小泉八雲 蟲の硏究 蝶 二 (大谷正信譯)
[やぶちゃん注:本篇についての詳細は「小泉八雲 蟲の硏究 蝶 一 (大谷正信譯)」の私の冒頭注を参照されたい。
なお、多数掲げられる発句は底本では四字下げであるが、ブラウザでの不具合を考えて上に引き上げた。]
二
蝴蝶に就いてのホツクの小蒐集は、この題目の審美的方面の日本人の趣味を說明する役に立つかも知れぬ。或る物はただ繪である――十七文字で出來て居る小さな色附けのスケツチである。或る物は一寸面白い思ひ付きか或は優雅な暗示かに他ならぬ。だが、讀者は變化を見出さるることであらう。讀者は或はこの詩句そのものは餘り好かれぬかも知れぬ。エピグラム風な日本の詩に對する趣味は徐徐に得なければならぬ趣味であつて、かかる作品の可能性を立派に評價の出來るのは、根氣づよい硏究の後、次第次第でなければならぬことである。十七文字の詩の爲めに辯護して何等眞面目な要求を爲すなど『途方も無いことだ』と輕卒な批評を下した人がある。然し、それではケエナの結婚饗宴譯註五の奇蹟を詠んだクレイシヨオの有名な句はどうだ。――
おとなしのニムフ神見つ顏染めつ
たつた十四綴音、しかも不朽の文字である。ところが日本の十七文字では、これと全く同じな不思議な事が――いや、もつと不思議な事が――一度や二度では無い、恐らく千度もこれまで爲されて居る。……とは云ふが、つぎに揭ぐるホツクには、これは文學的では無い理由で選擇したので、驚歎すべき處は少しも無い。
譯註五 新約約翰書第二章參照。
[やぶちゃん注:「エピグラム風な日本の詩」原文“The taste for Japanese poetry of the epigrammatic sort”。「エピグラム」(epigram)は「ある思想・見解・感懐を端的に鋭く表わした風刺的短詩・警句」を指す語。言わずもがな、「発句・俳句」を指している。
「綴音」「ていおん」或いは「てつおん」と読み、「二つ以上の単音が結合して生じた音」を指す。
「クレイシヨオ」リチャード・クラショー(Richard Crashaw 一六一六年~一六四九年)はイギリスの形而上派詩人・宗教詩人。ジョン・ダンの形而上詩などに比べると、内面の緊張や哲学的錯綜の深さに欠けるといわれることもあるが、イギリス文学ではバロック感覚を最大限に示す詩人である。そのイメージはカトリックの伝統に深く根ざし、十字架にかけられたキリストを想って涙するマグダラのマリアを「かの女(ひと)は燃える噴水か、はてまた涙する炎か」と形容し、涙の尽きない彼女の両の眼を「二つの歩く浴槽、二つの涙の動き/携帯用の簡便な二つの大海原」(詩「涙する人」から)と表現するように、感覚的、官能的な、身ぶりの大きいイメージを重厚に積み重ねて、カトリックの法悦境を歌い上げている(小学館「日本大百科全書」に拠った)。
「おとなしのニムフ神見つ顏染めつ」原文は“ Nympha pudica Deum vidit, et erubuit. ”でラテン語のオリジナル訳で示されてある。私が馬鹿なのか、この「十四綴音」という数え方が判らぬ(たまたま前の訳文は十四文字であるが、これは大谷の訳であって原文にはない)。識者の御教授を乞う。なお、これには以下の小泉八雲の原註が附されてある。
"The modest nymph beheld her God, and blushed." (Or, in a more familiar rendering: "The modest water saw its God, and blushed.") In this line the double value of the word nympha — used by classical poets both in the meaning of fountain and in that of the divinity of a fountain, or spring — reminds one of that graceful playing with words which Japanese poets practice.
