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2019/09/26

小泉八雲 蟲の硏究 蚊  (大谷正信譯)

 

[やぶちゃん注:本篇(原題“ MOSQUITOES ”)は明治三七(一九〇四)年四月にボストン及びニュー・ヨークの「ホートン・ミフリン社」(BOSTON AND NEW YORK HOUGHTON MIFFLIN COMPANY)から出版された、恐らく小泉八雲の著作の中で最も日本で愛されている作品集「怪談」(原題“ KWAIDAN: Stories and Studies of Strange Things ”。来日後の第十作品集)の最後に配された「蝶」・「蚊」・「蟻」三篇からなる第十八話“ INSECT STUDIES ”の第二番目の話である。なお、小泉八雲はこの年の九月二十六日に五十四歳で心臓発作により急逝した。

 同作品集はInternet Archive”のこちらで全篇視認でき(リンク・ページは挿絵と扉標題。以下に示した本篇はここから)、活字化されたものは“Project Gutenberg”のこちらで全篇が読める本篇はここ)。

 底本は上記英文サイト“Internet Archive”のこちらにある画像データをPDFで落し、視認した。これは第一書房が昭和一二(一九三七)年一月に刊行した「家庭版小泉八雲全集」(全十二巻)の第八巻全篇である。★【2025年3月31日底本変更・前注変更】時間を経て、国立国会図書館デジタルコレクションに本登録し、現行では、以上の第一書房版昭和一二(一九三七)年一月に刊行した「家庭版小泉八雲全集」(全十二巻)の第七巻が、国立国会図書館デジタルコレクションで公開されてある。(リンクは扉だが、「家庭版」の文字はない。しかし、奥附を見て貰うと『家庭版 【第四囘豫約】』とあり、『昭和十二年一月十五日 發 行』とあることが確認出来る)、これが、前掲の底本と同じものであるが、やはり、外国のサイトのそれを底本とするのは、日本人小泉八雲に失礼であると考えた。されば、こちらで、再度、以下の「骨董」の作品群を改めて校正することとする。これが――私の小泉八雲への「義」――である。なお、之よりも前の元版の全集等が先行しているものの、私がそれらと比べた結果、実は先行する同社の「小泉八雲全集」のそれらは、訳が一部で異なっており、訳者等によって、かなりの補正・追加がされていることが、今回の正字補正作業の中で、はっきりと判って来た。いや、同じ「家庭版」と名打ったネット上の画像データでも、驚いたことに、有意に異なっていたのである。そうした意味でも――完全な仕切り直しの総点検――が必要であると決したものである。従って、旧前振りの括弧・鍵括弧の問題も、拡大とガンマ補正で確認し、正確を期する。総標題はここで、本作はここから。

 訳者大谷正信氏については、「小泉八雲 燒津にて 大谷正信譯」の私の冒頭注を参照されたい。

 傍点「﹅」は太字に代えた。]

 

 

  

 

 自己防衞の目的で、自分はホワアド博士の『蚊』を讀んで居つた。自分は蚊に宭められて居るのである。自分の近處には種種な種類のが居るが、その中のたつた一つだけが――全身に銀色の點點があり、銀色の斑理(しま)がある、小さな、針のやうな奴が、容易ならぬ呵責者である。そやつの刺傷は電氣の火傷[やぶちゃん注:「やけど」。]のやうに猛烈で、其奴のブウンといふ聲にすら、來たるべき痛みの性質を豫言する、刺すやうな音色がある――丁度、或る特殊な臭ひが、或る特殊な味ひ[やぶちゃん注:「あじはひ」。]を思はせると同じで。此蚊は、ホワアド博士がステゴマイア・フアスシアタ或はキユレツクス・フアスシアタスと呼んで居る奴に餘程似て居ると知つた。またその習性がステゴマイアの習性と同一であることも認めて居る。例へば、夜間のものでは無くて寧ろ晝間のもので、そして午後中が一番に煩はしい。それから自分はこの蚊は自分の庭の後ろのお寺の墓地――非常に古い墓地――からやつて來ることを發見した。

[やぶちゃん注:「ホワアド博士」レナード・オシアン・ハワード(Leland Ossian Howard 一八五七 年~一九五〇年)はアメリカの昆虫学者。当時は米国農務省昆虫学局局長であった。彼の「蚊」( Mosquitoes )は一九〇一年刊で、本作品集刊行の三年前の出版である。

