小泉八雲 食人鬼 (田部隆次訳)
[やぶちゃん注:本篇(原題“JIKININKI”)は明治三七(一九〇四)年四月にボストン及びニュー・ヨークの「ホートン・ミフリン社」(BOSTON AND NEW YORK HOUGHTON MIFFLIN COMPANY)から出版された、恐らく小泉八雲の著作の中で最も日本で愛されている作品集「怪談」(原題“KWAIDAN: Stories and Studies of Strange Things”。来日後の第十作品集)の七話目である。なお、小泉八雲はこの年の九月二十六日に五十四歳で心臓発作により急逝した。
同作品集は“Internet Archive”のこちらで全篇視認でき(本篇はここから。)、活字化されたものは“Project Gutenberg”のこちらで全篇が読める(本篇はここ)。
底本は上記英文サイト“Internet Archive”のこちらにある画像データをPDFで落し、視認した。これは第一書房が昭和一二(一九三七)年一月に刊行した「家庭版小泉八雲全集」(全十二巻)の第八巻全篇である。
田部隆次(たなべりゅうじ 明治八(一八七五)年~昭和三二(一九五七)年)氏については先に電子化した「人形の墓」の私の冒頭注を参照されたい。
傍点「ヽ」は太字に代えた。
なお、本篇は私が本書「怪談」の中で最も偏愛する一篇の一つで、十一歳の冬に読んだ、角川文庫の田代三千稔(みちとし)氏訳の「怪談・奇談」の中でも最も印象に残った、謂わば、私の中の〈小泉八雲原体験原衝撃〉群の中の一篇なのである。さすれば、特異的に私は自身のサイトで、十四年前の二〇〇五年十一月十三日に
と
私の藪野直史の暴虎馮河の「人食鬼」日本語訳(この当時は神奈川県公立高等学校の国語科教師であった関係上、まだ本名を名乗っていない)
を既に公開している。御笑覧戴ければ、幸いである。
なので、私には実は注の全く不要な作品なのであるが、ここは私の本篇へのオマージュの最後の仕上げとして、訳した頃を思い出しつつ、注を文中に附すこととした。
なお、仏教の餓鬼に人や人の遺体を食う餓鬼は――いる。ウィキの「餓鬼」によれば、既に先行する小泉八雲の「餓鬼」に出た、餓鬼の三大分類の「少財(しょうざい)餓鬼」は膿・血などの、ごく僅かな飲食だけが可能な餓鬼で、人間の糞尿・嘔吐物・死体などの不浄なものを飲食するとされる。また、細分類では、邪悪な呪術で病人を誑かした者が「等活地獄」の苦しみを経た後に転生(てんしょう)するとされる「食小児(じきしょうに)餓鬼」が生まれたばかりの赤ん坊を食べ、餓鬼のチャンピオンとも言うべき、、生き物を殺しては大宴会を催し、少しの飲食(おんじき)を高値で売った者がなるとされる「羅刹(らせつ)餓鬼」は、四つ辻で人を襲っては狂気に落とし入れ、殺害して食べるとある。
最後に、本篇の原拠長岡乗薫(じょうくん)編の「通俗佛敎百科全書」の中の一篇を掲げた。同書は大分出身の真宗大谷派の僧長岡乗薫(じょうくん)編の「通俗仏教百科全書」(開導書院・明治二三(一八九〇)年刊)。但し、これは江戸前期の真宗僧明伝(みょうでん 寛永九(一六三二)年~宝永六(一七〇九)年)の編になる「百通切紙」(全四巻。「浄土顕要鈔」とも称する。延宝九(一六八一)年成立、天和三(一六八三)年板行された。浄土真宗本願寺派の安心と行事について問答形式を以って百箇条で記述したもので、真宗の立場から浄土宗の教義と行事を対比していることから、その当時の浄土宗の法式と習俗などを知る重要な資料とされる)と、江戸後期の真宗僧で京の大行寺(だいぎょうじ)の、教団に二人しか存在しない学頭の一人であった博覧強記の学僧信暁僧都(安永二(一七七三年?~安政五(一八五八)年:「御勧章」や仏光版「教行信証」の開版もした)の没年板行の「山海里(さんかいり)」(全三十六巻)との二書を合わせて翻刻したものである。
