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2019/09/05

小泉八雲 死靈  (田部隆次訳)

 

[やぶちゃん注:やぶちゃん注:本篇(原題“Shiryō”)は一九〇二(明治三五)年十月にニュー・ヨークのマクミラン社(MACMILLAN COMPANY)刊の“KOTTŌ”(来日後の第九作品集)の冒頭に配された“Old Stories”(全九話)の五番目に配されたものである。作品集“KOTTŌ”はInternet Archive”のこちらで全篇視認でき(本篇はここから。但し、これは翌一九〇三年の再版本)、活字化されたものは“Project Gutenberg”のこちらで全篇が読める本篇はここから)。

 底本は上記英文サイト“Internet Archive”のこちらにある画像データをPDFで落し、視認した。これは第一書房が昭和一二(一九三七)年一月に刊行した「家庭版小泉八雲全集」(全十二巻)の第八巻全篇である。

 挿絵は底本にはないが、原本では各話の前後に同じ絵がサイズを変えて配されてある。“Project Gutenberg”版にある最初に配された大きい方のそれを使用した。挿絵画家は既に述べた通り、佐賀有田の生まれの画家江藤源次郎(慶応三(一八六七)年~大正一三(一九二四)年)である。

 田部隆次(たなべりゅうじ 明治八(一八七五)年~昭和三二(一九五七)年)氏については先に電子化した「人形の墓」の私の冒頭注を参照されたい。]

Kotto_010

   死 靈

 

 越前の國の代官、野本彌治衞門の歿した時、その下役の者共相謀つて、その故主人の遺族をだまさうとした、代官の負債の幾分を償却すると云ふ口實の下に、その家の財寶家具全部を押へた。その上、故主人が無法にも自分の資產の價値以上の債務を契約したやうに見える僞りの報告書を整へた。この僞りの報告を彼等は宰相に送つた、そこで宰相は越前の國から野本の妻子の追放命令を出した。その頃、代官の家族は、たとへ當主の死後でも、何かその人に非行があつたときまれば、幾分責任を負はされたものであつた。

 しかし、その追放命令が野本の未亡人に正式に交付された時、その家の女中に不思議な事が起つた。何かものに取いつかれたやうにひきつけて、身ぶるひをしだした、ひきつけが終つた時、すつくと立ち上つて宰相の役人達と故主人の下役とに叫び出した。

 『さあ、おれの云ふ事をよく承れ。汝等に話して居るのは女でない、おれは彌治衞門――あの世から歸つた野本彌治衞門―――だ、おれが淺ましくも信じてゐた者共から招いた悲しさと腹立しさ、その悲しさと腹立たしさの餘り歸つて來たのだ。……汝等恩知らずの不都合な下役の者の共、どうして汝等はこれまで受けた恩を忘れて、この通りおれの財產をなくし、このおれの名を辱しめるやうな事ができるのだ。さあここでおれの面前で、役所とおれの家の會計の取調べをして見せる。家來を一人目附の處へ帳簿を取りにやれ、その取調べを照し合せて見せる』

 女中がこんな言葉を口走つた時、居合せたものは一同驚いてしまつた、彼女の聲や態度は、野本彌治衞門の聲や態度であつたから。疵もつ足の下役共は靑くなつた。しかし宰相の代表者は直ちにその女の願は充分かなへさすべき旨を命じた。役所の會計帳簿は直ちに彼女の前に置かれた、それから目附の帳簿は運ばれた。そこで彼女は計算を始めた。一つの誤算名なく、彼女は凡ての計算をして總計を書いて、誤りの項目を直した。彼女の書體は正しく野本彌治衞門の書體であると見られた。

[やぶちゃん注:「疵もつ足の下役共は靑くなつた。」原文“The guilty clerks turned pale.”。まあ、判らぬ訳ではないが、どうも躓く日本語である。「疵もつ足の」という「下役」(したやく)の形容は如何なものか。「脛に傷持つ下役」ども、でよかったのではないか?]

 さて計算の再檢査ができ上つた時、女は正しく野本彌治衞門の聲で云つた。

 『さあこれで一切でき上つた、もうこれ以上おれは何もできない。それでおれはおれの來た處へ歸る』

 それから橫になつてすぐに寢込んだ、死人のやうに二日二晚眠つた。〔取りついて居る魂がぬけると、とりつかれた人に大きな疲勞と深い眠りが來る〕再び彼女が起きた時、彼女の聲と態度は若い女の聲と態度であつた、さうしてその時もその後如何なる時も、野本彌治昏門の亡靈にとりつかれてゐた間のでき事を思ひ出す事ができなかつた。

 

 この事件の報告が直ちに宰相に送られた、その結果宰相は追放の命令を取消したばかりでなく、代官の遺族に大きな賜物を與へた。その後種々の死後の名譽が、野本彌治衞門に與へられた、その上、その後長く家は政府の恩顧を受けて甚だ榮えた。しかし下役の者どもは相當の罸を受けた。

 

[やぶちゃん注:この話、確かにそっくりなものを以前に江戸の怪奇談集の中で読んだように思う。ただ、その時思ったのは、謀議を暴くために冥界からわざわざ戻って会計簿を用いて身の潔白を正して金勘定を合わせて粛々と帰って行くという全体の金銭臭さは本邦の武士らしさと親和性が頗る悪い上に、憑依するのが亡き自身の家の端女(はしため)であるというのも、どうも日本的でないものを強く感じさせたという記憶である。はっきり言えば、そういう設定――私に言わせれば、収支決算監査終了的な妙な現実味は寧ろ、中国の伝奇・志怪小説に登場する現世への激しい執着を持つ官人の遺恨に最も相応しいのである。或いは、この話、中国のその手の話をお手軽に日本に移した話のように思われてならない。孰れにしても(近世怪談或いは志怪小説)、具体的な類型話を思い出したら、ここに追記をする。中国起原を措定した時、「代官」(原文も“daikwan”。狭義のそれは郡代と共に勘定奉行の支配下に置かれ、小禄の旗本の知行地と天領の治安管理をした)や「宰相」(原文も“Saishō”。狭義の代官の追放命令を下せるのは勘定方の最高責任者で、財政や幕府直轄領の支配などを総支配した勘定奉行となる)、或いは最後の「政府」(原文は“the Government”。公儀。江戸幕府。これを藩主などととると、「宰相」は家老になって、「代官」は奉行格となって時代劇にありそうに見えてくるものの、こんな組織的な不正謀略が万一公儀に漏れたら、藩自体が改易の危機にも陥るわけで、そっちの方がかえって心配になっちゃうんだが)という言葉が構造的になんだかひどくむずむずしてしっくりとこないのが、すっきり雲散霧消するとも言えるのである。]

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