小泉八雲 蟲の硏究 蝶 三・四 (大谷正信譯) / 蟲の硏究 蝶~了
[やぶちゃん注:本篇についての詳細は「小泉八雲 蟲の硏究 蝶 一 (大谷正信譯)」の私の冒頭注を参照されたい。]
三
蝶に關した日本の物語の大半は、既に述べたやうに、支那起源のもののやうに思へる。だが、多分土產(どさん)かと思へるのが一つある。それは極東には『浪漫的な戀』は無いと信じて居る人達の爲めに語る價値があるやうに自分には思へる。
[やぶちゃん注:「土產」原文“indigenous”で「土着の・原産の・固有の」の意。]
東京の場末の宗參寺といふ寺の墓地の後ろに、高濱といふ老人が住つて居た小さな一軒家があつた。愛想のいい人だつたので、近處の人に好かれて居たが、殆んど誰れもがこの男を少し氣が狂つて居ると思つて居た。僧侶の誓約をしたのならいざ知らず、人は誰れも結婚をするもの、そして一家を作るものと思はれて居る。處が高濱は宗敎生活を送つて居る人間ではなかつたのに、いくら勸めて妻を貰はうとはしなかつた。又、どんな女とも戀の關係のあつたことを聞いた者も無かつた。五十年以上全く獨身で暮して居たのである。
[やぶちゃん注:「宗參寺」原文“Sōzanji”。恐らく現在の東京都新宿区弁天町にある曹洞宗雲居山(うんござん)宗参寺(そうさんじ)(グーグル・マップ・データでここ)と思われる。天文一三(一五四四)年創建と伝える。知られた江戸前期の儒者で兵学者の山鹿素行の墓があることで知られる。]
或る年の夏、病氣に罹つて、自分は長くは生きて居れぬと知つた。そこで、後家になつて居たその義理の妹とその一人息子――高濱が好いて居た二十歲許りの靑年――とを呼びにやつた。二人は直ぐと來て、この老人の末期を慰めに出來る限りのことをした。
或る蒸し暑い午後のこと、其後家さんと息子とが病床で看病して居るうちに、高濱は眠つた。と同時に非常に大きな白い蝶が一匹部屋へ這入つて來て、病人の枕へとまつた。甥は扇子で拂ひのけたが、直ぐ枕へ還つて來る。また逐つても、また歸つて來るばかりであつた。そこで甥は追つかけて庭へ出て、その庭を橫斷り[やぶちゃん注:「よこぎり」。]、開いて居た門を通り拔け、近處のその寺の墓地へ行つた。ところが、遠くへ追はれるのをいやがるやうに、いつも彼の前の處を飛び𢌞つて、いかにもその素振りが變なので、蝶だらうか、それとも魔だらうかと、不審に思ひ出した。またも追つかけて、ずつと墓地の中まで隨いて[やぶちゃん注:「ついて」。]行くと、とある墓を後ろにして――女の墓を後ろにして――飛んで居るのが見えた。すると不思議にもその姿が見えなくなつた。いくら探しても居ない。それからその石塔を調べて見た。あまり聞き慣れぬ姓と共にアキコといふ名が彫つてあつて、アキコといふは十八の歲に死んだといふことも彫つてあつた。見たところ、確かに五十年許りも前に立てた石塔らしかつた。苔がそれにつき出して居たのであつた。だが、よく世話がしてあつた。前には新しい花が供へてあり、水槽[やぶちゃん注:「みづをけ」。]の水は近い頃一杯にしたものであつた。
病人の部屋へ歸つて來ると、その靑年は叔父が呼吸をしなくなつたと聽かされて吃驚した。死はこの眠つて居た男に苦痛無しに來たのであつた。死に顏は微笑して居た。
靑年は墓地で見たことを、その母に語つた。
『あ〻』と後家さんは叫んだ、『それでは、アキコだつたに違ひ無い』……
『アキコつて誰れですか、おつかさん』と甥は訊ねた。
後家さんが答へるには、
