小泉八雲 鏡と鐘 (田部隆次譯) 附・原拠「夜窓鬼談」の「祈つて金を得」オリジナル電子化注
[やぶちゃん注:本篇(原題“ OF A MIRROR AND A BELL ”)は明治三七(一九〇四)年四月にボストン及びニュー・ヨークの「ホートン・ミフリン社」(BOSTON AND NEW YORK HOUGHTON MIFFLIN COMPANY)から出版された、恐らく小泉八雲の著作の中で最も日本で愛されている作品集「怪談」(原題“ KWAIDAN: Stories and Studies of Strange Things ”。来日後の第十作品集)の六話目である。なお、小泉八雲はこの年の九月二十六日に五十四歳で心臓発作により急逝した。
底本は上記英文サイト“Internet Archive”のこちらにある画像データをPDFで落し、視認した。これは第一書房が昭和一二(一九三七)年一月に刊行した「家庭版小泉八雲全集」(全十二巻)の第八巻全篇である。★【2025年3月28日底本変更・前注変更】時間を経て、国立国会図書館デジタルコレクションに本登録し、現行では、以上の第一書房版昭和六(一九三一)年一月に刊行した「學生版小泉八雲全集」(全十二巻)の第七巻が、国立国会図書館デジタルコレクションで公開されてある。(リンクは扉だが、「學生版」の文字はない。しかし、奥附を見て貰うと『學生版 【第二囘豫約】』とあり、『昭和六年一月十日 發行』とあることが確認出来る)、これが、前掲の底本と同じものであるが、やはり、外国のサイトのそれを底本とするのは、日本人小泉八雲に失礼であると考えた。されば、こちらで、再度、以下の「骨董」の作品群を改めて校正することとする。これが――私の小泉八雲への「義」――である。なお、之よりも前の元版の全集等が先行しているものの、私がそれらと比べた結果、実は先行する同社の「小泉八雲全集」のそれらは、訳が一部で異なっており、訳者等によって、かなりの補正・追加がされていることが、今回の正字補正作業の中で、はっきりと判って来た。いや、同じ「家庭版」と名打ったネット上の画像データでも、驚いたことに、有意に異なっていたのである。そうした意味でも――完全な仕切り直しの総点検――が必要であると決したものである。従って、旧前振りの括弧・鍵括弧の問題も、拡大とガンマ補正で確認し、正確を期する。本作はここから。
田部隆次(たなべりゅうじ 明治八(一八七五)年~昭和三二(一九五七)年)氏については先に電子化した「人形の墓」の私の冒頭注を参照されたい。
傍点「ヽ」は太字に代えた。最後に全体が三字下げポイント落ちで示される訳者の注は、当該段落の後に同ポイントで挟み込んだ。
最後に本篇の原拠「夜窓鬼談」上巻の「祈得金」(きとくきん/祈つて金を得)を掲げた。]
鏡 と 鐘
八百年以前、近江國無間山[やぶちゃん注:「むげんやま」。]の僧達は、寺のために大梵鐘を鑄たいと思つた。そこで檀家の女達に梵鐘の地金になる古い唐金の鏡を喜捨してくれるやうに賴んだ。
[やぶちゃん注:「近江國無間山」原拠(後掲)では「遠州」とある。静岡県の赤石山脈の深南部にある標高二千三百三十メートルの大無間山(だいむげんざん)が実際にあるが、所持する二〇〇三年春風社刊「夜窓鬼談」(小倉斉・高柴慎治訳注)の注によれば、無間山を静岡県掛川市佐夜鹿(さよしか)にある古来からの歌枕の峠(最高点の標高は二百五十二メートル)「小夜の中山」とする(グーグル・マップ・データ。以下、無指示は同じ)。同書はこの鐘のあった寺について、『無間の鐘で有名な観音寺のこと。これを撞くと現世で富裕になれるが、来世には無間地獄に落ちるという』とあった。とする。改めて、今度は「無間の鐘」で調べると、小学館「日本国語大辞典」に『静岡県掛川市東山に』あった『曹洞宗の寺、観音寺にあった鐘。この鐘をつくと』、『来世では無間地獄に落ちるが、この世では富豪になるという伝説があった』とあるわけだ。則ち、本話柄の、その「観音寺」は現存しないわけである。こうなると、旧観音寺の跡が、どこか知りたくなるのが私の悪い癖で、検索をするうち、shinreisanpo氏の「豊橋心霊散歩」の「遠州七不思議 無間の鐘」で小夜の中山の北西直近の「粟ヶ岳」附近であることが判明した(静岡県掛川市東山)。その続きのページで「無間の鐘 廃寺散策編」に於いて、そのおどろおどろしい廃寺跡らしきものが(あくまで「らしき」で同定されているわけではない)、写真で紹介されている。一見の価値あり!
