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2019/10/31

ブログ1280000アクセス突破記念 梅崎春生 贋(にせ)の季節

 

[やぶちゃん注:本篇は昭和二二(一九四七)年十一月号『日本小説』に初出で、後の第一作品集「櫻島」に所収された。

 底本は昭和五九(一九八四)年沖積舎刊「梅崎春生全集第二巻」を用いた。

 一部本文に私のオリジナルな注を附した。

 本篇には台詞の中に現在は使用すべきでない身体障碍者に対する差別用語「不具」「片輪」等が使用されているので、そこには批判的な視座も忘れずに読まれんことを乞うものである。

 因みに、底本の埴谷雄高氏の「解説」の末尾で、氏は本篇を非常に高く評価され、『この作品は、戦後の荒廃の時期を感覚の先端でうけとめながらすごした梅崎春生が新しい質の作品の創出にむかう試みを敢えてした一種の先駆的な作品であって、やがてその後、以前に見られぬ大きな骨格をもった幾つかの長篇が書かれることになるあらかじめの準備がみられるのである』と述べておられる。

 なお、本テクストは2006年5月18日のニフティのブログ・アクセス解析開始以来(このブログ「Blog鬼火~日々の迷走」開始自体はその前年の2005年7月6日)、本ブログが1280000アクセスを突破した記念として公開する(ほぼ小泉八雲に特化し続けた今回はアクセスが少し増え、一万回超えが何時もより少し早く来た)。【2019年10月31日 藪野直史】]

 

  (にせ)の季節

 

「お爺さん」に洋服を着せて舞台に出したらどうだろう。それを最初に提案したのは私である。いくら夏場とはいえこんなに入りが悪くては仕様がない。うつかりすると先の町での興行の二の舞だ。すると三五郎が顔色を変えて反対した。

「いくら何でもそんな大それたことが出来ますかい。そいつは人間様に対する冒瀆(ぼうとく)だ」

 人間様とは何だろう。冒瀆とはなにか。守るべきそんなぎりぎりの一線を、此の三五郎がまだ保っているのかと思うと、冷たい可笑(おか)しさがおのずと湧き上って来るのを感じたが、考えて見ると此処の団長にしても団員の面々にしても、最後のよりどころとしているのは矢張りこんな種類の奇妙な辻凄(つじつま)のあわない自尊心なので、こういう私といえども本当のところでは此の類を洩れないのかも知れない。しかし人間を他の動物から画然と区別する一線などというものは、各自がてんでに思い込んだ妄想に過ぎなくて、人類の祖先は猿猴類(えんこうるい)だというが、それは数百万年も前のことだと皆安心している。案外二千六百年もさかのぼれば身体の端に尻尾をつけていたかも知れないのだ。三五郎が血相を変えるなどとは笑止な話だと私が言い返そうとしたら、それまで黙っていた団長が腕組をぱらりと解いて口を開いた。

「そいつは思い付だ。史記にも沐猴(もっこう)にして冠すという文句がある位だからな、見物衆がさぞかし面白がるだろうて」

[やぶちゃん注:「史記」の「項羽本紀」の、秦を滅ぼした直後の叙述に基づく。以下に示す。

   *

居數日、項王見秦宮室皆以燒殘破、又心懷思、欲東歸。曰、富貴不歸故鄕、如衣繡夜行。誰知之者。說者曰、人言、楚人沐猴而冠耳。果然。項王聞之、烹說者。

(居して數日、項王、秦の宮室、皆、以つて燒けて殘破(ざんぱ)せるを見、又、心に懷思(くわいし)して、東に歸らむと欲す。曰はく、「富貴にして故鄕に帰らざるは、繡(しふ)を衣(き)て夜(よる)行くがごとし。誰(たれ)か之れを知る者ぞ。」と。說者(ぜいしや)曰はく、「人は言ふ、『楚人(そひと)は沐猴(もつこう)して冠(かん)するのみ』と。果して然かり。」と。項王、之れを聞き、說者を烹る。)

   *

訳しておく。

   *

 項羽は自ら焼亡させて荒廃した秦の都咸陽を眺め、そのさまに興醒めし、俄かに懐郷の念、抑え難く、

「大望を叶え、富貴の身となった今、懐かしい故郷楚に帰らぬというのは、凡そ、錦の晴れ着を着ながら、闇夜を行くのと同じことだ、誰が認めて呉れようものか。」

と言った。すると、側近のある遊説家が、

「ある者が言っておったが、『楚で生まれた者は、所詮、冠(かんむり)をつけた「猿」と同じだ』と。なるほどな、その通りだわい。」[やぶちゃん注:「猿が冠を被って気取って王と称しても、中身は所詮、猿は猿に過ぎぬ」という、粗野な人間を激しく嘲った揶揄である。]

と呟いた。

 これを聴いた項羽は、この男を釜茹での刑に処した。

   *

とあるのに基づく。]

 あたりを見廻して暗い皮肉な笑いかたをした。団長のうしろの衣裳箱の上には「お爺さん」が背をまるめて踞(うずくま)っていて、時々薄赤い瞼をあけて一座をぼんやり見廻したり、長い腕を伸ばして飛び交う蠅(はえ)をパッと捕えたり、自分のことが話題になっている事には、全然素知らぬ風情であった。もっとも素知らぬのが当然で、此の「お爺さん」というのは人類ではない。昔から此の曲馬団にいる、言わば子飼いの老猿のことなのである。

 もともと此の曲馬団は動物運が非常に悪くて、膃肭臍(オットセイ)に水をやり忘れて殺してしまったり、大金を出して算術の出来る馬を買い込んだらその後の訓練が悪かったのか神経衰弱を起して、使いものにならなくなったり、昔は自転車に乗れる猿も一匹いたのだが、御贔屓(ごひいき)から贈られたマカロニを五封度(ポンド)[やぶちゃん注:約二キロ五十七グラム弱。]もいちどきに食べて、胃を破裂させて死んでしまった。無病息災なのは此の「お爺さん」だけで、その代りこれは芸当は何にも出来ない。教えこんでやろうと随分(ずいぶん)訓練にも手がけたが、教えれば教える程「お爺さん」は頑固に身を固くして、たたいてもすかしても言う事を聞きはしない。ついにはしゃがみこんで、そうそう無理言ってわたしをいじめて下さるな、と言いたげな悲しい眼付で見上げるから、大抵そこで妙な気持になって匙(さじ)を投げてしまう。こいつには覚える能力が無い訳ではないのだ、覚える気持が全然ないのだと、手を焼いた団長が憎々しげに呟いたのを聞いた事があるが、これは私も同感だ。しかし遊ばしておく訳にも行かないので、奇術や曲芸の時などには舞台の片隅に箱を出して、その上にすわらせて置くが、そんな時でも「お爺さん」は観客を意識する風もなく、背中をかいてみたり蠅を捕えたりして独りで遊んでいる。老いの一徹という感じがする。「お爺さん」の腰には細い鎖が巻きつけてあって、その端はしっかと柱にとめられている。何故と言うと此の「お爺さん」には執拗な逃亡癖があって、思い立つと矢も盾もたまらなくなるらしい。此の前の町でも油断を見すまして脱走を企て、皆は大騒ぎであった。芸当をやる動物などというものは変になまなましく、親しみにくい厭な感じで、むしろ「お爺さん」の方がけものとしては本物だと私は思うのだが、芸も出来ない癖に逃げたがってばかりいてつくづく厭な猿だというのが皆の意見で、前の興行の惨めな失敗もこいつの為にけちがついたせいだと言い出す始末であった。

 全く此の前の町での興行はひどかった。何しろ入りがほとんど無く、場所が町有地という訳で町の役人らが財政困難を糊塗(こと)するためにおそろしく高い場所代を吹っかけて来たりして、天幕などを抵当に入れて金を借り興行をつづけたのだが、ついにどうにもならず団長の発案で夜逃げを敢行した位である。大言壮語はするがしんは気が弱い団長にしては大決心だったと思うが、場所代も借金も踏み倒しての決行だから、夜半から暁方にかけて大急ぎで天幕をたたみ大道具小道具取りそろえ、私どもは落武者のように敗走した。そしてやっと此処の町の外れにある河原にたどりついたという訳だが、団長は平気な顔を装ってはいるけれども、内心追手が来ないかとびくびくしている証拠には踊子の弓子が、毎日見に来る変な客がある、と報告した時には他処目(よそめ)にも知れる位ぎょっとしたらしい。弓子というのは梯子(はしご)乗りを専門にする若い娘だ。

「しょっちゅう来てるのよ。何時も同じ処にすわって私達の方は見ずに、ぼんやり舞台の隅っこを眺めていたり、天井を見上げたりするのよ。あの人何処かで見たことがあるわ。きっと前の町で見たんだわ。ああ、あの人は前の町の町長さんにそっくりだわ」

 話半ばにして団長は奇妙な叫声を上げ、あわてて飛んで行って舞台の袖から客席を眺めていたが、やがて打萎(うちしお)れて戻って来て、どうもそうらしいと頭をかかえているから、側から三五郎が、他人の空似ということもありますからと慰めるとそれで元気を取戻したのか、急に笑い声を立てたり変にはしゃいだりしたということだ。何しろ借金のことになれは天幕その他を差押えられて、曲馬団は潰滅することは必定だから、団長が一時的な惑乱に落ちたのも無理はない。しかし潰滅の予感がかえって団長に度胸をつけたらしく、その後は変に落着きはらって団長は皮肉な目付ばかりをキラキラさせている。その癖何でもないことにひどく神経質に腹を立てて怒鳴ったりするのだ。「お爺さん」に洋服を着せたらという私の提案に賛成したというのも、勿論(もちろん)確乎とした興行上の成算がある訳ではなくて、一か八かやってみようと考えたに違いないのである。しかし沐猴にして冠すなどと酒落(しゃ)れた事を彼は言ったが、此の言葉が此の場合持つおそろしい意味など感じている訳はないのだ。三五郎にだって判りはしないだろう。しかし三五郎は道化師だから、それを言葉としてではなく漠然と感じているかも知れない。

 三五郎は誠も落魄(らくはく)した道化師で、近頃は頓に芸に自信を失って来たようだ。曲芸師として私が此の曲馬団に入団した頃は、三五郎はまだ若くて颯爽とした道化師で、人気を一身に集めているような具合だった。その頃私は彼にこんな質問をしたことがある。

「道化とはつまり嗤(わら)われることなんだね」

「いいえ、道化とは人を嗤う精神ですよ」

 若い日の三五郎は眉宇[やぶちゃん注:「びう」。「宇」は「軒(のき)」。眉(まゆ)を目の軒と見立てて「まゆの辺り」「眉」の意。]に自信の程を見せてそう答えた。ところが近来、特に終戦後の観客は三五郎の芸を全然嗤はず、観衆の気持をはかりかねて彼は懊悩(おうのう)[やぶちゃん注:悩み悶えること。「煩悶」に同じい。]している様子だったが、ある日舞台で切羽つまって無意識に演じたある動作がワッと受けて以来、彼はその動作を芸の基調とすることに決心したと、ある晩三五郎は酔っぱらって私に告白した。

「俺はその仕草を無意識でやったんだがね、そいつは俺が発明したんじゃない、どこかで誰かがやった仕草だと、後でいろいろ心の中を探り廻しているうちに、ハッと突き当って驚いたね俺は。何だと思う。『お爺さん』の動作だったんだよ、それは」

 そして三五郎はたとえようもない悲しい表情をした。沈痛な声になって先を続けた。

「俺にはお客の気持が判らなくなってしまった。昔の客はそんなものじゃなかった。もし今の客が猿の真似なぞを喜ぶんなら、俺はそうやるより仕方がないのさ。だから俺は、俺は『お爺さん』の真似をやって行く」

 それから三五郎は暇さえあれば「お爺さん」の挙動をつぶさに観察していることが多かったが、その眼付は私が見る処によると、むしろ兇暴な殺気と憎悪に満ちあふれているように見えた。三五郎は「お爺さん」を憎むと同時に、その真似で生計を立てている自分を憎まずに居れないに決っているのだ。そう私は思う。その「お爺さん」が洋服を着用して舞台に現われたらどうだろう。本物が現われたら偽物が生彩を失うのは当然で、猿の猿真似などしている三五郎は直ちに面目を失うだろう。その予感が彼をして、人間様に対する冒瀆だなどと苦しまぎれを言わせたに違いない。しかし私がこんな提案をしたのはもともと三五郎を困らせようとする気では毛頭ないので、近頃入りが少いのも芸が偽物だから鑑賞に堪えないのだろうと察したから、それなら本物を見せてやろうとふと思い付いただけで、実を言えは私も「お爺さん」が洋服着た処を想像すると、背徳不倫に似た感じに堪え難くなる。それを超えて私が提案したというのも胸の底を探れば此の曲馬団の連中を幽かながらも憎む気持が私にあるらしいからで、当初の道化精神を忘れた三五郎や、いらいらして皮肉ばかり飛ばしている団長や、弓子に思いをかけている癖に女には眼もくれない風を見せたがる力業士(ちからわざし)の三光や、その他の面々の哀しい在り様を私がある感じをもつてしか眺め得ないからである。全く此の曲馬団でまっとうなのは私だけだと思うのだが、考えてみると周囲をうとみながらなお踏み止っている私が一番可笑しな存在かも知れない。私は私に絶望しているのだ。だから私は人間にも絶望しているのだろう。その絶望を確めたい為にも私は「お爺さん」に洋服を着せて舞台に立たせたくて仕様がないのである。それを見て観客は何を感じるだろう。痛烈な感じで眼が真黒になってしまうだろうと想像すると、私は年甲斐もなく胸がわくわくするのだが、しかし考えれば私は三五郎同様、観客の何が判って居るというのだろう。木戸銭を払って中に入りながら舞台に背を向けて、昼寝をしたり将棋をさしたりする近頃のお客の心理が私には判らない。戦争前私が曲芸師だった頃はそんなお客は居なかった。戦争に引っぱり出され、そして片腕を失って復員して来た私は、曲芸も出来ずに雑用夫みたいな形で再び此の曲馬団に雇われているのだから、舞台から客と対峙(たいじ)することはなくなったが、三五郎の言うように戦争このかたお客の様子が変ったというのも、思えばこの世に不思議が満ち満ちていて、かえって曲馬団の中に不思議が見出せないからではないのか。不思議を失った曲馬団ほど惨めなものはない。舞台に背を向けて将棋をさす男の方が、舞台の芸当よりもつと曲馬的だ。戦争以来娑婆(しゃば)の人間はすっかり変った。私が理解出来ない歪(ひず)みみたいなものを皆持っている。今日だってそうだ。舞台がはねて私が河原に出て夕涼みしていると、一人の老紳士が土手から降りて来て私に近づいた。

「つかぬことをお伺い致しますが」

 見ると此の暑いのにスパッツなど着けている。身なりの良い老人であった。

[やぶちゃん注:「スパッツ」spats。ここは本篇の最後の方の描写から、文字通り、山や雨天時に於いて足首と靴との間から雪や小石などが入るのを防ぐための、あの覆いであることが判る。]

「お宅でお使いになっているあの猿ですがな、あれを私にゆずって頂く訳には参りませんでしょうかな」

 少し突飛な申出なので私が黙っていると老人はあわてたようにしゃべり出した。それによると老紳士には十六年前に死去した父親があって、その風貌姿勢があの「お爺さん」にそっくりだという訳である。あの腕の長いところといい顱頂(ろちょう)に毛がうすれかけた具合といい、びっくりする程似ていて、眺めて居ると風樹の思いに堪え難いから、何とぞ自分の孝心にめでて金はいくらでも出すからゆずってほしいという話であった。冗談言っているのかと思ったら声音[やぶちゃん注:「こわいろ」。]は真剣で、私も返答に困って言葉を濁しておいたが、仲仲諦(あきら)めて呉れないので大層弱った。真者だか偽者だか判らない。とにかく人間離れがしている、こんな異常な人間に比べると、「お爺さん」の方がよっぽど人間らしい。沐猴(もっこう)にして冠すとはあの時団長が不用意に引用した文句だが、沐猴にして人間服を着用した徒輩の前であの「お爺さん」がどんな演技をして見せるのかと、その光景の予想は私に一種終末的な感じを伴って迫って来る。胸に幽かに尾を引く感じをたどって行けば、私は同時に此の曲馬団の潰滅を漠然たる形で予感しているのだ。その形の中で、私をふくめたおのもおのもが自らの醜く哀しい露床を、戛然(かつぜん)[やぶちゃん注:堅い物が触れ合って音を発するさま。]と掘りあてることが出来るだろうと、私は切に妄想しているのである。

 

 表方に聞くと、此の町には小さな洋服屋が一軒あるきりだという。身仕度をして出かけようとすると三五郎が呼止めた。

「洋服屋に行くのか」

 そうだと答えると、三五郎は厭な顔をして手を曲げ、耳のうしろをしきりに搔いた。それがそつくり「お爺さん」の仕草であつた。始めは人真似で莨(たばこ)を喫(の)んだものが不知不識(しらずしらず)の中にニコチン中毒に陥るように、三五郎の一挙一動にはもはや牢固[やぶちゃん注:「ろうこ」。がっしりとしていて丈夫・堅固なさま。]として「お爺さん」が根を張っているらしい。当人が意識していないだけそれは末路的な感じが深かった。「あんなやくざな猿を舞台に引っぱり出して何が面白いんだ」三五郎はうめくようにいった。「どうしてそんな厭なことを思い付くのだろう。戦争に行ってからお前もずいぶん性格が変ったな」

 三五郎はちらちら瞳をあげて私の右袖をぬすみ見た。私の右袖は中身がないから、袋のように肩から下っているはかりだ。三五郎のそんな眼付を私は非常に好まない。

「だって此のままの入りでは曲馬団も解散だよ。変ったところを見せなければ人は来やしない。解散となれはお前も飯の食い上げだ」

「だからよ、お爺さんに芸が出来るのなら洋服着せて出すのもいいだろうさ。何にも出来ないものを出すなんて悪どいふざけ方だ」

「どのみち今時の世の中はふざけだよ」と私は答えた。

「ふざけるなら徹底的にふざけたがいいのだ」

「そんなものじゃない」と三五郎はいらだたしげに頭を振った。「ここは少くとも曲馬団だよ。水族館とは違う。鳥目(ちょうもく)をはらってお客が見に来るのは、俺達の芸だ」

 芸とは何だろう。お客が見に来ない芸など有りやしない。人の見ていない処でやる芸などというものは、単に動作にすぎない。芸とはうぬぼれの凝集したようなもので、三五郎がことさら自らの芸を強調するのは、きっとうぬぼれを失い始めた証拠だと思ったから、

「芸とは何か三五郎には判るのか。芸とは、そいつは自信ということだよ」

「ああ、そうだよ」低い声になった。

「また人生とは自信のことだよ。生きるということは自信をなくさないということだ」

 少しあざけりの調子がこもったので、私もむっとして、

「ふん、俺が自信をなくしているというわけかね」

「お前は立派な曲芸師だった」急に顔を上げて三五郎は私をまっすぐ見た。「片腕をなくして曲芸が出来なくなったといって、何かを恨んだりしてはいけない」

「恨んだりはしないぞ。そんな処で俺がよろめくものか。俺は今でも芸人だよ。人間だよ。だから俺はまっとうなものしか認めないのだ」

「お爺さんを出すことがまっとうだと言うのか」

「陰武者の芸よりはまっとうだろう」

「陰武者?」三五郎の眼が俄に鋭くひかった。が、直ぐ力無く首を垂れた。「陰武者だっていいさ。本物なんかいやしない。本物は贋物(にせもの)さ。陰武者だって落伍するより立派だろう」

 身体を硬くして私が立っていると、三五郎も立ち上って私の肩に掌をおいた。袋の袖がふらふらと揺れた。

「此の曲馬団もどうせ解散だということは、俺もはっきり知っている。今日もあの変な客が来ているのだ。前の町から、様子をうかがいにやって来ているのだ。舞台からそいつの眼付を見ればすぐ判る。見物に来たものの眼の色じゃない。団長がいらいらしているのもそれだ。気の毒な話じゃないか。此処が潰れるのは団長の責任じゃない。といっても俺の責任じゃないよ。此の曲馬団も自然と命数が尽きたんだ。使命が既に終ったのだ。俺は二十年近く道化をやってきた。俺は一所懸命やってきた。俺は仕事を投げ出さなかった。しかし此処がつぶれたら、俺はきっぱり此の商売から足を洗うよ。仕事を、自分を投げ出さなかったということだけが、俺の心には残るだろう。だから、此の最後の舞台を、俺はあんな芸無猿の茶番で終らせたくないのだ。俺の為にも、団長の為にも、そしてお前の為にも」

 三五郎は私の肩から掌をすべりおとすと、ふらふらした歩き方で小舎の中に入って行った。その後姿がやはり「お爺さん」にそっくりであった。ふと胸に迫るものを押えながら外に出ると、水の涸(か)れた河床からの照り返しがぎらぎらと眼にしみた。草いきれを分けて土手にのぼり私は暑い往還をてくてく歩き出した。

 埃(ほこり)をかむった夾竹桃(きょうちくとう)の花が軒並に連なる街道を一町[やぶちゃん注:百九メートル。]程も歩くと、もはや背中は汗びっしょりになった。落伍者より陰武者の方が立派だと言い切った時三五郎は痛い眼付でまた私の袖をぬすみ見たが、あれは私を憐んでいるつもりなのか。腕がないばかりに再び曲芸師として立てないことを、私は落伍したとは考えない。少くとも頭の中ではそうは思わぬ。自分を失ってエピゴネン[やぶちゃん注:ドイツ語「Epigonen」。思想・文学・芸術などでの卑称としての「追随者」「独創性のない模倣者」「亜流」の意の蔑称。語源はギリシャ語(ラテン文字転写)「epigonos」で「後に生まれた者」の意。]に落ちた三五郎の方が落伍者だと、歩きながらそう胸の中で叫ぶ度に、私はちょん切れた肩のあたりに力を入れるのだが、しかし三五郎はたしかにそこらで自分を胡麻化(ごまか)しているに違いないのだ。自分を投げ出さなかったということを心に刻んで、それで足を洗おうなどあまり虫が良すぎる。三五郎が「お爺さん」を眺める眼があんなに憎しみにあふれているのも、三五郎は自分の絶望と対面するのが恐いのだと、そう思うと何故か山彦のように虚(むな)しいものが磅礴(ほうはく)[やぶちゃん注:広がって満ちること。満ち塞がること。]と私の胸の空洞に拡がって来た。

 

 教えられた道を歩いて行くと洋服屋は直ぐに見つかった。深い板廂(いたびさし)にとりついて蝉が一匹一所懸命に鳴いていた。出て来た洋服屋は山羊に似た顔をした大きな男で、その癖大変横柄な口を利いた。私がただ、洋服を仕立てて買いたい旨を申述べると、小さな眼で私を見詰めていたが、「君は闇屋か」と突っぱなすように言った。

 私が黙っていると更に重ねて、「いまどき闇屋ででもなければ背広は作れないからな」

「闇屋じゃないよ。俺は廃兵ですよ」

 服屋は私の右袖に気が付いたように眼をうつした。そして誰でもが作るあの表情をちらと顔に走らせたが、すぐ眼を外(そ)らして、

「気の毒だが猶(なお)のこと駄目だ。服の仕立というものはバランスの芸術だからな。腕の無い男の服など俺は作りたくない」

「作ってもらうのは私じゃない。私は使いの者ですよ。注文主は町外れで待っている」

 服屋は暫(しばら)く黙っていたがやがて、

「その注文主というのは君みたいな不具じゃないだろうな」

「いいえ、ちゃんと手足が揃っていますよ」

「――一言断って置くが、俺の仕立に注文はつけさせないよ。好きな型に作っても良いのなら引受けよう」

 注文つけないから好きなように作って呉れと私が答え、それから服屋と一緒に表に出て、また乾いた埃道(ほこりみち)を取って返した。歩きながら服屋は、自分は戦争中にも国民服の仕立を全然やらなかったと言って威張った。国民服ですら仕立てなかったのだから、現在派手な闇屋服など死んでも作る気にならないと言った。現代ほど洋服が侮辱された型で作られている時代はない。今の仕立職人は皆自棄(やけ)っぱちで作製に従事しているんだ。良心のある服屋など居やしない。

「俺が拵(こしら)えるのは英国風の高雅な型の服だ」

 終戦後そんな服を製作したことがないから、今度の注文は大層楽しみだと、始めて汚ない歯を見せて笑った。何だかその感じは下司で、言葉の横柄なのも生得のものでなく、変につくった感じで、あまりいい気分ではなかったが、こうして単純に喜んでいる処を見れば私は何だか後ろめたくなって、いろいろ言いそびれているうちに土手まで来た。川風に吹かれて踞(うずくま)った爬虫類(はちゅうるい)のような汚れた天幕小舎が眼の下にあった。何だサアカスじゃないかと言いながら、それでも服屋は土手の斜面を私について山羊のように駆け降りた。

 楽屋に入ると、団長は椅子に腰かけて腕を組み、埴輪(はにわ)みたいな顔で私達を見た。服屋ですよと私が言うと団長は立ち上ったが、顔色は悪く無表情のままだった。側には力業士(ちからわざし)の三光が、しょげたように腰をかけていた。さげすんだような薄笑いを浮べて楽屋を見廻していた服屋が、立ち上った団長に向って口をひらいた。

「洋服作りたいと言うのはお前さんかね」

「私じゃない」と団長は悲しそうな声で答えた。「私には服を新調する余裕はない。作って貰いたいのは、彼奴(あいつ)のだ」

 団長の顎(あご)のしゃくるまま、楽屋の隅に視線を走らせた瞬間、そこで服屋はあきらかに驚愕したらしかった。二三歩後すざりをしたが忽ち振返って私をにらみつけた。

「君達はきっと俺をからかっているんだな」

「からかいはしませんよ」汚ないものを踏み潰すような厭な気分に囚われながら私は言い返した。「前もつてお猿さんだと断らなかったのは悪いけど、とにかくあいつに似合う高雅な服をお願いしたいのです」

 幽かに鎖がじゃらじやら鳴って「お爺さん」が身じろぎをしたらしい。長い腕で膝を抱え、脅(おび)えたような瞳を此方に向け、高い声でキキッと鳴いた。こいつは鳴くだけしか出来ないんだと、低い呟きにふと惜しみが籠ったと思うと、団長は片手の鞭(むち)を威嚇するようにふり上げた。「お爺さん」は掌を額にあて燃えるような眼付で見返した。私はその時自分の手指がふるえるのに気が付いた。

「猿の洋服を俺に作らせようというのか」やがて落着きを取戻したらしく変に冷たい険のある声になって服屋が言った。

「この俺に、あの猿の洋服を」

「何故猿の服が作れないんだ」団長が突然聞きとがめていらいらした顔をふりむけた。「猿の服だって何だって、仕事に打込んでひけを取らないということは立派な事だ」

「そりゃ立派な事だろう。しかし俺はこれでも芸術家だぜ」

 その言葉を聞いた時団長の頰に毒々しい笑いがのぼって来た。鞭を上げて猿を指した。

「あいつだって芸術家だよ。お前さんにひけは取らない」

「ふざけるのはよしましょう。あの猿が何故芸術家なんだ」

「芸術というのは感動の表現だからな。あいつは何も芸当は出来ないけれど、洋服を着て舞台に現われるだけで、あいつは見物に痛烈な感銘を与えるのだそうだ。此処では唯一つの、天成の芸術家だよ」

 そう言い終ると団長は、何故かへんに冷たい視線でじろりと私にながしめを呉れた。服屋は黙って「お爺さん」の方を一心に見詰めていた。暑いのか服屋の額には大粒の汗が並んでふき上っていた。そしてそれは次々に頰に流れ落ちた。舞台の方からは破れたラッパの音が流れて来る。気の毒なようないら立たしいような変てこな感じに堪え難くなった時、やがて服屋が低い声で口を開いた。

「作れというなら作ってやりましょう。その代り少し高いですぞ」

「いくら位だ」

 服屋はふと小さな眼を宙に浮かせたが、直ぐはっきり叫んだ。

「二万円だ」

 団長の頰から急にうす笑いの影が消えて、もとの埴輪のような顔に戻った。鞭の先で長靴をぴしりと打った。

「よし払ってやろう。但し出来上ってからの話だ」

 寸法を取る時「お爺さん」はキャッキャツと叫んであはばれるので、止むなく私たちが手で押えていなけれはならなかった。「お爺さん」は顔を皺(しわ)だらけに歪めて身体を私の手の中でむくむく動かしたが、ただれた目蓋(まぶた)の端にうすい涙を溜め、訴えるようないろを眼いっぱいにたたえていた。服屋は蒼い顔になり、唇を嚙みながら黙々として寸法を取った。舞台から降りて来た三五郎も道化服のままそれを眺めていた。

 寸法を計り終えると服屋は直ぐ立ち上って出て行こうとしたが、振り返って拳を握って顔の前で二三度振った。

「お前たちが着てるよりもっともっと立派な洋服を、俺は此の猿につくってやるぞ。その時になって驚くな。ちゃんと金を用意して置け」

 服屋の肩を怒らせた後姿は入口の斜光を乱し、そして天幕の外に消えて行った。それを見送っていた団長が、何を思ったのか突然大きな声で叫んだ。

「誰か金箱を持って来い」

 三光が持って来た金箱をあけて、団長はその中を掌でかき廻した。

「皆見てみろ。いくらも入っていやしねえ」

「どうもすみません」と三光があやまった。

「あやまって済むことだと思うか」

 それから団長はしゃべっているうちに段々亢奮して来たらしく、椅子を立ち上ったり歩き廻ったりした。団長がたかぶっているのは、今の服屋の軒捨台辞(すてぜりふ)のためだけではなく、傍で三光が逞(たくま)しい肩をすぼめてしょげているところから見れば、どんなことが起ったのかと思っていると、今日の舞台で、三光が力業士のくせに重量上げで飛入りのお客に敗北し、懸賞金二千円を持って行かれたという話である。もっとも三光は先日まで麻疹(はしか)にかかっていて、こんな年頃になって麻疹にかかるとは可笑(おか)しな話だが、こんなに筋肉だけ畸形(きけい)的に発達したような男の内部にはどこか弱い未熟なところがあるのだろう、そのせいで体力も衰えていたに違いない。団長は鞭で長靴をしきりにひっぱたいた。

「懸賞金が惜しいだけで私は言っているのじゃない。専門家が素人に負かされる、そんな阿呆な話があるか。私が借金したり夜逃げまでして曲馬精神を盛り立てて行こうとしているのに、お前たちは内部から私に煮湯を吞ませるようなことばかりをする。此処へ来てもう借金が出来たぞ。四五日も経てはあの先刻のインチキな洋服屋にも二万円作らねばならん。寄席をのぞいて見ろ。どれだけお客が入っているか。(此処で団長は眉をしかめた。あの変な客というのを思い出したのだろう)お前たちは皆目自信をなくしているのだ。自信をやくざなものと掏(す)りかえているんだ。お前たちは皆偽者だ。お前もだ。お前もだ。(団長は一人一人指さしながら)お前達は揃いも揃って、みな糞土(ふんど)の牆(しょう)だ!」

「糞土の牆、とは何でございましょう」床に踞(うずくま)っていた三光がおそるおそる訊ねた。

うんこの垣根のことだ!」と団長は怒鳴り返した。

[やぶちゃん注:「糞土の牆」「糞土の牆は杇(ぬ)るべからず」。「論語」の「公冶長」出典の比喩。但し、「糞土」はダイレクトな「くそ」の意ではなく比喩。「ぼろぼろに腐った土塀は上塗りができない」で、「なまけ者は教育しても甲斐がない」という譬え。

   *

宰予晝寢。子曰、「朽木不可雕也。糞土之牆不可杇也。於予與何誅。」。

(宰予(さいよ)[やぶちゃん注:孔子の弟子の名。]、晝、寢(い)ぬ。子、曰はく、「朽木(きうぼく)は雕(ゑ)るべからざるなり。糞土の牆(しやう)は杇るべからざるなり。

予に於いてか、何(なん)ぞ誅(せ)めん。」と。)

   *

「杇」は本来は「鏝(こて)」のこと。ここは動詞。鏝で腐った土塀を上塗りする。「誅」ここは「責める・叱る」の意。]

「私も糞土のなんとかでしょうか」楽屋の隅っこから三五郎もかなしげに限を光らせて声を上げた。

「勿論そうだ。糞土以外のものであるか。お前の芸など全くのくすぐりだ。下司(げす)だ。あれで自信あるつもりかも知れんが、俺からみれば全くの遼東(りょうとう)の豕(いのこ)だ」ぐるっと見廻して今度は私の方を鋭く鞭でさした。「お前がまた、うんこだ」

[やぶちゃん注:「遼東(りょうとう)の豕」「遼東之豕」。狭い世界で育ち、他の世界を知らないため、自分だけ優れていると思い込んで、得意になっていること。独り善がり。「遼東」の「遼」は「遼河」で河の名。その東の現在の遼寧省南部地方の広域地名。「豕」は「豚」。出典は「後漢書」の「朱浮伝(しゅふでん)」に出る故事。昔、遼東地方の人が、飼っている豚が白い頭の豚を生んだのをたいそう珍しく思って、これを天子に献上しようと、河東(山西省)まで行ったところ、豚の群れに出会い、それが、皆、白い頭の豚だったので、自分の無知を恥じて帰ったという話に基づく。]

 ぎょつとして私が団長を見返していると、団長は眼をきらきら光らせながら鋭い口調で畳みかけた。

「猿に洋服を着せようなど、第一その思い付が気に食わん。ことに野卑な復讐の企みだ」

「だって良い思い付だとあの時賛成したではありませんか」

「賛成などするものか。お前の心根にぎょつとした位だ。嘘をつくのもいい加減に止せ。此の前の町で猿をわざと逃がしたのもお前だろう」

 言うことが一々肯綮(こうけい)にあたって来たから私は驚きながら、

[やぶちゃん注:「肯綮」物事の急所。肝心要の箇所。「肯」は「骨に附いた肉」で、「綮」は「筋肉と骨とを結ぶ筋や腱のような部分」を指す。「荘子」の「養生主」を出典とする。料理の名人の庖丁(ほうてい)が梁の恵王の前で牛を料理した際、その神技を褒めたところが、肯綮に刃物を当てさえすれば、自然に骨肉は切り離せると答えた話による。]

「そりや私じゃありませんよ。私が逃がすわけがない。結び目をひとりで解いて逃げ出したんですよ」

「まだ嘘を言うとる。お前が結び目をゆるめていた処を見たものも居るぞ」

 誰が告口したのかと思わず四周(まわり)を見廻すと、一座の眼がみんな射るように私にささって来て、これも団長の巧妙なわなかも知れぬと私がどぎまぎ考えをまとめかけた時、幸い団長の鉾先(ほこさき)が私を外れて再び三光に向ったからぼろを出さずに済んだが、今度は三光が毒舌に堪えかねて、毎日芋や雑粉を食わせられそれで人並の力が出る訳があろうか、と言い返したのをきっかけに一座は混乱に陥って、服屋にはらう二万円で白米を買えと怒鳴るやら、女の子が泣き出すやら、舞台の方は穴だらけで、止むなくいつもより二時間も早く打出太鼓を鳴らして客を追い出したのも、まだ夕陽があかあかと河原の玉萄黍(とうもろこし)の葉末を染めている程の時刻であった。

[やぶちゃん注:「雑粉」小麦粉以外の本来は食用にしないような穀類を粉末にしたもの。]

 

 こんな訳で「お爺さん」の服を注文したのが私の独断みたいな形になったが、考えてみるとすべての責任は団長にある訳なので、私は提案者だとはいえあとの点では雑用を果したにすぎないのだ。それにも拘らず一座の面々が私を眺める取付は変に険をもつていて、集っている処に私が入って行くと、急に皆黙りこんでしまったりする。まさか私を憎んでいる訳ではないだろうが、どうも変だ。そして言葉の行きがかり上、二万円払ってやると怒鳴ってから団長が、急にすべてに強腰[やぶちゃん注:「つよごし」。]になったのも、おそらく捨身の心境に到達したからに違いなく、あるいは洋服だけ受取って再び夜逃げを決行するつもりではないかとも想像された。しかしそれにも私には割切れない部分がある。暑熱と食物のせいか皆も何か元気がなくなって、演技の張りも何時しか失われているらしかった。相変らず客席の入りも悪いようで、楽屋に聞えて来る拍手の音もまばらである。楽屋のすみでは「お爺さん」が、物憂(ものう)げに鎖でつながれていた。

「此の前『お爺さん』を逃がそうとしたというのは本当なの」

 弓子が舞台用の赤い胴着をつけたまま、私に近づいて、低い声で聞いた。楽屋の壁になっている天幕の帆布の止金が朽ちかけていて、川風にともすればあおられそうになるのを、私は苦心して修繕しようとしていたのだ。私は金槌を置いて憮然(ぶぜん)として答えた。

「あんなに逃げたがっているものを繋いで置くことは、可哀そうだと思わないかね」

「そりゃ思うわ。しかし此処にいれば人蔘(にんじん)の尻尾だって何だって食べられるのに、なぜ逃げたがるんでしょうね」

「お爺さんは一人になりたいのだよ」

 金槌を取上げて又私は釘を打ちつけた。調べて見ると止金は次々朽ちていて、皆外(はず)れそうになっているのであった。弓子は可憐な溜息をついた。

「なぜ近頃皆あんなに苛々(いらいら)して、怒鳴ってばかりいるんでしょうねえ」

「人間だってぎりぎりの処は一人なんだよ。傷つけ合っているのは表面だけだよ」

「何だか皆憎み合ってるようだわ。三光さんはお爺さんを猿鍋にして食っちまうと言ってるわ」

「本当のことが判れば皆憎み合わなくて済むのだよ。何でもないことなんだ」

「貴方だって人を憎んでるんじゃないこと」と弓子がぽつんと言った。「だってお爺さんに洋服着せるようなことを考え出すんですもの」

 金槌を振う私の左手にふと力が籠(こも)って、気がつくと弓子は私の右袖を揺れないように指で押えていた。微かな苦痛が胸を走るのを感じながら、少し邪慳(じゃけん)に私はそれを振離した。

「俺は皆が好きなのだ。好きだからいやなんだ。俺は一人だと判っているから尚のこと此の団が離れられないんだよ」

「だって此処も潰れるわ。三五郎さんがそう言ったわよ。古里に帰って百姓するんだって。あんたはどうするの」

 白粉焼けのした弓子の顔が変に年増くさく醜く見えた。

「あなたは昔はとても腕の良い曲芸師だったんですってね。それも三五郎さんから聞いたわ」

「早く楽屋へお帰り、三光が見ている」

 天幕小舎の骨組になっている木材もほとんど朽ちかけていて、止金はいくら打ちつけても直ぐにゆるむものらしかった。女なんか腐った止金みたいなものだと腹立たしく、やがて金槌をほうり出して私も楽屋に入った。「お爺さん」は今舞台を降りて来た処で、鎖の端を三光に握られ、床を四足でヒョコヒョコと這っていた。私は眼をそらした。私はその時、「お爺さん」に服を着せるような思い付を次第に後悔し始めていたのである。そんな事をやって何になるだろう。洋服を着た猿などは子供の絵本の中だけで結構で、強いて笑いたければ三五郎の猿芸でも眺めれば結構なのだ。服を着た猿の痛烈な幻影は私の予感の中で真黒に光るだけで、現実に舞台に「お爺さん」が出たとしても、後味の悪い笑い声をのこしたまま、やがて観た人の脳裡から薄れてしまうだろう。ひとりよがりで私が考えていたように、その舞台によってお客が殺到することは先ずないであろう。そうなれば二万円の洋服などというものは、ぼろ片[やぶちゃん注:「ぼろきれ」。]よりも価値がなくなって、落語の蜜柑の袋のように大事にそれを抱えて、再び山越えして夜逃げを敢行する羽目になるかも知れない。しかし本当を言えば、それは始めから私に判っていたことなのだ。茶番というのは「お爺さん」を舞台に出すことではなくて、まことにそのことだと思うと、団長が私をののしって野卑な復讐と言った言葉が、俄(にわか)に鋭い悲しみとなって胸に突き刺さって来た。復讐とは何だろう。私のような現実から手痛いしかえしを受けている身にとって、私は自分も他人もひっくるめて人間というものに弱々しく嘲けり返すのがせい一杯で、それをすら野卑と言うならば、こんな羽目に落ちてもまだ絶望せず無感覚な営みをつづけて行こうという一座の連中は何と言っていいのだろう。それを思うとすべては朽木に止金をつけるよりもっと果敢ない感が湧き上って来るのだが、此の無感動な錯綜の中であの変な服屋が作る洋服だけが着々裁(た)たれつつあるのだと気付くと、私は奇妙な焮衝(きんしょう)を押え難く、居ても立っても居られない気持になってまた身仕度して服屋の店に出かけて行った。

[やぶちゃん注:「落語の蜜柑の袋」上方落語の知られた名品「千両蜜柑」のエンディング。ウィキの「千両蜜柑」の「上方版」の終りの部分を参照されたい。

「焮衝」原義は身体の一局部が赤くはれ、熱をもって痛むこと、炎症であるが、ここは感覚上の譬え。]

 御免と言って店に入ると、あの服屋は裁刀[やぶちゃん注:「たちがたな」。衣服を縫う時、布を裁ち切るのに用いる刀。鑿を太くしたようなずんぐりした形状を成す。]を逆手に握って裁台にかぶさっていたが、血走った小さい眼を上げてじろりと私をにらんだ。見るとあの洋服らしく、すでに七分通り出来上っているようすである。服屋はそれを私の眼前でピラピラ振って見せ、怒ったような口調で言った。

「どうだ。よく見ろ。こんな立派な服が近頃あるか」

 子供服の型とも違う変に凝縮した形の服だが、生地は茶色の上等のホウムスパンであった。仕立は丹念に出来ているらしく、服屋の顔はむくんで無精髭が密生しているところから見れば、或いは精をつめて此の仕事にかかっているのかも知れなかった。こんな仕事に精魂つめているらしいことが、何故か突然私の嫌悪を烈しくそそった。服を手にとり私は気持を殺しながら裏返して見た。

[やぶちゃん注:「ホウムスパン」homespun。手織り布。]

「なるほど立派な仕立ですね。少し形が可笑しいが」

「あたりまえよ。猿の身体に合せて作ったんだ」

 バランスが取れていないような気がする、と言いかけて私は口をつぐんだ。服屋の山羊のような眼が、簒奪(さんだつ)者のそれのように光ったからである。暫(しばら)くして私は服屋の店を離れた。

 又暑い街道をてくてく歩きながら考えていると、汗がやたらに滲(にじ)み出て、佗(わび)しい片側町に莢竹桃(きょうちくとう)だけが重く汚れた花をつけているのが、いやに暑苦しく思われた。一体あの男にあんなに精魂詰めさせる情熱とは何か。芸術の名に於て猿公の洋服をつくるなど、悪魔に魅入られた者ですら考え得ない悲惨な行事だが、考えてみると一度は逃がしてやろうと試みもしながら、今度は改めてあの「お爺さん」にストレート・ジャケットみたいな洋服を着せてやろうと思い付く私自身も、言わば同じく情熱の奇怪な偏向から逃れられないでいるのだろう。裁刀を逆手にかまえてあの服屋が確めようとしているのは、服型のバランスではなくて、胸にしまった平衡器の狂った目盛なのだろう。そう思うと私は腹に重たく沈みこんで来るものを感じながら疲れた瞼をあげると、埃の街道を小うるさく行き交う荷馬車の響きが耳におちて、荷曳(にびき)も馬も嘔(は)きたくなるような黄色い麦藁帽(むぎわらぼう)をかむっているのが何とも目に恥みた。掌を額にかざして陽を避けながら歩いて来るうち、曲角に小さな風呂屋があって、私はやり切れなくなって何となくそこへ飛び込んだ。毎夕河原で水は浴びているのだが、脂肪の層で身体中がべとべとになつているような気がする。狭い脱衣所で衣類を脱ぎ、ぬるい湯槽に顎(あご)までひたると私は思わず大きな溜息が出た。咽喉(のど)のところまで何か黒いかたまりが上って来るような気がする。手拭いで顔をぬらして、ふと見ると私の顔の前に、湯から生え出た茸みたいな首があつて、あはっというような咳(せき)をして、待ちかまえたように私に話しかけた。

[やぶちゃん注:「ストレート・ジャケット」「straightjacke」。凶暴な人を拘束する手段として、腕を胴体に固く縛り付けるために使われるジャケットのような拘束着のこと。]

「そこでこないだの話はどうなりましたかな」

 何のことだか判らない。人違いをしているのだろうと思つて私が他をむいていると、

「お金のことならなんぼでもお出し致しますがな」

 それではっと思い出すと、それは少し驚いたことにはあのスパッツを着けた老紳士の顔であった。生真面目そうな口調でおそろしく抑揚のない声なので、心の中では何を考えているのか知らないが、それにしても、まだこんなことを言っているのかと私は束の間の平静を乱されて少し腹立たしくなって来たが、男の首は探るように私を眺め廻しているのであった。先程の服屋といい此の老人といい、何と妙な処に力感を入れて来るのだろうと、黙って手拭いで頭を濡らしながら見返しているうちに、ふと私の胸にある企みが湧いて来て、私はよく考えもしないで口を開いていた。

「なんぼでもって、いくら位出す積りです」

「そりや、二千でも三千でも、おっしゃるだけすぐ持って参りますよ」

「二万円なら如何ですか」

 大へん驚いたらしく老人は変な咳を二三度したが、「二万円。二万円」と探るように呟き始めた。比の前の時は少しねじが狂った感じであったが、今日は顔だけ眺めているせいか仲々まっとうな感じで、ふとこちらが狂っているような錯覚に落ちた。たかが一匹の猿に二万円出せなど、少し気が変らしいと、老人が考えているのではないかと思うと、少し居づらくなって湯槽を出ようとしたら、老人は手拭いで湯をぴちゃぴちゃ叩(たた)きながら、

「いやあ、またいずれ」確かな声音であった。

 追われるように服を着けながら、思えば異常も正常も人間の決めた約束ごとで、ことに今の乱世では各自が自分の信じることを行うことが真実で、他人を異常と思うこと自身が既に正常ではないのかも知れないと考えた。そしてあの老人が、どうにか二万円持って来るのではないかという気が一寸したが、風呂屋の外に出てみたらもう老人のことなど忘れてしまった。また暑い道を歩いた。

 河原の天幕小舎にもどって楽屋に入ると、雰囲気が何となくざわざわしているから、弓子をつかまえてどうしたのだと訊ねると、また「お爺さん」が逃亡しようとしたのだと言う。柱につないだ鎖の環がどういう訳かはずれていて、やっと追いつめて捕えたけれども、ずいぶん引搔かれたものもいるらしい。私が居れば或いは私に疑いがかかる処だが、此の前のいきさつもあつて今度は三光に疑いがかかり、それで一揉(ひとも)めしたとの話だ。見ると三光は渋団扇(うちわ)のように張った肩を柱にもたせ、衣裳箱につながれた「お爺さん」の顔をじっとにらんでいた。あの日以来団長の命令で、懸賞力比べの演(だ)し物は廃止となり、そのため三光はひどく自尊心を傷つけられたらしく、楽屋で休んでいる時など突然大声を立てて衣裳箱を目よりも高く持ち上げてみたり、夕食の粉団子を他人の五六倍も食べて見せたり、少し奇矯な行為が多かったが、しかし私には三光が猿の鎖を解いたとは信じられない。三光の持っている自意識とは、せいぜい惚れた女にさげすんだポーズを見せる程度の気持の裏返しなので、猿の鎖を解き放つような高遠で愚劣な所業を犯す筈がない。頃日(けいじち)揚言したというように思い立てば猿鍋にしていきなり食ってしまうに違いないのだ。眺めている中に私は此の古びた麵麭(パン)のような筋肉のかたまりが大へん気の毒になって来たので、慰めてやろうと思って近づいて行くと、「お爺さん」をにらんでいたように見えた彼の眼は実はぼんやり疲れをたたえていて、見開いているだけで、私の跫音(あしおと)に鈍く振り向いたが、それと認めるとへんに物憂い調子でひとりごとのように言った。今まで考えていたことの続きを、ふと脈絡もなく口にしたという具合だった。

うんこの垣根とは、ありゃ何のことだい」

 そして打ちのめされたような笑いを頰にうかべたが、今度は聞えるか聞えないほどの幽かな声でささやいた。

「今朝は弓子と何をひそひそ話してたんだい。俺の悪口か」

 こう私にささやきかけながら、その癖三光の眼は遠くばかり見ていて、私の方は少しも眺めていないのであった。この男が猿の鎖を解くわけがないのだ。誰か他の人間が解いたに違いないのだ。誰だか判らないし、勿論私ではない。しかしそれはどうも三五郎であるらしい。その後の情勢から見て何となく私はそう思う。

 それはそれから三日後のことで、客を打出して後、川上の農家から物交(ぶつこう)[やぶちゃん注:物々交換。]で仕入れた焼酎を、私が河原で夕涼みがてら傾けようと楽屋の裏口まで出て来ると、今まで河水を浴びていたらしく三五郎が身体を拭きながら戻って来るのとぱったり逢った。三五郎は私が抱えた瓶をじろりと眺めたが、一寸険しい声になって、何処へ行くのだ、と私に聞いた。河原で飲もうと思う旨を答えたら、硬ばった笑いを頰に浮べて、

「なるほどな。祝い酒という訳か」

 ひどくさげすむような調子なので、まだ「お爺さん」のことにこだわっているのかと、私も悲しく立ち向う気配を見せて、

「そりや悪かったな。しかし酒でも飲まなきゃ自信が出せないからな」

「酒のむのはお前の勝手だが、洋服の進行状態は一体どうだい」

「もう仮縫(かりぬい)が出来上って来る頃だ。気になるのか」

「しかしそれをお前は爺さんに着せるつもりか。爺さんが舞台に出る前に此の曲馬団が潰れることは、お前だって百も承知だろ」

「そんな事が俺に判るものか。どうせ潰れるものなら俺は只あの気の毒な爺さんに一度は晴の舞台を踏ませてやりたいと思うだけよ」

「そいつは存分ひねくれた言い方だな。そんな事ばかり考えているから、爺さんが腹を立てて逃げ出そうとするんだ」

 さては鎖を切ったのは三五郎だな、と私がその時気が付いてそう言おうとすると、三五郎はおっかぶせて、

「で、売渡しの話はもう済んだのか」

「それはどういう意味なんだ」

「白ばくれているな。何もかも判っているんだぞ。前の町の追手と何時の間にかこそこそ連絡しやがって」

 言う事の意外に私は驚きながら、

「お前が言うのは町長に似たという男か」

「そうよ。団長が怒っているのもそのせいだ」

 私の思い付に賛成して置きながら、あの時それを覆(くつが)えして私を罵(ののし)った団長を、私は絶望しかかった人間の末期的症状とばかり思っていたのだが、しかしそれにしてはどうも変だと感じられたのも、こんな奇妙な罠(わな)があったのかとむしろ可笑(おか)しくなりながら、

「お前達はほんとにやくざな人間だな。そんな出鱈目(でたらめ)をなぜ信じ込んでいるのか。祝い酒とはそんな積りで言ったのか」

「まだ白を切る。では聞くが此の前猿を逃がしかけた男が、何で発心して洋服を着せようというんだ。そんな男の言うことが信用出来るか」

「そりゃ、お、おれの心の問題だ。お前に何の関係があるか。お前の怒った顔はお爺さんそつくりだぞ。俺の真似して爺さんの鎖を切ったりして、自分だけ無傷でいようなど飛んでもない話だ。道化とは嗤(わら)う精神だと言ったじゃないか。嗤う精神とはな、自分を投げ出す処から始まるんだ」

「いいようなことをよくしゃべるな。片腕投げ出すみたいに行くものか」

「そんな事を言うのか。三五郎。そんな眼付で俺を見るのは止せ」

 三五郎はキラキラ光る眼で私の右袖をじっと眺めていたが、

「お前は俺を憎んでるんじゃないだろう。お前は失われた自分の片腕を憎んでいるのだ」

「そう思うならそれで結構だ。たとえばお前がお爺さんを憎むようにな」

「憎むものか。傾が憎むものは人間のひねくれた根性だ。はっきり言って置くが、此処が潰れて皆失業者になって、その時一番困るのは片輪のお前だぜ。俺なんざどうでもなる」

「三五郎」と私は呼びかけた。「俺はな、俺の右袖をチラチラ気の毒そうに眺められるより、今のように片輪だとはっきり言って呉れる方がよっぽど有難いのだ。ところがお前は、片輪などと言ったら俺が参ると思っているのだろう。俺は此処を潰そうなどと、そんなけちな事を考えゃしない。俺が潰したいのは他のものだ。そう言ったってお前には判りゃしない。まだお前は、俺が追手と密談したなどと、痴(たわ)けた中傷を信じているだろう」

 そう言い捨てると私は瓶を抱きかえ、背中いっぱいに三五郎の視線を感じながら歩き出した。私の心は重く暗かった。何か私の知らない罠みたいなものが周到にあちこち張りめぐらされていて、それが人と人との関係を縦横に歪めているらしいのだが、その歪んだ流れの中に私も何時しか引きこまれて、何にも判らないうちに私は溺れかかっているらしい。人間は誤解の形でしか他人を解釈出来ないものだろうけれども、ことによると私は私自身を誤解しているのではなかろうかという疑念が、荒涼たる形で私の頭の中に拡がって来た。

 私は河原の夏草の薄い斜面に腰をおろした。ここから天幕小舎は一望の間に見えるのである。斜陽を受けた天幕はその灰色の生地をかくして、緑や金にきらめいて見えるのだ。生地に残った胡粉(ごふん)が光線の加減で輝くのである。私は瓶の栓を口で抜き、静かに唇をあてた。咽喉(のど)を焼いて強烈な液体が胃に流れて行った。そして暫(しばら)くすると身体中が熱く疼(うず)いて来た。私はまた静かに唇をあてる。

 先刻の会話が何かかなしく後味を引いていた。私は酔いが次第に廻って来るのを感じながら、右袖を後ろにはねた。なぜ私はあんな心にもないことをしやべったりするのだろう。あの痛いもののように私の腕をぬすみ見るたくさんの眼を、私はその時想い出していた。私は憐れまれたくないのだ。酔いに沈んだ頭の片隅でそう考えた。憐れみを憎むこととは、しかし何だろう。それを拒むことで私は何を得たのか。そして私が探りあてたと思ったものは鉱石の露床ではなくて、何かどろどろした汚物であったのかも知れないのだ。

「糞土の牆(しょう)だって何だって良いや」と私は呟いた。そうしてまた瓶を傾けた。その時瞼のうらに突然、延々と重なりつづく黄色の宏壮な壁の幻が蜃気楼(しんきろう)のように浮び上って来た。それは私が大陸で、片腕を失った瞬間に眺めていた城壁にも似ていたが、またもっとなまなましく身に迫る堆積(たいせき)のようでもあった。ある灼熱感が私いっぱいを満たしていた。その束の間の幻を破って、雲を脱けた斜陽が河水を弾(はじ)いた直光となつて、ぎらぎらと瞼に沁みて来た。 

 

「お爺さん」の洋服が出来上って来たのはその翌日のことである。昼過ぎから風が立って河原の玉萄黍(とうもろこし)がいっせいになびいた。天幕小舎の上を風が乾いた音を立てて渡り、その度に帆布はばたばたと騒いだ。

 舞台の袖の床に釘が出ていて、せんから往き帰りに靴が傷(いた)むということなので、釘抜で私が引抜きかけていると、出を待っていた弓子が気味悪そうな声を立てて、

「また来てるわ。あの人」

 と呟くのが聞えた。何だいと私が訊ねると、弓子は変な表情で私を向き、しばらく黙っていたが、

「あの人よ。町長さんよ」

 冷淡な口調で、その眼付も今まで弓子に見たことがない堅い色であった。私がどうかしたのかと立ち上り、袖から客席をのぞくと平土間には四十人程の客がまばらに散っていて、その一角を弓子は鋭く指しながら、耳の傍で低く険しくささやいた。

「こないだあの人と河原で話してたというんじゃないの」

 その言い方が変に憎しみに満ちているので、もうこんな女の子にまでその中傷は行き渡っているのかと、弓子の指す方向に瞳を定めたとたん、私は思わず何か叫びかけて口を抑えたのだ。

 粗板を渡した腰掛の上に上体を少し反(そ)り、顔をあちこち動かしているのは、紛(まぎ)れもなくあのスパッツの老紳士であった。そして、彼の視線が偶然、袖からのぞいた私に落ちたらしく、頭を固定させたまま腰を浮かすらしかった。

 あわてて顔をひっこめて弓子と顔を合わすと、先刻からじっと私の挙動を見詰めていたらしい弓子は、唇を一寸歪めてはきすてるように言った。

「あんたも変な人ね」

 変なのは私じゃない、皆じゃないかと、私は急に可笑しくなって来て、返事もしないで弓子を見返している中、考えてみると誤解の内容があまり簡単なので、弁明すればするほど、私は疑いを増されるような具合で、だいいち親爺に似ているから猿をゆずってくれなどと、いくら血迷った一座の人でも信用しないだろう。そしてそれを私が半ば信じているということをどんな風に説明したらいいのだろうと考えていると、何か訳の判らない不安なものがじわじわと私の胸の中に拡がって来た。それは奇妙に浅く底が割れたからくりの奥に、自分等の漠然とした脅(おび)えをあの老紳士に仮託していた一座の人々の心情の在り方が、俄に破局的な感じで私を貫いて来たのである。

 それは誠(まこと)にいやな予感を伴っていたので、それを押し殺しながら顔を背けて私はもとの仕事に取りかかろうとした時だった。私はきっと可怖(こわ)い表情をつくっていたに違いないと思う。縛って釘抜を拾い上げようとしたら、弓子が急に大きく息を引いたので、首をねじむけようとすると、楽屋の天井を洩れる青い光が少し乱れて、裏口の扉がぎいと鳴った。そして背光に黒く浮き上ってきたのは、身体の恰好であの服屋だとすぐに判った。釘抜を取りおとして私は立ち上った。釘抜は床でポクッとにぶい音を立てた。

「仮縫だ」と服屋は私を認めて静かな声で言った。「猿をつれて来い」

 近づいて見ると風の為か服屋の髪はばらばらに乱れていて、小脇には小さな洋服箱をかかえていた。床におろして開くと白い縫糸の筋を入れた小さな洋服が、服屋の憎悪のかたまりのように茶色に整然と畳まれて納っていた。服屋は長い指で髪を乱暴にかき上げた。

 暫くすると団長やその他の連中がぐるりに集って来た。舞台では三五郎の芸が今終る処らしく、散らばった笑い声が風の音に交って流れて来た。

「お爺さん」は服屋が入って来た時から、此の前の日の記憶を取戻すらしく、三本足[やぶちゃん注:ステッキを突いているのである。]で立ち上ってしきりに身をしざらせた。そして帆布の壁に背をあててこちらを燃えるような眼で眺めた。風が吹きつける度に「お爺さん」の部分をのこして、帆布は内側にわかれてふくらんで来た。それは丁度厨子(ずし)の中に納った邪神の形であった。「お爺さん」の眼は緑玉のようにきらきら光った。

 弱い者を犯すような厭な気持に堪えながら、鳴き叫ぶ「お爺さん」を私はしっかと押えつけていた。手の中で柔かい癖にこりこりした「お爺さん」の肉体が神経的に慄えていた。妙に官能的な嗜虐(しぎゃく)と、それへの嫌悪が一緒になって、私は力みながら服を着せる服屋の据を眺めていた。それはもやしのように青白く長い指であった。それを見守る皆の顔が、いちように私と同じ表情を浮べていることを、私は皮膚ではっきり感じ取っていた。

 チョッキの釦(ぼたん)がはめられ、上衣の袖を通す時、細い「お爺さん」の腕の毛が、逆さにざらざらとけば立った。手首まで抑えられた「お爺さん」の薄赤い掌が、私の右袖の袋の先をしっかり握りしめていた。

 発作のような鳴声が次第に低くなってきた。服を着せるために外した鎖が、衣裳箱からずるずると流れ落ちた。着付が終ったのだ。

 私は汗でべとつく手を離して立ち上った。

 何時舞台から降りて来たのか、三五郎が道化服のままひっそりと私の側に立つていた。赤インキを丸く塗った頰がそのまま硬ばって、一寸別人のように見えた。

「似合うじゃないか。立たせて見ろ」

 団長がかすれた声で言った。ひどく苦しそうな表情であった。

 その時裏扉をコツコツと叩く音がした。風に交った礫(つぶて)が吹きつけるのかと思ったら、間を置いてまた叩く音がした。

「誰だね」と私が怒鳴った。

 ギイと鳴って扉が半分開き、半白の頭がゆるやかに現われて来た。そして身体が扉を押して入って来た。私は逆光の中でその男の細い縞ズボンと赤靴の間に、うす白く汚れたスパッツを見た。しまった、という感じが起る前に私は周囲のざわめきが一挙に凝縮する気配を感じて、思わず身体を硬くした。いま時どんなつもりで此の老人は此処に入って来たのか。先刻私を見て腰を浮かしかけた姿が急によみがえって来た時、もはや老人は私に視線を定めて、例の生真面目そうな抑揚のない口調で口を開いた。

「つかんことをお願いに上りましたが、あのお金の話でございますが――」

 そして老人は此の座の変な気配に気付いたらしかった。そこで言葉を切ると頭をかしげてうかがうような瞳色となったが、衣裳箱の上の「お爺さん」を直ぐに認めたらしい。二三歩前に出ながら間のぬけた感嘆の声を立てた。

「ほお。洋服を着ておいでになる」

「お金の話とは何だ」

 団長がかすれた声で誰に言うとなくあえいだ。誰もしんとして返事しなかった。

 皆の視線が私に集中しているので、身じろぎも出来ないのだが、しかし私が何とか口を開けば一挙に混乱におちるだろうという重苦しい予感が、なおのこと私をしめつけていた。私は瞼[やぶちゃん注:ママ。これでもシチュエーションからは私はおかしくないと思う。]をやっと動かして「お爺さん」に視線をうつした。「お爺さん」は衣裳箱の上に後足で立ち上っていた。そしてしきりに服の胸の部分をかきむしる動作を操り返していたが、脚が何か重みに堪えかねてくず折れるようすであった。ズボンの先からは黒い蹠(あし)がふるえていた。胸をかく動作は何かもだえる形に見えた。その姿体は人間のもだえる姿よりもつと深く真面目であった。錐(きり)を刺されるような苦痛を感じながら、私はじっと眼を動かさないでいた。「お爺さん」を眺めていることよりも、それに視線をしばられていることの方が苦しかった。私は頰の先にも、三五郎の刺し通すような視線をぴりぴり感じているのである。

 またひとしきり風が吹きおこって、天幕に砂利を吹きつけた。帆布が鳴りながらふくれ上る。朽ちた止金が厭な軋(きし)みを立てつづけたと思った時、釘がはじけ飛んだらしく微かな音が木材にぶっつかり、帆布の一部がぱっと捲(まく)れてひらひらと翻(ひるがえ)った。風はそこからどっと吹き入った。思わず顔をおおおうとして、私は「お爺さん」の脚が急激に曲げられたのを見た瞬間、「お爺さん」の身体は黒いかたまりになって風に逆(さから)って外の方に飛んだ。

「逃げた!」

 誰の声だか判らない。視界が突然入り乱れて、私も立ち上ろうとした時、糞ッと言う声と共に道化服の華美な色調が一ばいに迫って来て、何だかそこらが無茶苦茶になって、人の足や手が動き廻り、音が鳴りひびいて皆が猿を追っかけるらしい。何が何だか判らない中に私はしっかと三五郎から組み伏せられていた。

「貴様が。貴様が!」

 あえぎながら罵る三五郎の身体から、私は左肩を下にして抑えつけられていた。三五郎の両脚は私の胴をからんでいて、私の咽喉首(のどくび)を三五郎の熱い手がしめつけていたのだ。床が肩に烈しく当り、骨がごろごろと無気味な音を立てた。三五郎の指がきつく咽喉に食い込んで来るので、私は左手を床から抜こうとあせるのだが、右肩の支えがないので、ただ上半身がくねるだけであるらしい。汗で滑るのを追っかけ追っかけ、三五郎の指が頸動脈(けいどうみゃく)を圧して来て、私はもう少しで頭がしびれるような気持に落ちながら、顔を必死の努力で横に倒した。捲れ上った天幕の穴から、土手の一部が区切られて見えた。

 その一瞬の区切られた風景の中で、土手の端を「お爺さん」は茶色の服をまとったまま凄まじい速力で駆けていた。豆粒ほどの上衣の裾が風にはためいていた。その七八間[やぶちゃん注:約十三~十四メートル半。]後を色んな人が走っていた。長靴をつけた団長もいたし、細いズボンの老人もいたし、髪をなびかせた服屋もいた。両手を上にあげるような走り方で、皆そろって大豆粒ほどに見えた。頭に血が来ないせいか風景が黄色く色褪(いろあ)せて、古絵のような現実感のうすい背景の中を、小さい人と小さいけものは素晴らしい速度で駆けていた。土手は黄色く色彩を喪(うしな)い、まるで城壁みたいに凹凸がなかった。もはや幻影に近い黄色の城壁の上をさんさんたる陽光にまみれながら駆け行く群像の影絵は、既に人間やけものの属性を失って、奇怪な悪夢のような人形芝居の一場面であった。

 ある灼熱(しゃくねつ)が身体から手脚の先に電流のように走った。言いようもない深い烈しい悲哀の念が私の胸を荒々しくこすり上げて、私は充血した顔から頭から、汗とも涙とも知れぬ熱いものをいっぱい吹き出しながら、はずみをつけて三五郎をはねとばすと、左手をあげて転がった三五郎の身体の上に猛然と摑(つか)みかかって行った。

  

小泉八雲 夢飛行  (岡田哲蔵訳)

 

[やぶちゃん注:本篇(原題“Levitation”。私は心霊学や超能力絡みの妖しい語句である「空中浮揚」と訳してもみたい衝動に駆られる)は一九〇〇(明治三三)年七月にボストンの「リトル・ブラウン社」(LITTLE,BROWN AND COMPANY)から出版された作品集“SHADOWINGS”(名詞「shadowing」には「影」以外には「人影」・「影法師」・「影を附けること」・「尾行」などの意味がある。本作品集の訳は概ね「影」が多いが、平井呈一氏は「明暗」と訳しておられ、私も漠然とした「影」よりも、作品群の持つ感性上の印象としてのグラデーションから「明暗」の方が相応しいと思う。来日後の第七作品集)の第一パート“STORIES FROM STRANGE BOOKS”・第二パート“JAPANESE STUDIES”(「日本に就いての研究」)の次の最終第三パート“FANTASIES”の第四話目に配された作品である。本作品集は“Internet Archive”のこちら(出版社及びクレジットの入った扉表紙を示した)で全篇視認できる(本篇はここから)。活字化されたものは“Project Gutenberg”のこちらで全篇が読める(本篇はここから)。

 底本は英文サイト“Internet Archive”のこちらにある、第一書房が昭和一一(一九三六)年十一月に刊行した「家庭版小泉八雲全集」(全十二巻)の第七巻の画像データをPDFで落として視認した。

 訳者岡田哲藏氏については先行する「小泉八雲 夜光蟲(岡田哲蔵訳)」の私の冒頭注を参照されたい。

 傍点「○」は太字下線に、傍点「ヽ」は太字に代えた。

 

 

 

   夢 飛 行

 

 或る階上の窓から私は黃色の家屋の街路を眺めて居た、――或る植民地の舊式な、狹い街路、その瓦の屋根の上には椰子の梢が見えて居た。影は何處にも無い、日が出て居らぬ、――ただ早い黃昏の樣な灰色の柔らかい光ばかり。

 突如、私は窓から落下する自分を見た。私の心臟は恐ろしさに惱ましく一躍りした。然るに窓から舗道迄の距離が豫想より餘程長く、私は恐れながら、不思議に思ひ出した。それでも落ち、落ちつづけた、が恐れた擊突は來たらぬ。それから恐れが止んで、妙な快さとなつた。私は急に落下せずに、ただ流れ下るのがわかつた。その上に私は足を前にして浮いて居る、降る[やぶちゃん注:「くだる」。]うちに向きが變つたに違ひない。終に石に觸れたが、極めて輕く、しかも片足だけで、すぐに私はその觸接でまた上に行つた、軒の高さに登つた。人々は立ち止つて私を見つめた。私は人間以上の力の歡喜を覺えた、しばらくは神の樣に感じた。

 それから徐ろに降りはじめ、私の下に集まる人の顏が見えると、見物人の頭上を越えて、街路を飛行するやうに急に決心を促れさた。再び私は泡沫[やぶちゃん注:「しぶき」或いは「うたかた」。]の如く昇り、それから同じ衝動で、自ら驚くばかりの距隨まで一大弧線を描いて流れた。私は少しも風を感ぜぬ、ただ勝利の運動の喜びを感ずるばかり。再び鋪道に觸れて一躍して百ヤード[やぶちゃん注:凡そ九十一メートル半。]ばかり翔つた。それから街路の端末に達して、囘轉して驚くき高度の長い緩かな空中飛躍をして、大きく舞つて飛び返つた。街路は死せる如く靜であつた、多くの人々が仰ぎ見て居たが、何人も談るものは無い。人々は私の業蹟を何と思つたらう、また如何に容易にその事が出來たかを知つたら何といふだらう。全く偶然に私はその仕方を知つた、それが行蹟と見えたのは外の何人も曾てそれを試みたものがないだけの事だ。本能的に私はこの發見に到れる由來に就て何か談るのは不謹愼なことだと感じた。そのとき街路の不思議に靜肅な眞意が判かりそめた。私は自分に云ふた。

 『この靜肅は靜肅である、これは夢であることがよく判かる。以前にもこんな夢を見たことを覺えて居る。然しこの力の發見は夢では無い、これは默示だ。……今や飛行を覺えた以上は、水泳家が泳ぐことを忘れられぬと同じく忘れ得まい。明朝、町の屋根の上を飛んで行つて人々を驚かしてやら』

 朝になつた、窓から飛び出ようと堅く決心して、私は目覺めた。然し床を離れるや否や身體的關係の知識が忘れた感覺の如く還つて來て、私は何等の發見をしたのでもないといふ眞實をいやいやながら承認せねばならなくさせた。

 

 これはか〻る夢の初めのものでも終りのものでも無い。ただそれが特に生き活きして居たので、私は此種のものの良い例として、談の爲めにそれを選んだ。私は今も折々飛ぶ、――時には野を越え流れを越えて、――時にはよく知つて居る街道を通じて、そしてその夢は屹度過去に於ける似たる夢の記憶を伴なひ、尙ほまた眞に祕密を發見したのだ、本當に新たな能力を得たのだとの確信が件なふのである。私は自らにいふ、「今度こそ間違ひは無い、目が覺めた後屹度飛べるのだ。以前外の夢のときには度々祕密と覺えたと思つても目覺めると直ぐ忘れるばかりであつたが、今度こそは忘れないに全く極つて居る』と、そしてその確信は自分が床を離れる時迄實際に殘つて居るが、床から起きて體を動かして見ると直ぐ重力の恐ろしい現實を思ひ出す。

 

 此經驗の最も奇妙な點は浮揚の感覺である。それは例へば微溫湯の中で浮沈する樣な、流れ行く如き感覺である、そして何等努力して居る樣な感じが無い。それは嬉しいことだ、然しまだ何か物足らなく思ふ。私は低空飛行者である、鼯鼠[やぶちゃん注:原文“a pteromys”。岡田氏は「むささび」と読ませていると推察する。但し、現行ではこの原文の単語では「ももんが」と読むのが正しい。現行の分類上では、「ムササビ」は齧歯(ネズミ)目リス科リス亜科Sciurinae Pteromyini 族ムササビ属 Petaurista であるのに対し、「モモンガ」はモモンガ族モモンガ属 Pteromys であって、ここで小泉八雲が示すそれは現行では「モモンガ」の類を指す語となるからである。但し、実は「ムササビ」類はごく最近まで、一部でモモンガ亜科 Pteromyinae に位置付けられていた経緯があり、生物種に対する貧困な認識しかない一般的な英語圏では、恐らく現在でも両者をひっくるめてこの「pteromys」で呼んでいる可能性が極めて高いものと私は考える。両者の違いや博物誌は私の「和漢三才圖會第四十二 原禽類 鼠(むささび・ももか)(ムササビ・モモンガ)」を参照されたい。]や飛の魚[やぶちゃん注:原文“a flying-fish”。条鰭綱新鰭亜綱棘鰭上目ダツ目トビウオ科 Exocoetidae のトビウオ類。]の如く進行するのみ、然もそれらよりずつと遲く、それに衝動を新たにする爲めに時々地を踐まねばならぬ。二十五尺乃至三十尺[やぶちゃん注:原文単位はこの数字のままで“feet”。あまり変わらないが、厳密にフィートから換算すると、七・六二~九・一四メートルとなる。]の高さに揚がることは殆ど無い、大槪は地面を掠つて[やぶちゃん注:「かすつて」。]行くに過ぎぬ。僅に數百ヤアド[やぶちゃん注:百ヤードは九十一・四四メートル。六掛けで五百四十九メートル前後か。]行く每に地に觸れるのは樂しい掠り過ぎである、然し私はいつもぼんやりと、下の地が重苦しく自分を牽いて居る樣に感ずる。

 要するに多くの夢中飛行者等の經驗は大槪私と同樣であつた。もつと勝れた力を得るといつた人は一人だけであつた。彼は山々を越えて、峯から峯へ鳶の如く飛ぶといつた。外に私の尋ねた人々は皆低く長い抛物線的の弧を描いて飛ぶ、然もこれさへ時々地に觸れるのだといつた。彼等は槪ねまた、彼等の飛行は先づ墮落の想像から、または止むを得ず飛び下ることから始まるといふ、そして四人までも階段の頂からいつも出發するのだと云つた。

          *

        *

          *

 幾萬年の間も人類はかく夜間飛行をして居た。實際生活の何れの經驗とも極めて緣無き想像的運動が如何にして睡眠の生活の普汎的經驗となつたのであらうか。

 空中運動の或る種の記憶印象――例へぱ跳躍又は鞦韆乘[やぶちゃん注:「ぶらんごのり」と訓じておく。]の快活な經驗――が夢に甦つて擴大され引展されて飛行の幻覺を生じたのかも知れぬ。我々は實際の時間に於ける夢の繼續する間は極めて短いことを知る。然し睡眠中の半生命に於ては――(夢魔は或る驚くべきき例外を呈するが)――實際の腦作用の迅速なる閃めきと潑剌[やぶちゃん注:「はつらつ」。]たる戰慄と比すれば、漠然たる意識の燻ぶる如きものあるに過ぎぬ、――そして夢みる頭腦には時間は擴大して思はる〻こと、恰もそれが昆蟲の弱き意識に關係的に擴大さる〻と同じであらう。墜落の感覺の何等かの記憶と、之に伴なふ恐怖の記憶が偶然睡眠中に甦るとすると、感覺及び感情の夢中の延長が――自然の結果なる擊突によつて遮られぬときは――空中運動の他の記憶、愉快な記憶すら再現するに足るのであらう。そして更に此等は長き幻影の一切の事件と光景とを呈するに足る相關的記憶の別の連合を刺戟することにならう。

 然しこの假說は覺醒時の何れの經驗とも異れる性質の或る感情及び觀念を十分に說明するに足らぬであらう。例へぱ、努力せずに隨意に運動する樂み、全然不可能事の樂み、重量全く輕減せる奇怪なる悅びなどは說明が難い。更にまたこの假說は跳躍又は落下の感覺から起こらざる、槪ね快く無い夢中飛行の經驗を說明することを得ぬ。例へば夢魔に魘はれて[やぶちゃん注:「おそはれて」。]居る間に夢みる者が動く力も談る力も無くなつて、實に我が身體が空に舉げられ、心に抱く恐怖の力によつて浮流される樣なことが起こる。また夢みる者が全く形體としての存在を有せぬ夢がある。私も全く身體を有せず、――見ることもなく聲もなき幻となり、黃昏の時に山路に徨ひ[やぶちゃん注:「さまよひ」。]、小さな呻き聲して孤客を驚かさうとしたことがあつた。その感覺は全く意志の行爲のみで空中を通つて動くのであつた、地の表に觸れることも無い、そして私は路上約一尺のところを滑り行くと思つた。

 