『このお前の叔父さんの若い時分に、叔父さんは、近處の人の娘で、可愛いいアキコといふもの娘と許嫁(いひなづけ)なされた。が、結婚の約束の日のほんの少し前に、アキコは肺病で死んだので、その亭主になる筈のこの叔父さんは大變悲しまれた。アキコを埋めてから一生、妻は貰はぬと叔父さんは誓はれた。そしていつも墓に近く居れるやうに、あの墓地の近くに此小家を建てられたのだ。それは皆んな五十年よりもつと前の事だ。その五十年の每日每日――冬も夏も同じやうに――お前の叔父さんは墓地へ行つて、墓を拜んで、石塔を掃除して、その前へお供へ物をしてやられた。だが、人にその事を云はれるのが嫌ひで、一とこともその事を口にはされなかつた、……では、到頭、アキコが迎ひに來たのだ。あの白い蝶はアキコの魂だつたのだ』
[やぶちゃん注:この話、小泉八雲の聴き書きなのだろうか。原話があれば、是非、読みたい、しみじみとした私好みの話なのである。
「五十年よりもつと前の事」本作品集「怪談」(“ KWAIDAN: Stories and Studies of Strange Things ”)の刊行は明治三七(一九〇四)年四月であるから、この高濱が、あき子と死に別れたのは幕末、単純計算で安政元(一八五四)年「よりもつと前の事」、嘉永・弘化(一八四八年から一八四八年まで)の頃の事ととなる。
「叔父」は総て「伯父」の訳でないと設定と合わない。]
四
も少しで書き忘れさうであつたが、古昔、宮廷で演ぜられた、蝴蝶のやうな服裝をした舞人が舞ふ蝴蝶の舞ひといふ古い舞ひが日本にある。今日でも時折、其舞ひが舞はれるかどうか、自分は知らぬ。餘程習ひにくい舞ひだといふ話である。本式に演ずるには舞人が六人要(い)る。特殊な恰好をして――足踏、姿勢、身振、一度一度凡て傳統的な規則に從つて――手鼓と太鼓、小さな笛と大きな笛、それから西洋のパンの知らぬ形の簫の音に合せて、極はめてゆるやかに互に旋り合うて――動作しなければならぬ。
[やぶちゃん注:「蝴蝶の舞ひ」の底本の傍点は「ひ」にはないが、おかしいので特異的に「ひ」も太字とした。なお、「一」の冒頭注で述べた通り、この本篇“BUTTERFLIES”の本文開始の前ページには、“butterfly dance”とキャプションした雅楽の胡蝶の舞の図を原本から(底本の訳書には載らない)。この舞楽については、ウィキの「胡蝶(舞楽)」を見られたいが、ここでは、You Tube のTheAccessPower氏の、二〇一二年四月二十八日に伊勢神宮で催された(演奏・神宮楽師)「伊勢神宮 春季神楽祭2012 舞楽・胡蝶」の動画をリンクさせておく。
「旋り」「めぐり」「まはり」「かへり」の読みが出来る。孰れでも、いい気がする。ハイブリッドに読まれれば、最も、よかろう。前のリンクの動画を見ると、そんな気がしたのである。
最後のパートの原文は“― and circling about each other very slowly to the sound of hand-drums and great drums, small flutes and great flutes, and pandean pipes of a form unknown to Western Pan.”であるが、ちょっと訳が逐語的に過ぎる。一九七五年恒文社刊の平井呈一氏の訳(「骨董・怪談」)では『羯鼓(かっこ)、大皷(おおかわ)、笛、簫、篳篥(しちりき)――西洋のパンの神などの存じもよらない形をした笛――などの音にあわせて、ごくゆるやかにめぐりながら舞うのである』と訳しておられ、日本語として躓かない。但し、敢えて言わさせ貰うと、『簫、篳篥――西洋のパンの神などの存じもよらない形をした笛――』の箇所は、『西洋のパンの神などの存じもよらない形をした笛』で、原文のその前が“small flutes and great flutes”であるからには、“great flutes”が「西洋のパンの神などの存じもよらない形をした笛」でなくてはならぬから、私は『簫、篳篥』ではなく、『篳篥、笙(しょう)』とすべきかと思う。]