訳してみる。
*
「内気なるニンフは彼女の神を見、顔を赤らめた。」(又は、より判り易い表現で、「控えめなる水(の精)は、神を見、赤面した。」)この行にあって単語「nympha」の持つ二重の意味合い――その古典的詩人は現実の「泉」の意と、「泉や水の神性」或いは「春」の意味の、両方で、それを用いている――は日本の詩人らが、常の優雅な言葉の遊びとしている表現法を想起させる。
*
「新約約翰書」は前の「日廻り」(田部隆次訳)の訳注に出たが、「新約」聖書の「約翰福音書(ヨハネふくいんしよ)」である。前後するが、本文の「ケエナの結婚饗宴」とは、「ヨハネによる福音書」の第二章にある、ガリラヤのカナに於ける婚礼の場でワインが無くなってしまったのを、キリストが六つの壺に水を入れさせ、瞬時に、それらを総てワインに変じさせた奇蹟を指し、先のクラショーの詩篇がそれをイメージして読まれていることを言っているのである。
以下の発句の作者については、『小泉八雲 蟬 (大谷正信訳) 全四章~その「三」・「四」』及び「小泉八雲 螢 (大谷正信訳)」で注した人物注は省略した。なお、「蝶」「蝴蝶」(=胡蝶)は春の季詞・季語。]
脫ぎかくる羽織すがたの蝴蝶かな 乙 州
鳥さしの竿の邪魔する蝴蝶かな (讀人不知)
[やぶちゃん注:一九七五年恒文社刊の平井呈一氏の訳(「骨董・怪談」)では、作者を一茶と示してある。これは「文政句帖」所収の一句で、文政七(一八二四)年の作。そこでは、
鳥さしの竿の邪魔する小てふ哉
の表記である。]
釣鐘にとまりて眠る蝴蝶かな 蕪 村
[やぶちゃん注:蕪村没(天明三(一七八四)年十二月二十五日)後の寛政一一(一七九九)年刊の丈左編「俳諧発句題苑集」に所収するものを発見した。そこでの表記は、
釣鐘にとまりて眠る胡蝶哉
である。]
寢るうちも遊ぶ夢をや草の蝶 護 物
[やぶちゃん注:谷川護物(たにかわごぶつ 安永元(一七七二)年~天保一五(一八四四)年)は伊勢の人。初め、井上士朗・高桑闌更の門に入り、後、江戸に出て鈴木道彦に学んだ。別号に田喜庵・鶴飛。]
起きよ起きよ我が侶にせん寢る蝴蝶 芭 蕉
[やぶちゃん注:貞享四(一六八七)年(芭蕉四十四歳)或いは前年の作。数書には、
起(おき)よ起よ我(わが)友にせんぬる蝴蝶(こてふ)
で出るが、真蹟短冊に、
獨酌
起よ起よ我友にせむ醉(よふ)蝴蝶
という異形(初案か)がある。例の荘子の話を諧謔した一句である。]
籠の鳥蝶を羨む目付きかな (讀人不知)
[やぶちゃん注:一九七五年恒文社刊の平井呈一氏の訳(「骨董・怪談」)では、作者を一茶と示してある。「文政句帖」所収の一句。文政六(一八二三)年作。そこでは、
籠の鳥蝶をうらやむ目つき哉
の表記である。]
蝶とんで風なき日とも見えざりき 曉 臺
落花枝にかへると見れば蝴蝶かな 守 武
[やぶちゃん注:読みは「らつかえだにかへるとみればこてふかな」(歴史的仮名遣。今までもそうだが、小泉八雲の原本でのローマ字表記は殆んどが現代仮名遣に近く、ここ(原本。右ページ)も音写すれば「らっかえだにかえるとみればこちょうかな」である)。荒木田守武(文明五(一四七三)年~天文一八(一五四九)年)は室町時代の連歌・俳諧作者。伊勢内宮一禰宜(いちのねぎ)。連歌を宗祇・宗長・猪苗代兼載(けんさい)に学び、天文一〇(一五四一)年に「俳諧之連歌独吟千句」(守武千句)を詠み、山崎宗鑑とともに連歌から俳諧が独立する基礎を築いた立役者である。]
散る花に輕さ爭ふ蝴蝶かな 春 海
[やぶちゃん注:青野(椿丘(ちんきゅう))太筇(たこう/たいこう/たきょう/たきゅう)輯「俳諧發句題叢 前編」のここに載る(「早稲田大学図書館古典籍総合データベース」の画像。右頁の六句目)。そこでは、
ちる花にかるさあらそふ胡蝶哉
の表記で、俳号の右上に「江戶」と記す。編者太筇(明和元(一七六四)年~文政一一(一八二八)年)は江戸後期の俳人で下総香取郡出身。通称は慶次郎。今泉恒丸(つねまる)に学び、小林一茶・夏目成美らと交わった。晩年は越後長岡と江戸で、半年ずつ暮らしたという。春海なる人物も並びから見て、同時代人である。]
蝶々や女の足の後や先 素 園
[やぶちゃん注:「素園」は加賀千代女の法名で、別号としても用いたもの。こちらの「千代尼句集」(PDF)の「乾」の「蝶」の部に(「々」は踊り字「く」)、
蝶々やをなごの道の跡や先
という別句形で見出せる。]
蝶々や花ぬすびとを踉けて行く 丁 濤
[やぶちゃん注:原本では、確かに、
Chōchō ya!