「唐金」(からかね)は青銅の異名。中国から製法が伝わったことに由来する。]
〔今日でも、どこか日本のお寺の中庭に、そんなつもりで喜捨してある古い唐金の鏡が、山のやうに積んであるのを見る事があらう。私の見たこの種類の最も大きな山は、九州博多の浄土宗の或寺の庭にあつた。鏡は、三丈三尺の高さの阿彌陀佛の靑銅の像をつくるために、寄附されたものであつた〕
[やぶちゃん注:「九州博多の浄土宗の或寺」不詳。
「三丈三尺」約十メートル(九・九九九メートル)。]
その當時、無間山に住んで居る農夫の若い妻があつた。やはり鐘の地金にするために鏡を寄進したが、あとで鏡が惜しくなつて來た。母がその鏡について話した事を想ひ出した。母ばかりでなく母の母及び母の祖母のものであつた事を想ひ出した。それからその鏡にうつつた色々の美しい微笑を想ひ出した。勿論鏡の代りに幾分の金額を僧にさし出して賴めばその家寶をとりもどす事ができたであらう。しかし、彼女はそれに必要な金をもたなかつた。寺へ行く度每に、欄干のうしろの中庭に、一緖に積み上げてある數百の鏡の間に、自分の鏡のあるのを見た。母が始めてその鏡を見せた時、子供心に喜んだ、その裏にある浮彫の松竹梅があるので分つた。彼女は機會を見て鏡を盜んで、――これからいつまでもそれを大事にしまつて置くために――それを隱さうと思つた。しかし、その機會は來なかつた。それで彼女は非常につまらなくなつた、――自分の生命の一部を愚かにも捨てたやうな氣がした。彼女は鏡は女の魂と云ふ古い諺(多くの靑銅の鏡の裏に、魂と云ふ漢字で神祕的に表してある諺)を考へた。これまでは思ひもよらなかつたが、今では、それが不可思議にも、本當であるとつくづく思つた。しかし自分の惱みを誰にも云はうとはしなかつた。
さて、無間山の梵鐘のために喜捨された鏡が悉く坩堝(るつぼ)へ送られた時、鐘の鑄造方(がた)は、一つ溶けない鏡のある事を發見した。幾度もそれを溶かさうとしたが、それは駄目であつた。その鏡を寺に寄附した婦人は、たしかにそれを後悔したに相違ない。全く心からその寄進をしたのではなかつた。そこで鏡に執着のある彼女の利己的な魂が、坩堝の眞中でそれをかたく冷たくして居るのであつた。
勿論その事を誰でも聞いてゐた。そして溶けないのは誰の鏡かそれもすぐに分つた。結局、彼女の祕密の缺點が公けに暴露されたので、この不幸な女は甚だ恥ぢ入り、又甚だ怒つた。そしてその恥を忍ぶ事ができないので、つぎのやうな文句の書置を殘して、身を投げた。
『私が死んだら、鏡を溶かして鐘をつくる事は
たやすい。しかし鐘をつきこはす人には私の魂
の力で福を授ける』
怒つて死ぬ人、或は怒つて自殺をする人の最後の願や約束は超自然的な力があると一般に想像されて居る事を讀者は知つて置かねばならない。この死んだ女の鏡が溶けて、鐘が首尾よく鑄造されたあとで、人々は書置の文句を想ひ出した。この女の魂が鐘をこはすものに福を授けるといふ事を信じた。そこで鐘が寺の庭にかかるや否や、それをつくために人は群をなして集まつた。必死の力で撞木をふるつた。しかし鐘はよい鐘で、勇敢に其攻擊にたへた。しかも、人々は容易に落膽しなかつた。每日每日時を擇ぱず、盛んに烈しく鐘を撞いて、寺僧の抗議を少しも意に介しなかつた。そこで鐘の音が苦痛になつた。寺僧はそれに耐へられなくなつた。それで彼等は鐘を山の下の沼の中へころがし落して、やうやく厄拂をした。沼は深いので、それを呑み込んでしまつた――それが梵鐘の最期であつた。ただその傳說だけが殘つて居る。その傳說に、それは無間の鐘と呼ばれて居る。
