小泉八雲 蠅のはなし (大谷正信譯) 附・原拠
[やぶちゃん注:やぶちゃん注:本篇(原題“ Story of a Fly ”)は一九〇二(明治三五)年十月にニュー・ヨークのマクミラン社(MACMILLAN COMPANY)刊の“ KOTTŌ ”(来日後の第九作品集)の冒頭に配された“ Old Storie s”(全九話)の七番目に配されたものである。作品集“ KOTTŌ ”は“Internet Archive”のこちらで全篇視認でき(本篇はここから。但し、これは翌一九〇三年の再版本)、活字化されたものは“Project Gutenberg”のこちらで全篇が読める(本篇はここから)。
底本は上記英文サイト“Internet Archive”のこちらにある画像データをPDFで落し、視認した。これは第一書房が昭和一二(一九三七)年一月に刊行した「家庭版小泉八雲全集」(全十二巻)の第八巻全篇である。★【2025年3月24日底本変更・前注変更】時間を経て、国立国会図書館デジタルコレクションに本登録し、現行では、以上の第一書房版昭和六(一九三一)年一月に刊行した「學生版小泉八雲全集」(全十二巻)の第七巻が、国立国会図書館デジタルコレクションで公開されてある。(リンクは扉だが、「學生版」の文字はない。しかし、奥附を見て貰うと『學生版 【第二囘豫約】』とあり、『昭和六年一月十日 發行』とあることが確認出来る)、これが、前掲の底本と同じものであるが、やはり、外国のサイトのそれを底本とするのは、日本人小泉八雲に失礼であると考えた。されば、こちらで、再度、以下の「骨董」の作品群を改めて校正することとする。これが――私の小泉八雲への「義」――である。なお、之よりも前の元版の全集等が先行しているものの、私がそれらと比べた結果、実は先行する同社の「小泉八雲全集」のそれらは、訳が一部で異なっており、訳者等によって、かなりの補正・追加がされていることが、今回の正字補正作業の中で、はっきりと判って来た。いや、同じ「家庭版」と名打ったネット上の画像データでも、驚いたことに、有意に異なっていたのである。そうした意味でも――完全な仕切り直しの総点検――が必要であると決したものである。従って、旧前振りの括弧・鍵括弧の問題も、拡大とガンマ補正で確認し、正確を期する。新底本の本話はここから。
傍点「ヽ」は太字に代えた。挿絵は底本にはないが、原本では各話の前後に同じ絵がサイズを変えて配されてある。“Project Gutenberg”版にある最初に配された大きい方のそれを使用した。挿絵画家は既に述べた通り、佐賀有田の生まれの画家江藤源次郎(えとうげんじろう 慶応三(一八六七)年~大正一三(一九二四)年)である。但し、本底本最後の田部隆次氏の「あとがき」によれば、『マクミランの方でヘルンが送つた墓地の寫眞と「獏」の繪「獏」の繪の外に、當時在英の日本畫家伊藤氏、片岡氏などの繪を多く入れたので、ヘルンは甚だ喜ばなかつたと云はれる』とある。それを考えると、挿絵の多くは、スルーされた方が、小泉八雲の意には叶うと言うべきではあろう。
訳者大谷正信氏については、「小泉八雲 燒津にて 大谷正信譯」の私の冒頭注を参照されたい。
最後に原拠である「新著聞集」(寛延二(一七四九)年に板行された説話集。日本各地の奇談・珍談・旧事・遺聞を集めた八冊十八篇で全三百七十七話から成る。俳諧師椋梨(むくなし)一雪による説話集「續著聞集」という作品を紀州藩士神谷養勇軒が藩主の命によって再編集したものとされる)の「卷五」の「第十一執心篇」の「亡魂蠅(はい)となる」を電子化して添えた。]
