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2019/09/23

小泉八雲 十六日櫻  (田部隆次譯) 附・原拠

[やぶちゃん注:本篇(原題“ JIU-ROKU-ZAKURA ”。されば、正しくは「十六櫻」である)は明治三七(一九〇四)年四月にボストン及びニュー・ヨークの「ホートン・ミフリン社」(BOSTON AND NEW YORK HOUGHTON MIFFLIN COMPANY)から出版された、恐らく小泉八雲の著作の中で最も日本で愛されている作品集「怪談」(原題“ KWAIDAN: Stories and Studies of Strange Things ”。来日後の第十作品集)の十三話目である。なお、小泉八雲はこの年の九月二十六日に五十四歳で心臓発作により急逝した。

 同作品集はInternet Archive”のこちらで全篇視認でき(リンク・ページは挿絵と扉標題。以下に示した本篇はここから。)、活字化されたものは“Project Gutenberg”のこちらで全篇が読める本篇はここ)。

 底本は上記英文サイト“Internet Archive”のこちらにある画像データをPDFで落し、視認した。これは第一書房が昭和一二(一九三七)年一月に刊行した「家庭版小泉八雲全集」(全十二巻)の第八巻全篇である。★【2025年3月29日底本変更・前注変更】時間を経て、国立国会図書館デジタルコレクションに本登録し、現行では、以上の第一書房版昭和六(一九三一)年一月に刊行した「學生版小泉八雲全集」(全十二巻)の第七巻が、国立国会図書館デジタルコレクションで公開されてある。(リンクは扉だが、「學生版」の文字はない。しかし、奥附を見て貰うと『學生版 【第二囘豫約】』とあり、『昭和六年一月十日 發行』とあることが確認出来る)、これが、前掲の底本と同じものであるが、やはり、外国のサイトのそれを底本とするのは、日本人小泉八雲に失礼であると考えた。されば、こちらで、再度、以下の「骨董」の作品群を改めて校正することとする。これが――私の小泉八雲への「義」――である。なお、之よりも前の元版の全集等が先行しているものの、私がそれらと比べた結果、実は先行する同社の「小泉八雲全集」のそれらは、訳が一部で異なっており、訳者等によって、かなりの補正・追加がされていることが、今回の正字補正作業の中で、はっきりと判って来た。いや、同じ「家庭版」と名打ったネット上の画像データでも、驚いたことに、有意に異なっていたのである。そうした意味でも――完全な仕切り直しの総点検――が必要であると決したものである。従って、旧前振りの括弧・鍵括弧の問題も、拡大とガンマ補正で確認し、正確を期する。本作はここから。

 田部隆次(たなべりゅうじ 明治八(一八七五)年~昭和三二(一九五七)年)氏については先に電子化した「人形の墓」の私の冒頭注を参照されたい。

 最後に原拠とされるものを附した。

 なお、田部は原本で標題下に配されてある俳句、

   Uson no yona,―

   Jiu-roku-sakura

    Saki ni keri!

を省略してしまっている。これは無記名であるが、正岡子規の句で、

    松山十六櫻

 うそのやうな十六日櫻咲きにけり

で、「寒山落木」巻五の明治二九(一八九六)年春の部に載る。なお、子規は、本書刊行の二年前に逝去している。言わずもがなであるが、中七は「いざよひざくら」と読むのが正しい。而して、以下の本文も、「いざよひざくら」として読むべきである。

 

 

  十六日櫻

 

 伊豫國溫泉郡山越村に『十六日櫻』と云ふ大層名高い櫻の古い樹がある。その名の理由は每年陰曆の正月十六日しかもその日にだけ花が咲くからである。それで櫻の元來の性質から云へば、春を待つて花咲くのであるが、――この樓の開花は大寒の時節である。しかし十六日櫻は自分のものでない――少くとも元來自分のものではなかつた生命で花をつける。その樹には或人の魂が潛んで居る。