Hana-nusubito wo
Tsukete-yuku!
であるが、一九七五年恒文社刊の平井呈一氏の訳(「骨董・怪談」)では、
蝶々や花ぬすびとをつけて行き 丁濤
と訂して(?)掲げてある。作者丁濤は不詳。]
秋の蝶友なければや人に附く 可都里
[やぶちゃん注:五味可都里(ごみかつり 寛保三(一七四三)年~文化一四(一八一七)年)は甲斐の人。通称は宗蔵、益雄。別号に葛里・蕪庵・鶏鳴館など。加藤暁台・高桑闌更に学んだ。]
追はれてもいそがぬふりの蝴蝶かな 我 樂
[やぶちゃん注:「我樂」不詳。]
蝶は皆十七八の姿かな 三津人
[やぶちゃん注:松井三津人(みつんど ?~文政五(一八二二)年)は江戸中・後期の俳人。別号に月夜庵・落橙舎・不関居。大坂船町に住んだ。八千房駝岳(だがく)に学ぶ。]
蝶とぶやこの代のうらみ無きやうに(讀人不知)
[やぶちゃん注:一九七五年恒文社刊の平井呈一氏の訳(「骨董・怪談」)でも作者を記さない。]
蝶とぶや此世に望無いやうに 一 茶
[やぶちゃん注:「文化句帖」補遺所収。文化六(一八〇九)年作。
蝶とぶや此世に望みないやうに
で載るが、「五とせ集」では、上五が変わり、
飛蝶や此世に望みないやうに
とあり、文政版「一茶発句集」では、
蝶とぶや此世の望みないやうに
とある。]
波の花にとまりかねたる蝴蝶かな 文 晁
[やぶちゃん注:江戸後期の画家として知られる谷文晁(宝暦一三(一七六三)年~天保一一(一八四一)年)であろう。江戸出身。通称は文五郎、別号に写山楼・画学斎など。狩野派・土佐派・南宗画・北宗画・西洋画などの手法を採り入れ、独自の画風を創出して江戸文人画壇の重鎮となり、田安徳川家に仕え、松平定信編「集古十種」の挿絵も描いた。渡辺崋山ら、優れた門人も多い。彼は発句も嗜んだ。この句も絵描きらしい視点で詠じているのが窺われる。]
睦しや生れかはらば野邊の蝶 一 茶
[やぶちゃん注:「七番日記」所収。文化八(一八一一)年作。そこでは、
むつましや生れかはらばのべの蝶
の表記。]
撫子に蝶々白し誰の魂 子 規
[やぶちゃん注:「誰の魂」は「たれのこん」。明治二八(一八九五)年作。季語「撫子」で「夏」。「須磨古跡」と前書する。]
一日の妻と見えけり蝶二つ 蓼 太
[やぶちゃん注:「蓼太句集 二編」所収。]
來ては舞ふ二人靜の蝴蝶かな 月 化
[やぶちゃん注:広瀬月化(延享四(一七四七)年~文政五(一八二二)年)。豊後国日田(現在の大分県日田市)出身。商家広瀬氏(元は筑前福岡黒田藩の武士)第四代当主で名は貞高。通称は平八。俳号は桃潮・静斎・月下・秋風庵など。当初は其角門下の淡々の流れを学んだが、後に大島寥太に私淑し、蕉風へと移った。甥に著名な儒学者広瀬淡窓がいる。「二人靜」は実景としてはセンリョウ目センリョウ科チャラン属フタリシズカ Chloranthus serratus の、四月から六月に咲く花(茎の先に数本(二本の場合が多い)の穂状花序を出して小さな白い花をつける)であるが、その和名が、この花序を能楽「二人静」の、静(しずか)御前と、その亡霊の舞姿に喩えたものであるように、ここも花と蝶をそれにオーバー・ラップさせていると読むべきであろう。]
蝶を追ふ心もちたしいつまでも 杉 長
