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2019/09/09

小泉八雲 或女の日記 (田部隆次譯) 附・オリジナル注

 

[やぶちゃん注:本篇(原題“ A Woman's Diary ”)は一九〇二(明治三五)年十月にニュー・ヨークのマクミラン社(MACMILLAN COMPANY)刊の“ KOTTŌ ”(来日後の第九作品集)の大項目で二話目(冒頭に配された“ Old Stories ”(全九話)を大項目で一群とした場合)、話柄数では十番目に配されたものである(以下、後者を使う)。作品集“ KOTTŌ ”は“Internet Archive”のこちらで全篇視認でき(本篇はここから。但し、これは翌一九〇三年の再版本)、活字化されたものは“Project Gutenberg”のこちらで全篇が読める本篇はここから)。

 底本は上記英文サイト“Internet Archive”のこちらにある画像データをPDFで落し、視認した。これは第一書房が昭和一二(一九三七)年一月に刊行した「家庭版小泉八雲全集」(全十二巻)の第八巻全篇である。★【2025年3月25日底本変更・前注変更】時間を経て、国立国会図書館デジタルコレクションに本登録し、現行では、以上の第一書房版昭和六(一九三一)年一月に刊行した「學生版小泉八雲全集」(全十二巻)の第七巻が、国立国会図書館デジタルコレクションで公開されてある。(リンクは扉だが、「學生版」の文字はない。しかし、奥附を見て貰うと『學生版 【第二囘豫約】』とあり、『昭和六年一月十日 發行』とあることが確認出来る)、これが、前掲の底本と同じものであるが、やはり、外国のサイトのそれを底本とするのは、日本人小泉八雲に失礼であると考えた。されば、こちらで、再度、以下の「骨董」の作品群を改めて校正することとする。これが――私の小泉八雲への「義」――である。なお、之よりも前の元版の全集等が先行しているものの、私がそれらと比べた結果、実は先行する同社の「小泉八雲全集」のそれらは、訳が一部で異なっており、訳者等によって、かなりの補正・追加がされていることが、今回の正字補正作業の中で、はっきりと判って来た。いや、同じ「家庭版」と名打ったネット上の画像データでも、驚いたことに、有意に異なっていたのである。そうした意味でも――完全な仕切り直しの総点検――が必要であると決したものである。従って、旧前振りの括弧・鍵括弧の問題も、拡大とガンマ補正で確認し、正確を期する。新底本の本話はここから。

 本文内の読み以外の( )や〔 〕は小泉八雲による挿入注である。原註(原文の原註は五十四項もあるが、田部はその内の十項だけを抄訳(さらに一部は内容を簡略化している)・訳者註(一つだけ)は最後にポイント落ち字下げで纏めてあるが、読みづらいので、適当な本文内に同ポイント挿入した。原註三の占いの記号は、特殊なものであるので、原本から、画像でトリミングし、拡大して添えておいた。

 長い作品なので、私の注を禁欲的に同じく適当な文中に配した。

 傍点「﹅」は太字に代えた。挿絵は底本にはないが、原本では各話の前後に同じ絵がサイズを変えて配されてある。“Project Gutenberg”版にある最初に配された大きい方のそれを使用した。挿絵画家は既に述べた通り、佐賀有田の生まれの画家江藤源次郎(えとうげんじろう 慶応三(一八六七)年~大正一三(一九二四)年)である。但し、本底本最後の田部隆次氏の「あとがき」によれば、『マクミランの方でヘルンが送つた墓地の寫眞と「獏」の繪「獏」の繪の外に、當時在英の日本畫家伊藤氏、片岡氏などの繪を多く入れたので、ヘルンは甚だ喜ばなかつたと云はれる』とある。それを考えると、挿絵の多くは、スルーされた方が、小泉八雲の意には叶うと言うべきではあろう。

 田部隆次(たなべりゅうじ 明治八(一八七五)年~昭和三二(一九五七)年)氏については先に電子化した「人形の墓」の私の冒頭注を参照されたい。

 本作は、悲惨小説でもなく、またひね曲がって変質してしまった日本の有象無象の自然主義を標榜する作品群とも全く異なる、日本人作家小泉八雲(彼の帰化手続が完了して「小泉八雲」と改名したのは明治二九(一八九六)年二月十日である)が書いた、真の日本の自然主義の、プレにして正統なる稀有な自然主義文学作品の一篇であると私は大真面目に思う。本篇を含む本書“ KOTTŌ ”は明治三五(一九〇二)年十月刊行である。因みに、日本製「自然主義」で金字塔扱いされる島崎藤村の「破戒」は、明治三九(一九〇六)年、田山花袋の「蒲團」は、その翌年の発表である。因みに、瞥見した銭本健二氏が担当された小泉八雲の年譜(一九八八年恒文社刊「ラフカディオ・ハーン著作集 第十五巻」所収)の明治三四(一九〇一)年の条によれば、本篇は小泉八雲の家の女中であった「お米(よね)」が嫁いだ鈴木幸三なる人物の先妻が残したものが素材であると明記されてある。]



Kotto_021

 

  或 女 の 日 記

 

 この頃やや珍らしい草稿が私の手に入つた、――細長い十七枚の柔い紙を、絹の紐で綴ぢて、表紙に麗しい文字が書いてあつた。それは或婦人が自分の結婚生活の歷史を自分で書いた日記のやうなものであつた。書いた本人が亡くなつてから、その人の持つてゐた針箱のうちに見出されたのであつた。

 この草稿を貸した友人は私に、公けにしてもよいと思ふだけ、如何程でも飜譯してもよいと云ふ許しを與へた。私はこの無類の好機會を利用して、下層社會の婦人の思想感情、喜びと悲みを、――丁度この婦人が、苟も[やぶちゃん注:「いやしくも」。]外國人がそのつつましい哀れな日記を讀まうなどとは夢にも思はないで、思ひ切つてあからさまに書き殘した通り、その儘英語に直す事にした。

 しかし彼女の優しい靈を尊敬してたとへこの人が生きてゐてこの文を讀む事があつても、少しも迷惑にならないやうに、その草稿を用ふるやうにした。神聖だと思つたので省いた處もある、又たとへ註釋を加へても西洋の讀者に分りさうにない習慣や地方的信仰に關する些細な事で省いたものも少しはある。それから勿論姓名は皆變へてある。その他の點ではできるだけ原文通りにして、――直譯では充分に分らない場合の外は一句も變へた所はない。

 

 この日記に述べてあり又暗示してある事實の外に、私は本人の履歷などは知る所殆んどない。この婦人は最下層社會の人であつた。彼女の話で見ると、三十近くまで未婚であつたらしい。妹の方が數年前から結婚してゐた。日記ではこの世間並でない事の理由は分らない。日記と一緖にあつた小さい寫眞で見ると、この人は綺麗とは云へなかつたことが分る。しかし顏付の優しいつつましげな一種人好きのする風に見える。夫はどこか大きな事務所の小使であつた、重に[やぶちゃん注:「おもに」。]夜勤であつて月給は十圓であつた。家計の助けに女は煙草屋の紙卷煙草を作つた。

[やぶちゃん注:後で日記に明治二八(一八九六)年及び明治三三(一九〇〇)年というクレジットが出る。当時の前者で給与所得者の平均年収は二百四十四円、大卒初任給平均は二十円、白米十キログラムの小売価格(東京)が八十銭であった。後者では給与所得者の平均年収は二百七十四円、大卒初任給平均は二十三円、白米十キログラムは一円強である。]

 

 日記を見ると、彼女は數年學校に行つた事があるに相違ない事が分る。假名[やぶちゃん注:「かな」。]は中々巧みに書けるが漢字は澤山は知らなかつたので、この日記は小學生の少女が書いたもののやうである。しかし誤りのない慣れた風に書いてある。東京語(市民の通用語)で、癖のある言葉が多いが、下卑な所は少しもない。

 

 日常の生活さへ困難であるのに讀んで貰へさうにもない日記を、御苦勞にも書くなどとは如何なる理由だと、無理ならぬ疑を起す人もあらう。このやうな問を發する人には、昔から日本の敎では悲しい時に歌や詩を作るのは、一番よい藥になつてゐる事を知らせたい。又下層社會に於ても今日でもなほ凡て喜びや悲しみの場合には歌を作ると云ふ事實を知らせたい。この日記の後半は淋しい病氣の時に書かれたのである。淋しさの餘り氣も狂ひさうな時に、重に心を靜める爲めに書いたのであらうと思はれる。死ぬ少し前には元氣も沮喪してゐた、それでこの日記の終りの部分は弱い便りない肉體に對して、精神が最後の奮戰をした事を示して居るやうである。

 

 草稿の表には『昔話』と題してあつた。昔とは數百年前の事實、或一個人の過ぎ去つた昔の事を云ふのである。勿論この場合ではあとの方の意味に使つてある。

[やぶちゃん注:以下、日記の部分は、全体が、ポイント落ちで以上の本文二字分の下げ位置で始まっているが、同ポイントで引き上げて示した。]

 

