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2019/09/29

小泉八雲 作品集「天の河緣起そのほか」始動 / 天の河緣起 (大谷正信譯) (その1)

 

[やぶちゃん注:やぶちゃん注:本篇(原題“ THE ROMANCE, OF THE MILKY WAY ”(「恋の物語、天の河に就いての」)は一九〇五(明治三八)年十月にボストン及びニュー・ヨークの「ホートン・ミフリン社」(HOUGHTON MIFFLIN AND COMPANY)刊の“ THE ROMANCE OF THE MILKY WAY AND OTHER STUDIES & STORIES ”(「『天の河の恋物語』そして別の研究と物語」。来日後の第十二作品集)の冒頭に配されたものである。本作品集は“Internet Archive”のこちら(目次ページを示した)で全篇視認でき(本篇はここから)、活字化されたものは“Project Gutenberg”のこちらで全篇が読める(本書では、本編内の見開きなるページには左右上部の角に「小泉八雲」の丸い印影が黒で印刷されてあり、なかなかいい。本篇はここから)。小泉八雲は、この前年の明治三七(一九〇四)年九月二十六日に心臓発作(狭心症)のため五十四歳で亡くなっており、このブログ・カテゴリ「小泉八雲」で完遂した「神國日本」(戸川明三訳。原題は“ Japan: An Attempt at Interpretation ”(「日本――一つの試論」)に次いで、死後の公刊となった作品集である。

 底本は上記英文サイト“Internet Archive”のこちらにある画像データをPDFで落し、視認した。これは第一書房が昭和一二(一九三七)年一月に刊行した「家庭版小泉八雲全集」(全十二巻)の第八巻全篇である。★【2025年3月31日底本変更・前注変更】時間を経て、国立国会図書館デジタルコレクションに本登録し、現行では、以上の第一書房版昭和六(一九三一)年一月に刊行した「學生版小泉八雲全集」(全十二巻)の第七巻が、国立国会図書館デジタルコレクションで公開されてある。(リンクは扉だが、「學生版」の文字はない。しかし、奥附を見て貰うと『學生版 【第二囘豫約】』とあり、『昭和六年一月十日 發行』とあることが確認出来る)、 これが、前掲の底本と同じものであるが、やはり、外国のサイトのそれを底本とするのは、日本人小泉八雲に失礼であると考えた。されば、こちらで、再度、以下の「骨董」の作品群を改めて校正することとする。これが――私の小泉八雲への「義」――である。なお、之よりも前の元版の全集等が先行しているものの、私がそれらと比べた結果、実は先行する同社の「小泉八雲全集」のそれらは、訳が一部で異なっており、訳者等によって、かなりの補正・追加がされていることが、今回の正字補正作業の中で、はっきりと判って来た。いや、同じ「家庭版」と名打ったネット上の画像データでも、驚いたことに、有意に異なっていたのである。そうした意味でも――完全な仕切り直しの総点検――が必要であると決したものである。従って、旧前振りの括弧・鍵括弧の問題も、拡大とガンマ補正で確認し、正確を期する。総標題はここで、本作はここから。

 訳者大谷正信氏については、「小泉八雲 燒津にて 大谷正信譯」の私の冒頭注を参照されたい。

 傍点「ヽ」は太字に代えた。原註は最後にポイント落ち字下げで纏められてあるが、適切と思われる本文の中に同ポイントで挿入した。

 本篇は章立てがないが、かなり長い。適切と私が判断した箇所で、四部に分割して示すこととした。



     天の河緣起

          そのほか

 

 

     古昔は云ひぬ、『天河は水の精なり』と。

     我等は下界の川が時には爲すが如くに

     一年のうちにその川床を移すを視るなり。

                  (古代の學者)

[やぶちゃん注:この添え辞は底本では作品集標題「天の河緣起 そのほか」の次のページ(標題ページの裏・本文ページ(左)の反対の右ページ)に配されて、あたかも標題「天の河緣起 そのほか」への添え辞であるかのように訳されてあるのであるが、これはとんでもない誤りで、本来は作品集巻頭の一篇「天の河緣起」の題の脇に添えられるべきものであって、甚だ具合の悪いものであると私は思う。底本では、二行書きでセンス無く改行しているので、特異的に雰囲気を大事にして三行で配した。上に示した既に示した原本の本篇の標題ページを見られたい。なお、この出典は私は未詳。]

