡宮」によれば、康平五(一〇六二)年、『源義家が奥州からの凱旋の途中、この地に兜と太刀を納め、八幡神を祀ったと』され、寛永一八(一六四一)年、『宮守の庵を造るため、社僧良晶が南側の山裾を切り開いていると』、『横穴が見つかり、中から金銅の御神像が現れた。掘った人は「芽出度い」と大喜びし、以来、「穴八幡宮」と称するようになった』とある。江戸時代より「虫封じ」(俗に乳児の異常行動を指していう「疳(かん)の虫」(夜泣き・癇癪・ひきつけ)を封じる御利益)で知られた。

「三田」姓であろう。]

 

 子供の父と母は未だ生きて居る――よい醫者にかけてもて貰ふ事を怠つてそれで子供を死なしてしまつたやうな父と母とが。さう思へば本當に悲しさにたへない。時々私共はそれを云つて身を責めて居るが歸らぬ事は仕方がない。

 しかし子供の死んだ翌日醫者が私共に『あの病氣は初めからどんなに手を盡しても、とても一週間以上生きてはゐなかつたのです。十か十一にもなつてゐたら手術をして或は助かつたかも知れないが、今は餘り幼少だから手術などは思ひもよらないことです』と云つた。それから子供は腎臟炎で死んだのだと聞かせてくれた。

 こんなにして、私共の持つてゐた望みや、これまで色々心配して世話した事や、九ケ月間段々生長するのを見て喜んだ事は皆一切無駄になつた。

 しかし私共二人はこの子供との緣が前世からうすかつたのに相違ないと思ひあきらめて、暫くいくらか悲しみを慰める事ができた。

 

 退屈な時の淋しさに、私は義太夫本の宮城野しのぶの話の風に歌を作つて、心のうちを云つて見た。

[やぶちゃん注:「腎臟炎」お初さんは先天性の重い腎臓疾患だったものと推察する。

「宮城野しのぶ」原文は“Miyagino and Shinobu”で、「宮城野」と「信夫」という姉妹の名である。浄瑠璃「碁太平記白石噺(ごたいへいきしろいしばなし)」(紀上太郎(きのじょうたろう)・烏亭焉馬(うていえんば)らの合作。安永九(一七八〇)年に江戸外記座で初演)や同題材の歌舞伎「姉妹達大礎(あねいもうとだてのおおきど)」(辰岡万作らの合作。寛政七(一七九五)年初演)」などの登場人物で、苦難の末に父の敵を討つ姉妹の物語。もとになった話は「月堂見聞(けんもん)集」(本島知辰(月堂)著・元禄十年(一六九七)から享保十九年(一七三四)までの見聞雑録)によると、享保三(一七一八)年、奥州白石の百姓四郎左衛門が、田辺志摩という武士に口論の末に斬り捨てられる。当時十一歳と八歳であった四郎左衛門の二人の娘は、陸奥守の剣術指南役の滝本伝八郎のもとに下女奉公に行き、密かに六年の間、剣術の稽古をした。これを知った滝本は、二人の志を遂げさせたい旨を陸奥守に申し出、同八年三月、二人は仙台白鳥大明神の社前に於いて遂に父の敵を討ったとするものである(以上は「朝日日本歴史人物事典」を主文として私が附加を加えた)。

「風に」「ふうに」。それに似せた感じに。]

 

    これこのうちへ緣づきしは

    思ひ𢌞せば五とせ前

    今度まうけし女の子

    可愛ものとて育つるかと

    我身のなりは打ち忘れて

    育てし事も情けない

    かうした事とは露知らず

    この初は無事に育つるか

    首尾よう成人したならば

    やがてむこを取り

    樂しませようどうしてと

    物見遊山をたしなんで

    我兒大事と

    夫の事も初の事も

    戀しなつかし思ふのを

    樂しみくらした效もなく

    親子になりしは嬉しいが

    先きだつ事を見る母の

    心を推してたもいのと

 

    ――手を取りかはす夫婦の歎き

    なげきを立ち聞くも

    貰ひ泣きして表口

    障子もぬる〻ばかりなり

[やぶちゃん注:「五とせ」原文“itsutosé”。

「初」「はつ」。先に出た亡き娘の名。

「樂しませようどうしてと」原文は“Tanoshimashō dōshité to.”であるから、「樂しましよう どうして と。」である。「どんなにか楽しませてあげようと」の意でとる。

「樂しみくらした效もなく」原文“Tanoshimi-kurashita kai mo no.”。「效」は「かい」で「甲斐」に同じ。また、ここは流石に訳は「なく」ではなく、「のう」と表記すべきであると考える。

「心を推してたもいのと」原文“Kokoro mo suishité tamoi no to!”であるから、「心も」でないと、おかしい。「たもいのと」は「たまはれと」の転訛であろう。私は「心を推(お)してたまはれと」と訳すがなぁ……。

「表口」「おもてぐち」。ここは「表の入り口の通りを行く人が、夫婦の歎きを立ち聴きするだけで、貰い泣きして、その涙で戸障子がすっかり濡れそぼちてしまうほどである」というのである。]

 

 初の死んだ時分は、葬式に關する規則はよくなつて、大久保で火葬する事も許される事になつた。そこで並木に願つて、もし面倒な規則さへなかつたら並木一族の手つぎの御寺へ遺骸をもつて行く事にして貰つた。そこで葬式は門淨寺で行つた。この寺は眞宗本願寺の淺草派である。遺骨はそこへ納めた。

[やぶちゃん注:「葬式に關する規則はよくなつて」恐らくは火葬場の煤煙や臭いの問題で、市街地外の数少ない火葬場しかなかったのが、民営の火葬場が市街地でも認められるようになったのであろう。なお、ウィキの「火葬場」によれば、『都市部では明治時代後期頃より、宗教団体や民間が所有または経営する火葬場や野焼き場を統廃合して自治体や行政組合の経営および、無煙化無臭化の新案を凝らした近代的火葬炉を備えた火葬場が増えていくことになる』。『ただし、東京府(現在の』二十三『区に該当する区域)は例外であり、公営火葬場の設営が進まぬ中、一株式会社が合併吸収を繰り返し』、『多数の火葬場を経営していくことにな』ったとある。

「手つぎの御寺」この相当箇所の原文は“the temple of which his family had always been parishioners”で、これは「(並木)家代々の檀那寺」のことである。

「門淨寺」以下のデータを附加しても見当らない。漢字が違う可能性が高い。私は、或いはこれは東京都台東区西浅草にある東本願寺のことではないのかとも思ったりした。それは「淺草派」の「派」に引っかかったからで、原文は“branch”なのだが、これは実は「別院」のことを指すのではないかと思ったからでもある。

 ――妹の幸は初のなくなつた時、大分ひどい風邪で寢てゐた。しかし知らせが着いたあとで間もなく來てくれた。それから又二三日して大分よくなつたから、最早心配して下さるなと云ひに來た。

 ――私は又私で、何處へも行く事がいやになつて丁度一月、家を出なかつた。しかしいつまでも出ないで居る事も、禮儀上できないから、たうとう出かけた。そこで父の家と妹の家へ義理上の訪問をした。

 

      *

 

 ――大分病氣になつたので、母に來て世話をして貰ふつもりの處、お幸も又、病氣になつたのでよし(ここに初めて出て居る妹)と母と始終ついてゐた。それで父の宅からは世話して貰へなかつた。ただ近處の女の人々が暇のある時、全くの親切から來て世話をしてくれるばかりで、誰も世話してくれるものもない。漸く堀氏に賴んで、世話してくれるよいお婆さんを一人雇つて貰つた。この人の介抱でよくなりかけて、八月の初め頃には私も餘程よくなつた。……

 九月四日妹のお幸は肺病でなくなつた。

 ――萬一の事があつたら、妹のよしが幸の代りになると始めに約束してあつた。後藤氏も全く獨りで居るのも不自由故、同月十一日に結婚式があり、それから一通りの祝ひをした。

 同月三十日に岡田氏が急になくなつた。

 こんな事が重なつて色々費用がかかつたので大分困つた。

 

 ――幸が死んでよしが餘り早く行つた事を始めて聞いた時、私は大へん氣もちが惡るかつた。しかし、私はその心もちを隱して以前の通り後藤にはなしをしてゐた。

 

 十一月に後藤はひとりで札幌に行つた。

 明治三十三年[やぶちゃん注:一九〇〇年。]二月二日後藤氏は東京にかへり、四月十四日よしを連れて再び北海道に出かけた。

 

      *

 

 二月二十日午前六時三番目の子供(男兒)出生、母子共に無事。

 ――女のつもりでゐた處生れたのが男であつた。それで夫が勤めから歸つて來て男子である事を見て大へん驚いて喜んだ。

 ――しかし子供は十分乳を飮む事ができないので哺乳器で育てねばならなかつた。

 

 生れて七日目に少し髮を剃つてやつた。それから晚に七夜の祝を今度はうちだけでした。

 ――少し前から夫は風を引いてゐたが、つぎの朝、咳がひどく出て出勤ができなかつたので終日うちにゐた。

 その朝早く子供はいつもの通りに乳か飮んだ。しかし午前十時頃胸がひどく痛むやうで、それから變にうめき出したから醫者を呼びにやつた。折惡しく迎へにやつた醫者は市外に出てゐて晚までは歸られないとの事、それで直ぐに外の醫者を迎ひにやる方がよいと考へて迎ひにやつた。その醫者は夕方來ると云つた。しかし午後二時頃子供の病氣は急に惡くなつて二月二十七日、三時少し前に子供は僅かこの世に八日ゐてあへなくなつた。……

[やぶちゃん注:「子供の病氣は」底本では「子供の病 は」と脱字している。平井氏の訳で「氣」を補った。]

 

 ……今度又こんな不幸があつて、夫に嫌はれるやうになるまででなくとも、こんなに代る代る子供に別れるのは、前世に何か犯した罪の罸に相違ないと獨りで思つた。さう思へば袖のかわく間もなく淚の雨も止まず、私のためにはこの世で空の晴れる事がないやうに思はれた。

 私のために繰りかへしこんな不幸にあふので、夫の心も惡い方に變るまいかと益〻心配になつて來た。私の心にある心配のために、夫の心のうちも思はれて心配した。

 それでも夫はただ『天命致し方これなく』と繰りかへしてばかりゐた。

 

 ――子供はどこか近い御寺に葬られた方が、參りに行くのによからうと思つたので、大久保泉福寺と云ふ御寺で葬式をし、遺骨はそこへ納めた。

[やぶちゃん注:「泉福寺」不詳。但し、大久保の東直近の東京都新宿区新宿に専福寺という浄土真宗大谷派の寺を見出せる。]

 

 樂しみもさめてはかなし春の夢

 

 ……(日附なし)私が色々心配した故か、子供が死んでから二七日[やぶちゃん注:「ふたなぬか」。十四日。]間、顏と手足が少しふくれた。

 ――しかし餘り大した事でもなく、直ぐに直つた……今ではもう三七日[やぶちゃん注:「みなぬか」。]も過ぎた。……

 

 ここで哀れな母の日記が終つて居る。子供の死後二十一日に關する終りの記事から最後の數行は、三月十三四日に書かれたものだらうと思はれる。彼女は同月二十八日に死んだ。

[やぶちゃん注:彼女は日記の最初の明治三八(一八九五)年九月の記載の中で二十九と直話で言っている。これを当時の数え(小泉八雲が満年齢に書き換えなかったと考える)とするなら、彼女は安政四(一八五七)年生まれで、並木との結婚生活は明治三八(一八九五)年九月二十八日(祝言)から、この明治三三(一九〇〇)年三月二十八日の逝去までの四年六ヶ月と一日となる。本篇の日記引用自体の閉区間が、ほぼそれに相当する(厳密には婚儀相談の冒頭でプラス三日)。従って彼女の享年は数えで三十四であった。

 

 日本の生活狀態に充分通じない人は、この簡單な歷史を全く理解することができないだらう。しかしここに書かれた生活の實際の狀態を想像する事は困難ではない。――この夫婦は二間(六疊一間三疊一間)の小さい家に住んで居る。夫は一ケ月漸く十圓をもうける。妻は裁縫、洗濯、料理(勿論戶外で)をする。大寒の時にも火にあたる事がない。自分は、この夫歸は家賃を入れずに、一日平均二十七八錢でくらしてゐたに相違ないと考へる。娛樂と云つても實は餘程安上りであつた。八錢も出せば芝居見物にも義太夫ききにも行かれた。それから見物をするのは徒步であつた。それでもこんな娛樂はこの人々には贅澤であつた。必要な着物を買ふとか、結婚、出產、死亡の時に親戚に贈物をせねばならないとか云ふ場合の費用は、獻身的經濟によつて始めて出せるのである。實際東京の數千の貧民はこれより一層貧しくくらして居る(一ケ月十圓よりも、もつと少い收入でくらして居る)――しかし、それでもいつも小綺麗に小ざつぱりとして愉快にくらして居る。こんな境遇にあつて子供を生んで育てて行く事は、ただ餘程强壯な婦人にして始めて容易にできる。こんな境遇は田舍のもつと苦しいが、しかし、もつと强壯な農民の境遇よりもはるかに危險である。それで多數のうち弱いものは倒れて死ぬ事は想像する事ができる。

 

 この日記を讀む人々はこんなに愼み深くやさしい婦人が、かくの如く不意に、その性質氣分については毫も知らない全くの他人の妻にならうと熱心になつた事を不思議に思ふであらう。實際日本に於ける大多數の結婚はここに書いてあり通りの非小說的な方法で、又仲人の力で整へられるのである。しかしこの人の境遇は例外と云ふべき程氣の毒である。その理由は哀れに簡單である。善良なる女子は皆結婚する事にきまつて居る、或時期を過ぎて未だ結婚しないのは本人の恥辱であり又人の指彈を受ける。疑ひもなくこんな擯斥を受くる事がいやさに、この日記の記者は自分の當然の運命を果たす眞先の機會を捉へたのであつた。この人はすでに二十九歲であつた。こんな機會は再び出て來なかつたかも知れない。

[やぶちゃん注:「擯斥」(ひんせき)は「しりぞけること・のけものにすること」。排斥に同じい。]

 自分にとつてはこの哀れな奮鬪と失敗の懺悔記の眞の意味は、なにも稀有な告白があると云ふ點でなく、ただ日本人には靑空や日光のやうにありふれた何物かを示してゐる點ににある[やぶちゃん注:「に」のダブりはママ。改ページ箇所であるので、まず、誤植であろう。]。柔順なる事と義務を立派に仕遂げる事によつて、愛情を得ようとの健氣[やぶちゃん注:「けなげ」。]なるこの婦人の決心、どんな僅かの親切に對しても有する感謝の念、小兒のやうな信仰心、この上もなき無私の念、この世の苦難は皆、前の世に犯した過ちの報いであると云ふ佛敎の解釋、絕望の眞中に名歌を作らうとする努力――凡てこれ等の事は如何にも感動すべき事、如何に感動しても及ばない事である。しかし之は例外のものとは思はれない。ここにあらはれて居る特質は、一例に過ぎない。――下層社會の婦人の德性を代表した一例に過ぎない。恐らくこの婦人と同じく下層社會に生れて、自分の喜びや苦しみを、これ程單純でしかも哀れな日記で表はす事ができるやうな日本婦人は澤山はあるまい。しかし眞面目の信仰の昔し昔しの時代からこの人と同じく人生は義務であるとの心得をうけつぎ、又この人と同じく無私の愛情を注ぐ力をうけついでゐる婦人は、日本には幾百萬人あるか知れない。

[やぶちゃん注:最後に。一九七八年恒文社刊「小泉八雲」の八雲の妻小泉セツ(明治二四(一八九一)年~明治三七(一九〇四)年:小泉八雲より十八歳下)さんの「思い出の記」には、『『骨董』のうちの『或女の日記』の主人[やぶちゃん注:主人公の女性。]は、ただヘルンと私が知って居るだけでございます。二人で秘密を守ると約束しました。それから、この人の墓に花や香を持って、二人で参詣致しました』とあることを言い添えておく。]

2019/09/07

小泉八雲 忠五郞のはなし  (田部隆次譯) 附・原拠 / 「古い物語」~了

 

[やぶちゃん注:やぶちゃん注:本篇(原題“ The Story of Chūgorō )は一九〇二(明治三五)年十月にニュー・ヨークのマクミラン社(MACMILLAN COMPANY)刊の“ KOTTŌ ”(来日後の第九作品集)の冒頭に配された“ Old Stories ”(全九話)の掉尾に配されたものである。作品集“KOTTŌ”は“Internet Archive”のこちらで全篇視認でき(本篇はここから。但し、これは翌一九〇三年の再版本)、活字化されたものは“Project Gutenberg”のこちらで全篇が読める本篇はここから)。

 底本は上記英文サイト“Internet Archive”のこちらにある画像データをPDFで落し、視認した。これは第一書房が昭和一二(一九三七)年一月に刊行した「家庭版小泉八雲全集」(全十二巻)の第八巻全篇である。★【2025年3月24日底本変更・前注変更】時間を経て、国立国会図書館デジタルコレクションに本登録し、現行では、以上の第一書房版昭和六(一九三一)年一月に刊行した「學生版小泉八雲全集」(全十二巻)の第七巻が、国立国会図書館デジタルコレクションで公開されてある。(リンクは扉だが、「學生版」の文字はない。しかし、奥附を見て貰うと『學生版 【第二囘豫約】』とあり、『昭和六年一月十日 發行』とあることが確認出来る)、これが、前掲の底本と同じものであるが、やはり、外国のサイトのそれを底本とするのは、日本人小泉八雲に失礼であると考えた。されば、こちらで、再度、以下の「骨董」の作品群を改めて校正することとする。これが――私の小泉八雲への「義」――である。なお、之よりも前の元版の全集等が先行しているものの、私がそれらと比べた結果、実は先行する同社の「小泉八雲全集」のそれらは、訳が一部で異なっており、訳者等によって、かなりの補正・追加がされていることが、今回の正字補正作業の中で、はっきりと判って来た。いや、同じ「家庭版」と名打ったネット上の画像データでも、驚いたことに、有意に異なっていたのである。そうした意味でも――完全な仕切り直しの総点検――が必要であると決したものである。従って、旧前振りの括弧・鍵括弧の問題も、拡大とガンマ補正で確認し、正確を期する。新底本の本話はここから。

 傍点「﹅」は太字に代えた。挿絵は底本にはないが、原本では各話の前後に同じ絵がサイズを変えて配されてある。“Project Gutenberg”版にある最初に配された大きい方のそれを使用した。挿絵画家は既に述べた通り、佐賀有田の生まれの画家江藤源次郎(えとうげんじろう 慶応三(一八六七)年~大正一三(一九二四)年)である。但し、本底本最後の田部隆次氏の「あとがき」によれば、『マクミランの方でヘルンが送つた墓地の寫眞と「獏」の繪「獏」の繪の外に、當時在英の日本畫家伊藤氏、片岡氏などの繪を多く入れたので、ヘルンは甚だ喜ばなかつたと云はれる』とある。それを考えると、挿絵の多くは、スルーされた方が、小泉八雲の意には叶うと言うべきではあろう。但し、今回は絵がネタバレになってしまうので、敢えて作品の最後に挿絵を配した(これも小泉八雲が嫌った要因であろう)。また、この作品群「古い物語」の本篇の終った後に配されてある三界万霊塔(さんがいばんれいとう:無縁仏化した墓石の集合塔)の写真も配しておいた。 

 田部隆次(たなべりゅうじ 明治八(一八七五)年~昭和三二(一九五七)年)氏については先に電子化した「人形の墓」の私の冒頭注を参照されたい。

 本篇の原拠を最後に附した。]

 

   忠五郞のはなし

 

 昔、江戶小石川に鈴木と云ふ旗本があつて、屋敷は江戶川の岸、中の橋に近い所にあつた。この鈴木の家來に忠五郞と云ふ足輕がゐた。容貌の立派な、大層愛想のいい、怜悧な若者で、同僚の受けも甚だよかつた。

[やぶちゃん注:「江戶川の岸、中の橋」「江戶川」は現在の神田川の下流(現在の大滝橋近くにあった石堰、神田上水取水口大洗堰(グーグル・マップ・データ。以下同じ)より下流に相当)の旧称(現在の江戸川とは関係ないので注意)で、「中の橋」はここに現存する(北が文京区水道一丁目、南詰が新宿区新小川町)。江戸切絵図の「小日向繪圖」(国立国会図書館デジタルコレクションの画像。但し、この図は右下方が北であるので注意。先の地図と一致させたい方はタブで回転(時計回り二回転)させることをお勧めする)の左手下半分中央(鉤型に上に川が曲がっている部分辺り)を中心にして拡大すると、川に「江戶川」の文字があり、その左の方に架かる橋に「中ノハシ」と見える(北詰の「齋藤伊豆守」邸、南詰東の「久永源兵衞」邸を目標にされたい。なお、この絵図では近くに「鈴木」姓は見当たらない)。]

 忠五郞は鈴木に仕へてから數年になるが、何等非難の打ち所のない程身持もよかつた。しかし遂に外の足輕は、忠五郞が每夜、庭から拔け出して明方少し前までいつもうちにゐない事を發見した。初めは、この妙な舉動に對して誰も何にも云はなかつた。その外出のために日常の務めに故障を來す[やぶちゃん注:「きたす」。]事がなかつたのと、又それは何かの戀愛事件であるらしかつたからであつた。しかし暫らくして、彼は蒼白く衰へて來たので、同僚は何か重大な間違でも起らぬやうに、干涉する事にした。そこで或晚忠五郞が丁度家を拔け出さうとする時、一人の年取つた侍が彼をわきへ呼んで云つた。

 『忠五郞殿、御身が每晚、出かけて、明方までうちに居られない事は、我々皆知つて居る。それから見たところ顏色もよくない。どうも御身は惡友と交つて健康を害して居るのではないか。その行[やぶちゃん注:「おこなひ」。]に相當の辨解ができないとこの事を役頭[やぶちゃん注:「やくがしら」。]まで屆けて出なければならない。何れにしても我々は御身の同僚で又友人であるから、御身がこの家の掟に反して夜分外出なさる理由を承るのが正當ぢや』

 さう云はれて忠五郞は大層當惑し、又驚愕したらしかつた。暫くは默つてゐたが、やがて、彼は庭に出た、同僚もそのあとに續いて出た。二人が外の人に聞かれない所まで來たとき忠五郞は止つて云つた。

 『もう一切申します、しかしどうか內密にして置いて下さい。もし私の云ふ事を洩されると、一大不幸が私の身にふりかゝります。

 『五ケ月程前の事です。私がこの戀のために始めて夜外出しましたのは、ことしの春の初めの事でした。或晚私は、兩親を訪れて屋敷へ歸らうとする途中、表門から遠くない川岸に婦人が一人立つて居るのを見ました。みなりは上流の人のやうでした。それで私はそんな立派な裝ひの婦人がこんな時刻に一人そこに立つて居るのが變だと思ひました。しかし私はそんな事をその婦人に尋ねる理由はないと思ひましたので、何も云はずにわきを通らうと致しますと、その婦人は前へ出て私の袖を引きました。見ると大層若い綺麗な人でした。「あの橋まで私と一緖に步いて下さいませんか、あなたに申上げる事があります」と女は云ひました。その聲は大層柔かな氣もちのよい聲でした、それから物を云ふ時、につこりしました。そのにつこりには勝てませんでした。そこで私も一緖に橋の方へ步きました、その途中女は私が屋敷へ出入するのをこれまで度々見てゐて好きになつたと云ひます。「私はあなたを夫に持ちたい、あなたは私が嫌ひでなければお互に幸福になれます』と云ひました。何と答へてよいか分らなかつたが、大層綺麗な女だと思ひました。橋に近づくと女は又私の袖を引いて堤を下りて川の丁度ふちまで連れて行きました。「一緖にいらつしやい」さうささやいて川の方へ私を引きました。御承知の通りあそこは深い所です。それで俄に女がこはくなつて引きかへさうと致しました。女はにつこりして私の手頸を握つて「私と一緖ならこはくはありません」と云ひました。どうしたわけか、その女の手にさはられると私は赤ん坊よりも意氣地なくなりました。夢の中で走らうとしても手も足も動かせない時のやうな氣が致しました。女は深い水の中へ踏み込んで、一緖に私を引き込みました。それから何も見えも開えも感じもしなかつたが、氣がついて見ると大層明るい大きな御殿らしい所を女とならんで步いてゐました。濡れてもゐなければ寒くもありません。周圍のものは一切乾いて暖く綺麗でした。私はどこへどうして來たのだか分りません。女は私の手を引きながら案內して部屋から部屋へと通りぬけて行きました。――その部屋の數の多い事は限りがない程で、それがみな空でした、しかし非常に立派でした。――最後に千疊敷の客間に參りました。向ふの床の間の前に灯がともつてゐて、宴會のやうに座蒲團が並べてあつたが、客は見えない。女は私を床の間の上座に案內して、自分はその前に坐つて云ひました、「これが私の家です、ここで私と幸福に暮らされると思ひませんか」かう尋ねながらにつこりしました。私はこのにつこりが全世界の何よりも綺麗だと思ひました。それで心から「え〻……」と答へました。同時に私は浦島の話を想ひ出してこれは神女かも知れないと思ひましたが、こはくて何も聞かれませんでした。……やがて女中達が入つて來て、酒肴を私共の前に置きました。それから私の前に坐つた女は、『私がおいやではないなら、今晚婚禮の式を舉げませう、これが結婚の御馳走です」と云ひました。七生までの誓をして、宴會の後、用意の部屋へ案內されました。

 『私を起してくれたのは朝未だ早い頃でした、その時女は「あなたはもう私の夫です。しかし今私から云はれない、あなたも聞いてはならない理由(わけ)があつて、この結婚を祕密にして置く事が必要です。夜明まであなたをここに置いては二人ともの生命が危くなりませう。それで御願ですから、御主人の屋敷へあなたを送りかへしても機嫌を惡くしないで下さい。今夜又、それから、これからも每晚、始めてお遇ひしたあの時刻にお出でになつて下さい。いつでも橋のわきで私を待つてゐて下さい、長くはお待たせしませんから、しかし何よりもよく覺えてゐて下さい、この結婚は祕密ですよ、それからもしこの事を人に話したら、もう永久に別れなければならなくなりますよ」

 『私は何事も女の云ふ通りにする約束をしました――浦島の運命を想ひ出しながら、――それから女は誰もゐない綺麗な部屋を澤山通りぬけて、入口まで私を案內しました。そこで私の手頸を取ると、又一切のものが不意に暗くなつて覺えが無くなつたが、氣が付くと中の橋の近くの川岸に獨りで立つてゐました。屋敷へ歸りましたが未だ寺の鐘が鳴り出しませんでした。

 『夕方女の云つた時刻に又橋のところへ參りますと女が待つてゐました。前のやうに私を深い水の中へ、それから婚禮の晚をすごした不思議な所へ連れて行きました。それから每晚、同じ樣にその女と會つては別れました。今晚も必ず私を待つてゐます、女に失望させるよりは一層死にたいのですから私は行かねばなりません。……しかし御願です、私が今申し上げた事は誰にも決して云はないで下さい』

 

 年寄の足輕はこの話を聞いて驚きかつ恐れた。忠五郞は僞のない白狀をして居ると感じたが、その白狀は不快な事を色々思はせた。或はこの經驗は迷ひかも知れない、禍心[やぶちゃん注:「くわしん(かしん)」。他人に災いを加えようとする心。害心。]を有せる魔の力が起こさせる迷[やぶちゃん注:「まよひ」。]かも知れない。しかしもし本當に魅(ばか)されて居るのなら、この若者は叱るよりむしろ憐むべきものであつた。それで無理に干涉がましき事をすれば却つて害になると老人は思つた。そこで足輕はやさしく答へた。

 『誰にも決して云はない、――少なくとも君が達者で生きているうちは。それでは行つてその女に會ひ給へ、しかし――用心し給へ。君は何か惡い爲のに魅されてゐはしないかと心配して居るんだ』

 忠五郞は老人の忠告を聞いて微笑して、急いで去つた。數時間の後、妙に落膽した樣子をして屋敷へ歸つた。『會つたかね』と老同僚はささやいた。『い〻え』と忠五郞は答へた。『ゐませんでした。始めてそこにゐませんでした。もう再び私には會ひますまい。あなたにお話したのは私の誤りでした、――約束を破つたのはこの上もない愚な事でした……』相手は慰めようとしたが駄目であつた。忠五郞は倒れて、もう物を云はない。惡寒のやうに、彼は頭から足までふるひ出した。

 

 曉を知らせる寺の鐘が鳴り出した時、忠五郞は起き上らうとしたが、生氣もなく倒れた。たしかに病氣――助からぬ病氣になつた。漢方醫が招かれた。

 『はて、この人には血がない』とその醫師は丁寧に診察してから云つた。『この人の脈管には水ばかりしかない。これはむつかしい病人だ。…… まあ、なんと云ふ因業な事だらう』

 

 忠五郞の生命を助けるためにできるだけの事はなされた――しかし駄目であつた。日暮に彼は死んだ。それから彼の老同僚はその初めからの話をした。

 『あ〻、私もそれを疑つて見る處であつた』醫者は叫んだ。……『どんな力もそれなら助けることはできない。その女に生命を取られたのはこの人が始めてではない』

 『誰ですか、その女は、――それとも何ですか、その女と云ふのは』足輕は尋ねた、 ――『ですか』

 『い〻や、昔からこの川に出て居るのです。若い人の血が好きなのです……』

 『ですか、――ですか』

 『いや、いや、君が晝、あの橋の下で見たら實にいやな動物に見えるでせうが』

 『と云ふと、どんな動物なんでせう』

 『ただのさ、――大きな醜いさ。』

 

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[やぶちゃん注:「『はて、この人には血がない』とその醫師は丁寧に診察してから云つた。『この人の脈管には水ばかりしかない。これはむつかしい病人だ。…… まあ、なんと云ふ因業な事だらう』」の最後のリーダと「まあ」の間の空白は底本のママ。次の「足輕は尋ねた、 ――」も同じである。思うところあってママとした。底本の当該部を見ると、恐らくは、これは単なる板組み上の改行上の不具合(二字分ダッシュの分離はセットの植字では出来ない場合があった)を考えて植字工が行ったものであるか、或いは、そうではなく、校正刷を見た訳者田部隆次氏が、分離されてしまった二字ダッシュが気に入らず、敢えて、これらの操作を指示したようにも、私には思われたからである。原文を眺めてみると、空白があり、一つのブレイクとしても、これがあっても、別段、悪くないないのだが、底本の画像を見て戴くのがよい。私が彼なら、後者の理由で校正を頼む。

「蟇」ここは無論、原拠からも、「ひき」或いは「ひきがえる」、所謂、脊索動物門脊椎動物亜門両生綱無尾目アマガエル上科ヒキガエル科 Bufonidae に属するヒキガエル類である。詳しくは私の「和漢三才圖會卷第五十四 濕生類 蟾蜍(ひきがへる)」を参照されたい。

   *

 講談社学術文庫一九九〇年刊小泉八雲著・平川祐弘編「怪談・奇談」では、本作の原拠を、明治三四(一九〇一)年八月一日発行の『文藝俱樂部』(第七巻第十一号)の「諸國奇談」十九篇中の一つで、井關啞鶯(「ゐぜきああう」か。事蹟不祥。この話、調べてみると、所謂、読者の投書作品であった)の書いた「蝦蟇の怪」(「がまのくわい」と読んでおく)であるとする。以下に漢字を概ね正字化して示す。総ルビであるが、パラルビとした。また、一部に鍵括弧と〔 〕で句読点を入れ(ある箇所では読点を句点に変えた)、シークエンスを考えて恣意的に改行して段落を施した。

   *

 元治年間[やぶちゃん注:一八六四年~一八六五年。]の頃、江戶小石川中の橋邊の旗本鈴木某(それがし)の足輕に、忠五郞なるものありて、年齒(ねんし)二十才餘(あまり)なるが、每夜〔、〕亥刻(よつ)⦅十時⦆頃より家を出で、丑滿過(すぎ)に歸り來ること〔、〕半年許(はんねんばかり)、暴風洪雨といへども行かざりしことなし。回僚(どうれう)[やぶちゃん注:漢字はママ。初出の誤植。]大(おほい)に怪しみて詰問すれど、深く祕して實(じつ)を告げず。猶(なほ)月を追(おふ)て止まざりしかば、再三〔、〕尋ぬるに更に言ふことなし、同僚の男〔、〕大に怒り、

「さらば〔、〕此事〔、〕主君に密告して〔、〕汝が夜遊(やいう)の放蕩〔、〕嚴禁せしめん〔。〕」

と威嚇(おど)したりければ、忠五郞〔、〕大に困(こう)じ、

「さらば〔、〕おん身は年來(としごろ)〔、〕別(わけ)て親交(したしみ)あれば、必ず祕して他人へ洩し玉ふまじ、吾が連夜出行(いでゆく)く事〔、〕外ならず、過般(いつぞや)〔、〕不圖(ふと)〔、〕江戶川畔(ほとり)を〔、〕深夜〔、〕通行せしに〔、〕切(しき)りに吾が名を呼(よぶ)者あり、吾は奇(く)しき事に思ひ〔、〕聲する方(かた)を看れば、其年廿歲(はたち)なる〔、〕容貌〔、〕嬋妍(せんけん)[やぶちゃん注:あでやかで美しいさま。]たる婦女、側(かたへ)に來り〔、〕我袖を控(ひか)へて〔、〕倶(とも)に行かんことを進むるに、我は心思(しんし)恍惚(くわうこつ)〔、〕引かるゝ儘に行く程に、川岸に至りて〔、〕女は堅く我が手を握りて〔、〕共に水中に投ぜんとするにぞ、太(いた)く愕(おどろ)きて逃げ出(いだ)さんとせしに、彼(か)の婦(をんな)は打笑(うちわら)ひつ、[やぶちゃん注:この読点、引用元の「ゝ」の誤植かとも思われなくもない。]

『さのみ心を勞し玉ふな、只妾(わらは)の意に任(まか)し玉ひね』〔。〕』

とて〔、〕我を伴ひて深淵に入りしと思ふに、茫然として夢の如くなりき。然るに程なく彼の女の家宅(いへ)に到り見るに、其華麗なる事〔、〕往古(むかし)〔、〕浦島子(うらしまし)の行(ゆき)たりしと聞く、龍宮城にてもあらずや〔、〕なぞと想はれ、彼(かの)女こそ乙姬(おとひめ)にてありしならんと思はれ、歡喜限りなく〔、〕遂に偕老の契りを結びける。稍(やゝ)ありて彼女の云ふ、

『最早〔、〕曉に近きたれば〔、〕疾く歸り玉へ、晝は凡人の居(ゐ)る可き處に非ず〔。〕』

とて、黃金(こがね)一枚を與へ〔、〕

『今夜の事〔、〕必ず〔、〕人に語り玉ふな〔。〕』

とて、暫時〔、〕手を採り送らる、と思へば〔、〕いつしか〔、〕江戶川の岸邊に出(い)で、彼の女の影だも〔、〕なし。我は奇怪の事には思へど、其夜の娛樂(たのしみ)〔、〕寸時(しばし)も忘れ難く、翌夜(あくるよ)も又〔、〕彼の川岸に至るに、婦女(をんな)出迎(いでむか)へて導く事〔、〕前夜の如く、別(わかれ)に臨めば〔、〕黃金(こがね)一枚を與へられつ、其愉快の喩(たとへ)んようなきに〔、〕昨夜(ゆふべ)まで〔、〕一夜(ひとよ)たりとも行かざる事なし〔。〕」

と語るを聞て〔、〕朋輩の男〔、〕愕(おどろ)きて、胸中に思ふやう、

『こは〔、〕正(まさ)しく〔、〕水中に怪異ありて、此の男を誑(たぶら)かすならん〔。〕』

と推量し、種々〔、〕諷諫(ふうかん)して戒(いまし)めしが、忠五郞〔、〕更に聞かず、其夜も亦〔、〕例の如く出行(いでゆき)しが、程なく〔、〕不快の面色(おもゝち)にて歸り來りければ、朋輩(ほうばい)傍(かたはら)より〔、〕

「今夜は常よりも歸りの速かりし。如何なる結果にてありしや〔。〕」

と問ふに、忠五郞〔、〕悄然(ぼんやり)として云ふ、

「本夜(こんや)は〔、〕例に替りて〔、〕女の迎ふる事なければ、空しく歸り來れり〔。〕」

と答へて、軈(やが)て寢床に入りたりしが、翌日(よくあさ)より〔、〕忠五郞〔、〕心地惱ましく、日を經(ふ)るに及び〔、〕身躰憔悴し、咳嗽(せき)頻りに發し、漸次〔、〕心神〔、〕衰弱(おとろへ)せるに、醫師を招きて診察治療を乞ひたりしも、醫師も其病體を窺ひて大に驚き、

「是〔、〕普通の病症(やまひ)に非ず〔。〕恐らくは、妖魅の爲に精血(せいけつ)を吸はれしならんと察すれど、愚老(ぐらう)の管見(くわんけん)〔、〕奈何(いかゞ)あらん〔。〕」

と聞(きゝ)て、息五郞〔、〕其適言(てきげん)[やぶちゃん注:その状況・様態をずばりと言い当てている表現。]に愕(おどろ)き、有(あり)の儘(まゝ)に告(つげ)たれば、醫師も〔、〕

「さこそ〔。〕」

と首肯しつゝ、

「今少し早かりせば〔、〕施術の法もある可きも、斯くなりては〔、〕治(ち)するの望(のぞみ)〔、〕なし〔。〕」

とて、一〔、〕二〔、〕配劑して與へけるが、功驗(こうげん)なくて〔、〕程なく〔、〕夭折しけるとぞ。

 往時(むかし)〔、〕寬政[やぶちゃん注:一七八九年~一八〇一年。]の頃にも、かゝる談語(はなし)のありて、此(この)川には〔、〕年を經(へ)し蟾蜍(がま)の怪の棲(すむ)よし、古來より〔、〕云(いひ)傳ふる處なりとかや。

   *]

小泉八雲 雉子のはなし  (田部隆次譯)

 

[やぶちゃん注:やぶちゃん注:本篇(原題“ Story of a Pheasant ”。Pheasant は鳥綱キジ目キジ科 Phasianidae のキジ類の総称。音写は「フェズント」)は一九〇二(明治三五)年十月にニュー・ヨークのマクミラン社(MACMILLAN COMPANY)刊の“ KOTTŌ ”(来日後の第九作品集)の冒頭に配された“ Old Stories ”(全九話)の八番目に配されたものである。作品集“ KOTTŌ ”は“Internet Archive”のこちらで全篇視認でき(本篇はここから。但し、これは翌一九〇三年の再版本)、活字化されたものは“Project Gutenberg”のこちらで全篇が読める本篇はここから)。

 底本は上記英文サイト“Internet Archive”のこちらにある画像データをPDFで落し、視認した。これは第一書房が昭和一二(一九三七)年一月に刊行した「家庭版小泉八雲全集」(全十二巻)の第八巻全篇である。★【2025年3月24日底本変更・前注変更】時間を経て、国立国会図書館デジタルコレクションに本登録し、現行では、以上の第一書房版昭和六(一九三一)年一月に刊行した「學生版小泉八雲全集」(全十二巻)の第七巻が、国立国会図書館デジタルコレクションで公開されてある。(リンクは扉だが、「學生版」の文字はない。しかし、奥附を見て貰うと『學生版 【第二囘豫約】』とあり、『昭和六年一月十日 發行』とあることが確認出来る)、これが、前掲の底本と同じものであるが、やはり、外国のサイトのそれを底本とするのは、日本人小泉八雲に失礼であると考えた。されば、こちらで、再度、以下の「骨董」の作品群を改めて校正することとする。これが――私の小泉八雲への「義」――である。なお、之よりも前の元版の全集等が先行しているものの、私がそれらと比べた結果、実は先行する同社の「小泉八雲全集」のそれらは、訳が一部で異なっており、訳者等によって、かなりの補正・追加がされていることが、今回の正字補正作業の中で、はっきりと判って来た。いや、同じ「家庭版」と名打ったネット上の画像データでも、驚いたことに、有意に異なっていたのである。そうした意味でも――完全な仕切り直しの総点検――が必要であると決したものである。従って、旧前振りの括弧・鍵括弧の問題も、拡大とガンマ補正で確認し、正確を期する。新底本の本話はここから。

 傍点「ヽ」は太字に代えた。挿絵は底本にはないが、原本では各話の前後に同じ絵がサイズを変えて配されてある。“Project Gutenberg”版にある最初に配された大きい方のそれを使用した。挿絵画家は既に述べた通り、佐賀有田の生まれの画家江藤源次郎(えとうげんじろう 慶応三(一八六七)年~大正一三(一九二四)年)である。但し、本底本最後の田部隆次氏の「あとがき」によれば、『マクミランの方でヘルンが送つた墓地の寫眞と「獏」の繪「獏」の繪の外に、當時在英の日本畫家伊藤氏、片岡氏などの繪を多く入れたので、ヘルンは甚だ喜ばなかつたと云はれる』とある。それを考えると、挿絵の多くは、スルーされた方が、小泉八雲の意には叶うと言うべきではあろう。

 田部隆次(たなべりゅうじ 明治八(一八七五)年~昭和三二(一九五七)年)氏については先に電子化した「人形の墓」の私の冒頭注を参照されたい。

 本篇の原拠については、永く不詳とされてきた。ネットで調べると、ある方の論文で原拠を探し当てているような題名のものを見出せたが、内容を閲覧出来ない。何かの機会で調べることが出来たら、追記したい。]

 

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   雉子のはなし

 

 昔、尾州遠山の里に若い農夫とその妻が住んでゐた。家は山の間の淋しい場所にあつた。

[やぶちゃん注:「尾州遠山」不詳。現在の愛知で山間部の「遠山」という地名は調べ得なかった。]

 或夜妻は夢を見た。その夢に數年前になくなつた舅が來て『明日自分は非常に危險な目に遇ふから、できるなら助けてくれ』と云つた。朝になつてこの事を夫に話した。二人とも、死んだ人が何か用があるのだらうとは思つたが、その夢の言葉は何の意味か分らなかつた。

