小泉八雲 蟲の硏究 蟻 二・三 (大谷正信譯)
[やぶちゃん注:本篇についての詳細は「小泉八雲 蟲の硏究 蟻 一 (大谷正信譯)」の私の冒頭注を参照されたい。]
二
或る非基督敎國民が我我西洋人の文明よりも倫理的に優つて居る文明を產み出したことを語ることは、種種な社會に於て、背德だと考へられて居ると同じ理由で、或る種の人達には自分がこれから蟻に就いて云はうとすることが氣に入らぬであらう。然し自分が到底そんなになり得る希望の抱けぬ程に比較を絕して遙か賢明な人で、基督敎の祝福とは離れて昆蟲のことを考へ文明のことを考へる人が世には在る。そして自分は新出版の『劒橋大學博物學』に激勵を見出す。この書には、デヸツド・シヤアプ敎授が、蟻に關して書かれた次記の言葉があるのである。
[やぶちゃん注:『劒橋大學博物學』原文“ Cambridge Natural History ”。「ケンブリッジ大学博物誌」。
「デヸツド・シヤアプ敎授」デヴィッド・シャープ(David Sharp 一八四〇年~一九二二年)はイギリスの医師で著名な昆虫学者。一八八五年にケンブリッジ大学動物学博物館学芸員に招聘され、この当時も現職であった。]
『この昆蟲の生活に存する非常に顯著な現象が觀察によつて啓示せられた。この昆蟲は、多くの點に於て、我我人間が知つて居るよりか、遙か完全に社會に於ける共同生活の術を會得して居り、且つ彼等は社會生活を大いに容易ならしむる諸產業、諸藝術の習得に於て我我に先んじて居る、といふ結論を實際殆んど避け得ないのである』
見聞の廣い人ならば、修業を積んだ一專門家のこの平明な叙述を兎や角と論諍[やぶちゃん注:「ろんじやう(ろんじょう)」。論争に同じい。]さるる人は多くあるまいと自分は想ふ。現代の科學者は蟻や蜂に就いて感傷的にならるるやうなことは無くて、社會變化に關しては、この蟲の方が『超人』的に進んで居るやうに思へることを承認するに躊躇されはせぬであらう。ハアバアト・スペンサア氏は――誰れも氏に浪漫的傾向があるとの非難はしなからうと思ふが――氏はシヤアプ敎授よりも餘程、步を進めて、蟻は經濟的にと同樣に眞の意味に於て倫理的に人類よりも進んで居る――蟻の生活は全然愛他的目的に獻(ささ)げられて居るからと我我に示して居られる。實際シヤアプ敎授は、次記の如き用心深い陳述で以て、その蟻の賞讚をば稍〻不必要にも制限して居る。
[やぶちゃん注:「ハアバアト・スペンサア」小泉八雲が心酔するイギリスの哲学者で社会学の創始者の一人としても知られるハーバート・スペンサー(Herbert Spencer 一八二〇年~一九〇三年)。私の『小泉八雲 落合貞三郎訳 「知られぬ日本の面影」 第十五章 狐 (一五)』の私の注を参照されたい。私がこのブログ・カテゴリ「小泉八雲」で完遂した「神國日本」(戸川明三訳。原題は“ Japan: An Attempt at Interpretation ”(「日本――一つの試論」)。英文原本は小泉八雲の没した明治三七(一九〇四)年九月二十六日(満五十四歳)の同九月にニューヨークのマクミラン社(THE MACMILLAN COMPANY)から刊行された)もスペンサーの思想哲学の強い影響を受けたものである。]
『蟻の能力は人間の能力のやうなものでは無い。その能力は個體の繁榮に占用されて居ると云はんよりも寧ろ種の繁榮に占用されて居る。個體は云はばその團體の利益の爲めに犧牲にされ、若しくは分化されて居るのである』
此文に明らかに含まれて居る意味は――卽ち、どんな社會的情態[やぶちゃん注:ママ。以下同じ。]でも、其個體の進步改善が一般共同の繁榮の犧牲となつて居る國家は、餘程まだ不完全なものであるといふことは――現在の人間の見地からは或は正しいであらう。といふのは、人間はまだ不完全にしか進化して居ないので、人間社會は人間がもつと個體化することによつて大いに利益するであらうから。然し社會的な昆蟲に關しては、敎授の文に含まれて居る批評は疑間を挾むべき餘地が十分ある。ハアバアト・スペンサア氏は云うて居る。『個人の改良進步は個人を社會的共力協同に一層よく適合せしむるに在る。そしてこれは社會の繁榮を來たすことになるから、其人種の維持となつて來る』語を換へて云ふと、個人の價値は社會に關係してのみ在り得るのである。