1260000ブログ・アクセス突破記念 小泉八雲 おかめのはなし(田部隆次訳)/附・原拠「新撰百物語」巻二「嫉妬にまさる梵字の功力」(オリジナル翻刻・完全版)
[やぶちゃん注:やぶちゃん注:本篇(原題“The Story of O-Kamé”)は一九〇二(明治三五)年十月にニュー・ヨークのマクミラン社(MACMILLAN COMPANY)刊の“KOTTŌ”(来日後の第九作品集)の冒頭に配された“Old Stories”(全九話)の六番目に配されたものである。作品集“KOTTŌ”は“Internet Archive”のこちらで全篇視認でき(本篇はここから。但し、これは翌一九〇三年の再版本)、活字化されたものは“Project Gutenberg”のこちらで全篇が読める(本篇はここから)。
底本は上記英文サイト“Internet Archive”のこちらにある画像データをPDFで落し、視認した。これは第一書房が昭和一二(一九三七)年一月に刊行した「家庭版小泉八雲全集」(全十二巻)の第八巻全篇である。
挿絵は底本にはないが、原本では各話の前後に同じ絵がサイズを変えて配されてある。“Project Gutenberg”版にある最初に配された大きい方のそれを使用した。挿絵画家は既に述べた通り、佐賀有田の生まれの画家江藤源次郎(慶応三(一八六七)年~大正一三(一九二四)年)である。
田部隆次(たなべりゅうじ 明治八(一八七五)年~昭和三二(一九五七)年)氏については先に電子化した「人形の墓」の私の冒頭注を参照されたい。
最後に、本話の原拠である「新撰百物語」(明和三(一七六六)年(推定)に上方の版元吉文字(きちもんじ)屋が板行した新作怪談本)の巻二にある「嫉妬にまさる梵字の功力(くりき)」をオリジナルに電子化して附した。
なお、原拠では「おかめ」は「お龜」である。
因みに、本テクストは2006年5月18日のニフティのブログ・アクセス解析開始以来(このブログ「Blog鬼火~日々の迷走」開始自体はその前年の2005年7月6日)、本ブログが昨日の夕暮れに、1260000アクセスを突破した記念としても公開する。 ]
おかめのはなし
土佐の國名越の長者權右衞門の娘おかめは、その夫八右衛門を非常に好いてゐた。女は二十二、八右衞門は二十五であつた。餘り夫を愛するので、世間の人は嫉妬の深い女だらうと思つた。しかし男は嫉妬されるやうな原因を作つた事もなかつた。それで二人の間にはいやな言葉一つ交された事もなかつた。
[やぶちゃん注:「名越」「なごし」(原文“Nagoshi”)。原話もそうなっているが、不詳。沈下橋で知られる高知県高岡郡日高村名越屋(なごや)(グーグル・マップ・データ)なら知っている。この「名越」という地名は各地にあり、「なごえ」「なごし」等、同時代でも同時に複数の読みを持つので、今は「なごや」でもおかしくはない。]
不幸にしておかめは病身であつた。結婚後二年にもならないうちに當時土佐に流行してゐた病氣にかかつて、どんな良醫も匙を投げるやうになつた。この病氣にかかる人は、喰べる事も飮む事もできない、ただ疲れてうとうととして、變な夢に惱まされて居るだけであつた。おかめは不斷の看護を受けながら、每日次第に弱つて行つて、たうとう自分でも助からぬ事が分つて來た。
そこで彼女は夫を呼んで云つた、
