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2019/09/16

小泉八雲 お貞のはなし (田部隆次譯) 附・原拠「夜窓鬼談」の「怨魂借體」のオリジナル訓読注

[やぶちゃん注:本篇(原題“ THE STORY OF O-TEI ”)は明治三七(一九〇四)年四月にボストン及びニュー・ヨークの「ホートン・ミフリン社」(BOSTON AND NEW YORK HOUGHTON MIFFLIN COMPANY)から出版された、恐らく小泉八雲の著作の中で最も日本で愛されている作品集「怪談」(原題“ KWAIDAN: Stories and Studies of Strange Things ”。来日後の第十作品集)の三話目である。なお、小泉八雲はこの年の九月二十六日に五十四歳で心臓発作により急逝した。

 同作品集は“Internet Archive”のこちらで全篇視認でき(本篇はここから。)、活字化されたものは“Project Gutenberg”のこちらで全篇が読める本篇はここ)。

 底本は上記英文サイト“Internet Archive”のこちらにある画像データをPDFで落し、視認した。これは第一書房が昭和一二(一九三七)年一月に刊行した「家庭版小泉八雲全集」(全十二巻)の第八巻全篇である。★【2025年3月28日底本変更・前注変更】時間を経て、国立国会図書館デジタルコレクションに本登録し、現行では、以上の第一書房版昭和六(一九三一)年一月に刊行した「學生版小泉八雲全集」(全十二巻)の第七巻が、国立国会図書館デジタルコレクションで公開されてある。(リンクは扉だが、「學生版」の文字はない。しかし、奥附を見て貰うと『學生版 【第二囘豫約】』とあり、『昭和六年一月十日 發行』とあることが確認出来る)、これが、前掲の底本と同じものであるが、やはり、外国のサイトのそれを底本とするのは、日本人小泉八雲に失礼であると考えた。されば、こちらで、再度、以下の「骨董」の作品群を改めて校正することとする。これが――私の小泉八雲への「義」――である。なお、之よりも前の元版の全集等が先行しているものの、私がそれらと比べた結果、実は先行する同社の「小泉八雲全集」のそれらは、訳が一部で異なっており、訳者等によって、かなりの補正・追加がされていることが、今回の正字補正作業の中で、はっきりと判って来た。いや、同じ「家庭版」と名打ったネット上の画像データでも、驚いたことに、有意に異なっていたのである。そうした意味でも――完全な仕切り直しの総点検――が必要であると決したものである。従って、旧前振りの括弧・鍵括弧の問題も、拡大とガンマ補正で確認し、正確を期する。本作はここから。

 田部隆次(たなべりゅうじ 明治八(一八七五)年~昭和三二(一九五七)年)氏については先に電子化した「人形の墓」の私の冒頭注を参照されたい。

 最後に原拠となった「夜窓鬼談」の「怨魂借體」(えんこんしゃくたい)を訓読して(原本は漢文)電子化注しておいた。]

 

  お貞のはなし

 

 昔、越後國新潟の町に長尾長生と云ふ人があつた。

[やぶちゃん注:原文は“A long time ago, in the town of Niigata, in the province of Echizen, there lived a man called Nagao Chosei.”で、田部は「越前」の誤りを訂して訳している。]

 長生は醫者の子であつた。それで父の業をつぐべき敎育をうけた。小さい時に父の友人の娘お貞と云ふのと婚約ができてゐた。長尾の修行の終り次第婚禮をあげる事に兩家とも一致してゐた。しかしお貞の健康のすぐれない事が分つて來た。それから、十五の年にお貞は、不治の肺病にかかつた。死ねことが分つた時、彼女は、わかれを告げるために長尾に來て貰つた。

