小泉八雲 靑柳のはなし (田部隆次譯) 附・原拠「多滿寸太禮」の「柳情靈妖」
[やぶちゃん注:本篇(原題“ THE STORY OF AOYAGI ”)は明治三七(一九〇四)年四月にボストン及びニュー・ヨークの「ホートン・ミフリン社」(BOSTON AND NEW YORK HOUGHTON MIFFLIN COMPANY)から出版された、恐らく小泉八雲の著作の中で最も日本で愛されている作品集「怪談」(原題“ KWAIDAN: Stories and Studies of Strange Things ”。来日後の第十作品集)の十二話目である。なお、小泉八雲はこの年の九月二十六日に五十四歳で心臓発作により急逝した。
同作品集は“Internet Archive”のこちらで全篇視認でき(リンク・ページは挿絵と扉標題。以下に示した本篇はここから。)、活字化されたものは“Project Gutenberg”のこちらで全篇が読める(本篇はここ)。
底本は上記英文サイト“Internet Archive”のこちらにある画像データをPDFで落し、視認した。これは第一書房が昭和一二(一九三七)年一月に刊行した「家庭版小泉八雲全集」(全十二巻)の第八巻全篇である。★【2025年3月29日底本変更・前注変更】時間を経て、国立国会図書館デジタルコレクションに本登録し、現行では、以上の第一書房版昭和六(一九三一)年一月に刊行した「學生版小泉八雲全集」(全十二巻)の第七巻が、国立国会図書館デジタルコレクションで公開されてある。(リンクは扉だが、「學生版」の文字はない。しかし、奥附を見て貰うと『學生版 【第二囘豫約】』とあり、『昭和六年一月十日 發行』とあることが確認出来る)、これが、前掲の底本と同じものであるが、やはり、外国のサイトのそれを底本とするのは、日本人小泉八雲に失礼であると考えた。されば、こちらで、再度、以下の「骨董」の作品群を改めて校正することとする。これが――私の小泉八雲への「義」――である。なお、之よりも前の元版の全集等が先行しているものの、私がそれらと比べた結果、実は先行する同社の「小泉八雲全集」のそれらは、訳が一部で異なっており、訳者等によって、かなりの補正・追加がされていることが、今回の正字補正作業の中で、はっきりと判って来た。いや、同じ「家庭版」と名打ったネット上の画像データでも、驚いたことに、有意に異なっていたのである。そうした意味でも――完全な仕切り直しの総点検――が必要であると決したものである。従って、旧前振りの括弧・鍵括弧の問題も、拡大とガンマ補正で確認し、正確を期する。本作はここから。
田部隆次(たなべりゅうじ 明治八(一八七五)年~昭和三二(一九五七)年)氏については先に電子化した「人形の墓」の私の冒頭注を参照されたい。
作中の和歌は孰れもポイント落ちであるが、本文と同ポイントで示し、少し上に上げた。漢詩の訳注は作品の最後に、字下げポイント落ちで附されてあるが、漢詩の後に同ポイントで示した。
最後に示した原拠である「玉すだれ」或いは「多滿寸太禮」は、辻堂非風子(詳細事蹟不祥)作で、元禄一七(一六九四)年序の浮世草子怪談集。全七巻。明代の志怪小説「剪燈新話」・「剪燈余話」からの翻案を多く収める。その原拠「柳情靈妖」を附した。なお、私はこの一篇、浄瑠璃のように切なく、すこぶる附きで好きである。【2025年3月29日追記】私は、後の2023年にブログ・カテゴリ「怪奇談集Ⅱ」 で「多滿寸太禮」全篇の電子化注を完遂している。但し、そこにある「多滿寸太禮卷第三 柳情靈妖」は、ここで電子化したもの(小泉八雲旧蔵本)とは異なるものを底本として、全くのゼロから起こして注しているので、そちらも、是非、参照されたい。]
靑柳のはなし
文明年間(西曆一四六九~一四八六[やぶちゃん注:小泉八雲の誤りで、文明は十九年まであり、西暦では一四八七年である。])能登の國の大名、畠山義統(よしむね)の家臣に友忠と云ふ若い侍があつた。友忠は越前の生れであつたが、若い時小姓として、能登の大名の屋敷へ引取られ、大名の監督の下に武藝を職とするやうに敎育を受けた。生長するに從つて、文武兩道の達人となつたので、引續き君侯の覺えめでたかつた。快活なる性質と人好きのする應接ぶりと、それから甚だ立派な風采とを生れつきもつてゐたので、彼は武士仲間に甚だ敬愛せられてゐた。