『私のこのいやな病氣中あなたがどんなに親切にして下さつたか口では云へません。こんなによくして下さる方はどこにだつてありません。あなたに別れるのが本當につらい。……考へて下さい、私未だ二十五にもなりません、――その上私の夫ほどよい人はこの世にはありません、――それでも私は死んで行かねばならない、……い〻え、駄目、駄目、氣休めをおつしやつても駄目ですよ、どんなお醫者だつてどうにもならないのですもの。もう二三ケ月生きてゐたいと思ひましたが、今朝鏡を見たら、今日のうちに死んで行かねばならぬ事が分りました、――さう、丁度今日です。それであなたにお願がありますの――私が安心しで死んで行けるやうに思つて下さるやうなら、――その願を私にかなヘさせて下さい』
『一寸云つて御覽、何だか』八右衞門は答へた、『私の力でできる事なら、どんな事でも喜んでして上げる』
『それが――あなたのちつとも喜ばない事なんです』彼女は答へた、「未だ若いのですもの、こんな事をお願することは、中々――大變――むつかしい事ですわ、でもその願事は私の胸に燃えてる火のやうです。死ぬ前に云はせて下さい。どうぞ。……ね――あなた、私が死んだら早晚、皆であなたに奧樣を持たせるでせう、ね、あの、約束して下さいませんこと、もう二度と結婚はしないと、―― おいやですか……』
『何だ、そんな事か』八右衞門は叫んだ。『願事と云ふのはそれだけの事なのか、それは何でもない。よし、約束した、お前の代りは決して貰はない』
『あ〻、嬉しい』おかめは床から半分起きて叫んだ。
それからうしろへ倒れた、同時に彼女の息は絕えた。
おかめが死んでから、八右衞門の健康は衰へて來るやうであつた。初めはその樣子の變りやうを、人々は人情の悲しみの故と解釋してゐた、それで村人達は『どんなにあの奧樣が氣に入つてゐたのだらうな』とばかり噂してゐた。しかし月が重なるにつれて、段々蒼白くなり弱くなりして、遂には人間ではなく幽靈ではないかと思はれる程瘦せやつれて來た。それで人々はそんなに若い人がかう急に哀へるのは悲しみだけでは說明ができないと疑ひ出した。醫者達の說では、八右衞門の病氣は普通のものではない、樣子は何とも解し難いが、何か心の異常のなやみから起つて居るらしいと云ふ事であつた。兩親は色々尋ねて見たが駄目であつた。彼の云ふ處では、両親の知つて居る以外には、何等悲歎の原因はないとの事であつた。兩親は再婚をすすめた。しかし死人に對する約束はどうしても破る事はできないと云ひ張つた。
それからあと、八右衞門はやはり日增しに衰へた、家族の人々はその生命を危んだ。ところが或日の事、かねて何か心に隱してゐる事を信じてゐた母が、熱心にその衰弱の理由を云つてくれるやうに烈しく泣いて賴んだ、母の懇願には勝たれなくなつた。
『こんな事はあなたにも又どなたにも全く云ひにくい事です、すつかり申上げて見た處で本當にはできますまい。實はおかめはあの世で成佛ができないのです、それからいくら佛事を行ふてやりましても駄目のやうです。私も一緖にその冥土の旅に出てやらないとどうしても成佛ができないやうです。おかめは每晚歸つて來て、私のわきにねます。葬式の日から每晚、來ない晚はありません。それで時々本當に死んだのではあるまいと思ふ事があります、樣子や行ひは生きてゐた時と全く同じですから、――ただ私に話をする時、小さい聲で物を云ふだけです。それから、いつでも、自分の來る事を誰にも云はないやうにと申します。私にも死んで貰ひたいのでせう。私も自分だけなら生きでゐたくはありません。しかし、全く仰せの通り私のからだは兩親のもので、兩親に先づ第一に孝行しなければなりません。それで、本當の事を皆申し上げるのです。……はい、每晚丁度眠りかけると參ります、それから明方までゐます。鐘が聞えると出て行きます」
八右衞門の母がこれを聞いてびつくりした。直ちに檀那寺へ急いで寺僧に息子の告白の一切を話して助力を乞うた。高齡で、經驗の積んだ寺僧はその話を聞いて驚く色もなく、彼女に云つた。