[やぶちゃん注:医師で俳人の井上杉良(さんりょう(推測) 明和七(一七七〇)年~文政一一(一八二八)年)の辞世の句とされる。個人ブログ「半坪ビオトープの日記」のこちらの記事に、千葉の野島崎灯台の近くの白浜海洋美術館の『入り口の岩の上に「杉長墳」なる石碑がある。杉長とは俳人井上杉良』『のことで、江戸で俳諧を学び、家督の医業も継いだ。小林一茶とも親交があり、松平定信の侍医も勤めたことがある。辞世の句は「蝶を追ふ心もちたしいつまでも」という』。五十九『歳で桑名にて没したあと、門人らによりこの地に「杉長墳」が建立された』とあるのに拠った。]
蝶に關した詩の如上の見本の外に、同じ題目での、日本の散文學の珍らしい實例の提供したいのが一つある。自分はただ、其自由譯を試みたのだが、原文はムシイサメ(蟲諫)といふ珍奇な古本に見出すことが出來るもので、これは蝶に向つて談論をして居る形式を採つたものである。然し實際は、社會の浮沈の道德的意義を暗示した、敎訓的譬喩談である。――
[やぶちゃん注:「ムシイサメ(蟲諫)」不詳。或いは、国立国会図書館の書誌データにある江村北海(正徳三(一七一三)年~天明八(一七八八)年)作の随筆「虫の諫」(全三巻・宝暦一二(一七六二)年板行)のそれか? 判らぬ。である。【2025年3月31日追記】今回、再校訂の中で調べたところ、揖斐高他五名の方の共同論文「国立国会図書館所蔵『虫の諫』 ─ ─翻刻と解題─ ─」(『成蹊人文研究』第三十一号(2023年)発行所収・PDF)で原文が確認でき、間違いないことを確認出来た。個人的には、理知の巧知は認めるが、これでもかという波状的なイカにもな換喩警句の機銃掃射は、途中でイヤ味を感じさせて、好きになれない。今どきのハナで笑うチョウチョウ発止の若者なら、面白がるであろうが。]
『さて、春の日の下に、風は穩かに、花は淡紅ゐに咲き、草は軟かく、人々の心は喜ばしい。蝶は到る處に嘻嘻として翔けり飛ぶ。如何にも多くの人が或は漢詩に、或は和歌に蝶のことを詠む。
『そして今の季節は、嗚呼蝴蝶よ、實にお前の幸福繁榮の季節だ。實に今はお前は美しくて、全世界にお前ほど美はしいものは無い程だ。その爲めに他の蟲が、皆んなお前を賞めて羨む。お前を羨まぬものは一人もありはせぬ。また蟲だけがお前を羨むのでは無い、人間もお前を羨んで賞める。支那の莊周は、夢にお前の姿を採つた。日本の佐國は死んでからお前の姿を執つて、幽靈になつて現れた譯註六。お前が起こす羨みの念は、ただ、蟲と人間とが有つて[やぶちゃん注:「もつて」。]居るだけでは無い。魂の無い物まで、その形をお前の姿に變へる。――大麥を見よ、蝶に成るでは無いか譯註七。
譯註六 發心集に『佐國愛華成蝶事』といふ題にて人の蝶となりし記事あり。
譯註七 搜神記に『朽葦爲螢、麥爲蝴蝶』とあり。
[やぶちゃん注:「發心集」(鴨長明(久寿二(一一五五)年~建保四(一二一六)年)晩年の仏教説話集)の巻一の第八話目「佐國愛華成蝶事 付六波羅寺幸仙愛橘木事」(佐國(すけくに)、華を愛し、蝶となる事 付(つけたり) 六波羅寺、幸仙、橘木(きつぼく)を愛する事」の主話部。画像で入手した和綴じ本「長明發心集」(慶安四(一五五一)年版)を視認し、カタカナをひらがなに直し、漢文読みは訓読し、難読箇所の読みのみを補い(読みを本文に出した箇所もある)、段落を成形したものを以下に示す。歴史的仮名遣の誤りは原本のママ。踊り字「く」は正字化した。濁点を一部に添えた。
