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2019/09/15

小泉八雲 夢を食ふもの(田部隆次譯)~作品集「骨董」全篇電子化注完遂

 

[やぶちゃん注:本篇(原題“ The Eater of Dreams ”)は一九〇二(明治三五)年十月にニュー・ヨークのマクミラン社(MACMILLAN COMPANY)刊の“ KOTTŌ ”(来日後の第九作品集)の話柄数では二十番目の掉尾に配されたものである。作品集“KOTTŌ”は“Internet Archive”のこちらで全篇視認でき(本篇はここから。但し、これは翌一九〇三年の再版本である)、活字化されたものは“Project Gutenberg”のこちらで全篇が読める本篇はここから)。

 底本は上記英文サイト“Internet Archive”のこちらにある画像データをPDFで落し、視認した。これは第一書房が昭和一二(一九三七)年一月に刊行した「家庭版小泉八雲全集」(全十二巻)の第八巻全篇である。★【2025年3月26日底本変更・前注変更】時間を経て、国立国会図書館デジタルコレクションに本登録し、現行では、以上の第一書房版昭和六(一九三一)年一月に刊行した「學生版小泉八雲全集」(全十二巻)の第七巻が、国立国会図書館デジタルコレクションで公開されてある。(リンクは扉だが、「學生版」の文字はない。しかし、奥附を見て貰うと『學生版 【第二囘豫約】』とあり、『昭和六年一月十日 發行』とあることが確認出来る)、これが、前掲の底本と同じものであるが、やはり、外国のサイトのそれを底本とするのは、日本人小泉八雲に失礼であると考えた。されば、こちらで、再度、以下の「骨董」の作品群を改めて校正することとする。これが――私の小泉八雲への「義」――である。なお、之よりも前の元版の全集等が先行しているものの、私がそれらと比べた結果、実は先行する同社の「小泉八雲全集」のそれらは、訳が一部で異なっており、訳者等によって、かなりの補正・追加がされていることが、今回の正字補正作業の中で、はっきりと判って来た。いや、同じ「家庭版」と名打ったネット上の画像データでも、驚いたことに、有意に異なっていたのである。そうした意味でも――完全な仕切り直しの総点検――が必要であると決したものである。従って、旧前振りの括弧・鍵括弧の問題も、拡大とガンマ補正で確認し、正確を期する。新底本の本話はここから。

 傍点「﹅」は太字に代えた。挿絵は底本にはないが、原本では各話の前後に同じ絵がサイズを変えて配されてある。“Project Gutenberg”版にある最初に配された大きい方のそれを使用した。挿絵画家は既に述べた通り、佐賀有田の生まれの画家江藤源次郎(えとうげんじろう 慶応三(一八六七)年~大正一三(一九二四)年)である。但し、本底本最後の田部隆次氏の「あとがき」によれば、『マクミランの方でヘルンが送つた墓地の寫眞と「獏」の繪「獏」の繪の外に、當時在英の日本畫家伊藤氏、片岡氏などの繪を多く入れたので、ヘルンは甚だ喜ばなかつたと云はれる』とある。それを考えると、挿絵の多くは、スルーされた方が、小泉八雲の意には叶うと言うべきではあろう。但し、この絵は「白澤」と書かれている通り、獏ではなく、聖獣(後述)白沢(はくたく)である(腹部に人間の目が三つ書かれてあるのが判るが、これは日本の白沢図の特徴なのである。サイト「思考回廊」の『【ゆっくり文庫】小泉八雲「夢を啖(くら)うもの」』によれば、三つ以上の目があるという特徴を加えたのは江戸中期の絵師で妖怪画を得意とした鳥山石燕、正徳二(一七一二)年~天明八(一七八八)年である)。ただ、この白澤は後述(引用)する通り、獏と混同されていたので、江藤の過誤とは言えない

 田部隆次(たなべりゅうじ 明治八(一八七五)年~昭和三二(一九五七)年)氏については先に電子化した「人形の墓」の私の冒頭注を参照されたい。

 添え題にある発句は出典や作者は判らなかった。原文には“ Old Japanese Love-song. ”とあるが、田部氏は略している。ご存じの方は御教授願えると、嬉しい。