[やぶちゃん注:「畠山義統」(?~明応六(一四九七)年)は室町後期から戦国前期の武将。守護大名。室町幕府相伴衆・能登守護。能登畠山氏の第三代当主。第二代代当主畠山義忠の嫡男畠山義有の嫡男。永享一二(一四四〇)年頃、父が祖父に先立って戦死(文明五(一四七三)年の記録に義統三十余歳という記録があるので、義統が誕生して間もないころだと思われる)したため、祖父より世子として指名された。その後、享徳四(一四五五)年に祖父が隠居したため、家督を継いで当主となった。但し、若年であったため、祖父による補佐を暫くは受けた。「応仁の乱」では同族の畠山義就(よしひろ/よしなり)を支持し、山名宗全が総大将である西軍に与し、細川勝元や畠山政長の東軍と戦った。「応仁の乱」が終わると、能登に帰国し、以後は在国大名として守護大名としての権力再編・強化に務めた。文明一一(一四七九)年頃には、越後守護上杉房定と婚姻関係(具体的な婚姻関係は未詳)を結び、越中侵攻を企てている。長享元(一四八七)年、加賀の一向一揆が起こると、加賀守護富樫政親を支援した。やがて、延徳二(一四九〇)年に能登門徒による義統暗殺計画が発覚、義統は越後守護代長尾能景と連合して越中・加賀の一向一揆と開戦した。しかし、一揆側は畠山一族の勢力削減を図る管領細川政元の支援を受けており、決着はつかなかった。義統は文化人でもあり、「応仁の乱」で荒廃した京都から、多くの文化人が能登に下向してきたため、能登は大いに繁栄した(以上はウィキの「畠山義統」に拠った)。
「友忠」原拠では岩木七郎友忠である。事蹟は不詳である。]
友忠が二十の頃、畠山義統の親戚京都の大大名細川政元へ內密の出向の使にやられた。趙前を通つて旅するやうに命ぜられたので、この靑年は途中、一人ぐらしの母を訪れる事の許しを願ひ出て、許可を得た。
出かけた時は、その年の最も寒い時であつた。雪は野山を蔽うてゐた。彼は强い馬に乘つてゐたが、進みのおそいことは仕方がなかつた。彼のたどつた道は山ばかりの所で、人家は少く、且つその間は遠く離れてゐた。彼の旅行の第二日目に、長時間の乘馬にくたびれたあとで、夜おそくまで目的の宿屋に着く事ができなかつたので、彼は當惑した。彼の心配したのも無理はなかつた、烈しい吹雪が、恐ろしく寒い風を伴うて來て、馬は疲勞の徵し[やぶちゃん注:「きざし」と訓じておく。]を表はして來たから。しかし、その苦しい時に思ひがけなく、友忠は柳の木のある近い坂の上に茅屋の屋根を認めた。やつとの事で疲れた馬をはげまして、その家に赴いた。それから、風の入らぬやうにしめ切つてある雨戶を烈しくたたいた。一人の老婦人がそれをあけて、その立派な見知らぬ人を見て、氣の毒がつて聲をかけた、『まあ、お氣の毒、――若いお方がこんな天氣に獨りで旅をされて。……さあ、どうぞお入り下され』
友忠は馬から下りた。それから後ろの物置へ馬を連れて行つたあとで、その茅屋の中に入つた。そこには老人と一人の娘が割り竹を焚いてあたつてゐた。彼等は恭しく、火に近づくやうに友忠を誘つた。そして老人達は、お客のために酒を暖め、食物を用意しにかかつた。そして彼の旅行に關して質問をした。そのうちに、若い娘は屛風のうしろにかくれた。友忠は彼女の非常に綺麗である事を見て驚いた、――たとへ彼女の身なりはみすぼらしく、又ほどいた長い髮は亂れてゐたけれども。彼はそんな麗しい女が、そんなに貧しいそして淋しい處に住んで居る事を不思議に思つた。
老人は彼に云つた、――
『お客樣、つぎの村は遠うございます、それに雪もひどく降つてゐます。風は身を切るやうで、道は大變惡うございます。だから、今夜これからさきへおいでになることは、先づ先づ危うございませう。このあばら屋はお泊りになれるやうな處ではございませんが、それに私共は御意に召すやうなものを何もさし上げる事はできませんが、それでも今夜はこんな貧しい屋根の下でも御泊りなさる方が、或は安全でございませう。……御馬の方は私共が大切にお世話致します』