さて、日本の古い信仰に、「なぞらへる」と云ふ動詞によつて、說明はされないが、暗示される一種の精神作用の不思議な力がある。この言葉だけでも、どの英語にも適當に譯されない、この言葉は多くの信仰上の宗敎的行爲や、又多くの種類の擬態の魔術に關して使はれるのである。辭書によれば「なぞらへる」の普通の意味は「まねをする」「比較する」「似せる」である。しかし祕傳による意味は、何か魔術的奇蹟的結果を得るために、想像の上に或物や或行爲を他のものと置き換へる事である。
たとへば、讀者は佛寺を建立する資力はないが、もし建てるだけの資力がある場合には、直ちにそれを建てないでは居られない程の信仰心と、同じ程度の信仰心で、佛像の前に小石を一つ置く事は容易にできる。その小石を一つ捧げる功德は、一寺を建立する功德と同等、もしくは殆んど同等にあたる。……讀者は六千七百七十一卷の佛の經文を讀む事はできない。しかしそれを納めた𢌞轉書棚をつくつて、卷揚機械のやうにそれを押して、それをまはす事はできる。もし六千七百七十一卷の經文を讀みたいと云ふ熱心な願をもつてそれを押せば、それを讀んで得たと同じ功德が得られる。……「なぞらへる」の宗敎的意味を說明するには、これだけで恐らく充分であらう。
[やぶちゃん注:ここに記されたそれは、所謂、「摩尼車」(マニぐるま)を想起させるが(「マニ車」はチベット仏教で用いられる仏具で「転経器(てんきょうき)」とも訳す)、本邦の寺院にあるものは、かなり大きなもので、「輪蔵(りんぞう)」と呼び、中国由来である。ウィキの「輪蔵」によれば、『経蔵の中央に、中心軸に沿って回転させることが可能な八面等に貼り合わせた形の書架を設け、そこに大蔵経を収納した形式のものである(回転式書架)。一般には、この経蔵を回転させると、それだけで経典全巻を読誦したのと同等の御利益が得られるものと信じられている』。『その起源は、中国南朝梁の傅大士によるものと伝えられており、輪蔵の正面には、傅大士』(ふだいし 四九七年~五六九年中国の南北朝時代の在俗仏教者。斉の東陽の人。本名は傅翕(ふきゅう)。「善慧大士」と号し、双林寺を建て、大蔵経を閲覧する便をはかって、「転輪蔵」を創始した。後世、経蔵などにその像が置かれ、俗に「笑い仏」と称せられる))『とその二子による三尊像が奉安されている』とある、それである。]
魔術の意味は種々の變つた例がなければ、說明は全くできさうにない。しかし今の目的にはつぎの例が役に立たう。もし人が、シスターヘレン譯註一が蠟の人形をつくつたと同じ理由で、藁人形をつくつて、――そして丑の刻に此の森のどこかの樹に、四寸以上の釘をそれに打つて、――そして、その小さい藁人形で想像上代表された人が、それから恐ろしい苦悶のうちに死ぬとしたら――それが「なぞらへる」の一つの意味の說明にならう。……或は泥捧が夜、人の家に入つて財寶を盜み去つたと假定する。もし庭園にその盜賊の足跡を發見して、それから直ちに大きなもぐさを置いてもやせぱ、賊の足のうらが燒けて來るので、賊が自分で赦しを乞ふために戾つて來るまでは、落ちついて居られなくなる。それは又「なぞらへる」と云ふ言葉で表はされた擬態の魔術の別の種類である。それから、第三の種類は無間の鐘の種々の傳說で說明される。