*
或る人、圓宗寺(ゑんさうじ)の「八講(はつかう)」[やぶちゃん注:法華八講。延久四(一〇七二)年に始められた。]と云ふことに參りたりけるに、時待つほど、やゝ久しかりければ、其のあたり近き人の家をかりて、且(しばら)く立ち入りたりけるが、かくて、其の家を見れば、つくれる家(いゑ)の、いと廣くも非(あら)ぬ庭、前栽(せんざい)をゑもいはず、木共(きども)うへて、うへに假屋(かりや)のかまへをしつゝ、聊(いさゝ)か水をかけたりけり。
色々の花、かずをつくして、錦をうちをほへるが如く見えたり。
殊(こと)に、さまざまなる蝶、いくらともなく遊びあへり。
事(こと)ざまの、有難(ありがた)く覚へて、わざと[やぶちゃん注:わざわざ。]あるじをよび出でゝ、此の事を問へり。
あるじの云ふ樣(やう)、
「是れは、なをざりの事にも非ず。思ふ心ありてうへて侍(はん)べり[やぶちゃん注:以下総て読み同じ。]。をのれは、佐國[やぶちゃん注:大江佐国(生没年未詳)。大江道直の子。従五位下掃部頭。漢詩人として知られた。]と申して、人に知られたる博士(はかせ)の子にて侍べり。彼(か)の父、世に侍べりし時、ふかく花を興(けう)じて、折りにつけて、これを翫(もてあそ)び侍べりき。且(かつ)は、その心ざしをば詩にも作れり。
『六十餘國、見れども、未だ、あかず。他生(たしやう)にも、定めて花を愛する人、たらん。』
なんど、作り置きて侍べりつれば、
『自(おのづか)ら、生死(しやうし)の會執(ゑしう)にもや罷(まか)り成りけん。』
と、疑はしく侍りし程に、ある者の夢に、
『蝶に成つて侍る。』
と、見たる由(よし)を語り侍べれば、罪深く覚へて、
『然(しか)らば、若(も)し、これらにもや、迷ひ侍べるらむ。』
とて、心の及ぶ程、うへて侍る也。其れにとりて、唯(たゞ)、花ばかりは、なほ、あかず侍べれば、「あまづら蜜(みつ)」[やぶちゃん注:蔓性植物の一種とされる甘葛(あまずら)から採った甘い液体。当時、甘味料として使用していたという。]なんどを、朝ごとにそゝぎ侍べる。」
とぞ、語りける。
*
「搜神記」六朝時代の志怪小説。全二十巻。東晉の歴史家干宝(三一七年頃に在世)の著。以下は第十二巻の冒頭に配された、著者自身による化生(けしょう)的な自然の変化の摂理を述べた部分に出る。
*
故腐草之爲螢也、朽葦之爲蛬[やぶちゃん注:「きやう」。コオロギ。]也、稻之爲也、麥之爲蝴蝶也。羽翼生焉、眼目成焉、心智在焉。此自無知化爲有知、而氣易也。
*]
『だから、お前は高慢になつてかう思つて居る。「およそ此世に自分に優るものは何も無い」お前の心の中は大抵推察が出來る。お前は自分の身に滿足し過ぎて居る。だからこそ、お前はどんな風にも輕輕と吹かれて飛んで居るのだ。だから、お前は、いつも、いつも、「およそ此世に自分ほど、幸福な者は無い」と考へて――ちつとも、ぢつとしては居ないのだ。