「宭められて居る」は私は「さいなめられてゐる」と訓じたい。「宭」は原義は「群がって住む・群居する」の意であるが、「或対象に迫る・行き詰まる・極まる・苦しむ」、「たしなめる」、「慌ただしい・急な」の意があるが、「む(群)れい(居)る」でも訓じ得ないし、音「クン・グン」でも読めないからである。なお、原文は“persecuted”でこれは「迫害された・虐げられた」の意あるから、「いぢ(苛)められている」と訓じてもよいが、同じ当て訓でも「宭」をそう訓ずることを要求するのはかなり無理がある。因みに、一九七五年恒文社刊の平井呈一氏の訳(「骨董・怪談」)でも、この部分を『攻められているのである』と訳しておられるから、「せめられている」が穏当ではあろうが、個人的には、それでは、ここは、よっぴきならぬ蚊の波状的攻撃の表現が弱いと思うのである。

「全身に銀色の點點があり、銀色の斑理(しま)がある」所謂、「藪蚊(やぶか)」の代表種、双翅(ハエ)目長角亜目(糸角・カ)亜目カ下目カ上科カ科ナミカ亜科ヤブカ属シマカ亜属ヒトスジシマカ Aedes (Stegomyia) albopictus に比定していいだろう。よく似たやや大型(前者の約四・五ミリメートルに対して六ミリメートル)のトウゴウヤブカ Aedes togoi も、ともに本邦全土に分布している。

「ステゴマイア・フアスシアタ」原文“ Stegomyia fasciata ” 。ヤブカ属シマカ亜属ネッタイシマカ Aedes (Stegomyia) aegypti の旧称(シノニム)(ウィキのこのページの英文解説を見られたい)。ウィキの「ネッタイシマカ」によれば、『全世界の熱帯・亜熱帯地域に分布し、黄熱、デング熱などのウイルス性の感染症を媒介する蚊として恐れられている。日本では琉球諸島と小笠原諸島から記録されている』。『天草諸島で1944年に異常発生し、1952年までに駆除された。1970年以降は天草での採取例はなく、以後は国内での定着は確認されていない。沖縄でも20世紀初頭に確認されたが、いつの間にか姿を消し、ヒトスジシマカに席巻されている』。『2002年、日本生態学会により日本の侵略的外来種ワースト100に選定された。国外から侵入定着する危険が指摘されて』おり、既に都内のビルの貯水槽から屍骸が出たというニュースを何年か前に聴いた。

「キユレツクス・フアスシアタス」原文“ Culex fasciatus ”。同じく前掲のネッタイシマカ Aedes (Stegomyia) aegypti のシノニム。

「自分の庭の後ろのお寺」執筆当時に住んでいて、小泉八雲の終焉の地となったのは、東京都新宿区大久保(グーグル・マップ・データ。以下、同じ)であるが、周辺に寺院を認めない。「新宿観光振興協会」公式サイト内の「小泉八雲旧居跡」によれば、小泉八雲は明治二九(一八九六)年に『日本に帰化し』、『同年、東京帝国大学(東京大学)で英語・英文学を講ずることなって上京。この地に、約』五『年間住み』、『樹木の多い自証院一帯の風景を好んだ八雲は、あたりの開発が進んで住宅が多くなると、西大久保に転居し』たとある。東京都新宿区富久町に自證院あり、現在の「小泉八雲旧居跡」の碑(成女学園内)は、そこから北北東に百三十二メートルで、また、現在、東北七十七メートルの直近にも善慶寺という寺を認めるから、この孰れかであろう。時系列地形図閲覧サイト「今昔マップ on the web」でそこを見ると、一八九六年から一九〇九年のそれでは、小泉八雲旧居のすぐ西北方に、自證院(字が潰れているが)の敷地が広がっていることが判る。ところが、その当時は、現在の前慶寺の位置には「修行寺」(推定)という寺があり、これも敷地が最も近い。なお、小泉八雲は、必ずしも同時時制で作品を書いていないことは、他の作品でも見られることで、奇異なことでも何でもない。既に見た通り、寧ろ、熊本での出来事を、松江に移して書いたりもしているのである。

 

 ホワアド博士の書物は、近處に蚊を居なくするには、それが育つ停滯水の中へ少量の石油又はケロシン油を注ぎさへすればいいと言明して居る。油は一週に一度『水面十五呎[やぶちゃん注:「フィート」。Feet。十五フィートは約四・五七センチメートル。]平方每に一オンス[やぶちゃん注:ounce。二十八グラム強。]、それよりも表面が狹ければそれに應じた量、といふ割合で』使はなければならぬさうだ。……だが、自分の近處の情態[やぶちゃん注:ママ。]をまあ一つ考へて貰ひたい。