 

 

  天の河緣起

 

 舊日本が行うた幾多の面白いお祭今の中で、一番浪漫的なのはタナバタサマ、卽ち天の川の織姬のお祭りであつた。大都會では此祭日は今あまり守らぬ。東京では殆んど忘れられて居る。然し、多くの田舍地方では、そしてこの首府近くの村でも、今なほ少しは行うて居る。七月の(舊曆の)七日に、古風な田舍町若しくは村を偶〻訪れると、伐り立ての竹が幾本も家家の屋根の上に取り附けるか、又は橫の地面に樹てる[やぶちゃん注:「たてる」。]かしてあつて、その竹一本二本に色紙(いろがみ)の細片(ほそきれ)が澤山に著けてあるのに多分氣付くであらう。極く貧しい村ではその紙片が白いか、或はただ一色かであるを見るかも知れぬ。が、一般の規則としては五通り、又は七通りの異つた色でなければならぬことになつて居る。靑、綠、赤、黃それに白、これが普通飾る色合である。その紙片には皆タナバタと、その夫ヒコボシとを讚へて作つた短かい歌が書いてある。お祭りが濟むと、その竹は拔き取つて、歌をそれに著けたまま、一番近い流れへ投げ込む。

 

 この古いお祭りの緣起を理解するには、七月の七日に、宮中でも、いつもそれに供物をされたこの星神の傳說を知らなければならぬ。この傳說は支那のものである。それを平易に日本譯にするとかうである。――

 天空の大神に太奈八太豆女(たなばたつめ)といふ愛らしい娘が一人あつて、其娘は御父樣の著物を織つて、月日を過ごして居た。仕事が好きで、機を織るより面白いことは他に無いと思つてゐた。ところが或る日、その天の住家の門口で、機の前に坐つて居ると、牛を牽いて通る美くしい百姓を見て、それと戀に陷つた。御父樣は、娘の心に祕めた願ひを察して、其若者を夫として與へた。ところが一緖になつた戀人は餘りに好き合うて、天帝への二人の義務を怠り、梭[やぶちゃん注:「ひ」。シャトル。]の昔はもはや聞えず、牛は世話の仕手が無いので天の河原をさまようた。そこで大神は不興がられてその二人を別にされた。二人はその後は、天の川を中にして、別別に暮すやうにと言ひ渡されたが、一年に一度、七月の七日の夜は互に會ふことを許された。その夜は――空が晴れて居れば――天界の鳥がその軀(からだ)と翼とで、その川の上へ橋を架ける。そしてその橋を渡つて二人の戀人は會ふ事が出來るのである。然し雨が降ると天の川の水嵩が增して、橋を架けることが出來ぬほど廣くなる。だから、此夫婦は七月七日だつても、いつも會ふといふ譯には行かぬ。天氣が惡るい爲めに、續いて三年も四年も會へぬこともある。が、然し二人の戀は依然として不朽に若く永遠に辛抱づよく、二人は――つぎの年の七月の七日の夜には會ふことが出來るといふを樂しみにして――それぞれの勤務(つとめ)を每日失錯無しに引き續き果して居る。

[やぶちゃん注:「失錯」(「しつしやく(しっしゃく)」或いは「しつさく(しっさく)」」)は「怠けたり忘れたりして為すべきことをやり損なう」こと。]

 

 古代の支那人の想像には、我我の所謂乳色の道は光つて居る川で――天の川で――銀河であつた。西洋の著作家はタナバタ卽ち織姬は天琴座の一箇の星であり、その愛人たる牽牛は乳色の道の向う側にある鷲座の一箇の星であると述べて居る。然し兩方とも、極東人の想像には、一群の星によつて現されて居ると云ふ方が一層正しからう。或る古い日本の書物はかう明白に書いて居る。――

