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2019/09/05

小泉八雲 茶碗の中 (田部隆次譯)

 

[やぶちゃん注:本篇(原題“ The Legend of Yurei-Daki ”)は一九〇二(明治三五)年十月にニュー・ヨークのマクミラン社(MACMILLAN COMPANY)刊の“ KOTTŌ ”(「骨董」。来日後の第九作品集)の冒頭に配された“ Old Stories ”(全九話)の二番目に配されたものである。作品集“ KOTTŌ ”原本は、“Internet Archive”のこちらで全篇視認でき(本篇はここから。但し、これは翌一九〇三年の再版本)、活字化されたものは“Project Gutenberg”のこちらで全篇が読める本篇はここから)。

 底本は上記英文サイト“Internet Archive”のこちらにある画像データをPDFで落し、視認した。これは第一書房が昭和一二(一九三七)年一月に刊行した「家庭版小泉八雲全集」(全十二巻)の第八巻全篇である。★【2025年3月24日底本変更・前注変更】時間を経て、国立国会図書館デジタルコレクションに本登録し、現行では、以上の第一書房版昭和六(一九三一)年一月に刊行した「學生版小泉八雲全集」(全十二巻)の第七巻が、国立国会図書館デジタルコレクションで公開されてある。(リンクは扉だが、「學生版」の文字はない。しかし、奥附を見て貰うと『學生版 【第二囘豫約】』とあり、『昭和六年一月十日 發行』とあることが確認出来る)、これが、前掲の底本と同じものであるが、やはり、外国のサイトのそれを底本とするのは、日本人小泉八雲に失礼であると考えた。されば、こちらで、再度、以下の「骨董」の作品群を改めて校正することとする。これが――私の小泉八雲への「義」――である。なお、之よりも前の元版の全集等が先行しているものの、私がそれらと比べた結果、実は先行する同社の「小泉八雲全集」のそれらは、訳が一部で異なっており、訳者等によって、かなりの補正・追加がされていることが、今回の正字補正作業の中で、はっきりと判って来た。いや、同じ「家庭版」と名打ったネット上の画像データでも、驚いたことに、有意に異なっていたのである。そうした意味でも――完全な仕切り直しの総点検――が必要であると決したものである。従って、旧前振りの括弧・鍵括弧の問題も、拡大とガンマ補正で確認し、正確を期する。新底本の本話はここから。

 傍点「﹅」は太字に代えた。挿絵は底本にはないが、原本では、各話の前後に同じ絵がサイズを変えて配されてある。“Project Gutenberg”版にある最初に配された大きい方のそれを使用した。挿絵画家は既に述べた通り、佐賀有田の生まれの画家江藤源次郎(えとうげんじろう 慶応三(一八六七)年~大正一三(一九二四)年)である。但し、本底本最後の田部隆次氏の「あとがき」によれば、『マクミランの方でヘルンが送つた墓地の寫眞と「獏」の繪「獏」の繪の外に、當時在英の日本畫家伊藤氏、片岡氏などの繪を多く入れたので、ヘルンは甚だ喜ばなかつたと云はれる』とある。それを考えると、挿絵の多くは、スルーされた方が、小泉八雲の意には叶うと言うべきではあろう。

 田部隆次(たなべりゅうじ 明治八(一八七五)年~昭和三二(一九五七)年)氏については先に電子化した「人形の墓」の私の冒頭注を参照されたい。

 なお、本篇については、実は、既に

『柴田宵曲 續妖異博物館 「茶碗の中」 附 小泉八雲「茶碗の中」原文+田部隆次譯』

で、同じ田部隆次氏の訳を電子化し、英語原文の他、原拠である「新著聞集」(しんちょもんじゅう:寛延二(一七四九)年に板行された説話集。日本各地の奇談・珍談・旧事・遺聞を集めた八冊十八篇で全三百七十七話から成る。俳諧師椋梨(むくなし)一雪による説話集「続著聞集」という作品を紀州藩士神谷養勇軒が藩主の命によって再編集したものとされ、私の好む説話集であるが、時に先行する書物からの無批判な引用も多く、それをオリジナルな自説の如く記している部分もあり、批判的読みが必要である)の★「卷五」の「奇怪篇 第十」にある「茶店(さてん)の水椀(すいわん)若年(じやくねん)の靣(をもて)を現(げん)ず」も電子化し、詳細な注も附してある★ので、そちらを是非、参照されたい。しかし、上記リンク先、あくまで柴田のそれへの注の形であること、本篇は、私が小泉八雲の怪談の中でも最も偏愛する一掌篇であることから、ここは、煩を厭わず、ゼロから電子化注をし直し、独立したテクストとした。

 

Kotto_004

 

   茶碗の中

 