 「獏」はウィキの「獏」を主文にして先に注しておく。『獏(ばく)は、中国から日本へ伝わった伝説の生物。人の夢を喰って生きると言われるが、この場合の夢は将来の希望の意味ではなく』、『レム睡眠』(Rapid eye movement sleep:REM sleep:急速な眼球運動を伴う睡眠)『中にみる夢である』(但し、かなり以前に「ノンレム睡眠(Non-REM sleep:徐波睡眠)」中でも夢を見ているという論文を読んだことがある。私はそれを支持する)『悪夢を見た後に「(この夢を)獏にあげます」と唱えると同じ悪夢を二度と見ずにすむという』。『中国で「獏(貘)」は古くから文献に見えるが、どんな動物であるかについては文献によって一定しない。『爾雅』釈獣には「白豹」であるといい、『説文解字』には「熊に似て黄黒色、蜀中(四川省)に住む」(『爾雅』疏に引く『字林』も同様だが「白黄色」とする)であるという。『爾雅』の郭璞注には「熊に似て頭が小さく脚が短く、黒白のまだらで、銅鉄や竹骨を食べる」とあり、ジャイアントパンダ』(哺乳綱食肉目クマ科ジャイアントパンダ属ジャイアントパンダ Ailuropoda melanoleuca )『を指したようである』。『段玉裁『説文解字注』でも「今も四川省にいる」とあるので、やはりパンダである』と考えてよかろう。『後に、白黒まだらであることからバク』(哺乳綱奇蹄目有角亜目 Tapiroidea 上科バク科バク属 Tapirus に現生五種がいる)『と混同され、また金属を食べるという伝説が大きく取り上げられることになった』。『『本草綱目』にも引かれている白居易「貘屏賛」序によると、鼻はゾウ、目はサイ、尾はウシ、脚はトラにそれぞれ似ているとされる』。『中国の獏伝説では悪夢を食らう描写は存在せず、獏の毛皮を座布団や寝具に用いると疾病や悪気を避けるといわれ、獏の絵を描いて邪気を払う風習もあり、唐代には屏風に獏が描かれることもあった』。『こうした俗信が日本に伝わるにあたり、「悪夢を払う」が転じて「悪夢を食べる」と解釈されるようになったと考えられている』。『『後漢書』や』『『唐六典』の注に伯奇(はくき)が夢を食うといい』、『これが獏と混同されたとの説もある』。『なお』、『この「伯奇」を「莫奇」と書いてある文献もあるが、江戸時代の小島成斎『酣中清話』の記載を孫引きしたもののようである』。『日本の室町時代末期には、獏の図や文字は縁起物として用いられた。正月に良い初夢を見るために枕の下に宝船の絵を敷く際、悪い夢を見ても獏が食べてくれるようにと、船の帆に「獏」と書く風習も見られた』。『江戸時代には獏を描いた札が縁起物として流行し、箱枕に獏の絵が描かれたり』、『獏の形をした「獏枕」が作られることもあった』。『中国の聖獣・白澤』(白沢。人語を解し、万物に精通するとされる聖獣で、徳の高い為政者の治世に姿を現すとされる)『と混同されることもある。東京都の五百羅漢寺にある獏王像も、本来は白澤の像とされている』(私の好きな像である)。『奇蹄目バク科の哺乳類のバクは、この伝説上の獏と姿が類似する事から、この名前がついた』。『なお、京都大学名誉教授 林巳奈夫の書いた『神と獣の紋様学―中国古代の神がみ―』によれば、古代中国の遺跡から、実在する動物であるバクをかたどったと見られる青銅器が出土している。このことから、古代中国にはバク(マレーバク』( Tapirus indicus )『)が生息しており、後世において絶滅したがために、伝説上の動物・獏として後世に伝わった可能性も否定はできない』とある。以上と注がダブる部分があるが、私の「和漢三才圖會卷第三十八 獸類 貘(ばく)(マレーバク・ジャイアントパンダその他をモデルとした仮想獣)」や、「和漢三才圖會卷第三十八 獸類 白澤(はくたく)(仮想聖獣)」も参照されたい。]

 

Kotto_045

 

  夢を食ふもの

 

   「短夜や獏の夢食ふひまもなし」

 

 その動物の名は獏、或は『しろきなかつかみ』、その特別の任務はを食ふ事である。それは色々に表はされ又記(しる)されても居る。私の所有する古い書物には雄の獏は馬の胴、獅子の顏、象の鼻と牙、犀の前髮、牛の尾、虎の足をもつて居ると書いてある。雌の獏は、雄とは餘程形が違ふと云はれるが、その相違は明瞭には述べてない。