[やぶちゃん注:「伊豫國溫泉郡山越村」原文は“In Wakegori, a district of the province of Iyo”で「和氣郡」となっているが、後掲する原拠通りに田部は郡名を代えている。なお、本来は、「郡」は「ぐん」ではなく、「こおり」(歴史的仮名遣「こほり」)、江戸時代以前では、「の こほり」或いは「の ごほり」と読むのが、一般的である。小泉八雲が「和氣郡」としたことについて、講談社学術文庫一九九〇年刊小泉八雲著・平川祐弘編「怪談・奇談」の布村弘氏の「解説」では、『再話で地名を「伊予の和気郡」としたのは』本作品集で先行する「姥櫻」(リンク先は私の電子テクスト)『で、同じ伊予の温泉郡とあったことの反復を避けるためだろう』と述べておられるが、果たしてそうだろうか? 確かに原拠とされるものでは「溫泉郡(おんせんごほり)」とするのであるが、個人ブログ「松山市の6名桜花」によれば、現在の「十六日桜」は松山市御幸(みゆき)にある天徳寺(グーグル・マップ・データ。以下、無指示は同じ)にあり、確かにここは旧温泉郡であるが、『松山市で一番早く開花する「十六日桜」、松山市指定の天然記念物「十六日桜・イザヨイザクラ」で、桜を見たいと願う病父のため孝子「吉平」が桜に祈ったところ旧正月』十六『日に花が咲いた。この奇蹟により老父は長寿を得たという伝説がある』とあるものの、「松山市」公式サイト内の「十六日桜」には、『御幸』一『丁目の天徳寺境内と桜ヶ谷の吉平屋敷跡とにあり、ヤマザクラの早咲きの品種で、旧正月』十六『日ごろに開花するというので、この名がある』。『この桜については、伝承が種々残されているが、老翁がもう花を見ることもあるまいと嘆いたことから、これに感応した桜が早く咲くようになったというもの、長く病床にあった父が桜の花を見たいと願うので、子の吉平が庭の桜に祈ったところ、寒中の』一『月にもかかわらず』、十六『日に花が咲いた。この奇跡によって老父は以後』、『長寿を保ったというもの、の』二『種に大別される。小泉八雲が著書『Kwaidan』の中で、正岡子規の「うそのよな 十六日桜 咲きにけり」を引用し、『文藝倶楽部』の第七巻二号』(三号の誤りと思われる)『に『掲載された前者の伝承を元に英訳再話したことでも有名』。『十六日桜の古いものは戦前』、『山越』(やまごえ)『の龍穏寺』(りゅうおんじ)『にあったが、戦災で焼け枯死した。現在、前記』二『ヵ所のものは、龍穏寺からの株分けが元であるといわれているが、花期も遅く、十六日桜の形質を保ったものではなく、実生による変異品種のようである』とあるのである。則ち、現在の「十六桜」は伝承のそれとは異なるものである。さて、しかもこの龍穏寺(『文藝俱樂部』版も「溫泉郡」としながら、この寺名を出す)は実は旧和気郡山越村なのである(現在の「十六桜」がある天徳寺の西南西三百六十メートルの直近。ここ。近代の行政区画としての原型(後に統合して広域で再構成される)の温泉郡は、明治一一(一八七八)年の発足である)。後で原拠とされるそれを掲げるが、どうも、展開が有意に異なるのが非常に気になる小泉八雲は『文藝俱樂部』版を参考にはしたものの、別に、誰かから、変形したヴァージョンの話を聞き書きした可能性が窺われ、或いは、そこで原木の「十六桜」が正しく旧和気郡にあった龍穏寺のものであると聴いたのを、かく提示したのではなかったろうか?

 

 その人は伊豫の武士であつた。樹はその人の庭にあつて、時が來れば――卽ち三月の終りか四月の始め頃には、いつも花が咲いた。子供の時にはその樹の下で遊んだ。兩親や祖父母や祖先は、百年以上も續いて季節每に讚美の歌を書いた短册を、花の咲いた枝にかけて來た。彼自身も大層老いて――子供達には皆先だたれた、それでこの世に心殘りのものはその樹の外に何にもなかつた。ところで或年の夏、その樹が凋んで枯れた。

 この上もなく老人はその樹のために悲しんだ。そこで親切な隣人達は――老人を慰めるために――綺麗な櫻の若木を見つけて、その庭に植ゑた。そこで老人は禮を云つて嬉しさうな顏をした。しかし實際老人の心は痛みに滿ちてゐた、餘りに老樹を愛してゐたので、何物も代つてそれをなくした悲しみを慰める事ができないのであつた。