 朝飯の後、夫は畠へ行つたが妻は機織[やぶちゃん注:「はたおり」。]のために家に殘つた。やがて外の方で大きな騷ぎが聞えたので驚いて出て見ると、地頭が大勢の伴をつれて狩獵のためにこの邊へ近づいて來た。見て居るうちに一羽の雉子がわきの方から家の中へ飛び込んだ。そこで不圖昨夜の夢を想ひ出した。『事によればこれが舅かも知れない。助けて上げねばなるまい』――彼女は獨りで思案した。それから鳥のあとから急いで家に入つて――その鳥は綺麗な雄鳥であつた――造作なくそれを捕へて、空(から)の米櫃の中に入れて蓋をして置いた。

[やぶちゃん注:「地頭」本話を江戸時代に限定することは出来ないが、仮に原拠が江戸時代であったとしても、おかしくはない。ウィキの「地頭」によれば、『江戸期においては、旗本や御家人といった大名に至らない小領主(概ね』一『万石未満)を意味する語として残』り、『その他諸藩において地方知行を受ける給人を指す言葉に「地頭」を指すものが存在した』とあるからである。「給人」とは江戸時代には諸藩に於ける藩士の家格・家柄の一つで、ウィキの「給人」によれば、特に『尾張藩において、将軍の朱印状をもって知行地を与えられていた藩士のこと』及び、広く『徴税吏の総称として、給人という語を使用することがあった』(下線太字は私が附した)とある。]

 しばらくして地頭の從者が幾人か入つて來て、雉子を見なかつたかと尋ねた。大膽にも彼女は否定したが、獵人の一人はその家へ鳥の飛び込むのをたしかに見たと云つた。それから一行は家中をあちらこちらとさがしたが、米櫃の中には氣付かなかつた。そのあたりくまなく搜索したが結局無駄であつたので、鳥はどこか穴からでも逃げたに相違ないとあきらめて人々は引き上げた。

 

 農夫が家に歸つた時、妻は夫に見せるために米櫃に隱して置いた雉子の話をした。

 『私が捕へた時すこしも抵抗しなかつたが、米櫃の中でもおとなしくしてゐます。きつと舅樣だと思ひます』と妻は云つた。農夫は米櫃の處へ行つて、蓋を取つて鳥を取出した。鳥は農夫の手に靜にとまつて、そこに居ることに慣れて居るやうに農夫を見てゐた。一方の目が盲目であつた。『父の目は一方盲目であつた』農夫が云つた、『右の眼であつた、この鳥の右の眼が盲目だ。全くこれは父だらう。丁度いつもの父のやうな眼付で、この鳥が見て居る。……父は自分で「おれは今、鳥だから、獵師などにやるのなら一層おれの體は子供に喰はしてやる方がましだ」と考へたに相違ない。……それで、お前の昨夜の夢の譯も分つた』と氣味の惡いうす笑をうかべて妻の方に向つてかう云ひ足しながら雉子の頸をねぢた。

 この野蠻な行[やぶちゃん注:「おこなひ」。]を見て、妻は泣き聲を上げて叫んだ。

 『まあ、この極惡非道の鬼。鬼のやうな心の人間でなければ、こんな事のできる筈はない。……こんな男の妻になつて居るより死んだ方が增しだ』

 それから草履もはかずに戶外に飛び出した。男は女の飛び出した時に袖をつかんだ、が女は振切つて驅け出した。驅けながら泣いた。はだしで走り續けた。町に着いて、すぐ地頭の屋形へ急いだ。それから淚とともに、獵の前夜の夢の事、雉子を助けたさの餘り隱した事、それから夫が自分を嘲つて[やぶちゃん注:「あざけつて」。]、たうとうその雉子を殺した事の一切を地頭に話した。

 地頭は女にやさしい言葉をかけた。そしてこの女を勞はつてやるやうに命じた。しかし夫は捕へるやうに部下に命じた。

 

 翌日農夫は取調べを受けた。雉子を殺した事に就いて、事實を白狀させられてから宣告を受けた。地頭は云つた。

 『餘程の惡人でなければ、その方の行つたやうな事はやれない、そんな邪惡な人間の居る事は、その土地に取つて不幸である。ここに住んで、ここの掟を守る人々は皆、親孝行の心がけを敬ふ人々である、その方の如きものをその中に置く事まかりならぬ』

 そこで農夫は、その土地から追放ときまつて、もし歸つて來たら、死刑に處せられる事になつた。しかし女には、地頭は土地を與へた、それから後になつてよい夫を持たせた。

 

小泉八雲 蠅のはなし  (大谷正信譯) 附・原拠

 

[やぶちゃん注:やぶちゃん注:本篇(原題“ Story of a Fly ”)は一九〇二(明治三五)年十月にニュー・ヨークのマクミラン社(MACMILLAN COMPANY)刊の“ KOTTŌ ”(来日後の第九作品集)の冒頭に配された“ Old Storie s”(全九話)の七番目に配されたものである。作品集“ KOTTŌ ”は“Internet Archive”のこちらで全篇視認でき(本篇はここから。但し、これは翌一九〇三年の再版本)、活字化されたものは“Project Gutenberg”のこちらで全篇が読める本篇はここから)。

 底本は上記英文サイト“Internet Archive”のこちらにある画像データをPDFで落し、視認した。これは第一書房が昭和一二(一九三七)年一月に刊行した「家庭版小泉八雲全集」(全十二巻)の第八巻全篇である。★【2025年3月24日底本変更・前注変更】時間を経て、国立国会図書館デジタルコレクションに本登録し、現行では、以上の第一書房版昭和六(一九三一)年一月に刊行した「學生版小泉八雲全集」(全十二巻)の第七巻が、国立国会図書館デジタルコレクションで公開されてある。(リンクは扉だが、「學生版」の文字はない。しかし、奥附を見て貰うと『學生版 【第二囘豫約】』とあり、『昭和六年一月十日 發行』とあることが確認出来る)、これが、前掲の底本と同じものであるが、やはり、外国のサイトのそれを底本とするのは、日本人小泉八雲に失礼であると考えた。されば、こちらで、再度、以下の「骨董」の作品群を改めて校正することとする。これが――私の小泉八雲への「義」――である。なお、之よりも前の元版の全集等が先行しているものの、私がそれらと比べた結果、実は先行する同社の「小泉八雲全集」のそれらは、訳が一部で異なっており、訳者等によって、かなりの補正・追加がされていることが、今回の正字補正作業の中で、はっきりと判って来た。いや、同じ「家庭版」と名打ったネット上の画像データでも、驚いたことに、有意に異なっていたのである。そうした意味でも――完全な仕切り直しの総点検――が必要であると決したものである。従って、旧前振りの括弧・鍵括弧の問題も、拡大とガンマ補正で確認し、正確を期する。新底本の本話はここから。

 傍点「ヽ」は太字に代えた。挿絵は底本にはないが、原本では各話の前後に同じ絵がサイズを変えて配されてある。“Project Gutenberg”版にある最初に配された大きい方のそれを使用した。挿絵画家は既に述べた通り、佐賀有田の生まれの画家江藤源次郎(えとうげんじろう 慶応三(一八六七)年~大正一三(一九二四)年)である。但し、本底本最後の田部隆次氏の「あとがき」によれば、『マクミランの方でヘルンが送つた墓地の寫眞と「獏」の繪「獏」の繪の外に、當時在英の日本畫家伊藤氏、片岡氏などの繪を多く入れたので、ヘルンは甚だ喜ばなかつたと云はれる』とある。それを考えると、挿絵の多くは、スルーされた方が、小泉八雲の意には叶うと言うべきではあろう。

 訳者大谷正信氏については、「小泉八雲 燒津にて 大谷正信譯」の私の冒頭注を参照されたい。

 最後に原拠である「新著聞集」(寛延二(一七四九)年に板行された説話集。日本各地の奇談・珍談・旧事・遺聞を集めた八冊十八篇で全三百七十七話から成る。俳諧師椋梨(むくなし)一雪による説話集「續著聞集」という作品を紀州藩士神谷養勇軒が藩主の命によって再編集したものとされる)の「卷五」の「第十一執心篇」の「亡魂蠅(はい)となる」を電子化して添えた。]

 

Kotto_014



   蠅のはなし

 

 二百年許り前に、京都に飾屋九兵衞といふ商人が居た。店は島原道の少し南の、寺町通といふ町にあつた。下女に――若狹の國生れの玉といふが居た。

[やぶちゃん注:後で示す原拠では『洛陽寺町通松原下ル町』となっており、これだと、現在の京都府京都市下京区植松町寺町通松原下るである(グーグル・マップ・データ。以下同じ)。「島原道」とは島原住吉神社及びその東直近の島原遊廓へ向かう道で、小泉八雲の謂いとは異なり、それらは上記の位置から西南西に二キロメートルほどの場所になる。小泉八雲が設定を変えた(変えた理由は不明)「寺町通」は鴨川の右岸直近の南北の通りで、「島原」へ向かう東西の道との交点を求めるとすれば、ここの右下部辺りになる。]

 玉は九兵衞夫婦に深切に待遇されて居て、誠に二人を好いて居るやうに見えて居た。が、玉は他の女の子のやうに綺麗な著物を著ようとはしないで、休暇を貰ふと、美しい著物を數數貰つて居ながら、いつも仕事著を著て出るのであつた。五年許り九兵衞に奉公してからのこと、或る日九兵衞は、どうして身綺麗にしようと骨を折らぬのかと彼女に訊ねた。

 玉はその問ひにこもつて居る非難に顏を赧らめて[やぶちゃん注:「あからめて」。]、恭しくかう答へた。

 『私の雙親[やぶちゃん注:「ふたおや」。]が死にました時は、私はまだ小さな子供でありました。ところが他に子供がありませんでしたから、二人の爲めに法要を營むことが、私の義務になりました。其時分にはさうする程のお金を拵へることが出來ませんでした。然しそれに入用な金が儲けられたなら、早速二人の位牌を、常樂寺といふお寺へ置いて貰ひ、また法要を營んで貰はうと決心しました。それでその決心を果たすために、お金と著物とを節約しようと力めました[やぶちゃん注:「つとめました」。]。――自分の身のことを構はぬと、お氣付きになる程でありますから、餘り儉し過ぎて居るのかも知れません。然し、お話し申し上げました目的の爲めに、銀百匁許りの貯蓄がもう出來ましたから、此後はあなた樣のお前へ身綺麗にして出るやうに致しませう。これまでの懈怠と失禮とを、どうか御免し下さますやうお願ひ致します』

 九兵衞はこの率直な自白に感心したので、その女に深切な言葉をかけで、その後、どんな著物を著ようと、自分の勝手だと思つてよいからと受合ひ、且つまた、その親孝行を賞めてやつた。

[やぶちゃん注:「常樂寺」原拠には「此辺なる常樂寺」とあるので、この小泉八雲の設定沿うなら、これはまず現在京都府京都市下京区花屋町通東中筋東入学林町にある浄土真宗常楽寺となろう。親鸞の玄孫である存覚(ぞんかく)が開いた寺で、寺町通から島原遊廓に向かう中間点にあるからである。但し、原拠の設定の松原だと、その少し北の京都府京都市中京区裏寺町通蛸薬師下る裏寺町に別に浄土宗の常楽寺があり、これも位置的にも現行地名(原拠は「寺町」設定)からも強い同定比定候補となる。というより、原拠には九兵衛の店の裏手を高瀬川(高瀬川(たかせがわ:江戸初期の慶長一六(一六一一)年に角倉了以・素庵父子によって京中心部と伏見を結ぶ物流用に開削された運河)が流れているとあるので、原拠のそれは後者である可能性が極めて高い

 

 二人の此會話があつでから間も無く、下女の玉は、その雙親の位牌を常樂寺に置いて貰ひ、また相當な法要を營んで貰ふことが出來た。貯へた金のうち、斯くして七十匁費やした。そして殘り三十匁を、主人の妻に預つて置いて下さいと賴んだ。

[やぶちゃん注:「匁」は江戸時代の銀目(銀)の通貨単位。元禄一三(一七〇〇)年に金一両を銀六十目とする公儀が定めた相場が公布されている(但し、実態はほぼ完全に市場経済による変動相場であった)ので、それで換算するなら、お玉が貯めた銀百匁は一両二千六百七十文弱(一両=銀六十匁=(銭(胴)四千文)になる。「日本銀行金融研究所貨幣博物館」の資料によれば、江戸時代の平均的な米の値段で換算すると、一両は約四万円、大工の手間賃一両で三十万円から四十万円、外食の代表としての蕎麦の代金換算すると、一両は十二万円から十三万円となるというから、まず、最後の例で換算すれば、二十万円前後には相当しよう。]

 ところが、翌冬の初めに玉は急に病氣になつた。そして暫時、煩つた舉句、元祿十五年(一七〇二年)正月の十一日に死んだ。九兵衞と妻とはその死を大いに悲しんだ。

[やぶちゃん注:「元祿十五年(一七〇二年)正月の十一日」グレゴリオ暦では二月七日。]

 

 さて、それから十日許り後、非常に大きな蠅が一匹その家へ入つて來て、九兵衞の頭の𢌞りを飛び始めた。どんな蠅も、大寒中には大抵は出て來るものでは無いし、大きい蠅は暖かい季節でなければ滅多に目に當らぬものだから、九兵衞はこれに驚いた。その蠅があまりしつこく九兵衞を惱ますので、わざわざ捉へてそれを戶外へ放り出した、――其間少しもその蠅を痛めぬやうにして。それは九兵衞は佛敎の篤信者であつたからである。直ぐ蠅は戾つて來た。そしてまた捉へられて又投げ出された。が、又入つて來た。九兵衞の妻はこれを奇異な事に思つた。『玉ぢやないか知ら』と言つた。〔死んだ者――殊に餓鬼の境涯へ入る者は時時、蟲の姿になつて戾つて來るから〕九兵衞は笑つて答へた。「目印をつけたら分るだらう』そこで、その蠅を促へて、極く少し許り翅の兩端を鋏で切つて――さうして、家から餘程離れた處へ持つて行つて放した。

[やぶちゃん注:外国人読者は全く気づかないが、元禄時代は第五代将軍徳川綱吉の治世であるから、普通の日本人ならば、九兵衛が蠅を殺さないのは、かの「生類憐れみの令」の影響だと読むだろう(何度入って来ても家人(駆除するならば、下男下女の方が自然)が打ち殺すことをしないのは、そちらの方が近かろう)。なお、既に注で述べたが、同法令の類の最初の町触れは貞享四(一六八七)年十月十日とされているが、実際には貞享三年以前から同様の政策は開始されていた。

「餓鬼の境涯へ入る者は時時、蟲の姿になつて戾つて來る」厳密には人間以外の鳥獣虫魚は畜生道への転生となるが、現世の人間界にいるそれらも転生したと考えるから、六道輪廻の思想からは問題はない。但し、餓鬼道からの現世への転生でしばしば虫になってやってくるというのは、あって当然ではあるが、特に虫のそれを説いた説を私は寡聞にして知らない。思うに、農作物を荒らす虫類を駆除した後、その虫の霊を弔うために行われた「虫供養」、或いはこれは「虫施餓鬼」などとも呼ばれであろうと私は推理し、それを聴いた小泉八雲が「虫」と「餓鬼」の連関性を感じてかく述べているとも感ずる。尤も、餓鬼道に落ちた者は餓え続けることを絶対属性とするから、農作物を有意に時に深刻に徹底的に貪る虫は餓鬼と強い親和性はあるから、違和感は全くない。また、或いは、民間の伝承に、餓鬼道から現生への輪廻転生先は虫に相場が決まっている、というような謂いがあったとしても、それはそれで腑には落ちる。なお、終わりの私の注の最後も是非、参照されたい。]

 翌日歸つて來た。それが歸つて來たことに、何等靈的な意義があるかどうか、九兵衞はなほ疑つて居た。又もそれを捉へて、その翅と軀とに紅を塗り、前よりもずつと家から遠い處へ持つて行つて放した。ところが二日經つと、全身眞紅の儘で戾つて來た。そこで九兵衞は疑はなくなつた。

 『玉だと思ふ』と彼は言つた『何か欲しいものがあるのだ。――何が欲しいのだろう』

 その妻が答へて言ふに、

 『私は玉の貯蓄の三十匁をまだ有つて居ます。自分の魂の爲めに供養を營むやうに、その金をお寺へ納めて貰ひたいのでせう、玉はいつも後生を氣づかつて居ましたから』

 さう話して居るうちに、その蠅が、そのとまつて居た障子から下へ落ちた。九兵衞が拾ひ上げて見たら、死んで居つた。

 

 其處で夫婦は早速、お寺へ行つて、その娘の金を寺僧に納めようと決心した。二人はその蠅の屍骸を小箱に入れて、それを携へて行つた。

 お寺の主僧自空上人は、その蠅の話を聞かれると、九兵衞夫妻は正しい取計ひをしたと明言された。それから自空上人は、玉の魂の爲めに施餓鬼を營まれ、蠅の遺骸に對して、妙典八卷を誦された。そして蠅の遺骸の入つて居る箱は、お寺の境內へ埋められて、適當な銘の書いてある卒塔婆が一基、その上へ建てられた。

[やぶちゃん注:「自空上人」不詳。時宗の第十一代遊行上人に同名の人物がいるが、室町時代の僧であり、時代も宗派も合わないから違う。以下の原拠では「深草(ふかくさ)の通西軒(つうさいけん)自空(じくう)上人」とあるが、これで調べてもネットでは掛かってこない。深草では近くの寺にならないが、結局これは、小泉八雲が以下に示す原話の妙にごちゃついた後半の法会(ほうえ)部分(僧侶が二人も出てきて(使いの僧も入れると三名の名が記されていて頗る煩雑)、しかも、この両寺院は宗派が異なるのである)をすっきりさせたために生じた齟齬なのであって、特に拘る必要はないのである。

 以下、「新著聞集」の「卷五」の「第十一執心篇」の「亡魂蠅(はい)となる」を示す。底本は実際の小泉八雲旧蔵の原本の画像(富山大学「ヘルン文庫」のこちらで丸ごと総てをダウン・ロード出来る)に拠った。段落形成と記号・句読点・濁点を附し、踊り字「〱」は正字化した。歴史的仮名遣の誤りはそのままとした。

   *

    兦䰟(ぼうこん)蝿(はい)となる

 洛陽寺町通松下町に飾屋(かざりや)兵衞といふ者の召(めし)つかひに玉(たま)といふ女あり。生國は若狹の者なり。四、五ケ年奉公(ほうこう)つとめしに、しかじか、衣類(いるい)など、持(もた)ざりければ、主人も心にくゝおもひ、ある時、尋しに、

「されば、幼年(よふねん)のころ、父母(ふぼ)ともにはかなく成(なり)けるが、我身(わがみ)より外、跡弔(あととふら)ふべき人もなければ、此辺(へん)なる常樂寺(じやうらくじ)に位牌(いはい)を立(たて)、忌日(きにち)ごとに供養(くやう)をなしたき志願(しぐはん)て、何事も心にまかせず、くらし候ひしが、最早(もはや)百目ほどの銀を用意せし。」

と申ければ、主人も、

「下賤(げせん)の身として奇特(きどく)なる志(こゝろざし)かな。」

とて、隨喜し、扨(さて)[やぶちゃん注:そのまま。やがて。]、かの寺へ二靈(れい)の位牌(ゐはい)をたて、資堂料(しだふれふ)とて、銀七十目、おさめぬ。殘りし銀をば、主人の妻(さい)にあづけ置(をき)し。

 かくて、玉(たま)、過(すぎ)し冬のころより、惱(なやみ)けるが、病(やまひ)も、おもりければ、宇治の辺(へん)に伯母(をば)なりし者の方へ引(ひき)こし、醫療(いれう)を加(くは)へしかども、叶(かなは)で、元祿十五年正月十一日に身まかりし。

 主人のもとへも、此よし、通じければ、不便(ふびん)の事におもひし。

 然るに、二月へ入り[やぶちゃん注:グレゴリオ暦では旧暦二月一日は二月二十七日で、二月が二日を除いて既に三月である。]、いまだ時節(じせつ)もいたらず、殊にいつもよりも餘寒(よかん)つよきに、尋常(よのつね)見なれしよりも、ひときは大なる蝿(はい)一ツ飛(とび)來り、九兵衞夫婦(ふうふ)があたりをのみ、飛(とび)まわりければ、うるさく覚へ、痛(いた)まぬやうに捕(とら)へて他(た)へはなちやるに、中二日程(ほど)すぎて、歸りければ、かさねては裏(うら)なる高瀨川(たかせがは)のあなたへ放(はな)しけるに、又、皈(かへ)りぬ。

 されば、家內(かない)の者(もの)ども、

「これは。玉(たま)が兦䰟(ぼうこん)ならん。」

と口ずさみければ、主人もあやしき事におもひ、

「心だめしにせん。」

とて、羽先(はさき)を少し切(きり)て、所(ところ)を隔(へだ)て放しやるに、此蝿(はい)、又、皈(かへ)りけり。

 あまりの不思議(ふしぎ)さに。此たびは、かたちを紅(べに)に塗(ぬり)て放(はな)ちけるに、印(しるし)きへずして、又、皈(かへ)りければ、今は、夫婦(ふうふ)の者も興(けう)ざめて、とやかく思(をも)ひはかるに、『日外(いつぞや)あづけし銀の事をおもひ出し、是に執着(しつちやく)せしものか』、亦(また)は『追善(ついぜん)など、うけんが爲か』、兎(と)に角(かく)、不便(ふびん)におもひ、

「いかゞせん。」

と思慮(しりよ)するに、伯母(をば)は後世(ごせ)の道には疎(うと)き者(もの)の樣に常々(つねづね)語(かた)りしかば、

「その者の爲(ため)なれば、右の銀をば、貴(たつと)き寺へも上(あ)げ、回向(えかう)をこひ、然るべし。」

とて、日比、歸依し奉る事なれば、深草(ふかくさ)の通西軒(つうさいけん)自空(じくう)上人と、又は、亡者(もうじや)の宗門(しうもん)なれば、同じ山の瑞光寺(ずいくはうじ)慈明(じみやう)上人と、此兩寺へおさめ奉り、

「事の子細(しさい)を具(つぶさ)に申上よ。」

とて、二月廿八日、九兵衞が弟(をとゝ)勘(かん)右衞門へ申ふくめ、

「幸(さいはひ)、明日は四十九日にあたりければ。」

とて、

「今、まいれ。」

とて申渡しける處に、今まで、飛(とび)まはりける蝿(はい)、何としてかは、目前(もくぜん)にて自滅(じめつ)しければ、みな一同に、おどろき、いよいよ奇異(きゐ)のおもひをなし、これをも箱に入れて、通西軒へ持參し、始終を語れば、律師もあはれに思(おぼ)し召(めし)、蝿(はい)に加持土砂(かぢどしや)をふりかけさせたまひ、施餓鬼(せがき)など、ねんごろに修(しゆ)し、右の信施(しんせ)は永々(えいえい)の資堂(しだう)にぞ入れさせけり。

 扨(さて)、瑞光寺(ずいくわうじ)の上人ヘは、法義(ほうぎ)異(こと)なれ共、年來(ねんらひ)の親切(しんせつ)なれば、この蝿(はい)をつかはし、

「供養をうけさせ然るべし。」

とて、淨人(じやうにん)惠雲法師(えうんほうし)、承り、持參申されければ、妙典八軸(みやうてんはちぢく)、讀誦(どくじゆ)したまひ、則(すなはち)、山上へ法のごとくに葬(ほふむら)せたまひ、率都婆(そとば)など立(たて)させ、翌(よく)日も又、回向(えかう)の爲にとて、此所へ來たまふに、塔婆(たうば)の際(きは)に、深(ふか)ふして、細(ほそ)き穴(あな)、ありければ、上人も不思議(ふしぎ)に覚へ、掘(ほら)せらるに、昨日、埋(うめ)させられし蝿(はえ)、無(なか)りけり。

 實(まこと)に兩大德(だいとく)の追善(ついぜん)により、速疾(そくしつ)、生天(せふてん)せしものと、有がたくこそ侍(はべ)りし。

 其後。九兵衞、深草(ふかくさ)へ來り、

「廿八日以來、蝿(はい)來らず。かへすがへすも希有(けう)の事にてありし。」

と語りけるとなり。

   *

「瑞光寺」京都市伏見区深草坊町に日蓮宗瑞光寺がある。

「慈明上人」不詳。

「加持土砂(かぢどしや)」一般には、密教に於いて、土砂を洗い清め、護摩を修し、本尊の前で光明真言を誦して行う加持を指す。その土砂を病者に授ければ、苦悩が除かれ、硬直した死体の上にまけば、柔軟になり、墓にまけば、罪過が消えるとされる。ここは、その加持を施した土砂。

「淨人」僧職の一つ。寺に住むが、出家をせずに僧たちに仕えて庶務を行う者を指す。

「惠雲」不詳。浄土宗西山(せいざん)派に同名の僧がいるが、元禄一二(一六九九)年に没しているので違う。

 さて、ちょっと脱線なのだが、こことは逆に、虫が人に転生する話があり、私が大好きなのが、「今昔物語集」の「卷第十四」の「越中國僧海蓮持法花經知前世報語第十五」(越中の國の僧海蓮、「法花經」を持して前世の報(むくい)を知る語(こと)第十五)で、これは抹香臭い退屈なものが多い同書の仏法篇の中でも、恐らく、最もよく知られている面白い、しみじみとした一話である。短いので、以下に示す。

   *

 今は昔、越中の國に海蓮と云ふ僧、有りけり。

 若くより法花經を受け習ひて、日夜に讀誦する間、「序品(じよぼむ)」より「觀音品(くわんおんぼむ)」に至るまで、廿五品は暗(そら)に思(おぼ)えて誦しけり。

「殘りを、三品を年來(としごろ)思(おぼ)えむ。」

と爲(す)るに、更に思えざりけり。然(しか)れば、此の事を歎きて、立山(たちやま)・白山(しらやま)[やぶちゃん注:加賀の白山(はくさん)。]に參りて祈請(きしやう)す。亦、國々の靈驗所(れいげむじよ)に參りて祈り申すに、尙、思えず。

 而る間、海蓮、夢に、菩薩の形なる人、來て、海蓮に告げて云はく、

「汝(なむ)ぢ、此の三品を暗に思えざる事は、前世の宿因に依りて也。汝ぢ、前生(ぜんしやう)に蟋蟀(きりぎりす)[やぶちゃん注:現在のコオロギのこと。]の身を受けて、僧房の壁に付きたりき。其の房に、僧、有りて、「法花經」を誦す。蟋蟀、壁に付きて經を聞く間、「一の卷」より「七の卷」に至るまで誦し畢(をへ)つ。「八の卷」が初(はじめ)[やぶちゃん注:「観世音普門品第二十五」を指す。]一品を誦して後(のち)、僧、湯を浴みて、息(やす)まむが爲に壁に寄り付くに、蟋蟀の、頭(かしら)に當りて、壓し殺されぬ。「法花」の廿五品を聞きたる功德(くどく)に依りて、蟋蟀の身を、轉じて、人と生れて、僧と成りて、「法花經」を讀誦す。三品をば聞かざりしに依りて、其の三品を暗に思ゆる事、無し。汝ぢ、前生の報(むくい)を觀じて、吉(よ)く「法花經」を讀誦して、菩提を期(ご)すべし[やぶちゃん注:菩提心を無条件で信じてそれに専念せよ。]。」

と宣(のたま)ふ、と見て、夢、覺めぬ。

 其の後、海蓮、本緣を知りて、彌(いよい)よ心を至して「法花經」を讀誦し、佛道を願ひて、懃(ねむご)ろに修行しけり。

 海蓮、天祿元年[やぶちゃん注:九七〇年。]と云ふ年、失せにけり、となむ語り傳へたるとや。

   *]

2019/09/06

1260000ブログ・アクセス突破記念 小泉八雲 おかめのはなし(田部隆次譯)/附・原拠「新撰百物語」卷二「嫉妬にまさる梵字の功力」(オリジナル翻刻・完全版)

 

[やぶちゃん注:やぶちゃん注:本篇(原題“ The Story of O-Kamé ”)は一九〇二(明治三五)年十月にニュー・ヨークのマクミラン社(MACMILLAN COMPANY)刊の“ KOTTŌ ”(来日後の第九作品集)の冒頭に配された“ Old Stories ”(全九話)の六番目に配されたものである。作品集“ KOTTŌ ”は“Internet Archive”のこちらで全篇視認でき(本篇はここから。但し、これは翌一九〇三年の再版本)、活字化されたものは“Project Gutenberg”のこちらで全篇が読める本篇はここから)。

 底本は上記英文サイト“Internet Archive”のこちらにある画像データをPDFで落し、視認した。これは第一書房が昭和一二(一九三七)年一月に刊行した「家庭版小泉八雲全集」(全十二巻)の第八巻全篇である。★【2025年3月24日底本変更・前注変更】時間を経て、国立国会図書館デジタルコレクションに本登録し、現行では、以上の第一書房版昭和六(一九三一)年一月に刊行した「學生版小泉八雲全集」(全十二巻)の第七巻が、国立国会図書館デジタルコレクションで公開されてある。(リンクは扉だが、「學生版」の文字はない。しかし、奥附を見て貰うと『學生版 【第二囘豫約】』とあり、『昭和六年一月十日 發行』とあることが確認出来る)、これが、前掲の底本と同じものであるが、やはり、外国のサイトのそれを底本とするのは、日本人小泉八雲に失礼であると考えた。されば、こちらで、再度、以下の「骨董」の作品群を改めて校正することとする。これが――私の小泉八雲への「義」――である。なお、之よりも前の元版の全集等が先行しているものの、私がそれらと比べた結果、実は先行する同社の「小泉八雲全集」のそれらは、訳が一部で異なっており、訳者等によって、かなりの補正・追加がされていることが、今回の正字補正作業の中で、はっきりと判って来た。いや、同じ「家庭版」と名打ったネット上の画像データでも、驚いたことに、有意に異なっていたのである。そうした意味でも――完全な仕切り直しの総点検――が必要であると決したものである。従って、旧前振りの括弧・鍵括弧の問題も、拡大とガンマ補正で確認し、正確を期する。新底本の本話はここから。

 傍点「ヽ」は太字に代えた。挿絵は底本にはないが、原本では各話の前後に同じ絵がサイズを変えて配されてある。“Project Gutenberg”版にある最初に配された大きい方のそれを使用した。挿絵画家は既に述べた通り、佐賀有田の生まれの画家江藤源次郎(えとうげんじろう 慶応三(一八六七)年~大正一三(一九二四)年)である。但し、本底本最後の田部隆次氏の「あとがき」によれば、『マクミランの方でヘルンが送つた墓地の寫眞と「獏」の繪「獏」の繪の外に、當時在英の日本畫家伊藤氏、片岡氏などの繪を多く入れたので、ヘルンは甚だ喜ばなかつたと云はれる』とある。それを考えると、挿絵の多くは、スルーされた方が、小泉八雲の意には叶うと言うべきではあろう。

 田部隆次(たなべりゅうじ 明治八(一八七五)年~昭和三二(一九五七)年)氏については先に電子化した「人形の墓」の私の冒頭注を参照されたい。

 最後に、本話の原拠である「新撰百物語」(明和三(一七六六)年(推定)に上方の版元吉文字(きちもんじ)屋が板行した新作怪談本)の巻二にある「嫉妬にまさる梵字の功力(くりき)」をオリジナルに電子化して附した

 なお、原拠では「おかめ」は「お龜」である。

 因みに、本テクストは2006年5月18日のニフティのブログ・アクセス解析開始以来(このブログ「Blog鬼火~日々の迷走」開始自体はその前年の2005年7月6日)、本ブログが昨日の夕暮れに、1260000アクセスを突破した記念としても公開する。


Kotto_012

   おかめのはなし

 

 土佐の國名越の長者權右衞門の娘おかめは、その夫八右衞門を非常に好いてゐた。女は二十二、八右衞門は二十五であつた。餘り夫を愛するので、世間の人は嫉妬の深い女だらうと思つた。しかし男は嫉妬されるやうな原因を作つた事もなかつた。それで二人の間にはいやな言葉一つ交された事もなかつた。

[やぶちゃん注:「名越」「なごし」(原文“Nagoshi”)。原話もそうなっているが、不詳。沈下橋で知られる高知県高岡郡日高村名越屋(なごや)(グーグル・マップ・データ)なら知っている。この「名越」という地名は各地にあり、「なごえ」「なごし」等、同時代でも同時に複数の読みを持つので、今は「なごや」でもおかしくはない。]

 不幸にしておかめは病身であつた。結婚後二年にもならないうちに當時土佐に流行してゐた病氣にかかつて、どんな良醫も匙を投げるやうになつた。この病氣にかかる人は、喰べる事も飮む事もできない、ただ疲れてうとうととして、變な夢に惱まされて居るだけであつた。おかめは不斷の看護を受けながら、每日次第に弱つて行つて、たうとう自分でも助からぬ事が分つて來た。

 そこで彼女は夫を呼んで云つた、

 『私のこのいやな病氣中あなたがどんなに親切にして下さつたか口では云へません。こんなによくして下さる方はどこにだつてありません。あなたに別れるのが本當につらい。……考へて下さい、私未だ二十五にもなりません、――その上私の夫ほどよい人はこの世にはありません、――それでも私は死んで行かねばならない、……い〻え、駄目、駄目、氣休めをおつしやつても駄目ですよ、どんなお醫者だつてどうにもならないのですもの。もう二三ケ月生きてゐたいと思ひましたが、今朝鏡を見たら、今日のうちに死んで行かねばならぬ事が分りました、――さう、丁度今日です。それであなたにお願がありますの――私が安心しで死んで行けるやうに思つて下さるやうなら、――その願を私にかなヘさせて下さい』

 『一寸云つて御覽、何だか』八右衞門は答へた、『私の力でできる事なら、どんな事でも喜んでして上げる』

 『それが――あなたのちつとも喜ばない事なんです』彼女は答へた、「未だ若いのですもの、こんな事をお願することは、中々――大變――むつかしい事ですわ、でもその願事は私の胸に燃えてる火のやうです。死ぬ前に云はせて下さい。どうぞ。……ね――あなた、私が死んだら早晚、皆であなたに奧樣を持たせるでせう、ね、あの、約束して下さいませんこと、もう二度と結婚はしないと、――おいやですか……』

 『何だ、そんな事か』八右衞門は叫んだ。『願事と云ふのはそれだけの事なのか、それは何でもない。よし、約束した、お前の代りは決して貰はない』

 『あ〻、嬉しい』おかめは床から半分起きて叫んだ。

 それからうしろへ倒れた、同時に彼女の息は絕えた。

 

 おかめが死んでから、八右衞門の健康は衰へて來るやうであつた。初めはその樣子の變りやうを、人々は人情の悲しみの故と解釋してゐた、それで村人達は『どんなにあの奧樣が氣に入つてゐたのだらうな』とばかり噂してゐた。しかし月が重なるにつれて、段々蒼白くなり弱くなりして、遂には人間ではなく幽靈ではないかと思はれる程瘦せやつれて來た。それで人々はそんなに若い人がかう急に哀へるのは悲しみだけでは說明ができないと疑ひ出した。醫者達の說では、八右衞門の病氣は普通のものではない、樣子は何とも解し難いが、何か心の異常のなやみから起つて居るらしいと云ふ事であつた。兩親は色々尋ねて見たが駄目であつた。彼の云ふ處では、両親の知つて居る以外には、何等悲歎の原因はないとの事であつた。兩親は再婚をすすめた。しかし死人に對する約束はどうしても破る事はできないと云ひ張つた。

 

 それからあと、八右衞門はやはり日增しに衰へた、家族の人々はその生命を危んだ。ところが或日の事、かねて何か心に隱してゐる事を信じてゐた母が、熱心にその衰弱の理由を云つてくれるやうに烈しく泣いて賴んだ、母の懇願には勝たれなくなつた。

 『こんな事はあなたにも又どなたにも全く云ひにくい事です、すつかり申上げて見た處で本當にはできますまい。實はおかめはあの世で成佛ができないのです、それからいくら佛事を行ふてやりましても駄目のやうです。私も一緖にその冥土の旅に出てやらないとどうしても成佛ができないやうです。おかめは每晚歸つて來て、私のわきにねます。葬式の日から每晚、來ない晚はありません。それで時々本當に死んだのではあるまいと思ふ事があります、樣子や行ひは生きてゐた時と全く同じですから、――ただ私に話をする時、小さい聲で物を云ふだけです。それから、いつでも、自分の來る事を誰にも云はないやうにと申します。私にも死んで貰ひたいのでせう。私も自分だけなら生きてゐたくはありません。しかし、全く仰せの通り私のからだは兩親のもので、兩親に先づ第一に孝行しなければなりません。それで、本當の事を皆申し上げるのです。……はい、每晚丁度眠りかけると參ります、それから明方までゐます。鐘が聞えると出て行きます」

 

 八右衞門の母がこれを聞いてびつくりした。直ちに檀那寺へ急いで寺僧に息子の告白の一切を話して助力を乞うた。高齡で、經驗の積んだ寺僧はその話を聞いて驚く色もなく、彼女に云つた。

 『かう云ふ事は時々あるものです、始めてではありません、それで御子息も助けて上げられると思ひます。しかし今大變危い處です。愚僧の見る處では、お顏に死相が現れてゐます、おかめさんがもう一度歸つて來れば、もうそれきりです。それで卽刻やるべき事をやらねばなりません。御子息に默つてゐて下さい、大急ぎで雙方の親戚を集めて、寺へ來るやうに云つて下さい。御子息のためにおかめさんの墓を開けねばなりません。』

 そこで、親戚はお寺に集つた、墓を開く事を一同承諾したので、僧は一同を墓地へ案內した。そこで、その指圖に隨つておかめの墓石はわきへやられ、墓は開かれ、棺は上げられた。棺の蓋が取られた時、居合はした人は膽を寒くした。それはおかめは病氣の前と同じく綺麗に、顏に微笑を浮べて一同の前に坐つて、――彼女には何等死のあとはなかつたから。しかし、僧は棺の中から、死人を取り出す事を人々に命じた時、驚きは恐怖となつた、それは長い間正坐の形を取つてゐた原注一にも拘らず、その死體は觸はると生きて居るやうに暖かく、しなやかであつたから。

 それを葬場へ運んで、僧は筆を取つて額と胸と手足に何か聖い[やぶちゃん注:「きよい」。]功徳のある梵字を書いた。それからその屍をもとの場所へ葬る前に、おかめのために施餓鬼を行うた。

 

 彼女は再び夫の處へ來なかつた、八右衞門は次第に健康と力を囘復した。しかし彼はいつまでもその約束を守つたかどうか、それは日本の作者は書いてゐない。

 

    原註一 日本では死體は普通殆んど正方形の棺の中に正座の形に置かれる。

[やぶちゃん注:「施餓鬼」悪道に堕ちて飢えに苦しむ餓鬼に飲食物を施すこと。「施餓鬼会(え)」の略。「水陸会(すいりくえ)」とも呼ぶ。餓鬼はサンスクリット語の「プレータ」(preta)の訳で、「死者」または「死者霊」を原義とし、のちには子孫が絶えて供養がなされず、常に飢餓に苦しむ亡霊の意味がある。仏教では貪吝(とんりん:欲が深くて、吝嗇(けち)なこと)で布施をしなかった者が死後に餓鬼に生まれ変わり、飢渇に苦しむとされ、彼らの住む餓鬼道は六道輪廻の一つとなった。中国では飢餓に悩む鬼神や餓鬼に飲食を施す餓鬼供養の法会が発展し、また、「盂蘭盆経(うらぼんぎょう)」の目連(もくれん)救母伝説と習合して、悪道に堕ちて苦しむ先祖供養のための法会ともされた。特に唐代には多くの経軌(きょうき)が編纂され、日本にも空海らによって齎された。施餓鬼会は、最初、真言宗で、鎌倉期以降は浄土真宗を除く各派で行われるようになり、今日に至っている。各派で儀式の内容は幾分、異なるが、孰れも新しい亡者の精霊(しょうりょう)の冥福と無縁仏への追善供養の意味が重合している。盂蘭盆会に付随して行われることが多いが、本来は随時に行い得るものである。水死者やお産で亡くなった人のための川施餓鬼・水施餓鬼もある(以上は主文を小学館「日本大百科全書」に拠った)。

「正方形の棺」時代劇等では、概ね、縦長の樽型であるが、以前の土葬の場合は、座棺で、実際に正方形である。

 さて、冒頭注で述べた通り、本話の原拠は、明和三(一七六六)年(推定)に上方の版元吉文字(きちもんじ)屋が板行した新作怪談本「新撰百物語」の巻二にある「嫉妬にまさる梵字の功力(くりき)」である。これは一九九〇年講談社学術文庫刊の小泉八雲著・平川祐弘編「怪談・奇談」の「原拠」で活字化(但し、新字体)されているものの、それは富山大学の「ヘルン文庫」の旧小泉八雲蔵本のみを底本として翻刻したもので(同書の画像は「富山大学学術情報リポジトリ」のこちらから全篇をダウン・ロード出来る)、途中、虫食いや欠損部をそのまま四角で示した、非常に不完全なもので、正直、一部は判読も困難で、最後の方は、なんと、三行分が損傷して大きく欠損したままの翻刻版で、最早、資料として読むに耐えないものなのである(何故、他の板本で注して補おうとしなかったのだろう? 普通、校合するだろ?! 「原拠」の一部は「ヘルン文庫」以外で翻刻しているんだぜ?! そもそもが、この本、実は、昔から、どうも気に入らないのである。何故なら、その「まえがき」で平川祐弘氏は、過去の小泉八雲の訳文群について、私が今、大々的に電子化注して公開しかけている第一書房版の「小泉八雲全集」のその『翻訳がどちらかといえば堅く「血の通った柔軟さが見られない」』(かつて平川氏が共同で小泉八雲を訳したという森亮氏が彼に語った言葉らしい。森氏は「ルバイヤート」を始め、多数の翻訳本を昔から読まさせて戴いており、一目置く人物ではあるが、あの歯が折れそうなガチガチに硬い平川訳を想起すると、これは森氏の平川への皮肉としか思えない)とし、私の愛読する『恒文社版平井呈一訳にはいかにも意に満たぬ箇所がままあった』とのたもうているのであるが、当該本の小泉八雲の四十二篇、これ、悉く――インキ臭く――一篇たりとも――文学として感動させる名訳なんぞには、なっていない――と断言出来るからである(訳者は平川以外に森も含めて七名が参加している)。平川・森の物言いには先達たる訳者への敬意が微塵も感じられないのだ。先駆的訳業の上に今の翻訳作業が積まれているという謙虚な意識がそこには全くない。これは学者だろうが、作家だろうが、大衆から嫌悪される尊大さだ(そこが判らない高踏的選民的意識さえ彼らから臭ってくるのだ)。先行訳に誤訳や逐語的で拙い箇所や、逆に意訳を越えて翻案に近いパートがあったり、日本語の表現としておかしく、文学的香気を殺ぐものが一部にあることは当然の如く、事実では、ある。私は英語が不得手であるが、そうした部分を可能な限り、注で指摘しても、いる。時代にそぐわなくなった差別語使用の問題点や《翻訳の賞味期限》という捉え方も無論、私にも、ある。しかし、この尊大さは不快千万、しかもぶち上げておいて、出来上がりはこんなもんか、という感想は拭えないのだ。それでも出版された当時の私には原拠提示が魅力だったから、即刻求めたのだったのだが、それも今見てみれば、このザマじゃないか! 「学術」文庫が聴いて呆れる。二十九年前から、ずっと、これは、どうしても、どこかで言いたかったのだ! やっとスッキリした!)。そこでネットを調べてみたところが、幸い、「国文学研究資料館」の公開画像データに、同書のたった十八ページだけがあり、何と、そこに同パートが丸ごと含まれてあるのを見出せた。しかも、こちらはかなり状態の良いもので(それでも虫食いはある)、上記の講談社学術文庫版の判読不能部分を殆んど総て補填し得ることが判った。従って、その「国文学研究資料館」版を視認し、こちらで判読不能な部分は、逆に、上記「ヘルン文庫」を参考にして、原拠を以下に、ほぼ完全にオリジナルに示すこととした。但し、読みは振れそうなもののみとし、正字か略字か迷うものは正字で示した。踊り字「〱」は正字化した。句読点・濁点と記号類を一部で添え、段落化し、読み易くした。歴史的仮名遣の誤り(かなり多い)もそのままである。【 】は私の推定判読部、一箇所「□□□」は遂にそれでも虫食いで判読出来なかった箇所である。なお、原本には、ここと、ここに、挿絵がある。