蠅のはなし
二百年許り前に、京都に飾屋九兵衞といふ商人が居た。店は島原道の少し南の、寺町通といふ町にあつた。下女に――若狹の國生れの玉といふが居た。
[やぶちゃん注:後で示す原拠では『洛陽寺町通松原下ル町』となっており、これだと、現在の京都府京都市下京区植松町寺町通松原下るである(グーグル・マップ・データ。以下同じ)。「島原道」とは島原住吉神社及びその東直近の島原遊廓へ向かう道で、小泉八雲の謂いとは異なり、それらは上記の位置から西南西に二キロメートルほどの場所になる。小泉八雲が設定を変えた(変えた理由は不明)「寺町通」は鴨川の右岸直近の南北の通りで、「島原」へ向かう東西の道との交点を求めるとすれば、ここの右下部辺りになる。]
玉は九兵衞夫婦に深切に待遇されて居て、誠に二人を好いて居るやうに見えて居た。が、玉は他の女の子のやうに綺麗な著物を著ようとはしないで、休暇を貰ふと、美しい著物を數數貰つて居ながら、いつも仕事著を著て出るのであつた。五年許り九兵衞に奉公してからのこと、或る日九兵衞は、どうして身綺麗にしようと骨を折らぬのかと彼女に訊ねた。
玉はその問ひにこもつて居る非難に顏を赧らめて[やぶちゃん注:「あからめて」。]、恭しくかう答へた。
『私の雙親[やぶちゃん注:「ふたおや」。]が死にました時は、私はまだ小さな子供でありました。ところが他に子供がありませんでしたから、二人の爲めに法要を營むことが、私の義務になりました。其時分にはさうする程のお金を拵へることが出來ませんでした。然しそれに入用な金が儲けられたなら、早速二人の位牌を、常樂寺といふお寺へ置いて貰ひ、また法要を營んで貰はうと決心しました。それでその決心を果たすために、お金と著物とを節約しようと力めました[やぶちゃん注:「つとめました」。]。――自分の身のことを構はぬと、お氣付きになる程でありますから、餘り儉し過ぎて居るのかも知れません。然し、お話し申し上げました目的の爲めに、銀百匁許りの貯蓄がもう出來ましたから、此後はあなた樣のお前へ身綺麗にして出るやうに致しませう。これまでの懈怠と失禮とを、どうか御免し下さますやうお願ひ致します』
九兵衞はこの率直な自白に感心したので、その女に深切な言葉をかけで、その後、どんな著物を著ようと、自分の勝手だと思つてよいからと受合ひ、且つまた、その親孝行を賞めてやつた。
[やぶちゃん注:「常樂寺」原拠には「此辺なる常樂寺」とあるので、この小泉八雲の設定沿うなら、これはまず現在京都府京都市下京区花屋町通東中筋東入学林町にある浄土真宗常楽寺となろう。親鸞の玄孫である存覚(ぞんかく)が開いた寺で、寺町通から島原遊廓に向かう中間点にあるからである。但し、原拠の設定の松原だと、その少し北の京都府京都市中京区裏寺町通蛸薬師下る裏寺町に別に浄土宗の常楽寺があり、これも位置的にも現行地名(原拠は「寺町」設定)からも強い同定比定候補となる。というより、原拠には九兵衛の店の裏手を高瀬川(高瀬川(たかせがわ:江戸初期の慶長一六(一六一一)年に角倉了以・素庵父子によって京中心部と伏見を結ぶ物流用に開削された運河)が流れているとあるので、原拠のそれは後者である可能性が極めて高い。]
二人の此會話があつでから間も無く、下女の玉は、その雙親の位牌を常樂寺に置いて貰ひ、また相當な法要を營んで貰ふことが出來た。貯へた金のうち、斯くして七十匁費やした。そして殘り三十匁を、主人の妻に預つて置いて下さいと賴んだ。