そこでこれを許容するといふと、個人を其社會の爲めに犧牲に供するのが善であるか惡であるかは、その社會がそれを形成する個體が一層個體化することによつて何を得するか損するかによつて定まるに相違ない。……然し、やがて分るであらうやうに、最も我我の注意に値ひする蟻社會の狀況は其倫理的狀況である。これはスペンサア氏が道德進化の理想は『利己主義と愛他主義とが彼此の區別無きまでに融和され折衷されて居る國家』だと述べて居られる其理想を實現して居るのだから、人間の批評を絕して居るのである。言ひ換へれば、利己ならざる行爲を爲すの快樂が快樂になつて居る國家である。卽ち、も一度スペンサア氏の文を引用すれば、蟻社會の活動は『個個の安寧を後にして、全く團體全體の安寧を計るの活動であつて、個個の生活はただ社會生活に至當な注意を可能ならしむるに必要なだけの範圍に於て注意されて居るやうに見え……個個は、その體力を維持するに必要なだけの食物と休息とを取つて居るやうに思へる』のである。
三
蟻は園藝や農業を實行して居る事、蟻は茸の培養に熟練である事、蟻は(現今の知誠に據ると)五百八十四種の異つた動物を飼ひ馴らして居る事、蟻は堅固な巖[やぶちゃん注:「いはほ」。]にトンネルを穿つ事、蟻はその子供等の健康を危からしめるやうな大氣の變化に對應する方法を知つて居る事、又、蟻は昆蟲としては、その壽命は例外的で、そのうち高等な進化を遂げた種類のものは餘程の年數を生きるといふ事、これを讀者は御承知であると思ふ。
[やぶちゃん注:以上はウィキの「アリ」に詳しくはないが、各個的に書かれてあるので参照されたい。なお、アリの寿命については、サイト「自然のチカラ~昆虫や野生動物、植物の不思議」の「アリの寿命ってどれくらい?」によれば、働きアリ・雄アリ・女王アリで異なり、働きアリと雄アリは一~二年程度であるが、アリ社会の頂点に立つ女王アリは平均で十年、最高では二十年という記録があるとある。これは小型昆虫の寿命としては破格に永いと言える。ギネスに載る最長記録は五十年という記載があるとあるが、それは同様の高度な社会生活性を示すものの、アリ類とは縁のすこぶる遠い網翅上目ゴキブリ目シロアリ科 Termitidae のシロアリ類での報告であるので注意されたい。]
だが、それは殊に自分が述べたいと思ふ事柄では無い。自分が話したい事は、蟻の非常
註 これに關して興味ある事實は、
アリの日本語は「蟲」といふ字と、
「道德の端正」「禮儀」(義理)を
を意味する字とを合せて成つた表
意文字である事である。だから、
漢字では實際に『義の蟲』の意で
ある。
な禮節――恐ろしい德義――である。行爲に就いて我我の最も驚くべき理想も、蟻の倫理に比べると――進步の程度を時間で計算すれば――後れること幾百萬年を下らぬ!……此處で『蟻』と自分のいふは、蟻の最高の種類を指すので、もとより蟻科全體を云ふのでは無い。蟻には約二千の種(しゆ)のあることが今までに分つて居る。そしてそのものは、その社會組織に於て、進化の甚だしく異つた度合を示して居る。生物學上最も重要な、そして倫理問題に對しての、その不思議な關係に於てそれに劣らず重要な、或る社會的現象は、最も高等な進化を遂げた蟻社會の生涯に於てのみ、有利に硏究し得られるのである。
[やぶちゃん注:原註(ポイント落ち字下げであるが、本文と同じにして、一行数を減じた)の漢字の解字としては小泉八雲の謂う通りである。和訓の「あり」は、諸説あり(洒落か!)、「あ」が「小」を、「り」が助詞で「小虫」の意味とする説、多く集まって集団生活をする虫であることから「あつまり」を中略したものとする説、穴に出入りすることから「穴入(あないり)」の略とする説、よく歩(あり)くの略とする説、前後に縊(くび)れが有ることから「くびれり」の略とする説、最後の二説から派生したと思われる「脚有(あしあり)」の簡約説もあるという。
「蟻には約二千の種(しゆ)のあることが今までに分つて居る」ウィキの「アリ」によれば、現在は世界で一万種以上が、本邦だけで二百八十種以上がいるとされる。]
