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2019/09/07

小泉八雲 雉子のはなし  (田部隆次譯)

 

[やぶちゃん注:やぶちゃん注:本篇(原題“ Story of a Pheasant ”。Pheasant は鳥綱キジ目キジ科 Phasianidae のキジ類の総称。音写は「フェズント」)は一九〇二(明治三五)年十月にニュー・ヨークのマクミラン社(MACMILLAN COMPANY)刊の“ KOTTŌ ”(来日後の第九作品集)の冒頭に配された“ Old Stories ”(全九話)の八番目に配されたものである。作品集“ KOTTŌ ”は“Internet Archive”のこちらで全篇視認でき(本篇はここから。但し、これは翌一九〇三年の再版本)、活字化されたものは“Project Gutenberg”のこちらで全篇が読める本篇はここから)。

 底本は上記英文サイト“Internet Archive”のこちらにある画像データをPDFで落し、視認した。これは第一書房が昭和一二(一九三七)年一月に刊行した「家庭版小泉八雲全集」(全十二巻)の第八巻全篇である。★【2025年3月24日底本変更・前注変更】時間を経て、国立国会図書館デジタルコレクションに本登録し、現行では、以上の第一書房版昭和六(一九三一)年一月に刊行した「學生版小泉八雲全集」(全十二巻)の第七巻が、国立国会図書館デジタルコレクションで公開されてある。(リンクは扉だが、「學生版」の文字はない。しかし、奥附を見て貰うと『學生版 【第二囘豫約】』とあり、『昭和六年一月十日 發行』とあることが確認出来る)、これが、前掲の底本と同じものであるが、やはり、外国のサイトのそれを底本とするのは、日本人小泉八雲に失礼であると考えた。されば、こちらで、再度、以下の「骨董」の作品群を改めて校正することとする。これが――私の小泉八雲への「義」――である。なお、之よりも前の元版の全集等が先行しているものの、私がそれらと比べた結果、実は先行する同社の「小泉八雲全集」のそれらは、訳が一部で異なっており、訳者等によって、かなりの補正・追加がされていることが、今回の正字補正作業の中で、はっきりと判って来た。いや、同じ「家庭版」と名打ったネット上の画像データでも、驚いたことに、有意に異なっていたのである。そうした意味でも――完全な仕切り直しの総点検――が必要であると決したものである。従って、旧前振りの括弧・鍵括弧の問題も、拡大とガンマ補正で確認し、正確を期する。新底本の本話はここから。

 傍点「ヽ」は太字に代えた。挿絵は底本にはないが、原本では各話の前後に同じ絵がサイズを変えて配されてある。“Project Gutenberg”版にある最初に配された大きい方のそれを使用した。挿絵画家は既に述べた通り、佐賀有田の生まれの画家江藤源次郎(えとうげんじろう 慶応三(一八六七)年~大正一三(一九二四)年)である。但し、本底本最後の田部隆次氏の「あとがき」によれば、『マクミランの方でヘルンが送つた墓地の寫眞と「獏」の繪「獏」の繪の外に、當時在英の日本畫家伊藤氏、片岡氏などの繪を多く入れたので、ヘルンは甚だ喜ばなかつたと云はれる』とある。それを考えると、挿絵の多くは、スルーされた方が、小泉八雲の意には叶うと言うべきではあろう。

 田部隆次(たなべりゅうじ 明治八(一八七五)年~昭和三二(一九五七)年)氏については先に電子化した「人形の墓」の私の冒頭注を参照されたい。

 本篇の原拠については、永く不詳とされてきた。ネットで調べると、ある方の論文で原拠を探し当てているような題名のものを見出せたが、内容を閲覧出来ない。何かの機会で調べることが出来たら、追記したい。]

 

Kotto_016

 

   雉子のはなし

 

 昔、尾州遠山の里に若い農夫とその妻が住んでゐた。家は山の間の淋しい場所にあつた。

[やぶちゃん注:「尾州遠山」不詳。現在の愛知で山間部の「遠山」という地名は調べ得なかった。]

 或夜妻は夢を見た。その夢に數年前になくなつた舅が來て『明日自分は非常に危險な目に遇ふから、できるなら助けてくれ』と云つた。朝になつてこの事を夫に話した。二人とも、死んだ人が何か用があるのだらうとは思つたが、その夢の言葉は何の意味か分らなかつた。