 長尾が彼女の床のわきに坐ると、彼女は云つた。

 『長尾さま、私達は子供の時からお互にきまつてゐました。そして今年の末に結婚する筈でした。しかし今私は死にかかつてゐます、これも神佛の思召です。もう何年か生きてゐましたら私は他人の迷惑や心配の種子[やぶちゃん注:「たね」。]になるばかりでせうから。こんな弱いからだではよい妻になれるわけはありません。ですからあなたのために生きてゐたいと願ふ事さへ餘程我ままな願でせう。私全くあきらめてゐます。それであなたも悲しまない事を約束して下さい。……それに私達は、又あへると思ひます。それをあなたに云ひたいのです』……

 『本當だ、又あへるとも』長尾は熱心に答へた。『そしてあの淨土では別れると云ふ苦痛はないのだから』

 『い〻え、い〻え』彼女は靜かに答へた[やぶちゃん注:句読点なしはママ。]『淨土での事ではありません。明日葬られますけれども――この世で再びあふ事にきまつて居ると信じてゐます』

 長尾は不思議さうに彼女を見た。彼の不思議さうにして居るのを見て、微笑して居る彼女を見た。彼女はおだやかな夢のやうな聲で續けた、

 『さうです。この世のつもりです――あなたのこの今の世でです。長尾さま、……全くあなたもおいやでなければ。……たださうなるために私もう一度子供に生れかはつて女に成人せねばなりません。それまで、あなたは待つてゐて下さるでせう。十五年、十六年、長い事ですね、……しかし私の約束の夫のあなたは今やつと十九です……』

 彼女の臨終を慰めようと思ふばかりに、彼はやさしく答へた。

 『私の約束の妻、あなたを待つて居る事は義務であり嬉しい事です。私共は七生の間お瓦に誓つてあるのです』

 『しかしあなたは疑ひますか』彼女は彼の顏を見つめながら尋ねた。

 『他人のからだになつて、他人の名になつて居るあなたが分るかどうか疑はれます、――何か、しるしか證據を私に云つてくれなければ』彼は答へた。

 『それはできません』彼女は云つた。『どこでどうしてあふか神佛だけが御存じです。しかしきつと本當にきつと、もしあなたがおいやでなければ私はあなたの處へかへつて來る事ができます。……それだけ覺えてゐて下さい』

 彼女はものを云はなくなつた。それから眼を閉ぢた。彼女は死んでゐた。

 

       *

 

 長尾は心からお貞になついてゐた。それだけに彼の悲しみは深かつた。彼はお貞の俗名を書いた位牌を造らせた。そしてその位牌を佛壇に置いて、每日その前に供物を捧げた。彼はお貞が丁度死ぬ前に云つた不思議な事について色々考へた。そして彼女の魂を慰めようと思つて、もし彼女が他人の體でかへつてくる事があつたら、彼女と結婚しようと云ふ眞面目な約束を書いた。この書附にした約定に彼の印を捺し[やぶちゃん注:「おし」。]、それを封じて佛壇にあるお貞の位牌のわきに置いた。

 

 しかし長尾は一人息子であつたから、結婚する事が必要であつた。彼は家族の願に餘儀なく從つて、父の選んだ妻を迎へねばならなくなつた。結婚してからも續いて、お貞の位牌の前に供物を捧げた。そしていつも情け深く彼女を覺えてゐた。しかし彼女の姿は、彼の記憶から次第にうすくなつて行つた。――思ひ出し難い夢のやうに、そして歲月はすぎ去つた。

 

 その歲月の間に多くの不幸が彼の身の上に起つた。兩親がなくなつた、――それから彼の妻と一人兒がなくなつた。それで彼はこの世界に只一人となつた。彼は淋しい家を捨てて悲しみを忘れるために長い旅に上つた。

 

 旅の間に、或日、――温泉とその周圍の美しい風景とのために、今も名高い山の村、伊香保についた。彼の泊つた村の宿で、一人の若い女が彼の給仕に出た。彼女の顏を始めて見て、未だかつて覺えない程の胸のとどろきを覺えた。それ程不思議にも彼女はお貞にそつくりなので、彼は夢でないかと、自分をつめつて[やぶちゃん注:「つねつて」に同じ。]見た程であつた。彼女が火やお膳を運んだり部屋をかたづけたりして、行つたり來たりする時――彼女の立居振舞は彼が若い時の約束の少女の貴き記憶を彼に起させた。彼は彼女に話しかけた。彼女は柔かなはつきりした聲で答へた、その聲の美しさは、ありし日の悲しさで、彼を悲しくさせた。