[やぶちゃん注:「天琴座」織女(しょくじょ)星は、現在の「こと座」の主星ベガ(Vega)、牽牛(けんぎゅう)星は「わし座」の主星アルタイル(Altair)を指す。因みに実際の二星間の距離は十四・四二八光年もあることが科学的に判明している。牽牛が織女に逢うには光速で走ったとしても十五年半もかかるのである。なお、ウィキの「こと座」によれば、明治七(一八七四)年に『文部省より出版された関藤成緒』(せきとうなるおせきふじしげお:旧備後福山藩士。官吏・教育者)『の天文書』「星學捷徑」で『「リラ」という読みと「琴」という解説が紹介された』。『また、明治一二(一八七九)年にイギリスの天文学者『ノーマン・ロッキャー』(Joseph Norman Lockyer)『の著書』‘ Elements of Astronomy ’(「天文学の要綱」)を『訳して刊行された』「洛氏天文學」(内田正雄・木村一歩訳・文部省刊)『上巻では「リーラ」と紹介され、下巻では』「天琴宿(てんきんしゆく)」『として解説された』。『これらから』、『それから』三十『ほど時代を下った明治後期には「天琴」という呼称が使われていたことが日本天文学会の会報『天文月報』の』第一巻二号『掲載の「五月の天」と題した記事中の星図で確認できる』。『この「天琴」という訳名は』、明治四三(一九一〇)年に『に「琴」と改められ』、『東京天文台の編集により』大正一四(一九二五)年に『初版が刊行された』「理科年表」にも『「琴(こと)」として引き継がれた』。『戦中の』昭和一九(一九四四)年に『天文学用語が見直しされた際も「琴(こと)」が継続して使われることとなった』。『そして、戦後の』昭和二七(一九五二)年七月、『日本天文学会が「星座名はひらがなまたはカタカナで表記する」』『とした際に平仮名で「こと」と決まり』、『以降』、『この呼称が継続して用いられている』とあった。

 以下の引用は底本では、全体が二字下げ。]

ケンギウ〔牽牛〕は天の川の西にあり、一列に竝べる三つ星にして、牛を牽ける人の如くに見ゆ。シヨクヂヨ【織女】は天の川の東にあり、機[やぶちゃん注:「はた」。]を織る女の姿に見ゆるやうに三つ星竝べり。……牽牛は農事にかかはる一切のことを司どり、織女は女の仕事にかかはる一切のことを司どる。

[やぶちゃん注:出典は私は未詳。

「三つ星竝べり」「こと座」は現在の天文学では、主星α星以外に四つの目立つ星(細かく言えば九つある)からなるが、ここは一等星のベガと、孰れも三等星のβ星シェリアク(Sheliak)とγ星スラファト(Sulafat)を指していよう。]

 

 雜話集といふ古い書物に、この二人の神はもと、この世界の人であつたと書いてある。嘗て此世界に夫婦がいて、支那に住んで居た。夫は斿子[やぶちゃん注:「いうし(ゆうし」。「斿」の「游」の本字。]と言ひ、妻は伯陽と言つた。二人は殊にまた最も熱心に月を崇め信じた。晴れた日は每夕、日沒後、その昇るのを熱心に待つて居た。それから地平線近く沈み出すと、その家の近くの小山の頂きへ登つて、少しでも長くその顏を眺めることにして居つた。それから到頭、見えなくなつてしまふと、二人は共に歎き悲しんだ。九十九歲で妻は死んだ。そしてその魂が鵲[やぶちゃん注:「かささぎ」。]に乘つて天上して、其處で一つの星に成つた。夫は、その時百三歲であつたが、月を眺めて妻を亡うた悲しみを忘れた。その昇るのを喜んで迎へ、その沈むのを悲しむ時は、恰も妻がなほその橫に居るやうな氣がするのであつた。