   *

新撰百物語巻二

   ○嫉妬にまさる梵字の功力

 妬(ど)なれば、去(さる)とは七去(きよ)のひとつ、いかさま、女(をんな)のねたみ、吝氣(りんき)よりして、家を乱(みだ)り、身をそこなふ事、すくなからず。女の、第一、憤しむべきの道ぞかし。

[やぶちゃん注:「七去」(しちきょ)は「大戴礼」(だいたいれい:中国の経書。全八十五編であるが、現存するのは三十九編のみ。前漢の戴徳の撰。漢以前の諸儒学者の礼説を集成したもの)の「本命」に基づく、「妻を離縁してよい」とされた七つの理由。「父母に従順でないこと」・「淫乱なこと」・「嫉妬すること」・「悪病のあること」・「子のないこと」・「お喋りなこと」・「盗みをすること」を指す。儒教の経典や中国・日本の令でも認められていた。「七出(しちしゅつ)」とも呼ぶ。]

 今はむかし、土佐の國名越(なごし)といふ所に、八郞兵衞といふ者の嫡子に、八右衞門とて、生年(しやうねん)二十五歲、つねづね、父母(ふぼ)へ、よくつかえ、至(いたつ)て正直なれば、近鄕の、これ沙汰(ざた)、ほめぬものも、なかりけり。

 其家のとなりに、田地もつくりて、山などを持(もち)し、權右衞門といふものあり、娘、二人、持ちけるが、姊(あね)を「おせん」、妹(いもと)を「お龜」といひ、姊には聟(むこ)をと【りて】家督を續(つが)せ、妹をば、八右衞門が妻につかはし、夫婦(ふうふ)となしぬ。

 お龜、生得(しやうとく)、りん氣ふかく、八右衞門、近所へ出(いで)ても、さまざまと、ねたみ、怒り、まして、城下などへ公用にて行(ゆく)にも、『是非なき事』と思ひながら、癖(くせ)の事なれば、食事もせず、湯水も飮(のま)ず、おもひわづらひ、臥(ふし)てのみ暮しける。

 然れども、八右衞門、すこしもそゝけぬものなれば[やぶちゃん注:「そそく」は「(髪や草などの)揃っていたものが乱れる」の意で、ここは「気持ちが他の女へと乱れたりするようなことがない男だったので」の謂いであろう。]、終に夫婦のいさかひなく、おとなしく暮せしが、いかなる事にや、お龜、廿二歲の春比(ごろ)より、ぶらぶらと煩らひて、いろいろと養生させ、城下の醫師へ療治を賴み、藥も殘る所なく、神佛へも祈願すれども、ちからおよばず、次第次第に衰へて、賴(たのみ)すくなくなりけるが、或夜、八右衞門にいひけるは、

「わたくし、不慮の病(やまひ)を請(うけ)、ながながの御かんびやう、身にあまり忝(かたじけな)く、御禮申に餘りあり。今朝(けさ)までも、今迄も、『今ひとたびは本復(ほんぶく)して添(そひ)參らせん』と存(ぞん)せしが、最前、鏡にむかひみるに、かやうにやつれまいらせては、たとへ鎖(くさり)につなぎても、唐・天竺の名醫をまねき、良藥をほどこしても、本復する事かたかるべし。三十にみたず過行(づぎゆく)事も、過去の宿業(しゆごう)とぞ思へば、なげく事もなし。去(さり)ながら、ひとつの願(ねがひ)さふらふまゝ、聞(きゝ)給へ。」

と泪ぐみ、いとくるしげに云(いひ)たれば、八右衞門は、不便さ、まさり、

「何とて、左樣(さやう)に心をす。臨終正念、あやまり給ふぞ。身に叶ひたる事ならば、いか樣(やう)の儀なりとも、其方の望(のぞみ)を達(たつ)しさせん。すこしものこさず、語られよ。」

と、ねんごろに尋ぬれば、お龜、いまはの眼(まなこ)をひらきて、

「嬉しの仰(おほせ)や。忝(かたじけな)や。我身、むなしくなりたるのち、かならず、妻をもち給ふな。是のみ、心殘りにて、胸をこがし、身をくるしむ、あら、熱や、堪(たへ)がたや。」

と、煙のごとき、息、ふき出し、歯をくひしばり、眉、さか立(だち)、惡相(あくさう)、一般(いちど)にあらはれければ、地獄の苛責(かしやく)思ひやられ、すさまじき事、限りなし。

 八右衞門は、見るにたへかね、言葉をあらため、

「さほどすこしき望(のぞむ)事、何ゆへ、これまでつゝみ給ふぞ。心やすかれ。死後におゐて、一生、妻(つま)をめとるべからず。もし、此言葉に僞りあらば、立所(たちどころ)に氏神の御罪(おばつ)を蒙(かふ)ぶるべし。いさぎよく往生し給へ。かならず、疑ひ給ふな。」

と、いひ聞(きか)すれば、

「むつく。」

と、起(をき)、

「あら、嬉しや。」

と、七顚八倒、虚空を摑み、

「うん。」

とばかり、最期(さいご)の念ぞ、すさまじき。

 八右衞門は、淚ながら葬送仏事のこりなく、かたのごとく執行(とりをこな)ひしが、いつとなく、八右衞門、極(きはめ)て、病氣といふにもあらず、次第次第に衰ふれば、一門中も不審をなし、入(いれ)かへ、入れかへ、每日、見舞(みまひ)、

「樣子いかゞ。」

と尋ぬれば、

「氣ぶんに、すこしも別条なし。」

と、詞(ことば)をはなつて云(いひ)けれども、いづれも一圓(えん)、承引せず、

「お龜、最期(さいご)に臨(のぞみ)し時、『一生、妻をもつまじ』と誓ひをなして契(ちぎり)し由(よし)、もとより正路の(しやうろ)の八右衞門、詞をかへじと思へども、若き者の事なれば、色には心のうつる最中(さいちう)[やぶちゃん注:「そういう状態が酣(たけなわ)」の謂い。]。されども、誓ひし詞あれば、思ひ暮して心氣をいため、かく衰ふるものならん。もし、さもあらば、兎に角に、後妻を娶(めと)らで叶はぬ身ぶん、とてもの事に、其(その)人[やぶちゃん注:不特定の後妻のこと。]と夫婦になさん。」

と、一決して、八右衞門が方(かた)に寄(より)あつまり、

「其(その)もと[やぶちゃん注:二人称「そこもと」に同じ。]、近ごろ、かたち、衰へ、はなはだもつて、輕からず。病氣を問(とへ)ば、なやみもなし。實儀(じつぎ)なる其元なれども、木石(ぼくせき)ならぬ事なれば、心のうつる人もありや。必ず、隱し給ふな。」

と、皆、一同に問(とひ)かくれば、八右衞門は色をかへ、

「いかな、いかな、拙者におゐて左樣の心、さらさらなし。日外(いつぞや)より、おのおのがた、顏色、日々に衰ふると、立替(たちかは)りての御尋ね、『あら、心得ず』と思ひしが、いかさま、近比、あやしき事あり。申出(いだ)すも、いかゞなれども、淺からざる御眞実(ごしんじつ)、くはしくあかし申なり。おはづかしき事なれども、お龜相果(あいはて)申夜(よ)より、夢ともうつゝともなく、寐ると、其まゝ、お龜が來り、そひ臥すると覺へし事、昨夜まで廿日に及べり。『扨は。お龜が死したるを不便(ふびん)に思ふこゝろより出(いづ)る所の夢なるべし』と思ひなをして、臥(ふし)ぬれども、寸分(すんぶん)ちがはぬ夢のさま、夢は五臟の虚(きよ)といへども、顏色(かがんしよく)までもかはる事[やぶちゃん注:彼女の顏色が生きている人間と全く変わらないように微妙なところまで変化するのが現認できること(等を)。]、かたがた思ひ合(あは)すれば、『これ、たゞ事にあらず』と始(はじめ)て驚くばかりなり。」

 一門どもも不審をなし、

「かゝる怪しき物がたり、すこしも延引すべからず。」

と、旦那寺(だんなでら)[やぶちゃん注:漢字はママ。]の和尚をまねき、しかじかのよし、いひのぶれば、和尚、しばらく考へて、

「此(この)妖怪に似たる事、いにしへも有(あり)しぞかし。八右衞門の顏色(がんしよく)も、のこらず死相をあらはせば、一命(めい)の終らん事、今明(こんみやう)日[やぶちゃん注:「にち」でよかろう。]にすくべからず。その證拠(しやうこ)を見すべきまゝ、お龜の墓をあばかるべし。」

と、皆、引連(ひきつれ)て、墓にいたり、掘(ほり)かへして、取出(とりいだ)せば、廿日に餘る屍(しかばね)の、埋(うづみ)し時のごとくなれば、和尚は、

「さこそあるべし。」

と、硯(すゞり)取りよせ、屍に、あき所なく、梵字(ぼんじ)を書付(かきつけ)、八右衞門を呼(よび)よせ、

「今夜は、お龜の屍を抱(いだ)きて、一夜(よや)をあかさるべし。子の刻に至りなば、かならず、怪しき事、あらん。驚くこと、なかれ。」

と、□□□おしへ、歸(かへ)らるれば、八右衞門は、これに隨(したが)ひ、暮六ツごろ[やぶちゃん注:定時法なら午後六~七時前まで、不定時法なら、流れから、夏と判るので、もっと遅く、七時半から八時頃に相当する。]より、子(ね)の半刻(はんこく)[やぶちゃん注:午前零時或いは午前一時頃。]を待(まち)けるが、漸(やうやう)、亥(ゐ)を過ぎ、子[やぶちゃん注:午後十一時から午前零時。]にいたる。

 今や、今や、とかんがヘみれど、虫の音(ね)ばかり、いとさびしく、何の怪しき事もなければ、

『あら、心得ず。』

と思ふ所に、抱(いだき)し亡者の屍(しかばね)より、手毬(てまり)のごとき火の玉、出(いで)て、いづくともなく飛行(とびゆき)けり。

『すハや。今ぞ。』

と、息をつめ、目(ま)たゝきもせず、居たりしが、半時(はんじ)[やぶちゃん注:一時間。]ばかりも過(すぎ)つるころ、火の玉、虚空(こくう)を飛歸(とびかへ)り、死人(しにん)の口に入(いる)ぞ、と見へしが、しだひしだひに、あたゝまり、眼(まなこ)をひらき、大息(おほいき)つぎ、

「今宵は夫(おつと)を伴ひ來り、我(わが)妄執をはらさんと、殘るかたなく尋ぬれども、夫をみず。」

と、ふりかへり、うしろを、

「きつ。」

と見、

「莞尓(につこ)。」

と笑ひ、

「御身はこゝに居(ゐ)給ふか。かほどに我を思(おぼ)し召(めし)、草(くさ)の陰(かげ)までつきそひ給ふ御心とは露しらず、恋しい夫を娑婆に殘し、外(ほか)の女にそはせんは、これ、我まよひの第一なれば、今夜は、是非に、いざなひ來り、ともに迷途(めいど)[やぶちゃん注:漢字はママ。]におもむかんと、宵より尋ね參らせし。最早、のぞみは、たりぬるぞ。」

と、いふとひとしく眼(まなこ)をふさぎ、屍(しかばね)、とくに[やぶちゃん注:「疾くに」。急速に。もう既にすっかり。]冷(ひへ)て、鷄(にはとり)の聲かすかに聞へ、寺々の鐘、八つ[やぶちゃん注:暁(あけ)八ツ。定時法なら午前二時。不定時法では夏なら午前一時半から午前二時頃。]を告(つぐ)れば、和尚・同宿(どうじゆく)、出來(いできた)り、八右衞門は、宵よりの始終をくはしく申上(あぐ)れば、手を打(うつ)て大(おほい)に悅び、

「我(われ)、さもあらんと思ひしゆへ、障礙(しやうげ)を除くの法を行ひ、汝が命(いのち)を救ひしぞ。」

と、ふたゝび埋(うづ)みて、佛事をなし、殘るかたなく吊(とふら)ひければ、其のち、何(なに)の障(さはり)もなかりし。

 過去の緣(えん)とはいひながら、恐しかりし執着(しうぢやく)なり。

   *

以上、一読、小泉八雲の再話の際の優れた再構成(というよりも「斧正」がいい)がよく判る。先の講談社学術文庫版の解説で、布村(ぬのむら)弘氏は、原話は『お亀の嫉妬心や独占欲をきわめて具体的な彼女の形象や言葉で描き、グロテスクな印象を与える』のに対し、『再話は、彼女の嫉妬心を、世間の人々の噂とし、お亀を美しくやさしい女として描いており、死してなお温い体温を保ち、生前さながらの笑みを浮かべていたという所で作品を結び、原話にあるような、亡者の火の玉の飛翔や死体が笑ったり、しゃべったりする箇所を割愛している』と述べておられ、まさに同感である。これこそが、小泉八雲特有の稀有の優しさなのである。但し、独立したものとして原話を読むと、事実らしさをどこかに持った、怪談としてのあらゆる必要十分条件の属性を、ほぼ完全に備えており、これはこれで優れた作品である。]

1260000ブログ・アクセス突破記念 梅崎春生 偽卵

 

[やぶちゃん注:昭和二四(一九四九)年一月号『知識人』初出、後に同年十月月曜書房刊の作品集「ルネタの市民兵」に収録された。

 底本は昭和五九(一九八四)年沖積舎刊「梅崎春生全集第二巻」を用いた。

 少し、フライングして一部に注を施しておく。ネタバレにならないように途中と最後にも別に注してある。

・ロケーションが一致するかどうかは別として、当時(昭和二十二年十月以降)、梅崎春生は現在の世田谷区松原(グーグル・マップ・データ)に住んでいた。昭和二十二年一月に山崎惠津と結婚、同年十月に長女史子が生れている。

・本作公開同年で米一升は二百円(小売価格)、翌昭和二十五年で鶏卵は一個十五円。

・「盲縞(めくらじま)」縦横ともに紺染めの綿糸で織った無地の綿織物。紺無地。

・「歩廊」「ホーム」と当て読みしているものと思う。

・「四間」約七メートル四十二センチ。

・「二間」約三メートル六十三センチ。

 本テクストは2006年5月18日のニフティのブログ・アクセス解析開始以来(このブログ「Blog鬼火~日々の迷走」開始自体はその前年の2005年7月6日)、本ブログが昨日の夕暮れに、1260000アクセスを突破した記念として公開する。]

 

 

   偽  卵

 

 それを見たのは、駅近くの小さな瀬戸物屋の店頭であった。すりばちや花瓶がならんだ棚の下に、木箱のなかにそれはたくさん積まれていた。瀬戸物屋でも卵を売るのか、と私は立ち止り、しばらくそれを眺めていた。日が射さない場所なので、淡黄色のひとつひとつは翳(かげ)をふくんで、埃(ほこり)のなかにしずんでいる。鶏卵にしてはすこし艶がわるい感じであったし、置かれてある場所も変だとは思った。

「あれ、いくらだね」

「へえ。ひとつ十円です」

 棚のものにはたきをかけていた若い男が、ふりかえってそう言った。そばかすのある顔が、ふりかえる瞬間に、妙に幅ひろく見えた。腰を曲げて木箱から拾いあげ、盲縞(めくらじま)の前垂れでぐるりと拭いて、私の方に差しだした。皮の厚そうな掌である。値が不当に廉(やす)いと思ったら、そこに乗っているのは、淡黄色の粘土の偽卵であつた。

「硝子のやつよりも、うまく出来ておりますでしょう」

 私の掌の上に、偽卵はがさがさところがった。硬く、脆(もろ)く、乾いた感じであった。重みがどこかで抜けてしまったような、実質をうしなった軽さがあった。ほんものの鶏卵にある、あのしっとりかかる重さがない。そして日の光のなかでは、すこし黄色すぎた。こんなものを、なんで見あやまったのだろう。

「本ものの卵を買うつもりだったんだよ、おれは」聞えないように口のなかだけでそんなことを不機嫌に呟(つぶや)きながら、次はすこし大きな声で、「貰っておくよ。十円だね」

「本ものよりは、ずっとお安くなっております」

 言いなれた口調で、笑わないでそう言った。私から十円札を受取ると、また棚にむかって、はたきをかけ始めた。はたきの先から埃がぱっと立って、また徐々にもとの瀬戸物に舞い降りる。どうもそばかすのある男は、どの男も、笑ってもいいときに笑わないような気が私にはするのだが、どんなものだろう。

 偽卵を掌でもてあそびながら、私は駅の方にあるく。もう卵を買う気持もなくなってしまった。実は朝食をとっていないので、卵でも買い求め、駅で電車を待つ間にでも、穴をあけて啜(すす)ってみようと思ったのだが、その気もなくなった。さっきまでは、小さな穴からしたたり流れる白味のぼったりした味や、ねとねとした黄味の舌ざわりを、妄想しながら歩いていたが、駅についた頃は、その嗜慾(しよく)も嘘みたいに消えてしまった。そのくせ腹は空いている。腹のなかで内臓や不随意筋がゆるゆると収縮してゆく感じがある。なにかゆたゆた揺れる、やわらかくて重く、甘く酸っぱいもの、そのようななにかで、腹いっぱいに満たしたい。そんな擬似めいた食慾が、瞬間的に私に起って消える。

 切符を買い、改札を通り、歩廊を果てまであるく。そこは黒い木柵で限られていて、そこに背をもたせて電車を待った。歩廊に人影がすくないから、どうせ電車が来るのも手間どるに違いない。ここからは、いろんなものがよく見える。線路に沿った黒い道。草原。立ち枯れた樹。遠くに病院。草原には牛が一匹つながれている。拳闘の真似をしながら、道をあるいている男。むこうの歩廊には、柵にもたれた中年のおかみさん。風呂敷包みを抱いている。包みからは、赤ん坊が首を出して泣いている。そして――ただそれだけ。私が動かないから、風景もおのずと枠のなかに入って動かない。人も牛も枠のなかで、私にかかわりなく動いている。

 ――あれは食牛かしら?

 ほとんど枯れ果てた草原を、綱いっぱい伸ばして草を食みながら、牛はのろのろと動いている。ここから見ると、黒い牛の形でしかない。軍隊にいたとき、牛を見ると食慾を感じるという「元屠殺業者」が、同年兵にいた。頭が小さく、手首が太く、頸(くび)の肉が厚い、いかにも屠殺業者らしい風貌であつたが、どういうものか上の兵隊から殴られたり尻を打たれたりするのを、ひどく恐がった。そのくせ同年兵の私たちには、ひどく傲慢で、ときには嘲弄的ですらあったのだが。――私はいまその男を思い出している。その男の言葉。

「ロース肉でも皿にならべて葱(ねぎ)でもそなえなきゃ、お前たちは食慾が起らねえと言うんだろう。バカな話さ」

 作業に出たとき、牛がいて、それからこんな話になったのだが、この屠殺業者によれば、牛という生体は、美味(おい)しい牛肉のかたまりであって、生きている牛の形のままで彼の食慾をそそるというのであった。額に斧(おの)をうちこみ、刃物ですばやく皮を剝ぐ。肋骨や赤い筋肉、白くはしる脂肪の層、なまなましい臓器。――そういう解体の経験を通して、あの時「元屠殺業者」の眼はきらきら光って、牛の姿を追っかけた。

「――魚を見れば、お前だって、うまそうだなと思うだろ。牛だって同じことよ」

 相手が牛にしたって何にしたって、ある確実な何かで眺めるということは、大したことだ。そう思いながら、私はぼんやり歩廊から牛の姿を眺め、屠殺業者の風貌を思い起していた。あの屠殺業者の眼にのりうつれば、あの牛の姿も、私のなにかをかきたててくるのかも知れない。……

 ひどく退屈に似た気分におちこみながら、私は掌の偽卵をポケットにすべりおとす。線路の遠くに、近づいてくる小さな電車の形があった。

 

 公園に面した建物の一階に、その法廷はあつた。法廷ではすでに裁判が始まっているらしかった。廊下にかけられた小さな掲示板の前に立ち、私は本日の予定を読んだ。それによると、今日中に此の法廷で、三十人余の犯罪者が裁かれることになっていた。石狩の名もその中にあった。石狩は今日ここで、判決の言渡しをうける筈であった。掲示を読んでいる間でも、法服を着た男たちや傍聴者らしい男たちが、廊下をがたがたいわせながら通った。壁一重むこうでは、人が人を裁いているというのに、廊下にはそれと無関係な雑然とした空気が流れていた。

 半開きになった扉のところにも、傍聴人が立っていて、法廷は満員のようであった。私は背を伸ばして、人の肩越しに、内部をのぞきこんだ。長方形の法廷の一番奥が、すこし高い壇になっていて、白髪を短く刈りこんだ裁判長らしい男の顔が見えた。口を動かして何かしゃべっている風(ふう)であった。

 法廷は思いのほか狭かった。幅が四間ほどしかなかった。奥の壇の上は裁判長だけで、左手に少し下ったところに、法服を着けた陪席検事らしい男がひとり、退屈そうに横むきに腰掛けていた。その向い側は弁護士席となり、そこからこちらが被告席になっているらしかった。被告席は人の頭や肩のかげになって見えなかった。私は身体をななめにして、人の背を押しながら、扉の内側に入りこんだ。視野がすこし広くなって、被告席にずらずらとならんだ頭が見えた。私はすばやく石狩の姿を探した。特徴のある石狩の後頭部を、二列目の腰掛けの中央に私はとらえた。痛みのようなものが、私の胸をはしる。私は眼をそらした。

 壇の前には二人の若い男がならんで立ち、その後姿が見えた。ふたりとも首をうなだれ、裁判長の言葉を聞いていた。裁判長はかなりの老人で、声は間延びしたりかすれたりした。壇のすぐうしろが硝子窓で、そのむこうが公園とこの建物をへだてる道路になっていた。道路と法廷とは、ほとんど等高であった。道路をあるく人の頭が、硝子窓に見えかくれした。十秒か十五秒おきに、自動車が音をたてて通った。音が近づくと裁判長の声は消され、自動車の車体が窓にあらわれて隠れると、また間延びした裁判長の声が法廷にもどってきた。二人の若者は兄弟で、ふたりして公園で通行人を脅迫して金をうばったというのであった。刑の言渡しとその理由を、裁判長がいま発言しているところであった。それは二分も経(た)たないうちに、直ぐに済んだ。礼をしてふたりが被告席にもどると、裁判長は書類の耳をいじくりながら、眼鏡をずり上げて、次の名前をよんだ。また別の男が手錠を外されて、壇の前にすすんだ。手錠を外す音は、私の耳にもはっきり届いた。うしろから見る被告席の男たちは、そろって肩をせばめている具合からして、皆手錠をかけられているに違いなかった。

 石狩は頸(くび)をまっすぐに立てたまま、身じろぎもしないで掛けていた。髪はすこし乱れ、鬚(ひげ)が一寸ほども生えているらしい。背後からだから、表情はもちろん判らなかった。しかし瞳を定めている感じが、うしろからでも窺われた。

 入口に背をもたせたまま、私はそれらを眺めていた。外部の雑音が遠慮なく入ってくるこの小部屋で、人間が人間を裁いているということが、蝶番(ちょうつがい)いの食いちがったようなもどかしい気分に私をさそった。窓の外を通る人や自動車が、この小世界とまったく関係がなく動いていること、ただ硝子一枚へだてただけで、色合の異なった世界がひらけているということが、私にある感じを起させた。その感じにはなにか抵抗があった。

 次々言渡しが済んで四五人たまると、巡査がひとまとめに立たせて、退廷の準備をした。そしてぞろぞろとつながって、腰掛けから離れた。扉ふきんの傍聴者は、自然と廊下に押し出され、人々の肩を分けるようにして、巡査に引かれた被告たちが廊下に出てきた。それらは繩(なわ)で数珠(じゅず)のようにつながっているのであった。それと一緒に傍聴者の何人かが、扉から食(は)み出てきた。これらの被告の身よりか何か、かかわりのある人たちにちがいなかった。廊下を中庭の方へあるく被告たちを、ばらばらに小走りに追いかけた。それを見ながら私はまた扉の内側に、身体をすくませながらすり入れる。

 言渡しはまだつづいていた。

 横手の傍聴席には二十人程の傍聴者が掛けていた。目白押しに腰掛けていた。傍聴者がすこし減ったので、そこが見えた。私はそのなかに麻子の横顔を見た。麻子は黒っぽいスーツを着て、身をすくめて腰かけていた。麻子の眼はしろっぽく見開かれて、なにもながめていないように見えた。膝に置いた手は白い手巾(ハンカチ)をにぎっていた。どのような表情も、麻子の顔になかった。なにもながめていないように見えながら、視線の方向はぼんやり石狩におちていた。私の場所からは、石狩の後頭部しか見えないが、麻子の場所は石狩をななめに眺め得る位置にあった。そして麻子が傍聴席に掛けているのは、ずいぶん早くからここに来ているからに相違なかった。

 ――麻子は石狩の横顔に、なにを見ているのだろう?

 瞬間眼の前で白っぽい光が吹きはらわれるように動いた。私は石狩のふとい頸筋を、そこにみだれる頭髪やよごれた生毛を、ざらざらに立った毛穴を見た。また襟(えり)あかに黒ずんだ上衣や、そこにただよう体臭をかんじた。それは突然私にやってきた。倒錯した快感のようなものが、私のなかを一瞬通りぬけた。それは苦痛にも似ていた。私は身ぶるいしながら、麻子の方を見た。ぎょつとしたようにこちらをむいた麻子の眼と、私の視線は合った。

 その時裁判長が間延びのした声で、石狩の名を呼んだ。影のように実体を失った感じで、石狩は立ちあがった。ここからは石狩の後頭部しか見えないのに、衰えをふくんだ彼の横顔を私は感じた。それは麻子の頰と同じように、すこし痙攣(けいれん)していた。かすかな錯乱が私をみたした。

 

「被告を八年の懲役に処する……」「以下その理由を説明する……」

 近づいては遠ざかる自動車の音をぬって、裁判長のそんな声が流れた。石狩は頸(くび)をたてたまま立っていた。それから裁判長は抑揚のない平板な口調で、判決の理由を述べはじめた。眼は石狩にむけられてはいるが、唇だけが独立に動いて、読本でも読んでいるような感情のない声音であった。それがかえって職業のもつ酷薄さを感じさせた。

 ――石狩はなにを見ているのだろう?

 裁判長のうしろの窓硝子は白くよごれ、道路をへだてた公園の植込みが見えていた。樹々の幹や葉も、道路の埃に白く褪(あ)せていた。葉がくれに便所の混凝土(コンクリート)の壁が見えた。掌のような八ツ手の葉がそこにいくつも垂れていた。ごくありふれた退屈な風景であった。道路の上の人や自動車が、ときどきそれをさえぎつた。それらの風物も今、石狩の眼に入っているのだろう。

(八年といえは検事の求刑からすこしも軽くなっていない)

 石狩が私の友人であること、そして彼が強盗を二件もはたらいたこと、心にかかる重さをはかるように、私はそう呟(つぶや)いた。しかしその重さも、私が手探ろうとすると、霧のように消えるのであった。私が今日この判決を聞きにやってきたのも、義務感と好奇心からだけでないとはいえなかった。むしろまことの重さはそのことにかかっていた。石狩がいまから服役せねはならぬ八年の歳月が、裁判長の唇から間のびした調子で発音され、それがどのような実質的な感じとして石狩におちかかっているのか。ある膜のようなへだたりが、私をいらだたせた。私は入口に頭をもたせたまま、ちらちらと麻子の方をぬすみ見た。

 裁判長の説明は聞えたり聞えなくなったりしてつづいた。

 麻子は片手を前の腰掛けの背にあてて、すこし身体をななめにして、前方を見詰めていた。ときどき身体を乗り出すようにもした。緊張した表情が、かえって麻子の顔を放心したように見せた。

 裁判長の調子が、やがて論述の終りを予感させた。被告の強盗をはたらいた心境は、幾分同情のできる余地もあるが、法の立場からしては八年の宜告は止むを待ないということを、裁判長は眼鏡ごしに石狩をながめながら、さとすような口調になって言った。私の視野の端を白いものが動いて、麻子はその時掌にもった手巾を顔にあげた。

 ――八年という年月はずいぶん長いんだな。

 瞬間にこの感じが、ひとつの形で私に来た。手巾(ハンカチ)はすぐに膝に降りて、私は麻子のむきだしの横顔をみた。頰の白粉(おしろい)がすこし斑(まだら)となり、眼は斜視じみて見開かれていた。裁判長の前で、石狩が軽く頭をさげているところであった。元の席へ戻るとき、石狩が私を見るかも知れない。そう思うと私は無意識に身体をずらせて、弾(はじ)け出るように廊下に出た。廊下をがやがや話しながら、弁護士服をつけた二人の男が通りすぎた。

 

 石狩が法廷から引かれて出るとき、私は廊下に立っていたし、麻子は私によりそうように立っていた。数珠(じゅず)のようにつながれた四人目に石狩はいた。入口から出てきて、ただようように動いていた石狩の視線が、私等をとらえた。私たちの間隔は二間ほどであった。石狩は突然なにか暗い灼けつくような眼になって、掌をあげようとしたが、手をしばった繩(なわ)にさまたげられた。その繩はぴんと張って、前の男の手に連繋(れんけい)していた。

 「…………」

 石狩は追われるような調子で早口になにか言ったらしかった。しかしその言葉の意味は開きとれなかった。麻子は脅えたように身体を私に寄せてきた。石狩の頰には硬(こわ)そうな鬚(ひげ)が密生して、膚のいろは黄色であった。前の方から繩を引かれて、石狩はすこしよろめいた。そしてそのまま繋がってあるきだした。廊下が中庭に折れる場所で、石狩はも一度私たちの方をふりかえった。そして見えなくなった。中庭には未決囚専用のバスが待っていて、それへ乗って小菅(東京拘置所の所在地)へかえるのである。

[やぶちゃん注:「東京拘置所の所在地」は底本では二行割注で丸括弧の中に入っている。梅崎春生にしては珍しい仕儀で、或いは、初出の雑誌編集者が、又は、底本の全集編者が挿入した可能性もあるが(前者は考えにくい。当時の読者にはこの直前の東京裁判(昭和二三(一九四八)年十一月十二日終了)があったのだからこんな注は不要である)、初出誌や作品集「ルネタの市民兵」を所持しないので、そのまま電子化した。現在の東京都葛飾区小菅にある東京拘置所(グーグル・マップ・データ)。]

 石狩が見えなくなると、麻子は私からはなれて、柱のところで声を立てないですこし泣いた。それはごく自然な感じであった。私は麻子のことはよく知らない。石狩の部屋で二三度会っただけである。石狩は私にふつうの紹介をしただけだから、ふたりがどんな関係にあるのか私は知らなかった。それは私にはどうでもよかったのだから。

 麻子はすぐに泣きやんで、手巾で顔をふいた。私たちはあるきだした。中庭と反対の方角にあるいて、この建物を出た。もう石狩はバスに追いこまれ、バスも動きだした頃だろう。

 木造の門を出、曲角をまがり、建物の外郭にそって公園の方へなんとなくあるいた。私にはある期待があった。その地点まできて、顔をまげてのぞきこんだ。建物のしろくよごれた窓硝子のなかに、さっきの部屋が見えた。そこには裁判長の腰かけた後姿と白髪の頭が見えた。その向うはうす暗く、人の顔がぼんやりとならんでいた。私たちのそばを音たてて、緑色のジープが通りすぎた。その窓硝子のなかは灰色に澱(よど)んでいて、いいようもない退屈な感じにあふれていた。ごく短い時間にそれを瞳に収めて、私はその地点を通りぬけた。

「可哀そうだわ。ほんとに、可哀そうだわ」

 麻子が独白のように呟いた。麻子があの部屋のなかを見たのかどうか判らない。ある衝動におされて、私は頭を廻し、公園の方を眺めた。白く褪色(たいしょく)した樹々の葉や便所の壁を。八ツ手の葉がそこに垂れていた。その風景が急に活き活きした感じとして私をうつた。平凡であれはあるだけ、その感じは私を瞬間かきたててきた。

 ――これだな。こんな感じなんだな!

 私は自分の心にきりきりと爪をたてながら思った。この風景を、裁判長の前に立った石狩が見ていたことが、その時私の胸にあった。その時彼がなにを思い、感じていたのか。窓のない囚人バスにのせられ、直ぐに刑務所にむかう。そして八年間。一年の八倍。九十六箇月。三千日。人人が通る道路というものや、樹々が茂った公園というものから、きっぱりと遮断されてしまう。――いわばその末期の眼は、どんなに貪婪(どんらん)に、あの風景を吸いこんだだろう。私は急ぎ足になって、公園の小径(こみち)に曲りこんだ。

 公園のなかに入っても、麻子は私につきそうように追ってきた。私は公園をぬけて、盛り場の街へ出るつもりである。麻子はまるであてどもないように、私についてくるようであった。黒いスーツにつつまれた肩が、あたたかく丸い感じがした。ならんで歩きながら、その肩がしばしば私の身体に柔かくふれた。

(よりそうように私たちが廊下に立っていたのを、あの暗い灼きつくような眼で、石狩はどんな風(ふう)に見たのか――)

 深いところに吸いこまれるような気持で、私はそう考えた。麻子と私が、ただ石狩をつうじての顔見知りで、それだけの無縁のものであること、それは石狩も知っている筈であった。しかし暗く燃える眼で彼がみたのは、それではなく、それを超えた痛烈なものであることを思ったとき、粟立つものが私の背中を奔(はし)った。あの眼には八年の歳月がおもくのしかかっていた。石狩の網膜にうつった私たちふたりの姿を、私は想像のなかで自ら組立てていた。そうして組立てられた幻影が、いま公園の広場の落葉のなかをあるいてゆく。危惧(きぐ)に似た感じが突然私の胸にしみこんできた。そばをあるく麻子が、急に匂いや味や肉の感触をたたえた実質として、私に感じられた。

「――裁判って、あんなものなの? あんなことで人の運命がきまったりするの?」

 麻子はすこし落着いてきたらしく、そんなことを言ったりした。公園の広場には、冬の花が咲いていた。落葉が道を埋め、靴の裏で鳴った。

「あれはね、単独裁判というんだよ。すこし略式になるんだろう。」

「もうどうにもならないのかしら」

「どうにもならないだろうね」私は冷淡にこたえた。

「――わたし、待てないわ。八年も。待っている自分を思うと、たまらなくなるもの」

 口走るように麻子は言った。麻子の言い方は、私が石狩と麻子の関係を充分知りぬいていると、錯覚しているような具合であった。麻子の心が私にもたれてくるのを、私はしだいに感じ始めた。それは女がもつ無意識の打算のように思われた。自分の心をも一度かきたてるように、私は思つた。

(石狩の眼に映ったように、おれはなってしまおうか。あの感じをたしかめるには、それ以外にないのだから)

 しかしそう思ったとき、故しらぬふかい疲れが私をおそった。私は急に麻子から気持が遠のくのを感じた。

「わたしこれから、どうなるのかしら?」

「さあ」私は十歩ほどあるいてから答えた。「どうなるか貴女は知ってるでしょう。だからそんなことが言えるんですよ」

「そうよ。そうだわ」

 びっくりする程素直な調子になって、麻子はうなずいた。それは私につよく、女というものを感じさせた。

 公園を出てから、私たちは別れた。別れぎわに私は麻子の住所を聞いて書き取った。麻子は私の住所を聞こうとはしなかった。道を右、左にわかれて、私は振りかえらずにまっすぐ歩いた。私は背中に麻子の視線を感じた。

 ――廊下を引かれてゆくとき、石狩は何と言ったのだろう。何を言おうとしたのだろう?

 あれは意味のない叫び声だったかも知れない、と私は自分に言いきかせるように呟いた。しかしあの瞬間の声や眼付は、私の意識のなかに長く長くとどまるだろう。その予感は私にあった。そして石狩の眼に収められたあの時の私の姿が、長く長く石狩の意識にとどまるだろうということを、裏打ちするように思い合せたとき、烈しい悔恨のようなものが私をおそった。

[やぶちゃん注:「単独裁判」簡易裁判所及び地方裁判所に於ける「単独審(たんどくしん)」のこと。一人の裁判官が単独で裁判(審理・判決など)を行う裁判。これに対し、我々が普通に見かけることが多い、複数の裁判官が裁判を行う場合は「合議審」という。本邦では単独審を行うことが出来るのは判事又は特例判事補の限られるが、簡易裁判所は一人の裁判官が総ての事件を審理し(則ち、簡易裁判所には合議審はない)地方裁判所に於いてのみ両審がある。地方裁判所では単独審と合議審があり、必ず合議体で審理しなければならない事件(法定合議事件。殺人・放火等のような重い刑罰が定められている犯罪の裁判)及び争点が複雑であるなどの理由から本来は単独事件で審理出来るものを特に合議制で審理する事件(裁定合議事件)の別がある。上訴審である高等裁判所や最高裁判所は常に合議審であるから,この区別はない。このシークエンスのそれは簡易裁判所のそれである。]

 

 駅の前の暗がりには、沢山女が群れていて、通る男たちをつかまえようとしていた。ビルの蔭になっていて、そこらはひとしお暗かった。すこしむこうには手相見の燈やピーナツ売りの燈がならんでいた。また彼方にはがたがたのマーケットが明るく浮き上り、人影をちらちらさせていた。そこへむかって歩いてゆく私の右腕を、よりそうように近づいてきて女の手がとらえた。

「ね。行かない?」

 女は黒っぽい服をつけていた。むこうの明りの照りかえしで、私は女の顔をみた。ひらたい感じの顔に、口紅をあざやかに点じていた。女は身体をすりよせた。そして掌で私の服にふれた。

「ねえ。一緒にあそばない?」

 私の背後でも、そんな取引の声がいくつも起っていた。女の嬌声もそこに混った。私は身体を引いて、離れようとした。

「どこに行くの。まだ飲むの。もう相当酔ってるじゃないの」

 女は私にからまって、四五歩ついてきた。照りかえしが女の顔を移動した。女は白く化粧はしていたが、声音(こわね)や身のこなしが三十を越した年齢を私に感じさせた。何故かそれが私を気安い気持にした。

「行ってもいいよ。しかしもう一廻りして、あとで行く」

「ほんと、ほんとね。あら。これは何?」

 女の指が私のポケットをおさえていた。女は私を見上げて、すこし惨めな笑い顔をした。私は女の指を押えて、ポケットに手を入れた。掌のさきがざらざらと偽卵に触れた。

「卵だよ。上げようか」

「あとでね。ほんとね」

 女の手が私から離れた。私はそこを通りぬけた。

 うすっぺらな板でつくったマーケットの店のひとつに、私は腰かけた。そして酒を注文した。マーケットの一番外(はず)れの位置に、この店はあった。すでに酔いが私の身体の部分部分に廻っていた。ばらばらに千切れたような酔いを、ひとつの酩酊にまとめるものを、私は漠然と欲していた。やがて酒がざらざらの卓の上に来た。客は私ひとりしかいなかった。私はすこしずつ酒を唇に流しこんだ。

 ――あの服は麻子のに似ていたな。しかしどうしてあんな色の服を着るのだろう?