      昔  話

 明治二十八年九月二十五日の夕方、向ひの家の人が來て問うた。――

 『御宅の御總領の事ですが、お片つきになつてもい〻のでせう』

 そこで返事はかうであつた。

 『出したい事は出したいのですが、何分支度ができてゐませんので』

 向ひの人は云つた。――

 『しかし、さきでは支度などはいらないと云ふのですから、私の云ふ人におやりになつて下さいませんか。中々堅氣な人だと云ふ評判です。年は三十八歲です。御總領は二十六位だと思ひますから、先方へ云ひ出して見たのですが……』

 『い〻え……二十九ですよ』と答へた。

 『あ〻……それなら先方へ今一應話して見なければなりません。先方に話してから御相談に參ります』

 さう云つて向ひの人は出て行つた。

 

 翌晩、向ひの人が又來て――今度は岡田氏の細君(うちの知人)と一緖に――それから云つた。

 『先方は滿足です――そこであなたも御承諾ならこの緣談は整ひます』

 父は答へて、

 『二人とも〔七赤金〕原註一だから合性です――大丈夫差支ゐりますまい』

 仲人は尋ねた、

 『それでは見合は明日致すことに取計つて如何です』

 父は答へた。

 『全く何事も緣ですから……それでは明晚の今頃岡田さんの宅で會ふ事にして下さい』

 こんな風に、約束が雙方でできた。

原註一 七赤金。父はたしかに「三世相」のやうな占ひの本か、或は專門の占師に相談したのである。

[やぶちゃん注:「三世相」「さんぜさう(さんぜそう)」と読む。本来は過去・現在・未来 の三世の因果吉凶を仏教・卜筮(ぼくぜい)・陰陽五行の説などと絡めて、各人の生年月日や人相などから解明できるとした占術法の名。唐の袁天綱の創始とされ、本邦では江戸時代にこの考えを日常生活に必要な、十干十二支・月の上弦下弦・日食月食・夢判じ・呪いなど全二百八項目について、百科全書的に絵入りで解説した「三世相」という本が流行した(「ブリタニカ国際大百科事典」に拠る)。ここも後者のそれである。同名を書名中に含む沢山の占い本が、明治から昭和前期にかけて有象無象、多数、出版されている。試みに国立国会図書館デジタルコレクションの画像で、その一つの明治二五(一八九二)年出版の櫻井貢著「永代三世相 萬曆大雜書 全 附 元三大師みくじ大全」をリンクさせておく。なお、私はその方面への興味が全くないので「七赤金」については調べない。]

 向ひの人は翌晚岡田の宅へ私を連れて行かうと云つたが、私は何分一度踏み出した以上、のつぴきならぬ事ですから、母と二人だけで參りたいと云つた。

 母とその家へ行つた時「こちらへ」と云つて迎へられた。それから始めてお互に挨拶した。しかし何だかきまりが惡くて顏を見る事ができなかつた。

 それから岡田氏は並木氏(夫の姓)に向つて『あなたは內で相談する人もないのだし、善は急げと云ふから、早速よいと思つたら、きめなすつては如何ですか』

 その返事はかうであつた、

 『私の方は充分滿足ですが、先方は如何考へて居なさるか分りません』

 『御覽の通りで引取つてもよいと思召すやうなら……』原註二と私は云つた。

 仲人は云つた。

 『それなら婚禮の日はいつがよいでせう』

 『明日はうちに居りますが、十月一日の方がい〻でせう』と並水氏は答へた。

 しかし岡田氏は直ちに云つた、

 『並木氏の留守の間に家の心配もあるから、明日の方がよくはないでせうか――どうでせう』

 初めはそれは餘り早過ぎると思はれたが、私は直ぐに翌日は〔大安日〕原註三であることを思ひ出した。それで私は承諾して、それから歸宅した。

原註二 「御承知になつて居る通り、私はお金も着物もない貧乏な女ですが、それでも貰つてやると云ふ御思召なら、私も喜んで參ります」と云ふ意味。

原註三 吉日、不吉日は日本の曆によれば、このやうな名で表してゐる。

Kotto_note01_01  先勝、――午前よし、午後わるし。

Kotto_note01_02  友引、――午前よし、午後は始めと終わりよく、中わるし。

Kotto_note01_03  先負、――午前わるし、午後よし。

Kotto_note01_04  佛滅、――全部不吉。

Kotto_note01_05  大安、――全部よし。

Kotto_note01_06  赤口、――正午だけよく、あとは全く不吉。

[やぶちゃん注:六曜(古く中国で時刻の吉凶占いとされたものが日本に伝わり、明治六(一八七三)年の太陽暦採用後に、近代化の波に負けずに、装い新たに日の吉凶占いとして民間で積極的に取り入れられてしまい、現在も広く行われているもの。「先負」は「せんぶ」、「赤口」は「しゃっこう」と読む)。図が描かれているので、“Project Gutenberg”版の画像を取り込んだ。なお、現行では「友引」は「⦿」、「赤口」は友引の白黒部分の反転型で示される場合が多い。

「並木氏の留守の間に家の心配もあるから」訳が半可通である。原文は“As there is cause for anxiety about the house being unoccupied while Namiki-Shi is absent [on night-duty],”]で「並木氏は――夜勤の折りに――家が留守なのが、いつも不安の種であられるから、」の謂いである。]

 父に話したら、不機嫌であつた。餘り早過ぎる、せめて三四日位の猶豫がなければならないと云つた。それから方角が宜しくない、外によくない事もあると云つた。

 私は云つた、――

 『でも、もう約束してしまひました、もう日を變へて下さいと賴む事はできません。實際留守の間に泥棒でも入つたら氣の毒です。方角が惡いと云つて、よしそれで死にましても私不服はございません、夫の家で死ぬのですもの……』それから又云つた。『それで明日は忙しくて後藤(妹婿)へ行く暇がありますまいから、只今行つて參ります』

 後藤へ行つた、しかし會つたら、私は云ひに來た事をその儘云ふのがこはくなつた。私はただかう云つてほのめかした。

 『私明日よそへ行かねばなりませんの』

 後藤は直ぐに尋ねた、……

 『御嫁さんにですね』

 もぢもぢしながらやうやく云つた、――

 『え〻』

 後藤は『どんな人ですか』と尋ねた。

 私は答へた、――

 『私の考へがきまる程、その人をよく見る事ができるやうな私なら、なにもわざわざ母に一緖に行つて貰ふわけがないぢやないの』

 彼は云つた、『それぢや、姉さんは一體何のために見合に行つたんです。……しかし』大分愉快さうに云ひ足した、『おめでたう』

 私は云つた、『とにかく、明日の事なんです』

 それから私は家へ歸つた。

 

 さて約束の日になつて見ると(九月二十八日)どうしてよいか分らぬ程澤山用意する事があつた。それに幾日も雨降りであつたので道が大層惡く、そのために一層困つた。ただ幸に、その日は雨が降らなかつた。私は何かこまごましたものを買はねばならなかつたが、母に何でも賴むと云ふわけにも行かなかつた、(賴みたかつたのだが)何分年の故(せゐ)で、母の足は餘程弱くなつてゐたから。そこで私は隨分早起きをして獨りで出かけて、できるだけの事を一所懸命にしたが、それでもまだ充分準備できないうちに午後二時になつた。

 それから髮を結ひに髮結の處に、又風呂にも行かねばならず――それがまたみんな暇が取れた。それから着物を着換へに歸つたが、並木氏からは何の使ひも來てゐなかつた。私はそれが少し心配になつた。丁度、夕飯が濟んだ時、使が來た。一同に一々暇乞を云うて居る暇さへなかつた、それからもう一生歸らない覺悟で出かけた、そして岡田氏の家に母と步いて行つた。

 そこで又母とも分れねばならなかつた。岡田氏の家內は私の世話をして、一緖に船町の並木氏の家へ行つた。

[やぶちゃん注:「九月二十八日」調べてみたところ、明治二八(一八九五)年の同日は土曜日で六曜は大安であった。しかし、縁談を決めてしまった前日の二十七日は仏滅であった。

「船町」原文“Funamachi”。ロケーションを隠しているので判らぬが、冒頭の小泉八雲の言葉に「東京語」と出、後で地名の「赤坂」「淺草寺」「東大久保」が頻繁に出るので、文字通りに東京市内市街近辺で、例えば、現在の東京都新宿区舟町(ふなまち)が強い第一候補に挙げられるか(グーグル・マップ・データ。以下同じ)。]

 三々九度の盃事も無事にすみ、又御開き原註四の時も思ひの外早く來たので御客は皆歸つた。

 『あとには二人差向ひとなり、胸打ち騷ぎ、その恥かしさ筆紙につくし難し』譯者註

 全く私の感じた事は、始めて兩親のうちを出て花嫁となり、知らぬ家の娘となつた事の覺えのある人にだけ分るであらう。

原註四 日本の婚禮では、不吉な意味のこもつた言葉、或は間接になりとも不幸をほのめかすやうな言葉を避けることになつて居る。

「すむ」「終る」「歸る」などその他澤山の言葉は婚禮では禁句である。それで一同お暇をすることを「お開き」と云ふ言葉に普通改める。[やぶちゃん注:改行はママ。原文ではベタであるから、不審(田部は一部を圧縮しているが、改行をするような大幅なカットはされていないから、なお不審なのである)。]