また、かなり似た類話で、小泉八雲も執筆時の参考にしたと考えてよい、やはり私の強力に偏愛せる、より構築度が高く、堕落した平安旧仏教に対する鎌倉新仏教の禅宗の勝利の暗示さえ感ぜられる、上田秋成(享保一九(一七三四)年~文化六(一八〇九)年)の読本「雨月物語」巻の五の「靑頭巾」の原文・拙訳、及び、好きが昂じて全くオリジナルに教師時代に授業化した私の「授業ノート」も公開しているので、お読み戴ければ、恩幸これに過ぎたるはない。]
食 人 鬼
昔、禪僧の夢窻國師、美濃の國を獨りで旅行してゐた時、路を敎へてくれる人もない或山中で路に迷うた。長い間、たよりなくさまようて、もう、夜の宿を求める事はできないとあきらめかけて居る時、日の最後の光で照らされて居る山の頂きに、淋しい僧のために造つてある例の庵室と云ふ小さい隱者の家が一つ見えた。その家は荒れはてて居るやうであつたが、國師は熱心にそこへ急いで行つて、老僧が一人住んで居ることを見て、一夜の宿を乞うた。老僧は荒々しく斷つたが、それでも夢窻に隣りの谷で宿と食物の得られる村を敎へてくれた。
[やぶちゃん注:「夢窻國師」夢窓疎石(建治元(一二七五)年(伊勢生まれ)~正平六/観応二(一三五一)年(京都にて没):「窻」は「窓」の異体字)鎌倉末から南北朝期の臨済僧。九歳の時、甲斐平塩寺の空阿の弟子となって、密教を学び、十八歳で得度し、奈良東大寺戒壇院で慈観について登壇受戒した。二十歳で上京し、建仁寺の無隠円範に参じて禅に帰し、後に中国より一山一寧が来日した際には鎌倉に下って学んだが、機縁は契(かな)わなかった(一山は日本語が全く出来ず、来日も本意ではなかった)。その後、奥州を遊歴し、甲斐や美濃に草庵を営んだ後、土佐国五台山に吸江庵を結んだ。正中二(一三二五)年、後醍醐天皇の勅により、南禅寺の住持となったが、北条氏に請われて鎌倉に入った。直後の北条氏と幕府滅亡後は、再び上京し、南禅寺に入った。後の京都騒乱後には足利尊氏の帰依を受け、天竜寺の開祖となった。足利氏は、末代に至るまで、疎石の門徒に帰依することを約束し、室町時代を通じて、夢窓派が隆盛することとなった。多くの弟子を教化し、義堂周信や絶海中津ら、優れた禅僧を輩出させている。庭園設計・詩偈・和歌にも優れた。疎石述の法話集「夢中問答(集)」(全三巻。夢窓が足利尊氏の弟直義の問いに対し,仏教の本質・俗信・禅の本旨などについて、九十三項目に渡って平易にして懇切に答えたもの。夢窓の存命中の興国五/康永三(一三四四)年に大高重成が南禅寺の竺仙梵僊(じくせんぼんせん)の跋を得て開版している。禅参学の徒の手引として広く利用され、室町から江戸にかけて、幾度も開版されている。ここは平凡社「世界大百科事典」に拠った)が著名(以上は「ブリタニカ国際大百科事典」を主文に私の見解を添えてある。
「庵室」原文の“anjitsu”の通り、古式の読みである「あんじつ」と読まねばならない。田部氏はルビを振るべきであった。
「村」原文“hamlet”。英語では「教会を持たない村落」を指す。ここは大事である。]
夢窻はその村へ行く道が分つた。それは家が十二三軒まではない農村であつた。そして村の庄屋の家に親切に迎へられた。夢窻の着いた時四五十人の人が重もな[やぶちゃん注:「おもな」。]座敷に集まつてゐたが、彼は別の小さい部屋へ通されて、そこで直ちに食物や寢床を與へられた。大層疲れてゐたから、早く寢るために橫になつた。しかし、眞夜中少し前に、つぎの部屋で大きな聲で泣いて居る音で眠りをさまされた。やがてふすまは靜かに開いて、提燈を持つた若者が部屋へ入つて、恭しく彼に挨拶をして云つた。
[やぶちゃん注:「庄屋」原文は“headman”で、庄屋制度は近世以降の制度呼称であり、本話の時制には相応しくない。原拠にも出ない。ここは、ごく小さな山村であり、周辺の複数の村が集合して行政単位となっていたものと思われるから、「村長(むらおさ)」とすべきところである(中世には村落支配の頂点に「名主(みょうしゅ)」がいるが、この小単位では彼は違う)。平井呈一氏も「村長」と訳しておられる。]