譯註一 「シスターヘレン」は中世紀の信仰によつたロセツテイの詩。愛人にうらぎられたヘレンが蠟でつくつた武人の形を火にとかして、呪ひ殺す話。
[やぶちゃん注:この藁人形の呪いのそれは、フレーザー(サー・ジェームズ・ジョージ・フレイザー(Sir James George Frazer 一八五四年~一九四一年:イギリスの社会人類学者。スコットランド生まれ。原始宗教・儀礼・神話・習慣などを比較研究した私の愛読書である「金枝篇」(The Golden Bough:一八九〇年~一九三六年)に詳しい)の言う「共感呪術」で、足跡のそれは「感染呪術」の典型例である。小泉八雲は若き日に西インド諸島を放浪しており、思うに、ここはブードゥ教の呪術を目の当たりに見ている体験に基づくのではないかとも思われる。
「シスターヘレン」“Sister Helen”は田部氏の注にある通り、イギリスの画家で詩人(ラファエル前派の一員に数えられる)のダンテ・ゲイブリエル・ロセッティ(Dante Gabriel Rossetti 一八二八年~一八八二年:詩人クリスティーナ・ロセッティの兄)のバラード。三木菜緒美氏他によるサイト「英国バラッド詩アーカイブ」のこちらで読める。原文はこちら、訳文はこちら(孰れもPDF)。]
梵鐘が沼澤のうちへころがし込まれたあとで、勿論、それをつきこはすやうにならす方法はなかつた。しかし、この機會のなくなつた事を殘念がつた人々は、想像上鐘の代りになるものをたたき破る事にした、――かうして、そんな面倒をひき起した鏡の持主の靈を慰めようとした。その人々のうちに、平家の武士梶原景季との關係から日本の傳說で名高い――梅ケ枝と云ふ女があつた。この二人が一緖に旅をして居る間に、或日梶原は金がなくなつて非常に窮した。そこで、梅ケ枝は無間の鐘の傳說を想ひ出して、唐金の鉢を取つて、心にそれを鐘に擬して、それをたたいて、――同時に黃金三百兩欲しいと叫びながら――たたき破るた。この二人が泊つてゐた宿の客が、その物音と叫びの理由を聞きただして、その困窮の話を聞いて、正しく梅ケ枝に黃金三百兩を贈つた。それから梅ケ枝の唐金の鉢について歌ができた。その歌は今日も唄ひ妓(め)に歌はれて居る。
梅ケ枝の手水鉢
たたいてお金がでるならば、
皆さん身うけを
そうれ賴みます。
[やぶちゃん注:「梶原景季」(応保二(一一六二)年~正治二(一二〇〇)年)は鎌倉初期の相模国の武士。景時の嫡男。寿永三/元暦元(一一八四)年の源義仲追討の「宇治川の戦い」に於いて、頼朝から与えられた名馬磨墨(するすみ)に騎って、同じく賜った生月(いけづき)に騎る佐々木高綱と争った先陣争いで最も知られる。正治元(一一九九)年、父景時が三浦義村ら有力御家人と対立した際、ともに追放され、翌年、上洛の途中、駿河の狐崎(きつねざき)で討手(謀略の可能性が高い。私の「北條九代記 梶原平三景時滅亡」の注を参照されたい)のため、一族とともに戦死した。私は後掲する原拠以外では、この梶原景季と梅ヶ枝の話は、文楽の「ひらかな盛衰記」の「神崎揚屋(かんざきあげや)の段」ぐらいでしか知らない。文楽のその話は個人サイトの鑑賞コメントのこちらを参照されたいが、先に示した春風社刊「夜窓鬼談」の梅ヶ枝の注には、『愛する男にとって必要な金を調達するためならば、たちえ来世で無間地獄に落ちることも厭(いと)わぬという、激情の美女。「梅が枝の手水鉢」と俚謡にうたわれたり、黄表紙などの庶民文芸にしばしば登場したり、江戸町人の間で格別』に『人気のあった女性』とある。]