譯註一 著者はこの文句を譯して、更に原文はこの通りと、ローマ字で殘して置いた。これに依つて原文の體裁も想像できる。[やぶちゃん注:原本のここの左ページ最下部の注「3」がそれ。]

 あとで食事の時、私は大層きまりが惡かつた。……

 

 二三日後に夫の先妻(なくなつた)の父が私を訪ねて來て、云つた、――

 『並木氏は本當によい人です――堅い着實な人です。しかし小さい事にもやかましく小言を云ひ勝ちな人だから、氣をつけて、氣に入るやうになさるがよい』

 私は初めから夫の樣子を注意して見てゐて、實際中々嚴しい几帳面な人だと思つた。それで萬事氣に逆らはぬやうにしようと決心した。

 

 十月五日が里歸りの日であつた、それで始めて二人で一緖に出かけた。途中後藤を訪れた。後藤の家を出てから、急に天氣が惡くなつて雨が降つて來た。そこで雨傘を借りて相合傘にさした。こんなにして步いて居るのを以前の近處の人にでも見られはしないかと氣が氣でなかつたが、幸に無事に兩親の家に着いて挨拶をした。幸に雨はまもなく止んだ。

 

 同月九日初めて一緖に芝居へ行つた。赤坂演伎座に行つて山口一座の芝居を見た。

[やぶちゃん注:「赤坂演伎座」東京赤坂溜池(国会議事堂の南西)にあった劇場。明治二五(一八九二)年に福禄座として開場し、二年後の明治二十七年に演伎座となっている。大正一四(一九二五)年に焼失し、再建されなかった。

「山口一座」俳優山口定雄(文久元(一八六一)年~明治四〇(一九〇七)年)が率いた一座。彼は徳島生まれ。初めは旅役者一座の一人で、転じて歌舞伎の女形で「我若」(がじゃく)と称したとされるが、後、明治二一(一八八八)年に書生芝居の興った機運に乗じ、一座を組織した。突然、演技を中断して演説を始めたり、街で奇行を演じたりもしたと伝える。明治二五(一八九二)年に「明治裁判辯護譽」「大地震尾濃日記」を引っ提げて東京市村座に進出、川上音二郎一座・福井茂兵衛一座と三座鼎立時代を作った。探偵実話を脚色上演したり、衣装に豆電球を使った「ケレン」の宙乗りで活躍したが、明治三五(一九〇二)年に宙乗りに失敗して大怪我をして再起できず、晩年は不遇に終わった。河合武雄・喜多村緑郎ら新派の大立て物を育てた人物でもある(「ブリタニカ国際大百科事典」他に拠った)。]

 

 十一月八日淺草寺に參り、それから御酉樣にも參詣した。

 その年の十二月に夫と自分の春着をこしらへた。その時始めてかういふ仕事の面白い事が分つて大層嬉しいと思つた。

 二十五日東大久保の天神樣に參り、そこの御庭を散步した。

[やぶちゃん注:「御酉樣」「おとりさま」の通称で親しまれ、十一月の酉の日の例祭は「酉の市(とりのいち)」として広く知られる東京都台東区千束(せんぞく)にある鷲神社(おおとりじんじゃ)。「酉の市」は本来は「酉の祭(まち)」と呼ばれた神祭である。但し、十一月ではあるが、この明治二八(一八九五)年十一月八日は己未(つちのとひつじ)で酉の日ではない

「東大久保の天神樣」東京都新宿区新宿にある西向天神社(にしむきてんじんしゃ)。安貞二(一二二八)年に栂尾明恵上人が創建したと伝えられ、社殿が西を向いているため、「西向天神」と呼ばれる。旧東大久保村鎮守。富士信仰の東大久保富士がある。

 

 二十九年[やぶちゃん注:一八九六年。]の一月十一日に岡田を訪れた。

 十二日に後藤へ二人で行つて面白かつた。

 二月九日『妹背山』を見に二人で三崎座に行つた。途中思ひがけなく後藤氏にあひ、それから一諸に行つた。しかし歸りには折惡しく雨降り出し道がひどくぬかつた。

 同月二十二日、天野で二人の寫眞を取つた。

[やぶちゃん注:「妹背山」歌舞伎「妹背山婦女庭訓(いもせやまをんなていきん)」。私は文楽で数度見ている。御存じない方は、ウィキの「妹背山婦女庭訓」を見られたい。

「三崎座」(みさきざ)明治二四(一八九一)年に東京神田三崎町三丁目に開場した観客定員千五百名の小劇場。ウィキの「三崎三座」によれば、『三崎座は初めて女優を主体とする芝居を上演し、また東京で唯一常に女優が興行する劇場』であった。『明治時代には市川鯉昇、松本錦糸、岩井米花らが中心となって活動し、その他にも沢村源之助、大谷馬十、尾上幸蔵などの俳優や女優市川粂八一座も活躍した』が、大正十二(一九二三)年九月一日の『関東大震災の影響により焼失し、翌』年の三月に『再建したものの、第二次世界大戦の戦災で再度焼失し、廃座となった』とある。

「天野」写真館の名であろう。]

 

 三月二十五日『春木座』に行き『鶯墳(うぐひすづか)』の芝居を見た。

 この月のうちに一緖に一同(兩親、親戚、友達)打連れて花見に行く約束をしたが、中々都合よく行かなかつた。

[やぶちゃん注:「春木座」現在の東京都文京区本郷三丁目に明治初期から昭和の戦前まであった、回り舞台や花道のある大劇場であった。ウィキの「本郷座」によれば、明治六(一八七三)年に『本郷の地主奥田某が本郷区春木町に奥田座を開場』、三年後の明治九年に『所在地の名を取って春木座と改名した。主に歌舞伎を上演し』た。明治三五(一九〇二)年には『区名を採って本郷座と改称した』とある。

「鶯墳(うぐひすづか)」歌舞伎「鶯墳長柄故うぐひすづかながらのふるごと」か。明治二(一八六九)年初演の新作「河內國名所鴬墳」というのもある。因みに、一九七五年恒文社刊の平井呈一氏の訳(「骨董・怪談」)では「螢塚」と誤っているが、これは恒文社の誤植の可能性が高い。]

 

 四月十日、午前九時、二人で散步に出た。初めは九段招魂社へ參詣し、それから上野公園まで行き、そこから淺草へ行つて觀音樣に參詣し、また門跡樣にも參詣した。それから淺草奥山の方へ𢌞るつもりの處、先づ御飯をと云ふので――そこで或料理屋へ入つた。食事をして居るうち、戶外に大喧嘩があるのかと思はれる程の大騷ぎやら叫び聲やらが聞えた。その騷ぎは見せもの小屋に火事が起つたからであつた。見て居るうちにも火が早く擴がつて、その町の見せもの小屋は大抵燒けた。――私共はすぐ料理屋を出て淺草公園をあちこち、見物しながら步いた。

[やぶちゃん注:「四月十日」明治二九(一八九六)年の同日は金曜日である。小泉八雲が冒頭で記すように、この並木という夫は夜勤の多い仕事のようである

「九段招魂社」東亰招魂社(とうけいしょうこんしゃ)。本殿竣工は明治五(一八七二)年。現在の東京都千代田区九段北にある靖国神社の旧正式名称。改称は明治一二(一八七九)年。

「門跡樣」東京都台東区西浅草にある浄土真宗東本願寺派本山東本願寺の別称。

「淺草奥山」浅草寺観音堂の裏手一帯の俗称。江戸時代から香具師の本拠となって見世物小屋が並び、軽業や居合抜きなどの芸を見せながら物を売って「奥山見世物」と呼ばれたが、明治になって、その多くは、「六区」に移転した。この火事は特に記録にないようだが、或いは、彼女のこの記録はまさに。その末期の面影であったのかも知れない。]

 (つぎに原稿にはこの婦人が作つた小さい歌がある)

    今戶の渡しにて原註五

    あひ見た事のなき人に

    不思議に三めぐり稻荷

    かくも夫婦になるのみか

    初めの思ひに引きかへて

    いつしか心も隅田川

    つがひ離れぬ都鳥

    人も羨めば我身もまた

    咲きみだれたる土手の花よりも

    花にも增したその人と

    白鬚やしろになるまでも

    添ひとげたしと祈り念じ

 ……それから、うちの方へと吾妻橋を渡つた。蒸汽で曾我兄弟の御寺の開帳に行つた。そして私共や兄弟姉妹がいつも仲よく樂しくくらせるやうにと祈つた。その晚歸つたのが七時過。

 

 ――同月二十五日、私共は『錄物の寄席』に行つた。

原註五 今戶の渡し船のことを云つて居るやうで、實はこの婚禮を媒酌した仲人のこと。……[やぶちゃん注:リーダは原註の一部を略したことを示している。原註では以下も同じであるので、基本、この注は略す。]

