小泉八雲 葬られたる祕密 (戶川明三譯) 附・原拠「新撰百物語」の「紫雲たな引密夫の玉章」
[やぶちゃん注:本篇(原題“ A DEAD SECRET ”)は明治三七(一九〇四)年四月にボストン及びニュー・ヨークの「ホートン・ミフリン社」(BOSTON AND NEW YORK HOUGHTON MIFFLIN COMPANY)から出版された、恐らく小泉八雲の著作の中で最も日本で愛されている作品集「怪談」(原題“ KWAIDAN: Stories and Studies of Strange Things ”。来日後の第十作品集)の十話目である。なお、小泉八雲はこの年の九月二十六日に五十四歳で心臓発作により急逝した。
同作品集は“Internet Archive”のこちらで全篇視認でき(リンク・ページは挿絵と扉標題。以下に示した本篇はここから。)、活字化されたものは“Project Gutenberg”のこちらで全篇が読める(本篇はここ)。
底本は上記英文サイト“Internet Archive”のこちらにある画像データをPDFで落し、視認した。これは第一書房が昭和一二(一九三七)年一月に刊行した「家庭版小泉八雲全集」(全十二巻)の第八巻全篇である。★【2025年3月28日底本変更・前注変更】時間を経て、国立国会図書館デジタルコレクションに本登録し、現行では、以上の第一書房版昭和六(一九三一)年一月に刊行した「學生版小泉八雲全集」(全十二巻)の第七巻が、国立国会図書館デジタルコレクションで公開されてある。(リンクは扉だが、「學生版」の文字はない。しかし、奥附を見て貰うと『學生版 【第二囘豫約】』とあり、『昭和六年一月十日 發行』とあることが確認出来る)、これが、前掲の底本と同じものであるが、やはり、外国のサイトのそれを底本とするのは、日本人小泉八雲に失礼であると考えた。されば、こちらで、再度、以下の「骨董」の作品群を改めて校正することとする。これが――私の小泉八雲への「義」――である。なお、之よりも前の元版の全集等が先行しているものの、私がそれらと比べた結果、実は先行する同社の「小泉八雲全集」のそれらは、訳が一部で異なっており、訳者等によって、かなりの補正・追加がされていることが、今回の正字補正作業の中で、はっきりと判って来た。いや、同じ「家庭版」と名打ったネット上の画像データでも、驚いたことに、有意に異なっていたのである。そうした意味でも――完全な仕切り直しの総点検――が必要であると決したものである。従って、旧前振りの括弧・鍵括弧の問題も、拡大とガンマ補正で確認し、正確を期する。本作はここから。
戸川明三は英文学者で評論家としても知られる戸川秋骨(明治三(一八七一)年~昭和一四(一九三九)年)の本名である。彼の著作権は既に満了している。本ブログ・カテゴリ「小泉八雲」では、彼が訳した小泉八雲の遺作となった大作「神國日本」(“Japan: An Attempt at Interpretation”)を全電子化注している。
なお、実は、私は、『柴田宵曲 續妖異博物館 「死者の影」 附 小泉八雲 “A DEAD SECRET”+同戶川明三譯(正字正仮名)+原拠「新選百物語/紫雲たな引密夫の玉章」原文』で、一度、八雲の原文と訳を電子化している。しかし、今回は、底本異なることもあり、全くゼロから起こした。]
葬られたる祕密
むかし丹波の國に稻村屋源助といふ金持ちの商人が住んで居た。此人にお園といふ一人の娘があつた。お園は非常に怜悧で、また美人であつたので、源助は田舍の先生の敎育だけで育てる事を遺憾に思ひ、信用のある從者をつけて娘を京都にやり、都の婦人達の受ける上品な藝事を修業させるやうにした。かうして敎育を受けて後、お園は父の一族の知人――ながらやと云ふ商人に嫁(かたづ)けられ、殆んど四年の間その男と樂しく暮した。二人の仲には一人の子――男の子があつた。然るにお園は結婚後四年目に病氣になり死んでしまつた。