 それで彼は甚だ不思議に思うて、かう彼女に問うた、

 『ねいさん、あなたは昔、私の知つてゐた人にあまりによく似て居るので、あなたがこの部屋へ始めてはひつて來た時、びつくりしましたよ。それで失禮だが、あなたの鄕里と名前をきかして下さい』

 直ちに――亡くなつた人の忘れられない聲で――彼女は答へた。

 『私の名はお貞です、そしてあなたは私の許嫁の夫、越後の長尾長生さんです。十七年前、私は新潟で死にました。それからあなたは、もし私が女のからだをしてこの世にかヘつて來れば、私と結婚すると云ふ約束を書附になさいました、――そしてあなたはその書附に判を捺して封をして、佛壇の私の名のある位牌のわきに納めました。それで私歸つて參りましたの』

 彼女はこの最後の言葉を發した時、知覺を失つた。

[やぶちゃん注:最後の一文は、原文では、“As she uttered these last words, she fell unconscious.”で、これは、「彼女はこれらの最後の言葉を発しながら、意識を失った。」である。]

 

 長尾は彼女と結婚した、そしてその結婚は幸福であつた。しかしその後どんな時にも彼女が伊香保で彼の問に對する答に於て、何を云つたか思ひ出せない。なほ彼女の前世については何も覺えてゐない。その面會の刹那に不思議に燃え上つた――前世の記憶は、再び暗くなつて、そしてそれから後そのままになつた。

 

[やぶちゃん注:本篇の原拠は、漢学者(絵もよくした)石川鴻斎(天保四(一八三三)年~大正七(一九一八)年)が明治二二(一八九九)年九月に刊行した全篇漢文(訓点附き)の怪奇談集(国立国会図書館デジタルコレクションのこちらで全篇を画像で読める。富山大学の「ヘルン文庫」の小泉八雲旧蔵本はこちらでダウン・ロード(PDF)出来る)「夜窓鬼談」(漢文)の上巻の「怨魂借體」である。後者の小泉八雲旧蔵本で電子化する。但し、底本の訓点に従って書き下したものを示す。原文はベタであるが、段落を成形し、原典は句点のみであるが、一部を読点・濁点を施し、さらにそれを増やし、記号も追加してある。一部の難読と思われる箇所には歴史的仮名遣で推定読みを〔 〕で添えた。( )は原文のルビ(但し、原本ではルビもカタカナ)である。傍線は原典では右にある。私は実は、この「夜窓鬼談」の愛読者で、何時かオリジナルに全訓読文を電子化してみたいと考えていた。その一つを、ここで遂に成し遂げることができた。感無量である。

   *

     怨魂借體〔ゑんこんしやくたい〕

 長尾杏生〔ながをきやうせい〕は、越後新潟の人なり。家世、軒岐(けんぎ)の術[やぶちゃん注:医術の異称。]を業とす。弱冠[やぶちゃん注:数え二十歳。]にして父に代〔かはり〕て患者を診す。

 某樓に一妓有り。阿貞〔おさだ〕と名つく。久しく悒鬱〔いふうつ〕の病[やぶちゃん注:鬱病。]を患ふ。偃臥〔えんぐわ〕[やぶちゃん注:腹這いで寝ること。]數旬、客に接すること、能はず。生、屢〔しばし〕ば之を診視す。三月を閱〔けみ〕して全癒を得たり。生、標致秀雅(ひやうちしうが)[やぶちゃん注:美男子で優雅であること。]、又、詼謔(たわむれ)[やぶちゃん注:諧謔に同じい。]を能〔よく〕す。常に人をして喜笑せしむ。阿貞の癒〔いゆ〕る、藥劑(やくざい)の效によると雖ども、實は杏生の其〔その〕鬱悶を慰諭するを以てなり。