[やぶちゃん注:「匁」は江戸時代の銀目(銀)の通貨単位。元禄一三(一七〇〇)年に金一両を銀六十目とする公儀が定めた相場が公布されている(但し、実態はほぼ完全に市場経済による変動相場であった)ので、それで換算するなら、お玉が貯めた銀百匁は一両二千六百七十文弱(一両=銀六十匁=(銭(胴)四千文)になる。「日本銀行金融研究所貨幣博物館」の資料によれば、江戸時代の平均的な米の値段で換算すると、一両は約四万円、大工の手間賃一両で三十万円から四十万円、外食の代表としての蕎麦の代金換算すると、一両は十二万円から十三万円となるというから、まず、最後の例で換算すれば、二十万円前後には相当しよう。]
ところが、翌冬の初めに玉は急に病氣になつた。そして暫時、煩つた舉句、元祿十五年(一七〇二年)正月の十一日に死んだ。九兵衞と妻とはその死を大いに悲しんだ。
[やぶちゃん注:「元祿十五年(一七〇二年)正月の十一日」グレゴリオ暦では二月七日。]
さて、それから十日許り後、非常に大きな蠅が一匹その家へ入つて來て、九兵衞の頭の𢌞りを飛び始めた。どんな蠅も、大寒中には大抵は出て來るものでは無いし、大きい蠅は暖かい季節でなければ滅多に目に當らぬものだから、九兵衞はこれに驚いた。その蠅があまりしつこく九兵衞を惱ますので、わざわざ捉へてそれを戶外へ放り出した、――其間少しもその蠅を痛めぬやうにして。それは九兵衞は佛敎の篤信者であつたからである。直ぐ蠅は戾つて來た。そしてまた捉へられて又投げ出された。が、又入つて來た。九兵衞の妻はこれを奇異な事に思つた。『玉ぢやないか知ら』と言つた。〔死んだ者――殊に餓鬼の境涯へ入る者は時時、蟲の姿になつて戾つて來るから〕九兵衞は笑つて答へた。「目印をつけたら分るだらう』そこで、その蠅を促へて、極く少し許り翅の兩端を鋏で切つて――さうして、家から餘程離れた處へ持つて行つて放した。
[やぶちゃん注:外国人読者は全く気づかないが、元禄時代は第五代将軍徳川綱吉の治世であるから、普通の日本人ならば、九兵衛が蠅を殺さないのは、かの「生類憐れみの令」の影響だと読むだろう(何度入って来ても家人(駆除するならば、下男下女の方が自然)が打ち殺すことをしないのは、そちらの方が近かろう)。なお、既に注で述べたが、同法令の類の最初の町触れは貞享四(一六八七)年十月十日とされているが、実際には貞享三年以前から同様の政策は開始されていた。
「餓鬼の境涯へ入る者は時時、蟲の姿になつて戾つて來る」厳密には人間以外の鳥獣虫魚は畜生道への転生となるが、現世の人間界にいるそれらも転生したと考えるから、六道輪廻の思想からは問題はない。但し、餓鬼道からの現世への転生でしばしば虫になってやってくるというのは、あって当然ではあるが、特に虫のそれを説いた説を私は寡聞にして知らない。思うに、農作物を荒らす虫類を駆除した後、その虫の霊を弔うために行われた「虫供養」、或いはこれは「虫施餓鬼」などとも呼ばれであろうと私は推理し、それを聴いた小泉八雲が「虫」と「餓鬼」の連関性を感じてかく述べているとも感ずる。尤も、餓鬼道に落ちた者は餓え続けることを絶対属性とするから、農作物を有意に時に深刻に徹底的に貪る虫は餓鬼と強い親和性はあるから、違和感は全くない。また、或いは、民間の伝承に、餓鬼道から現生への輪廻転生先は虫に相場が決まっている、というような謂いがあったとしても、それはそれで腑には落ちる。なお、終わりの私の注の最後も是非、参照されたい。]