[やぶちゃん注:「ケロシン油」ケロシン(kerosene)は石油の分留成分の一つ。私たちに馴染みの灯油は、成分的にはほぼケロシンである。ジェット燃料・ロケット燃料などの石油製品の原料である。]

 自分の呵責者はお寺の墓地からやつて來ると云つた。その古い墓地にある殆んどどの墓の前にも水を容れるもの卽ち水溜、日本語でミヅタメといふ物がある。大多數の場合、このミヅタメはその石碑を支へて居る幅の廣い臺石に、彫り込んである楕圓形の窪みに過ぎないが、金のかかつた墓石で、この墓石の水溜の無い者の前には、一枚石を彫つたもので、一家の紋所や表象的な彫刻で裝飾が施してある、別な大きな水槽[やぶちゃん注:「みづをけ」。]が置いてある。極く下等な部類の墓石で、ミヅタメの無いのへは、茶椀や他の容れ物に入れて水が置いてある――人[やぶちゃん注:亡くなった人。]は水を貰はなければならぬからである。死人へは其の上にまた花を供へなければならぬのである。だから、どの墓の前にも竹筒か他の花立てかが一對あつて、固よりのことそれには水が入つて居る。墓地には墓への水を供給する井戶がある。死人の親類や友人が墓詣りをする時はいつも水溜や水入れの茶椀へ新しい水を注ぐ。處が、こんなやうな古い墓地には幾千といふミヅタメがあり、幾萬の花立てがあることだから、それ等凡ての水を每日新しく取り換へることは出來ぬ。停滯する、そして住む奴の數が多くなる。底の一層深いミヅタメは滅多に乾かぬ。――一年十二箇月のうち九箇月はそんな水溜にいつも少しは、水を溜まらせて置く程に東京は雨が多いのである。

 

 さて、自分の敵が生れるのは此水溜と花立てとの中である。彼等は死者の水からして幾百萬と現れ出るのである。――そして、佛敎の敎へに從ふといふと、彼等の或る物は、前世の罪に因つてジキケツガキ卽ち食血餓鬼の身に生れる運命を得た、その死者そのものの化身かも知れぬ。……兎に角キユレツクス・フアスジアタスの惡意は、或るよこしまな人間の精神が壓縮されて、あのウンウン泣き叫ぶ一點の身體(からだ)になつたのではなからうか、との疑念をさうだと思はせるに足るものがある。……

[やぶちゃん注:先行する「小泉八雲 餓鬼 (田部隆次譯)」(作品集「骨董」所収)の本文で小泉八雲は既に登場させている。そこでも掲げている「正法念處經」によれば、食血餓鬼は、肉食(にくじ)を好んで殺生をし、しかも妻子には分け与えなかった者が、なる餓鬼で、生物から出た血だけを食べる、それだけが食べられる餓鬼であるから、吸血昆虫は確かに相応しい。餓鬼は餓鬼道ばかりにいるのではなく、人間道にも共時的に存在するとされるし、餓鬼道を終えて、人間道の蚊に転生するというルートでも説明出来るから問題ない。]

 

 そこで、ケロシン油の題目へ立ち還へると、どんな地方の蚊でも、そこにある一切の停滯した水の表面を、ケロシンの薄皮で蔽うて絕滅し得るのである。幼蟲は呼吸(いき)をしに上ると死ぬる。成蟲の雌はその卵の集團(かたまり)を下ろしに水に近づくと死ねる。ホランド博士の書物で讀んだが、人口五萬の或る亞米利加の街から、蚊を全くとつてしまふ實費は、三百弗を超えない! のださうな。……

[やぶちゃん注:底本では「!」の後には字空けがないが、特異的に挿入した。以下の段落でも同様の処理をした。

「三百弗」本書刊行の翌年の明治三三(一九〇〇)年から明治三八(一九〇八)年で、為替レートは一ドルが約二円で安定しており、少し溯る明治三〇(一八九七)年頃で、一円は現在の二万円相当という信頼出来るデータに従うなら、六百万円以下となる。五万人の都市の蚊の完全駆除対策の衛生費用(レナード・ハワードの「蚊」は一九〇一年刊)としては、腑に落ちる額である。]

 