友忠はこの謙遜な申し出でを受けた、――內心かうしてもつとこの若い女を見る事の機會が與へられたのを喜んだ。やがて粗末ながらも澤山の食事が、彼の前に置かれた。そして少女は屛風のうしろから酒の給仕に出て來た。彼女はもう粗野ながらさつぱりした手織縞の着物に着かへてゐた。そして長い下げ髮は、綺麗に櫛で撫でつけてあつた。彼女が酒を注ぐために屈んだ時、友忠は彼女がこれまで見たどの女よりも比較にならぬ程綺麗である事を見て驚いた。そして彼女の一舉一動には、彼を驚かすしとやかさがあつた。しかし老人達は彼女のために云ひわけをし始めた、『旦那さま、私共の娘の靑柳はこの山中で、殆んどひとりで育てられましたので、上品な作法は何も存じません。どうか愚かでものを知らない事を御赦し下さい』友忠はそれをさへぎつて、そんな綺麗な乙女に給仕される事を幸福と思ふと云つた。彼は彼女から眼を脇へ向けることがでかなかつた、――感心して見つめてゐては、彼女を赤面させるだらうと知つてはゐたけれども、――そして彼は前にある酒や肴に手をふれなかつた。母は云つた、『旦那樣どうか少し飮んだり、喰べたりして戴きたうございます、――この斬るやうな風で、冷えなさつたに相違ありませんから、――この百姓の食物(たべもの)はまことにまづいものばかりでございますが』それから老人達の氣に入るやうに、友忠はできるだけ飮んだり、喰べたりした。しかし顏を赧らめて[やぶちゃん注:「あからめて」。]居る少女の愛らしさは益〻彼の心を引きつけた。彼は彼女と話した。そして彼女の言葉は彼女の容貌と同じく麗しい事が分つた。山の中で育つたと云ふ事は、或は本當かも知れない――しかしそれなら、彼女の兩親はいつかは高位の人であつたに相違ない。彼女は身分ある人の娘のやうに語り、且つ振舞つたから。突然彼は彼女に歌を詠みかけた――それがやはり問であつた――彼の心の喜びに動かされて、――
尋ねつる花かとてこそ日をくらせ
明けぬになどかあかねさすらん
一刻のためらひもなく、彼女はこんな歌で答へた。
出づふ日のほのめく色をわが袖に
つつまば明日も君やとまらん
そこで友忠は彼女が自分の賞讚を受けてくれた事を知つた。そしてその歌の文句が表はした保證を喜ぶと共に、彼女の感情を歌に表はす技倆にも同じく驚いた。彼は今目の前のこの田舍娘よりも、もつと綺麗な怜悧な少女に遇ふ事はとても望まれない、ましてわがものとする事は一層望まれない事を知つた。そして彼の心のうちの聲は熱心に『神佛が自分に授けたこの幸福を取れ』と叫んで居るやうであつた――要するに、友忠は魅せられてしまつた――何等の前置きもなく老人夫婦に、娘を自分にくれることを願つた程魅せられたのであつた、――同時に彼の名と血統と、能登の大名の家來のうちでの彼の位地とを彼等に告げて。
[やぶちゃん注:それぞれの歌には原本では小泉八雲による訳注が附いている。前の和歌には、
“Being on my way to pay a visit, I found that which I took to be a flower: therefore here I spend the day... Why, in the time before dawn, the dawn-blush tint should glow—that, indeed, I know not.”
とある。訳してみる。
*
人を訪ねて行く道すがら、私は自分が花ではあるまいかと思ったものを見つけた。だから、私はここで一日(ひとひ)を過ごすのだ……なぜ、夜明け前の時間だというのに、夜明けの赤らみのような色がさすのだろう?――その理由(わけ)を、私は、知らない。
*
同じく後の注も示して訳す。
“If with my sleeve I hid the faint fair color of the dawning sun,—then, perhaps, in the morning my lord will remain.”