 讀者はどこか古い塔の階段を上つて、眞黑の中をまつたてに上つて行つて、さてその眞黑の眞中に、蜘蛛の巢のかかつた處が終りで外には何もないことを見出したことがありませんか。或は絕壁に沿うて切り開いてある海ぞひの道をたどつて行つて、結局一つ曲るとすぐごつごつした斷崖になつて居ることを見出したことはありませんか。かういふ經驗の感情的價値は――文學上から見れば――その時起された感覺の强さと、その感覺の記憶の鮮かさによつてきまる。

[やぶちゃん注:「まつたてに」「眞縱(真縦)に」(垂直に屹立しているものを登るさま)の意であろう。]

 ところで日本の古い話し本に、今云つた事と殆んど同じ感情的經驗を起させる小說の斷片が、不思議にも殘つて居る。……多分、作者は無精だつたのであらう、或は出版書肆と喧嘩したのであらう、いや事によれば作者はその小さな机から不意に呼ばれて、かへつて來なかつたのであらう、或は又その文章の丁度眞中で死の神が筆を止めさせたのであらう。とにかく何故この話が結末をつけないで、そのままになつて居るのか、誰にも分らない。……私は一つ代表的なのを選ぶ。 

      * 

 天和四年一月一日――卽ち今から二百二十年前――中川佐渡守が年始の𢌞禮に出かけて、江戶本鄕、――白山の茶店に一行とともに立寄つた。一同休んで居る間に、家來の一人――關內と云ふ若黨が餘りに渇きを覺えたので、自分で大きな茶碗に茶を汲んだ。飮まうとする時、不意にその透明な黃色の茶のうちに、自分のでない顏の映つて居るのを認めた。びつくりしてあたりを見𢌞したが誰もゐない。茶の中に映じた顏は髮恰好から見ると若い侍の顏らしかつた、不思議にはつきりして、中々の好男子で、女の顏のやうにやさしかつた。それからそれが生きて居る人の顏である證據には眼や唇は動いてゐた。この不思議なものが現れたのに當惑して、關內は茶を捨てて仔細に茶碗を改めて見た。それは何の模樣もない安物の茶碗であつた。關內は別の茶碗を取つてまた茶を汲んだ、また顏が映つた。關內は新しい茶を命じて茶碗に入れると、――今度は嘲りの微笑をたたへて――もう一度、不思議な顏が現れた。しかし關內は驚かなかつた。『何者だか知らないが、もうそんなものに迷はされはしない』とつぶやきながら――彼は顏も何も一呑みに茶を飮んで出かけた。自分ではなんだか幽靈を一つ呑み込んだやうな氣もしないでもなかつた。

[やぶちゃん注:英文原文では“the third Tenwa”(天和三(一八六三)年)となっていて、「新著聞集」の原典クレジット「天和四年正月四日」を変えてある。田部は原話に従って補正している。小泉八雲が改変した理由は不詳であるが、「天和四年正月四日」はグレゴリオ暦一六八四年二月十九日(第五代将軍徳川綱吉の治世。彼の前期の文治政治による善政「天和の治」は終りを告げ、この年以降、綱吉は大老を置かず、側用人牧野成貞や柳沢吉保らを重用し、老中らを遠ざけるようになった。悪法の批判の多い「生類憐れみの令」の類の最初の町触れは、貞享四(一六八七)年十月十日とされるが、実際には貞享三年以前から同様の政策は開始されていた)であるが、この年は二月二十一日(グレゴリオ暦四月五日)に貞享に改元している。則ち、天和四年は(一月は小)たった五十日しかなかった。簡易の西暦・和暦対照表では通常、天和四年は貞享元年とされてしまうため、八雲は天和四年はない、と誤認したせいかも知れない。

「今から二百二十年前」本書「骨董」の刊行は明治三五(一九〇二)年十月であるから、一六八二年となるが、数えで一を足すと、一六八三年で天和三年と一致する。

「中川佐渡守」豊後岡藩第四代藩主中川久恒(寛永一八(一六四一)年~元禄八(一六九五)年)であるが、ウィキの「中川久恒」によれば、原拠でこの事件があったとされる二年前の天和二年には、『生来』、『病弱だったため』、『弟たちによって藩政が代行されている』とある。

「本鄕の白山」現在の東京都文京区白山(はくさん)。江戸幕府によって開園された「小石川御藥園(こいしかはおやくゑん)」、現在の「小石川植物園」を含む一帯。寺院が多い。ここ(グーグル・マップ・データ)。

「關內」ネット上では平然と「かんない」の読みを振るものが多く見られるが、原拠原典は「せきない」であり、小泉八雲の表記も“Sekinai”である

 

