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2019/09/16

小泉八雲 をしどり (田部隆次訳) 附・原拠及び類話二種

 

[やぶちゃん注:本篇(原題“OSHIDORI”)は明治三七(一九〇四)年四月にボストン及びニュー・ヨークの「ホートン・ミフリン社」(BOSTON AND NEW YORK HOUGHTON MIFFLIN COMPANY)から出版された、恐らく小泉八雲の著作の中で最も日本で愛されている作品集「怪談」(原題“KWAIDAN: Stories and Studies of Strange Things”。来日後の第十作品集)の二話目である。なお、小泉八雲はこの年の九月二十六日に五十四歳で心臓発作により急逝した。

 同作品集は“Internet Archive”のこちらで全篇視認でき(本篇はここから。)、活字化されたものは“Project Gutenberg”のこちらで全篇が読める本篇はここ)。

 底本は上記英文サイト“Internet Archive”のこちらにある画像データをPDFで落し、視認した。これは第一書房が昭和一二(一九三七)年一月に刊行した「家庭版小泉八雲全集」(全十二巻)の第八巻全篇である。

 田部隆次(たなべりゅうじ 明治八(一八七五)年~昭和三二(一九五七)年)氏については先に電子化した「人形の墓」の私の冒頭注を参照されたい。

 傍点「ヽ」は太字に代えた。

 禁欲的に注を附し、最後に原拠となった「古今著聞集」のそれと、類話を二つ、電子化注しておいた。]

 

  を し ど り

 

 陸奥の國、田村の鄕の住人、村允(そんぜう)と云ふ鷹使でありかつ獵師である男がゐた。或日獵に出たが鳥を得ないで空しく歸つた。その途中赤沼と云ふ所でをしどりが一つがひ泳いで居るのを見た。をしどりを殺すのは感心しないが、飢ゑてゐたので、村允はその一つがひを目がけて矢を放つた。矢は雄鳥を貫いた。雌鳥は向うの岸の蘆の中に逃げて見えなくなつた。村允は鳥の屍を家に持ち歸つてそれを料理した。

[やぶちゃん注:「陸奥の國、田村の鄕」現在の福島県郡山市のこの附近に「田村町」を冠する地名が集合する(グーグル・マップ・データ。ポイントは田村金屋以下同じ)。東北位置に中田町(なかたまち)赤沼も現認出来る

「赤沼」福島県郡山市中田町赤沼。しかも同地区内に「おしどりの碑(おしどり伝説発祥の地)」の古跡も現認出来る。但し、沼自体は現存せず、碑の東南一帯が、昔の赤沼の跡とされている同定地附近の同航空写真も添えておく。この同定地や碑については末尾の注で後述する。]

 その晚村允はものすごい夢を見た。美しい女が部屋に入つて來て、枕元に立つて泣き出すやうな夢であつた。餘りはげしく泣くので聰いて居ると胸が裂けるやうであつた。女は叫んだ。『何故あ〻何故夫を殺しました。殺されるやうな、どんな罪を犯しましたか。赤沼で私共は樂しく暮してゐたのです、それにあなたは夫を殺しました。……あなたに一體、何の害をしたでせうか。自分で何をしたか、あなたは分つてゐますか、――あ〻どんな殘酷な、どんな惡い事をしたか、分つてゐますか。……のなたは私も殺しました、――夫がゐないでは私は生きて居る氣はない。……私はただこの事を言ひに來ました』……それから又、大聲で泣き出した――餘りはげしく泣いたので、その泣き聲が村允の骨の髓までしみ渡つた、――それからつぎの歌を、泣き泣きよんだ、――

 『日暮るれば さそひしものを、

  あかぬまの

  眞菰がくれの ひとりねぞうき』

[やぶちゃん注:新潮社日本古典集成「古今著聞集 下」(西尾光一・小林保治校注)の「巻第二十 魚虫禽獣」の「馬允某、陸奥国赤沼の鴛鴦を射て出家の事」(小泉八雲が原拠とした原典。後で掲げる)の頭注では、『日が暮れれば誘い合せて一緒に夜を過したのに、夫がうたれてから、赤沼のまこものかげでただ一人で寝るのは何ともつらいことです』と訳されてある。但し、引用元にはなかったが、「あかぬまの」は「赤沼」の名に、『そうして毎夜二人で過ごすことは私たち二人には少しも「飽かぬ間」(飽くことなき二人の時間)であったのに』の意を掛けてあるのは言うまでもあるまい。