*
もしも、私の袖をもって、私が夜明けのお日さまの、ほのかな色合いを覆って隠したなら――そう、そう致しましたなら……多分、朝になりましても――私のあなたさまは、お残りになられるでしょう。
*]
彼等は有難さの驚きの歎聲を度々あげて、彼の前にお辭儀をした。しかし、しばらく躊躇したやうなやうすのあとで、父は答へた、――
『お客樣、あなたは高い位地のお方でございます。そしてもつと高い位地へお登りになる事と存じます。あなたが私共へ與へて下さる御恩は大きすぎます、――全く、私共のそれに對して有難く思ひますその心の深さは申しつくされません。量る事もできません。しかし私共のこの娘は賤しい生まれの、愚かな田舍者でございまして、何のしつけも敎育もございませんので、立派なお侍の御家內[やぶちゃん注:「おいへ」と訓じておく。「御内室」(ごないしつ)である。]に致しますのは、不相應でございます。こんな事をお話し致す事さへ實に以ての外でございます。……しかし、娘がお氣に入りまして、田舍育ちをお赦しになり、又甚だ無作法なのをお見逃し下さると云ふ事であれば、私共は喜んで數ならぬ御側づかへとしてさし上げます。それ故娘の事は思召し通りにお任せ致します』
朝になるまでに嵐は納まつた、そして日は雲なき東から現れた。たとへ靑柳の袖が、彼女の愛人の眼からあかつきの薔薇色をかくしたとしても、彼はもはやとまつては居られなかつた。しかし、又彼は娘と別れる事は耐えられぬ事であつた。そして旅行の準備が一切できた時、彼はかう云つて彼女の兩親に話した。
『これまでお世話になつた上、更にお願[やぶちゃん注:「おねがひ」。]するのに恩知らずのやうですが、お孃さんを下さるやうに、もう一度お願しなければなりません。今お孃さんと別れる事は、私には中々できません。それでお孃さんも私と一緖に行く事はおいやではないのですから、差支なければ、このまま私はおつれして參りたい。お孃さんを下さつた上は、私はあなた方を私の兩親と思つていつも大切に思ひます。……それはとにかく、あなた方の御親切なもてなしの御禮までに少々ながらこれをお受けになつて下さい』
さう云つて、彼は彼の謙遜な主人の前に黃金の包みを置いた。しかし老人は度々平伏したあとで、その贈りものを押しかへして、云つた、――
[やぶちゃん注:「黃金」「こがね」と読んでおく。金貨。]
『御親切な旦那樣、黃金は私共には何の使ひ途[やぶちゃん注:「みち」。]もございません。あなたは長い寒い旅の間、多分それが必要でございませう。ここでは私共は何も買ひません。そして私共はたとへ買ひたくとも、私共のためにお金をそんなに貰ふ事はできません。……娘の事は、もうあなた樣に差上げたものでございますから、――あなたのものでございます。それ故つれて行つて下さるのに、別に私共の許しをお求めになるに及びません。もうすでに娘はあなたのお伴をしたい、そしてお氣に召す間はあなたのはしためとなつてゐたいと私共に申しました。あなたが娘を引き取つて下さると云ふ事を聞いて、私共は喜ぶばかりでございます。どうか私共のために御心を惱まして下さらないやうお願ひ致します。ここでは娘に相應な身なりを整へてやる事はできません、――支度金はなほさら整へられません。その上、老人のこと故、何れ[やぶちゃん注:「いづれ」。]遠からぬうちに娘と別れねばなりません。それ故今あなたが娘をつれて行つて下さると云ふ事は、大層仕合せでございます』
友忠が老人夫婦に贈りものを受けるやうに說かうとしても駄目であつた。この人々はお金を何とも思つてゐない事が分つた。しかし友忠は老人夫婦が、娘の一生を彼に託する事を實際望んで居る事を知つた。そこで彼女を彼の馬に乘せて、心からの感謝の言葉を幾度か云つて、老人夫婦に當分の別れを告げた。
『お客樣』父は答へた、『感謝すべきは、あなたでなく、私共でございます。あなたが娘にやさしくして下さる事を信じてゐますから、娘のために心配する事はございません』……