[やぶちゃん注:先に示した、サイト「思考回廊」の『【ゆっくり文庫】小泉八雲「夢を啖(くら)うもの」』によれば、日本の陰陽道(おんみょうどう)で『「豹尾神(ひょうびしん)」は八将神の中央に位置するため、「なかつかみ」と呼ばれる。獏は、『爾雅』釈獣において「白豹」と呼ばれるため、「白き中つ神」、すなわち「しろきなかつかみ」と呼ばれる。しかし明治時代、獏を「しろきなかつかみ」と呼ぶ習慣があったかどうか、私は確認できなかった』とある。]

 

 古い漢學の時代に日本の家に獏の繪がかけられる習慣があつた。こんな繪はその動物と同じやうなよい力を揮ふものと解せられた。私の古い書物にはその習慣に關するこんな傳說がのつて居る。

[やぶちゃん注:「私の古い書物」小泉八雲が、この書名を示さなかったのは、百年余りの憂いが残った。

 以下は底本では全体が三字下げのポイント落ち。区別するために、前後を一行空けた。]

 

『「松聲錄」に黃帝が東の海岸へ狩獵に出て居る間に、或時動物の體をしてゐて、人語を話す獏に遇つた。黃帝は云つた、「天下泰平の時、何故、吾人はなほ怪物を見るべきであらうか。妖鬼を退治する爲に、獏が必要なら、それなら獏の繪を人の家の壁にかけて置く方がもつとよからう。そして置けば、たとへ惡鬼の出現する事があつても、何の害をも加ふる事はできなからう」』

[やぶちゃん注:「松聲錄」これは「渉世錄」が正しい。獏ではなく、日本の古典作品に白澤(獏ではない点に注意!)を語る、図する絵図「白澤避怪圖」・「白澤圖」等にしばしば「引用」されている漢文で書かれた書の書名なのであるが、原本は現存しない熊澤美弓氏の論文「『渉世録』について 「白澤避怪図」にみえる妖怪資料」(『愛知県立大学大学院国際文化研究科論集』第八巻・二〇〇七年刊所収。PDF愛知県立大学学術リポジトリのこちらからダウン・ロード可能)を読むと、本邦で作られた偽書の可能性もある。或いは、伝承だけが引き継がれてあって、原本は、元々、存在しないのかも知れない。前の引用にもある通り、本邦では獏と白澤が混同され、小泉八雲もその混同のままにこの前半部を書いてしまっているため、読んでいて、ごちゃついた感じが否めない(しかし、ここを我慢して読むと、後がステキに「キョワい」のだ!)。ここは「獏」の話なのだから、あまり白澤の注をしたくはないのだが、bigbossman氏のブログ「怖い話します」の『「白澤避怪図」について』によれば、『日本では、安政年間』(一八五五年から一八六〇年)『にコレラが大流行した際、白澤図を枕元に置く家が多かったということです。また、旅人の道中の必携品ともなっていたと江戸時代の旅行案内には書いてあります。道中、怪異から身を守るだけでなく、野犬や狼などの害、盗賊の害なども避けることができるそうです』として、『旅人が携帯した白澤図』が掲げられている。この「枕元に白澤図を置いた」という辺りに、獏との混淆の元があるのではないかとも疑われる気が私にはする。そして、以上から、その混同誤認は江戸の後期までしか溯れないのではないかとも思われるのである。但し、熊澤氏の論文によれば、この白澤の名(形状や属性は記されない)は三一七年の葛洪撰「抱朴子」に初出し、図は一五八七年の「大明會典」巻六十一に官人の制服の意匠の一つとして初出し、ここで掲げられている黄帝と白澤の神話は、北宋の道教の類書で張君房撰になる「雲笈七籤」(うんきゅうしちせん:成立は一〇一七年から一〇二一年の間)に所収する「軒轅(けんえん)本紀」(軒轅は黄帝の本名)に載る(熊澤氏の論文で本文が見られる)。]

 

 それから惡鬼の長い名前と、その出現の徴候があげてある。

[やぶちゃん注:同前。]

 