「眞菰」単子葉類植物綱イネ目イネ科エールハルタ亜科 Ehrhartoideae Oryzeae族マコモ属マコモ Zizania latifoliaウィキの「マコモ」によれば、『東アジアや東南アジアに分布しており、日本では全国に見られる。水辺に群生し、沼や河川、湖などに生育。成長すると大型になり、人の背くらいになる。花期は夏から秋で、雌花は黄緑色、雄花は紫色。葉脈は平行』とある。]

 この歌の文句を吐き出したあとで、彼女は叫んだ、――

 『あ〻、あなたは知らない――何をしたか分る譯はない。しかし明日赤沼へ行けば分ります――分ります……』さう云つて又悲しさうに泣いて歸つた。

 朝、目がさめた時、この夢が心にはつきき殘つてゐたので村允は甚だ困つた。

『しかし明日赤沼へ行けば分ります――分ります』と云ふ言葉は、彼にとつて忘れられなかつた。そこで彼は、その夢は、夢以上のものであるか、どうかをたしかめるために、直ちにそこへ行かうと決心した。

[やぶちゃん注:以上の段落の開始位置はママである。本来は一字下げ。]

 そこで彼は赤沼へ行つた。岸についた時、見ると雌鳥がひとりで泳いでゐた。同時にその鳥が村允を認めた。しかし逃げようとしないで不思議な風に、わき目もふらずに村允を見つめながら、眞直にその方に向つて泳いで來た。それからくちばしで、不意に自分の胸をつき破つて村允の目の前で死んだ。……

 

 村允は頭を剃つて、僧となつた。

 

[やぶちゃん注:原拠は「古今著聞集」(ここんちょもんじゅう:鎌倉中期の説話集。全二十巻。橘成季(たちばなのなりすえ)の編。建長六(一二五四)年成立。平安中期から鎌倉初期までの日本の説話約七百話を、「神祇」・「釈教」・「政道」など三十編に分けて収める)の「卷第二十 魚虫禽獸」の「馬允某(むまのじようなにがし)、陸奥國赤沼の鴛鴦(をしどり)を射て出家の事」(読みは私が推定で附した)。まず、最初に小泉八雲が執筆に際して参考とした原本、富山大学「ヘルン文庫」の小泉八雲旧蔵本(PDFを視認してそのままに、まず、電子化した。その歴史的仮名遣の誤りは総てママである(但し、踊り字「〲」は正字化した)。

   *

みちのくに田村の郷(ごう)の住人馬允(ぜう)なにがしとかやいふおのこ鷹(たか)をつかひけるが鳥を得ずしてむなしく歸りけるにあかぬまといふ所にをし鳥一つがひゐたりけるをくるりをもちていたりければあやまたずおとりにあたりてげりそのをしをやがてそこにてとりかひてえがらをばえぶくろにいれて家にかへりぬその次の夜の夢にいとなまめきたる女のちいさやかなるまくらにきてさめざめとなきゐたりあやしくて何人のかくはなくそと問ければきのふあかぬまにてさせるあやまりも侍らぬにとしごろのおとこをころしたまへるかなしびにたへずして參りてうれへ申也此思によりてわが身もながらへ侍まじき也とて一首の哥をとなへてなくなくさりにけり

   日くるればさそひし物をあかぬまの

    まこもかくれのひとりねそうき

あはれにふしぎに思ほどに中一日ありて後えがらをみければえぶくろにをしの妻(め)とりのはらをおのがはしにくひかはしにてつらぬきて死にて有けりこれをみてかの馬允、やがてもとゞりを切て出家してげり。この所は前刑部大輔仲能(なかよし)朝臣が領(れう)になん侍也

   *

しかし、これは余りに読み難いので、歴史的仮名遣が補正されている先に掲げた新潮社日本古典集成「古今著聞集 下」を参考に、記号等を加え、段落も成形し、また、一部を漢字化し、漢字を恣意的に正字化し、一部の読みも推定で歴史的仮名遣で振ったものを次に掲げた

   *

 みちのくに田村の鄕(がう)の住人、馬の允(じよう)某(なにがし)とかやいふをのこ、鷹(たか)をつかひけるが、鳥を得ずして、むなしく歸りけるに、「赤沼(あかぬま)」といふ所に、鴛鴦(をし)の一つがひ、ゐたりけるを、「くるり」をもちて射たりければ、あやまたず、雄鳥(をとり)にあたりてけり。

