小泉八雲 貉 (戸川明三訳) 附・原拠「百物語」第三十三席(御山苔松・話)
[やぶちゃん注:本篇(原題“MUJINA”)は明治三七(一九〇四)年四月にボストン及びニュー・ヨークの「ホートン・ミフリン社」(BOSTON AND NEW YORK HOUGHTON MIFFLIN COMPANY)から出版された、恐らく小泉八雲の著作の中で最も日本で愛されている作品集「怪談」(原題“KWAIDAN: Stories and Studies of Strange Things”。来日後の第十作品集)の第八番目に配されてある、本作中、恐らく最も人口膾炙したものであろう。なお、小泉八雲はこの年の九月二十六日に五十四歳で心臓発作により急逝した。
同作品集は“Internet Archive”のこちらで全篇視認でき(本篇はここから。)、活字化されたものは“Project Gutenberg”のこちらで全篇が読める(本篇はここ)。
底本は上記英文サイト“Internet Archive”のこちらにある画像データをPDFで落とし、視認した。これは第一書房が昭和一二(一九三七)年一月に刊行した「家庭版小泉八雲全集」(全十二巻)の第八巻全篇である。
戸川明三は英文学者で評論家としても知られる戸川秋骨(明治三(一八七一)年~昭和一四(一九三九)年)の本名である。彼の著作権は既に満了している。本ブログ・カテゴリ「小泉八雲」では、彼が訳した小泉八雲の遺作となった大作「神國日本」(“Japan: An Attempt at Interpretation”)を全電子化注している。]
貉
東京の、赤坂への道に紀國坂といふ坂道がある――これは紀伊の國の坂といふ意である。何故それが紀伊の國の坂と呼ばれて居るのか、それは私の知らない事である。この坂の一方の側には昔からの深い極はめて廣い濠(ほり)があつて、それに添つて高い緣の堤が高く立ち、その上が庭地になつて居る、――道の他の側には皇居の長い宏大な塀が長くつづいて居る。街燈、人力車の時代以前にあつては、その道は夜暗くなると非常に寂しかつた。ためにおそく通る徒步者は、日沒後に、ひとりでこの紀國坂を登るよりは、むしろ幾哩も𢌞り道をしたものである。
これは皆、その道をよく步いた貉のためである。
[やぶちゃん注:「貉」現代では、食肉目イヌ型亜目クマ下目イタチ小目イタチ上科イタチ科アナグマ属アジアアナグマ Meles leucurus(ユーラシア大陸中部(中央部を除く)に広く分布)及び本邦固有種ニホンアナグマ Meles anakuma に同定する。本邦の民俗社会では古くからタヌキ(=イヌ科タヌキ属亜種ホンドタヌキ Nyctereutes procyonoides viverrinus )やハクビシン(食肉目ネコ型亜目ジャコウネコ科パームシベット亜科ハクビシン(白鼻芯)属ハクビシン Paguma larvata )を指したり、これらの種を区別することなく、総称する名称として使用することが多いが、前者との混淆はいいとして、後者ハクビシンは私は本来、本邦には棲息せず、後代(江戸時代或いは明治期)に移入された外来種ではないかと考えているので含めない。なおまた、アナグマは、しばしばタヌキにそっくりだとされるが、私は面相が全く違うと思う。アナグマについては、私の「和漢三才圖會卷第三十八 獸類 貉(むじな) (アナグマ)」を参照されたいが、ここで小泉八雲が用いている「むじな」は、動物学上の呼称ではなく、近代まで考えられていた民俗社会に於いて、人に化け、驚かしては騙すと考えられていた魔魅の妖獣で、狐は除外したところの、妖怪としての狸(動物としては上記のホンドタヌキ)又は混同視されていた穴熊(動物しては上記のニホンアナグマ)の俗称である。「狢」とも書く。小学館「日本大百科全書」の「狢」によれば、以上の二種は妖怪視されることが多く、化けて人を騙したり、山道を歩いていると、砂をまき掛けたりするほか、高僧になりすまして逆に犬に噛み殺された話や、近代でも、汽車に化けて本当の汽車にひき殺された話などがある。人を化かす点では妖獣としての狐と同じであるが、どこか憎めないところがある。『関東から東北にかけて』、十月十日の『十日夜(とおかんや)の藁(わら)鉄砲を「狢ばったき」といい、狢追いをする。福井県の一部では、小(こ)正月に青年たちが狢狩りという予祝行事をしたという』とあるのが、ここでのそれとしての説明に相応しいかと思う。