〔ここで、日本語の原文では話の自然の進行に妙な故障がある、それで話が變につじつまが合はなくなつて居る。友忠の母や靑柳の兩親や、能登の大名についてはこれ以上何にも云つてない。明らかに著者はここで仕事に倦きて來たので、無頓着にその話を進めて、その驚くべき結末に急いだのである。私はこの省略を充たす事も、構造の缺點を補ふ事もできない。しかし說明になる詳細な點を少し入れて見る。それがなければあとの話がまとまらないから。……友忠は輕率にも靑柳を京都へつれて行つて、そしてそこで面倒な事が起つたらしい、しかしその後どこで暮らしてゐたか書いてない〕
……さて侍は君侯の承諾がなくでは結婚はできないもの。そして友忠は自分の使命が果されないうちはこの許可は得られさうにはなかつた。そんな事情の下に、友忠は靑柳の美貌は危險な注意を引きはしないか、又彼女を彼から奪ひ取るための策が講ぜられはしないかを恐れる理由があつた。それ故京都では彼女を物珍らしい目から隱すやうにつとめた。しかし細川侯の家來が或日靑柳を見て、彼女と友忠との關係を發見した。そしてその事を大名に報告した。そこで――殿樣で、綺麗な顏がすきな大名はその少女を御殿ヘつれて來るやうに命じた。彼女はいきなり無理にそこへつれられた。
友忠は非常に悲しんだ、しかし彼は自分が無力である事を知つた。彼は遠國の大名に仕へて居る卑しい使者に過ぎない。そして今はそれよりもつと有力な大名の思ひ通りになつて居るのであつた、その人の意志は如何ともする事はできない。その上友忠は自分は拙い事、――武士の法規の禁ずる内綠を結んで自ら不幸を招いた事を知つた。今彼に取つては一縷の望、――絕對絕命の望――しかなかつた。それは靑柳が望んで自分と一緖に逃げ出す事ができるかどうかと云ふ事であつた。長い間考へたあとで、彼は彼女に手紙をやつて見る事にきめた。この企ては勿論危險であらう、彼女にやる書きつけは何でも大名の手に落ちさうであつた。そして、御殿の中に居る人に戀文を送る事は赦し難い犯罪であつた。それでも彼はその冒險を敢てしようと決心した。そして、詩の形にして手紙を書いて、彼女に傳へる事を工夫した。詩はただ二十八字であつた。しかし、その二十八字で彼は彼の熱情の深さを悉く表はし、彼の絕望の凡ての苦しみをほのめかす事ができた、――
公子王孫逐二后塵一譯註一
綠珠垂ㇾ淚滴羅巾
侯門一入深如ㇾ海
從ㇾ是蕭郞是路人
譯註一 唐の詩人崔郊の名高い詩。崔郊は一旦奪はれた愛人をこの詩によつてとりもどす事ができた。
[やぶちゃん注:「崔郊」(さいこう)は唐の憲宗の元和年間(八〇六年~八二〇年)に秀才(科挙制度の前段階の一つである院試に及第した者)になった詩人で、以上の詩は、彼の詩としてよく知られた「贈去婢」という題の七言絶句。但し、「名高い詩人」というのは、やや誇張。訓読する。
去る婢に贈る
公子王孫 后塵(こうぢん)を逐(お)ふ
綠珠(りよくじゆ)淚を垂れ 羅巾に滴(したた)る
侯門一たび入りて 深きこと 海のごとし
是れより蕭郞(せうらう) 是れ 路人(ろじん)
私の「柴田天馬訳 蒲松齢 聊斎志異 鞏仙」の柴田氏の注九に『崔郊に婢があったが、はなはだ端麗で音律をよくした。貧乏になってから、婢を連帥千蝢』(れんすいせんけつ)『の家に鬻(ひさ)いだが、郊は思慕やまなかったのである。やがて寒食の節になり、婢は崔の家にきて郊にあい、柳の陰に立って馬上で泣くのだった。崔は詩を贈って言うのであった、「公子王孫後塵を逐う、疑珠垂涙羅布を湿す、侯門一たび入って深きこと海のごとし、これより粛郎これ路人」と。公はその詩を見て、令して崔生を召し、婢に命じて帰(とつ)がしめたということが、全唐詩話に見えている。』とある。小泉八雲は直後に以下のように英訳している。
Closely, closely the youthful prince now follows after the gem-bright maid;—
The tears of the fair one, falling, have moistened all her robes.
But the august lord, having once become enamored of her—the depth of his longing is like the depth of the sea.
Therefore it is only I that am left forlorn,—only I that am left to wander along.