 人間よりも昔の生命の狀態、卽ち重量ある生命が羽翼ありて地上を低く、重げに飛びたる狀態の有機的記憶をもつて夢中飛行の旅情の一部分が解釋されやうか。

 それとも萬有に浸徹する超靈が外の時には眠つて居て、睡眠時の稀有なる瞬間に於てのみ頭腦中に目覺むと想像し得ようか、限られたる人間意識は目に見ゆる太陽光線の分光景に美はしく比せられ、若し優越なる感覺が進化せば、現に見えざるその以上及び以下の色の全帶が見ゆるならんと思はれる、そして神祕論者は我々より偉大なる心ある者の見る紫外線又は赤外緣が瞬時夢に見らると稱す。確に我々各自に存する宇宙の生命は空間と時間の一切の形式に於ける一切のもののであつた。恐らくは太陽よりも古き事物の漠たる感覺記憶――卽ちそれは既に消滅したる遊星、そこには重力が稀薄で、自發的運動の正規の樣式は我々の飛行の夢の實現の樣であつた、その遊星の記憶を睡眠の中に搔き起こすことありと、我々は信ぜんと欲するのであらう……

 

 

小泉八雲 ゴシック建築の恐怖  (岡田哲蔵訳)

 

[やぶちゃん注:本篇(原題“Gothic Horror”)は一九〇〇(明治三三)年七月にボストンの「リトル・ブラウン社」(LITTLE,BROWN AND COMPANY)から出版された作品集“SHADOWINGS”(名詞「shadowing」には「影」以外には「人影」・「影法師」・「影を附けること」・「尾行」などの意味がある。本作品集の訳は概ね「影」が多いが、平井呈一氏は「明暗」と訳しておられ、私も漠然とした「影」よりも、作品群の持つ感性上の印象としてのグラデーションから「明暗」の方が相応しいと思う。来日後の第七作品集)の第一パート“STORIES FROM STRANGE BOOKS”・第二パート“JAPANESE STUDIES”(「日本に就いての研究」)の次の最終第三パート“FANTASIES”の第三話目に配された作品である。本作品集は“Internet Archive”のこちら(出版社及びクレジットの入った扉表紙を示した)で全篇視認できる(本篇はここから)。活字化されたものは“Project Gutenberg”のこちらで全篇が読める(本篇はここから)。

 底本は英文サイト“Internet Archive”のこちらにある、第一書房が昭和一一(一九三六)年十一月に刊行した「家庭版小泉八雲全集」(全十二巻)の第七巻の画像データをPDFで落として視認した。

 訳者岡田哲藏氏については先行する「小泉八雲 夜光蟲(岡田哲蔵訳)」の私の冒頭注を参照されたい。

 傍点「ヽ」は太字に、傍点「○」(最後に一箇所ある)は太字下線に代えた。

 なお、小泉八雲の大のキリスト教嫌いは夙に知られるが、ウィキの「小泉八雲」から引いておくと、一八五〇年、当時イギリス保護領(現在はギリシャ)であったレフカダ島で生まれた彼は、翌年、『父の西インド転属のため、この年末より』、『母と通訳代わりの女中に伴われ、父の実家へ向かうべく出立。途中パリを経て』一八五二年八月、『両親とともに父の家があるダブリンに到着』し、ここに『移住し、幼少時代を同地で過ご』した。父チャールス・ブッシュ・ハーン(Charles Bush Hearnn 一八一八年~一八六六年:アイルランド人で英国陸軍軍医補)が『西インドに赴任中の』一八五四年(彼は僅か四歳であった)、『精神を病んだ母』ローザ・カシマティ(Rosa Antonia Cassimati 一八二三年~一八八二年)『がギリシアへ帰国し、間もなく離婚が成立。以後、ハーンは両親にはほとんど会うことなく、父方の大叔母サラ・ブレナン』Sarah Brenane『に厳格なカトリック文化の中で育てられた。この経験が原因で、少年時代のハーンはキリスト教嫌いになり、ケルト原教のドルイド教に傾倒するようになった』とある。しかし、本篇を読むに、彼のキリスト教への生理的拒否感は実は教会建築やその荘厳が幼少期に彼に与えた、グロテスクな感性的トラウマにその淵源の一つを持つと考えてよいように思われるのである。]

 

 

   ゴシック建築の恐怖

 

 

       

 

 敎義問答(カテキズムス)で所謂理性年齡に達せしよりずつと以前に私は、いやいやながら屢〻敎堂に連れて行かれた。その敎堂は頗る古くて、私にはその内部が四十年前に惡夢の樣に見えた通り明瞭に今も目に見える。其處ではじめて私はゴシック建築の或る形式が誘起する特殊の恐怖を知つた……私は horror(恐怖)といふ語を古典的の意に用ゐる、卽ち幽靈の恐ろしさといふその昔の意味である。

[やぶちゃん注:「ゴシック建築」“Gothic”は本来は「野蛮・未開」の意を表わす中世イタリア人の語に由来するもので、美術史では、ロマネスクに続くヨーロッパ中世美術の様式を指す。聖堂建築が最も典型的で、交差肋骨で支えられた穹窿(きゅうりゅう:vault(ボールト))や、高く空に向かって尖って伸びる尖塔(アーチ)など、垂直線から生じる上昇効果の強調を特色とする。

「敎義問答(カテキズムス)」“catechisms”。キリスト教信仰を洗礼又は堅信礼志願者或いは子どもたちに教えるための(ここはその類を指す)書物。もともと口頭で教えたところから、文書となっても問答体の形式をとったものが多い。但し、この語はギリシア語の「カテェケイン」に由来し、「問答」の意味はなく、「響く」「聞かせる」を意味する。

「理性年齡」“the age of reason”。但し、特定の若年齢を指すものではない。それはキリスト教の教義を信に理解出来る「魂の年齢」を指すからである。]

 私の子供心の想像は、此經驗の一番はじめの日に、恐怖の根源を置くことが出來た。窓の枯凋[やぶちゃん注:「こてう(こちょう)」枯れて凋(しぼ)むこと。凋落。]して尖れる形が直に私を怖れさせた。その輪廓に私が眠るときに私を苦しめるお化けの形が見えた、そして直に怪物とゴシック敎堂との間に或る恐ろしい類似を想像する樣になつた。すると高い戶口にも通廊の穹窿形にも、屋根の肋骨形にも交會線にも、私は外のもつと手荒い恐怖の暗示を見出した。𢌞廊の上に影の如く高く聳ゆる、オルガンの前面さへも恐ろしい物と思はれた。『御前は何が恐ろしいのか』と突然訊かれて答へなければならぬとしたら、私は『あの尖つてるところ』と囁いたであらう。それより外に說明が出來た筈は無い、私はただあの尖頭が恐ろしかつたことを知る。

 其の敎堂で私の感じたことは私が化物を信じて居る間は勿論、それが私の心に眞の謎とはなり得なかつた。然るに迷信的恐怖の年を過ぎて久しき後、他のゴシック的經驗が子供の感情を別に復活させ、それは子供の想像でこの感情を說明し去ることは出來ぬと思はせて私を驚かした。それから私の好奇心が起こつた、そして私は恐怖の何等かの合理的原因を發見しようと試みた。私は多くの書を讀み、多く質問したが、神祕はただ深くなるのみであつた。

 建築に關する書は全く失望であつた。その中で見たことよりも、ゴシック建築の恐ろしさに言及した純然たる小說の方が私に印象を殘した、――特に或る作者がゴシック敎堂の内面を夜間に見ると或る巨大な動物の骸骨の内部に居る樣な觀念を抱くといつた告白、及び敎堂の窓を目に比し、その戶を『人を喰ふ』大きな口に比した、よく評判になつて居る比較を尤もと思つた。此等の想像は餘り說明にはならぬ、それらは漠然たる暗示以上に開展されぬ、然しそれらは感情に訴ふるところがあつて、慥に[やぶちゃん注:「たしかに」。]或る眞に觸れて居ると感じた。眞にゴシック伽藍の建築は骨の構造と不思議に似て居る。そしてそれが心に與へる一般の印象は生命の印象である。然しこの生命の印象または感覺は定義を下しかねる、――何等有機的な生命の感覺でなくて、隱れたる魔の生命のそれである。そしてその生命の表現は構造の尖頭部にあると私は感じた。

[やぶちゃん注:「ゴシック建築の恐ろしさに言及した純然たる小說」以下に小泉八雲が挙げる二例の具体的な作品や作家を不学な私は言い当てることが出来ない。識者の御教授を乞うものである。]

 高さ、暗さ、大いさの影響で感情を解說しようとする企ては、私には何の價値も無かつた、何故ならば何れのゴシックの伽藍よりも高く大きく、且つ暗くて、建築の別種に屬する、例へば埃及[やぶちゃん注:「エジプト」。]建築の如きものは同樣の印象を生ぜぬからである。故に恐怖はゴシック作りに全く特有の或るものに因るのであつて、この或るものが穹窿の頂上に徨つて居るのであることは確實だと私は感じた。

 或る宗敎家なる友人が云ふた、『左樣、ゴシック建築は恐ろしい。それは基督敎の信仰の示現である爲めである。他の何れの宗敎的建築も精神の憧憬を象徵するものは無い。ただゴシックがそれを具象して居る。各部盡く攀ぢまた跳る、上の方はすべて翔りまた火の如く光つて居る……』と。私は答へた、『君の言には餘程眞があるかも知れぬ、然しそれは私を惑はす謎には觸れない。何故に精神の憧憬を象徵する形が恐怖を生ずるのであらう。何故に基督敎の法悅の表現が驚愕を覺えさすのであらう』と。

 

 尙ほ外の多くの假說を試みても無效であつた。それで私は恐怖の祕密は何となく穹窿の尖頭部に屬すると思はる〻單純にして粗野な悟りに返つた。然し幾年もそれが判からないで居た。終に、終に或る熱帶地の早朝に、私が椰子樹の堂々たる一群を眺めて居たとき、思ひがけなくそれが現はれて來た。それでもつと前にどうして謎を解けなかつたかと我が愚さに驚いた。

 

 

       

 

 多くの椰子の種類の特徵は繪や寫眞で見慣れて居た。然しアメリカの熱帶地の巨大な椰子は、今の繪で示す方法では適切に現はし得ぬ、それは實物を見ねばならぬ。高さ二百呎[やぶちゃん注:「フィート。約六十一メートル。]もある椰子を描くことも寫眞に撮ることも出來ぬ。

[やぶちゃん注:通常の単子葉植物綱ヤシ目ヤシ科 Arecaceae のヤシ類は高いもので三十メートルほどが標準であるが、調べたところ、コロンビアのココラ渓谷(Valle de Cocora:標高二千四百メートル)に植生するコロンビアの国樹でもあるヤシ科 Ceroxylon 属ワックス・パーム Ceroxylon quindiuense の高さは六十メートルにまで達することがあると、英文ウィキの同種の記載にあった。但し、同種はコロンビアやペール―北部のアンデス山脈に植生するので、小泉八雲が見たものは本種ではないから別種ではある。二百フィートはやや誇張があるのかも知れぬ。]

 か〻る樹の群を熱帶森林の自然の環境ではじめて見るのは偉大な驚異であつて、驚いて物が言へなくなる。溫帶で見る何物も――カリフオリニヤの斜面地のもつと巨大な生長すらも[やぶちゃん注:「巨大に成長する別な植物すらも」の意。]――あの偉大な柱列の魔の如き嚴肅さに接する爲めに我々の想像を準備させ難い。その石に似た灰色の幹は一本每に完全な柱である、――但しその柱の洪大な優美は人間の作物に比すべきものが無い。この巨大な柱の天に冲する[やぶちゃん注:「ちゆうする」。空高く上がている。]を仰ぐには、頭をづつと背ろに引いて、綠の薄明りの深淵を通して上へ上へと見上げ、終に森の屋根たる枝や攀援莖の無限の交錯の中の切れ目を超えて遙に――柱頭をわづかに眩視する、それは蒼空の電氣の觀念を暗示する程に目映ゆい空に擴げられた綠の羽の傘。

[やぶちゃん注:『カリフオリニヤの斜面地のもつと巨大な生長すらも[やぶちゃん注:「巨大に成長する別な植物すらも」の意。]』これは高さ百メートル近くにもなる世界有数の大高木でアメリカ合衆国西海岸の海岸山脈に自生する裸子植物門マツ綱マツ目ヒノキ科セコイア属セコイアSequoia sempervirens を指していよう。

「攀援莖」「はんゑんけい」。巻き髭や不定根などによって他の物に絡み付いて伸びる茎。葡萄・葛(かずら)・木蔦などに見られるような蔓状の延伸する茎の一部。朝顔の茎などのように茎自体が他物に巻きついて伸びるものをも指す。]

 

 か〻る視覺が刺戟する感情、それは驚異と呼ぶには餘りに强く、享樂と呼ぶには餘りに氣味惡るい、この感情は何であらう。その最初の衝動が過ぎて――その中に籠められた種種の要素が差の廣い諸〻の觀念の群を動かし出すときに、はじめてそれが如何に複雜であつたかを覺える。個人の經驗に屬する多くの印象は、疑も無くそのうちに甦る、但しそれと共にもつと影の如き感覺の群、――有機的記億の集積も立ち返る、――何となればこの感情を惹き起こす熱帶地の形態は人類よりももつと古き歷史を有つて居る故に。

 明らかに辨別さる〻樣になる感情の第二要素の一は美的である。そしてこれはその總體として恐るべく美の感覺と名づけ得よう。たしかにその見慣れぬ生命の光景、――沈默にして莫大に、太陽に向つて巨大な渴仰をもて延び上がり、巨人と爭つて光を求め、下の薄暗いところに這ふ甲蟲に對すると同じく、人間などは見向きもせぬその光景は、一見して覺えられ、永久に忘れられぬ或る簡單な驚くべき詩句のリズムの樣に心魂に徹する。然しその享樂は、その最も生き活きしたときですら、奇妙な不安に掩はれる。怪奇、蒼白、裸形で、滑かに擴がる柱の姿は蛇の生の如く、意識ある生を暗示する。我々がその形の冲天の線を眺めて――忍び行く波動の或る徵候、波動のある起原を見附けはせぬかとの漠然たる恐れを覺ゆ。その疑を視覺と理性とが、力を合はせて修正する。然り、そこに運動はある、そして非凡な生命もある、――但し太陽のみを求むる生命――巨大なる日に向つて眞直に、噴泉の吹き出る如く迸る生命。

 

 

       

 

 私自らの經驗の間に享樂の波に混ずる或る感情、――それは力と莊嚴と勝利の觀念に關はる感情――が宗敎的敬畏の微かな感覺を伴なふことを認めた。思ふに近代の美感は宗敎的感情主義の種々の遺傳的元素と入れ交つて居るので、敬畏の感情と離れて美の認識は起こり得ぬ程である。それは何れにしても、私が眺めて居るうちにか〻る感情が自ら判然となつた、――そして直に大なる灰色の幹が通廊の巨大な柱と變じ、夢の高所から突然、私の上にゴシック的恐怖の古い暗い戰慄が降つた[やぶちゃん注:「くだつた」。]。

 それが消え去る前に、私はそれは薄暗がりに立ち上る、それ等の巨大の幹を見た爲めに昔の伽藍の或る記憶が甦つた爲めであろことを認めた。然し高さも、暗がりも、記億を越えた何物をも說明し得なかつた。それ等の椰子程に高く、しかし上に古典的な圓柱上部を支へた柱はゴシック的恐怖に似たる不安の感覺を呼び起こし得ぬ。このことは慥だと私は思つた、――何故なら私は何等の困難無く直にか〻る建築の表面を想像し得たからである。然るに忽ち心の中の畫が亂れた。私は圓柱の間の各〻の空處に軒緣が上方に腕を差し出し、そしてそれがまた圓くなりまた、尖りて巨大な穹窿の列になると見た、――すると再び暗い戰慄が私の上に降つた。同時に私の心に神祕の解釋が閃めき出た。私はゴシック建築の恐怖は奇怪な運動の恐怖なることを了解した、――そして恐ろしさは穹窿の尖頭に有ると思つたのは、か〻る運動の觀念は主として穹窿の弧線が相觸る〻非凡の角[やぶちゃん注:「かく」。角度。]によつて暗示される爲めであることを知つた。

 

熟練せる眼にはゴシックの穹窿の弧線は植物生長の或る弧識線と著しき類似あることが判かる、――恐らく梅が枝の弧線が特に暗示されやう。然し建築形式は何等の植物の比較が說明するより以上のことを暗示することに注意せよ。二條の梅の梢の相違ふは實にゴシック穹窿の一種を作るらしい、けれどそんな短い穹窿の效果は著しく無い。眞のゴシック穹窿の不可思議なる印象を自然が反復せんとせば相觸る〻冠部の枝は、弧線の長さに於ても、彈力性の力に於ても、植物界に存する其種の何れよりも遙に超過することを要す。ゴジック穹窿の見映[やぶちゃん注:「みばえ」。]は全く勢力の暗示に賴る。二つの短き芽生[やぶちゃん注:「めばえ」。]の線の交叉はただ發育の微弱なる力を暗示し得るのみ、然るに中世の高き穹窿は直に自然のそれに超過する發揚力を示すと見ゆ。而してゴシック建築の恐怖は發成する生命の暗示にのみ存せずして、超自然的なる莫大なる勢力の暗示に存す。

 

 いふ迄もなくゴシック形式の不思議さに壓迫された子供は、未だ受けたる印象を解剖することは出來ぬ。彼は了解することなくして嚇かされる。彼は尖頭や弧線が植物生長の本則の甚だしき誇張を表はす故に恐ろしいのであることなどを察し得ぬ。彼れは形が生きて居る如く見ゆる故に恐る、されどこの恐怖を如何に表示すべきかを知らぬ。何故かと思ふことなく、彼れはこの無言なる力の表現が到るところに上方を指し、且つ貫いて居るのが自然で無いことを感ず。彼れの驚かされし想像力には建築物は睡眠の幻影の如く擴がりて見え、人を嚇す目的を以て高く高く上るかと思はる。人の手に造らると雖、それは死せる石の集塊たるに止まらず、思考し威嚇する或る者、そのうちに交じり、それは暗影ある惡意、多樣の怪物、巨大な崇拜物體となつたのである。

 

 

2019/10/30

小泉八雲 群集の神秘  (岡田哲蔵訳)


[やぶちゃん注:本篇(原題“A Mystery of Crowds”)は一九〇〇(明治三三)年七月にボストンの「リトル・ブラウン社」(LITTLE,BROWN AND COMPANY)から出版された作品集“SHADOWINGS”(名詞「shadowing」には「影」以外には「人影」・「影法師」・「影を附けること」・「尾行」などの意味がある。本作品集の訳は概ね「影」が多いが、平井呈一氏は「明暗」と訳しておられ、私も漠然とした「影」よりも、作品群の持つ感性上の印象としてのグラデーションから「明暗」の方が相応しいと思う。来日後の第七作品集)の第一パート“STORIES FROM STRANGE BOOKS”・第二パート“JAPANESE STUDIES”(「日本に就いての研究」)の次の最終第三パート“FANTASIES”の二話目に配された作品である。本作品集は“Internet Archive”のこちら(出版社及びクレジットの入った扉表紙を示した)で全篇視認できる(本篇はここから)。活字化されたものは“Project Gutenberg”のこちらで全篇が読める(本篇はここから)。

 底本は英文サイト“Internet Archive”のこちらにある、第一書房が昭和一一(一九三六)年十一月に刊行した「家庭版小泉八雲全集」(全十二巻)の第七巻の画像データをPDFで落として視認した。

 訳者岡田哲藏氏については先行する「小泉八雲 夜光蟲(岡田哲蔵訳)」の私の冒頭注を参照されたい。

 傍点「○」(これのみ)は太字に代えた。]

 

 

   群集の神祕

 

 楯の欄干に倚り下の流の皺や靨[やぶちゃん注:「えくぼ」。水面の潮流の干渉で生じた窪んだ部分。]を眺めたことのある人は、其水は瞬間每に變はりながら微動する表面の姿はいつも變らぬことに心惹かれなかつたものは無からう。此光景の神祕に魅力がある、そしてそれを考究する價がある。それ等の振動する型は我々の存在の謎の象徴である。我々のうちに於ても物質は絕えず無限の流と過ぎて變はりゆく、然るに形は、常に種々内に椙鬩ぐ[やぶちゃん注:「あひせめぐ」。]力に激せられながら、多年に亘りそのま〻に殘る。

 また或る大都の街路に注ぎては脈搏つ人間の流を觀て誰れか同じく魅せられぬものがあらう。これもまたその流と反流と渦卷を有つ、――それらは都の勞作の海のさす潮と引く潮とにより或は强く或は弱くなる。然し我々にとつてより大なる光景の引力は實は運動の神祕ではなくて、寧ろ人間の神祕である。外面の觀察者としては我々は主として過ぎ行く形や顏に――それ等が人格を暗示し、それらが同情または反感を思はせることに感興を有つ。まもなく我々は一般の流を思はなくなる。何故ならば人間の流の原子は我々の目に見え、我々は彼等の步むを見、彼等の運動は我々自らの步行の經驗で十分說明せらると考へる。然るに目に見ゆる個人の運動は、いつも見えぬ水の分子のそれより一層神祕である。――私は運動の一切の形式はつまり不可解であることは忘れて居らぬ、私はただ意志に賴ると想像されて居る運動に就ての我々の普通の關係的知識は、水流の原子の行動に關して我々の有ち得る關係的知識よりも、もつと少いといふ事實に言及して居るだけである。

 

 大都會に往んだ人は誰れでも、人通りの多い大通を過ぐる人間の流を調節する運動の或る法則の有ることに氣がついて居る、(我々は日前の目的の爲めには、馬蹄や車輪の音喧しき[やぶちゃん注:「かまびすしき」或は「やかましき」。]、生命ある川の複雜な中流に就て考へなくともよい、私は唯だ側方の流に就てのみ談らうとする)そのどちらかの步道にて、群集は自然に上りと下りの二つの流に別かれる。一方に行く人々は右側を通り、他方に行く人々は左側を通る。此等二つの流の何れかと共に動けば速かに進めるが、我々はそれに反對しては行かれぬ、唯だ醉漢や狂人のみがそんなことをする。二つの流の間には、壓力の理によつて、個人が互に左に右に斷えず自己俳除を行つて居る。かく讓り且つ逸れる樣は、二重の流を畫くときに上りと下りとの電光形の中間線で示されやう。この不斷の讓步がありてこそ進行は可能になる、それが無くては相反する兩流が忽ち側面の壓力の爲めに互に立ち止まりになる。然しこの系統的な自己排除が硏究の價あるところは街の角に於ての如く二つの群集の流が相互に交錯する點である。誰れでもこの現象を認めるが、それに就て考へる人は少い。誰れなりと本氣に之を考へる人は其處に神祕の存することを見出すであらう、――それは如何なる個人の經驗も十分には說明し得ぬ神祕。

 

 大都會の人の群れる街路の何れにても、幾千の人々が互に擦れ違ふ爲めに左に右に斷えずわきに寄る。か〻る群中、二人の人間が反對方向から向かひ合つて來るとき次の三の場合の何れかが起こる、――卽ち、相互に讓るか、一人が他の爲めに讓るか、または兩方とも調和するつもりで同時に同方向に步み出で、その誤を改めるとてまた直ぐ誤を反覆し、互に人を遮りつづけて、そのうちに其愚を悟つた方が立ち留まるか、または稍〻激昂した方が相手を一方に押し退ける。然しか〻る誤は比較的に少く、槪して必要な讓步が速かに正しく行はれる。

 勿論すべて此の自己排除を調節する或る一般法則がなければならぬ、――それは最小抵抗の方向に於ける運動の普汎の法則と一致する法則である。我々はこの事を覺るには何れの人の群れる街路でも半時間も注目せば足る。然し法則はさう容易に見出されまたは形造られぬ、この現象には種々の謎がある。

 

 我々が群集運動を嚴密に硏究すれば、相逢うて一人が道を讓る場合は、二人共に道を讓る場合よる場合より餘程少いことを認めるであらう。然し少し反省すると、相互讓步の場合でも一人の方が必らず相手より早く讓るに相違ない、――但し聳動[やぶちゃん注:「しようどう(しょうどう)」。驚かし動揺させること。また、恐れ動揺すること。]表現の時の差は――屢〻然る如く――全く判からぬ程であらう。蓋し身體上及び精神上の性格の總量は二人の人間に於て精密に同一であり得ぬからである。如何なる二人も知覺と意志の能力が全く同じであることはない、また精神上及び身體上の活動に現はる〻經驗の性質が全く同じであることも無い。故に一見すれば相互讓步と見ゆる場合にも、讓步は實は連續的であつて同時では無い。こ〻に『個人方程式』と呼ばる〻事が、相互讓步のあらゆる場合に一人は必らず他人よりさきに讓ることを證明するとも、それで讓步が相互的で無い場合の個人の聳動の神祕を毫も說明せぬ、我々は或る時は自分に向つて來る人に讓步させ、また他の時には此方で讓步せねばならなくなるのは何故なるかをそれは說明せぬ。この感情の起原は何か。

[やぶちゃん注:「個人方程式」これは原文では“the "personal equation"”で、これは現行では一般的には個人差(個人誤差)と訳される。平井呈一氏は恒文社版(一九七五年刊)の本篇の訳「人ごみの神秘」のここでは、『かりに「個人方程式」と名づけるものがあったとしたら、相互譲歩のあらゆる場合に、一方がかならず相手よりも先に譲歩することが立証されるかもしれない。』と訳しておられる。しかし、小学館「日本大百科全書」の「個人差」の中に「個人差研究の歴史」があり、そこには『その科学的研究は19世紀から始まった。天文学者F・W・ベッセルは1816年にグリニジ天文台の観測記録を調べているうち、1796年に同天文台助手の1人が観測の時間誤差が大きい(およそ0.8秒)ために解雇されるという事件に気づいた。この事実を研究した結果、観測者ごとに恒常的な誤差があることを発見し、個人差を表す式を』「個人方程式」と名付けた、とあるのである。『その後、F・ゴルトンは、遺伝研究のために身体的・精神的諸特性の計測法を考案した。さらにJ・M・キャッテルは1890年に個人差測定の方法を心理検査(メンタルテスト)と名づけた。さらに1905年にA・ビネーが知能検査を作成して以来、知能、適性、学力、興味、人格など』、『各種の心理検査が作成されるようになった。また、個人差とその要因を研究する差異心理学はW・シュテルンによって1900年、11年、21年に体系化された』とあった。従って、これは決して批判的な比喩で小泉八雲が勝手に造語したものではないということが判った。]

 曾て一人の友が此問題をば、街路の群中、相逢ふ各〻の二人間に眼の決鬪が行はれるといふ巧妙な說で解決せんと試みた。然し彼の說は千のか〻る場合のうち五六の場合の心理的事實を說明するにも足らぬと思ふ。濃厚な群中相互に急ぎ合ふ人々の大多數は人の顏を見ることは稀である、唯だ無關心の閑人[やぶちゃん注:「ひまじん」。]のみがそんなことをする時を有つて居る。幾百の人が實際眼を路面に注いで街路を過ぎて行く。要するに急いで行く人は容貌を瞬時に見て、それによつて行動する樣なことは無い、――彼れは通常彼れ自らの思ひに沈んで居る。……私は自己の場合を反覆して硏究した。群中にあつて私は人の顏を見ることは稀で、それで何等の意識的觀察なくして、私は何時道を讓るべきか、また何時我に向かひ來る人が道を讓つてくれるかを知ることが出來る。私の知識はたしかに直覺的である――唯だの感情の知識である、そして私は、あの盲目的能力、それによつて眞の暗の中で、人が未だ手を觸れずして巨きな物の近接するを知る能力以外、それと比較すべきものを知らぬ。私の直覺は殆ど誤る事は無い。若し私が之に從ふことを躊躇すれば必らず衝突の結果を來たす。

 更に、私の自動的または少くとも半意識的行動が理性的行爲に變はる時、――もつと明らかに云へば、何時でも私が自分の運動を考へ始めるときは、必らず間違ひをする。何か外の事を考へて居るときのみ、――私が殆ど自動的に行動して居るときのみ、私は群衆の中を容易に縫つて行かれる。實際、私一個の經驗によれば濃厚な群衆の中を迅速に、且つ安全に通らせるのは、全く意識的觀察によらず、ただ理性的ならぬ直覺的知覺に由ることを悟る。然るに何れの直覺的行爲も遺傳的知識、卽ち過去の生命の經驗を代表するものであるが、此場合にはそれが無數の過去の生命の經驗である。

 全然數へられぬ程……何故私はさう考へるか、それは群中に自己を直覺的に指導する此能力は人間とずつと劣等の動物と共通のものであるので、それが人間よりも極めて古き能力でなければならぬ進化的の證據である。牛や鹿や羊の群は相互讓步の同一現象を我々に示すではないか。また鳥の群、特に群居性の鳥、烏や雀や、野鳩もさうではないか。また魚の群も、蜂、蟻、白蟻の樣な蟲の中に於てすら我々は直覺的自己排除の同一法則を學び得る。讓步は何れの場合にも想像もされぬ程に古い遺傳の經驗を尙ほ代表するに相違ない。か〻る遺傳の全過程の跡をたどる事が出來れば、我々は此地球上の感覺ある生命の最初に溯るにとどまらず、尚ほ遙かに、無感覺物質の歷史にまでも、更に元素の原子中に蓄へらる〻神祕傾向の原始的進化までも戾らねばなるまい。か〻る原子は多數抵抗の點として、不可解の力の不可解な組み合はせとしてのみ我々は知る。原子の諸傾向すら疑も無く遺傳の集積を示す――然しここに至れば無限の謎の永遠の障壁に突き當たつて思考は停止する。

 

[やぶちゃん注:非常に面白い考察である。私は小泉八雲のそれがある意味で遺伝子のレベルで伝えられている原型理論、生物は遺伝子のヴィークル(乗り物)に過ぎないという現在の遺伝子生物学の核心にさえ通底するもののように読めるのである。因みに、精神分析学でユングが「集合的無意識」を主張するのは、本書の刊行より十年ほど後のことである。恐らく小泉八雲が今に生きていたなら、怪しげなユングの対人間に仮定される仮説などよりも、遙かに、最先端の過激な分子生物学の方にこそシンパシーを寄せる気がしてならないのである。]

小泉八雲 夜光蟲 (岡田哲蔵訳) / これより作品集「影」の最終パート標題「幻想」に入る

 

[やぶちゃん注:本篇(原題“Noctilucæ”(ノクティルセウェーイ)。Noctiluca(ノクティルゥーカ)の複数形。なお、「æ」は「a」と「e」の合字。古典ラテン語には二重母音「ae」があったが、紀元前からすでに単一の母音になる傾向が見られ、後期ラテン語になると単母音[ɛː]と発音されることが一般的になった。古典期に置いても現代に置いてもラテン語の「ae」は二文字として分けて綴られるが、中世ヨーロッパにおいては単母音化した「ae」を合字「æ」 で表記することが行われ、現在でも詩語や古語的雰囲気を出すために使用されることがある。夜光虫については本冒頭注末に記す)は一九〇〇(明治三三)年七月にボストンの「リトル・ブラウン社」(LITTLE,BROWN AND COMPANY)から出版された作品集“SHADOWINGS”(名詞「shadowing」には「影」以外には「人影」・「影法師」・「影を附けること」・「尾行」などの意味がある。本作品集の訳は概ね「影」が多いが、平井呈一氏は「明暗」と訳しておられ、私も漠然とした「影」よりも、作品群の持つ感性上の印象としてのグラデーションから「明暗」の方が相応しいと思う。来日後の第七作品集)の第一パート“STORIES FROM STRANGE BOOKS”・第二パート“JAPANESE STUDIES”(「日本に就いての研究」)の次の最終第三パート“FANTASIES”の巻頭に配された作品である。本作品集は“Internet Archive”のこちら(出版社及びクレジットの入った扉表紙を示した)で全篇視認できる(添辞のあるパート標題“FANTASIES”はここで、本篇はここから)。活字化されたものは“Project Gutenberg”のこちらで全篇が読める(本篇はここから)。

 底本は英文サイト“Internet Archive”のこちらにある、第一書房が昭和一一(一九三六)年十一月に刊行した「家庭版小泉八雲全集」(全十二巻)の第七巻の画像データをPDFで落として視認した。

 訳者岡田哲藏氏は明治二(一八六九)年生まれで昭和二〇(一九四五)年十月没の英文学者。千葉県佐倉市生まれで、東京帝国大学文科大学哲学科選科卒。通訳官として明治三七(一九〇四)年の日露戦争に従軍し、その後、陸軍大学校教官や青山学院・早稲田大学講師などを務めた。英詩文をよくし、昭和一〇(一九三五)年に出版された最初の「万葉集」の英訳として有名な「Three Handred Manyo Poems」などの著書がある。

 傍点「○」(これのみ)は太字に代えた。

 英語の「Noctilucæ」は、アルベオラータ渦鞭毛植物門ヤコウチュウ綱ヤコウチュウ目ヤコウチュウ科ヤコウチュウ属 Noctiluca に属するヤコウチュウ類及び近縁属(ヤコウチュウ科Noctilucaceae には他にLeptophyllus 属と Pronoctiluca 属の全三属が含まれる。但し、他属の発光機序は不明のようである)の総称である。本邦の近海で大発生する和名ヤコウチュウは Noctiluca scintillans である。属名はラテン語の「noctis」(夜)と「lucens」(光る)の合成語。ウィキの「ヤコウチュウ」によれば、『原生生物としては非常に大きく、巨大な液胞』『で満たされた細胞は直径』一~二ミリメートル『に達する。外形はほぼ球形で』、一『ヶ所』、『くぼんだ部分がある。くぼんだ部分の近くには細胞質が集中していて、むしろ』、『それ以外の丸い部分が細胞としては膨張した姿と見ていい。くぼんだ部分の細胞質からは、放射状に原形質の糸が伸び、網目状に周辺に広がるのが見える。くぼんだ部分からは』一『本の触手が伸びる。細胞内に共生藻として緑藻の仲間を保持している場合もあるが、緑藻の葉緑体は消滅しており、光合成産物の宿主への還流は無い。細胞は触手(tentacle)を備え、それを用いて他の原生生物や藻類を捕食する。触手とは別に』、二『本の鞭毛を持つが』、こちらは殆んど『目立たない』。『特異な点としては、他の渦鞭毛藻と異なり、細胞核が渦鞭毛藻核ではない(間期に染色体が凝集しない)普通の真核であるとともに、通常の細胞は核相が2nである。複相の細胞が特徴的である一方、単相の細胞はごく一般的な渦鞭毛藻の形である』。『他の生物発光と同様、発光は』ホタルと同じく「ルシフェリン(luciferin)―ルシフェラーゼ(luciferase)反応」(後者の酵素によって酸化されて発光。因みに、この名は「堕天使・悪魔」である「ルシファー」(Lucifer:原義は「光りをもたらす者」である)に由来する)によるが、『ヤコウチュウは物理的な刺激に』反応して『光る特徴があるため、波打ち際で特に明るく光る様子を見る事ができる。または、ヤコウチュウのいる水面に石を投げても発光を促すことが可能である』。『海産で沿岸域に普通』に棲息する『代表的な赤潮形成種である。大発生時には海水を鉄錆色に変え、時にトマトジュースと形容されるほど濃く毒々しい赤茶色を呈する。春~夏の水温上昇期に大発生するが、海水中の栄養塩濃度との因果関係は小さく、ヤコウチュウの赤潮発生が』、『即ち』、『富栄養化を意味する訳ではない。比較的頻繁に見られるが、規模も小さく毒性もないため』、昼間の見た目の強烈さの割りには、『被害はあまり問題にならないことが多い』。『ヤコウチュウは大型で軽く、海水面付近に多く分布する。そのため』、『風の影響を受けやすく、湾や沿岸部に容易に吹き溜まる。この特徴が海水面の局所的な変色を促すと共に、夜間に見られる発光を強く美しいものにしている。発光は、細胞内に散在する脂質性の顆粒によるものであるが、なんらかの適応的意義が論じられたことはなく、単なる代謝産物とも言われる』。『通常は二分裂による無性生殖を行う。有性生殖時には遊走細胞が放出されるが、これは一般的な渦鞭毛藻の形態をしており、核も渦鞭毛藻核である』とある(引用部の下線は私が附した)。海を泳ぐことの好きだった(「燒津にて」では、無謀にも夜の沖の精霊流しにまで達している)小泉八雲にとって、夜光虫は我々などよりも遙かに親しい身近なものであったはずである。但し、本篇は夜光虫の博物誌ではない。例によって、八雲独特の深遠な霊的にして哲学的な生命と宇宙に就いての随想である。なお、瞥見した銭本健二氏が担当された小泉八雲の年譜(一九八八年恒文社刊「ラフカディオ・ハーン著作集 第十五巻」所収)によれば、本篇は明治三二(一八九)年八月の焼津での夜の水泳中に見た夜光虫の体験に基づくものであるらしい。]

 

 

  幻 想

     人々各〻流を下り

     空しく想ひまた夢む

     時の川が

     その水面に彼の生る〻前に過ぎ

     彼の目閉づる後に達すならん

     國土を

         マシウ・アァノルド (「未來」より)

[やぶちゃん注:添辞は底本ではポイント落ち。

「マシウ・アァノルド」マシュー・アーノルド(Matthew Arnold 一八二二年~一八八八年)はイギリスの耽美派詩人の代表にして文明批評家。本引用元(但し、引用元は原本には記されていない。岡田氏のサーヴィスである)である詩篇“The Future”は英文サイト「POETRY FOUNDATION」のこちらで全篇が読める。引用は第三連の冒頭部であるが、

. . . Vainly does each, as he glides,
Fable and dream
Of the lands which the River of Time
Had left ere he woke on its breast,
Or shall reach when his eyes have
  been closed.

となっており、「時の川」の“river”が大文字となって、全体が固有名詞化されてある。思うに小泉八雲の確信犯であろう。]

 

 

   夜 光 蟲

 

 月いまだ昇らず、夜の大空に星湧くが如く、いとも明かるき銀河の橋を渡し、風立たず、見渡す限り海は火の漣波立てて駛る[やぶちゃん注:「はせる」。]、幽冥の美の幻覺。波頭のみ輝き、その間は全く黑く、しかも照明は驚くばかり。波動は槪ね燭の熖のごとく黃なれど、紅に射る光もまたあり、――しかして蒼、また橙黃[やぶちゃん注:音なら「たうくわう(とうこう)」だが、個人的には「だいだい」当て訓したい。]、また鮮綠。一切の蜒々たる[やぶちゃん注:「えんえんたる」。「蜿蜒(ゑんえん)」に同じい。]煌き[やぶちゃん注:「きらめき」。]は、多量の水の脈搏ならで、多數の意志の努力かと思はれ――意識ある怪しき物の疾き移ろひ――冥界の深淵に龍の生の限りなく踠き[やぶちゃん注:「もがき」。]且つ群れ動くかと疑はる。

 實に生命がその光景の奇怪な光彩を呈して居るのであつた――それは無數の生命、しかも幽靈の如く纎細のもの――限りなき生命、しかも蜉蝣[やぶちゃん注:「かげろふ」。]のそれ、空の線までも水の全面に亘り絕え間あらぬ變遷のうちに燃えては消ゆる、なほその上なる更に廣き深淵には異る無數の光が異る分光の色に鼓動して居た。

 見守りつ〻私は驚きまた夢みた。私はとの巨大なる燦爛[やぶちゃん注:「さんらん」。》美しく煌(きら)めき輝くさま。]のうちに表現された究極の靈を想ふた――それが我が上には、分解せる過去の恐ろしき融合によりて輝く諸〻の系統となり、再生すべき生命の濛氣[やぶちゃん注:霧や霞のようなものがもうもうと立ち籠めるさま。]を包んで蘇り、また我れの下には、流星の迸り[やぶちゃん注:「ほとばしり」。]、星座、またそれより冷たき光の星雲の質となつて動くを想ひ――遂には私は大陽星の千萬年にも、不斷の分解の流にあつては、消えゆく一の夜光蟲の瞬時の閃光に勝さる何者ありやと疑ふにいたつた。

 この疑と共にすら幻覺は變つた。私はもはや火の振動する昔の東洋の海を見ずに、永遠の夜と廣さ、深さ、高さを一にするかの潮流を見た――のの岸邊なく時間なき海。億萬の太陽の光の靄――銀河の穹窿[やぶちゃん注:「きゆうりゆう」。弓形に見える宇宙の天空。]――それは無限の潮の流に於ける單一の燻ぶる波動であつた。

 

 また起こる一の變化、私はもはや諸〻の太陽の濛氣の如き波動を見ず、私の周りに無限の閃光を放つて流れ且つ震へる生ける暗を見た、そして閃光の一つ一つが心臟の如く鼓動し、――海の火の彩りの如き色を打ち出して居た。そして一切の物の射る如き光は照明の振動する絲の如く無限の神祕のうちに流れ去つた。

 それで私は自己もまた燐の一點――測られぬ流に浮かぶ泡沫[やぶちゃん注:「うたかた」。]の如き閃きであることを知つた、――そして我がものたりし光は思想の變化每に色の移ろへることを見た。時には紅玉と輝き、時には靑玉、忽ちそれが黃玉の熖となるかと見れば、また碧玉の火となる、そして變化の理由は十分に悟れなかつた。然し地上の生命を思へば光は赤く燃ゆるかと見え、天上の存在――靈の美と靈の幸との存在――を思へば蒼と紫の不滅のリズムと燃ゆるかと思はれた。

 

 然し凡ての視界に白光は全く無かつた。そして私は不思議に思つた。

 そのとき一のが私にいうた――

 『白は高位のもの、億萬の混合によりて成る。その燃ゆるを助成するは汝の役目。汝の燃ゆる色と汝の價値と正に相同じ。汝の生くる間は瞬時のみ、されど汝の脈搏の光は生き續く、その光明の時の汝の思により、汝は神々るものとなる』

 

[やぶちゃん注:「造」のみに傍点「○」がある。原文は“Maker of Gods”であるから、岡田氏の確信犯(小泉八雲の力点を押さえたもの)であろうことが判る。]

小泉八雲 日本の古い歌  (大谷正信訳) ~(その2) / 日本の古い歌~了

 

[やぶちゃん注:本篇については「小泉八雲 日本の古い歌(大谷正信訳)~(その1)」の私の冒頭注を参照されたい。]

 

 通俗な歌――殊に田舍の踊にうたふ歌――には記億を助ける工夫(くふう)に作られて居る種類のが多い。節(せつ)の數は普通は十で、一節(せつ)々々の第一の綴音がその句の前に置いてある數詞の第一綴音と音(おん)に於て同じなやうにしてあるのである。時には漢語の數詞を用ひ、時には日本語の數詞を埋用ひる。が、その規則は必らずしも完全に守られては居らぬ。次記の例に於て一(いち[やぶちゃん注:これはルビ。])(ヒトツ)[やぶちゃん注:これは本文同ポイント。]といふ日本語の初の二綴音を有つて居る第一句の最初の二綴音の一致はただ意味での一致であることを觀らる〻であらう。イチといふは漢語の數詞であるから。

 

  漁師師の歌譯者註七 (下總國銚子町註一

一(ひと)つとせ、

  一(いち)番船へ積み込んで、

  川口おしこむ大矢聲註二

       この大漁船!

二つとせ、

  二葉の冲から外川(とはが)まで註四

  續いて押し込む大矢聲、

       この大漁船!

三つとせ、

  みな一同に招(まねき)をあげ、

  通はせ船の賑かさ、

       この大漁船!

四つとせ、

  夜晝焚いても焚きあまる、

  三バイ一挺の大鰯、

       この大漁船!

五つとせ、

  何時來て見ても乾鰯場(ほしかば)に、

  あき間(ま)隙間(すきま)は更に無い、

        この大漁船!

六つとせ、

  六時(むつ)から六時(むつ)まで粕割(かすわり)が、

  大割(おほわり)小割手に追はれ、

        この大漁船!

七つとせ、

  名高き利根川一面に、

  粕や油を積み送る、

        この大漁船!

八つとせ、

  八手舟(やてぶね)註五の冲合若衆が、

  萬祝(まんしゆく)揃へて宮まゐり、

        この大漁船!

九つとせ、

  此浦守(まも)る川口の、

  明神利益(りやく)を現はする、

        この大漁船!

 

註一 銚子といふは可なり重要な町で利根川の河口に位して居る。鰯漁で名高い。鰯といふはサアディンの大いさの魚で主としてその油の爲めに漁獲する。此海岸で採れる油の量は大したものである。煮て油を搾るのである。その搾滓は肥料として内地へ送られる。

註二 櫓を漕いでゐゐ水夫全體の合唱を「矢聲」と呼ぶ。

註三 形容詞「大」は「漁」を形容するので、「船」を形容するのでは無い。

註四 恐らくは「外川」は利根川河畔の銚子から遠くは無い、外川といふ川の口の村を指すのでもらう。この兩河は掘割で結合されて居る。川を意味して居るのか、村を意味して居るのか、文句の上では明白で無い。

註五 ヤタイとに宗敎的行列に於て綱で曳く裝飾された車に與へる名である。ここのヤタイブネはそんな車に載せた小舟の雛形か、或は宗敎的行列でのそんな裝飾をした小舟か、を意味するもののやう思はれる。自分は美保關で、或る宗敎的行列の時祭り屋臺の上に載せてあつた、本當の小舟を見たことがある。

譯者註七 第一節「一番船へ積み込んで」は「一番づつで積み立てて」とも歌ふ。第二節「二葉の沖から外川まで、續いて押込む大矢聲」は「二葉の沖側外川まで、續いて押込む大鰯」とも歌ふ。

[やぶちゃん注:「招(まねき)」は底本では「まねぎ」となっているが、原本に従い、特異的に濁音を除去した。但し、サイト「世界の民謡・童謡」の「銚子大漁節」の歌詞及び動画で唄われいるそれは「まね」である。拍子から言っても「まねき」の三音はなかろうと思った。なお、以下、同ページに丁寧な語釈まで載っていた「招(まね)」は漁師の特殊な用語なのだ!)。引用させて戴く。

   《引用開始》

「大矢声」とは、弓矢を射るときに出るうなりのようなかけ声。

「二間の沖」[やぶちゃん注:動画のテロップでは『二葉』と出ており、それも同義であるらしい。]とは、夫婦ケ鼻(めどがはな)[やぶちゃん注:千葉県銚子市川口町。]から黒生(くろはい)[やぶちゃん注:千葉県銚子市黒生町。]までの海の総称。

「招(まね)」とは、鰯の大漁を知らせる目印、「通わせ船」は、運搬船のこと。

「干鰯場(ほしかば)」とは、生イワシをそのまま海岸等の砂地に干して肥料を作る場所。

「粕割」とは、生イワシを大釜で煮て、それを圧搾機で締めると〆粕ができる。それを割って天日に干したもの。

「万祝」とは、網主から漁夫たちに贈られる大漁祝いの衣装のこと。

「八手」とは、八手網(やつであみ/はちだあみ)のこと。2艘以上の漁船により操業される大型の張網。

   《引用終了》

「外川」これは黒生を南に犬吠崎を廻り込んだところにある、現在の千葉県銚子市外川町(とかはまち)の外川港のことであろう。残念ながら、小泉八雲の「註」の四・五は見当違いの誤りである。

 

 少くとも百年前に作られた或る子供歌に此の歌詞的排列の一層奇異な一例がある。江戶の小娘共は手毬を弄びながらその歌をうたつたものである。今日と雖も、東京の靜かな街路でならどんな街路でも、それと同じ手毬遊戲を女の子がして居るのを見ることが出來る。歌の拍子に合はせて巧みに手で打つて、殆ど垂直な線にいつも手毬が彈き上がるやうにし續ける。上手な者は一突(ひとつき)も仕損ぜずに、その歌をうたひ終はることが出來なければならぬ。仕損ずるとその手毬を今一人の者に讓らなければならぬ。面白い『手毬歌』が澤山にあるが、次記の古風な、永く忘られて居る歌は道德的な一珍品である。

[やぶちゃん注:以下は「註」表記がないが、小泉八雲の挿入注であって(底本ポイント落ち四字下げ)、本文ではない。]

 

上記のがより普通な遊び法(かた9であるが、他の形式が澤山にあゐ。昨には二人で一緖に同じ手毬を――彈(はず)む毬をかたみがはりに[やぶちゃん注:「互(かたみ)替(がは)り」で所謂「かわりばんこ」、代わる代わるにすることの意。]突いて――もてあそぶ。

 

一つとや、

  人は孝なを人といふ、

  恩を知らねば孝ならじ。

二つとや、

  富士よち高き父の恩、

  常に思うて忘れまじ。

三つとや、

  水うみ卻て淺しとは、

  母の恩ぞや思ふべし。

四つとや、

  よしや貧しく暮らすとも、

  直ぐなる道を曲ぐるまじ。

五つとや、

  いつも心の變はらぬを、

  誠の人と思ふべし。

六つとや、

  空しく月日(つきひ)を暮らしなば、

  後(のち)の嘆(なげき)と知りぬべし。

七つとや、

  慈悲(なさけ)は人の爲めならで、

  我が身の爲めと思ふべし。

八つとや、

  厄難無量の禍(わざはひ)も、

  心(こころ)善(ぜん)なら逃るべし。

九つとや、

  心(こころ)詞(ことば)の直ぐならば、

  神や佛も守るべし。

十とや、

  貴(たふと)い人と成るならば、

  孝行者(かうかうもの)といはるべし。

 

註 ヒト(パアスン)は男にも女にも用ひ、屢〻「人々」(ピイプル)「人類」(マンカインド)の意にも用ふる。「人といふ」の「人」は「人間」(ヒユウマン・ビイング)の意。

 

 讀者は『「手毬歌」にさへ道德敎訓の反復を要求し得る訓練はどんなにか恐ろしくやかましいものだらう』と思はれるかも知れぬ。いかにも七(しち)やかましい、――が然し此の世界がこれまで見たことの無い程の非常にうるはしい型の女をそれが造り出したのである。

 

 或る踊歌ではその復唱句は各節(せつ)の最後の一行又は最後の一行の一部分の反復だけで出來て居る。次記の珍奇な物語歌はそれを實行して居る一例で、且つまた吟詠文の或る句の處へ插入されて居る妙な擬音的合唱があるが爲め、一層特色のあるものである。

 

  鐘卷踊歌 (伊賀國名賀郡)

京山伏(きやうやまぶし)は熊野へ參る。

白(しろ)たか濱が長者屋(ちやうじや)へ腰掛けて、

三つになる姬抱きそめて、

妻(つま)にしよというて戲(じや)れられた、

     (合唱)戲(じや)れられた。

それから山伏や諸國を𢌞(めぐ)る。

その姬が十三といふ年又まゐり來て、

姬よ姬よ約束の姬よ。

連れておいきやれお山伏。

     (合唱)お山伏。

いままたまゐる、また參る。

こんど下向にや連れていこ、

     (合唱)連れていこ。

それから山伏逃げられて。

早よ早よ急げば早よ。

田なべみなべを早打越して、

小松原まで逃げられた、

     (合唱)逃げられた。

  カツカラ、カツカラ、カツカラ、カッカ!

[やぶちゃん注:「伊賀國名賀郡」旧三重県名賀郡(ながぐん)。位置はウィキの「名賀郡」の地図で確認されたい。道成寺伝説が、紀伊半島を東に回り込んだ山間部に伝承しているのはなかなか面白い。因みに私は道成寺伝承のフリークで、サイトに「道成寺鐘中 Doujyou-ji Chroniclというページも作っている。

「みなべ」旧南部(みなべ)町、現在の和歌山県日高郡みなべ町(ちょう)。田部市に北西で接する。

「小松原」地名ではなく、道成寺近辺の一般名詞としての謂いととっておく。

 以下も底本ではポイント落ちの挿入注。]

 

特殊の合唱といつたやうなものになつて居る此の綴音は、全く擬聲に他ならぬもので、非常に早く走つて居る下駄穿きの跫の音を現はすつもりのものでゐる。

 

それから姬が追ひかけて、

早よ早よ急げば早よ。

田なべみなべを早打越して、

小松原まで追ひかけたさ。

     (合唱)追ひかけたさ。

それから山ぶしや逃げられて、

あもだの川まで逃げられて、

あもだの川の船頭を賴む。

後から姬が追ひかけ來(く)るに、

渡して給(たも)るな船頭殿や、

     (合唱)船頭殿や。

  デボク、デボク、デボク、デン、デン!

[やぶちゃん注:「あもだの川」不詳。日高川の異名としても見当らない。識者の御教授を乞う。

 以下、同前。本文ではなく注。]

 

此の擬聲は、適當な身振をして、踊手が皆、合唱するのであるが、渡守か漕ぐ櫓の音を現したものである。綴音そのものには何の意味も無い。

 

それから姬が追ひけて、

あもだの川で追ひかけて。

あの船(ふね)出しやれ、この船出しやれ。

あの船出さぬ、この船出さぬ、

女人(によにん)禁じの船でそろ、

     (合唱)船でそろ。

渡さにや渡る、渡さにや渡る。

あおもだの川にや渡りよが御座る。

はいたる草履を手に持ちて、

はいろと思(おも)たら蛇(じや)になりて、

十二の角(つの)が生(は)えそろた、

     (合唱)生えそろた。

それから山ぶしや逃げられて、

道成寺でらまで逃げられて、

道成寺でらの同職衆(どうじゆくしゆ)を賴む。

後(あと)から姬が追ひかけ來るに、

隱してたもれよどじゆくしゆ。

     (合唱)どじゆくしゆ。

それから同職衆が御相談なさる。

釣鐘下(お)ろしてかくされた。

     (合唱)かくされた。

それから姬が追ひかけて、

道成寺でらまで追ひかけて、

御門(ごもん)のけあげにしばらく立ちて、

庭なる鐘を不思議と思(おも)て、

一卷(ひとまき)まこよ、二卷まこよ。

三卷と卷いたら湯になりたさ。

     (合唱)湯になりたさ。

鐘卷寺の緣起をきけば、

日本の浦にや姬多(お)いけれど、

長老が娘が蛇(じや)になりたてさ、

     (合唱)蛇になりたてさ。

鐘卷踊はこれまでさ、

     (合唱)これまでさ。

 

註 この傳說は古今幾多の日本劇の材題となつて居る。元の話は斯うである。安珍といふ僧が無謀にも淸姬といふ乙女に戀情を起こさせ、僧たる身の故に結婚することが出來ないが爲めに、娘が言ひ寄れぬやう逃げて身の安全を求めた。淸姬は挫かれた熱情の激しさに、火のやうな龍蛇に姿を變じた。そしてその姿でその僧を追跡して、(今の紀州の)熊野の道成寺といふ寺へ行く。僧は其處の大鐘の下へ身を隱して居るのである。がその龍蛇はその鐘を卷くと、その鐘は直ぐに赤熱して、中なる僧の身體は全く燒けてしまつた。

此の粗笨[やぶちゃん注:「そほん」。大まかでぞんざいなこと。細かいところまで行き届いていないこと。粗雑。]な物語歌では淸姬は――長者、卽ちその村の金持たる――一旅宿主人の娘となつて居る。そして僧の安珍は山伏に變はつて居る。山伏といふのは眞言宗と呼ぶ妙な宗派の一處不在の僧で――神道佛敎兩方を奉じて居る、諸國巡禮歷の、惡魔拂兼賣卜者である、否、少くともあつた。近年その職を行ふことを法律で禁じられたから、本當の山伏は今に滅多に眼にすることは出來ぬ。

道成寺は巡禮者が參詣する有名な寺で、紀州の西岸の御坊(ごぼう)から遠くは無い。安珍と龍蛇との出來事は十世紀の初にあつたとの事である。

[やぶちゃん注:「御門(ごもん)のけあげ」「けあげ」は「階段の一段の高さ」を謂うから、ここは登る階(きざはし)の一段目のことを指すと読む。但し、一段目からは、寺内の鐘は見えない。とすれば、これは門を一気に駆け上がった最後の一段でとすべきであろうか。

「山伏といふのは眞言宗と呼ぶ妙な宗派の一處不在の僧で――神道佛敎兩方を奉じて居る、諸國巡禮歷の、惡魔拂兼賣卜者である、否、少くともあつた。」原文は“The Yamabushi are, or at least were, wandering priests of the strange sect called Shugendo,—itinerant exorcists and diviners, professing both Shinto and Buddhism.”でおかしい。真言宗からクレームが附きますぜ、大谷先生! 「修験道」でっせ! 原文は!

 

 自分は街路(とほり)を歌ひあるく本當の物語歌(バラツド)の――方々ぶらつきあるく三味線彈(ひき)が普通に歌ふやうな物語歌の――たつた一つの見本を與へよう。これは音格が不規則に出來て居て、一行の長さ十二綴音から十六綴音に至つて居るが、多くは十三綴音である。その作の年代は分からぬ。が、その子供時分にその歌はれるのを聞いたことを覺えて居る老人の話では、天保(一八三〇――四三)時代に流行つたといふ。節には分かれて居ないけれども、不規則な間を置いて休止があつて、其處でヤンレイといふ復唱句がある。

 

  お吉(きち)淸三(せいざ)くどき

今度サアエヽ哀れな情死(しんぢゆう)ばなし、

國は京都にその名も高き、

糸屋與右衞門有德(うとく)な暮らし、

店も賑か 暮らしも繁昌(はんじやう)、

一人娘にお吉(きち)というて、

年は十六 今吠く花よ、

見世の番頭に淸三(せいざ)というて、

年は二十二で男の盛り、

        ヤンレイ!

 

器量(きりやう)よければお吉が見染め、

通(かよ)ふ通ふが度(たび)重なれば、

親の耳へもそろそろはいり、

これを聞いては儘にはならぬ、

        ヤンレイ!

 

そこでお吉を一間(ま)へ呼んで、

店(みせ)の淸三と譯(わけ)あるさうな、

思ひ切る氣か切らぬかお吉、

        ヤンレイ!

 

これさ母(かか)さ何付言はさんす

俺(わし)と淸三とその仲仲(なかなか)は、

墨と紙とのしみたが仲よ、

何が何でも離れはしない、

        ヤンレイ!

 

奧の一間(ま)へ淸三を呼んで、

其方(そち)を呼ぶのは別儀ぢや無いが、

内の娘のよいきをはらし、

夫を聞いては置かれはしない、

仕舞うて行かんせ今日かぎり、

        ヤンレイ!

[やぶちゃん注:三行目の小泉八雲の英訳は“You have turned the mind of our daughter away from what is right;”で「お前は儂(わし)娘を心をまっとうなものから遠ざけおった」の意。富山県滑川市の「新川古代神」(にいかわこだじん)踊りの唄の歌詞がこちらで読めるが、その途中に出る「お吉清三口説」の当該部では、「家の娘のよい気を晴らし」と漢字表記されている。これではこの一行、意味が繋がらないが、或いは不吉な禍々しいことを口に出すことを言上げとして嫌ったことから、「内の娘にちょっかいを出してそのまっとうな気(心)を曇らした」の謂いであろうか? 或いは「よいき」を「醉(よ)ひ氣」と採って、「内の娘を恋に酔はせてはらした(=まんまとその目的を遂げた)」の意か?]

 

じたい淸三は大阪生(うま)れ、

物も言はずに唯だハイハイと、

家(いへ)へ歸りて七日五日經つて、

お吉思うて病氣となりて、

是非も叶はぬ相果てました。

        ヤンレイ!

 

お吉とろとろ眠りし處(とこ)へ、

夢か現(うつつ)か 淸三が姿、

枕元へと顯はれました、

そこでお吉は不圖眼をさまし、

見れば淸三が姿は見えず、

        ヤンレイ!

 

さらばそれから淸三が方(かた)へ、

親の手許を忍んで行きやる、

        ヤンレイ!

 

在(ざい)ヘサアエヽはいれば船場(ふなば)が御座る、

船にや乘らんで陸路(りくぢ)を行きやる、

急ぐ程なく大阪町よ、

淸三やかたは何處かと聞けば、

橋のもとより二軒目で御座る、

        ヤンレイ!

 

淸三やかたの前にとなれば、

笠を片手に腰をぱ屈め、

御免なされと腰打かけて、

淸三やかたは此處かと聞けば、

        ヤンレイ!

 

物の哀れや淸三が母は、

數珠を片手に唯だ泣きながら、

若い女中(ぢよちゆう)は何處から御座る、

        ヤンレイ!

 

わたしや京都の糸屋の娘、

淸三さんには譯(わけ)ある故に、

遠い處を尋ねて來たよ、

どりぞ淸三さんに逢はせてお吳れ、

        ヤンレイ!

 

そちが尋ねる淸三は果てて、

今日は淸三が七日で御座る、

關いてお吉はただ泣くばかり、

        ヤンレイ!

 

さらばこれから墓所(はかしよ)へ參り、

立てた塔婆にすがりて泣けぱ、

        ヤンレイ!

 

人の思(おもひ)は恐ろし物よ、

淸三墓所(はかしよ)は二つに割れて、

其處へ淸三が顯はれ出でて。

        ヤンレイ!

[やぶちゃん注:以下、同前。原注。]

 

「ヰリアムとマアジヨリイ」(チヤイルド編第二卷一五一頁參照)といふ古い英吉利の物語歌に、墓が開いたり閉ぢむりすることに就いての珍らしい想像が詠まれて居る。

   後をしたひて 路たかくひくく

       墓綠なる    墓場に着きぬ。

   深き墓石   打ち聞かれぬ、

       見れぼヰリアム 寢てぞありし。

とある。

[やぶちゃん注:ここは原注全文(訳では前がカットされている)を引いて見る。

   *

  In the original:—Hito no omoi wa osoroshi mono yo! — ("how fearful a thing is the thinking of a person!").  The word omoi, used here in the sense of "longing," refers to the weird power of Seiza's dying wish to see his sweetheart. Even after his burial, this longing has the strength to burst open the tomb.

 ― In the old English ballad of "William and Marjorie" (see Child: vol. ii. p. 151) there is also a remarkable fancy about the opening and closing of a grave:

    She followed him high, she followed him low,

     Till she came to yon churchyard green;

    And there the deep grave opened up,

     And young William he lay down.

   *

暴虎馮河で訳してみると、

   *

 オリジナルは、「ひとの思いは恐ろしものよ!」(「人の思いはどれほど恐ろしいことか!」)。ここで「思慕」という意味で使われている「思い」という言葉は、死にゆく折りの清三の、恋人に会いたいという一心の、既にこの世のものでない異様な力を指している。彼の埋葬後も、この切なる願いは墓を破り裂く力を持っているのである。

 ――「ウィリアムとマージョリー」という古いイギリスのバラード(チャイルド編、第二巻百五十一ページを参照)にも、墓が開いたり、閉じたりすることについての、驚くべき着想がある。――

 彼女は彼を、高く跳ぶように追い、また、低く屈むように追いかける、

   彼女が向うの教会の緑なす庭を越えて来たれば、

 かしこの奥津城(おくつき)は瞬く間に開かれた、

   そうして若きウィリアムがそこに横になっている。

   *

小泉八雲の引用元の編者は恐らく、アメリカの文献学者フランシス・ジェームズ・チャイルド(Francis James Child 一八二五年~一八九六年)であろう。ウィキの「フランシス・ジェームズ・チャイルド」によれば、バラッド(ballad:イギリスなどで伝承されてきた物語や寓意のある歌。通常、詩の語りや語るような曲調を持つ。過去の出来事についての韻文による叙事詩であり、武勇伝・ロマンス・社会諷刺・政治が主題とされているが、その内容は殆んど必然的に破局が訪れるようになっている。ここはウィキの「バラッド」に拠った)『研究の権威で、整理番号チャイルド番号はブリテン諸島・アメリカの系統の民謡を分類するときの重要な指標とな』っているとある。而して引用原本は彼が一八五七年から翌年にかけて大成した“English and Scottish Ballads”であろうと思われる。]

 

其處へ來たのはお吉ぢやないか、

逍い處を能く來で吳れた、

お吉泣くなよ 泣いたるとても、

どうで此世で添はれはすまい、

わしを思はば香花(かうばな)立てて、

來る命日に囘向を賴む、

        ヤンレイ!

 

と言うて淸三が姿は消える、

これさ待たしやれこれ待らさんせ、

そなたばかりは一人(ひとり)はやぬ、

わしも一緖に行かねばならぬ、

        ヤンレイ!

[やぶちゃん注:以下、同前。原注。]

 

この挿話と「うるはしのヰリアムの魂」(チャイルド編。第二卷二四八頁)の結末とを比較されたい。

 

   「此處に居たまへ 立ち去りますな」

        操正しき   マゲリト呌ぶ

    頰靑ざめぬ、  眼(まなこ)をとぢぬ

 

とある。

[やぶちゃん注:ここも原注全文を引いて見る。

   *

  With this episode compare the close of the English ballad "Sweet William's Ghost" (Child: vol. ii., page 148): —

    "O stay, my only true love, stay!"

     The constant Margaret cried:

    Wan grew her cheeks; she closed her een,

     Stretched her soft limbs, and died.

   *

訳してみる。

   *

 このエピソードを、イギリスのバラッド「華麗なるウィリアムの幽霊」の終章と比較して見よう(チャイルド編。㐧二巻百四十八ページ)。

 「おお、とどまれよ! 我の唯一人のまことに愛する人よ、とどまれ!」

   絶え間なくマーガレットは哭き叫んだ、

 蒼ざめた彼女の両頰、彼女は両の目を閉じ、

   しなやかなその彼女のみ手を伸ばして、そして、身罷った。

   *

先の訳ともに、一部の詩の訳語については、平井呈一氏の恒文社版(一九七五年刊)の訳(「日本の古い歌謡」)にある氏の意訳のそれを参考にさせて戴いた。]

 

寺の大門(おほもん)四五丁離れ、

小石拾うて袂へ入れて、

前のお濠(ほり)へ身を捨てまする、

        ヤンレイ!

[やぶちゃん注:「四五丁」四百三十四~五百四十五・五メートル。

 なお、悲しい情話唄は、他にも例えば、サイト「雑学の世界」のここに「お吉清三口説」(おきちせいざくどき)として二種が見出せる。この話は越後瞽女の口説として広まったことが知られ、飴売などによってさらに「越後節」として諸国に流行ったものであることが、板垣俊一氏の論文「幕末江戸の唄本屋 ―吉田屋小吉が発行した唄本について―」PDF)に載る。なお、底本の大谷氏の「あとがき」には、『なほ文末の『繪卷踊歌』と『お吉淸三くどき』とは、原文には散文譯だけ揭げてあるのであるが、これはそれを逐字譯とはせずに――殊にその後者の原歌を知つて居る者は多分譯者だけで、今後原歌を知らうにも知れまいから、原歌を揭げることにした』と書かれてあるのである。まさにこの訳者を得てこそ、この唄は原型が残ったのだと言えるのである。

                                                                                                     

 自分は佛敎的なのを二つ引用して、人の餘り知らぬ歌の野原へのこの短時の遠出(とほで)を終はることとしよう。初のは多分十二世紀の末か十三世紀の初かに作られ『源平盛衰記』といふ有名な書物のうちにあるものである。『今樣』といふ音格で――卽ち、七綴音と五綴音とのかはろがはるの短い句(七、五。七、五。七、五。と無制限)で書かれて居る。今一つの哲理的な作品は十六世の『隆達節』といふ歌集から採つたものである。

 

  一 (今やう詞)

樣(さま)も心も 變はるかな!

落つる淚は    瀧の水、

妙法巡華の    池となり、

弘誓の船に    棹さして、

沈む我が身を   乘せ給へ!

 

  二 (文祿年間――一五九二―九六――のもの)

誰れか再び花咲かん

   あただ夢の間の

        露の身に。

 

[やぶちゃん注:「『源平盛衰記』といふ有名な書物のうちにあるもの」これは「平家物語」の特異な異本である「源平盛衰記」の「巻第九 康頼熊野詣」の中にある。平康頼(生没年不詳)は平安末から鎌倉前期の歌人で官人。中原頼季の息子か。正治二(一二〇〇)年には生存している。仏教説話集「宝物集」の編者に目される。衛門府官人・検非違使を経て、後白河院近習として活躍し、「今様」を後白河法皇に習い、「猿楽狂い」と綽名されるほどに芸能に熱中した。治承元(一一七七)年、平家打倒を企てた「鹿ケ谷の謀議」に連座し、藤原成経・俊寛とともに鬼界ケ島に流され、配流の途中で出家している。法名は性照。後に赦されて治承三(一一七九)年に帰洛した。「平家物語」では、以後、東山双林寺辺りに住んだとする。文治二(一一八六)年には源頼朝から阿波国麻殖保(おえのほう:「保」は中世期の国衙領の一種。元来は天領をで、私領を「庄」と呼んだのに対して用いられた行政名)の保司に任ぜられている(以上は「朝日日本歴史人物事典」に拠る)。以下、所持する三弥井書店版を参考に、カタカナをひらがなにし、漢字を恣意的に正字化して前後を示す。踊り字「〱」は正字化した。

   *

近津井、湯河、音無の瀧、飛瀧權現に至まで、和光の誓を憑つゝ、いはのはざま、苔の筵、杉の村立(むらだち)、常葉の松、神の惠の靑榊、八千代を契る濱椿、心にかゝり目に及(および)、さもと覺る處をば、窪津王子より、八十餘所に御座(おはします)王子々々と拜つゝ、榊幣挾れたる心の内こそ哀れなれ。奉幣御神樂なんどこそ、力無れば不ㇾ叶と、王子王子の御前にて、馴子舞(なれこまひ)[やぶちゃん注:旅人が社寺の前を通る際に手向けとして踊る舞いのこと。]計(ばかり)をばつかまつらる。康賴は洛中無雙の舞也けり。魍魎鬼神もとらけ、善神護法もめで給計(ばかり)なりければ、昔今の事思出で、

  さまも心も替かな、

  落る淚は瀧の水、

  妙法蓮華の池と成、

  弘誓の舟に竿指て、

  沈(しづむ)我等をのせ給へ

と、舞澄して泣ければ、少將も諸共に、淚をぞ流しける。

   *

「今樣」(いまやう)平安末期に流行した声楽。その当時として「今様(いまよう)」、つまり「現代風」という意味で名づけられたもの。七五調四句の詞型を特徴とし、鼓などの伴奏で歌うこともある。白拍子などによって歌われ、貴族にも広まり、後白河法皇はその歌詞を「梁塵秘抄」に採録している。

「文祿年間――一五九二―九六――」開始年は一五九三年の誤り。]

2019/10/29

小泉八雲 日本の古い歌  (大谷正信訳) ~ (その1)

 

[やぶちゃん注:本篇(原題“Old Japanese Songs ”)は一九〇〇(明治三三)年七月にボストンの「リトル・ブラウン社」(LITTLE,BROWN AND COMPANY)から出版された作品集“SHADOWINGS”(名詞「shadowing」には「影」以外には「人影」・「影法師」・「影を附けること」・「尾行」などの意味がある。本作品集の訳は概ね「影」が多いが、平井呈一氏は「明暗」と訳しておられ、私も漠然とした「影」よりも、作品群の持つ感性上の印象としてのグラデーションから「明暗」の方が相応しいと思う。来日後の第七作品集)の第二パート“JAPANESE STUDIES”の掉尾第三話として配された作品である。本作品集は“Internet Archive”のこちら(出版社及びクレジットと献辞の入ったページを示した)で全篇視認できる(本篇はここから)。活字化されたものは“Project Gutenberg”のこちらで全篇が読める(本篇はここから)。

 底本は英文サイト“Internet Archive”のこちらにある、第一書房が昭和一一(一九三六)年十一月に刊行した「家庭版小泉八雲全集」(全十二巻)の第七巻の画像データをPDFで落として視認した。

 訳者大谷正信氏については、「小泉八雲 燒津にて 大谷正信譯」の私の冒頭注を参照されたい。

 傍点「ヽ」は太字に代えた。踊り字「〱」は正字化した。また、最後に纏めてあるポイント落ち字下げの「譯者註」は適切な位置に本文同ポイントで行頭まで引き上げて示した。また一部が(例えば最初のフランス歌謡の英訳や小泉八雲自身の丸括弧による割注)がポイント落ちであるが、概ね本文と同ポイントで示した(長過ぎる場合はポイントを落とした)。歌謡の一部は(底本は全体が四字下げ)ブラウザの不具合を考え、上に引き上げた。

 かなり長い作品なので、分割して示すこととし、全体の公開が長引くのが厭なので、注はごくストイックに附すこととした。]

 

 

   日本の古い歌

 

 今年の正月元日の朝、見ると自分の机上に、自分が教へて居る文學科の一靑年詩人からの非常に嬉しい贈物が二品載つて居る。一品は新しい着物にとの織物――我が西洋の讀者が一度も見たことの無いやうな織物――の一卷(まき)である。その褐色の經(たて)は木綿絲であるが、緯(よこ)は不規則に黑の斑點のある白い柔らかい紙糸である。細かに檢べて見ると、その黑い斑點は支那文字や日本文字であることが判かる。といふのはその紙型の緯糸(よこいと)は、字の書いてある表面を外側にして、手際よく撚つて細い紐にしてある肉筆物――歌の肉筆物――で出來て居るからである。地合のその白と黑と褐色との全體としての感じは暖か味のある灰鼠である。出雲の多くの家庭でこれと似寄つた織物を家族用に製するのであるが、此の一卷(まき)は自分のその生徒の母が特に自分の爲めに織つたのである。頗る氣持ちのいい冬着になるであらう。そしてそれを着て居る時は、恰も神が日の光を纏うて居るが如くに、自分は文字通りに詩歌を身に纏うて居ることにならう。

[やぶちゃん注:「自分が教へて居る文學科の一靑年詩人」これはまず間違いなく、訳者である俳人(俳号は繞石)でもあった大谷正信のことである。彼は松江市末次本町生まれで、島根県尋常中学校での小泉八雲の教え子であり、学生の中でも最もハーンの信任を得た人物の一人であった。後、京都第三高等学校から学制改革で仙台第二高等学校へ転じた(第三高等学校・第二高等学校では同級生に高浜虚子と河東碧梧桐がおり、この頃から俳句への傾倒が始まっている)。明治二九(一八九六)年に第二高等学校を卒業しると、東京帝国大学英文学科に入学したが、まさに同年、小泉八雲が同大学に赴任し、再会を果たしていたのである。大谷はこの東京大学在学中に正岡子規に出会い、本格的に俳句の道に精進することとなったのであった。]

 他の一品はこれまた詩歌であるが、その原形を侶つで居る詩歌である。餘り人の知らぬ書物から蒐めたもので、その殆ど全部が復唱句(くりかへしく)を有つて居るといふ事實からして殊に興味のある日本の歌の筆寫した驚嘆す可き蒐集なのである。舊いのもあり新しいのもあり――いくつもの異常な物語歌(バラツド)、多くの踊歌、それから驚く許り種々雜多な戀歌を含んで居て――幾百の作品から成つて居る。感情に於ても構造に於ても、自分が、今迄の書物で、飜譯して見本を既に提供した日本の歌に類似して居るものは唯だの一つも無い。その形式は、多くの場合、奇妙にも不規則である。がその不規則さはそれ獨得の一種奇異な妙趣を有たぬでも無い。

 

 自分はさういふ作品の一つにはそれが情操的に珍らしい性質を有りて居るが爲めと、また一つにはその構造法が奇異なので、その方面に我々は得る所がありうるが爲めとで――實例を提供しようと思ふ。古い方の歌(古代の劇詩譯者註一から拔萃した)は殊に注目に値するやう自分には思はれる。思想若しくは感情とその發言とは極めて單純であるが、反覆と途切れとの原始的な手段に賴つて、頗る著しい效果が奏せられて居る。次記の見本のうち特に注意に値すると自分に思はせる事は、第一節の三行目で始まつて居て途中一種の和唱句で中斷されて居る句が、次の節で繰り返されて言ひ終へられて居る遣り方である。恐らくはこの休止は、二重の和唱句がある英吉利の物語歌の或る物が、或はかの有名な

 

    Au jardin de mon père—

      Vole, mon cœur, vole!

    Il y a un pommier doux,

      Tout doux!

〔ふる里の父の園生へ――

         飛べ、わが心よ、飛べ!