 いまの女のことを私はふと考えていた。その着ているスーツからの聯想(れんそう)が、麻子につながった。軟かそうな麻子の肩の印象が、つづいてよみがえった。私は麻子の年齢も知らない。もう知ることもないだろう。しかし八年後には、あの女も黒い服がすっかり似合うようになって、眼の色ももつと乾いてくるだろう。公園とあの建物の間の鋪道で、ほんとに可哀そうだ、と麻子は口走った。あの言葉は石狩に対してなのか、それとも自分に対してなのか。私にも判らないけれども、麻子にも判らないだろう。誰だって何も判っていやしない。みんな馬鹿な鶏みたいに、自分の口から出たことや自分の眼で見たこともはっきり判らないで、やっとその日を生きている。……酔いに沈んだ頭の片隅を、そのような想念が走った。

 台の上には、卵が鉢に盛られていた。私はふと思いついて、ポケットからあの偽卵を出して、そこにならべた。電燈の光の下では、私の偽卵は黄色さを消して、ほんものの卵のように見えた。その光景はすこし私を浮き立たした。それを眺めながら、私はまた酒を口にふくんだ。偽卵の用途についてぼんやり考えていた。しかし鶏について私はほとんど知識をもたなかった。ただ鶏の巣箱にひとつずつ入れてあることは知っていた。産卵を刺戟するために、それが入れられているのかも知れなかった。しかし硝子や粘土のかたまりを、自らの生理と誤まるほど、鶏は馬鹿なのか?(鶏だって知っているのかも知れない)

 私は指で台上の偽卵をつついた。それは軽やかな音をたててころがった。卵の形をとりながら、やはりそれは卵ではなかった。実質のない土偶にすぎなかった。

 ほんものの卵を産むためにこんな土偶でも必要だとすれば、と私は酔いに乱れた頭でかんがえた。本当の感動をうむために、擬似の感動をかさねてゆくことも、無駄ではないだろう。ある確実な何かをつかむためにも、もっともっと馬鹿なことを私はやって行くのだろう。――

 短くて長い時間がすぎた。私はのれんを透して、駅の方を眺めていた。眼がちらちらと定まらなかった。駅の前のくらい場所には、まだ人影が見えたが、先刻よりずっと減っているらしかった。次々お客がついて、女たちは去ってゆくのらしい。だんだん減って行って、やがてひとりもいなくなるのだろう。

 ――もし先刻の女が最後の一人になって残ったら、いっしょに行ってもいいな。

 そんなことを私は考えながら、更に酒を口にふくんだ。女がポケットの偽卵にふれたときの、あの惨めそうな笑い方を私は思い出した。あの女はそれを、私の欲望の形象として感知したにちがいなかった。あの女は善い女かも知れない。私にふさわしい女かも知れない。最後まで残ったら、私はそこへ行く。海底撈月(ハイテイラオイエ)みたいな好運!

 金を払って外へ出た。偽卵をおさめたポケットを護符のようにたたきながら、私はすこしよろめいて歩いた。

[やぶちゃん注:最後の方の本物の鶏卵の山に偽卵を積んでみるシークエンスは確信犯で、かの梶井基次郎の「檸檬」(リンク先は私の古い電子テクスト)へのオマージュと私には読める。私の昔の教え子諸君には私の『梶井基次郎「檸檬」授業ノート』も懐かしかろう、ご笑覧あれ。
「海底撈月(ハイテイラオイエ)」如何にも李白みたような文人趣味のように見えるが、中国語に堪能とは思われない梅崎春生にして、「うん? これってもしかして?」と調べてみたら、案の定だ! これは麻雀(マージャン)の役(やく)の名であった。私は麻雀を全く知らないので、マージャン・サイトの「海底撈月(ハイテイラオユエ) 最後に笑う為に覚えるべきルール」から引いておく。『牌山(ハイヤマ)の最後の牌を海底といい、その牌をツモしてアガると成立。海底摸月(ハイテイモーユエ)とも呼ぶこともあります』。『「海に映った月をすくい取る」そんなロマンチックで美しい名前を持つ役、それが海底撈月(ハイテイラオユエ)です。別名を海底摸月(ハイテイモーユエ)とも言いますが、海底撈月には四字熟語で「無駄骨を折るだけで全然見込みのないこと」という意味もあります。ロマンチックな名前を持ちながら、なかなか見る事ができない海底撈月とは一体どんな役なのでしょうか』とあって、以下、解説されており、そこに海底牌とは『王牌(ワンパイ)を除いた壁牌(ピーパイ)の最後の』一『枚』で、『つまり、プレーヤーがツモをする事ができる最後の牌の事です』とある(私にはよく判らないが、附図を見るとなんとなく判る)。『最後の一枚である海底牌をツモるチャンスがあるのは一人だけ、加えてそのプレーヤーの手牌がテンパイになっていないとならない海底撈月、「無駄骨を折るだけで全然見込みのないこと」というのもなんとなく頷ける気がします』とある。どうぞ、詳しくはリンク先をお読みになられたいが、これで正しく梅崎春生の言っている「最後まで残ったら、私はそこへ行く。海底撈月(ハイテイラオイエ)みたいな好運!」の謂いを正しく理解出来た気にはなった。因みに、調べてみると、「海底撈月」は中国語の発音では「hǎi dǐ lāo yuè」で「ハァィ ディー ラァォ ュエ」が正しいようだ。]

2019/09/05

小泉八雲 死靈  (田部隆次譯)

 

[やぶちゃん注:やぶちゃん注:本篇(原題“ Shiryō ”)は一九〇二(明治三五)年十月にニュー・ヨークのマクミラン社(MACMILLAN COMPANY)刊の“ KOTTŌ ”(来日後の第九作品集)の冒頭に配された“ Old Stories ”(全九話)の五番目に配されたものである。作品集“KOTTŌ”はInternet Archive”のこちらで全篇視認でき(本篇はここから。但し、これは翌一九〇三年の再版本)、活字化されたものは“Project Gutenberg”のこちらで全篇が読める本篇はここから)。

 底本は上記英文サイト“Internet Archive”のこちらにある画像データをPDFで落し、視認した。これは第一書房が昭和一二(一九三七)年一月に刊行した「家庭版小泉八雲全集」(全十二巻)の第八巻全篇である。★【2025年3月24日底本変更・前注変更】時間を経て、国立国会図書館デジタルコレクションに本登録し、現行では、以上の第一書房版昭和六(一九三一)年一月に刊行した「學生版小泉八雲全集」(全十二巻)の第七巻が、国立国会図書館デジタルコレクションで公開されてある。(リンクは扉だが、「學生版」の文字はない。しかし、奥附を見て貰うと『學生版 【第二囘豫約】』とあり、『昭和六年一月十日 發行』とあることが確認出来る)、これが、前掲の底本と同じものであるが、やはり、外国のサイトのそれを底本とするのは、日本人小泉八雲に失礼であると考えた。されば、こちらで、再度、以下の「骨董」の作品群を改めて校正することとする。これが――私の小泉八雲への「義」――である。なお、之よりも前の元版の全集等が先行しているものの、私がそれらと比べた結果、実は先行する同社の「小泉八雲全集」のそれらは、訳が一部で異なっており、訳者等によって、かなりの補正・追加がされていることが、今回の正字補正作業の中で、はっきりと判って来た。いや、同じ「家庭版」と名打ったネット上の画像データでも、驚いたことに、有意に異なっていたのである。そうした意味でも――完全な仕切り直しの総点検――が必要であると決したものである。従って、旧前振りの括弧・鍵括弧の問題も、拡大とガンマ補正で確認し、正確を期する。新底本の本話はここから。

 傍点「ヽ」は太字に代えた。挿絵は底本にはないが、原本では各話の前後に同じ絵がサイズを変えて配されてある。“Project Gutenberg”版にある最初に配された大きい方のそれを使用した。挿絵画家は既に述べた通り、佐賀有田の生まれの画家江藤源次郎(えとうげんじろう 慶応三(一八六七)年~大正一三(一九二四)年)である。但し、本底本最後の田部隆次氏の「あとがき」によれば、『マクミランの方でヘルンが送つた墓地の寫眞と「獏」の繪「獏」の繪の外に、當時在英の日本畫家伊藤氏、片岡氏などの繪を多く入れたので、ヘルンは甚だ喜ばなかつたと云はれる』とある。それを考えると、挿絵の多くは、スルーされた方が、小泉八雲の意には叶うと言うべきではあろう。

 田部隆次(たなべりゅうじ 明治八(一八七五)年~昭和三二(一九五七)年)氏については先に電子化した「人形の墓」の私の冒頭注を参照されたい。]

Kotto_010

   死 靈

 

 越前の國の代官、野本彌治衞門の歿した時、その下役の者共相謀つて、その故主人の遺族をだまさうとした、代官の負債の幾分を償却すると云ふ口實の下に、その家の財寶家具全部を押へた。その上、故主人が無法にも自分の資產の價値以上の債務を契約したやうに見える僞りの報告書を整へた。この僞りの報告を彼等は宰相に送つた、そこで宰相は越前の國から野本の妻子の追放命令を出した。その頃、代官の家族は、たとへ當主の死後でも、何かその人に非行があつたときまれば、幾分責任を負はされたものであつた。

 

 しかし、その追放命令が野本の未亡人に正式に交付された時、その家の女中に不思議な事が起つた。何かものに取いつかれたやうにひきつけて、身ぶるひをしだした、ひきつけが終つた時、すつくと立ち上つて宰相の役人達と故主人の下役とに叫び出した。

 『さあ、おれの云ふ事をよく承れ。汝等に話して居るのは女でない、おれは彌治衞門――あの世から歸つた野本彌治衞門――だ、おれが淺ましくも信じてゐた者共から招いた悲しさと腹立しさ、その悲しさと腹立たしさの餘り歸つて來たのだ。……汝等恩知らずの不都合な下役の者の共、どうして汝等はこれまで受けた恩を忘れて、この通りおれの財產をなくし、このおれの名を辱しめるやうな事ができるのだ。さあここでおれの面前で、役所とおれの家の會計の取調べをして見せる。家來を一人目附の處へ帳簿を取りにやれ、その取調べを照し合せて見せる』

 女中がこんな言葉を口走つた時、居合せたものは一同驚いてしまつた、彼女の聲や態度は、野本彌治衞門の聲や態度であつたから。疵もつ足の下役共は靑くなつた。しかし宰相の代表者は直ちにその女の願は充分かなへさすべき旨を命じた。役所の會計帳簿は直ちに彼女の前に置かれた、――それから目附の帳簿は運ばれた。そこで彼女は計算を始めた。一つの誤算もなく、彼女は凡ての計算をして總計を書いて、誤りの項目を直した。彼女の書體は正しく野本彌治衞門の書體であると見られた。

[やぶちゃん注:「疵もつ足の下役共は靑くなつた。」原文“The guilty clerks turned pale.”。まあ、判らぬ訳ではないが、どうも躓く日本語である。「疵もつ足の」という「下役」(したやく)の形容は如何なものか。「脛に傷持つ下役共」(ども)、でよかったのではないか?]

 さて計算の再檢査ができ上つた時、女は正しく野本彌治衞門の聲で云つた。

 『さあこれで一切でき上つた、もうこれ以上おれは何もできない。それでおれはおれの來た處へ歸る』

 それから橫になつてすぐに寢込んだ、死人のやうに二日二晚眠つた。〔取りついて居る魂がぬけると、とりつかれた人に大きな疲勞と深い眠りが來る〕再び彼女が起きた時、彼女の聲と態度は若い女の聲と態度であつた、さうしてその時もその後如何なる時も、野本彌治昏門の亡靈にとりつかれてゐた間のでき事を思ひ出す事ができなかつた。

 

 この事件の報告が直ちに宰相に送られた、その結果宰相は追放の命令を取消したばかりでなく、代官の遺族に大きな賜物を與へた。その後種々の死後の名譽が、野本彌治衞門に與へられた、その上、その後長く家は政府の恩顧を受けて甚だ榮えた。しかし下役の者どもは相當の罸を受けた。

[やぶちゃん注:この話、確かにそっくりなものを以前に江戸の怪奇談集の中で読んだように思う。ただ、その時思ったのは、謀議を暴くために――冥界からわざわざ戻って――会計簿を用いて――身の潔白を正して――金勘定をカッチり合わせて――粛々と帰って行く……という全体の金銭臭さは、本邦の武士らしさと親和性が頗る悪い上に、憑依するのが、亡き自身の家の端女(はしため)であるというのも、どうも日本的でないものを強く感じさせたという記憶である。はっきり言えば、そういう設定――私に言わせれば、収支決算監査終了的な妙な現実味は寧ろ、中国の伝奇・志怪小説に登場する現世への激しい執着を持つ官人の遺恨に最も相応しいのである。或いは、この話、中国のその手の話をお手軽に日本に移した話のように思われてならない。孰れにしても(近世怪談或いは志怪小説)、具体的な類型話を思い出したら、ここに追記をする。

 中国起原を措定した時、「代官」(原文も“daikwan”。狭義のそれは「郡代」と共に江戸幕府の勘定奉行の支配下に置かれ、小禄の旗本の知行地と天領の治安管理をした)や「宰相」(原文も“Saishō”。狭義の代官の追放命令を下せるのは、勘定方の最高責任者で、財政や幕府直轄領の支配などを総支配した勘定奉行となるが、実際には将軍が決めるのは言うまでもない)、或いは、最後の「政府」(原文は“the Government”。公儀。江戸幕府。これを藩主などととると、「宰相」は家老になって、「代官」は奉行格となって、時代劇にありそうに見えてくるものの、こんな組織的な不正謀略が、万一、公儀に漏れたら、藩自体が改易の危機にも陥るわけで、そっちの方がかえって心配になっちゃうんだが、ンなことはあり得ない)という言葉が、構造的に、なんだかひどくむずむずしてしっくりとこないのが、すっきり雲散霧消するとも言えるのである。因みに、平井呈一氏の訳は、「宰相」に当たる箇所を「公儀」及び「上(かみ)」、則ち、「江戸幕府」及び「江戸幕府将軍」とし、「宰相の代表者」は「公儀の名代(みょうだい)」、「政府」は「公儀」とされており、これ、全く躓かないのである。

小泉八雲 生靈 (田部隆次譯) 附・原拠

 

[やぶちゃん注:本篇(原題“ Ikiryō ”)は一九〇二(明治三五)年十月にニュー・ヨークのマクミラン社(MACMILLAN COMPANY)刊の“ KOTTŌ ”(来日後の第九作品集)の冒頭に配された“Old Stories”(全九話)の四番目に配されたものである。作品集“ KOTTŌ ”は “Internet Archive”のこちらで全篇視認でき(本篇はここから。但し、これは翌一九〇三年の再版本)、活字化されたものは“Project Gutenberg”のこちらで全篇が読める本篇はここから)。

 底本は上記英文サイト“Internet Archive”のこちらにある画像データをPDFで落し、視認した。これは第一書房が昭和一二(一九三七)年一月に刊行した「家庭版小泉八雲全集」(全十二巻)の第八巻全篇である。★【2025年3月24日底本変更・前注変更】時間を経て、国立国会図書館デジタルコレクションに本登録し、現行では、以上の第一書房版昭和六(一九三一)年一月に刊行した「學生版小泉八雲全集」(全十二巻)の第七巻が、国立国会図書館デジタルコレクションで公開されてある。(リンクは扉だが、「學生版」の文字はない。しかし、奥附を見て貰うと『學生版 【第二囘豫約】』とあり、『昭和六年一月十日 發行』とあることが確認出来る)、これが、前掲の底本と同じものであるが、やはり、外国のサイトのそれを底本とするのは、日本人小泉八雲に失礼であると考えた。されば、こちらで、再度、以下の「骨董」の作品群を改めて校正することとする。これが――私の小泉八雲への「義」――である。なお、之よりも前の元版の全集等が先行しているものの、私がそれらと比べた結果、実は先行する同社の「小泉八雲全集」のそれらは、訳が一部で異なっており、訳者等によって、かなりの補正・追加がされていることが、今回の正字補正作業の中で、はっきりと判って来た。いや、同じ「家庭版」と名打ったネット上の画像データでも、驚いたことに、有意に異なっていたのである。そうした意味でも――完全な仕切り直しの総点検――が必要であると決したものである。従って、旧前振りの括弧・鍵括弧の問題も、拡大とガンマ補正で確認し、正確を期する。新底本の本話はここから。

 傍点「ヽ」は太字に代えた。挿絵は底本にはないが、原本では各話の前後に同じ絵がサイズを変えて配されてある。“Project Gutenberg”版にある最初に配された大きい方のそれを使用した。挿絵画家は既に述べた通り、佐賀有田の生まれの画家江藤源次郎(えとうげんじろう 慶応三(一八六七)年~大正一三(一九二四)年)である。但し、本底本最後の田部隆次氏の「あとがき」によれば、『マクミランの方でヘルンが送つた墓地の寫眞と「獏」の繪「獏」の繪の外に、當時在英の日本畫家伊藤氏、片岡氏などの繪を多く入れたので、ヘルンは甚だ喜ばなかつたと云はれる』とある。それを考えると、挿絵の多くは、スルーされた方が、小泉八雲の意には叶うと言うべきではあろう。

 挿絵は底本にはないが、原本では各話の前後に同じ絵がサイズを変えて配されてある。“Project Gutenberg”版にある最初に配された大きい方のそれを使用した。挿絵画家は既に述べた通り、佐賀有田の生まれの画家江藤源次郎(えとうげんじろう 慶応三(一八六七)年~大正一三(一九二四)年)である。

 田部隆次(たなべりゅうじ 明治八(一八七五)年~昭和三二(一九五七)年)氏については先に電子化した「人形の墓」の私の冒頭注を参照されたい。

 なお、本作の原拠は、既出既注の「新著聞集」の中の、「第十二 寃魂(えんこん)篇」の「活靈(いきりやう)咽(のんど)を占(し)む」であるが、実は私は既に

『柴田宵曲 妖異博物館 「生靈」』

の注でそれを電子化している。しかし、今回は、改めて、実際の小泉八雲旧蔵の原本の画像富山大学「ヘルン文庫」のこちらで丸ごと総てをダウン・ロード出来る)に拠って校合したものを最後に附した

 

Kotto_008

   生 靈

 

 昔、江戶靈岸島に喜兵衞と云ふ全持ちの瀨戶物店がおつた。喜兵指は六兵衞と云ふ番頭を長く使つてゐた。六兵衞の力で店は繁昌した、――餘り盛大になつて來たので、番頭獨りでは管理して行かれなくなつた。そこで、經驗のある手代を雇ふ事を願つて許された、それから自分の甥を一人よびよせた――以前大阪で瀨戶物商賣を習つた事のある、二十二ばかりの若者であつた。

 この甥は甚だ役に立つ助け役であつた、――商賣にかけては經驗のある叔父よりも怜悧[やぶちゃん注:頭がよく、利口・利発なこと。]であつた。彼の才發はその家の商賣を益〻盛んにしたので、喜兵衞は大變喜んだ。しかし雇はれてから七月程して、この若者はひどく病氣になつて、助かりさうには思はれなくなつた。江戶中の名醫も幾人か呼んで診て貰つたが、誰にもその病氣の性質は分らない。誰も藥の處方をするものはない、何か人知れぬ悲しみからこの病氣が起つて居るとしか思はれないと云ふのが、一同の意見であつた。

 六兵衞は戀の病かとも思つて見た。そこで甥に云つた、

 「お前は未だ大層若いのだから、誰か人知れず思つて居る女でもあつて、それでつまらなく思つて、或は病氣になる程になつて居るのでないかとわしは考へて居るのだが。もしそれが本當なら、お前の心配事は皆このわしに云ふのが當り前。ここではお前は兩親から遠く離れて居るから、わしはお前のためには父親同樣、だから何か心配事や悲しい事があれば、わしは何でも父親のしなけりやならないやうな事はお前のためにする覺悟だ。もしお金が要るのならいくらでもわしに云ひなさい、恥かしがる事はない。わしにはお前の世話はできると思ふ、それに喜兵衞さんもきつと、お前を元氣に達者にするためなら、どんな事でも喜んでして下さると、わしは信じて居る」

 病人の若者はこんなに親切に云はれて困つたらしかつた、それで暫く默つてゐた。が遂に答へた。――

 「こんなに有難いをお言葉は、私は決してこの世で忘れる事はできません。しかし私は內內思つて居る女もありません、――どんな女も望んでは居りません。私のこの病氣はお醫者で直る病氣ぢやありません、お金は少しも役に立ちません。實は私はこの家で迫害を受けてゐますので、生きてゐたいとは思はない程です。どこででも――晝でも夜でも、店にゐても、自分の部屋にゐても、獨りの時でも、人中ででも、――私はたえず或女のまぼろしにつきまとはれて惱まされてゐます。一晚の休息も得られなくなつてから餘程になります。眼を閉ぢるとすぐにその女のまぼろしが私ののどをつかんでしめつけようと致しますから、それで私は少しも眠られません……』

 「何故又その事をもつと早くわしに云はなかつたのぢや」六兵衞は尋ねた。

 「云つでも駄目だと思つたからです」甥は答へた「そのまぼろしは死人の幽靈ぢやございません。生きて居る人――あなたのよく御存じの人――の憎しみからでたものなんです」

 「誰だい」六兵衞は非常に驚いてききただした。

 「この家の女主人、喜兵衞樣の内儀樣です。……あの人は私を殺してしまひたいのです」若者はささやいた。

 

 六兵衞はこの告白を聞いて當惑した。彼は甥の云つた事を少しも疑はなかつた、しかしその生靈の起つて來る理由の見當がつかなかつた。生靈は失戀または烈しい憎惡から――その生靈の發生する本人も知らないのに、そこに戀愛關係を想像する事は不可能であつた、――喜兵衞の妻は、五十をもう餘程出てゐた。しかし、又一方から見て、その若者は憎惡を受けるやうな――生靈を招く程憎惡を受けるやうな事を何かしたのであらうか。彼は難の打ち處のない程行儀よく、缺點を見出せぬ程禮儀正しく、それから義務に對して熱心忠實であつた。この難問題は六兵衞を困らせた。しかしよくよく考へたあとで一切の事を喜兵衞に打明けて、調べて貰ふ事に決心した。

  喜兵衞は肝をつぶした、しかし四十年の間、六兵衞の言葉を疑ふべき理由は少しでもあつたためしはなかつた。それで直ぐに妻を呼んで、病人の若者の云つた事を同時に告げ、用心深く妻に尋ねた。初めのうちは靑くなつて泣いてゐたが、すこしためらつてから、明らさまに答へた。

 「その新しい手代が云つた生靈の事はどうも本當だと思ひます――實は私は言葉や樣子に決して表すまいと、本當に努めてゐますが、私はどうしてもあれを嫌はずには居られません。御存じの通りあれは商賣が大層上手です、――やる事は何でも大層氣が利いてゐます。それであなたはあれに大した權限――丁稚や召使に對する權力をこの家で與へておやりになつてゐます。ところがこの商賣を相續すべき私達のひとり息子は實にお人よしで、すぐに人にだまされます、それでこの利口な新しい手代が息子をごまかして、この財產を皆橫取してしまふかも知れないと長い間考へてゐました。全くあの手代は何時でも、造作なく、又何のぼろも出さないで、この商賣を潰して、息子を破產させる事ができると私は信じます。さう信じて居るものですから、あの男を恐れ憎まずには居られません。死んでくれればよいと何度も何度も思ひました、自分の力で殺せるものならとさへ思ひました。……それは、そんな風に人を憎むのは惡いとは知りながら、その氣持を押へる事ができませんでした。夜も晝も、あの手代を呪つてゐたのです。それで六兵衞に云つた通りのものが見えたに相違ありません』

 『なんと云ふ馬鹿な事だ、そんなに自分で苦しむのは』喜兵衞は叫んだ。『今日まであの手代は惡く思はれるやうな事は、何一つした事はない、それにお前はあの男を殘酷にも苦しめてゐた。――ところで、もし外の町で支店を持たせて叔父と二人やる事にしたら、お前はもつとやさしく考へてやる事ができるだらうね』

 『顏を見たり、聲を聞いたりしなければ』妻が答へた、――『もしあなたがあれをこの家から只外へやつてさへ下されば――さうすれば憎しみを押へる事ができませう』

 『さうしなさい』喜兵衞は云つた、――「これまでのやうに憎んでゐたのでは、あの男はきつと死ぬ。さうするとお前は恩こそあれ何の仇もない人を殺すやうな大罪を犯した事になる。どの點から見てもあの男はこの上もない立派な手代だ』

 それから直ちに喜兵衞は外の町に支店を設ける準備をした、それからこの手代と共に六兵衞をやつて監督させた。その後生靈は若者を惱さなくなつた、若者はやがて健康を囘復した。

 

[やぶちゃん注:原拠の「新著聞集」の「第十二 寃魂篇」(原拠原本は「えんこん」(歴史的仮名遣は「ゑんこん」が正しい)と誤って読みが振られている)の「活靈(いきりやう)咽(のんど)を占(し)む」を、「富山大学学術情報リポジトリ」のこちらからダウン・ロードしたもので小泉八雲旧蔵原本に基づいて電子化して、以下に示す。漢字略字や清音及び歴史的仮名遣の誤りはそのままに写した。崩し字が判別不能の場合は概ね正字で示した。「踊り字「〱」は正字化した。句読点は私が附し(元はベタ)、会話記号等を加え、改行を施して段落を拵えて読み易くした。

   *

   活霊(いきれう)、咽(のんど)を占(しむ)

 江戶霊巖嶋(れいがんしま)瀨戶物棚(せとものたな)、㐂兵衞が家の出居衆(でいしゆ)に、六兵衞といふ者、年久しくありて、同し家(いへ)の店(たな)をかり、大坂より猶子(をひ)を呼下(よびくだ)しけるが、其者は、利根才覺(りこんさいかく)にて、商(あきなひ)をも、よくせしが、いつとなく煩(わつらひ)しを、六兵衛も不審(いぶかし)げにおもひ、若(わか)き者の事なれば、

「何(なに)にても思ふ事の有にや。假令(たとひ)金銀をつかふとても苦(くるし)からず、何とぞ、氣色(きしよく)も取(とり)なをすやうにせよかし。」

と、いひしかば、

「我わづらひは別儀(べつぎ)にあらず、家主(いへぬし)の妻(さい)、晝夜(ちうや)傍(そば)を離(はな)れず、寐入(ねいら)んとすれば、咽(のんど)をしめ、さまざまにくるしむる也。」

と語りければ、六兵衞、おとろき、

「五十にあまる女の、戀慕(れんぼ)にては、よもあらじ。いか樣、子細有(ある)べし。」

とて、ひそかに事の由(よし)を、喜兵衞に告(つげ)れは、大に肝(きも)を消(けし)、妻をよび、

「かゝる事あり。いかに思ふ事の有(ある)にや。包(つゝま)ず語れ。」

と責(せめ)しかば、妻(さい)、色(いろ)をかへ、

「今は、何をか、隱さん。かの者は、商(あきなひ)よくして、物ごと、利發才覺なり。かれ、此家にありなば、我子(わがこ)は不調法(ぶてうほう)ものなれば、終(つひ)に、あきなひ、仕負(しまけ)、家(いへ)をもとられんと思ふが、口惜(くちをし)さに、『殺(ころ)したし、殺したし』とおもふ一念、かくこそ。」

と云ければ、夫(をつと)、聞(きゝ)、

「それは、以の外の僻(ひが)事かな。はやく、心をあらためよ。六兵衞には、店(たな)を替(かへ)させん。」

と、なだめしかば、

「さもあらば、心を飜(ひるがへ)すべし。」

と云けり。

 そのおもむき、病家(びやうけ)につたへて、店(たな)をかへさせしより、病氣(びやうき)は快(こゝろよく)なり侍りし。

   *

「出居衆」は歴史的仮名遣は「でゐしゆう」或いは「でゐしゆ」が正しく(原題仮名遣は「でいしゅう」「でいしゅ」)、近世語で、武家奉公や商用などの出稼ぎのため、町方で部屋借りをして暮らした者を指す。通常、手代までは、商家に住み込みであって結婚も許されなかったが、六兵衛は番頭格で、店の外の長屋などに住んでいたものであろう。だから、最後の部分で「病家」(病気の甥を自分の私の家で仮に養生させていたのである)と示されるのである。]

小泉八雲 常識 (田部隆次譯)

 

[やぶちゃん注:本篇(原題“ Common Sense ”)は一九〇二(明治三五)年十月にニュー・ヨークのマクミラン社(MACMILLAN COMPANY)刊の“ KOTTŌ ”(来日後の第九作品集)の冒頭に配された“Old Stories”(全九話)の三番目に配されたものである。作品集“ KOTTŌ ”原本は、“Internet Archive”のこちらで全篇視認でき(本篇はここから。但し、これは翌一九〇三年の再版本)、活字化されたものは“Project Gutenberg”のこちらで全篇が読める本篇はここから)。

 底本は上記英文サイト“Internet Archive”のこちらにある画像データをPDFで落し、視認した。これは第一書房が昭和一二(一九三七)年一月に刊行した「家庭版小泉八雲全集」(全十二巻)の第八巻全篇である。★【2025年3月24日底本変更・前注変更】時間を経て、国立国会図書館デジタルコレクションに本登録し、現行では、以上の第一書房版昭和六(一九三一)年一月に刊行した「學生版小泉八雲全集」(全十二巻)の第七巻が、国立国会図書館デジタルコレクションで公開されてある。(リンクは扉だが、「學生版」の文字はない。しかし、奥附を見て貰うと『學生版 【第二囘豫約】』とあり、『昭和六年一月十日 發行』とあることが確認出来る)、これが、前掲の底本と同じものであるが、やはり、外国のサイトのそれを底本とするのは、日本人小泉八雲に失礼であると考えた。されば、こちらで、再度、以下の「骨董」の作品群を改めて校正することとする。これが――私の小泉八雲への「義」――である。なお、之よりも前の元版の全集等が先行しているものの、私がそれらと比べた結果、実は先行する同社の「小泉八雲全集」のそれらは、訳が一部で異なっており、訳者等によって、かなりの補正・追加がされていることが、今回の正字補正作業の中で、はっきりと判って来た。いや、同じ「家庭版」と名打ったネット上の画像データでも、驚いたことに、有意に異なっていたのである。そうした意味でも――完全な仕切り直しの総点検――が必要であると決したものである。従って、旧前振りの括弧・鍵括弧の問題も、拡大とガンマ補正で確認し、正確を期する。新底本の本話はここから。

 挿絵は底本にはないが、原本では各話の前後に同じ絵がサイズを変えて配されてある。“Project Gutenberg”版にある最初に配された大きい方のそれを使用した。挿絵画家は既に述べた通り、佐賀有田の生まれの画家江藤源次郎(えとうげんじろう 慶応三(一八六七)年~大正一三(一九二四)年)である。但し、本底本最後の田部隆次氏の「あとがき」によれば、『マクミランの方でヘルンが送つた墓地の寫眞と「獏」の繪「獏」の繪の外に、當時在英の日本畫家伊藤氏、片岡氏などの繪を多く入れたので、ヘルンは甚だ喜ばなかつたと云はれる』とある。それを考えると、挿絵の多くは、スルーされた方が、小泉八雲の意には叶うと言うべきではあろう。

 田部隆次(たなべりゅうじ 明治八(一八七五)年~昭和三二(一九五七)年)氏については先に電子化した「人形の墓」の私の冒頭注を参照されたい。

 さても、実は前回の「茶碗の中」と全く同様に、実は私は既に本篇を

『柴田宵曲 續妖異博物館 「佛と魔」(その3) 附小泉八雲“ Common Sense ”原文+田部隆次譯』

で、同じ田部隆次氏の訳を電子化し、英語原文の他、原拠である「宇治拾遺物語」の第百四話「獵師、佛を射る事」 も電子化し、そればかりでなく、類型話も渉猟して、かなりマニアックに詳細な注を附してあるので、そちらを是非、参照されたい。しかし、上記リンク先はあくまで柴田のそれへの注の形であること、本篇も「茶碗の中」と同じく私が小泉八雲の怪談の中でも偏愛する一掌篇の一つである(これが私の「宇治拾遺物語」初体験であり、以降、今に至るまで説話集の偏執狂的蒐集癖の濫觴となった)ことから、ここは、煩を厭わず、ゼロから電子化注をし直し、独立したテクストとした。なお、小泉八雲が直接参考にしたものは、正確には「宇治拾遺物語」の抄録物である、東京の椀屋書店が明治二九(一八九五)年に刊行した東宮鉄呂校訂「宇治拾遺物語抄」の下巻の「獵師、佛を射る事」である。]

 

Kotto_006

 

   常 識

 

 昔、京都に近い愛宕山に、默想と讀經に餘念のない高僧があつた。住んでゐた小さい寺は、どの村からも遠く離れてゐた、そんな淋しい處では誰かの世話がなくては日常の生活にも不自由するばかりであつたらうが、信心深い田舍の人々が代る代るきまつて每月米や野菜を持つて來て、この高僧の生活をささへてくれた。

 この善男善女のうちに獵師が一人ゐた、この男はこの山へ獲物をあさりにも度々來た。或日のこと、この獵師がお寺ヘ一袋の米を持つて來た時、僧は云つた。

 『一つお前に話したい事がある。この前會つてから、ここで不思議な事がある。どうして愚僧のやうなものの眼前に、こんな事が現れるのか分らない。しかし、お前の知つての通り、愚僧は年來每日讀經默想をして居るので、今度授かつた事は、その行ひの功德かとも思はれるが、それもたしかではない。しかし、たしかに每晩、普賢菩薩が白象に乘つてこのお寺へお見えになる。……今夜愚僧と一緖に、ここにゐて御覽。その佛樣を拜む事ができる』

 『そんな尊い佛が拜めるとはどれほど有難いことか分りません。喜んで御一諸に拜みます』と獵師は答へた。

 そこで獵師は寺にとどまつた。しかし僧が勤行にいそしんで居る間に、獵師はこれから實現されようと云ふ奇蹟について考へ出した。それからこんな事のあり得べきかどうかについて疑ひ出した。考へるにつれて疑は增すばかりであつた。寺に小僧がゐた、――そこで獵師は小僧に折を見て聞いた。

 『聖人のお話では普賢菩薩は每晩この寺へお見えになるさうだが、あなたも拜んだのですか』獵師は云つた。

 『はい、もう六度、私は恭しく普賢菩薩を拜みました』小僧は答へた。獵師は小僧の言を少しも疑はなかつたが、この答によつて疑は一層增すばかりであつた。小僧は一體何を見たのであらうか、それも今に分るであらう、かう思ひ直して約束の出現の時を熱心に待つてゐた。

 

 眞夜中少し前に、僧は普賢菩薩の見えさせ給ふ用意の時なる事を知らせた。小さいお寺の戶はあけ放たれた。僧は顏を東の方に向けて入口に跪いた。小僧はその左に跪いた、獵師は恭しく僧のうしろに席を取つた。

 九月二十日の夜であつた、――淋しい、暗い、それから風の烈しい夜であつた、三人は長い間普賢菩薩の出現の時を待つてゐた。やうやくのことで東の方に、星のやうな一點の白い光が見えた、それからこの光は素早く近づいて來た――段々大きくなつて來て、山の斜面を殘らず照した。やがてその光は或姿――六本の牙のある雪白の象に乘つた聖い[やぶちゃん注:「きよい」。]菩薩の姿となつた。さうして光り輝ける乘手をのせた象は直ぐお寺の前に着いた、月光の山のやうに、――不可思議にも、ものすごくも、――高く聳えてそこに立つた。

[やぶちゃん注:「九月二十日」原拠のままであるから陰暦で、宵待月に当たる。晴れていれば、午後十時以降に月の出(膨らんだ下弦の月)とはなるが、天気は曇りで風も強く、かなり悪い設定である。原話者はここで妖光が月光の反射等の誤認等と読者が推理する余地を排除していると私は読む。なかなかの手練(てだ)れの作家と見た。

 その時僧と小僧は平伏して異常の熱心をもつて普賢菩薩への讀經を始めた。ところが不意に獵師は二人の背後に立ち上り、手に弓を取つて滿月の如く引きしぼり、光明の普賢菩薩に向つて長い矢をひゆつと射た、すると矢は菩薩の胸に深く、羽根のところまでもつきささつた。

 突然、落雷のやうな音響とともに白い光は消えて、菩薩の姿も見えなくなつた。お寺の前はただ暗い風があるだけであつた。

 『情けない男だ』僧は悔恨絕望の淚とともに叫んだ。『何と云ふお前は極惡非道の人だ。お前は何をしたのだ、何をしてくれたのだ』

 しかし獵師は僧の非難を聞いても何等後悔憤怒の色を表はさなかつた。それから甚だ穩かに云つた。――

 『聖人樣、どうか落ちついて、私の云ふ事を聞いて下さい。あなたは年來の修業と讀經の功德によつて、普賢菩薩を拜む事ができるのだと御考へになりました。それなら佛樣は私やこの小僧には見えず――聖人樣にだけお見えになる筈だと考へます。私は無學な獵師で、私の職業は殺生です、――ものの生命を取る事は、佛樣はお嫌ひです。それでどうして普賢菩薩が拜めませう。佛樣は四方八方どこにでもおいでになる、ただ凡夫は愚痴蒙昧のために拜む事ができないと聞いて居ります。聖人樣は――淨い[やぶちゃん注:「きよい」。]生活をして居られる高僧でいらせられるから――佛を拜めるやうなさとりを開かれませう、しかし生計のために生物[やぶちゃん注:「いきもの」。]を殺すやうなものは、どうして佛樣を拜む力など得られませう。それに私もこの小僧も二人とも聖人樣の御覽になつたとほりのものを見ました。それで聖人樣に申し上げますが、御覽になつたものは普賢菩薩ではなくてあなたをだまして――事によれば、あなたを殺さうとする何か化物に相違ありません。どうか夜の明けるまで我慢して下さい。さうしたら私の云ふ事の間違でない證據を御覽に入れませう』

 日出とともに獵師と僧は、その姿の立つてゐた處を調べて、うすい血の跡を發見した。それからその跡をたどつて數百步離れたうつろに着いた、そこで、獵師の矢に貫かれた大きな狸の死體を見た。

[やぶちゃん注:「うつろ」原文“a hollow”。ここはタヌキであるから、地面の空洞。]

 

 博學にして信心深い人であつたが僧は狸に容易にだまされてゐた。しかし獵師は無學無信心ではあつたが、强い常識を生れながらもつてゐた、この生れながらもつてゐた常識だけで直ちに危險な迷を看破し、かつそれを退治する事ができた。

 

小泉八雲 茶碗の中 (田部隆次譯)

 

[やぶちゃん注:本篇(原題“ The Legend of Yurei-Daki ”)は一九〇二(明治三五)年十月にニュー・ヨークのマクミラン社(MACMILLAN COMPANY)刊の“ KOTTŌ ”(「骨董」。来日後の第九作品集)の冒頭に配された“ Old Stories ”(全九話)の二番目に配されたものである。作品集“ KOTTŌ ”原本は、“Internet Archive”のこちらで全篇視認でき(本篇はここから。但し、これは翌一九〇三年の再版本)、活字化されたものは“Project Gutenberg”のこちらで全篇が読める本篇はここから)。

 底本は上記英文サイト“Internet Archive”のこちらにある画像データをPDFで落し、視認した。これは第一書房が昭和一二(一九三七)年一月に刊行した「家庭版小泉八雲全集」(全十二巻)の第八巻全篇である。★【2025年3月24日底本変更・前注変更】時間を経て、国立国会図書館デジタルコレクションに本登録し、現行では、以上の第一書房版昭和六(一九三一)年一月に刊行した「學生版小泉八雲全集」(全十二巻)の第七巻が、国立国会図書館デジタルコレクションで公開されてある。(リンクは扉だが、「學生版」の文字はない。しかし、奥附を見て貰うと『學生版 【第二囘豫約】』とあり、『昭和六年一月十日 發行』とあることが確認出来る)、これが、前掲の底本と同じものであるが、やはり、外国のサイトのそれを底本とするのは、日本人小泉八雲に失礼であると考えた。されば、こちらで、再度、以下の「骨董」の作品群を改めて校正することとする。これが――私の小泉八雲への「義」――である。なお、之よりも前の元版の全集等が先行しているものの、私がそれらと比べた結果、実は先行する同社の「小泉八雲全集」のそれらは、訳が一部で異なっており、訳者等によって、かなりの補正・追加がされていることが、今回の正字補正作業の中で、はっきりと判って来た。いや、同じ「家庭版」と名打ったネット上の画像データでも、驚いたことに、有意に異なっていたのである。そうした意味でも――完全な仕切り直しの総点検――が必要であると決したものである。従って、旧前振りの括弧・鍵括弧の問題も、拡大とガンマ補正で確認し、正確を期する。新底本の本話はここから。

 傍点「﹅」は太字に代えた。挿絵は底本にはないが、原本では、各話の前後に同じ絵がサイズを変えて配されてある。“Project Gutenberg”版にある最初に配された大きい方のそれを使用した。挿絵画家は既に述べた通り、佐賀有田の生まれの画家江藤源次郎(えとうげんじろう 慶応三(一八六七)年~大正一三(一九二四)年)である。但し、本底本最後の田部隆次氏の「あとがき」によれば、『マクミランの方でヘルンが送つた墓地の寫眞と「獏」の繪「獏」の繪の外に、當時在英の日本畫家伊藤氏、片岡氏などの繪を多く入れたので、ヘルンは甚だ喜ばなかつたと云はれる』とある。それを考えると、挿絵の多くは、スルーされた方が、小泉八雲の意には叶うと言うべきではあろう。

 田部隆次(たなべりゅうじ 明治八(一八七五)年~昭和三二(一九五七)年)氏については先に電子化した「人形の墓」の私の冒頭注を参照されたい。

 なお、本篇については、実は、既に

『柴田宵曲 續妖異博物館 「茶碗の中」 附 小泉八雲「茶碗の中」原文+田部隆次譯』

で、同じ田部隆次氏の訳を電子化し、英語原文の他、原拠である「新著聞集」(しんちょもんじゅう:寛延二(一七四九)年に板行された説話集。日本各地の奇談・珍談・旧事・遺聞を集めた八冊十八篇で全三百七十七話から成る。俳諧師椋梨(むくなし)一雪による説話集「続著聞集」という作品を紀州藩士神谷養勇軒が藩主の命によって再編集したものとされ、私の好む説話集であるが、時に先行する書物からの無批判な引用も多く、それをオリジナルな自説の如く記している部分もあり、批判的読みが必要である)の★「卷五」の「奇怪篇 第十」にある「茶店(さてん)の水椀(すいわん)若年(じやくねん)の靣(をもて)を現(げん)ず」も電子化し、詳細な注も附してある★ので、そちらを是非、参照されたい。しかし、上記リンク先、あくまで柴田のそれへの注の形であること、本篇は、私が小泉八雲の怪談の中でも最も偏愛する一掌篇であることから、ここは、煩を厭わず、ゼロから電子化注をし直し、独立したテクストとした。

 

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   茶碗の中

 

 讀者はどこか古い塔の階段を上つて、眞黑の中をまつたてに上つて行つて、さてその眞黑の眞中に、蜘蛛の巢のかかつた處が終りで外には何もないことを見出したことがありませんか。或は絕壁に沿うて切り開いてある海ぞひの道をたどつて行つて、結局一つ曲るとすぐごつごつした斷崖になつて居ることを見出したことはありませんか。かういふ經驗の感情的價値は――文學上から見れば――その時起された感覺の强さと、その感覺の記憶の鮮かさによつてきまる。