その葬式のあつた晚にお園の小さい息子は、お母さんが歸つて來て、二階のお部屋に居たよと云つた。お園は子供を見て微笑んだが、口を利きはしなかつた。それで子供は恐はくなつて逃げて來たと云ふのであつた。其處で、一家の內の誰れ彼れが、お園のであつた二階の部屋に行つて見ると、驚いたことには、その部屋にある位牌の前に點(とも)された小さい燈明の光りで、死んだ母なる人の姿が見えたのである。お園は簞笥則ち抽斗[やぶちゃん注:「ひきだし」。]になつて居る箱の前に立つて居るらしく、其簞笥にはまだお園の飾り道具や衣類が入つて居たのである。お園の頭と肩とは極く瞭然(はつきり)見えたが、腰から下は姿がだんだん薄くなつて見えなくなつて居る――恰もそれが本人の、はつきりしない反影のやうに、叉、水面に於ける影の如く透き通つて居た。
それで人々は、恐れを抱き部屋を出てしまひ、下で一同集つて相談をした處、お園の夫の母の云ふには『女といふものは、自分の小間物が好きなものだが、お園も自分のものに執著して居た。多分、それを見に戾つたのであらう.死人でそんな事をするものも隨分あります――その品物が檀寺にやられずに居ると。お園の著物や帶もお寺へ納めれば、多分魂も安心するであらう』
で、出來る限り早く、この事を果すといふ事に極められ、翌朝、抽斗を空(から)にし、お園の飾り道具や衣裳はみな寺に運ばれた。しかしお園はつぎの夜も歸つて來て、前の通り簞笥を見て居た。それからそのつぎの晚も、つぎのつぎの晚も、每晚歸つて來た――爲めにこの家は恐怖の家となつた。
お園の夫の母はそこで檀寺に行き、住職に事の一伍一什[やぶちゃん注:「いちごいちじふ(じゅう)」一から十まで。始めから終わりまで。一部始終。「伍」「什」は「五」「十」の換え字。]を話し、幽靈の件について相談を求めた。その寺は禪寺であつて、住職は學識のある老人で、大玄和尙として知られて居た人であつた。和尙の言ふに『それはその簞笥の內か、又はその近くに、何か女の氣にかかるものがあるに相違ない』老婦人は答へた――『それでも私共は抽斗を空に居たしましたので、簞笥にはもう何も御座いませんのです』――大玄和尙は言つた『宜しい、では、今夜拙僧が御宅へ上り、その部屋で番を居たし、どうしたらいいか考へて見るで御座らう。どうか、拙僧が呼ばる時の外は、誰れも番を致して居る部屋に、入らぬやう命じて置いて戴き度い。
[やぶちゃん注:「大玄和尙」不詳。江戸時代中期の僧(延宝八(一六八〇)年~宝暦六(一七五六)年)で、祐天に師事し、増上寺四十五世大僧正となった大玄がいるが、ご覧の通り、彼は浄土宗であるから違う。後で提示する原拠では、『禅僧太元(だいげん)和尚』とある。江戸後期の臨済僧(妙心寺派)の白隠禅の法嗣である太元孜元(たいげんしげん 明和六(一七六九)年~天保八(一八三七)年)がいるが、原拠の「新撰百物語」の板行は推定で明和三(一七六六)年であるから、彼でもない。
「番を致して居る部屋」訳が不親切である。ここの一文の原文は“You must give orders that no person shall enter the room while I am watching, unless I call.”であるから、「拙僧(わたし)が靈を待つて居る部屋」或いは、全体を「靈を待って居(を)る拙僧が、內より呼ばはる時の外は、誰(たれ)も部屋に入らぬよう、命じて置いて戴き度い」と訳すべきところである。]
日沒後、大玄和尙はその家へ行くと、部屋は自分のために用意が出來て居た。和尙は御經を讀みながら、其處にただ獨り坐つて居た。が、子の刻過ぎまでは、何も顯れては來なかつた。しかし、その刻限が過ぎると、お園の姿が不意に簞笥の前に、何時となく輪廓を顯した。その顏は何か氣になると云つた樣子で、兩眼をじつと簞笥に据ゑて居た。