『御出家樣、困つた事でございますが申上げねばなりません。私は今この家の責任ある戶主でございます。昨日私は單に長男でした。しかし、あなたがこちらへ御出でになつた時、御疲れのやうでしたから、御迷惑になるやうな、どんな事があつてもならないと思ひました。それで父がつい二三時間前に死んだ事もお話し致しませんでした。つぎの部屋で御覽になつた人々はこの村の人々です、ほとけに最後の挨拶をしにここへ集まつて居ります。そして、今一里程隱れた外の村へ行く處です、――そのわけはこの村では誰か死んだあとで、その晚は一人も、この村に殘つてゐてはならない習慣になつて居るからでございます。私共はそれぞれの供物や祈禱をあげて、――それから死骸を殘して出て行きます。そんな風にして死骸が殘りますと、その家ではいつでも變な事が起ります。それで私共と一緖にお出で下さる方が、おためによからうかと考へます。外の村でよい宿を見つけてさし上げます。尤も、あなたは御出家ですから、或は化物や妖怪を恐れなさらないでせう。それで死骸と一緖に殘る事が恐ろしくなければ、このつまらない家を御使ひ下さいます事は至極結構でございます。しかし申上げねばなりませんが、御出家でなければ、今夜ここにに殘らうと云ふものは誰もございません』
夢窻は答へた、
『御親切な志しと有難いおもてなしには深く感謝致します。しかし參りました時に御父上樣のなくなつた事を聞かせて下さらなかつたのが殘念です、と申しますのは少しは疲れてゐましたが、出家としての私の義務をつとめるのが苦しい程には、たしかに疲れて居りませんでした。御話し下さつたら、御出かけ前に讀經を致すところでした。がしかし、御出かけのあとで、讀經を致しませう。そして明朝まで遺骸の側にゐます。獨りでここに居ることがあぶないと色々御話しでしたが、私にはその意味が分りません。しかし私は幽靈やお化けは恐れません。それ故どうか私のために御心配はなさらないやうに』
若者はこの斷言を聞いて喜んだやうであつた。それで適當な言葉で感謝の意を表はした。それから家族の外の人々と隣りの部屋に集つた人々は、出家の親切な約束を聞いて、御禮に來た、――それからうちの主人が云つた。
『そこで、御出家樣、あなたを御ひとりにして行くのが大層殘念でございますが、私共は御別れしなければなりません。村のおきてによりまして、十二時すぎには一人もここにゐてはなりません。御願ですから、どうか私共が御側にゐない間、御からだに御注意なされて下さい。それから私共の留守の間に、何か變つた事を御聞きになつたり御覽になつたり、なさる事がございましたら、どうか明朝私共の戾りました節、その事を御聞かせ下さい』
それから出家を除いて一同は家を去つた。出家は死骸の置いてある部屋へ行つた。普通の供物は遺骸の前に置いてあつた。それから小さい燈明は燃えてゐた。出家は經を讀んで供養を濟ました、――そのあとで瞑想に入つた。瞑想しながら靜かな數時間ぢつとしてゐた。無人になつて居る村には音一つしなかつた。ところが、夜の靜けさの最も深くなつた時、音も立てずに朧げな大きなものが入つて來た。同時に夢窻は自分が動く力も、物云ふ力もなくなつて居る事に氣がついた。彼はそのものが抱き上げるやうに死骸をあげて、猫が鼠を喰べるよりも早く、それを喰べつくすのを見た、――頭から始めて、何もかも、髮の毛も、骨も、それから經かたびらさへも喰べるのを見た。それから、その怪しいものがこんなにして死骸を喰べつくしてから、供物の方へ向いて、それも又喰べた。それから來た時と同じく不可思議に出て行つた。
[やぶちゃん注:「經かたびら」原文は“the shroud”。「シュラウド」は「埋葬する死体を包む白布」を指す。「經帷子(きょうかたびら)」は、本邦で死者に着せる浄衣(じょうえ)を指し、経文・名号・陀羅尼・梵字の種子(しゅじ)などを書き、死者の罪業を滅し、菩提を得るものとされる。この習俗自体は真言宗に於いて鎌倉時代頃から始まったとされるから、その点では問題はないが、ここでは何も書かれていない白衣(びゃくえ)でないと都合が悪い。以上のような書写がなされたものでは食人餓鬼は容易にそれに手が出せないし、食うことも出来ない。そもそもが、この村にはそれが書ける者はいないと考えるのが自然だからである。私が古い拙訳で単に「帷子(かたびら)」(袷(あわせ)の片枚(かたひら)の意で、古くは広く裏を附けない衣服の総称。単衣(ひとえ))としたのには、そうした意識が働いたからである。]