*
暴虎馮河で訳してみる。
*
みるみるうちに、若々しい王子が宝石のように輝いている召使いに今まさに迫ってくる――
その美しい人の涙が、滴(したた)っている、そうして彼女の礼服を湿らせる。
しかし、堂々たる領主のお目に一たびとまってしまえば、そのお方の思いの深さは海の如く深い。
それ故に、私独りが悄然(しょんぼり)と去るばかり、――私だけが、ただ、路頭に彷徨(さまよ)うばかり。
*
但し、転句はやや解釈が叙情的で、原詩のそれは、言わずもがなだが、「王子の屋形に一度召し上げられてしまえば、その深さは、海のようで、最早、救い出すことは出来ぬ」の意である。]
この詩の送られたそのつぎの日の夕方、友忠は細川侯の御前に呼び出された。靑年は直ちに自分の祕密が裏切られたと疑つた。そして、彼の手紙が大名に見られたのなら嚴罰を逃れる事は覺束ないと思つた。『今度は私に死を命ずるであらう』友忠は考へた、――『しかし靑柳が私にかへらぬ以上生きてゐたくない。その上死刑の宣告が下つたら、私はせめては細川を殺すやうにやつて見る』彼は兩刀を帶にはさんで、御殿へ急いだ。
謁見室に入つて友忠は細川侯が、禮服禮帽をつけた高位の侍にとりまかれて上段の間に坐して居るのを見た。一同は銅像のやうに默つてゐた、友忠が敬禮をして進む間、その寂として居る事は彼には氣味惡く重苦しく思はれた。丁度嵐の前の靜けさのやうに。ところが、突然細川は上段の間から下りて、靑年の手をとつて『公子王孫逐一后塵二﹅﹅﹅﹅』の詩の文句をくりかへし始めた。……そして友忠が見上げると、君侯の眼にやさしい淚が見えた。
それから細川は云つた、――
『互にそれ程愛し合つて居るから、自分は親戚能登守に代つてお前の結婚を許す事にした。それでお前の結婚は今自分の面前で行ふ事にする。お客は集つて居る、引出物も用意してある』
君侯よりの合圖で、向うの部屋を隱してあるふすまは開けられた。そして友忠は儀式のために集つた殿中の澤山の高位高官の人々、及び花嫁の衣裳を着て、彼を待つて居る靑柳を見た。……かくして彼女は彼にかへされた、――婚禮の儀式はにぎやかに且つ立派であつた、――それから貴重な引出物は君侯及び君侯の一族の人々によつてこの若い夫婦に贈られた。
*
その結婚の後、五年間友忠と靑柳は樂しく一緖にくらした。しかし或朝靑柳は何か家事向きの事について、夫と話して居る間に不意に苦しみの叫びを發して、それから眞靑になつて動かなくなつた。しばらくして、弱つた聲で彼女は云つた、『こんなに失禮に呼び出した事を赦して下さい――そんなに急に痛み出したのです。……あなた、私共が一緖になつたのは前世の何かの因緣からに違ひありません、その有難い緣でこれからさき何世も、私共は又一緖になれると思ひます。しかし私共のこの今の世ではその緣は今終りました、――私共は別れる事になります。どうか私のために念佛を唱へて下さい、――私はもう死にかかつてゐますから』
『おい、何を變な妙な事を考へてゐるのだ』驚いた夫は叫んだ、――『お前はただ少し病氣なのだ、ね――……少しお休み、そしたら直る』……
『い〻え、い〻え』彼女は答へた――『私は死にます。神經ぢやありません、――私に分つてゐます、……そして今では、あなた、本當の事を隱して置いてももう駄目です、――私人間ぢやありません。木の魂が私の魂です、――木の心が私の心です、――柳の養分は私の生命です。そして今、この意地の惡い時、誰か私の木を伐り倒して居るのです、――それで死なねばならないのです。……泣く事も今では私の力に餘ります……早く早く私のために念佛を唱へで下さい。……早く……あ〻』
もう一度苦しみの叫びをあげて彼女は綺麗な頭をわきへ向けて、袖の下に顏をかくさうとした。しかし殆んど同時に彼女の全身は最も不思議な風[やぶちゃん注:「ふう」。]に消えて、段々下の方へ下の方へと沈んで行つて――床と同じ高さになつて行くやうであつた。友忠は彼女を支へるために飛び出した。――しかしそこに支へるものは何にもなかつた。疊の上には美しい人のもぬけの着物と髮につけてゐた飾りだけしかなかつた。からだは影もかたちもなくなつてゐた。……