 同じ日の夕方おそく佐渡守の邸內で當番をして居る時、その部屋へ見知らぬ人が、音もさせずに入つて來たので、關內は驚いた。この見知らぬ人は立派な身裝[やぶちゃん注:「みなり」。]の侍であつたが、關內の眞正面に坐つて、この若黨は輕く一禮をして、云つた。

 『式部平內でござる――今日始めてお會ひ申した……貴殿は某[やぶちゃん注:「それがし」。]を見覺えならぬやうでござるな』

 甚だ低いが、銳い聲で云つた。關內は茶碗の中で見て、呑み込んでしまつた氣味の惡い、美しい顏、――例の妖怪を今眼の前に見て驚いた。あの怪異が微笑した通り、この顏も微笑して居る、しかし微笑して居る唇の上の眼の不動の凝視は挑戰であり、同時に又侮辱でもあつた。

 『いや見覺え申さぬ』 關內は怒つて、しかし冷やかに答へた、――『それにしても、どうしてこの邸へ御入りになつたかお聞かせを願ひたい』

 〔封建時代には、諸侯の屋敷は夜晝ともに嚴重にまもられてゐた、それで、警護の武士の方に赦すべからざる怠慢でもない以上、無案內で入る事はできなかつた〕

 『あ〻、某に見覺えなしと仰せられるのですな』その客は皮肉な調子で、少し近よりながら、叫んだ。『いや。某を見覺えがないとは聞えぬ。今朝某に非道な害を御加へになつたではござらぬか……』

 關內は帶の短刀を取つてその男の喉を烈しくついた。しかし少しも手答がない。同時に音もさせずその闖入者は壁の方へ橫に飛んで、そこをぬけて行つた。……壁には退出の何の跡をも殘さなかつた。丁度蠟燭の光が行燈の紙を透るやうにそこを通り過ぎた。

[やぶちゃん注:「式部平內」原拠原典「しきぶへいない」。小泉八雲も“Shikibu Heinai”とする。]

 

 關內がこの事件を報告した時、その話は侍達を驚かし、又當惑させた。その時刻には邸內では入つたものも出たものも見られなかつた、それから佐渡守に仕へて居るもので『式部平內』の名を聞いて居るものもなかつた。

 

 その翌晩、關内は非番であつたので、兩親とともに家にゐた。餘程おそくなつてから、暫時の面談をもとめる來客のある事を、取次がれた。刀を取つて玄關に出た、そこには三人の武裝した人々――明かに侍達――が式臺の前に立つてゐた。三人は恭しく關內に敬禮してから、そのうちの一人が云つた。

 『某等は松岡文吾、土橋久藏、岡村平六と申す式部平內殿の侍でござる。主人が昨夜御訪問いたした節、貴殿は刀で主人をお打ちになつた。怪我が重いから疵の養生に湯治に行かねばならぬ。しかし來月十六日にはお歸りになる、その時にはこの恨みを必ず晴らし申す……』

 それ以上聞くまでもなく、關內は刀をとつてとび出し、客を目がけて前後左右に斬りまくつた。しかし三人は隣りの建物の壁の方へとび、影のやうにその上へ飛び去つて、それから……

[やぶちゃん注:「松岡文吾」原拠原典では「松岡平藏」。原文は“Matsuoka Bungō”。

「土橋久藏」原拠原典では「土橋(つちばし)文藏」と濁音で読みが振られてある。原文は“Tsuchibashi Bungōである。これは田部が原典に則して直したものである。恐らく同じ“Bungō”では曲がないと思ったのであろう。なお、原拠では三人の名は『松岡平藏(まつをかへいざう)・𦊆村(をかむら)平六・土橋(つちばし)久藏』の順で出る(「𦊆」は「岡」の異体字)。]

 

        *

 

 ここで古い物語は切れて居る、話のあとは何人[やぶちゃん注:「なんびと」。]かの頭の中に存在してゐたのだが、それは百年このかた塵に歸して居る。

 私は色々それらしい結末を想像することができるが、西洋の讀者の想像に滿足を與へるやうなのは一つもない。魂を飮んだあとの、もつともらしい結果は、自分で考へて見られるままに任せて置く。

[やぶちゃん注:なお、この関内の様態は、強い幻視を伴う統合失調症、及び、アルコール性慢性中毒症状に於ける、強い幻覚症状のある病態で(後者の場合は、病室の白い壁を、半日、眺めていて、「チャンバラ映画を見ているんだ」と言って、それを詳しく説明する事例を、私は、具体的に知っている)、しかも、この場合、厄介な他虐的傾向の激しいタイプのそれと、極めて、よく一致する。話柄の民俗学的解析よりも、その方が頗る状況を総てに於いて説明可能な、一種、精神医学の教科書的症例の古典的記載の一つとして、私は興味深いものであると考えている。

 

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