    そこにに林檎の木があつて

         甘い甘い實がなる!〕

 

のやうな佛蘭西歐の妙な古い形式が與へる效果を、西洋の讀者に思ひ出させることであらう。然し日本の歌では途切れ句の反覆は、日本の舞踊の動作が西洋のどんな輪舞とも同じからぬ如く、この佛蘭西の作品の效果とは同じからぬ夢見るやうな悠々とした效果を奏する。

 

譯者註一 劇詩(ドラアマ)とあれど寧ろ謠ひ物とあるべきもの。

[やぶちゃん注:謠(うたい)は劇詩と私は思う。]

 

  彼乃行(かのゆく) (十一世紀のものでゐらう)

かの行くは

雁(かり)か鵠(くぐひ)か

雁ならば。

(覆唱句) ハンヤ、トウトウ。

      ハンヤ、トウトウ。

 

雁ならば

名のりぞせまし

猶ほくぐひなりや

(覆唱句) トウトウ。

[やぶちゃん注:この唄、後の竹久夢二の小曲絵本「三味線草」(大正四(一九一五)年新潮社)の中に、

   *

かのゆくは雁か鵠か

雁ならばはれやとうとう。

雁ならば名のりぞせまし

なほ鵠なりや

はれやとうとう。

   *

と全く同じ形で載る。如何にも小唄で、小泉八雲の謂うような十一世紀というのはちょっと溯り過ぎのようにも感ずるが、後で出る催馬楽の一篇などとの親和性を感じさせることはさせる。

「雁」広義のガン(「鴈」「雁」)は鳥綱 Carinatae 亜綱Neornithes 下綱 Neognathae 小綱カモ目カモ科ガン亜科 Anserinae の水鳥の中で、カモ(カモ目カモ亜目カモ科 Anatidae の仲間、或いはその内のマガモ属 Anas)より大きく、ハクチョウ(カモ科Anserinae亜科ハクチョウ属 Cygnus の六種及び Coscoroba 属の一種の全七種)より小さい種群を総称する。博物誌は私の「和漢三才圖會第四十一 水禽類 鴈(かり・がん)〔ガン〕」を参照されたい。

「鵠(くぐひ)」は広義の「白鳥」(鳥綱カモ目カモ科ハクチョウ属 Cygnus 或いはそれに類似した白い鳥)の古名であるが、辞書によっては、特にハクチョウ属コハクチョウ亜種コハクチョウ Cygnus columbianus bewickii とする。私も個体の大きさからここはそれを採る。博物誌は私の「和漢三才圖會第四十一 水禽類 鵠(くぐひ)(コハクチョウ)」を参照されたい。]

 

 上記の形式での古い敍情詩は澤山にある。構造は異つて居るが、これ亦古い劇詩から採つた別な歌を次に揭げよう。これには復唱句は無いが、句の同じく特有な中絕がある。そしてその四つ拍子の反覆の效果は情緖的に感銘が深い。

 

  磯 等(いそら)

いそらが崎に

鯛釣る海士(あま)も

鯛釣る海士も

 

我妹子(わぎもこ)がためと

鯛釣る海士も

鯛釣る海士も。

 

 が然し次記の古歌では、言ひ終へて居ない句の異常な反覆と、二重の中絕とで、前のよりも猶ほ一層著しい效果を得て居る。自分はこれほど純然と自然なものは想像が出來ぬ。實に此の單純な發言の寫實は殆ど哀切の性質を有つて居る。

 

  總 角(あげまき) (古い敍情詩――年代不明)

 總角(あげまき)を

早稻田にやりてヤ

 其(そ)をもふと譯者註二

 そをもふと

 そをちふと

 そをもふと

 そをもふと

 

 そをもふと

何もせずして

 春日すら

 春日すら

 春日すら

 春日すら

 春日すら。

 

註 昔は、男の子は兩の顳顬[やぶちゃん注:「こめかみ」。]の處だけ一總の垂れ髮を殘して頭を綺麗に剃るが習慣であつた。そんな垂れ髮を「アゲマキ」と呼んだもので、總(ふさ)といふ意味の語である。ところがしまひにに其語が男兒或は童といふ意味を有つやうになつた。この歌のやうな歌では――丁度英國の少女がその愛人のことを「マイ・ディア・ラツド」或は「マイ・ダアリング・ボイ』と言ふやうに、なつかしみいとほしみての言葉として使用されて居るのである。

譯者註二 「もふと」は「おもふと」の意。

[やぶちゃん注:「ラツド」“lad”。若者・少年・(年齢に関係なく)男・元気のいい男・大胆な男等の意を持つ。]

 

 反覆と復唱句との他の形式を次記の二つの敍情詩が提供して居る。

 

  鬢多多良(びんだたら) (十二世紀に作られしものと想はる〻もの)

 びんだたらむ

あゆかせばこそ

あゆかせばこそ

愛敬(あいぎやう)づいたれ。

   ヤレコ トウトウ。

   ヤレコ トウトウ。

 

 

  樣は天人 (多分十六世紀のもの)

樣(さま)は天人(てんにん)。

  ソレソレ

  トントロリ。

 

乙女の姿

雲の通ひ路

ちらと見た。

  トントロリ。

 

乙女の姿

雲の通ひ路

ちらと見た。

  トントロリ。

 

 自分が次に選んだのは年月不明の戀歌からである。時代は鎌倉時代(一一八六――一三三二)である。この斷片は、佛敎の言葉が引いてあるのと、節(せつ)の形式が甚だ規則正しいのとが主として目立つて居る。

 

 まことやら

鹿島の港に

彌勒の船が

着いて御座りまうす。

   ヨノ!

  サア、イヨエイ、イヨエイ!

  サア、イヨエイ、イヨエイ!

 

 ほばしらは

黃金(こがね)のほばしら

帆には法華經の

五のまんまきもの。

  サア、イヨエイ、イヨエイ!

  サア、イヨエイ、イヨエイ!

  …………………………………

 

 奇妙な復唱句があつて、他の點で興味があるのは、『サイバラ』といふ奇妙な一類の敍情劇詩譯者註三の一つたる、今一つの『あげまき』といふ名の歌である。これには稍〻『放恣』といふ缺點があるが、殆ど同年代に作られたらしく思はれる我がエリザベス朝の歌の世人が賞讃するもののうちの或る物よりも餘計に非難を受くべきものとは自分は考へぬ。

譯者註三 劇詩は謠ひ物とあるべきもの。

[やぶちゃん注:「サイバラ」催馬楽。日本の雅楽の種目の一つで、平安時代に貴族の間で盛んに歌われた声楽曲。アジア大陸から伝来した唐楽・高麗楽(こまがく)風の旋律に日本の民謡や童謡の歌詞を当て嵌めたものが多い。発生の時期は平安初期に溯るが、平安中期以後、特に源雅信の活躍した九〇〇年代から鎌倉初期にかけて盛行した。歌い方には藤家(とうけ)と源家(げんけ)の二つの流儀があり、その曲目も数十曲に及んだ。歌の内容は恋愛歌・祝儀歌などさまざまで、饗宴の性質によって歌われる歌が決っていて、後には一種の故実として固定化したが、室町時代に途絶した。その後、寛永三(一六二六)年に「伊勢海(いせのうみ)」が再興されて以来、今日までに十曲が宮内庁楽部に伝わる。曲は歌のリーダー(句頭)が曲の冒頭部分を独唱し、次に、全員の拍節的斉唱となる。伴奏楽器は現行は竜笛・篳篥(ひちりき)・笙・琵琶・箏・笏拍子を用いる。現行の十曲の催馬楽は双調 (そうぢょう:ト音)を主音とする呂(りょ)の歌「安名尊(あなとう)」・「山城」・「席田(むしろだ)」・「蓑山」・「田中井戸」・「美作(みまさか)」などと、平調(ひょうぢょう:ホ音)を主音とする律の歌「伊勢海」・「更衣」・「大芹(おおせり)」・「西寺」に二分類されている(以上は「ブリタニカ国際大百科事典」に拠った)。

「放恣」「はうし(ほうし)」は「勝手気ままで乱れていること」の意。以下に見る通り、この歌、性的なニュアンスがあからさまである。]

 

  總 角 (多分十六世紀のもの)

あげまきや

   トウトウ!譯者註四

尋(ひろ)ばかりや

   トウトウ!

放(さか)寢たれども

まろび逢ひにけり

   トウトウ!

かより逢ひにけり。譯者註五

   トウトウ!

 

譯者註四 原英文に「トントン」あるは誤。

譯者註五 「かより」の「か」は接頭語。「かより逢ひ」は「寄り逢ひ」なり。

[やぶちゃん注:「尋(ひろ)」は中国や本邦に於いての両手を広げた長さを指す古い長さの単位。「尋」の解字もまさにその意味である。ここは「總角」の少年少女は孰れも距離を離して寝ていたものだったが、ころこっろと転(まろ)び合って、互いに逢い、そうして「か寄る」=寄り添って(一説に「ゆらゆら揺れ動いて」。性的ニュアンスも感じられる)逢うことができたのだ、の謂いであろう。]

 

 自分が次に揭げる一群の選擇は『地方の歌』から成つて居る。『地方の歌』とは自分にそれを蒐めて吳れた生徒の心では、特殊な郡或は國に固有な歌といふ積りである。いづれも――前に揭げた作品よも古くはないけれども――古いもので、その興味は主として情緖的なところに在る。が、讀者は氣附かれるであらうが、妙な復唱句のあるのが數々ある。此種の歌は殊に村の踊に――盆踊や豐年踊に――歌ふものである。

 

 

  戀 歌 (越後國)

花か蝶々か

蝶々か花か

   ドンドン!

來てはちらちら迷はせる

來てはちらちら迷はせる。

   サウカネ、ドンドン!

 

  戀 歌 (紀伊國小川村)

聲はすれども

姿は見えぬ

深野のきうぎりす!

 

註 キリギリスに非常に音樂的な音を出す一種のグラスホパアである。色が全く草色だから、近く鳴いて居る時でも、之を見るのは困難である。此歌に田畠で仕事をしてゐながら歌をうたふ百姓の愉快な習慣を仄めかせて居るのである。

[やぶちゃん注:「紀伊國小川村」中世以来の荘園であった和歌山県の海草郡旧小川村、現在の和歌山県海草郡紀美野町(きみのちょう)のこの附近(グーグル・マップ・データ。以下同じ)であろう。

「グラスホパア」“grasshopper”は英語圏では広く「バッタ」・「イナゴ」・「キリギリス」総てを指す。]

 

  戀 歌 (陸奧國津輕郡)

私(わし)の心と

冲來る舟は

らくに見せても

  苦が絕えぬ。

 

  戀 歌 (周防國井關村)

淚ぼして

辛苦を語る

可哀らしさが

  ましまする!

[やぶちゃん注:山口県山口市の阿知須(あじす)井関(いせき)か。]

 

  戀 歌 (駿河國御殿場村)

花や能く聽け

性(しやう)あるならば

人がふさぐに

  何ぜひらく。

 

  古の東京の歌

いやなお方の

親切よりか

好いたお方の

  無理がよい。

 

  戀 歌 (石見國)

可愛らしさよ

螢の蟲は

忍ぶ繩手に

  灯をともす。

 

  おどけ歌 (信濃國)

 あの山かげで

 光るは何ぢや

月か星か螢の蟲か

 月でも無いが

 星でも無いが

姑のお婆の眼が光る――

 (合唱) 眼が光る!

 

  かへり踊 (讃岐國)

かへり踊(文字通りでは「變へる踊」又は「歸る踊」)の眞の意味は自分は確とに知らぬ。

 

おれが姑(しうとめ)のたけちなや!

   (合唱) たけちなや!

流る〻水にも繪をかけと!

流る〻水に繪をかかば

あなたはそら夜の星ぞ讀め!

        星ぞ讀め!

お庭踊はいざをどららう!

        チヤン、チヤン!

        チヤチヤ!

        ヨイトセ!

        ヨイトセ!

誰(た)ぞやお裏(うら)に竹伐るは?

   (合唱) 竹伐るは?

おれが殿御(とのご)のうゑ竹を

        うゑ竹を?

お庭踊はいざをどらう!

        チヤン、チヤン!

        チヤチヤ!

        ヨイトセ!

        ヨイトセ!

おれが姑(しうとめ)のたけちなや!

        たけちなや!

岩を袴にたち縫へと!

岩を袴にたち縫へば

あなたは小砂を糸に縒(よ)れ!

        糸に縒れ!

お庭踊はいざをどらう!

        チヤン、チヤン!

        チヤチヤ!

        ヨイトセ!

        ヨイトセ!

[やぶちゃん注:「たけちなや!」の「たけち」を小泉八雲は“the cruelty”(残酷・冷酷)と訳している。]

 

  お寺踊 (伊賀國上野町)

お寺へまゐりて御門(ごもん)を見れば、

御門は臼かね扉(とびら)はこがね、

御門は氣高(けだか)いお寺かいな。

        お寺かいな!

お寺へまゐりて御庭を見れば、

せりせり小松は四方に榮え、

一(いち)の小枝へ四十雀(しじふから)が巢を

        巢をかけた。譯者註六

お寺へ參りて泉水見れば、

色々の小ばなを集めてござる、

めんめにその色咲き分ける、

        咲きわける。

お寺へ參りて書院を見れば、

いろいろの小鳥を集めてござる、

めんめにその音(ね)をいだしける、

        いだしける。

お寺へまゐりて客殿(きやくでん)見れば、

か〻ヘの屛風にゆえんをすゑて、

御經あそばすありがたや!

        ありがたや!

 

註 四十雀は英詩のマンチュリアン・グレイト・ティツト。その巢を邪魔せずその雛を保護しやれば、そが巢をつくる庭の持主に幸福を齎すといふ。

譯者註六 原歌は此一節は「お寺へ參りて御庭を見れば、せりせり小松は四方へ榮え、一の小枝へ四十雀は巢に巢をかけて、其子が育てばお寺繁昌、お寺はんじよ」なり。そのまゝ逐字譯しては行數他の節よりも多くなる爲め都合よく自由譯されしなり。

[やぶちゃん注:「四十雀(しじふから)」スズメ目スズメ亜目シジュウカラ科シジュウカラ属シジュウカラ Parus minor であるが、本邦産は現在、四亜種が留鳥として棲息する。代表種は亜種シジュウカラParus minor minor(アムール川流域から朝鮮半島・長江流域・四川省にかけてと、日本(北海道・本州・四国・九州・壱岐・隠岐・対馬・伊豆諸島・五島列島・佐渡島)及びサハリンに分布)に分布する(他の三亜種は南西諸島島嶼部限定の固有種)。博物誌は私の「和漢三才圖會第四十三 林禽類 四十雀(しじふから)(シジュウカラ・附ゴジュウカラ)」を参照。

「マンチュリアン・グレイト・ティツト」“The Manchurian great tit.”(「満州産四十雀」)。「great tit」はシジュウカラ属 Parus のシジュウカラ類の総称(「tit」はシジュウカラ科 Paridae のそれ)。]

2019/10/28

地獄で仏! 奇蹟の三上工務店さまに感謝する!

9月9日未明の台風15号は私の高台の家の裏の斜面にあった五メートルほどの枝垂れ桜の木を根こそぎ倒した(因みに屋根の一部も損壊した。とある業者に頼んだが、未だに直しに来て呉れない) 。斜面に倒れかかったそれは落下の恐れがあったことから、十日後に拝み倒して来て貰った造園業者に16万円で処理して貰ったものの、斜面はズル剝けになって、土留めをしないと土地の崩落の危険があると言われた。三日後、20キロのバラスと40リットルの黒土を近くのホーム・センターで買い、山用のザックで運んで(生涯で二十数キロを背負ったのは、二十代の終りの友人らとの山行の時以来二度目だった。腰がいかれた)抉れた穴に入れたところが、あっという間に総てを吞み込んだ。逆に恐ろしくなった。即座にとある業者に土留めを頼んだ。二週間ほど経った今月の上旬、やっと下見に来た。しかし「重機が入れないのでやれない」とケンモホロロに言い放って5分で帰ってしまった。打ちのめされた。その日のうちにネットでやってくれそうなところを探した。ふと、目にとまったのは平塚の三上工務店のサイトであった。まさしく「藁にも縋る」思いで電話をした。すると、何と、翌日に下見に来て呉れた。前の業者のことを話した。すると、「それは『やれない』のではなくて、『やりたくない』んですよ。大手の会社ほど、面倒がって、こうした工事はやらないでしょうね」と言われながら、しかし即座に請け負って呉れた。今日、朝八時から始めて、半日がかりで奇蹟のような手仕事の職人技で、驚くべき綺麗な土留めをして下さった。私はこの数十年来、こんなに胸のすくような感動を覚えたことはなかったことをここに告白する。ここに記して、心から、感謝の意を表するものであり、多くの困っている方々にも、是非、この平塚の「三上工務店」をご紹介したく思い、一筆するものである。

小泉八雲 日本の女の名 (岡田哲蔵訳) その「三」と「四」 / 日本の女の名~了

 

[やぶちゃん注:本篇については、『小泉八雲 日本の女の名 (岡田哲蔵訳) その「一」』の私の冒頭注を参照されたい。なお、末尾注の最後の方に改行して添えたものの中に、

   *

華族女學校の方の名も同校卒業者名簿を參照して見たが今考へ難きものが少からぬ。

   *

と、本パートと関連のある註があるので、ここに記しておく。]

 

 

       

 

 現代貴族の名の例として私は明治十九年から二十七年迄[やぶちゃん注:一八八六年から一八九四年まで。]の間に發行せられた華族女學校の報告を參照した。華族女學校は同族以外の女子も入學を許して居るが、私は硏究の目的の爲めに華族のみの名を百四十七だけ選んだ。

 三字四字の名は此等の中に稀であること、また現代の貴族の二字の呼び名は、發音も說明も一般の呼び名と差別が無いことが注意されやう。然し漢字で書くと外の女と餘程異るものがある。それは多くは複雜で見慣れぬ文字で書かれる爲めである。その樣な精妙の文字を用ゆることは主として次の表に見る如き同音異義の名が比較的多いことの說明になる。

 

    華族女學校生徒の個人名

秋子

明子

晨(アキ)子

朝子

綾子

千春子

近子

千鶴子

[やぶちゃん注:原本に従えば「ちづるこ」である。]

千代子

えい子(鐘聲)〔?〕

悅子

藤子

福子

文子

芙蓉子

冬子

花子

華子

治子

春子

はる子(遠く離るの意)〔?〕

[やぶちゃん注:岡田氏は疑問符を示しているが、「遙子」で奇異でも何でもない。]

初子

秀子

英子

博子

廣子

久子

ひさ子(繼續の意)

星子

育子

今子

五百子

[やぶちゃん注:「いほこ」。]

糸子

龜子

周子

[やぶちゃん注:「かねこ」。]

鐘子

かた子(條件)〔?〕

一(カズ)子

數子

和子

淸子

孝(の本語を知らぬ讀者に說明しかねるが、音調の都合で子を省く、この名の音が一つの時も二つの時も)

[やぶちゃん注:「孝」は原文では“”と表記されている。ここで小泉八雲が謂っているのは「こー」の時も「こう」の時も、ということである。]

鴻子

琴子

國子

京子

萬千

[やぶちゃん注:「まち」。]

誠(マコト)

正子

まさ子(信任の意)〔?〕

增子

また子(完全にの意)〔?〕

[やぶちゃん注:「全」は人名で「また」と読むから、疑問はない。]

松子

三千子

嶺子

光子

美代子

元子

長子

永子(永生)

波子

直子

によ子(神道にも佛敎にもある何にても望むものを授くといふ如意寶珠より取れる名、地藏も此珠を有つ。『東方聖書』第十一卷なる大善見王の經第一章のヴエルリアの珠と同じ物ならん譯者註一一

譯者註一一 「東方聖書」第十一卷は第七卷の誤ならん。パリ語より譯せるヴイナナ本文といふ本文に、佛敎の Futtas といふものあり、その第六 Legend of thc Grcat King or Gloly Mahâ-Sadassana Suttanta.「大善王經」といふ)あり。この大王を阿難陀といひ、七種の寶あり。その一をVcluria 卽寶珠といふとあり。但し『によ子』といふ名が果して如意寶珠より取りしものか疑はしい。

[やぶちゃん注:「東方聖書」は「東方聖典叢書」(Sacred Books of the East)で、ドイツ生まれで、イギリスに帰化したインド学者(サンスクリット文献学者)・東洋学者・比較言語学者・比較宗教学者・仏教学者であったフリードリヒ・マックス・ミュラー(Friedrich Max Müller 一八二三年~一九〇〇年)によって編集され、オックスフォード大学出版局によって一八七九年から一九一〇年にかけて刊行された、アジアの諸宗教の聖典の英語翻訳を集成した全五十巻からなる壮大な叢書。ヒンドゥー教・仏教・道教・儒教・ゾロアスター教・ジャイナ教・イスラム教の主要な聖典を収録している(ウィキの「東方聖典叢書」に拠る)。

「パリ語」インド・ヨーロッパ語族のインド語派に属する言語で、現在は死語。Pali。中期インド語であるプラークリット語の一つで、南方仏教聖典の用語。アショーカ王石柱、サンスクリット劇中の諸方言との比較、釈迦との関係等から、パーリ語は北部インドのマガダ方言又はウッジャイニー方言に基づくとされる(平凡社「百科事典マイペディア」に拠る)。]

のぶ子(多量)〔?〕

延子

範子

縫子

沖子

貞子

定子

櫻子

里子

さと子(辨別)

せき子(大の意)〔?〕

[やぶちゃん注:この「せき子」は「碩子」ではあるまいか。「大きくてすぐれている」で小泉八雲の解説と一致する。]

節子

茂子

繁子(繁榮)

茂(シゲ)子(豐富なる生長)

[やぶちゃん注:表記が前と重なるのは如何なものか。平井呈一氏はここを『成(しげ)子』とされており、躓かない。]

しげ子(生長)〔?〕

しげ子(芳香)〔?〕

[やぶちゃん注:岡田氏の訳はちょっとおかしい。リストでは“Shigé-ko”の同音のそれは四名分しかないのに、ここでは五名出ているからである。最初の「茂子」は衍字ではなかろうか? なお、平井呈一氏は『馥(しげ)子』と漢字を当てる。]

しき子(愼)〔?〕

島子

新子

靜子

靜江

園子

末子

[やぶちゃん注:これは底本では「未子」であるが、原文は“Suë-ko”なので、明らかな誤植と断じ、特異的に訂した。

助子

澄子

すみ子(眞實)

澄江

錫子

鈴子

鈴音

[やぶちゃん注:「すずね」。]

高子

孝(タカ)子

たか子(貴き意)

竹子

瀧子

玉子

珠子

爲子

[やぶちゃん注:原本に従うなら「民子」である。]

たね子(成功)〔?〕

達子

多鶴子

[やぶちゃん注:原本に従うと「たつるこ」。]

田鶴子

[やぶちゃん注:読みは同前。]

輝子

鐡子

時子

留子

富子

友子

敏子

豐子

常子

つね子「前と同義別字」〔?〕

[やぶちゃん注:「庸子」・「彝子」・「每子」等が想起出来る。平井氏は『節(つね)子』とする。]

つね子(眞實)

[やぶちゃん注:漢字を想起出来ない。]

鶴子

艷子

卯女

[やぶちゃん注:原本に従えば、二字で「うめ」。小泉八雲は解説で“Female Hare”(雌兎)とする。]梅子

八千子

八十子

八十四子

[やぶちゃん注:原本に従うなら「やそしこ」と読む。]

保子

寧子

安子

米子

賴子

よし(卓越)〔?〕

[やぶちゃん注:「優(よし)」か?]

芳子

良子

愛(ヨシ)子

淑(ヨシ)子

よし子(悅)

慶(ヨシ)子

よし子(幸)

[やぶちゃん注:「吉子」・「嘉子」等が想起出来る。]

よし子(輝きて明)〔?〕

幸(ユキ)子

雪子

行子

豐(ユタカ)

 

 

    

 

 本論のはじめに私は純然たる美的の呼び名の好まれぬ理由は一面に極めて詩的の名が藝娼妓につけられる習俗の爲めであらうといつた。それで或る外人の誤解を正す目的で私は藝妓の名に就て二三の攻究を試みる。

 藝妓の名は――他の名の類の如く――好奇的興味に充ち、またそれだけで眞に美しいが、尊敬と正反對の職業と聯想する爲めに全然俗化してしまつた。嚴密に云へば、此等の名は本硏究の問題と全く關係が無い。それは實は個人名で無くて、唯だ職業の名稱に過ぎず、呼び名で無くて藝名であるからである。

[やぶちゃん注:以下の太字は底本では傍点「○」。]

 か〻る名の大部分はある接頭字、接尾字の特徵がある。例へば左の如きものがある。

 ㈠ 上にをつける、若草、若鶴、若紫、若駒の類。

 ㈡ 上に[やぶちゃん注:「こ」。傍点がないが、原文に徴して太字とした。以下でも同仕儀を適用した。]をつける、小艷、小花、小櫻の類。

 ㈢ 下に[やぶちゃん注:「りょう」(原文音読)。]をつける、(登り龍は特に成功の象徴である)、玉龍、花龍、金龍の類。

 ㈣ 下に[やぶちゃん注:「じ」。]をつける、歌治、しんね治(?)、勝治の類。

[やぶちゃん注:「しんね治」平井氏は『〆治』とする。]

 ㈤ 下にをつける、玉助、駒助の類。

 ㈥ 下にをつける、歌吉、玉吉の類。

 ㈦ 下にをつける、三菊[やぶちゃん注:「みつぎく」。]、雛菊、小菊の類。

 ㈧ 下にをつける、駒鶴、小鶴、糸鶴の類。

か〻る形式は說明の助にならう。然しまだ外のがある。藝名は槪ね二つの漢字で書いて、三音又は四音に讀む。五音の藝名も折々ある、二音だけのは少く舞妓には稀である。而してか〻る職業的の名は何等道德的の意義あることは殆ど無い、これらは長壽、富、快樂、若さ、幸運などに關はる物の意義で、恐らく特に幸福に關係が多い。

 

 近年都の藝妓の或る者のうちには上品なを名の下につけることが流行となり、又は貴族的の呼び名を名乘るものさへ現はれて來た。一八八九年[やぶちゃん注:明治二十二年。]に東京の一新聞は法律の手段でこの事實を停止することを論じた。この事がこの問題に關にする公衆の感情の證明を與ふると見られよう。

 

小泉八雲 日本の女の名 (岡田哲蔵訳) その「二」

 

[やぶちゃん注:本篇については、『小泉八雲 日本の女の名 (岡田哲蔵訳) その「一」』の私の冒頭注を参照されたい。なお、本文内の原「註」は底本では四字下げポイント落ちであるが、引き上げて同ポイントで示した。文中内の( )の原注や訳者の疑問を示す『〔?〕』(これは末尾注の最後の方に改行して、

   *

ほ本文中著者の自註は槪ね日本語の明でゐるが、我が讀者に不用のものは省き、あるものは略記した、そのうち誤解も往々あれどそれらはそのま〻になしおき、不明のものに〔?〕を附けておいた。華族女學校の方の名も同校卒業者名簿を參照して見たが今考へ難きものが少からぬ。

   *

とある)もポイント落ちであるが、同じ仕儀とした(以下、この注記は省略する)。]

 

      

 

 日本の女の名に關しての重要な規則の若干を今舉げて見ねばならぬ。

 此等の呼び名の大多數は假名二字の語である。中流及びそれ以下の相當の身分の女の個人名は殆ど凡て二字、但し或る奇妙な接尾音をつけて延ばす場合は別である、そのことは後に言ふ。以前には三字又はそれ以上の名は上流の女のものであつた。然るに今日は上流の間にても二字だけの女の名が流行して居る。

 二字の女の名は敬稱として上にオを、下にサンをつけるのが習慣である。オ松サン、オ梅サンなどと。然し三字の名には敬稱のオをつけず、菊枝といふ名の女はオ菊枝サンでなしに、ただ菊枝サンと呼ぶ。

 

註 或る親密の場合にはオもサンも省く。目上の人が目下の人を呼ぶときも同じで、淑女が召使をオ米(ヨネ)サンと呼ばず、ただ米(ヨネ)と呼ぶ。

 

 貴夫人の名の上に敬稱のオをつけることはもはや以前の樣で無い。それは名が唯一言であるときでもさうである。呼び名の上に何もつけないで下に敬稱として子の字をつける。富といふ名の農家の娘は同輩からオ富サンと呼ばれる。同名の淑女は富子と呼ばれる。例へば華族女學校敎頭下田夫人は歌といふ美しい名を有つ[やぶちゃん注:「もつ」。]。彼女は手紙に下田歌子と書かれ、自らも返書に同じ樣に署名する。日本の習慣では家の苗字はいつも個人の名の上におかれて西洋とは反對である。

[やぶちゃん注:「下田歌子」(嘉永七(一八五四)年~昭和一一(一九三六)年)は教育者。美濃岩村藩儒者平尾鍒蔵(じゅうぞう)の娘。祖父は東条琴台。幼名は鉐(せき)。明治五(一八七二)年、女官となり、皇后から歌子の名をうける。下田猛雄と結婚。明治十四年に桃夭女塾を開設、明治十八年には華族女学校(女子学習院の前身)の設立に参画し、教授・学監となった。明治三十一年、一般の女子のために帝国婦人協会を設立し、翌年には附属の実践女学校(実践女子大学の前身)を創立した。著作に「香雪叢書」「家政学」などがある。]

 名の下につけるは漢字で書いて子供の意であるが、同音の漢字のと混じてはならぬ。は屢〻舞妓の名に見ゆる。この上品なの字は愛撫的に物を小さく見る語の價があると私は言つて見たい。それで愛子といふ名はスペンサァの仙女王(フェアリ・クイン)のアモレタ(Amoretta)によくあたると思ふ。それは何れにしても、節、貞の如き日本淑女は今日はオ節、オ貞と呼ばれずに、節子、貞子と呼ばれる。然るに民衆の女が節子、貞子などと署名すれば笑はれるにきまつて居る。それは節子夫人、貞子夫人といふ意味になるからである。

[やぶちゃん注:「スペンサァの仙女王(フェアリ・クイン)のアモレタ(Amoretta)」原文“the "Amoretta" of Spenser's Faerie Queene.”。イングランドの詩人エドマンド・スペンサー(Edmund Spenser 一五五二年頃~一五九九年)が当時のイングランド女王エリザベスⅠ世に捧げた、一五九〇年(初版)刊のアレゴリーをふんだんに用いた長詩「妖精の女王」(The Faerie Queene)は全六巻と断篇からなる長編叙事詩で、アーサー王物語を題材にしている。本来は全十二巻で構成を予定し、各巻で十二の徳を描く予定であったが、最終的(追加された二版は一五九六年、最終の第三版は彼の死後の一六〇九年刊)には「神聖」・「節制」・「貞節」・「友情」・「正義」・「礼節」の六パートのみが詠まれた。参照したウィキの「妖精の女王」によれば、『作品の中で「グローリアーナ」と呼ばれるのは、他ならぬ女王エリザベス』Ⅰ世その人であるという。本詩は『高く評価され』、『テューダー家はアーサー王の子孫だと褒め称えている』とある。英文サイト「Renascence Editionsのこちらで全篇が活字化されたもので読める。「Amoretta」(アモレッタ)は同詩に登場する双子の娘の名で、恐らくはギリシア神話の「愛」の神「エロス」のラテン語「アモル」(Amor)由来であろう。]

 私は中流及びそれ以下の女の呼び名の上に敬稱のオをつけるといつた。車屋の妻でも多分オ何サンといはれるであらう。然しオに關するこの一般の規則には著しい例外がある。或る地方では二字の通常の呼び名の終に妙な字を加へて三字にするが、か〻る三字名の上には決してオをつけぬ、例へば紀伊國和歌山の娘は通常呼び名の下にエをつける、それは江、灣、時には河の意である。それで波江、富江、佳江、靜江、玉江などの名を見る。また地名により野又は原の意なるノを多くの女の名につける所がある。吉野、梅野、靜野、浦野、歌野などが此類の模範的の名である。波江とか菊野とかいふ娘は、オ波江サン、オ菊野サンとは呼ばれず、ただ波江サン、菊野サンと呼ばる。

 

註 「江」と「枝」とは混同してはならぬ。『枝』もまた多くの通常の名につけられる。漢字を見ぬと例せばタマエといふ名が玉枝だか玉江だか判らぬ。

 

 サンはもと形式、外見の意の『樣』を略したのだが、女の名の下につけると英語の Miss 又は Mrs.に當たる。男の名の下につけると少くも英語の Mr. に當たり、或はそれ以上の意があらう。『樣』といふ略さない形は男女とも高貴の人の名の下にも、神々の名の下にも用ゐらる。神道の神は神樣といはる、それを譯せば The  Lords  Supreme [やぶちゃん注:「最高の君主さま」。]であろう。地藏菩薩は地藏樣と呼ばる。淑女にも樣をつける。例せば綾子といふ淑女は當然綾子樣と呼ばる。然し淑女の名が子を除いて三字以上の時は子又は樣をつけぬ例である。菖蒲[やぶちゃん注:「あやめ」。]夫人は菖蒲子樣とはいはれず、もつと音の良い菖蒲樣又は菖蒲子と呼ばる。

 

註 しかし菖蒲樣の方が通例だが、此形式は知らぬ人が口語で呼ぶときには用ゐぬ、手紙ならさう書いてよい。槪して子の方が敬意を表した形である。

 

 名の上下の文字に關してはそれだけとして、私はこれから女の名の類別を試みよう、先づ普通の呼び名からはじめる。此等の名が特に興味があるわけは、それが倫理學や美學に關して民族感情のあるものを示し、また日本の習慣に關する奇妙な事實を說明するに足るからである。私は先づ純然道德的の意義の名を第一位におく、それは槪ね子供がその名にふさはしいものになれとの望でつけられたのである。然し次の表は決して完全と認むべきで無く、ただ代表的のものを舉ぐるに過ぎぬ。それから或る名の理由は說明が出來ず、それは私にも私の日本の友人にも謎であつたことを告白しておく。

    道德及び禮節の名

オ愛

オ智慧

オ忠

オ仁

オ順

オカイヨウ(赦しの意)〔?〕

[やぶちゃん注:平井呈一氏は恒文社版(一九七五年刊)の「日本の女性の名」でこれに注され、『Forgiveness—pardon とあるから、お海容か?』とする。「海容」は、「海が広くて何物でも受け容(いれる如くに寛大な心で相手の罪やあやまちを許すこと」の意で、現代では殆んど書簡の用語となっている。「海恕(かいじょ)」に同じいから、これは或いは、手紙の末尾にでも記されたそれを、小泉八雲は女性名と見誤ったものではなかろうか?]

オ賢(道德的分別の意にて)

オ孝

オ正

オ道

オ直

オ信

[やぶちゃん注:原文“O-Nobu”。]

オ禮(古き漢字の意にて)

オ烈

オ良

オ貞(サダ)

オ誠

オ信(シン)

オ靜

オ節

オ爲

[やぶちゃん注:原文“O-Tamé”。]

オ貞(テイ)

オ德

オ友

オ常

オ安

オ良(ヨシ)

オよし(尊敬の意)〔?〕

 

 次の表は一見すると實際よりは混種と見ゆるであらう。それは前の表よりもつと變化多き名稱を含む。然し殆ど凡ての呼び名は何か善良な性質、または或る將來の幸福に關はり、親達が子がその德を示すことを冀ひ[やぶちゃん注:「こひねがひ」。]、或はその幸に與る[やぶちゃん注:「あづかる。]に足ることを望んでつけたのである。その後者の類に美代、正代の如き幸運の名が屬して居る。

 

    個人の性質又は親の希望を表はす諸名

オ篤

オ近

オ千賀

オ長

オ大

オ傳

オエ(幸福の意)〔?〕

オ榮

オ艷

[やぶちゃん注:「おえん」。]

オ延

オ越

オ悅

オ福

オ源

オ早

オ秀

秀代

オ廣

オ久

勇(イサム)

オ甚(ジン)〔?〕

龜代

オ兼(一時に二つのことを爲すの意)

オかた

オ勝

オ慶

オ敬

オ謙

オ吉

オ君

オきわ(顯著の意)〔?〕

オ淸    }

淸(キヨシ)}

[やぶちゃん注:以上の下方の記号二つは、底本では下方で大きな「}」一つで括られてあることを示した。]

オくる(來る人、「口笛吹かば我れ來る」と英詩にあるに似たれどもさにあらず、家庭にての從順の意あらん)

[やぶちゃん注:「口笛吹かば我れ來る」“O whistle, and I'll come to you, my lad”は私の偏愛するスコットランドの国民的詩人ロバート・バーンズ(Robert Burns 一七五九年~一七九六年)の詩篇の題名と一節。英文のバーンズのサイトのこちらで読める。]

オ光

オ正

正代

オ益

オ三枝

オ幹

オ三緖

オ滿

オみわ(先見)〔?〕

オ三輪(佛敎の名らしけれど、佛敎的の呼び名は殆どなき筈)

オ美代

深雪(ミユキ)(雪積もれる後の靜寂の意にて美しき名)

オ元

オ仲

オ賴(ライ)

オ樂(諺に「樂は苦の種」といへば、この名あるはいぶかし)

オ幸(サチ)

オ才

オ咲

オ淸

オ勢

オ仙

オ茂

オしめ(全―最上善)〔?〕

オ新

オ眞

オ品

しるし(證)譯者註一〇

譯者註一〇 この誤は前述の(三)の通り。

オ賤

オ正

オ俊

オスキ(愛さる)〔?〕

オ助

オ澄

オ捨(必ずしも拾はれし捨兒にあらず、子供續きて死せし後に生まれし子を特更に[やぶちゃん注:「ことさらに」。]一度捨てて拾ふときは其子よく生長すとて、然する[やぶちゃん注:「しかする」。]習はしあり)

オ妙

オ尊(タカ)〔?〕

[やぶちゃん注:岡田氏の疑問の意図が判らぬ。普通にある女性名である。]

オ高



[やぶちゃん注:「たから」。寧ろこの方が不審。「おほう」なら判るが?]

オ玉

玉枝

常磐(磐の如く動かぬ道德的の意、この名は源義経の母の名として知らる)

[やぶちゃん注:うーん、八雲先生、これは「常磐木(ときわぎ)」で、変わらぬ生を指す方が先ではないでしょうか?]

オ富

オ敏

オ妻

オ賴(ヨリ)

オ若

 

 地名卽ち地理名は普通であるが、此等は特に說明が無い。子の生地の爲めに、または親の家のありし地の爲めに、方角や地位に關する昔の支那の哲學に屬する信仰の爲めに、傳統的習慣の爲めに、または神道の宗敎と聯關する觀念の爲めに樣々の名がつけられる。

[やぶちゃん注:「昔の支那の哲學に屬する信仰」陰陽五行説に基づく方位や四神相応の地形に基づく名を指していよう。]

 

    地  名

オ富士

オ濱

オ市

オ伊豫

オ河

オ岸

オ際(キハ)

オ國

オ京

オ町

松江

オ南(ミナ)(南の略)

オ峯

オ宮〔神道〕(一の宮に關係あるかと思ふ)

オ門(關の如く、或る門の傍に住む爲めかと想像す)

オ村

オ波(不運なりとかいふことの外は不明)

[やぶちゃん注:意味不明。]

浪速

オ西

オりん

オ崎

オ里

オ澤

オ關

繁木(シゲキ)

オ島

オ園

オ瀧

オ谷

オ塚

オ山

 

 次の表はそれに含まる〻呼び名の性質に關はる上に於ては奇異なる混合である。或る名は眞に美的で快い。或る名はただ工業的である。少數は極めて不快な綽名とも認めらる。

 

    物の名及び特に女に屬する職業の名

綾子又はオ綾(京都の綾錦のことか))

オ文

オ房

オ糸

オ鎌(農家に多き名)

オ釜(婢の名、婢はその娘をも婢にするつもりにて育つる故に、かかる醜き名もあり)

オ絹

オ琴

オ鍋

オ縫

オしめ(飾り結び)〔?〕

[やぶちゃん注:これは「お〆」で、後に出る「オ留」と同じく、これ以上、子がもう生れないようにという意味とするのが一般的解釈であろう。]

オ染

オ樽

 

 次の表は全く物質名詞を名としたものから成る。そのうち或る呼び名は私にはその寓意が判からない。槪言すれば貴い物質を示す呼び名、例へば銀や金の如きは美名である。石、岩、鐡の如き普通の貴い物質を示すのは性質の確實とか强力とかを暗示する。然し岩といふ名は時には長壽又は家族の生命の永續を願ふの象徵として用ゐらる。砂といふ奇名は個人の剛さ(グリツト)と關係なく、それは半ば道德的、半ば美的である。細かい砂、特に色のついた砂はこの造園の仙境たる日本に於て大いに貴ばれ、いつも汚塵なく美しくしておいて、園丁の外は踐んではならぬ[やぶちゃん注:「ふんではならぬ」。]場所にはさういふ砂が敷いてある。

 

    人の名として用ゐられたる物質名詞

オ銀

オ石

オ岩

オかね

オ風(この奇名の理由不明。)

オ金

オ瑠璃又は瑠璃子(これはエスメラルダと同じき美感を含まず、瑠璃は槪ね綠ではなくて靑、るり色は通常深い菫色)

[やぶちゃん注:「エスメラルダ」“Esmeralda”。欧米の男性又は女性の名。宝石の「エメラルド」を指す古フランス語 “esmeraude”を直接の語源とする。]

オりゆう(精金屬)〔?〕

オ砂糖〔?〕

オ石(セキ)

オ鹽

オ砂

オ錫

オ種

オ鐡

 

 次の五の呼び名は美名である、但し文字の上では知的の業に屬する物を意味す。少くもそのうち四は、西洋で文學の美といふ何物よりも、寧ろ書法、それは天下無双の極東の書法に關はる。

 

    文學の名

オ文(ブン)

オ筆

オ文(フミ)

オ書く〔?〕

オ歌

 

 數に關はる名は多々あるが頗る興味あるものである。此等は更に誕生の順序又は時を示す名と、祝賀の名とにあらまし二分される。一、三、六、八などの呼び名は槪して誕生の順序による。但し時には誕生の日取りを示す。例へば私はオ六といふ人を知つて居るが、その人はその家の第六子であつたのではなくて、明治六年六月六日に此世に生まれたので、この名をつけられた。それから表に二、五、九が無いことがわかるがオ二、オ五、オ九などいふのは日本人には馬鹿らしくて考へられぬ。私はよくは知らぬがそれは不快な洒落を暗示する爲めかもしれぬ。だがオ二の代はりにオ次といふ名があつて、次の表にも見ゆる。八十から千、及びそれ以上にいたる數を示す名は祝賀の名である。それらは名の持主が極めて長壽であること、又はその子孫が幾百年も榮える樣にとの願を寓したのである。

 

    數字及ぴ數に關する語

オ一

オ三

オ三つ

オ四つ

オ六

オ七

[やぶちゃん注:原文“O-Shichi”。]

オ八

オ十

オ五十(父五十歲にて舉げし長子の意なる事あり)

[やぶちゃん注:原文“O-Iso”。]

オ八十

[やぶちゃん注:原文“O-Yaso”。]

オ百

オ八百

オ千

オ三千

八千代

オ重(シゲ)

オ八重

オ數

オ皆

オ半(英語のベタァ・ハァフの意かと思はるべきも、これは父が半右衞門又は半兵衞にて其名の一部をとれるならむ)

[やぶちゃん注:“Better half”は「連れ合い」、特に「妻」の意。]

オ幾

 

    誕生の順序に關する他の名

 

オ初

オ次

オ仲

オ留

オ末

 

 次の名の二類のうち或る者は多分美名であらう。然し時にはか〻る名は誕生の時又は季節の關係だけでつけられる。そして此類の或る特別の呼び名の理由は人每に尋ねて見ねば定め難い。

 

    時及び季節に關する名

オ春

オ夏

オ秋

オ冬

オ朝

オ朝(テウ)

オ宵(ヨヒ)

オ小夜(サヨ)

オ今

オ時

オ年

 

 實在する又は神話的なる動物の名が呼び名のまた一類となつて居る。此程の名は槪ねその動物の表象する性質か器量かを養ふ樣にとの望でつけられる。龍、虎、熊などの名は槪ね外の性質よりは寧ろ道德性を示す積りである。鯉の道德的象徵はよく知られて居て、ここに說明を要せぬ。龜と鶴の名は長壽に關はる。駒はそれが奇妙に思はれ樣が愛撫の名である。

[やぶちゃん注:「熊」の道徳性というのはちょっと判らぬが、私の「和漢三才圖會卷第三十八 獸類 熊(くま)(ツキノワグマ・ヒグマ)」によれば、『其の子を生(う)むこと、甚だ容-易(やす)く、自らの手を以つて抓(つま)み出だす。故に、人、熊の掌を用ひて、臨産の傍らに置く。亦、安産の義を取るものなり』とあるのは、女性名に相応しい。]

 

    鳥、魚、などの動物の名

 

千鳥

オ龜

オ鯉

オ駒

オ熊

オ龍(リユウ)

[やぶちゃん注:ルビは誤り。原文は“O-Ryō”であるから、「おりょう」或いは「おれう」。]

オ鹿

オ鯛

オ鷹

オ章魚(タコ)〔?〕

[やぶちゃん注:流石にこれはなかろうと思いますが。八雲先生。]

オ龍(タツ)

オ虎

オ鳥

オ鶴(縮めてオツといふことありこの頃東京にては子供を呼ぶごとくツチヤンといふを習とす)

オ鷲

 

 花又は果、植物又は木の名なる呼び名すら槪ね美的の意味の名よりは、寧ろ道德又は祝賀の名である。梅花は婦德の標章である、菊は長壽、松は長壽及び恒常、竹は忠信、杉は正直、柳は溫順及び形の優美を示す。蓮と櫻の花の象徵は恐らく熟知されて居よう。然し『花』や『瓣』[やぶちゃん注:原文“Ben  (“Petal”)”。「Petal」(ペェタル)は「花びら」の意。]は眞に美しい意である、百合は外國に於ての如く日本にでも婦人の優雅の標章となつて居る。

 

    花 の 名

菖蒲

[やぶちゃん注:「あやめ」。]

[やぶちゃん注:「※」=(くさかんむり)に「衡」。原文は“Azami”で“Thistle-Flower”(ティーソル・フラワー)であるから、アザミ、「薊」である。]

オ瓣

オ藤

オ花

オ菊

オ蘭

オ蓮

[やぶちゃん注:「おれん」。]

櫻子

オ梅

オ百合

 

     植物、果實、及び本の名

オ稻

オ萱

オ榧(カヤ)

オ栗

オ桑

オ槇

オ豆

オ桃(これは百(モモ)の誤字かも測られず)

オ楢

オ柳

早苗

オ核(サネ)

オ篠

オ菅

オ杉

オ竹

オ蔦

オ八重(花の名に相違なけれど、こゝでは八重櫻の略ならんか)

オ米(ヨネ)

若菜

 

 光又は色を示す名は我々には凡ての呼び名の中、最美的と思はる。それは多分日本人にもさう思はれるのであらう。だが此等の名すらその關係的意味が一見して判かるのでは無い。色は昔の自然哲學に於て道德的及び其他の價値を有つ、而して西洋人の心にはただ光彩又は美をのみ暗示する名稱が實に道德的又は社會的に顯著なることに關はり、さういふ名の娘が光榮あるものになれかしとの望にも關はるのである。

 

    光輝を示す名

オ三日(ミカ)(三日月の略ならむ)

オ光

オ霜

オ照

オ月

オ艷(ツヤ)

 

    色彩の名

オ藍

オ赤

オ色

オ紺

オ黑

綠(貴族的の名なれど中流にも見出さる)

紫(特に貴族的の名、但し華族女學校の名簿に見えず、色の名は槪して少き故階級に關はらずこゝに集む)

オ白

 

 次の最終の一類は種々奇異な謎を含む。日本の娘は時には家紋によりて名をつけられる。紋章學が此等呼び名の一二を說明し得よう。但し或る娘が舟と呼ばる〻理由は私は確に推察し得ぬ。或る讀者はニイチエの『アンジエリンと呼ばる〻小舟』を思出づるかもしれぬ。

 

   アンジエリン――人はさう我を呼ぶ――

   今は舟、かつて少女、

   (嗚呼、いつまでも少女!)

   漕ぐ人を思ふ、あなたこなた、

   立派に出來てる車が𢌞る。

[やぶちゃん注:哲学者フリードリヒ・ヴィルヘルム・ニーチェ(Friedrich Wilhelm Nietzsche 一八四四年~一九〇〇年)の一八八二年初めに書かれた詩篇“Die kleine Brigg, genannt das Engelchen”(『「小天使」号と呼ばれる小さな帆船』)。の第一連目。「車」は操舵舵輪のことで、愛の廻(めぐ)るのをそれに掛けたもの。ドイツ語ウィキソースのこちらで原詩が読める。]

 

 然しか〻る空想は日本人の心には入るまい。だが私は家紋の表のうちに舟を示す意匠の變種二つ、箭を示すもの二十、弓を示すもの二つを見る。

 

    分類又は說明の困難なるもの

オ服(これはオ縫オ染と同類ならんか但し確ならず)

オ舟

オ雛(愛撫の名、人形―紙人形、但し雛祭の雛もあり)

オ此(コノ)

[やぶちゃん注:ここ以下、原本とは順序が異なってごちゃごちゃになってしまっている原本を見られたい。]

オ雷

[やぶちゃん注:「おらい」。]

オ類

オ鈴(美しき音の爲めに名づく、子供の守り袋に小さき鈴をつけ、その步むごとに鳴る美しき風習)

鈴枝

オ民

オとし(鏃)〔?〕

オ對(ツイ)

オ尙

オ鳴(雷鳴)

[やぶちゃん注:「おなり」。]

オにほ(駕籠)〔?〕

[やぶちゃん注:この「?」は原文にもある。]

オ唯

手卷

[やぶちゃん注:「たまき」。]

オ綱

オ弓

 

 貴族の名に移るに先き立ち日本の名の昔の規則を舉げよう。それは奇妙な規則で前の諸表中の種々の謎を解くに助になるやも知れぬ。此規則は以前は男女とも總ての人名に應用された。本論に於てそれを十分に說明する譯にはいかぬ。滿足な說明には少くも五十頁を要す。然し最も簡單に云へば、この規則は、個人の帶ぶる名のはじめの文字が支那の哲學の意に於て、その人の所謂性(シヤウ)と思はる〻もの、卽ち星占術で定められた性質と一致すべしといふにある。その必要なる一致は漢字の意味でなくて發音で定まるのである。此問題の困難なることは幾らか次の表で覺られるであらう。

 

Mojitogogyou

 

    日本文字と五行との發音的關係

[やぶちゃん注:以下、本邦の易学の姓名判断に基づくものらしい五行と五十音の関係を示す図が底本に載る。取り敢えず、画像として取り込み、補正を加えたものを下に示したが、原本の印刷が薄く、特に指示線がよく見えない。補足しておくと、

「一、木性」→カ行とガ行

「二、火性」→タ行とダ行・ナ行・ラ行

「三、土性」→ア行・カ行とガ行・ヤ行・ワ行

「四、金性」→サ行とザ行

「五.水性」→ハ行とバ行とパ行・マ行

に対応している。英文の“PHONETIC RELATION OF THE FIVE ELEMENTAL-NATURES TO THE JAPANESE SYLLABARY”の図の方が遙かに見易いので、“Project Gutenberg”版にある図版を、

Illus159

以上のように示しておく。]

2019/10/27

小泉八雲 日本の女の名 (岡田哲蔵訳) その「一」

 

[やぶちゃん注:本篇(原題“Japanese Female Names ”)は一九〇〇(明治三三)年七月にボストンの「リトル・ブラウン社」(LITTLE,BROWN AND COMPANY)から出版された作品集“SHADOWINGS”(名詞「shadowing」には「影」以外には「人影」・「影法師」・「影を附けること」・「尾行」などの意味がある。本作品集の訳は概ね「影」が多いが、平井呈一氏は「明暗」と訳しておられ、私も漠然とした「影」よりも、作品群の持つ感性上の印象としてのグラデーションから「明暗」の方が相応しいと思う。来日後の第七作品集)の第一パート“STORIES FROM STRANGE BOOKS”の次、第二パート“JAPANESE STUDIES”(「日本に就いての研究」)の二番目に配された作品である(この前の同パート(底本訳表記「日本硏究」)巻頭の第一話の力作で私の偏愛する“SÉMI”(「蟬」(大谷正信訳))は、既に三回分割(その「一」その「二」その「三」と「四」)で電子化注(図版附き)を終わっている。また、同「日本硏究」の標題の後の添辞は「蟬」の「一」の冒頭注の最後を参照されたい。本作品集は“Internet Archive”のこちら(出版社及びクレジットの入った扉表紙を示した)で全篇視認できる(本篇はここから)。活字化されたものは“Project Gutenberg”のこちらで全篇が読める(本篇はここから)。

 底本は英文サイト“Internet Archive”のこちらにある、第一書房が昭和一一(一九三六)年十一月に刊行した「家庭版小泉八雲全集」(全十二巻)の第七巻の画像データをPDFで落として視認した。

 訳者岡田哲藏氏は明治二(一八六九)年生まれで昭和二〇(一九四五)年十月没の英文学者。千葉県佐倉市生まれで、東京帝国大学文科大学哲学科選科卒。通訳官として明治三七(一九〇四)年の日露戦争に従軍し、その後、陸軍大学校教官や青山学院・早稲田大学講師などを務めた。英詩文をよくし、昭和一〇(一九三五)年に出版された最初の「万葉集」の英訳として有名な「Three Handred Manyo Poems」などの著書がある。

 傍点「ヽ」は太字に代えた。本文内に盛んに出る名前のリストは、概ね三段組みで示されてあるが、原則、一段で示した。

 また、巻末に字下げポイント落ちで配されてある「譯者註」は適切な位置に引き上げて、本文と同ポイントで挿入した。

 なお、岡田氏も注で述べられているように、ここでの小泉八雲の謂いには、よく意味が通じてこない部分(そのような女性名があるのか? と疑問に思う表記や解釈)があるが、それをいちいち注しているとエンドレスになるので、その辺りの疑問箇所は抑制して注を附していない。私が何もかも判っていて注を附していないわけではないことをここでは特異的に表明しておく(但し、他の小泉八雲の電子化注では、自分が判らないところは徹底して注で解明する覚悟では注を附しているつもりである)。

 提示資料が長くなるので、章ごとに示す。

 なお、瞥見した銭本健二氏が担当された小泉八雲の年譜(一九八八年恒文社刊「ラフカディオ・ハーン著作集 第十五巻」所収)によれば、本篇は明治三二(一八九九)年六月の執筆であるらしい。]

 

 

   日本の女の名

 

 

        一

 

 日本では或る種の娘を薔薇娘と人がいふ。我が讀者はテニスンの『娘の薔薇の蕾の園の女王薔薇』譯者註を思つて、薔薇が表象する女性に就いての日本と英國との觀察の類似を想像するかも知れぬ。然しその樣な類似は全く無い。薔薇娘といふのは女が優しくて可愛い爲めでも無く、顏を紅くする爲めでも無く、薔薇の樣である爲めでも無い。実は薔薇色の顏は日本では賞でられぬ。いな、女が薔薇に比べられるのは主として薔薇に刺ある爲めである。日本の薔薇を摘まふとする人は指を傷つけ勝ちである。薔薇娘を我が有にしようとする男はもつとひどく怪我をし、死に到ることさへおる。單獨で武器も携へずに虎に出會ふは薔薇娘の愛撫を誘ふに勝る。

譯者註一 テニスン作“Maud”ⅩⅩⅡ,Ⅸ の第一行。

【訳者注の最終附記】

 本文のはじめの薔薇娘のことは小泉夫人が何か物の本にて讀みしかと思ふことを著者に告げられしによるらしといふ。

[やぶちゃん注:本篇最後に纏められている「譯者註」の一番最後に改行して載るものを、かく示した。

「テニスン」ヴィクトリア朝時代のイギリスの詩人で男爵のアルフレッド・テニスン(Alfred Tennyson 一八〇九年~一八九二年)。

「娘の薔薇の蕾の園の女王薔薇」“queen-rose of the rosebud-garden of girls,”。但し、岡田氏の訳注は誤りがあり、一八五五年刊の詩集“Maudモード:女の名である「Matilda」の愛称)の引用章は「ⅩⅩⅡ」ではなく、「ⅩⅩⅢ」である。Internet Archive”の原本詩集画像のこちらの左下の「9」の冒頭である。こちらで東照氏訳の詩集「モード」の全訳が読め、当該章は句全体は以下(引用使用許諾がある)。

   *

9

少女ばかりの蕾の庭におわす女王薔薇よ、

こちらにいらっしゃい、踊りは終わった、

繻子のつやと真珠の光に包まれた

百合と薔薇の女王を兼ねた女王よ。

巻き毛ごと陽にさらした、小さな頭を、

花々にきらめかせ、そして花々の太陽であれ。

   *

「薔薇娘」私はそのような日本語の用法を聴いたことがない。]

 さて薔薇娘の名稱は、西洋の花と人の比較の多くのものより比喩として餘程合理的であるが、それが西洋の詩的慣例及び感情的習慣と合致せぬので不思議に思はれるに過ぎぬ。由來日本の比喩や隱喩は一目瞭然たるものでない事はあらゆる多くの例があるが、これもその一例である。そして此事は特に呼び名、卽ち日本の女の個人名によく例證される。呼び名が木、鳥、花などの名と等しくあつても、そんな個人の名稱が日本人の想像に對して、それらと同じ英語が同樣の場合に英人の想像に起こし來る樣な觀念を起こすとは云はれない。譯して特に美はしく我々に思はる〻呼び名のうち、美感の爲めに與へられたのはほんの小數である。多くの人々は今もさう思つて居るが、日本の娘は通常、花や優しい灌木や其他の美しい物の名をつけられると思ふのは正しく無い。美的の名は用ゐられて居るが、呼び名の多くは美的で無い。數年前に若い日本の學者がこの問題に關する興味ある論文譯者註二を發表した。彼は女子高等師範學校の約四百名の學生、それは帝國の各地方から集まつた女子の個人名を集め、その表のうちに五十乃至六十の名のみが美的性質を帶ぶることを見た。然しそれ等に就ても彼は注意してそれが『美感を起こす』といひ、美的の理由でつけられたとはいはぬ。それ等の中には、崎、峯、岸、濱、國など元來の地名も、鶴、田鶴、千鶴、また吉野、織野、しるし(證)譯者註三、眞砂などの名もある。西洋人に美的と思はれるのは此等のうちに殆ど無い。恐らく何れももと美的の理由でつけられたのではあるまい。『鶴』といふ字の名は長壽に關はる名で美の名で無い。『野』を語尾とする名の多くは道德的性質に關する名である。私は眞に美的なる呼び名が一割五分もあるかすら疑ふ。それよりずつと大多數のものは道德的又は心理的性質を示す名である。順良、親切、巧妙、怜悧は屢〻呼び名に出づる。然し形態の愛嬌を意味し、また美的觀念のみ暗示する名稱は比較的に例が少い。思ふに全く美的な名は藝娼妓につけられるので、爲めに俗化したことも一理由であらう。然し家庭道德が今も口本の道德的評價に於て重要なことが恰も西洋の中世の生活に於て宗敎の信仰を重んじたるに比すべきこと、それがたしかに主要なる理由である。理論に於てのみならず、日常の實際に於ても道德の美は遙に形態の美の上に置かれる、そして娘が妻に選ばれるのは美貌よりはむしろその家庭的の性質による。中流社會に於て餘り美的の名は善良なる意味に思はれぬ。貧しき社會ではその樣な名はとても相當と思はれぬ。高貴の婦人は之と變はつて、ずつと詩的な名を帶ぶる特權がある。それでも貴族の呼び名の多くもまた美的よりは道德的である。

譯者註二 譯者が「哲學雜誌」第十三卷、第百四十號(明治三十一年十月)第百四十一號(同十一月)第百四十二號(同十二月)に揭げたる「美感の硏究」と題する論文。そのうち「女の名」に關する一部はこゝに參照せらる。

譯者註三 原文はなりしが右の雜誌にと誤植せられし爲め、そのま〻著者は、しるし(證)。としたのである。[やぶちゃん注:太字は底本では傍点「●」である。]

[やぶちゃん注:「『野』を語尾とする名の多くは道德的性質に關する名である」意味不明。「野」には飾らないそのままの意味はあるが、それが道徳的だというのは、牽強付会に思われる。識者の御教授を乞うものである。]

 

 然し呼び名の硏究に於ける第一の大いなる困難は、それを飜譯するの困難である。それには日本口語の知識も餘り役に立たぬ。漢語の知識はまた缺いてはならぬ。假名のみで書いた名の意味は槪ね推察もしかねる。其名の漢字のみがそれを說明し得る。さきにいふた日本の論文家は二百十三名の表から三十六の名譯者註四を投げ捨てねばならなかつた。その理由はただこれら三十六の名が假名のみで書いてあつて解釋がつかぬからであつた。假名は發音を示すのみで、女の名の發音は多くの場合に何物をも說明せぬ。羅馬字に譯すと、一の呼び名が二、三、または五、六の異ることを意味し得る。表から捨てられた名の一つはバンカであつた。バンカは盤何(植物)譯者註五でもあり(それは綺麗な名)、また晚霞でもあり得る。も一つ捨てられたユカはユカブツ(貴い)譯者註六の略でもあれば、床でもあり得る。第三の例、ノチは未來の意にもなるが、後裔にも、外種々の意にもなる。我が讀者は後に揭ぐる名の表のうちに外の多くの同音異義の語を見出すことが出來よう。例へばアイは羅馬字では愛か藍か、チヨウは蝶か、超か、長か、エイは鋭か英か、ケイは慶か敬か、サトは里か砂糖か、トシは年か鏃か、タカは高、尊、鷹の何れかを意味す。現に日本語を羅馬字で書くに主要なる、そしてとても避けられぬ障礙は國語にある同音異義の語が夥しいことである。何れか和英の良辭書を一見しさへすればこの困難の重大なることが判かる。例を增さぬ爲めに私はただチヨウと綴る語が十九あること、キが二十一、ト又はトウが二十五、コ又はコウが四十九にも及ぶことを挙げておく。

譯者註四 三十三種の名。そのうち同名二人が三つありし爲め、三十六人となりしことの誤。

譯者註五 原名は假名の「ばんか」にあらず、漢字の「盤何」なりしが、意味判然せず、不明の部に入れおきしもの。著者はそれを植物と見た。

譯者註六 ユカブツの意不明。ならぬことは確である。[やぶちゃん注:太字は底本では傍点「●」である。

 

 然し私が既に暗示した如く女の名の眞義は、漢字の助をかりて爲せる字譯を以てしても確實にはなり難い。例へばカガミ(鏡)といふ名は淸淨の心の意で、それは西洋の意味でなくて、儒敎の意味での淸淨である。ウメ(梅花)は婦人の貞德に關はる名である。マツ(松)は名として樹の美に關はらず、その常綠の葉が老いて盛んなるしるしなるによる。タケ(竹)は竹が幾百年の久しき間、幸福の表象であつたので子に命名される。セン(仙森の精)は西洋人の想像には興ある響だが實は父母がその娘及びその子孫の爲め長壽を願ふ意に外ならぬ。森の精は數千年も生きると想像されて居るから……また、多くの名は奇妙なものでその持主または名附け人の何れかに問はねば意味がわからぬ、そして時には本來の意義が久しき前に忘れられて居て、一切の穿鑿は無效に歸する。

 更に問題に深入りするに先き立ち、私は先づさきの東京の論文家の名の表を揭げる、それは前後の敬稱を廢してアルファベツト順にする。普通の名でその中に載つて居らぬ類もあるが、此表は今も尙ほ好んで用ゐらる〻多くの呼び名の文字を示し、且つ私が既に注意を呼んでおいた事實の若干を說明するに足りやう。

 

  女子高等師範學校生徒及び卒業者(一八八〇年――一八九五年)の名の選集

[やぶちゃん注:末尾の「譯者註」の最後の方に改行して、

   *

ほ本文中著者の自註は槪ね日本語の明でゐるが、我が讀者に不用のものは省き、あるものは略記した、そのうち誤解も往々あれどそれらはそのま〻になしおき、不明のものに〔?〕を附けておいた。華族女學校の方の名も同校卒業者名簿を參照して見たが今考へ難きものが少からぬ。

   *

とある。]

       同名人數

藍       一

愛       一

赤助      一

朝       一

淺       二

逢       二

文(ブン)    一

近       五

千歲      一

千代      一

千鶴      一

蝶       一

長       一

頴       一

英       二

悅       一

筆       一

富士      一

藤       一

蕗       一

福       二

文(フミ)   五

文野      一

房       三

銀       二

濱       三

花       三

春江      一

初       二

英(ヒデ)   四

秀       二

久野      二

市       四

育       三

稻       三

石       一

糸       四

岩       一

順       一

鏡       三

鎌       一

龜       二

龜代      一

勘      一一譯者註七

譯者註七 勘の數一一とあるは一の誤。

假名      二

兼       三譯者註八

譯者註八 著者は兼を金屬の靑銅だと思つて、さう譯したが、こゝはもとの通りにしておく。[やぶちゃん注:太字は底本では傍点「●」。]

勝       二

かざし     一譯者註九

譯者註九 鈿、鈖などの名ありしを著者は釵と見誤りしならむ。

數       一

敬       三

謙       一

菊       六

菊枝      一

菊野      一

君       一

金       四

絹       一

岸       二

喜代      一

淸       五

鑅(クワウ)  一

孝      一一

好       一

駒       一

こめ      一

琴       四

熊       一

組       一

都(クニ)   一

國       三

倉       一

倉野      一

栗       一

桑       一

正       三

眞砂      一

增枝      一

松       二

道       四

三枝      一

幹枝      一

峯       二

光       五

光枝      一

盛江      一

仲       四

波       一

信       六

延       一

延枝      一

縫       一

織野      一

樂       三

連       一

陸       一

祿       一

龍       一

隆       三

貞       八

崎       一

作       三

里       二

澤       一

勢       一

關       三

仙       三

節       二

鎭       一

靜       二

重       二

鹿       二

鹿江      一

しめ      一

眞       一

品       一

しな(德)〔?〕一

篠       一

しるし(證)譯者註一〇

譯者註一〇 この誤は前述の(三)の通り。

俊       一

末       二

杉       一

捨       一

鈴       八

錫       一

鈴江      一

妙       一

たか(德)〔?〕二

高       九

竹       一

玉       一

環       一

爲       三

谷       一

田鶴      一

鐡       四

德       二

留       一

富       三

富壽      一

友       四

虎       一

豐       三

次       二

綱       一

常      一〇

鶴       四

梅       一

梅ケ枝     一

梅野      二

浦野      一

牛       一

歌       一

若菜      一

八重      一

安       一

陽       一

米       四

良       一

芳野      一

勇       一

百合      一

 

 右の表に於いて恒常、忍耐、及び孝德に關はる名が最も多數なる事が注目されやう。

 

小泉八雲 鮫人(さめびと)の感謝  (田部隆次訳) 附・原拠 曲亭馬琴「鮫人(かうじん)」

 

[やぶちゃん注:本篇(原題“The Gratitude of the Samébito ”)は一九〇〇(明治三三)年七月にボストンの「リトル・ブラウン社」(LITTLE,BROWN AND COMPANY)から出版された作品集“SHADOWINGS”(名詞「shadowing」には「影」以外には「人影」・「影法師」・「影を附けること」・「尾行」などの意味がある。本作品集の訳は概ね「影」が多いが、平井呈一氏は「明暗」と訳しておられ、私も漠然とした「影」よりも、作品群の持つ感性上の印象としてのグラデーションから「明暗」の方が相応しいと思う。来日後の第七作品集)の第一パート“STORIES FROM STRANGE BOOKS”最終の第六話に配された作品である。本作品集は“Internet Archive”のこちら(出版社及びクレジットの入った扉表紙を示した)で全篇視認できる(本篇はここから。原拠を記した添書のある標題ページで示した。そこには“The original of this story may be found in the book called Kibun-Anbaiyoshi”(「この原話は「奇聞 塩梅余史」の中に見出されたものである」。「奇聞」は「綺聞」でもいいか)とある。但し、正確な書名は曲亭馬琴著の「戲聞鹽槑餘史(おとしばなしあんばいよし)」である。活字化されたものは“Project Gutenberg”のこちらで全篇が読める(本篇はここから)。

 底本は英文サイト“Internet Archive”のこちらにある、第一書房が昭和一一(一九三六)年十一月に刊行した「家庭版小泉八雲全集」(全十二巻)の第七巻の画像データをPDFで落として視認した。

 田部隆次(たなべりゅうじ 明治八(一八七五)年~昭和三二(一九五七)年)氏については先に電子化した「人形の墓」の私の冒頭注を参照されたい。

 傍点「ヽ」は太字に代えた。

 なお、本篇の原拠は、以上に示した通り、曲亭馬琴の戯作集「戲聞鹽槑餘史(おとしばなしあんばいよし)」の「鮫人(かうじん)」である(その原拠同定は平井呈一氏の恒文社版「日本雑記 他」の「参考資料」に拠った)。末尾にそれを国立国会図書館デジタルコレクションの画像で視認して附した。]

 

 

   鮫人の感謝

 

 昔、近江の國に俵屋藤太郞と云ふ人があつた。家は名高い石山寺に遠くない、琵琶湖の岸にあつた。彼には相應の財產もあつて、安樂に暮らしてゐたが、二十九歲にもなつて未だ獨身であつた。彼の大野心は絕世の美人を娶る事であつたから、氣に入る少女を見出す事ができなかつた。

[やぶちゃん注:「鮫人」(普通は「かうじん(こうじん)」の音読みが一般的で、原拠もそれであるから、小泉八雲の「さめびと」は彼のオリジナルな読みである)についてはネタバレになるので、後に回す。

「俵屋藤太郞」藤原俵藤太秀郷(寛平三(八九一)年?~天徳二(九五八)年又は正暦二(九九一)年)に引っ掛けたネーミング。秀郷には知られた「百足退治」の伝説があるが、この話(原話)はその内容の各所をパロディ化したものと言える。ウィキの「藤原秀郷」によれば、室町期に原話が成立したと思われる御伽草子「俵藤太物語」(絵入り刊本は寛永(一六二四年~一六四四年)頃の板行)に『みえる百足退治伝説は』、『琵琶湖のそばの近江国瀬田の唐橋に大蛇が横たわり、人々は怖れて橋を渡れなくなったが、そこを通りかかった俵藤太は臆することなく大蛇を踏みつけて渡ってしまった。大蛇は人に姿を変え、一族が三上山の百足に苦しめられていると訴え、藤太を見込んで百足退治を懇願した。藤太は強弓をつがえて射掛けたが、一の矢、二の矢は跳ね返されて通用せず、三本目の矢に唾をつけて射ると効を奏し、百足を倒した。礼として、米の尽きることのない俵や使っても尽きることのない巻絹などの宝物を贈られた。竜宮にも招かれ、赤銅の釣鐘も追贈され、これを三井寺(園城寺)に奉納した』という筋書きである。『俵藤太の百足退治の説話の初出は』「太平記」『十五巻といわれる』が、やはり室町時代に成立したと思われる「俵藤太物語」の『古絵巻のほうが早期に成立した可能性もあるという意見もある』。『御伽草子系の絵巻や版本所収の「俵藤太物語」に伝わり、説話はさらに広まった』。『御伽草子では、助けをもとめた大蛇は、琵琶湖に通じる竜宮に棲む者で、女性の姿に化身して藤太の前に現れる。そして百足退治が成就したのちに藤太を竜宮に招待する』。ところが、「太平記」では、『大蛇は小男の姿でまみえて』、『早々に藤太を竜宮に連れていき、そこで百足が出現すると』、『藤太が退治するという展開になっている』。「俵藤太物語」では、百足を退治した後、『竜女から無尽の絹・俵・鍋を賜ったのち、竜宮に連れていかれ、そこでさらに金札(こがねざね)』『の鎧や太刀を授か』っている。勢田唐橋(せたからはし:本文に出る「瀨多の長橋」は古異名)を東詰の南直近にある勢田橋龍宮秀郷社(グーグル・マップ・データ。以下同じ)は彼を祭神としている。

「石山寺」滋賀県大津市石山寺(いしやまでら:瀬田唐橋の一キロメートルほど南)の真言宗石光山石山寺。]

 或日、瀨多の長橋を通ると、欄干に近く蹲つて居る妙な物を見た。その物は體は人間のやうだが、墨のやうに黑く、顏は鬼のやうであつた、眼は碧玉の如く綠で、鬚は龍の鬚のやうであつた。藤太郞は初めは餘程驚いた。しかし彼を見るその綠の眼は餘程やさしかつたので、彼は少しためらつたあとで、その動物に問を發して見た。そこで、それが彼に答へて云つた、『私は鮫人(さめびと)です、ついこの間まで、八大龍王に仕へて龍宮の小役人を務めてゐましたが、私の犯した小さい過ちのために、龍宮から放逐され、それから又海からも追放される事になりました。それ以來私はこの邊に、――食物を得る事も、臥すべき場所さへもなく、――漂泊して居ります。どうか哀れと思召して、住居を見出せるやうに助けて下さい、それから何か喰べる物を頂かして下さい、御願です』

 この懇願は如何にも悲しい調子と、如何にも卑下した樣子で云はれたので、藤太郞の心は動いた。『一緖に來い』彼は云つた。『庭に大きい深い池があるから、そこに好きな程いつまでもゐたらよい、食物は澤山あげる』

 鮫人は藤太郞について、その家に行つて、池が餘程氣に入つたらしかつた。

 それから、殆んで半年程、この奇妙な客は池に棲んで、藤太郞から海の動物の好きさうな食物を每日貰つてゐた。

[やぶちゃん注:以下の割注は底本では四字下げポイント落ちである。]

 

〔もとの話のこの點から見ると、鮫人は怪物ではなく、同情のある男性の人間のやうに書いてある〕

 

 ところでその年の七月に、近くの大津の町の三井寺と云ふ大きな寺に女人詣があつた、藤太郞はその佛事を見物に大津に出かけた。そこに集まつた大勢の女や娘のうちに、彼は非常に美しい人を見つけた。十七歲ばかりに見えた、顏は雪のやうに白くて淸かつた。口のやさしさは見る者をして、その聲は『梅の木に囀る鶯のやうに美し』からうと思はせた。藤太郞は見ると共に戀に陷つた。彼女が寺を離れた時、彼は適當な距離で彼女のあとをつけて行つて見ると、彼女は母と共に、近所の瀨田村の或家に數日の間逗留して居る事を發見した。村人の或者に問うて、彼は彼女の名が珠名(たまな)である事、獨身である事、それから彼女の家族は彼女が普通の人と結婚する事を喜ばない事、――そのわけは一萬の珠玉を入れた箱を結納として要求してゐたから、――を知る事ができた。

[やぶちゃん注:「三井寺」現在の滋賀県大津市園城寺町にある天台寺門宗総本山長等山園城寺(おんじょうじ)の別名。唐橋の北西六キロメートル強。七世紀に大友氏の氏寺として草創され、九世紀に唐から帰国した留学僧円珍(天台寺門宗宗祖)によって再興された寺。「三井寺」の通称は、この寺に涌く霊泉が天智・天武・持統の三代の天皇の産湯として使われたことから、「御井」(みい)の寺と言われていたものが、転じて三井寺となったとされる。

「女人詣」女性はどれほど功徳・修行を積んでも男性に生まれ変わった後でなくては往生出来ないとする変生男子(へんじょうなんし)説に見るように、仏教には草創当時から男尊女卑に強い宗教であり、女人結界は勿論、大寺や名刹では永く女人の通常の参詣を禁じていたところも多かった。「女人詣(にょにんもうで)」(小泉八雲のは原文でそう訓じている。原拠は「をんなもふで」(ママ))はそうした特に礼拝が女性にも許された特異日を指す。

「瀨田村」、滋賀県栗太郡にあった旧瀬田町附近。現在の大津市南東部の瀬田附近。琵琶湖の南西端沿岸・瀬田川左岸に当たる。]

 

 この事を聞いて藤太郞は大層落膽して家に歸つた。娘の兩親が要求する妙な結納の事を考へれば考へる程、彼は彼女を妻にする事は決して望まれないやうに感じた。たとへ全國中に一萬の珠玉があるとしても、大きな大名ででもまければそれを集める事は望まれなかつた。

 しかしただ一時間も藤太郞は、その美しい人の面影を彼の心から忘れる事ができなかつた。喰べる事も眠る事もできない程、その面影が彼を惱ました、日が立つに隨つて益〻はつきりするやうであつた。そしてたうとう彼は病氣になつた、――枕から頭が上らない程の病氣になつた。それから彼は醫者を迎へた。

 丁寧に診察してから、醫師は驚きの叫びをあげた。『どんな病氣でもそれぞれ適當な處方はあるが、戀の病だけは別です。あなたの病氣はたしかに戀煩ひです。直しやうはない。昔、瑯※王伯與[やぶちゃん注:「※」=「王」+「耶」。]はこの病で死んだが、あなたもその人のやうに、死ぬ用意をせねばならない』さう云つて醫者は、藤太郞に何の藥も與へないで、去つた。