[やぶちゃん注:「今戶」台東区今戸。浅草寺の東北直近の隅田川右岸で、そこに架かる現在の桜橋附近に渡しがあった。それに仲を繋いだ仲人に掛けたのである。

「不思議に三めぐり稻荷」は今戸の対岸の東京都墨田区向島にある三囲神(みめぐりじんじゃ)に、「めぐりめぐって」不思議な縁(えにし)で結ばれたと掛けたもの。この神社は伝承によれば、もとは「田中稲荷」と呼ばれていたが、荒廃し、その後、文和年間(一三五三年~一三五五年)に、近江三井寺の僧源慶が東国遍歴の途次に荒れたこの祠を見出し、弘法大師所縁ともいう言い伝えを聴いて、改築せんとしたところ、土の中から白狐に跨った老翁の像を得、その時、白狐が現われ、その神像を三度回ったことから、「三圍」(みめぐり)の名としたとされる。

「白鬚やしろ」同じく東京都墨田区東向島にある白鬚神社(しらひげじんじゃ)の名に掛けて偕老同穴を願うのである。孰れも判り易い、古典作品や地名・社名等の名称を上手く掛詞に用いているのであるが、例えば、それが。悉く、隅田川の極めてごくごく限定された場所での「もの尽くし」ともなっていて、しかも全く破綻がないところをみても、彼女は、なかなかに知性的な女性であることが見てとれるのである。

「吾妻橋」はここだが、ちょっと悩ましいのは、「うちの方へと」とあることで、浅草寺からを吾妻橋を渡ってしまうとなると、彼らの家は東京都墨田区以東にあるように読めてしまう。ところが、嫁入り後に彼女がお参りしたり、散歩したりするのは、山の手附近が殆んどで、私は漠然と、ここまでは、その辺りに彼らの家を想定していた。どうもこれだと、並木家がどこにあるのか、よく判らぬ。特定出来ぬように事実でない操作を仕込んである可能性も、冒頭の小泉八雲自身の謂いから、感じ取れなくはない。ただ、後で浅草から神田を経由して彼女の実家に寄って帰宅したという記載が出るので、やはり山の手に並木家はあることは間違いない。

「蒸汽」小型蒸気船。ポンポン蒸汽。

「曾我兄弟の御寺の開帳」場所が判らないが、所謂、出開帳であろう。曽我兄弟所縁の寺となると、二人の墓がある静岡県富士市久沢にある通称曽我寺、正しくは曹洞宗鷹岳山福泉寺のそれか。普通、同宗派の寺でないと出開帳は出来ないから、吾妻橋からは徒歩では距離があり、蒸気船で恐らく隅田川を溯った位置にある曹洞宗の寺か(その辺りには固まって曹洞宗の寺院があるからである)。

「錄物の寄席」原文は“the Rokumono-no-Yosé”で、原注があり(左下の「1」)、そこには、

Name of a public hall at which various kinds of entertainments are given, more especially recitations by professional story-tellers.

とある。これは、

種々の演芸、特に専門の語り芸人による公演が行われるところの、公共のホールの固有名称である。

と言った意味であるが、このような寄席(演芸場・亭名)を知らない。但し、ウィキの「寄席」によれば、この時制より十年も後の明治三九(一九〇六)年末時点のデータであるが、『東京市内・近郊で寄席の数は計』百四十一『軒』あったとあり、『内訳は、まず講談が、おおむね各区ごとに一つはあ』って二十四『軒』で、『当時「色物席」という形で分けていた落語・色物の定席は』七十五『軒。中には、有名な人形町の末廣亭や神田・立花亭、上野・鈴本亭も含まれる。 浪花節席は』三十『軒。神田市場亭(後に入道舘→民衆座)が見られる。まんべんなくあるが、特に下谷区浅草区から本所区、深川区にかけて多く分布してい』た。『現在は消滅した義太夫専門の定席が』三『軒ある。神田・小川亭、日本橋・宮松亭、浅草・東橋亭の名。さらに、祭文』(さいもん:デロレン祭文。『上州祭文と思われる』と注記がある)『の席として下谷・竹町に佐竹亭の存在が確認できるのが、浪花節の歴史の点からも特筆される。この他に、混成の席の中で、内藤新宿に末廣亭(旧・堀江亭。浪曲・色物)、品川に七大黒(色物・義太夫)の存在が確認できる』とあるが、『演目は決して固定されていたわけではなく、多くが家族経営の零細企業であった寄席は』、『かかる演目は席亭主の意向で自在に変わり、例えば』、『色物席でも年に一度は必ずと言っていいほど義太夫がかかっていたという』。『寄席の開演時間については昼席公演は少なく、夜席が多く、その終演は「午後』十『時から』十一『時に至るを常と』」す『とある』。『これにより』、『一人当たりの口演時間が長い講談・浪花節でも「二軒バネ、三軒バネ」が可能であったことがわかる』とある。さても、そもそもが、この「錄物」とは「金銭」の謂いであるから、これはれっきとした寄席の固有名称なのではなく、町屋で掘立小屋を建てて臨時興行し、木戸銭を稼いでいた大道寄席の別名なのではなかろうか?

 

    *

 

 五月二日つつじを見に二人で大久保に行つた。

 同月六日私共は招魂社へ花火を見に出かけた。

 ――これまで二人の間に何の風波もなかつた。そして私は二人で出かけたり見物に行つたりする時にきまりの惡い事もなくなつた。今ではお互に氣に入るやうにとばかりつとめて居るやうだ。そして、私は二人はどんな事があつても離れる事はないと信じて居る。……私共の關係はいつもこんなに幸であるやうにと祈る。

 

 六月十八日は須賀神社の祭禮なので父の家に招かれた。髪結が間に合ふやうに來てくれないので大變困つた。しかし妹のおとりさんと父の家に出かけた。やがてお幸さん(かたづいて居る妹)も參り――にぎやかであつた。晚になつて後藤氏(お幸の夫)が見え、最後に私が一心に待つてゐた夫が見えた。それから大へん嬉しかつた事が一つあつた。夫と私が一諸に出かける時、よく私がこしらへた新しい春着を着ませうと云ひ出しても、夫はその度每に古いので澤山だと云つて聞き入れなかつた。それでも今度は――父の招待だから着なければならないと思つて――新しい方を着てくれた。一同折よくこんなに集つたので皆が一層機嫌よくなつた。そして仕舞に別れる時にただ夏の夜の短かさをかこつた。

[やぶちゃん注:「須賀神社」東京都新宿区須賀町にある須賀神社。ご覧通り、私が当初推定した船町の南直近である。

「妹のおとりさん」原文では本文内中で“[a younger sister]”とあることから、筆者の下の妹の名である。

「お幸さん」原文により、読みは「おこうさん」である。]

 つぎのはその晚私共の作つた歌である、――

[やぶちゃん注:ブラウザの不具合を考えて、全体に引き上げ、字空けも詰めた。]

 

 二夫婦そろうて祝ふ氏神の

    祭りも今日はにぎはひにけり 並木(夫)

 

 氏神の祭りめでたし二夫婦     同じく並木

 

 いくとせもにぎやかなりし氏神の

    祭りにそろふ今日の嬉しさ  妻

 

 祭りとて一家集る樂しみは

    げに氏神の惠みなりけり   妻

 

 二夫婦そろう今日の親しみも

    神の惠みぞめでたかりけり  妻

 

 氏神の惠みも深き夫婦づれ     妻

 

 祭りとて對に仕立てし伊豫がすり

    今日樂しみに着ると思へば  妻

 

 思ひきやはからずそろふ二夫婦

    何にたとへん今日の吉日   後藤

 

 祭りとて始めてそろふ二夫歸

    後のかへりぞ今は悲しき   お幸

 

 故鄕の祭りにそろふ二夫婦

    語らう間さへ夏の短夜    お幸

[やぶちゃん注:「語らう」はママ。原文(ローマ字写し部分)は口語表現で“Katarō ma saë”である。]

 

 七月五日に播摩太夫のかかつた金澤亭に『三十三間堂』をきいた。

[やぶちゃん注:「播摩太夫」文楽の義太夫節太夫の四代目竹本播磨太夫(天保一〇(一八三九)年~明治三七(一九〇四)年(或いは前年とも))。江戸生まれ。鶴沢団六の子。当初は歌舞伎の子役であったが、三味線を志して、鶴沢清六に入門。鶴沢亀太郎や亀鳳を名乗り、花沢伊左衛門の弟子に転じ、紋左衛門から伊左衛門を襲名した。しかし、その後に太夫となり、明治一二(一八七九)年に播磨太夫を襲名、特に東京で活躍した(日外アソシエーツ「新撰 芸能人物事典 明治~平成」に拠る)。

「金澤亭」寄席名であるが、不詳。

「三十三間堂」浄瑠璃「祇園女御九重錦(ぎをんにようごここのへにしき)」(時代物。五段。若竹笛躬 (わかたけふえみ)・中邑阿契 (なかむらあけい)合作。宝暦一〇(一七六〇)年、大坂豊竹座初演)の三段目の、柳の精であるお柳が、一子緑丸と別れを告げる場のみを上演する際の別外題「卅三間堂棟由来(さんじふさんげんだうむなぎのゆらい)」のこと。私は三度見ている好きな演目である。]

 

 八月一日夫の先妻の一周忌につき淺草寺に參詣、それから吾妻橋のそばの鰻屋で中飯。そこに居るうちに丁度、正午の時分に地震があつた。河に近いので家が大へんゆれて、隨分恐ろしかつた。