翌日歸つて來た。それが歸つて來たことに、何等靈的な意義があるかどうか、九兵衞はなほ疑つて居た。又もそれを捉へて、その翅と軀とに紅を塗り、前よりもずつと家から遠い處へ持つて行つて放した。ところが二日經つと、全身眞紅の儘で戾つて來た。そこで九兵衞は疑はなくなつた。
『玉だと思ふ』と彼は言つた『何か欲しいものがあるのだ。――何が欲しいのだろう』
その妻が答へて言ふに、
『私は玉の貯蓄の三十匁をまだ有つて居ます。自分の魂の爲めに供養を營むやうに、その金をお寺へ納めて貰ひたいのでせう、玉はいつも後生を氣づかつて居ましたから』
さう話して居るうちに、その蠅が、そのとまつて居た障子から下へ落ちた。九兵衞が拾ひ上げて見たら、死んで居つた。
其處で夫婦は早速、お寺へ行つて、その娘の金を寺僧に納めようと決心した。二人はその蠅の屍骸を小箱に入れて、それを携へて行つた。
お寺の主僧自空上人は、その蠅の話を聞かれると、九兵衞夫妻は正しい取計ひをしたと明言された。それから自空上人は、玉の魂の爲めに施餓鬼を營まれ、蠅の遺骸に對して、妙典八卷を誦された。そして蠅の遺骸の入つて居る箱は、お寺の境內へ埋められて、適當な銘の書いてある卒塔婆が一基、その上へ建てられた。
[やぶちゃん注:「自空上人」不詳。時宗の第十一代遊行上人に同名の人物がいるが、室町時代の僧であり、時代も宗派も合わないから違う。以下の原拠では「深草(ふかくさ)の通西軒(つうさいけん)自空(じくう)上人」とあるが、これで調べてもネットでは掛かってこない。深草では近くの寺にならないが、結局これは、小泉八雲が以下に示す原話の妙にごちゃついた後半の法会(ほうえ)部分(僧侶が二人も出てきて(使いの僧も入れると三名の名が記されていて頗る煩雑)、しかも、この両寺院は宗派が異なるのである)をすっきりさせたために生じた齟齬なのであって、特に拘る必要はないのである。
以下、「新著聞集」の「卷五」の「第十一執心篇」の「亡魂蠅(はい)となる」を示す。底本は実際の小泉八雲旧蔵の原本の画像(富山大学「ヘルン文庫」のこちらで丸ごと総てをダウン・ロード出来る)に拠った。段落形成と記号・句読点・濁点を附し、踊り字「〱」は正字化した。歴史的仮名遣の誤りはそのままとした。
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兦䰟(ぼうこん)蝿(はい)となる
洛陽寺町通松下ル町に飾屋(かざりや)兵衞といふ者の召(めし)つかひに玉(たま)といふ女あり。生國は若狹の者なり。四、五ケ年奉公(ほうこう)つとめしに、しかじか、衣類(いるい)など、持(もた)ざりければ、主人も心にくゝおもひ、ある時、尋しに、
「されば、幼年(よふねん)のころ、父母(ふぼ)ともにはかなく成(なり)けるが、我身(わがみ)より外、跡弔(あととふら)ふべき人もなければ、此辺(へん)なる常樂寺(じやうらくじ)に位牌(いはい)を立(たて)、忌日(きにち)ごとに供養(くやう)をなしたき志願(しぐはん)て、何事も心にまかせず、くらし候ひしが、最早(もはや)百目ほどの銀を用意せし。」
と申ければ、主人も、
「下賤(げせん)の身として奇特(きどく)なる志(こゝろざし)かな。」
とて、隨喜し、扨(さて)[やぶちゃん注:そのまま。やがて。]、かの寺へ二靈(れい)の位牌(ゐはい)をたて、資堂料(しだふれふ)とて、銀七十目、おさめぬ。殘りし銀をば、主人の妻(さい)にあづけ置(をき)し。
かくて、玉(たま)、過(すぎ)し冬のころより、惱(なやみ)けるが、病(やまひ)も、おもりければ、宇治の辺(へん)に伯母(をば)なりし者の方へ引(ひき)こし、醫療(いれう)を加(くは)へしかども、叶(かなは)で、元祿十五年正月十一日に身まかりし。