村の人々が翌朝歸つた時、彼等は庄屋の家の入口で、彼等を待つて居る僧を見た。一同は代る代る挨拶した。そして入つて部屋を見𢌞した時、遺骸や供物のなくなつて居るのを見て驚いたものは一人もなかつた。しかし、うちの主人は夢窻に云つた、――
『御出家樣、あなたは多分夜の間にいやなものを御覽でしたらう。私共は皆あなたの事を心配してゐました。しかし今私共はあなたが生きて御無事でおいでになるのを見て大層嬉しく思ひます。できる事なら私共は喜んで御一緖にゐたかつたのです。しかし昨晚申し上げた通り村の掟で、死人があつたら私共は家を去つて、死骸だけを殘さねばならない事になつてゐます。これまでこの掟を破りますと、何か大かな祟りがありました。掟に從ふと、死骸や供物が留守中になくなります。多分あなたは、その成行きを見屆けになりましたでせう』
そこで夢窻は朧げな恐ろしい形のものが、死人の部屋に入つて來て、死體や供物を喰べつくした事を話した。その話を聞いて驚くものは一人もないやうであつた。それから家の主人は云つた。
『御出家樣、御話はこの事について、昔からある話と一致して居ります』
夢窻はそれから尋ねた、――
『山の上のあのお坊さんが死んだ人のために時々葬式を致しませんか』
『どんなお坊さんですか』
『昨晚、この村へ私を案内したあのお坊さんです』夢窻は答へた。『向うの山の上のそのお坊さんの庵室を訪ねました。私に宿を拒んだが、こちらへ來る道を敎へました』
聞いて居る人々は驚いたやうに互に顏を見た。それからしばらく默つたあとで、家の主人は云つた、
『御出家樣、山の上にはお坊さんもゐません、庵室もございません』
この事について夢窻はもう何も云はなかつた。親切な人達は、彼が何かお化けにでもだまされて居ると思つた事が明らかであつたから。しかし、その人々に別れを告げて自分の行く路について必要な知識を悉く得たあとで、夢窻は山上の草庵をさがして、自分が實際だまされて居るかどうかを、たしかめようと決心した。彼は造作なく庵室を見出した。そして今度はその庵主は入るやうに誘つた。入ると、庵主は恭しく夢窻の前に頭を下げて叫んだ、『あ〻恥ぢ入ります、――甚だ恥ぢ入ります、――實に恥ぢ入ります』
『私に宿をしてくれなかつたからといつて、別に恥ぢ入るには及びません』夢窻は云つた。『あなたが向うの村を敎へてくれたので、そこで親切にもてなされました。それでその御蔭になつた御禮を申します」
『私は誰の宿もできません」庵主は答へた、――『私が恥ぢ入るのは、それを拒んだためではありません。只あなたに私の本當の姿になつた處を見られたから恥ぢ入るのです。昨夜、あなたの目前で死骸や供物を喰ひつくしたのは私です。……御出家樣、私は食人鬼でございます。私を憐んで下さい、そしてこんな有樣になつた祕密の罪を懺悔さして下さい。
『昔し昔し、私はこの淋しい地方の僧でした。何里四方の間に外に僧はありませんでした。それでその頃は死んだ山の人の死體は、私が引導するためにここに、――時には隨分遠方から、運ばれたものでした。しかし、私は商賣仕事のやうにのみ勤めをくりかヘし、式を行うてゐました。――私はその聖い[やぶちゃん注:「きよい」。]天職で得られる食物や着物の事ばかり考へました。それでこの利慾の邪念のため、死ぬと直ちに生れ變つて食人鬼となりはてました。それ以來この地方で死ぬ人々の死骸を喰べねばならぬ事になつてゐます。一人も殘らず昨夜御覽になつたやうな風に喰ひつくさねばなりません。……今御願です、御出家樣、私のために施餓鬼を行うて下さい。御賴み致します。あなたの御祈りでこの恐ろしい境遇から逃れられるやうに、私を御助け下さい』
この願を云ふや否や、庵主は消え失せた。それから庵室も又同時に消え失せた。夢窻國師は高草のうちに獨りで、或僧の墓であるらしい五輪の石と云ふ形の古い苔むした墓の側に跪づいて居る事に氣がついた。