 或る夏の夜――今は不朽に美くしくまた年若い――伯陽は、夫を訪れに、その鵲に乘つて天界から降りて來た。夫はその訪れを非常に欣んだ。だが、その時からして、星に成つて天の川の彼方で伯陽と一緖になれたら、どんなに幸福であらうと、そればかり考へて他のことは考へることが出來なかつた。到頭、自分も亦、鳥に乘つて天界へ昇つて、其處で一つの星に成つた。だが、望んで居たやうに、すぐには伯陽と一緖になれなかつた。といふのは自分の割り當てられてゐる居場處と伯陽が割り當てられてゐる居場處の間に天の川が流れて居たからである。それにどちらの星も、天帝がその川水で每日沐浴をされるので、その流れを渡ることを許されなかつた。が、每年一日――七月の七日に――互に相會ふことを許された。天帝はその日は、佛の法(のり)の說敎を聽きに、いつも善法堂へ行かれる。そこでその時は鵲と鴉とが多勢出て、その空を飛んで居る軀と、擴げて居る翼とで天河の上ヘ橋を架ける。そして伯陽はその擔を渡つて夫に會ぴに行く。

[やぶちゃん注:「雜話集」原文は“Zatsuwa-Shin”。寛永一八(一六四一)年板行の作者・板元不詳の「雑話集」(上・中・下三巻)があるが、それか。「沙石集」で知られた無住一円の嘉元三(一三〇五)年成立の「雜談集」(ぞうたんしゅう)は「七夕由来譚」を載せてはいるものの、それは小泉八雲がここで語るものとは異なる、羽衣伝説と七夕伝説がカップリングされたものである。しかし、飯島吉晴氏の論文「節分と節供の民俗」(PDF)の「七夕由来譚」によれば、『七夕に関連したさまざまな昔話や伝説も各地に伝えられている。とくに、有名なのが、天の羽衣の話である。これは天人女房譚の一種であり、七夕の由来譚がともなっている話もある。たとえば、『雑話集』近江国余呉の湖に織女天降り水浴する。男が衣を奪う。織女』、『天に帰らず、その男の妻となる。子供が生まれ、年ごろになる。天に昇ろうとする志を捨てず』、織女は『常に泣く。男の留守に、この子が父の隠しておいた天衣を出してやると、女は喜んでそれを着て天に昇る。7月7日にこの湖に来て水浴する。この日を待って』(「男は」であろう)『涙を流した、と記されています』というのとは同系話である(但し、『この天人女房譚の昔話が、七夕と結びつけられたのは、後世の作為によるものと考えられている』とも述べておられる)。さらに調べてみたところ、木戸久二子氏の「『伊勢物語』第六十三段 : 古注に登場する牽牛と織女説話」という論文に(PDFでダウンロード可能)、慶応義塾大学図書館蔵「伊勢物語註」(冷泉家流古注)に、この話が、バッチリ、掲載されていることが判った。同論文の翻刻に従つつ、漢字を正字化し、一部に私の推定読みを歴史的仮名遣で施したものを以下に示す。前の漢文(返り点と熟語記号のみ附く)は同論文では全体が三字下げ、後半の訓読文箇所は、恣意的に漢字を正字化し、私が送り仮名や本文のカタカナとなっているものを総てひらがなにし、訓読規則に従い(助詞・助動詞はひらがな書きとする)、さらに句読点・濁音や送り仮名を推定で大幅に補い、改行段落を成形して読み易く示した。□□は論文の長方形の四角(脱字或いは判読不能字或いは意識的欠字)を字数分で示した。最後の「漢書傳……」(ここは訓読せず、論文のままで載せた)の部分は、論文中でも改行と二字下げが施されてある。

   *

史記云瓊在夫-婦夫云遊子女云伯陽百三餘

陽首不ㇾ足契借〔偕〕-老者子二八之候陽三

四之旬愛玉兎而終-夜坐道路-之口暮徊

曉登山-峯舉下而勿絕時陽沒之刻成

深-歎月前進得相-見此執生ㇾ星再下

陰陽之國道-祖半-立之二-神男-女

會-合之媒

 瓊(けい)國の名なり。遊子・伯陽と云ふ人、夫、十六、妻、十二にて、夫妻となれり。共に月を愛してすきし[やぶちゃん注:「好きし」或いは「数寄し」か。]程に、妻の伯陽、九十九にて死ぬ。