 一夜、阿貞、盛醼〔せいえん〕[やぶちゃん注:饗宴。]を設け、生を招〔まねき〕て曰く、

「君の厚意によりて、枯骨に肉することを得たり。聊か薄饌〔はくせん〕[やぶちゃん注:粗末な捧げもの。]を供して、將に以て鄙忱〔ひしん〕[やぶちゃん注:粗末な料理。]を表せんとす。冀〔ねがは〕くは一杯を喫せよ。」

 乃〔すなは〕ち、諸妓を聘して、歌舞、興を扶〔たす〕く。生醉〔なまゑふ〕ること、甚し。玉山[やぶちゃん注:宴席。]、已に頽〔くづ〕れ、盃盤、狼籍たり。貞、水を與へ、背を撫して曰く、

「夜〔よ〕深く、雨、催す。請ふ、床に就て睡〔ねむ〕れ。」

 生、未だ醒めず。乃〔すなは〕ち、一室に入り、裾に坐して戲〔たはむれ〕て曰く、

「久しく客に接せず、耦〔つれあひ〕[やぶちゃん注:連れ合い。ここは馴染みの懇意な客。]を思ふこと、無きや否〔いなや〕。」

 貞、笑て曰く、

「懇君〔ねんごろのきみ〕のごとき者[やぶちゃん注:杏生を指す。]、無し。安〔いづく〕んぞ、耦を思はん。」

 生、曰く、

「卿〔おんみ〕[やぶちゃん注:尊称の二人称。]、若〔も〕し僕を欺かずんば、僕、亦た、誠〔まこと〕を竭〔つくさ〕んのみ。」

 貞、流涕して曰く、

「重恩の人、何を以てか、之を報ぜん。君、若〔も〕し、醜〔しこ〕[やぶちゃん注:貞の卑称。]を棄〔すて〕ずんば、命を以て、之に事〔つか〕へん。」

 生、喜ぶ。

 遂に同衾の歡を爲す。

 爾來、屢〔しばし〕ば、此に來〔きた〕る。膠漆[やぶちゃん注:「かうしつ(こうしつ)」。ニカワとウルシ。しっかりと密着させる接合剤から転じて、極めて親しく離れ難い関係の喩え。]、啻〔ただ〕ならず、稍〔や〕や他妓の嬲(なぶらるる)[やぶちゃん注:揶揄される。]所〔ところと〕爲る。

 生の父、其の遊蕩を憤り、念[やぶちゃん注:情念。]を一時に斷たしめんと欲し、貲〔し〕[やぶちゃん注:学資金。]を齎〔もたらし〕て、江都[やぶちゃん注:江戸。]に遣る。醫博士某に從〔したがひ〕て業を硏せしむ。