 そのをしを、やがて[やぶちゃん注:すぐに。]、そこにて、鳥飼ひて、「餌(ゑ)がら」をば、「餌囊(ゑぶくろ)」に入れて、家に歸りぬ。

 その次の夜(よ)の夢に、いとなまめきたる女の、小(ちひ)さやかなる、枕にきて、さめざめと泣きゐたり。

 あやしくて、

「何人(なにびと)のかくはなくぞ。」

と、問ひければ、

「きのふ、赤沼にて、させるあやまりも侍らぬに、年來(としごろ)のをとこを、殺し給へるかなしみにたへずして、參りてうれへ申すなり。この思ひによりて、わが身も、ながらへ侍るまじきなり。」

とて、一首の歌をとなへて、泣く泣く去りにけり。

  日暮るれば誘ひしものをあか沼の

     眞菰隱れの獨り寢ぞ憂き

あはれにふしぎに思ふほどに、中(なか)一日(ひとひ)ありて後(のち)、「餌がら」を見ければ、餌囊に、をしの妻鳥(めとり)の、嘴(はし)を己(をの)が嘴に啣(く)ひ交(かは)して、死にてありけり。これを見て、かの馬の允、やがて[やぶちゃん注:直ちに。]、髻(もとどり)を切りて、出家してけり。

 此(この)所は、前(さき)の刑部(ぎやうぶ)の大輔(たいふ)仲能(なかよし)朝臣(あそん)が領(りやう)になん侍るなり。

   *

以下、語釈を施す(一部で新潮社日本古典集成「古今著聞集 下」を参考にしたが、そこは指示した)。

・「みちのくに田村の鄕」既に本文内で注したが、それ以外に、koba0333氏のブログ「壁紙自然派」の『地名こぼれ話17(3)・「おしどり物語」のルーツは郡山市中田町か』に(一部の改行を詰めた。リンクはママ)、『「陸奥国」は、当初は「道奥」(みちのおく)と呼ばれ、平安時代まで「陸奥」(みちのく)、その後は「陸奥」(むつ)と呼ばれた。「陸奥」は時代によって範囲が多少異なるが、福島県から青森県までの沿岸部の地域を指す。現在は「みちのく」といえば、ほぼ東北地方全体を指すようになった。陸奥国の田村郡を支配していた戦国大名に田村氏がいる。wikipedia-田村氏によると、『田村郡(たむらぐん)は福島県(陸奥国・磐城国)の郡』で、『平安時代、桓武天皇より征夷大将軍に任命されて蝦夷討伐で活躍した坂上田村麻呂を祖とし、その子孫が代々田村郡を領してきたとされる』。『鎌倉期以降、田村荘の領主は藤原仲能系と考えられている田村庄司家であった』とあり、『古今著聞集のおしどり物語では、「田村の郷」を「ここは前形部太輔仲能朝臣の領土」と記している。秋田県横手市大雄田村も「みちのくの田村の郷」で、「赤沼のおしどり物語」が伝わるが、古今著聞集の記述や歴史的背景から見て、郡山市中田町起源説に軍配が上がりそうである』とされ、『中田町のおしどりの碑には次の碑文が刻まれている』として、そこでは、正和三(一三一四)年の民話「赤沼のおしどり」とクレジットを特定し、『右馬允(うまのじょう)という武士が、赤沼のほとりでつがいのオシドリの雄を矢で射止めて帰ると、夢に美しい女が現れ、「日くるればさそいしものを赤沼の まこもがくれの一人寝ぞ憂き」と詠んで去った』。『翌日、雄を射た場所を訪れてみると雌が自分のくちばしで腹を突き刺して死んでいた。武士は発狂したとも、出家したともいわれている』。正和』三『年は鎌倉時代だが、古今著聞集編纂時の建長』六(一二五四)年から』六十『年後である。出典に記された年と考えられるが、古今著聞集は成立後に増補がなされているので、その増補版かもしれない』。『古今著聞集は猟師の馬ノ允だが、碑文は武士の右馬允で、説明版のイラストでは右馬允が殿様になっている。脚色された過程が面白い』と述べておられる。この碑の正和三年は、何に拠ったものか判らぬが、信憑性が全くないので私は問題としない。

・「馬の允」新潮社頭注に、『「田村郡郷土史」』(福島県田村郡教育会編・明三七(一九〇四)年刊)『によれば、田村氏の臣、築館』(「つきだて」と読むか)『の館主赤沼右馬允(赤沼弾正四代の孫)』とする。「田村郡郷土史」は国立国会図書館デジタルコレクショで画像で読むことができ、当該箇所はここであるが、そこには「赤沼古跡」の条に本話の梗概が載り、そこには当該条は『文化十二年風早中納言實秋ノ撰文ニ係ル』とあって、その次に「築舘趾」の条に『宮城村大字赤沼』(ここは既に出た赤沼と同一)『ニ在リ田村氏ノ臣赤沼彈正ノ居舘ニシテ大永年間ニ築キシモノナリト云』とある。風早実秋(かざはやさねあき 宝暦一〇(一七六〇)年~文化一三(一八一六)年)は江戸中・後期の羽林家の公卿であり、大永年間は一五二一年から一五二八年の戦国時代。この話を調べて行くと、妙に後代の限定時制がぼろぼろ登場するのが、これまた如何にも面白い。近世以降、ここを歌枕或いは伝説の場所としようとする不思議な人々の複数の力を感ずるのである。