 若しか[やぶちゃん注:「もしか」。]東京市廰が――これは攻勢的に學問的で又進步的だが――突然命令を發して、お寺の墓地の一切の水の表面を規則正しく一定の間を置いて、ケロシン油の薄皮で蔽へと云つたなら、世間の人は何んといふであらうかと自分は怪しむ。如何なる生物でもその生命(いのち)を奪(と)ること――眼に見えぬ生物の生命でも――それを奪(と)ることを禁ずる宗敎が、どうしてそんな布達に服從し得るであらうか。孝の念がそんな命令に同意することを夢想だもするであらうか。それにまた、東京の墓場にある幾百萬のミヅタメと幾千萬の竹の花立てとへ、七日目七日目に、ケロシン油を注ぎこむ勞働と時間との費へを考へて見給へ!………不可能なことである! この都市から蚊を取り去るには、古昔からの墓場を破毀[やぶちゃん注:「はき」。破棄・毀損と同じ。]しなければならぬことになるであらう。――といふ事は墓場に附隨して居るお寺の破滅といふことになるであらう。――そして、又それは、蓮池があつたり、梵字の記念塔があつたり、反り橋があつたり、神聖な木立があつたり、奇しき微笑を浮べて居る佛像があつたりする、あんなに多くの美しい庭園の消滅といふことになるであらう! だから、キユレツクス・フアスシアタスの根絕は祖先傳來の祭祀の詩美の破壞となることであらう――これは確かに餘りに高價な費用! である。……

 

 それにまた、自分は、自分があの世へ行く時節が來れば――自分の地下の友達が、明治の流行だの、變化だの、崩壞だのを少しも意に介しない、古い人達であるやうに――何處か昔風なお寺の墓場へ埋めて貰ひたいものと思つて居る。自分の庭の後ろの、あの古い墓地が適當な場處かと思ふ。あそこにある物はいづれも皆、異常な驚くばかりの珍奇といふ一種の美を有つて居るので美くしい。一木一石悉く、今生きて居るどんな頭腦にも、最早存在して居ない、或る古い古い理想が造つたもので、物の影さへ今時のもの、この今の太陽のものでは無くして、蒸汽或は電氣或は磁氣或は――ケロシン油! なるものを知らなかつた、今は人の忘れて居る或る世界のものである。それからまた、あの巨大な鐘のボオンと響く音には、自分の身體の十九世紀の部分凡てと、不思議なほど遠く距つて居る感情を――その感情が微かに盲目的に動くといふと自分には恐ろしい――美妙に恐ろしい――その感情を目覺ます一種古雅な音色がある。あの大波のやうな音を耳にするといふと、自分の魂の奈落の底に潛んで居るものが或る努力を試み、或る騷ぎを爲して居ることを――幾百千萬の生死の晦蒙[やぶちゃん注:「かいもう」。真理に冥(くら)く道理を弁えない愚かなこと。]を越えての光明に到達せんと悶えて居る記憶の如き感を――覺ぬえぬことは一度も無い。自分はあの鐘の聞える處にいつまでも居たいと思ふ。……そして、自分は食血餓鬼の境涯に入る運命を或は有つて居るかも知れぬと考へると、自分の孱細い[やぶちゃん注:「かぼそい」と訓じておく。「孱」は音「セン・サン」で、「弱い・劣る.・小さい」の意であるからである。]辛辣な歌をうたひながら、自分の知つて居る或る人々を囓みに、そつと出て行かれるやうに、竹の花筒かミヅタメかの中に再生する機會を有ちたい[やぶちゃん注:「もちたい」。]と思ふ。

[やぶちゃん注:小泉八雲とセツさんの比翼塚は雑司ケ谷霊園にある(リンク先は公式マップ(PDF)。㉔がそれ)。一九七九年三月、大学を卒業した私が、四年過ごした東京を去るに当たり、最初に訪れたのが、小泉八雲の墓(リツさんとの二基の夫婦墓であった)であった。後年の私の偽作「こゝろ佚文」(二〇〇五年作)の「上 先生と私 十三後 佚文一」の冒頭で、「先生」が霊園から出て来るが、則ち、私はKの墓の位置を秘かに小泉八雲の墓に設定したものであった。そこに「先生」と「私」の間に立ち現れる「男」を描いたが、それは無論、Kの霊なのである(実は「『東京朝日新聞』大正3(1914)年4月24日(金曜日)掲載 夏目漱石作「心」「先生の遺書」第五回」の私の注でも書いたが、実際の「こゝろ」の中にも、Kの亡霊が出るとする研究者が実は、いる)。則ち、学生たちから慕われた小泉八雲を結果的に追い払った形で後釜となったものの、学生たちから総スカンを食らって、怒って退職し、作家になった夏目漱石の、かの名篇「こゝろ」の、この拙作の偽作で、私は秘かに小泉八雲先生の仇を討ち、しかもKの霊を出すことで、実は幽霊を好まれた八雲先生へのオマージュとしたのであった。……これは、ここで初めて明かすことである。……しかも!……今日は奇しくも!……小泉八雲の命日であったのだった!!!――1904年9月26日(満54歳)――

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