蟻の長命に於ける相對的經驗の蓋然價値に就いて、近年色々書物に書かれて居ることてあるからして、蟻に個性の存することを、まさか否定される人はあまりあるまいと自分は思ふ。この小動物が全然、新規な困難に遭遇してこれに打勝ち、また、これまで全く經驗したことの無い境遇に適應して行く智慧は、自主的思索の力が餘程多くあることを證明して居るのである。だが、この事だけは少くとも確實である。卽ち蟻は純然たる我利的方面に使用され得る個性は少しも有つて居ない事である。此處で自分は『我利的』といふ語をその尋常普通の意義に使用して居る。貪慾な蟻、好色な蟻、七つの重大罪惡のどれ一つでも、否、小さな恕し[やぶちゃん注:「ゆるし」。]得べき罪でも、犯し得る蟻、そんなものは思ひも寄らぬものである。同じく思ひも寄らぬものは、云ふまでも無く、浪漫的な蟻、觀念論者的蟻、詩人的蟻、或は哲學的思索に耽らんとする蟻である。どんな人間の心も、蟻の心の絕對的實際性に到達することは出來なからう。現今の體制を有つて居る人間はどんな人間も、蟻の習慣ほどに缺點無しの實際的な心的習性を養ふことは出來なからう。だが、この最高無上の實際的な心は道德的過失を爲し得ぬのである。蟻には宗敎的我念は全く無いといふことを說明するのは或は困難であらう。しかしそんな觀念は蟻には何等の用を爲さぬといふことは事實である。道德的弱點に陷り得ない者には『精神的指導』の必要は無いのである。
蟻社會の特徵及び蟻道德の性質は、我我はただ、朧氣に想像することが出來る丈である。で、これを爲すのにすら、我我は人間社會及び人間道德のまだ不可能な或る情態を想像しようと力め[やぶちゃん注:「つとめ」。]なくてはならぬ。そこでつぎに述べるやうな一世界を想像して見よう。其處では絕え間無しにそして猛烈に仕事をして居る者がその全部は女であるやうに思へるが――充ちて居る世界を。[やぶちゃん注:句点はママ。]其女の誰れ一人も、その體力を支へるに必要以上の食物を一粒でも取るやうに勸めることも欺くことも出來ぬ。又その女の誰れ一人もその神經系統を立派に働かせて行くに必要以上の睡眠は一秒たりとも爲ない[やぶちゃん注:「しない」。]。そして其女が凡て、少しでも不必要な放慢をすれば必ず何か機能の錯亂を來たすといふやうな特殊な團體を有つて居る。
この女勞働者が日日行ふ仕事のうちには道路築造、橋梁架設、木材切斷、種類の無數な建築物建造、園藝農業、百と種類を異にする家畜の飼養保護、樣樣な化學的製品の製造、無數な食糧の貯臟保存、竝びにその種族の子孫の世話が含まれて居る。如上の勞働は悉くみな國家の爲めにするので――その國家の市民で、公有物としては考へるが『財產』などいふことを考へることさへ出來るものは一人も無い。そしてこの國家の唯一の目的はその幼者を――その殆んど全部は女の子であるが、それを養育し訓練するに在るのである。幼年の時機は長い。幼兒は長い間、啻に[やぶちゃん注:「ただに」。]手緣りない[やぶちゃん注:「たよりない」。]計りで無く、不恰好なもので、その上に極く一寸した氣溫の變化にも非常に注意して保護してやらなければならぬほどに虛弱なものである。幸にもその保姆[やぶちゃん注:「ほぼ」。]は保健の法則を心得て居る。換氣、消毒、排水、濕氣、それから病菌の――顯微鏡下に我我人間の眼に見えるやうに、その近眼には多分、見えるやうになつて居る病菌の――危險に關して保姆の心得て居なければならぬことは一切完全に銘銘が心得て居る。實際、衞生に關する事柄は實に十分に理解されて居るので、どんな保姆も自分の附近の衞生情態に就いて嘗て何等の過失を爲さぬ程である。
[やぶちゃん注:残念乍ら、小泉八雲の謂うようにはアリの複眼はそんなによくはない(但し、人間に見えない偏光は見えるし、対象物の大雑把な形・大きさは判る)。寧ろ、触角を通して微妙な環境変化を素早く察知するものであることは言うまでもない。]
この絕え間無しの勞働にも拘らず、どの勞働者も亂髮で居ることは無い。何れも一日に幾度も化粧をして、入念に身綺麗にして居る。ところが、どの勞働者も非常に美しい櫛と胴毛とをその手先にくつつけて生れて來て居るから、化粧室で無駄な時間を費やすといふことが無い。それからいつも自分の身を嚴に淸潔にして居るほかに、勞働者は其子供等の爲めに、その家屋と庭園とを缺點無しに整頓して置かなければならぬ。地震、噴火、洪水、或は絕體絕命の戰爭以下の事に、塵掃ひ、掃き掃除、摩り磨き及び消毒といふ每日の課程の妨げをさせぬことにして居る。
[やぶちゃん注:ちょっと言っておくと、働きアリの中には、仕事をしているふりをして、怠けている個体が存在することが判明している。さればこそ、それこそ人間社会と変わらないとも言えるかも知れないな。]
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