主人のもとへも、此よし、通じければ、不便(ふびん)の事におもひし。
然るに、二月へ入り[やぶちゃん注:グレゴリオ暦では旧暦二月一日は二月二十七日で、二月が二日を除いて既に三月である。]、いまだ時節(じせつ)もいたらず、殊にいつもよりも餘寒(よかん)つよきに、尋常(よのつね)見なれしよりも、ひときは大なる蝿(はい)一ツ飛(とび)來り、九兵衞夫婦(ふうふ)があたりをのみ、飛(とび)まわりければ、うるさく覚へ、痛(いた)まぬやうに捕(とら)へて他(た)へはなちやるに、中二日程(ほど)すぎて、歸りければ、かさねては裏(うら)なる高瀨川(たかせがは)のあなたへ放(はな)しけるに、又、皈(かへ)りぬ。
されば、家內(かない)の者(もの)ども、
「これは。玉(たま)が兦䰟(ぼうこん)ならん。」
と口ずさみければ、主人もあやしき事におもひ、
「心だめしにせん。」
とて、羽先(はさき)を少し切(きり)て、所(ところ)を隔(へだ)て放しやるに、此蝿(はい)、又、皈(かへ)りけり。
あまりの不思議(ふしぎ)さに。此たびは、かたちを紅(べに)に塗(ぬり)て放(はな)ちけるに、印(しるし)きへずして、又、皈(かへ)りければ、今は、夫婦(ふうふ)の者も興(けう)ざめて、とやかく思(をも)ひはかるに、『日外(いつぞや)あづけし銀の事をおもひ出し、是に執着(しつちやく)せしものか』、亦(また)は『追善(ついぜん)など、うけんが爲か』、兎(と)に角(かく)、不便(ふびん)におもひ、
「いかゞせん。」
と思慮(しりよ)するに、伯母(をば)は後世(ごせ)の道には疎(うと)き者(もの)の樣に常々(つねづね)語(かた)りしかば、
「その者の爲(ため)なれば、右の銀をば、貴(たつと)き寺へも上(あ)げ、回向(えかう)をこひ、然るべし。」
とて、日比、歸依し奉る事なれば、深草(ふかくさ)の通西軒(つうさいけん)自空(じくう)上人と、又は、亡者(もうじや)の宗門(しうもん)なれば、同じ山の瑞光寺(ずいくはうじ)慈明(じみやう)上人と、此兩寺へおさめ奉り、
「事の子細(しさい)を具(つぶさ)に申上よ。」
とて、二月廿八日、九兵衞が弟(をとゝ)勘(かん)右衞門へ申ふくめ、
「幸(さいはひ)、明日は四十九日にあたりければ。」
とて、
「今、まいれ。」
とて申渡しける處に、今まで、飛(とび)まはりける蝿(はい)、何としてかは、目前(もくぜん)にて自滅(じめつ)しければ、みな一同に、おどろき、いよいよ奇異(きゐ)のおもひをなし、これをも箱に入れて、通西軒へ持參し、始終を語れば、律師もあはれに思(おぼ)し召(めし)、蝿(はい)に加持土砂(かぢどしや)をふりかけさせたまひ、施餓鬼(せがき)など、ねんごろに修(しゆ)し、右の信施(しんせ)は永々(えいえい)の資堂(しだう)にぞ入れさせけり。
扨(さて)、瑞光寺(ずいくわうじ)の上人ヘは、法義(ほうぎ)異(こと)なれ共、年來(ねんらひ)の親切(しんせつ)なれば、この蝿(はい)をつかはし、
「供養をうけさせ然るべし。」
とて、淨人(じやうにん)惠雲法師(えうんほうし)、承り、持參申されければ、妙典八軸(みやうてんはちぢく)、讀誦(どくじゆ)したまひ、則(すなはち)、山上へ法のごとくに葬(ほふむら)せたまひ、率都婆(そとば)など立(たて)させ、翌(よく)日も又、回向(えかう)の爲にとて、此所へ來たまふに、塔婆(たうば)の際(きは)に、深(ふか)ふして、細(ほそ)き穴(あな)、ありければ、上人も不思議(ふしぎ)に覚へ、掘(ほら)せらるに、昨日、埋(うめ)させられし蝿(はえ)、無(なか)りけり。