和尙はかかる場合に誦するやうに定められてある經文を目にして、さてその姿に向つて、お園の戒名を呼んで話しかけた『拙僧(わたし)は貴女(あなた)のお助けをするために、此處に來たもので御座る。定めしその簞笥の中には、貴女の心配になるのも無理のない何かがあるのであらう。貴女のために私がそれを探し出して差し上げようか』影は少し頭を動かして、承諾したらしい樣子をした。そこで和尙は起ち上り、一番上の抽斗を開けて見た。が、それは空であつた。つづいて和尙は、第二、第三、第四の抽斗を開けた――抽斗の背後や下を氣をつけて探した――箱の內部を氣をつけて調べて見た。が何もない。しかしお園の姿は前と同じやうに、氣にかかると云つたやうにぢつと見つめて居た。『どうして貰ひたいと云ふのかしら?』と和尙は考へた。が、突然かういふ事に氣がついた。抽斗の中を張つてある紙の下に何か隱してあるのかも知れない。と、其處で一番目の抽斗の貼り紙をはがしたが――何もない! 第二、第三の抽斗の貼り紙をはがしたが――それでもまだ何もない。然るに一番下の抽斗の貼り紙の下に何か見つかつた――一通の手紙である。『貴女の心を惱して居たものはこれかな?』と和尙は訊ねた。女の影は和尙の方に向つた――その力のない凝視は手紙の上に据ゑられて居た。『拙僧がそれを燒き棄てて進ぜようか?』と和尙は訊ねた。お園の姿は和尙の前に頭を下げた。『今朝すぐに寺で燒き棄て、私の外、誰れにもそれを讀ませまい』と和尙は約束した。姿は微笑して消えてしまつた。
和尙が梯子段を降りて來た時、夜は明けかけて居り、一家の人々は心配して下で待つて居た。『御心配なさるな、もう二度と影は顯れぬから』と和尙は一同に向つて云つた。果してお園の姿は遂に顯れなかつた。
手紙は燒き棄てられた。それはお園が京都で修業して居た時に貰つた艷書であつた。しかしその內に書いてあつた事を知つて居るものは和尙ばかりであつて、祕密は和尙と共に葬られてしまつた。
[やぶちゃん注:本書の原拠は講談社学術文庫一九九〇年刊小泉八雲著・平川祐弘編「怪談・奇談」によれば、明和三(一七六六)年(推定)に、上方の版元吉文字(きちもんじ)屋が板行した新作怪談本「新撰百物語」(著者不詳)の巻三にある「紫雲たな引(びく)密夫(みつふ)の玉章(たまづさ)」である(「玉章(たまづさ)」は手紙のこと。「玉梓(たまあずさ)」が音変化したもので、古えには便りを伝える者が梓の杖を持って正規の使者(配達人)の証明としていたことに拠る)。以下は、富山大学の「ヘルン文庫」の旧小泉八雲蔵本を底本とした(同書の画像は「富山大学学術情報リポジトリ」のこちらから全篇をダウン・ロード出来る)。句読点・記号を附加し、段落を成形して読み易くした。但し、読みは振れそうな部分のみに留めた。漢字は正字とするか略字ととるか迷ったものは正字を採った。歴史的仮名遣の誤りはママである。踊り字「く」は正字化した。一部で清音の個所を濁音に直した(そこは指示した)。一部が汚損して読み難くなっているが、そこは講談社学術文庫を参考に比定した。
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○紫雲たな引密夫の玉章
小夜衣(さよごろも)など書(かき)やりしは、鳴呼、貴むべし貞女とも節女とも、古今に(こゝん)に秀(ひいで)し稀者(まれもの)、末世までも、その名を殘せり。かゝる賢女を當世に「不膵(ぶすい)」といひ、「練(ねれ)ぬ」といひ、「白(しろ)い」といひ、「土(つち)」といふ。これ、皆、西南の「蚯蚓(みゝず)」にして、𢙣(にく)むべし。人をして𢙣(あく)に導(みちびく)の罪人なり。かくのごときものをば、「鼠」といふと、その所以(ゆへ)を問ヘば、食ふ事のみを好んで、人前へ出(いづ)る事あたはざるがゆへなりと。宜(むべ)なるかな、子は親の心にならふものなれば、假令(かりそめ)にも不義・淫亂のことをいはず、女子(によし)は取(とり)わけ、孝を第一にして、つゝしを敎(おしゆ)べし。芝居の御姬さまの、かちや、はだして[やぶちゃん注:「裸足で」か。]、出奔なされ、後(のち)には傾城やへ賣(うら)れ給ふの、イヤ、「私夫(まぶ)」のといふ名は勿論、聞(きか)すも毒なるに、母親(はゝご)の好(すき)とて、娘子(むすめご)を鰹汁(だし)にして、一番太皷(いちばんたいこ)のならぬ中(うち)から、幼(いとけ)なき子の手を引(ひい)てしこみ給ヘば、曆々の黑き膵(すい)と成(なつ)て、男(おとこ)の子は、代々の家をもち崩し、辻(つぢ[やぶちゃん注:原典「つち」。])だちの狂言するやうになり、女子(によし)は密夫(まおとこ)の種(たね)と成ものぞかし。