『かう云ふ事は時々あるものです、始めてではありません、それで御子息も助けて上げられると思ひます。しかし今大變危い處です。愚僧の見る處では、お顏に死相が現れてゐます、おかめさんがもう一度歸つて來れば、もうそれきりです。それで卽刻やるべき事をやらねばなりません。御子息に默つてゐて下さい、大急ぎで雙方の親戚を集めて、寺へ來るやうに云つて下さい。御子息のためにおかめさんの墓を開けねばなりません。』
そこで、親戚はお寺に集つた、墓を開く事を一同承諾したので、僧は一同を墓地へ案内した。そこで、その指圖に隨つておかめの墓石はわきへやられ、墓は開かれ、棺は上げられた。棺の蓋が取られた時、居合はした人は膽を寒くした。それはおかめは病氣の前と同じく綺麗に、顏に微笑を浮べて一同の前に坐つて、――彼女には何等死のあとはなかつたから。しかし、僧は棺の中から、死人を取り出す事を人々に命じた時、驚きは恐怖となつた、それは長い間正坐の形を取つてゐた原注一もの拘らず、その死體は觸はると生きて居るやうに暖かく、しなやかであつたから。
それを葬場へ運んで、僧は筆を取つて額と胸と手足に何か聖い[やぶちゃん注:「きよい」。]功徳のある梵字を書いた。それからその屍をもとの場所へ葬る前に、おかめのために施餓鬼を行うた。
彼女は再び夫の處へ來なかつた、八右衞門は次第に健康と力を囘復した。しかし彼はいつまでもその約束を守つたかどうか、それは日本の作者は書いてゐない。
原註一 日本では死體は普通殆んど正方形の棺の中に正座の形に置かれる。
[やぶちゃん注:「施餓鬼」悪道に堕ちて飢えに苦しむ餓鬼に飲食物を施すこと。「施餓鬼会(え)」の略。「水陸会(すいりくえ)」とも呼ぶ。餓鬼はサンスクリット語の「プレータ」(preta)の訳で、「死者」または「死者霊」を原義とし、のちには子孫が絶えて供養がなされず、常に飢餓に苦しむ亡霊の意味がある。仏教では貪吝(とんりん:欲が深くて、吝嗇(けち)なこと)で布施をしなかった者が死後に餓鬼に生まれ変わり、飢渇に苦しむとされ、彼らの住む餓鬼道は六道輪廻の一つとなった。中国では飢餓に悩む鬼神や餓鬼に飲食を施す餓鬼供養の法会が発展し、また、「盂蘭盆経(うらぼんぎょう)」の目連(もくれん)救母伝説と習合して、悪道に堕ちて苦しむ先祖供養のための法会ともされた。特に唐代には多くの経軌(きょうき)が編纂され、日本にも空海らによって齎された。施餓鬼会は、最初、真言宗で、鎌倉期以降は浄土真宗を除く各派で行われるようになり、今日に至っている。各派で儀式の内容は幾分、異なるが、孰れも新しい亡者の精霊(しょうりょう)の冥福と無縁仏への追善供養の意味が重合している。盂蘭盆会に付随して行われることが多いが、本来は随時に行い得るものである。水死者やお産で亡くなった人のための川施餓鬼・水施餓鬼もある(以上は主文を小学館「日本大百科全書」に拠った)。
さて、冒頭注で述べた通り、本話の原拠は明和三(一七六六)年(推定)に上方の版元吉文字(きちもんじ)屋が板行した新作怪談本「新撰百物語」の巻二にある「嫉妬にまさる梵字の功力(くりき)」である。これは一九九〇年講談社学術文庫刊の小泉八雲著・平川祐弘編「怪談・奇談」の「原拠」で活字化(但し、新字体)されているものの、それは富山大学の「ヘルン文庫」の旧小泉八雲蔵本のみを底本として翻刻したもので(同書の画像は「富山大学学術情報リポジトリ」のこちらから全篇をダウン・ロード出来る)、途中、虫食いや欠損部をそのまま四角で示した、非常に不完全なもので、正直、一部は判読も不審で、最後の方は、なんと、三行分が損傷して大きく欠損したままの翻刻で、最早、資料として読むに耐えないものなのである(何故、他の板本で注して補おうとしなかったのだろう? 