友忠は頭を剃つて佛門に入り、雲水の僧になつた。諸國を行脚して、聖地を訪ふ每に靑柳の魂のために祈りをあげた。巡禮の間に越前に着いて彼の愛人の兩親の家をさがした。しかし兩親の家のあつた山の間の淋しい場所に着いた時、その家は既になくなつて居る事を見出した。家のあつた場處のしるしになるものさへ何にもなかつた。ただ三本の柳の切り株があるだけ――二本の老木と一本の若木と――それが彼の着くずつと以前に伐り倒されたのであつた。
それ等の柳の木の株の側に彼は諸々の經文を彫刻した塚を建てた。そしてそこで靑柳及び彼女の兩親の魂のために多くの佛事を行つた。
[やぶちゃん注:原拠は或いは「多滿寸太禮」(辻堂非風子(詳細事蹟不祥)作で、元禄一七(一六九四)年序の浮世草子怪談集。全七巻。明代の志怪小説「剪燈新話」・「剪燈余話」からの翻案を多く収める)の巻三の第三話「柳情靈妖(りうせいのれいよう)」。富山大学「ヘルン文庫」のこちらで丸ごと総てをダウン・ロード出来る。それを底本とした。読みは振れると判断したものに限り、句読点・記号を打ち、段落を成形した。一部に濁点を施した。一部に〔 〕で私の推定読みを施した。踊り字「く」は正字化した。なお、漢詩の訓点は総て除去した。
*
柳情靈妖
文明の年中、能登の國の大守畠山義統(よしむね)の家臣に、岩木七郞友忠と云ふ者、有(あり)。幼少の比より、才、智世に勝れ、文章に名を得、和漢の才に冨(とみ)たり。ようぼう、いつくしく、いまだ廿(はたち)にみたず、義統、愛敬(あいきやう)して常に祕藏し給ふ。生國は越前にして、母一人古鄕にあり。
世いまだ靜ならねば、行どふらふ[やぶちゃん注:「ゆきどうふらふ」。危険なので気軽に行き来する。]事もなし。或とし、義統、將軍の命をうけ、山名を背き、細川に一味して、北國の通路をひらきぬ。杣山(そまやま)に山名方の一城あれば、是を責むとて、義統柚山の麓に出陣して日を送り給へは此ひまをうかゞひ、母の在所も近ければ、友忠、ひそかに只一人、馬(むま)に打乘(うちのり)、おもむきける比〔ころ〕しも、む月[やぶちゃん注:一月。]の始(はじめ)つかた、雪、千峯を埋み、寒風、はだへを通し、馬、なづむで[やぶちゃん注:行き悩んで。]、進まず。
[やぶちゃん注:「杣山」現在の福井県の中央部の南越前町にある山。標高四百九十二メートル。日野川と支流の阿久和川・田倉川によって三方を囲まれた要害の地で、南北朝時代には新田義貞と斯波高経の合戦の際、瓜生保が新田氏に応援してここで兵を挙げている。山頂に城塁、山麓に居館の跡がある。ここ(グーグル・マップ・データ航空写真)。]
路に旁(かたはら)に、茅舍の中(うち)に煙(けふり)ふすぶりければ、友忠、馬をうちよせてみるに、姥(むば)・祖父(ほゞぢ)、十七、八の娘を中に置(おき)、只、三人、燒(たき)火に、眠(ねふ)り居たり。その躰(てい)、蓬(よもぎ)の髮は亂れて、垢(あか)付たる衣は裾みじかなれども、花のまなじりうるはしく、雪の肌(はだへ)、淸らかにやさしく媚(こび)て、誠(まこと)にかゝる山の奧にも、かゝる人、有けるをしらず。神仙の住居(すみか)かとあやしまる。
祖父(ぢい)夫婦、友忠をみて、むかへ、
「たつていたはしの少人(せうじん)や。かく山中に獨りまよはせ給へるにや。雪ふり積り、寒風忍びがたし。先〔まづ〕、火によりてあたり給へ。」
と、念比(ねんごろ)に申せば、友忠、よろこび、語るに、
「日、已に暮て、雪はいよいよ降(ふり)つもる。こよひは、こゝに一夜を明させ給へ。」
と侵(すゝめ)れば、おゝぢ、
「かゝる片山陰(かたやまかげ)のすまひ、もてなし、申さむ、よすがもなし。さりとも雪間(ゆきま)をしのぐ旅のそら。こよひは何かくるしかるべき。」
とて、馬の鞍をおろし、ふすまをはりて、一間をまふけて、よきにかしづきける。
此娘、かたちをかざり、衣裳をかへて、帳をかゝげて友忠をみるに、はじめ、見そめしには、且(かつ)、まさりて、うつくしさ、あやしきほどにぞ有ける。
山路の習ひ、濁り酒など、火にあたゝめ、夜寒をはらし給へど、主(ぬし)よりして、はじめて、盃(さかづき)をめぐらしける。
友忠、何となくむすめにさす。[やぶちゃん注:目をちらと向けることか。]
夫婦うち笑ひ、
「山家(やまが)そだちのひさぎめにて、御心にはおほぼさすとも、旅の屋どりのうきをはらしに、御盃をたうべて上〔あげ〕まいらせ。」」
といらへば、娘も、顏、うちあかめて盃を、とる。
友忠、此女の氣〔め〕しき、よのつねならねば、『心をも引みむ』と思ひて、何となく、