[やぶちゃん注:「まつたてに」「眞縱(真縦)に」(垂直に屹立しているものを登るさま)の意であろう。]

 ところで日本の古い話し本に、今云つた事と殆んど同じ感情的經驗を起させる小說の斷片が、不思議にも殘つて居る。……多分、作者は無精だつたのであらう、或は出版書肆と喧嘩したのであらう、いや事によれば作者はその小さな机から不意に呼ばれて、かへつて來なかつたのであらう、或は又その文章の丁度眞中で死の神が筆を止めさせたのであらう。とにかく何故この話が結末をつけないで、そのままになつて居るのか、誰にも分らない。……私は一つ代表的なのを選ぶ。 

      * 

 天和四年一月一日――卽ち今から二百二十年前――中川佐渡守が年始の𢌞禮に出かけて、江戶本鄕、――白山の茶店に一行とともに立寄つた。一同休んで居る間に、家來の一人――關內と云ふ若黨が餘りに渇きを覺えたので、自分で大きな茶碗に茶を汲んだ。飮まうとする時、不意にその透明な黃色の茶のうちに、自分のでない顏の映つて居るのを認めた。びつくりしてあたりを見𢌞したが誰もゐない。茶の中に映じた顏は髮恰好から見ると若い侍の顏らしかつた、不思議にはつきりして、中々の好男子で、女の顏のやうにやさしかつた。それからそれが生きて居る人の顏である證據には眼や唇は動いてゐた。この不思議なものが現れたのに當惑して、關內は茶を捨てて仔細に茶碗を改めて見た。それは何の模樣もない安物の茶碗であつた。關內は別の茶碗を取つてまた茶を汲んだ、また顏が映つた。關內は新しい茶を命じて茶碗に入れると、――今度は嘲りの微笑をたたへて――もう一度、不思議な顏が現れた。しかし關內は驚かなかつた。『何者だか知らないが、もうそんなものに迷はされはしない』とつぶやきながら――彼は顏も何も一呑みに茶を飮んで出かけた。自分ではなんだか幽靈を一つ呑み込んだやうな氣もしないでもなかつた。

[やぶちゃん注:英文原文では“the third Tenwa”(天和三(一八六三)年)となっていて、「新著聞集」の原典クレジット「天和四年正月四日」を変えてある。田部は原話に従って補正している。小泉八雲が改変した理由は不詳であるが、「天和四年正月四日」はグレゴリオ暦一六八四年二月十九日(第五代将軍徳川綱吉の治世。彼の前期の文治政治による善政「天和の治」は終りを告げ、この年以降、綱吉は大老を置かず、側用人牧野成貞や柳沢吉保らを重用し、老中らを遠ざけるようになった。悪法の批判の多い「生類憐れみの令」の類の最初の町触れは、貞享四(一六八七)年十月十日とされるが、実際には貞享三年以前から同様の政策は開始されていた)であるが、この年は二月二十一日(グレゴリオ暦四月五日)に貞享に改元している。則ち、天和四年は(一月は小)たった五十日しかなかった。簡易の西暦・和暦対照表では通常、天和四年は貞享元年とされてしまうため、八雲は天和四年はない、と誤認したせいかも知れない。

「今から二百二十年前」本書「骨董」の刊行は明治三五(一九〇二)年十月であるから、一六八二年となるが、数えで一を足すと、一六八三年で天和三年と一致する。

「中川佐渡守」豊後岡藩第四代藩主中川久恒(寛永一八(一六四一)年~元禄八(一六九五)年)であるが、ウィキの「中川久恒」によれば、原拠でこの事件があったとされる二年前の天和二年には、『生来』、『病弱だったため』、『弟たちによって藩政が代行されている』とある。

「本鄕の白山」現在の東京都文京区白山(はくさん)。江戸幕府によって開園された「小石川御藥園(こいしかはおやくゑん)」、現在の「小石川植物園」を含む一帯。寺院が多い。ここ(グーグル・マップ・データ)。

「關內」ネット上では平然と「かんない」の読みを振るものが多く見られるが、原拠原典は「せきない」であり、小泉八雲の表記も“Sekinai”である

 

 同じ日の夕方おそく佐渡守の邸內で當番をして居る時、その部屋へ見知らぬ人が、音もさせずに入つて來たので、關內は驚いた。この見知らぬ人は立派な身裝[やぶちゃん注:「みなり」。]の侍であつたが、關內の眞正面に坐つて、この若黨は輕く一禮をして、云つた。

 『式部平內でござる――今日始めてお會ひ申した……貴殿は某[やぶちゃん注:「それがし」。]を見覺えならぬやうでござるな』

 甚だ低いが、銳い聲で云つた。關內は茶碗の中で見て、呑み込んでしまつた氣味の惡い、美しい顏、――例の妖怪を今眼の前に見て驚いた。あの怪異が微笑した通り、この顏も微笑して居る、しかし微笑して居る唇の上の眼の不動の凝視は挑戰であり、同時に又侮辱でもあつた。

 『いや見覺え申さぬ』 關內は怒つて、しかし冷やかに答へた、――『それにしても、どうしてこの邸へ御入りになつたかお聞かせを願ひたい』

 〔封建時代には、諸侯の屋敷は夜晝ともに嚴重にまもられてゐた、それで、警護の武士の方に赦すべからざる怠慢でもない以上、無案內で入る事はできなかつた〕

 『あ〻、某に見覺えなしと仰せられるのですな』その客は皮肉な調子で、少し近よりながら、叫んだ。『いや。某を見覺えがないとは聞えぬ。今朝某に非道な害を御加へになつたではござらぬか……』

 關內は帶の短刀を取つてその男の喉を烈しくついた。しかし少しも手答がない。同時に音もさせずその闖入者は壁の方へ橫に飛んで、そこをぬけて行つた。……壁には退出の何の跡をも殘さなかつた。丁度蠟燭の光が行燈の紙を透るやうにそこを通り過ぎた。

[やぶちゃん注:「式部平內」原拠原典「しきぶへいない」。小泉八雲も“Shikibu Heinai”とする。]

 

 關內がこの事件を報告した時、その話は侍達を驚かし、又當惑させた。その時刻には邸內では入つたものも出たものも見られなかつた、それから佐渡守に仕へて居るもので『式部平內』の名を聞いて居るものもなかつた。

 

 その翌晩、關内は非番であつたので、兩親とともに家にゐた。餘程おそくなつてから、暫時の面談をもとめる來客のある事を、取次がれた。刀を取つて玄關に出た、そこには三人の武裝した人々――明かに侍達――が式臺の前に立つてゐた。三人は恭しく關內に敬禮してから、そのうちの一人が云つた。

 『某等は松岡文吾、土橋久藏、岡村平六と申す式部平內殿の侍でござる。主人が昨夜御訪問いたした節、貴殿は刀で主人をお打ちになつた。怪我が重いから疵の養生に湯治に行かねばならぬ。しかし來月十六日にはお歸りになる、その時にはこの恨みを必ず晴らし申す……』

 それ以上聞くまでもなく、關內は刀をとつてとび出し、客を目がけて前後左右に斬りまくつた。しかし三人は隣りの建物の壁の方へとび、影のやうにその上へ飛び去つて、それから……

[やぶちゃん注:「松岡文吾」原拠原典では「松岡平藏」。原文は“Matsuoka Bungō”。

「土橋久藏」原拠原典では「土橋(つちばし)文藏」と濁音で読みが振られてある。原文は“Tsuchibashi Bungōである。これは田部が原典に則して直したものである。恐らく同じ“Bungō”では曲がないと思ったのであろう。なお、原拠では三人の名は『松岡平藏(まつをかへいざう)・𦊆村(をかむら)平六・土橋(つちばし)久藏』の順で出る(「𦊆」は「岡」の異体字)。]

 

        *

 

 ここで古い物語は切れて居る、話のあとは何人[やぶちゃん注:「なんびと」。]かの頭の中に存在してゐたのだが、それは百年このかた塵に歸して居る。

 私は色々それらしい結末を想像することができるが、西洋の讀者の想像に滿足を與へるやうなのは一つもない。魂を飮んだあとの、もつともらしい結果は、自分で考へて見られるままに任せて置く。

[やぶちゃん注:なお、この関内の様態は、強い幻視を伴う統合失調症、及び、アルコール性慢性中毒症状に於ける、強い幻覚症状のある病態で(後者の場合は、病室の白い壁を、半日、眺めていて、「チャンバラ映画を見ているんだ」と言って、それを詳しく説明する事例を、私は、具体的に知っている)、しかも、この場合、厄介な他虐的傾向の激しいタイプのそれと、極めて、よく一致する。話柄の民俗学的解析よりも、その方が頗る状況を総てに於いて説明可能な、一種、精神医学の教科書的症例の古典的記載の一つとして、私は興味深いものであると考えている。

 

2019/09/04

小泉八雲 作品集「骨董」 (正字正仮名)全電子化注始動 / 幽靈瀧の傳說 (田部隆次譯)

 

[やぶちゃん注:本篇(原題“The Legend of Yurei-Daki”)は一九〇二(明治三五)年十月にニュー・ヨークのマクミラン社(MACMILLAN COMPANY)刊の“KOTTŌ”(来日後の第九作品集)の冒頭に配された“Old Stories”(全九話)の冒頭に配されたものである。作品集“KOTTŌ”原本は、“Internet Archive”のこちらで全篇視認でき(本篇はここから。但し、これは翌一九〇三年の再版本)、活字化されたものは“Project Gutenberg”のこちらで全篇が読める

 底本は英文サイト“Internet Archive”のこちらにある画像データをPDFで落し、視認した。これは第一書房が昭和一二(一九三七)年一月に刊行した「家庭版小泉八雲全集」(全十二巻)の第八巻全篇である。この優れたテクスト・サイトを私はずっと以前から知っていて、頻繁に使わせて戴いていたのであるが、実に迂闊なことに、日本のサイトでは総ては公開されていない小泉八雲の邦文の小泉八雲全集(第一書房の元版全集(全十七巻)の三冊分のみが国立国会図書館デジタルコレクションで、グーグルブックスで八冊(但し、前者の三冊とダブる)がダウン・ロード出来るだけである)が、ここで実は容易に「家庭版小泉八雲全集」の方の全画像で手に入ることを数日前に知り、激しく仰天した。滞りなく、入手を終え、さても、これで小泉八雲の電子化注を心ゆくまで行える準備が整ったとしみじみと感じたのである。なお、底本の一部はハレーションによるものと思われる画像の不具合や、誤植による脱字が疑われる部分が散見されるが、そこは英語原文及び前後或いは訳者の癖からまず間違いないと思われる記号や字を注で添えるか、確実な誤りと断じたものは注した上でで特異的に訂した。文中の傍注記号は底本通りではなく、適切と思われる位置に上付きで示した。なお、これ以降、小泉八雲の上記全集の電子化では、本文内の二重鍵括弧はいいとしても、ポイント落ちの註及び訳者註については、それを拡大して見ると、二重に見えるだけで単なる鍵括弧であることが多く、或いは区別が拡大してもつかないケースが多かった。そこで、向後、私の本全集底本では一貫して、本文では二十鍵括弧かただの鍵括弧は厳密に判定して打つものの、ポイント落ちのそれらは、総てただの鍵括弧で有無を言わさず電子化することとした。そうした益の頗る少ない徒労の作業はこれを避けたいからである。悪しからず。

★【2025年3月24日底本変更】時間を経て、国立国会図書館デジタルコレクションに本登録し、現行では、以上の第一書房版昭和六(一九三一)年一月に刊行した「學生版小泉八雲全集」(全十二巻)の第七巻が、国立国会図書館デジタルコレクションで公開されてある。(リンクは扉だが、「學生版」の文字はない。しかし、奥附を見て貰うと『學生版 【第二囘豫約】』とあり、『昭和六年一月十日 發行』とあることが確認出来る)、これが、前掲の底本と同じものであるが、やはり、外国のサイトのそれを底本とするのは、日本人小泉八雲に失礼であると考えた。されば、こちらで、再度、以下の「骨董」の作品群を改めて校正することとする。これが――私の小泉八雲への「義」――である。なお、之よりも前の元版の全集等が先行しているものの、私がそれらと比べた結果、実は先行する同社の「小泉八雲全集」のそれらは、訳が一部で異なっており、訳者等によって、かなりの補正・追加がされていることが、今回の正字補正作業の中で、はっきりと判って来た。いや、同じ「家庭版」と名打ったネット上の画像データでも、驚いたことに、有意に異なっていたのである。そうした意味でも――完全な仕切り直しの総点検――が必要であると決したものである。従って、旧前振りの括弧・鍵括弧の問題も、拡大とガンマ補正で確認し、正確を期する。

 思えば、私が最初に小泉八雲の子供向けでないそれに本格的に出遇ったのが、十一歳の冬、年上の青年から贈られた角川文庫の田代三千稔(みちとし)氏訳の「怪談・奇談」(小泉八雲の諸作から怪奇談を集めて訳したアンソロジー)でであった(恐らく最初の出会いは小学校二、三年頃で、まさに、この幽霊滝の話と、切り絵の挿絵の入った、しかし、凄絶な「ろくろ首」の子供向けのものであったと記憶する)。さても、まずは作品集「骨董」から、順次、参ろうと存ずる。

 田部隆次(たなべりゅうじ 明治八(一八七五)年~昭和三二(一九五七)年)氏については先に電子化した「人形の墓」の私の冒頭注を参照されたい。

 本底本にあっては最後まで傍点「﹅」は太字に代えた。踊り字「〱」「〲」は原拠も含めて正字化した。「骨董」では、挿絵は底本にはないが、原本では各話の前後に同じ絵がサイズを変えて配されてある。“Project Gutenberg”版にある最初に配された大きい方のそれを使用した(使用許諾有り)。挿絵画家は“Genjiro Yeto”と扉表紙(以下の画像参照)にあり、これは佐賀有田の生まれの画家江藤源次郎(えとうげんじろう 慶応三(一八六七)年~大正一三(一九二四)年)である。彼の事蹟はウィキの「江藤源次郎」を見られたい。但し、本底本最後の田部隆次氏の「あとがき」によれば、『マクミランの方でヘルンが送つた墓地の寫眞と「獏」の繪「獏」の繪の外に、當時在英の日本畫家伊藤氏、片岡氏などの繪を多く入れたので、ヘルンは甚だ喜ばなかつたと云はれる』とある。それを考えると、挿絵の多くは、スルーされた方が、小泉八雲の意には叶うと言うべきではあろう。

 

Kotto-cover

 

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   骨 董

 

 

   雜多な蜘蛛の巢のかかつ

   た日本の珍奇なものども

 

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   サー エドウイン アーノルド ヘ

        親切なる言葉の感謝の記念に

[やぶちゃん注:以上は、底本の「骨董」の部の頭、三ページに亙って、分割されて配された標題・副題・献辞である。なお、使用許諾のある“Project Gutenberg”版にある表紙画像・扉表紙の画像・口絵写真も貼った。副題は扉表紙の標題の副題“BEING JAPANESE CURIOS, WITH SUNDRY COBWEBS”(「さまざまな蜘蛛の巣のかかった日本の骨董的対象品」)であるが、いや、実にさすればこそ“COLLECTED BY LAFCADIO HEARN”が文字通りで如何にも洒落ている。“Lecturer on Literature in the Imperial University of Tōkyō, Japan”は「東京帝國大學文學部講師」である(但し、本書発行の翌年一月に一方的に郵便で解雇通知が送られ、学生らの反対運動も起こって、大学側は延長を打診するが、拒絶した。後任は夏目漱石と上田敏であったが、漱石は学生から激しく嫌われた)。口絵写真は刻まされいる文字からみて、無縁仏を祀る「三界萬靈塔」(さんがいばんれいとう)と思われる(場所不明)。私は本書に添えるに如何にも相応しいものと思う。

「サー エドウイン アーノルド」エドウィン・アーノルド(Edwin Arnold 一八三二年~一九〇四年)はイギリス出身の新聞記者で作家・東洋学者・日本研究家・仏教学者・詩人。ヴィクトリア朝における最高の仏教研究者・東洋学者とされる人物で、明治二二(一八八九)年十一月五日に来日した。ウィキの「エドウィン・アーノルド」によれば、その時、日本の官吏や学者が開いた来日歓迎晩餐会の席上で、彼は「日本は地上で天国或いは極楽に最も近づいている国である」と賞讃し、滞在中は、福澤諭吉が自宅に招いて、慶應義塾(当時は旧制専門学校)に彼を住まわせて援助し、慶應義塾の客員講師として化学及び英訳を担当させている。滞在中、三番目の妻となる三十七年下の黒川玉(たま)と結婚し、明治二四(一八九一)年十一月の帰国の際にはイギリスに連れ帰って、ともに生きた。この来日と離日のクレジットは『駒澤大學佛教學部論集』(第四十四號平成二五(二〇一三)年十月発行)の金沢篤氏の論文「エドウィン・アーノルドと近代日本(1)―和訳と八巻本詩作品集他について―」によった。なお、その論文によれば、アーノルドは翌年の明治二十五年三月にも再来日して、夏まで四ヶ月ほど滞在している。小泉八雲の来日(明治二三(一八九〇)年四月四日)以降で、二人が日本にいたことは事実であるが、実際に逢ったことがあるかどうかは、所在地と時期から見てかなり微妙である。しかし、謂わば、アーノルドは、日本研究にあって、八雲の先駆者的存在であり、八雲が親しかった日本研究家バジル・ホール・チェンバレン(Basil Hall Chamberlain 一八五〇年~一九三五年)とも交流しているから、八雲とも書簡でのやりとりがあったことは確実である。]

 

 

  古い物語

 

       つぎの物語九篇は不思議な信仰の
       說明として、「新著聞集」「百物語」
       「宇洽拾遺物語抄」その他の古い
       日本の書物から選んだもの。ほん
       の骨董である。

 

 

   幽靈瀧の傳說

 

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 伯耆の國、黑坂村の近くに、一條(すぢ)の瀧がある。幽靈瀧と云ふその名の由來を私は知らない。瀧の側に瀧大明神と云ふ氏神の小さい社があつて、社の前に小さい賽錢箱がある。その賽錢箱について物語がある。

 

 今より二十五年前、或冬の寒い晚、黑坂の麻取場に使はれて居る娘や女房達が一日の仕事を終つたあとで爐のまはりに集つて、怪談に興じてゐた。はなしが十餘も出た頃には大槪のものはなんだか薄氣味惡くなつてゐた。その時その氣味惡さの快感を一層高めるつもりで、一人の娘が、『今夜あの幽靈瀧へひとりで行つて見たらどうでせう』と云ひ出した。この思ひつきを聞いて一同は思はずわつと叫んだが、また續いて神經的にどつと笑ひ出した。……そのうちの一人は嘲るやうに、『私は今夜取つた麻をその人に皆上げる』と云つた。『私も上げる』『私も』と云ふ人が續いて出て來た。四番目の人は『皆贊成』と云ひ切つた。……その時安本お勝と云ふ大工の女房が立ち上つた、……この人は二つになる一人息子を暖かさうに包んで、背中に寢かせてゐた。『皆さん、本當に皆さんが今日取つた麻を皆私に下さるなら、私幽靈瀧に行きます』と云つた。その申出は驚きと侮りとを以て迎へられた。しかし、度々くりかへされたので一同本氣になつた。麻取りの人達は、もしお勝が幽靈瀧に行くやうなら其日の分の麻を上げると、銘々くりかへして云つた。『でもお勝さんが本當にそこへ行くかどうか、どうして分ります』と銳い聲で云つたものがあつた。一人のお婆さんが『さあ、それなら賽錢箱をもつて來て貰ひませう、それが何よりの證據になります』と答へた。お勝は『もつて來ます』と云つた。それから眠つたこどもを背負つたままで戶外へ飛び出した。

 その夜は寒かつたが、晴れてゐた。人通りのない往來をお勝は急いだ。身を切るやうな寒さのために往來の戶はかたく閉ざしてあつた。村を離れて、淋しい道を――ピチヤピチヤ――走つた、左右は靜かな一面に氷つた田、這を照らすものは星ばかり。三十分程その道をたどつてから、崖の下へ曲り下つて行く狹い道へ折れた。進むに隨つて路は益〻惡く益〻暗くなつたが、彼女はよく知つてゐた。やがて瀧の鈍いうなりが聞えて來た。もう少し行くと路は廣い谷になつて、そこで鈍いうなりが急に高い叫びになつて居る、さうして彼女の前の一面の暗黑のうちに、瀧が長く、ぼんやり光つて見える。かすかに社と、それから、賽錢箱が見える。彼女は走り寄つて、――それに手をかけた。……

 『おい、お勝』不意に、とどろく水の上で警戒の聲がした。

  お勝は恐怖のためにしびれて――立ちすくんだ。

 『おい、お勝』再びその聲は響いた、――今度はその音調はもつと威嚇的であつた。

 しかしお勝は元來大膽な女であつた。直ちに我にかへつて、賽錢笛を引つさらつて驅け出した。往來へ出るまでは、彼女を恐がらせるものをそれ以上何も見も聞きもしなかつた、そこまで來て足を止めてほつと一息ついた。それから休まず――ピチヤピチヤ――驅け出して、黑坂村について麻取場の戶をはげしくたたいた。

 息をきらして、賽錢箱をもつてお勝が入つて來た時、女房や娘達はどんなに叫んだらう。彼等は息をとめて話を聞いた。幽靈瀧から二度まで名を呼んだ何者かの聲の話をした時に彼等は同情の叫びをあげた。……何と云ふ女だらう。剛膽なお勝さん。……麻を皆上げるだけの直打[やぶちゃん注:「ねうち」。]は充分にある。……「でもお勝さん、さぞ赤ちやんは寒かつたでせう』お婆さんは云つた、『もつと火の側へつれて來ませう』

 『おなかが空いたらうね』母親は云つた『すぐお乳を上げますよ』……『かはいさうにお勝さん』お婆さんはこどもを包んであるはんてんを解く手傳をしながら云つた――『おや、背中がすつかりぬれてゐますよ』それからこの助手(すけて)はしやがれ聲で叫んだ『アラツ、血が

 解いたはんてんの中から床[やぶちゃん注:「ゆか」。]に落ちたものは、血にしみたこどもの着物で、そこから出て居るものは、二本の大層小さな足とそれから二本の大層小さな手――ただそれだけ。

 こどもの頭はもぎ取られてゐた。……

[やぶちゃん注:「新著聞集」(しんちよもんじふ(しんちょもんじゅう))原文は“ Shin-Chomon-Shū ”と現代仮名遣いである。これは、寛延二(一七四九)年に板行された説話集で、日本各地の奇談・珍談・旧事・遺聞を集めた八冊十八篇で全三百七十七話から成る。俳諧師椋梨一雪(むくなしいっせつ 寛永八(一六三一)年~宝永五(一七〇八)・六年頃?)による説話集「續著聞集」という作品を、紀州藩士神谷養勇軒(寛永一五(一六三八)年~享保二(一七一七)年)が、藩主(「吉川弘文館『随筆大成』版の解説では、徳川宗将(むねのぶ)とするが、神谷は既に亡くなってからの藩主就任で、話が合わない。前藩主宗直ではあるまいか?)の命によって再編集したものとされる(以上はウィキの「新著聞集」に拠った)。私の好む説話集であるが、時に、先行する書物からの無批判な引用も多く(引用元を示さない)、それをオリジナルな自説の如く記している部分もあり、批判的な読みが必要な作品ではある。

「百物語」これは単行書ではなく、近世怪談物の内の百物語系怪談集を指示しているものと私には思われる。私は『「諸國百物語」 附やぶちゃん注』正味百話をしっかり持つ近世「百物語」は、実は現存、ただこれ一書のみである)や、カテゴリ「怪奇談集」で「御伽百物語」・「古今百物語評判」・「太平百物語」(全電子化注済み)他、類型の百物語系的怪談集のオリジナル電子化注を、多数、手掛けている。但し、以下の九篇の内、原拠が判っているものでは、「おかめのはなし」のみが、「新撰百物語」(明和三(一七六六)年(推定)に上方の版元吉文字(きちもんじ)屋が板行した新作怪談本)に基づくものでしかないので、今のところは、これは同書を指すと読んでおくべきではあろう。

「宇洽拾遺物語抄」原文は“ Uji-Jūi-Monogatari-Shō ”。「拾遺」を「じゅうい」と読んでいる。日常生活では小泉八雲は「十」の替え字としてその読みの方が一般的であったろう。「富山大学附属図書館所蔵 ヘルン(小泉八雲)文庫目録」を調べたところ、「2115」・「2116」番に「宇治拾遺物語抄」上巻・下巻(東宮鉄呂校訂・東京・椀屋書店・明治二九(一八九五)年刊)があった。これは実際の刊行書で、「宇治拾遺物語」の抄録版であったことが判然とする。

「伯耆の國、黑坂村」「幽靈瀧」鳥取県日野郡日野町黒坂の北約三キロメートル位置にある日野郡日野町(ひのちょう)中菅(なかすげ)に現存する龍王滝(グーグル・マップ・データ。本話の「幽霊滝」として現在も伝承されている)

「瀧大明神」小泉八雲が種本としたものの原作者が後に「瀧神社」の誤りとしている。最後の注を見よ。現在は上記地図に滝山(たきさん)神社というのがあり、まず、それに当たると考えてよかろう。

「今より二十五年前」本書は明治三五(一九〇二)年刊であるから、単純引き算なら、明治五(一八七二)年前となる。以下の原話の『明治の』『初』め『頃』に一致する。

おい、お勝」は二度とも原文では、Oi!  O-Katsu-San! ”と敬称附きである。因みに、素材とした原話(以下に示してある)のそれは、固有の女名ではなしに、他人の女房を呼ぶ際に用いるという「おかッさん」(「おっかさん」の転訛)である。しかし、ここは「言(こと)挙げ」でなくてはならぬ。小泉八雲の通り、「お勝」がよい。

 最後に、講談社学術文庫一九九〇年刊小泉八雲著・平川祐弘編「怪談・奇談」では、本作の原拠を明治三四(一九〇一)年八月一日発行の『文藝倶樂部』(第七巻第十一号)の「諸國奇談」十九篇中の一つで、松江在の平垣霜月(ひらがきそうげつ)の書いた「幽靈瀧」であるとする。以下に漢字を概ね正字化して示す。総ルビであるが、パラルビとした。一部に句読点を〔 〕で追加し(句点は最後のそれを除いて一切ない)、シークエンスを考えて恣意的に改行して段落を施した。【2025年3月24日追記】国立国会図書館デジタルコレクションのこちらで、新字旧仮名で載るのを見出せたので、それと校合した。

   *

      幽靈瀧   松江  平垣霜月

 出雲の隣國の伯耆に黑坂と云ふ町がある、

 此黑坂町(くろさかまち)は我が住むで居る松江から恰度廿里程有つて〔、〕餘り賑やかな町ではない、

 此町はづれに一條の瀧が有る、此瀧は昔から幽靈が出ると言傳へて有る、此瀧の側に瀧大明神(たきだいみやうじん)と云ふ社(やしろ)が有る、此瀧大明神には二歲(ふたつ)に成る幼兒(こども)は連れて參る事が出來ないのである、

 夫れには少々(すこし)由來があることで〔、〕其(それ)を探ねると〔、〕

 明治の初頃(はじめ)⦅年は確(しか)と分らず、⦆此黑坂町に麻取場(あさとりば)があつて〔、〕其處へは下賤の娘や女房達が麻取りに行くので有る〔。〕

 或冬の夜〔、〕寒いものだから皆〔、〕休息しようと云ふので〔、〕爐の(ろ)周(まはり)に集(よ)つて浮世話をして居つたところが〔、〕中の一人の女が云ふには〔、〕

『今夜〔、〕あの幽靈瀧へ行つて〔、〕大明神樣の賽錢箱を取つて來た者には〔、〕私等が取つた麻を皆(みんな)與(やら)うじやないか』

と退屈まぎれに言ふと〔、〕皆の者が贊成した。

 他(ほか)の者が取つた麻を皆もらふのだから誰も欲しいが〔、〕さて〔、〕幽靈瀧へ行(ゆ)く事が恐ろしいから〔、〕行く者がない〔、〕

 中(なか)から〔、〕大工の女房が〔、〕

『それじや〔、〕私(わた)しが行(ゆ)こう』

と云つて〔、〕其年に二歲(ふたつ)になる男の子を背負つて出掛けた〔。〕

 後に殘つた者は彼(か)の女の慾よりは〔、〕むしろ〔、〕其剛膽(がうたん)に驚いた、

 やがて〔、〕かの大工の女房は〔、〕町はづれの幽靈瀧の上にある瀧大明神さんへ參つて〔、〕さい錢箱も取つて歸らうとした時に〔、〕其幽靈瀧の中から〔、〕

『ヲイ〔、〕おかッさん⦅他人の女房の方言⦆おかッサン』

と呼んだ〔。〕

 何程(いくら)剛膽な女と雖も〔、〕少しは恐れた樣子にて〔、〕一生懸命にサイ錢箱をかゝへて〔、〕麻取場を向けて走り歸つた處が〔、〕誰(たれ)もが〔、〕其(その)安全なのに驚いた、

 爐に松葉をくべて居(を)つた一人の老婆(おばあさん)が〔、〕

『おかつさん〔、〕小供が泣きやせなんだかへ〔、〕ちと〔、〕下(をろ[やぶちゃん注:ママ。])してやらつしやい』

と言ふてくれるので〔、〕其背負(をぶ[やぶちゃん注:ママ。])つて居ッた子を下して見ると、大變、大變、此子供の首(くび)は失(なく)なつて居(を)ッた、首の無い體(からだ)だから〔、〕其恐しさと云ふものは一通りではない、翌朝(よくてう)になつて〔、〕瀧へ若者等(ら)が行つて見たけれど〔、〕何(な)にもなかつた〔、〕と云ふ話。

   *

なお、同「怪談・奇談」の解説で、布村(ぬのむら)弘氏は後に、二ヶ月後の同誌に、「『余が投稿せし幽霊滝の中』、『黒坂の里程二十里とあるが』、『十二里の誤り』、『又、大滝明神と有るは滝神社の誤りなり」と訂正している』とある。「十二里」は四十八・六キロメートル、松江からここまで直線でも四十三・四八キロメートルある。地方の神社名は、時に、明治の時に限らず、呼称に変化が起こるので問題ない。

 因みに、私は別に、延宝五(一六七七)年四月に刊行された、全五巻で各巻二十話からなる、著者・編者ともに不詳の「諸國百物語卷之三 二十 賭づくをして我が子の首を切られし事」(リンク先は私の電子化注)こそが、本話のルーツであると考えている人間である。

 最後に、一九七八年恒文社刊「小泉八雲」の八雲の妻小泉セツ(明治二四(一八九一)年~明治三七(一九〇四)年:小泉八雲より十八歳下)さんの「思い出の記」から引用する。

   *

 話が面白いとなると、いつも非常に真面目にあらたまるのでございます。顔の色が変りまして眼が鋭く恐ろしくなります。その様子の変り方が中々ひどいのです。たとえばあの『骨董』の初めにある幽霊滝のお勝さんの話の時なども、私はいつものように話して参りますうちに顔の色が青くなって眼をすえて居るのでございます。いつもこんなですけれども、私はこの時にふと恐ろしくなりました。私の話がすみますと、始めてほっと息をつきまして、大変面白いと申します。「アラッ、血が」あれを何度も何度もくりかえさせました。どんな風をしていってたでしょう。その声はどんなでしょう。履物の音は何とあなたに響きますか。その夜はどんなでしたろう。私はこう思います、あなたはどうです、などと本に全くない事まで、色々と相談致します。二人の様子を外から見ましたら、全く発狂者のようでしたろうと思われます。

   *]

2019/09/03

小泉八雲 夢魔觸 (岡田哲藏譯)

 

[やぶちゃん注:本篇(原題は“ NIGHTMARE-TOUCH ”(「夢魔の接触」)は一九〇〇(明治三三)年七月にボストンの「リトル・ブラウン社」(LITTLE,BROWN AND COMPANY)から出版された作品集“ SHADOWINGS ”(名詞「shadowing」には「影」以外には「人影」・「影法師」・「影を附けること」・「尾行」などの意味がある。本作品集の訳は概ね「影」が多いが、平井呈一氏は「明暗」と訳しておられ、私も漠然とした「影」よりも、作品群の持つ感性上の印象としてのグラデーションから「明暗」の方が相応しいと思う。来日後の第七作品集)の第一パート“ STORIES FROM STRANGE BOOKS ”・第二パート“ JAPANESE STUDIES ”(「日本に就いての研究」)の次の最終第三パート“ FANTASIES ”の第五話目に配された作品である。本作品集は“Internet Archive”のこちら(出版社及びクレジットの入った扉表紙を示した)で全篇視認できる(本篇はここから)。活字化されたものは“Project Gutenberg”のこちらで全篇が読める(本篇はここから)。

【2025年3月23日変更】以下の旧底本は、一部に複数の疑問点・問題点があることが判明したため、底本を国立国会図書館デジタルコレクションの「小泉八雲全集」第六巻(大正一五(一九二六)年十一月第一書房刊)の岡田哲藏氏の訳に変え、再校訂した。私は同巻を所持していないが、「グーグルブックス」の無料の電子書籍のこちらをPDFでダウン・ロードし、その本文「381」ページ以降の「夢魔觸」(「むまぶれ」と読んでおく。本文に単独で出る「觸」も「シヨク」ではなく、私は「ふれ」と読みたい)を視認した。しかし、この訳名は、見慣れず、佶屈聱牙にして、私は好かない。平井呈一氏は「夢魔の感触」とされ、大いに惹かれる訳となっている。

 訳者岡田哲藏(明治二(一八六九)年~昭和二〇(一九四五)年:パブリック・ドメイン)は英文学者。現在の千葉県佐倉市出身、東京帝国大学文科大学哲学科選科卒。通訳官として明治三七(一九〇四)年の日露戦争に従軍、その後。陸軍大学校教官・青山学院・早稲田大学講師などを務めた。英詩文をよくし、最初の「万葉集」の英訳として有名な“Three Handred Manyo Poems”などの著書がある(以上は日外アソシエーツ「20世紀日本人名事典」に拠った)。

 原題にある“nightmare”(ナイトメア)は「悪夢」・「悪夢のような出来事・不快な人(物)」・「恐怖感」の他に、「夢魔」、昔、睡眠中の人を襲ったり、窒息させると信じられた想像上の魔物(睡眠中の女性を犯すとされる性魔を“incubus”(インキュバス/インクブス)、男性を犯すそれを“succubus”(サッキュバス/スクブス)と呼ぶ)」の意があり、私は「ナイトメア」というと、この最後の性魔を想起するのを常とするし、ここでも小泉八雲を襲っている物の怪には、そうしたニュアンスを深層心理的(特に進化論的夢生成の解釈)・精神分析学的(特に前記とも親和性のすこぶる強いユングの言う――そしてそれは――太古からの記憶が遺伝子に組み入れられて働くところの――「集合的無意識説」的ニュアンスである。特に最後に語っているのは、まさに、それなのだ! 私は、「それ」を強く嗅ぎつけている! しかし! なんと! ユングが「集合的無意識」を唱えるのは――実に――本書の刊行より十年ほど後のことなのである!!!

 傍点「﹅」は太字に代えた。今回は註位置を守り、その代り、ブラウザの不具合を考えて、早めに改行を施してある。註はポイント落ちだが、以上の仕儀で本文と紛れる心配がないので、本文と同ポイントで示した。但し、ブラウザでの不具合を考え、注の一行を非常に短くしておいた。一部に歴史的仮名遣の誤りや活用形のおかしな部分があるが、今回は五月蠅くなるだけなので、ママ注記を附さなかった。なお、リーダが六点と三点で混在しているのもママで、無論、原本にこのようなドット数の変化なく、これは訳者岡田氏の癖であるようだ。

 それにしても、小泉八雲自身の実際の幼少期の心霊体験の実録であるこれは、一抹もホラーの作為を感じさせない、孤独なメンタルなハラスメントを受けてトラウマを持った少年パトリック・ラフカディオ・ハーン(Patrick Lafcadio Hearn)へ、真摯にして哀愁に満ちた自身が捧げた「詩賦」のように思えてならない。しかも、彼の夢魔解析には、当時の、そうして現代の日本の霊異譚に対する、非科学的にして恣意的で半ば以上が単なる思いつきの類いに等しい似非民俗学的考察のそれが微塵も影響を与えていない――進化論的な民族の恐怖の記憶の遺伝(伝承)――を仮説している点で、非常に貴重な一篇と言える。いや! 何よりこれは――恐るべき、噂話でも都市伝説でも、売らんかなの有象無象の確信犯の似非作家の垂れ流す創作――でもない――作者自身による作者自身が体験した――しかも、それが、小泉八雲という人格に決定的に作用することとなった――正真正銘の怪奇体験の稀有の実録――でもあるのである。【2019年11月1日:追記】注を大幅に改稿・追加した。

 

 

   夢 魔 觸

 

        

 幽靈を信ずる人達のうちに存する幽靈の恐怖は何か?

 すべて恐怖は經驗の結果、――卽ち各人又は種族の經驗、――現在の生命か、または忘られた多くの生命の經驗の結果である。知られざるものの恐怖とても此外に起原がある筈が無い。そして幽靈の恐怖は過去の苦痛の產物で無ければならぬ。

 思ふに幽靈の恐怖も、幽靈の信仰と共に、夢から起こつたものらしい。それは獨得の恐怖で、他にそれほど强烈な恐怖なく、またそれほど漠然たるものもない。かく容積の大きくて暗い感情は槪ね超個人的のものである――卽ち遺傳された感情――死者の經驗によつて我々のうちに作らる〻感情。

 何の經驗?

 何故に幽靈が恐ろしいか、その理由を明白に記述したものを私は讀んだ覺えが無い。幽靈を恐れた記憶ある知人のうち、何れの有識者なりと十人を選んで、何故に恐ろしかつたかと問ひ、恐怖の裏面の空想を定義せんことを求めて見よ、唯だ一人でもよくその問に答ふるものあるや疑はしい。民俗學の文書や傳說はこの問題に何等の光明を投ぜぬ。もとより化物に引き裂かれた人の種々の談などもあるが、か〻る粗大な想像で幽靈の恐怖の特質を說明し得ぬ。それは身體に及ぼす暴行の恐れでは無い。それは理由ある恐れでさへ無い、容易く說明さるべき恐れでない、――もしそれが身體の危險の明白なる觀念に原因するものならば、その說明の出來ぬ筈は無い。その上に、原始的の幽靈は裂いたり喰つたりするものと想像され得るとしても、幽靈に關する一般の觀念は慥にそれが觸れられぬ、そして殆ど重量の無いものとなつて居る。

 

    註 こゝに注意すべきは多くの古い
    日本の物語や歌に、幽靈が人の首を
    引き拔く力を有つて居るとしてある
    ことである。然し幽靈の恐怖の起原
    に關する限りに於て、かゝる談は何
    物をも說明せぬ、――何故なれば恐
    怖を起こし來たつた經驗は想像的の
    ものでなくて、眞實のものでなけれ
    ばならぬから。

[やぶちゃん注:因みに、私は「首を引き抜く怨霊」の例を、幾らでも、挙げることが出来る。私のブログ・カテゴリ「怪奇談集」にも数多く登場する。今、それを掲げる気は毛頭ない。そもそもが、小泉八雲自身に、その凄絶な一篇があるからである。“ A Japanese Miscellany ”(「日本雑録」:明治三四(一九〇一)年刊)に載るOF A PROMISE BROKEN”(私のサイト版原文)が何よりも凄愴なそれだからである。「小泉八雲 破約(田部隆次訳)」の他、私のサイト版の私の古い電子化である「破られし約束」・小泉八雲原作・藪野直史現代語訳(別に縦書版も作製してある)もあるので、お読みあれかし!