・「くるり」「矪矢(くるりや)」。小学館「日本国語大辞典」によれば、『桐または檜』『で小さな目無鏑(めなしかぶら)をつくり、その先端に矪根(くるりね)という半月形の小雁股(こがりまた)』の鏃(やじり)を『つけた矢』で、『水鳥や魚を射るのに用いる』とある。ネットの同辞典精選版のここに図が載る

・「鳥飼ひて」彼の鷹に餌としてそのオシドリの雄を餌として与え、の意。

・「餌(ゑ)がら」新潮社頭注に、『食べ残した餌。すなわち雄鳥のからだの一部』とある。

・「餌囊(ゑぶくろ)」新潮社頭注に、『鷹の餌を入れて携帯する柳で編んだ籠。鷹が捕えた小鳥なども入れた』とあるので相応に大きなものであることが窺われる。

・「仲能朝臣」新潮社頭注に、藤原『秀郷流、寿永二年(一一八三)二月、伊賀守に補任された田村仲教の子。評定衆・刑部大輔。代々、田村荘の領主であった』とある。彼は「吾妻鏡」にも頻出し、調べてみると、養子になって水谷姓となっているともある。

 ご覧の通り、原話は、翌々日、雄の遺骸の一部(嘴が出るから首であろう)が入っている餌袋の中に何時の間にか雌が潜み入って雄の嘴で自死しているのを見出すという展開部であるものが、小泉八雲の再話では、雌の自死のシークエンスを赤沼に、再度、ロケーションし、毅然として馬の允に向かって泳ぎ来たって自身の嘴で以って自身の胸を突き差して自死するという、驚愕の結末を映像として見せる点で遙かに優れている。

 さらに、この話、類話が多くあるので、その一部をも示しておく。

 まず、古くは平安末に成立した「今昔物語集」の巻第十九の「鴨雌見雄死所來出家語第六」(鴨(かも)の雌(めどり)、雄(をどり)の死せる所に來たるを見て出家する語(こと)第六)である。小学館「日本古典全集」版を参考に恣意的に漢字を正字化して示す。

   *

 今は昔、京に一人の生侍(なまざむらひ)有りけり。何れの程[やぶちゃん注:何時頃。]と云ふ事を知らず。家、極めて貧しくして、世を過ぐすに便り無し。

 而る間、其の妻、產して、專(もはら)に宍食(ししじき)[やぶちゃん注:肉食(にくじき)。産後の消耗に栄養価の高いものとしてである。]を願ひけり。

 夫(をうと)、身貧しくして、宍食を求め得難し。田舍の邊(ほとり)に尋ぬべき人も無し。市(いち)に買はむと爲(す)れば、其の直(あたひ)無し。

 然れば、心に繚(あつか)ひて[やぶちゃん注:思い悩んで。]、未だ明けざる程に、自(みづか)ら弓に箭(や)二筋許りを取り具して、家を出でぬ。

『池に行きて、池に居たらむ鳥を射て、此の妻(め)に食はしめむ。』

と思ふ故に也。

『何方(いづかた)に行くべきにか有らむ。』

と思ひ𢌞らすに、「美々度呂池(みみどろのいけ)」[やぶちゃん注現在の京都市北区上賀茂にある深泥池(みどろがいけ)。]こそ、人離(ひとはな)れたる所なれば、其(そこ)に行て伺はむ。』

