小泉八雲 默想 (田部隆次譯)
[やぶちゃん注:本篇(原題“ Revery ”(「レヴェリィ」は「何かに夢中になってぼうっとした状態」或いは「目覚めていながら夢を見ているようなぼんやりとした状態」を指す語であるから、叙述内容からみても訳は「夢想」の方がしっくりくる。平井呈一氏訳も「夢想」である)は一九〇二(明治三五)年十月にニュー・ヨークのマクミラン社(MACMILLAN COMPANY)刊の“ KOTTŌ ”(来日後の第九作品集)の話柄数では十六番目に配されたものである。作品集“ KOTTŌ ”は“Internet Archive”のこちらで全篇視認でき(本篇はここから。但し、これは翌一九〇三年の再版本である)、活字化されたものは“Project Gutenberg”のこちらで全篇が読める(本篇はここから)。
底本は上記英文サイト“Internet Archive”のこちらにある画像データをPDFで落し、視認した。これは第一書房が昭和一二(一九三七)年一月に刊行した「家庭版小泉八雲全集」(全十二巻)の第八巻全篇である。★【2025年3月26日底本変更・前注変更】時間を経て、国立国会図書館デジタルコレクションに本登録し、現行では、以上の第一書房版昭和六(一九三一)年一月に刊行した「學生版小泉八雲全集」(全十二巻)の第七巻が、国立国会図書館デジタルコレクションで公開されてある。(リンクは扉だが、「學生版」の文字はない。しかし、奥附を見て貰うと『學生版 【第二囘豫約】』とあり、『昭和六年一月十日 發行』とあることが確認出来る)、これが、前掲の底本と同じものであるが、やはり、外国のサイトのそれを底本とするのは、日本人小泉八雲に失礼であると考えた。されば、こちらで、再度、以下の「骨董」の作品群を改めて校正することとする。これが――私の小泉八雲への「義」――である。なお、之よりも前の元版の全集等が先行しているものの、私がそれらと比べた結果、実は先行する同社の「小泉八雲全集」のそれらは、訳が一部で異なっており、訳者等によって、かなりの補正・追加がされていることが、今回の正字補正作業の中で、はっきりと判って来た。いや、同じ「家庭版」と名打ったネット上の画像データでも、驚いたことに、有意に異なっていたのである。そうした意味でも――完全な仕切り直しの総点検――が必要であると決したものである。従って、旧前振りの括弧・鍵括弧の問題も、拡大とガンマ補正で確認し、正確を期する。新底本の本話はここから。
傍点「﹅」は太字に代えた。挿絵は底本にはないが、原本では各話の前後に同じ絵がサイズを変えて配されてある。“Project Gutenberg”版にある最初に配された大きい方のそれを使用した。挿絵画家は既に述べた通り、佐賀有田の生まれの画家江藤源次郎(えとうげんじろう 慶応三(一八六七)年~大正一三(一九二四)年)である。但し、本底本最後の田部隆次氏の「あとがき」によれば、『マクミランの方でヘルンが送つた墓地の寫眞と「獏」の繪「獏」の繪の外に、當時在英の日本畫家伊藤氏、片岡氏などの繪を多く入れたので、ヘルンは甚だ喜ばなかつたと云はれる』とある。それを考えると、挿絵の多くは、スルーされた方が、小泉八雲の意には叶うと言うべきではあろう。
田部隆次(たなべりゅうじ 明治八(一八七五)年~昭和三二(一九五七)年)氏については先に電子化した「人形の墓」の私の冒頭注を参照されたい。
簡単な私の注も添えた。]
默 想
生れ兒が世の中へ出る時、どんな愛の手がそれを受けようとして待つて居るか知る事ができないで泣くやうに人間は死を恐れると云はれて居る。この比較は確に科學的檢査にはたへない。しかし都合のよい空想としては美しい。そんな空想が何等宗敎的の意味をもたらさない人々、――個人の精神は肉體と共に死滅する、それから個性の永遠の連續は永遠の不幸になるばかりと信ずる人々に取つても美しい。思ふにこの空想が美しいのは絕對は母性愛を無限に擴大したものであるといふ事を廣い知識の人々に分らせたいと云ふ希望、それをそんな卑近な方法であらはして居るからである。この想像は西洋風よりもむしろ東洋風である、しかも私共の西洋の多くの信條に漠然と表れて居る情操と一致して居る。絕對を父と見る古い冷い考のうちに、その後次第に注がれて來たのは、無限にやさしい新しい明るい夢であつた、母としての女の記憶から創造された一切のものを變形し理想化する希望であつた。それで各人種が一段高い方へ進化すればする程その神の觀念は一層女性的になる。
逆に又この考は、どんな不信者にでも、凡ての人間の經驗の範圍では母性愛程貴いものは外にない、――神聖と云ふ名に相當するものはこの外にない事を思はせる。母性愛のみがこの哀れな小さい星の表面で弱い命の心を育たしめ、生かしめたのであらう、その無上の無私の力によつてのみ、貴い種類の感情が人間の頭腦の內に花咲く力を得たのであらう、――母性愛の助けによつてのみ、靈界に對する高尙なる種類の信任が生れ出づる事を得たのであらう。
しかしこの種類の空想は自然に私共を導いて、何處へ行く及び何處より來れるの神祕に關する情緖的質問に自答させる。進化論者は母性愛を單に物質的親和力――原子と原子の引力の必要なる結果と考へねばならないだらうか。或は東洋の古への思想家とともに、凡ての原子傾向は一つの永久の道德法によつて律せられる事、それから或者は、四つの大きな感情の表現であるから、それ自身神聖である事を進んで主張する事ができようか。……如何なる智慧が私共のために決定を與へてくれるであらう。それから私共の最高の感情は神聖である事を知つた處で――人類そのものが絕滅すべく運命をもつて居る以上、――何の役に立つか。母性愛が人類のためにその最善をつくした時、その最善が無駄であつた事にならないだらうか。