『鷄が眉が柔かな卵を生む時、その魔物の名は「タイフ」

『蛇が一緖に相纏ふ時、その魔物の名は「ジンジユ」

『犬が耳をうしろに向けてあるく時、その魔物の名は「タイヨウ」

『狐が人間の聲で話す時、その魔物の名は「グアイシユ」

『人のきものに血の見ゆる時、その魔物の名は「ユウキ」

『米櫃が人間の聲で話す時、その魔物の名は「カンジヨウ」

『夜の夢が惡夢である時、その魔物の名は「リンゲツ」……


Kotto_046




[やぶちゃん注:この附近にある(原本はここ)これはまず獏らしき(龍みたようだが、鼻が長いのがそれっぽい)絵。一目瞭然、江藤源次郎ではない。左に署名があるが、「貞景」か(落款は「笑醒」か)。だとすると、江戸後期の浮世絵師歌川貞景(初代 生没年未詳 文政・天保(一八一八年~一八四四年)頃の人で、初代歌川国貞の門人である。江戸目白台但馬屋敷に住み、国貞風の美人画を得意とした。二代貞景も初代国貞の門人で、五湖亭の号を継いでいる。判らない。先行する「餓鬼」にも、彼の絵らしきものがあった。]

[やぶちゃん注:以上は、先の熊澤氏の論文に原文(漢文)が載っている((二)『渉世録』文章の復元」の章。そこには前の黄帝との邂逅の部分も復元されてあり、孰れも訓点が打たれてあるので、読み易く、必見である)。それによれば(訓読し、一部で送り仮名や読みを私が附したた)、

「タイフ」は「大扶」。但し、『鷄が眉が柔かな卵を生む時』ではなく、「赤虵(せきじや)[やぶちゃん注:赤い蛇。]、地に落つ。鬼を大扶と名づく」で出現条件が違う。

「ジンジユ」誤訳。小泉八雲の原本は“Jinzu”で「ジンズウ」が正しい。漢字は「神通」。

「タイヨウ」「大陽」。但し、熊澤氏の復元では「狗行及耳鬼名大陽」で、これがはたして「犬が耳をうしろに向けてあるく時」の意であるかどうかは微妙に留保したい。

「グアイシユ」「懷珠」。但し、条件は「狐」だけでなく、「狐狸」とある。

「ユウキ」「血、人衣(じんえ)を汚す。鬼を遊光と名づく」であるから、「ユウキ」ではなく「ユウクワウ(ユウコウ)」でなくてはならない。

「カンジヨウ」これは「飯甑(はんそう:古代中国を発祥とする米などを蒸すための土器。竹や木などで造られたそれが蒸籠(せいろ))、聲を作(な)す。鬼を歛女と名づく」であるから、「カンジヨ」でないとおかしいし、「米櫃」ではない。

「夜の夢が惡夢である時、その魔物の名はリンゲツ」復元原文「夜夢不祥鬼名臨月」で「夜、不祥を夢みる。鬼を臨月と名づく。」である。小泉八雲はこれを出したいがために、この迂遠な引用をしたものである。

 

 それから、その書物は更に進んで云ふ、

[やぶちゃん注:同前。]

 

『いつでも何かこんな魔がさしたら、獏の名を呼ぶがよい、さうすればその惡魔は直ちに地の下へ三尺沈む』

 

 しかし惡鬼の問題については、私は語る資格がない。それは支那の鬼神學と云ふ未だ人に知られない物すごい世界のもので、日本の獏の問題と事實殆んど關係はない。日本の獏は夢を食ふものとしてのみ普通知られて居る。それからこの動物の崇拜に關する最も著しい事實は、帝王、諸侯の漆塗の木枕にはいつも、獏と云ふ漢字を金で書いてあつた事である。枕にあるこの字の功德で、眠るものは惡夢になやまないやうに保護されると考へられてゐた。今日こんな枕をさがす事は餘程むつかしい、獏(或は時として白澤とも云はれる)の繪さへ、甚だ珍らしくなつて居る。……しかし獏に對する古い願ひの文句、『獏くらへ、獏くらへ』は普通の會話に今も殘つて居る。……讀者が魘されれたあとで、或は何か甚だ不幸な夢からさめたあとで、三度早くその願ひの文句をくりかへさねばならない、――さうすると獏はその夢を食ふ、それからその不幸或は恐れを幸運或は喜びにかへてくれる。

[やぶちゃん注:画像検索では「獏」の字を書いた木枕は見出せなかったが、獏の姿を描いたり、枕そのものが獏らしい感じのものは結構ある。例えば、サイト「紙半豊田記念館」こちらの右上の「獏(悪夢を食べる)枕」の木枕の写真を見られたい。なお、サイト「思考回廊」の『【ゆっくり文庫】小泉八雲「夢を啖(くら)うもの」』にも記されてあるが、初夢に悪い夢を見ないように枕の下に獏の絵を敷いて寝るという俗信は聴いたことがある。そこには『宝船の帆に「獏」の字を書いたものはあった』とある。]