 其の時、遊子、百三の年なるに、夫、歎きて云はく、

「汝、死せば、誰(たれ)とか月をも見るべき。」

と云ふ。陽、云はく、

「我、死すとも必ず月を見べし。我、來つて月夜には必ず見るべし。」

と契り、終(つひ)に死ぬ。

 卽ち、葬送すれば、年比(としごろ)かゐける[やぶちゃん注:「飼ひける」。]鳥に乘りて、天を飛びて失せぬ。

 或夜、なくなく月を見るに、此れに乘りて來(きた)れり。

 形をば見れども、物、云ふ事、なし。

 弥(いよい)よ、悲みをなす程に、夫の遊子が思ひ、切に成りて、白鵲(かさゝぎ)に乗りて、天に上(のぼ)りぬ。

 我が妻を尋ねて行くに、天河(あまのがは)を隔てて、えわたらず。

 さて、□□星と成れり。

 而るに、七月七日、相(あ)ふことは、天河水□□尺の寶瓶(はうべい)にそゝぐ程に惣(すべ)て此の河を汚(けが)すことなきなり。況んや、婬事を犯す事、思ひも寄るべからず。七月七日は帝釋の、善法堂へ入り、堂の隙(すき)なり。

 さて、此の日相(につさう)と云へり、烏(からす)と鵲(かささぎ)と、羽をさしちがへて、二星、渡すとも見たり。

 又、木の葉を口にくはへて、橋にわたすとも見えたり。「紅葉の橋」ともよみたり。

 又、云はく、『星、別れを悲みて血淚を流すが、鵲の白羽(しろば)を染(そ)むれば、「紅葉」と云ふ』とも見たり。

  漢書傳云鳥-鵲橋口敷紅葉二-星屋-形前風冷

 此の故に、織女を「つもゝ神」と云ふなり。女を守る神なり。

 牽牛を「つくい神」と名づく。「女をあたふる神」とかけり。「續伊神」なり。

   *

「つくもがみ」は「付喪神」と同語源であろう。但し、本来のそれは百年を経過した器物に宿って、化けたり人に害をなしたりするとされる精霊を指し、ここで言うようなものとは少し異なるが、女の命とされる髪(九十九髪)・櫛・鏡をそれに置き換えて考えれば、私は腑に落ちる。「つくい神」の方は判らぬ。「つくも」を女とした原語を語尾で変えたありがちな男性形に過ぎないかとも思われる。ともかくも、小泉八雲が語っているのは、まさにここに記されたものと、そっくりである。「雜話集」なるものに載るのは、これと同源であることは、最早、疑いようがない。但し、冒頭の漢文の「史記」に載るというのは、私の探し方が悪いのか、見当たらない。原文位置を御存じの方は、お教え願いたい。

「鵲」スズメ目カラス科カササギ属カササギ亜種カササギ Pica pica sericea。博物誌は私の「和漢三才圖會第四十三 林禽類 鵲(かささぎ)」を参照されたい。]

 タナバタといふ日本の祝祭は、元は支那の機織[やぶちゃん注:「はたおり」。]の女神織女(チニウ)の祝祭と同一であつたといふことは、殆んど疑ひを挾み得ない。また、この日本の祭日は、極々[やぶちゃん注:「ごくごく」。原本は「々」は踊り字「く」。]の昔からして、殊に女の祭日であつたものらしく思はれる。そしてタナバタといふ語を書き現す文字は、機を織る少女といふ意味のものである。然し、この星神の二人を、七月の七日に拜んだものであつたから、日本の學者のうちには、そのもの普通の解釋に滿足せずして、元はこれはタネ(種)といふ語とハタ(機)といふ語から出來て居たと說いたものがある。その語源說を受け入れる人達は、タナバタサマといふ名稱を單數とせずに複數にして、これを『種の神樣と機の神樣』卽ち農耕を司どる神と機織を司どる神とする。古い日本の繪には此星神は、そのそれぞれの屬性を上述の如く解して――ヒコボシは天の川へ水を飮ませに牛を牽いて行く百姓で、その川のずつと向うにオリヒメ(タナバタ)が機を織つて居るやうに――描いてある。兩人の服裝は支那風である。そしてこの二神の最初の日本畫は、多分、支那の何かの原書を模寫したものであらう。