この事があつてから、無間の鐘の評判は大きくなつた。そして梅ケ枝の例にならつて、その幸運にあやからうとするものも多かつた。そのうちに、無間山の近く、大井川のほとりに住む放蕩な農夫がゐた。放埓な生活で家產を蕩盡してから、この農夫は自分の庭の泥で無間の鐘の粘土製の模型を造つて、それから大きな富が欲しいと叫びながら、その粘土の鐘をたたき割つた。
その時、彼の前の地面から、長い解いた髮を垂れた白衣の婦人の姿が葢[やぶちゃん注:「ふた」。]をした壺をもつて現れた。その婦人は云つた、『その熱心な祈りは聞き屆くべきもの故、ここに現れて、御答へを申す。それ故この壺をもつて行かれよ』さう云つて婦人は壺をその男の手に渡して消えた。
この幸運兒は、妻によい知らせをもつて行くために、自分の家へ走つた。妻の前に葢のある壺を置いた、――壺は重かつた、――それから二人であけて見た。二人は丁度ふちまで一杯になつて居る……を見た
しかし、いけない、――何が入つてゐたか、これはどうしても云へない。
[やぶちゃん注:……何が入ってたかどうしても知りたい?……知らない方がいいと思うけど……え?……しょうがないねえ……じゃあ以下の原拠を……お読みな…………
さて。本篇の原拠は、漢学者(絵もよくした)石川鴻斎(天保四(一八三三)年~大正七(一九一八)年)が明治二二(一八九九)年九月に刊行した全篇漢文(訓点附き)の怪奇談集(国立国会図書館デジタルコレクションのこちらで全篇を画像で読める。富山大学の「ヘルン文庫」の小泉八雲旧蔵本はこちらでダウン・ロード(PDF)出来る)の「夜窓鬼談」上巻の「祈得金」(きとくきん/祈つて金を得)である。後者の小泉八雲旧蔵本で電子化する。但し、底本の訓点に従って書き下したものを示す。原文はベタであるが、段落を成形し、原典は句点のみであるが、一部を句読点・濁点を施し、さらにそれを増やし、記号も追加してある。一部の難読と思われる箇所には歴史的仮名遣で推定読みを〔 〕で添えた。( )は原文のルビ(但し、原本ではルビもカタカナ)である。傍線は原典では右にある。歴史的仮名遣の誤りはママ。
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祈(いの)つて金を得
遠州無間山、古へ、巨刹(きよさつ)有り。寺僧、施を募(つの)つて、鐘を鑄(い)る。
一民家の婦、愛する所ろの妝鏡(かゞみ[やぶちゃん注:二字への左ルビ。意味訓である。音は「シヤウキヤウ(ショウキョウ)」で、化粧鏡の大きな姿見を指す。])を喜捨(きしや)す。後、意、甚〔はなはだ〕悋(おし)む。
鐘、成(な)るに及〔および〕て、鏡、融化(いうくわ)せず。
婦、之を耻(は)ぢ、終〔つひ〕に水に沒(ぼつ)して死す。沒(ぼつ)するに臨(のぞ)んで、誓(ちか)つて曰く、
「若〔も〕し此鐘を撞破〔だうは〕する者有らば、授くるに萬金を以てせん。」
貧鄙(ひんぴ)の人、屢々、來〔きたり〕て、力に任せて、之を撞(う)つ。
寺僧、之を厭(いと)ひ、遂に深溪に埋(うづ)むと云ふ。