 ――先に櫻の時分に來た時大火事を見たのを思ひ出してこの地震は心配になつた。今度は雷でも落ちはせぬかと思つた。原註六

原註六 「地震、火事、雷、三十日、飢饉、病のない國へ行きたい」と云ふ佛敎から出た諺による。

[やぶちゃん注:「三十日」は「みそか」で「晦日」、近代まで、月末は払いの切りをつけねばならない一と月の中で最も忙しく(嫌な・危険な)時期を指した。昔は他の意味合いも含めて「尻」(物事のけじめとしての〆(しめ)や、飲食の作法としての終り等、いい加減な行為や暴飲暴食による体調不良などへの戒めをも含んだようである)とも謂ったが、現代では死語となって、これが並列されることは殆んどなくってしまった。ただ、これは仏教というよりも、もっと以前の民俗的な道徳的訓戒に元はあるように思われる。因みに、現行の一般に言われる「親父」は怒れる父親ではなく「台風」の異称であるとする説もあるようだ。]

 二時頃に鰻屋を出て淺草公園に入つた。そこから鐡道馬車で神田に行き、それから神田の涼しい處で暫く休んだ。途中父を訪ねて歸つたのは九時過。

[やぶちゃん注:「鐡道馬車」東京馬車鉄道のこと。ウィキの「東京馬車鉄道」によれば、明治一五(一八八二)年六月二十五日に、『新橋と日本橋の間を結んで営業を開始した。停留所は基本的に汐留本社、新橋、終着地のみで、途中の停留所は存在せず』、『利用者が降りたい所を車掌に言えば下車できた。乗るのも手を上げれば乗れたらしい』。同年十月一日には、日本橋―上野―浅草―『日本橋間の環状線も短時間で竣工させた。開業当初に営業運転に当たった馬車は』三十一『両あり、すべて英国製で一等車が』二十九『両でオールドバリー製で、二等車がスターバック製であった。二等車のうち』一『両が「夏用車」と謳ってあり』、『この馬車は現在で言うと』、『オープンカー形状の馬車であり、当時好評でかなり使われていた。夏用車(オープンカー)車体天井部分には東京市街馬車鉄道と記してあり側面には車体番号が記してあった。逸話として当初』は一、二『両を試験的に英国から輸入し、あとは東京馬車鉄道が国内で模造し』。、量産するつもりでいたが、依頼先の鉄道局で製作する材料と車輪鉄具の製作ができず、仕方なく』、『夏用車をすべて輸入したようである。馬は宇都宮や関東地区近隣から購入して使った。開業時』は四十七頭で開業年の末には二百二十六頭に『増やした。新橋から全区間の所要時間は』二『時間程度で、新橋から浅草橋経由浅草広小路までは』四十六『分、新橋から万世橋経由浅草広小路まで』四十二『分、浅草広小路から上野広小路まで』十六『分であった。料金は』三『区分制を採っており』、『一区あたり一等車』三『銭、二等車』二『銭であった。一等車』三『銭は』二〇〇〇『年代の流通貨幣で』千五百『円程度の価値』となり、『全区間(』三『区間)×』三『銭を乗車すると』当時の『の流通価値で』四千五百円にもなり、二等の場合でも三千『円の金額になる』。これは実に二〇〇〇年代の『タクシー乗車金額相当の運賃であり、庶民が毎日使えるものではなかった』とある。]

 

 同月十五日八幡神社の祭禮、後藤と妹と、後藤の妹と宅へ來てくれた。私は一同揃つて宮寺りをしたいと思つてゐたが、この朝夫が少しお酒を飮み過ぎたので、そこで仕方なく夫を置いて出かけた。參詣してから後藤の宅へ行き、しばらくしてから歸つた。

[やぶちゃん注:「八幡神社」京都新宿区市谷八幡町に市谷亀岡八幡宮(いちがやかめがおかはちまんぐう)や、新宿区筑土八幡町にある東筑土(つくど)八幡神社、新宿区若宮町の神楽坂若宮八幡神社などが候補となるか。]

 

 九月お彼岸の中日にひとりで寺參りをした。

 

 十月二十一日おたかさん靜岡より來らる。私は翌日芝居へ案內したかつたが、おたかさんは翌朝早く東京を立たねばならぬ事になつた。それでも夫と私は翌晚柳盛座に赴いて『松岡美談貞忠鑑』を見物した。

[やぶちゃん注:「おたかさん」親族関係不明。呼び方から、血族親族で、姻族ではないように思われる。

「柳盛座」旧浅草向柳原町附近の劇場か。

「松岡美談貞忠鑑」“ Matsumaë Bidan Teichū-Kagami. ”で「松前」の誤り。読みは「まつまえびだん ていちゅうかがみ」。歌舞伎・浄瑠璃の外題。初演は明治二八(一八九五)年十月東京真砂座初演。作品内容未詳。]

 

      *

 

 六月二十二日父から賴まれた着物を仕立てはじめたが、加減が惡くて充分できなかつた。しかし新年(明治三十年)[やぶちゃん注:一八九七年。]の元日に仕上げる事ができた。

 ……今度は子供が生れるので大へん嬉しい。それから私は兩親が初孫をもつてどんなにか得意になつて喜びなさるかと思つた。

 

      *

 

 五月十日母と鹽釜樣原註七へ參詣し、それから泉岳寺に參詣に出かけた。そこで四十七士のお墓や色々の寶物を拜觀した。新宿まで汽車で歸つた。鹽町三丁目で母と別れ、うちについたのは六時。

原註七 鹽釜神社は歸人が安產をいのるために參詣する神社。……

[やぶちゃん注:東京都港区新橋にある鹽竈神社であろう。元禄八(一六九五)年に仙台藩主伊達綱村が陸奥国一宮鹽竈神社の御分霊を汐留の江戸上屋敷内に勧請したことに始まる。安政三(一八五六)年、伊達慶邦により中屋敷(現在の社地)に遷され、一般の参拝も許されるようになり、安産の神として広く信仰を集めた。泉岳寺へは南西に直線で三キロメートル強。

「新宿まで汽車で歸つた」明治二九(一八九六)年当時の山手線(当時の私鉄日本鉄道)の開通状況はウィキの「山手線」のこちらの図で判る。まだ環状路線とはなっていない。因みに、現在のような環状運転が開始されるのは国有化(明治三九(一九〇六)年十一月一日)後の大正一四(一九二五)年十一月一日のことであった。

「鹽町」新宿区四谷本塩町(ほんしおちょう)附近であろう。或いは、ここより南に並木家はあるか。]

 

      *

 

 六月八日午後四時男子出生。母子共この上もなく健やかに見えた。子供は夫によく似てゐた。大きい黑目がちな目をしてゐた。……しかし大へん小さい兒であつた。八月に生るべき筈の處六月に生れたのでゐつた。……同日午後七時藥を飮ます時になつて、ランプの光で見ると大きな眼を開いて、その邊を見𢌞してゐた。その晚一晚私の母の懷に眠つてゐた。八月子だから餘程暖かくしてやらねばならないと聞いたから夜晝懷に入れて置く事にした。

 翌日――六月九日――午後六時半子供は突然死んだ。……

[やぶちゃん注:「八月子だから餘程暖かくしてやらねばならない」昔から、冬生まれは「暑がり」、夏生まれは「寒がり」だと言う。こちらのフードアナリスト協会会長代表横井裕之氏のブログの『冬生まれは「暑がり」夏生まれは「寒がり」が多い理由。』の解説に、『生まれたばかりの赤ちゃんは、すぐに死なないように外気に対して免疫が備わっているので、その免疫の有効期限が切れるのが半年くらいなので自分が生まれた季節の反対の季節に対して抵抗力が弱くなる、という事を以前雑誌で読んだことがあります』とあった。]

 

 ――『嬉しき間は僅かにて、又悲しみと變ず、生るるものはみな必ず死す』とあるは實にこの世のよい戒である。

 

 僅か一日母と呼ばれ、ただ死ぬのを見るために子供を生んだのであつた。――本當に生れて二日位で死ぬのなら生れない方がよかつたのにと思ふ。

 十二月から六月まで私は隨分病氣であつた。それからお產をしていくらかよくなつて喜んでゐた。今度の慶事につき方々から御祝ひを受けたが、それに子供が死んでしまつた。――本當に私は悲しさにたへない。

 六月十日大久保、泉福寺と云ふ御寺で葬式を行ひ、それから小さいお墓をたてた。

 その時の歌――

    思ひきや身にさへかへぬ撫子に

          別れし袖の露のたもとを

 

    さみだれやしめりがちなる袖のたもとを

 

それから間もなく人が卒塔婆を逆さに立てて置けば、こんな不幸に再びあはないと聞かせてくれた。そんな事をするのは餘程かはいさうに思はれて、色々迷つたが、八月九日遂に卒塔婆を逆さに立てた。……

原註八 卒塔婆は經文を書いて墓の前にたてる細長い木の板である。卒塔婆の詳細なる記事は『異國情緒と懷古のことども』のうち『死者文學』と題する一篇を見られよ。著者はこ〻にある珍しい迷信の事を叙述、解釋する事はできない、しかし著者の「佛の畠の落穗」に託した不思議な習慣と多分同種類のものであらう。

[やぶちゃん注:「泉福寺」東京都新宿区新宿にある浄土真宗大谷派白蓮山専福寺か。

「原註八」本のここ(右ページ下の注番号1)。原文は、

The sotoba is a tall wooden lath, inscribed with Buddhist texts, and planted above a grave. For a full account of the sotoba, see the article entitled "The Literature of the Dead," in my Exotics and Retrospectives, p. 102. I am not able to give any account or explanation of the curious superstition here referred to; but it is probably of the same class with the strange custom recorded in my Gleanings in Buddha-Fields, p. 126.