普通、校合するだろ?! 「原拠」の一部は「ヘルン文庫」以外で翻刻しているんだぜ?! そもそもが、この本、実は昔からどうも気に入らないのである。何故なら、その「まえがき」で平川祐弘氏は、過去の小泉八雲の訳文群について、私が今、大々的に電子化注して公開しかけている第一書房版の「小泉八雲全集」のその『翻訳がどちらかといえば堅く「血の通った柔軟さが見られない」』(かつて平川氏が共同で小泉八雲を訳したという森亮氏が彼に語った言葉らしい。森氏は「ルバイヤート」を始め、多数の翻訳本を昔から読まさせて戴いており、一目置く人物ではあるが、あの歯が折れそうなガチガチに硬い平川訳を想起すると、これは森氏の平川への皮肉としか思えない)とし、私の愛読する『恒文社版平井呈一訳にはいかにも意に満たぬ箇所がままあった』とのたもうているのであるが、当該本の小泉八雲の四十二篇、これ、悉く――インキ臭く――一篇たりとも――文学として感動させる名訳なんぞにはなっていない――と断言出来るからである(訳者は平川以外に森も含めて七名が参加している)。平川・森の物言いには先達たる訳者への敬意が微塵も感じられないの。先駆的訳業の上に今の翻訳作業が積まれているという謙虚な意識がそこには全くない。これは学者だろうが、作家だろうが、大衆から嫌悪される尊大さだ(そこが判らない高踏的選民的意識さえ彼らから臭ってくるのだ)。先行訳に誤訳や逐語的で拙い箇所や逆に意訳を越えて翻案に近いパートがあったり、日本語の表現としておかしく、文学的香気を殺ぐものが一部にあることは当然の如く、事実ではある。私は英語が不得手であるが、そうした部分を可能な限り、注で指摘してもいる。時代にそぐわなくなった差別語使用の問題点や《翻訳の賞味期限》という捉え方も無論、私にもある。しかし、この尊大さは不快千万、しかもぶち上げておいて、出来上がりはこんなもんか、という感想は拭えないのだ。それでも出版された当時の私には原拠提示が魅力だったから、即刻求めたのだったのだが、それも今見てみれば、このザマじゃないか! 「学術」文庫が聴いて呆れる。二十九年前からずっとこれはどうしてもどこかで言いたかったのだ! やっとスッキリした!)。そこでネットを調べてみたところが、幸い、「国文学研究資料館」の公開画像データに同書のたった十八ページだけがあり、何と、そこに同パートが丸ごと含まれてあるのを見出せた。しかも、こちらはかなり状態の良いもので(それでも虫食いはある)、上記の講談社学術文庫版の判読不能部分を殆んど総て補填し得ることが判った。従って、その「国文学研究資料館」版を視認し、こちらで判読不能な部分は逆に上記「ヘルン文庫」を参考にして、原拠を以下にほぼ完全にオリジナルに示すこととした。但し、読みは振れそうなもののみとし、正字か略字か迷うものは正字で示した。踊り字「〱」は正字化した。句読点・濁点と記号類を一部で添え、段落化し、読み易くした。歴史的仮名遣の誤り(かなり多い)もそのままである。【 】は私の推定判読部、一箇所「□□□」は遂にそれでも虫食いで判読出来なかった箇所である。なお、原本には挿絵がある。
*
新撰百物語巻二
○嫉妬にまさる梵字の功力
妬(ど)なれば、去(さる)とは七去(きよ)のひとつ、いかさま、女(をんな)のねたみ、吝氣(りんき)よりして、家を乱(みだ)り、身をそこなふ事、すくなからず。女の、第一、憤しむべきの道ぞかし。