「紀國坂」(きのくにざか)は「紀伊国坂」「紀之国坂」「紀ノ国坂」とも表記する。現在の東京都港区元赤坂一丁目から旧赤坂離宮の外囲堀端を喰違見附まで上る坂で、「赤坂」「茜坂(あかねざか)」などとも呼ばれる。小泉八雲は坂の命名は知らないとするが、これは坂の西側に紀州藩上屋敷があったことに由るものである。ここ(グーグル・マップ・データ)。
「皇居」原文は“an imperial palace”。現行の赤坂御所の赤坂御料地を指しており、前注で示した通り、ここが、もとの紀州徳川家上屋敷(紀州藩赤坂藩邸)であった。江戸切絵図(国立国会図書館デジタルコレクションの画像)では、ここの左端に「紀伊国坂」とある。
「哩」は「マイル」。一マイルは千六百九メートル。]
貉を見た最後の人は、約三十年前に死んだ京橋方面の年とつた商人であつた。當人の語つた話といふのはかうである、――
[やぶちゃん注:「約三十年前」本書は明治三七(一九〇四)年四月刊行であるから、機械換算で一八七四年、明治七年没となり、ロケーション時制は話柄から幕末期となる。冒頭注に示した通り、汽車に化けるとあるように、狐狸に化かされるというのは文明開化もなんのその、近代まで続いた特異的に息の長い都市伝説(urban legend)で、河童と並ぶ生き残り妖怪の一種である。現在、都市部では流石に潰滅してしまったが、狐火は今も地方では現存している。
「京橋」は現在の東京駅の東のここで(グーグル・マップ・データ)、以下のロケーションからは、それが店へ戻るのだとするなら、明らかに位置関係がおかしい。無論、この商人が、この恐怖体験をした頃には四谷・新宿辺り(紀国坂上の北或い西)にお店(たな)を持っていたか、妾(めかけ)の家がそこにあったかしたものならば、これ、問題はない。……はて?……でなかったら? 京橋にやっぱりお店があったとしたら?……既にして彼は「貉」に化かされていて、自分のお店とは……反対方向に……せっせと……紀国坂を登らされていたのでは?……なんて、ね!……]
この商人が或る晚おそく紀國坂を急いで登つて行くと、只ひとり濠(ほり)の緣(ふち)に踞(かが)んで、ひどく泣いて居る女を見た。身を投げるのではないかと心配して、商人は足をとどめ、自分の力に及ぶだけの助力、若しくは慰藉を與へようとした。女は華奢な上品な人らしく、服裝も綺麗であつたし、それから髮は良家の若い娘のそれのやうに結ばれて居た。――『お女中』と商人は女に近寄つて聲をかけた――『お女中、そんなにお泣きなさるな!……何がお困りなのか、私に仰しやい。その上でお助けをする道があれば、喜んでお助け申しませう』(實際、男は自分の云つた通りの事をする積りであつた。何となれば、此人は非常に深切な男であつたから。)しかし女は泣き續けて居た――その長い一方の袖を以て商人に顏を隱して。『お女中』と出來るだけやさしく商人は再び云つた――『どうぞ、どうぞ、私の言葉を聽いて下さい!……此處は夜若い御歸人などの居るべき場處ではありません! 御賴み申すから、お泣きなさるな!――どうしたら少しでも、お助けをする事が出來るのか、それを云つて下さい!』徐ろに女は起ち上つたが、商人には背中を向けていた。そして其袖のうしろで呻き咽びつづけて居た。商人はその手を輕く女の肩の上に置いて說き立てた――『お女中!――お女中!――私の言葉をお聽きなさい。只一寸でいいから!……お女中!――お女中!』……するとそのお女中なるものは向きかへつた。そして其袖を下に落し、手で自分の顏を撫でた――見ると目も鼻も口もない――きやッと聲をあげて商人は逃げ出した。
一目散に紀國坂をかけ登つた。自分の前はすべて眞暗で[やぶちゃん注:「まつくらで」。]何もない空虛であつた。振り返つて見る勇氣もなくて、ただひた走りに走りつづけた舉句、やうやう遙か遠くに、螢火の光つて居るやうに見える提燈を見つけて、其方に向つて行つた。それ道側(みちばた)に屋臺を下して居た賣り步く蕎麥屋の提燈に過ぎない事が解つた。しかしどんな明かりでも、どんな人間の仲間でも、以上のやうな事に遇つた後には、結構であつた。商人は蕎麥賣りの足下に身を投げ倒して聲をあげた『あ〻!――あ〻!!――あ〻!!!』……
『これ! これ!』と蕎麥屋はあらあらしく叫んだ、『これ、どうしたんだ? 誰れかにやられたのか?』