[やぶちゃん注:「小夜衣(さよごろも)」は中世の擬古物語。作者不詳。全三巻。兵部卿宮と山里の姫君(対(たい)の君)の恋に、継子いじめ譚を絡ませたもの。鎌倉中期以後に成立したと考えられている。梗概は参照したウィキの「小夜衣」を見られたい。
「不膵」ママ。「膵」は膵以外の意はない。「無粹(粋)」を書き誤まるとは思えないので、臓器の「膵」臓がないから、女だてらにこんな辛気臭いものを書くという洒落ででもあったか。後の「黑き膵」から見て、賤しい道理を外れた腹黒の者の謂いとも採れる。
『西南の「蚯蚓(みゝず)」』「蚯蚓」は下手な筆文字を卑称する「蚯蚓書き」のことであろう。女性の草書の崩し字を揶揄していると読む。「西南」が判らぬ。「粋でない」ことを関西以南でこう呼ぶものかと思い、調べたが、方言辞典でも出てこない。本書の出版元吉文字屋は大阪の書肆である。
「食ふ事」読本作家は紙を食うと掛けたか。
「一番太皷」芝居小屋の開場を知らせるそれ。ここは母親が子供らが好きだからなどという見え透いた嘘をついて、不倫・心中物の浄瑠璃や歌舞伎やらの寄席に足繁く遊興することを批難したもの。
「辻(つち[やぶちゃん注:ママ。])だちの狂言する」大道芸の語りや講談師に落魄(おちぶ)れること。]
今はむかし、丹波の國に、「稻村や善助」とて、吳服商賣する人ありて、お園といふ娘をもちしが、只ひとりの娘といひ、諸人にまされる容色なれば、父母の寵愛、すくなからず、
「田舍育(いなかそだち)となさんも、惜し。」
と、一年のうち、大かたは京・大坂に座敷をかり、乳母・婢(こしもと)を多くつけ置(おき)、「地下(ぢげ)でも堂上(たうしやう)まさりじや」と名にたつ師をとり、和歌を学(まなば)せ、「茶の湯も少し知(しら)いでは」と、利休流の人へたのみ、長板(ながいた)までもたてまへ覚へ、「𢌞り炭(すみ)に心をくだけば[やぶちゃん注:原文「は」。]、お精がつきやう」と、婢(こしもと)とも、琴・三絃(さみせん)を取出し、「明日は芝居にいたしましよ」と女形(をんながた)の容貌(すがた)に氣をつけ、聲音(こはいろ)をうつし、仕立(したて)あけたる盛(さかり)の年(とし)、二九(にく)からぬ目もと・口もと、田舍にまれなるうつくしさ、引手(ひくて)あまたの其中に、「長良(なから[やぶちゃん注:ママ。])や淸七」とて、これもをとらぬ身代がら、兩替商賣。
[やぶちゃん注:「𢌞り炭」茶道の炉での作法の一つ。亭主と客の両者で炉の炭の組み方を各自の好みの趣で炉の中へ炭を並べ入れること。
「お精がつきやう」「廻り炭」などをちまちまとなさっていては、精神的に疲れてしまうだろう、と。
「仕立(したて)あけたる」「あけたる」は「明けたる」で修業が終わったの意であろう。]
目利(めきゝ)の嫁子(よめご)、白無垢娘(しろむくむすめ)、二世かけて夫婦の中(なか)は黃金(わうごん[やぶちゃん注:原文「わうこん」。])はだへ、振手形なきむつましさ。
[やぶちゃん注:「振手形」両替屋の預金者がその両替屋を支払人として、或いは、両替屋相互に相手を支払人として発行する手形。記名式で持参人払い。大坂で多く流通したため、「大坂手形」とも称した。ここでの否定形は、夫の生業に洒落て、信用不信用の思惑も不要な、の意。]
はや、其としに懷妊して、玉のやうなる和子(わこ)をもふけて、世話に、「すがたも變らねば[やぶちゃん注:原文「は」。]、下地(したぢ)のよいのは各別」と讃(ほめ)そやされし身なりしが、秋の末にはあらねども、いつともなしにぶらぶらとさして、病氣といふにもあらず、只、何となく面瘦(おもやせ)て、氣むつかしげに衰へて、物おもはしき氣色なれば、兩親(ふたおや)・舅姑(しうとしうとめ)・聟(むこ)、にはかに驚き、医者へも見せ、「藥よ鍼(はり)よ」と騷ぎたち、諸神(しよじん)諸佛へ立願(りうぐはん)をかけ奉る御寶前に肝膽(かんたん)をくだき、いのれども、終(つゐ)に此世の緣つきて、會者定離(ゑしやじやうり)とは知りながら、戀こがれしも、あだし野の露と消(きへ)ゆく花ざかり、鳥部(とりべ)の山に植(うへ)かへて、淚の種(たね)となりけらし。