[やぶちゃん注:「七去」(しちきょ)は「大戴礼」(だいたいれい:中国の経書。全八十五編であるが、現存するのは三十九編のみ。前漢の戴徳の撰。漢以前の諸儒学者の礼説を集成したもの)の「本命」に基づく、「妻を離縁してよい」とされた七つの理由。「父母に従順でないこと」・「淫乱なこと」・「嫉妬すること」・「悪病のあること」・「子のないこと」・「お喋りなこと」・「盗みをすること」を指す。儒教の経典や中国・日本の令でも認められていた。「七出(しちしゅつ)」とも呼ぶ。]
今はむかし、土佐の國名越(なごし)といふ所に、八郞兵衞といふ者の嫡子に、八右衞門とて、生年(しやうねん)二十五歲、つねづね、父母(ふぼ)へ、よくつかえ、至(いたつ)て正直なれば、近鄕の、これ沙汰(ざた)、ほめぬものも、なかりけり。
其家のとなりに、田地もつくりて、山などを持(もち)し、權右衞門といふものあり、娘、二人、持ちけるが、姊(あね)を「おせん」、妹(いもと)を「お龜」といひ、姊には聟(むこ)をと【りて】家督を續(つが)せ、妹をば、八右衞門が妻につかはし、夫婦(ふうふ)となしぬ。
お龜、生得(しやうとく)、りん氣ふかく、八右衞門、近所へ出(いで)ても、さまざまと、ねたみ、怒り、まして、城下などへ公用にて行(ゆく)にも、『是非なき事』と思ひながら、癖(くせ)の事なれば、食事もせず、湯水も飮(のま)ず、おもひわづらひ、臥(ふし)てのみ暮しける。
然れども、八右衞門、すこしもそゝけぬものなれば[やぶちゃん注:「そそく」は「(髪や草などの)揃っていたものが乱れる」の意で、ここは「気持ちが他の女へと乱れたりするようなことがない男だったので」の謂いであろう。]、終に夫婦のいさかひなく、おとなしく暮せしが、いかなる事にや、お龜、廿二歲の春比(ごろ)より、ぶらぶらと煩らひて、いろいろと養生させ、城下の醫師へ療治を賴み、藥も殘る所なく、神佛へも祈願すれども、ちからおよばず、次第次第に衰へて、賴(たのみ)すくなくなりけるが、或夜、八右衞門にいひけるは、
「わたくし、不慮の病(やまひ)を請(うけ)、ながながの御かんびやう、身にあまり忝(かたじけな)く、御禮申に餘りあり。今朝(けさ)までも、今迄も、『今ひとたびは本復(ほんぶく)して添(そひ)參らせん』と存(ぞん)せしが、最前、鏡にむかひみるに、かやうにやつれまいらせては、たとへ鎖(くさり)につなぎても、唐・天竺の名醫をまねき、良藥をほどこしても、本復する事かたかるべし。三十にみたず過行(づぎゆく)事も、過去の宿業(しゆごう)とぞ思へば、なげく事もなし。去(さり)ながら、ひとつの願(ねがひ)さふらふまゝ、聞(きゝ)給へ。」
と泪ぐみ、いとくるしげに云(いひ)たれば、八右衞門は、不便さ、まさり、
「何とて、左樣(さやう)に心をす。臨終正念、あやまり給ふぞ。身に叶ひたる事ならば、いか樣(やう)の儀なりとも、其方の望(のぞみ)を達(たつ)しさせん。すこしものこさず、語られよ。」
と、ねんごろに尋ぬれば、お龜、いまはの眼(まなこ)をひらきて、
「嬉しの仰(おほせ)や。忝(かたじけな)や。我身、むなしくなりたるのち、かならず、妻をもち給ふな。是のみ、心殘りにて、胸をこがし、身をくるしむ、あら、熱や、堪(たへ)がたや。」
と、煙のごとき、息、ふき出し、歯をくひしばり、眉、さか立(だち)、惡相(あくさう)、一般(いちど)にあらはれければ、地獄の苛責(かしやく)思ひやられ、すさまじき事、限りなし。
八右衞門は、見るにたへかね、言葉をあらため、
「さほどすこしき望(のぞむ)事、何ゆへ、これまでつゝみ給ふぞ。心やすかれ。死後におゐて。、一生、妻(つま)をめとるべからず。もし、此言葉に僞りあらば、立所(たちどころ)に氏神の御罪(おばつ)を蒙(かふ)ぶるべし。いさぎよく往生し給へ。かならず、疑ひ給ふな。」