[やぶちゃん注:「瑯※王伯與」「※」(=「王」+「耶」)は不審。中国で秦代から唐代にかけて現在の山東省東南部と江蘇省東北部に跨る地域(この中央辺り)に置かれた琅邪郡は、「琅琊」「瑯邪」「瑯琊」「琅」等と書くが、「瑯※」は知らない。或いは誤植かも知れない。また、実は「與」も不審である。確かに原文は“Rōya-Ō Hakuyo”であるが、調べて見ると、これは「與」ではなく「輿」が正しい(平井呈一氏は恒文社版の「鮫人の恩返し」で正しく『伯輿』と訳されておられる。これも或いは誤植の可能性が高いか)。「世説新語」の「任誕第二十三」の掉尾に(所持する明治書院「新釈漢文大系」第七十八巻「世説新語」に拠る)、

王長史登茅山、大慟哭曰、「琅邪王伯輿終當爲情死」。

(王長史、茅山(ばうざん)に登り、大いに慟哭して曰はく、「琅邪(らうや)の王伯輿(わうはくよ)は、終(つひ)に當に情の爲めに死すべし。」と。)

がそれである。しかも困ったことに原話の馬琴は「情死」の意味を全く取り違えているのである。まず、「王長史」は、ここで叫んでいる本人、則ち、「琅邪の王伯輿」で、彼は東晋(三一七年~四二〇年)末期の、太子中庶子や司徒左長史を歴任した琅邪出身の官人にして武将であった王廞(おうきん:丞相王導の孫)であり、中文ウィキの「王廞」に経緯が語られてあるが、晋の政権内抗争の中で、王恭が義兵を起こそうとして、母の喪中にあった王廞を無理に挙兵させたのであったが、敵が亡くなったために、兵をおさめ、再び王廞を喪に服させようとした。それに激しく怒った王廞が死を賭して王恭に戦いを挑んだ。その折りの覚悟の叫びがこれで、同書の注釈書「世説解捃拾」にも『情死、鈔曰、猶ㇾ言憤死』とあって、「情死」は怒りの激「情」の中で「死」ぬぞ! という決死の開戦への台詞なのである。因みに、王廞は破れて、行方知れずとなった模様である。馬琴にして激しくイタい誤認に見えるが、博覧強記の戯作者馬琴なれば、それを知っていた上でやらかした半可通の医師の大ボケ描写で、ちょっとインク臭いいやらしいパロディとするべきだろう。

 

 この時、庭の池に棲んでゐた鮫人は主人の病氣を聞いて、藤太郞の看護をしに、家に入つて來た。そして彼は夜となく晝となくこの上もない愛情をもつて看護した。しかし彼はその病氣の原因も重大な事も知らなかつたが、一週間ばかりして、藤太郞は自分の命數ももうつきたと思つて、こんな永訣の言葉を發した、――

 『こんなに長くお前の世話をする事になつたのも、前世からの不思議の緣であらう。しかし私の病氣は今餘程惡い、そして每日惡くなるばかり、私の生命は夕を待たぬ間に消ゆる朝の露のやうだ。それでお前のために、私は心配して居る。これまでお前を養つて來たが、私が死んだあと誰も世話して養つてくれる者はなからう。……氣の毒だ。……あ〻、この世ではいつでも思ふ事がままにならぬ』

 藤太郞がかう云ふや否や、鮫人は妙な苦しみの叫びを發して烈しく泣き出した。そして泣き出すと共に、大きな血の淚が綠の眼から流れて出て、彼の黑い頰を傳うて床の上に落ちた。落ちる時は血であつたが、落ちてからは固く輝いて綺麗になつた、――貴い價の珠玉、眞赤な火のやうなすばらしい紅玉(ルビー)になつた。卽ち海の人が泣く時には、その淚は寶石になるのであつた。

 その時、藤太郞はこの不思議を見て、元氣が囘復したやうに、驚きかつ喜んだ。彼は床から跳び起きて、鮫人の淚を拾つて數へ始めた、同時に『病氣は直つた。もう死なぬ、死なぬ』と叫びながら。

[やぶちゃん注:鮫人は国の伝説では、南海に棲むとされる人魚に似た想像上の生き物(男女いる)で、常に機 (はた) を織り、しばしば泣き、その涙が落ちて玉になるとされる。]

 そこで鮫人は非常に驚いて、泣くを止めて藤太郞にこの不思議に直つた理由を說明して貰ふやうに願つた、そこで藤太郞は三井寺で見た若い女の事、その女の家族によつて要求された異常な結納の事を話した。藤太郞は加へた、『私の望みは到底逹せられないと思つた。しかし今、お前が泣いてくれたので、私は澤山の寶石を得る事ができた、それで私はあの女を娶る事ができると思ふ。ただ――未だ寶石が足りない、それで賴むからもう少し泣いて貰ひたい、必要な數だけにしたいから』

 しかしこの要求に對して鮫人は頭を振つて、驚きと非難の調子で答へた、――

 『私は賣女[やぶちゃん注:「ばいた」。原文“harlot”。「遊女・売春婦」の意。]のやうに、――何時でも好きな時に泣く事ができるとお考になるのですか。いや、違ひます。賣女は人をだますために淚を流します、しかし海の者は本當の悲しみを感じないで泣く事はできません。あなたが亡くなられると思つて、心に本當の悲しみを感じたので泣きました。しかし病が直つたと云はれたので、もう泣く事ができません』

 『それぢやどうしたらいゝだらう』藤太郞は悲しさうに問うた。『一萬の珠玉がなければ、あの女を娶る事はできない』

 鮫人は暫らく默つて考へてゐた。それから云つた、――

 『聞いて下さい。今日はどうしても、もう泣けません。しかし明日一緖に酒と肴をもつて瀨田の長橋に參りませう。暫らく一緖に橋の上に休んで、酒を飮みながら、はるかに龍宮の方を望んで、そこで樂しい月日を送つた事を考へて、故鄕を慕ふ心が出て來れば――私は泣けます』

 藤太郞は喜んで承諾した。

 翌朝二人は酒肴を澤山携へて、瀨田の橋に行つた、そしてそこに休んで宴を開いた。酒を澤山飮んでから、鮫人は龍宮の方を眺めて、過去の事を想ひ出した。そして次第に心を弱くする酒の力で、過ぎ去つた樂しい日の記憶が彼の胸に一杯になつた、そして彼は盛んに泣く事ができた。そして彼の流した大きな赤い淚は、紅玉(ルビー)の雨となつて橋の上に落ちた。そして藤太郞は落ちるに隨つてそれを拾つて箱の中に入れた、そして數へて見たら、正に一萬の數に逹した。その時彼は喜びの叫びを發した。

 殆んど同時に、はるかの湖上から、樂しい音樂が聞えた、そして沖の方に、湖上から、何か雲の形のやうな、落日の色の宮殿が浮んだ。

 直ちに鮫人は橋の欄干の上に跳び上つて、眺めて、喜んで笑つた。それから藤太郞の方に向つて、云つた、――

 『龍宮國に大赦があつたに相違ありません、王樣逹は私を呼んでゐます。それで今お別れをいたします。御高恩に報ゆる事が少しできたので嬉しく思ひます』

 かう云つて彼は橋から跳び下りた、そして再び彼を見た人はなかつた。しかし藤太郞は珠名(たまな)の兩親に紅玉の箱を贈つて彼女を娶つた。

 

[やぶちゃん注:以下、原拠である曲亭馬琴の寛政一一(一七九九)年板行の戯作集「戲聞鹽槑餘史(おとぎばなしあんばいよし)」の「鮫人(かうじん)」である(但し、馬琴は「こうじん」と読みを振っている)。それを国立国会図書館デジタルコレクションのこちらの画像(活字本ではなく、版本)で視認して附す。読み易くするため、一部の句点を読点に代え、句読点も増やし、記号等も追加し、段落を成形した。読みは振れると判断したもののみとした。約物(やくもの)及び踊り字「〱」は正字化した。歴史的仮名遣の誤り(非常に多い)は総てママである。■は判読不能字。

   *

  ○鮫人(こうじん)

 むかし、俵屋藤太郞といふものあり。常に美婦を娶(めと)らんことをねがひしも、いまだ、その鳳(あいて)を得ず。

 ある日、瀨田の橋をわたりけるに、かたはらなる砂のうへに、一個(ひとり)の漢子(おとこ)、眠(ねむり)居たり。

 その形狀(かたち)みるに、碧(みどり)の眼(まなこ)、蟒(うはゞみ)の鬚、滿身、墨のごとく黑くして、鬼に似たり。

 喚起(よびおこ)して、

「何者ぞ。」

と問へば、そのもの、對(こたへ)て、

「我は海中の鮫人(こうじん)なり。八大龍王につかへて、龍宮の小吏(やくにん)なりしが、いさゝか、罪あつて龍宮を所放(おひださ)れ、今、漂泊して、此ところに吟來(さまよひきた)りたり。あはれ、一扁の慈悲心をたれて救ひ給へかし。」

と、手を合(あはせ)て賴(たのみ)ければ、藤太郞も了得(さすが)不便(ふびん)にや思ひけん。遂に鮫人を伴ひ、わが家(や)へ立(たち)かへり、幸ひ、庭に些(すこし)ばかりの泉水ありければ、そのうちへ入れ、養(かひ)おきけり。

 却說(かくて)、その秋七月のことなりしが、藤太郞、三井寺の女人詣(をんなもふで)を見物に行たりしに、參詣おほきその中(なか)に、一個(ひとり)の美女、としは二八ばかり[やぶちゃん注:十六歳。]とみへ、山は西施が破瓜(はくわ)[やぶちゃん注:女性の十六歳の異称。]のごとしと、白樂天が口遊(くちずさみ)たるおもかげにて、滿身(すがた)、淸らななる雪かと疑ひ、言語(ものいふこへ)は鶯の、梅(むめ)の木傳ふ風情なれば、藤太郞、看一(ひとめ)看(みる)より、眼中、忽ち、春を生じ、迹(あと)をつけて行(ゆき)てみれば、八早瀨(やばせ)[やぶちゃん注:矢橋(やばし)。最後にそれで出る。滋賀県南西部、草津市西部の琵琶湖の南端の東岸にある地区。昔の琵琶湖の港で、江戸時代には東海道の近道となった大津-矢橋間の渡船場として栄えた。近江八景の「矢橋帰帆」で知られる。]あたりに、よしありげなる廬(いをり)をむすびて、母子(おやこ)二口(ふたりぐらし)とみへたれば、密(ひそか)に合壁(となり)の老媼(ばゞ)に便(たより)て、その思ひを通(かよは)せけるに、渠(かれ)、元(もと)より、對(むこ)を撰(えら)みて、いまだ、嫁(よめら)ず。女児(むすめ)の名を「珠名(たまな)」といへば、只(たゞ)のぞむところは、萬顆(まんりう)[やぶちゃん注:一万粒。]の明玉(めいぎよく)を納聘(ぢさん)にする人あらば、壻(むこ)にせんとの難題。鳴乎(あゝ)、藤太郞、假令(たとへ)產を破りて千金をつむとも、萬粒の明玉、いかで容易(たやすく)求得(もとめゑ)んやうあらざれば、■悶(うれひもだへ)[やぶちゃん注: ここの右頁の三行目最下部。恒文社版参考資料では『憂悶』とするが、「憂」には見えない。]て、ついに相思病(きやみ)となり、枕も、さらに、あがらねば、さつそく、医師(いしや)をまねきて、容子を問ふに、醫師、脉(みやく)を診(とつ)て、大きに駭(おどろ)き、

「雜症(ざつせう)は医(なをる)べし、相思病(さうしびやう)は活(き)がたし。むかし、瑯琊(ろうや)王伯輿(わうはくよ)、情(じやう)のために、死す。君が病ひ、唯(たゞ)、空手(てをむなしく)して■死を俟(また)んのみ。」[やぶちゃん注:判読不能字(ここの右頁の最終行中央部)はなくても意味は分かる。恒文社版はここに字はない。]

と、袖をはらつて立かへる。

 却說(かくて)、藤太郞が泉水にいたりし鮫人(かうじん)は、主人の疾(やまひ)重しときゝ、昼夜、枕にそふて、看病すれば、藤太郞もその志(こゝろざし)を感じ、

「誠(まこと)に不思議の緣によつて、汝をやしなふこと、既に半歲(はんねん)におよべり。しかるに、わが病、日々に重く、旦露(あさつゆ)夕(ゆふべ)をまたぬ、牽牛花(あさがほ)の杖とたのみしかひもなく、われ亡後(なきあと)は、誰(たれ)あつて汝を養ふものも、なし。実(げ)にまゝならぬ世なりけり。」

[やぶちゃん注:「牽牛花(あさがほ)」中国の古医書「名医別録」によれば、昔、ある農夫が朝顔の種を服用して病気が治ったことから、自分の水牛を牽き連れて朝顔の生えていた畑にお礼を言いに行ったことによる異名とする。確かに朝顔(ナス目ヒルガオ科    ヒルガオ亜科 Ipomoeeae 連サツマイモ属アサガオ Ipomoea nil)の種子は「牽牛子」(けにごし/けんごし)と呼ぶ生薬として用いられ、「日本薬局方」にも収録されており、粉末にして、下剤や利尿剤として薬用にするが、主成分のファルビチンやコンボルブリンは毒性が強く、熱を加えても変化せず、嘔吐・下痢・腹痛・血圧低下を引き起こすので素人処方は厳に慎むべきものである。]

と、かきくどきて申すにそ、鮫人、この言(ことば)を聞よりも、失聲(わつとばかり)、泣出(なきいだ)し、鬼燈(ほうづき)ほどの血の淚、蘓々(はらはら)と落せしが、たちまち、光輝(きかりかゞやき)て、粒々(りうりう)、みな、珠(たま)となる。

 藤太郞、これをみるよりも、襖(よぎ)はねのけて、「岸破(がば)」[やぶちゃん注:オノマトペイア。]と起(おき)、

「わが病、既に愈(いへ)たり。」

 鮫人、よろこんで、その譯をきくに、藤太郞、ありし事ども、說話(ものがたり)、

「万粒(りう)のたまなければ、想ふ女、家にそふことならず。夫(それ)ゆへにこそ、右(かく)は愁(うれひ)にしづみしに、今、憶(おもは)ずも、汝が淚、珠となりしゆへ、吾願(わがねがひ)、既に成就せり。然共[やぶちゃん注:「しかれども」。]、恨むらくは、珠の数(かず)、いまだそろはず。爲(ため)に、今、一たび、哭(ない)て、積日(ひごろ)の※悶[やぶちゃん注:ここの左頁二行目下部。「※」は恐らく「グリフウィキ」のこれで「鬱」の異体字である。]をはらさせくれよ。」

と、たのめば、鮫人、不肯((かむりをふり)、

「君、古人の書を、みたまはずや。『海中に鮫人あり、哭則(なくときは)、淚、珠(たま)となる』。かゝる一奇事(ふしぎ)ありといへども、その、實情より出たる悲しみにあらされば、一滴の淚も、こぼしがたし。かの娼妓(けいせい)の漂蝶(きやく)を騙(だま)す作獒(てくだ)を以て泣(なく)がごときは、小的們(わがともがら)、かりそめにも、なすことあたわず。しかれども、大恩ある花主(ごしゆじん)の、月老(なかだち)となるなみだなれば、われに一ツの通風(くふう)あり。明日、酒殽(さけさかな)を携へ、瀨田の橋にゆき、はるかに海上(かいしやう)を眺望(のぞみ)なば、古鄕(こきやう)をしたふ實情のかなしみ出て、淚の落(おつ)る事、あるべし。」

と、いひければ、藤太郞、大きに歡び、早旦(さつそく)、酒肉(さけさかな)を携へ、瀨田の橋の眞中(まんなか)にて、鮫人とさし向ひ、海上を眺望す。鮫人、盃(さかづき)をあげて、杳(はるか)の澳(をき)を打ながめ、

「煙波(えんぱ)、汨沒(べきぼつ)[やぶちゃん注:水中に沈むこと。]して、わが家、いつくにかある[やぶちゃん注:「何處(いづく)にか在る」。]。鳴呼(あら)、なつかしの龍都(ふるさと)や。」

と、歸思(きし)、しきりに箭(や)のごとく、泫然(げんぜん)として[やぶちゃん注:涙がはらはらと零(こぼ)れるさま。さめざめと泣くさま。]一たび實働(なげけ)ば、紅淚(なんだ)おちて、蘓々々(はらはらはら)、忽(たちまち)化(け)して、珠となる。

 藤太郞、よろこび、珠をとつて玉盤(きよくはん)に盛り、數(かず)をみるに、既に万顆(まんりう)に充(みち)たり。

 かゝる所に、海上(かいせう)、赤城(せきじやう)霞(かすみ)起(おこつ)て[やぶちゃん注:赤くなった山(龍宮世界のそれ)に霞がかかって。]、蜃氣樓、珊瑚嶌(さんごとう)[やぶちゃん注:龍宮世界の珊瑚で出来た空想の島であろう。]をめぐり、音樂、しきりに聞へければ。鮫人、欄干に躍騰(おどりあがり)、

「有がたや。『龍宮に吉事あつて、龍王の赦免ありて、われを召す』と。君が半年の高恩、今、報じたり。歸去來(さらば)、歸去來。」

と、いひ捨(すて)て、海中に飛入(とびいり)ツヽ、行衞もしらずなりければ、藤太郞、いそぎ、彼(かの)万顆(まんりう)の珠(たま)を携へ、矢橋(やばし)[やぶちゃん注:「へ」が「と」のルビのようにあるように見える。「へ」を入れて読む。]と急ぎけるが、さるにても、万粒の珠を聘(ぢさん)にのそむ[やぶちゃん注:「のぞむ」。望む。]といふも不解(がてんゆかず)。かの女児母子(むすめおやこ)が世業(せうばい)は何であらふと、珠を入(いれ)た盆を引(ひつ)かゝへ、廓(みせ)のほうを私(そつと)のぞけば、商賣は、かんろふ糖。

   *

最後のサゲの「かんろふ糖」は不詳。「甘露糖」という砂糖か菓子か飴の製造業か販売業か。何か洒落が掛かけてあるのであろうが、判らぬ。識者の御教授を乞うものである。]

2019/10/26

小泉八雲 辨天の同情  (田部隆次訳)

 

[やぶちゃん注:本篇(原題“The Sympathy of Benten ”)は一九〇〇(明治三三)年七月にボストンの「リトル・ブラウン社」(LITTLE,BROWN AND COMPANY)から出版された作品集“SHADOWINGS”(名詞「shadowing」には「影」以外には「人影」・「影法師」・「影を附けること」・「尾行」などの意味がある。本作品集の訳は概ね「影」が多いが、平井呈一氏は「明暗」と訳しておられ、私も漠然とした「影」よりも、作品群の持つ感性上の印象としてのグラデーションから「明暗」の方が相応しいと思う。来日後の第七作品集)の第一パート“STORIES FROM STRANGE BOOKS”第五話に配された作品である。本作品集は“Internet Archive”のこちら(出版社及びクレジットの入った扉表紙を示した)で全篇視認できる(本篇はここから。原拠を記した添書のある標題ページで示した。そこには“The original story is in the Otogi-Hyaku-Monogatari”(「原話は「御伽百物語」の中にある」)とある。活字化されたものは“Project Gutenberg”のこちらで全篇が読める(本篇はここから)。

 底本は英文サイト“Internet Archive”のこちらにある、第一書房が昭和一一(一九三六)年十一月に刊行した「家庭版小泉八雲全集」(全十二巻)の第七巻の画像データをPDFで落として視認した。

 田部隆次(たなべりゅうじ 明治八(一八七五)年~昭和三二(一九五七)年)氏については先に電子化した「人形の墓」の私の冒頭注を参照されたい。

 傍点「ヽ」は太字に代えた。

 なお、本篇の原拠である怪談集「御伽百物語」については、私は既にブログ・カテゴリ「怪奇談集」で全電子化注を、昨年、終えており、原拠はその中の「御伽百物語卷之二 宿世(すくせ)の緣」である。「御伽百物語」の作者青木鷺水(ろすい 万治元(一六五八)年~享保一八(一七三三)年)は江戸前・中期の俳人で浮世草子作家。名は五省、通称は次右衛門、号は白梅園(はくばいえん)。京都に住んだ。俳諧は野々口立圃(りゅうほ)或いは伊藤信徳門下であったと思われるが、松尾芭蕉を尊崇し、元禄一〇(一六九七)年跋の「誹林良材集」の中では、彼は芭蕉を「日東の杜子美なり、今の世の西行なり」(日本の杜甫であり、今の世の西行である)と述べている(「早稲田大学古典総合データベース」の同書原典の当該頁画像を見よ。但し、彼が芭蕉の俳諧に倣おうとした形跡は殆ど認められない)。「俳諧新式」「誹諧指南大全」などの多くの俳書を刊行したが、元禄後期からは、浮世草子作者として活躍、本書や「諸国因果物語」(六巻)・「古今堪忍記」(七巻)・「新玉櫛笥」(六巻)などを書いた。「御伽百物語」は宝永三(一七〇六)年に江戸で開版したものである。私の以上の電子化注は所持する三種類の校本を「早稲田大学古典総合データベース」の同書の原典画像と厳密に校合したもので(「青木鷺水 御伽百物語 始動 / 序・目録」の冒頭の私の注を参照)、ここで新たに電子化する必要性を感じないし、注もそちらで尽きていると感じている

 

 

   辨天の同情

 

 京都に名高い大通寺と云ふ寺があつた。淸和天皇の第五の皇子貞純親王が僧として、その一生の大部分をそこで送らせ給ふた、それから多くの名高い人々の墓がその境内に見出される。

[やぶちゃん注:「大通寺」真言宗万祥山遍照心院大通寺。通称「尼寺」。ここ(グーグル・マップ・データ)。但し、廃仏毀釈に遇い、現在位置はここではなく、旧地は明治四四(一九一一)年に旧国鉄用地となり、六孫王神社だけを残して現在地に移転して逼塞したものである。詳しくは「御伽百物語卷之二 宿世の緣」の私の注を参照されたい。

「淸和天皇」(嘉祥三(八五〇)年~元慶四(八八一)年)は第五十六代天皇。

「第五の皇子貞純親王」(貞観一五(八七三)年?~延喜一六(九一六)年)。上総・常陸の太守や中務卿・兵部卿を歴任したが、位階は四品に留まった。経基・経生の両王子が共に源姓を賜与され臣籍降下したことから、清和源氏の祖の一人となっている。但し、実際には大通寺が彼の宅地だったのではなく、寺の南隣りに彼の邸宅があったのである。「御伽百物語卷之二 宿世の緣」の私の大通寺の注の引用を参照されたい。]

 しかし現在の建物は昔の寺ではない。もとの寺は千年たつてから、大破に及んだので、元祿十四年(西暦一七〇一年)に全部改築される事になつた。

 その改築の祝ひに大佛事が行はれた、その佛事に參詣した數千の人々のうちに學者で詩人の花垣梅秀と云ふ若い人がゐた。彼は新しく造られた庭園なども𢌞りあるいて、何でも喜んで見て居るうちに、以前屢々飮んだ事のある泉に到着した。彼はその時、泉の𢌞りの土地は掘りかへされて、四角な池になつて居る事、それから池の一端に木の札を立てて『誕生水』と書いてある事を見て驚いた。それから又小さいが甚だ立派な辨天の社が池の側に建ててある事を見た。彼がこの新しい社を眺めて居るうちに、不意に一陣の風が彼の足もとに一枚の短册を吹き寄せた、その上にはつぎの歌が書いてあつた、――

[やぶちゃん注:「花垣梅秀(はながきばいしう)」不詳。

「誕生水」これは現在の六孫王神社の方に現存する、源経基の嫡男で多田源氏の祖である、源満仲(延喜一二(九一二)年?~長徳三(九九七)年)の産湯に使った「誕生水」の意。詳しくは「御伽百物語卷之二 宿世の緣」の私の注を参照されたい。]

 

    しるしあれと

    いはひぞそむる玉箒

    とる手ばかりの

    ちぎりなれども

 

 この歌――名高い俊成卿の作つた初戀の歌――は彼に取つては珍らしくはなかつた、しかしそれは女の手で、しかもそんなに巧みに短册に書いてあつたので、彼は殆んど夢かとばかり驚いたのであつた。文字の形にある或物、――何とも云へない優美、――はこどもとおとなの間の若い時を暗示してゐた、それから墨の淸い立派な色は書いた人の心の淸さ[やぶちゃん注:「きよらかさ」と訓じておく。]と善良な事を表はして居るやうであつた。

[やぶちゃん注:「しるしあれといはひそ初るたまはゝきとるてばかりのちぎりなりとも」藤原俊成の「長秋詠藻」の下の「右大臣家百首」に見出せる。整序すると、

 驗(しるし)あれと祝ひぞ初(そ)むる玉箒(たまははき)取る手ばかりの契りなりとも

である。和歌嫌いの私にはよく意味が判らぬのだが、王朝和歌文学が専攻であった妻の協力を得て、牽強付会に解釈してみると、まずは取り敢えず、「玉箒(たまははき)」の「玉」は単なる美称ととっておき、「箒」はまさに「箒(ほうき)」で、幼い子が悪戯に「ははき取る手」、箒を互いにその手に握って引っ張り合うような「ばかり」、だけの、他愛のない無邪気な「契り」(初恋の別な属性としての「はかない縁(えにし)」の意も含むか。いや、だからこそ汚れなき初恋の象徴とも言えよう)であったとしても、「驗あれ」と――私の恋に、どうか相手の方が、答えて呉れますように――と「祝ひぞ初むる」――恐らくは、ここには本来の「玉箒」(たまばはき(たはははき):正月の初子(はつね)の日に大切なお蚕さまのいる蚕室を掃くのに用いた玉の飾りをつけた「祝ひぞ初むる」箒のこと)という年初の祝祭の祭具の意が込められているように私には感じられる――といった意味か? 大方の御叱正を俟つ(以上も「御伽百物語卷之二 宿世の緣」の私の注で記したものである)。]

 梅秀は丁寧に短册を疊んで、家にもつて歸つた。見れば見る程、始めよも一層立派に見えた。書道に關する彼の知識から判斷すれば、この歌は、甚だ若い、甚だ賢い、そして多分甚だ心の素直な少女の書いた物に相違なかつた。しかしこの判斷は、彼の心に甚だ綺麗な人の面影を作るに充分であつた、そして彼は見ぬ戀にあこがれる事になつた。それから、彼の第一の決心は、その歌の筆者をさがしてできる事ならその人を妻に娶る事であつた。……しかしどうしてその女を見出す事ができよう。その女は何者だらう。どこに居るのだらう。彼女をさがす事のできる望みはただ神佛の加護によるより外はなかつた。

 しかし、神佛も喜んで加護を垂れ給ふ事が、そのうちに彼の心に浮んで來た。この短册は彼が辨天樣の堂の前に立つて居る間に、彼のところへ來たのであつた、そして戀人同志が幸福なる結合を得ようとしていつも參詣するのはこの神樣であつた。かう考へたので、この神樣にお助けを願ふ事にした。彼は直ちに、寺の境内の誕生水の辨天の堂へ參詣して、眞心をこめて、こんなお祈をした、――「辨天樣、お願です、――この短册を書いた若い人はどこに居るか、見出せるやうにお助けを願ひます、――たとへ僅かの間でも、彼女に會ふただ一度の機會でも私に與へて下さい』それから、この祈をしたあとで、彼は辨天樣に七日參りを始めた、同時に終夜參籠して禮拜のうちに、第七夜を過さうと誓つた。

 

 さて第七夜に、――彼の夜明しとした時、――靜かさの最も深い時に、彼は寺の總門に聲があつて案内を呼んで居るのを聞いた。内部から別の聲が答へた、門は開いた、そして梅秀は立派な風采の老人が徐々たる步調で近づいで來るのを見た。この老いて尊い人は水干に指貫を着て、雪のやうな頭に烏帽子を冠つてゐた。辨天の堂について、彼はその前に跪いて何か命令を待つて居るやうであつた。それから宮の外側の扉が開いた、そのうしろの内部の神殿を隱してゐた簾は半ば卷き上つた、それから一人の稚兒(ちご)――昔風に長い髮を束ねた綺麗な男の子――が現れた。彼はそこに立つて澄み渡つた大きな聲で老人に云つた、

[やぶちゃん注:「水干」「水干狩衣(すいかんかりぎぬ)」の略。平安後期から江戸時代まで用いられた男子用の和服の一種。当初は庶民のものであったが、後に公家の、さらに鎌倉時代頃からは武家にも用いられるようになった。地は古くは麻布・葛布が多かったが、時代が下るとともに華麗になって平絹・紗・綾を用いた。また、狩衣でありながら、上衣を下袴に着込めるのも、この服装の特色である(「ブリタニカ国際大百科事典」に拠った)。

「指貫」「指貫の袴(さしぬきのはかま)」の略。「裾に紐を差抜く」の意で、裾を締め括ることが出来るように紐を通した袴をさす。「奴袴(ぬばかま)」とも称し、麻布製のものは「布袴(ほうこ)」とも呼んだ。原型は奈良時代の「括緒(くくりお)の袴」とされている。平安時代以後になると、衣冠・直衣(のうし)・狩衣・水干などとともに着用され、地質も綺(あやぎぬ)・綾・絹など次第に豪華なものになっていった(同前)。]

『ここに、その現在の境遇に不相應な、そして外の方法では達せられさうにない願を祈つて居る者がある。しかしその若者は不便(ふびん)に思ふから、何とかしてやる方法はないか、それて御身は召されたのである。宿世の緣もあるやうなら宜しく兩方を引會せて貰ひたい』

 この命令を受けて、老人は恭しく稚兒に敬禮してから、立ち上つて、左の長い袖の袂から赤い紐を取り出した。この紐の一端で梅秀の體を縛るやうに卷いた。他端を御灯(とう)の火に燃した、その紐が燃えて居る間に、彼は暗がりから誰かを呼ぶやうに、三度手で招いた。

 直ちに寺の方向に來る足音が聞えて來た、そしてすぐに一人の少女が現れた、――美しい十六七歲の少女であつた。彼女はしとやかに、しかし甚だはにかんで、――扇で口のあたりを隱しながら近づいた、そして彼女は梅秀の側に坐つた。それから稚兒は梅秀に向つて云つた、

 『この頃御身は甚だ心を痛めて、及ばぬ戀に身を苦しめてゐた。そのやうな不幸をそのままに見捨て置く事もできないので、月下の翁を招いて短册のぬしに引合せる事にした。その人は今御身の側に來て居る』

 かう云つて稚兒は簾のうしろに退いた。それから老人は來た時と同じやうに歸つた、そして少女もそのあとに續いた。同時に栴秀は曉を知らせる寺の大梵鐘を聞いた。彼は誕生水の辨天堂の前に感謝のために平伏した、それから――樂しい夢からさめた心地で、――彼がそれ程會ひたいと熱心に祈つた美しい人を見る事ができたのを喜びながら、――又再び會ふ事ができないのではないかと考へて心配もしながら、歸途についた。

 しかし門から往來へ出るや否や、彼は自分と同じ方向に獨りで行く少女を見た。そして曉のほの暗きうちにも、彼は直ちに辨天堂で引合はされた人である事を認めた。彼女に追ひつかうとして步を早めた時、彼女はふり向いて、しとやかなお辭儀をして彼に挨拶した。その時彼は始めて彼女に話しかけてみた、そこで彼女は彼に返事をしたが、その聲の美はしさで彼の心は喜びで滿たされた。未だ靜かな往來を彼等は樂しさうに話しながら步いて、遂に梅秀が住宅まで來た。そこで彼は止つて――少女に自分の望みと恐れとを語つた。微笑しながら、彼女は尋ねた、――『私あなたの妻になるために呼びよせられた事を御存じないのですか』それから彼女は彼と一緖に入つた。

 

 彼の妻になつてから、彼女はやさしい智慧と情けで、思ひの外に彼を喜ばせてくれた。その上、彼は自分の想像以上に、彼女の遙かに敎養のある事を發見した。それ程手蹟の立派である以外に、美しい繪を描く事ができた、生花、刺繡、音樂の諸藝に通じてゐた、織る事も縫ふ事もできた、それから家事に關する一切の事を知つてゐた。

 

 この若い二人が會つたのは秋の初めであつた、そして彼等は冬の季節の始まるまで仲睦じく暮らしてゐた。この三月の間、彼等の平和を亂す何物もなかつた。このやさしい妻に對する梅秀の愛は、時と共にただ强くなるばかりであつた。しかも、不思議にも、彼は彼女の經歷を知らなかつた、――彼女の家族についても少しも知らなかつた。こんな事については彼女は決して云はなかつた、そして神佛から授かつたから、彼女に問ふのは不適當であると想像した。しかし、月下の翁もその外の者も――彼が恐れてゐたやうに――彼女を取り返しには來なかつた。何人も彼女に關して問合す事もしなかつた。それから隣人達は、どう云ふわけか分らないが、彼女の存在を全然知らないかのやうにしてゐた。

 梅秀は凡てこんな事を不思議に思つた。しかしもつと不思議な經驗は彼を待つてゐた。

 或冬の朝、彼は京都のやや邊鄙な場所を通つて居る時、大聲で自分の名を呼ぶ人を聞いた。見ると或人の家の門から一人の下男が彼に向つて手招きをしてゐた。梅秀はその男を知らない、それに京都のこの邊で知人は一人もないから、彼に取つてはそんな突然の招きは驚き以上であつた。しかし下男は、進んで來て、最上の敬意を表して彼に挨拶して、云つた、『主人はあなたにお目にかかりたいと申して居ります、どうぞ暫らくお入り下さい』少しためらつたあとで、梅秀は案内されるままにその家へ入つた。家の主人らしい立派な身なりの威嚴のある人が、玄關へ出て彼を歡迎して、それから客間へ案内した。初對面の挨拶が交換されたあとで、主人は彼をこんなに突然招いた事の無禮の云ひわけをして、云つた、――

 『こんな風にお呼び申したのは實に無禮に思はれるに相違ありませんが、實は辨天樣からのお告げによる事と固く信じてこんな事をいたしました次第で、多分御容赦下さる事と存じます。これからお話いたしませう。

 『私、娘を一人もつて居りますが、十七ばかりになります、手も相應に書きます、その外の事も一通りいたします、人並の女でございます。どうか良い緣をもとめて幸福にしてやりたいと思つて辨天樣にお祈を致しました、それから京都の辨天堂へ悉く娘の書いた短册を奉納いたしました。それから幾晚かあとで、辨天樣が夢に現れてお告げがありました、「祈は聞いたから、お前の娘の夫になる人に娘をもう引合せて置いた。冬になればその人は來る」紹介が濟んだと云ふこの證言が分らなかつたから、私は少し疑ひました、私はこの夢は意味のない普通の夢に過ぎないのだらうと思ひました。しかし昨夜又私は夢に辨天樣を見ました、そしてそのお告げに「明日、さきに云つて置いた若い人がこの町へ來る、その時うちへ招じ入れて娘の婿になつてくれるやうに云ふ方がよい。良い靑年だから、後には今よりはずつと高い位に上るやうになる」とありました。それから辨天樣はお名前、年齡、生れ所をお聞かせになつて、容貌や着物を詳しく云つて下さいましたので、私が申しきかせた指圖で、下男は造作なくあなたが分りました』

 

 この說明は、梅秀を納得させないで當惑させるばかりであつた、彼はただその家の主人が彼に敬意を表する事を云つた事に對する形式的返禮の言葉しか云へなかつた。しかし主人が娘に紹介するりもりで別室へ彼を誘つた時、彼の當惑は極度に達した。それでも彼はその紹介を程よく謝絕する事はできなかつた。彼はこんな異常な場合に自分にはすでに妻がある事、――正しく辨天樣から授かつた妻、彼が別れる事などは考へて見る事もできない妻のある事を云ひ出すわけには行かなかつた、そこで默つてびくびくしながら、その示された部屋へ主人のあとからついて行つた。

 その家の娘に紹介された時、その娘と云ふのは實は彼がすでに妻として居るその人と同じ人である事を發見した時の彼の驚きは、どんなであつたらう。

 

 同じ、――しかし同じではない

 月下翁によつて紹介された彼女はただ愛人の魂であつた。

 今、父の家で結婚する事になつた彼女は體であつた。

 

 辨天はその信者のためにこの奇蹟を行つたのであつた。

         *

       *

         *

 もとの話は色々の事を說明をしないままにして、突然終つて居る。その結末は餘程感心しない。本當の乙女が自分の靈の結婚生活の間にどんな精神上の經驗をしたかについて、讀者は多少知りたい。それからその靈がどうなつたか、――それは續いて兩立の存在をしたかどうか、或はそれが夫の歸りを辛抱して待つてゐたかどうか、或はそれが本當の花嫁のところへ訪問に來たかどうかを讀者は知りたい。そして書物にはこれ等の事については何も云つてない。しかし日本の友人はこの奇蹟をこんな風に說明する、

 『魂の花嫁は實際短册からできたのであつた。それで本當の少女は辨天堂での會合については少しも知らないと云ふ事はあり得べき事である。短册の上にその美しい文字を書いた時に、彼女の魂の幾分はそこへ移つた。それだから書いた物から、書いた人の精靈を呼び起す事ができたのであつた』

 

[やぶちゃん注:最後の友人は本質的に小泉八雲の疑問に何ら、答えていない。ただ、八雲は文字に霊魂が宿るという点に興味を持ち、それを肯んずることは出来た。私は小泉八雲の解かれない最後の不満がよく分かる。小泉八雲は霊界を否定しない。しかし、現実界と霊界とが接するに際して、そこに一つの粛然とした誤りのない共時性(シンクロニティ)があるはずであり、それは基本的に、相互を矛盾・齟齬させたり、一方を無化するような、無情なことは決してあってはならぬ、という驚くべき優しさを持った世界観に裏打ちされている稀有の人物――それが小泉八雲その人なのである。

小泉八雲 屍に乘る人  (田部隆次訳) / 原拠及びリンクで原々拠を提示

 

[やぶちゃん注:本篇(原題“The Corpse-Rider ”。「死体に騎(の)る者」。田部訳の「屍」は「しかばね」と訓じておく)は一九〇〇(明治三三)年七月にボストンの「リトル・ブラウン社」(LITTLE,BROWN AND COMPANY)から出版された作品集“SHADOWINGS”(名詞「shadowing」には「影」以外には「人影」・「影法師」・「影を附けること」・「尾行」などの意味がある。本作品集の訳は概ね「影」が多いが、平井呈一氏は「明暗」と訳しておられ、私も漠然とした「影」よりも、作品群の持つ感性上の印象としてのグラデーションから「明暗」の方が相応しいと思う。来日後の第七作品集)の第一パート“STORIES FROM STRANGE BOOKS”第四話に配された作品である。本作品集は“Internet Archive”のこちら(出版社及びクレジットの入った扉表紙を示した)で全篇視認できる(本篇はここから。注のついた標題ページを示した。なお、この注では“From the Konséki-Monogatari”となっている)。活字化されたものは“Project Gutenberg”のこちらで全篇が読める(本篇はここから)。

 底本は英文サイト“Internet Archive”のこちらにある、第一書房が昭和一一(一九三六)年十一月に刊行した「家庭版小泉八雲全集」(全十二巻)の第七巻の画像データをPDFで落として視認した。

 田部隆次(たなべりゅうじ 明治八(一八七五)年~昭和三二(一九五七)年)氏については先に電子化した「人形の墓」の私の冒頭注を参照されたい。

 傍点「ヽ」は太字に代えた。

 なお、本篇はその原々拠を『「今昔物語集」卷第二十四 人妻成惡靈除其害陰陽師語第二十』(人の妻(め)、惡靈と成り、其の害を除く陰陽師(おむやうじ)の語(こと)第二十)に拠っている。それは本篇公開に先立って、こちらで原文・語注及び私のオリジナル現代語訳附きで公開しておいたので、未読の方は、小泉八雲の本篇を読まれた後に読まれんことをお勧めするものであるが、さても、何故に「原々拠」と述べたかというと、小泉八雲が本篇を書くに際して参考にしたものが、当該作の杜撰な簡略型再話版に拠るものだからである。一九九〇年講談社学術文庫刊の小泉八雲著・平川祐弘編「怪談・奇談」の布村(ぬのむら)弘氏の解説によれば、本篇の直接の参考原拠は江戸前期の神道家・国学者で考証随筆「広益俗説弁」で知られる井沢長秀(享保一五(一七三一)年~寛文八(一六六八)年)の考訂纂註になる「今昔物語」(但し、刊本は東京書肆明治三〇(一八九七)年刊の第二版と近代の出版物)の上巻「世俗伝」の中の「人妻成悪霊除其害陰陽師語」『より』とする。同じく原拠に同書を用いた、本作品集の巻頭の一篇「和解」の解説で、同じ布村氏は、同書は『誤植が多い』と述べておられ、実際、後に示す通り、衍字や誤字が見られ、何より、内容の短縮化の中で、叙述に有意な改変が加えられてしまっている。なお、「朝日日本歴史人物事典」の井沢の記載には、『肥後熊本藩士井沢勘兵衛の子』で、『山崎闇斎の門人に神道を学んだ』。宝永三(一七〇六)年の「本朝俗説弁」の出版以後、旺盛な著述活動に入り、「神道天瓊矛記(しんとうあめのぬほこのき)」などの神道書は、「菊池佐々軍記」などの軍記物、「武士訓」などの教訓書、「本朝俚諺」などの辞書、「肥後地志略」などの地誌と、幅広く活躍した。また、「今昔物語」を出版しており、これは校訂の杜撰さをしばしば非難されるが(調べて見ると、同時代から後代にかけて批判された具体的記載が見出せる)、それまで極めて狭い範囲でしか流布していなかった「今昔物語集」を江戸前期以降の読書界に提供した功績は決して小さくないともあった。当初、小泉八雲が実際に原拠としたそれを見ようと調べたが、残念ながら、小泉八雲旧蔵の現物を所有している富山大学の「ヘルン文庫」でも、国立国会図書館デジタルコレクションでもネットに公開されていないことが判った。そこで、「ヘルン文庫」版のそれに従って、新字体で活字化されてある、上記講談社学術文庫版の中のそれを、恣意的に漢字を概ね正字化して、本篇の末に掲げておいた。まず、先に掲げた私の『「今昔物語集」卷第二十四 人妻成惡靈除其害陰陽師語第二十』と比較して戴ければ、「和解」のケースほどではないにしても、その貧相さがお判り戴けるものと思う。いや! 正直言うと、この場合も、原拠は読まずに、「今昔物語集」の原々拠を読む方がよいとさえ私は思うものである。

 さても以上のような状況なので、ここで言っておくが、小泉八雲は杜撰な圧縮版の再話原拠をもとにしつつも、冒頭に、恨みに思い死にした女の遺体にリアルに触れるような描写をするという、意想外のアクロバティックなシークエンスから始めて、例の「今昔物語」特有の辛気臭い常套的説明導入を拒んで、美事に読者を初っ端から異界へと引き込むことに成功している。小泉八雲の多くの怪談群の中にあって、ステロタイプに陥らぬよう、微妙な変化を感じさせるように細かなところで細工がなされている点(例えば、女の死は元夫の旅の間という設定、女の怨みを凝集させる初段の慄っとするほど素敵なこと、陰陽師が事前に女の遺体を検分していること、時間経過をきっちりと描写していること、陰陽師が男に遺体を見せる時や背に騎せて仕儀を指示するシーン、女の背での男の聴覚的恐怖などの、随所に映像作品のようなリアルな描写をかっちりとオリジナルに挿入していること等々)でも着目すべきものである。そうして、最後に記者を指弾する八雲の優しさがスパイスとしても利いて、「小泉八雲! 流石!!」と、思わず、掛け声をかけたくなる感じも、是非、味わって戴きたい。また、この作品には、私は、母ローザを離別し、精神に変調を来たさせた許し難い父への憎しみが漂ってもいるように読めるのである。

 

 

   屍に乘る人

 

 身體は氷のやうに冷(つめた)かつた、心臟は長い間打たなくなつて居る、しかしその外には死の徵し[やぶちゃん注:「しるし」と訓じたい。]は何もない。誰もその女を葬る事を云ひ出しもしない。彼女は離別された事を悲んで怒つて死んだのであつた。彼女を葬むる事は無駄であつたらう、――その理由はその死にかけて居る人の復讐の決して死ぬ事のない最後の願は、どんな墓をも寸斷し、どんな重い墓石をも破碎したであらうから。彼女が臥してゐた家の近くに住んで居る人々は、彼等の家から逃げ出した。彼等は彼女を離別した男の歸つて來るのを、彼女がただ待つて居る事を知つてゐた。

 彼女の死んだ時に彼は旅に出てゐた。彼が歸つて來て、その話を聞いた時に、恐怖に打たれた。『日の暮れないうちに助けて貰はなければ』彼は考へた、『女は私を八つ裂きにするだらう』それは未だやうやく辰の刻[やぶちゃん注:午前八時前後。]であつた。しかし一刻も油斷してはならない事を知つてゐた。

 彼は直ちに或陰陽師のところへ行つて助力を願つた。陰陽師は死んだ女の話を聞いて、その死體を見た。彼は懇願者に云つた、――『一大危險があなたの身の上に迫つてゐます。私はあなたを助けるやうにやつて見るつもりだが、私の云ふ事を何でもするやうに約束して貰ひたい。あなたの助かる方法はただ一つしかない。恐ろしいやり方です。しかしあなたがそれを試みる勇氣がないと、女はあなたを八つ裂きにします。勇氣があれば、夕方日の暮れないうちに、又來て下さい』男は震へた、しかし彼は何でも要求される事をする約束とした。

 

 夕方、陰陽師は死體の置いてある家へ彼と一緖に行つた。陰陽師は雨戶をあけて、その男に入るやうに云つた。速かに暗くなりかけてゐた。『いやです』男は頭から足まで震はせながら、息を切らして云つた、――『女を見る事もいやです』『見るどころではなく、もつとやるべき事があります』陰陽師は云つた、――『あなたは從ふ約束でした。お入りなさい』彼は無理にその震へる男を家に入れて、死骸のわきへ彼をつれて行つた。

 

 死んだ女が伏俯しに寢てゐた。『さあ、あなたは跨がりなさい』陰陽師は云つた、『馬に乘るやうに、しつかり脊中に坐りなさい。……さあ、――さうしなければならない』男は陰陽師が支へねばならない程震へた――ひどく震へたが、それでも從つた。『さあ、女の髮を手にもちなさい』陰陽師は命じた、――『半分は右手に、半分は左り手に。……さう。……手綱のやうにしつかり摑んで。手にそれを卷いて――兩手とも――しつかり。さうするのです。よく聽きなさい。明日の朝までさうしてゐなければならない。夜になると色々恐ろしい事がある――色々ある。しかしどんな事があつても、髮をはなしてはならない。はなせば、――たとヘ一秒でも、――女はあなたを八つ裂きにしてしまひます』

 陰陽師はそれから何か不思議な文句をその死骸の耳にささやいて、それからその乘手に云つた、――『さあ、私は自分のために、ここを去つてあなたを一人にして行く。そのままにして居るのです。……何よりも女の髮をはなさない事を忘れないで』それから彼は戶を閉めて出て行つた。

 

 何時間も、その男は黑い恐怖を抱いて屍の上に乘つた、――そして夜の靜けさは彼の𢌞りに段々深くなつて、遂に彼はそれを破るために叫んだ。直ちにその死體は彼を投げ落すために、下から跳び上つた。そして死んだ女は大聲で叫んだ、『あ〻重い。しかしあいつを今ここへ連れて來る』

 それからすつくと立ち上つyr、雨戶のところへ飛んで行つて、それを明け放つて、夜の中へ飛び出した、――いつでもその男の重みを脊負ひながら。しかし男は、眼を閉ぢて、手に彼女の長い髮を――固く、固く、――卷いてゐた、――呻く事もできない程の恐怖心を抱いてゐたが。どこまで行つたのか、彼は知らなかつた。彼は何物も見なかつた、彼はただ暗黑の中で彼女のはだしの音、――ピチヤ、ピチヤ、――及び、走りながらヒーヒー息をする聲しか聞えなかつた。

 

 たうとう踵[やぶちゃん注:「きびす」。]をかへして、家に走り込んで、始めと同じやうに床(ゆか)の上に倒れた。鷄[やぶちゃん注:「にはとり」。]の鳴き始めるまで男の下に喘(あへ)ぎ呻いてゐた。それから靜かになつた。

 しかし男は齒の根も合はないで、陰陽師が夜明に來るまで彼女の上に坐つてゐた。『それで髮をはなさなかつたね』――陰陽師は非常に喜んで云つた。『それはよい、……さあ、もう立つても宜しい』彼は再び屍の耳にささやいた、それから男に云つた、――『恐ろしい一夜であつたに相違ない、しかし外に救ふ方法はなかつた。これからさき、女の復讐からはもう安心しても宜しい』

           *

         *

           *

 この話の結末は道德的に滿足な物と私は考へない。この屍に乘つた男は發狂したとも、彼の髮は白くなつたとも書いてない、私共はただ『男泣く泣く陰陽師を拜しけり」と告げられて居る。その話に附いて居る註解も失望すべき物である。日本の作者は云ふ、『その人(屍に乘つた人)の孫今にあり、その陰陽師の孫も、大宿直(おほとのゐ)と云ふ所〔多分おほとのゐ村と云ふのであらう〕に今にありとなん語り傳へたるとかや』

 この村の名は今日の日本のどんな地名錄にも見當らない。しかし多くの町と村の名はこの話が書かれて以來變つて居る。

 

[やぶちゃん注:最後の「大宿直」を村名としたのだけは小泉八雲の誤認である。私の『「今昔物語集」卷第二十四 人妻成惡靈除其害陰陽師語第二十』の注を参照されたい。古今の怪奇談や現代の都市伝説が、それが実話であるとするためによくやるように、実在する役所の名を挙げたのである。

 以下、冒頭注で示した上記講談社学術文庫版の中の、原拠である井沢長秀考訂纂註になる「今昔物語」(東京書肆明治三〇(一八九七)年刊第二版)の上巻「世俗伝」の中の「人妻成惡靈除其害陰陽師語」(人の妻(つま)、惡靈と成り、其の害を除く陰陽師の語(こと))、恣意的に漢字を概ね正字化し、句点を読点に変更し(底本は句点のみ配されてある)、さらに読点を増やし、記号を追加して段落も成形して掲げる。歴史的仮名遣の誤りや表記の不審箇所は総てママである。踊り字「〱」は正字化した。但し、底本のカタカナ「ハ」はひらがなに直した。「は」の変体仮名は「ハ」に見えるが、これのみをカタカナで表記する価値を私は認めないからである。

   *

 今はむかし、ある者、年ごろの妻をさりはなれけり。

 妻、ふかく怨(うらみ)をなして、なげきかなしみけるほどに、そのおもひのつもりにて、病(やまひ)つきて、久しくなやみて、死(し)しけり。

 其女は、父母(ちゝはゝ)も、したしきもの、なかりければ、死骸(しがい)をとりかへし、すつることもなく、家のうちに有けり。いかなる故にや、其かばね、肉(にく)も髮(かみ)もおちずして、常(つね)にかはらざりけり。

 隣家(りんか)の人、物のひまよりのぞき見て、おそるゝ事かぎりなし。死(しゝ)てより後(のち)、家の内に光(ひかり)ありて、鳴(なり)ければ、隣(となり)の人もおそれて、にげまよひけり。

[やぶちゃん注:肉も落ちないのでは、遺体が全く腐敗現象を呈さなかったことになり、原話と激しく異なっており、全くあり得ない話(ミイラ化や白蠟化した遺体の中には極めて稀に一見そうしたものが見られることがあるが、それは特殊な環境下でしか起こり得ず、大気中に放置された人間の遺体はどのような環境下よりも速やかに変色・膨張・腐敗が順調に進行する)として改変されてしまっていることが判る。小泉八雲はそこも踏襲してしまっているものの、不思議にその違和感はこの原拠ほどではない。八雲はそれを女の怨みの情念の強さに基づくものへと、語りの中で自然にスライドさせているからであろう。

 其夫(おつと)、これを聞て、

「かれは、思い死(しゝ)したる[やぶちゃん注:底本にママ注記有り。]ものなれば、かならず、我をとりころすべし。いかにもして此靈(れい)の難(なん)をのがればや。」

とて、ある陰陽師(をんみやうじ)のもとに行て、此事を語(かたり)て打たのみけるに、陰陽師、いはく、

「此事、きはめて大事なり。しかはあれども、かくのたまふことなれば、かまへ、こゝろむべし。たゞし、きはめて、おそろしき事なり。それを、かまへて、念(ねん)じ給へ。」

とて、日くれて、陰陽師、かの死人(しにん)のある家に、夫(おつと)を具(ぐ)してゆきぬ。

 男は、外にて聞たるだに、身毛(みのけ)竪立(よだち)ておそろしきに、まして、その家にゆかん事、たえてなりがたけれども、陰陽師に身をまかせて。おづおづ、ゆきて見るに、げにも死人は髮(かみ)もおちず、骨肉(こつにく)もつらなりて、臥(ふし)たり。

 陰陽師、男を、死骸の背(せ)に、馬に乘(のり)たるやうにのせて、死人の髮(かみ)を手にまきてひかへさせ、

「ゆめゆめ、はなつことなかれ。」

と、をしへて、物をよみかけて、

「われ、爰[やぶちゃん注:「ここ」。]に來るまで、かくて有べし。さだめて、おそろしきこと、あらん。それを、念すべし。」

といひ置て、陰陽師は出て去ぬ。

 男は、せんかたなく、生たるこゝちはせねど、是非(ぜひ)なく、死人に乘(のり)て、髮をひかへて居たり。

 しかる間に、夜に入ぬ。

 夜半にもならんとおもふころ、此死人、

「あな、おもしや。」

と、いふまゝに、つと、立て、

「其奴(やつ)もとめて來らむ。」

と、いひて、はしり出ぬ。

 男は、陰陽師がをしへのまゝに、髮をはなたずしてある程に、死人、立歸て、もとの家に來りて、おなじやうに、ふしたり。

 おそろしなどいへば、おろかなり。

 されども、男は、敎(おしへ)のまゝに、髮をはなさず、背(せ)に乘(のり)て居けるうちに、鷄なきければ、死人、聲をせず、なりぬ。

 すでに夜も明けるころ、陰陽師、來て、

「今夜、さだめて、おそろしき事、侍りつらん。髮は、はなさゞりしや。」

と問(とふ)。

 男、はななさゞるよしを答(こた)ふ[やぶちゃん注:底本は「なな」の部分にママ注記を打つ。]。そのときに、陰陽師、また、死(し)人に、物をよ見かけてのち[やぶちゃん注:底本は「見」の右下にママ注記を打つ。呪文を「讀(誦)み」だから、確かにおかしい。]、

「今は、いざ給へ。」

といひて、男をかき具して家にかへりて、

「のたまふ事、わりなければ、かく、はからひつるなり。今は、さらにおそれ給ふべからず。」

と、いひける。

 男、なくなく、陰陽師を拜(はい)しけり。

 かくて、事なくして、くらしけり。

 是、ちかき事なるべし。その人の孫、今にあり。其陰陽師の孫も「大宿直(おほとくのゐ[やぶちゃん注:底本、ママ注記有り。]」といふ所に今に有となん。かたり傳えたるとや。

   *]

「今昔物語集」卷第二十四 人妻成惡靈除其害陰陽師語第二十

 

[やぶちゃん注:底本は歴史的仮名遣の読みの確認の便から、「日本古典文学全集」第二十四巻「今昔物語集 三」第五版昭和五四(一九七九)年(初版は昭和四九(一九六四)年)刊。校注・訳/馬淵和夫・国東文麿・今野達)を参考に切り替える。但し、恣意的に漢字を概ね正字化し、漢文脈は訓読し、読み易く、読みの一部を送り仮名で出し、読みは甚だ読みが振れるか、或いは判読の困難なものにのみとした。参考底本の一部の記号については、追加・変更も行い、改行も増やした。□は原本の意識的欠字。]

 

「今昔物語集」卷第二十七 人の妻(め)、惡靈と成り、其の害を除く陰陽師(おむやうじ)の語(こと)第二十

 

 今は昔、□□と云ふ者、有けり。年來(としごろ)棲みける妻を去り離れにけり。

 妻、深く怨みを成して歎き悲しみける程に、其の思ひに病み付きて、月來(つきごろ)、惱みて、思ひ死にけり。

 其の女、父母(ぶも)も無く、親しき者も無かりければ、死にたりけるを、取り隱し、棄つる事も無くて、屋(や)の内に有りけるが、髮も落ちずして本(もと)の如く付きたりけり。骨、皆、次(つづ)きかへりて、離れざりけり。

 隣りの人、物の迫(はざま)より、此れを臨(のぞ)きて見けるに、恐(お)ぢ怖るゝ事、限り無し。

 亦、其の家(いへ)の内、常に眞(ま)□□[やぶちゃん注:「さを」か。「眞靑(まさを)」。]に光る事、有りけり。

 亦、常に物鳴(ものな)りなむど、有りければ、隣りの人も恐ぢて逃げ迷(まど)ひけり。

 而るに、其の夫(をうと)、此の事を聞きて、半(なから)は死する心地して、

「何(いか)にしてか、此の靈(りやう)の難をば遁るべからむ。我を怨みて思ひ死(しに)に死(しに)たる者なれば、我は、彼れに取られなむとす。」

と恐ぢ怖れて、□□と云ふ陰陽師(おむやうじ)の許(もと)に行きて、此の事を語りて、難を遁るべき事を云ひければ、陰陽師の云はく、

「此の事、極めて遁れ難き事にこそ侍るなれ。然(さ)は有れども、此く宣ふ事也(なり)、構へ試みむ。但し、其の爲に極めては怖しき事なむど、爲(す)る。其れを、構へて、念じ給へ。」

と云ひて、日の入る程に、陰陽師、彼の死人の有る家に、此の夫(をうと)の男を搔き具して將(ゐ)て行きぬ。

 男(をとこ)、外(ほか)にて聞きつるだに、頭(かしら)の毛太りて怖ろしきに、增して、其の家へ行かむ、極めて怖ろしく堪へ難けれども、陰陽師に偏へに身を任せて行きぬ。

 見れば、實(まこと)に、死人の髮、落ちずして、骨、次(つづ)きかへりて、臥したり。

 背に馬に乘る樣(やう)に乘せつ。

 然(さ)て、其の死人の髮を强く引(ひ)かへさせ、

「努々(ゆめゆめ)、放つ事、なかれ。」

と敎へて、物を讀み懸け愼(つつし)びて、

「自(みづから)が此(ここ)に來(こ)むまでは、此(か)くて有れ。定めて、怖しき事、有らむとす。其れを念じて、有れ。」

と云ひ置きて、陰陽師は出でて去りぬ。

 男、爲(せ)む方(かた)無く、生きたるにも非らで、死人に乘りて、髮を捕へて、有り。

 而る間、夜(よる)に入りぬ。

『夜半に成りぬらむ。』

と思ふ程に、此の死人、

「穴(あな)、重しや。」

と、云ふままに、立ち走りて云はく、

「い、其奴(そやつ)求めて、來たらむ。」

と云ひて、走り出でぬ。

 何(いづく)とも思(おぼ)へず、遙かに行く。

 然(しか)れども、陰陽師の敎(をし)へしまゝに、髮を捕へて有る程に、死人、返りぬ。本の家に來たりて、同じ樣に臥す。

 男、怖ろしなど云へば愚か也。物も思へねども、念じて、髮を放たずして、背に乘りて有るに、鷄(とり)、鳴きぬれば、死人、音も爲(せ)ず成りぬ。

 然(さ)る程に、夜(よ)明けぬれば、陰陽師、來たりて云はく、

「今夜(こよひ)、定めて怖ろしき事、侍りつらむ。髮、放たずなりぬや。」

と問へば、男、放たざりつる由(よし)を答ふ。

 其の時に、陰陽師、亦、死人に、物を讀み懸け愼しみて後(のち)、

「今は、去來(いざ)、給へ。」

と云ひて、男を搔き具して家に返りぬ。

 陰陽師の云はく、

「今は、更に恐れ給ふべからず。宣ふ事の去り難ければ也(なり)。」

となむ云ひける。

 男、泣々(なくなく)、陰陽師を拜しけり。

 其の後(のち)、男、敢へて事無くして、久しく有りけり。

 此れ、近き事なるべし。其の人の孫(そん)、今に世に有り。亦、其の陰陽師の孫も、大宿直(おほとのゐ)と云ふ所に今に有んなり、となむ語り傳へたるとや。

 

□やぶちゃん注(注には底本の他に池上洵一編「今昔物語集」(岩波文庫二〇〇一年刊)の「本朝部 下」も一部参考にした)

・「月來(つきごろ)」「数ヶ月の間」の意。

・「取り隱し、棄つる事も無くて」遺体を始末したり、葬送することもなくて。外に出して風葬にするか、土饅頭にして埋葬するのが当時(平安後期)の普通の葬送である。このように屋内に遺体をそのまま放置する例は普通ではない。

・「骨、皆、次(つづ)きかへりて、離れざりけり」参考底本の頭注に『いわゆる連骨で、死後も白骨が離散せず』(普通、仏教の「九相図絵巻」などでは「散骨相」と称し、通常の風葬にした遺体は獣や虫類に食われてばらばらになり、風雨に曝されて飛び散るものとされる)、『生前同様に骨格の各部が連なっていたことをいう。当時』、『連骨は神秘的なものとされ、死者が常人ならざることの証とされた』とするが、池上氏は脚注で、『全部つながったままで離れなかった。連骨は髪の毛とともに、恨みを残して死んだ悪霊の象徴』とする。後者の方がここには相応しい注である。後代のものであるが、西行に仮託された作者不詳の説話集「撰集抄(せんじゅうしょう)」(鎌倉後期の成立(推定)で興福寺に関わりのあった僧の作かとする説がある)の巻五の「第十五 西行於高野奥造人事」(西行、高野の奥に於いて人を造る事」で、ブットビの、西行が独りで淋しいから、散骨となった、人々の骨を全身分、拾い集めて、骨を総て綴り合わせて人の形に成形し、反魂(はんごん)の呪法を以ってフランケンシュタインの怪物みたような人造人間を作ったものの、『人の姿には似侍れども、色も惡しく、すべて心も侍ら』ず、『聲はあれども、弦管のごとし』という人に似て人に似ざる忌まわしいものであった、と出るのを思い出した。

・「物鳴(ものな)り」屋鳴(やな)り。ポルターガイスト(ドイツ語:Poltergeist:騒ぐ幽霊)である。

・「此の靈(りやう)の難」死霊の祟り。しかし「我を怨みて思ひ死(しに)に死(しに)たる者なれば、我は、彼れに取られなむとす」と彼が認識してからには、そうした怨み死にした数ヶ月の修羅を彼に伝えた者の存在がなくてはならない。この隣人がそれか。隣人が、以上の怪異現象を恐れて家(女の隣家)を離れたとすれば、その恨みつらみを籠めて、宛て付けにそれを男に伝えるようにした可能性は、これ、如何にもありそうなことではある。

・「構へて」前もって準備を整えて。ある態度をとってその状況に応じて、の意。

・「念じ給へ」「(恐ろしいことは必ず起こるのでありますが)きっと我慢をなされよ!」の意。

・「搔き具して」単に「一緒に引き連れて」の意。

・「外(ほか)にて」人(ここは陰陽師)から。

・「頭(かしら)の毛太りて怖ろしきに」髪の毛がそそげ立つような当時の一般的な恐怖感の形容。芥川龍之介の「羅生門」で、下人が女の死骸らしいものから髪を抜いているのを見出だしたシークエンスで、『舊記の記者の語を借りれば、「頭身(とうしん)の毛も太る」やうに感じたのである』と記すのが、よく知られる。

・「物を讀み懸け愼(つつし)びて」何か、呪文のようなもの(効果があるかどうかは疑わしいが、悪霊を祓い鎮めようとするような型通りのそれであろう)を唱えて。

・「い、其奴(そやつ)求めて、來たらむ」「い」は感動詞「いざ」と同義。

と云ひて、走り出でぬ。

・「思(おぼ)へず」ママ。歴史的仮名遣は「思ゆ」の未然形であるから、「思えず」が正しい。

・『其の時に、陰陽師、亦、死人に、物を讀み懸け愼しみて後(のち)、「今は、去來(いざ)、給へ。」』ここでは呪文が効果を持っている。則ち、恨んでいる元夫の姿を現世に於いて見出せないことが、逆に霊の彼へ怨みの執心をずらしたところに、間髪を入れず、この呪言が霊の活動を永遠に(現世に於いてという条件付きで)封印をすることとなるのである。しかし……男が死んだ後は……私はその限りではないと思う。

・「今夜(こよひ)」ここは「昨夜」の意。

・「宣ふ事の去り難ければ也(なり)」(困難な呪噤(じゆごん)であったが、)懇請されたことが、如何にも等閑視出来ぬあったから(かくも危険な手法を採らざるを得なかったから)です。

・「孫(そん)」ここは単に「子孫」「後裔」の意。後も無論、同じい。

・「大宿直(おほとのゐ)」参考底本頭注に、『大内裏』の中の、『主殿寮』(とのもづかさ:令制の官司。宮内省に属し、内裏の庭の掃除・湯沐・薪油調達などを司った役所。頭・助・允・大少属以下の役職があり、釜殿・湯屋があった)『の南、内教坊』(宮中で舞姫を置いて、女楽・踏歌などを教えて練習させた所。坊家(ぼうけ))『の西』に、『「大宿直」がみえる』『が』、『これに当たるか。とすれば、大内裏警護の者の詰所のあった区域である』とある。

・「今に有んなり」この「なり」は伝聞の助動詞で、前の原型「有る」は、従って、終止形ではなく、連体形である。

 

□やぶちゃん現代語訳(参考底本の訳を一部で参考にはしたが、基本、オリジナル訳である)

 

「今昔物語集」巻第二十七 人の妻、悪霊と成るも、その害を除いた陰陽師(おんみょうじ)の語(こと)第二十

 

 今となっては……もう……昔のこととなってしまったが、何某(なにがし)と申す者がおったが、長年、連れ添っておった妻を離縁してしまった。

 妻は、このことを、深く恨み、歎き悲しんでおったが、その思いの昂じて、遂には病いを発し、数ヶ月、患った挙句、思い死(じ)にしてしまった。

 亡くなったこの女は、父母もなく、親しい者もおらざれば、誰一人、亡骸(なきがら)を引き取って始末したり、葬ることもえせず、家の中に放っておかれたのであったが、その亡骸、髪も抜け落つることなく、生きていた時と同じように附いていたままであった。また、その骨も、皆、散ずることなく、完全に繋がったままに、離れずあったのであった。

 隣りの人が、戸の隙間より、これを覗き見したところが、これ、言いようもなく、怖れおののいて御座った。

 また、その家の内は、常に、妖しく真っ青に光ることも御座った。……

 また、常に、理由もわからず、屋鳴りなどすることがあったによって、隣りの人も、これ、恐れて逃げ惑う始末で御座った。……

 さても、ところが、その前の夫、この話を聞いて、半ば、死にそうな心持ちがして、

「どうしたら、この死霊(しりょう)の祟りから、遁(のが)れることができるじゃろう? 俺を怨んで思い死(じに)に死んだる女じゃから……俺は……きっと、その霊に憑(と)り殺されてしまうに違いない!」

と、怖れ戦(おのの)き、何某(なにがし)と申す陰陽師のもとに行き、このことを正直に語って、悪霊の難(なん)から遁るることの出来る手立てを問うた。

 陰陽師は、

「このこと、これ、極めて遁れ難きことにて御座る。……かくは申せど、これほどまでに仰せらるるのであってみれば、……よし! 何かそれに応じた策を考えてみることと致しましょうぞ!……但し、そのためには、これ、極めて、怖ろしいことを『致す』ことになりまする。――その覚悟をしっかりと持って――ことに当たり――一所懸命に我慢なされよ!」

と、言うた。

 日の沈む頃おい、陰陽師は、かの死人(しびと)のいる家に、この男をともに引き連れて行った。

 男にとっては、これ、人からちょっと聴いただけでさえ、髪の毛が太うなるほどに怖ろしいのに加え、ましてや、その遺骸のある家へ行くなんどということは、極めて怖ろしく、堪え難かったのだが、偏えにこの陰陽師に、身を任せ、従って行ったのであった。

 行って見てみると、まことに、死人(しびと)の髪の毛は、これ、抜け落ちずして、骨もまた、これ、繋がったままに横たわっておった。

 すると、陰陽師は――

――その遺体の背に!

――男を馬に騎(の)るようにして!

――乗せた!

――そして!

――死人の髪の毛を!

――しっかと!

――握らせ!

「決して!――放さぬように!」

と、言い聞かせて、何やらん、呪文を唱えて、祈禱を成して後(のち)、

「――我らが――ここに戻ってくるまでは――このままでおられよ。……必ず、怖ろしいこと、これ、起こるであろう。――が――それを凝っと――我慢しておられよ!」

と言い残すや、陰陽師は出て行ってしまった!…………

 男は仕方なく、生きた心地もせぬままに、死人(しびと)に跨ったまま、その遺骸の髪の毛を摑んでおった。……

 やがて、夜になった。

『真夜中になったか。』

と思う頃おいであった。……

――この死人!

――「アアッツ! 重(オモ)タイ!」

――と、言うや否や!

――立ち上って走り出し!

――「イザ! ア奴(ヤツ)ヲ捜シニ! 参ロウゾ!」

――と口走って、家を走り出でる!

――どことも分からぬまま!

――どんどん! どんどん!

――遙か遠くへ! と!

――走り行く!

 しかし、男は、陰陽師の教えたままに、

――髪の毛を!

――しっかと!

――摑んいた!

――摑んだままで! いた!

……と!

……そのうちに……死人(しびと)は引き返し始めた。

……そうして……もとの家に戻ると……前と同じように……横たわったのであった。…………

……男の心持ち? それはもう!……「怖ろしい」などと言うのも、これ、愚かなほどじゃて!

……何が何やら、これ、分からぬままに、ともかくも――只管(ひたすら)――死人の髪の毛を放さずして――背中に跨っておるうち……

……やがて……鶏(にわとり)が鳴くや!