と思ひ得て、行きにける。

 池の邊(ほとり)に寄りて、草に隱れて伺ひ居たるに、鴨の雌雄(めどりをどり)、人有りとも知らずして、近く寄り來たり。

 男、此れを射るに、雄を射つ。

 極めて喜(うれ)しく思ひて、池に下(お)りて鳥を取りて、忩(いそ)ぎて家に返るに、日、暮れぬれば、夜に入りて來たれり。

 妻に此の由を告げて、喜び乍ら、

『朝(つと)めてに調美(てうび)して、妻(め)に食はしめむ。』

と思ひて、棹(さを)[やぶちゃん注:衣桁(いこう)。]の有るに、打ち懸けて置きて、臥しぬ。

 夫(をうと)、夜半許りに聞けば、此の棹に懸けたる鳥、

「ふたふた。」

と、ふためく。

 然れば、

『此の鳥の生き返たるか。』

と思ひて、起(た)ちて、火を燈(とも)して行きて見れば、死にたる鴨の雄(をどり)は死に乍ら、棹に懸りて有り。

 傍らに、生きたる鴨の雌(めどり)有り。

 雄に近付きて、ふためく也けり。

「早う、晝る池に並びて飡(は)みつる雌の、雄の射殺しぬるを見て、夫(をうと)を戀ひて取りて來たる尻に付きて、此(ここ)に來にける也。」

と思ふに、男、忽ちに道心發りて、哀れに悲き事、限り無し。

 而るに、人、火を燈して來れるを恐れずして、命を惜しまずして、夫と並びて居たり。

 此れを見て、男の思はく、

『畜生也と云へども、夫を悲しぶが故に、命を惜しまずして、此(か)く來れり。我れ、人の身を受けて、妻(め)を悲しむで鳥を殺すと云ども、忽ちに、此(か)く宍(しし)を食はしむ。』

事を慈(いつくし)びて、寢たる妻を起こして、此の事を語りて、此れを見しむ。

 妻、亦、此れを見て、悲しぶ事、限り無し。

 遂に、夜明けて後(のち)も、此の鳥の宍を食ふ事、無かりけり。

 夫(をうと)は、尙、此の事を思ふて、道心深く發(おこ)りにければ、愛宕護(あたご)の山[やぶちゃん注:京都府京都市右京区にある愛宕山。比叡山と並び、古くより、信仰の山とされ、神護寺などの寺社が愛宕山系(愛宕山東方)の高雄山にある。]に貴(たふと)き山寺に行きて、忽ちに髻(もとどり)を切りて、法師と成りにけり。其の後(のち)、偏へに聖人(しやうにん)と成りて、懃(ねむご)ろに勤め行ひてなむ有りける。

 此れを思ふに、殺生の罪重しと云へども、殺生に依りて道心を發(おこ)して出家す。然(しか)れば、皆、緣、有る事也けり、となむ語り傳へたるとや。

   *

 次に明らかに「古今著聞集」を下敷きとしたものと考えられる「沙石集」(鎌倉時代の仏教説話集。全十巻。無住一円著。弘安六(一二八三)年成立)の「鴛の夢に見ゆる事」を引く(底本は一九四三年岩波文庫刊筑土鈴寛校訂「沙石集 下巻」を用いたが、適宜、読点を追加した。「(と)」は校訂者の挿入)。

   *

中比、下野の國に、阿曾沼[やぶちゃん注:「あそぬま」。現在の栃木県佐野市浅沼町(あさぬまちょう)に嘗て存在した沼。]と云ふ所に、常に殺生をこのみ、ことに、鷹つかふ、俗、有けり。ある時、鷹狩の歸りさまに、鴛の雄(をんどり)を一[やぶちゃん注:「ひとつ」。]とりて、餌袋に入て歸りぬ。その夜の夢に、裝束尋常なる女房、姿かたちよろしきが、恨みふかき氣色にて。さめざめと打ちなきて、いかにうたてく、わらはが夫(をつと)をばころさせ給へるといふ。さることこそ候はねといへば、たしかに今日めし(と)りて候ものをと云ふ。猶かたく論ずれば、

 日暮(くる)ればさそひしものをあそぬまのまこも隱れの獨寢ぞうき

と打ちながめて、ふつふつとたつを見れば、鴛の雌(めんどり)なり。打ちおどろきてあはれに思ほどに、朝(あした)見れば昨(きのふ)の雄(をんどり)と嘴(はし)くひあはせて、雌の死せるありける。是を見て發心し出家して、やがて遁世の門に入り侍けるとなん語傳へて侍る。あはれなりける發心の因緣也。漢土に法宗といひけるも、鹿のはらみたる中腹(なかばら)を射やぶるに、子のおちたるを、矢をふくみながら子をねぶりたるを見て、やがて弓矢を折りすて、髮をそりて道に入る。法華の持者にて、をはりめでたき事、法華の傳に見へたり。發心の緣定りなき事也。

   *

「沙石集」は諸本あり、別本では和歌は、

 日暮(くるれ)ばいさやといひしあそ沼の眞薦(まこも)のうへに獨りかもねむ

等の異同がある。最後に引かれている中国の法宗の鹿の話は私は原典を知らない。ご存じの方は、お教え願えると、恩幸、これに過ぎたるはない。]

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