『否(いや)!――誰れにもやられたのではない』と相手は息を切らしながら云つた――『ただ……あ〻!――あ〻!』
『――只おどかされたのか?』と蕎麥賣りはすげなく問うた『盜賊(どろぼう)にか?』
『盜賊(どろぼう)ではない――盜賊(どろぼう)ではない』とおぢけた男は喘ぎながら云つた『私は見たのだ……女を見たのだ――濠の緣(ふち)で――その女が私に見せたのだ……あ〻! 何を見せたつて、そりや云へない』……
『へえ! その見せたものはこんなものだつたか?』と蕎麥屋は自分の顏を撫でながら云つた――それと共に、蕎麥賣りの顏は卵のやうになつた……そして同時に燈火は消えてしまつた。
[やぶちゃん注:これは所謂、妖怪「のっぺらぼう」であるが、小泉八雲はその語は全く用いていない。「のっぺらぼう」についてはウィキの「のっぺらぼうが」がよく纏まっているので見られたい。
原拠は增子和男氏の論文「のっぺらぼう考(上)――中國古典文學の視點から――」(PDF)によれば、明治二七(一八九四)年七月、東京の扶桑堂刊の、町田宋七(書肆である扶桑堂の主人)編「百物語」(全一冊・活字本)の「第三十三席」の話者「御山苔松」の話に基づくと考えられている(同書は小泉八雲旧蔵本にある)。また、同論文にも記されているが、東峰夫氏は、私も所持する「百物語の百怪」(二〇〇一年同朋舎刊)で、本「百物語」は明治二五(一八九二)年十一月に浅草の料亭「奧山閣」で催された百物語の会で語られたものに基づくことはほぼ確実であろうと指摘しておられるのである。【2019年11月7日:以下を改稿】幸い、增子氏の論文にはそれが正字で全文載っているので、それを視認して、以下に電子化しておく。一部の読みは、講談社学術文庫一九九〇年刊小泉八雲著・平川祐弘編「怪談・奇談」で活字化されている(但し、新字体)「ヘルン文庫」版のそれで補った(一部の読みは歴史的仮名遣や不審さから、そちらを採った箇所もある)。今回、小泉八雲が原拠としたものと同一の出版物と考えて間違いない「百物語」を国立国会図書館デジタルコレクションで発見したので、それで新ためて校合し、加えるべき修正を施した。但し、出版年も出版社及び編輯・発行・印刷者は確かに町田宗七であるが、以上の書誌にない著者が示されており、「条野採菊」著とする(但し、画像のどこにもそれは書かれてはいない。しかし国立国会図書館がかく書誌する以上、本作の真の編著者は彼と採って間違いあるまい)。ウィキの「条野採菊」によれば、条野採菊(じょうのさいぎく 天保三(一八三二)年~明治三五(一九〇二)年)は幕末から明治中期の東京の戯作者・ジャーナリスト・実業家・作家・劇評家。本名は条野伝平。号に山々亭有人(さんさんていありんど)・採菊散人・朧月亭・朧月亭有人・弄月亭有人など。何よりも画家鏑木清方の実父である。しかも彼は明治二五(一八九二)年十一月に、『三遊亭円朝・五代目尾上菊五郎・三遊亭円遊・田村成義らを集めて、百物語を主宰した』とあり、上に述べた浅草の料亭「奧山閣」で催された百物語の会と、この記載がと完全に一致することから、以上は最早、間違いないと断言出来るである。なお、当該話の画像はここからである。読点が少なく、やや読み難いかとも思われるので、適宜、読点を補い、会話記号も入れ、また段落も成形した。読みは私が振れると判断したもののみに限った。踊り字「〱」は正字化した。なお、話者「御山苔松」は不詳。但し、增子氏の注にもある通り、これは「おやま(の)たいしやう」(御山の大将)の捩(もじ)りで、話のオチと同じく、人を食った落語的芸名である。
*
第三十三席 御山苔松
拙者の宅に年久しく仕へまする佐太郞といふ實直な老僕が御坐りますが、この男が若い時に遭遇した話しださうで御坐いますが、或日のこと、赤坂から四谷へ參る急用が出來ましたが、生憎、雨は降(ふり)ますし、殊に夜中の事で御坐いますから、ゾットいたしません次第で御坐いますが、急用ゆゑ、致方(いたしかた)なく、スタスタとやツて參り、紀の國坂の中程へ差掛(さしかか)ツた頃には、雨は車軸を流すが如くに降(ふつ)てまゐり、風さへ俄(にはか)に加はりまして、物凄きこと、言はむ方も御坐りませんから、なんでも早く指(さ)す方[やぶちゃん注:目的地の方。]へまゐらうと、飛ぶが如くに駈出(かけだ)しますと、
「ポン。」