……死人は

……声を発せずなり

……静かになったのであった。…………

 かくして、夜も明けたところに、かの陰陽師が来たって、言うことには、

「――昨夜は、さぞ、怖ろしきこと、これ、御座ったろう! 髪の毛を――放さずに――おりましたか?」

と問うたので、男は、放さなかった旨、答えた。

 すると、陰陽師は、また、死人(しびと)に向かい、先に誦したような呪文を唱えて祈祈禱をして後、

「今はもう! 終った! さあ! 帰りましょうぞ!」

と言って、心穏やかな様子で、男を連れ、家へと帰った。

 帰り着くと、陰陽師は言う。

「今はもう、さらに怖るること、これ、御座らぬ! 貴殿の仰せられたそれが、あまりのことにお気の毒で御座ったによって、かく、致いたので御座る。」

と、言ったという。

 男は、泣く泣く、陰陽師を頻りに拝んだ。

 その後(のち)、この男には何の障(さわ)りもなく、長生きしたという。

 この話は、これ、ごく最近のことと思われる。この男の子孫は今でも生きておる。また、その陰陽師の子孫もまた、大宿直(おおとのい)という役所に今もいるそうだ、と、かく語り伝えているということである。

 

小泉八雲 衝立(ついたて)の乙女  (田部隆次訳)


[やぶちゃん注:本篇(原題“The Screen-Maiden ”)は一九〇〇(明治三三)年七月にボストンの「リトル・ブラウン社」(LITTLE,BROWN AND COMPANY)から出版された作品集“SHADOWINGS”(名詞「shadowing」には「影」以外には「人影」・「影法師」・「影を附けること」・「尾行」などの意味がある。本作品集の訳は概ね「影」が多いが、平井呈一氏は「明暗」と訳しておられ、私も漠然とした「影」よりも、作品群の持つ感性上の印象としてのグラデーションから「明暗」の方が相応しいと思う。来日後の第七作品集)の第一パート“STORIES FROM STRANGE BOOKS”第三話に配された作品である。本作品集は“Internet Archive”のこちら(出版社及びクレジットの入った扉表紙を示した)で全篇視認できる(本篇はここから。原拠を記した添書のある標題ページで示した。そこには“Related in the Otogi-Hyaku-Monogatari”(「御伽百物語」の話に関連づけた(基づいた)(作)」)とある。活字化されたものは“Project Gutenberg”のこちらで全篇が読める(本篇はここから)。

 底本は英文サイト“Internet Archive”のこちらにある、第一書房が昭和一一(一九三六)年十一月に刊行した「家庭版小泉八雲全集」(全十二巻)の第七巻の画像データをPDFで落として視認した。

 田部隆次(たなべりゅうじ 明治八(一八七五)年~昭和三二(一九五七)年)氏については先に電子化した「人形の墓」の私の冒頭注を参照されたい。

 傍点「ヽ」は太字に代えた。

 なお、本篇の原拠である怪談集「御伽百物語」については、私は既にブログ・カテゴリ「怪奇談集」で全電子化注を、昨年、終えており、原拠はその中の「御伽百物語卷之四 繪の婦人に契る」である。冒頭にも出る本怪談集の作者青木鷺水(あおきろすい 万治元(一六五八)年~享保一八(一七三三)年)は江戸前・中期の俳人で浮世草子作家。名は五省、通称は次右衛門、白梅園(はくばいえん)は号。京都に住んだ。俳諧は野々口立圃或いは伊藤信徳門下であったと思われるが、松尾芭蕉を尊崇し、元禄一〇(一六九七)年跋の「誹林良材集」の中では、彼は芭蕉を「日東の杜子美なり、今の世の西行なり」(日本の杜甫であり、今の世の西行である)と述べている(「早稲田大学古典総合データベース」の同書原典の当該頁画像を見られたい。但し、彼が芭蕉の俳諧に倣おうとした形跡は殆ど認められない)。「俳諧新式」「誹諧指南大全」などの多くの俳書を刊行したが、元禄後期からは、浮世草子作者として活躍、本書や「諸国因果物語」(六巻)・「古今堪忍記」(七巻)・「新玉櫛笥」(六巻)などを書いた。「御伽百物語」は宝永三(一七〇六)年に江戸で開版したものである。私の以上の電子化注は所持する三種類の校本を「早稲田大学古典総合データベース」の同書の原典画像と厳密に校合したもので(「青木鷺水 御伽百物語 始動 / 序・目録」の冒頭の私の注を参照)、ここで新たに電子化する必要性を感じないなお、冒頭、「菱川吉兵衞師宣」と出るが、実は底本では「宣」が「宜」になってしまっている(誤植であろう)。無論、江戸初期の知られた浮世絵師菱川師宣(ひしかわもろのぶ ?~元禄七(一六九四)年)のことである(詳しくは「御伽百物語卷之四 繪の婦人に契る」の私の注を参照)。これは田部のサーヴィス(原文は“Hishigawa Kichibei”で雅号は出ないのである)が裏目に出たものである。以下、判らない語句その他は原拠の私の注を見られたいが、この原話について、私はそこで、『この話柄、正直、怪奇談としてはあまり上手いと思わない。前段の』グダグダした感じが、『私には退屈で、後段のファンタジーのハッピー・エンドも、早回しで、却って、「だから何?」と感動が著しく減衰してしまっている。私なら、枕を半分以下に削ぎ落とし、絵の美女の出現のシークエンスを精緻に描写するな、と思う』と述べた。比較されれば、小泉八雲の本篇は、まさに――主人公の男が女をそうしたように――私が切望した通りに――優れた原話の圧縮と原話にない配慮が成されてあることに気づかれるであろう。なお、美花の如何にもな表現や、何よりも作中に出る奇体な――百軒の違う酒屋で買つた酒云々――という老学者の如何にも道教の道士が示しそうなそれ――でお判りになる通り、この原話自体が本邦のものではなく、元末の一三六六年に書かれた陶宗儀の随筆「輟耕録」巻十一にある幻想譚「鬼室」を翻案したものなのである(白文原文をリンク先で示してある)。]

 

 

   衝立の乙女

 

 古い日本の作者、白梅園鷺水は云ふ、――

 『支那と日本の書物に――古代現代兩方の――澤山の話がある、それは繪が餘りに綺麗なので、見る人に神祕的な力を及ぼす話である。そしてこんな綺麗な繪に關して、――名高い畫家の描いた花鳥の繪でも、人物の繪でも、――さらに云はれて居る事は、そこに描かれた動物や人物は、その紙や絹から離れて色々の事をする、――それでその繪は、その繪の意志で、實際生きて出ると云ふのである。昔から誰にでも知られて居るこの種類の話を、今ここにくりかへす事はしない。しかし現代に於ても、菱川吉兵衞師宣の描いた繪――「菱川の繪姿」――の評判はこの國では博く知られて居る』

 彼はそれから進んでその所謂繪姿の一つに關するつぎの話を述べる、――

 

 京都に篤敬[やぶちゃん注:「とくけい」。但し、原文は“Tokkei”で「とっけい」である。しかし、原拠は「とくけい」であるのでそれで示した。]と云ふ名の若い學生がゐた。彼は室町と云ふ町に住みなれてゐた。或夕方、人を訪れて侵る途中、古道具屋の店先に賣物に出でゐた古い衝立に目が目にとまつた。それはただ紙の衝立てあつたが、その上に描いてあつた若い女の全身像が、若い人の心を捉へたのであつた。賣價は安かつた、篤敬は衝立を買つて、家へもつて歸つた。

 自分獨りの淋しい部屋に置いて、その衝立を眺めて居ると、その繪よりも一層綺麗に見えるやうであつた。たしかにそれは本當の似顏、――十六七歲の少女の肖像であつた、繪の中の髮、眼、睫(まつげ)、口のどの小さい點までも、賞讃に餘る程丁寧に眞に迫るやうに描いてあつた。まなじりは『愛を求むる芙蓉の花のやう』であつた、唇は『丹花の微笑のやう』であつた、若い顏全體は何とも云へない程美はしかつた。そこに描いてある元の少女がそれ程に美しかつたら、見る程の人は何人も心を奪はれたであらう。そして篤敬は彼女はこのやうに美しかつたに相違ないと信じた、――卽ち、その姿は、話しかける人だれにでも、今にも返答する用意をして居るやうに、――生きて居るやうに見えたのであつた。

[やぶちゃん注:「自分獨りの淋しい部屋に置いて、その衝立を眺めて居ると、その繪よりも一層綺麗に見えるやうであつた。」訳が半可通である。原文は“When he looked again at the screen, in the solitude of his own room, the picture seemed to him much more beautiful than before.”だから、「先ほど(店先に売られてあった時)よりも」の謂いである。

「口のどの」原文は最後がただ“mouth”であるから、「口」「の」で切れて、「どの」と前掲総てを指している。欲を言えば、「口の」の後に読点が欲しい。

「丹花」は「たんくわ(たんか)」。美しい赤い紅色の花の意の一般名詞。]

 

 繪を眺めて居ると、次第に彼はその魅力によつて魅せられるのを覺えた。『實際この世の中にこん美しい人が居るのだらうか』彼は獨りでつぶやいた、(暫らくの間でも)(日本の作者は「露の間」と云つて居る)自分の腕でこの女を抱く事ができたら、喜んで自分の生命――いや、千年の生命――をも捧げたいのだが』結局、彼はその繪を戀するやうになつた、――卽ちその繪が表はして居る人でなければ、どの女をも決して愛する事はできないと感ずる程にその繪を戀した。しかしその人は未だ生きて居るとしても、もはやその繪には似てゐないだらう、恐らく彼女は彼が生れるずつと以前に葬られたかも知れない。

 

 しかし、每日この望みのない熱情が彼に生長して來た。飮食も睡眠もできなくなつた、これまで興味をもつてゐた學問硏究にも心を向ける事ができなかつた。彼は、何時間でも繪の前に坐つて、――外の事は一切なげやつて、或は忘れて、――その繪に話しかけてゐた。そしてたうとう病氣になつた――自分でも死ぬだらうと思ふ程の病氣になつた。

 

 さて篤敬の友人の間に、古い繪や若い人の心について多くの不思議な事を知つて居る一人の尊敬すべき老人の學者がゐた。この老人の學者が、篤敬の病氣を聞いて、彼を訪問した、そして衝立を見て、その事の起りをさとつた。それから篤敬は問はれるままに、一切の事を白狀して、そして公言した、――『こんな女を見つけられなかつたら、私は死にます』

 老人は云つた、

 『その繪は菱川吉兵衞が描いた物だ、――寫生だ。その描かれた人物はもうこの世にゐない。しかし菱川吉兵衞はその女の姿ばかりでなく、心も描いた、それからその女の魂が繪の中に生きて居ると云はれる。それで君はその女を自分の物にする事ができると、私は思ふ』

 篤敬は床から半分起き上つて、相手の顏を見つめた。

 『君はその女に名をつけねばならない』老人は續けた、――『そして每口その繪の前に坐つて、一心不亂にその女の事を思うて、君がつけた名で靜かにその女を呼ぶのだ、返事をするまで……』

 『返事をする!』息をしないで驚いて、この愛人は叫んだ。

 『さうとも』助言者は答へた、『女は必ず返事します。しかし君は、女が返事したら、私がこれから云ふ物を贈るやうに用意してゐなければならない。……』[やぶちゃん注:「します」はママ。強い確信と相手の安堵を齎すために田部ここだけこうしたのだろうが、やはりこの部分的敬体は違和感が強過ぎる。「する」とすべきである。]

 『私は女に生命(いのち)をやります』篤敬は叫んだ。

 『いや』老人は云つた、――『君は百軒の違つた酒店で買つた酒を一杯女にさし出さねばならない。さうすると、女はその酒を受けるために衝立から步いて出ます。それから先きは、どうすればよいか、多分女は自分で君に云つてくれるだらう』

 さう云つて老人は去つた。その助言は篤敬を絕望から救つた。直ちに彼は繪の前に坐つて、女の名を呼んで――(どんな名だか、日本の作者がそれを告げる事を忘れて居る)――甚だやさしく、度々くりかへした。その日は返事はなかつた、その翌日も、又その翌々日も。しかし篤敬は信仰も忍耐も失はなかつた、それから幾日も經たあとで、或夕方突然、それが、その名に答へた、

 『はい』

 それから早く、早く、百軒の違つた酒店から買つた酒を少し、小さい杯に注いで、恭しく彼女に捧げた。そこで女は衝立から出て、部屋の疊の上を步いて、篤敬の手から杯を取るために跪いて、――やさしい微笑と共に問うた、

 『どうして、そんなに私を愛して下さるの』

 日本の作者は云ふ、『彼女は繪より遙かにもつと綺麗であつた、――爪のさきまでも綺麗、――心も氣分も又綺麗、――この世の誰よりも綺麗であつた』篤敬は彼女の問に對して何と返事したか書いてない、それは想像に任せるのである。

 『しかし、あなたは私をぢきにお倦きになるのぢやありませんか』彼女は問うた。

 『生きて居る間は決して』彼は抗言した。

 『それからあとは――』彼女は主張した、――卽ち日本の花嫁はただ一生の間の愛だけでは滿足しないから。

 『お互に誓ひませう』彼は懇願した、『七生の間變らないやうに』

 『あなたが何か不親切な事をなさると』彼女は云つた、『私衝立に歸ります』

 

 彼等はお互に誓つた。私は篤敬は忠實な人であつたと思ふ、――花嫁は衝立へ歸らなかつたからである。衝立の上に彼女のゐた場所は空地になつたままであつた。

 

 日本の作者は叫ぶ、

 『この世にこんな事の起るのは、なんと稀有な事であらう』

 

2019/10/25

小泉八雲 普賢菩薩の話  (田部隆次訳)

 

[やぶちゃん注:本篇(原題“A Legend of Fugen-Bosatsu ”(「普賢菩薩の伝説」)は一九〇〇(明治三三)年七月にボストンの「リトル・ブラウン社」(LITTLE,BROWN AND COMPANY)から出版された作品集“SHADOWINGS”(名詞「shadowing」には「影」以外には「人影」・「影法師」・「影を附けること」・「尾行」などの意味がある。本作品集の訳は概ね「影」が多いが、平井呈一氏は「明暗」と訳しておられ、私も漠然とした「影」よりも、作品群の持つ感性上の印象としてのグラデーションから「明暗」の方が相応しいと思う。来日後の第七作品集)の第一パート“STORIES FROM STRANGE BOOKS”第二話に配された作品である。本作品集は“Internet Archive”のこちら(出版社及びクレジットの入った扉表紙を示した)で全篇視認できる(本篇はここから)。活字化されたものは“Project Gutenberg”のこちらで全篇が読める(本篇はここから)。

 底本は英文サイト“Internet Archive”のこちらにある、第一書房が昭和一一(一九三六)年十一月に刊行した「家庭版小泉八雲全集」(全十二巻)の第七巻の画像データをPDFで落として視認した。

 田部隆次(たなべりゅうじ 明治八(一八七五)年~昭和三二(一九五七)年)氏については先に電子化した「人形の墓」の私の冒頭注を参照されたい。

 原註は末尾にポイント落ち字下げであるが、当該段落末に移し、同ポイント行頭からで示した。

 最後に原拠となった「十訓抄」を掲げた。]

 

 

   普賢菩薩の物語

 

 昔、播磨の國に、性空上人[やぶちゃん注:「しやうくうしやうにん」。]と云ふ甚だ信心深い博學な僧が住んでゐた。長い間彼は妙法蓮華經の普賢菩薩の章について每日默想した、そして現身[やぶちゃん注:「げんしん」。]の普賢菩薩を、又聖い[やぶちゃん注:「きよい」。]經文原註に述べてある姿そのままを、拜する事のいつか得られるやうに、每朝每晚いつも祈つてゐた。

原註 この僧の願は多分「妙法蓮華經」の「普賢菩薩勸發品」と云ふ章にある約束によつて起されたのであらう。『その時に、普賢菩薩、佛に白して言さく[やぶちゃん注:「まうしていひさく」。仰せられて言われたことには。]「もしこの人この經を讀誦せば、我その時に六牙の白象王に乘つて、大菩薩衆と共に、その所に到つて、自ら身を現じて、供養し守護してその心を安慰せん、また法華經を供養せんがための故なり、この人もし坐してこの經を思惟せば、その時に我また白象に乘つてその人の前に現ぜん、その人もし法華經に於て一句一偈をも忘失する所あらば、我まさにこれを敎つて[やぶちゃん注:ママ。「へて」の誤植か。]ともに讀誦しかへつて通利せしむべし」……」しかしこの約束に「後の五百歲濁惡世の中に於て」の事である。

[やぶちゃん注:原註の引くそれは「法華経」の下巻の本篇部の掉尾「普賢菩薩勧発品(ふげんぼさつかんぼつほん)第二十八」の一節。

「普賢菩薩」はサンスクリット語ラテン文字転写で「samantabhadra」(サマンタバドラ)。大乗仏教に於ける菩薩の一尊であるが、本邦では文殊菩薩とともに釈迦如来の脇侍として祀られることが多く、「法(カルマ)」の守護者とされる。ウィキの「普賢菩薩」によれば、『梵名のサマンタバドラとは「普く賢い者」の意味であり、彼の世界にあまねく現れ仏の慈悲と理智を顕して人々を救う賢者である事を意味する。また、女人成仏を説く法華経に登場することから、特に女性の信仰を集めた。密教では菩提心(真理を究めて悟りを求めようという心)の象徴とされ、同じ性格を持つ金剛薩埵と同一視される。そのため普賢菩薩はしばしば金剛薩埵の別名でもある金剛手菩薩』『と呼ばれる。「遍吉(へんきち)」という異名があり、滅罪の利益がある』。『独尊としては、蓮華座を乗せた六牙』(ろくげ)の白象(びゃくぞう)に『結跏趺坐して合掌する姿で描かれるのが、最も一般的である。密教では、左手に宝剣を立てた蓮茎を持る姿や、金剛薩埵と全く同じ左手に五鈷鈴、右手に五鈷杵を執る姿で表される他、如意や蓮華、経典を手に持つ作例も見られる』。『日本では平安中期以降、女性の救済を説く』「法華経」『の普及によって、主に貴婦人たちからの信仰を集めた。日本では絵画・彫像とも作例が多く、彫像の作例としては、大倉集古館の平安時代後期の木像(国宝)などがある。より密教的な姿として「普賢延命菩薩」という尊格があり』、二十二『手を持つ強力な尊とされ、日本でも作例は少なくない』。『普賢菩薩の眷属は十羅刹女とされ、また時として十羅刹女たちの母鬼子母神も眷属とされる。初期の十羅刹女は唐装束であるが、国風の影響を受けた和装の羅刹女の作例も多い。これは、法華経において普賢菩薩と十羅刹女が共に「法華経を護持する者を守る」と誓っていることによるが、これらの女神がそばにいることも、 女性からの信仰を厚くする一因となった』とある。

「性空上人」性空(しょうくう 延喜一〇(九一〇)年~寛弘四(一〇〇七)年)は平安中期の天台僧。父は従四位下の橘善根(たちんばなのよしもと)。俗名は橘善行。京都生まれ。「書写上人」の称がよく知られる。出家は遅く、三十六歳の時に慈恵大師(元三大師)良源に師事して剃髪し、霧島山や筑前国脊振山で修行した後、康保三(九六六)年に播磨国書写山に入山、国司藤原季孝の帰依を受けて書写山圓教寺(えんぎょうじ)を創建、花山法皇・源信(恵心僧都)・慶滋保胤らの参詣を受けている。天元三(九八〇)年には蔵賀上人とともに比叡山根本中堂の落慶法要に参列している。早くから山岳仏教を背景とする聖(ひじり)の系統に属する法華経持経者として知られ、存命中から多くの霊験があったことが伝えられている。播磨国弥勒寺で九十八歳で示寂(以上はウィキの「性空に拠った)。

「現身」現身仏(げんしんぶつ)のこと。仮に父母所生の肉身をとった人間に似た、この世に仮に現われた仏を指す。釈迦はその例。「応身仏(おうじぶつ)」とも呼ぶ。

「通利」よく物事に通じて利益を得ること。

「後の五百歲濁惡世」これは古来、議論のあるところで「正法(しょうぼう)千年・像法(ぞうぼう:「正法」に似て非なる状態の意。教えや修行が行なわれるのみで、悟りを得る者がいなくなること)千年・末法万年」説から言えば、末法の初めの五百年のように見えるが、万年の五百年ではあまり意味を感じさせないからか、これを像法の前半半分とする説が強かったようである。しかし、「後の」が「正法」ではなく、この全体に掛かるものと採るならば、末法の「後の」一万二千年の後の五百年となる。ただ、「濁惡世」は「じよくあくせ」で五濁悪世(ごじょくあくせ)のことで、通常はこれは「五つの汚(けが)れに満ちた悪い世」の意で末法を指すから、やはり末法の初めということか。よく分らぬ。なお、「五濁」は「劫濁(こうじょく:時代の汚れ。以下の四濁の起こる時の穢(けが)れ)・煩悩濁(ぼんのうじょく(:貪りや怒りなど人の浅ましさが蔓延る穢れ)・衆生濁(しゅじょうじょく:心身が弱くなり、苦しみ多く、人性の資質が低下する穢れ)・見濁(けんじょく:誤った悪い思想・考えのみが満ちる穢れ)・命濁(みょうじょく:寿命が短くなる穢れ。最後には人の寿命は十年になるという)を指す。]

 或晚讀經の間に眠氣を催ふした、曲彔(きよくろく)にもたれながら眠つた。そして夢を見た、そして夢のうちに聲があつて、普賢菩薩を見るためには、神崎[やぶちゃん注:「かんざき」。]の町に住む『遊女の長者』として知られた或遊女の家に行くべき事を彼に告げた。さめると直ちに、彼は神崎へ行く決心をした、――そしてできるだけ急いで、彼は翌日の夕方、町に着いた。

[やぶちゃん注:「曲彔」「曲椂」とも書く。法会の際などに僧が用いる椅子。背もたれ部分を半円形に曲げ、脚をX字形に交差させたものが多い。原本では“kyōsoku”とあり、原注でも僧が読経看経(かんきん)の際に経机にする脇息の説明がなされている。凭れていることから、田部氏は現行のそれをイメージされるとまずいと考え、確信犯で意訳されたのであろうが、ここは大仰な「曲彔」よりも脇息の方がよい。実はそもそもが後に示す通り、原拠でも脇息(「けうそく」。歴史的仮名遣は「けふそく」が正しい)なのである。

「神崎」古くより知られた遊女のいた場所。河川交通の要所にいて、身を売って生業(なりわい)としていた。特にこの神崎と、その近くの、西行の逸話で知られる現在の神崎川の淀川からの分岐に当たる江口の遊女が有名である。現在の兵庫県尼崎市神崎町(グーグル・マップ・データ。「遊女塚」にポイントした。以下同じ)。性空が本拠地とした書写山はここであるから、直線でも七十五キロメートルはある。一日で着ける距離ではない。或いは夢を見たのは行脚の途次で、ここに近いところでのことであったという設定なのかも知れない。

「遊女の長者」一種の源氏名或いは世間の通称か。所謂、江戸時代の遊廓の花魁や太夫各を「長者」と呼んでいるようには感じられる。]

 彼が遊女の家に入ると、そこにはすでに大勢の人の集まつて居るのを見た――大槪はこの女の美しいと云ふ評判を聞いて、神崎へ引きよせられた人達であつた。彼等は宴會をしてゐた、そして遊女は小さい鼓を打つてゐたが、彼女にそれを甚だ巧みに使つて、歌を歌つてゐた、その言葉はかうであつた、――

[やぶちゃん注:訳に省略があり、よろしくない。最後の部分は原本では“The song which she sang was an old Japanese song about a famous shrine in the town of Murozumi; and the words were these:—”で、「彼女の歌っているその歌は室積(むろづみ)の町にある有名な神社についての古い日本の歌で、その歌詞はこうである。」である。「室積」は山口県光市室積で、ここで古い神社となると、室積の氏神である早長八幡宮(はやおさはちまんぐう)だが、それでも室町時代の文安元(一四四四)年の勧請であるから違う。これは神社に拘るのが誤りかと思い、調べたところ、「港別みなと文化アーカイブス―室積漁港」の宮本雅明氏の『室積(光漁港)の「みなと文化」(PDF)の「第1章 室積港の整備と利用の沿革」の「1.古代・中世の室積港」によれば、『周防五浦の一つ室積は穏やかな室積湾(御手洗湾)に面し、砂嘴をなす象鼻ヶ岬によって周防灘からの風を遮られた天然の良港で、古来、瀬戸内海航路の要衝を占める港町として繁栄した。室積の名が見えるのは、12 世紀半ば成立の『本朝無題詩』に「於室積泊即事」とあるのが最初で、港の南側を限る峨媚山一帯の風光明媚な景色とともに、平安時代から詩歌にも歌われてきた。以来、「海の菩薩」として広く信仰を集めてきた普賢寺への参詣客や、内陸や大陸との交易に従事する商人・海賊の寄港地として大いに賑わってきた』。『古代から中世にかけて、町の発展の礎となったのは寺社であった。寛弘 3 年(1006)開創とされる普賢寺は、漂着した普賢菩薩の像を本尊とし、創建後ほどなく峨媚山麓に伽藍を構え、漁民や航海者の信仰を広く集めた。室積はこの普賢寺の門前町としての性格を併せもっていた』。『後に町並みのもう一つの核をなした早長八幡宮も、文安元年(1444)宇佐八幡宮から勧請の際、普賢寺の近くに奉られた。宮ノ脇の御旅所がその故地ともいう。中世から近世初頭にかけての室積の町並みは、普賢寺一帯を中心として展開したと推定される。この普賢寺領は、近世に入っても安堵されたが、室積は大半が萩藩の蔵人地となった』とあった。しかし、この普賢寺(神仏習合期であるから、神社があったとしておかしくはない)の開創も性空示寂の前年である。ところが、同前資料の『第2章 「みなと文化」の要素別概要』の「(2)信仰」の「普賢寺」の項には、『普賢寺は漂着した普賢菩薩の像を祀った播州書写山の性空上人によって寛弘 3 (1006)年に創建されたと伝えられる。当初は大多和羅山にあったが、暫くして峨嵋山麓の現在地に移され、「海の菩薩」として漁民や航海者の信仰を広く集めた。藩政期には毛利氏の祈願所として、寺領九石五斗、切米五石を給され、藩直営の御手普請寺として遇され』現在は『臨済宗建仁寺派に属す』とあるから、神仏習合期でもあり、この普賢寺のもとの位置にあったであろうかも知れぬ神社(私は地形から見て高い確率で漂着神或いは御崎神ではなかろうかと推理する)のことを指すとまずは考えて誤りがあるとは言えまい。「山口県」公式サイト内の「山口の文化財」の「普賢寺庭園」のページの解説「室積と普賢寺について」にも、『室積半島は、もと島であった峨嵋山が砂州の発達によって陸繋化して形成された。峨嵋山の先に伸びた砂嘴(象鼻ケ岬)に囲まれた半島の内側が御手洗湾で、天然の良港、室積港となり、古代・中世から瀬戸内海の交通の要所としての役割を果たしてきた』。『峨嵋山の麓に普賢寺があり、室積港に臨んでいる。寛弘3年(1006)、播磨国の書写山円教寺(兵庫県姫路市)の性空上人』『の開基という。境内普賢堂の本尊普賢菩薩には、性空が室積の海から引き揚げたという伝承がある。近畿・九州に分布がまたがる性空伝承の一事例である』。『この普賢菩薩像は、はじめ大多和羅山(今の峨嵋山とも、大峰山ともいう)に一宇を営んで安置されたが、「薩州沙門禅宗大林玄宥」』長久二(一〇四一)入寂)『が、現在地へ移転したと伝える(『防長風土注進案』)。現境内の形成時期はよくわかっていないが』、諸古文書資料から、『普賢寺が室町時代に室積の地に存在していたことは確かである』。『山号の峨嵋山は、普賢菩薩出現の地という唐土の峨嵋山になぞらえたもので』、『四川省峨嵋山は中国仏教聖地のひとつであり、名勝の地としても知られる』。『藩政時代には、毛利家の祈願所として寺領9石5斗、切米5石を与えられ、藩直営の普請寺として寺格が高かった』。『なお、普賢堂は、その周囲を堀割で囲まれ、潮の干満によって海水が出入りする。普賢堂の楼門、参道は海に向かって東面しており、堀割造成の排土をつかって築造された「普賢波止」で、海上からの参拝者を迎える。性空入寂にちなむ毎年5月の普賢祭には、盛大な農具市や露天市がたつが、近世には「普賢市」として知られており、今も多くの人手で賑わう。いずれも海上安全の信仰の場としての当寺の性格を示すものである』とある。さらに、尾崎家連氏の「山口の伝説 お宮やお寺にまつわる話シリーズ」の「ふげんさま」を読むと、伝説上では、この現在の普賢寺のある御手洗湾周辺のロケーションで間違いないのである。なお、現在、この半島の御手洗湾にカーブして南から突き出る象鼻ヶ岬には性空上人と、この遊女に関わる歌碑が建つという。]

 

    周防むろづみの中なるみたら井に

    風は吠かねど

    さ〻ら波立つ

[やぶちゃん注:「みたら井」この唄の原文は、

 Within the sacred water-tank of Murozumi in Suwō,

 Even though no wind be blowing,

 The surface of the water is always  rippling.

で、小泉八雲はこの“the sacred water-tank”(「神聖なる水槽(みずおけ)」)に注して、

  Mitarai.  Mitarai (or mitarashi) is the name especially given to the water-tanks, or water-fonts—of stone or bronze—placed before Shintō shrines in order that the worshipper may purify his lips and hands before making prayer. Buddhist tanks are not so named.

訳してみると、

 みたらい。 みたらい(みたらし)は、神社の前に置かれた水を溜める装置、又は石や青銅でできた聖水盤に特に与えられた名で、これは参拝者がお参りをする前に唇と手をその水で清めるためのものである。仏寺のそれはそうは呼ばれていない。

ここで小泉八雲が言うのは「御手洗」(神社)と「手水鉢(ちょうずばち)」(寺)との区別であろうか。但し、「手水鉢(ちょうずばち)」は神社のものをも指す。しかし、原文に則すなら「みたらい」であり、歴史的仮名遣に拘るなら「御手洗」であるから、「みたらひ」で、孰れにしても田部の表記「みたら井」(みたらゐ)というのは私は全く以っていただけないのである。

 

 その聲の美しいので、驚いて喜ばない者はなかつた。離れて席を取つてゐた僧がそれを聽いて感心して居ると、女は突然彼女の眼を彼の方へ向けて彼を見まもつた。同時に彼は彼女の姿が六牙の白象[やぶちゃん注:「びやくざう」。]に乘つた普賢菩薩の姿に變つて、眉間から光明を放つて宇宙のはてまでも貫くやうに思はれた。そしてやはり彼女は歌つた――しかしその歌は今變つてゐた、そしてその文句は僧の耳にはこんな風に響いた、

 

    實相無漏の大海に

    五塵六欲の風は吹かねど

    隨緣眞如の浪の立たぬ時なし

[やぶちゃん注:「實相無漏」万物の真実の姿は、迷いを離れた清浄の境界(きょうがい)にあるということ。また、その境界。宇宙万物の真の実在は一切の煩悩・穢れを離れて清浄であることを示す。

「五塵六欲」五塵(色(しき)・声(しょう)・香・味・触(そく)の「五境」のこと。塵(ちり)のように人の心を汚すことからいう)と、色欲(見かけ上の色や形をもつものに執着すること及び性欲に執着すること)・形貌(ぎょうみょう)欲(見かけ上の美しい容姿や物の格好・形に執着すること)・威儀姿態欲(過度に礼則に拘ってそれを他人に強要することに執着すること)・言語音声(げんごおんじょう)欲(美辞麗句を好んで耳触りのいい言葉にばかり執着すること)・細滑欲(人の些細な失敗を喜んだり、些細な事物に執着すること)・人想欲(恋慕に執着すること)の、貪欲のもととなる六欲のこと。

「隨緣眞如」本来は絶対不変である真如(不変真如)が、対象との縁に応じて、種々の現われ方をすること。]

 

 聖い光明のために眩まされて、僧は眼を閉ぢてゐた、しかし目蓋を通して彼はやはり明らかに菩薩の姿を見る事ができた。再び彼が眼を開くと、その姿が見えなかつた、彼はただ鼓をもつた少女を見て、むろづみの水に關する歌を聞くだけであつた。しかし彼が眼を閉ぢる每に六牙[やぶちゃん注:「ろくげ」。]の象に乘つた普賢菩薩を見て、實相無漏の大海の神祕な歌を聞く事ができた。そこに居る外の人々は、遊女を見るだけであつた、彼等はその幻は見なかつた。

 それから歌ひ妓[やぶちゃん注:「うたひめ」。]は突然その宴席から消えた、――誰もいつ、どうしてか知らなかつた。その時から酒宴は止んだ、そして哀愁が歡樂に代つた。その少女をさがして待つたが無駄であつたので、人々は悲しんで解散した。最後に、僧はその夜の情緖に惑亂されて歸途についた。しかし彼が一步門を出ると、遊女が彼の前に現れて云つた、――『今夜御覽になつた事は、未だ誰にも口外してはなりません』これだけ云つてから、彼女は消え去つた、――芳しい香が空中に殘つた。

          *

       *

          *

 以上の物語を書いた僧は、それにつぎのやうな註釋を加へて居る。――遊女の境遇は男の慾を滿足させるやうな賤しい哀れな物である。それだから、どうしてこんな女が菩薩の化身と思ふ事ができよう。しかし私共は佛菩薩はこの世に於て無數の違つた形となつて現れる事を忘れてはならない、人を正しい道へ導いて迷の危險から救ふためには、如何に下等な賤しむべき形をもその聖い慈悲の目的のために選ぶ事を忘れてはならない。

[やぶちゃん注:「以上の物語を書いた僧」以下に示す原拠「十訓抄」(じっきんしょう)は鎌倉中期に成立した説話集で、全三巻。建長四(一二五二)年の序文がある。約二百八十の説話を「心操振舞を定むべき事」以下、十条の教訓の下(もと)に分類配列し、説話ごとに著者の見解を加えてある。儒教的立場が表に立つが、王朝文化を憧憬する個条や、反対に極めて実際的な乱世の処世術などを説く個条も目立つ。所収の説話は先行する「今昔物語集」・「江談抄」・「袋草紙」以下の平安期の文献によるものが多い(以上は「ブリタニカ国際大百科事典」に拠った)。作者は、写本の一つである「妙覚寺本」奥書によって六波羅二﨟(ろくはらにろう)左衛門入道とするのが通説で、この名は幕府御家人湯浅宗業(ゆあさむねなり 建久六 (一一九五)年~)紀伊国保田荘(現在の和歌山県有田市)を本拠とし、保田次郎左衛門尉と呼ばれ、在京して六波羅探題に仕えた。弘長二(一二六二)年に出家し、明恵に帰依して智眼と号した。荘内に星尾寺を草創し、その開基の経緯をしるした「智眼置文」が高山寺に残っている)の通称ともされるが、一方で、公卿・儒学者であった菅原為長(保元三(一一五八)年~寛元四(一二四六)年:父は大学頭菅原長守。その家は菅原氏より出、是綱を家祖とする高辻家。一時は九条家に仕えた。兵部少輔・式部少輔・大内記などを経て元久元(一二〇四)年、文章博士(もんじょうはかせ)となった。同年、土御門天皇の侍読となり、以後、五代の天皇の侍読を勤め、建暦元(一二一一)年、従三位に叙し、公卿に列した。菅原氏が公卿となったのは、まさに道真以来のことであった。備後権守・大蔵卿を経て、承久三(一二二一)年には正三位・式部大輔となった。この頃、北条政子の求めに応じて「貞観政要」を和訳して献じている。後鳥羽・順徳院に近侍した為長が「承久の乱」後に咎めを受けなかったのは、こうした幕府の求めに応じる才覚を備えていたからと思われる。また、九条道家の政権が成立すると、平経高・吉田為経らとともに長きに亙ってこれを補佐した。官は参議、位は正二位にまで昇り、「国之元老」として重んじられた(ここは「朝日日本歴史人物事典」に拠る))とする説もある。但し、菅原為長だとすると、彼は「僧」ではない。

 小泉八雲が原拠としたのは、同書の巻上の「第三不ㇾ可ㇾ侮人倫叓」(第三 人倫を侮(あなど)るべからざる叓(こと))の前三分の二の部分である(最後の部分は性空についての別エピソードである。但し、やはり普賢菩薩に絡みはある)。以下、富山大学「ヘルン文庫」の小泉八雲旧蔵本を視認して(ここからダウン・ロード出来る)示す。読みは(朱で振られてあり、後人のものである)振れると判断したもののみとした。句読点や記号(濁点を含む。但し、唄は清音のままで示した)を附し、段落も成形した。歴史的仮名遣の誤りはママである。踊り字「〱」は正字化した。小泉八雲がカットした最後のパートも電子化した。そこ出る右手の小さな添書(黒字であるから、原本割注)は【 】で示した。

   *

 書寫の性空上人、生身(しやふしん)の普賢をのみ見たてまつらむと、寢(いね)てもさめても祈請(きせひ)し給ひけるに、或夜、轉讀につかれて、經を拳(にぎり)ながら、けうそくにかゝりて、しばし、まどろみたまへる夢に、生身(せふしん)の普賢を見奉らむとおもはゞ、

「神﨑(かんざき)遊女の長者をみるべき。」

よし、しめすとみて、夢、さめぬ。

 奇異の思(おもひ)をなして、かしこへ行(ゆき)、とひて、長者が家におはしつきたれば、只今、京より上日(のぼるひ)の[やぶちゃん注:日の昇るような「勢い」の形容であろう。]輩(ともがら)、下(くだり)て、遊宴・亂舞の程なり。

 長者、よこしき[やぶちゃん注:横隣りの控えの座敷であろう。]に居て、鼓をうち、亂拍子の次第をとる。其詞に云、

  周防むろつみの中なみゝぬに風はふかねとさゝら波立

上人、閑所(かんじよ)に居て、掌(たなごゝろ)を合(あはせ)て、信仰恭敬(しんこふくけふ)して、目をふさぎて居たまへり。

 此時、長者、忽(たちまち)に普賢菩薩の形に現(げん)じて、六牙(ろくげ)の白象(びやくぞう)にのりて眉間(みけん)より光を放(はなち)て、道俗男女(どふぞくなんいよ)をてらす。

 則、みめう音聲(おんじやう)を出して、[やぶちゃん注:以下は改行や字下げがないが、前に合わせた。]

  實相無漏の大海に五塵六欲の風はふかねとも隨緣眞如の波たゝぬ時なし

と仰らる。

 感淚をさへがたくて、眼(まなこ)を開(ひらい)てみれば、又、もとのごとく、女人のすがたとなりて、周防むろすみの詞を出す。

 眼をとづる時は、又、菩薩の形を現げん)じて、法文(ほふもん)のべたまふ。

 かくのごとく、度々、敬礼をなして、泣々[やぶちゃん注:ここの一字目には朱で「くらひ」と振るが、「位」と誤読した甚だ一昨日来たようなトンデモ読みである。]、かへりたまふとき、長者、俄に座をたちて、閑道(かんどふ)より、上人のもとへ來て、

「口外に及からず。」

と、いひて、則、死(し)しぬ。

 異香、空にみちて、はなはだ、かうばし。

 長者、頓滅(とんめつ)の間、遊宴、興さめて、悲淚におぼれて、歸路に、まどひたまひけりとなん。

 長者女人(によにん)、好色のたぐひなれば、誰(など)かは、これを、權者(ごんしや)の化儀(くわぎ)と、しらむ。

 形を、まちまちに、わかちて、生(しやう)を利する、これ、佛菩薩の化導(けどふ)なり。

 されば、いやしきには、よらぬ事なり。かやうのためにして心得つべし。

[やぶちゃん注:以下が小泉八雲がカットした別話である。]

 此上人は、無智の人なり。法文、いひきかせんとて、惠心僧都【大和國葛木郡人】・檀那僧都おはして、

「住果(ぢふくわ)の緣覺(ゑんがく)は佛所へいたる歟。」

と、とはれければ、

「いたりも、いたらずも、いかでも候なん。無益(むやく)なり。」

と、いはれければ、

「法文をさたしてこそ、惠眼(ゑがん)をば、ひらく事にて侍れ。かやうの中には候はじ、とて、まいりはべるなり。」

といひければ、上人、

「かやうの法文は、普賢のおはしまして解脫したまふなり。」

とこたふ時に、惠心、歸敬(きけふ)のおもひにたへず、礼拜(らいはい)したまふ。

 檀那、

「此聖、ほめ申させたまふ。」

と申されければ、

   身色如金山 端嚴甚微妙

   如淨瑠璃中 内現眞金像

[やぶちゃん注:読みに従うと、

 身色(しんしき)如(によ)金山(きんざん)

 端嚴(たんごん)甚(じん)微妙(みめふ)

 如(によ)淨瑠璃(ぜふるり)中(ちふ)

 内現(ないげん)眞金像(しんきんざふ)

であるが、所持する一九四二年岩波文庫刊の永積安明校訂「十訓抄」に従って訓読すると(一部でに〔 〕で送り仮名を補った。三・四句目で跨って返読しているため、文章式で示した)、

 身色、金山のごとく、端嚴、甚だ微妙なり。淨瑠璃中〔の〕内に眞金像を現ずるがごとし。

となる。]

といふ伽陀を頌(じゆ)しておがまれけるとぞ。

   *

 原話と小泉八雲の本篇の違いは、性空が「遊女の長者」に普賢菩薩を見る(感得する)シークエンスで、原話では、少し離れた静かなところにいる性空が、彼女の乱拍子の舞いをするのを目をつぶって見ない中で出現するという特殊感覚で処理しているのに対し、八雲は、彼女が歌を歌っていると、ふと気づけば、彼女が性空を凝っと見つめていることに気づいた、その瞬間に出現するという、非常にビジュアルな印象的処理を施している点であり、また、「遊女の長者」が原話では「死(し)しぬ」とショッキングに出るのに対して、小泉八雲は、そのコーダで、彼女を幻しのように消して、如何にも美しい点である。これは孰れも、原話よりも優れた演出であると言える。以下、小泉八雲のカットした部分の注を附しておく。

・「惠心僧都」「往生要集」の著者で本邦の浄土教の祖とされる天台僧源信(天慶五(九四二)年~寛仁元(一〇一七)年)。

・「檀那僧都」覚連(天暦七(九五三)年~寛弘四(一〇〇七)年)。後述の竹村牧男氏の論文に拠った。

・「住果の緣覺」の「緣覺」は、仏の教えに依ることなく独力で十二因縁を悟り、しかもそれを他人に説かない修行者を指し、菩薩の下に位置する存在とされるもので、恐らくは以下、そうした「正しく縁覚にある者の存在は遂には真の仏の正法(しょうぼう)の境地に至ることが出来るか?」と問うたのであろう。いっしゅの公案、禅問答である。

・「伽陀」は「かだ」でサンスクリット語「gāthā」の漢音写。「偈(げ)」・「諷頌(ふじゅ)」とも漢訳する。ここは、法会などで唱えられる仏徳を賛嘆して教理を述べる韻文で、旋律をつけたものを指す。

 なお、竹村牧男氏の講演筆記「書写山の一遍上人」(PDF。東洋大学の学術雑誌『東洋学論叢』第三十八号・二〇一三年三月発行)に、この後の部分について、『源信らが教理の議論をしてこそ悟りの眼も開けてくるというのに対し、性空は普賢菩薩が問題を解決してくれるというのでしょう。普賢菩薩に出会えば、議論も何も要らないということだと思います。このような言葉は、実際に普賢菩薩に出会っていたからいえる言葉だという感じがします』とあり、ここのエピソードの意味が私にはやっと判然とした。また、『ちなみに、性空は晩年のことですが、源信を書写山に呼んで、自分の持っていた書物を供養させています。性空は源信に書物を供養させて、源信が帰っていく途中、亡くなるのでした』とあり、何かしみじみとしたものをも感じた。竹村氏の講演筆記は性空の伝記パートがあり、講演であるため、非常に判り易く、この普賢菩薩との邂逅談も無論、語られてある。是非、読まれたい。

2019/10/24

小泉八雲作品集「影」 始動 / 献辞及び「珍しい書物からの話」の「和解」 附・原拠

 

[やぶちゃん注:本篇(原題“The Reconciliation”は一九〇〇(明治三三)年七月にボストンの「リトル・ブラウン社」(LITTLE,BROWN AND COMPANY)から出版された作品集“SHADOWINGS”(名詞「shadowing」には「影」以外には「人影」・「影法師」・「影を附けること」・「尾行」などの意味がある。本作品集の訳は概ね「影」が多いが、平井呈一氏は「明暗」と訳しておられ、私も漠然とした「影」よりも、作品群の持つ感性上の印象としてのグラデーションから「明暗」の方が相応しいと思う。来日後の第七作品集)の第一パート“STORIES FROM STRANGE BOOKS”の最初に配された作品である。本作品集は“Internet Archive”のこちら(出版社及びクレジットと献辞の入ったページを示した)で全篇視認できる(本篇はここから。附言のついた標題ページを示した。なお、この添辞では“The original story is to be found in the curious volume entitled Konséki-Monogatari”「この原話は奇妙な(好奇心をそそる)「今昔(こんせき)物語」という名の大冊の物語に発見したものである。」となっている。無論、「こんじゃくものがたり」が正しい。原拠は後述する)。活字化されたものは“Project Gutenberg”のこちらで全篇が読める(本篇はここから)。

 底本は英文サイト“Internet Archive”のこちらにある、第一書房が昭和一一(一九三六)年十一月に刊行した「家庭版小泉八雲全集」(全十二巻)の第七巻の画像データをPDFで落として視認した。

 田部隆次(たなべりゅうじ 明治八(一八七五)年~昭和三二(一九五七)年)氏については先に電子化した「人形の墓」の私の冒頭注を参照されたい。

 本作品集の電子化では、一部の「!」の後に字空けがない場合、特異的に一字空けを施した箇所がある。これはここでのみ述べ、以下の諸篇では繰り返さない。

 なお、本篇はその原々拠を『「今昔物語集」卷第二十七 人妻死後會舊夫語 第二十四』(人の妻(め)死にて後(のち)、舊(もと)の夫(をうと)に會ふ語(こと) 第二十四)に拠っている。それは本篇公開に先立って、こちらで原文・語注及び私のオリジナル現代語訳附きで公開しておいたので、未読の方は、小泉八雲の本篇を読まれた後に読まれんことをお勧めするものであるが、さても、何故に「原々拠」と述べたかというと、小泉八雲が本篇を書くに際して参考にしたものが、当該作の非常に杜撰な簡略型再話版に拠るものだからである。一九九〇年講談社学術文庫刊の小泉八雲著・平川祐弘編「怪談・奇談」の布村(ぬのむら)弘氏の解説によれば、本篇の直接の参考原拠は江戸前期の神道家・国学者で考証随筆「広益俗説弁」で知られる井沢長秀(享保一五(一七三一)年~寛文八(一六六八)年)の考訂纂註になる「今昔物語」(但し、刊本は東京書肆明治三〇(一八九七)年刊の第二版と近代の出版物)の『上巻「怪異伝」の中の』「凶妻靈値鷹夫話」(これはトンデモなく致命的な誤植だらけで、本文には「亡妻靈値舊夫語」(亡妻の靈、舊夫に値(あ)ふ語(こと))とあるとする)とし、同書は『本話の題名に見られるように誤植が多い』と述べておられる。なお、「朝日日本歴史人物事典」の井沢の記載には、『肥後熊本藩士井沢勘兵衛の子』で、『山崎闇斎の門人に神道を学んだ』。宝永三(一七〇六)年の「本朝俗説弁」の出版以後、旺盛な著述活動に入り、「神道天瓊矛記(しんとうあめのぬほこのき)」などの神道書は、「菊池佐々軍記」などの軍記物、「武士訓」などの教訓書、「本朝俚諺」などの辞書、「肥後地志略」などの地誌と、幅広く活躍した。また、「今昔物語」を出版しており、これは校訂の杜撰さをしばしば非難されるが(調べて見ると、同時代から後代にかけて批判された具体的記載が見出せる)、それまで極めて狭い範囲でしか流布していなかった「今昔物語集」を江戸前期以降の読書界に提供した功績は決して小さくないともあった。当初、小泉八雲が実際に原拠としたそれを見ようと調べたが、残念ながら、小泉八雲旧蔵の現物を所有している富山大学の「ヘルン文庫」でも、国立国会図書館デジタルコレクションでもネットに公開されていないことが判った。そこで、「ヘルン文庫」版のそれに従って、新字体で活字化されてある、上記講談社学術文庫版の中のそれを、恣意的に漢字を概ね正字化して、本篇の末に掲げておいた。まず、先に掲げた私の『「今昔物語集」卷第二十七 人妻死後會舊夫語 第二十四』と比較して戴ければ、そのヒドさはお判り戴けるものと思う。いや! 正直言うと、それは読まないで、「今昔物語集」の原々拠を読むほうがよいとさえ私は思うぐらい下劣なシロモノである。

 さても以上のような状況なので、ここで言っておくが、小泉八雲は杜撰な圧縮版の再話原拠を想像で美事に復元したばかりでなく、原々拠になかった男と女の感情面での追慕や表白表現の機微を驚くべき正確さで、映像を見るように、優れた脚本家のように、生の声で再現することに成功している。私は全体の整序性と展開の無駄の無さ(しかも勘所をオリジナルに押さえてある)に於いて、その話柄の完成度と美しさは、「今昔物語集」の原話を凌駕していると言ってさえよいと感じるものである。また、小泉八雲が京に向かうに先立って後妻を実家へ戻す際に、後妻との間には「(子供はなかつた)」(原文“(she had given him no children)”)とわざわざオリジナルに割注を入れていることにも着目せねばならない。これは――小泉八雲自身が身に染みて感じているところの「男」としての、否、「人間」としての絶対の道徳であり、厳守されねばならない規範であり、何をさておいてその子の魂の平穏のために守られねばならないものであるから――に他ならないからある。

 

 

   

 

 

 捧 呈

  ミッチヱル・マックドーナルド主計監(米軍海軍)へ

 

   マックドナルド樣

   ここに私は「珍しい日本の話をもう

   少し」と云ふ御註文に應ずるやうに

   試みました。作者の親愛の又一つ

   の記念として、どうぞこの書物を受

   けて下さい。

      ラフカディオ・ヘルン

           (小泉八雲)

      日本、東京、 一九〇〇年一月一日

[やぶちゃん注:以上の献辞部分はブログ・ブラウザでの不具合を考え、一部の改行及び開始位置を再現していない。

「ミッチヱル・マックドーナルド主計監」原本原文の綴りは“MITCHELL McDONALD”(ここ)。ミッチェル・マクドナルド(一八五三年~大正一二(一九二三)年)はアメリカ海軍でハーンの親友。関田かおる氏の論文「小泉八雲のチェンバレン宛未発表書簡 ―翻刻および解説―」(PDFでダウン・ロード可能)の注によれば(そこでは彼の名前の綴りは「Mitchel Macdonald」となっている)、アメリカ合衆国海軍主計大佐として日本に駐在し(明治二一(一八八八)年から一八九一年、明治三〇(一八九七)年から一九〇〇年、明治三五(一九〇二)年から一九〇五年、明治四四(一九一一)年から大正三(一九一四)年の四期間)、『退職後は日本に永住を決意して』、大正九(一九二〇)年に『横浜「グランド・ホテル」の社長に』就任したが、大正十二年九月一日の「関東大震災」で『ホテルの建物と運命を共にし』、『歿している。彼は』、『八雲にチェンバレンを紹介して以来,八雲の生涯を通じて最大の友人にな』った。『八雲の生存中は勿論』、『彼の死後も八雲の家族に対して物心ともに援助』した。『八雲は彼の好意に謝して』、作品集『『知られぬ日本の面影』と『影』を献呈している。二冊も献呈されているのはマクドナルド』ただ『一人である』とあるとあった。また、サイト「熊本アイルランド協会」の小泉八雲熊本旧居館長宮崎啓子氏の「ハーン雑話」に、彼は『ハーンが来日した時、エリザベス・ビスランド』(小泉八雲の親友でアメリカの女性ジャーナリスト、新聞・雑誌の編集者でもあったエリザベス・ビスランド(ビズランド)・ウェットモア(Elizabeth Bisland Wetmore 一八六一年~一九二九年:詳しくは、私の『小泉八雲 落合貞三郎他訳 「知られぬ日本の面影」 第二十四章 魂について(全)』の挿入注(「昔、ここを平井呈一氏の訳で読んだ若き日の私は、……」で始まるもの)を参照されたい)『の紹介状をもって横浜海軍病院勤務のマクドナルドを訪問して以来の友人です。ハーンが帝国大学講師となって上京してからは,東京と横浜とをお互いに行き来し』、『信頼関係を深めていきました。マクドナルドは雨森』信成(あめのもりのぶしげ 安政五(一八五八)年~明治三六(一九〇六)年:『昭和一二(一九三七)年一月第一書房刊「家庭版 小泉八雲全集」(全十二巻)第八巻の大谷正信氏の「あとがき」』の私の注を参照されたい)『とも親しく、二人はハーン一家と一緒に海水浴に行き、皆で楽しく一日を過ごしたこともありました。ハーンは子供のように喜んで、得意の泳ぎを披露したそうです』。『ハーンの没後は、小泉家の遺産管理人として遺族を支えました。ハーンの帝大講義録も彼の尽力で出版が実現しました』。大正九(一九二〇)年に『横浜グランドホテルの社長に就任。生涯を独身で通したマクドナルドは、ハーンの長男・一雄を我が子のように可愛がりました』とある。]

 

 

   珍らしい書物からの話

        心の爐の中に、昔、彼は不思

        議な石の燃ゆるのを見た……

            ヱミール・ヴヱルハーレン

[やぶちゃん注:以上の添辞は原本では以下の通り、フランス語表記である。

   Il avait vu brûler d'étranges pierres,

   Jadis, dans les brasiers de la pensée . . .

                    ÉMILE VERHAEREN

「ヱミール・ヴヱルハーレン」はベルギーの詩人(文筆ではフランス語を用いた)エミール・ヴェルハーレン(一八五五年~一九一六年)。高踏派の影響を受け、故郷の素朴で美しい田園を写実的に歌った「フランドルの女たち」(Les Flamandes:一八八三年)、病による苦悩や絶望を歌った「黒い炬火」(Les Flambeaux noirs:一八九〇年)を発表、その後、社会に目を向け、「錯覚の村々」(Les Villages illusoires:一八九五年)や「触手ある都」(Les Villes tentaculaires:一八九五年)で自然を破壊する近代化に対する田園の悲哀を歌ったが、以後、人間の行動とエネルギーを賛美するようになり、「騒然たる力」(Les Forces tumultueuses:一九〇二年)、「至上律」(Les Rythmes souverains:一九一〇年)などを発表し、アメリカのホイットマンに比せられた(以上は「ブリタニカ国際大百科事典」に拠った)。以上の引用は“Celui de la fatigue”(「疲れたその人」か)の第四連の冒頭。フランス語サイト“Les Grands classiques”のこちらで原文詩篇全体が読める。]

 

 

   和 解

 

 昔、京都に、若い武士があつた、主家の沒落のために貧しくなつたので、遠國の守[やぶちゃん注:「かみ」。]になつて下る人に仕へる事になつた。都を去る時、この武士は妻を離別した、――善良にして綺麗な女であつた、――實は立身のために別の緣組をしようと思つたのであつた。それから或家柄の娘と結婚して、自分の任地へ連れて行つた。

 しかしこの武士が、愛情の價値を充分理解しないでそれ程無造作に捨て去つたのは、無分別な靑年時代で、苦しい貧乏を經驗して居る時であつた。彼の第二の結婚は幸福ではなかつた。彼の新しい妻は冷酷で我儘であつた、そして彼は京都時代の事を考へて名殘惜しさにたへなかつた。それから彼はやはり第一の妻を愛して居る事――第二の妻を愛する事のできる以上に彼女を愛して居る事を發見した、そして自分が如何に義理知らずで、又恩知らずであるかを感じて來た。彼の後悔は次第に悔恨となつて、彼に心の平和を與へなかつた。彼がつれなくした女の記憶――彼女の物靜かな言葉、彼女の微笑、彼女のやさしい美はしい振舞、彼女の非難の打ちどころない忍耐、――それがたえず彼を惱ました。時々彼は彼女があの困窮の時分に夜晝働いて彼を助けた時のやうに、彼女が機を織つて居るのを夢に見た、もつと度々見たのは、彼女が哀れな破れた袖で淚をかくしながら、彼が彼女を捨てて來たあの淋しい小さい部屋にただ獨りで坐つて居る姿であつた。公務の間にも、彼の心は彼女の方へさまようて行つた、それから彼は彼女がどうして暮らして居るだらう、何をして居るだらうと考へて見た。再緣はしてゐないだらう、それからどうしても自分を赦さないと云ふ事もなからうと何となしに思つた。それから彼はひそかにできるだけ早く京都に歸つて彼女をさがして見よう、――そして彼女に赦しを願つて、つれ戾して、償ひのために何でもできるだけの事をしようと決心した。しかし歲月は過ぎた。

 たうとう守の任期も滿ちたので、この武士の役目も一先づ終つた。『さあこれから自分の愛する者のところへ歸る』彼は自分で誓つた。『あれを離別した事は何と云ふ殘酷な――何と云ふ馬鹿な事であつたらう』彼は第二の妻(子供はなかつた)をその親許へ歸して、京都へ急いだ、それから、旅裝束を取り換へる暇も惜んで――直ちに昔の妻をさがしに出かけた。

 彼女の昔、住んでゐた町に着いた時は、夜は深くなつてゐた、――九月十日の夜であつた、――そして都は墓地のやうに靜かであつた。しかし明月が一切の物をあかるくした、そして造作なく家が見つかつた。住む人がないやうであつた、屋根には高草が生えてゐた。彼は雨戶をたたいたが、誰も答へる者はなかつた。それから、戶は内から締りはしてない事が分つたので、彼は押しあけて入つた。入口の間には疊も何もなかつた、寒い風が板の間の隙から吹いて來た、月の光は床の間の壁の粗い割目から洩れて來た。外の部屋は皆同じやうに荒れ果ててゐた。この家はどう見ても住む人はないやうであつた。それでも武士はその家のずつと奥にあるもう一つの部屋、――彼の妻のいつも休急所であつた甚だ小さい部屋へ行つて見ようと決心した。その境になつて居るふすまに近づくと、彼はその中にあかりの見えたので驚いた。彼はふすまを開いて驚きの叫びを上げた。卽ち彼はそこに彼女が――行燈のあかりのわきで針仕事をして居るのを見たのであつた。彼女の眼は同時に彼の眼と合つた、そして嬉しさうな微笑をもつて、彼女は彼に挨拶した、――ただこれだけ聞いた――『いつ京都へお歸りになつて? こんな暗いところを通つてどうして道が分りましたか』こんなに歲月はたつたが少しも彼女は變つてゐなかつた。やはり彼に取つて最もなつかしい彼女の記憶の通り、美しく又若く見えた、――しかし、どの記億よりもなつかしい彼女の音樂のやうな聲が、嬉しさの驚きで震ひを帶びて彼の耳に達した。

 それから喜んで彼は彼女のわきに坐つて、彼女に一切の事、――どんなに深く彼の我儘で後悔して居るか、――彼女がゐないで彼はどんなに不幸であつたか、――どんなにたえず彼女と別れた事を殘念に思つたか、――どんなに長い間償ひをしようと思つて色々工夫してゐたか――を話した。――その間彼女を抱でさすつて、くりかへしくりかへし彼女の容政を願つた。彼女はそれに答へて、彼が心で願つた通り、愛のこもつたやさしさで、――そんなに自分を責める事を止めるやうに賴んだ。彼女のためにそんなに苦むのはいけないと彼女は云つた。彼女はいつでも彼の妻となる資格はないと感じて居ると云つた。それでも彼が彼女と別れたのは、ただ貧乏のためである事を知つてゐた、彼が彼女一緖にゐた間は彼はいつでも親切であつた、それから彼女は彼の幸福を祈る事を決して忘れた事はない、もし償ひをすると云はれるやうな理由が假りにあるとしても、かうして來て貰つた事が何よりの償ひになるのであつた、――たとへほんの暫らくでもかうして又會はれる事が何よりも嬉しいと彼女は云つた。彼は喜びの笑をもつて云つた、『ほんの暫らく! ――いや七生の間と云つて貰ひたい[やぶちゃん注:「!」の後のダッシュとの間の字空けは底本のママ。]。お前の方でいやでなければ、いつまでも――いつまでも、一緖にゐようと思つで歸つて來たのだ。どんな事があつても、もう別れない。今では金もある、友達もある、貧乏を恐れるに及ばない。明日荷物がここへ來る、家來達もここへ來てお前の世話をしてくれる、そしたらこの家を綺麗にしよう。……今夜は』彼は云ひわけのやうにつけ加へた、『着物も着換へないで、――實はただお前に會つて、この事を云ひたいばかりに――こんなにおそく來た』彼女はかう云はれて大層喜んだやうであつた、そして今度は彼女の方で、彼が去つてから京都にあつた事を色々話した、――ただ自分の悲しかつた事は避けて、それについて語る事はやさしく拒んだ。二人は夜ずつとおそくまで話し込んだ、それから彼女は、南に面した暖い部屋、――それは以前彼等の新婚の部屋であつた部屋へ彼を案内した。『この家には誰も世話をする人はないのかね』彼女が彼のために床をのべるのを見て、彼は尋ねた。『い〻え』[やぶちゃん注:英語の否定疑問文へのそれを馬鹿正直に訳したもの。「はい」とすべきところである。]彼女は快活に笑ひながら答へた、『女中など置くわけに參りません、――それで全く一人で暮らしてゐます』『明日から女中を澤山置いて上げる』彼は云つた、――『よい女中、――それから何でもお前の要(い)る物』彼等は休むために橫になつたが、――眠るためではなかつた、彼等は眠られない程お互に澤山話す事があり餘つてゐた、――それで彼等は過去現在將來の事を語つた、遂にあかつきの白むやうになつた、それから我知らず武士は眼を閉ぢて眠つた。

 

 眼が覺めた時、日光は雨戶のすき間から流れ込んでゐた、非常に驚いた事は、彼は落ちかかつて居る床板の上に敷物もなく寢てゐた事であつた。……彼はただ夢を見たのであらうか。いや、彼女はそこにゐた。彼女は眠つてゐた。……彼は彼女の上に屈んだ、――そして見た、――そして叫んだ、――そのわけは、その眠つて居る人に顏がなかつたからであつた。……彼の前に、經かたびらだけに包まれた女の屍、――骨と長い黑い絡(から)んだ髮の外、殆んど何も殘つてゐない程乾枯(ひから)びた屍が橫になつてゐた。

       *         *

            *

 次第に、――彼があかるいところに、ぞつとして胸が惡くなるやうな氣もちで立つて居るうちに、――氷のやうな恐怖がたへ難き絕望、烈しい苦痛となつたので、彼は自分を嘲弄して居る疑惑の影をつかまうとした。その近所を知らない風を裝うて、彼は妻の住んでゐた家へ行く道を尋ねて見た。

[やぶちゃん注:「氷のやうな恐怖が」は底本では「氷のやう恐怖が」。脱字と断じて特異的に補った。]

 尋ねられた人は云つた、『その家には誰もゐません。何年か前に都を去つた或武士の妻の家でした。その武士が出かける前に、外の女を娶るために、その女を離別しました、女は大層惱んて病氣になりました。女は京都に親戚もなく、世話する人もなかつたやうです、それでその年の秋、――九月の十日に亡くなりました。……』

 

[やぶちゃん注:冒頭注で述べた通りの仕儀で、井沢長秀考訂纂註になる「今昔物語」(東京書肆明治三〇(一八九七)年刊の第二版)の上巻「怪異伝」中の「亡妻靈値舊夫語」(亡妻の靈、舊夫に値(あ)ふ語(こと))を以下に示す。句点のみはママ。踊り字「〱」は正字化した。読み易さを、一応、考えて、段落を成形し記号等も附した。読みは総てを附してある。

   *

 今はむかし。京にありける侍(さふらひ)身まづしくて有つくかたもなかりしが。知たる人ある國の守になりてくだるを賴みて。某國にくだらんとしけるが。これまで具(ぐ)したりける妻は若くて。かたち心ばえもらうたかりしかども。まづしさのあまりにかれを去て。たよりある侍のむすめを要(めと)りて。それを相具して國にくだりけり。

 かくて月日たつにしたがひて。京に捨てくだりにしもとの妻が事。わりなく戀しくて。にはかに見まほしくおぼえければ。

『疾(とく)のぼりてかれを見はや。いかにしてかあるらん』

と身をそぐごとくなりしかば。よろづ心すごくて過しける程に。月日も過て任(にん)もおはりぬれば。守の供としてのぼりけり。

 おとこ思ひけるは。

『我よしなくもとの妻を去けり。京にかへりのぼらば。やがて行てすまん』

と思ひて。上(のぼ)るやおそきと。後の妻をは家にやりて。その身は旅裝束(たびしやうぞく)のまゝにて。舊妻がもとに行ぬ。

 家の門は閉(とぢ)たれば這(はい)入て見るに。ありしにかはりて家もあやしくあれて。人住たる氣色もなし。是を見るにいよいよ物あはれに。心ぼそき事かきりなし。

 頃は九月中の十日の事なれば。月もあかく夜ひやゝかに心ぐるしき程なり。

 家の内に入て見れば。常に居たりし所に妻ひとり居て又人なし。

 妻男を見て。うらみたる氣色もなく。うれしげにて。

「こは何とておはしつるぞ。いつ上り給ひたるぞ」

といへば。男國にて年比思ひつる事どもをいひて。

「今はかくてすむべし。固より持のぼりたる物は明日とりよせん。從者などをもよぶべし。今夜まづ此由申さんとて參りつるなり」

といへば。妻よろこびて。年比の物語どもして。夜も更(ふけ)ぬれば南面の方に行てともにふしたり。

 男

「爰には人はなきか」

と問ば。女

「わりなき有樣にて過しつれば。さかはるゝ[やぶちゃん注:底本にママ注記あり。「つかはるゝ」の誤植であろう。]者もなし」

と答(こたへ)つゝ。

 こしかた行末のことを終夜(よもすがら)かたる程に。曉(あかつき)になりて。ともに寢(ね)入ぬ。

 間もなく夜明て。日のさし入たるに男おどろきて。妻を見るに。

 枯々(かれがれ)としたる死人なり。

「こはいかに」

とおそろしければ。起走つて躍り下(をり)て。

「僻目(ひがめ)か」

と見れ共うたがひなき死人なり。

 其時に水干袴(すいかんばかま)を着て。隣(となり)の小家に行て。今はじめて尋るやうにて。

「此隣の人はいかゞ成しぞ。家に人はなきや」

と問ければ。

「其人は年比の男の去て。遠國にくたりしを思ひ入てなげきし程に。病つきてありけれども。いらふ人もなくて。此夏うせ侍りぬ。死骸(しがい)をを[やぶちゃん注:ママ。衍字。]取て捨るものもなければ。いまだ有なり」

といひしかば。男いよいよおそれてにげ歸けり。

 實になにおそろしかりなん。年此の思ひにたゝずして。魂(たましひ)のとゞまりて逢(あい[やぶちゃん注:ママ。])たりけむ。あはれなる事なりとかたり傳へたると也。

   *]

「今昔物語集」卷第二十七 人妻死後會舊夫語第二十四

 

[やぶちゃん注:底本は歴史的仮名遣の読みの確認の便から、「日本古典文学全集」第二十四巻「今昔物語集 四」第四版昭和五四(一九七九)年(初版は昭和五一(一九七六)年)刊。校注・訳/馬淵和夫・国東文麿・今野達)を参考に切り替える。但し、恣意的に漢字を概ね正字化し、漢文脈は訓読し、読み易く、読みの一部を送り仮名で出し、読みは甚だ読みが振れるか、或いは判読の困難なものにのみとした。参考底本の一部の記号については、追加・変更も行い、改行も増やした。□は原本の意識的欠字。]

 

「今昔物語集」卷第二十七 人の妻(め)死にて後(のち)、舊(もと)の夫(をうと)に會ふ語(こと)第二十四

 

 今は昔、京に有りける生侍(なまさぶらひ)、年來(としごろ)、身、貧しくして、世に有り付く方も無かりける程に、思ひ懸(か)けず、□の□と云ひける人、□の國の守(かみ)に成りにけり。

 彼の侍、年來、此の守を相ひ知りたりければ、守の許(もと)に行きたりければ、守の云はく、

「此くて京に有り付く方も無くて有るよりは、我が任國(にむごく)に將(ゐ)て行きて、聊かの事をも顧みむ。年來も、糸惜(いとほ)しと思ひつれども、我れも叶はぬ身にて過ぐしつるに、此くて任國に下れば、具せむと思ふは、何(いか)に。」

と。侍、

「糸(いと)喜(うれ)しき事に候ふ也。」

と云ひて、既に下らむと爲る程に、侍、年來、棲みける妻(め)の有りけるが、不合(ふがふ)は堪へ難かりけれども、年も若く、形(かた)ち・有樣も宜しく、心樣(こころざま)なども勞(らう)たかりければ、身の貧しさをも顧みずして、互ひに去り難く思ひ渡りけるに、男、遠き國へ下りなむと爲るに、此の妻を去りて、忽ちに、便り有る他(ほか)の妻を儲(まう)けてけり。

 其の妻、萬(よろづ)の事を繚(あつか)ひて出だし立てければ、其の妻を具して國に下りにけり。國に有りける間、事に觸れて便り付けにけり。

 此くて思ふ樣にて過ぐしける程に、此の京に棄て下りにし本(もと)の妻の、破無(わりな)く戀しく成りて、俄かに見ま欲(ほし)く思(おぼ)えければ、

「疾(と)く上りて彼れを見ばや。何にしてか有らむ。」

と、肝身(きもみ)を剝(そ)ぐ如く也ければ、萬(よろ)づ、心すごくて過ぐしける程に、墓無(はかな)く月日も過ぎて、任(にむ)も畢(は)てぬれば、守の上りける共(とも)に、侍も上りぬ。

『我れ、由無く本の妻を去りけり。京に返り上らむまゝに、やがて行きて棲まむ。』

と思ひ取りてければ、上るや遲きと、妻をば家に遣りて、男は旅の裝束(しやうぞく)乍ら、彼(か)の本の妻(め)の許に行きぬ。

 家の門(かど)は開きたれば、這ひ入りて見れば、有りし樣(やう)にも無く、家も奇異(あさまし)く荒れて、人、住みたる氣色も、無し。

 此れを見るに、彌(いよい)よ、哀れにて、心細き事、限り無し。九月(ながつき)の中(なか)の十日許りの事なれば、月も極(いみ)じく明(あか)し。夜冷(よさむ)にて、哀れに心苦しき程也。

 家の内に入りて見れば、居たりし所に、妻(め)、獨り、居たり。

 亦、人、無し。

 妻、男を見て、恨みたる氣色も無く、喜氣(うれしげ)に思へる樣(やう)にて、

「此れは。何(い)かで御(おは)しつるぞ。何(い)つ上り給ひたるぞ。」

と云へば、男、國にて、年來、思ひつる事共を云ひて、

「今は此くて棲まむ。國より持て上ぼりたる物共も、今日・明日、取り寄せむ。從者(じうしや)などをも呼ばむ。今夜(こよひ)は只(ただ)此の由許(よしばか)りを申さむとて、來つる也。」

と云へば、妻(め)、喜(うれ)しと思ひたる氣色にて、年來の物語などして、夜(よ)も深更(ふけ)ぬれば、

「今は、去來(いざ)、寢(ね)なむ。」

とて、南面(みなみおもて)の方に行きて、二人、搔き抱(いだ)きて臥しぬ。

 男、

「此(ここ)には、人は、無きか。」

と問へば、女、

「破無(わりな)き有樣にて過ぐしつれば、仕(つか)はるる者も、無し。」

と云ひて、長き夜に、終夜(よもすがら)語らふ程に、例よりは身に染(そ)む樣(やう)に哀れに思ゆ。

 此(かか)る程に、曉(あかつき)に成りぬれば、共に寢入りぬ。

 夜の明くらむも知らで、寢たる程に、夜も明けて、日も出にけり。

 夜前(やぜん)、人も無かりしかば、蔀(しとみ)の本(もと)をば立て、上をば下(おろ)さざりけるに、日の鑭々(きらきら)と指し入りたるに、男、打ち驚きて見れば、搔き抱きて寢たる人は、枯々(かれがれ)として、骨と皮と許りなる死人也けり。

「此(こ)は何(いか)に。」

と思ひて、奇異(あさま)く怖しき事、云はむ方無ければ、衣(ころも)を搔き抱きて、起き走りて、下に踊り下りて、

「若し、僻目(ひがめ)か。」

と、見れども、實(まこと)に死人(しにん)也。

 其の時に、忩(いそ)ぎて、水干袴(すいかんはかま)を着て、走り出でて、隣りなる小家(こいへ)に立ち入りて、今、始めて、尋ぬる樣(やう)にて、

「『此の隣りなりし人は、何(いづ)こに侍るか』と聞き給ふ。其の家には人も無きか。」

と問ひければ、其の家の人の云はく、

「其の人は、年來の男の去りて、遠き國に下りにしかば、其れを思ひ入りて歎きし程に、病み付きて有りしを、繚(あつか)ふ人も無くて、此の夏、失せにしを、取りて棄つる人も無ければ、未だ然(さ)て有るを、恐れて、寄る人も無くて、家は徒(いたづら)にて侍る也。」

と云ふを聞くに、彌(いよい)よ怖しき事、限り無し。然(さ)て、云ふ甲斐無くて、返りにけり。

 實(まこと)に、何に怖ろしかりけむ。

 魂(たましひ)の留(とど)まりて、會ひたりけるにこそは。

 思ふに、年來の思ひに堪へずして、必ず、嫁(とつ)ぎてむかし。

 此(かか)る希有(けう)の事なむ、有りける。

 然(しか)れば、然樣(さやう)なる事の有らむをば、尙ほ、尋ねて行くべき也、となむ語り傳へたるとや。

 

□やぶちゃん注(注には底本の他に池上洵一編「今昔物語集」(岩波文庫二〇〇一年刊)の「本朝部 下」も一部参考にした)

●本篇はその前半部は遠く「伊勢物語」の第二十四段の所謂、「梓弓」の話や、その前の第二十三段の知られた「筒井筒」の流れを汲みつつ、後半、死者との肉の交わりを持つという「今昔物語集」でも、かなり正統派の怪奇談に仕上がっている。言わずもがな、これは後代の上田秋成の「雨月物語」の「浅茅が宿」に於いて美事に蘇生している(私は原拠と言ってよいと考えている)。なお、小泉八雲は、この話の杜撰な再話本をもとに、「和解」(原題“ The Reconciliation ”)という小説を書いている。それは、この後で電子化注する。

・「生侍(なまさぶらひ)」若くて身分の低い侍。

・「世に有り付く方」生計を立てるべく身を寄せる職。

・「國の守(かみ)」以下、見る通り、京にあって肩書きの遙任国守ではなく、現地に実際に赴いた受領(ずりょう)階級の実務国守。

に成りにけり。

・「糸惜(いとほ)しと」外見、気の毒なことだと。

・「叶はぬ身にて」経済的に不如意な身で。そなたを雇う余裕はなかったというのである。

・「棲みける妻(め)」妻問い婚で通い結ばれていた妻。

・「不合(ふがふ)」原義から転じて「思うように行かなぬこと・不幸せなこと」から、ここは具体的に「貧しいこと・貧乏」の意。

・「勞(らう)たかりければ」漢字なら「﨟たし」がいい。「愛らしく可愛いかったので」。

・「忽ちに、便り有る他(ほか)の妻を儲(まう)けてけり」掌を返すように、「便り」=家政能力や経済上のゆとりを持っていた別な家の女を、急遽、妻としたことを指す。

・「其の妻」以下で「萬(よろづ)の事を繚(あつか)ひて」(旅立ちに際しての諸費用を出してまめに世話して面倒を見)「出だし立てければ」(出発の物的な準備を万端整えて呉れたので)「其の妻を具して國に下りにけり」と続くので、元の妻ではなく、俄か妻の法を指す。

・「事に觸れて」何かにつけて。次の語句から「経済的な場面・状況にあっては」の条件を指す。

・「便り付けにけり」経済的に豊かになった。

・「思ふ樣にて」物質的には満足して。

・「破無(わりな)く」「破」は借字で「理(ことわり)」の「わり」。無茶苦茶に。常軌を逸する如く。

・「肝身(きもみ)を剝(そ)ぐ如く」参考底本注に『悲痛な感情の形容。体内の内臓とを剥ぎ分けるような、という意であろう』とある。

・「心すごくて」如何なる物や対象によっても満たされない、心情の虚ろな感じを示す。

・「やがて」「軈て・頓て」。「そのまま」或いは「直ぐに・直ちに」。私は後者で採る。

・「思ひ取りてければ」予め心に決めていたので。

・「上るや遲きと」『京へ上るのが時間がかかって遅い!』とさえ思うままに。則ち、京へ着くや否や、「直ぐに」の意。

・「妻をば家に遣りて」この妻は二番目(本話で)の妻。逆にまた、掌を返すように彼女を実家へ戻してしまったのである。一貫して男はこの女の良さを口にしていないから、経済力はあったものの、連れ合いとしての魅力には全く欠いていたものらしい。

・「九月(ながつき)の中(なか)の十日」九月二十日。新暦では十月の中下旬に相当する。

・「例よりは身に染む樣(やう)に哀れに思ゆ」嘗つて貧しいながらも、ともに暮らしていた頃の慕わしさに比べると、よほど身に染みごと、哀れを感じた。

・「蔀(しとみ)の本(もと)をば立て。上をば下(おろ)さざりけるに」蔀は上下二枚の雨戸のような大きな板からなる建具。当時は下は日常でも固定しておき、上の部分だけを釣り戸にしてあったものが多い。ここではその上蔀が下げて閉鎖されていなかった、上部が開放されていたことを言う。

・「鑭々(きらきら)と」「鑭」(音「ラン」)は光り耀くさまを指す。

・「打ち驚きて」驚いたのではない。「目を覚まして」の意である。

・「衣(ころも)」男自身の衣服。

・「僻目(ひがめ)か」「見間違いであったか?」。

・「忩(いそ)ぎて」「忩」(音は「ソウ」)は「窓(まど)」・「慌てる」・「纏める」の意。正字は「悤」。

・「水干袴(すいかんはかま)」これで一語と採る。糊を使わずに水張りにして干した絹で作った狩衣(かりぎぬ)の一種で、男子の平服。上衣(水干部)は盤領(まるえり)の懸け合わせを組紐で結び留めるのを特色とし、袖付けなどの縫い合わせ目が綻びぬように組紐で結んで菊綴(きくとじ)とし、裾を袴の内に着込むが、ここはその水干と袴とが一対(セット)になったもの。

・『「『此の隣りなりし人は、何(いづ)こに侍るか』と聞き給ふ。其の家には人も無きか。」』やや衍文が疑われるが、善意に解釈すれば、「さても、ちょっと、『ここのとなりにいた人は、どこにおらるるか』とお聞き申します。そこの家には、誰も、おらぬのか、ね?」でもおかしくはない。何気ない、気にもしていないという風を含んだ迂遠な謂いとして有り得る。

・「繚(あつか)ふ人」ここは日常の世話をする人や看病をする人の意。

・「取りて棄つる」どこぞへ遺体を葬ってやる。

・「未だ然(さ)て有る」遺体を放置したままにしていることを言う。遺体がごろごろ転がっているのは、末法の世とされた平安後期の荒廃した京では、頗る日常的な風景である。

・「家は徒(いたづら)にて侍る」遺体もそのままであれば、死後、誰も住まず(「徒」は無人の謂い)、空き家のままであったことを言う。

・「嫁(とつ)ぎてむかし」枕を交わした(つるんだ)のに違いない。

・「然樣(さやう)なる事の有らむをば、尙ほ、尋て行くべき也、となむ語り傳へたるとや」参考底本注には、『最後緒教訓的語句であるが、「そういう希有のこともあるから、やはり長い間』、『御無沙汰した所で』あっても(或いは、あればこそ)、『尋ねて行くのがよい」ということで、単なる宗教的とか道義的とかいう以上に、猟奇的な精神がのぞいているようである』とある。「猟奇的」という部分は微妙に留保したいが、確かに「今昔物語集」の最終評言としてかなり奇異な部類に属するものであることは疑いない。

 

□やぶちゃん現代語訳(参考底本の訳を一部で参考にはしたが、基本、オリジナル訳である。改行をさらに増やしており、記号も多用した)

 

「今昔物語集」巻第二十七 人の妻、死して後(のち)、もとの夫に会う語(こと) 第二十四

 

 今となっては……もう……昔のこととなってしまったが、京におった若き身分の低い侍、長年、貧しくして、世を渡る相応の職にもありつくことが出来ずにおったところが、思ひがけず、何の傍(なにがし)という人が、何とかという国の国守となった。

 かの侍は、ずっと長いこと、この国守となった人物をよく知っていたので、その国守のもとを訪ねたところ、国守の言うことに、

「かくも京にあって職に就くことも出来ずにおるよりは、我が任国にともに従い行きて、僅かばかりの面倒を見てやることも出来ようかと思うのだ。この長年、そちのことを気の毒とは思うておったれど、我れ自身も勝手不如意にて過ごしておったのだが、かく、任国に下ることとなったれば、連れて参ろうと存ずるが、如何に?」

とのこと。されば、侍も、

「それは! まっこと! ありがたいことで御座いまする!」

と肯んじ、いよいよ任国へ向けて下ろうということとなった。

 さてもしかし、この侍には、長年、連れ添うて御座った妻があった。長年月の貧乏暮しは堪えがたいものであったけれども、彼女は年も若く、見目・形もよろしく、心映えも如何にも優美であったによって、互いの身の貧しさをも顧みず、ともに去りがたく思って暮らしてきたのであった。

 が、侍は、このたび、遠国へと下ることとなったところが、あろうことか、この妻を捨て、俄かに、裕福なる他(ほか)の女を妻としてしまった。

 その新しい妻が、何くれとなく下向の用意を、これ、万端、調えて送り出そうとしてくれたことから、侍は、その妻を連れて、かの国へと下ったのであった。

 国にあった間は、何かにつけ、暮らしは豊かにはなって行った。

 かくも思い通りに満足のゆく暮らしを送ってはいたが、侍は、どこかで、心に虚ろな感じがしていた。

 その理由(わけ)は、かくも京で捨てて下向したもとの妻のことが、何故か、無性に恋しくなったからであった。

 さすれば、俄かに、かのもとの妻に見たい、逢いたいという思いが募ったによって、

「早く京に上って、かの女に逢いたい! 今頃、一体、どうしておるであろう?!」

と、骨身を削るような掛恋(けんれん)の情に襲われ、何につけても、心の鬱々として過ぎるうちに、何時しか、月日も過ぎて、かの某(なにがし)の国守の任も終わったので、国守が京に上るのに従い、ともに侍も京へ帰った。

『我れは、理に適った理由もなしに、もとの妻を捨ててしまったのだった! 京に帰り着いたら、そのまま直ちに、かの女のもとへ行き、ともに暮らそうぞ!』

と、決心していたによって、京に到着するや否や、今まで一緒にいた妻をば、実家へと老い帰して、男は、旅の装束のまま、かのもとの妻のもとに訪ねて行ったのであった。

 家の門(もん)は開いていたので、中に入って見ると、在りし日とはさま変わりて、家も呆れんばかりに荒れ果てて、およそ、人の住んでいるような気配さえもないのであった。

 この荒廃した様子を見るに、いよいよ、ものの哀れを覚え、言いようもないほどに心細くなったのであった。

 九月(ながつき)の二十日ばかりのことであったから、月もたいそう明るい。夜の気配は冷え冷えとし、激しい哀れさが胸を打つほどであった。

 ところが!――

 家の内に入って見ると、彼女が嘗つて座っていたところに、妻は、ただ独り、同じように座っていた!――

 他に、人影は、ない。――

 妻は、男を見て、恨んでいる気色(けしき)も見せず、嬉しそうに思っている様子で、

「これは! また、どうしてここにお出でになられましたか?! 何時(いつ)、京へお上りなさいました?!」

と言うので、男は、かの任国に於いて、ずっと思い続けてきたことどもを語り、

「これからは、一緒に住もうな。任国から持って参った物どもなども、今日・明日中にはとり寄せる! 従者などをも呼ぼうぞ! 今夜(こよい)は、ただ、このことばかりを申そうとて、来たのだよ!」

と言うと、妻は、さも、嬉しいと思っている様子で、互いに、別れる前の思い出や別れてからの侘しさなんどを物語りなどして、夜(よ)も更けたので、

「さあ、さ! 伴寝しよう!」

と、家の南面(みなみおもて)の方に行き、二人、抱(だ)き合って横になった。

 男は、

「……ここには……人は……おらんのか?」

と問うと、女は、

「このように貧しい有様のままに暮らして御座いましたれば、召し使わるる者なども、おりません。」

と言った。

 秋の夜の長きに、終夜(よもすがら)、語り合ううち、男は、嘗つて、一緒に暮らした貧しかった頃よりも、ずっと身に染みて哀れに感ずるのであった。

 かくするうち、暁(あかつき)方になったので、ともに寝入った。

 夜が明くるのも知らずに寝ていたか、夜もすっかり明けて、日も、出ていた。

 昨夜は、召し使いもおらずなれば、蔀(しとみ)の下戸(しもと)ばかり立てて、上戸(うへど)は下(おろ)していなかったのであるが、そこから、日の光りがきらきらと指し入ってきたので、男は――ふっと――眼を覚ました。……

――かき抱いて寝たはずの妻は……

――すっかり枯々(かれがれ)に干乾びた……

――骨と皮ばかりの……

――死人――なのであった。……

「……こ、これは!……なんということだッツ!!……」

と、驚くと同時に、あまりの怖しさに、言いようもなければ、脱いだ自分の衣服を慌ててかき抱いて、起き、走って、縁から庭に踊り下って、

「……も、もしや……見間違えたか?」

と、振り返って見たけれども、……

――真(まこと)に死人(しにん)なのであった。

 そこで、急ぎ、水干袴(すいかんばかま)を着、走り出で、隣りの小家(こいえ)に立ち寄って、あたかも今、始めてここに尋ねて来たようにして、

「一つ、お聞き致します、……この隣りにおられた人は、何処(いづこ)におられますか?……あそこの家には、誰も住んではおりませんか?……」

と訊ねた。

 すると、その家の人が言うことには、

「そこな人は、長年連れ添うておった男が、そこな人を捨てて、遠き国に下ったによって、その悲しみがため、深く思い込み、歎くうち、病みつきておったを、世話する人ものぅ、……そうさ、この夏、亡くなってしもうたじゃ。……じゃが、その骸(むくろ)をとって葬る人もなければの、未だ、そも、そのまんま、あるじゃて。……じゃが、皆、怖がっての、寄る人もなく、家は、まだ、空き家のまんまで御座いますじゃ。……」

と、答えた。

 その謂いを聴くだに、男は、いよいよ、言いようもなく怖ろしくなった。さればこそ、何のしようもなくて、男は帰ったのであった。

 本当に、如何ばかりか、怖ろしかったことであろうぞ。

 これは、まさしく、魂(たましい)が、この世に留(とど)まり続け、男に会ったに、これ、相違ない!