 

 こ〻に大膽に私は幽靈の共通的恐怖は幽靈に觸れられる恐れであると稱へて見る。別の言[やぶちゃん注:「いひ」と訓じておく。]では、想像せられた超自然者は主として、それが觸れる力ありと想像さる〻故に恐れられるのであるといふのである。念を押しておくが、觸れるだけである、殺傷するので無い。

 然しこのの恐れそれ自らも經驗の結果であらう、それは私は思ふに、子供の暗[やぶちゃん注:原文“darkness”。「やみ」と訓じておく。]を恐れると等しく、遺傳によつて個人の上に積まれた出生前の經驗の結果であらう。それで誰れが、嘗て幽靈に觸れられた感覺を持ち得たらうかと問はれるならば、答へは簡單てある、――夢に幻影に捉へられたものは誰れでも然りと。

[やぶちゃん注:最終のダッシュ以下の句の「然り」の「り」には傍点がないが、おかしいので、太字とした。]

 原始的恐怖、卽ち人類よりも古き恐怖の要素は疑ひも無く子供の暗の恐怖のうちに入つて居る。然しもつと明確な幽靈の恐怖は夢の苦痛の遺傳的結果から、卽ち夢魔の昔の經驗から成ることは誤り無い樣である。そして超自然的觸の直覺的恐怖はかくして進化論的に說明が出來る。

 

 これより若干の模範的經驗を談つて[やぶちゃん注:「かたつて」。]私の理論の說明を試みやう。

 

        

  凡そ五歲の頃、私は罰として或る孤立の室[やぶちゃん注:「へや」と訓じておく。]に獨りで眠らせられた、その後この室を坊やの部屋と呼んだ。(其共頃私は殆ど名を呼ばれずに、ただ坊やといはれて居た)その室は狹いが餘程高く、一つの丈高い窓があつたが甚だ暗かつた。そこに爐があつたが火を燃やしたことは無い、それで坊やは煙突に魔がさして居るのかと思つた。

[やぶちゃん注:ウィキの「小泉八雲」から引いておくと、一八五〇年、当時イギリス保護領(現在はギリシャ)であったレフカダ島で生まれた小泉八雲(当時はパトリック・ラフカディオ・ハーン Patrick Lafcadio Hearn。「ラフカディオ」が一般的にファースト・ネームのようにして知られているが、実際はミドル・ネームである。アイルランドの守護聖人聖パトリックにちなんだファースト・ネームは、ハーン自身がキリスト教嫌いであったことから、この名は敢えて使用しなかったとされている)は、翌年、『父の西インド転属のため、この年末より』、『母と通訳代わりの女中に伴われ、父の実家へ向かうべく出立。途中パリを経て』一八五二年八月、『両親とともに父の家があるダブリンに到着』し、ここに『移住し、幼少時代を同地で過ご』した。父チャールス・ブッシュ・ハーン(Charles Bush Hearnn 一八一八年~一八六六年:アイルランド人で英国陸軍軍医補)が『西インドに赴任中の』一八五四年(彼は僅か四歳であった)、『精神を病んだ母』ローザ・カシマティ(Rosa Antonia Cassimati 一八二三年~一八八二年)『がギリシアへ帰国し、間もなく離婚が成立。以後、ハーンは両親にはほとんど会うことなく、父方の大叔母サラ・ブレナン』Sarah Brenane『に厳格なカトリック文化の中で育てられた。この経験が原因で、少年時代のハーンはキリスト教嫌いになり、ケルト原教のドルイド教に傾倒するようになった』。その後、『フランスやイギリスのダラム大学の教育を受けた後』、一八六九年にアメリカに渡り、『得意のフランス語を活かし』、二十『代前半からジャーナリストとして頭角を』現わし『始め、文芸評論から事件報道まで』、『広範な著述で好評を博』した。その後、各地を遍歴、一八九〇年(明治二十三年)に来日することとなったのである。]

 坊やは暗を恐れるとの理由だけで、夜その室に燈を置かぬことに定められた。彼の暗の恐れは嚴重な手術を要する精神上の疾患と判斷された。然し手術は却て疾患を增した。以前には私は燈の明かるい室で、乳母に世話されて眠る習慣であつた。それが暗の中に獨りで寢る宣告を受けて恐ろしくて死ぬかと思つた。そして非常に殘酷だとその時思つたのは、家中の最も忌まはしい、その私の室に實に閉めこまれて[やぶちゃん注:「とぢめこまれて」。]錠をおろされたことであつた。每晚私は溫かに牀に就かせられてランプは持ち去られ鍵の音たてて錠はおろされ、そして保護の燈火も保護者の跫音も共に退き去つた。すると恐怖の苦痛は私を襲ふて來た。暗い空中に何物かが集つて、それが大きくなる樣で――(その大きくなる音が聞こえさへすると私は思つた)――遂に私は叫び出した。叫ぶと屹度罰が來る、然しその時燈も來るので、それが罰以上に慰[やぶちゃん注:「なぐさめ」。]であつた。此事が遂に判かつたので、坊やが叫んでも何等構ふなといふ命令が發せられた。

 

 何故私は狂ふばかりに恐ろしかつたか、一面には私は暗にはいつも恐ろしい物の形が充ちて居ると思つたからである。跡に戾り得る限りの記憶をたどると、私は嫌な夢に惱んだ、そして夢が醒めると、私はいつも夢に見た物の形が室の影に潜んで居るのが見えると思つた。此等の形はぢきに消えた、然し數分間は手で觸れられる實在の樣に見えた。しかもそれ等はいつも同じ姿であつた。……時には先づ夢を見ることもなくして、私は黃昏時にその姿を見た、それが室から室へと私に附き纏ひ、または階上にゆくに連れて奧深い階級の中間からずつと長い黑い手を私の方に差し出した。

 私がこの執念の姿に就て苦情を云ふと、決してそれ等に談しかけてはならぬこと、またそれ等は存在しては居らぬのだといふことを聞かさる〻ばかりであつた。私は家中の皆に苦情を云つた。すると家中の皆が同じことを私に云つた。然し私の目の證據があつた。その證據を否定するには唯だ二の方法があるばかり、卽ち物の姿は大人を恐れて、私が幼弱であるので私にのみ現はれたのか、または全家の者が何か嫌な理由で一致して、私に眞實でないことを云ふのか、何れかでなければならぬ。この第二の考への方が私にはさもありさうに思はれた、何故なれば私は誰れも傍に居らぬ時に度々物の姿を見た、――それで後に祕密を裝ふて居ることが、幻覺そのものが驚かしたに劣らず、私を驚かした。何故私は軋る階段の上や、搖らぐカアテンの後ろで、見たり、聞いたりさへしたことを談つてはならないのだらう?

 「何も御前を痛めはしない」――この無慈悲な答を私が夜獨りで居ない樣に訴へる度每に聞かされた。然し執念の姿は實に私を痛めた。唯だ、私が眠つてしまつて彼等の力に身を委ぬる迄待つてからさうした、何となれば彼等は私を起きたり動いたり叫んだりさせぬ不思議な手段を有つて居たから。

 私獨りを黑い室の中に此等の恐怖と共に閉ぢ込める策に就ては註解するの要は無い。私はその室で云ふにいはれぬ苦悶をした――數年間。それ故終に[やぶちゃん注:「つひに」。]子供の寄宿學校へやられた時比較的に幸を覺えた、そこには執念の姿が出てくることは極めて稀であつた。

 

 彼等は私の今迄見た誰れとも似て居らぬ。彼等は影の樣な黑衣の姿で、途方もなく自己の體を歪めることが出來、例へば天井迄延び上り更にそれを橫切り、それから反對側の壁に沿ひて身を長くして頭を下にする。彼等の顏のみが判然として居るが、私はその顏を眺め樣としなかつた。私は唯だ私の夢のうちに、自分の指で眼瞼を引張つて目を覺まして、それで彼等を見なくなる樣にしようとした、またはさうする積りだと思つた、然し眼瞼は封印された樣に閉ぢて開かなかつた。……多年の後、私がはじめて見た、オルフィラ譯者註の「墳墓發掘誌」といふ書の中の揷畫が子供の時の夢の恐怖を惱ましい思ひで再び考へさせた。然し子供の經驗を了解するにはオルフィラの畫をずつと生かして想像し、それが斷えず延びたり歪んだりして、何か怪異な畸形を呈して居ると思はねばならぬ。 

    譚者註 オルフィラはMatthieu Joseph
     Bonaventure Orfia1787――1583
    といひ、フランスの醫者及び化學者にて
    毒藥學、法醫學の名著などありといふ。

[やぶちゃん注:この岡田氏の訳注は、かなり、誤りや問題がある。まず、彼の名の綴りは“Mateu Josep Bonaventura Orfila i Rotger”(カタルーニャ語:マテウ・ジョセップ・ボナベンチュラ・オルフィラ・イ・ロトガー/英語名でも“Mathieu Joseph Bonaventure Orfila”で、やはり、この綴りと異なる)が原表記であり、彼はもとスペイン生まれのスペイン人で、後の一八一八年にフランスに帰化したのである。言わずがなだが、没年も一八五三年の誤り(誤植であろう)である。彼は当時、毒殺事件に頻繁に用いられた砒素(Arsenic)の分析法を飛躍的に向上させ、所謂、法医学上の毒物検出同定法の基礎を作った人物である。

Traité des Exhumés」オルフィラが一八三〇年に発表した“Traité des exhumations juridiques”(原本をフランス語サイトのこちらで視認した。平井呈一氏は『墳墓発掘志』だが、これは「法(医)学的な遺体発掘に関する論考」ほどの意味であろうと私は推測する)。恐らく、小泉八雲が見たのは、同書の巻末に添えられたミイラ状に変質した遺体描画である。小泉八雲の気持ちになってご覧あれ!!!

 

 然し其等の夢魔の顏を見ることのみが坊やの部屋の最惡の經驗では無かつた。夢はいつもの疑念からはじまつた、卽ち空中に何か重いものが有る感覺、――それが徐ろに意志を抑へて、――徐ろに私の動く力を萎微[やぶちゃん注:「ゐび」。「萎縮」に同じい。]させる。か〻る時に私は通常、燈の無いの大きな室に獨り居た、そしてはじめの恐怖感覺と殆ど同時に、室の空氣が、天井への央ば[やぶちゃん注:「なかば」。]まで、微かに物が見えるほどの暗黃色の光に充たされる、ただし天井はまだ眞暗である。これは光の眞相ではなくて、寧ろ黑い空氣が下から變色しつ〻あると見えた。…暴風雨の晚に入日の或る恐ろしい光景が、これと似たる氣味惡るき色の効果を呈す事がある。…直ぐと私は逃げようとする、(一步每に徒涉する樣な感じをして)そして時には室を過(よぎ)つて半途迄踠き[やぶちゃん注:「もがき」。]行くだけは出來る、――然しそこで立往生させられる、何か名狀し難い抵抗に麻痺させられる。次の室には樂しさうな聲が聞こえる――戶の上の欄間を漏れる光を見る、戶まで行き着かうとするけれど適はぬ、――そして私が一聲高く叫べば救はれるのだと思つて居た。然し狂ふ許りに努力しても囁きより高い聲が出ない……そしてこれ等一切の事は無名のものが來ることを意味するのみ、それが近づく、階段を上る。跫音が聞こえる、――包み太鼓の音の樣に陰に[やぶちゃん注:「いんに」。]響く、――何故外の人には聞こえぬか不思議だ。執念の者が來るに長い、長い時がかかる、――氣味惡るい足踏みの一つ一つ每に意地惡るさうに立ち停まる。それから、軌る音も無く、錠をおろした室の戶が開く、――遲く、遲く、――そして其物が入つて來る、音無く喋る、――それから手を差し出す――私を摑む――私を黑い天井に投げ上げる――落ちて來る私を捕へてまた投げ上げる、又も、又も。…か〻る瞬間の感情は恐怖でない、恐怖其ものは最初に摑まれたとき感覺を喪つてしまつた。それは語に名の無い[やぶちゃん注:「ことばになのない」と訓じておく。「人間の言葉では名状し得る言葉が存在しない」の意。]感覺であつた。觸れられる每に苦痛よりは無限に惡るい或る物の激動を伴なふた、――それは私の内面祕密の存在に戰慄を與へるものであつた、――忌まはしい電氣の一種で感性の全くよく知られぬ部分にいまだ想像されなかつた苦しみを受くる力を發見したのだ。……これは通常私を苦しめるものが一人であるときの業[やぶちゃん注:「わざ」。]であつた、私は又一群のものに捕へられて、殆ど數十分間も、其一人から一人へと投げ渡された事を覺えて居る。

[やぶちゃん注:「暴風雨の晚に入日の或る恐ろしい光景が、これと似たる氣味惡るき色の効果を呈す事がある。」意味は、概ね、想像はつくものの、日本語としてこなれておらず、正直、悪訳である。原文は“Certain terrible aspects of sunset, on the eve of storm, offer like effects of sinister color....”で、小泉八雲は――「それはちょうど、明日はすぐに嵐がやってくるという前日の夕方の、異様な静けさ、ある種、名状し難い不吉なもの凄さを感じさせるところの、不思議に綺麗過ぎる夕焼けの空の色が、恐ろしい一面を持っているように……」――と言っているのだと判る。所持する平井呈一氏の訳(一九七五年恒文社刊「日本雑記 他」所収の「明暗」(作品集“ SHADOWINGS の訳)の「夢魔の感触」)では、『‥‥嵐がやってくるという前の晩などに、よく凄いような夕焼空が、これと同じような不気味な色彩効果をもたらすことがあるが‥‥』と訳されてある。

「包み太鼓」原文“a muffled drum”。音を殺した、くぐもったドラムの音。皮を何かで覆ったような太鼓の鈍い音。]

 

         

 か〻る姿の想像は何から起こつたか。私は知らぬ。多分最も幼い時の恐れの印象から來たれるかとも思ふ、また私の生とは別の生の恐怖の或る經驗から來たれるかと考ふ。その神祕は永遠に解かれぬ。然し觸を恐る〻神祕は一定の假說をゆるす。

 第一に私は、感覺そのものの經驗が「唯だの想像」だとして度外視されぬことに注意することを許されたい。想像は頭腦の活動を意味する、その快苦は共に神經の作用から分離し得ぬ、そしてその身體的重要性はその生理的努力によつて十分證明される。夢の恐怖は他の恐怖の如く、人を殺すこともある、それ程に强い感情を硏究の價無しと考ふるは無理である。

 この問題に於て考へらるべき一の著しき事實は、夢中に捕へらる〻感覺は通常の覺醒生活に於て慣れた一切の感覺と全然異るといふ事である。何故に此差[やぶちゃん注:「このさ」。]あるか。戰慄の非常な重々しいことと深いこととを如何に說明するか。

 私は既に、夢みる者の恐怖は多分關係的經驗の反影では無くて、祖先以來の夢の恐怖の數へ切れぬ總數を代表するものであることを暗示しておいた。若し活動的生活の經驗の總量が遺傳するものならば、睡眠の生活の經驗の總量もまた傳はらねばならぬ。そして正規の遺傳に於てこの兩者の遺傳の各種は別々に殘るらしい。

 さて、この假說を許すとして、夢に捕へらる〻感覺は夢の意識の最初の段階にその起原を有したのであらう、――それは人間の世に生まれしよりずつと以前であつたらう。思考と恐怖とをなし得る最初の動物は、その自然の敵に捕へられたことを度々夢みたに相違無い。これ等の原始的の夢には多くの苦痛の想像は有り得なかつた。然し其後の動物に於ける神經の高等なる發展は夢の苦痛をもつと大いに感受する樣になしたらう。更に後になると、理性の發達と共に超自然の觀念が夢の恐れの性質を變化し、且つ之を强めたであらう。更に進化の一切の過程を通じて、遺傳はか〻る感情の經驗を集積したであらう。宗敎的信念の反動を通じて發展した想像的苦痛の、これ等の形式の下に野蠻なる原始的恐怖が朧げに存續を固執したらう、そしてまた、この下に、もつと朧な、然し比較にならぬ程に深い昔の動物恐怖の深層が存續したのであらう。現代の子供の夢には此等の潜在が盡く刺戟を與へる、――層の下に他の層ありて、――測りがたく――夢魔の襲來とその生長と共に。

 或る特殊の夢魔の幻影は、それがその中に動く頭腦よりも古き歷史を有すといふことは或は疑はるかも知れぬ。然し觸の恐れは、影の如き捕捉に關する全人類の經驗と夢中に接觸するる點を示すと思はれる。自我の深奧――太陽の生命からの光がいまだ達せぬ深淵――は不思議に眠の中に攪き亂されるのかも知れぬ、そしてその暗黑の中より、百萬の年を以てすら數へがたき記憶の振動が直接に之に應答するのであらう。


2019/09/02

小泉八雲 蟬 (大谷正信譯) 全四章~その「三」・「四」 / 蟬~全電子化注 完遂

 

        

 蟬に關する日本の詩歌は極めて短いのが普通である。そして自分の蒐集は主として――十七綴音の作品たる――ホツクから成つて居る。此の發句の多數は、蟬の聲に――否、寧ろその聲が詩人の心裏に產出した感じに――關して居る。次記の例に附けてある人名は、殆ど皆昔の詩人の名で――言ふ迄も無く實名では無くて、號卽ち通例それで美術家文學者が世人に知られて居る文學上の名で――ある。

 

 發句の作者として著名な、十八世紀の日本の詩人橫井也有は、蟬を聽いた夏秋の感情の、こんな天眞な記錄を我々へ殘して居る。――

『三伏の日ざかりの暑さにたへがたくて

  蟬あつし松きらばやと思ふまで 

と口ずさびし日數も程なく立ちかはりてやゝ秋風に其聲のへり行く程さすが哀におもひかへりて

  死にのこれ一つばかりは秋の蟬』

[やぶちゃん注:以上は「二」で既注の横井也有の「鶉衣」の「続編 下」にある「蟬引(せみのいん)」(「引」は漢文の書式格の一つで「序」の短いものを言う)である。以下に示す。底本には国立国会図書館デジタルコレクションの明治四四(一九一一)年光風館刊の「鶉衣」を用いた。当該項はここである。底本はルビなしであるが、一部で先の堀切実氏の岩波文庫校注本で読みを添えた。なお、句の後に有意に大きな句点があるが、除去した。

   *

三伏(さんぷく)の日ざかりの暑さに堪えがたくて、

   蟬あつし松きらばやとおもふまで

と口すさびし日數(ひかず)も、程なく立ちかはりて、やや秋風に其聲のへり行く程、流石(さすが)にあはれに思ひかへして、

   死(しに)のこれ一つばかりは秋の蟬

   *

「三伏」(さんぷく)夏の最も暑い時期。夏至後に訪れる第三の庚(かのえ)の日を「初伏(しょふく)」、第四の庚の日を「中伏(ちゅふく)」、その後の立秋後の最初の庚の日を「末伏(まっぷく)」と称し、これら三つを合わせて夏の極暑の期間を指す語である。「伏」は五行の「火気を恐れて金気が伏蔵する日」の意で、「庚」の日は特にその状態が著しいとして「三伏日」とし、農事の暦では、この日は種まきに悪いとされた。最初の句は、「猛暑の中、蟬の鳴き声が五月蠅く、いや増しに暑さが感ぜられるので、いまいましい蟬の飛び来たって鳴きおる庭の松の木を伐り倒してしまいたいと思うことよ」の意。しかし対する後者は、すっかり衰えた蟬の声に手前勝手に哀れを催し、「せめても一匹ぐらいは死に残って鳴き続けよ、秋の蟬よ」と呼びかけているのである。]

  ピエエル・ロティ譯者註一八(世界最大の散文家)の愛讀者は、その「お菊夫人」の中で、或る日本家屋に就いて、百夏の鋭い聲の蟋蟀の爲めその古い乾いた木細工が妙音を孕んで居ると述べて居る面白い文句を記憶して居らるるであらう。それと全然相違しても居ない意匠を

註 ロティは家屋の内部の描寫をしようとする
己が企に就いて斯う言うて居る。『自分が描寫
した此家には、そのか弱い風(ふう)とその銳
いヷイオリン的な好い響とが缺けて居る。木
工を寫して居る鉛筆のタツチに、その細工の極

めて微細な精緻さが無く、またその非常な古雅
なところが無く、またその申し分無しの淸潔さ
が無く、その乾上がつた纎維に百夏の間孕まさ
て居るらしく思へる蟋蟀の響も無い

譯者註一八 本名ルイ・マリイ・ユリアン・ギオウ(一八五〇年生まれ)。一八八二年「ス・マリアジュ・ド・ロティ」と稱する。一英人とタイチ女との結婚物語に文名一時に舉がり、つぎつぎに小説旅行記を物して名聲を博し、一八九一年學士會員に選ばる。「ヤポリヌイ・ドオトンヌ」「フアントム・ドリアン」等名著多き中に小泉先生は「ランド・サン・ザングレ」を殊に賞讃し居られたり。

[やぶちゃん注:ここのみ、本文の一文の途中に註を挟むという変則的なことを大谷がしているため、やむを得ず以上のように改行して挟んだ。

「ロティ」の「ィ」はママ。以下の註でも同じ。

「ピエエル・ロティ」ピエール・ロティ(Pierre Loti 一八五〇年~一九二三年)はフランスの海軍士官で作家。これはペン・ネームで本名はルイ・マリー=ジュリアン・ヴィオー(Louis Marie-Julien Viaud)。職務で世界各地を回り、その航海中に訪れた土地を題材にした小説・紀行文を多く書き残した。

「お菊夫人」ロティが一八八七年に出版した恋愛長篇小説“ Madame Chrysanthème ”。「クリサンテーム」はフランス語で「菊」の意。明治一八(一八八五)年に海軍士官(フランス海軍「トリファント号」艦長)として長崎に寄港したロティは、一夏を日本娘お兼という十八歳と同棲した事実に基づくもので、長崎入港の光景から、当時の庶民の風貌・生活様式など、多少、グロテスクな光景に好奇心を燃やしながら描いている(但し、以下の小泉八雲が引くものにも感じられる通り、総じて批判的侮蔑的な感懐を含んでいる)。しかし、こうした生活にもやがて倦怠を覚えて別れに至る悲恋の物語。小泉八雲の本書刊行の四年後に、プッチーニによりオペラ化(一九〇四年ミラノ・スカラ座初演で)されて有名になったアメリカの小説家ジョン・ルーサー・ロング(John Luther Long 一八六一年~一九二七年)ロングの短編小説“ Madame Butterfly ”(一八九八年発表)はこの作品の影響を受けて書かれたものである。

「一英人とタイチ女との結婚物語」一八八〇 年に発表した“ Le Mariage de Loti ”(当初のオリジナルの原題は“ Rarahu ”(ララフ:少女の名)。「タイチ」は南太平洋フランス領ポリネシアに属するソシエテ諸島にある島タヒチ(Tahiti)島のこと。

「ヤポリヌイ・ドオトンヌ」一八八九年発表の“ Japoneries d'Automne ”(「秋の日本」)。明治十八年の日本滞在記(滞日は同年七月から十二月中旬まで)、この時、彼は明治政府によって破格の待遇を受け、鹿鳴館の舞踏会に招待されたり、各地を見てまわる際にも普通は見られない風物を特別に見せて貰ったりしている。

「フアントム・ドリアン」一八九二年発表の恋愛小説“ Fantôme d'Orient ”(「東洋の幻影」)。

「ランド・サン・ザングレ」一九〇三年発表の“ L'Inde sans les Anglais ”(「イギリス人のいないインド」)。]

 

有つた日本の詩が一つある。――

 

  松の木に沁みこむ如し蟬の聲  ( ? )

 

 蟬を詠んだ日本詩歌の大多數は此蟲の音聲を苦痛だと述べて居る。そんな詩人の不平に充分同情を感ずるには、二三種の日本蟬の眞夏に於ける合奏を聞いてからでなければならぬ。然しその喧躁の經驗の無い讀者にも、次記の句は多分暗示的だと思はれることであらう。

[やぶちゃん注:「松の木の……」の作者は不明。芭蕉の「閑かさや岩にしみ入る蟬の聲」の亜流であるが、或いは芭蕉以前の誰彼の作である可能性も十分にある駄句である。]

 

  われ獨り暑いやうなり蟬の聲   文素

  うしろから摑むやうなり蟬の聲  除風

  山の神の耳の病かせみの聲    貞德

  底の無い暑さや雲に蟬の聲    左簾

  水涸れて蟬を不斷の瀧の聲    幻吁

  かげろひし雲また去つて蟬の聲  几菫

  抱いた木は葉も動かさず蟬の聲  可風

  隣から此木にくむやせみの聲   其角

[やぶちゃん注:「文素」宝暦一三(一七六三)年の芭蕉七十回忌に義仲寺で行われた発句の法要興行『しぐれ会』(彼は元禄七年十月十二日(一六九四年十一月二十八日)に亡くなっており、それが時雨の多い季節であること、また、芭蕉が時雨を好んで句作に用いたことに因んで「時雨忌」とも呼ばれる)を始めた文素であろう。

「除風」(寛文六(一六六六)年或いは七年~延享三(一七四六)年)備中生れの真言僧。服部嵐雪に学び、各地を吟遊、備中倉敷に南瓜庵を結び、芭蕉を慕って千句塚を築いた。後、讃岐の観音寺の山崎宗鑑の旧跡である一夜庵を再興した。別号に南瓜庵・百花坊など。編著に「青莚」「千句塚」「夢の枯野」がある。

「貞德」松永貞徳(元亀二(一五七一)年~承応二(一六五三)年)京出身の近世前期の俳人・歌人・連歌師・歌学者。幼名は勝熊(かつくま)、別号は延陀丸(えんだまる)・長頭丸(ちょうずまる)・逍遊軒など。摂津国高槻の豪族入江氏の出(父永種の時に曾祖母妙精の縁戚松永弾正久秀の姓をとって松永と改めた)、父永種は当代随一の学者・文化人で、豊臣秀吉のお伽衆大村由己(ゆうこ)や、歌壇・歌学界の第一人者であった細川幽斎、連歌界の大立者里村紹巴(じょうは)などと親交を結んでおり、母も朱子学者藤原惺窩(せいか)の姉であったことから、後年、文人として立つ貞徳には極めて有利な環境が整っていた。幽斎・紹巴に和歌・連歌を学び、林羅山・木下長嘯子とも交わった。また、俳諧の方式を定め、門下として芭蕉の師となる北村季吟らを育て、「貞門」派を形成した。この句については坪内稔典氏がこちらで、『うるさいばかりの蝉の声を、山の神の耳が悪くなっているので、それで蝉たちが大声を出している、と滑稽化した。たとえば季語「蝉しぐれ」は蝉の声を風流、優雅にとらえているが、そのようなとらえ方を、現実的見方によって貞徳は転倒したのだ』と評釈しておられる。

「左簾」笠家左簾(かさやされん 正徳四(一七一四)年~安永八(一七七九)年)は初代ならば、江戸新吉原の娼家の主人。本姓は三浦、名は古道、通称は四郎左衛門。別号に鴨之・素湯庵。談林派の笠家逸志に学び、江戸宗因座の点者を務めた。著作に「花実相対」など。二世と三世がいる。

「幻吁」原本(左ページ中央)は“GEN-U”であるが、これは「げんく」の誤り。鎌倉円覚寺第百六十三世住職大顚(だいてん)和尚(寛永六(一六二九)年~貞亨二(一六八五)年)。蕉門の俳人で、幻吁は俳号。芭蕉と親しく、最後に出る句の作者で、芭蕉の高弟で江戸蕉門の重鎮であった宝井其角(たからいきかく 寛文元(一六六一)年~宝永四(一七〇七)年:初姓は榎本)の参禅の師でもあった。「野ざらし紀行」に旅中(貞享元(一六八四)年八月から同二年四月までの旅)、大顚が同二年一月三日に遷化したことを知り、

 梅戀ひて卯の花拜む淚かな

という追悼の句を添えている。

「几菫」高井几董(きとう 寛保元(一七四一)年~寛政元(一七八九)年)は与謝蕪村の高弟。京都生まれ。別号に塩山亭・高子舎・春夜楼・晋明など。父几圭に学び、明和七(一七七〇)年、蕪村に入門、師風に忠実で、蕪村派の殆んどの撰集を編集し、蕉門の榎本其角に私淑し、大島蓼太・久村暁台らと親交を結んだ。蕪村没後、三代目夜半亭を継いだ。

「可風」江戸中期の蕉門(没後)の俳人と思われる。紀行文「くらま紀行」が、時宗の僧で俳人(蕉門)の蝶夢(享保一七(一七三二)年~寛政七(一七九六)年)の全集の参考文献に載る。]

 

   この句は、也有をおもひ出させる。蟬が頻繁に訪れる木を憫れんで居る別な詩人が居る。

  風はみな蟬に吸はれて一木かな  鳥醉

[やぶちゃん注:「鳥醉」白井鳥酔(しらいちょうすい 元禄一四(一七〇一)年~明和六(一七六九)年)は元は上総地引村の代官。名は信興、通称は喜右衛門、別号に百明台・松原庵など。江戸で佐久間柳居に学び、松尾芭蕉の旧跡を遊歴、晩年は相模大磯の鴫立庵で過ごした。編著に「夏山伏」「冬扇一路」など。

「一木」原文の発音に従えば、「ひとき」。]

 

 時には蟬の音聲を或る動力だと叙べて居る。―― 

  蟬の聲木々に動いて風も無し   宗養

  竹に來て雪より重し蟬の聲   桃月

註 日本の藝術家は、その頂に附いて居る雪の重みに曲つて居る竹の景色によつて幾多の面白い感想を得來たつて居る。

  諸聲に山や動かす木々の蟬    楚江

  楠も動くやうなり蟬の聲     梅雀

[やぶちゃん注:「宗養」宗養(大永六(一五二六)年~永禄六(一五六三)年)は戦国時代の連歌師。ウィキの「宗養」によれば、『宗牧の子で、姓は谷氏。号は無為・半松斎。早くから父・宗牧から連歌を学んだが』、天文一四(一五四五)年、『二十歳で父を失い、その連歌師としての地盤や伝書を引き継いで』、『連歌界の第一人者となる。摂関家である近衛家や公家の三条西公条、武将の尼子晴久・三好長慶などとも交流があった。父と同様に工夫は繊細であり、「石山四吟千句」「宗養句集」などがある。また、宗牧から伝えられた連歌論書に「宗養三巻集」がある』とある。

「桃月」不詳。

「楚江」晩年の小林一茶の俳友に夜間瀬(よませ:現在の長野県下高井郡山ノ内町(まち)大字夜間瀬。グーグル・マップ・データ)の坂口楚江の名が見えるが、彼かどうかは不明。

「梅雀」不詳。]

 

 時にその音を湯のたぎる音にたぐへて居る。―― 

  日盛は煮えたつ蟬の林かな    露英

  煮えて居る水ばかりなり蟬の聲  大無

[やぶちゃん注:「露英」不詳。原本(左ページ)には名前はない。句を小泉八雲に紹介した可能性がすこぶる高い訳者が附加したもの。

「大無」不詳。原文表記に従えば「たいむ」。]

 

 此喧躁家の大勢なのと其喧噪の遍在なのとに殊に愚痴をこぼして居る詩人がある。―― 

  ありたけの木に響きけり蟬の聲  稻起

  松原を一里は來たり蟬の聲    沾荷

[やぶちゃん注:「稻起」不詳。原本には名がないので、これも、訳者が附加したものと思われる。

「沾荷」「せんが」。芭蕉存命時の歌仙その他に名がしばしば見られ、それらは、概ね、芭蕉の俳友であった内藤露沾(明暦元(一六五五)年~享保一八(一七三三)年:磐城平藩主内藤義泰の次男。義英、後に政栄。嗣として藩主となるはずであったが、讒言により天和二 (一六八二)年に廃嫡となり、以後は風流を専らとした)とのものに出、一字を受けているところからも、彼の門人であることは間違いない。]

 

 たまたま此題目を滑稽な誇張を以て取り扱つて居る。 

  ないて居る木よりも太し蟬の聲  ( ? )

  杉高しされども蟬のあまる聲    龜文

  聲長き蟬は短きいのちかな      ( ? )

[やぶちゃん注:二句とも作者不詳。原本(右ページから次のページ。下の「▹」でもいいが、ページ自体をクリックしても、めくれる)には名前はなく、『( ? )』は訳者の附加。

「龜文」松平忠告(ただつぐ 寛保三(一七四三)年~文化二(一八〇六)年)は大名で俳人。松平忠名(ただあきら)の三男。明和四(一七六七)年、摂津尼崎藩藩主松平(桜井)家第三代となる。谷素外(たにそがい)に俳諧を学び、「一櫻井龜文」(いちおうせいきぶん)と号した。初名は忠昆(ただすえ)。通称は与一。句集に「一櫻井發句集」がある(以上は、講談社「デジタル版 日本人名大辞典+Plus」に拠った)。]

 

 その聲音の休止に次いで來る消極的な快感を讃へて居る詩人もある。――

   蟬に出て螢に戾る納凉かな     也有

  蟬の立つあと凉しさよ松の聲     梅雀

[やぶちゃん注:「納凉」は「すずみ」と読む。] 

 〔序に此處で『松の聲』についての短い日本の歌のあることを言つてもよからう。この歌にある『ザザンザ』といふ擬音は、松葉を吹拂ふ風の深い唸聲を實にうまく現はして居る。―― 

    ザザンザ!

   濱松のおとは

    ザザンザ!

    ザザンザ!〕

[やぶちゃん注:例えば、大蔵虎明本(おおくらとらあきらぼん:寛永一九(一六四二)年の大蔵流のみでなく、現存する狂言最古の台本集)狂言の「空殻」の一節に出る。同狂言は、使いの途中で道で酔いつぶれた太郎冠者が、後をつけていた主人に鬼の面を被せられ、目を覚まして水に映った自分の姿に悲観して死のうとするが、その弾みに面が取れて、太郎冠者は主人に「是に鬼の拔殻が御ざる」と告げるという筋。酔いが回ったシーンにこれが出るようだ(所持する一九四三年岩波文庫刊「能狂言 中」(大蔵虎寛本)で確認した。但し、そこでは『ざざんざ。【諷ふて、】』とのみあるのであるが、小学館「日本国語大辞典」の「ざざんざ」を引くと、副詞で『松の梢に吹く風の音を表す語。江戸初期の歌謡で囃子詞のように用いられた。ざんざ。さんざ。さんさ。さざんざ』とあって、本狂言本を挙げ、『ざざんざ、浜松の音はざざんざ』の例文を掲げている『諷ふて』とある割注は、現代のシナリオで脚本家が「以下、歌って、よろしく」と記して、役者や演出家に後を任せるのと同じ謂いであろうとみた)。もとは一種の囃し唄のようである。個人サイト「ヨイヨイ! 囃しことば」の「狂言の旅」の「第八十九信」「狂言のセリフ・ことば」「いろんな演目」狂言に出る『リズム満点の囃子言葉はオノマトペも取り込んでしまいます』。特に『狂言には酒盛りの場面がしばしば出ますが』、『その時や酔っぱらいの鼻歌にもよく歌われるのが』この「ざざんざ」『です』。『これは』「浜松の風はざざんざ」『となる時もあるように』、『風の音のオノマトペなのです』とある。また、浜松には昭和初期に生まれた「ざざんざ織」という織物があるが、それについて解説したサイト「さんち 〜工芸と探訪〜」の「浜松の音はざざんざ 民藝運動から生まれた紬の物語」に、この『ちょっと変わった名前の「ざざんざ」とは「颯々」とも書きます。 古くより浜松の地にあった有名な松の木の下で、将軍足利義教が宴を催した折に「浜松の音はざざんざ‥‥」と詠ったことから、この松を「ざざんざの松」と呼ぶようになり、広重の五十三次にも描かれています。 潮風に冴え、人々に美しさと安らぎを与える松風の音を表現した「ざざんざ」にあやかって、その名が付いたそうです』とあった。]

 

 ところがまた、蟬の音聲が起こす感情は、全く聽く者の神經狀態に依るのだ、と宣言する詩人がある。―― 

  森の蟬凉しき聲やあつき聲    乙州

  凉しさも暑さも蟬の心かな    不白

  凉しいと思へば凉し蟬の聲    吟江

[やぶちゃん注:「乙州」河合乙州(おとくに 明暦三(一六五七)年~享保五(一七二〇)年)は近江蕉門。通称は又七、次郎助。別号に※(「※」=「木」+「代」)々庵(だいだいあん)・設楽堂(しだらどう)。姓は「川井」とも書く。俳人河合智月(智月尼)の弟で姉の養子となった。金沢滞在中の松尾芭蕉と出逢って入門。「猿蓑」などに入集している。蕉門では若手の内であるが、芭蕉の信頼厚く、元禄七(一六九四)年大坂での師の死を看取っている。宝永六(一七〇九)年には芭蕉の遺稿「笈の小文」を板行している。

「不白」川上不白(ふはく 享保元(一七一六)年~文化四(一八〇七)年)は江戸中期の茶匠で江戸千家不白流の祖。紀伊新宮藩水野家の家臣川上五郎作の次男。十八歳で茶道に志し、表千家第七世如心斎宗左の下に参じ、その高弟となった。大徳寺の大龍宗丈(だいりゅうそうじょう)に参禅し、初め宗雪、後に不白と号した。不羨斎孤峰不白の称が知られるほか、別号を黙雷庵・蓮花庵とした。また俳諧もよくし、不羨庵の俳号で発句を多く残している。二十五歳の時には千家七事式の制定に参画。水野侯の茶頭(ちやどう)として寛延三(一七五〇)年三十二歳で江戸に下向し、千家の茶の普及に努め、一流を許されて江戸千家(江戸千家流)を称した。

「吟江」夏目吟江(?~天明三(一七八三)年)であろう。俳人夏目成美(せいび)の弟である。]

 

 蟬の騷々しさに對する日本詩人のこの多數の不平を見て居て、そしてその蟬の殼から日本でも支那でも――多分、類は類を治す主義で――耳病譯者註一九の藥劑! を昔時製した、と聞き給ふ讀者は定めし驚かる〻ことであらう。

譯者註一九 「和漢三才圖會」に「蟬脫は皮膚瘡瘍風熱を治す。驚癇眼目の翳膜及び啞病夜啼皆馬蟬之蛻を用ゆべし」とあり。田中市水の「百蟲譜」に「脫捨の古着も故敝買の手に落入ず藥屋の手に渡り醫者にもてなされ不意の效をあらはして人を救ふめり」とあり。

[やぶちゃん注:「藥劑!」の後の字空けは底本にはない。特異的に補った。

『「和漢三才圖會」に「蟬脫は……』私の「和漢三才圖會卷第五十三 蟲部 蟬蛻(せんぜい)」を見られたい。ここでは大谷引いた部分だけ私の訓読文を示しておく。

   *

蟬蛻は【鹹甘、寒。】皮膚瘡瘍(そうちやう)・風熱を治す。驚癇〔(きやうかん)〕・眼目の翳膜〔(かすみ)〕及び啞病〔(おし)〕・夜啼き、皆、宜しく馬蟬(むませみ)の蛻〔(ぬけがら)〕を用ふべし。

   *

大谷の「蟬脫」は、誤記か、誤植である。

『田中市水の「百蟲譜」』「一」に既出既注で、大谷の引く部分も、私が注で電子化してある。やや表記に異同があるが、問題ない。]

 

 が然し或る詩は蟬の音樂に賞讃者のあることを證明して居る。―― 

  面白いぞや我が子の聲は

           高い森木の蟬の聲 

  この歌に能く似た歌がある。
  「面白いぞや、我が兒の泣くは、
 
 千部施餓鬼の、經よりも」

[やぶちゃん注:以上の最後の一文は、原本では原註(右ページ)で、ここに示された二つの「歌」の原文では、孰れも「歌」ではなく、“poem”とする。しかし後の原註の頭の部分は“There is another version of this poem:―”となっており、これは音数律から見ても、短歌の類いではないことは明白で、寧ろ、近世の民謡、特に別ヴァージョンの「千部施餓鬼」から推察するに、盆踊りのそれではないか、と私は思っている。

「千部施餓鬼」「千部」は「千部会」(せんぶえ)の略。追善や祈願などのために、同じ経を千人の僧で一部ずつ読誦する法会。一僧が千部読誦することもある。「施餓鬼」(せがき)は、盂蘭盆に、寺や死者の出た場所に於いて、餓鬼道に落ちて飢餓に苦しむ無縁仏や生類(しょうるい)のために催す読経供養を言う。]

 

 が斯んな賞讃は稀だ。蟬はその夜每の露の馳走に與らう[やぶちゃん注:「あづからう」。]とて叫んで居るのだ、と說く方が餘計である。―― 

  蟬をきけ一日ないて夜の露    其角

  夕露の口に入るまでなく蟬か   梅室

[やぶちゃん注:「梅室」桜井梅室(ばいしつ 明和六(一七六九)年~嘉永五(一八五二)年)江戸後期の俳人。名は能充(よしあつ)。別号は素蕊(信)・方円斎・陸々など。金沢生まれで、刀研師として加賀藩に仕えた。父について幼時より俳諧に親しみ、十六歳の頃、高桑闌更の門に入り、後、師から槐庵(かいあん)の号を与えられている。致仕後、京に出て、俳諧に励み、天保五(一八三四)年頃までの十余年間は招きを受けて江戸に住んだが、再び京に戻って定住、風交を広め、貴顕と交わって、嘉永四(一八五一)年には二条家から「花の下(もと)宗匠」の称号を贈られている。]

 

 蟬は時折戀の歌に讀み込んである。次記のはその立派な標本である。これは普通藝者共が歌ふ小唄の部類に屬するものである。その拵へたやうな感傷的な處は好ましからぬけれども、ただ意匠としては旨いと自分は思ふ。が日本人の趣味には確に野卑である。た〻くといふは嫉妬の爲めにである。――

 

  ぬしにた〻かれわしや松の蟬

         すがりつきつきなくばかり

 

 實際次に示す小きな繪の方が、日本人の美術主義に從へば、一層眞實な作品である(自分はこの作者の名を知つて居らぬ) 

  蟬一つ松の夕日を抱へけり   繞石

 [やぶちゃん注:最後の句の作者「繞石」(「ぎやうせき(ぎょうせき)」(「じょうせき」とも)と読む)は底本ではポイントが小さい。前に書かれている通り、原本ではご覧の通り、作者名は附されていない。奇妙だ。訳者の大谷が調べたのか? いやいや、そうじゃないんだ。では、「繞石」とは何者か? 実は、これ、訳者である英文学者で俳人でもあった大谷正信の俳号なのである(大谷は京都の第三高等学校へ入学後、学制改革を受けて仙台の第二高等学校へ転校したが、そこで同級生に俳人高浜虚子と河東碧梧桐がおり、この頃、俳句への傾倒が始まっている。明治二九(一八九六)年に東京帝国大学英文学科に入学、同年、島根県尋常中学時代に教えを受けた小泉八雲が同大学に赴任、再会を果たしたのであった。また、東京大学在学中には正岡子規に出会い、本格的に俳句の道に踏み出してもいる。また、明治三〇(一八九七)年に、松江に帰省し、出雲俳壇の中心的な俳人であった奈倉梧月に勧め、全国で五番目の俳句会である『碧雲會』を発足させている(ここはウィキの「大谷繞石」に拠った)。こうした経歴からも彼の俳句は余技ではないのである。因みに、彼は、明治八(一八七五)年生まれであるから、本作品集が刊行された当時は満二十五歳で、前年に東京帝国大学を卒業し、東京の私立中学郁文館で英語教師を勤めていたはずである。まさに本篇に限らず、俳句関連の日本語資料提供と、その解釈(原本では英訳が添えられてある(訳では総て省略されている)。但し、中にはちょっと首を傾げるものもなくはないが)・解説については、恐らく、大谷が中心になって行っていたものと推察されるのである)。「小泉八雲 燒津にて 大谷正信譯」の私の冒頭注で示した通り、彼は謂わば、小泉八雲の教え子の中でも「秘蔵っ子」であったのであり、この最後の部分は、彼への日頃の感謝と、秘かなオードを籠めた確信犯の書き添えであったのである。それに対して、訳者・作者本人が、訳文で、敢えて正体を明かして――しかも慎ましくポイント落ちで――訳に添えたのであった。

 

        

 哲學的な詩歌は蟬を詠んだ日本詩篇には多數には無い。が全く異國風な情趣を具へて居る。恰も蝶の變形變態が靈魂の昇天の表號を古昔の希臘思想に供給した如くに、蟬の一生はその敎理を說く比喩や寓言を佛敎に與へて居る。

 人間がその體軀を脫離するのは丁度蟬がその皮を脫ぐと同じである、だが肉身を得る度每に前生の記憶が暗くなる。我々が前生を記憶して居ないのは、蟬が自分が出て來た殼を記憶して居ないと同じである。蟬の中には自分が脫ぎ捨てた皮膚の橫で歌つて居るのも屢屢見らる〻ことであらう。だから或る詩人は 

  われとわが殼やとむらふ蟬の聲  也有 

と詠んだ。

 生きて居るやうに木の幹や枝にしがみついて居て、ギラギラした大きな眼で今猶ほ何か凝視して居るやうに思へる、この脫殼卽ち類像は、不信心な詩人にも宗敎的な詩人にも、橦々な事柄を暗示し來たつて居る。戀の歌では屢〻之を熱烈な戀慕に瘠せ枯れた身體に比して居る。佛敎的な詩歌では、浮世の華奢の表象に――人間の偉大と稱するものも實は空虛なものだといふ表象に――なつて居る。 

  世の中よ蛙の裸蟬の衣      可言

[やぶちゃん注:「類像」原文は“simulacrum”。シミュラクラ。「似姿・幻影・面影・見せかけの偽せ物」等の意。

「蛙」原文の表記に従えば、「かえる」である。

「衣」は、原本を見て戴くと判る通り、“kinu”で「きぬ」と訓じている。

「可言」不詳。]

 

 だが詩人は時々、啼いて居る翅のある蟬を人間の靈に譬へ、破れた脫殼を後に殘した屍體に喩へて居る。――

   たましひは浮世にないて蟬の殼  ( ? )

[やぶちゃん注:作者不詳。]

 

 それから蟬類の日光に活氣づく大擾音――あの如く早く過ぎ去る運命を有つた夏時の陸暴風――は、說敎師や詩人に、人間の欲望の擾亂にたぐへられて居る。蟬が地中から現はれ出て[やぶちゃん注:「いでて」。]、暖氣と光線を受けに這ひ上り、囂々騷ぎ、間も無く再び塵土と沈默とへ歸ると同じく――代々の人間は、出て、騷いで、去つてしまふのである。――

[やぶちゃん注:「陸暴風」原文は“landstorm”。平井呈一氏の訳では、この冒頭部、『さらにまた、太陽にせきたてられて無性に鳴き騒ぐ蟬の声――あんなにも早く死んで行く運命をもった夏の命のはやてを、法を説く人や詩人は、人間の煩悩欲心の乱(ろう)がわしさにたとえる』(太字は傍点「﹅」)と訳されておられる。平井氏の方が、誰も躓くことなく、すっきりと読める。]

 

  やがて死ぬ景色は見えず蟬の聲  芭蕉 

 此小詩中の思想は、虫の聲の悲調と共に自然の寂寞が我々へもたらす彼(か)の夏の憂愁を幾分か說明して居はせぬかと自分は思ふ。斯んな幾萬幾億の小生物どもは、東洋の古代の知識を――永久の眞理たる諸行無常の經典を――無意識に說いて居るのである。

 だが、我々西洋の近代詩人で、蟲の聲に注意を拂つた者は如何に僅少なことであるか!