で、訳してみると、

   *

 卒塔婆は仏教の章句が刻まれた、背の高い木製のラス[やぶちゃん注:薄く細長い小幅の板。]で、墓の上に差し植えられる。卒塔婆についての詳細な説明については、私の「異国風物と回想」[やぶちゃん注:明治三一(一八九八)年十月刊。]の一〇二ページの「死者たちの文学」という標題の記事を見られたい。私にはここで語られている奇妙な迷信についての何らかの説明をすること、又は、解釈を示すことは、とてものことに出来ないのであるが、それは恐らくは、私の「仏陀の畑[やぶちゃん注:仏国土・浄土の意。]の落穂集」の一二六ページに収めた不思議な慣習[やぶちゃん注:「人形の墓」(“ NINGYŌ-NO-HAKA ”)を指す。リンク先は私の田部隆次譯の電子化注。]と同類のものであろう。

   *

となろう。私もこの「逆さ卒塔婆」の葬礼習俗については判らないが、反転させることで、ある不吉な流れを堰き止め得るというような意識の意味合いは感じられる。「人形の墓」の私の注の中の牧野陽子氏の論文の引用が示唆に富む。]

 

 九月九日赤坂の芝居に二人で行つた。

 十月十八日木鄕春木座へ獨りで行き大久保彥左衞門の芝居を見た原註九。そこで下足札をうつかりなくし、皆出てしまふまで殘らねばならなかつた。それから漸く草履を見つけて歸る事ができた。しかし眞暗な夜で途中が大へん淋しかつた。

原註九 この芝居見物を單に遊興と見るのは公平ではあるまい。むしろ苦痛を忘れるため、それから多分夫の命令で行つたものであらう。……

[やぶちゃん注:「大久保彥左衞門の芝居」明治二一(一八八九)年東京市村座初演の「大久保彥左衞門」のそれか。「……」は原註で続く大久保彦左衛門の説明をカットしたことを示している。]

 

 三十一年[やぶちゃん注:一八九八年。]正月の節句原註十に堀の伯母と友人內海さんの奥さんと話をして居る最中、急に胸が痛み出したので驚いて簞笥の上にあらる水天宮のお守りを取らうとする途端に氣が遠くなつて倒れた。親切に介抱されて直ぐ正氣づいたが、そののち長い間病氣になつた。

原註十 節句と名のつく祭日は一年に五度ある。この五節句は人日(一月七日)、上巳(三月三日)、端午(五月五日)、七夕(七月七日)、及び重陽(九月九日)でゐる。

[やぶちゃん注:「堀の伯母」「堀」は姓か。

「上巳」「じやうし(じょうし)」。小泉八雲はここを“ Joki ”と記しており、「上已」を「上己」と見間違えたものか、或いは半可通の助力者の誤り、或いは、小泉八雲の発音の聴き取りの誤りと思われる。]

 

      *

 

 四月十日が東京遷都三十年祭なので、父の家に集る事にした。重之助〔多分親戚〕と一諸に先に行つて、夫を待つてゐた。夫はその日朝のうち、一寸役所へ行く筈であつた。八時半頃に夫は父の家に來て、皆と一諸になつた。それから私共三人だけ一緖に出かけて市中の景況を見た。麹町から永田町に行き櫻田門を通つて日比谷見附に出て、それから銀座通から眼鏡橋を通つて上野に出た。そこで色々見物ののち、又眼鏡橋に出た。その時餘程疲れてゐたので私は歸らうと云ひ出したら、夫もやはり疲れてゐたので贊成したが、重之助は『こんなよい時に大名行列を見落してはつまらないから銀座へ行かう』と云つてきかない。そこで重之助と別れて小さい天ぷら屋に入つて天ぷらを喰べた。それから運のよい事には折よくその家から大名行列を見ることができた。その晚歸つたのは六時半。

[やぶちゃん注:「東京遷都三十年祭」公的には「東京奠都(てんと)三十年祭」が正しい。明治維新のとき、江戸が東京とされ、ウィキの「東京奠都」によれば、明治維新の際、『江戸が東京とされ、都として定められ』、『京都との東西両京としたうえで、慶応四年七月十七日(一八六八年九月三日)に『江戸が東京と改称され、同年』九『月に元号が明治に改められ、同年』十月十三日に『天皇が東京に入り明治』二(一八六九)年に政府が京都から東京に移された』ことを祝うもの(「遷都」の語義はリンク先を見られたいが、「遷都」は「都を移す」で、「奠都」は「都を定める・置く」の意という。遷都の場合は天皇の勅令が出される決まりであるが、明治天皇による遷都の詔勅は出されておらず、現在に至るまで東京を首都とする法令も政令も存在しない。則ち、首都東京には正式な誕生日が存在しない状態という。別に明治元(一八六八)年七月十七日に「江戸ヲ稱シテ東京ト爲スノ詔書」は発布されているが、これは「江戸」改め「東京」が京都(平安京)と相並ぶ帝都に昇格したということを宣言しただけのものなのだそうである)。ここにある通り、東京奠都三十年祭は明治三一(一八九八)年四月十日に挙行された。何故、この日付なのかは私は知らない。

「重之助」原文“Jiunosuké”。

「眼鏡橋」アーチ二連の石造りの旧萬世橋(現在の万世橋の場所ではなく、少し上流の現在の昌平橋と万世橋との中間にあった)の当時の通称。この記載されたルートだけでも、地図で実測で辿ってみると、実に十キロメートルはあるので、時間的に見ても人力車を使用した部分もあろうと思われる。]

 

 四月の半ばから妹おとりの事で隨分心配した〔その事は書いてない〕

 

      *

 

 明治三十一年[やぶちゃん注:一八九八年。]八月三十一日二番目の子供が殆んど何の苦痛もなく出生――女であつた。初[やぶちゃん注:原文“Hatsu”。]と名づけた。

 

 出產の時に世話を受けた人々を七夜に招いた。

 ――母はそれから二日程ゐてくれたが、妹のお幸の胸がひどく痛むので、せん方なく歸られる事になつた。幸に夫がこの頃きまつた休暇を得たので、できるだけの世話をしてくれた――洗濯や何かの事まで。しかし自分のそばに女がゐないので私は時々大へん困つた。

 夫の休暇がなくなつてから母は時々夫の留守に來てくれた。二十一日もこんなにして過ぎたが母子共健康であつた。

 ――娘が生れてから百日になるまで時々呼吸が苦しさうに見えるのでたえず心配した。しかしそれも漸くなくなり段々强くなるやうであつた。

 それでも一つ不幸な事があつた。それは不具の事で、初は生れた時から片方の手の拇指が二本あつた。手術を受けに病院へ連れて行く氣には長い間なれなかつた。しかしつい近處の婦人が新宿の大へん上手な外科醫の事を話してくれたのでたうとう行く事にきめた。手術の間、夫が膝に子供をのせてゐた。私は手術を見る事はとてもできなかつた、どうなる事かと思うて、心配と恐ろしさで胸一杯になつてつぎの室で待つてゐた。しかし濟んでから子供は何事もなかつたやうな顏をしてゐた。暫くして、いつものやうに乳を飮んだ。それで案じたよりも好都合に事が濟んだ。

 うちに歸つて前の通り續いて乳を飮んだ。そして小さいからだに何事もなかつたやうに見えた。しかし大へんに幼いからあんな手術などを受けて、何か病氣の種でも作りはしなかつたかと心配した。用心のために三週間程每日病院に通つた。しかし惡い樣子は少しも見えなかつた。

[やぶちゃん注:「七夜」原文“ the shichiya ”。子供が生まれて七日目の夜。昔は七夜までに生児が死亡する場合が多く、「お七夜(ひちや)」は、生児の生存への一つの大事な通過儀礼であった。この日にその子に命名をし、親と子の両方の祝いの意を込めて、産婆・仲人・親戚などを招いて、披露の祝いをする。

「生れた時から片方の手の拇指が二本あつた」手足の先天性形状異常の一つである多指(趾)症。手足の先天性異常では、比較的多くの割合を占める。]

 

 三十二年[やぶちゃん注:一八九九年。]三月三日の初節句に父と後藤と兩方から內裏雛、その外御祝ひの品々、簞笥鏡臺[やぶちゃん注:「きやうだい」。]針箱を貰つた。私共もこの時に子供のために茶臺、御膳、その外の小さい物を色々買つてやつた。後藤と重之助はその日見えて、にぎやかであつた。

[やぶちゃん注:「茶臺」原文は確かに“ chadai [teacup stand] ”とあるが、これは「高坏(杯)(たかつき)」のことであろう。高い一脚をつけた丸い皿で、ここに並んで記されてある雛飾りの一つで、一対で用いられる菓子などを供える器のことである。]