[やぶちゃん注:「東洋の古への思想家」老子・荘子・孔子であろう。
「四つの大きな感情」喜怒哀楽。但し、ここで小泉八雲が言っているのは、仏教で言う「七情(しちじょう)」、「喜・怒・哀・楽・愛・悪(お)・欲」という抑制すべきものとしてではなく、人間が人間たる所以としての絶対的属性を主張すること(者)を指して言っている。但し、「それ自身神聖である事を進んで主張する事ができようか」という留保部分には、仏教の「七情」という戒があることを意識しているとは言える。]
初めに考へた所では、全くこの避くべからざる絕滅は想像し得る悲劇の中の最も暗黑なるもの、――最大の悲劇に見えるに相違ない。結局私共の地球は死滅するに相違ない、空氣の碧い靈も消散し、海は涸れ、土さへも全然無くなつて、殘るものは砂と石の廣漠たる荒敗――世界の枯渴した屍――だけになるに相違ない。それでも暫らくはこのミイラが太陽のまはりをまはるであらうが、ただ死んだ月が今日、夜を橫切つてまはるやうに――一方は永久に焦げるやうな炎を舉げ、他方は氷のやうな暗黑のままでまはるであらう。そんな風に髑髏のやうに白く、禿げて、まはるであらう、それから髑髏のやうに晒され、ひびが入り、それから崩れて、絕えず、その燃える親なる太陽の方へ、近く引寄せられて、最後にその旋風の如き呼吸の電光のうちに、不意に消滅するであらう。一つ一つ殘りの惑星も同じ跡を追ふであらう。それからその巨大な星、太陽それ自身も衰へて來る、――光の色物すごく變つて動搖し――赤くなつてその死の方へ赴くであらう。それから最後にこの巨大な、裂目のある燃えがらは、どこかの巨大な太陽の燃燒材料の中へまき込まれて、幽靈の見る夢の中の夢よりももつと稀薄な蒸汽となつて消えるであらう。……
それなら、これまでの一生――際限のない深淵のうちに消失した跡を示すべきしるしさへもなくなつた一生の働きは、何の役に立つであらう。それなら母性愛に何の價値があらう、犧牲と希望と記億、――その聖い喜び、さらに一層聖い苦痛、――その微笑と淚と神聖な愛撫、消失した無數の神々に對するその熱心なる無數の祈り――のあつた人間の愛情の亡びた世界全體に何の價値があらう。
こんな疑や恐れは東洋の思想家を惱ます事はない。西洋の人を惱ます理由は重に誤れる思想の習慣、及びそのために私共がそれ程長く、靈魂と呼んで來たものは本質でなく形體に屬するものなることを承知する事が、盲目的に恐ろしいからである。……形體は永久に連續して現れ又消える、しかし本質だけは眞である。百萬の宇宙は消散しても、眞なるものは失はれない。全き破滅、永久の死、――總てこんな恐怖の言葉は、永久の變化の法則を除いて、外に何等眞なるものに關係する處はない。形體が亡びると云つても、波が去つて碎けると同じ事にすぎない、ひき去るのは新たに又漲るためである、――何物も失はれる事はない。……
雲散霧消した私共のもやのうちに、これまで人生にあつたものの總ての本質、――善なり惡なりをつくる力の遺傳、その親和力、その傾向、幾百萬代の間に蓄積された凡ての勢力、これまで人種の强さをつくつた凡ての精力をもつて、――これまであつたもの及び現在あるもの凡て一つ一つの存在物は生き殘るであらう。――それから數へ切れぬ程、度々これ等のものが、生命と思想を得るやうに形成されるであらう。變形變質も行はれるであらう。親和力の多少、偏向の增減によつて變化も又起るであらう。卽ち私共の塵がその時、數へられない程の他の世界、及びその人類の塵と混淆して居るだらうから。しかし本質そのものは何も失はれてゐない。私は必ず未來の宇宙を造るために――そのうちから新たなる智慧が徐ろに進化して來るその實質に――私共の分を遺すであらう。消散した無數の世界から私共の精神作用の幾分を遺傳したに相違ないと同じく、未來の人類も、私共からばかしでなく、又今日存在して居る數百萬の惑星からも遺傳するであらう。
私共の世界の消滅は、宇宙の消滅から見れば、思ひが消滅した只一つの極めて小さい例を表はすに過ぎない。私共と同じ運命にあふべき人類の棲息せる天體の數は天に見ゆる光よりも多いから。
しかしその無數の太陽の火とそれに伴ふ目に見えない數百萬の生きた惑星は、とにかく再び現れるに相違ない、再び自ら消滅して自ら生れ出た不可思議な宇宙は、永遠の深淵を超えて恒星としての𢌞轉を再び續けるであらう。それから死と永久に爭つた愛は再び永遠の戰を新たにするために、苦痛の新しい無窮を通つて起き上るであらう。
母の微笑の光は私共の太陽よりも長く生きるであらう、――母のキスの動悸は星の動悸以上に續くであらう、――母の子守歌のよい音調は、未だ出現しない世界の子守歌までにも殘るであらう、――母の信仰のやさしさは、他の天の神々――現在の時以外の時の神々に對してなすべき祈禱に熱を加へるであらう。それから母の胸の甘い乳汁は決して止まる事はない。その白い流れは私共の夜の天にかかつて居る天の河が、永久に空間から消失して居る頃、私共の人生よりもつと完全な人生の生命をはぐくむために、續いて流れるであらう。