 遂に老人によい思ひつきが浮んだ。枯れかかつで居る樹の助かる方法を思ひ出した。(それは一月十六日であつた)獨りで庭へ出で凋れた樹の前に平伏して、云つた、『どうか御願だからもう一度花を咲かして貰ひたい――自分はお前の身代りになるから』(卽ち神々のなさけによつて、人は外の人、或は動物或は樹木のためにでも、實際生命をすてる事ができる――そして身代りに立つ事ができるものと信じられて居る)それからその樹の下に白布といくつかの敷物を敷いて、その敷物の上で武士の式通りの切腹を行つた。それでこの人の魂はその樹に移つて、その時刻に花を咲かせた。

 それで一月十六日、雪の時節に、每年今もなほ花が咲く。

 

[やぶちゃん注:前掲した講談社学術文庫「怪談・奇談」の布村弘氏の「解説」によれば、『文藝俱樂部』第七巻第三号の「諸國奇談」六篇の中の一つである、愛媛の「淡水生」なる人物が書いた「十六日櫻」が本篇の原拠とされる。しかし、既に述べた通り、隣人たちが老人のために若木の桜を植えてやったり、老人が切腹して桜に自らの命と引き換えに再び生命を与えたというドラマテックな展開部が全く存在しない。「十六桜」の伝承にそうした数奇な伝承譚がないとならば、これは、小泉八雲が、そうした創作を補ったと考える方が自然であると私は思う。小泉八雲の死後、五年後の明治四二(一九〇九)年松山市勧業協会刊の東(ひがし)俊造著「松山案內」の「十六日櫻」の条には(リンク先は国立国会図書館デジタルコレクションの画像)、旧地にあった桜についての碑文が活字化されているが、やはり孝行譚なのである。

 以下は講談社学術文庫「怪談・奇談」に「原拠」として示されたものを、漢字を恣意的に正字化して示した。総ルビであるが、読みは一部に留めた。歴史的仮名遣の誤りはママである。

   *

      十六日櫻   愛媛  淡水生

 伊豫國溫泉郡(をんせんごほり)山越村(やまごえむら)龍穩寺の境内に十六日櫻と言ふ一つの櫻樹あり、每年陰曆正月十六日には氣候の寒暖にかゝわらず蕾(つぼみ)を結び必ず其日に花を開く、又此櫻の一名を節會櫻(せちえざくら)とも言ひて舒明天皇[やぶちゃん注:生没年は推古天皇元(五九三)年(?)から舒明天皇一三(六四一)年。在位は六二九年から六四一年。]道後溫泉に行幸(みゆき)遊ばされしときも此櫻を叡覽あらせ給ひしと聞く、冷泉院爲村[やぶちゃん注:江戸中期の公卿・歌人。生没年は正徳二(一七一二)年から安永三(一七七四)年。]卿の歌にも『初春のはつ花櫻(さくら)めづらしく都の梅の盛(さかり)とも見る』と詠(よま)れしとかや、今櫻の由來を尋るに往昔(むかし)此里に花を愛する翁(をきな)ありしが、或年の正月十六日此樹下(じゆか)にたゝずみて吾が齡(よはひ)已に八旬に餘りたれば、又花咲く春に逢ふこともあるらんかと獨言(ひとりごと)せしに不思議や櫻樹(わうじゆ)忽ち二三の蕾綻(ほころ)びければ、翁の喜び言はんかたなく見る人皆淚を催しける、實(げ)に草木さえも心ありて其情(じやう)に感ぜしならん、夫(それ)より今に至る迄日を違(たが)えず蕾を結び花咲くと言ふ、此日は遠近(をちこち)の文人墨客(ぼくきやく)樹下に會(くわい)して終日(しゆふじつ)花を愛し樂(たのしみ)を盡して歸る、諸君も道後溫泉に入浴の際には一度杖を曳き賜(たま)え何でも道後よりは二十町[やぶちゃん注:約二キロメートル。実測で二・五キロメートル。]に不足(ならぬ)そうな。

   *]

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