[やぶちゃん注:七夕の行事自体は言うまでもなく、中国から伝来し、奈良時代に広まった。その基本は無論、「牽牛星」と「織女星」の伝説であるが、中国には別に、手芸・芸能の上達を祈願する習俗として「乞巧奠(きっこうでん)」があってこれが結びつけられて、本邦固有の行事となったとされる。「七夕」の「たなばた」という当て訓は恐らく「棚機(たなばた)つ女(め)」(「つ」は古い格助詞で「の」の意)の下略されたものとされる。但し、ここで小泉八雲が述べているように、古くから農村では、豊作を祈って種を撒くという「種播祭(たなばたまつ)り」があったことから、宮中で行われていた中国由来の「七夕(しちせき)」が、民間に広まった際にそれと混同されて、「たなばた」と呼ばれるようになったとも言われる。農耕予祝行事と別個な中国の外来習慣が習合するのは、ごくごく普通に見られる現象である。

なお、ここで言っておきたいが、本邦の「七夕」が、中国が濫觴であることは、言うまでもない。それは、本邦のウィキの「七夕」のメインの民俗学的記載の解説の半分以上が中国のそれに費やしている「びっくり」記載からも判るし、別に「牛郎織女」(ぎゅうろうしょくじょ)という漢族の民話を独立まで、御丁寧に設けてさえいることで、明々白々では、あるのである。而して、私は、それらの中国起源の話柄を、引用し、解説することも出来る。しかしだ!――小泉八雲は、あくまで、この「さわり」の部分では、以上の内容を――紹介――してはいるものの、以下、読み進めれば、彼は、あくまで――本邦に於ける「天の川」伝承、日本の民俗としての「七夕(たなばた)」に対して――強い魅力――を感じ、日本人の感性に根付いたそれをこそ、ディグしようとしているのである。さればこそ、私は、中国のそれらを提示して、ダラダラと注する気には――全く――ならないし、やる気も、ない、のである。悪しからず。

「織女(チニウ)」原文“Tchi-Niu”。現代中国音では「織女」は「ヂィーヌゥー」。]

 現存して居る最古の日本歌集――紀元七百六十年の萬葉集――では、男の神は普通これをヒコボシと呼び、女の方はこれをタナバタツメと呼んで居るが、後には兩方ともタナバタと呼んだ。出雲では男神の方をヲタナバタサマ、女神の方をメタナバタサマと通常呼んで居る。兩方共なほ多くの名で知られて居る。男の方はヒコボシと言つたり、ケンギウと言つたりするが、またたカイボシとも呼ぶ。そして女の方はアサガホヒメ『朝貌姬』)原註一、イトオリヒメ(『絲織姬』)、モモコヒメ『一挑子姬』)、タキモノヒメ(『薰物姬』)またササガニヒメ(『蜘蛛姬』)と呼ぶ。このものうちには說明の困難なのがある、――殊にアラクネの希臘傳說を思ひ出させる最後の名は說明が困難である、――多分、この希臘神話と、この支那物語とは共通なところは全然何も無からう。が、古い支那の書物に、一縷の關係がりはせぬかと思はせるやうな、妙な事實が記載されてゐる。支那皇帝ミン・ヒソン(日本人はゲンソウと呼ぶ)の御世には、宮中の淑女達は、七月の七日に蜘蛛を捕へて占ひのため、これを香箱に入れ置くが習はしであつた。八日の朝その箱を開く。若し其蜘蛛が夜の中に厚い網を紡いだならば占ひは吉であつた。が、若し何もせずに居たのであつたら占ひは凶であつた。

原註一 アサガホ、文字通りでは「朝の貌」。英語で「モオーング・グロオリ」と呼ぶ美しい攀登植物の日本名。

[やぶちゃん注:ここに出た蜘蛛を用いた占いは、漢籍の中で、確かに読んだことがあるように記憶するのだが、思い出せない。思い出したら、追記する。

「萬葉集」には百三十首以上もの七夕関連の歌が載る。サイト「万葉集を読む 壺齋散人の万葉集評釈」の「七夕を詠む(一):万葉集を読む」(次へで同(二)が続く)がよい。