ト、何やら、蹴附(けつけ)たものがありますから、
「ハツ。」
ト、思ツて、提燈を差し付(つけ)て見ると、コハ如何(いかに)、高島田にフサフサと金紗(きんしや)をかけた形姿(みなり)も賤しからざる一人(ひとり)の女が仰向(うつむけ)に屈(かが)んで居りますから、驚きながらも、
「貴女(あなた)どうなさいました。」
ト、聞(きく)と、仰向(うつむい)たまゝ、
「持病の癪(しやく)が起りまして。」
といふから、
「ヲゝ、夫(それ)ハ嘸(さぞ)かし、お困り。ムゝ、幸ひ、持合(もちあは)せの薄荷(はつか)がありますから差上ませう。サヽ、お手をお出しなさい。」
と言ふと、
「ハイ、誠に御親切樣(さま)に、ありがたう御坐います。」
と禮を述(のべ)ながら、
「ぬッ。」
と上(あげ)た顏を見ると、顏の長さが、二尺もあらうといふ化物(ばけもの)、
「アツ。」
と言(いつ)て逃出(にげだ)したのなんのと、夢中になッて、三、四町[やぶちゃん注:約三百二十七~四百三十六メートル。]もまゐると、向ふの方から、
「蕎麥うわウイー、チン、リン、リン。」[やぶちゃん注:踊り字「〱」は「リン」の後にある。かく採った。]
と、一人の夜鷹蕎麥屋(たかそばや[やぶちゃん注:「夜」にはルビがない。])がまゐりましたから、
「ヤレ、嬉しや。」
と、駈寄(かけよつ)て、
「そゝ、蕎麥屋さん、助けてくれ。」
ト申しますと、蕎麥屋も驚きまして、
「貴郞(あなた)、ト、ど、如何(どう)なさいました。」
「イヤ、もう、どうのかうのと言(いつ)て、話しにはならない化物に、此先(このさき)で遭ひました。」
「イヤ。夫(それ)は夫は。シテ、どんな化物で御坐いました。」
「イヤ、モ、どんなと言(いつ)て、眞似も出來ません、ドヾ、どうか、ミ、水を、一杯下さい。」
ト言ふと、
「お易い御用。」
と、茶碗へ水を汲(くん)でくれながら、
「モシ。その化物の顏ハ、こんなでハ、御坐いませんか。」
ト、言ッた、蕎麥屋の顏が、また、貳尺。
今度は、
「あツ。」
と言(いつ)た儘(まゝ)、氣を失ツてしまひまして、時過(ときすぎ)て、通りかゝツた人に助けてもらひましたが、後(のち)に聞(きゝ)ますると、それハ、御堀に栖む瀨(かはうそ)の所行(しはざ)だらうといふ評判で御坐いましたが、この說話(はなし)は、決して「獺(うそ)の皮」ではないさうで、御坐います。
*
さて、では、これは近代の落語的作話かというと、決してそうではない。実は本話に酷似した怪談(特に所謂、〈再度の怪〉形式の部分)は、延宝五(一六七七)年一月に、京都の松永貞徳直系の貞門俳人荻田安静(おぎたあんせい)の編著になる京の知られた書肆西村九郎右衛門から板行された怪談集「宿直草(とのゐぐさ)卷一 第三 武州淺草にばけ物ある事」や(私の全篇電子化注の一つ)、その直後の延宝五(一六七七)年四月に京都で板行された、百話完備の唯一の百物語系怪談本のごく初期の作品集である「諸國百物語」(著者未詳。私はこれはこちらで全電子化注を終えている)の「卷之一 十九 會津須波の宮首番と云ふばけ物の事」に既に見出せるのである。しかも、この同じ奇怪な顔に遭遇するという構造が怪奇譚として非常に好まれ、〈再度の怪〉ならぬ、〈再話の怪〉談として連綿と怪談史の中に続いていることが、例えば、五十五年後の、三坂春編(みさかはるよし)が記録した会津地方を中心とする奇譚を蒐集したとされる寛保二(一七四二)年の序の「老媼茶話巻之三 會津諏訪の朱の盤」などによって(これも私の全篇電子化注の一つ)、盛んに再生産されていることが知れるのである。されば、この小泉八雲の「貉」の淵源も、遙かに溯ることが確実に出来ると私は思うのである。
なお、真正の「のっぺらぼう」(目鼻口のない妖怪)の濫觴と思しきものは、增子の論文によれば、寛文三(一六六三)年(第四代将軍家綱の治世)の開板とされる「曾呂利(そろり)物語」の「御池町の化け物の事」(巻四の二)に、『「のっぺらぼう」と明記こそされぬものの、その先驅けとも見なしうる 化け物が登場する』とし(図有り)、『白きもの着たる坊主、丈七尺ばかりなるが、目、鼻、口もなきが、唐臼(からうす)を踏み、後に三人の方へ顏を向けける』と引用されておられるのが古い。]
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