 朝飯の後、夫は畠へ行つたが妻は機織[やぶちゃん注:「はたおり」。]のために家に殘つた。やがて外の方で大きな騷ぎが聞えたので驚いて出て見ると、地頭が大勢の伴をつれて狩獵のためにこの邊へ近づいて來た。見て居るうちに一羽の雉子がわきの方から家の中へ飛び込んだ。そこで不圖昨夜の夢を想ひ出した。『事によればこれが舅かも知れない。助けて上げねばなるまい』――彼女は獨りで思案した。それから鳥のあとから急いで家に入つて――その鳥は綺麗な雄鳥であつた――造作なくそれを捕へて、空(から)の米櫃の中に入れて蓋をして置いた。

[やぶちゃん注:「地頭」本話を江戸時代に限定することは出来ないが、仮に原拠が江戸時代であったとしても、おかしくはない。ウィキの「地頭」によれば、『江戸期においては、旗本や御家人といった大名に至らない小領主(概ね』一『万石未満)を意味する語として残』り、『その他諸藩において地方知行を受ける給人を指す言葉に「地頭」を指すものが存在した』とあるからである。「給人」とは江戸時代には諸藩に於ける藩士の家格・家柄の一つで、ウィキの「給人」によれば、特に『尾張藩において、将軍の朱印状をもって知行地を与えられていた藩士のこと』及び、広く『徴税吏の総称として、給人という語を使用することがあった』(下線太字は私が附した)とある。]

 しばらくして地頭の從者が幾人か入つて來て、雉子を見なかつたかと尋ねた。大膽にも彼女は否定したが、獵人の一人はその家へ鳥の飛び込むのをたしかに見たと云つた。それから一行は家中をあちらこちらとさがしたが、米櫃の中には氣付かなかつた。そのあたりくまなく搜索したが結局無駄であつたので、鳥はどこか穴からでも逃げたに相違ないとあきらめて人々は引き上げた。

 

 農夫が家に歸つた時、妻は夫に見せるために米櫃に隱して置いた雉子の話をした。

 『私が捕へた時すこしも抵抗しなかつたが、米櫃の中でもおとなしくしてゐます。きつと舅樣だと思ひます』と妻は云つた。農夫は米櫃の處へ行つて、蓋を取つて鳥を取出した。鳥は農夫の手に靜にとまつて、そこに居ることに慣れて居るやうに農夫を見てゐた。一方の目が盲目であつた。『父の目は一方盲目であつた』農夫が云つた、『右の眼であつた、この鳥の右の眼が盲目だ。全くこれは父だらう。丁度いつもの父のやうな眼付で、この鳥が見て居る。……父は自分で「おれは今、鳥だから、獵師などにやるのなら一層おれの體は子供に喰はしてやる方がましだ」と考へたに相違ない。……それで、お前の昨夜の夢の譯も分つた』と氣味の惡いうす笑をうかべて妻の方に向つてかう云ひ足しながら雉子の頸をねぢた。

 この野蠻な行[やぶちゃん注:「おこなひ」。]を見て、妻は泣き聲を上げて叫んだ。

 『まあ、この極惡非道の鬼。鬼のやうな心の人間でなければ、こんな事のできる筈はない。……こんな男の妻になつて居るより死んだ方が增しだ』

 それから草履もはかずに戶外に飛び出した。男は女の飛び出した時に袖をつかんだ、が女は振切つて驅け出した。驅けながら泣いた。はだしで走り續けた。町に着いて、すぐ地頭の屋形へ急いだ。それから淚とともに、獵の前夜の夢の事、雉子を助けたさの餘り隱した事、それから夫が自分を嘲つて[やぶちゃん注:「あざけつて」。]、たうとうその雉子を殺した事の一切を地頭に話した。

 地頭は女にやさしい言葉をかけた。そしてこの女を勞はつてやるやうに命じた。しかし夫は捕へるやうに部下に命じた。

 

 翌日農夫は取調べを受けた。雉子を殺した事に就いて、事實を白狀させられてから宣告を受けた。地頭は云つた。

 『餘程の惡人でなければ、その方の行つたやうな事はやれない、そんな邪惡な人間の居る事は、その土地に取つて不幸である。ここに住んで、ここの掟を守る人々は皆、親孝行の心がけを敬ふ人々である、その方の如きものをその中に置く事まかりならぬ』

 そこで農夫は、その土地から追放ときまつて、もし歸つて來たら、死刑に處せられる事になつた。しかし女には、地頭は土地を與へた、それから後になつてよい夫を持たせた。

 

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