 生、已むことを得ず、簦〔かさ〕[やぶちゃん注:枝のついた旅用の傘。]を擔〔になひ〕て鄕を去る。

 復た、信[やぶちゃん注:書信。手紙。]を通ずることを得ず。

 呵貞、聞て大に歎じ、病、再び發し、遂に、左[やぶちゃん注:左の目。]、明を失し、幾無〔いくばくもなく〕して亡〔う〕せり。

 生、學に就くこと、五年、父〔ちちを〕省〔かへりみ〕、鄕に歸る。

 父、其遊蕩に懲りて、急に某氏を娶〔めと〕りて、之に妻〔めあ〕はす。

 生、弟、有り。繼母の出〔しゆつ〕と爲〔なす〕。

 母、弟をして家を繼がしめんと欲す。

 生、其意を知り、妻を携へて、再び、東京に來り、業を下谷に開く。

 名聲、漸く聞へ、履屐(ひとあし)[やぶちゃん注:人の履き物。ここは医院への受診者の換喩。]、門に滿つ。

 時に年四十、偶〔たまた〕ま、左耳を聾〔ろう〕す。百治、驗〔しるし〕無し。自(みづから)以て不治の症と爲す。復た、甚だ、療せず。

 鄰巷〔りんかう〕[やぶちゃん注:隣町。]に術者、有り。能く吉凶禍福を知る。生と相ひ熟す[やぶちゃん注:非常に親しかった。]。

 生、術者に謂て曰く、

「餘の聾を病む、亦た、禍源[やぶちゃん注:禍いのもととなる悪しき原因。]、有りや。」

 術者、沈思、稍や久し。眉を顰〔ひそめ〕て曰く、

「二十年前、一婦人を欺くこと、無きか。」

生、曰く、

「記憶する所ろ、無し。」

曰く、

「此の婦、晚[やぶちゃん注:晩年。]に、左、明を失して、遂に悒鬱〔いふうつ〕して死す。怨念、滅せず。今猶ほ、累〔るい〕[やぶちゃん注:厄介な因縁。]と爲る。君、其れ、熟〔よ〕つく[やぶちゃん注:ちやんと。]思へ[やぶちゃん注:思い出してみよ。]。」

生、愕然として始て、阿貞、祟りを爲すことを知る。因〔よつ〕て、具〔つぶ〕さに前事を告ぐ。

 曰く、

「君は盛德の人。怨鬼、近づくことを得ず。然れども、一念の凝結する所ろ、年を經て、猶ほ未だ、銷(しやう)せず[やぶちゃん注:消えていない。]。宜しく靈を祀り、罪を謝すべし。」

 乃〔すなは〕ち、「解怨の法」を授く。

 生、則ち、壇を設け、靈を祀り、香華を供して、罪を謝す。且つ、翰[やぶちゃん注:書簡。]を書し、曰く、

――余、盟[やぶちゃん注:約束。]に負〔そむ〕くは、已むことを得ざるを以てなり。卿〔おんみ〕、若し、尙ほ、余を慕ふこと有らば、願くは再生して盟を尋〔き〕け。然れども、余、年老〔おとろ〕へ、氣、衰ふ。或は、魂を、容貌、卿〔おんみ〕に肖〔に〕たる者に憑託〔ひやうたく〕せよ。今世、復た、前緣を果〔はた〕すこと、有らん。我れ、今ま、子、無し。幸に妾〔めかけ〕爲〔する〕ことを得て、一子を生まば、我の願〔ねがひ〕、亦、足れり。――

 書し了る。之を壇前に焚〔た〕く。

 是れより、耳〔みみの〕聾、稍や輕し。三年の後、全く瘳〔いゆ〕ることを得たり。

 是より前〔さ〕き、父、歿す。

 生、亦、屢ば鄕に之〔ゆ〕く。十三年の忌辰〔きしん〕[やぶちゃん注:命日。]に了〔をはり〕て、又、鄕に於て祭を修す。

 歸途、伊香保溫泉に浴す。

 客舍に在る數日、婢、有り、年、僅に破瓜〔はか〕[やぶちゃん注:古く女の十六歳を指す語。]に埀(なんなん)とす。而〔しかして〕、容貌・音聲、酷〔はなは〕だ、阿貞に肖〔に〕たり。

 日夜、飮食・起臥の事、亦、甚だ務む。

 柔順・優愛、生を慕ふに似たり。

 一夜、更、深け、生、未だ眠らず、床に在〔あり〕て書を讀む。

 婢、來〔きたり〕て膏〔あぶら〕[やぶちゃん注:行灯の油。]を加ふ。

 生、戲れに婦〔をんな〕に謂て曰く、

「汝の容貌、酷〔ひど〕く我が知る所の女に肖〔に〕たり。知らず、何れよりか來る。」

 婢、生の手を捕〔とり〕て嘕然〔えんぜん〕[やぶちゃん注:如何にも楽しそうに。]として曰く、

「君、貞を忘ること、無〔なき〕や否や。」

 生、驚〔おどろ〕て、曰く、

「汝は阿貞の再生する者か。」

 曰く、

「君の誓言を信じて、君の歸鄕を待つ。圖らず、故病、再び起り、遂に怨〔うらみ〕を呑〔のみ〕て亡〔う〕せり。一念、滅せず。往〔ゆき〕て、君〔きみが〕身を腦ます。後、君の書翰を得て、再生を俟たず、此女に體を借〔かり〕て、以て前緣を果さんと欲す。君、約を爽〔たが〕へず、速〔すみやか〕に相伴〔あひともな〕ひ去れ。婢、妾〔めかけと〕爲〔な〕るを、厭はざるなり。」