 昔時自然がソロモン譯者註二〇に語つたやうに、自然が今日、斯んな微かな可愛い震音で語り得るのは、生の謎に刻薄にも煩はされて居る者だけへであらう。

 東洋の智慧は萬物の語を解する。そしてこの知識を身に得る人ばかりが――ジイガルド譯者註二一龍の膽を甞めて突然鳥の談話を解したやうに――そんな人ばかりが、蟲の言葉を解することであらう。

譯者註二〇 イスラエルの有名な王(紀元前九九三――九五三)。禽獸の語を解したりと傳へらる。

譯者註二一 エダに詠まれて居る、北歐神話に見ゆる王。

[やぶちゃん注:「ソロモン」(紀元前一〇一一年頃~紀元前九三一年頃)原文“Solomon”。旧約聖書の「列王記」に記されている古代イスラエル王国の第三代の王(在位:紀元前九七一年~紀元前九三一年頃)で同国を最盛期に導いた。優れた政治家であるともに、人並み外れた知恵者でもあり、エジプトに臣下の礼をとって、ファラオの娘を降嫁されることにより、安全保障を確立した。

「ジイガルド」原文“Sigurd”。ゲルマンの伝説に登場する英雄ジークフリート(ドイツ語:Siegfried)のこと。ドラゴン殺しの英雄として知られ、魔力の籠ったその龍の血を浴び、全身が甲羅のように硬くなり、いかなる武器も受け付けない不死身の体となったという。以下は、参照したウィキの「ジークフリート」を読まれたい。

「エダ」エッダ(Edda)。北欧神話の初期(ヴァイキング時代)の形態を伝える文書群の総称。]

2019/09/01

小泉八雲 蟬 (大谷正信譯) 全四章~その「二」

 

       

 

 進んでセミの詩文學に就いて語る前に、自分はセミその物に就いて二三の談論を試みなければならぬ。然し讀者は何等昆虫學上のものを期待し給ふ要は無い。日本の昆虫は、恐らく蝶類を除いて、科學者にまだ少ししか分かつて居ないので、自分が蟬について言ひ得ることは、總て皆穿鑿により、個人的觀察により、また興味はあるが全く非科學的な日本の古い書物によつて、知り得たものだけである。著作家が、一番に能く知られて居るセミの名前や特性に就いて、互に矛盾して居る計りでは無い、蟬で無い昆虫の名にセミの語を用ひさへして居る。

[やぶちゃん注:「一」の最後に紹介させて戴いた加工用データとして使用させて貰っているサイト「βάρβαροι!」の『特別付録 ラフカディオ・ハーン(小泉八雲)「蝉」』の作成者注に出るように、私もインセクターでないが、知られた一般的に普通に見かける種で、「蟬で無い昆虫の名にセミの語を用ひさへして居る」昆虫の和名や異名を知らない。改めて、ネットで各種フレーズを駆使して検索してみたが、地方名でも見当たらない。敢えて言うなら、セミやヨコバイ類に近縁である、カメムシ目頸吻亜目セミ型下目ツノゼミ上科ツノゼミ科 Membracidae のツノゼミ亜科 Membracinae のツノゼミ類(日本に分布するのはツノゼミ亜科のみで十六種)が挙げられる。]

 次記のセミの列擧は確に不完全である。が、能く知られて居る種類と最上の旋律家とは綱羅して居る、と自分は信じて居る。が然し、或る種の蟬の出現時が日本の地方に依つて異つて居る事、同一種の蟬が國[やぶちゃん注:原文は“Province”で「地方」・「県」或いは「田舎」である。]に依つて名を異にして居るかも知れぬ事、且つ此記述は東京で爲したものといふ事、これを心に有つて居て貰ひたいと讀者に乞はなければならぬ。

 

         ハルゼミ譯者註一一

 

 種々な小蟬が春出る。然し大きな蟬で耳にきこえる聲を立てる第一番のはハルゼミ(春蟬)、またの名ウマゼミ(馬蟬)、クマゼミ(熊蟬)など稱するものである。これはジーイーイーイーイーイイイイイイと、最初は低いが、段々と苦しい程高い調子に上つて行く――銳いゼイゼイ聲を立てる。春蟬ほど騷々しい蟬は他に無い。が、此のセミの壽命はその時候と共に終はるらしい。これが屹度、

 

  初蟬やこれは暑いといふ日より  太無

 

と、古い句に詠まれて居るものである。

譯者註一一 ハルゼミはマツゼミともともクダマキともいふ、ウマゼミ或はクマゼミはそれとは別種なり。

[やぶちゃん注:「ハルゼミ」。節足動物門昆虫綱有翅昆虫亜綱半翅(カメムシ)目頚吻亜目セミ型下目セミ亜科ホソヒグラシ族ハルゼミ属ハルゼミ Terpnosia vacua「一」の図版の部分で詳細注を附した。

「太無」古川太無(ふるかわたいむ ?~安永三(一七七四)年)江戸中期の俳人で常陸水戸の生まれ。佐久間柳居の門人。芭蕉の資料を模刻した「鹿島詣」(原作は貞享四(一六八七)年)や撰集「星なゝくさ」などがある。別号は秋瓜・吐花・義斎・松籟庵など(講談社「日本人名大辞典」に拠る)。なお、俳号は二字空けが中に入るが、総て詰めている。]

 

Plate2

 

       PLATE Ⅱ.

Shinné-Shinné,”

Also called Yama-Zémi, and Kuma-Zémi.

[やぶちゃん注:訳す。

       第二図版。

「シンネ・シンネ」。

或いは又、「ヤマゼミ」、そして「クマゼミ」とも呼ぶ。

「シンネ・シンネ」は以下で小泉八雲が述べるようにオノマトペイアによる命名で現在は死語に近い。なんなら、フレーズ「ミンミンゼミ シンネシンネ」で検索を掛けてみられよ、そこに掛かる獲物は、私が二〇一五年十一月一日に電子化注した『小泉八雲 落合貞三郎他訳 「知られぬ日本の面影」 第十六章 日本の庭 (一一)」』ばかりである(そこでは本篇を取り上げて、私なりの小泉八雲の日本の蟬の音に対する生理的な好悪を問題にしているので、是非、読まれたい。最終的には藪の中なんだが)。「山蟬」。「熊蟬」。現在の標準和名クマゼミのこと。同種の詳細は以下の後注に回す。]

 

         シンネシンネ譯者註一二

 

 シンネシンネ――又の名ヤマゼミ(山蟬)、クマゼミ(熊蟬)、オホゼミ(大蟬)――は五月に早歌ひはじめる。頗る大きな蟬である。體の上部は黑いといつていい位、腹は銀白、頭には赤い妙な模樣がある。シンネシンネといふ名は、その音色から來て居るので、それはシンネといふ綴音を連續して早く反復するに似て居る。此蟬は京都邊では普通、東京では稀に聞く。

 〔自分が初めてオホゼミを檢べる機會を得たのは靜岡であつた。その聲音は日本の擬音が現はして居るよりも遙か複雜で、勢一パイに𢌞して居る折の裁縫ミシンの音に似て居るやうに思ふ。音が二重で、金屬性な銳いリンリンといふ音が連續して聞こえる計りで無く、その底に、もっとゆるく續いて居る重いヂヤンヂヤンといふ音がある。發聲器官は色は薄綠で、胸廓に附着して居る小さな靑葉一枚といつたやうな外觀のものである〕

譯者註一二 このシンネシンネが普通クマゼミともウマゼミとも或はなほ普通にシヤアシヤアゼミ或はワシワシゼミと稱せらるゝものなり。

[やぶちゃん注:〔 〕は原本本文が[ ]で括られていることに基づく(以下小泉八雲の本文では同じなので、この注は附さない)。

「綴音」「ていおん」或いは「てつおん」と読み、「二つ以上の単音が結合して生じた音」を指す。

 セミ亜科エゾゼミ族クマゼミ属クマゼミ Cryptotympana facialis ウィキの「クマゼミ」を一部引いておく(太字・下線は私が附した)。『成虫の体長は60-70mmほど。アブラゼミ』(セミ亜科アブラゼミ族アブラゼミ属アブラゼミ Graptopsaltria nigrofuscata )『やミンミンゼミ』(セミ亜科ミンミンゼミ族ミンミンゼミ属ミンミンゼミ Hyalessa maculaticollis )『に比べて頭部の幅が広い。日本産のセミの中では』同属種の『ヤエヤマクマゼミ』( Cryptotympana yayeyamana:石垣島と西表島にのみ分布する固有種。山地の森林に棲息し、平地のクマゼミとは概ね棲み分けている。鳴き声はミンミンゼミに似る。大陸や台湾の低山帯に分布するタイワンクマゼミ』( Cryptotympana holsti )『は近縁種である。体長はクマゼミよりさらに大きく、日本最大のセミである。)『に次いで大きな体をしている。翅は透明で、付け根付近の翅脈は緑色。背中側は艶のある黒色だが、腹部の中ほどに白い横斑が2つある。また羽化から数日までの個体は、背中側が金色の微毛で覆われる。腹部は白、褐色、黒の組み合わさった体色で、オスの腹部には大きな橙色の腹弁がある』。『温暖な地域の平地や低山地に棲息し、都市部の公園や街路樹などにも多い』。『成虫が発生するのは7月上旬から9月上旬くらいだが、特に7月下旬から8月上旬、大暑から立秋にかけての最も暑い頃が発生のピークである。成虫の寿命は2週間程度とされているが、大阪市立大学の調査では30日生きたメスが捕獲されたという研究結果も報告されている(下線太字は私が附した。これは他のセミ類でも概ね同じ(セミの平均寿命を34週間程度、条件(主に樹種嗜好性の適合。以下の引用を参照)が良ければ最大一ヶ月程度とするインセクタ―の方の記載もある)で、所謂、蟬が数日の短命というのは、主に近世までの文芸等から受け継がれた嘘であり、今や都市伝説と言ってもよい誤りである)。『オスは腹を激しく縦に振りながら大きな声で鳴く。鳴き声は「シャシャシャ…」や「センセンセン…」などと聞こえるが、その前後には「ジー…」という長い声が入る。また、オスを捕まえると「ジー」とも「ゲー」とも聞こえる大声を出し続けてもがく。羽を羽ばたかせる力も強力で、近くでは「ブーン」という羽の音が聞こえる。手足の力も強く、素手で捕まえようとすると引っ掻き傷をつけられる可能性があるので注意が必要である』。『鳴く時間帯は主に日の出から正午までの午前中で、日が照って温度が上がる午前7時頃から午前10時頃まで最も盛んに鳴く。棲息地では朝日が昇ってから昼近くまで、鳴き声が騒がしいほどに響きわたる。鳴き終わると』、『すぐに別の場所に飛んで移動するという習性があり、朝の時間帯は空中をクマゼミが飛び交っている様子がよく見られる。雨の日や午後はあまり鳴かず、センダンやキンモクセイ、サクラなどの木の幹に止まって樹液を吸う。ただし、曇っていたり、午前中が雨で午後から天候が回復した時などは、時間をスライドさせて鳴くことがある。朝の鳴いている時間帯は高い場所にいるが、昼間は木の根元付近まで降りてきている。またアブラゼミと共存している地域では、午前11時ごろまではクマゼミのみが鳴き、それから後はアブラゼミのみが鳴くという「鳴き分け」が見られる』(今、作業をしているのは831日午前810分。書斎の前の山桜の木にとまっていたアブラゼミが盛んに鳴いている)。『幼虫はアブラゼミと似ているが、わずかに大きくて体に艶がなく、頭部や腹部に泥が付くので区別できる。他のセミと比較しても割と高い位置まで登っていって羽化する。樹木だけでなく、民家の外壁やコンクリートブロックをよじ登るなど、幼虫も強い手足の力を持っている。羽化したばかりのクマゼミの成体は白っぽい色をしており、一晩かけて徐々に黒く染まっていく。翌朝には成虫としての身体が出来上がって飛ぶことも可能だが、その時点ではまだ完璧に鳴くことはできない』。『幼虫の生態について「湿った所にアブラゼミ、乾いたところにクマゼミの幼虫がいる」との説があるが、京都成安高等学校(現:京都産業大学附属高等学校)生物部と高校教諭・米澤信道による10年間の調査では、「アブラゼミ、クマゼミはそれぞれ好む木、嫌いな木があり(樹種嗜好性)乾湿によってきまるものではない」との立場をとっている。なお、センダンには脱皮殻が全くつかないという統計結果がある』。『ミンミンゼミとクマゼミの鳴き声は、実際に人間の耳で聞く限りは全く違って聞こえる。しかし、この2種のセミの鳴き声のベースとなる音はほぼ同じであり、その音をゆっくりと再生すればミンミンゼミの鳴き声に、早く再生すればクマゼミの鳴き声となる。このように両種のセミの鳴き声には共通点があるため、クマゼミとミンミンゼミは互いに棲み分けをしていると言われる。それは、環境による棲み分けの場合もある(城ヶ島では、平坦な台地においてクマゼミが、傾斜地においてミンミンゼミが発生している)が、時期的な棲み分けのほうが主流である。つまり、クマゼミがほぼ終息した頃にミンミンゼミの発生が始まるということである。西日本の、両種が棲息している地域では概ねそのような棲み分けが行われている。特に、広島県東広島市の市街地では非常に明確に棲み分けられている』。『また、ミンミンゼミとクマゼミはともに午前中によく鳴く種類であるが、このことも両種のセミが時期的な棲み分けを行っている原因の一つである。例えば』、『鹿児島県の屋久島ではクマゼミとクロイワツクツク』(セミ亜科ツクツクボウシ族ツクツクボウシ属クロイワツクツク Meimuna kuroiwae)『が市街地において完全な時期的棲み分けをしており、クマゼミがほぼいなくなってからクロイワツクツクが発生する傾向があるが、クロイワツクツクもまたクマゼミと同じく午前中によく鳴く種類である。クマゼミとアブラゼミ、もしくはミンミンゼミとアブラゼミの場合でも、クマゼミ・ミンミンゼミが午前中、アブラゼミが午後に鳴いており、棲み分けができている』。『なお、ミンミンゼミとクマゼミが同時期に出現し、時期的な棲み分けをしていない地域もある(神奈川県の城ヶ島など)。そのような地域では、クマゼミが午前中に、ミンミンゼミが午後に発声活動を行っている。いずれにせよ、ミンミンゼミとクマゼミが同時に合唱をするケースはほとんどない』。『クマゼミは南方系のセミであるため、温暖な西日本以南の地域が主な棲息域である。そのため、西日本から東海地方の太平洋側と関東地方南部に多数棲息しているが、山陰地方以北の日本海側と内陸部では冬の寒さによって棲息数が少なくなり、北日本には棲息しない』。『分布域は関東南部、東海、北陸地方と西日本(近畿、中国、四国、九州、南西諸島)である。なお、台湾、中国に分布するという報告もあったが、台湾の記録の多くが近縁のタカサゴクマゼミ』(Cryptotympana takasagona)『の誤同定で、中国大陸の分布も疑わしい』。『近畿・九州地方(鹿児島市を除く)などの西日本の平地では個体数が多く、都市域でも普通に見られる』。『静岡県の伊豆半島東海岸では、南部(下田市など)では昔から非常に多いが、北部(熱海市など)ではそれほど多くはない』。『近年、関東地方では、生息数を増やしている。京都大学教授・沼田英治の2019年時点の見解によると、関東での北限は50年前(昭和期に相当)の神奈川県から、東京都内や茨城県へ北上している。その原因として、気候の温暖化や植樹に伴う卵・幼虫の移動の可能性を推定している』。You Tube の若杉駿冶氏の「クマゼミの鳴き声!」をリンクさせておく。]

 

Plate3

     PLATE Ⅲ.

     Aburazémi.

[やぶちゃん注:訳す。

     第三図版

    「アブラゼミ」。

現在の標準和名アブラゼミ。「油蟬」。種の詳細は後注を参照。]

 

 

         アブラゼミ譯者註一三

 

 アブラゼミ卽ち油蟬は夏早く現はれる。聞けばその名は、その耳を貫くやうな銳い聲が、鍋で油揚げをする折の音に似て居る、といふ事實に基づいて居るといふ事である、その銳い音がガチヤリンガチヤリンときこえるといふ作家もあるが、湯の沸き立つ音にたぐへて居る者も居る。アブラゼミは日の出頃から歌ひ出す。すると大きな低いシイシイといふ聲があらゆる樹々から立ち昇るやうに思はれる。そんな時刻に、卽ち森や花園の木の葉がまだ露できらきらして居る時分に、次記の句は作られたものかも知れぬ。自分の蒐集中油蟬を詠んだものはただこれだけである。

 

  あの聲で露が命かあぶらぜみ  ( ? )

 

譯者註一三 秋山蓮三氏に據れば、アカゼミ、サトゼミ、ヤマトゼミとも呼ばれ居るものなりと。

[やぶちゃん注:セミ亜科アブラゼミ族アブラゼミ属アブラゼミ Graptopsaltria nigrofuscata ウィキの「アブラゼミ」を一部引いておく。『アブラゼミ』という名前の由来は、翅が油紙を連想させるため名付けられたという説や、鳴き声が油を熱したときに撥ねる音に似ているため、『油蝉(アブラゼミ)』と名付けられた説などがある』。『体長は 56-60mm で、クマゼミより少し小さくミンミンゼミと同程度である。頭部は胸部より幅が狭く、上から見ると頭部は丸っこい。体は黒褐色-紺色をしていて、前胸の背中には大きな褐色の斑点が2つ並ぶ。セミの多くは透明の翅をもつが、アブラゼミの翅は前後とも不透明の褐色をしていて、世界でも珍しい翅全体が不透明のセミである。なお、この翅は羽化の際は不透明の白色をしている』。『抜け殻はクマゼミと似ているが、ひとまわりほど小さく、全身につやがあり色がやや濃い。また、抜け殻に泥がつかないのも特徴である』。『日本(北海道から九州、屋久島)、朝鮮半島、中国北部に分布する。人里から山地まで幅広く生息し、都市部や果樹園でも多く見ることができる』。『南西諸島にはアブラゼミと近縁なリュウキュウアブラゼミ』(Graptopsaltria bimaculata:『成虫の体長は53-66mm。前胸の褐色部がアブラゼミより広く、後胸部も褐色である』。『オスは「ジュクジュクジュクジーーイッ」という数秒ほどの鳴き声を繰り返す。ジュクジュクジュクと声を大きくしながら鳴き始めるが、ジーイッと突然鳴き止んでしまうように鳴き終わ』り、『アブラゼミとはかなり異なった鳴き声である。沖縄本島では森林・低山帯ではごく普通に生息するが、市街地では生息数が少ない』)『が生息する。このセミは成虫・幼虫ともに湿度の高い環境を好むため、森林部には多いが』、『市街地にはほとんど生息しない』。『アブラゼミは北海道・本州・四国・九州の広い範囲に生息しており、かつては都心部でも最も多いセミであった。しかし、環境の変化やヒートアイランド現象の進行等を背景に、関東以西の都市(太平洋側)や北日本の一部都市では生息数が減少している』。『一方、本州日本海側や九州の多くの地域ではアブラゼミが減少しておらず、むしろ優勢な地域が多い。特に北陸地方では、ほとんどの地域で近年アブラゼミの勢力が著しく強くなっており、ミンミンゼミの生息場所は低山帯に押しやられている。また』、『東京都内でも全体的には現在でもアブラゼミが最も多い。このようなセミ類の増減動向は、主にその土地ごとの気候条件によって左右される』。『アブラゼミは現在に至るまで』、『郊外・山地では全国的に普通に見られる(北海道・南西諸島を除く)種類のセミであり、かつては都心部の市街地でも最も多いセミであったが、近年、夏の暑さが厳しくない北日本太平洋側の都市では市街地を中心に軒並み数を減らしている』。『一方、同じ北日本でも、日本海側の秋田市や山形県庄内地方では夏の暑さが比較的厳しいためか、アブラゼミはさほど減少していない。ただ、山形市は夏の暑さが厳しいものの、アブラゼミの競争相手であるミンミンゼミが市街地で近年急増しているという事情があり、競争に負けたアブラゼミが激減している(なお秋田市や山形県庄内地方ではミンミンゼミが生息しておらずアブラゼミの独占状態となっている)。このように北日本では地域によってアブラゼミの生息状況に大きな偏りがある』。『なお、札幌や青森では、昔から市街地ではアブラゼミしか生息していなかった(エゾゼミ』(クマゼミ族エゾゼミ属エゾゼミ Lyristes japonicus)『やコエゾゼミ』(エゾゼミ属 コエゾゼミ Lyristes bihamatus)『は森林性なので森や山の中に限って生息)ので、平成以降は夏になっても街中ではセミの声が全くといってよいほど聞こえなくなっている。ところで、仙台や長野は気候的にミンミンゼミの生息条件に合っている(夏が比較的涼しい・冬の湿度があまり高くないなど)ため、市街地ではアブラゼミを凌駕する勢いで増加しており、競争に敗れたアブラゼミが大きく数を減らしている』。『アブラゼミは幼虫・成虫とも、クマゼミやミンミンゼミと比べると』、『湿度のやや高い環境を好むという仮説がある。実際、都市化の進んだ地域ではヒートアイランド現象による乾燥化によってアブラゼミにとっては非常に生息しにくい環境となっており、乾燥に強い種類のセミが優勢となっている。つまり、東京都心部ではミンミンゼミに、大阪市など西日本太平洋側の大都市中心部ではクマゼミに置き換わっているという説もある』。『しかしながら、この仮説に一見従わないように思われるデータも多数存在する。たとえば、比較的温暖(大阪市よりは寒冷)なはずの山口大学キャンパス内でクマゼミがほとんど発生せず、大多数がアブラゼミという報告がある。また、現在よりも寒冷であった100年ほど前の京都で、クマゼミの目撃証言がある。さらに、京都市中心部において』、『土壌含水率とセミ種を調査したところ、全く相関がなく、樹種と相関があるという報告がなされている』。『一方、大阪市立自然史博物館の調査によれば、大阪市内のクマゼミは主に乾いた土壌から発生し、アブラゼミはやや湿った土壌のみから発生するという、京都市の調査とは全く異なった結果が示された。これらの調査から、アブラゼミは都市によって異なった発生の仕方をしており、その原因は各都市の気候の違いに求められる、という仮説が導き出され』ており、『また、アブラゼミは気温のみならず湿度からも多大な影響を受ける。たとえば、年間にわたって湿度が比較的高い九州南部よりも、瀬戸内地方の都市部や静岡県の市街地のほうがアブラゼミの減少ペースが早い。特に静岡県では、冬の激しい乾燥が大きな原因となっているとみられる。この現状を考慮した場合、上述の仮説は正しいということになるが、それを明確に立証する研究結果はまだ出ていない』。『なお、これらは一部の地域の話であり、都内23区や都市部の市街地でもアブラゼミが最も多く生息している場所が現在でも多い。特に、夏場の高温で知られる埼玉県内は全く減少しておらず、アブラゼミを見る機会が最も多い。東京都内でも全体的にはアブラゼミが最も多い』。『本種が都市で減少した直接の要因として野鳥による捕食が重要であることがアメリカ昆虫学会誌に報告されている』。『アブラゼミ成虫の天敵は主に野鳥であるが、都市での捕食圧は極めて高く、ほとんどのアブラゼミが捕食される。逆にクマゼミへの捕食圧は、都市では低くなる。この差は、それぞれのセミが天敵から逃げる方法(捕食回避戦略)による。天敵に気付いたアブラゼミは周辺の樹木に隠れるので、都市など樹木が粗な環境では隠れるのに手間取り捕食されやすくなるが、クマゼミは木に隠れず』、『飛んで逃げるので周囲の空間が開けているほど効率がよくなるためである』。以上のように、『都市部においては「湿った所にアブラゼミ、乾いたところにクマゼミがいる」との説が唱えられている。これに対し』、『京都成安高等学校教諭・米沢信道と生物部の生徒は10年間の調査を行い』、『「アブラゼミ、クマゼミはそれぞれ好む木、嫌いな木があり(樹種嗜好性)乾湿によってきまるものではない」と解明された』とされる、『ただし、この研究結果はあくまで京都市街地のみの研究結果にすぎず、大阪市内では上述のとおり』、『異なった結果が出ていることに注意を要する』。『成虫はサクラ、ナシ、リンゴなどバラ科樹木に多い。成虫も幼虫もこれらの木に口吻を差しこんで樹液を吸う。そのため、ナシやリンゴについては害虫として扱われることもある』。『成虫は7月から9月上旬くらいまで多く発生するが、10月や11月でもたまに鳴き声が聞こえることがある。オスがよく鳴くのは午後の日が傾いてきた時間帯から日没後の薄明までの時間帯である』。『鳴き声は「ジー…」と鳴き始めたあと「ジジジジジ…」とも「ジリジリジリ…」とも聞こえる大声が15』秒から『20秒ほど続き』、『「ジジジジジー…」と尻すぼみで鳴き終わる。単調で、抑揚のあるニイニイゼミと識別出来る。この鳴き声は昼下がりの暑さを増幅するような響きがあり「油で揚げるような」という形容を使われることが多い。「アブラゼミ」という和名もここに由来する』。『このセミは「夜鳴き」をすることで有名である。もともと』、『このセミは薄暗く湿度の比較的高い時間帯を好むため、最も盛んに発声活動をするのが夕刻時である。深夜の発声活動はその延長であるが、生息密度がある程度高い時期にしか普通は鳴かない。また、クマゼミ・ミンミンゼミ・エゾゼミも、生息密度が高い時期は夜中に鳴いていることも多い。しかし、これらのセミと比較してもアブラゼミは特に夜鳴きをしやすいセミであるため、少しでも生息密度が高くなればすぐに夜鳴きをする傾向がある』とある。リンク先で鳴き声(合唱の一部)を再生出来る。

 小泉八雲が引いた句の作者は不明である。因みに『( ? )』は訳者の大谷が附したものであって、原典には、この通り、ない。この句や作者は、調べてはみたが、不明であった。

「秋山蓮三」(れんぞう)は恐らくは動物学者である。確実な生歿年を確認出来なかったが、国立国会図書館デジタルコレクションのこの画像データの一部に、『浩瀚なる内外普通動物誌の著者であり、』「コムカデ」(節足動物多足亜門コムカデ(結合)綱 Symphyla)『の名附の親たる秋山蓮三氏の御長逝を哀悼するものである』という記載があることから(恐らくは「コムカデ」という和名の発案者と思われる)、当該資料の刊行された昭和一三(一九三八)年三月以前か前年昭和十二年後期に没している可能性が高い。ネットでは彼の専門的学術書が複数冊ヒットし、国立国会図書館デジタルコレクションで検索しても、かくある。その数種のデータを調べてみたが、この手の学術書や受験参考書にしては不思議なことに肩書きがまるで見当たらない。【同日夜:追記】いつも私の公開テクストを見て戴き、各種の御指摘を頂戴するT氏よりメールを貰い、国立国会図書館デジタルコレクションの「魚類に就て」(PDF)という『東京動物學會明治三八(一九〇五)年十二発行の『動物学雑誌』の「雜錄」に、『三重縣師範學校敎員』とある旨の御教授と、ウィキの「ミズグモ」の中に(これ、実は私が既に、「宿直草卷二 第三 百物語して蛛の足をきる事」でそこを引用していた!)、昭和五(一九三〇)年に京都の中学校(校名は不明)の博物科担当教諭(うひゃあ! こんな素敵な科と教員がいたんだ! 調べてみると、旧制中学校の科目にしっかり「博物学」があり、動物学・植物学・鉱物学を教えていたらしい)であった動物学会『會韻秋山蓮三』と名が出ていることをお教え下さった。所謂、インキ臭いアカデミズム系の学者ではない、市井の古き良き博物学者の最後の方だったのだろうと思うと、なんだかしみじみしてしまった。

 

Plate4

        PLATE IV.

1-2, Mugikari-Zémi, also called Goshiki-Zémi.

3, Higurashi.

4, “Min-Min-Zémi.”

[やぶちゃん注:訳す。

       第四図版

1-2 「ムギカリゼミ」、或いは「ゴシキゼミ」と呼ぶ。

3 「ヒグラシ」。

4 「ミンミンゼミ」。

4」の句点は外に出した。

「麦刈蟬」。「五色蟬」。以下に見る通り、現在の標準和名ニイニイゼミの異名。種の詳細は以下の「四」の後注を参照。

「蜩」(日暮れ時(実際には日の出頃も有意に鳴き、日中でも小暗い林中では普通に鳴いている)に鳴くことから「日を暮れさせるもの」の意から)。現在の標準和名。後の「五」を参照。

「ミンミン」はオノマトペイア。後の「六」を参照。]

 

         ムギカリゼミ譯者註一四

 

 ムギカリゼミ(麥刈蟬)又の名ゴシキゼミ(五色蟬)は夏早く出る。シインシン――チイチイといふ綴音に似た、調子の異なった二樣のはつきりした音を出す。

譯者註一四 普通ニイニイゼミ(蟪蛄)と呼ばれて居るものなるべし。ムギカリゼミ、ゴシキゼミの名のほかにナツゼミ、コゼミの名あり。

[やぶちゃん注:セミ亜科ニイニイゼミ族ニイニイゼミ属ニイニイゼミ Platypleura kaempferiウィキの「ニイニイゼミ」より、一部を引く。なお、本邦産ニイニイゼミ族 Platypleurini は二属六種が知られているが、上記ニイニイゼミ以外の五種の分布は全て南西諸島の限定された島嶼部のみの固有種である(以下にも出るが、各種に詳細はリンク先を見られたい)。『日本・台湾・中国・朝鮮半島に分布する小型のセミで』、『成虫の体長は20-24mm。生きている時は全身に白っぽい粉を吹くが、頭部と前胸部の地色は灰褐色、後胸部と腹部は黒い。後胸部の背中中央には橙色の"W"字型の模様がある。他のセミに比べて体型は丸っこく、横幅が広い。複眼と前翅の間に平たい「耳」のような突起がある。また、セミの翅は翅脈(しみゃく)以外透明な種類が多いが、ニイニイゼミの前翅は褐色のまだら模様、後翅は黒地に透明の縁取りである』。『ニイニイゼミとその近縁種の抜け殻は小さくて丸っこく、全身に泥をかぶっているので、他のセミの抜け殻と容易に区別がつく。また、他種に比べて木の幹や根元などの低い場所に多い』。『北海道から九州・対馬・沖縄本島以北の南西諸島、台湾・中国・朝鮮半島まで分布する』が、『喜界島・沖永良部島・与論島には分布しない』。『日本産のセミとしては学名の記載が早かった種類で、学名 "kaempferi" は、江戸時代に長崎・出島に』商館医として『赴任したドイツ人医師エンゲルベルト・ケンペル』(Engelbert Kämpfer 一六五一年~一七一六年:現代ドイツ語の読みでは「エンゲルベアト・ケンプファー」)は、ドイツ北部レムゴー出身の医師で博物学者。ヨーロッパにおいて日本を初めて体系的に記述した「日本誌」の原著者として知られ、出島(でじま)の三学者の一人。因みに他の二人(やはり長崎商館医)はスウェーデン人医師で植物学者にしてリンネの弟子であったカール・ツンベルク(Carl Peter Thunberg:原語発音転写では「カール・トゥーンベリ」が近い)と、知られたドイツ人医師で博物学者のフィリップ・フランツ・フォン・シーボルト(Philipp Franz Balthasar von Siebold:「シーボルト」は正確な音転写では「ズィーボルト」)である)『に対する献名となっている』。『平地の明るい雑木林に生息し、都市部の緑地などでも見られるが、幼虫が生存するには湿気を多く含んだ土壌が必要で、乾燥する公園などでは数が少ない。ただし』、『近年は都市部で復活傾向も見られる』。『地域にもよるが、成虫は梅雨の最中の6月下旬頃から7月頃にかけて発生し、他のセミより早く鳴き始める。8月には少なくなり、9月にはあまり見られなくなる。地中から出てきた幼虫は、他のセミの幼虫と比較して割と木の根元付近で羽化する。成虫になるまでの時間が短く、羽化した日の夜のうちには飛行が可能になる。成虫はサクラの木によく集まり、人の手が届くような低い枝にもよく止まる。体の灰褐色と翅のまだら模様は樹皮に紛れる保護色となっていて、遠目には「木の幹に小さなこぶがある」ように見える』。『オスは翅を半開きにして「チー…ジー…」と繰り返し鳴く。鳴き始めは「チー」が数秒、急に音が高く大きくなって「ジー」、数秒』から『10秒ほどで緩やかに「チー」へ戻り、数秒後に再び「ジー」となり、鳴き終わりは「チッチッチ…」となる。日中の暑い時間帯には鳴く個体が少ないが、明るいうちはほぼ一日中鳴き、夜でも街灯などの近くで鳴くことがある。他のセミが鳴かない朝夕の薄明頃にはヒグラシと並んでよく聞こえる』。『交尾が終わったメスは枯れ木に産卵管をさしこんで産卵する。セミの卵は孵化するまでに1年近くかかる種類が多いが、ニイニイゼミの卵はその年の秋に孵化する』。『上述のように』、『ニイニイゼミは乾燥した環境に弱いセミとされてきたが、近年の増加傾向を見る限り、乾燥への耐性を徐々に身につけつつある可能性が高い。かつて、このセミは東京ではアブラゼミと並ぶ最普通種であったが、一時(90年代~2000年代前半)は極端に数を減らしていた。ちなみに、田園地帯では昔も今もごく普通のセミである』とある。You Tube 浅見氏の「ニイニイゼミの移動と鳴き声」をリンクさせておく。

「蟪蛄」「けいこ」であるが、小学館「日本国語大辞典」では、これを『ツクツクボウシ』(セミ亜科ツクツクボウシ族ツクツクボウシ属ツクツクボウシ Meimuna opalifera。小泉八雲は後の「五」に出す)『をいう。夏だけ生存して春や秋を知らないところから、短命のたとえとする』などと書かれてあり、「莊子」の「逍遙遊篇一」にある、「朝菌不知晦朔、蟪蛄不知春秋。此小年也。」(「朝菌(てうきん)は晦朔(くわいさく)を知らず、蟪蛄は春秋を知らず。此れ、小年なればなり。」。「朝菌」は「朝生えて、晩には枯れる茸(きのこ)」のこと。「晦朔」はここでは「一ヶ月に晦日(みそか)と朔日(ついたち)があること」を指す)を解説して、蟪蛄は蜩(セミ亜科ホソヒグラシ族ヒグラシ属ヒグラシ Tanna japonensis)を指すとのたもうておられる御仁も莊かけるが、ニイニイゼミの中文ウィキには、バッチリ、漢名を「蟪蛄」で掲げているし、流石は大修館書店の「廣漢和辭典」、「蟪」(及び「蟪蛄」も)に『なつぜみ。にいにいぜみ』とある大谷先生、大正解です!