[やぶちゃん注:原拠は長岡乗薫(じょうくん)編の「通俗佛敎百科全書」(明治二四(一八九一)年仏教書院編刊。国立国会図書館デジタルコレクションのこちらで全篇を画像で読める)の第二巻の「第六十九 いろいろの話」の中の一篇である(これは冒頭注で述べた「山海里」が原本)。以下の電子化では同国立国会図書館デジタルコレクションの画像を視認した。本文はここからである。原拠は読みは総ルビであるが、必要と思われる箇所のみに附した。ベタ文なので、句読点や記号を施し、段落も成形して読み易くした。踊り字「〱」は正字化した。歴史的仮名遣の誤りはママである。
*
又、禪僧の夢窓國師、美渡の國にて山中を通りたまふに、日くれになりけるところ、人里もちかきにはなく、只、はなれ家(や)の草庵あるゆゑ、立(たち)よりて見たまへば、老僧一人(いちにん)住(すみ)けるさまなり。
一夜の宿を乞(こひ)たまへども、
「人は、とめがたし。」
とて、宿をかさず、是非なく、山を下(おり)て、人里にて宿をかりたまふに、家内(かない)には、眷屬(けんぞく)あつまりて愁歎(しうたん)して居(ゐ)けるさまなり。
そのよしをたねづたまふに、其家の主人、死去せしを、みな、あつまりて、なげきけるのよしをこたへけるが、日、暮(くれ)ければ、其死人(しにん)を、そのまゝ、家(いへ)に置(おき)て、死骸の前には供物・灯明(とうみやう)などをそなへならべて、家内・眷屬は一人ものこらず、外へ出(いで)ゆきけり。
禪師は、不審ながら、其家(いへ)の一間(ま)の内に座禪して居(ゐ)らるゝに、夜更(よふけ)て、ひそかに、一人(ひとり)、來(きたり)し物ありて、死人をいだきをこして、猫の鼠を食(くう)がごとくにもありたるならん、尻も、頭も、手も、足も、みな、食ひつくして、腹をふくらし、そなへものも、みな、くらひしまひて、あとかたなくして、去(さり)にけり。
夜のあけぬれば、妻子・眷屬、みな、家に歸(かへり)けるゆゑ、禪師は不審におもひて、子細を問(とは)るゝに、その眷屬のいふに、
「此所のならひにて、人、死すれば、男女老少(なんによらうせう)にかぎらず、野邊(のべ)へも送らず、家の内にをきて、妻子・眷屬は、みな、外の里にゆきて、一夜(いちや)泊(とまり)て歸ることなり。しからざれば、家にたゝり、身にたゝる事あり。一夜のうちに、その死骸も、供物も、あとかたなくなりてあれば、何となる事やら、しるもの、なし。昨夜は、御僧、泊りてありしゆゑ、『いかなる事にもあひたまわざらんや』と、覺束(おぼつか)なくおもひしに、無事にて夜(よ)をあかしたまへば、死骸は何となりたるや、御らんは、なかりしにや。」
と、たづぬるに、禪師は、ありのまゝに見たるとをりを語たまへば、
「さてこそ、さてこそ、むかしより、人のいふにたがはぬ事よ。」
と、みな、いひける。
それより、夢窓禪師は、昨日、庵室のありし山にのぼりて、庵主の老僧にあひたまヘば、老僧のいふには、
「さて、はづかしや、はづかしや。」
と、はじ入(いり)たる躰(てい)なれば、禪師、たづねて、
「何たる事のはづかしきぞ。」
と、いへるに、老僧、曰(いはく)、
「あさましき事なれども、昨夜、貴僧の見たまひし死人を食たるは、我、なり。貴僧をたのみて懺悔(ざんげ[やぶちゃん注:ママ。近世までは「さんげ」が正しい。])いたさん。此あたり十里ばかりの山中には、憎たるものは、愚老(ぐらう)一人(いちにん)なるゆゑに、死人あれば、『引導してくれ』といひけるを、承知して、その業(わざ)、渡世となりて、衣食に富(とみ)てくらせしが、一期(いちご)の命(いのち)終りたれば、餓鬼道に生(しやう)じて、『食人鬼(しょよくにんき)』となりて、このあたりの人の死(しに)けるをまちて、死人を食(くう)事、見たまひたるがごとし。とむらひて、たすけたまへ。」
と、いふうちに、老僧も失(うせ)て、庵室(あんしつ)もなく、草村(くさむら)の中に、その老僧の塚と見えて、五輪の石(いし)のあるのみなりしとぞ。
これも、いろいろのはなしの、うち、なり。
*]
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