 思うに、長き年月、妻の霊魂は、男への思いに堪えかねて、必ずや、この夫と、枕を交わしたのでもあったろう。

 かくも希有(けう)の不思議が、これ、あるものなのである!

 さればこそ、さようなこともあるのであるからして、まず、長い年月、無沙汰致いておっても、その人を訪ねに行くのは、当然のことなのだ、と、かく語り伝えているということである。

 

2019/10/23

小泉八雲 日本の病院に於て  (田部隆次訳) / 作品集「日本雑記」全電子化注~了

 

[やぶちゃん注:本篇(原題“In a Japanese Hospital ”(「日本の病院にて」))は一九〇一(明治三四)年十月にボストンの「リトル・ブラウン社」(LITTLE,BROWN AND COMPANY)から出版された作品集“A JAPANESE MISCELLANY”(「日本雑記」。来日後の第八作品集)の第一パート“Strange Stories”(「奇談」・全六話)・第二パート“Folklore Gleanings”(「民俗伝承拾遺集」・全三篇)に次ぎ、最後の三番目に配された“Studies Here and There”(「ここかしこに関わる研究」。底本では「隨筆ここかしこ」)の最終話第六話である(本篇を以って本作品集の本文は終わっている)。本作品集は“Internet Archive”のこちら(出版社及びクレジットの入ったページを示した)で全篇視認できる(本篇はここから)。活字化されたものは、整序されたものは見当たらない(同前の“Internet Archive”には本作品集のフル・テクスト・ヴァージョンはあるにはあるのであるが、OCRによる読み込みで、誤まり多く、美しくなく、読み難く、また、味気ない)。

 底本は英文サイトInternet Archive”のこちらにある、第一書房が昭和一一(一九三六)年十一月に刊行した「家庭版小泉八雲全集」(全十二巻)の第七巻の画像データをPDFで落として視認した。

 田部隆次(たなべりゅうじ 明治八(一八七五)年~昭和三二(一九五七)年)氏については先に電子化した「人形の墓」の私の冒頭注を参照されたい。

 傍点「ヽ」は太字に代えた。

 なお、底本の田部隆次氏の「あとがき」に、本篇は『二男の巖君が書生につれられて散步中、過つて怪我をしたので、ヘルンがつれて番町の木澤病院に赴いた時の話である。この時から木澤院長を信じて、子供の病氣でも、女中の病氣でも、自分の齒痛でも外科專門の木澤院長にかかるやうになつた。最後に心臟病で亡くなつた時も木澤』敏『院長にかかつたのであつた。『この人にかかつてなら死んでも遺憾ない』と云つてゐた』とある。また、瞥見した銭本健二氏が担当された小泉八雲の年譜(一九八八年恒文社刊「ラフカディオ・ハーン著作集 第十五巻」所収)によれば、この事故は明治三二(一八九九)年十二月四日のことで、富久町内の崖から落ちて腕を挫いたとも、乳母車から転落して肩甲骨脱臼したともされるとある。

 

 

   日本の病院に於て

 

 

       

 

 ……その晚の最終の患者が、――未だ四つにはならない男の兒が、――看護婦や外科醫達に微笑とやさしいちやほやで迎へられたのだが、それには彼は少しも應じない。……彼は恐れ、且つ、怒つて居る――殊に怒つて居る――今夜こんな病院に來たので。誰か無分別な人が、芝居に連れて行くのだと云つて聞かせた、――彼は途中、嬉しさの餘り、腕の痛みも忘れて歌を歌つた、――ところでここは芝居ではない。ここには醫者が居る――人に痛い事とする醫者が居る。……彼はびくびくしないで、裸にされて、診察を受けた、しかし電燈の下の、何だか低い臺の上で、橫にならねばならないと云はれ時に、彼は甚だ烈しく『いや――』と叫ぶ。……彼の祖先から遺傳した經驗は、敵らしい者の面前に橫になる事は宜しくない事を彼に敎へて居る、それから同じ遺傳の智慧によつて、その外科醫の微笑は欺く目的である事を判じた。……『この臺の上はようございますよ』――すかすやうに若い看護婦は云ふ、――『綺麗な赤いきれを御覽なさい』『いや――』とこの小さい人はくりかへす――こんな風に美的情操に訴へられたのでただ益〻警戒するやうになつたのである。……そこで彼等は――外科醫が二人、看護婦が二人、――手をかけて、巧みに彼を抱き上げて、――赤いきれのかかつて居る臺のところへもつて行く。そこで彼は彼の小さい戰の叫びをあげる、――彼に戰士の祖先の血が流れて居る、――そして腕に怪我をして居るにも拘らず、最も勇敢に戰つて、一同を驚かせる。しかし、見よ、一枚の白いぬれたきれが、彼の眼と口にかかる、――彼は叫ぶ事ができない、――それから鼻腔のあたりには妙に氣もちのよい香がする、――そして人の聲や電燈の光は遠く、ずつと遠くへ浮んで行つた、――そして彼は沈んで、沈んで、波のやうな暗がりへ沈んで行く。……小さな手足は力がなくなる、――この痲藥の力に反對しようと肺が戰ふために、しばらく胸が速く上る、それから一切の運動が止まる。……そこできれが除かれる、顏は再び現れる――怒りと苦痛はそこから悉く消えて居る。そのやうに、死人の眠りを見守つて居る小さい佛達が微笑して居る。……手早く折れた骨の兩端はことんと合された、―-繃帶と脫脂綿とギブス、それから又繃帯は熟練な手によつて速かに施された、――顏や小さい手は海綿で洗はれた。それから未だ知覺のない患者は毛布に包まれて、そこから連れ出された。……入場から退場までの間、十二分半。

 

 始めて見られた物としては一つも平凡な物はない、そしてその出來事の眞に苦痛のない詳細事――その叫びの壓抑、意志の突然の痲痺、それからあとその小さい顏の蒼白なる靜穩――は陰暗な風に想像を動かすやうに、悲劇らしく見えた。……毒刄の一擊は、沈默と微笑の眠りとの全く同じ結果を生じたであらう。過去の救へきれぬ時代に於て、數へきれぬ程度々それと同じ事が行はれたに相違ない、――數へきれぬ程度々、激情に驅られた人が、倒れた人の突然の激情の去つたあとの美を見て、その行爲の永久の結果を認めたに相違ない。……『天の盡(つく)るまで目覺めず睡眠(ねむり)をもさまさざるなり』『天の盡るまで』譯者註――しかしそのあとは。その以後は――或は。しかし決して同一ではない。……

譯者註 約百紀十四章十二節

[やぶちゃん注:「譯者註」は最後に字下げポイント落ちで附されてあるが、ここへ移動した。「約百紀」(「紀」はママ)は「ヨブき」と読む。私が唯一旧約聖書の中で偏愛するものである。]

 しかし私はその個性、自我の不意の停止によつては感動よりはむしろ驚愕した、――それによつて現れた神祕のためである。一瞬時に、――或藥品の吸入のために、――聲、運動、意志、思想、凡ての快樂苦痛及び記憶が存在しなくなる。蕾のやうな感覺の全生命、――無數の年代からの或は貴い遺傳を有せる小さい頭腦のかよわい機關、――は正しく死に觸れられたやうに、窒息して止まつたのである。そしてそこに殘つた物は、どこ見ても、ただの形、見せかけの物、――偶像のかすかな無意識の微笑をもつた彫塑的肉體の人形である。…

[やぶちゃん注:最後の三点リーダはママ。後にも出るのでママとした。]

 

 路傍、或は墓石の上に夢みる小さい石佛の顏は、日本の子供の柔かな魅力を有して居る。それは眠つた子供の顏に似て居る、――そして讀者は、日本の子供の寢顏を見て、淸澄な容貌の不思議な美、――眼蓋と唇の線の朧ろにやさしいところ、――を理解したに相違ない。佛師の技術に於て、その神々しい平和な容貌は、眠れる子供を美しくして居るその影のやうな微笑から暗示されたのである。

 

 

       

 

 偶像の記憶は、當然偶像がただ象徵するその力を想ひ出させた、そしてやがて私は、神の眼から見れば、人間の一生の全行路は、私が今目擊した事件と餘程似て居るやうに考へた、――來る、叫ぶ、もがく、それから死の痲藥のために急に人性が消える。(私は宇宙大の神霊について云つて居るのではない、その神靈から見れば、太陽の燃え出して消滅するまでの間は、夜の螢の光ほど程短かく見えるだらう、私はただ擬人の神を意味するのである)――ハーバート・スペンサーに隨へば、小さい蚊の意識は、一秒の一萬分の一から一萬五千分の一までの間の時間を識別する事ができる。蚊と人間の割合程、人間よりも精神的に優れた生類に取つては、一時代もただ一瞬時に見えないだらうか。こんな生類に取つては、人類の存在は、發芽と凋落、――速かにしてたえざる出現と消滅の連續、――冷却して行く行星[やぶちゃん注:「かうせい(こうせい)」。惑星の異称。]の表面に固有なる醱酵の單なる現象、――としての外は、苟くも認められる事があるだらうか。勿論、私供が顯微鏡の下で醱酵を硏究するやうに、この優れた生類が多少その現象を詳細に硏究するとすれば、小兒の笑が直ちに髑髏の笑と變るとは見ないだらう、――しかし、私は想像するに、最初の薔薇色の筋肉の微笑と、最後の骨の不景氣な笑との間に、心理學的にどんな事が起るとしても、それは私共に取つて一秒間に蚊の翼が一萬囘もしくは一萬五千囘振動するのが識別できないと同じやうに、その優れた生類に取つて識別できないだらう。宇宙の神、或はただ一つの世界の神、或はただ一つの世界の神でも、私共が小さい一滴の腐敗した水の中に動いて居る生命に同情する以上に、私共の情緖に同情ができるかどうかを私は疑ふ。…

[やぶちゃん注:「薔薇色」は底本では「薇薔色」である。一般的な語順に特異的に代えた。

「ハーバート・スペンサー」小泉八雲が心酔するイギリスの哲学者で社会学の創始者の一人としても知られるハーバート・スペンサー(Herbert Spencer 一八二〇年~一九〇三年)。私の『小泉八雲 落合貞三郎訳 「知られぬ日本の面影」 第十五章 狐 (一五)』の私の注を参照されたい。私がこのブログ・カテゴリ「小泉八雲」で完遂した「神國日本」(戸川明三訳。原題は“Japan: An Attempt at Interpretation”(「日本――一つの試論」)。英文原本は小泉八雲の没した明治三七(一九〇四)年九月二十六日(満五十四歳)の同九月にニュー・ヨークのマクミラン社(THE MACMILLAN COMPANY)から刊行された)もスペンサーの思想哲学の強い影響を受けたものである。]

 

 しかし、再び土に朽ちて歸る前に、ただ一瞬時明るいところで泣いて笑ふために、土から出て來るやうに思はれるこの人間は、神の眼から見て何であらう。一億年の間に、何か形のない一點の原始的粘泥から進化して來た形である。しかし、こんな風に進化して來た事を知つてゐても、少しも人生の祕密その物、――その數百萬世紀の間、破壞に反抗して戰つた意識の祕密、――死滅に抵抗しようとして、愈々益〻驚くべき複雜なる本質、愈々益〻さらに驚くべき複雜なる心意を工夫して造り上げ、――そしてたうとう、最初の一瞬時の期限から、百年の人間の生命が可能になるまで、その生命の期間を延ばす事ができた――その祕密を說明してゐない。意識は謎のうちの謎である。思想は感覺の複合であると說明されて居る。しかし知覺し得べき最も簡單なる感覺も、それ自身複合の複合或は結果である、――或る融合のおどろき、――混淆のひらめきである、――そして生命の神祕は依然として謎のうちの最も不可解な、最も恐ろしい、最も凄まじい物である。

 

 その神祕の恐怖から、私共の祖先はつぎのやうな恐ろしい命令を發して、彼等の世界を救はうとした、――『劒と火の苦痛を受けぬやう、――永久の死の危險を冒かさぬやう、――汝は考ふる事勿れ

 しかし東洋のもつと古い智慧は宣言した、

 『下界の子よ汝に生を與へし海について考ふる事を恐るる事勿れ汝が生れ出でて汝が再び融けて歸るべき混沌を見て汝は汝の實在は無窮にして又永久に一なる事を知れ。……』

 

[やぶちゃん注:最後の二つの引用元は私は不詳。識者の御教授を乞うものである。]

小泉八雲 乙吉の達磨  (田部隆次訳)

 

[やぶちゃん注:本篇(原題“Otokichi'S Daruma ”(「橋の上にて」))は一九〇一(明治三四)年十月にボストンの「リトル・ブラウン社」(LITTLE,BROWN AND COMPANY)から出版された作品集“A JAPANESE MISCELLANY”(「日本雑記」。来日後の第八作品集)の第一パート“Strange Stories”(「奇談」・全六話)・第二パート“Folklore Gleanings”(「民俗伝承拾遺集」・全三篇)に次ぎ、最後の三番目に配された“Studies Here and There”(「ここかしこに関わる研究」。底本では「隨筆ここかしこ」)の第五話である。本作品集は“Internet Archive”のこちら(出版社及びクレジットの入ったページを示した)で全篇視認できる(本篇はここから)。活字化されたものは、整序されたものは見当たらない(同前の“Internet Archive”には本作品集のフル・テクスト・ヴァージョンはあるにはあるのであるが、OCRによる読み込みで、誤まり多く、美しくなく、読み難く、また、味気ない)。

 底本は英文サイトInternet Archive”のこちらにある、第一書房が昭和一一(一九三六)年十一月に刊行した「家庭版小泉八雲全集」(全十二巻)の第七巻の画像データをPDFで落として視認した。

 田部隆次(たなべりゅうじ 明治八(一八七五)年~昭和三二(一九五七)年)氏については先に電子化した「人形の墓」の私の冒頭注を参照されたい。

 最後に傍点「◦」の部分があるが、ここはそれしかないが、敢えて太字下線とした。その意味はお判り戴けるであろう。

 なお、本篇には原本で全部で五葉の挿絵が入っている。底本でも珍しくその内の四葉(雪達磨は一葉に二図)を採録している。ここでは原本のPDF画像からトリミングした五葉総てを適切と判断した箇所に挿入した(原本の配置位置や順序を、その叙述と展開に合わせて私の独断で変更してある。この配置が原本よりも正しく効果があると私は勝手に考えている)。なお、底本が採用していないないのは“TOY-DARUMA”(『玩具の「だるま」』)とキャプションする小さな一枚である。因みに、他はトリミングのみであるが、この“TOY-DARUMA”の一枚はやや焼けた感じの原文ページにあるため、補正を加えて下地を白くし、ラインも濃く補正して、見易くしてある。キャプションは一目瞭然なので特に訳していない。

 なお、底本の田部隆次の「あとがき」によれば、『この乙吉は大正十一』(一九二二)『年一月に死去して、今は』『燒津で名高い鰹節問屋となつて居るが、屋號は今も』「山乙」『であると聞いて居る』とし、また、『篇末に出て居る乙吉の娘は、その後長く小泉家に仕へて、今では東京の人に嫁して居る』とあった。]

 

 

   乙吉の達磨


       

 子供等の喜んだのは、昨夜ひどく雪が降つたので、日本の詩人の所謂『銀世界』が私共のためにできたからであつた。――實際これ等の詩人の冬を面白く讃めるところに誇張はない。卽ち日本では冬は美しい、――空想的に美しいからである。冬は『自然の死』について陰氣な想像を起す事はない、――自然は大寒[やぶちゃん注:「だいかん」。原文“the Period of Greatest Cold”であるから、二十四節気のそれを指している。旧暦の概ね十二月後半で太陽暦で一月二十日か二十一日に当たる。]の一時にも、最も明らかに生きて居るからである。今は『骸骨の森』の光景と呈して、審美の眼を惱ます事はない、――卽ち森は多く常磐木[やぶちゃん注:「ときはぎ」。]であるからである。それから雪は、――松の葉に柔かに積つたり、或は竹に暫らくその重さのためにしなやかに撓んだ[やぶちゃん注:「たわんだ」。]姿を表はさせたりして、――決して極東の詩人に、屍衣の物凄い想像を暗示する事はない。全く日本の冬の特別の魅力は、――森と庭園の變らない綠色の上に、想像のできない奇怪な形に積る、――この雪でできる。

 今朝私の二人の書生、光(あき)と新美(にひみ)はなぐさみに雪達磨を造つて子供等を喜ばせてゐた、私もそれを見て面白かつた。雪達磨を造る規則は古い簡單な物である。先づ大きな雪の球、――なるべくは、直徑三尺から四尺の、――を造る、――それが達磨の坐つた體になる。それから、直徑二尺ばかりの少し小さい雪球を造る、それが頭になる、そこでこの小さい方を今一つの上にのせる、――兩方とも落着くやうに、下の方の𢌞りヘ一面に雪をつめ込む。二つのたどんが達磨の眼になる、それから同じ材料のいくつかの不規則な破片で鼻や口を造るに充分である。最後に、その大きな腹に穴をあけて、臍を表はす、そしてその中に蠟燭をともして入れて置く。蠟燭の熱が次第にこの穴を大きくする。……

[やぶちゃん注:「書生、光(あき)と新美(にひみ)」前者は、「小泉八雲 草雲雀 大谷正信譯 附・やぶちゃん注」に名が登場する書生で、後者は「冊子『無限大』 アーカイブ[ラフカディオ・ハーン(小泉八雲)特集(88号:1991年発行)]の小泉時氏(小泉八雲の孫)の「写真で見る/ハーンの生涯」の二十八~二十九ページ相当箇所(後者に写真)にセツ夫人の横に立つ学生服姿を見ることが出来る。底本の訳者田部氏の「あとがき」に、『光(あき)は玉木光榮(あきひで)の事』で、彼は『親戚に當るので、光ちやんと呼ばれてゐた。當時早稻田の學生、今は大阪の會社員』とあり、『新美の方は、新美資良(すけよし)と云ふ一高の學生であつたが、後』、『病死した』とあった。]

 しかし私は雪達磨と云ふ言葉を說明する事を忘れてゐた。『達磨』は――梵語の『ボドヒドハルマ』の日本譯――菩提達磨の略語である。

[やぶちゃん注:菩提達磨の注は、以下の小泉八雲の解説の後に回す。

 

Yukidaruma

 

 達磨は大迦葉から續いた佛敎の第二十八代の祖師であつた。梁の朝の第一年〔西暦五二〇年[やぶちゃん注:小泉八雲の誤りか誤植。梁建国の初年は五〇二年。後注参照。]〕佛敎の宣敎師として支那へ行つた、それから支那であの禪の宗門を開いた、――この宗門の敎は『以心傳心』の敎と云はれて居る、卽ち書いたり、話したりする言葉によらないで傳へられるのである。南條文雄[やぶちゃん注:原文“Bunyiu Nanjio”。歴史的仮名遣なら「なんぜうぶんゆう」。]博士は、その『佛敎の十二宗の歷史』に云つて居る、――『大乘佛敎の凡ての敎の外に、如何な言語にもよらないで續いて來た一條の明らかな祕密の敎がある。この敎によれば、人は自分の心によつて直ちに佛心、或は佛性に達する所謂鍵を見なければならない』禪の敎の傳說は不思議である。佛が靈鷲山[やぶちゃん注:「りやうじゆせん」。]で說敎をして居る頃、その前に突然大梵天王が現れて佛に黃金色の花を捧げて、同時に法を說く事を願つた。佛はその聖い[やぶちゃん注:「きよい」。]花を受けて、それを手にしたが、一言も語らなかつた。そこで大衆は佛の沈默を不思議に思つた。獨り尊い迦葉のみ破顏微笑した。そこで佛は尊い迦葉に云つた、――『吾に正法眼藏涅槃妙心[やぶちゃん注:「しやうばふげんざうねはんみやうしん」。]あり、今汝に附屬す』……そこでただ心だけで、その敎は迦葉に傳はつた、それから心だけで迦葉は阿難陀に傳へた、それからあと、心だけで祖師から祖師へと傳はつて達磨に及んだ、達磨はその相續者である第二の支那のその宗門の祖師に傳へた。達磨は日本にも來たと云ふ人がある、しかしこれは殆んど根據がないやうである。とにかく禪宗は第八世紀前には、日本に來なかつた。

 達磨に關する多くの俗說のうちで、最も名高いのは、九年間引續き默想してゐたので、足が脫落したと云ふ話である。そのために達磨の形は足のないやうに造られる。

[やぶちゃん注:「ボドヒドハルマ」(原本表記“Boddhidharma”)「菩提達磨」(生没年不詳)は中国の禅宗の開祖とされる、インドから中国へ来たインド人僧。名のカタカナ音写は現行「ボーディダルマ」(サンスクリット語ラテン文字転写:Boddhi-dharma)。「達摩」とも書く。小学館「日本大百科全書」より引く。『六世紀の初め、西域』『より華北に渡来し、洛陽』『を中心に活動した。唐代中期、円覚大師と諡(おくりな)される。従来』十一『世紀にまとめられる伝承説話以外に、伝記も思想も不明であったが』、二十『世紀に入って』、『敦煌』『で発見された語録によって、壁観(へきかん)とよばれる独自の禅法と、弟子たちとの問答が確認され、その実像が明らかとなる。同時代の仏教が煩瑣』『な哲学体系に傾くなかで、壁が何ものも寄せ付けぬように、本来清浄な自性に目覚め、ずばり成仏せよと説く、平易な口語の宗教運動家であった。あたかも』八『世紀より』九『世紀にかけて、急激な社会変革の時代に、人々は新仏教の理想を達磨に求め、不立文字(ふりゅうもんじ)、教外別伝(きょうげべつでん)』、『直指人心(じきしにんしん』:心の奥底にある本心や仏心を直ちに正しく指し示すこと『)、見性成仏(けんしょうじょうぶつ』:『ずばりと、自己の心をつかむことによって、自己が本来は仏であると気づくこと)の四句に、その教義と歴史をまとめる。達磨は仏陀』『より』二十八『代の祖師で、正法』(しょうぼう)『を伝えるために中国に渡来する。南海を経て南朝の梁』(五〇二年~五五七年:江南にあった王朝)『に至り、仏教学の最高峰武帝(蕭衍(しょうえん))と問答するが、正法を伝えるに足らずとし、ひそかに北魏』『の嵩山(すうざん)の少林寺で、のちに第二祖となる慧可(えか)に会ったともいう。慧可が達磨に入門を求めて顧みられず、一臂(いっぴ)を断って誠を示した説話や、「私は心が落ち着きません、どうか私の心を落ち着かせてください。君の落ち着かぬ心を、ひとつ俺』『にみせてくれ、そうすれば落ち着かせてやる。それはどこを探しても、みつけることができません。俺はいま、君の心を落ち着かせ終わった」という、慧可との安心問答は有名である。達磨の禅の特色は、そうした対話の語気にあり、やがて人々は、祖師西来意(達磨は中国に何をもたらしたか)を問うようになる。この問いに答えることが禅宗のすべてである』。『達磨はさらに日本にきて、聖徳太子と問答したとされ、平安末期に達磨宗がおこって、鎌倉新仏教の先駆けとなる。禅宗史の発展が達磨の人と思想を理想化し、新しい祖師像を生むのである。近世日本で、頭から全身に紅衣をかぶり』、『坐禅』『する起きあがり小法師(こぼし)の人形で知られる福(ふく)達磨の民俗信仰がおこり、宗派を超えて広く日常化』した。『祖師達磨の新しい理想化の一つである』とある。

「大迦葉」原文“Kâsyapa”。「迦葉」に同じ。摩訶迦葉。サンスクリット語ラテン文字転写で Mahākāśyapa(マハーカーシャパ)。釈迦の十大弟子の一人。仏教教団に於ける釈迦の後継(仏教第二祖)とされ、釈迦の死後、初めての結集(第一結集。経典の編纂事業を行った)の座長を務めた。「頭陀第一」と称され、衣食住にとらわれず、清貧の修行を行ったとされる。

「南條文雄」(なんじょう ぶんゆう 嘉永二(一八四九)年~昭和似(一九二七)年)は仏教学者・宗教家。ウィキの「南条文雄」によれば、『近代以前からの伝統的な仏教研究の上に、西洋近代の実証的・客観的な学問体系と方法論を初めて導入した。早い時期から仏典の原典であるサンスクリット(梵語)テキストの存在に注目。主要な漢訳経典との対校を行なうとともに、それらの成果をヨーロッパの学界に広く紹介するなど、近代的な仏教研究の基礎形成に大きな役割を果たした』。『美濃国大垣船町(現・岐阜県大垣市)の誓運寺(真宗大谷派)に生まれ』、『幼時より漢学・仏典の才に優れ』た。彼が一年学んだ『京都東本願寺の高倉学寮』『で教鞭を取っていた福井県憶念寺南条神興の養子となり』、『南条姓に改姓、再び学寮に赴き』、『護法場でキリスト教など仏教以外の諸学を修めた』。明治九(一八七六)年、『同僚の笠原研寿とともにサンスクリット(梵語)研究のため』、『渡英、オックスフォード大学のマックス・ミューラーのもとでヨーロッパにおける近代的な仏教研究の手法を学び、漢訳仏典の英訳、梵語仏典と漢訳仏典の対校等に従事した。特に』一八八三年に『イギリスで出版された英訳『大明三蔵聖教目録』(Chinese Translation of Buddhist Tripitaka, the sacred canon of the Buddhist in China)は「Nanjo-Catalog」と称され、現在なお』、『仏教学者・サンスクリット学者・東洋学者に珍重される。翌年、オックスフォード大学よりマスター・オブ・アーツの称号を授与され、帰国』した。明治一八(一八八五)年より、『東京帝国大学文科大学で梵語学の嘱託講師とな』った。二年後には『インド・中国の仏教遺跡を探訪』し、明治二二(一八八九)年には『文部省より日本第』一『号の文学博士の称号を授与され』ている。明治三四(一九〇一)年に『東本願寺が真宗大学(現、大谷大学)を京都から東京巣鴨に移転開設すると、同大学の教授に就任。初代学監清沢満之と協力して、関連諸学との緊密な連繋の上に立つ近代的な仏教研究・教育機関の創設に力を注』ぎ、二年後には『真宗大学第』二『代学監に就任』、『その後も京都に戻った同大学(のちに真宗大谷大学、大谷大学と改称)の学長を』『務め、学長在任は通算』十八『年近くに及んだ。この間、所属する真宗大谷派において学事体制の整備に』尽力し、『仏教学・東洋学の学界において近代的な仏教研究の必要性を説き、その教育・普及に勉めた。また』、『各地・各方面において行なった活発な講話や執筆活動は、いずれも深い学識と信仰に裏打ちされ、多くの人を惹きつけた』とある。「佛敎の十二宗の歷史」は明治一九(一八八六)に東京で刊行された“A short history of the twelve Japanese Buddhist sects”である。Internet archive”のこちらで英文原本が読める

「靈鷲山」(りょうじゅせん)サンスクリット語ラテン文字転写Gṛdhrakūṭa-parvataの漢訳。古代インドのマガダ国の首都であった王舎城の北東にあり、釈迦が「法華経」などを説いた山。山頂の形が鷲に似るとも、また、山中に鷲がいたことから、この名があるとされる。現在のビハール州中部のラジギールにある。

「大梵天王」大梵天(色界四禅天の中の初禅天にあって梵輔天・梵衆天を従える天。もとはヒンドゥー教の神概念)の王。淫欲を離れて清浄潔白な神王とされる。

「正法眼藏涅槃妙心」原文“the wonderful thought of Nirvâna, the Eye of the True Law,”。「真理を見通す知恵の眼によって悟られた秘蔵の法(「正法眼藏」)と、煩悩・妄想の束縛から脱した心の寂けさ・悟りの境地(「涅槃妙心」)の意。

「阿難陀」阿難に同じ。Ānanda(アーナンダ)。釈迦の十大弟子の一人で、釈迦の侍者として常に説法を聴いていたことから、「多聞(たもん)第一」と称せられた。禅宗では迦葉の跡を継いで、仏法付法蔵の第三祖とされる。「阿難陀」は漢語意訳では「歓喜」「慶喜」とも記される。

「禪宗は第八世紀前には、日本に來なかつた」古くは飛鳥時代に道照(白雉四(六五三)年に遣唐使の一員として入唐、玄奘三蔵に師事した)が、法相宗(玄奘の弟子の慈恩大師が開いた宗派)や成実宗(じょうじつしゅう:中国十三宗・日本の南都六宗の一つ)とともに禅を学び、帰朝後(斉明天皇六(六六〇)年)頃)、南都七大寺の一つである奈良の元興寺に禅院を設けている。小泉八雲が言っているのは、最澄が延暦二三(八〇四)年に入唐し、翌年帰朝して本邦に円・密・禅・戒の四宗を伝えたことを指していよう。但し、一般には鎌倉時代に日本臨済宗の開祖明菴栄西(みんなんえいさい)が臨済宗黄龍派の嗣法(しほう)の印可を受け、建久二(一一九一)年に帰朝した時に始まるとされる。

「九年間引續き默想してゐたので、足が脫落したと云ふ話である」達磨が面壁九年の座禅によって手足が腐ってしまったというのは民間の伝説に過ぎない。また、私は遙かに、雪舟の絵「慧可断臂図」で知られる、慧可の方の「雪中断臂」(慧可は嵩山の少林寺で面壁していた達磨に面会し、弟子入りを請うたが、達磨は断った。そこで慧可は自らの左腕を切り落として捧げ、弟子入りの願いが俗情や世知によるものではない覚悟を示して入門を許されたとする伝説)の方が凄絶であると思っている。

 

Toydaruma

 

 たしかに達磨は尊敬の資格を多く有する。しかし極東の美術家やおもちや屋は、彼等が滑稽感に耽る時に、この孫家の資格が干涉して來る事を許さなかつた、――疑もなく、この滑稽感は足がないと云ふ話からもとは起つたのであつた。數百年間、この達磨の傳統的不幸はをかしい繪やをかしい彫刻の主題となつて居る、そして代々の日本の子供は、達磨のおもちゃをもつて面白がつて來た、そのおもちやはどんなに投げ出されてもいつも坐るやうに再び起き上るやうに工夫してある。今も一般のおもちやであるこの『起き上り小法師』は、もとは同じ道理でできた『不倒翁』と云ふ支那のおもちゃから造られた、或は改造されたのであらう。十四世紀に作られたと知られて居る『饅頭食』[やぶちゃん注:原文“Manjū-Kui”。]と云ふ日本の狂言に、『起き上り小法師』の事が記して居る[やぶちゃん注:ママ。]。しかしこのおもちやの昔の形は達磨を表はした物とは思はれない。しかし十七世紀からの子供の歌があつて、それは達磨のおもちやは二百年以上も一般に知られて居る事を證明して居る、――

 

    一(ひ)に二(ふ)に

    ふんだん達磨が

    ひるも夜も

    赤い頭巾かぶりすんまいた

 

 この小さい歌から、おもちやの形が十七世紀以來餘り變つてゐない事が分るやうだ、達磨はやはり頭巾を冠つて、――一面に、顏だけ除いて――やはり赤く塗つてある。

[やぶちゃん注:「起き上り小法師」や「不倒翁」については、先行する『小泉八雲 日本の子供の歌  (大谷正信訳) 六(「子守歌」)及び後書き部』の私の「おきあがりこぼし」の注を参照されたい。

「『饅頭食』と云ふ日本の狂言に、『起き上り小法師』の事が記して居る」小学館「日本国語大辞典」に「饅頭」で『狂言。大蔵流。都で饅頭売りに饅頭をすすめられた田舎者は、うまいかどうか食ってみせたら買おうという。饅頭売りはふるまってもらえると思い』、『全部食べ、代金を田舎者に請求する。田舎者は自分が食べたのではないから知らぬと言い、さらには刀に手をかけて饅頭売りをおどし立ち去る。「狂言記」で「饅頭食い」』とある。台本を見ることが出来ないので、どのように書かれているかは不明。]

 すでに述べた雪達磨と、おもちやの達磨(大槪は張子でできて居る)の外に、無數のをかしい色々の達磨がある、殆んど凡ての種類の材料で、型に造られたり、彫刻になつたりして居る、それから大きさも、袋物の金具になる五分程の長さの金屬の達磨から、日本の煙草屋が、店の看板に使ふ二三尺もある大きな木製の達磨まである。……このやうに、面壁九年の聖い傳說を、民間藝術が、不都合にも、嘲つて居る。

       


 私の庭の雪達磨は、何年か前に、私が東海岸の或漁村で、樂しい一夏を送つた時に發見した甚だ妙な達磨の事を私に想ひ出させる。そこには宿屋がなかつた、しかし或魚屋の主人の乙吉と云ふ男が、私に二階を貸して、不思議な程色々に料理した魚の御馳走をしてくれた。

[やぶちゃん注:ここは「小泉八雲 燒津にて 大谷正信譯 附・やぶちゃん注」の私の冒頭注をまず参照されたい。瞥見した銭本健二氏が担当された小泉八雲の年譜(一九八八年恒文社刊「ラフカディオ・ハーン著作集 第十五巻」所収)によれば、これは明治三三(一九〇〇)年八月の体験に基づくとある。]

 或朝、乙吉は私を店に呼んで大層見事な魴鮄を見せた。……讀者は何か魴鮄に類した物を見た事があろだらうか。それは餘り大きな蝶か蛾に似て居るので、よくよく見なければ、それは魚、――かながしらの一種の魚で、蟲ではない事が本當には分らない。翼(つばさ)のやうに對になつて並んで居る四つの鰭がある、――上の一對は黑くて、それに空色の鮮やかな斑點がある、下の一對は濃紅[やぶちゃん注:「こいくれなゐ」と訓じておく。]である。それから又、蝶のやうに脚があるやうだ、――その細い脚で、早く走り𢌞る。……

[やぶちゃん注: 条鰭綱新鰭亜綱棘鰭上目カサゴ目コチ亜目ホウボウ科ホウボウ属ホウボウ Chelidonichthys spinosus。小泉八雲は胸鰭が二対四枚あるように錯覚している(無理もないとは思う)が、無論、胸鰭は一対しかない、その大きな前部は半円形を成しており、翼のように水平方向に広がり、色も鮮やかな青緑色を呈し、青の縁取りと斑点に彩られている(私は二十センチ大のそれ釣ったことがあるが、釣り上げて弱ると、この目眩めく美しいこれらの鮮やかな色は儚く消えてしまうのである)。胸鰭の一番下の軟条三対は鮮やかな紅色を呈し、前部からほぼ完全に遊離し、太く発達しており、これを脚のように動かして海底を「歩く」ことが出来る。これを小泉八雲は誤認したのである。私はホウボウの刺身は大好物である。

「かながしら」カサゴ目ホウボウ科カナガシラ属 Lepidotrigla にはカナド Lepidotrigla guentheri・トゲカナガシラ Lepidotrigla japonica・オニカナガシラ Lepidotrigla kishinouyei等の多くの種(十一種)が含まれるが、代表種としてのカナガシラLepidotrigla micropteraを挙げておけば問題ないであろう。確かに両社はよく似ているが、ホウボウ科 Triglidae の魚は概して鱗が細かいが、ホウボウのそれはカナガシラのそれよりも遙かに細かい。また、カナガシラの胸鰭はホウボウほど色が鮮やかでなく、単に赤いので生魚ならば識別は容易い。]

 『喰べられますか』私は尋ねた。

 『へい』乙吉は答へた、――『これを御馳走にさし上げます』

 〔どんな質問を受けても、――否定の答を要する質問にでも、――乙吉は『へい』と云ふ感嘆詞を以てその答を始める、――それが同情と好意の調子を以て云はれるので、聞く者に直ちに凡て人の世の辛酸を忘れさせる程である〕

 それから私は店へ歸つて、うろうろしながら色々の物を眺めた。一方には棚が何段もあつて、干物の箱、食用の海藻の包み、草鞋草履の束、酒德利、ラムネの壜などのせてある。その反對の側のずつと上に、神棚があつた、その神棚の下に、達磨の赤い像のある少し小さい棚のある事に氣がついた。たしかにその像はおもちやではなかつた、その前に供物もあつた。私は達磨が家の神となつて居るのを見ても驚かなかつた、――私は日本の各地で、疱瘡にかかつて居る子供のために、達磨に祈る事を知つてゐたからであつた。しかし、私は乙吉の達磨の特別の樣子に餘程驚いた、それは眼が一つしかなかつたからである、――大きな恐ろしい眼で、その店の薄暗がりの中で、大きな梟の眼のやうに、にらんで居るやうであつた。それは右の眼であつた、そして光澤のある紙で造つてあつた。左の眼の窩(あな)は白い空洞であつた。

[やぶちゃん注:「疱瘡にかかつて居る子供のために、達磨に祈る」中国で疱瘡除けには赤い色のものが効果があるとされていたため、伝来とともに、「赤く」塗られた並外れた善知識の達磨が天然痘に効験があると考えられたのである。実際には他の一部の縁起物と同じく、一種の悪疫悪霊退散の魔除けの装置として機能していたものであり、本来のその呪力から言えば、両目を入れてこそその呪力を発揮出来るはずである。目を入れないというの根本的には不合理であり、運不運を左右させるアイテムとして零落した神仏の一形態とは言えるであろう。不審に思う方のために謂い添えておくと、実際に達磨を製造している職人や会社の複数の記載にも、両目をしっかりと入れて飾るのがよい、と書かれてあるのである。

 

Daruma22

 

 それで私は乙吉に呼びかけた、

 『乙吉さん、――子供等は達磨樣の左の眼をたたき潰したのですか』

 『へい、へい』乙吉は眞魚板(まないた)へ上等の鰹を取り上げながら、氣の毒相に[やぶちゃん注:「さうに」。]笑[やぶちゃん注:「ゑみ」。]を含んだ『初めから、左の眼はございません』

 『こんな風に造つてあつたのですか』私は尋ねた。

 『へい』乙吉は答へた――その時、彼の長い庖丁は、銀白の魚の胴を音もさせないで、すーつと通りぬけた、――『こちらでは、盲目の達磨しか造りません。私もあの達磨を買ひました時には、眼はありませんでした。昨年大漁のあとで、――右の眼を造つて上げました』

 『しかし、何故兩方の眼を造つてあげなかつたのかね』私は尋ねた、――『たつた一つぢや氣の毒のやうだ』

 『へい、へい』手際よく桃色と銀色の肉の一枚一枚をガラスの簾にならべながら、乙吉は答へた、『大層運のよい日が又ございましたら、その時左の眼を入れて上げます』

 それから私は村の通りを步いて、人の家や店をのぞき𢌞つた、そして私は進步發達の色々の階段にある外の色々の達磨を發見した、――眼のないのもあり、一つしかないのもあり、二つあるのもあつた。出雲では實際恩惠を施して、その代り御禮を受ける事になつて居るのは布袋、――大きな腹の安樂の神、――である事を私は思ひ出した。禮拜者の方で感謝すべき理由があると思ふとすぐに、布袋の安樂にもたれた像は柔らかな座蒲團の上に置かれる、そして授かる恩惠の加はる每に、神は一つづつの座蒲團を與へられるのである。しかし達磨には二つ以上の眼が與へられない事を私は思ひついた、三つでは三目小僧と云ふ一種のお化けになる。……達磨に二つの眼と色々の小さな供物が供へられると、その達磨は又眼のない後繼者に店を讓るために片づけられる事が尋ねて見て分つた。眼無し達磨は、眼が欲しさに稼がねばならないから、不思議な事をしてくれると期待されて居る。

 

Daruma11

 

 日本にはこんな面白い小さい神が澤山ある、――餘り澤山だからそれを說明するには甚だ大きな書物が必要にならう、そして私はこんな不思議な小さい神々を禮拜する程の人々は大槪は感心すべき程正直である事をこれまで發見して居る。實際私自身の經驗では、神が質朴な神である程、人は益々正直であると云ふ信仰をいつも殆ど正しいとするのである、――しかし私は讀者に輕卒な歸納をして貰ふ事を欲しない。たとへば正直の最上點は、神の消逃點譯者註[やぶちゃん注:「せうたうてん」。]に始まるやうだなどと云ふつもりはない。ただこれだけは敢て云ひたい、卽ち甚だ小さい神、おもちやの神を信仰する事は、素朴なる心の人のする事である、心の質朴なる事はこの險惡なる世界に於て、純粹の善に最も接近して居る。

譯者註。畫では消逃點、或いは合點とも云ふ。並行の二線を正面より見れば、最後は一點となつて消える、それが合點である。信ずる神が段々簡單になつて殆んど神でないやうなのを信ずゐ人間が一番正直だと歸納されては困ると云ふ意味。

[やぶちゃん注:以上の「譯者註」は本篇末に字下げポイント落ちであるのであるが、ここに移動し、引き上げてポイントも本文と同じにした。

「消逃點」謂わずもがなであるが、透視図法に於ける消失点のこと。]

 

 私がこの村を去る前晚に、乙吉は二ケ月分の御馳走代の勘定書をもつて來た、そしてその勘定は途方もなく安い事が分つた。勿論日本の親切な習慣に隨つて、茶代は期待されてゐた、しかしその事實を考慮のうちに入れて見ても、その勘定書は馬庖馬鹿しく正直な物であつた。私は色々の事を有難く思つて居る心もちを表はすために、私のすべき最少限度は、要求額を倍にする事であつた、そして乙吉の滿足は全く自然で、又同時に相應にしかつべらしかつたから、それは美しい見ものであつた。

[やぶちゃん注:「しかつべらし」近世以降の語で「然りつべくあらし」の転か。「鹿爪らしい」は当て字。ここは「まじめ過ぎて堅苦しい感じがする」の意。]

 私は早い急行列車に乘るために翌朝三時半に起きて着物を着物へた、しかしその夢の時刻にも、暖い朝食が階下で私を待つてゐて、乙吉の小さい色の黑い娘が給仕の用意をして居るのを見た。……私が熱い茶の最後の一杯を飮んだ時に、私の眼は思はず神棚の方へ動いた、そこに小さい燈明が未だ燃えてゐた。その時私は達磨の前にも燈明の燃えて居る事に氣がついた、殆ど同時に達磨が私の方を眞直に見て居る事を認めた――二つの眼で。……

 

Daruma33

 

 

2019/10/22

小泉八雲 漂流  (大谷正信訳)

 

[やぶちゃん注:本篇(原題“Drifting ”)は一九〇一(明治三四)年十月にボストンの「リトル・ブラウン社」(LITTLE,BROWN AND COMPANY)から出版された作品集“A JAPANESE MISCELLANY”(「日本雑記」。来日後の第八作品集)の第一パート“Strange Stories”(「奇談」・全六話)・第二パート“Folklore Gleanings”(「民俗伝承拾遺集」・全三篇)に次ぎ、最後の三番目に配された“Studies Here and There”(「ここかしこに関わる研究」。底本では「隨筆ここかしこ」)の第四話である。本作品集は“Internet Archive”のこちら(出版社及びクレジットの入ったページを示した)で全篇視認できる(本篇はここから)。活字化されたものは、整序されたものは見当たらない(同前の“Internet Archive”には本作品集のフル・テクスト・ヴァージョンはあるにはあるのであるが、OCRによる読み込みで、誤まり多く、美しくなく、読み難く、また、味気ない)。

 底本は英文サイトInternet Archive”のこちらにある、第一書房が昭和一一(一九三六)年十一月に刊行した「家庭版小泉八雲全集」(全十二巻)の第七巻の画像データをPDFで落として視認した。

 訳者大谷正信氏については、「小泉八雲 燒津にて 大谷正信譯」の私の冒頭注を参照されたい。また、本ロケーションである焼津と小泉八雲に就いても同篇冒頭注で腑に落ちて戴けるものと存ずる。

 一部、特異的に底本にはない「!」の後の一字空けを行った。]

 

 

   漂 流

 

 颱風が襲ひつつあつた。そこで自分は岸打つ大波を見んと大風に防波壁の上に坐つて居た。そして老人の天野甚助が自分の橫に坐つて居た。東南は一面に何處も黑味を帶びた靑の薄暗がりで、唯だ海だけは一種朽葉色の妙な色をして居た。巨大な濤が既に山と高まつて推し寄せつつあつた、百碼[やぶちゃん注:「ヤード」。九十一・四四メートル。]離れたところでそれが雷と地震とのやうな音を立てて崩れ碎け、その飛沫[やぶちゃん注:「しぶき」。]を傾斜面一面に布と展べ[やぶちゃん注:「のべ」。]散らせて、二人の顏を濡らす。どどんと長く打ち碎ける度每に、ヂヤヂヤヂヤヂヤと引いて行く砂利の音は正しく全速力で走つて居る列車の音のやうであつた。自分は怖ろしくなる、と甚助に言つた。すると甚助はにこりと笑つた。

 

 斯う言ふのであつた。『これよりか非道い海で、私は二日二た晚の間泳ぎました。私はその時十九でありました。八人の乘組の中で、助かつたものは私だけでありました。

 『私共の船は福壽丸といふ名の船でありまして――此町の前田甚五郞が有つて居りました。乘組は、一日人除けて、皆んな燒津の者でありました。船長は齋藤吉右衞門といつて、六十を越えた男でありました。城(じやう)の腰(こし)に住んで居りました、――丁度此處の後の街路(とほり)であります。も一人老人が乘つて居りました。仁藤正七[やぶちゃん注:原文表記に従えば、「にとうしょううひち」。]といつて、これは新屋(あらや)村に住んで居りました。それから、四十二になる寺屋勘吉が居ました。その弟の巳之助、これは十六の子供でありましたが、これも一緖に居ました。此の寺尾二人は新屋に住んで居たのであります。それから齋藤平吉が居ました、三十になる。それから松四郞といふ男が居りました、――これは周防の男でありましたが、燒津に住み着いて居たのであります。乘組の今一人に鷲野乙吉が居ました。これは城の腰に住まつて居りまして、やつと二十一でありました。私は船の中で一番の年若でありました、――寺尾巳之助を除けては。

[やぶちゃん注:八雲が晩年、避暑に非常に好んだ焼津の定宿(旅宿ではなく、二階を借りた)としていた魚商人山口乙吉(初回の旅は明治三〇(一八九七)年八月で、以後の夏は殆んどここで過ごした。現在、乙吉の家があったところ(現在の静岡県焼津市城之腰(じょうのこし)の民家の前)に「小泉八雲滞在の家跡碑」が建っている(リンクはグーグル・マップ・データ。以下同じ)が、このロケーションはこの乙吉さんの家のすぐ近くの海岸端であると考えてよい。

「新屋(あらや)村」現在の焼津市新屋。城之腰のすぐ北である。]

 『萬延元年――申の歲でありました[やぶちゃん注:一八六〇年。庚申(かのえさる)。]――その七月の十日[やぶちゃん注:グレゴリオ暦で八月二十六日。]の朝燒津から船を乘り出しました――讃岐へ向けて。十一日の夜紀州沖で、東南からの颱風に襲はれました。眞夜中少し前に船は顚覆しました。ひつくらかへる[やぶちゃん注:ママ。]と思つた時、私は船板を一枚とりあげて、それを投げ出して海へ飛び込みました。その折は怖ろしい强い風で、夜は眞つ暗で、やつと二三尺先きが見える許りでありましたが、仕合せにもその板が見つかりまして、それを身體の下へ置きました。と、直ぐに船は沈んでしまひました。私の近くに、海に、鷲野乙吉と、寺尾兄弟と、それから松四郞といふ男が居ました、――皆んな泳いで、他の者の居る樣子は見えませんでした。多分船と一諸に沈んだのでありませう。私共五人は大波と一緖に浮き沈みしながら互に呼び合つて居りました。見ると誰れも板か何かの材木を有つてゐますのに、寺尾勘吉だけ有つて居りません。そこで私は勘吉に「あにき、お前にや子供がある。おりやまだ若い。この板をお前に上げよう」と呼ばはりますと、勘吉は大聲で「此海ぢや板はあぶない――材木を離れて居れ、甚(じん)よ――怪我するかもしれんぞ」と言ひ返しました。――それに返事も出來ぬうちに、黑山のやうな浪がおつかぶさりました。私は長いこと下に居りましたが、また水の上へ出て來た時には、勘吉の姿は見えませんでした。年下の者はまだ泳いで居ました。が私の左手の方にさらはれて行つて居りました。――姿は見えません。互に聲高に呼び合つて居りました。私は浪に隨(つ)いて浮いて居るやうにしました。他の者は私を呼びます――「甚よ! 甚よ!――こつちへ來い!」然し私はそつちの方へ行くのは非常にあぶないことが分かつて居りました。浪が橫から私を打つたんびに下へ沈められましたから。そこで私は呼び返しました――「潮に隨(つ)いて居れ!――流れについて浮いて居れ!」と。が皆んなには解らないやうでありました。――相變はらず「こつちへ來い! こつちへ來い」と言ひます。そしてその聲が一度一度段々遠くからきこえて來ました。私は返事するのが恐はくなりました。……水で死んだ者は、伴侶(つれ)が欲しいと、そんな風に「こつちへ來い! こつちへ來い!」と呼ぶのでありますから。……

 『暫くすると其の呼び聲が止みました。聞こえるものは海と風と雨とだけであります。非常に暗くつて、浪だけ、それもその退(ひ)く時だけ、――高い黑い影のやうに見えて――それがまた一度一度非常に强く身體を下へ引くのでありました。引つぱり方で私はどつちへ向いて行つて宜いか察しました。雨の爲めに浪が大して碎けません。雨が降らずに居たなら、どんな者だつてそんな海では長いこと生きていることは出來ませんでしたらう。一刻一刻と風は非道くなつて、浪は段々高くなりました。――そこで私は其晚夜通し小川の地藏樣にお助けを祈りました。……明かりと仰しやるのですか?――え〻、水に明かりはありましたが、餘計はありません。大きいのです、蠟燭のやうに光る。……

[やぶちゃん注:「小川の地藏樣」現在の静岡県焼津市東小川(こがわ)にある時宗寶城山海蔵寺公式サイト内に、元は『天台宗寶城山安養寺と称し、後白河院の勅願所であったと伝える』とし、『嘉元三』(一三〇五)年『春、時宗二祖真教上人が念仏を広めるため』、『諸国を巡行し』、『当地へ来た折』り、『時の住僧勧海律師』は『上人の徳を慕い』、『徒弟となり、天台宗を改め』、『時宗とした』とある。『本尊は延命地蔵尊』で、『明応九』(一五〇〇)年に、『漁師が城之腰沖で地蔵尊をすくいあげ、当寺へ』納めたという。『当寺に寄せられた、海と地蔵の奇縁により』、『安養寺から海蔵寺へと改称されたという』。『当寺は徳川家(旧紀州家)、西尾家(旧遠州横須賀城主)、本多家(旧田中城主)などの帰依が厚く、その宝物が残る』とした後に、何んと! 『小泉八雲の作品「漂流」の主人公、天野甚助が』安政六(一八五九)年(本話より一年前)、『勢州沖(現在の三重県)で難船、舟の板子に命を托して助かり、記念のために奉納した板が残る』とあるではないか! この主人公天野甚助は実在し、実際の体験談を基にしていることが明らかとなるのである! 現在、その板は「焼津小泉八雲記念館」に収蔵されており、ここ焼津市観光協会ブログ内の画像)で写真が見られる!また、「焼津市」公式サイト内の「小川のお地蔵さん」には、明応九年『の夏のことです』。城之腰村の沖の海で、『毎晩なにか』、光っているもの『があり、村の人たちは、いったいなんだろうかと、ふしぎがっていました』。『そんなことがつづいたある日、吉平さんという漁師が鰯をとるために網をしかけて、さて引きあげようかとしたところ、何かずっしりと重たいものが網にかかっていました。見ると』一『メートルほどもある木のお地蔵さんでした』。『吉平さんはびっくりして、急いで引きあげ、思わず手を合わせておがみました。そして、小さな仮のお堂を建ててまつりました』。『それからしばらくしてからのこと、村人の一人が夢をみました。夢の中にお地蔵さんがあらわれて、「この浦の西にある安養寺は、わたしと縁のあるお寺である。わたしをそこに移したなら、きっとおまえたちを守ってやろう。願いごともかなえてやろう」と言いました』。『村の人たちはこれを聞き、「ありがたいことだ。ぜひ安養寺におまつりしよう」といって、そのお地蔵さんをお寺に運びました』。『海からあがったお地蔵さん…。こんなふしぎな縁があったので、それから海蔵寺とよばれるようになりました』とある。同市公式サイト内には「甚助さんの板子」という詳しい実録ページもあるが、それは本篇を読まれた後から読んだ方がよろしいかと存ずる。本文にも出るが、別な記事を見ると、実際の甚助も三日後に救われるまで、ひたすら、小川の地蔵さまを念じ続けた、ともある。さすれば、この段落の最後の「……明かりと仰しやるのですか?――え〻、水に明かりはありましたが、餘計はありません。大きいのです、蠟燭のやうに光る。……」という甚助が見た不思議な光とは……まさに……地蔵の霊光だった――のではあるまいか?! なお、瞥見した銭本健二氏が担当された小泉八雲の年譜(一九八八年恒文社刊「ラフカディオ・ハーン著作集 第十五巻」所収)の明治三三(一九〇〇)年の八月の条に『山口乙吉の向かいの家で酒屋を営む天野勘助から福寿丸の遭難と漂流の体験を聞いたのも、この頃である』と明記されているのである。

 『夜明けに、見ると海は非道い色で――濁つた綠色をして居ました。浪は小山のやうでありました。そして風は恐ろしい强さでした。雨と飛沫[やぶちゃん注:「しぶき」。]とで水の上に霧が出來て居て、地平線は見えません。然し見える處に陸があつても、浮いて居ようとするよりほかに、何も出來なかつたでせう。腹が空(す)きました、――非常に空きました。その空腹(すきばら)の苦さが直ぐと堪へられぬ程非道くなりました。その日一日私は、風と雨の下に漂つて、大波と一緖に浮かんだり沈んだりしました。でも陸は影形も見えません。何處へ行きをるのか分かりませでした。そんな空では西も東も判りやしません。

 『暗くなつてから風は凪ぎました。が、雨は相變はらず土砂降りて、眞つ黑です。空腹の苦さは通つてしまひました[やぶちゃん注:「空き過ぎて逆に消え去ってしまいました」の意。]。が、弱つてしまひました――沈むに相違無いと思つた程弱りました。すると私を呼ぶ聲が聞こえました――丁度前の晚に私を呼んだと同じやうに――「こつちへ來い!――こつちへ來い!」と。……すると突然に、福壽丸の者が四人見えました――泳いで居るのではありません、私の橫に立つて居るのであります、――寺尾勘吉と、寺尾巳之助と、鷲野乙吉と、それから松四郞といふ男と。皆んな私を怒つた顏して見て居るのであります。そして巳之助といふ男の子が、叱るやうに、大聲で「此處へ私は舵を取りつけねばならぬ。お前、甚之助[やぶちゃん注:ママ。]、お前は何もせずに眠つてばかり居る」といふのであります。すると寺尾勘吉が――これは私が板をやらうと言つた男でありますが――それが或る掛物を兩手に持つて私の上へ身體を屈めて、それを半分展(ひろ)げて「甚よ。此處に私は阿弼陀樣の繪圖を有つて居る。見い。さあ本當にお前は念佛を唱へねばならぬぞ!」と言ひました。口のきき方が奇妙でありました、――恐ろしいと思はせるやうな。私は佛樣のお姿を見て、恐はごは念佛を唱へました、―――南無阿彌陀佛、南無阿彌陀佛と。と同時に痛みが、火傷の痛みのやうな痛みが、私の股と腰とを刺しました。見ると私は板から轉び出て海の中へ落ちて居りました。その痛みはカツヲノヱボシがさせたのでありました。……一度もカツヲノヱボシを御覽になつたことが無いのでありますか。ヱボシ、神主さんが冠る、あの恰好した水母であります。カツヲ(鰹)がそれを食ふから、カツヲノヱボシと私共は言つて居ります。そいつが何處かへ出て來ると、漁夫は鰹が澤山に捕れるぞと思ひます。體軀(からだ)は硝子のやうに透いて居りますが、下の處に紫色の緣飾[やぶちゃん注:「ふちかざり」。]のやうなものと、長い紫色の紐があります。こいつが身體へ觸はると、その痛さは非道いもので、長い間とれません。……その痛さでよみがへりました。若しそれに刺されなかつたら、私は二度と眼を覺さなかつたかも知れません。私は又板の上へ乘りましたそして小川の地藏樣と金比羅樣とへお祈りしました。それで朝まで目をさまして居ることが出來ました。

[やぶちゃん注:「カツヲノヱボシ」私の得意分野である。海棲動物中で思いつく種を一つ挙げよ、と言われたら、私がまず真っ先に思い浮かべる種といってよい。それほど海産無脊椎動物フリークの私がマニアックに好きな生き物である。強力な刺胞毒を持つ刺胞動物門 Cnidaria ヒドロ虫綱 Hydrozoa クダクラゲ目 Siphonophora 嚢泳亜目 Cystonectae カツオノエボシ科 Physaliidae カツオノエボシ属 Physalia カツオノエボシ Physalia physalis(Linnaeus, 1758)。英名を“Portuguese Man O' War”(単に“Man-Of-War”とも)他に“Bluebottle”・“Bluebubble”などと呼ぶ。詳しくは、「生物學講話 丘淺次郎 第六章 詐欺 一 色の僞り~(5)」の私の長い注を参照されたい。なお、和名「カツオノエボシ」は、「鰹」がやってくるまで被っていた「烏帽子」の謂いで、鰹漁の盛んな三浦半島や伊豆半島では、本州の太平洋沿岸に鰹が黒潮に乗って沿岸部へ到来する時期に、まず、このクラゲが先に沿岸部に漂着し、その直後に鰹が獲れ始めるところから、その気胞を豊漁の予祝的に儀式正装の烏帽子に見たてて、かく呼ぶようになったものである。断言は出来ないが、私はカツオはカツオノエボシを摂餌はしないと思う(ちっちゃな可愛いアオミノウミウシ(綺麗な格好しているくせに刺胞を発射させることなく、体内に取り入れる「盗刺胞」をやらかすのだ。この不思議な機序は実は判っていないのだが、私は何らかの情報(細胞質内の酵素或いは遺伝情報)を刺胞に与えて異物認識をしないようにさせているのではないかと私は考えている。そんなの非科学的だって?! いやいや! ウミウシの中には細胞核の情報を盗んでクラゲの刺胞を自己武器に転用するトンデモない「盗核」がほぼ確実視されているウミウシがいるんだッツうの! 嘘だと思うなら、私の「盗核という夢魔」を読みな!)や、カツオノエボシと共生するなどと言われている(私は「共生」という考え方には意義がある)、当該種の刺胞毒に耐性を持ち、平気で刺胞体垂下部に棲んでいるスズキ目エボシダイ科エボシダイ属エボシダイ Nomeus gronovii(こいつがカツオノエボシの刺胞体をついばんで食うことはずっと昔からよく知られているのだ。だからこれはやはり寄生というべきなのだ、と私は声を大にして言いたいのである)なんてえのが、いることは、いるがね。

 『夜明け前に雨が歇んで、空が霽れ始めました。星が少し見えましたから。東雲[やぶちゃん注:「しののめ」。]に又睡くなりました。が、頭を打たれて眼が覺めました。大きな海鳥が私を突つついたのであります。日は雲の後ろに昇つて居りました。浪は早靜かになつて居りました。やがてのこと、小さな鳶色の鳥が私の顏の橫を飛びました、――海岸に居る鳥であります(その本當の名は私は知りません)そこで、陸が見えるに相違無いと思ひました。後ろを見ましたら山が見えました。その恰好が何處の山とも私には判かりません。靑いから――八九里は離れて居るやうに思はれました。私はそれを當てに泳がうと決心しました――岸まで行ける見込みはありませんでしたけれども。又ひもじくもなりました――恐ろしくひもじく!

[やぶちゃん注:小型で白い部分が少ない鳶色の海鳥となると、ミズナギドリ目ミズナギドリ科オオミズナギドリ Calonectris leucomelas 辺りか。]

 

 『私は何時間も何時間もその山目當てに泳ぎました。又も眠つてしまひました。が、今度も海鳥が私を突つつきました。一日泳ぎました。夕暮近く、山の樣子から、山に近寄つて來よる事が判りました。が、岸まで行くには二日かかると思ひました。とでも駄目だと殆ど諦めようとして居る時に、不圖船が見えました――大きな帆船であります。私の方指して走つて居るのでありましたが、もつと早く泳ぐことが出來なければ、間はるか離れて、行き過ぎてしまふだらうと思ひました。これを外づしては助かる見込みはもうありません。そこで板は棄ててしまつて、出來るだけ早く泳ぎました。船から二丁[やぶちゃん注:約二百十八メートル。]許りの處へ行けました。それから大聲出して呼ばはりました。だが甲板には人つ子一人見えません。何とも返事がありません。と思ふ間に私の前を通つて行つてしまひました。日は暮れかかつて居ますし、私は絕望しました。すると突然男が一人甲板へ出て來て、私に「泳がうとするな! からだを疲らすな!――小舟を出してやるぞ」と大聲で言ふのであります。見ると、同時に船の帆を下ろしました。嬉しかつたものでありますから、身體に元氣がまた出て來たやうでありました、――一所懸命に泳いで行きました。するとその帆船は小船を下ろしました。そして、その小舟が私の方へ來る時に、一人の男が「ほかに誰れも居ないか――お前何か落としたものは無いか」と大聲でききます。私は「板一枚きりで何も無かつた」と返事しました。……と一緖に私はぐつたりしてしまひました。その小舟の人達が曳きずり上げるのは判かつて居ましたが、口をきくことも身動きすることも出來ませんで、あたりが眞つ暗になつてしまひました。

 

 『一つ時經つとまたあの聲がきこえました――福壽丸の者どもの聲が。――「「甚よ! 甚よ!」と。私はぞつとしました。すると誰れかが私の身體をゆすぶつて「おい! おい! そりや夢だよ」と言ひます。見ると私はその帆船の中で、吊り提燈の下で(夜でありましたから)寢て居りました。――そして私の橫に、見も知らぬ老人が一人、膝ついて、手に飯茶椀を持つて居ます。「少し食つて見なさい」と大變親切に言ひました。私は起きて坐らうと思ひましたが起きられません。そこでその男は自分で、茶椀から、養つて吳れました。茶椀が空になつた時に、もつと欲しいと言ひました。が、その老人は「今はいけません。――先づ眠(ね)なければいけません」と返事しました。ほかの誰れかに「私が言ふまで、もう何もやつてはならぬぞ。餘計食はせると、死ぬるから」といふ聲がきこえました。私はまた眠りました。そしてその夜もう二度飯を貰ひました――軟らかく炊いた飯を――一度に小さな茶椀に一パイ。

 『翌けの朝私はよほど丈夫な氣持ちになりました。そして飯を持つて來て吳れたその老人が來て私に訊ねました。船の沈沒の話を聞き、私が海の中に居た時間のことを聞いて、非常に私を憫れんで吳れました。その二日二た晚の間に、二十五里以上漂つて居たのだとその男は話しました。「お前さんが棄てた板を探しに行つて拾ひ上げました。屹度お前さんはいつかそれを金比羅樣へ奉納したいのでせう」といふのであります。私は御禮を言ひましたが、燒津の地藏樣の寺へ奉納したいと返事しました。それは私が一番お助けを祈念したのは小川の地藏樣でありましたから。

 『その親切な老人はその帆船の船長で、そしてまたその持主でありまして、紀州のクキ港指して行きをるのでありました。……クキのキは、オニといふ字で、――クキは九つの鬼といふ意味であります、……船の男に皆親切でありました。私はその船へ上がつた時は、褌一つ締めて居るだけで、眞つ裸であります、そこで皆が私に着るものを吳れました。一人の男が下衣を吳れる、もう一人の男が上衣を吳れる、又一人の男が帶を吳れました。幾人かが手拭や草履を吳れました。――それからみんなが寄り合つて、六七兩に上るほどの惠み金を私にこしらへて吳れました。

[やぶちゃん注:「紀州のクキ」九木とも書く。三重県南部、尾鷲市東部の漁業地区の旧村名で、現在の三重県尾鷲市九鬼町(くきちょう)。急峻な紀伊山地が沈水したリアス湾入の奥にあり、かつては水運に頼った。南北朝時代から江戸時代にかけて勇名を馳せた九鬼水軍発祥の地として知られる。大敷網によるブリ漁が主で、今はハマチや真珠の養殖も行われている。

「六七兩」幕末の一両はインフレで現在の二万八千円相当まで下落していたが、それでも十六万八千円~十九万六千円相当となる。]

 『九鬼へ着きますと――綺麗な小さな處であります、名前は變でありますが――船長は私を上等の旅籠屋へ連れて行きました。そこで二三日休息しますと私は元の通り丈夫になりました。するとその村の長が、その當時の名で言ふと地頭でありますが、それが私を呼びによこして、私の身の上を聞いて、これを書き付けさせました。事の報告書を燒津村の地頭へ送つてやらなければならぬ、それから後で國へ送り還す途[やぶちゃん注:「みち」。手だて。]を考へよう、と私に言ふのであります。處がその播州の船長は、私の生命を助けたその船長は、自分の船で送り屆けたい、それから又地頭への使者の役目を引き受けたい、と申し出ました。で、二人の間に大分論判がありました。當時は電信もありませんし、郵便もありません。わざわざ使ひの者(ヒキヤク)を、九鬼から燒津へ送るには、少くて五十兩はかかりましたらう。ところが一方にまた、そんな事に特別な法律や慣習が――今頃の法律とは餘程異つた法律があつたものであります。そのうち燒津の船が一艘近くの荒坂[やぶちゃん注:「あらさか」。]へ入つて來ました。そして九鬼の女で、折よく荒坂に居た者が、私が九鬼に居るといふことを燒津の船長に話したのであります。それから燒津の船が九鬼へ來ました。そこで地頭は燒津の船長に託して、――命令の書面をそれに渡して――私を送り還すことに決心しました。

[やぶちゃん注:「五十兩」先の換算で百四十万円にもなる。飛脚費用が驚くほど高額であったことが判る。実際、サイト「江戸時代campus」のこちらを見ると、江戸時代の平均値であろうが、『江戸から大坂まで一番早い便で飛脚を走らせたら、その料金は』『仕立(いまでいうチャーター便)の正三日限』り『という』、『実質』、『まる二日で届く便をつかうと、なんと料金は銀700匁(約140万円)もかか』ったとあるから、この甚助の謂いは大袈裟ではないことが判る。

「荒坂」現在の、九鬼の南西十キロメートルにある三重県熊野市二木島町附近と思われる。]

 

 『全體で、私が燒津へ歸つた時は福壽丸が沈沒してから、一箇月ばかり經つて居りました。港へは夜着きましら。直ぐとは家へ歸りませんでした。家の者が恐ろしがつたでありませうから。尤も私共の船が沈沒したといふ確かとした消息(たより)は燒津に屆いては居りませんでしたが、船に隨(つ)いて居た物を澤山漁船が拾ひ上げて居りました。それにその颱風は非常に突然に來て、海は非道い荒でありましたから、福壽丸は沈沒したのだ、乘つて居た者は皆んな死んだのだ、と皆んな信じて居たのであります。……他の者は誰れ一人その後たよりがありませんでした。……私は其晚或る友達の家へ行きました。そして翌けの朝双親と兄弟とへ言傳[やぶちゃん注:「いひづて」。]をしました。すると皆んな迎へに來て吳れました。……

 

 『每年一度私は讃岐の金比羅樣へ參詣します。難船に助かつた者は皆んな御禮に參詣します。それから小川の地藏樣のお寺へは每度參詣します。明日私と一緖にお出になれば、その板をお見せ致しませう』

 

[やぶちゃん注:作中内の主人公天野甚助が作中で示される遭難漂流の万延元(一八六〇)年当時、数え十九であったとするのを信ずるならば、本書刊行当時の明治三四(一九〇一)年でも、満五十九歳となり、小泉八雲がこの天野勘助に逢って、実際にこの話を聴いた可能性はすこぶる高いと私は考える。又聴きであったとしても、この話――舟幽霊の怪奇談含みの実話としても――勝れた名掌品であることに何の瑕疵もない。]

小泉八雲 海のほとりにて  (大谷正信訳)

 

[やぶちゃん注:本篇(原題“Beside the Sea ”)は一九〇一(明治三四)年十月にボストンの「リトル・ブラウン社」(LITTLE,BROWN AND COMPANY)から出版された作品集“A JAPANESE MISCELLANY”(「日本雑記」。来日後の第八作品集)の第一パート“Strange Stories”(「奇談」・全六話)・第二パート“Folklore Gleanings”(「民俗伝承拾遺集」・全三篇)に次ぎ、最後の三番目に配された“Studies Here and There”(「ここかしこに関わる研究」。底本では「隨筆ここかしこ」)の第三話である。本作品集は“Internet Archive”のこちら(出版社及びクレジットの入ったページを示した)で全篇視認できる(本篇はここから)。活字化されたものは、整序されたものは見当たらない(同前の“Internet Archive”には本作品集のフル・テクスト・ヴァージョンはあるにはあるのであるが、OCRによる読み込みで、誤まり多く、美しくなく、読み難く、また、味気ない)。

 底本は英文サイトInternet Archive”のこちらにある、第一書房が昭和一一(一九三六)年十一月に刊行した「家庭版小泉八雲全集」(全十二巻)の第七巻の画像データをPDFで落として視認した。

 訳者大谷正信氏については、「小泉八雲 燒津にて 大谷正信譯」の私の冒頭注を参照されたい。

 傍点「ヽ」は太字に代えた。

 また、本篇には本文に語られる、基本、小泉八雲が原画を描き、後に友人に補正して貰ったと記す“THE FEAST OF THE GHOSTS”(「霊たちの餐(さん)・霊たちへの馳走」)とキャプションする絵が挿入されてある。先の“Internet Archive”のPDFから画像を取り込み、やや見難いので、補正を加えたものを、「一」の適切と思われる位置に挿入しておいた。]

 

   海のほとりにて

 

        

 

 燒津の溺死者全體の爲めに、午後の二時に、濱邊でセガキ法要を營むと僧侶が豫告して居たのであつた。燒津は――(日本最古の歷史に『ヤキヅ』といふ名で記載されて居る)舊い處である――それで燒津の漁夫共は、幾千年の間、その大海へ人身御供を几帳面に捧げ來たつて居るのである。で僧侶の此の豫告が、佛敎よりも遙かに古い或る物を――溺死者の靈魂は波と共に永久に動いて居るといふ想像を――自分に懷ひ[やぶちゃん注:「おもひ」。]出させた。この信仰に據ると、燒津沖の海は精靈で一杯になつて居るに相違無い。……

[やぶちゃん注:本ロケーションに就いては、「小泉八雲 燒津にて 大谷正信譯 附・やぶちゃん注」の私の冒頭注及びそのリンク先を参照して戴ければ、納得されるものと存ずる。また、瞥見した銭本健二氏が担当された小泉八雲の年譜(一九八八年恒文社刊「ラフカディオ・ハーン著作集 第十五巻」所収)によれば、本篇は明治三三(一九〇〇)年八月十日の体験に基づくものであるらしい。

「日本最古の歷史に『ヤキヅ』といふ名で記載されて居る」「古事記」の景行天皇の「倭建命の東征」の下りの、草薙の剣の霊験譚として知られる箇所に出る。

   *

故爾到相武國之時。其國造詐白。於此野中。有大沼。住是沼中之神。甚道速振神也。於是看行其神。入坐其野。爾其國造。火著其野。故知見欺而。解開其姨倭比賣命之所給嚢口而見者。火打有其囊。於是先以其御刀苅撥草。以其火打而。打出火。著向火而。燒退。還出。皆切滅。其國造等。卽著火燒。故其地者。於今謂燒津也。