と、いひ聞(きか)すれば、
「むつく。」
と、起(をき)、
「あら、嬉しや。」
と、七顚八倒、虚空を摑み、
「うん。」
とばかり、最期(さいご)の念ぞ、すさまじき。
八右衞門は、淚ながら葬送仏事のこりなく、かたのごとく執行(とりをこな)ひしが、いつとなく、八右衞門、極(きはめ)て、病氣といふにもあらず、次第次第に衰ふれば、一門中も不審をなし、入(いれ)かへ、入れかへ、每日、見舞(みまひ))、
「樣子いかゞ。」
と尋ぬれば、
「氣ぶんに、すこしも別条なし。」
と、詞(ことば)をはなつて云(いひ)けれども、いづれも一圓(えん)、承引せず、
「お龜、最期(さいご)に臨(のぞみ)し時、『一生、妻をもつまじ』と誓ひをなして契(ちぎり)し由(よし)、もとより正路の(しやうろ)の八右衞門、詞をかへじと思へども、若き者の事なれば、色には心のうつる最中(さいちう)[やぶちゃん注:そういう状態が酣(たけなわ)の謂い。]。されども、誓ひし詞あれば、思ひ暮して心氣をいため、かく衰ふるものならん。もし、さもあらば、兎に角に、後妻を娶(めと)らで叶はぬ身ぶん、とてもの事に、其(その)人[やぶちゃん注:不特定の後妻のこと。]と夫婦になさん。」
と、一決して、八右衞門が方(かた)に寄(より)あつまり、
「其(その)もと[やぶちゃん注:二人称「そこもと」に同じ。]、近ごろ、かたち、衰へ、はなはだもつて、輕からず。病氣を問(とへ)ば、なやみもなし。實儀(じつぎ)なる其元なれども、木石(ぼくせき)ならぬ事なれば、心のうつる人もありや。必ず、隱し給ふな。」
と、皆、一同に問(とひ)かくれば、八右衞門は色をかへ、
「いかな、いかな、拙者におゐて左樣の心、さらさらなし。日外(いつぞや)より、おのおのがた、顏色、日々に衰ふると、立替(たちかは)りての御尋ね、『あら、心得ず』と思ひしが、いかさま、近比、あやしき事あり。申出(いだ)すも、いかゞなれども、淺からざる御眞実(ごしんじつ)、くはしくあかし申なり。おはづかしき事なれども、お龜相果(あいはて)申夜(よ)より、夢ともうつゝともなく、寐ると、其まゝ、お龜が來り、そひ臥すると覺へし事、昨夜まで廿日に及べり。『扨は。お龜が死したるを不便(ふびん)に思ふこゝろより出(いづ)る所の夢なるべし』と思ひなをして、臥(ふし)ぬれども、寸分(すんぶん)ちがはぬ夢のさま、夢は五臟の虚(きよ)といへども、顏色(かがんしよく)までもかはる事[やぶちゃん注:彼女の顏色が生きている人間と全く変わらないように微妙なところまで変化するのが現認できること(等を)。]、かたがた思ひ合(あは)すれば、『これ、たゞ事にあらず』と始(はじめ)て驚くばかりなり。」
一門どもも不審をなし、
「かゝる怪しき物がたり、すこしも延引すべからず。」
と、旦那寺(だんなでら)[やぶちゃん注:漢字はママ。]の和尚をまねき。しかじかのよし、いひのぶれば、和尚、しばらく考へて、
「此(この)妖怪に似たる事、いにしへも有(あり)しぞかし。八右衞門の顏色(がんしよく)も、のこらず死相をあらはせば、一命(めい)の終らん事、今明(こんみやう)日[やぶちゃん注:「にち」でよかろう。]にすくべからず。その證拠(しやうこ)を見すべきまゝ、お龜の墓をあばかるべし。」
と、皆、引連(ひきつれ)て、墓にいたり、掘(ほり)かへして、取出(とりいだ)せば、廿日に餘る屍(しかばね)の、埋(うづみ)し時のごとくなれば、和尚は、
「さこそあるべし。」
と、硯(すゞり)取りよせ、屍に、あき所なく、梵字(ぼんじ)を書付(かきつけ)、八右衞門を呼(よび)よせ、
「今夜は、お龜の屍を抱(いだ)きて、一夜(よや)をあかさるべし。子の刻に至りなば、かならず、怪しき事、あらん。驚くことなかれ。」