『だが、お前の身の生立ちを少し考へて見たらよからう。懷ひ出して見る價値がある。お前の生立ちには下等な方面があるのだから。どうして下等な方面なんかとお前は云ふだらう。うん、お前が生れてから後隨分と長い間、お前の姿を嬉しがるやうな、そんな理由はちつとも無かつたのだ。其時分はお前はただの菜蟲、毛の生えた地蟲だつた。お前は裸身を蔽ふ一枚の著物さへ有てぬ位に貧乏だつた。そしてお前の姿は實に胸が惡るくなるやうなものだつた。其時分には誰れもお前を見ることをいやがつた。實際自分を恥づかしがるのは尤もだつた。お前は恥づかしさの餘り、其中へ隱れるやうに小枝や屑を集めて、隱れ場を造つて、それを枝へ吊るした。すると皆んなが「蓑蟲だ、蓑蟲だ」とお前を囃し立てたものだ。そして又お前の一生のうちの其時代は、お前の罪は實に深いものだつた。美しい櫻の木の柔かい靑葉の間へお前や、お前の朋輩が集つて來て、何んとも云へぬ醜い樣を見せた。櫻の美しさを讚めに遠方から來た、當てにして居た人達の眼はお前達を見ていやに思つた。それから、これよりももつと惡るい位な罪をお前は犯して居る。お前は知つてゐよう、貧乏な貧乏な男ども女どもが、その畠で大根を栽培して居たことを。その大根の世話をしなければならぬので、皆んなの心は辛い苦しいと思ふ念で一杯になる位、暑い日の下で骨折つて働いて動いて居たことを。だのに、お前は朋輩に勸めてお前と一緖にその大根の葉の上に、それからその貧乏な人達が植ゑた他の野菜の葉の上に集まらせた。そしてお前の貪慾から其葉を荒らし、それを囓んで色んな醜い形にした――その貧乏人の苦勞を少しも顧みずに。……さうだ、そんな者だつたお前は、そんなことをお前はしたのだ。
『處が、今は美くしい姿をして居るものだから、舊友を、蟲を、お前は輕蔑する。そして偶〻其うちの誰れかに遇ふと、いつもお前は知らぬ顏をする。今はお前は友人に金のある、地位の高い人だけを有たう[やぶちゃん注:「もたう」。持とう。]とする。……噫[やぶちゃん注:「ああ」。]、お前は古昔を忘れたのだ。え、さうかい。
『尤も、お前の過去を忘れて、今のお前の優しい姿や、白い翅を見て魅せられて、お前のことを詩につくつたり、歌に詠んだりする人が澤山にある。お前の前の姿であつたなら、お前を見ることさへ到底も出來なからうと思へる位の少女が、今は喜んでお前を眺め、自分の簪にとまつで吳れればいいと思ひ、降(お)りてとまつて吳れるかと、その綺麗な扇子を差し出したりされる。さう云へば想ひ出すが、お前に就いての支那の古い話がある。いい話ではない。
『玄宗皇帝の御世に、宮中には幾百幾千といふ美しい婦人が居られた。餘りに數が多いので、そのうち誰れが一番可愛らしいか、誰れにもそれを極めることが六つかしい位だつた。そこでその美しい人を皆んな一と處へ集められた。そしてその中へお前を放して飛ばせられた。お前がその人の簪の上へとまつた少女を帝(みかど)のお部屋へお召しになることに定められた。その時分、妃は二人あつてはならぬことになつて居た。それは結構な律(おきて)であつた。ところが、お前の爲めに、玄宗皇帝は其國へ非常な禍ひを加へられた。といふのは、お前の心は輕くで不眞面目だ。そんなに澤山の美しい女の中に、心の淸い人が幾人かあつたに相違ないのに、お前は美しいことだけ見ようとした。そこで、お前は外觀(みかけ)が一番に美くしい人の處へ行つた。其爲め近侍の女達の多くは、婦人の履むべき[やぶちゃん注:「ふむべき」。]正しい道を考へることは全く止めて、男の眼に美くしく思へるやうにするにはどうしたらと、そればかり考へるやうになつた。そしてその結末は、玄宗皇帝は痛ましい、憫れな死に方をなされることになつた。