ふしぎや、野邊に送りし夜より、お園が姿、ありありと影のごとくにあらはれて、物をもいはず、しよんぼりと單笥のもとにたゝずめり。
みなみな、傍(そば)に立(たち)よりて、
「ノフ、なつかしや。」
と取すがれど[やぶちゃん注:原文「と」。]、たゞ[やぶちゃん注:原文「ゝ」。]雲霧のごとくにて、手にもとられぬ水の月。
「何ゆへこゝに來りしぞ。」
と尋ぬれども、返事もせず、淚にむせぶ斗(ばかり)にて樣子もしれねば、詮かたなく、
「可愛(かあい)や。わが子が淸七に、こゝろ殘りて、迷ひしならん。」
と、さまざまの佛事をなし、跡ねんごろに吊(とふら)へども、所も違(たが)はず[やぶちゃん注:原文「す」。]、姿もさらず。
[やぶちゃん注:「可愛(かあい)や」感動詞的用法で「ああ、可哀想に!」の意。]
「扨は。簞笥の衣類の中か、手道具などにも執着せしか。」
と、殘らず、寺へ送れども、猶も、姿は、しほしほと、はじめにかはらぬ有樣なれば、一門中(もんちう)、ひそかにあつまり、
「衣類・手道具、寺へおくり、かたのごとく佛事をなせども、すこしもしるしのなき時は、なかなか、凡慮の及ばぬ[やぶちゃん注:原文「はぬ」]所、道得知識(どうとくちしき)のちからならでは、此妖怪は退くまじ。」
[やぶちゃん注:「道得知識」「道得」は仏法を身につけて、よく言い表わすことが出来ることを指す。「だうて(どうて)」とも読む。「知識」は「仏法を説いて導く指導者・善知識」のこと。]
と、其ころ、諸國に名高き禪僧太元(だいげん)和尚にくはしく語れば、和尚、しばらくかんがへて、
「後ほど參り、ようすを見とゞけ、迷ひをはらし得さすべし。」
と、初夜[やぶちゃん注:現在の午後八時頃。仏教で、一昼夜を晨朝(じんじょう)・日中・日没 (にちもつ)・初夜・中夜・後夜 (ごや)の六つに分けたもの。この時刻毎に、念仏や読経などの勤行をした。]すぐる比、たゞ一人、「長良や」に來られしに、見れば、一家(け)の詞(ことば)にちがはず、亡者のすがた、霞のごとく、簞笥のもとにあらはれて、目をもはなさず、簞笥をながめ、淚をながしかなしむ有さま、和尚、始終をよくよく見て、
「亡者の躰(てい)を考(かんがふ)るに、ひとつの願ひあるゆへなり。暫く此間(ま)の人を、はらひ、障子・ふすまをたて切(きる)べし。いかやうの事ありとも、一人も來(きた)るべからず。追付(おつつけ)、しるしを見せ申さん。」
と。
其身は、亡者のすがたに向ひ、いよいよ窺ひ居たりしが、立(たち)あがり、簞笥の中、一一[やぶちゃん注:「いちいち」。原文は後者は踊り字「く」。]に、よくあらため、顧(かへりみ)れども[やぶちゃん注:原文は「とも」。]、始(はじめ)にかはらず。
とてもの事に、
「簞笥の下を。」
と、引(ひき)のくれば、不義の玉章、數(す)十通、ひとつに封じかくしたり。
「これぞ、迷ひの種なるべし。」
と、幽霊にさしむかひ、
「心やすく成佛すべし。此ふみ共は、燒(やき)すて、人目には見せまじ。」
と、約束かたき、誓ひの言葉。
亡者のすがたはうれしげに合掌するぞと、見へけるが、朝日に霜のとくるがごとく、消(きへ)て、かたちは、なかりけり。
和尚は歡喜(かんぎ)あさからず、一門、のこらず呼出(よびいだ)し、
「亡者はふたゝび來るまじ。猶なき跡を吊(おふら)ふべし。」
と、立歸り、彼(かの)ふみども、佛前にて燒(やき)すつる煙(けふり)の中に、まざまざと、亡者は、再び、姿をあらはし、
「大悟知識(たいごちしき)の引導にて、則(すなはち)、たゞ今、佛果を得たり。」
と、紫雲に乘じて飛(とび)されりと。
大元和尚の宗弟(しうてい)[やぶちゃん注:門弟。]の物がたりぞと聞(きゝ)およぶ。
*]
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