俗說に梶原景季の妾〔せう〕梅枝なる者、有り。夫の急を救(すく)はんが爲めに、三百金を得んことを欲す。術〔すべ〕の施すべき無し。乃〔すなは〕ち、水盤を鐘に擬(ぎ)して之を擊(う)つ。客、有り。其誠心を憐(あはれ)み、樓上より金を擲(なげう)つて、之に與(あと)ふ。
事、演戲(えんぎ)[やぶちゃん注:芸能。浄瑠璃・歌舞伎。]に傳へて、兒女、皆な、能く之を識(し)る。
大井川邊に、豪農、有り、數世、慳悋(けんりん)[やぶちゃん注:欲深く、吝嗇(けち)であること。]、家、巨萬を積む。近隣、皆な、其不仁を惡(にく)む。或は曰く、
「其祖、無間山の鐘を撞(つ)いて、暴富を得る者。」
と。
一子有り、名、富生〔ふせい〕、富家に生(うま)れて、貸財の貴〔とふとき〕を知らず。年、長ずるに及んで、日に酒色に耽(ふけ)り、或は、花街(くるわ[やぶちゃん注:左ルビ。])に遊んで財を散ずること、泥土のごとし。或は、賭博(とばく)を爲して、一擲(てき)千金を輸く[やぶちゃん注:読み不詳。「輸」には「負ける」の意があるので、「まく」と訓じていると思われる。「全部を使い果たすというありさまであった」の意。]。父母、沒するに及んで、愈々、其志を恣〔ほしい〕まゝにし、常に惡友と交(まぢ)はり、自ら魁首〔くわいしゆ〕[やぶちゃん注:悪党の頭(かしら)。]と爲る。
親族、之を厭(いと)ひ、與(とも)に胥齒(しよし/つきあふ[やぶちゃん注:前が右ルビ。後が左ルビ意味注。「胥」には「ともに」の意があるから、「齒」は「年・年をとること」だから、「一緒に仲間でいること」の意か。])する者、無し。
未だ十年に及ばず、田宅・資財、爲に蕩盡(とうじん)せり。
遂に岳父に依り、僅に廢宅(あばらや[やぶちゃん注:左ルビ。])を借りて、妻と居る。
重きを負ふ能はず、田を耨(くさぎ)ること能はず、人の爲めに傭(やと)はられ、裁(はず)かに[やぶちゃん注:僅かに。]數錢を得て、口を糊〔のり〕するのみ。寒暑、唯、繿縷(らんろう/つづれ[やぶちゃん注:襤褸(ぼろ)に同じい。])、酒醬、口に入らず、饘粥(せんじゆく/かゆ[やぶちゃん注:「饘」も「かゆ」の意。])飽(あ)かず[やぶちゃん注:粥でさえも腹いっぱいに食い足りることがなく。]。甑中(そうちう)塵を積み[やぶちゃん注:「甑」は「こしき」で、米を蒸す道具。]、貧、亦、極まれり。竊〔ひそか〕におもへらく、
「彼〔か〕の無間山の梵鐘(ぼんしやう)、地中に埋(うづ)むと雖ども、往(ゆ)ひて[やぶちゃん注:ママ。]、之を祈らば、或は、應(しるし[やぶちゃん注:左ルビ。])無からざることを得んか。」
卽夜(そのよ[やぶちゃん注:左ルビ。])、鐘を埋る處に到(いた)り、祝(しく)して曰、
「我、鐘を撞破して、大福を求めんと欲す。而れども、鐘、今、深溪に在り。假(かり)に土塊(どくわい)を以て鐘に擬(なぞ)らへ、我、今、之を碎韲(さいじん)[やぶちゃん注:砕き潰し、鱠(なます:刺身)のように切り刻むの謂い(「韲」)であろう。]し、神、若〔も〕し、靈、有らば、彼〔か〕の梅枝女の例に倣(なら)ひ、我に惠(めぐ)むに、多金を以てせよ。」
叩頭(かうとう)百拜、祝し訖(をわ)つて、將(まさ)に返らんとす。
忽ち、一婦人、有り。樹間より出で、生を呼で、曰く、