   *

 故(かれ)、爾(ここ)に相武國(さがむのくに)に到りましし時、その國造(くにのみやつこ)、詐(いつは)りて白(まう)さく、

「この野の中に大きなる沼有り。この沼の中に住める神、甚(いと)道速振(ちはやぶ)る神なり。」

と。

 是(ここ)に其の神を看行(みそな)はしに、其の野に入り坐(ま)しき。

 爾(ここ)に其の國造、火を其の野に著けぬ。

 故(かれ)、欺(あざむ)かえぬと知らして、その姨(みをば)倭比賣命(やまとひめのみこと)の給ひし囊(ふくろ)の口を解き開けて見たまへば、火打(ひうち)、その裏(うち)に有り。

 是に、先づ、その御刀(みはかし)もちて、草を苅り撥(はら)ひ、その火打もちて、火を打ち出で、向火(むかへび)を著(つ)けて、燒き退(そ)けて、還り出でまして、皆、其の國造(くにのみやつこ)等を切り滅ぼし、卽ち、火、著けて、燒きたまひき。

 故(かれ)、今に「燒津(やきづ)」と謂ふ。

   *

但し、ここには「相武」(後の相模国)とするので、現在の焼津と同定するにはやや疑問がある。但し、「日本書紀」では「駿河」とあり、それならば問題はない。]

 自分は準備を見に午後早く海岸へ行つた。見ると大勢の人がはや既に集つて居た。それは燒けるやうな七月の日で――一點の雲も見えず、岸の傾斜面の荒い砂利は赫々たる日の光の下に、爐から搔き出したばかりの鑛滓(かなくそ)のやうな熱を放射して居つた。だが唐金[やぶちゃん注:「からかね」。]のあらゆる色合に焦げて居るその漁夫共は、日光を何とも思つて居なかつた。燒け焦げるやうな石の上に坐つて待つて居るのであつた。海は退潮[やぶちゃん注:「ひきしほ」。]で、――緩い、長い、のろい漣[やぶちゃん注:「さざなみ」。]に動いて――穩かであつた。

 

 海邊には、高さ四呎[やぶちゃん注:「フィート」。約一メートル二十一センチメートル。]許りの、粗末な型祭壇樣のものが建つて居て、その上に、白木の馬鹿に大きなヰハイ卽ち葬禮用の牌札が、――その背面を海に向けて――置いてあつた。その位牌には、大きな支那文字で、三界の萬の(無數の)靈に位する處(座處)といふ意味のサンガイバンレイヰといふ字が書いてあつた。種々な食物のお供へ物がその位牌の前に置いてあつた、――その中には、椀に盛つた飯、餅、茄子、梨があり、新しい蓮の葉の上へ盛り上げて、所謂ヒヤクミノオンジキが一と山あつた。これは名は百種の異つた滋味といふ意味ではあるが、實際は飯と薄く刻んだ茄子と交ぜ合はせたものである。飯の椀には小さな箸が突き刺してあつて、それへ色紙の切つだのが附けてあつた。それからまた蝋燭、香爐、幾把かの線香、水の入つた器、シキミといふ聖木の小枝が挿してある一對の竹筒、のあるのも見えた。そして水の入つて居る器の橫に、この法要の規程に從つてお供物へ水を撒き散らす爲めの、ミソハギ一束置いてあるのであつた。

[やぶちゃん注:「サンガイバンレイヰ」「三界萬靈位」。

「ヒヤクミノオンジキ」「百味の飮食」。

「シキミ」樒。常緑木本のマツブサ科シキミ属シキミ Illicium anisatum。仏前に供えることで知られる。ウィキの「シキミ」によれば、その由来は、『空海が青蓮華の代用として密教の修法に使った。青蓮花は天竺の無熱池にあるとされ、その花に似ているので仏前の供養用に使われた』というが、『なにより』、『年中』、『継続して美しく、手に入れやすい』ことから、『日本では』民俗社会で『古来より』、『この枝葉を仏前墓前に供えている』とある。なお、本種はその全部が危険な有毒植物でもあることはあまり知られていない。リンク先を見られたい。

「ミソハギ」禊萩。フトモモ目ミソハギ科ミソハギ属ミソハギ Lythrum ancepsウィキの「ミソハギ」によれば、『お盆の』頃、『紅紫色』の六『弁の小さい花を先端部の葉腋に多数つける』。『盆花としてよく使われ、ボンバナ、ショウリョウバナ(精霊花)などの名もある。ミソハギの和名の由来はハギに似て』いて、『禊(みそぎ)に使ったことから禊萩、または溝に生えることから溝萩によるといわれる』とある。]

 祭檀を支へて居る四本柱の一本一本へ、伐りたての竹が一本づつ結びつけてあり、此の祭檀の右と左とに、他の何本かの竹が濱へ、立ててあり、その竹のどれにも支那文字が書き記してある旗が結び附けてあつた。祭壇の四隅の竹の旗には、四天王――西方の守護神增長天王、東方の守護神持國天王、北方の守護神多聞天王、南方の守護神廣目天王――の名とその屬性とが書いてあつた。

 祭壇の正面には、長さ二十呎幅十五呎[やぶちゃん注:六・九メートル×四・五七メートル。]許りの濱の地面を蔽ふやうに莚が敷いてあつて、此の莚敷の地面の上には、僧侶に日が當たらぬやうに、紺木綿の日覆が絹で吊り上げてあつた。自分は此の祭壇とお供物の略圖(これは後で日本の或る友人に訂して貰ひ緻密にして貰つた)を書く爲めに、その日覆の下にしばらくしやがんで居た。

 

The-feast-of-the-ghosts

 

 法要は定刻には始まらなかつた。僧侶がその姿を現はしたのは三時近くであつたに相違無い。全體で七人、いづれも大儀式の法衣で、そして鐘、經卷、床几、經臺、その他の必要什器を手にして居る小僧が附き隨つて居つた。僧侶と小僧とは紺の日覆の下に座を取り、見物人は、日を浴びて、外に立つて居た。僧侶のうち、たつた一人――主僧――が祭壇に面して坐つて、小僧をつれた他の者共は、――互に向かひ合つて、二列になるやう――主僧の左右に坐つた。

 

 

       

 

 祭壇の上のお供物を置きなほしたり、線香に火をつけたりする序開きが濟んでから、本當の儀式は佛敎の讃歌卽ち伽陀で始つた。これはヒヤクシギと鐘の音に連れて合唱するの

[やぶちゃん注:「伽陀」サンスクリット語のラテン文字転写で「gāthā」の漢音写。「偈(げ)」「諷頌(ふじゅ)」と訳す。本来は「詩句からなる経文で十二分経の一つ」を指す他、広く「法会などで唱えられる、仏徳を賛嘆し、教理を述べる韻文で、旋律をつけたもの」を言う(小学館「大辞泉」に拠る)。

 以下の挿入注は底本では四字下げポイント落ちである。上に引き上げ、ポイントを落とした。]

ヒヤウシギといふは堅い水の小さな切れで、それを早く打ち合せて鋭い涸れた音を續けさまに出して、合圖にも音樂的な目的にも使ふもの。

である。鐘は二つで、一つは深い音を出す大きな鐘、今一つは頗る美しい音を出す小さな鐘で、これは小さな男の子が受け持つて居つた。大きな鐘はゆつくり敲き、小さな鐘は早く響かす。そして拍子木は殆どカスタネトの如くにカチカチと早く打つのであつた。そして此の異常な器樂につれて、同音で役僧總てが唱へる伽陀の感銘は、奇異でもあつたが、それに劣らず印象的でもあつた。――

 

    ビクビクニ

    ホッシンホウヂ

    イッキジヤウジキ

    フセジッバウ

    キウジンコクウ

    シウヘンホフカイ

    ミヂンセッチウ

    イッサイコクド

    イッサイガキ

    センバウキウメツ

    サンセンチシユ

    ナイシクソウヤ

    シヨキシントウ

    シヤウライシフシ

    ……………………

[やぶちゃん注:中文サイトの「CBETA 漢文大藏經」の「施諸餓鬼飲食及水法」の「第一卷」に拠れば、漢字表記は以下(一部の漢字を通常の正字表記に改めた)。小泉八雲は後でこの伽陀全文を訳しているので、小泉八雲が示した後の部分も添えたが、そこでは、一字空けで繋げた。

 比丘比丘尼

 發心奉持

 一器淨食

 普施十方

 窮盡虛空

 周遍法界

 微塵刹中

 所有國土

 一切餓鬼

 先亡久遠

[やぶちゃん注:小泉八雲の表記に従えば「久滅」か。]

 山川地主

 乃至曠野

 諸鬼神等

 請來集此

 我今悲愍 普施汝食 願汝各各 受我此食 轉將供養 盡虛空界 以佛及聖 一切有情 汝與有情 普皆飽滿 亦願汝身 乘此呪食 離苦解脫 生天受樂 十方淨土 隨意遊往 發菩提心 行菩提道 當來作佛 永莫退轉 前得道者 誓相度脫 又願汝等 晝夜恒常 擁護於我 滿我所願 願施此食 所生功德 普將𢌞施 法界有情 與諸有情 平等共有 共諸有情 同將此福 盡將迴向  真如法界 無上菩提 一切智智 願速成佛 勿招餘果 願乘此法 疾得成佛

   *]

 

 此の朗々たる短い音律は、神佛招致祈願の若しくは呪文の合唱には、殊に能く適應して居るやうに自分に思はれた。實際が施餓鬼供養の此の伽陀は、次記の自由譯で明白に知れるやうに、正銘[やぶちゃん注:「しやうめい」。正真正銘。]な呪文であつた。

[やぶちゃん注:以下、底本では訳は全体が三字下げのポイント落ちである。「!」の後に字空けがないが、特異的に補った。]

 

『我等比丘比丘尼共、淸淨な食物を盛つた此の器を忝しく[やぶちゃん注:「忝」はママ。「うやうやしく」と読んでいようから、「恭」とあるべきところである。]捧げて十萬世界に住み給ふ、又その周圍の法界に住み給ふ、且つ又大地の――寺院のうちの微塵をも除くこと無く――あらゆる處に住み給ふ、誰れをも除かで、一切の餓鬼達に之をお供へ申す。また死に去つて久しきを經たる者共の靈にも、――且つは又山の、河の、土地の、また曠野の大靈にも、お供へ申す。かるが故に、願はくは、諸餓鬼よ。近づき來たつて此處に集ひ給はんことを! 我等は、我等の憐憫同情の餘り、卿等[やぶちゃん注:「けいら」。餓鬼を含む自然界の迷う霊や鬼神ら(後でそれよりもより拡大して諸仏諸神や有情(うじょう)の対象を含んで呼び掛けている)に敬意を表して呼んだもの。]に食物を供へんことを願ふ。卿等の各〻が此の我等の食物の捧げ物を味はひ給はんことを欲するなり。且つ又我等は、虛空界に住み給ふ一切の諸佛及び一切の諸聖に歸敬し奉りて、卿等並びに一切の有情の者共が滿足を得んやう祈願すべし。卿等の總てが、陀羅尼吟唱の功德によりて、且つは此の捧げまつる食物を味はひ給ふ功德によりて、より高き智慧を獲[やぶちゃん注:「え」。]、あらゆる苦を免れ、直に天界に生を得給ひ――其處に於てあらゆる至福を知り、隨意に十萬界に遊住し、到る處に歡喜を見出し給はんやう、我等は祈願すべし。菩提心を發し給へ! 開悟の道を踏み給へ! 佛果を得給へ! 再び退轉し給ふこと勿れ! 中途に躊躇し給ふこと勿れ! 卿等のうち先づ斯の道に入り給ふ者をして各〻殘れる者を導き、かくて解脫するやう誓はしめ給へ! 尙ほまた我等卿等に懇願す、卿等日夜に我等を擁護し給はんことを。また今とても我等を助けて、此の食物を卿等に與へんとの我等の願望を達せしめ給へ、――此行爲のもたらす功德が、法界に住み給ふ一切の者に及ばんやう、且つ又、此の功德の力が、その一切法界眞理を擴むる[やぶちゃん注:「ひろむる」。]に效あらんやう、また其處なる一切の者に無上菩提を得しめ、一切智を得しむるに效あらんやう。――斯くて我等は、今後卿等のあらゆる行爲が鄕等に佛果を得しむる功德を卿等に與へんやう、今や祈願すなり。斯くて我等は鄕等が疾かに[やぶちゃん注:「すみやかに」。]成佛し給はんことを願望すなり』

 

 それから此法要のうちで一番奇妙な部分が始つた、――それは、或る陀羅尼、卽ち呪文的な梵語で出來て居る威力のある詩句、の吟誦と共に、お供物に水を振り撒いて之を捧げる儀式である。式の此部分は短かつた。が、その委細を詳述するには多大な紙面を要する、――主僧の唱へる言葉や身振りが一々法式に據つて爲されるからである。例を舉ぐれば、その僧の手と指とは、どんな陀羅尼を唱へる時でも、その間その特殊な陀羅尼に對して規定されて居る成る位置に保たれて居なければならぬのである。だがこの複雜な儀式の主要な事實は大略次記の如くである。

 

 先づ第一に、精靈を『十方世界』から呼び出す『召請の陀羅尼』を七遍唱へる。これを誦する間は、主僧はその右手を差出して、拇指の尖と中指の尖とをくつつけて、餘の指三本は伸ばして居なければならぬ。それから、前とは異つて居るが、同じく不思議な身振りをして、『開地獄門』の陀羅尼を唱へる。次にセカンロ文卽ち『甘露施與』の陀羅尼を繰り返す。此の經文の力によつて、お供への食物が、精靈共の爲めに、上天的甘露飮食に變ずるものと想像されて居るのである。そして、その後で、『五種如來』に招致祈願を三度唱へる。

 

    曩謨寶勝如來――除慳貪業福德圓滿!

    曩謨妙色身如來――破醜陋形相好圓滿!

    曩謨甘露王如來――灌法身心令受快樂!

    曩謨廣博身如來――咽喉寬大受妙味!

    曩謨離怖畏如來――恐怖悉除離餓鬼趣!

 

[やぶちゃん注:一部推定(一部は信頼出来る仏教サイトを参考にした)で現代仮名遣で読みを振っておく(ダッシュは字空けにし、「!」は除去した)

曩謨(のうまく)寶勝如來(ほうしょうにょらい) 除慳貪業福智圓滿(じょけんとんごうふくちえんまん)

曩謨妙色身(みょうしきしん)如來 破醜陋形相好圓滿(はしゅるぎょうそうごうえんまん)

曩謨甘露王(かんろおう)如來 灌法身心令受快樂(かんぽうしんじんりょうじゅけらく)

曩謨廣博身(こうばくしん)如來 咽喉寬大飮食受用(いんこうかんだいおんじきじゅゆう)

曩謨離怖畏(りふい)如來 恐怖悉除離餓鬼趣(くふしつじょりがきしゅ)

なお、頭にある「のうまく」は、サンスクリット語で「お辞儀する、敬礼する、崇拝する」の意の漢訳。]

 

 『梵行餓鬼問辯』といふ書に、

 『衆僧斯く五種如來の御名を唱へ了はれば、佛の威力によりて、一切の餓鬼は前生の罪業を脫し、無量の福德を享け、妙色廣博を得、一切の怖畏を免れ、美妙の甘露と變じたる供物を味ひ得、直に淨土に生る〻ことを得べし』とある。

[やぶちゃん注:「梵行餓鬼問辯」不詳だが、思うに、これは真言僧で高野山真言宗第五世で、戒律や浄土教にも通じた空華子雲蓮社妙龍諦忍(宝永二(一七〇五)年~天明六(一七八六)年)の著である「盆供施餓鬼問弁」(明和六(一七六九)年成立)のことではあるまいか?]

 

 五種如來の招致訴願をしてから又別な法句を唱へる。そしてその吟誦中にお供物を一つづつ退(さ)げる。(祭壇から取り下ろしてからは、之を柳の木、桃の木、若しくは柘榴の木の下へ置いてはならぬといふ神祕的な規則がある)最後に『退散指令』の陀羅尼を七たび唱へる。その時主僧は、勝手に歸つて宜いといふ精靈への合圖に、一度一度爪彈きをする。之をハツケン卽ち『撥遣』と呼んで居る。

[やぶちゃん注:底本の大谷氏の「あとがき」に、ここで小泉八雲は『『之を柳の木、桃の水、若しくは拓榴の木の下へ置いてはならぬといふ神祕的な規則がある』と書いて居るが、『施餓鬼通覽』には『地を拂ひ棚を造る。長さ三尺に過ぐべからず。但桃樹柘榴の外用ふることなかれ。鬼神おそれてこれを食ふことを得ず』とある。原著者の思ひ誤り乎』とある。]

 

 

       

 

 勾配の急な此處の海岸では海は遠くは退かぬ。尤も恐ろしく高上りして、町内へ溢れ込むことが屢〻あつて、そのより穩かな氣分には信用が置けぬ。で、用心の爲め、位牌臺の脚は深く濱へ突きさしてあつたのである。事實は此の警戒の無駄でなかつたことを證明した。といふのは、僧侶達の遲刻の爲めに、潮が變はる頃にやつとのこと儀式が始つたからである。伽陀を合唱して居る頃にさへ、海は早暗澹として荒れ模樣を見せて來て、やがて――外の大海が應答をするかのやう――岸打つ大浪の雷音が、誦文者の聲と鏗鏘[やぶちゃん注:「かうさう(こうそう)」と読み、鐘や石或いは琴などの楽器が鳴り響くさま。]たる鐘の音とを突然推しつぶした。直ぐと別な大浪が海岸に沿うでドドンと碎けた――と、また別なのがぶつかつた。それで陀羅尼を唱へて居る間は、法要は波の碎ける間々にだけきこえるので、碎けた波の白泡は傾斜面を一面に蔽うて、祭壇數步のうちへ迄もサツと迫つて來るのであつた。……

 

 自分は又しても死者と海との漠たる關係の舊い信仰を考へて居るのであつた。その瞬間には、その原始的な想像の方が、餓鬼界の存在を說く佛說――怖ろしい困苦の三十六階段があるといふ、飢渴に苦み[やぶちゃん注:「くるしみ」。]火炎に惱む餓鬼の群集があるといふ――その凄い傳說よりも、遙かに道理に適つた且つ又人情に適したものに思はれた。……否、不憫な死者共!――何が故に彼等は人間の判斷によつて斯く醜陋なものとされ、そんな境涯に置かれるのであるか。死者は水や風や雲に混じつて居るのであると夢み――或は花の心に生命を與へて居るのであると思ひ――或は果物の頰の色を染めて居るのであると考ヘ――或は寂しい森の中で蟬と共に鳴き叫んで居るのであると懷ひ――或は夏の黃昏に蚊の群と共に幽かに唸つて居るのであると想ふ方が、この方が一層賢い又親切な考へ方である。……自分は飢渴に苦む靈魂が在ることを信じない――いや、信ずることを欲せぬ。……靈魂は、死が手を觸れる刹那に、碎けて靈魂の微塵となつてしまふものと自分は思つて居る。尤もその微分子は、疑も無く、其後他の微塵と結合して他の靈魂と成りはするであらう。……でも自分は、此世から消え去つた物のより粗雜な物質すらも、それがどんなに分解し或は飛散しても、或は强風に疾走し、或は雲霧に漂蕩[やぶちゃん注:「へうたう(ひょうとう)」。彷徨うこと。流離(さすら)うこと。]し、或は木の葉に震慄し、或は海の光に明滅し、或はヂヤラヂヤラ響く砂利に漂白し悶えもがいて雷なす大浪に何處かの荒凉たる海岸で飜弄されて居るのであつて――全然死減してしまふものとは思ひ込むことは自分にはどうしても出來ないのである。……

 

 儀式が濟むと、或る一人の漁夫が輕々と日覆の柱のうちの一本の頂上へ登つた。そして其處で輕業師のやうに旨く身體の釣合を取つて、群集に向つて澤山の頗る小さな餅を雨と投げ出した。それを子供等は笑ひ聲高く立てながら奪ひ合つた。あの儀式のあんな氣味のわるいに嚴肅の後でのことだから、この突然の歡喜の大聲は殆どびつくりする程であつた。だが自分は之をも極めて自然な、愉快な、また人情に適つたことだと思つた。そんなことを考へて居る間に、かの七人の僧は紅紫の色うつくしい行列をして去り、――小僧共は、その後から、臺や床几や鐘の重さに大儀さうに足をひきずつて行つた。直ぐと群集は――餅は分配されてそれぞれ懷のものとなつたから――散つてしまつた。――それから、祭壇、日覆、莚、いづれも取り去られた。――そして驚く許りの短時間に、此の不思議な儀式のあらゆる痕跡が消えてしまつたのであつた。……自分はあたりを見𢌞はした。――濱に居る者は自分一人であつた。……歸つて來る潮の音のほかには――平和で居たのを、覺まされて無限の苦痛を覺ゆる、名のつけやうのない或る『生き物』が發するやうな、偉大なぞつとするやうな、唸り聲のほかには――何の音もきこえなかつた。

 

[やぶちゃん注:私は最後には遂に浜辺の実景が小泉八雲自身の死生観の感傷の心象風景へとスライドして行く本篇に――妙に――惹かれるのである…………

小泉八雲 お大の例  (田部隆次訳)

 

[やぶちゃん注:本篇(原題“ The Cace of Odai ”(「橋の上にて」))は一九〇一(明治三四)年十月にボストンの「リトル・ブラウン社」(LITTLE,BROWN AND COMPANY)から出版された作品集“A JAPANESE MISCELLANY”(「日本雑記」。来日後の第八作品集)の第一パート“Strange Stories”(「奇談」・全六話)・第二パート“Folklore Gleanings”(「民俗伝承拾遺集」・全三篇)に次ぎ、最後の三番目に配された“Studies Here and There”(「ここかしこに関わる研究」。底本では「隨筆ここかしこ」)の第二話である。本作品集は“Internet Archive”のこちら(出版社及びクレジットの入ったページを示した)で全篇視認できる(本篇はここから。ここでは本文ページではなく、添辞の附くその前の標題ページで示した)。活字化されたものは、整序されたものは見当たらない(今まで紹介していないが、同前の“Internet Archive”には本作品集のフル・テクスト・ヴァージョンはあるにはあるのであるが、OCRによる読み込みで、誤まり多く、美しくなく、読み難く、また、味気ない)。

 底本は英文サイトInternet Archive”のこちらにある、第一書房が昭和一一(一九三六)年十一月に刊行した「家庭版小泉八雲全集」(全十二巻)の第七巻の画像データをPDFで落として視認した。

 田部隆次(たなべりゅうじ 明治八(一八七五)年~昭和三二(一九五七)年)氏については先に電子化した「人形の墓」の私の冒頭注を参照されたい。

 なお、田部氏は添辞(聖書の二つの引用。キリスト教嫌い小泉八雲にして一見、特異点に見えるが、話を読めば、その提示は皮肉としてよく判るものである)を標題の添辞ではなく、以下の通り、本文の前書のように、本文と同ポイントで掲げているのも特異点である。

 一箇所ある「譯者註」は最後に字下げポイント落ちであるが、当該段落末に同ポイント引き上げで移した。

 なお、底本の田部隆次氏の「あとがき」によれば、これは主人公の名を変えてあるが、松江であった事実談であるとある。]

 

 

   お 大 の 例

 

 『汝の父母を敬へ』――申命記五章十六節

 『我が子よ、汝の父の敎をきけ、汝の母の法(おきて)を棄ることなかれ』――箴言一章八節

[やぶちゃん注:「申命記」(しんめいき)は旧約聖書中の一書。「モーセ五書」の一書として最後の五番目に配されてきている。「ブリタニカ国際大百科事典」によれば(コンマを句点に代えた)、『書名の』「申命記」は『ギリシア語からつけたもので,語源が示すところによると「第』二『の律法」』、『というよりは』、『律法の「写し」,あるいは「繰返し」という意味がある』。「申命記」の『起源については』、『ユダの王ヨシヤによる宗教改革』(紀元前六二一年)に関する「列王紀 下」(二十二章と二十三章)の『物語との関係が早くから論じられていたが、デ・ウュッテらの研究によって、改革の基準とされた』「律法の書」は「申命記」であると確認されている。『したがって、その起源は異論もあるが、ほぼ』起原前八世紀末乃至起原前七世紀に『求められる』という。「申命記」は『モーセの説教という形式をとるが,内容的には大きく』三『部に分れ』、まず、一~十一章で『十戒と唯一の神ヤハウェへの絶対的服従が説かれ』、十二~二十六章で『モアブでの契約律法が』、二十七~三十二章では『律法を果すべき動機とその遵守に対する応報が、そして最後に』三十二『章ではモーセの歌が記されている』。「申命記」の『神学は、唯一神ヤハウェのまったき恵みによって選ばれた「神の民」の神学であり、それはシェマ・イスラエル』、則ち、『「イスラエルよ』、『聞け。我らの神、主は唯一人の主なり。汝心を尽し』、『精神を尽し』、『力を尽して』、『汝の神、主を愛すべし」』 (六章の四と五)と『いう言葉に代表される』。「申命記」は『王国の制度が部族の自由を脅かし、アッシリアの圧迫が増大するという新しい状況のもとで、一つの神、一つの民族、唯一の祭儀という古いアンフィクティオニー(宗教を中心とする種族連合)の理念を』、『再び』、『力強く掲げたものであった』とある。小泉八雲の原文では引用は“"Honor thy father and thy mother." — Deut. v. 16.”。「Deut.」は「Deuteronomy」は「申命記」の英訳。

「箴言」(しんげん/英語:Mishle/Proverbs)は旧約聖書の一書で、旧約聖書内でも「知恵文学」の代表的一書である。「ブリタニカ国際大百科事典」によれば(コンマを句点に代えた)、『マソラ本文では諸書の真理と呼ばれるものの一書、セプトゥアギンタでは文学の一書。箴言の原語メシャーリームは「比喩」あるいは「格言」の意。第』一『章の表題から』、『古来』、「箴言」の『著者はソロモン』(イスラエル統一王国第三代目の王(在位紀元前九六一年~紀元前九二二年))『とされていたが、実際はいくつかの箴言集の集成であり、ソロモン自身がそれとどのような関係に立つかは不明である。内容は』①『知恵の賛美』(一~九章)、②『ソロモンの箴言』、③『知恵ある者の言』、④『ソロモンの箴言』、⑤』マッサの人ヤケの子アグルの言』、⑥『マッサの王レムエルの言』、⑦『賢い妻をたたえたアクロスティックの詩(アルファベット詩歌)二『大別される』。「箴言」の成立した時代は』、恐らく『バビロン捕囚』(紀元前五九七年から紀元前五三八年に亙ってイスラエルのユダヤの人々がバビロニア王ネブカドネザルによってバビロニアに捕囚となった事件)『後で、内外ともに悲観すべき状況にあり』、『伝統的信仰は動揺し』、『道徳的退廃も著しかった。この危機にあたり,預言者に代る教師たち(知恵ある者)は、神を恐れる以上の知恵はない』、『という伝統的信仰に立脚しながら』、『実際的処世訓を説き、若いユダヤ人を指導した』とある。小泉八雲の原文は“"Hear the instruction of thy father, and forsake not the law of thy mother." ―Proverbs 1. 8.”。]

 

 

       

 

 お大は佛壇の燈明と香爐と水入れをわきへやつて、そのうしろの小さい御厨子を開いた。そのうちに、彼女の一族の位牌があつた。――合せて五つの位牌があつた、それから觀昔菩薩の黃金の姿がそのうしろに微笑しながら立つてゐた、祖父母の位牌が左の方、兩親のが右の方にあつた、そしてその間に皆幸福であつた時分に一緖に遊んだり喧嘩したり笑つたり泣いたりした小さい弟の戒名のある小さい位牌があつた。それから、又その御厨子には多くの祖先の戒名の書いてある卷物もあつた。お大はその御厨子の前で、幼少の時から合掌をする事になれてゐた。

 この位牌と卷物は、以前は父の愛情と母の撫育よりも、――彼女の幼少の時代を養育し、彼女を脊負うて祭と云ふ祭につれて行き、彼女を喜ばせる事を工夫し、彼女の色々の小さい悲しみを慰め、歌をうたつて彼女の不機嫌を直してくれて、いつも愛情にみちた、いつも辛抱强い、いつもにこにこした老人達のどの記憶よりも、――可愛いいたづらの弟の笑と淚、やさしい呼び聲、高い呼び聲、走る音よりも、――祖先の凡ての傳說よりも、お大の信仰にとつては、大きな、遙かに大きな意味をもつてゐたのである。

 その理由は、それ等の物は過去の人々が目に見えないでも實際に存在する事、――目に見えない同情とやさしさの現れ、――生者の悅びと悲しみに應ずる死者の悅びと憂を意味したからである。これまで夕方の薄暗がりの時、其位牌の前に燈明をともす事をつねとしてゐた時、いかに度々その小さい焰が、それ自身の力によらないで動くのを見たであらう。

 

 しかし位牌は信心深い想像に取つてはただの表象以上の物ででもある。變質、變態の不思議な可能性がそれに存して居る。死から生へうつる間、魂の一時の宿ともなる、香の浸み込んで居る木の纎緯[やぶちゃん注:ママ。「せんい」。原文“fibre”(ファイバー)で建具の木材の木質繊維のこと。]の一つ一つは、見えない潛在の生命を、もつて生きて居る。靈の意志はそれに生命を與へる事もある。愛の力によつて位牌は肉と血とにかはる事もある。位牌の助けにより、葬られた母が暗夜にそのみどり子に乳を與へるために歸つて來る。位牌の助けによつて、火葬の薪で消えた女が、その許嫁の夫と結婚するために歸つて來る事がある、――更に有難くも、男の兒を與へる事さへもある譯者註。位牌の力によつて、死んだ家來が零落から主人な救ふために永眠の墳墓から歸つて來る事もある。それから愛や忠がその意志を果してから、その人は消える、――その肉體は再び見たところただの位牌となる。

譯者註 「知られぬ日本の面影」第二十五章第七章參照。

[やぶちゃん注:私の『小泉八雲 落合貞三郎他訳 「知られぬ日本の面影」 第二十五章 幽靈と化け物について(七)』を参照されたい。]

 

 凡てこの事をお大は知つて覺えてゐた筈である。恐らく覺えてゐた、彼女が御厨子から位牌と卷物を取り出して、窓から下の河へ落した時に泣いたからである。流れがそれを運び去つた時、彼女はそのあとを貝送るに忍びなかつた。

 

 

       

 

 お大は一人の英國の女宣敎師の命によつてかうしたのであつた、その人々は色々親切を裝うて彼女を基督敎徒としようと說いたのであつた。(改宗者は祖先の位階を埋めるか棄てるやうにいつでも命ぜられた)それ等の宣敎師にこの地方で始めて發見した唯一人の改宗者のお大に、助手として一ケ月三圓の給料をやる約束をした、お大は讀み書きができたからであつた。彼女の手の働きでは一ケ月二圓以上を儲ける事が到底できなかつた、そしてその中から小さい古道具屋の二階を借りて二十五錢の間代を拂はねばならなかつた。そこへ兩親の死後、彼女は家財と祖先の位牌を携へて行つた。生きる爲めには彼女は全く一所懸命に働かねばならなかつた、しかし一ケ月三圓あれば甚だ安樂に暮す事ができた、そして女の宣敎師は彼女のために部屋を與へた。彼女は人が自分の改宗を氣にかけるとは考へなかつた。

[やぶちゃん注:「三圓」以前に示したが、明治三〇(一八九七)年頃の小学校訓導(教員)や巡査の初任給は月八円から九円ほどで、一人前の大工や熟練した工場技師で月二十円位だったとし、そこから庶民にとっての一円を現在の二万円程度の価値はあったとする信頼出来る推定換算値によれば、六万円相当となる。]

 實際彼等は餘り頓着しなかつた。彼等は基督敎については何も知らなかつた、そして知らうともしなかつた、彼等はお大が外國婦人の眞似をする程愚かである事を嘲り笑つただけであつた。彼等は彼女を馬鹿と考へて惡意のない嘲りをした。そして彼女が河に位牌を投げるのを見られたその日までは、彼等は引續きただ面白半分に彼女を嘲つてゐた。その日から彼等は笑ふのを止めた、彼等はその動機や論じないで、その行爲それ自身を判斷した。彼等の判斷は卽座の、一致の、無言の物であつた。彼等はお大に一言の非難をも云はなかつた。彼等は彼女の存在を無視しただけであつた。

 

 日本の社會の道德的憤怒はいつも烈しい憤怒、――それ自身をすぐに燃やしてしまうやうな種類の憤怒とはきまらない。冷たい事もある。お大の場合では、それは氷の厚くなる時のやうに冷たい、無言の重い物であつた。何人も[やぶちゃん注:「なんぴとも」。]口には云はなかつた。全く自發的、本能的であつた。しかし一般の感情は、こんな風に言葉に譯する事ができたであらう、――

 

 『この極東に於て、人間社會は、太古より、過去に對する現在の感謝、死者に對する生者の尊敬、祖先に對する子孫の愛情を要求するその信條の力によつて結合されて居る。この目に見える世界のあなたまで、親に對する子の義務、主人に對する從者の義務、君主に對する臣下の義務が及んで居る。かるが故に家庭の相談に於て、國體の會議に於て、裁判の高き座席に於て、都會の支配に於て、國の政治に於て、死者は座長となるのである。

 

 『孝行と云ふ至高の德に反し、――祖先の宗敎に反し、――凡ての信仰と感謝と尊敬と義務とに反し、――彼女の種族の凡ての道德的經驗に反して、――お大は赦すべからざる罪を犯した。それ故人は彼女を見て汚れたる者、……――往來の犬、屋根の上の猫よりも親切を施す價値のない者――と見なすべきである、卽ちこれ等の物も、その低い程度に於て義務愛情の道を守るが故である。

 『お大は彼女の死者に對して感謝の言葉、愛のささやき、娘としての尊敬を拒絕した。それ故今後永久、生者は彼女に挨拶の言葉、普通の會釋、やさしい答を拒絕せねばならない。

 『お大は彼女を生んだ父の記念、彼女がその乳を飮んだ母の記念、彼女の幼年時代を撫育したおとな達、彼女を姉と呼んだ小さき者の記念を嘲つた。彼女は愛情を嘲つた。それ故凡ての愛、凡ての情あるつとめは彼女には與へられない。

 『彼女を生んだ父の魂、彼女を生んだ母の魂に、。お大は屋根の蔭、食物の氣、水の捧物を拒ん與へなかつた。丁度その通り彼女には屋根の蔭、食物の授與、氣分を爽快ならしむる一杯の物も與へられない。

 『そして丁度彼女が死者を投げ捨てたと同じく生者は彼女を投げ捨てるべきである。殘骸の如く邪魔物にさるべきである、――何人も顧みない、何人も葬らない、何人も憐まない、何人も神や佛にそのために祈らない小さい腐肉の如く。餓鬼の如く彼女はあるべきである、――塵塚の中をあさつて食物を求むる少食(せうじき)餓鬼の如く。生きながら地獄のうちに入るべきである、――しかも彼女の地獄は唯一人の地獄、淋しい地獄、火の淋しさに呪はれたる魂を圍む孤獨の地獄であるべきである。――

[やぶちゃん注:「少食(せうじき)餓鬼」原文“Shōjiki-Gaki”。これは餓鬼の三大分類の内の一つである、穢れた血や膿、人間の糞尿や嘔吐物、人の死体などの不浄なごく僅かなもののみを食うことが許されている餓鬼とされる「少財(しょうざい)餓鬼」のことであろう(他は無財餓鬼(飲食しようとするとその対象が炎などになって、食べることが全くできない餓鬼)と多財餓鬼(人の遺した余り物や人から施されたものを食べることができる餓鬼)。]

 

 

       

 

 思ひがけなく宣敎師の女達はお大に自活すべき事を通知して來た。恐らく彼女は最善をつくしたらう、しかしたしかに彼女は彼等に何の役にも立たなかつた、そして彼等は有能な助手を要した。その上彼等は習らくその地を去らうとしてゐた、そして彼女を一緖につれて行く事はできなかつた。たしかに彼女は單に基督敎徒であるために一ケ月三圓貰へると思ふ程愚かである筈はなかつた。……

 お大は泣いた、それで彼等は彼女に勇敢であれ、正しき道を蹈めと敎へた。彼女は職を求むる事はできないと云つた、彼等は勤勉にして正直な人はこの忙しい世界に於て、就職難に苦しむに及ばないと告げた。それから絕望的恐怖の餘り、彼女は彼等に彼等の理解する事のできない、そして頑强に信じようとしない事實を告げた。彼女は危難のさし迫つて居る事を告げた、そこで彼等は彼女が全然堕落した事を告白したと信じて、彼等のできる限りの冷酷さを以て答へた。これは彼等の誤解であつた。この少女に惡德の分子は一點もない、愛すべき弱點と小兒らしい輕信とは彼女の最も惡い缺點であつた。實際彼女は助力を要した、早くそれを要した、甚しくそれ要した。しかし彼等は只彼女が金錢をほしがるとのみ考へた、そしてその金錢を得られない時には、罪を犯すとおどかしたとのみ考へた。彼女にはいつも前金で拂つてあるから、彼等は彼女に何にも負うてゐない、そして彼等はこれ以上何等の種類の助けをも與へない理由が立派にあると想像した。

 そこで彼等は彼女を外に出してしまつた。すでに彼女はその家財を賣つた。もう何(なん)にも賣る物はない、ただ着て居る一枚の着物及び役に立たない足袋の數足あるだけ、その足袋は宣敎師の女達が若い女が素足で居るのを見られるのは不作法であると思つて、彼女に買はせたのであつた。(彼等は又日本風に髮を結ふことが不信心に見えるので、忌まはしき束髮に結ふ事を餘儀なくもさせた)

 

 孝行の道に反した行があつたと公然判定された日本の少女はどうなるだらう。不貞と公然判ぜられた英國の少女はどうなるだらう。……

 

 勿論お大は强かつたら、袂に石を入れて河に投じたかも知れない、――そのやうな境遇では、さうするのが立派なやりかたであつたらう。或は喉を切つたかも知れない、――その方がもつと立派だ、それには勇氣と熟柿と兩方要るから。しかし彼女の階級の改宗者の多數の如く、お大は弱かつた、この人種の勇氣は彼女には缺乏してゐた。彼女は未だ生きてゐたかつた、そしてその生きる權利を主張するために、世の中と爭ふ事のできる强い型の人ではなかつた。彼女の過失を充分誓つて改めた後でも、彼女には取るべき道が只一つしかなかつた。

 

 願はれた値段の三分の一で、お大の肉體を買つた人は云つた、

 『私の商賣はこの上もなく恥づべき商賣です。しかしこんな商賣へも、お前さんがしたやうな事をした女は入れられません。私のうちへお前さんを入れたら、お客は來なくなります、そして事が色々面倒になります。だから大阪へお前さんをやりませう、そこへ行けば分らないから、そして大阪のうちでお金を拂つてくれます。……』

 

 そんなにしてお大は、都會の肉欲の坩堝(るつぼ)の中に投げられて永久に消えた。……多分彼女はどの外國宣敎師でも皆理解するやうに試むべき事實の一例を示すために存在したのである。

2019/10/21

小泉八雲 橋の上  (田部隆次訳)

 

[やぶちゃん注:本篇(原題“ On a Bridge”(「橋の上にて」))は一九〇一(明治三四)年十月にボストンの「リトル・ブラウン社」(LITTLE,BROWN AND COMPANY)から出版された作品集“A JAPANESE MISCELLANY”(「日本雑記」。来日後の第八作品集)の第一パート“Strange Stories”(「奇談」・全六話)・第二パート“Folklore Gleanings”(「民俗伝承拾遺集」・全三篇)に次ぎ、最後の三番目に配された“Studies Here and There”(「ここかしこに関わる研究」。底本では「隨筆ここかしこ」)の第一話である。本作品集は“Internet Archive”のこちら(出版社及びクレジットの入ったページを示した)で全篇視認できる(本篇はここから)。活字化されたものは、整序されたものは見当たらない(今まで紹介していないが、同前の“Internet Archive”には本作品集のフル・テクスト・ヴァージョンはあるにはあるのであるが、OCRによる読み込みで、誤まり多く、美しくなく、読み難く、また、味気ない)。

 底本は英文サイトInternet Archive”のこちらにある、第一書房が昭和一一(一九三六)年十一月に刊行した「家庭版小泉八雲全集」(全十二巻)の第七巻の画像データをPDFで落として視認した。

 田部隆次(たなべりゅうじ 明治八(一八七五)年~昭和三二(一九五七)年)氏については先に電子化した「人形の墓」の私の冒頭注を参照されたい。

 なお、底本の田部氏の「あとがき」に、『「橋の上」は熊本見聞談の一つ、車夫平七はヘルン家でいつも雇うた實在の人物、話も事實談』とある。]

 

 

  隨筆ここかしこ

 

 

   橋の上

 

 私の老車夫、平七が熊本近傍の或名高い寺へ私をのせて行くところであつた。

 白川にかかつて居る駱駝の背のやうに曲つた、ものさびた橋へ來た、そこで私は暫らくそこの風景を樂しむために橋の上で止まる事を平七に命じた。夏の空の下で、電光のやうに白い溢れるやうな日光に浸された土の色は、殆んどまぼろしのやうに綺麗に見えた。橋の下には淺い川が、色々の綠の蔭になつた灰色の石の河底を、からからざわざわ、音をたてて流れた。前方には赤白い道が、肥後の大平野をとり卷いて居る高い靑い山脈の方へ、森を通つたり、村を通つたりして、うねつて居るのが交々[やぶちゃん注:「こもごも」。]見えたり消えたりしてゐた。うしろには澤山の屋根が遙かに靑く入り交つて居る熊本があつた、――ただ遙かの森の山の綠に對して城の綺麗な白い輪廓がはつきり現れてゐた。……中で見て居ると、熊本はきたないところだが、その夏の日に私が見たやうに見ると、霞と夢でできたまぼろしの都である。……

[やぶちゃん注:小泉八雲(当時は未だLafcadio Hearn。彼の帰化手続きの完了と小泉八雲への改名は明治二九(一八九六)年二月十日)は明治二四(一八九一)年四十一歳の時、島根尋常中学校英語教師の職を辞し、妻セツとその家族を伴い、熊本の第五高等学校へ赴任するため、十一月十九日に熊本に着き、同月二十五日に熊本市手取本町の借家に入った。現在の熊本市中央区安政町(ごく北直近で手取本町と接する)に彼の住んだ「小泉八雲熊本旧居」(グーグル・マップ・データ。以下同じ)がある。白川はその南東のすぐ近くを貫流する川である。本篇のロケーションとそれらの位置関係を考慮するなら、「熊本近傍の或名高い寺」で、当時もそうであった寺とすれば、木原不動(尊)の通称で親しまれている、熊本市南区富合町木原にある天台宗長寿寺が一つの候補とはなろう(ここだとする根拠はない)。そうした場合、このロケーションの「橋」は白川のどこの橋かと推理するに、県道二十八号が白川に架橋するこの橋から、下流の熊本駅東直近の白川橋或いはその間の橋かとまずは考えられようか(ここと後のシーンから、熊本城とその市街・周囲の山地が眺望出来る橋でなくてはならぬが、私は行ったことがないので判らぬ)。但し、ノンフィクション風の随筆であっても、小泉八雲は実景を見た通りには描かないし、ロケーションをとんでもない別な場所に移して語っている場合もあるから、私の推理自体は馬鹿正直に過ぎるかも知れぬ。]

 

 額をふさながら平七は云つた。『二十二年前、いや二十三年前、私はここに立つて町の燃えるのを見ました』

 『夜ですか』私は尋ねた。

 『い〻え』老人は云つた『午後でした、雨の日でした。戰爭中で、町は燃えて居りました』

 『誰が戰爭してゐたのです』

 『城の兵隊が薩摩の人達と戰爭をしてゐました。私共は王をよけるために、地面に穴を掘つて、その中にゐました。薩摩の人達は山の上に大砲を据ゑました、それから城内の兵隊がそれを打つたので、玉は私共の頭の上を通つて行きました、町は皆燒けました』

 『ところで君はどうしてここへ來合せたのか』

 『私は逃げて來たのです。私は獨りでこの橋まで走つて來ました。ここから三里程ある私の兄の農場へ行けると思つたのです。ところがここで止められました』

 『誰が止めたのです』

 『薩摩の人達です、――誰だか分りません。橋へ參りますと三人の農夫がゐました、――私は農夫だと思つたのです、――それが欄干によりかかつてゐました、大きな笠と蓑をつけて草鞋をはいてゐました。私は丁寧に言葉をかけました、すると一人は頭をぐるりと廻して、私に「ここに止まつてゐろ」と申しました。それだけでした、外の人は何も申しません。それから私はその人達は農夫でない事が分つて恐ろしくなりました』

 『どうして農夫でない事が分つたのです』

 『蓑の下に長い刀を――大層長い刀をかくしてゐました。大層背の高い人達でした。橋によりかかつて川を見下してゐました。私もそばに立つてゐました、丁度そこの左の方の三番目の柱のわきで、その人達と同じ事をしてゐました。誰も物を云ひません。そして長い間欄干によりかかつて立つてゐました』

 『どれ程』

 『はつきり分りませんが――長かつたに相違ありません。私は町が燃えて居るのを見ました。その間私に物を云ふ者も、亦私を見る者もありませんでした。皆水を見つめてゐました、すると速足で騎兵の將校が來ました、ずつとあたりを見ながら。……』

 『町から?』

 『はい、そのうしろの道をずつと。……その三人の人達は笠の下から見てゐましたが頭は動かしませんでした、川を見下して居るふりをしてゐました。ところが馬が橋にかかるその時、三人がふり向いて躍りかかりました、そして一人は馬の轡をつかむ、一人はその將校の腕を押へる、一人はその首を斬り落す、ほんのちよつとの間に。……』

 『その將校の首を?』

 『はい、聲を出す間もないうちに首は落ちました。……そんな早業を見た事はありません。三人とも一言も發しませんでした』

 『それから』

 『それからその死骸を欄干の上から川へほうりました。そして一人が馬をなぐりました、ひどく、そこで馬は馳け出しました。……』

 『町の方へ?』

 『い〻え、馬は橋向うの村の方へずつと追ひやられました。首は川へ投げ棄てないで、一人の薩摩の人はこれを蓑の下へ入れてもつてゐました。……それから皆、前の通り欄干によりかかつて見下してゐました。私の膝はふるへました。三人の武士は一言も物を云ひませんでした。私にはその息も聞えませんでした。私は顏を見るのを恐ろしく思ひました、私は川を見續けてゐました。……少したつて又馬が聞えました、そして私の胸が騷いで氣もちが惡くなりました、――それから見上げると、大層速く又一人の騎兵が往來をずつとやつて來ました。それが橋にかかるまで誰も動きません、すると忽ちのうちに首が落ちました、死骸は川にほうり込まれ、馬は追ひやられました事は、全く前の通りでした。そんな風にして三人殺されました。それから武士は橋を立ち去りました』

 『君も一緖に行きましたか』

 『い〻え、その人達は三人目を殺すとすぐに出かけました、――首を携へて、――私には目もくれませんでした。私はその人達がずつと遠くなるまで、動く事もできないで、橋の上に立ちすくんでゐました。それから私は燃えて居る町へ走つて歸りました、私は一所懸命に走りました。そこで薩摩の軍勢が退却中と云ふ事を聞きました。すぐあとで東京から軍隊が參りました。それで私も何か仕事が手につきました、私は兵隊のために草鞋を運びました』

 『橋の上で殺されたのを君が見たと云ふ、その人達は誰でしたか』

 『存じません』

 『君は尋ねて見ようとした事はないのかね』

 『ありません』再び額をふきながら、平七は云つた『戰爭がすんで餘程になるまで、その事をちつとも云ひませんでした』

 『そりやどうして?』私は追究した。

 平七は驚いた顏をして、分らない氣の毒な人だと云ふ風ににつこりして答へた。

 『と申しますのは、さうするのが、まちがつてゐたでせう、――恩知らずのやうな事になりましたでせうからね』

 私は當然叱られたやうな氣がした。

 そして私共は旅行を續けた。

 

[やぶちゃん注:西南戦争に於ける熊本城攻防戦は明治一〇(一八七七)年は、薩摩軍の急襲直前の二月十九日に、熊本鎮台が守る熊本城内で謎の火災が起こり(現在に至るまで原因不明)、烈風の中、櫓に延焼、天守までも焼失した後、翌々日の二十一日の夜半から二十二日の早暁にかけて、薩軍の大隊が順次、熊本に向けて発し、熊本城を包囲している。二十二日の夜明け前、鎮台側が砲撃を以って開始されて、各地で無数の遊撃戦・白兵戦が繰り広げられた。三月一日から三月三十一日までは、かの田原坂・吉次峠の激戦が続いたが、四月十七日、官軍が熊本城を開放、薩摩軍は熊本から敗走した(以上はウィキの「西南戦争」を参考にした)。平七の体験は事実に即するならば、このまさに四月半ばのことと考えられる。平七は開口一番、「二十二年前、いや二十三年前」と言っているが、これ自体が既に小泉八雲による時制補正がなされている。本作品集刊行は明治三四(一九〇一)年十月であり、その二十三年前は数えで本書刊行年から戻って、明治十年に合うようになっているからである。小泉八雲は熊本五高を既に明治二七(一八九四)年十月に辞め、神戸のクロニクル社に転職している。その後、僅か三ヶ月後の翌年一月には過労から眼を患い、同社を退社した。同年十二月に東京帝国大学文科大学の外山正一学長から英文学講師としての招聘を伝えられ、翌明治二十九年九月七日に当該職に就くために東京に着いており、本書刊行時も現職であった。

小泉八雲  (大谷正信訳) 六(「子守歌」)及び後書き部 / 日本の子供の歌~了

 

[やぶちゃん注:本篇については、『小泉八雲 日本の子供の歌  (大谷正信訳) 序・一(「天気と天象との歌」)』を参照されたい。]

 

 

       

 

       子守唄

 

 子守唄文學には、國といふこと或は人種といふことと離れて、一種特別な心理的興味が附隨して居る。子守唄は母の慈愛の事前の發言であるから、愛情經驗の最も古い形式を現はして居ると言つてよい。そして殆どいづれの時いづれの場所に於ても、此種の民間歌謠の本質的特性は、如何なる種類の社會的變化にも、殆ど影響されて居ない。それが物語風であらうとただの音響であらうと、意味があらうが無意味であらうが、その文句は子供の心がそれを見て不思議に感ずる、見慣れて居るものに――例へば馬或は牛、木或は花、月と星、鳥或は蝶、街路や庭園の眺め、といふやうなものに――何等かの關係を大抵は有つて居る。子守唄は愛撫の一と言葉を述べて、次に從順(すなほ)ならば褒美を與へるとの約束と、だだをこねる結果として危險があるぞとの仄めかしとを交互に述べて、それを反復して居るが常である。その約束は食物か玩具かに就いてで、脅かしの罰はその母が加へるのでは無くて、いけずな子供を罰する力のある魔物か化物かである。日本の子守唄は、この槪則に對して、何等著しい例外を提供しはせぬ。が、奇妙な空想に富んでゐて、一種明らかに東洋的な性質を具へて居る。

 

 歐洲の讀者は、短いそんな歌の初めに『ネンネ』とか『ネンネコ』とかいふ綴音が出て來るのに、或は驚かる〻ことであらう。それは、佛蘭西の搖籃(ベルシユズ)の歌は多くは、殆ど同じ音の、『ネネ』といふ綴音で始まつて居るからである。(佛蘭西の――或る地方の方言では『ネンナ』とか『ノノ』とか發音する――『ネネ』といふ語は、多く南部佛蘭西の母親が使ふ。北部佛蘭西で、それに相當する語は『ドド』である)が、固よりのこと佛蘭西語の『ネネ』と日本語の『ネンネ』との間には、何等實際の語原的關係があるのでは無い。『ネンネコ』といふ日本語の句は、眠るといふ意味の『ネル』といふ動詞の一綴音と、赤ん坊といふ意味の『ネンネ』或は『ネンネイ』といふ語の一綴音と、子といふ意味の『コ』といふ語の、結合から成つて居るのである。『眠れよ、赤ん坊よ』といふがその言葉の眞の意味である。

 

附記 「ネネ」其他の佛蘭西語に就いては、ティエルソー氏の「佛蘭西俗謠史(イストアアル・ド・ラ・シヤンソン・ボブレエル・アン・フランス)」一三六――三七頁及び其後を參照されたい。

[やぶちゃん注:「搖籃(ベルシユズ)」原文(ここの右ページ二行目)は“berceuses”。音写するなら「ベルスーズ」。もと動詞の“bercer”の女性形。女性形名詞として「子どもを揺するながら寝かしつける女」或いは「半自動的に動く揺り籠」のこと。但し、これで音楽用語としては「子守唄」の意もある。されば、ここは本来なら「搖籃の歌」の四字に「ベルシユズ」がルビとして掛かるのが適切と思われる。

「ネネ」“néné”。これは“nishons”とともにフランス語の卑俗語で「女の胸・乳房」の意。

「ネンナ」原文“nenna”。但し、発音と言っているのでこれが綴りなのではなく、“néné”を訛っての謂いである。

「ノノ」原文“nono”。同前。

「ドド」原文“dodo”。これは「眠る」の意の動詞“dormir”(ドゥルミール)が元の児童語の名詞で、「ねんね」或いは「ベッド」の意。私の所持する普通の仏日辞書に載る。

『ティエルソー氏の「佛蘭西俗謠史(イストアアル・ド・ラ・シヤンソン・ボブレエル・アン・フランス)」』“Tiersot’s Histoire de la Chanson Populaire en France”。フランスの音楽学者・作曲家で民族音楽学研究の先駆者であったジュリアン・ティェルソー(Julien Tiersot 一八五七年~一九三六年)の、初期の民謡史研究の一書で、一八八九年刊。Internet Archive」のこちらが参照元(楽譜附き)。]

 

ねんね、ねんねと

寢る子は可愛い!

起きて泣く子は

面(つら)憎い! (伊勢)

 

ねんねこ、ねんねこ!

    ねんねこや!

寢たらお母(かか)へ

    連れて行(い)なあ!

起きたら ががまが

    とつて囓(か)まあ! (出雲)

附記 ガガマといふは或る化物の出雲名である。これに古代の「ゴゴメ」といふ語の轉訛はではなからうかと思ふ。ゴゴメといふは原始的神道信仰の或る妖怪で、冥界の魔女である。

[やぶちゃん注:「ガガマ」「ゴゴメ」は恐らく黄泉醜女(よもつしこめ)のことであろう。

 以下の部分は底本としている画像にページの錯雑がある(578ページの後に、571から574ページ分がある。ここで判る)。これ以降にも同様の錯雑部があるが、略し、無論、ページを正規の順に判読した。

 

寢たか、寢なんだか、

枕に問へば、

枕もの言うた、

寢たというた。 (京都)

 

ねんねこ、ねんねこ、

    ねんねこよ!

己(おら)が赤ん坊は

    いつ出來た?

三月さくらの

    咲く時に、

道理でお顏が

    さくら色! (武藏)

 

ねんねん、ねんねん、

    ねんねんよ!

ねんねした子に

    羽子板(はごいた)と羽子(はね)と!

ねんねせぬ子に

    羽子ばかり! (讃岐)

 

ねんねんよう!

    ころころよ!

ねんねん小山の

    雉子の子は

啼くとお鷹にとられるよ! (信濃)

 

附記 雉子といふは美しい綠色のフエザントで、屢〻その啼聲で、その居場處を獵師に洩らす。だから「雉子も啼かねば打たれまい』といふ諺がある。

[やぶちゃん注:「フエザント」“pheasant”は鳥綱キジ目キジ科 Phasianidae のキジ類(及びその肉)を指す英語。

 次は一行空けがないが、挿入した。]

 

ねんねこ、ねんねこ、

    ねんねこや!

あちら向いてもやあま山!

こちら向いてもやあま山!

やあまの中(なか)に何がある?

椎やどんぐり榧(かあや)の實! (出雲)

 

附記 椎はライヴ・オークの一種。カヤはユウの一種。

[やぶちゃん注:「かあや」は原文では“kaya”であるが、大谷氏が知っている唄の韻律として、この音を選んで補正した確信犯のものであろう(彼は松江市末次本町生まれである)。

「椎」「ライヴ・オークの一種」“live-oak”。ブナ目ブナ科シイ属 Castanopsis で、本邦には関東以西にツブラジイ(コジイ)Castanopsis cuspidataと、シイ属の中では最も北に進出している(福島県・新潟県佐渡島にまで生育地がある)スダジイ(ナガジイ・イタジイ)Castanopsis sieboldii の二種が植生する。「ライヴ(リヴ)・オーク」はアメリカの太平洋岸からメキシコにかけて分布するブナ科コナラ属Quercus の常緑のオーク。バージニア州の州木。学名はメキシコ産が Quercus virginiana、カリフォルニア産が Quercus agrifolia。但し、シイは広義には「オーク(材)」には含まれるものの、「live-oak」ではない。

「カヤはユウ」裸子植物門マツ綱マツ目イチイ科カヤ属カヤ Torreya nucifera。「ユウ」は日本語ではなく、英語“yew”で、狭義には裸子植物門イチイ綱イチイ目イチイ科イチイ属 Taxus を指す語で、同じイチイ科 Taxaceae としては仲間とは言える。]

 

ねんねこせ、

    ねんねこせ!

寢んねのお守(もり)は

何處(どこ)へ行(い)た?

山を越えて

    鄕(さと)へ行(い)た!

鄕(さと)の土產に

    何貰うた?

でんでん太鼓に

    古つづみ!

おきあがりこぼしに

    犬張子! (出雲)

 

附記 「デンデン太鼓」は圓い淺いドラム。ツヅミは頗る妙な恰好のハンド・ドラム。こゝにいふ玩具ドラムは固より本當のものよりか餘程小さい。オキアガリコボシといふは相撲取の姿をした小さなもので、どんなに投げても眞直に立つやうに重みが入れてあるもの。

[やぶちゃん注:最後の解説の頭の「附記」はないが、補った。

「おきあがりこぼし」「起きあがり小法師」。小学館「日本大百科全書」によれば、『張り子製の小法師人形の底に、土のおもりをつけた玩具』で、『倒しても』、『すぐ起き上がるのでこの名がついた。原型は中国の酒胡子(しゅこし)に始まるといわれる。酒胡子は唐代からの木製人形で、尻』『がとがっている。盤中で転がしてしばらく舞ったのちに倒れると、その静止した方向の座にある者が杯(さかずき)を受けるという遊びに用いられた。明代』『に紙張り子でつくられるようになり、酒席の玩具となった。室町時代に日本に渡来、転がしても起き上がることから、不老長生の意味で不倒翁とよんだが、童形(小法師)につくり変えられて子供の玩具となった。「小法師」とは子供の意である。当時の狂言』「長光(ながみつ)」に、『「なに、おきあがりこぼしじゃ、子供たちの土産』『にこれがよかろう」とあり、子供向きの玩具に商品化された。江戸時代初期に京坂地方では摂津の津村(大阪市)が産地として知られた。やがて上方』『から江戸へ伝えられ、広い社会層に迎えられた。「おきあがりこぼうし」「おきあがりこぶし」などともよばれ、玩具以外に「七転び八起き」の縁起と結び付いて置物にされ、七福神や達磨』『の姿のものもつくられた』とある。但し、ウィキの「起き上がり小法師」では、『福島県会津地方に古くから伝わる縁起物・郷土玩具の一つで』、『起姫(おきひめ)ともいう。会津の人にとっては「赤べこ」の次に馴染みのある郷土玩具であ』り、『古くは』四百『年前に会津藩主・蒲生氏郷が藩士に小法師を作らせ』、『正月に売らせたのがはじまりと言われる』とある。汎日本的な「起き上がりこぼし人形」のルーツの説明としては、前者の方が納得出来る。]

 

寢んねんさんせよ!

今日は二十五日!

明日はこの子の宮參り!

宮へ參らばどういうて拜む?

この子一代まめなよに! (伊勢)

 

ねんねこ、ねんねこ、

    ねんねこよ!

己(おら)が赤坊の

   寢た留守に、

小豆をよなげて、

   米といで、

赤の飯(まんま)に

    魚(とと)添へて、

赤のいい子に

    吳れるぞへ! (武藏)

[やぶちゃん注:「よなげて」「淘げて」。「よなぐ」は「米を水に入れてゆすって研(と)ぐ」・「水に入れて掻き混ぜて細かいものなどを揺らして選り分ける」・「より分けて悪いものを捨てる」の意。]

 

自家(うち)の此の子の

    枕の模樣!

梅にうぐひす

    松に鶴!

梅に慣れても

    櫻はいやいや!

同じ花でも

    散りやすい! (越前)

 

附記 櫻は、だから、不吉な模樣である。民間傳說の地方的小片がこの作で窺はれる、普通には、櫻は幸福な徽號と考へられて居る。この關係に於て、蓮の花も[やぶちゃん注:底本は「も」の部分は脱字。原文と平井呈一氏の訳で補った。]模樣は不吉だと思はれて居る、ことを述べてもよからう。子供の衣物の模樣には、決してそれを見ること出來ぬ。その花の繪すら殆ど部屋に掛けることをしない。その理由は、蓮は佛敎の表象的な花であるから、墓石に彫る。そして葬式の行列に一つの徽號として持ち運ぶ。

 

ねんねこ、ねんねこ、

    ねんねこや!

この子何故(なあ)して

    泣くやら?

お乳が足らぬか?

    おままが足らぬか?

今にお父(とつあ)んの大殿の

    お歸りに、

飴や、お菓子や、

    ヒイヒイや、

ガラガラ、投ぐれば

    フイと立つ、

おきあがりこぼし!

ねんねこ、ねんねこ、

    ねんねんや! (出雲。松江)

[やぶちゃん注:「ヒイヒイ」不詳。小学館「日本国語大辞典」の「ひいひい」に、馬を表わす幼児語とし、「ひんひん」と同じとするから、馬の玩具か。]

 

善い子だ、さん子だ!

    壯健(まめ)な子だ!

まめで育てた

    お子だもの!

寢るとねり餅

    くれてやる!

泣くと長持

    しよはせるぞ!

怒(おこ)ると怒(おこ)り蟲

    吳れてやる! (靜岡市)

 

附記 この作の主たる面白味は句が頭韻を踏んで構成されて居る點にある。妙な言葉のたはむれが方々にある。マメは發音では「豆」とも「壯健」とも意味する。同樣にオコリは「怒り」とも「瘧」とも意味する。オコリムシは「瘧蟲」で、寒氣と熱とを起こすと思はれて居る、或る大きな蛾の普通名である。

[やぶちゃん注:「さん子」不詳。識者の御教授を乞う。

『オコリムシは「瘧蟲」で、寒氣と熱とを起こすと思はれて居る、或る大きな蛾の普通名である』この冤罪の蛾の種は不詳。そもそも「瘧」はマラリアを指す。いろいろ調べたが、判らない。識者の御教授を乞う。]

 

坊やはいい子だ、

    ねんねしな!

この子の可愛さ

    限り無い!

山での木の數、

    榧の數!

天へ上(のぼ)つて

    星の數!

沼津へ下れば

    千本松!

千本松原、小松原!

松葉の數より

    まだ可愛ぃ! (駿河)

 

お寢んね、お寢んね

    お寢んねや!

宵には早(とう)から

    御寢(しん)なり、

あさまは早(とう)から

    お目ざめて、

御目覺のお褒美に

    なあに何?

お乳の出花を

    上げませうぞ!

お乳の出ばなが

    おいやなら、

鷄(にはとり)蹴合はせ

    お目にかきよ!

鷄蹴合はせ

    おいやなら、

御菓子澤山

    おあがりか? (出雲。大名の子に歌つた子守唄)

 

附記 出雲松江で人のいふのを書き寫したもの。此の一篇の本來の面白味は、その奇妙なそして全く飜譯不可能な敬語にある。

 

ねんねんよ!

    ころころよ!

ねんねん小山の

    兎(うさぎ)は、

なあぜに御耳が

    お長いね?

お母さんのお腹(なか)に

    居た時に、

枇杷の實 笹の實

    喰べまして、

それで御耳が

    お長いよ! (東京)

 

附記 この歌の出雲で歌ふのが自分の「知られぬ日本の面影」第二卷にある。出雲で歌ふのがこれよりも面白い。東京で變つた文句のがある。

[やぶちゃん注:私の「小泉八雲 落合貞三郎他訳 「知られぬ日本の面影」 第二十三章 伯耆から隱岐ヘ (二十七)」を参照されたいが、そこでの採取地は出雲でも隠岐でのもので、短いので、唄だけを以下に引いておく。

   *

ねんねこ、お山の

    兎の子、

なぜまたお耳が

    長いやら、

おつかさんのおなかに

    居る時に、

枇把の葉笹の葉

    喰べたそな、

それでお耳が

    長いそな

   *]

 

ねんねん、ころいち、

    天滿の市よ!

大根揃へて

    船に積み、

船に積んだら

    何處まで行(い)きやる?

木津や難波の

    橋の下(した)!

橋の下には

    お龜が居やる!

お龜とりたや

    竹欲しや!

竹が欲しけりや

    竹屋へ行きやれ!

竹は何でも

    御座ります! (攝津)

 

お月さん いくつ?

十三 ななつ!

まだ年 若い!

あの子を 產んで、

この子を 產んで、

だれに 抱かしよ?

お萬に 抱かしよ!

お萬 何處へ行た?

油買ひに 茶買ひに!

油屋の 前で

すべつて ころんで、

油一升 こぼした!

その油 どうした?

太郞どんの 犬と、

次郞どんの 犬と、

皆なめて しまつた!

その犬 どうした?

太鼓に 張つて、

あちの方でも どんどこどん!

こちの方でも どんどこどん!

    たたいたとさ! (東京)

 

ねんねんや! ころころや!

ねんねの生まれた その日には、

赤いお飯(まんま)に 魚(とと)添へて、

父(とと)樣のお箸で あげましよか?

ととさまのお箸は ととくさい!

母(はは)樣のお箸で あげましよか?

母さまのお箸は 乳くさい!

姉(あね)さまのお箸で 上げましよう!

ねんねん、ころころ、ねんねしよう! (岐阜)

 

ねんねこ、さんねこ、

    酒屋の子!

酒屋をいやなら

    嫁にやろ!

嫁の道具は

    何々ぞ?

簞笥、長持、

    ひつ、とだな!

琉球づつみが

    六荷(ろくか)ある!

風呂敷包は

    數知れず!

それほどこしらへ

    やるほどにや、

一生去られて

    戾るなよ!

そりやまたお母(か)さん

    どうよくな!

千石(ごく)積んだる

    船さへも、

風が變はれば

    戾るもの! (攝津)

 

附記 琉球で製造する種々な織物は日本で珍重せられる。小さな贈物は普通それを木綿か絹かの四角な切れに包んで持つて行く。それは大きなハンケチに似たもので、それをフロシキと呼ぶ。

[やぶちゃん注:「琉球づつみ」「琉球包」。]

 

千疊座敷の

    唐紙(からかみ)そだち!

坊ちやまも善(よ)い子に

    なる時は、

地面をふやして

    土藏(くら)たてて、

土藏(くら)の隣に

    松植ゑて、

松の隣に

    竹植ゑて、

竹の隣に

    梅植ゑて、

梅の小枝に

    鈴下げて、

その鈴ちやらちやら

    鳴る時は、

ぼつちやまもさぞさぞ

    嬉しかろ! (東京の子守唄)

 

金柑、蜜柑、

    なんぼ喰べた?

お寺の二階で

    三つ喰べた!

そのお寺は

    だれが建てた?

八幡(はちまん)長者の

    末(おと)娘!

末(おと)が嫁入り

    する時にや、

なんがい寺町

    シヤラシヤラと

短い寺町

    シヤラシヤラと

シヤラシヤラ雪駄の

    緖が切れた!

姉(あね)さんたてて

    呉れんかな?

たてて遣るこた

    やろけんど、

針も無ければ

    糸も無い!

針は針屋で

    買うてやる!

糸は糸屋で

    買うてやる!

針は針屋の

    腐れ針!

糸は糸屋の

    くされ糸!

姉さん雪駄に

    血がついた!

それは血ぢや無い

    紅ぢやもの!

大阪紅こそ

    色よけれ!

色のよい程

    値(ね)が高い!(博多市)

 

附記 セツタとは輕くはあるが頗る丈夫な草履で、その皮の踵の處へ薄い金屬が附けて强めてあるもの。ベニは主として唇に塗る。

 

 さて、結論のつもりで述べさせて貰ひたい事は、この稍〻長たらしい一文を起草する際、讀者に或る新しい經驗を――日本の市(まち)の街路を初めて通(とほ)つた時の經驗に稍〻似寄つた經驗を――提供しようと希望し得るだけであつた。

 日本の街路の初めての一般的印象は、多くの人には、奇異と云はんよりは寧ろ茫漠といつたものであるに相違無い。優れて鋭敏な五感を有つて居なければ――例へばピエール・ロティの視力の如き視力を有つて居なければ、その街路を通つて居る間に見たものを、極少ししか記憶して居ることが出來ず、殆ど何物をも理解することが出來ぬ。にも拘らず、驚きもして居り面白くも感じて居ることが判かる。――何故とは知らずに、豆仙人國の、奇怪な土地の漢字を――意想外の魅力を――を感ずる。

[やぶちゃん注:「ピエール・ロティ」小泉八雲の来日影響を与えたとされる小説「お菊さん」で知られるピエール・ロティ(Pierre Loti 一八五〇年~一九二三年)はフランスの海軍士官で作家。これはペン・ネームで本名はルイ・マリー=ジュリアン・ヴィオー(Louis Marie-Julien Viaud)。職務で世界各地を回り、その航海中に訪れた土地を題材にした小説・紀行文を多く書き残した。

「豆仙人國」原文は“the elfish and the odd”と形容詞を名詞的に用いている。「ちっちゃい小妖精と風変わりな場所」の謂いであろう。]

 さで、自分が引用した子供歌全部のうちで、明らかに讀者の注意を惹いたものは、恐らくは五つ六つにも上るまい。歿餘のものに就いては、多分殆ど記憶にとどまるまい。が、若しこの一聯の歌を、假令[やぶちゃん注:「けりやう(けりょう)」。仮初・いい加減であること。]や急速に且つ皮相的にでも、讀まれたならば、丁度日本の街路を初めて見た後に續いて起こつて來る感じに似ぬでも無い、或る一般的印象或は漠たる感念を得られたであらう。――諸君のとは別なそして測り知ることの出來ぬ人性の朧氣な推測を妙に心を誘ひはするが、永久に諸君のものとは異つた、別な人種精神を、――である。

 

2019/10/20

小泉八雲 日本の子供の歌  (大谷正信訳) 五(「羽子突歌と手毬歌」)

 

[やぶちゃん注:本篇については、『小泉八雲 日本の子供の歌  (大谷正信訳) 序・一(「天気と天象との歌」)』を参照されたい。]

 

 

       

 

       羽子突歌と手毬歌

 

 正月の休暇時分には、幾組もの少女が羽子を突いたり、手毬の種々な遊戲をしたりして居るので、街路はまことに美はしくなる。袖の長い、色取りの多樣な、晴衣をまとうて居るそんな少女共よりも美はしいものは、何も想像が出來にくからう。蛾か蝶の非常に燦爛たるものだけがそれに比べられよう。さういふ少女の優美さと上品さとを描くのに東京の畫工は甚だ巧みで、年ごとにそんな畫工は、手毬をついて居る少女共の群集の(時の流行も見せて)新しい着色の版畫や、或は、羽子板を手に、飛んで行くその羽毛の球(たま)を見やつて居る、花の脣を半ば開き、微笑む顏と輝く眼とを上に向けて居る、仙女のやうな少女の繪、を提供して我々を悅ばせる。それでも實物の方が時にはその繪よりも愛らしいこともあらう。それから、嗚呼! どんなにか驚嘆すべき羽子板を時々見ることが出來ることか! 或る山水、或る庭園、或る古代の貴公子の夢、かと思ふやうなのをば、絹のモザイク細工でその裏に貼り附けてある!

 が、その妙味は眼へだけのものでは無い。――さういふ仙女達は、遊戲を爲しながら、節奏と旋律とが不思議な、聞いて實に面白い、そして(西洋人の耳には)記憶することの不可能な、短い歌をうたふのである。

 

 此等の奇妙な短い歌は、多くは、つぎつぎの行又は句の最初の綴音が、その行又は句の順位を示して居る數詞の最初の綴音と同じになるやうに構成されて居る。最も普通に用ひられる日本の數詞はヒトツ、フタツ、ミツ、ヨツ、イツツ、ムツ、ナナツ、ヤツ、ココノツ、トヲである。が、種々な實例に於て支那の數詞[やぶちゃん注:本邦の漢字の「音読み」のこと。]が用ひられて居る。卽ち、イチ、ニ、サン、シ、ゴ、ロク、シチ、ハチ、ク、ジフである。そして色々の作品にその二組の數詞が交ぜて用ひてある。行又は句の一つづつを歌ふと共に、羽子板なり球なり、それを一度突くことになつて居る。『チヤウ』(偶數)といふ言葉は普通は十たび突くことを意味して居るやうである、――が、この意味は必ずしも明白では無い。

[やぶちゃん注:「『チヤウ』(偶數)といふ言葉は普通は十たび突くことを意味して居る」不詳。小学館「日本国語大辞典」の「丁」を見ると、魚商人仲間の隠語で「十」を表わすとあるが、理由は書かれていないが、関係はなさそうだ。

 以下に再録する複数の歌の読みについて、大谷氏は基本、当該文字(列)の綴り音の初めの字音のみを示して、後を省略している場合が多いので、注意されたい。読みが判らない場合は、原本画像(ここ以降)を確認されたい。但し、これは彼が不親切なのではなく、小泉八雲が原本で斜体にしている数の呼称音の掛けてある斜体部のみをルビ化していることがそれで判然とする。]

 

一(ひ)人來な!

二(ふ)人來な!

見(み)て行きな!

寄(よ)つて行きな!

何(い)時來て、

六(む)づかし!

七(なな)藥(や)師!

此(こ)處のまで!

十(と)よ! (東京。羽子突歌)

 

一(ひ)人來な!

二(ふ)人來な!

見(み)て行きな!

寄(よ)つて行きな!

何(い)時來て見ても、

七(な)子帶を、

矢(や)車に締めて、

ここのよで、

一丁! (京都。羽子突歌)

 

附記 ナナコはうねうねの光澤のある、一種の思い綾織の絹。ミテモの「ミ」といふ綴音がこの歌ではムツ(六)の最初の綴音の「ム」の代りになつて居る。

 

一(ひ)と目!

二(ふ)と目!

目證(めあかし)!

嫁(よ)御!

いつ屋の

六指(むさし)!

なな屋の

矢(や)指!

ここの屋

とを! (京都。羽突歌)

 

比(ひ)良屋彥兵衞!

中根のお豐(とよ)!

三度目に負けて、

あべこべちんちくりん!

ちんちくりんのちんちくりん!

一(ひ)人子に 双(ふ)見!

見(み)渡す 嫁(よ)御!

何(い)時來て 見(み)ても、

七(な)子の帶を、

矢(や)の字に 締めて、

此(こ)の家を 通(と)る! (信濃。羽子突歌)

 

附記 此歌にいうて居る「ヤ」は平假名の「ヤ」である。帶のこの結び方は今も流行つて居て、「やの字結び」といつて居る。

[やぶちゃん注:グーグル画像検索「矢の字結び 帯」をリンクさせておく。]

 

 時には有名な十ケ寺の名、或は十體の神佛の名、或は月の名すら――次記の例に見る如く――この款へ立てる目的に用ひる。

 

一(い)に一(い)畑お藥師樣よ!

二(に)には日(に)本の日光樣よ!

三(さ)に讃(さ)岐の金比羅樣よ!

四(し)には信濃(し)の善光寺樣!

いつつ江(え)の島辨天樣よ!

六(ろ)に六(ろ)角堂の觀音樣よ!

ななつ七(な)浦の天神樣よ!

八(や)つ八(や)幡の八幡樣よ!

ここのつ 高野(かうや)の弘法樣よ!

十(と)で 處(と)の氏神樣よ!