これ皆お前の輕薄不眞面目な心からのことだ。實際、お前の本當の性質は、他の事でのお前の行狀から容易く見ることが出來る。例を舉げて云ふと、樹木――常磐[やぶちゃん注:「ときは」。]の樫とか松とかいうやうな、葉が枯れたり落ちたりしないで、いつも靑靑として居る樹木がある。こんな木は情(こころ)のしつかりした木だ。堅固な性質をもつ木だ。ところがお前は、あの木は頑固で四角張つて居ると言ふ。そしてお前はそれを見るのを嫌つて一度も訪ねない。櫻と、海棠と、芍薬と、黃薔薇とだけへ行く。見榮のいい花の咲く木だから、お前はそんな木が好きなので、しかもそれをただ悅ばせようとだけする。そんな行爲は、わしは斷言するが、誠に不都合だ。この木どもは、美しい花を著けるには著けるが、飢ゑを充たして吳れる實は結ばず、贅澤や虛飾の好きな人だけに感謝して居る。お前の羽ばたく翅や花車な[やぶちゃん注:「きやしや」。華奢に同じい。]姿をその木共が喜ぶのはその爲めだ。お前に對して深切なのは全くその爲めだ。
『ところで、この春の季節に、お前は富者(かねもち)の庭をじやれて踊り步いたり、花盛り櫻の美しい小路の中をさまよつたりしながら、かう思つて居る。「この廣い世界に、自分ほどの愉快を有つて居るもの、自分が有つて居るやうな立派な友達を有つて居る者は一人もおりはせぬ。そして人が何んと云はうとも、自分は芍薬が一番好きだ、――それから金色の黃薔薇は自分獨りの寵人(おもひもの)だ。どんな一寸した命令(いひつけ)も皆んな聽いてやらう。あれは自分の自慢もの、自分の好きな奴だから」さうお前は云ふ。だが、花の裕かな美しい季節は極く短かいものだ。直ぐに枯れて落ちる。すると、夏の暑い頃には、靑葉だけになる。やがて秋風が吹くと、その葉すらも雨のやうにパラリパラリと落ちる。そしてお前の運命はさうなると、タノムキノモトニアメフルといふ諺の中にある不幸な人間の運命と同じにならう。といふ譯は、お前は舊友を、根を切る蟲を、地蟲を、探して、昔の穴へ歸らせて吳れと賴むだらう。ところが今、お前は翅を生やして居るから、翅のあるが爲めに、穴へ這入ることが出來ぬ。また天地の間、何處へも身を隱すことが出來ぬ。そしてその時分には沼草も皆んな枯れてしまつて居て、お前は舌を潤ほす一滴の露も吸ふことが出來なからう。――するとお前には仆れて死んでしまふほか爲(す)ることが殘つて居らぬことにならう。これ凡てお前の輕薄不眞面目な心の致す處だ。――噫、何んといふ憫れな最期だらう!』……
[やぶちゃん注:現代の生物学から考えると、狭義の蝶でない蓑虫の箇所などに、やや問題はあるものの、当時の倫理的見解からは、市井の人は横手を打つものでは、ある。
「タノムキノモトニアメフル」原文は“ Tanomi ki no shita ni ame furu [Even through the tree upon which I relied for shelter the rain leaks down] ”。諺で「賴む木(こ/き)の下(もと)に雨漏(も)る」が一般的。「折角、木蔭に雨宿りしたにも拘わらず、その甲斐もなくそこにも雨がひどく漏ってくる」から、「頼みにしていたにも拘わらず当てが外れること」の意。]
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