尋(たづね)つる玉かとてこそ日をくらせ明〔あか〕ぬになとかあかねさすらん
と、口ずさみけれは、娘も、又、
出〔いづ〕る日のほのめく色をわか袖につゝまばあすも君やとまらむ
とりあへず、『その歌から、詞(ことば)のつゞき、只人(たゞびと)にあらじ』と思ひければ、
「さいあいのつまもなし。願(ねがはく)は、我にたびてんや。」
といへば、夫婦、
「かくまで賤しき身を、いかにまいらせん。たゞかりそめに御心をもなぐさめ給へかし。」
と申せば、むすめも、
「此身を君にまかせまいらするうヘはともかくもなし給へ。」
と、ひとつふすまにやどりぬ。
かくて、夜も明ければ空もはれ、嵐もなぎて、友忠、
「今は暇(いとま)を申さん。又、逢までの形見とも、み給へ。」
とて、一包(つゝみ)の金(こがね)を懷中より出〔いだ〕して、これをあたふ。
主のいはく、
「これ、さらによしなき事なり。娘に、よき衣をもあたへてこそ參らすべきに、まづしき身なれば、いかゞせん。われら夫婦は、いかにともくらすべき身なれば、とくとく、つれて行〔ゆき〕給へ。」
と。
更に請(うけ)ねば、友忠も力なく、娘を馬にのせ、別(わかれ)をとりて、歸りぬ。
かくて、山名細川の兩陣、破れて、義統(よしむね)も上洛して、都、東寺に宿陣ありければ、友忠、ひそかにぐして[やぶちゃん注:青柳をこっそりと隠して囲って。]、忍び置けるに、如何(いいかゞ)しけむ、主(しう)の一族なりし細川政元、此女を見そめ、深く戀侘(こひわ)び給ひしが、夜にまぎれ、奪(ばい)とらせ、寵愛、なゝめならざりしかば、友忠も、無念ながら、貴族に敵對しがたく、明暮と思ひしづみける。
或時、あまりの戀しさに、みそかに[やぶちゃん注:秘かに。]傳(つて)をもとめ、一通のふみをかきて、遺しける。その文のおくに、
公子王孫逐后塵 緑珠垂淚滴羅巾
門一入深如ㇾ海 從是蕭郎是路人
とぞ書〔かき〕たりける。
いかゞしけむ、此詩、政元へ聞えければ、政元、ひそかに友忠を召〔めし〕て、
「物いふべき事あり。」
と云(いひ)きしければ、友忠、思ひよらず、
「一定、これは、わが妻の事、顯はれ、恨(うらみ)の程を怖れて、吾を取込(とりこめ)討(うつ)むずらん。たとへ死すとも、いま一たび、見る事もや。折もよくば、恨の太刀(たち)、一かたなに。」
と、思ひつめて行ける。
政元、頓(やが)て出あひ、友忠が手をとりて、
「『候門[やぶちゃん注:ママ。]一たび入〔いり〕て、深き事、海のごとし』と云(いふ)句は、これ、汝の句なりや。誠に深く感心す。」
とて、淚をうかめ、則(すなはち)、かの女を呼(よび)出〔いだ〕し、友忠にあたへ、剩(あまつ)さへ、種々(しゆしゆ)の引出物して、返し給ふ。
こゝろさしいとやさし。尤(もつとも)、文道(ぶんだう)の德なりけり。
これより、夫婦、偕老同穴のかたらひ、いよいよ深く、とし月を送るに、妻の云けるは、
「吾、はからずして、君(きみ)と、五とせの契りをなす。猶、いつまでも、八千代(やちよ)をこめむと思ひしに、ふしぎに、命、こよひに究(きは)まりぬ。宿世(すくせ)の緣(ゑん)を思ひたまはゞ、跡、よく、弔ひ給へ。」
と。
泪(なみだ)、瀧のごとくにながせば、友忠、肝をけし、
「ふしぎなる事。いかに。」
と、とへはば、妻、かさねて、
「今は何をかつゝみ候はん。みづから、もと人間の種(たね)ならず。柳樹(りうじゆ)の精、はからずも、薪(たきゞ)の爲に伐(きら)れて、已に朽(くち)なむとす。今は歎(なげく)にかひなし。」
とて、袂(たもと)をかざす、とぞ、みえしが、霜の消えるごとくに、衣(ころも)斗(ばかり)、のこれり。
「これは。」
と思ひ立〔たち〕よれば、小袖のみにして、形躰(かたち)もなし。
天にこがれ、地にふして、かなしめども、さりし面影は、夢にだにみえず。
せんかたなければ、遂に、もとゞり、切〔きり〕て、諸國修行の身とぞ成〔なり〕にける。
妻の古鄕のもとへ尋〔たづね〕て、ありし蹟を見るに、すべて、家もなし。
尋〔たづぬ〕るに、隣家(りんか)もなければ、たれ、しる人も、なし。
唯、大きなる柳のきりかぶ、三もと、殘れり。
うたがひもなき、
「これ、なんめり。」
と思ひ、其傍(かたはら)に塚をつき、なくなく、わかれ、去(さり)けり。
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