實(まこと)に兩大德(だいとく)の追善(ついぜん)により、速疾(そくしつ)、生天(せふてん)せしものと、有がたくこそ侍(はべ)りし。
其後。九兵衞、深草(ふかくさ)へ來り、
「廿八日以來、蝿(はい)來らず。かへすがへすも希有(けう)の事にてありし。」
と語りけるとなり。
*
「瑞光寺」京都市伏見区深草坊町に日蓮宗瑞光寺がある。
「慈明上人」不詳。
「加持土砂(かぢどしや)」一般には、密教に於いて、土砂を洗い清め、護摩を修し、本尊の前で光明真言を誦して行う加持を指す。その土砂を病者に授ければ、苦悩が除かれ、硬直した死体の上にまけば、柔軟になり、墓にまけば、罪過が消えるとされる。ここは、その加持を施した土砂。
「淨人」僧職の一つ。寺に住むが、出家をせずに僧たちに仕えて庶務を行う者を指す。
「惠雲」不詳。浄土宗西山(せいざん)派に同名の僧がいるが、元禄一二(一六九九)年に没しているので違う。
さて、ちょっと脱線なのだが、こことは逆に、虫が人に転生する話があり、私が大好きなのが、「今昔物語集」の「卷第十四」の「越中國僧海蓮持法花經知前世報語第十五」(越中の國の僧海蓮、「法花經」を持して前世の報(むくい)を知る語(こと)第十五)で、これは抹香臭い退屈なものが多い同書の仏法篇の中でも、恐らく、最もよく知られている面白い、しみじみとした一話である。短いので、以下に示す。
*
今は昔、越中の國に海蓮と云ふ僧、有りけり。
若くより法花經を受け習ひて、日夜に讀誦する間、「序品(じよぼむ)」より「觀音品(くわんおんぼむ)」に至るまで、廿五品は暗(そら)に思(おぼ)えて誦しけり。
「殘りを、三品を年來(としごろ)思(おぼ)えむ。」
と爲(す)るに、更に思えざりけり。然(しか)れば、此の事を歎きて、立山(たちやま)・白山(しらやま)[やぶちゃん注:加賀の白山(はくさん)。]に參りて祈請(きしやう)す。亦、國々の靈驗所(れいげむじよ)に參りて祈り申すに、尙、思えず。
而る間、海蓮、夢に、菩薩の形なる人、來て、海蓮に告げて云はく、
「汝(なむ)ぢ、此の三品を暗に思えざる事は、前世の宿因に依りて也。汝ぢ、前生(ぜんしやう)に蟋蟀(きりぎりす)[やぶちゃん注:現在のコオロギのこと。]の身を受けて、僧房の壁に付きたりき。其の房に、僧、有りて、「法花經」を誦す。蟋蟀、壁に付きて經を聞く間、「一の卷」より「七の卷」に至るまで誦し畢(をへ)つ。「八の卷」が初(はじめ)[やぶちゃん注:「観世音普門品第二十五」を指す。]一品を誦して後(のち)、僧、湯を浴みて、息(やす)まむが爲に壁に寄り付くに、蟋蟀の、頭(かしら)に當りて、壓し殺されぬ。「法花」の廿五品を聞きたる功德(くどく)に依りて、蟋蟀の身を、轉じて、人と生れて、僧と成りて、「法花經」を讀誦す。三品をば聞かざりしに依りて、其の三品を暗に思ゆる事、無し。汝ぢ、前生の報(むくい)を觀じて、吉(よ)く「法花經」を讀誦して、菩提を期(ご)すべし[やぶちゃん注:菩提心を無条件で信じてそれに専念せよ。]。」
と宣(のたま)ふ、と見て、夢、覺めぬ。
其の後、海蓮、本緣を知りて、彌(いよい)よ心を至して「法花經」を讀誦し、佛道を願ひて、懃(ねむご)ろに修行しけり。
海蓮、天祿元年[やぶちゃん注:九七〇年。]と云ふ年、失せにけり、となむ語り傳へたるとや。
*]
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