「汝、願ふ所ろ、我、之を納(い)る。乞ふ所ろ、亦た、甚だ易きのみ。我に隨て、金庫に來〔きた〕れ。」
乃〔すなは〕ち、相伴(ともな)ふて山を下る。行くこと里餘、漸く庫前に到る。鑰(やく/かぎ)[やぶちゃん注:鍵。]を開〔あけ〕て中に入れば、金銀山積、光輝(ひかり[やぶちゃん注:左ルビ。])眼を眩(げん)ず。
婦、曰く、
「汝、巨嚢(おほぶくろ)を携るや否や。」
曰く、
「無し。」
婦、曰く、
「幸に兩桶(ふたつのおけ[やぶちゃん注:左ルビ。])有り。皆、金を盛れり。請ふ、之を持ち去れ。」
生、大に喜ぶ。臥伏(ふふく)萬謝、遂に桶を擔(にな)ふて還(かへ)る。
十步、一憩(けい)、四更[やぶちゃん注:午前一時から午前三時頃。]、漸く家に抵(いた)る。戶を叩(たゝ)いて、妻を呼ぶ。妻、眼を揩(こす)りて出で迎ふ。
生、曰く、
「我、神に祈て、金を獲(ゑ)たり。富、將に昔時に復せんとす。」
乃ち、桶、捧(さゝ)げて室に入り、誤て閾(しきみ[やぶちゃん注:かくも読む。])躓(つまづ)き、桶を床下(とこ[やぶちゃん注:左ルビ。])に倒(たほ)す。
妻、燈を携へて之を見れば、糞汁(ふんじう)流溢(りういつ)、臭(にほひ[やぶちゃん注:左ルビ。])勝(た)ゆべからず。
生、大に驚き、尙ほ、一桶を見れば、相同〔あひおな〕じきのみ。
[やぶちゃん注:原文は、ここで初めて改行し、残りは全体が一字下げで、筆者石川の評言パートとなっている。一行空けておく。]
嘗て「聊齋志異」を讀む。此れと相似〔あひに〕たる事、有り。濱州の一秀才、曾て狐仙と親(したし)み、金錢を給せんことを乞ふ。乃ち、與〔とも〕に密室に入れ、錢、梁間より下る。廣大の舍、約(およそ)三、四尺を積む。之を取用〔とりもちひ〕せんと欲すれば、皆、烏有(から[やぶちゃん注:左ルビ。])と爲る。秀才、望〔のぞみ〕を失ひ、頗る其誑(きやう)を懟(うら)む。狐仙、曰く、『我、本と、君と文字[やぶちゃん注:詩文。]の交(まじは)りをなす。君と賊[やぶちゃん注:盗み。]を作〔な〕すことを謀(はか)らず。便(すなは)ち、秀才のごときは、只、合〔まさ〕に梁上の君子(ぬすびと[やぶちゃん注:左意味ルビ。盗人の異称。])を尋ねて交るべし。我、命〔めい〕を承ること、能はず。』。遂に衣を拂て去る。
夫〔そ〕れ、金錢は、本〔もと〕、人造の物。神仙の有する所ろに、非ず。而して[やぶちゃん注:意味は逆接。]、諸(これ)を人に求めず、反つて神に求めんと欲す。神、豈〔あに〕人の金錢、與奪する者ならんや。
*
最後の石川の言うそれは、清の蒲松齢(一六四〇年~一七一五年)の書いた、私の偏愛する志怪小説集「聊齋志異」(りょうさいしい)の、「巻四」の「雨錢」である。但し、この狐仙はありがちな若い女ではなく、老人の男であるので注意されたい。因みに、二〇〇三年春風社刊「夜窓鬼談」(小倉斉・高柴慎治訳注)の訳では、この「雨錢」の最後のシーンで衣を払って去って行くのを、人間の秀才として訳しているが、これは誤りである。怒って去って行くのは狐仙の老人の方である。【2025年3月28日追記】国立国会図書館デジタルコレクションで、私が最も素晴らしいと思っている、まさに「天馬空を翔(ゆ)く」が如き柴田天馬先生の訳で「雨錢」が読める。「定本聊斎志異」卷五(修道一九五五年刊)のここから。戦後の出版だが、嬉しいことに、正字正仮名である。どうぞ! ゆるりと読まれよ!]