「ササガニヒメ」「ササガニ」は「細蟹」「笹蟹」で、蜘蛛の古名である。小泉八雲は説明が困難だと言っているが、私は、織女星ベガが「こと座」の平行四辺形の属星に、線を延ばして捉えると、それが蜘蛛の巣のように見えるからではないか? と秘かに思っている。織り姫だから、蜘蛛の糸とも縁語関係にあるので、それだけでも構わぬと思う。しかし、「アラクネ」(ギリシア神話中の女性。小アジアのリュディアのコロフォンに住んでいたイドモンの娘で、機織りの名手であったが、慢心して女神アテナに腕比べを挑み、女神の面前で神々が人間の女たちと愛欲に耽る情景を美事に織り上げて見せてしまい、怒ったアテナは彼女を、手に持った火で打ち据え、アラクネは首を吊って自殺したが、憐れを催したアテナは、彼女をギリシア語で「アラクネ」と呼ばれる蜘蛛に変えてやったという話)との直接的な意識的伝承伝達連関を殊更に求める必要は、私は――全くない――と考えている。]

 

 數年前、美くしい女が一人、出雲の山の中の或る農夫の住家を訪れて、その家の獨り娘に、人の知らぬ機織の技を敎へた話がある。或る晚その美くしい他國人は、姿を消した。それで其處の人達は、今まで居たのは天(そら)の織姬樣であつたと知つた。その農夫の娘は、機織が上手だといふので評判者になつた。然し自分はタナバタサマのお相手をしたのだといふので――一生結婚しようとはしなかつた。

 

 それから自分ではさうと識らずに、天つ御國を嘗て訪れた男に就いて――愉快なほど茫漠とした――支那物語がある。その男は每年、八月中、責重な木材の浮槎[やぶちゃん注:「ふさ」。原文“a raft of precious wood”。普通、「槎」は人工的な筏をさすことが多いが、ここは非常に高級な材質の流木でよかろう。]がその住つて居る海岸へ漂うて來るのを觀て、何處にその木が生えるのか知りたいと思つた。そこで二箇年の航海に要する食料を一艘の船に積んで、その浮槎がいつも流れ來る方向に船を走らせた。幾月も幾月も、いつも平穩な海を進んで行つて、到頭、不思議な樹木の生えて居る氣持ちのいい海岸へ到著した。船を繋いで單身その知らぬ陸へと進んで行くと、やがてその水が銀のやうに光つて居る川の岸へ來た。向う岸に亭が一つあつた。そして其亭に美くしい女が一人機を織つて居つた。其女は月光のやうに白くて、あたりに光りを放つて居つた。やがてのこと眉目美はしい若い百姓が、川の方へ牛を牽いて近寄つて來るのが見えた。そこでかの男はその若い百姓に、この處と此國との名を聞かせて吳れと賴んだ。ところがその若人はその問ひを不快に感じたらしく、激しい語調で、『此處の名が知りたいなら、汝(おまへ)が來た處へ歸つて嚴君平(げんくんぺい)原註二に聞け』と答へた。そこでこの航海者は、恐ろしくなつて、急いで自分の船に乘つて支那へ歸つた。歸つてからその嚴君平といふ賢者を探し尋ねて、その冒險を物語つた。嚴君平は驚いて手を拍つて叫んだ。『それでは汝(おまへ)だつたのか!……七月の七日に自分はじつと空を見て居ると、牽牛と織女とが出會はうとして居るのが見えた。――ところが其間へ、自分は客星だと思つたが、新奇な星が一つ居た。仕合せ者だなあ! 汝は天の川へ行つて、織女の顏を見たのだ!……』

原註二 これはその支那名を日本風に讀んだもの。

[やぶちゃん注:以上は晋の西張華(二三二年~三〇〇年:文人政治家。方城県(河北省)の人。魏の初めに太常(たいじょう)博士となり、西晋に仕えて呉の討伐に功あり、官は司空に至って壮武郡公に封ぜられたが、「趙王司馬倫の乱」により、一族とともに殺された詩文の才に恵まれ、男女の愛情を歌った華麗な「情詩」五首、「雑詩」三首は特に知られる。若い頃から、占卜・術数・方士の術などにも精通し、天下の異聞・神仙・古代逸話などを集めて「博物志」全十巻を著した。但し、現存するものは、彼の原著のものかどうかは疑わしい)「博物志」の「卷十」の「雜說 下」に載る。以下。