 

     *

 

 私が最後に、獏を見たのは、夏の土用中の甚だ蒸しあつい夜であつた。私は悲しんで、眼をさましたところであつた、時は丑の刻、その時獏が窓から入つて來て尋ねた、『何か喰べるものはありますか』

 私は有難く思つて答へた。

 『あるとも。……獏さん、私のこの夢をきいて下さい、――

 『私はどこか大きな白壁の部屋に立つてゐたが、そこにはランプがいくつかともしてあつた。ところが私はその敷物のない床の上に影を投げてゐない、――それからそこの鐡の寢臺の上に私自身の死骸があつた。どうして死んだのか、いつ死んだのか、覺えてはゐない。女達が六七人、寢臺のそばに坐つてゐたが、一人も知つた人はゐない。若くもなく、年寄でもない、皆喪服を着て居る、お通夜の人達だと私は思つた。皆は身動きをしないで默つて居る。その場には何の音もない、それで私は何とはなしに夜が更けたと思つた。

 『同時に、私は部屋の雰圍氣に、何だか名狀できないもの、――意志を壓迫する一種の重苦しさ、――見えない麻痺させるやうな威力が徐々に增して來る事に氣がついた。その中に通夜の人達が、そつと互に見張合つて來た、皆が恐ろしくなつて來たのだと私に分つた。音も立てずに一人立つて部屋を出た。又一人續いた。それから又一人續いた。そんな風にして一人づつ影のやうに輕く皆出て行つた。結局、私と私自身の死骸とだけになつた。

 『ランプはやはり、明かに輝いてゐたが、空氣の中の例の恐ろしいものは段々、濃くなつて來た。通夜の人達は、それに氣がつくと殆んど同時にそつと逃げ出したのであつた。しかし私は未だ逃げる暇があると思つた、――もう少し後れても大丈夫と思つた。恐ろしいもの見たさの好奇心が私を止めた。私は自分の死骸を見てよくそれを檢査したいと思つた。私はそれに近づいた。それを見た。不思礒に思つた、――その屍骸が大層長い、――不自然に長いやうだから。……

 『それから一方の瞼が動くのを見たやうに思つた。しかし動くやうに見えたのはランプの熖がゆれた爲めかも知れない。眼が開くかも知れないと恐れたから、靜かに甚だ要心深くく私は進んで見た。

 『「これは自分だ」私は屈んだ時考へた。――「しかし變だぞ」……その顏は長く延びて行くやうであつた――。「これは自分ぢやない」私はもつと低く屈んだ時に、又考へた、――「しかし、外の人である筈はない」それから、私は一層恐ろしく、言葉では云はれない程恐ろしくなつて來た、眼が開くかも知れないと思つて。……

 『眼が開いた、――恐ろしくも開いた、――それからそのものが飛びかかつた、――寢臺から私を目がけて飛びついて、――唸り、かみつき、かきむしつて、私を離さなかつた。あ〻、恐ろしさの餘り狂氣になつて、どんなに私はそのものと爭つたであらう。しかしそのものの眼、その呻き、その觸りの、氣味惡さ、餘りの事に精神錯亂して私の全身が今にも破裂しようとしてゐたが、その時、――どうしたわけか――手に一挺の斧のある事に氣がついた。私はその斧で打つた、――私はその呻くものを打ち割つた、たたき潰した。粉碎した――かくて私の前にあるものはただ、わけの分らない、恐ろしい、血まみれのかたまり、――私自身の氣味の惡い殘骸であつた。……

 

 『獏くらへ、獏くらへ、獏くらへ。あ〻獏さん、この夢を食つて貰ひたい』

 『いや、めでたい夢は食ひません』獏は答へた。『そんなめでたい夢――運のよい夢――は外にありません。斧――さうです――妙法の斧をもつて自我の怪物を退治する。……極上の夢です。私は佛の敎を信じます』

 

 それから獏は窓を出て行つた。私は彼のあとを見送つた、――月光に照された數哩の屋上を――屋根から屋根へと、――大きな猫のやうに――驚くべく靜かに跳び移つて、飛んで行くのが見えた。……

[やぶちゃん注:「哩」は「マイル」。一マイルは約千六百九メートル。六掛けで九キロメートル半。]

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