と、□□□おしへ、歸(かへ)らるれば、八右衞門は、これに隨(したが)ひ、暮六ツごろ[やぶちゃん注:定時法なら午後六~七時前まで、不定時法なら流れから夏と判るのでもっと遅く七時半から八時頃に相当する。]より、子(ね)の半刻(はんこく)[やぶちゃん注:午前零時或いは午前一時頃。]を待(まち)けるが、漸(やうやう)、亥(ゐ)を過ぎ、子[やぶちゃん注:午後十一時から午前零時。]にいたる。
今や、今や、とかんがヘみれど、虫の音(ね)ばかり、いとさびしく、何の怪しき事もなければ、
『あら、心得ず。』
と思ふ所に、抱(いだき)し亡者の屍(しかばね)より、手毬(てまり)のごとき火の玉、出(いで)て、いづくともなく飛行(とびゆき)けり。
『すハや。今ぞ。』
と、息をつめ、目(ま)たゝきもせず、居たりしが、半時(はんじ)[やぶちゃん注:一時間。]ばかりも過(すぎ)つるころ、火の玉、虚空(こくう)を飛歸(とびかへ)り、死人(しにん)の口に入(いる)ぞ、と見へしが、しだひしだひに、あたゝまり、眼(まなこ)をひらき、大息(おほいき)つぎ、
「今宵は夫(おつと)を伴ひ來り、我(わが)妄執をはらさんと、殘るかたなく尋ぬれども、夫をみず。」
と、ふりかへり、うしろを、
「きつ。」
と見、
「莞尓(につこ)。」
と笑ひ、
「御身はこゝに居(ゐ)給ふか。かほどに我を思(おぼ)し召(めし)、草(くさ)の陰(かげ)までつきそひ給ふ御心とは露しらず、恋しい夫を娑婆に殘し、外(ほか)の女にそはせんは、これ、我まよひの第一なれば、今夜は、是非に、いざなひ來り、ともに迷途(めいど)[やぶちゃん注:漢字はママ。]におもむかんと、宵より尋ね參らせし。最早、のぞみは、たりぬるぞ。」
と、いふとひとしく眼(まなこ)をふさぎ、屍(しかばね)、とくに[やぶちゃん注:「疾くに」。急速に。もう既にすっかり。]冷(ひへ)て、鷄(にはとり)の聲かすかに聞へ、寺々の鐘、八つ[やぶちゃん注:暁(あけ)八ツ。定時法なら午前二時。不定時法では夏なら午前一時半から午前二時頃。]を告(つぐ)れば、和尚、同宿(どうじゆく)、出來(いできた)り、八右衞門は、宵よりの始終をくはしく申上(あぐ)れば、手を打(うつ)て大(おほい)に悅び、
「我(われ)、さもあらんと思ひしゆへ、障礙(しやうげ)を除くの法を行ひ、汝が命(いのち)を救ひしぞ。」
と、ふたゝび埋(うづ)みて、佛事をなし、殘るかたなく吊(とふら)ひければ、其のち、何(なに)の障(さはり)もなかりし。
過去の緣(えん)とはいひながら、恐しかりし執着(しうぢやく)なり。
*
以上、一読、小泉八雲の再話の際の優れた再構成(というよりも「斧正」がいい)がよく判る。先の講談社学術文庫版の解説で、布村(ぬのむら)弘氏は、原話は『お亀の嫉妬心や独占欲をきわめて具体的な彼女の形象や言葉で描き、グロテスクな印象を与える』のに対し、『再話は、彼女の嫉妬心を、世間の人々の噂とし、お亀を美しくやさしい女として描いており、死してなお温い体温を保ち、生前さながらの笑みを浮かべていたという所で作品を結び、原話にあるような、亡者の火の玉の飛翔や死体が笑ったり、しゃべったりする箇所を割愛している』と述べておられ、まさに同感である。これこそが、小泉八雲特有の稀有の優しさなのである。但し、独立したものとして原話を読むと、事実らしさをどこかに持った、怪談としてのあらゆる必要十分条件の属性をほぼ完全に備えており、これはこれで優れた作品である。]
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