 

         ヒグラシ或は『カナカナ』

 

 『日を暗くす』といふ意味の名を有つた此蟬は日本の蟬類中一番顯著なものである。一番巧妙の歌手といふのでは無い。然し旋律家としてもただツクツクボウシの次位に位するだけである。他の多數の蟬はその樂(がく)を燃える日盛にだけ奏して、雨雲が日をかぎらふ折にさへ中止するのに、これは未明と日沒にだけ歌ふ特別な黃昏の樂師てある。ヒグラシは東京では通例六月の末七月の初め頃現はれる。其驚くべき――カナ、カナ、カナ、カナといふ――叫聲は、いつも高い明瞭な調子に始まつて、徐々に低うなるが、いかにも上等な呼鈴を極早く振る音に酷似して居る。亂暴に振る時のやうな、ヂヤリンヂヤリンといふ音では無くて、速くキマリがついて、兼ねてまた驚く許り淸亮[やぶちゃん注:「せいりやう(せいりょう)」。音が清らかで澄んでいること。]な音である。一匹のヒグラシを四分の一哩[やぶちゃん注:「哩」は「マイル」。約四百二メートル。]離れた處で明瞭に聞き得ると自分は思ふ。でも古昔の日本詩人也有が言つたやうに『ひぐらしは多きも八釜敷[やぶちゃん注:「やかまし」。]からず』譯者註一五である。ヒグラシの叫は、金屬の反響の如くに、力の强いそして貫通(つきとほ)す音ではあるが[やぶちゃん注:「强い」の後の句読点なしはママ。]、優雅とも思へる許り音樂的である。そしてそれには、暮れ初める時刻と調和した一種特別な悲哀な調がある。然しヒグラシの叫に關して最も驚く可き事實は、その一匹一匹の音色に特色を帶ばしめる個性である。正(まさ)しく同じ音調で歌ふヒグラシは一匹も居らぬ。十匹が同時に歌ふのを聞いて居て、一匹一匹の一音色が判然と區別の出來ることを諸君は認めるであらう。或る音色は銀の如く響き、或るものは銅の如く震ひひゞく。そして、重量と素質との異つた鐘を暗示する種々な音色のほかに、鐘の色をこんな形狀を暗示する差違すら音色に存して居るのである。

 ヒグラシといふ名は――黃昏、薄暗、朦朧の意味で――『日を暗くす』といふ意義を有つて居ることは既に述べた。ところで此の語を弄んだ――次記の例に見るやうに、その啼くのが暗黑の到來を促すと作者が信じて居る風にしての――澤山の韻文が日本に在る。

 

  日ぐらしや捨てて置いても暮るる日を  すて女

 

 或る悲哀な氣分を言ひ現はさうとした此の句は、西洋の讀者にはこじつけに思へるかも知れぬが、今一つの小詩――此聲が橫着者の良心に來たす効果に言ひ及ぼして居るの――は、ヒグラシを聞き馴れて居る人は誰れも感服するであらう。この序(ついで)に、これが初めてはつきりした聲で夕方鳴くと、鐘を突然に鳴らすと同樣に、全く人をびつくらさすことを述べてよからう。

 

  蜩や今日の懈怠をおもふ時  里桂

 

譯者註一五 その「百蟲譜」に「日ぐらしは多きも八釜敷からず。暑さは晝の梢に過ぎて夕は草に露置くころならん」とあり。

[やぶちゃん注:セミ亜科ホソヒグラシ族ヒグラシ属ヒグラシ Tanna japonensis圧倒的な文章量からも小泉八雲が蜩の音(ね)を特異的に好んだことが伝わってくる。私は幼少期から蜩の声が好きで好きでたまらない人間である。暑い夏は大嫌いだが、蜩の声だけで、それらを総て赦すという気が小さな頃から私にはあったのだ。そこには小泉八雲の謂うような、曰く言い難いある哀感が属性としてある。青年期にこの文章に触れた瞬間に私は小泉八雲と一身同体に成った気がして体が蟬が鳴くときのように、震えたのを忘れない。ウィキの「ヒグラシ」から引く。『日本を含む東アジアに分布する中型のセミで、朝夕に甲高い声で鳴く』。『日本ではその鳴き声からカナカナ、カナカナ蟬などとも呼ばれる。漢字表記は蜩、茅蜩、秋蜩、日暮、晩蟬などがあり、秋の季語にもなっている』。『成虫の体長はオス28-38mm、メス21-25mmほど。オスの腹部はメスよりも明らかに太くて長く、オスメスの区別がつけ易い。また、オスの腹腔内は大きな共鳴室が発達しているためほとんど空洞で、光が透けるほどである。体色はほとんど赤褐色だが、頭部の複眼附近、前胸の縁と背面中央は緑色をしている。ただし』、『体色は個体群によって変異することがあり、山地のものはより黒っぽくなる傾向がある』。『なお、おもにヒグラシの成虫の寄生虫としてセミヤドリガ(Epipomponia nawaiDyar, 1904)というガの一種が知られ、成虫の腹部に1匹』乃至『数匹の蛆虫型のセミヤドリガの幼虫が外部寄生していることがある。また』、『ニクバエ科の一種・ヒグラシヤチニクバエ』(ヒグラシヤドリバエ)Angiometopa cicadina Kato, 1943)『も稀にヒグラシに寄生するとされる』。『日本では北海道南部から奄美大島(原名亜種。亜種イシガキヒグラシは下記参照)と、ほぼ全国の範囲に生息する。日本以外では中国大陸に分布(朝鮮半島には分布しない。かつて記録されたことがあったが、現在は誤記録とされる)。広葉樹林やスギやヒノキの林に生息し、北海道から九州北部では平地から山地まで見られるが、九州南部以南ではやや標高の高い山地に生息する』。『俳句では秋の季語とされ、晩夏に鳴くセミのイメージがあるが、実際には(地域にもよるが)成虫は梅雨の最中の6月下旬頃から7月にかけて発生し、ニイニイゼミと同じく、他のセミより早く鳴き始める。以後は9月中旬頃までほぼ連日鳴き声を聞くことができる』。『オスの鳴き声は甲高く、「キキキキキ…」「ケケケケケ…」「カナカナカナ…」などと聞こえる。標準的な聞きなしとしては「カナカナ」が使われる。日の出前・日の入り後の薄明時によく鳴くが、曇って薄暗くなった時、気温が下がった時、または林内の暗い区域などでは日中でも鳴く。夕方の日暮れ時に鳴く(稀に夜中の2時ぐらいにも鳴くことがある)ことから、「日を暮れさせるもの」としてヒグラシの和名がついた。また奄美大島産は鳴き声が本土産と多少異なるが、後述のイシガキヒグラシほどではない』。『朝夕に響く声は涼感や物悲しさを感じさせ、日本では古来より美しい声で鳴くセミとして文学などの題材にも使われてきた。テレビ番組などでも「夏の夕暮れ」を表す効果音としてこの鳴き声がよく用いられる。しかし間近で聞く声はかなり大きく、遠くで聴く「物悲しい印象」とは異なるともいう』。『イシガキヒグラシ(石垣蜩) Tanna japonensis ishigakianaKato, 1960)』は『石垣島と西表島に分布するヒグラシの亜種。分布が局所的で、環境省レッドリストで準絶滅危惧(NT)、さらに石垣島の個体群は沖縄県レッドデータブックで絶滅のおそれのある地域個体群(LP)に指定されている。オスの鳴き声は「キーンキンキンキンキキキキキ…」と聞こえる。基亜種ヒグラシよりも鳴き声が金属音的で、しり上がりにテンポが速くなる』とある。因みに私は一年中、長いパソコンの作業にはYou Tube TOMOKI Nature Sounds & Landscapes の「【作業用BGM】ひぐらしの鳴き声1時間/Nature sound healing music」を流すのを常としている。……亡くなったアリスと幻影の散歩をしながら……聴いている…………

 なお、日本人と本種「ひぐらし」の付き合いは永い。「万葉集」には蟬は題に二つ、和歌本文では以下の一首にしか出ない(巻第十五・三六一七番)。遣新羅使一行の道中吟詠の一首で、大石蓑麿(おおいしのみのまろ)の作(同巻目次冒頭に『天平八年丙子(へいし)[やぶちゃん注:七三六年。]の夏六月、使(つかひ)を新羅國に遣はしし時に、使人等(つかひひとら)の、各々、別れを悲しびて贈答し、また海路(うなぢ)の上(ほとり)にして旅を慟(いた)み、思ひを陳(の)べて、幷(あは)せて、所に當りて誦詠(しようえい)せる古歌) 一百四十五首』とある)。前書は『安藝國の長門の島にして礒編(いそへ)に舶泊(ふなはて)して作る歌五首』の冒頭。

   *

 石走(いはばし)る瀧もとどろに鳴く蟬の

    聲をし聞けば都し思ほゆ

   *

であるのに対して、蜩(ひぐらし)を歌った歌は実に九首を数えるのである。まず巻第八(一四七九番)

   *

   大伴家持の晩蟬(ひぐらし)の歌一首

 隱(こも)りのみ居(を)ればいぶせみ慰さまむと

    出で立ち聞けば來鳴(きな)く晩蟬

   *

巻第十に四首(一九六四・一九八二・二一五七・二二三一番。纏めて示す)

   *

   蟬を詠める

 默然(もだ)もあらむ時も鳴かなむ晩蟬の

    もの思ふ時に鳴きつつもとな

   蟬に寄せたる

 晩蟬は時と鳴けども戀ふるしに

    手弱女(たわやめ)我は時わかず泣く

   蟬を詠める

 夕影に來鳴く晩蟬幾許(ここだく)も

    日ごとに聞けど飽かぬ聲かも

   風を詠める[やぶちゃん注:前の歌の前書だが、ここに配してよかろう。]

 萩の花咲きたる野邊にひぐらしの

    鳴くなるなへに秋の風吹く

   *

巻第十五に三首(三五八九・三六二〇・三六五五番。同前)。三六一七番と同設定。

   *

 夕さればひぐらし來鳴く生駒山(いこまやま)

    越えてぞ吾(あ)が來る妹(いも)が目を欲(ほ)り

[やぶちゃん注:右は秦間滿(はたのはしまろ)の作。]

 戀繁(しげ)み慰さめかねてひぐらしの

    鳴く島陰に廬(いほり)するかも

[やぶちゃん注:三六一七番の前書の内の一首。]

 今よりは秋づきぬらしあしひきの

    山松蔭(やままつかげ)にひぐらし鳴きぬ

[やぶちゃん注:三六五二番の『筑紫の館(たち)に至りて遙かに本鄕(もとつくに)を望みて、悽愴(いた)みて作る歌四首』の内の一首。]

   *

巻第十七の『八月七日の夜に、守(かみ)大伴宿禰家持の館(やかた)に集ひて宴(うたげ)せる歌』の中の一首(三九五一番)。作者は大目(だいさくわん)[やぶちゃん注:四等官。]秦忌寸八千島(はだのいみきやちしま)。

   *

 ひぐらしの鳴きぬる時は女郞花(をみなへし)

    咲きたる野邊を行きつつ見べし

   *

この数を見ても、蜩が既にして万葉人の哀感に如何に共鳴した声であったかが判る(但し、万葉学者の中には広汎な蟬類を万葉集の「ひぐらし」と同義とする、則ち、「ひぐらし」=「蟬」=現在の全セミ類と解釈する非博物学的な暴挙をぶち上げている輩も多い)。なお、こうして見ると、「蟬」として詠まれた巻第十五の三六一七番歌は、文字数の違いとは言え、同設定で読まれた「ひぐらし」とは一線を画すものと私には見える。「石走(いはばし)る瀧もとどろに鳴く蟬」の声と蜩の声とは、どうも私には同一のものには思われないからである。瀧の音は「カナカナ」ではない。寧ろ、アブラゼミやクマゼミに相応しい。因みに、個人ブログ「古事記・日本書紀・万葉集を読む」の「万葉集3617番歌の「蝉」はツクツクボウシである説」は、詳細な検討を成された上で、『3617番歌の「蝉」は、ツクツクボウシのことで、都の井戸滑車の「蝉」を彷彿とさせて歌った歌であることを語学的に証明した』と結語されておられる。非常に興味深い(が私は俄かには賛同しかねる)ので読まれたい。

「也有」横井也有(よこいやゆう(歴史的仮名遣「よこゐやいう」) 元禄一五(一七〇二)年~天明三(一七八三)年)は江戸中期の俳人。通称、孫右衛門。本名、時般(ときつら)。別号に野又(やゆう:この場合は歴史的仮名遣もそのまま)・蓼花巷(りょうかこう)・知雨亭(ちうてい)・半掃庵(俳号)、暮水(ぼすい:和歌名)、蘿隠(らいん:漢詩名)、螻丸(けらまる:狂歌名)などを使い分けた。名古屋の人。横井家は尾張藩の名門で、也有十六歳の享保二(一七一七)年から六年間は第六代藩主徳川継友(つぐとも)の御近習詰(ごきんじゅづめ)を勤めている。享保十二年、二十六の時に父が他界し、家督知行一千石を継承して普請組寄合となる。三年後には御用人となり、初めての江戸勤番に出、四十歳で大番頭兼御用人となる。のちに寺社奉行も兼務した。多趣味多芸で、平家琵琶・謡曲・書画・詩歌・狂歌にも通暁していた。さらに武道にも精通しており、謙信流の兵法にまで及んでいた。俳諧は、祖父が太田巴静(はじょう)の父貞静と同じ季吟門であった関係上、祖父の指導を得てさらに巴静と交流していった。基本的に十五歳で自学自習を始め、一家言を持つに至った人である。仕官の時代から、暇さえあれば、句作や文章執筆に専念したが、職務には忠実で、勤めと趣味の区別は厳然としていた。宝暦四(一七五四)年五十三歳の時に致仕し、気の合った下男の石原文樵と二人きりの小さな別宅知雨亭(ちうてい)で、悠々自適の生活を送った。宝暦(元年は一七五一年)から次の明和(末年は十年で一七七二年)にかけて、也有の名は全国に響くようになり、江戸の大島蓼太、越前三国の遊女歌川らが来訪する一方、「去来問答評」では森川許六を批判し、「こだま草」では涼袋(建部綾足)批判を展開するなど、指導的役割も果たした。也有の俳諧活動は、必ずしも俳壇動向に敏感に反応するようなものではなかったが、同郷の加藤暁台(きょうたい)を庇護支援することによって、俳諧中興復古に参加した。その作品は平明且つ軽妙。著述は多く、発句集「羅葉集」「蟻づか」、俳論「管見草(くだみぐさ)」などの俳諧関係書や、若衆「蘿窓集」・漢詩文集「蘿隠編」、狂歌集「行々子(ぎょうぎょうし)」などもある。しかし、俳諧史に輝く俳文集「鶉衣(うずらごろも)」(前編は江戸開板で天明七(一七八七)年。私の愛読書である)こそが也有の真骨頂を示すものと言える。蕉風の俳文と異なり、軽妙な俳趣に富む点を特徴とする(以上は主文を「朝日日本歴史人物事典」に拠ったが、一部を私が追加をした)。

「百蟲譜」は「鶉衣」の「前編下」に載る。ここではその「蜩」(所持する二〇一一年岩波文庫刊堀切実校注の「鶉衣」では「日ぐらし」)とその前にある「蟬」を示す。近い将来、この也有の「百蟲譜」全体(短いものである)を電子化したいとは思っている。底本には国立国会図書館デジタルコレクションの志田義秀(ぎしゅう)著「花鳥虫魚百譜詳釋」(明四五(一九一二)年辰文館刊)に所収する正字版を用いた。「蟬」はここ「日ぐらし」はここ順序を原本に合わせて「蟬」「蜩」で示す。なお、この二つは繋がっておらず、この間に無関係な(旧暦五月で「蟬」に連関して挿入し、同じ蟬で繋がる平板さに変化をもたせたものであろう)「螢」が入る。それぞれに簡単な注を附した。〔 〕は私が添えた読み(堀切版を参考にした)で、一部に読点・記号を施した。踊り字「〱」は正字化した。

   *

蟬はたゞ五月晴(さつきばれ)に聞き初〔そ〕めたるはどがよきなり。やゝ日ざかりに鳴きさかる比〔ころ〕は、人の汗しぼる心地す。されば、「初蝶(はつてふ)」とも「初蛙(はつかはづ)」とも、いふことを聞かず。此者ばかり、「初蟬(はつせみ)」といはるゝこそ、大きなる手柄〔てがら〕なれ。『やがて死ぬけしきは見えず』と、此も者の上〔うへ〕は、翁〔をう〕の一句に盡きたりといふべし。

   *

『「初蝶(はつてふ)」とも「初蛙(はつかはづ)」とも、いふことを聞かず』の部分について、底本の志田氏の評釈に、『作者は斯く云うへど、初蝶、初蛙など全く云はざるにあらず。「夫木抄」に家隆の歌にて、「尋ね來るははかなき羽にも匂ふらん軒端の梅の花の初蝶』と詠めるものあり。又俳句にても、作者と殆ど同時代の白雄の句に、「初蛙水には啼かぬ夜聲なり」、「初蝶の小さく物に紛れざる」など作れるものあり。唯大體に於いて少き方なれば、斯く言へるのみ』とあり、堀切氏も『蛍布の「初蛙きはめて遠く聞く夜かな」』を引いている。

「やがて死ぬけしきは見えず」言わずと知れた、松尾芭蕉の名句。元禄三(一六九〇)年夏、幻住庵にて加賀の秋の坊が訪れ、翌日辞してる折り、山の麓まで芭蕉が見送った際に与えた句とする。これは「猿蓑」所収の句形で、

 頓(やが)て死ぬけしきは見えず蟬の聲

「卯辰集」(楚常編・北枝補・奥書元禄四年)では、

   無常迅速

 頓てしぬけしきも見へず蟬の聲

(「見へ」はママ)で載る。「やがて」は言わずもがな、「間もなく」の意。無常に添加する係助詞「も」より、取り立ての係助詞「は」がやはり遙かに良い。なお、この句は本篇のコーダにしっかり用いられている

   *

「蜩(ひぐらし)」は、多きも、やかましからず。暑さは晝の梢に過ぎて、夕〔ゆふべ〕は草に露をく比ならん。「つくつくぼうし」といふせみは、「つくし戀し」ともいふ也。『筑紫の人の旅に死して此〔この〕者になりたり』と、世の諺にいへりけり。哀れは、蜀魄〔しよくはく)〕の雲に叫ぶにも劣るべからず。

   *

「をく」「つくつぼうし」の表記はママ。「つくし戀し」はツクツクボウシのオノマトペイアの掛詞的地方異名。堀切氏の注に『『物類称呼』に「近江のつくしこひし」云々』とあり、近江地方の方言か』とあり、底本の志田氏の評釈もそれを挙げ、「つくしよし」の異名も掲げて、よく考証されている。必見。「蜀魄〔しよくはく)〕の雲に叫ぶ」は堀切氏の注に、『蜀』(?~紀元前三一六年に秦に滅ぼされた古蜀)『の望帝』(第四代君主とする)『は譲位後、再び位にとこうと』野心を再燃させたが、『失敗して死に、その魂はほとぎすとなって悲しげに鳴いたという。「蜀魄」は』鳥のホトトギスのことで、宋代の『『太平寰宇記』巻七十二「剣南西道」「益州」の条に「蜀之(の)後王、名は杜宇(とう)、望帝と号す。位を鼈霊(べつれい)に譲る。望帝自ら逃(に)ぐ。後位に復せんと欲するも得ずして死す。化して鵑(ほととぎす)と為(な)る。春月間毎に、昼夜悲鳴す。蜀人之を聞いて曰、我望帝の魂なりと」』とある。但し、中文サイトの「太平寰宇記」の同パートを調べた限りでは、少し違う。そこに出るのは、ウィキの「望帝杜宇」にでる伝承の一つである。ただ、この伝承、偽作や変形ヴァージョンが多いらしいので、堀切氏の注のそれがすっきり判って、私は、よいと思う。

「日ぐらしや捨てて置いても暮るる日を」「すて女」ここで言っておかねばならないが、「蜩」は、昔も今も、季題は秋である。こんな馬鹿な話はない。これだから、守旧派は嫌いなんだ。私は大の蜩好きで、今年の初音も聴き逃さない。概ね、早い場合は、五月の下旬に、遅くとも六月には鳴くのだ! 

「捨女」田捨女(でんすてじょ 寛永一一(一六三四)年~元禄一一(一六九八)年)は女流歌人・俳人。ウィキの「田捨女」によれば、『氏名は田ステで、「女」は名の一部ではなく』、『女流歌人の名に添える接尾辞である。法名は貞閑で、貞閑尼とも呼ぶ』。『丹波国氷上郡柏原藩(現在の兵庫県丹波市柏原地域』『)に、柏原藩の庄屋で代官も務めた田季繁の娘として誕生した』。六歳の時の作とされる、彼女の最も知られた句。

 雪の朝二の字二の字の下駄の跡

『という俳句を詠み、周囲にその才を認められる。後に北村季吟に師事』した』。延宝二(一六七四)年四十歳の時、『夫が死去したため』、『髪を下ろし』、『妙融と号した。この頃にはすでに貞門女流六歌仙の』一『人として著名であった』。『その後』、『子供らの独立を見届けた後、京都で俳諧・仏道などの修行を重ねた後』、元禄元(一六八八)年、『播磨国の天徳山龍門寺の傍らに「不徹庵」という庵を構え、貞閑と改名。その地で後進の指導に当たった』とある。私の好きな句を挙げると、

 水鏡見てよまゆかく川柳

 ぬれ色や雨のしたてる姬つゝじ

である。なお――蜩の名句――と言ったら、私は断然、その声に視覚の思い切った動きと景観のワイドさがぐっと絡まる、小林一茶の文化六(一八〇九)年の作、

 日ぐらしや急に明るき湖(うみ)の方(かた)

を挙げるに、躊躇しない。

「蜩や今日の懈怠をおもふ時」「里桂」懈怠「けたい」。一般名詞としては、近世までは「けだい」と読み、「怠惰」の意であり、句の表向きはその意でよいが、恐らくは字背に仏語としての「善行を修めるのに積極的でない心の状態」、則ち、精進の対義語としての意味があり、それも匂わせてこそ俳句としての良さが出るし、蜩の晩鐘のようなその声を重ねる以上は、是が非でも「けたい」で読むべきである。「里桂」は不詳。ただこの句、句柄をみるに、幕末から明治初期の近代俳人ではないかとも思われ、もしそうなら、明治一五(一八八二)年に発行された加藤東岡編「明治新撰俳諧姿見集」に「里佳」の俳号を見出せはした(調べたところ、熊谷在の俳人である)。

 最後に。知られた芭蕉の立石寺(山寺)の傑作、

 閑(しづか)さや岩にしみ入(いる)蟬の聲

の蝉の種については、長く論争があった。アブラゼミ説(斎藤茂吉。但し、後に以下の小宮から批判されて撤回)・ニイニイゼミ説(小宮豊隆)があり、ニイニイゼミ説が文学界では主流派のようである。しかし、芭蕉が立石寺に着いたのは元禄二年五月二十七日で、これはグレゴリオ暦で一六八九年七月十三日である。到着は午後二時過ぎであるが、それから麓の坊に宿を借り、やおら、寺に上ったのである。既に七月中旬に近いしかも夕暮れにかからんとする時刻であった。この頃、山形で蟬声を聴き得る可能性のある蝉としては、ニイニイゼミやアブラゼミの他に、ヒグラシ・エゾハルゼミ(セミ亜科ホソヒグラシ族ハルゼミ属エゾハルゼミ Terpnosia nigricosta)がおり、エゾハルゼミの声にはやや色気を感じはするが、ニイニイゼミやアブラゼミなんぞの騒々しい「音」は、とても芭蕉自身の姿さえ掻き消した静謐寂寞の幽界の石に貫入する「声」には相応しくない。私は断然、芭蕉が聴いたのはヒグラシでなくてはならないと考える人間である。私の『今日のシンクロニティ「奥の細道」の旅 37 立石寺 閑さや岩にしみ入る蟬の聲』も参照されたい。]

 

         ミンミンゼミ譯者註一六

 

 ミンミンゼミは大暑の頃鳴き出す。ミンミンといふ綴音を――初めは緩やかに且つ甚だ聲高く、後、倍々速かに且つ倍々聲和らかに、終には聲音がヴーンンといふやうな音に消え去る迄――反覆するのに、卽ちミンーミンーミンーミン、ミン、ミン、ミン、ミン、ミン、ズズズズズといふに似て居るので――ミンミンと稱せられて居るのである。その音は悲哀な調を帶ぴて居るが、不快では無い。往々僧侶が經文を誦する聲にたぐへられて居る。

譯者註一六 メンメンともヤマゼミとも呼ぶ。

[やぶちゃん注:セミ亜科ミンミンゼミ族ミンミンゼミ属ミンミンゼミ Hyalessa maculaticollis ウィキの「ミンミンゼミ」から一部を引く。『成虫の体長は33-36mmほど。幅が狭い頭部と太くて短い腹部をもち、太く短い卵型の体型をしている。ただし翅が体に対して大きく、翅を含めるとアブラゼミとほぼ同じ大きさになる。体色は胸部と腹部の境界付近が白いが、他は黒地の地に水色や緑色の斑紋があり、日本産のセミとしては比較的鮮やかな体色をしている。黒斑部がほとんどなく青緑色主体の個体もおり、これらはミカドミンミンと呼ばれる。抜け殻はつやがなくアブラゼミと同じくらいの大きさ』。『また、このセミはアブラゼミやニイニイゼミなどとは異なり、ヒグラシやエゾハルゼミと同じく森林性である。東京23区や横浜市、仙台市などでは例外的に街中でもミンミンゼミが数多く生息するが、その理由については後述する』。『ミンミンゼミは、アブラゼミやクマゼミと比べると暑さに弱い、とする仮説がある』。『愛知県では、名古屋市など夏の暑さが非常に厳しい地域ではこのセミがほとんど生息していない。その一方、知多半島南部や渥美半島西部など、夏に涼しい海風が卓越し最高気温の上昇が抑えられる地域には多数生息している。中でも特に涼しい伊良湖岬(渥美半島の先端部)では、生息密度が非常に高い。加えて西三河の豊田市を例に見ると、やはり似たような傾向が見られる。豊田市の中心部など、海抜の低いところではほとんど生息していないが、豊田市の山間部(旧足助町や旧稲武町など)では多数生息している。なおアブラゼミやクマゼミにはこのような地域によっての偏在傾向はなく、名古屋市中心部でも毎年多数発生しておりごく普通に見ることができる』。『鹿児島県では、市街地には全く生息していないが』、『海沿いの鬱蒼とした樹林には局地的に多数生息している。これに関しても、日中に海風が入り涼しい所を好んで棲んでいることがうかがわれる』。『このように、ミンミンゼミは暑さを好まず涼しい環境を好む傾向の強いセミである』。『しかし、これらの事実だけをもって「ミンミンゼミは暑さに弱い」と断定すべきではない。たとえば、夏の暑さが東京より厳しい松江市(しかもその暑さの程度は年々厳しくなっている)で、後述のようにミンミンゼミの生息数が昔と比べて増加しているという事実もある。これは上記の仮説とは明らかに逆行する事実である』。『夏期の最高気温が高温となりやすい甲府盆地では、体の黒味がほとんどないミカドミンミンの発生確率がかなり高い。黒は熱や光を吸収する色であるが、その黒地がほとんどない甲府盆地のミンミンゼミは、同盆地の夏の高温に対する耐性を身につけたタイプであると言われる』。『逆に、真夏でも涼しい北海道のミンミンゼミ(江差町など主に道南に生息する)は、むしろ体の黒味が標準型より強い個体がほとんどである。また特に、ロシアの沿海州地方に生息するミンミンゼミの多くはほぼ全身が真っ黒(羽は除く)という異様な体色をしている』。『このようにミンミンゼミは、生息する地域の夏の暑さによって自らの身体の色を調節している、という説がある。現に、甲府盆地のように暑さの厳しい地域では黒地のほとんどないミカドミンミン型、東京都心部や山形市のように暑さが中程度の地域では黒と緑が適度に混ざった標準型、そして北海道やロシア沿海州のように涼しい地域では黒地の部分の割合が高い黒化型が多く見られ、こうした地域変異が起こる理由は以上の通り説明可能である』。『ただし、このミカド型ミンミンは、夏の暑さがとりたてて厳しくない特定の地域においても局所的に多発することが知られている。具体的には、山形県の飛島、新潟県の粟島がその代表例である。飛島ではとりわけミカドミンミンの発生確率が高い(全体の1割強)が、いずれの島も夏の気温は低めで過ごしやすい』。『このため、「ミカドミンミンの発生と夏の気温との関係は無い」とする説も有力である』。『ミンミンゼミは傾斜地の樹木に生息することが多い。東京23区内でも、ミンミンゼミが多いのは傾斜地の公園であり、平坦な公園では少なくアブラゼミが主流となっている』。『これは、ミンミンゼミの幼虫が傾斜地における土中を好んで生息するためである。後述のようにミンミンゼミの幼虫はやや乾燥度の高い土中を好むのであるが、傾斜地における土も日中は太陽の光が当たりやすく、高温乾燥状態となりやすいためこのセミにとっては良好な環境である。そして、乾燥した土を好むというこのような幼虫の性格を見越し、ミンミンゼミの成虫(メス)は傾斜地における木を選んで卵を産み付けるのである』。『なお、ミンミンゼミがもともと低山帯の谷沿いに多く生息していて尾根沿いでは少ないのも、上述と同じ理由による。谷沿いは尾根沿いと比べて高温乾燥状態となりやすいため、谷沿いに繁殖しやすい』。『日本国内では北海道南部から九州、対馬、甑島列島に分布する。このうち、北海道・屈斜路湖の和琴半島にあるミンミンゼミ生息地が分布北限とされ、1951年に国指定の天然記念物に指定された(「和琴ミンミンゼミ発生地」)』。『大陸では、韓国や中国華北に生息し市街地にも生息する。鳴き声は、日本産のミンミンゼミとはやや異なり、冒頭の「ミーン」がなくいきなり「ミンミンミンミンミー」となる(セミの方言)。また、対馬産のミンミンゼミの鳴き声もこれとよく似ており、東京周辺のミンミンゼミの鳴き声とは幾分異なっている。なおツクツクボウシも、日本産と大陸産とでは少し鳴き声が異なる』。『韓国ではスジアカクマゼミと並んで普通のセミで、日本と比べると』、『地域的な生息数差は小さく国内のどこでも一定数の鳴き声が聞かれる。ソウル中心部でも、緑地帯では夏になると』、『このセミの声がたくさん聞かれる。中国では、北京や大連などで多く、特に大連では非常に多い』。『日本のミンミンゼミは土地の気候条件によって分布する範囲が限定されやすい。そのためアブラゼミをはじめとする他のセミと比べ、非常にいびつな分布をしている。分布決定にはもちろん、他の原因(異種間の棲み分け・植生・土壌の湿度等)が絡むこともあるが、とりわけ重要な決定要因として気候があげられる。もっともこれはミンミンゼミに限らずほぼ全ての昆虫において見られる傾向であるが、とりわけミンミンゼミにおいてはこの傾向が強く見られる。これは、気候の変化に対するミンミンゼミの感度が強く、繊細な昆虫であることを意味する』。『このセミは本来は森林性の昆虫であるが、前述のように東京都心部・横浜市や仙台市などでは中心オフィス街の街路樹でも普通に鳴き声が聞こえる』。『その理由は以下のとおりである。つまり、ミンミンゼミの幼虫は比較的乾燥した土中を好み、成虫はケヤキやサクラなどの樹木を好む。ヒートアイランド現象によって乾燥化が進んでいる東京都心部や仙台市中心部ではミンミンゼミの幼虫の成育に好ましく、またケヤキ・サクラなどの街路樹も多いので成虫となったミンミンゼミにとっても生活しやすい環境である。さらに、北東気流(やませ)の影響で夏に曇りがちの涼しい天候となりやすい東京や仙台の気候も、高温を嫌い、暑さに比較的弱いこのセミの生息数増加に大きく影響している』。『北関東平野部でミンミンゼミが少ない原因として、この地方では夏の猛暑日日数が東京や横浜と比較して多いことが挙げられる。一方、青森市や盛岡市のような北東北太平洋側でこのセミが少ないのは、北関東とは逆にこの地方の夏の気候がミンミンゼミにとって涼しすぎることが挙げられる』。『ミンミンゼミの鳴き声は、ヒグラシと同様に日本のドラマ、アニメなどの効果音としても頻繁に使用されており、夏の風物詩として知られているが、その生息分布は東日本太平洋側が中心である』。『東日本日本海側や西日本のミンミンゼミは山地に生息しており、平地や人口の多い都市には基本的に生息しておらず、鳴き声を聞く機会は非常に少ない。これに代わって平地や都市部ではアブラゼミやクマゼミの生息数が多いため、ミンミンゼミに代わってこれらのセミの鳴き声が夏の風物詩となっている』。『なお、北海道や青森県の市街地では夏にセミ自体の声が極めて少ないため、セミは夏の風物詩にはなっていない』。『夏の風物詩ミンミンゼミのオスは午前中によく鳴き、鳴き声は大きな声で、人間の耳ではっきり聞き取れる。標準的な聞きなしとしては「ミーン・ミンミンミンミンミー…」などであり、この鳴き声を繰り返す。この「ミン」という鳴き声は、三回ぐらいのときもあれば、五、六回以上続くときもある。東日本太平洋側では身近なセミなので、テレビ番組などでも「夏の日中」の効果音としてこの鳴き声がよく用いられる。しかし上述のように東日本日本海側や西日本の平野部にはミンミンゼミがほとんどいないので、安易なミンミンゼミの登場には違和感を覚える人もいる』とある。]

 

Plate5

        PLATE V.

1,“Tsuku-tsuku-Bōshi,” also called Kutsu-kutsu-Bōshi,”etc.  (Cosmopsaltria Opalifera?)

2, Tsurigané-Zémi.

3, The Phantom.

[やぶちゃん注:訳す。

       第五図版

1 「ツクツクボーシ」、或いは「クツクツボーシ」、等々とも呼ぶ。(学名コスモプサルトリア・オパリフェラ Cosmopsaltria Opalifera のことか?)

2 「ツリガネゼミ」。

3 ファントム(幻しのような見かけ上の形影)。

「クツクツボーシ」の後のコンマは外に読点で出した。Cosmopsaltria opalifera (Matsumura, 1907) は、セミ亜科ツクツクボウシ族ツクツクボウシ属ツクツクボウシ Meimuna opalifera (Walker, 1850) のシノニムであるから、小泉八雲の謂いは正しい。「2」は「釣鐘蟬」。由来は小泉八雲が本文(「八」)で書いてはいる。しかし、当該項でも記すが、これは現在の如何なる種なのか、私には同定比定が全く出来ない。これを特定種としたネット記載もどこにもないのである。困った。しかし、ここに図は載る。インセクターのセミの御専門の方なら、この絵で種を同定出来るのではないか? もし種を指示出来る方がおられれば、是非とも、お教え願いたい。“Phantom”は「幻・幻影」「幽霊・お化け」で、言わずもがな、「蟬の抜け殻」を指す。但し、英語では通常は“Cicada shell”で、小泉八雲独特のゴシック・ホラーのような洒落たキャプションと言えるのではないかと思い、敢えてかく意訳を添えておいた。]

 

         ツクツクボウシ

 

 日本の舊曆(自然の變化と表現とに關しては比較にならぬ程西洋曆よりも精確なもの)に據って言つて、死者の祭日のすぐ後にツクツクボウシは歌ひ出す。この蟬は鳥のやうに歌ふと言つてよろしい。ツクツクボウシとも、チヨコチヨコウイスとも、ツクツクホウシとも呼ばれて居る、――いづれも擬音的命名である。その歌の響は種々な作家に色々に模擬されて居る。出雲では普通の解釋は、

 

    ツク、ツク、ウイス

    ツク、ツク、ウイス

    ツク、ツク、ウイス――

      ウイ、オオス

      ウイ、オオス

      ウイ、オオス

      ウイ、オオス、ススススススス

 

 他の解釋では、

 

    ツク、ツク、ウイス

    ツク、ツク、ウイス

    ツク、ツク、ウイス――

      チイ、ヤラ

      チイ、ヤラ

      チイ、ヤラ

      チイ、チ、チ、チ、チ、チイイイ。

 

ところが或る人は、この音はツクシコヒシだと言ふ。古昔筑紫(九州の古名)の人が遠國で病氣の爲め死んで、その魂魄が一匹の秋蟬となつたもので、それてツクシコヒシ、ツクシコヒシ(『筑紫慕はし! 筑紫見たし!』)と絕え間無しに叫ぶのだといふ傳說譯者註一七がある。

 

 早出の蟬が一番聞き苦しい一番單純な音を出すといふのは奇妙な事實である。音樂的な蟬は夏までには出て來ぬ。そして就中最も複雜な最も瞭喨[やぶちゃん注:「れうりやう(りょうりょう)」。音が明るくすっきりとして、しかも冴え渡って鳴り響くさま。]たる聲を發するツクツクボウシは成育の最も遲いものの一つである。

譯者註一七 也有の「百蟲譜」に「つくつくほうといふせみはつくし戀しともいふなり。筑紫の人の旅に死して此物になりたりと世の諺にいへりけり。哀は、蜀魂の雲に叫ぶにも劣るべからず」とあり。

[やぶちゃん注:「筑紫慕はし!」の後の字空けは底本にはない。特異的に私が挿入した。

 セミ亜科ツクツクボウシ族ツクツクボウシ属ツクツクボウシ Meimuna opalifera ウィキの「ツクツクボウシ」より、一部を引く。南西諸島と小笠原諸島には以下の同属の固有種が四種が棲息する。孰れも本土のツクツクボウシによく似た形態ではあるが、鳴き声はそれぞれ有意に異なり、一一月・一二月でも、まだ鳴き声が聴こえることがある。

クロイワツクツク Meimuna kuroiwae(『大隅半島南部から沖縄本島まで分布するが、与論島には分布しない。また、指宿市や鹿児島市からの記録もある』。『成虫は7月から11月まで発生する。オスの鳴き声は「ジジジジ…」に、数秒ごとに「ゲッ!ゲッ!」という短い声が2回入る。鳴く時間帯は主に午前中で、ツクツクボウシとは異なる』)

オオシマゼミ Meimuna oshimensis(奄美大島・請島・徳之島・沖縄本島(沖縄市以北)・『久米島に分布し、名前は奄美大島に由来する。成虫は8月下旬から11月まで発生する。オスの鳴き声は「ジジジジ…」の合間に「カン!」という甲高い声が入る』)

イワサキゼミ Meimuna iwasakii(西表島・石垣島・台湾に分布。『成虫は7月下旬から12月下旬まで発生する。オスの鳴き声は「ジジジジジ…」と鳴き始め、声を大きくしながらハルゼミに似た「ジーッ・ジーッ・ジーッ」を十数回繰り返し、「ジジジジジ…」と尻すぼみに鳴き終わる』)

オガサワラゼミ Meimuna boninensis(小笠原諸島の父島・母島・弟島に『分布するが、クロイワツクツクに似るため』、『南西諸島から移入されたのではないかとする説もある。成虫は5月から12月まで発生する。小笠原の固有種として1970年に天然記念物に指定されたが、外来種として侵入した』トカゲの一種グリーンアノール(爬虫綱有鱗目トカゲ亜目イグアナ下目イグアナ科アノールトカゲ亜科アノールトカゲ属グリーンアノール Anolis carolinensis)に『捕食され、個体数が激減している』)

『晩夏から初秋に発生するセミで、特徴的な鳴き声をもつ。ツクツクホーシ、オーシンツクと呼ばれることもある』。『成虫の体長は30mm前後で、オスの方が腹部が長い分メスより大きい。頭部と前胸部は緑色で、後胸部の中央にも"W"字型の緑の模様があるが、他の後胸部と腹部は黒色が多い。また、オスの腹側の腹弁は大きく、縦長の三角形をしている。外見はヒメハルゼミやヒグラシに似るが、頭部の横幅が広く、腹弁が大きいことで区別がつく』。『抜け殻は小型で前後に細長く、光沢がない淡褐色をしている』。『北海道からトカラ列島・横当島』(よこあてじま)『までの日本列島、日本以外では朝鮮半島、中国、台湾まで、東アジアに広く分布する』。『平地から山地まで、森林に幅広く生息する。地域によっては市街地でも比較的普通に発生する(盛岡市など)が、基本的にはヒグラシと同じく森林性(湿地性)であり、薄暗い森の中や低山帯で多くの鳴き声が聞かれる。この発生傾向は韓国や中国でも同様である。成虫は特に好む樹種はなく、シダレヤナギ、ヒノキ、クヌギ、カキ、アカメガシワなどいろいろな木に止まる。警戒心が強く動きも素早く、クマゼミやアブラゼミに比べて捕獲が難しい』。『成虫は7月から発生するが、この頃はまだ数が少なく、鳴き声も他のセミにかき消されて目立たない。しかし他のセミが少なくなる8月下旬から9月上旬頃には鳴き声が際立つようになる。9月下旬にはさすがに数が少なくなるが、九州などの西南日本では10月上旬に鳴き声が聞かれることがある。なお、後述のように八丈島や岡山・長崎では7月上旬から鳴き始めることが知られている』。『ツクツクボウシはアブラゼミやニイニイゼミと比べて冬の寒さに弱いので、元来北日本では川沿いのシダレヤナギ並木など局地的にしか分布していなかった。しかし近年、盛岡や仙台においてこのセミが増えつつある。特に盛岡ではアブラゼミが激減している(仙台でもかなり減少している)が、ツクツクボウシは逆に増えている。これは気候変動が原因と考えられるが、生態学的に優位な立場にあるアブラゼミの数が減ったことで、ツクツクボウシが繁殖しやすくなったという原因もある』。『八丈島では、セミはツクツクボウシ一種しか生息しておらず、ひと夏中ずっと鳴いており』、『個体数も非常に多い。八丈島はツクツクボウシの楽園である』。『八丈島では7月上旬(年によっては6月下旬)、対馬でも夏の初めから現れる。その一方で本土では、岡山市や長崎市など特定の地域を除くと夏の終わりを象徴する昆虫とされている(岡山や長崎などでは近年は夏の初めから鳴きだすことが知られている)。捉え方を変えればアブラゼミなど他の大型のセミが数を減らしてから個体数が増すということである。以上のことからツクツクボウシは、アブラゼミなどとは時期的な棲み分けをしていると推察される』。『岡山・長崎などでのツクツクボウシの早鳴きについては、現在原因を解明中である。気候だけでなく、上述のように他種のセミとの関係も関わっている可能性が大きい』。『ツクツクボウシは東京などでは一般に晩夏のセミとされており、実際にそうなっているが、本来このセミはむしろ「夏の初めから現れるセミ」としての性格が強い。東京でも、夏の初めにツクツクボウシの声を聞く機会が少しずつ増えてきている。こうした傾向の原因が地球温暖化にあるのかどうかは不明である』。『オスは午後の陽が傾き始めた頃から日没後くらいまで鳴くが、鳴き声は特徴的で、和名もこの鳴き声の聞きなしに由来する。鳴き声は「ジー…ツクツクツク…ボーシ!ツクツクボーシ!」と始まる。最初の「ボーシ!」が聞き取りやすいためか、図鑑によっては鳴き声を「オーシツクツク…」と逆に表記することもある。以後「ツクツクボーシ!」を十数回ほど繰り返しながらだんだん速度が早くなり、「ウイヨース!」などと表現される鳴き方を数回繰り返したのちに、最後に「ジー…」と鳴き終わる』。『また、1匹のオスが鳴いている近くにまだオスがいた場合、それらのオスが鳴き声に呼応するように「ジー!」と繰り返し声を挙げる。合唱のようにも聞こえるが、これは鳴き声を妨害しているという説がある』。『大陸産のツクツクボウシの鳴き声は、日本産のものと比べて少し異なる(セミの方言)。またミンミンゼミも同じくやや異なっている』(引用元に音声ファイルが二種ある)とある。

 因みに。私はツクツボウシと言えば、もう、梅崎春生の事実上のデビュー作にして名品である「桜島」(リンク先は私のサイトの全注釈一括β版PDF)を想起せずにはいられない。特に、この『此の、つくつく法師の声を聞きながら、死んで行ったに違いない!』のシークエンスである(後者のリンク先は私の全注釈版分割ブログ版の『梅崎春生「桜島」附やぶちゃん注(8)』)。

『也有の「百蟲譜」に……』「五」で既出既注。「蜀魂」はママ。大谷の引用の誤りの可能性が高い。本邦では「魂魄」で霊魂だから問題はないが、中国の陰陽説では、人は死ぬと、陽気である「魂」が空中へ向かい、陰気である「魄」地下(この地上)に留まるとされたので、原典の伝承から考えると、「魄」でないとおかしい。]

 

         ツリガネゼミ

    此蟬は主もに四國に居るやうである。

 

 ツリガネゼミは秋蟬である。ツリガネといふは吊るしてある鐘――殊に佛敎寺院の大鐘――を指す言葉である。自分は此名稱の解釋に惑うて居る。といふのは、この蟬の音樂は、――立派な權威が明言して居るやうに――眞實日本のハアプ卽ち琴の音を思ひ浮かばせる。だから此命名は、鐘のゴオンと響く音に似た處があるからといふのでは無くて、鐘を撞いた後に響く、波また波の、好い唸り聲に似て居るといふので附けたものであらう。

[やぶちゃん注:図版注で述べたことを繰り返す。小泉八雲は原注で、『主』(お)『もに四國に居るやうである』と注記しているものの、彼は四国に行ったことはない。また、全体を終始、このような伝聞推定表現で書いていることが判然とする内容である。則ち、その「ツリガネゼミ」の鳴き声を、小泉八雲自身は、全く実地に聴いたことがないのだと考えてよいのである。しかも、これは現在の如何なる種なのか、私には同定比定が全く出来ないのである。これを特定種としたネット記載も調べた限りでは、どこにもない。このセミの種を知りたいとする現役の作家のツイートを見出したばかりである。しかし、ここに図は載るのである。或いは、インセクターのセミの御専門の方なら、この絵で以って種を同定出来るのではないか? もし、種を指示出来る方がおられれば、是非、お教え願いたいのである。よろしくお願い申し上げる。但し、新種である可能性は、ない。変種である可能性も多分、ない。奇形個体群なら、名前がついて、当代の大作家小泉八雲とあろう人物の耳にまで入るはずも、ない。伝聞であることから、この「ツリガネゼミ」は、既に掲げ尽くした本邦産の知られた種の何れかの地方名、特に敢えて小泉八雲が注しているところから、四国での方言名である可能性が頗る高い。さらに言えば、その声を「鐘を撞いた後に響く、波また波の、好い唸り聲に似て居る」とするなら、これはもうやはり「ヒグラシ」しかないのではないか!?! と、私は深く疑っているのであるが(しかし、図はヒグラシよりデカいように見える。何じゃこりゃあ!?!)。

 それにしても、今まで、これだけ詳細な訳者註を附してきた大谷が、これに何の注も附さないのは、如何にも解せない。いや、寧ろ、いろいろ専門家に聴いて見たが、まるで判らなかったために、ほったらかしにした、というのが実状だろう。 

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