言ひ訖〔をへ〕て悶絕〔もんぜつす〕。

 氣脈、斷〔たた〕んと欲す[やぶちゃん注:今にも呼吸も脈も停止しそうになった。]。

 生、急に水を與へ、藥を啣(ふく)ましむ。

 少頃〔しばらく〕ありて驀然(ぼ/さむる[やぶちゃん注:前者は「驀」にのみルビしたもので「ぼぜん」であろう。後者は左ルビ。意味注。「c」は「たちまち。にわかに」の意。])として甦〔せい〕す。

 生、問ふ、

「言ふ所ろ、記憶するや否〔いなや〕。」

 曰く、

「知らず。唯だ、一女、體中に入るを覺ゆ。復た、怨を述〔のぶ〕るを聽くのみ。」

 生、又、姓名と鄕里を問ふ。泣〔なき〕て曰く、

「妾〔わらは〕、名は貞。高崎某士の二女、父母、姊と、夙〔とく〕に世を辭す。田園・家財、盡く負債〔ふさいの〕爲めに奪はれ、孤惸落魄(こけいらくはく)[やぶちゃん注:「孤惸」は「 身寄りのないひとりもの」。]、口を糊〔のり〕すること能はず。遂に此に來〔きたり〕て傭〔やとひ〕と爲る。主人、妾〔わらは〕が薄命を憐れみ、且つ、其幺弱〔ようじやく〕(よわし[やぶちゃん注:小さく虚弱なこと。])なるを以て、甚だ使役せず。獨り、老媽〔らうぼ〕有り、裁縫を事とす。妾、就〔つき〕て學ぶのみ。」

 言終〔いおひをは〕り、歔欷〔きよきし〕、雙淚、袖を濕〔うるほ〕す。

 生、之を憐れみ、遂に其主に乞ふて、妾〔めかけ〕と爲す。

 主も亦、大に喜び、爲に衣服・妝具〔さうぐ〕[やぶちゃん注:服飾装具。]を貽〔おく〕る。

 駕〔かご〕を命じて、之を送る。

 生、携へ歸〔かへり〕て、之を他室に置く。幾〔いくばく〕も無くして、男を擧〔あ〕ぐ。

 生の妻、子、無〔なき〕を以て、之を愛すること、己〔おのれ〕の出〔しゆつ〕のごとし。又、貞を愛すること、妹のごとし。

 貞、長ずるに及んで、言語・擧動、毫も阿貞に異なること無〔なし〕。

 數年の後、妻、病を以て歿す。死に臨んで、生に謂て曰く、

「貞、性、溫厚謹直、妾〔わらは〕、死するの後、請ふ、貞を以て、繼妻と爲せ。他人を娶ること、勿れ。」

と。

 是に於て、貞、妻と爲る。時に、年二十有五。

 阿貞、二十有五にして、生〔せいに〕別る。

 貞、二十有五二して、正妻と爲る。

 亦、奇なり。

 友人靑木氏、余が爲めに話す。

   *

 正直、原話は、時代から見て、このようなコンセプト(阿貞は芸者で、長生には正妻がいる)が当り前のようにも見えるのだが、小泉八雲の作品と比較すると、遙かに八雲の話の方が、原話の各所に配された妙な些細な五月蠅い飾り部分が全くなく、読者が稀有の奇蹟の到来を非常に心地よく受け取れる名佳品となっている。軍配は小泉八雲だ!]

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