 

 四月三日穴八幡〔早稻田〕に參詣して子供の息災延命を祈つた。……

 四月二十九日初は病氣のやうで私は醫者に診て貰ふことにした。

 醫者がその朝來てくれる約束をしながら、來てくれない、一日中待つてゐたが駄目であつた。一日中待つてゐたが來てくれない。夕方になつて初は段々惡くなり、胸のところが大へん苦しさうであつたので、翌朝早く醫者へつれて行かうと決心した。一晚中心配でならなかつたが、朝になって少しよくなつたらしい。そこでおんぶして獨りで出かけて赤坂の或醫者へ行つた。診て下さいと賴むと未だ患者を診る時刻でないから待つて居るやうにと云はれた。

 待つて居るうちに子供が前より一層ひどく泣き出して乳にも吸付かず、ただ步いて見かり休んで見たりして、すかすより外に仕方がなく、大へん困つた。やうやくの事で醫者が見えて子供を診て貰つたが、その時子供の泣き聲が段々弱くなつて、唇が段々蒼くなつた事に氣が付いた。そこでそれを見て默つて居られないので『如何な[やぶちゃん注:「どんな」。]樣子でせうか』と尋ねると『晩までもたない』と云はれた。『何かお藥をやつて下さいませんか』と尋ねると『飮めたらよいがね』と云はれた。

 私はすぐ歸つて夫や父のうちへ云つてやりたいと思つたが餘りひどく驚いたので――一時に力がなくなつた。幸に或親切な老婦人が、傘や何かを持つて車に乘る世話をして下さつたので、人力車で歸宅する事ができた。それから人を賴んで夫と父に傳へた。三田の奥さんが世話に來て下さつた。そのお蔭で子供を助けるためにできるだけの事をした。……それでも未だ夫が歸つて來なかつた。しかし心配や世話したことは皆無駄になつた。

 それで三十二年五月二日子供は十萬億土の歸らぬ旅へ赴いた。

[やぶちゃん注:「穴八幡〔早稻田〕」東京都新宿区西早稲田にある穴八幡宮(あなはちまんぐう)。ウィキの「穴八幡宮」によれば、康平五(一〇六二)年、『源義家が奥州からの凱旋の途中、この地に兜と太刀を納め、八幡神を祀ったと』され、寛永一八(一六四一)年、『宮守の庵を造るため、社僧良晶が南側の山裾を切り開いていると』、『横穴が見つかり、中から金銅の御神像が現れた。掘った人は「芽出度い」と大喜びし、以来、「穴八幡宮」と称するようになった』とある。江戸時代より「虫封じ」(俗に乳児の異常行動を指していう「疳(かん)の虫」(夜泣き・癇癪・ひきつけ)を封じる御利益)で知られた。

「三田」姓であろう。]

 

 子供の父と母は未だ生きて居る――よい醫者にかけてもて貰ふ事を怠つてそれで子供を死なしてしまつたやうな父と母とが。さう思へば本當に悲しさにたへない。時々私共はそれを云つて身を責めて居るが歸らぬ事は仕方がない。

 しかし子供の死んだ翌日醫者が私共に『あの病氣は初めからどんなに手を盡しても、とても一週間以上生きてはゐなかつたのです。十か十一にもなつてゐたら手術をして或は助かつたかも知れないが、今は餘り幼少だから手術などは思ひもよらないことです』と云つた。それから子供は腎臟炎で死んだのだと聞かせてくれた。

 こんなにして、私共の持つてゐた望みや、これまで色々心配して世話した事や、九ケ月間段々生長するのを見て喜んだ事は皆一切無駄になつた。

 しかし私共二人はこの子供との緣が前世からうすかつたのに相違ないと思ひあきらめて、暫くいくらか悲しみを慰める事ができた。

 

 退屈な時の淋しさに、私は義太夫本の宮城野しのぶの話の風に歌を作つて、心のうちを云つて見た。

[やぶちゃん注:「腎臟炎」お初さんは先天性の重い腎臓疾患だったものと推察する。

「宮城野しのぶ」原文は“Miyagino and Shinobu”で、「宮城野」と「信夫」という姉妹の名である。浄瑠璃「碁太平記白石噺(ごたいへいきしろいしばなし)」(紀上太郎(きのじょうたろう)・烏亭焉馬(うていえんば)らの合作。安永九(一七八〇)年に江戸外記座で初演)や同題材の歌舞伎「姉妹達大礎(あねいもうとだてのおおきど)」(辰岡万作らの合作。寛政七(一七九五)年初演)」などの登場人物で、苦難の末に父の敵を討つ姉妹の物語。もとになった話は「月堂見聞(けんもん)集」(本島知辰(月堂)著・元禄十年(一六九七)から享保十九年(一七三四)までの見聞雑録)によると、享保三(一七一八)年、奥州白石の百姓四郎左衛門が、田辺志摩という武士に口論の末に斬り捨てられる。当時十一歳と八歳であった四郎左衛門の二人の娘は、陸奥守の剣術指南役の滝本伝八郎のもとに下女奉公に行き、密かに六年の間、剣術の稽古をした。これを知った滝本は、二人の志を遂げさせたい旨を陸奥守に申し出、同八年三月、二人は仙台白鳥大明神の社前に於いて遂に父の敵を討ったとするものである(以上は「朝日日本歴史人物事典」を主文として私が附加を加えた)。

「風に」「ふうに」。それに似せた感じに。]

 

    これこのうちへ緣づきしは

    思ひ𢌞せば五とせ前

    今度まうけし女の子

    可愛ものとて育つるかと

    我身のなりは打ち忘れて

    育てし事も情けない

    かうした事とは露知らず

    この初は無事に育つるか

    首尾よう成人したならば

    やがてむこを取り

    樂しませようどうしてと

    物見遊山をたしなんで

    我兒大事と

    夫の事も初の事も

    戀しなつかし思ふのを

    樂しみくらした效もなく

    親子になりしは嬉しいが

    先きだつ事を見る母の

    心を推してたもいのと

 

    ――手を取りかはす夫婦の歎き

    なげきを立ち聞くも

    貰ひ泣きして表口

    障子もぬる〻ばかりなり

[やぶちゃん注:「五とせ」原文“itsutosé”。

「初」「はつ」。先に出た亡き娘の名。

「樂しませようどうしてと」原文は“Tanoshimashō dōshité to.”であるから、「樂しましよう どうして と。」である。「どんなにか楽しませてあげようと」の意でとる。

「樂しみくらした效もなく」原文“Tanoshimi-kurashita kai mo no.”。「效」は「かい」で「甲斐」に同じ。また、ここは流石に訳は「なく」ではなく、「のう」と表記すべきであると考える。

「心を推してたもいのと」原文“Kokoro mo suishité tamoi no to!”であるから、「心も」でないと、おかしい。「たもいのと」は「たまはれと」の転訛であろう。私は「心を推(お)してたまはれと」と訳すがなぁ……。

「表口」「おもてぐち」。ここは「表の入り口の通りを行く人が、夫婦の歎きを立ち聴きするだけで、貰い泣きして、その涙で戸障子がすっかり濡れそぼちてしまうほどである」というのである。]

 

 初の死んだ時分は、葬式に關する規則はよくなつて、大久保で火葬する事も許される事になつた。そこで並木に願つて、もし面倒な規則さへなかつたら並木一族の手つぎの御寺へ遺骸をもつて行く事にして貰つた。そこで葬式は門淨寺で行つた。この寺は眞宗本願寺の淺草派である。遺骨はそこへ納めた。

[やぶちゃん注:「葬式に關する規則はよくなつて」恐らくは火葬場の煤煙や臭いの問題で、市街地外の数少ない火葬場しかなかったのが、民営の火葬場が市街地でも認められるようになったのであろう。なお、ウィキの「火葬場」によれば、『都市部では明治時代後期頃より、宗教団体や民間が所有または経営する火葬場や野焼き場を統廃合して自治体や行政組合の経営および、無煙化無臭化の新案を凝らした近代的火葬炉を備えた火葬場が増えていくことになる』。『ただし、東京府(現在の』二十三『区に該当する区域)は例外であり、公営火葬場の設営が進まぬ中、一株式会社が合併吸収を繰り返し』、『多数の火葬場を経営していくことにな』ったとある。

「手つぎの御寺」この相当箇所の原文は“the temple of which his family had always been parishioners”で、これは「(並木)家代々の檀那寺」のことである。

「門淨寺」以下のデータを附加しても見当らない。漢字が違う可能性が高い。私は、或いはこれは東京都台東区西浅草にある東本願寺のことではないのかとも思ったりした。それは「淺草派」の「派」に引っかかったからで、原文は“branch”なのだが、これは実は「別院」のことを指すのではないかと思ったからでもある。

 ――妹の幸は初のなくなつた時、大分ひどい風邪で寢てゐた。しかし知らせが着いたあとで間もなく來てくれた。それから又二三日して大分よくなつたから、最早心配して下さるなと云ひに來た。

 ――私は又私で、何處へも行く事がいやになつて丁度一月、家を出なかつた。しかしいつまでも出ないで居る事も、禮儀上できないから、たうとう出かけた。そこで父の家と妹の家へ義理上の訪問をした。