   *

舊說云、天河與海通。近世有人居海濱者、年年八月有浮槎去來不失期。人有奇志、立飛閣於槎上、多齎糧、乘槎而去。十餘日中、猶觀星月日辰、自後芒芒忽忽、亦不覺晝夜。去十餘日、奄至一處、有城郭狀、屋舍甚嚴、遙望宮中多織婦。見一丈夫牽牛渚次飮之、牽牛人乃驚問曰、「何由至此。」。此人具說來意、幷問此是何處。答曰、「君還至蜀郡、訪嚴君平則知之。」。竟不上岸、因還。如期後至蜀、問君平、曰、「某年月日有客星犯牽牛宿、計年月、正是此人到天河時也。」。

   *

「嚴君平」「漢書」に登場し、成都の市場で占いを生業(なりわい)としていたが、「卜筮(ぼくぜい)は賤しい業ではあるが、人々の役に立つ」と考えて、その商売にことよせて、人の道を説いたという、と平凡社「世界大百科事典」の「占い」に記されている。著書に「老子指歸」があったが、散逸して残らない。

「客星」(きゃくせい)は、現われたり、消えたりする星のこと。現代の天文学では新星の現象とされる。]

 

 牽牛と織女とが會ふのは、眼のいい人にはどんな人にでも觀られるといふ。會ふ時はいつも、その二つの星が五通りの異つた色で燃えるからである。タナバタの神へ五色の供物をし、それを賞め讚へての歌を五通り異つた色合の紙に書くのはその爲めである。

 が、前にも言つたやうに、二人はいい天氣の時だけ會へるのである。七日の夜、少しでも雨が降れば、天の川の水嵩が增すので、この戀人はまた全(まる)一年待たなければならぬ。だから、七夕の夜降る雨をナミダノアメ卽ち『淚の雨』と呼ぶ。

 空が七日の夜晴れて居ると、この戀人は幸福である。その星は嬉しさにピカピカ光つて居るのが見られる。その時、牽牛星が非常に光つて輝くと、その秋、米の收穫が多い。織女星がいつもよりも光つて見えると、機織りやあらゆる女の手業の繁昌する時が來る。

 

 舊日本ではこの二人が會ふのは、人間に取つて幸運だと一般に想はれて居た。今日でも、田舍の方方で、タナバタ祭りの晚に――『天氣になあれ!』といふ――短かい歌をうたふ。伊賀では若い者共が、この戀人二人が會ふ時刻だと思ふ時分に、

 

    七夕や餘り急がば轉ぶべし

 

といふ巫山戲た[やぶちゃん注:「ふざけた」。]歌をまた唄ふ。

[やぶちゃん注:これは実際には俚謡ではなく、伊賀上野の人で、芭蕉が若き日に勤仕したこともある藤堂藩藩士であった蕉門の土田杜若(つちだとじゃく ?~享保一四(一七二九)年:名は正祇、通称は小左衛門。初号は柞良)「猿蓑」の巻之三に(これが彼の初出)、

 七夕やあまりいそがばころぶべし 伊賀小年杜若

とある。因みに、この句は、「古今和歌集」の「卷第十九 雜躰」に藤原兼輔(曽祖父)の一首(一〇一四番)、

    七月六日、七夕の心をよみける

 いつしかとまたぐ心を脛(はぎ)にあげて

        あまのかはらをけふやわたらむ

に基づく戯れ句ではある。]

 然し出雲の國では、此處は雨のよく降る地方だが、これと反對な信仰が行はれて居て、七月の七日に空が晴れると、その後に不幸が起こると考へられて居る。この信仰の地方的說明は、かの二つの星が出會ふとその合體からして、旱魃や他の禍ひで國を惱ます惡神が多く生れるといふのである。

 七夕祭を初めて日本で行つたのは天平勝寶七年(紀元七百五十五年)の七月七日であつた。恐らく七夕の神の起源は支那に在るといふことが、これを公に崇めるといふことを多くの神社で、いつの世にもしなかつたといふ事實を說明する。

[やぶちゃん注:以下、一行空け。]

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