 

      *

 

 ――大分病氣になつたので、母に來て世話をして貰ふつもりの處、お幸も又、病氣になつたのでよし(ここに初めて出て居る妹)と母と始終ついてゐた。それで父の宅からは世話して貰へなかつた。ただ近處の女の人々が暇のある時、全くの親切から來て世話をしてくれるばかりで、誰も世話してくれるものもない。漸く堀氏に賴んで、世話してくれるよいお婆さんを一人雇つて貰つた。この人の介抱でよくなりかけて、八月の初め頃には私も餘程よくなつた。……

 九月四日妹のお幸は肺病でなくなつた。

 ――萬一の事があつたら、妹のよしが幸の代りになると始めに約束してあつた。後藤氏も全く獨りで居るのも不自由故、同月十一日に結婚式があり、それから一通りの祝ひをした。

 同月三十日に岡田氏が急になくなつた。

 こんな事が重なつて色々費用がかかつたので大分困つた。

 

 ――幸が死んでよしが餘り早く行つた事を始めて聞いた時、私は大へん氣もちが惡るかつた。しかし、私はその心もちを隱して以前の通り後藤にはなしをしてゐた。

 

 十一月に後藤はひとりで札幌に行つた。

 明治三十三年[やぶちゃん注:一九〇〇年。]二月二日後藤氏は東京にかへり、四月十四日よしを連れて再び北海道に出かけた。

 

      *

 

 二月二十日午前六時三番目の子供(男兒)出生、母子共に無事。

 ――女のつもりでゐた處生れたのが男であつた。それで夫が勤めから歸つて來て男子である事を見て大へん驚いて喜んだ。

 ――しかし子供は十分乳を飮む事ができないので哺乳器で育てねばならなかつた。

 

 生れて七日目に少し髮を剃つてやつた。それから晚に七夜の祝を今度はうちだけでした。

 ――少し前から夫は風を引いてゐたが、つぎの朝、咳がひどく出て出勤ができなかつたので終日うちにゐた。

 その朝早く子供はいつもの通りに乳か飮んだ。しかし午前十時頃胸がひどく痛むやうで、それから變にうめき出したから醫者を呼びにやつた。折惡しく迎へにやつた醫者は市外に出てゐて晚までは歸られないとの事、それで直ぐに外の醫者を迎ひにやる方がよいと考へて迎ひにやつた。その醫者は夕方來ると云つた。しかし午後二時頃子供の病氣は急に惡くなつて二月二十七日、三時少し前に子供は僅かこの世に八日ゐてあへなくなつた。……

[やぶちゃん注:「子供の病氣は」底本では「子供の病 は」と脱字している。平井氏の訳で「氣」を補った。]

 

 ……今度又こんな不幸があつて、夫に嫌はれるやうになるまででなくとも、こんなに代る代る子供に別れるのは、前世に何か犯した罪の罸に相違ないと獨りで思つた。さう思へば袖のかわく間もなく淚の雨も止まず、私のためにはこの世で空の晴れる事がないやうに思はれた。

 私のために繰りかへしこんな不幸にあふので、夫の心も惡い方に變るまいかと益〻心配になつて來た。私の心にある心配のために、夫の心のうちも思はれて心配した。

 それでも夫はただ『天命致し方これなく』と繰りかへしてばかりゐた。

 

 ――子供はどこか近い御寺に葬られた方が、參りに行くのによからうと思つたので、大久保泉福寺と云ふ御寺で葬式をし、遺骨はそこへ納めた。

[やぶちゃん注:「泉福寺」不詳。但し、大久保の東直近の東京都新宿区新宿に専福寺という浄土真宗大谷派の寺を見出せる。]

 

 樂しみもさめてはかなし春の夢

 

 ……(日附なし)私が色々心配した故か、子供が死んでから二七日[やぶちゃん注:「ふたなぬか」。十四日。]間、顏と手足が少しふくれた。

 ――しかし餘り大した事でもなく、直ぐに直つた……今ではもう三七日[やぶちゃん注:「みなぬか」。]も過ぎた。……

 

 ここで哀れな母の日記が終つて居る。子供の死後二十一日に關する終りの記事から最後の數行は、三月十三四日に書かれたものだらうと思はれる。彼女は同月二十八日に死んだ。

[やぶちゃん注:彼女は日記の最初の明治三八(一八九五)年九月の記載の中で二十九と直話で言っている。これを当時の数え(小泉八雲が満年齢に書き換えなかったと考える)とするなら、彼女は安政四(一八五七)年生まれで、並木との結婚生活は明治三八(一八九五)年九月二十八日(祝言)から、この明治三三(一九〇〇)年三月二十八日の逝去までの四年六ヶ月と一日となる。本篇の日記引用自体の閉区間が、ほぼそれに相当する(厳密には婚儀相談の冒頭でプラス三日)。従って彼女の享年は数えで三十四であった。

 

 日本の生活狀態に充分通じない人は、この簡單な歷史を全く理解することができないだらう。しかしここに書かれた生活の實際の狀態を想像する事は困難ではない。――この夫婦は二間(六疊一間三疊一間)の小さい家に住んで居る。夫は一ケ月漸く十圓をもうける。妻は裁縫、洗濯、料理(勿論戶外で)をする。大寒の時にも火にあたる事がない。自分は、この夫歸は家賃を入れずに、一日平均二十七八錢でくらしてゐたに相違ないと考へる。娛樂と云つても實は餘程安上りであつた。八錢も出せば芝居見物にも義太夫ききにも行かれた。それから見物をするのは徒步であつた。それでもこんな娛樂はこの人々には贅澤であつた。必要な着物を買ふとか、結婚、出產、死亡の時に親戚に贈物をせねばならないとか云ふ場合の費用は、獻身的經濟によつて始めて出せるのである。實際東京の數千の貧民はこれより一層貧しくくらして居る(一ケ月十圓よりも、もつと少い收入でくらして居る)――しかし、それでもいつも小綺麗に小ざつぱりとして愉快にくらして居る。こんな境遇にあつて子供を生んで育てて行く事は、ただ餘程强壯な婦人にして始めて容易にできる。こんな境遇は田舍のもつと苦しいが、しかし、もつと强壯な農民の境遇よりもはるかに危險である。それで多數のうち弱いものは倒れて死ぬ事は想像する事ができる。

 

 この日記を讀む人々はこんなに愼み深くやさしい婦人が、かくの如く不意に、その性質氣分については毫も知らない全くの他人の妻にならうと熱心になつた事を不思議に思ふであらう。實際日本に於ける大多數の結婚はここに書いてあり通りの非小說的な方法で、又仲人の力で整へられるのである。しかしこの人の境遇は例外と云ふべき程氣の毒である。その理由は哀れに簡單である。善良なる女子は皆結婚する事にきまつて居る、或時期を過ぎて未だ結婚しないのは本人の恥辱であり又人の指彈を受ける。疑ひもなくこんな擯斥を受くる事がいやさに、この日記の記者は自分の當然の運命を果たす眞先の機會を捉へたのであつた。この人はすでに二十九歲であつた。こんな機會は再び出て來なかつたかも知れない。

[やぶちゃん注:「擯斥」(ひんせき)は「しりぞけること・のけものにすること」。排斥に同じい。]

 自分にとつてはこの哀れな奮鬪と失敗の懺悔記の眞の意味は、なにも稀有な告白があると云ふ點でなく、ただ日本人には靑空や日光のやうにありふれた何物かを示してゐる點ににある[やぶちゃん注:「に」のダブりはママ。改ページ箇所であるので、まず、誤植であろう。]。柔順なる事と義務を立派に仕遂げる事によつて、愛情を得ようとの健氣[やぶちゃん注:「けなげ」。]なるこの婦人の決心、どんな僅かの親切に對しても有する感謝の念、小兒のやうな信仰心、この上もなき無私の念、この世の苦難は皆、前の世に犯した過ちの報いであると云ふ佛敎の解釋、絕望の眞中に名歌を作らうとする努力――凡てこれ等の事は如何にも感動すべき事、如何に感動しても及ばない事である。しかし之は例外のものとは思はれない。ここにあらはれて居る特質は、一例に過ぎない。――下層社會の婦人の德性を代表した一例に過ぎない。恐らくこの婦人と同じく下層社會に生れて、自分の喜びや苦しみを、これ程單純でしかも哀れな日記で表はす事ができるやうな日本婦人は澤山はあるまい。しかし眞面目の信仰の昔し昔しの時代からこの人と同じく人生は義務であるとの心得をうけつぎ、又この人と同じく無私の愛情を注ぐ力をうけついでゐる婦人は、日本には幾百萬人あるか知れない。

[やぶちゃん注:最後に。一九七八年恒文社刊「小泉八雲」の八雲の妻小泉セツ(明治二四(一八九一)年~明治三七(一九〇四)年:小泉八雲より十八歳下)さんの「思い出の記」には、『『骨董』のうちの『或女の日記』の主人[やぶちゃん注:主人公の女性。]は、ただヘルンと私が知って居るだけでございます。二人で秘密を守ると約束しました。それから、この人の墓に花や香を持って、二人で参詣致しました』とあることを言い添えておく。]

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