掛けた願なら解かねばならぬ! (東京。手毬歌)

 

附記 この作品の變形が殆ど日本到る處にあるやうである。

[やぶちゃん注:「高野(かうや)」は原本は口語音で“Kōya”となっているのだから、この読みのルビはよくない。大谷氏は寧ろ、妙なところで歴史的仮名遣に拘らずに「こ」だけを振るべきであった。

 

正月 門松、

二月 初午、

三月 節句、

四月 お釋迦、

五月 幟、

六月 天王、

七月 七夕、

八月 八朔、

九月 菊月、

十月 蛭子講、

霜月 師走、

ここので 一丁よ! (京都。羽子突歌)

 

附記 カドマツ卽ち「門松」は新年の元日に家の正門の前へ樹てる[やぶちゃん注:「たてる」。]。ハツウマは稻の神の大祭。三月の節句は雛祭ともいふ。佛陀の誕生日は四月八日に祝ふ[やぶちゃん注:「灌仏会」のこと。]。幟は男の兒の祭。ノボリは布で象徴的な模樣が附いて居る。男兒の出生を祝つて揭げる。東京ではノボリの代りに紙又は布で造つた鯉を用ひる。天王は市又は郡の守護神に普通與へる名。七夕の織姬はヹガの星。エビスは勞働の守護神。

[やぶちゃん注:「八朔」「はつさく」は陰暦八月朔日(ついたち)の称。この日にその年の新穀を収めて祝うのが大切な農事の儀式であった。

「菊月」旧暦九月(長月)の異称。節句中、最も重要な吉日である九月九日(陰陽説で最大の陽数が重なる目出度い日)「重陽の節句」(菊の節句)があることに由来するものと推察される。

「蛭子講」「えびすこう」は神無月(旧暦十月)に、出雲に赴かない「留守神」とされた「えびす神」(他に「夷」「戎」「胡」「恵比須」「恵比寿」「恵美須」などとも表記する)或いは「竈(かまど)神」を祀って、一年の無事を感謝し、五穀豊穣・大漁・商売繁盛を祈願する。地方や職種或いは寺社によって異なるものの、概ね旧暦十月二十日に配する。漁師や商人が集団で祭祀を行う「講」の一つとして近世に時に発達した信仰結社的祭祀要素も含まれるが、本来の「えびす講」は各家庭内での祭祀行為であったものと思われる。

「ヹガ」「こと座」の主星ベガ(Vega)。織女(しょくじょ)星。

 以下、行空けがないが、施した。]

 

大黑樣といふ人は。

一に俵を踏んまへて、

二ににつこりと笑うて、

三に杯(さ)いただいて、

四つで世(よ)の中よいやうに、

五つで泉(い)の湧くやうに、

六つで無(む)病息災に、

七つ何(な)事無いやうに、

八つで屋(や)敷を平らげて、

九つこ倉を推し立てて、

十(と)でとつくり治まつた。 (信濃。手毬歌)

[やぶちゃん注:「杯(さ)」は「さかづき」。

「こ倉」小倉。小蔵。]

 

最後に記した此歌は、祈願の言葉を手毬歌に變形した珍らしい一例である。初めの四行を除いては、その文句は、一語一語、昔のサムラヒが唱へた文句――どんなサムラヒも每日唱へた家内での祈願の文句――である。に反して次に記すものの中には、殆ど無意味詩(ナンセンス・ヴアス)といつても宜いものが二三ある。

[やぶちゃん注:「無意味詩(ナンセンス・ヴアス)」“nansense-verses”。「無意味な詩篇」。意味をあまり問題にせず、発音・韻・言い回しの面白さを主眼に置いた戯れ歌。]

 

ひや、ふや、

おこまさん!

たばこの煙は

丈八さん! (越前。羽子突歌)

 

附記 この歌は「お駒才三」といふ通俗な戲曲に關係して居る。その戲曲の女主人公お駒は美しい女なのだが、その父の店の番頭丈八なるものの奸策の爲め、不幸な最期を見る。丈八は芝居では種種の場に、火鉢の前に坐つてて盛んに煙草を吸かす[やぶちゃん注:「ふかす」。]。

[やぶちゃん注:「お駒才三」こう表記した場合は「おこま・さいざ」と読む。浄瑠璃・歌舞伎の登場人物。材木問屋の娘お駒が、手代の才三と密通し、婿の喜蔵を殺害、お駒は黄八丈の着物を着て市中引き回しとなる。享保一二(一七二七)年に江戸日本橋で起きた「白子屋お熊」の事件を素材としたもので、人形浄瑠璃「恋娘昔八丈(こいむすめむかしはちじょう)」(松貫四(まつ かんし)・吉田角丸の合作。安永四(一七七五)年・江戸・外記座初演)や「木場綺娘好(きはちじょうふりそでごのみ)」(天保九(一八三八)年・江戸・河原崎座初演)などとして上演された。ウィキの「恋娘昔八丈」が詳しい。]

 

一月二月、

三月さくら、

柳の下(した)で

化粧して十(とを)よ! (信濃。羽子突歌)

 

ひや 彥兵衞!

はげたか 次郞兵衞!

次郞べの頭(あたま)は

なぜはげたか?

親が邪慳で

火へくベた! (信濃。羽子究歌)

 

ひい、ふう、みい、よ。

よもの景色を、

春と眺めて、

梅にうぐひす、

法法華經と囀る。

明日(あす)は 祇園の

二軒茶屋で、

琴や三味線、

はやしテンテン、

てまりうた。

歌の中山、

ちよ五に五十で、

ちよ六――六――六!

ちよ七――七――七!

ちよ八――八――八!

ちよ九に九十で、

ちよつと百ついた! (京都。手毬歌)

 

附記 うぐひすの啼聲に關して、この文の前にある、佛敎に緣のある名、の一文を讀まれたい。この歌でのチヨはチヨウと同じで、偶數か又は全る[やぶちゃん注:「まる」。行きつくところの。]十の意味。

 

うぐひすや! うぐひすや!

たまたま都へ上(のぼ)る時、

梅の小技に晝寢して、

お千代に何々着せてやる?

上衣(うはぎ)は紺々 紺縮緬!

下着(したぎ)はちんちんちんちりめん!

それを着せてやつたれば、

道でころぶか 手を突くか?

殿さんが通(とほ)たら御辭儀せよ!

おん馬が來たらば傍(わき)へ寄れ!

手習子供をかまふなよ!

かまふと草紙でぶたれるぞ!

先づ先づ一貫お貸し申した! (靜岡。手毬歌)

 

附記 昔の一貫は一千文、だからその値は百セントの一弗(ドル)と似たもの。

[やぶちゃん注:「一貫」「百セント」=「一弗(ドル)」江戸初・中期にかけての金一両(四千文)を現在の十万円に相当とする資料があり、一貫文は千文であるから二万五千円相当(但し、幕末にかけては激しいインフレとあったので、一貫文は七千円程度相当まで落ちる)。本作品集が刊行された明治三四(一九〇一)年前年の為替レートは一ドルは二円、当時、白米十キログラムは一円強。]

 

一(ひ)つ挽(ひ)いた豆

    粉にした豆!

二(ふ)つ踏(ふ)んだ豆

    つぶれた豆!

三(み)つ味(み)噌豆

    ふくれた豆!

四(よ)つ選(よ)つた豆

    綺麗な豆!

五(い)つ炒(い)つた豆

    腹切つた豆!

六(む)つ貰(も)うた豆

    得(とく)した豆!

七(な)つ生(な)つた豆

    莢つき豆!

八(や)つ與(や)つた豆

    損した豆!

九(こ)つ買(か)うた豆

    錢出した豆!

十(と)で取(と)つた豆

    盜人(ぬすと)した豆! (越前)

[やぶちゃん注:「買(か)うた豆」は原文“Kōta mamé”で、やはり歴史的仮名遣なぞに代えずに、そのまま「こ」だけを振るべきであった。]

 

 次に抜萃する――手毬歌の一番好い――のの興味は前のとは全く性質を異にして居る。作(さく)の仕組は英國のあの有名な子供歌『わたしの好きなは、アの字附き』の仕組に似ぬでも無い。演者の想像的機智次第で、無限に擴げたり或は變更したり、出來るのである。

[やぶちゃん注:「わたしの好きなは、アの字附き」原文は“I love my love with an A”。平井呈一氏は『わたしの好きなの、A がつく』と訳しておられる。イングランドの童謡。かのルイス・キャロル(Lewis Carroll 一八三二年~一八九八年)が「言葉遊び」としては流行らせたものらしい。

 以下の「甲の遊戲者。」「乙の遊戲者。」はポイント落ちで、以下の歌本文より一字分上から記されてある(則ち、本篇本文で三字下げ位置から)。それを表現するために、ここでは以下、歌本文を一字下げで示した。

 

甲の遊戲者。

 おかん、かん、かん、

 加賀樣屋敷ぢや。

 おけさ米搗く、

 小糠が落ちる。

 なんとて落ちる?

 ささ、しちく竹!

 ささ、はちく竹!

 向うの向うの、

 格子づくりの、

 臼壁づくりの、

 赤い暖簾のかかつた、

 お姬樣まで、

 お〻渡し――

 もうす――す――す――の――す!

 

此處で手毬をこの娘に渡すと、その娘はそれを受け取つて斯う歌ひ出す。

 

乙の遊戲者。

 受け取つた! 受け取つた!

 受け取りた!

 大事のお毬を受け取つた!

 あ〻受け取つた!

 蝶や花やと

 おそだて申して、

 おかへし申して、

 今夜の晚から、

 紙もいらずみ、

 硯もいらずみ、

 針三本、

 絹糸三筋に、

 おん馬が三匹、

 お籠が三挺、

 のりかへひつかへ、

 向うの向うの、

 格子づくりの、

 柿の暖簾の

   ? さんまで、

 お〻渡し

 もうす――す――す――の――す! (東京。手毬歌)

 

附記 シチクダケ、ハチクダケ、共に竹の名。ササは一種の小さな竹。シチクダケは黑い竹、ハチクダケは紫がかつた竹である。が、此の歌では同語とも擬聲である。「ササ」といふ綴音は、米搗きが足で揚げた時の木造の大きな臼が軋る音。シチクダケ、ハチクダケは、槌の落つる音や、打たれてどしんといふ音やらを現はしたもの。?の處で、次にその毬を渡してやる女の子の名を言ふのである。

[やぶちゃん注:「シチクダケ」「紫竹竹」であるが、「黒竹」、単子葉植物綱イネ目イネ科タケ亜科タケ連マダケ属クロチク Phyllostachys nigra の異名。竹本体の直径二~三センチメートルほどで、高さは三~五メートルほどになる。初め、本体は緑色で、夏を過ぎると、徐々に黒くなり、二年ほどで真っ黒になる。日当りの良い乾燥地では特に鮮やかな黒色となる。伐採後も黒い色は変わらず、庭園に植栽されたり、建築用や装飾用に利用され、工芸品の素材とされる。主産地は高知県中土佐町と和歌山県日高町(以上はウィキの「クロチク」に拠った)。

「ハチクダケ」「淡竹竹」。前のマダケ属クロチクの変種ハチク Phyllostachys nigra var. henonisウィキの「ハチク」によれば、『中国原産の竹の一種。黄河流域以南に広く分布し、日本ではモウソウチク』(マダケ属モウソウチク Phyllostachys heterocycla f. pubescens:「f.」は「forma」の略号で品種であることを示す)・『マダケ』(マダケ属マダケ Phyllostachys bambusoides)『に次いで』、『各地でよく植栽されている。北海道南部以南に分布し、モウソウチクよりも耐寒性を有するため』、『特に日本海側に多い。川岸や山地では野生化しているものもある。別名アワダケ、呉竹(くれたけ)』。『直径は』三~十センチメートル、高さは十~十五メートルほどであるが、高いものは二十メートルに『なるものもある。節の輪は』二個で、節の間は二十~四十センチメートル。若い本体部には『白い粉があり、各節から枝が』二『本出る』という『特徴を有する』。勝宝三(七五〇)年『頃には日本にあったことが知られているが、起源は不明』。『細く割れるため』、『茶筅などの茶道用具、花器に利用されるほか、枝が細かく分枝するため』、『竹箒として利用される。 正倉院の呉竹笙、呉竹竿、彫刻尺八、天平宝物の筆などはハチク製と鑑定されている。また、内側の薄皮は竹紙と呼ばれ、笛の響孔に張り』、『音の響きを良くするほか、漢方薬としても使用される』。『ハチクの筍(タケノコ)は食用で径が約』三~十センチメートルで、最盛期は五月中旬から六月上旬頃となる。『主に孟宗竹のピークが過ぎた』頃『に出回り始める。皮は紫色で』、『まばらに毛があり、掘り出したばかりの筍はクセが無く』、『生食も可能だが、時間の経過につれ』、『えぐみが増すため』、『あく抜きが必要となる。筍は』、『マダケと比べると』、『やや太くずんぐりとしている。また』、『出始めの時期がやや早いこと、マダケでは皮にある黒い斑点がない事や』、『色の違いで見分けがつく』。『開花周期は、マダケなどと同様に約』百二十『年とされており、開花後は一斉に枯死することが知られている』とある。]

小泉八雲 日本の子供の歌  (大谷正信訳) 四(「物語の歌」)

 

[やぶちゃん注:本篇については、『小泉八雲 日本の子供の歌  (大谷正信訳) 序・一(「天気と天象との歌」)』を参照されたい。]

 

 

   

 

   物語の歌

 

おらが隣の 千松は、

近江の軍(いくさ)に 賴まれて、

一年經つても まだ來ない、

二年經つても まだ來ない、

三年經つたら 首が來た。 (銚子)

[やぶちゃん注:「近江の軍」最も古くで、関東から派兵された戦さとしては、まずは源義仲と源頼朝が派遣した東国諸将との間で近江国粟津において戦われた「粟津の戦い」(寿永三(一一八四)年一月二十日)であろう。「平家物語」などで物語性の強い万民の知る「戦さ」としては、これが群を抜くものと思う。その後、南北朝プレ期の建武政権期の延元元/建武三(一三三六)年九月中旬から二十九日にかけて、近江国で建武政権の新田義貞・脇屋義助らと、足利方の小笠原貞宗・佐々木導誉らとの間で行われた文字通りの「近江の戦い」はある。その後だと、永禄一一(一五六八年)九月十二日に足利義昭を奉じて上洛の途にあった織田信長と近江守護六角義賢・義治父子との間で行なわれた、信長の「天下布武」が実践された最初の戦いにして、戦国時代最後の合戦とされる「観音寺城の戦い」(別称「箕作(みつくり)城の戦い」)がある。また、三年経って首だけが帰ってきたというのは、相当に大規模な知られた大きな戦さであることを考えれば、「関ヶ原の戦い」の前哨戦となった近江国大津城を巡って争われた「大津城の戦い」(慶長五(一六〇〇)年九月七日から同月十五日)が挙げられる。千葉氏などの房総の関東豪族が支配した民が、関西方面の戦さに駆り出されること自体は、「大津の戦い」以降、全く問題はない。]

 

向うの山に

猿が三匹とうまつて、

前なる猿は物知らず。

後(あと)の猿も物知らず。

中の小猿がよう物知つて、

ござれともだち花見に行こや!

花はどこ花?

地藏の前のさくら花。

一と枝折ればパツと散る。

二た枝折ればパツと散る。

三枝がさきかに日が暮れて、

どつちの紺屋(こうや)に宿とろか?

束の紺屋に宿とろか?

南の紺屋に宿とろか?

殿さんの紺屋に宿とつて、

晝は短し 夜は長し。

あかづき起きて空見たら、

ぎつこのばつこのきいせんご。

船どもさらへて帆を掛けつ。

帆掛船のつりものは、

白織、赤織、赤地の

交じつた つばかたな。 (出雲)

 

附記 一行を爲し得なかつたのがある。ギツコノバツコノキイセンゴである。多分文句が訛つたのであらう。この唄と同種類のが澤山に在る。こんな種類のをランドンネの不完全な形式のもの――發展の初期のランドンネ――と言つてよくはなからうか。

[やぶちゃん注:「あかづき」は原文のママの音写。暁。

「ぎつこのばつこのきいせんご」は艪を漕ぐオノマトペイア(擬音語)、或いは漕ぐ際のそれに基づく掛け声であろう。

「ランドンネ」先に出たフランス語の(chanson)“randonnée”で、一種のエンドレスに循環するような唄のこと。]

 

やれ腹が立つ! 立つならば、

硯と筆とを 手に持つて、

思ふことをば 書き置いて、

紫川へ 身を投げた!

下(した)から雜魚が つ〻くやら、

上(うへ)から鴉が つ〻くやら!

つ〻いた鴉は 何處へ行(い)た?

森木の下へ麦蒔きに!

何石(なんごく)何石蒔いて來た?

二千石 蒔いて來た!

二千石の 能(のう)には、

寺の前で 子を產んだ!

住持の衣へ 血がついて、

雨垂水で 洗つて、

香爐の火で 炙つて、

香爐の火が 足らいで、

油火で 炙つて、

油火が 足らいで、

竃(くど)の火で 炙つて、

竃の火が 足らいで、

炬燵の火で 炙つて。 (出雲)

 

附記 自殺をする前にその動機を說明する手紙を書く習慣が詠み込んである。炬燵は四角な物で、四方と上とは木の棒で出來て居り、下には金屬製の火鉢か鍋を置き、それへ炭火を入れる。上へは重い布團を掛ける。その布團の下へ膝を入れて幾人もがそのまはりに坐つて暖まることが出來る。大きさは一呎[やぶちゃん注:「フィート」(単数なのでここは“foot”)。三十・四八センチメートル。]平方から二呎平方に至る。辭書は不合理にもこれを「一種のハース」と書いて居る。これはハースでは無い。が、西部日本では西洋のハースが占めて居る地位をその家で占めてゐる――一家の者が冬の夜そのまはりに集まるから。

[やぶちゃん注:「紫川」不詳。調べたが、出雲にはないと思われる。異名か。なお、原文は“murasaki-ga”であるから、「紫河」とも思われるが、音数律が悪いので「gawa」の小泉八雲の脱字か。平井呈一氏も『むらさき川』とする。

「ハース」“hearth”。原義は「炉床・暖炉に敷かれた石や煉瓦の床」。転じて家庭の団欒の中心である「炉辺」や「家庭」の意でも用いる。]

 

猫が桑名へ 參るとて、

桑名の道で 灯が消えて、

とぼしてもとぼしてもとぼらいで、

茶屋の緣へと 腰かけて、

水を一パイお吳れんか?

水をやるのは 易いけど、

釣瓶の底が 拔けました。

やれやれきつい 姉さんぢや!

お茶を一ぷく お吳れんか?

御茶をやるのは 易いけど、

茶釜の底が 拔けました。

やれやれきつい 姉さんぢや!

煙草を一ぷく お吳れんか?

煙草をやるのは 易いけど、

煙管(きせる)の首が 拔けました。

やれやれきつい 姉さんぢや!

 ひい――ふう――みい――いつ――むう――なな――やあ――

 この――とう! (伊勢)

 

附記 『姉さん』は宿屋の女中に向つて今なほ用ひられて居る敬稱。アネサンの略のネイサンといふを一層屢〻使用する。ひいふうの數はこの歌と共に行ふ遊戲に關係のあるもの。

 

 固よりの事上記の物語に述べて居る猫は化猫――多樣な姿に身を現じ得る力を有つて居る猫――である。それが人間の姿をして旅をして居る。が其假相は茶屋の女中の看破する所となつて女中はそれに答へるのに化物に對して答へる道を以てする。……化物若しくは幽靈が桶か他の容物(いれもの)かを乞ふなら直接それを拒むのは宜しくない。それを與へる前に忘れずに其容物(いれもの)の底を拔かなければならぬ、――で無いと其結果は取り返しのつかぬ物である。

 それで想ひ出すが、蛙や鳥が美しい少女に戀をしたり、種類の異つた動物が結婚したりする、ことを語つて居る西洋のお伽噺に關して、時折皮相な批評を下す者がある。そんな途方も無い不合理な物語は兒童の讀み物には不適當であり、なほまた藝術的價値を全く失はせる、といふのである。が、そんなお伽噺の多數は、その起原を溯つて東洋に求めることが出來るものである。ところが、東洋人の心には――動物の中で意の儘に人間の姿に現じ得るものが澤山あると信ぜられて居ることだから――人間と人間ならぬものとの結婚、といふ考には少しも不合理なところは無いのである。極東人の信仰では、一切の生はであつて、それを包んで居る形態はただ一時の狀態である。極東人の信仰に就いて幾分かの知識を有つて居ないでは、日本のお伽噺の眞の妙味は了解が出來ぬ。兎に角、飜譯でそれを讀む折は、必らず日本の藝術家の圖解のあるので讀まなければならぬ。ただの本文だけでは不可解に終はることを、その圖解が大いに說明して吳れるであらう。

 

附記 この信仰は佛敎よりも古い。が、佛敎は餘程それを承認して居る。佛門に入らんと欲する者に對して、以前問ふことになつて居た問の一つは、「毘奈耶」に據ると、斯うであつた。『お前は人間か?』

[やぶちゃん注:「一生の生はであつて」の「一」の下線太字は底本では傍点「◦」である。
「毘奈耶」「びなや」。サンスクリット語(ラテン文字転写:vinaya)の漢音訳。「律と」訳す。比丘・比丘尼に関する仏が制定した禁戒を指す。漢訳されたものに「四分律」・「五分律」・「十誦律」・「摩訶僧祇律」の四つがあり、未伝の「迦葉遺部律(かしょういぶりつ)」を加えて、「五分律」という。]

 

 次記の歌には蛇が或る人の娘の姿を執つて居る話がある。蛇女や龍女の話は日本文學に甚だ多い。多分この歌も前の歌も、古い小說か戲曲かを懷ひ出して作つたものであらう。

 

向うの小澤に 蛇(じや)が立つて、

八幡長者の 末娘(おとむすめ)。

巧(よ)くも立つたり 企(たく)んだり。

手には二本の 珠(たま)を持ち、

足には黃金(こがね)の 靴を穿(は)き、

あ〻呼べ、かう呼べと、言ひながら、

山くれ町くれ 行つたれば、

草刈殿御に 行きあつて、

帶を下され 殿御さま!

帶も笠も 易い事、

己(おれ)の女房に なるならば、

朝は起きて 髮結うて、

花の咲くまで 寢て持ちよ! (信濃)

 

2019/10/19

小泉八雲 日本の子供の歌  (大谷正信訳) 三(「種々な遊戯歌」)

 

[やぶちゃん注:本篇については、『小泉八雲 日本の子供の歌  (大谷正信訳) 序・一(「天気と天象との歌」)』を参照されたい。]

 

       

 

      種々な遊戲歌

 

 遊戲歌は――戶外或は戶内の種々な遊戲と共にうたふ歌は――その數頗る多い。自分が蒐めたものだけでも二百以上を含んで居る。物語の體(てい)のもあり、問答になつて居るのもある。佛蘭西人が『かぞへうた(シヤンソン・ニヌメラテイフ)』若しくは『循環うた(ランドンネイ)』と呼んで居るあの部類に類するのもある。分類の不可能なのも少しある。そして最も顯著なものの中に頗る奇怪なのがあつて――西洋の子供がうたふどんな物とも全く類を異にして居るから――澤山の註釋の助を藉りても、日本人の生活を知つて居られぬ讀者には、了解が出來なからうと思ふほどである。が、次に記載する一聯の見本は乙の範疇(カテゴリ)に屬する子供歌の珍妙さと多方面とを示して餘あることと思ふ。

[やぶちゃん注:「かぞへうた(シヤンソン・ニヌメラテイフ)」原文“chanson énumérative”。音写するなら「エニメルティーヴ」(私は一応、大学では第一外国語をフランス語でとった。もうすっかり忘れたが)。男性形では「énumératif」、小泉八雲の示したのは女性形。「chanson」が女性名詞だからである。意味は「列挙された」という形容詞である。

「循環うた(ランドンネイ)」原文(chanson)“randonnée”。音写するなら「ルンドネエ」で、原義は「狩り立てられた獲物がぐるぐると逃げ回ること・小旅行・遠出・遠乗り」の意の名詞である。ここは一種のエンドレスに循環する唄の謂いであろう。]

 

泣き蟲、毛蟲!

はさんで棄てろ! (泣く子に向つて歌ふ)

 

附記 百足蟲、毛蟲その他の不快な訪客は日本では鐡のチヨプ・ステッキか火箸で棄てる。

[やぶちゃん注:「チヨプ・ステッキ」原文は“chop-sticks”だから、「チョップ・ティック」で「鉄製の箸」である。但し、「ステッキ」は英語では「stick」であるから、問題ない。いやいや、咬まれたり、刺されたりするのは勘弁だから、尖端と距離のある「鉄製のゴミばさみ」の方がいいと思うよ。]

 

歸(い)のる、いのる!

いながさきに鬼(おに)が居る!

あと見りや蛇(じや)が居る! (家を出るのを恐がる子に向つて歌ふ)

[やぶちゃん注:「いのる」これは「去(い)ぬる」の訛りで、古語の「来る」「行く」の意。]

 

蓮華の花開(ひい)らいた!

ひいらいた、ひいらいた!

ひいらいたと思つたら、

やつとこさとつぼんだ! (踊歌)

 

附記 この蓮華の歌は、皆手かつないで、内側へ向いて圓を卽ち踊の環を造つて居る一組の子供が歌ふ。歌が始まるとその圓が次第に擴かる。が、「ヤツトコサ」といふ言葉で、みんな一緖に走り込んで、同時に手を引つぱつてその環を閉づる。

 

梅干さえといふ人は、

足から顏まで皺よつて、

        皺よつて、

あれは酸い、これは酸い、

        すい、すい、すい! (遊戲歌)

 

チンカン、チンカラ、鍛冶屋の子、

裸で飛び出す風呂屋の子…… (遊戲歌)

 

附記 いろんな商賣の名をあげての或る「數へ歌」の斷片のやうである。

 

鍛冶どん、かぢどん、

火一つごしやれ!

火は無い無いや!

あの山越えて。

この山越えて、

火は此處ここに在る! (遊戲歌)

 

附記 この歌は或る器用なそしてむつかしい指の遊びに伴なふて歌ふ。英國の「ダンス・サムキン・ダンス!」の子供遊に全然似ないでも無いが、もつと込み入つて居る。兩手を使ふ。

[やぶちゃん注:「ダンス・サムキン・ダンス!」“Dance, Thumbkin, dance!”(「踊って、親指さん、踊って!」)。サイト「うたまっぷ.com」のこちらで英文と訳(全ひらがな)が載り、あかり氏のブログ「英語はともだち、むずかしくないよ!あかりんの英語子育てブログ」のこちらを見るに、指(指人形)遊びであることが判る。You Tube のVarious Artists - Topic氏の「DANCE THUMBKIN DANCE(えいごであそぼ)」で歌が聴ける。平井呈一氏は恒文社版の「日本のわらべ歌」のこの唄の後に訳注を附され、小泉八雲の採録したこの唄の指遊びについて、『よくわからないが、両手の指を逆に組みあわせ、上に出した親指と人さし指で相手の指を強く押し締めて、「ぬるいか、熱いか」といって遊ぶ指遊びがある。あれに似たものではないかと思う』と記しておられる。検索したところ、サイト「ASOPPA!」のこちらに「手あそび歌あそび」として「あついかな ぬるいかな」が図解されて説明されているが、平井氏の言っているものとは異なり、一人遊びである。]

 

中(なか)の、中の小佛は

なぜまたがゞんだ?

親の日に蝦たべて、

それでまたかゞんだ!  (踊歌)

 

附記 親の命日と盆とには善良な佛敎信者は魚はどんな魚も食はぬ。

 

なはりなはりの小佛は

なぜ丈(せ)が低い?

親の日に魚(とと)食つて、

それで丈(せ)が低いそな! (前のと同種)

[やぶちゃん注:平凡社「世界大百科事典」の「回りの小仏」に(コンマを読点に代えた)、『日本の伝統遊戯の一つ。〈まわりまわりのこぼとけ〉〈なかのなかのこぼとけ〉〈なかのなかのじぞうさん〉、あるいは単に〈こぼとけ〉ともいう。〈かごめかごめ〉と同様の遊びで、子どもたちが手をつないで輪をつくり、その輪の中に目隠しをした小仏(地蔵あるいは小坊とも)が』、一人、入って、『まわりを子どもたちがはやしことばを歌いながらめぐり、歌が終わってかがんだところを小仏がその』一『人をつかまえ』、『名を当て、当てられたものが小仏となる。はやしことばは地方によって違いがあるが、東京地方では〈まわりまわりの小仏はなぜせいがひくい、親の日にとと食ってまま食って、それでせいがひくいな、うしろにいるものだあれ〉とはやす。元来は小仏のほうも〈線香、抹香』『、花抹香、しきみの花でおさまった〉といいながら』、『任意のところから外の人を数え、その最後の者が次に中に入って小仏となった。肉親の忌日には精進』『せよとのいましめの意味を含むものと思われ』宝暦一〇(一七六〇)年の『土御門泰邦の』「東行説話」では、『転輪蔵(一切経をおさめる回転式書架)を』一『回転すれば』、『経文を読んだことに相当する功徳(くどく)があるという故事に起源するという』とある。You Tube のfurusatomonogatari氏の「中の中の小仏は」小泉八雲の示した「蝦」で歌っている。また、柳田國男の「こども風土記」(昭和一七(一九四二)年朝日新聞社刊)の「中の中の小仏」と、続く「地蔵あそび」に以下のようにある(「ちくま文庫」版全集第二十三巻(一九九〇年刊)に拠った)。

   *

   中の中の小仏

 西洋の子どもの中にも、まだ幾種かの当てもの遊び(Guessing Games)[やぶちゃん注:「当てっこ(推理)遊び」。]が残っていることは、こういうことを書いた本によくいうが、あちらではもうその起りを説明することができなくなっている。日本ならそれが簡単にわかるのである。

 子供が手を繋いで輪になって、ぐるぐる廻る遊び、全国どこにもある「中の中の小仏(こぼとけ)」というものなどは、鹿の角を幾分か複雑にして、たくさんの児が一緒に楽しめるようにしただけで、やはり問答が中心であった。六十年も前に私などが唱となえていた詞(ことば)は、

   中の中の小坊さん なァぜに背が低い

   親の逮夜(たいや)にとゝ食くうて それで背が低い

[やぶちゃん注:「逮夜」は「大夜」などとも書き、本来は葬儀の前夜を指したが、現在では、年忌などの前夜のことを言う。ここは両義で採るべきであろう。]

というのであったが、この文句は皆さんの覚えておられるのと、多分は大同小異であろう。あるいは魚の代りに「海老(えび)食うて」という者もあるようだが、いずれにしたところで父母の命日に、そんな物を食べる人は昔は一人もいなかった。それがおかしいので何遍も何遍も、同じ歌ばかりをくり返していたけれども、大阪でも東京でも、そのあとに添えて、

   うしろにいる者だァれ

または「うしろの正面だァれ」といって、その児の名を当てさせるものが多かった。或いは目隠しをさせ、もしくは顔を両手で掩(おお)わせて、正面に踞(しゃが)んだ児を誰さんと、いわせることにしていたかとも思われる。鹿児島県の田舎などでは、それでこの遊戯をマメエダレとも呼んでいた。マメエダレはすなわち真前誰[やぶちゃん注:「ま(ん)まえだれ」。]である。

 遊びは後に少しずつ改良せられている。中の小坊の手にお盆を持たせて、誰それさん御茶あがれと言わせたり、または一つ一つ手を繫いだところを探って、ここは何門と尋ねる問答を重ね、答えによってそこを切って出るような遊び方もあった。いずれも小児が自分たちで考え出したもので、そんなことに世話を焼く成人はいなかったろうと思う。それから蓮華(れんげ)の花は開いたといい、または「かごめ・かごめ」という文句に取り換えたりしたのも、あんまり上手だから別に作者があったように考える人もあるか知らぬが、私たちは、なお、かれらの中の天才が興に乗じて言いはじめた言葉が、自然に採用せられて伝わったものと思っている。遊びはもともと輪を作って開いたり莟(つぼ)んだり、立ったり屈(かが)んだりするのが眼目であった。そうして歌は、またその動作と、完全に間拍子があっている。作者がほかにあったろうと思われぬのである。

   *

   地蔵あそび

「中の中の小坊さん」は、私などは弘法様(こうぼう)さまのことかと思っていた。これを小仏と唱えていた子供の、近所にあることも知っていたのである。山梨県ではそれをまた、

   中の中の地蔵さん

とうたい、その「中の地蔵」が後で周囲の子の頭を叩きまわって、

   外の外の小僧ども なぜ背が小さいな云々

といっていたそうである。茨城県で地蔵遊びといったのもこれで、一人をまん中にかがませて目かくしをさせ、周囲の輪の子供が廻りながら、やはり「なぜに背が低い」を唱える。そうしてその運動をやめるや否や、中の地蔵が一人をとらえてだれさんと名をあてる。それが的中すると地蔵が代ることは盲鬼(めくらおに)の一種とよく似ている。福島県海岸地方の地蔵遊びのことは、前に『日本の伝説』の中にも述べておいた。これは輪の子どもが口を揃そろえて「中の中の」の代りに、

   お乗りやァれ地蔵様

という言葉を唱える。乗るとはその児へ地蔵様に乗り移って下さいということであった。そうするうちにまん中の児は、次第次第に地蔵様になってくる。すなわち自分ではなくなって、色々のことを言い出すのである。そうなると他の子どもは口々に、

   物教えにござったか地蔵さま 遊びにござったか地蔵さま

と唱え、皆で面白く歌ったり踊ったりするのだが、元は紛失物などの見つからぬのを、こうして中の中の地蔵様に尋ねたこともあったという。

 古い『人類学雑誌』に出ていたのはもとは仙台附近の農村で、田植休みの日などに若い男女が集まって、大人ばかりでこの地蔵遊びをしていたそうである。これとても遊びで、信心からではなかったが、まん中にややお人よしというような若い者を坐らせ、ほかの者が輪になって何か一つの文句をくりかえしくりかえし唱えていると、しまいには今いう催眠状態に入って、自分でなくなって色々の受返事をする。いずれ男女の問題などの、罪もない笑うようなことを尋ねて、それに思いがけない答えがあるので面白かったのであろうが、それが今一つ山奥の村へ入って行くと、まじめな信心者だけで集まって、この中座(なかざ)のいうことを聴いていた。それが昔の世にひろく行なわれた神の口寄せというものの方式だったので、つまりは子どもがその真似をくりかえして、形だけでも、これを最近まで持ち伝えていてくれたのであった。

   *

この柳田國男の最後のシャーマニズム起原説は非常に承服出来るものである。遊びの原型は恐らく悉くがそこに濫觴すると私は考えている。]

 

ゆらすや百足蟲(むかで)!

頭(あたま)は 茶臼、

尾(を)はヒコヒコよ! (紀伊。百足蟲踊)

附記 この百足蟲踊は銘々がその前の人の帶を捉へて居て、一列に並んで居る大勢の子供がやる。その先頭の者は手に、百足蟲の頸のつもりの、何か茶臼に似ら恰好の物を恰好の物を持つて居る。本當の茶臼では遊戲には重過ぎよう。

 

地藏さん、地藏さん、

おまへの水を、

どんどと汲んで、

松葉に入れて、

まつくりかへた! (出雲。踊歌)

 

附記 これは普通小さな女の子供が歌ふ。歌を歌ふ者は、二人づつ、歌ひながら手を持ち合うて、面と向かひ合つて立つ。「マツクリカヘタ」で、背中向きになるやうに、手ははづさずに、轉ずる。

 

一がさいた! 二がさいた!

三がさいた! 四がさいた!

五がさいた! 六がさいた!

七がさいた! 蜂が刺いた!

熊蜂がさいた! とかげが刺いた! (手遊歌)

 

附記 ハチは發音では「八」とも 「蜂」とも意味する。

[やぶちゃん注:謂わずと知れるが、「熊蜂」(くまばち)の「く」が「九」、「とかげ」の「と」が「十」に通ずる。原本では英訳の間に間に手遊びの方法が記されてある(ここの左上の中部。英文は記号がごちゃついて読み難いので示さない)。しかし、平井呈一氏はそれを纏めて唄の後に訳して出しておられる。以下である。

   《引用開始》

 この歌は、「一が刺いた」で、一方の子が右手を相手の右手の上におき、「二が刺いた」で、左手を右手の上に、「三が刺いた」で、左手を左手の上に、「四が刺いた」で、下の右手を上に出しておき、「五が刺いた」で、相手が同じしぐさをし、「六が刺いた」「七が刺いた」とつづいて、「蜂が刺いた」で、いちばん上におかれた手が相手の手をピシャリと打つ。「熊蜂」ではしっぺ返しをし、「トカゲが刺いた」では力強くしたたかに打つ。

   《引用終了》

また、百ページもある強力な「兵庫県のわらべ歌」(PDFの九十ページに、伊丹市採取の、酷似した手遊び唄が載る。

   *

一が刺した 二が刺した 三が刺した

四が刺した 五が刺した 六が刺した

七が刺した 蜂が刺した ブ~ン

   *

これについて、後に遊び方が書かれてあり、『県下全域で歌われている指遊びの歌です。歌にあわせて手の甲を順につまんでいき、8(蜂)の番で強くつねります。そのとき「蜂ブンブン」といって蜂のように両手で飛ぶまねをします』とある。]

 

此處は何處(どこ)の細道ぢや?

天神さまの細道ぢや。

一寸(ちよつと)通して下しやんせ!

御用の無いもの通しません!

天神さんへ願かけて、

御札納めに參ります。

おまへの家(うち)は何處ぢやいな?

箱根のお關で御座ります。

そんなら通りやれ、通りやれ!

行きはよいよい、歸りは恐い! (遊戲歌)

 

附記 箱根には古昔武人の番所があつて、どんな旅人も其處で、通る前に、身の上を語らなければならなかつた。

 

こな子よい子だ、何處の子だ?

問屋八兵衞(とんやはちべゑ)の末娘(いもむすめ)!

なんとよい子だ、器用(きよう)な子だ!

機巧(きよう)に育つて來たほどに、

親に十貫、子に五貫、

せめておばばに四十五貫。

四十五貫のお金を何にする?

廉い米買うて船に積み、

船は白金(しろかね)、艪は黃金(こがね)、

あさあ、押せ押せ、都まで!

都もどりに何もろた?

一にかんざし、二に鏡、

三に更紗の帶もろた!

絎(く)けてくだされ、おばばさん!

くけうくけうと思へども、

帶に短し、たすきに長し、

山田藥師の鐘の緖に! (出雲。遊戲歌)

 

附記 一貫は古昔は銅錢千に當つて居た。祖母に澤山な贈物をする事が、日本の家庭では子供の若い時分の仕附けは祖父母に、殊に祖母に普通に任せられてゐたことを思ひ出させる。更紗は一種のキヤラコ或はチンツ。タスキといふは仕事をする時の間日本の長い袖を後ろへ結はへるに使ふ紐。ヤクシはバイシヤギヤラガの日本名。(バイシヤギヤラガは文字通りでは「醫王」の意味)ヤクシ卽ちヤクシニヨライは日本の非常に人氣のある佛で、醫治の佛として特に人が祈る。

[やぶちゃん注:「問屋八兵衞(とんやはちべゑ)」「はち」の「ち」のルビは底本では見えない。原本に従った。

「末娘(いもむすめ)」これ原文は“otomusumé”である。平井呈一氏は『乙(おと)娘』と訳しておられる「乙娘」は「次女以下の娘のこと」である。これだろう。大谷氏の「いも」は意訳である。

「絎(く)けて」「絎ける」「絎け縫いをする」の意。絎け縫いとは、布の端を折り込んで表側に縫い目が見えないようにする縫い方を指す。

「山田藥師」日本三大薬師の一つである西予市宇和町西山田にある「山田薬師」(善福寺)。後の二つは出雲市の「一畑薬師」、及び久留米市の「永勝寺」である。出雲の遊戯歌であるから、「一畑薬師」を如何にもな品物を適当に収めるというのは畏れ多いというのは判らぬではないが、それでは「山田薬師」に失礼だろうに、と思ってしまう私がいる。

「キヤラコ」平織綿織物の一種。キャリコ(英語:calico)の俗称。インドで初めて生産され、集産地のカリカット Calicut から輸出されたことから、この名がある。インド更紗はこのキャラコに捺染(なつせん)したもの。イギリスでは白綿布をキャラコと称し、アメリカでは一般の綿布や捺染した綿布を広義にキャラコと呼んでいる。日本ではイギリスから最初に輸入されたキャラコが漂白品であったので、キャラコ、則ち、漂白品となっている。キャラコは織り上げた後、漂白し、仕上げ糊をつけて織り目を潰し、平滑な表面に仕上げる。光沢に富み、地は薄いが、耐久力がある。古くより足袋などに,無地染のものは着物や夜具の裏地に使われている(平凡社「世界大百科事典」に拠る)。

「チンツ」英語でインド更紗を「chintz」と呼ぶ。

「バイシヤギヤラガ」原文“Bhaiṣagyaraga”。現行の薬師如来のサンスクリット語ラテン文字転写は「Bhaiṣajyaguru」で、カタカナ音写は「バイシャジヤグル」である。]

 

小僧、小僧、子一人ごしやれ!

どの子が欲しけりや?

その子が欲しいわ!

何添へて養う?

鯛そへてやしなはう!

それは骨があつていけね!

そんなら鯛が骨なら、

烏賊そへてやしなはう!

それはむしの大毒!

それなら殿樣の二階で、

毛氈(もうせん)敷いて手習さしよぞ!

手がよごれていけぬ!

そんなら殿樣の二階で、

毛氈敷いて砂糖餅!

そんなら遣るぞ! (遊戲歌)

[やぶちゃん注:「それはむしの大毒!」不審。「疳の虫」の大毒なら願ってもないわけだが、小泉八雲の英訳文のそこを見ると、“cuttle-fish”は“That would be very bad for the stomach of the child.”となっており、「胃に非常に良くない」と言っている。弱った胃には頭足類は消化悪いかなぁ? そんなことはないが、イカに多く寄生するアニサキスは確かにヤバいわな。

「砂糖餅」讃岐地方の名産らしい。黒砂糖を細かく砕いて、それを持ちを搗く際に投入したもの(投入する砂糖の量は茶碗一杯が標準とも)らしい。]

 

千艘や萬艘!

お船がぎつちりで、

ぎつちりぎつちり漕げば、

お惠比須か、大黑か、

こちや福の神! (新年の歌)

 

  古昔の東京の盆踊歌

 

   

 

盆の十六日 遊ばせぬ親は

木佛(きぶつ)金佛(かなぶつ) 石佛(いしぼとけ)、

      石佛(いしぼとけ)!

 

 

   

 

盆、盆、盆の十六日

お閻魔樣へ、

參ろとしたら、

數珠の緖が切れて、

鼻緖が切れて、

南無阿彌如來!

手で拜む、手で拜む!

[やぶちゃん注:四行目であるが、底本では「草履の緖が切れて、」で次行と何だかダブって面白くないな、と思って、原文を見ると(原文では五行目。ここ(右ページの最終行))、“Zuzu no o ga kirété,”だぞ!? 大谷先生? 「ずず」を「ぞうり」の誤記と誤認されたのではありませんかね? これ、数珠でしょう! 特異的に訂しました。因みに平井呈一先生はちゃんと『数珠(じゅず)の緒が切れて、』と訳しておられます!]

 

 

   

 

お盆が來たら、髮結うておくれ!

島田がよいか? 唐子(からこ)がよいか?

島田もいやよ! 唐子もいやよ!

お江戶ではやるおさげ髮!

 

附記 シマダは花嫁の結ふ髷。カラコワゲは古風な髷で、その名の示す如く支那來のものであらう。文字通りでは「唐の子の髷」[やぶちゃん注:句点なしはママ。]サゲガミとはだらりと垂らした髮。太古に貴婦人がその髮をしてゐた。

[やぶちゃん注:「唐子」髻(もとどり)から上を二つに分け、頭上で二つの輪に作ったもの。本来は元服前の子どもの髪形であったが、近世以後、輪が一つとなって婦人の髪形にもなった。引用したネットの「精選版 日本国語大辞典」の挿絵を見られたい。]

 

 

   

 

一の丸越えて、二の丸越えて、

三の丸先きへ、掘井戶掘つて、

堀は掘井戶、釣瓶は黃金(こがね)、

黃金の先きへ 蜻蛉がとまつて、

やれそれ蜻蛉! それそれとんぼ!

飛ばなきや羽を きりぎりす!

きりこが燈籠、きろこが燈籠!

きりこが燈籠! どなたの細工?

御(み)あかし樣の 御(お)手細工!

 

附記 日本の城のまはりの防禦線に内から外へかぞへる。きりこ燈籠は一種の四角又は多角形の提燈。

[やぶちゃん注:「御(み)あかし樣の」大谷の確信犯の変更。原本は“O-Akasi Sama no”である。しかし、「御燈明樣」は「みあかしさま」が穏当ではある。しかし、孰れにしても、意味がよく分らぬそもそもが御灯明は神仏に供える灯火であるから、それから転用して神仏自らが造ったというのでは――ナンジャラホイ?――だろう? 判らぬ。識者の御教授を乞う。

 

 

   

 

長い、長い! 兩國橋長い!

長い兩國橋 納凉(すずみ)に出たら、

お子樣がたが、屋形(やかた)の船で、

彈くや語るや、やれ面白や!

やれ面白や! 盆踊!

 

   

 

柳の下(した)の 鴛鴦樣(さん)は、

朝日に照らされてお色が黑い!

お色が黑けりやがんぐり傘おさし!

がんぐり傘 いやよ!

がんぐり傘 いやよ!

お江戶ではやる蛇の日傘!

        蛇の日傘!

 

附記 どんな傘をガングリガサといふのか自分は知らぬ。ジヤノメガサとは、頂から四五吋[やぶちゃん注:「インチ」。十センチメートル強から十三センチメートル弱。]の處につけたバンドを殘して餘は黑く塗つた紙張の傘。だから開くと、黑い圓を取り卷いて居るこの白い環が、形が蛇の目に似る。

[やぶちゃん注:「ガングリガサ」不詳。思うに、何かを繰り抜いたような、ただ柿渋紙をドーム状に貼った畳めない起きっぱなしの傘なのではなかろうか?]

 

 

   

 

こなたの屋敷は 綺麗な屋敷!

奧の間で三味線、中(なか)の間で踊、

臺處までち笛太鼓 笛太鼓!

 

おほやまの、おほ山の お紺さんは、

何處へ行つた? お隣へ、

お薯(いも)をたべに 行きました!

お〻可笑し、お〻可笑し! (東京の遊戲歌)

[やぶちゃん注:ここに本作品集冒頭に配された本唄の挿絵(扉の前。ここ)を掲げておく。これは底本のPDFからトリミングしたものである。絵の作者は右下の落款から浮世絵師宮川春汀(みやがわしゅんてい 明治六(一八七三)年~大正三(一九一四)年)である。画中右上の題箋は「子供風俗」か。落款の脇の雅号揮毫は「春汀畫日人」であろう。ウィキの「宮川春汀」によれば、『洗圭、春汀、漁史と号し、Sとも記す。三河国(現・愛知県)渥美郡畠村(現・田原市福江町)に廻船業と薬種問屋を営んでいた豪商・渡辺家に生まれた。名は守吉』。明治一一(一八七八)年に『母が絶家となっていた宮川家を継いだため、守吉も宮川を名乗る』。十二『歳の時、敷知郡誠明教育会主催の展覧会で作文・図画の一等賞を受賞』、十四歳の時には『漢書の筆写を好んで』、『絵を模写』した。明治二三(一八九〇)年、『得意としていた画業を志し』て『上京、富岡永洗について絵を学んだ』。『春汀が画家となった理由は不明だが、同郷の日本画家・渡辺小華に憧れたからとする説がある。以来、写生を専らにして』、『浮世人物を究め、特に好んで柔らかいタッチの子供絵を描いたほか、美人画を得意としている』。『最初は師から「蓬斎洗圭」の名を与えられ』たが、明治二八(一八九五)年に『「宮川春汀」に改名した』。『作画期は』明治二〇(一八八七)年『代から亡くなる年までで』、明治二十年代から明治三十年代に『かけては「風俗通」、「美人十二ヶ月」、「風俗錦絵雑帖」などの風俗画の他、雑誌口絵、新聞挿絵を描いている。こうした画業の傍ら、柳田國男、田山花袋、国木田独歩、徳田秋声、桐生悠々ら多くの若い文人たちと交流を重ねていった』。『また』、『作家・巌谷小波と知り合い』、明治三一(一八九八)年五月には、『小波が主催する「木曜会」に入会し、彼らと作品を批評したり』、『句会を開いた』(小泉八雲の本作品集刊行は明治三四(一九〇一)年で、まさに彼の絶頂期であった)。しかし、明治三八(一九〇五)年、『最愛の長女が電車事故で亡くなった』『事が、生来』、『生真面目で神経質、そして多少の癇癪持ちだった春汀の心に、生涯重荷となってのしかかった。また』、大正二(一九一三)年には『院展出品を目指して制作に意欲を燃やすも、振るわず』、『次第に神経が蝕まれていく。翌年正月に発病、入院するも快方に向かわず』、『生涯を閉じた。享年は数えで』四十二であった、とある。彼の作品は「浮世絵検索」のこちらで三百三十一点をカラーで見ることが出来る(捜したが、本絵はない)。この原図も実際のそれは非常に美しいものであることがこれらからよく想像される。

Okonsan

 

向うの山の、

相撲取り花は、

エンヤラと引けば、

お手々が切れる、

お手々が切れた。

お藥 無いか?

赤いのもある、

白いのもある。

同じくなれば、

赤いのにしようよ。 (東京の遊戲歌)

[やぶちゃん注:「相撲取り花」キントラノオ目スミレ科 Violaceae のスミレ類、或いはスミレ属 Viola、或いはその中の一種であるスミレ Viola mandshurica を指す。距(キョ)と呼ばれるスミレの花の後ろにある突起部分を引っ掛けあって、切れるまで引っ張りっこをして遊ぶことに由来する異名である。

 

向うの山の、

かはづ鳴くが、

なして鳴くか?

寒うて鳴くか?

ひもじて鳴くか?

ひもじきや田つくれ!

田つくりやきたない!

きたなきや洗へ!

洗や つめたい![やぶちゃん注:「洗や」は「あらうや」。]

つめたきや 暖(あた)れ!

あたりや 熱い!

あつきや 退(しざ)れ!

しざりや蚤が食ふ!

蚤が食(く)や殺せ!

殺しや可哀(かは)い!

可愛(かは)域や抱いて寢(ね)!

抱いて寢りや蚤が食ふ!

蚤が食(く)や殺せ!

…………………… (出雲の問答歌)

[やぶちゃん注:最後の「問答歌」で判る通り、これは一行が台詞で二人(或いはそれ以上)の人物のやり取りの形式を実は採っている。原本を見れば一目瞭然で、一行が総て“ ”で括ってあるのである。ここは大谷氏は煩を厭わず、全行に『 』を附すべきであったと考える。平井呈一氏はちゃんと全行に「 」を附しておられる。]

 

 

 自分が蒐集した此の部類のものの中で特に最も奇異なものは、子供が遊戲歌としてうたふ一種の哲學的問答の歌である。多分これは子供の敎育が主として佛敎僧侶の手に委ねられてゐた時代、そして殆ど寺といふ寺がすべて兼ねてまた學校であつたか、或はそれに附屬して居る學校を有つてゐたか、した時代からして殘存して居るものであらう。作品そのものには甚だしく珍らしい處はない。西洋人の心にこれを奇異だと思はせるのは、その題目の選擇に――遊戲歌としては驚くべき題目たるに――在るのである。

 この題目は、その溫顏を殆ど到る處の路傍に、また數限りない佛敎の墓地に、見ることの出來る彼(あ)の地藏菩薩(ボダィサットヷ・クシティガルバ)の無限無窮(インフイニテイ)である。屢〻十字路に於て、またなほ多く墓地に於て、一體の地藏で無くして、各〻の像(すがた)が一々異つら神祕的表號を有つて居る、一列の六體を見るであらう。この六體の地藏卽ちロクヂザウは、地藏菩薩は自己を幾體にも增して、同時に六道の一切衆生を――卽ち、宇宙全界を――能化し給ふといふ敎(をしへ)を象徵したものである。が、より高等な儒敎敎理に據ると『佛陀のほかに實在無く、實在のほかに佛陀無』しである。一切の諸佛一切の菩薩は實はただである[やぶちゃん注:「」は傍点「◦」である。以下も同じ。]。――一切の物質、一切の生、一切の心はただである。だから六道の地藏といふもを多樣に表現しただけのものであるばかりか、彼も亦絕對である。……そんな思想が子供の遊戲歌に具體化されて居るのはや〻驚嘆すべきである。が、古い通俗な佛敎文學には全くこれと同樣に驚くべきものが數々あるのである。

[やぶちゃん注:「地藏菩薩(ボダィサットヷ・クシティガルバ)」“Bodhisattva Kshitigarbha”。地蔵菩薩のサンスクリット語ラテン文字転写の一つの現行表記は「Bodhisattva Kṣitigarbha」である。釈迦の入滅後から五十六億七千万年の後に弥勒菩薩が如来となって世に現れて総ての衆生を救うまで間、無仏の世に住み、六道の衆生を教え導くことを誓いとした菩薩である。中国では唐末、日本では平安中期から盛んに信仰された。

「無限無窮(インフイニテイ)」“infinity”。「無限・無限大・無限遠・無数・無量」の意。]

 

橋の下(した)の地藏、

鼠に頭(あたま)を囓じられて、

鼠こそ地獄だ!

鼠 地獄だら、

何しに猫に捕られべな?

猫こそ地藏よ!

猫は地藏だら、

何しに犬に捕られべな?

犬こし地獄よ!

犬は地獄だら、

何しに狼に捕られべな?

狼こそ地藏よ!

狼 地藏だら、

何しに火にまかれべな?

火こそ地藏よ!

火は地獄だら、

何しに水に消されべな?

水こそ地藏よ!

水は 地藏だら、

何しに人に飮まれべな?

人こそ地獄よ!

人は地藏だら、

何しに地獄拜むべな?

眞の地獄は六地藏! (陸奥)

[やぶちゃん注:この論理は――確かに――凄絶であり――私は正鵠を射ていると感ずる……。

小泉八雲 日本の子供の歌  (大谷正信訳) 二(「動物に関した歌」)

 

[やぶちゃん注:本篇については、『小泉八雲 日本の子供の歌  (大谷正信訳) 序・一(「天気と天象との歌」)』を参照されたい。]

 

       

 

      動物に關した歌

 

 昆蟲と爬蟲、鳥と獸とに關した子供歌は――日本の殆どどの村もこの部類に属する歌を一つ二つ銘々に有つて居るから――その數驚くべきものがある。その大多數は二行乃至八行の短いものである。其うちの好いのは同種類の英國の子守唄――例を舉ぐれば、『蝙蝠、蝙蝠! わしの帽子の下へ來い!』[やぶちゃん注:底本は「!」の後に字空けはないが、特異的に挿入した。以下、同じ仕儀を施しても注しない。]――『てんたうむし、てんたうむし、飛んで歸れ!』――『クツクウ、クツクウ! お前何をする?』――『かささぎ止(とま)つた、梨の木に』等等のやうな子守唄――を思ひ出させる。次に記す拔萃のうち、我々の子供歌の多數のものよりも古いのが隨分澤山あるやうである。殆どこの何れもの變種が非常に多い。

附記 動植物に關した出雲の歌の小蒐集が自分の「世に知られぬ日本の面影」の中の「日本の庭」にあるから、參照されたい。

[やぶちゃん注:私の『小泉八雲 落合貞三郎他訳 「知られぬ日本の面影」 第十六章 日本の庭 (九)』・同『(一一)』・同『(一二)』・同『(一三)』を参照されたい。]

 

鳩ぽつぽ、

豆がたべたい! (東京。鳩の歌)

 

烏、かあらす、勘三郞!

親の恩を忘れなよ! (東京。烏の歌)

 

附記 勘三郞といふは極めてありふれた固有名である。此處では多分ただ音の關係でこの烏へ附けたのであらう。この歌は疑も無く「烏に反哺の孝あり」から思ひ附いたものである。年老いた烏は自分で餌を求めることが出來なくなると、その子が養つてやるといふことである 烏が群を爲して日暮に飛んで居るのを見ると子供が之を歌ふ。

[やぶちゃん注:底本では「勘三郞」に「」記号が附されてあるが、相当する原註は存在しない。「附記」がそれに当たるが、目障りなので省略した。後にも同様の箇所があり、同じように処理したが、それはもう注さない。

「烏に反哺の孝あり」「反哺」(はんぽ)は口移しで餌を与えることを言う。成長した鴉は自分にして呉れたように口移しで老いた親に餌を与えて己れの恩を返す(「養を返へす」)という「事文類聚」(宋の祝穆(しゅくぼく)編になる類書(字書)。百七十巻。一二四六年成立)などに載る故事に基づくもので、鴉さえ親の恩に報いる、況や人をや、という謂い。「慈烏反哺(じうはんぽ)」という四字熟語でも知られる。しばしば鳩の譬えと合わせて「鳩に三枝の礼あり、烏に反哺の孝あり」(前者は「子鳩は育てて呉れた親鳩に敬意を表して、必ず親鳥より三本も下の枝に止まる」とする謂い)とも言う。小泉八雲は既にこれを『小泉八雲 落合貞三郎他訳 「知られぬ日本の面影」 第十六章 日本の庭 (一三)』で語っている。但し、残念ながら、実際にはそんなことはしない。鳥は巣立ちすれば、親鳥とは縁がなくなり、実の親や兄弟とも喧嘩や餌の奪い合いをする。この誤認については、「生物學講話 丘淺次郎 第十七章 親子(7) 三 子の飼育(Ⅱ)」(私の電子化注)で丘先生は『昔から『「からす」に反哺の孝がある』といひ傳へたのは恐らく、鳥類の親が雛の口の中へ餌を移し入れてやる所を遠方から見て、子が親を養ふのかと思ひ誤つたためであらう。烏類に限らず如何なる動物にも、子が生長し終つた後に、老耄して生き殘つて居る親に餌を與へて養ふものは、決して一種たりともない。それはかゝることをしても種族の維持のためには何の役にも立たぬのみか、餌が少くて生活の困難な場合には、却つて種族のために明に不利益になるからであらう』と述べておられる。]

 

五郞助ほうこ、

むだぼうこ!(東京。烏の歌)

[やぶちゃん注:原文は、

 Gorosuké-hokō

 Muda-bōkō !

であるから、正確には「ほうこ」は「ほうこー」、「むだぼうこ!」は「むだぼうこー!」である。]

 

雀はちゆうちゆう忠三郞!

鳥はかあかあ勘三郞!

とんびは外山の鐘た〻き!

一日た〻いて米一升!

        粟一升!(伊勢。烏の歌)

附記 『鳶はとうとう藤三郞』とも歌ふ。藤三郞といふ名は、忠三部勘三郞同樣、實際にある名である。

 

 勘三郞、忠三郞、五郞助といふ人名は男子に普通見る名である。チユウといふ音に似た雀の鋭い啼聲が、前記の子供歌に忠三郞といふ名を使はうと、初めに思はせたに相違無い。そして鳥の啼聲は『カ』といふ綴音のやうにきこえるから、烏を勘三郞と呼んだのであらうが、梟に附けた名――五郞助――には妙な傳說がある。古昔或るえらいサムラヒの邸内に五郞助といふ家來があつた。この五郞助生まれ付き愚鈍で、大切な勤務(つとめ)を託された極の最初に、大失策をやって重大な損害を招いた。爲めに誰れも彼れもが嘲り笑つて辱かしめた。そこで到頭自殺した。その後その靈が、今呼ばれて居る名前の小さな梟になって、夜通しその梟は全く絕望の調子で、

 

五郞助奉公

無駄奉公!

 

と叫ぶ、といふのである。

[やぶちゃん注:「大切な勤務(つとめ)を託された極」(きよく)「の最初に」原文は“the very first time that a duty of importance was confided to him”。「極めて大切な務めを言いつかったその一番大切な初っ端に」の意。]

 

附記 烏は普通カハ! カハ!(川! 川!)――「川へ行かう、川へ行かう」といふ意味で――と啼くと言はれて居ることを書いてもよからう。烏の啼聲は實際『カハ』といふ語の音に能く似て居る。

 

兎、うさぎ!

何を見てはねる?

十五夜のお月さま見てはねる!

        ヒヨイ、ヒヨイ! (東京。兎の歌)

 

附記 「ヒヨイ、ヒヨイ」の言葉で歌つて居る者皆、飛ぶ。

 

雀のあつまり、チイチイ、パツパ!

だれにあたつても怒(おこ)るなよ!

怒るなら最初(はじめ)から加(よ)らんがよい。 (東京。雀の歌)

 

附記 チイは雀が怒つた時の啼聲を現はすに發明した擬聲である。パツパはその翼を早くはたく音を意味して居る。

 

白(しろ)鷺、白鷺、

なぜ首が長い?

ひだるて長い。

ひだるきや田打て。

田打ちや泥(どろ)がつく。

泥がつきや拂へ。

はらや痛い。 (伊勢。白鷺の歌)

 

蟇(ひき)さん蟇さん、出てごんせ!

出んにや熟艾(もぐさ)すゑるぞ! (土佐。蟇の歌)

[やぶちゃん注:「熟艾(もぐさ)」ヨモギ(キク目キク科キク亜科ヨモギ属 ヨモギ変種ヨモギ Artemisia indica var. maximowiczii。但し、「もぐさ」用には同属種のヤマヨモギArtemisia montana も使われる)は高さ五十センチメートルから一メートルほどに成長すると、全体にあった白色の丁字毛(ちょうじもう)は葉の下面だけとなる。これらを採取して陰干しにして乾燥させ、臼でよく搗くと、葉肉・葉脈は細粉となり、葉裏の長い毛は縺(もつ)れて綿状の塊となる。これを篩(ふるい)に掛けて、毛だけを分離したものが「さらしもぐさ」又は「熟艾(じゅくがい)」と呼ばれ、灸に使用される材料となる、と小学館「日本大百科全書」の「もぐさ」にある。]

 

鳶、鳶、舞うて見せ!

あしたの晚に、

鴉にかくして鼠やる! (出雲。鳶の歌)

 

蝙蝠來い! 酒飮ましよ!

酒が無きや、樽振らしよ! (出雲。蝙蝠の歌)

 

螢來い、水飮ましよ!

あつちの水はにがいぞ!

こつちの水はあまいぞ!

廿い方へ飛んで來い! (出雲。螢の歌)

 

螢來い! つち蟲來い!

己(おの)が光で狀もって來い! (伊勢。螢の歌)

 

附記 「ツチムシ」は文字通りでは「地蟲」であるが、此の歌では多分「螢」であらう。

[やぶちゃん注:「つち蟲」は小泉八雲の推察する通りであるが、狭義には「土蛍」(つちぼたる)で、翅が退化したホタルの♀の成虫又は幼虫を指す。幼虫の形状は蛆状で、水中又は水辺の草むらに棲み、巻貝などを捕食する。彼らも多くは発光をする。

「狀」は「じやう(じょう)」で原文は“a letter”であるから、「手紙」である。但し、私はこの歌を知らないし、何故、「手紙」なのかも説明は出来ない。識者の御教授を乞うものである。]

 

おほわた來い! 來い!

豆食はしよ!

おまんまがいやなら魚くはしよ! (東京)

 

附記 「おほわた」(御綿)といふに、その尾に、綿の總[やぶちゃん注:「ふさ」。]に似た白い絨毛の突出を有つた紫色の小さな蠅である。

[やぶちゃん注:ここで小泉八雲が言っているのは、恐らく、半翅(カメムシ)目腹吻亜目アブラムシ上科アブラムシ科 Prociphilus 属トドノネオオワタムシ Prociphilus oriens などに代表される「雪虫」と思われる。一般には同前種は北海道や東北地方を中心に知られるが、ウィキの「雪虫」を見ると、『雪虫(ゆきむし)とは、アブラムシ(カメムシ目ヨコバイ亜目アブラムシ上科』Aphidoidea『のうち、白腺物質を分泌する腺が存在するものの通称』で、『体長』五ミリメートル『前後の全身が、綿で包まれたようになる』とあり、さらに、『この虫の呼び名としては、他に綿虫』、『東京地域のオオワタやシーラッコ、シロコババ、京都地域の白子屋お駒はん、伊勢地域のオナツコジョロ、水戸地域のオユキコジョロがある他』、『ユキンコ、しろばんばといった俗称もある』とあるので、小泉八雲のそれが東京での採取であっても、何ら問題ない。]

 

蝶々、蝶々、

菜の葉にとまれ!

菜の葉がいやなら手にとまれ! (蝶の歌)

附記 「ナ」といふ名は種々異つた野菜に與へてある名であるが、此處では多分蕪菁を指して居るのであらう。この歌に日本の殆ど到る處で歌ふ。

[やぶちゃん注:「蕪菁」は「かぶ」。原文“Japanese turnip”。アブラナ目アブラナ科アブラナ属ラパ変種カブ(アジア系)Brassica rapa var. glabra。確かにそれでも間違いとは言わないものの、しかし、我々は、百%、カブの近縁種のアブラナ属ラパ変種アブラナ Brassica rapa var. nippo-oleifera を指すと認識しているはずである。他ではいろいろ原文を補正して修正訳している大谷にして、私は不審な気がちょっとするのである。

 

蝶々とんぼも鳥のうち。

山に囀るのは

まつむし、すずむし、轡蟲。

    オツチヨコ、チヨイ、ノ、チョイ! (東京の歌)

 

あつちへ行くと、

閻魔がにらむ。

こつちへ來ると、

ゆるしてやるぞ! (蜻蛉を追ふ時歌ふ)

 

鹽や! 鉄漿(かね)や!

やんま かへせ! (東京。蜻蛉の歌)

 

附記 この歌は頗る古い。ここに名ざしてある蜻蛉の事は前に載つて居る蜻蛉の文にある。

[やぶちゃん注:私の『小泉八雲 作品集「日本雑録」 / 民間伝説拾遺 / 「蜻蛉」(大谷正信訳)の「一」』を指す。]

 

まいまいつぶろ!

お湯屋の前に、

喧嘩があるから、

角(つの)出せ、槍出せ! (東京。蝸牛の歌)

[やぶちゃん注:「お湯屋」小泉八雲は原文で “O-yuya”とするが、正しく東京方言ならば「湯屋」は「ゆうや」であるから「O-yuuya」とすべきかとも思う。]

蛙(かへる)が鳴くから

かへろ! (東京。蛙の歌)

 

附記 この歌には言葉のたはむれがある。「カヘル」は發音しただけでは「歸る」とも「蛙」とも意味する。「カヘロ」はその動詞の未來形である。

[やぶちゃん注:「未來形」確かに時制的にはそうだが、口語の推量の助動詞「う」であるから、話者の意志・決定を表わすとすべきところである。]

 

つぶ、つぶ、山へ行け!

おりやいやだ、われ行け!

去年の春も行つたれば、

鴉と申す黑鳥(くろどり)が、

あつちへつ〻き、つんまはし、

こつちへつ〻き、つんまはし、

二度と行くまい、あの山へ。 (信濃。蝸牛の歌)

 

つくつくばうさんな、

なんゆう啼くか?

親が無いか? 子が無いか?

親も御座る、子も御座る。

おいとし殿御を有つたれば、

鷹匠(たかじやう)にとられて今日七日(けふなぬか)、

七日と思へば四十九日!

四十九日の錢金(ぜにかね)を、

どうして遣ふたらよからうか?

たかい米買うて船に積む。

廉い米買うて船に積む。

船は何處船、大阪船。

大阪船こそ 價(ね)がよけれ。 (筑前。つくつくばうしといふ蟬の歌)

 

附記 この珍らしい蟬に就いての記事が自分の「影」の中の「セミ」といふ文にあるから參照されたい。また、この歌には死後四十九日日に營む佛敎の法要のことが詠みこんである。

[やぶちゃん注:「附記」のそれは『小泉八雲 蟬 (大谷正信訳) 全四章~その「二」』(リンク先は私の電子化注)を指す。「影」は明治三三(一九〇〇)年に出版された作品集“SHADOWINGS”(「影」:来日後の第七作品集)で、その第二パートである“JAPANESESTUDIES”(「日本の研究」)の冒頭に配されたのが“SÉMI”である。なお、このわらべ唄、かなり内容的に気になるので、検索して見たが、見当たらない。識者の御教授を乞うものである。]

小泉八雲 日本の子供の歌  (大谷正信訳) 序・一(「天気と天象との歌」)

 

[やぶちゃん注:本篇(原題“Songs of Japanese Children”。「植物と動物の仏教上での名称」)は一九〇一(明治三四)年十月にボストンの「リトル・ブラウン社」(LITTLE,BROWN AND COMPANY)から出版された作品集“A JAPANESE MISCELLANY”(「日本雑記」。来日後の第八作品集)の第一パート「奇談」(全六話)の次のパート“Folklore Gleanings”(「民俗伝承拾遺集」)全三篇の三番目に配されたものである。本作品集は“Internet Archive”のこちら(出版社及びクレジットの入ったページを示した)で全篇視認できる(本篇はここから)。活字化されたものは、整序されたものは見当たらない(今まで紹介していないが、同前の“Internet Archive”には本作品集のフル・テクスト・ヴァージョンはあるにはあるのであるが、OCRによる読み込みで、誤まり多く、美しくなく、読み難く、また、味気ない)。

 底本は英文サイトInternet Archive”のこちらにある、第一書房が昭和一一(一九三六)年十一月に刊行した「家庭版小泉八雲全集」(全十二巻)の第七巻の画像データをPDFで落として視認した。底本ではパート標題は「民間傳說拾遺」と訳してある。

 訳者大谷正信氏については、「小泉八雲 燒津にて 大谷正信譯」の私の冒頭注を参照されたい。

 傍点「ヽ」は太字に代えた。踊り字「〱」「〲」は正字化した。

 なお、全体に亙ってわらべ歌の引用や、それに末尾行末等に附された丸括弧注記及び後の「附記」とされたポイント落ちの解説は、全体が五字下げで行われいるが、総て頭まで引き上げ、丸括弧注記も「附記」も同ポイントとした。特にその仕儀によって讀み難くなったり、誤読する箇所は殆んどないと思われるが、その虞れがある箇所では注記した。

 また、本篇は長い(序と第「一」章から後書きを含む第「六」章まで)ので分割し、また、例外的に全電子化を速やかにすることを念頭に置き、まずは注はストイックに必要最小限度に留めることとした。後に気に掛かった箇所には追記をすることとして、である。

 

 

   日本の子供の歌

 

 二萬七千の小學校の影響を受けて、日本の古い民間文學は、物の本に載つて居ない歌と傳說との文學は、急速に人の記憶から消え去りつ〻ある。自分だけの追憶のうちにさへ、我が英國の子供部屋の文學に稍〻相當する、この口[やぶちゃん注:「くち」。]の上の文學の一種が、新規な物事の爲めに大なる影響を蒙つて居る。自分が初めて日本へ來た時は、――家庭の敎は普通祖父祖母に任されて居るから――子供達はその祖父祖母どもに敎はつた古い歌をうたつて居つた。ところが今日は、街路や寺院の庭で遊んで居る小さな者共はは、學校の敎室で敎はつた新しい歌を――西洋の音階に依つて書いた譜に合ふやうな歌を――歌つて居る。――だから、それよりか遙かに興味の多い明治前の歌は、今はただ稀にしか耳にすることが出來ぬ。

[やぶちゃん注:『文部省年報』によれば、本書が書かれた時より十六年も前の明治一八(一八八五)年の時点で、小学校数は実に二万八千二百八十三校もあった。因みに平成三〇(二〇一八)年度の文部科学省の公式データを見ると、現在の日本の小学校数は国公立・私立総てをひっくるめて二万九五校(公立の分校を含む)しかない。]

 ではあるが、そんな歌は――一つにはそんな歌の多數が急に癈止することの出來ぬ遊戲と離すことの出來ぬ關係がある爲めと――一つには一度もオルガンを彈ずる學校敎師に就いて學んだことが無く、その上子供達が古昔の小曲を歌ふのを聽くのが好きな、喜ばしい祖父祖母が幾百萬人とまだ生きて居る爲め――全然忘れられては居ない。が、そんな面白い老人達がその祖先の居場所へ呼び寄せられてしまへば、それが敎へた歌は歌はれなくなるであらうと思ふ。幸にも日本の民間傳說硏究家はそんな口傳の文學を保存するに努力して居る。そしてその勞苦が自分をしてこの一文を企て得さしたのである。

 

 自分の爲めに注意して筆寫しまた飜譯された、非常に澤山な舊時の子供歌及び無意味な詩歌[やぶちゃん注:原文“nonsense-verses”。「戲(ざ)れ歌」と訳したいところ。]のうち、次記の順序に六項目に類集して、可なり代表的な選擇をするやうにと力めた[やぶちゃん注:「つとめた」。]。

  一、天氣と天象との歌。

  二、動物に關した歌。

  三、種々な遊戲歌。

  四、物語の歌。

  五、羽子突歌と手毬歌。

  六、子守唄。

 

 この分類は、殊に第三類に關しては、甚だ漠として居る。が、作品の多くがその性質不思議にも不確實なものであるから、先づこれで宜いとしてよからうと思ふ。

 言ふまでも無く、その平易な英譯は、書物の頁の間に壓し乾かした花がその自然の環境に在つての生きた花を示すと同じ程度に於て、ただその日本の詩歌の槪念を與へ得るに過ぎぬ。脚韻の無い句の奇妙な節奏(リズム)、日本の言葉の飾り氣無さ、小鳥の囀の如くに記憶しにくい短い妙な節(ふし)、一緖に歌って居る多勢の子供聲の氣持ちのいい晴れやかさ、――これ等が手傳って原歌の妙趣を爲すのであるが、それがどれも同樣に寫し現はすことの出來ぬものである。

 自分のこの選擇のうちに餘程異國的(エキゾテイツク)な處が發見されるかも知れぬ。が、讀者はまた、既に熟知して居らる〻子供歌を懷ひ出させるやうな處を、何處か見出さる〻ことであらう。一體子供といふものは、全世界到る心、或る種の題目に對しては殆ど全く同じやうに考へまた感じるもので、似寄った經驗を詠じるものである。殆どどんな國でも、子供は日と月とに就いて――風と雨とに就いて――鳥と獸(けもの)とに就いて――花と木と小川とに就いて、それからまた、水を汲むとか火を熾(おこ)すとか料理するとか洗濯するとかいふやうな日常の家事に就いて、歌ふものである。でも、そんな範圍内に在つてすらも、日本の子供文學と他國の子供文學との差異の方が、類似の方より餘程興味がある。といふことが判かるであらう。

[やぶちゃん注:底本では以上で「509」ページ最終行(見開き右頁)であるが、左の「510」ページの頭には変則的位置(本来のページ版組ではあり得ない上部位置に『祖父祖母』(右にズレて)『る。』(改行して)『い老人』(改行して)るであ』(「あ」は下部が擦れて消えている)『て居』(「居」は右上部のみで推定判読)とある。しかし、原文を見ると、上記の訳の末尾とかっちりと合っていて終わっており、しかもこの文字列は前の本序の形式第二段落目の『喜ばしい祖父祖母が幾百萬人とまだ生きて居る爲め――全然忘れられては居ない。が、そんな面白い老人達がその祖先の居場所へ呼び寄せられてしまへば、それが敎へた歌は歌はれなくなるであらうと思ふ。幸にも日本の民間傳說硏究家はそんな口傳の文學を保存するに努力して居る。』(太字下線は私が附した)の部分と完全に一致することが判り、印刷時の誤転写であると断じた。]

 

 

   

 

  天氣と天象との歌

 

夕燒け、こやけ、

あした天氣になあれ。(東京。日暮の歌)

 

  附記 この短い歌は、笑しい夕燒の折、自分の近處で子供が今なほうたふ歌である。

[やぶちゃん注:「こやけ」は底本では「こうやけ」であるが、原文も“Ko-yaké!”となっており、「こうやけ」は或いは大谷の原音サーヴィス(「こーやけ」の長音部再現)のつもりなのかも知れないが、我々には激しい違和感があるので、特異的に「こやけ」に訂した。]

 

天狗さん、風おくれ、

風が紅茸や、錢おくれ。(伊賀。紙鳶揚げ歌)

 

附記 東京で紙鳶を揚げる折『風の神は弱いな』と歌ふ。出雲では「大山(だいせん)の山から大風(おほかぜ)吹いて來いよう」と歌ふ。

[やぶちゃん注:「紙鳶」は音は「シエン」であるが、「たこ」或いは「いか」と当て訓しておく。]

 

雨、雨、降りやめ!

お寺の前の

柿の木の下で

雉子の子が啼くぞ!(土佐。雨の歌)

 

雪はちらちら!

雲は灰だらけ!(伊豆。雪の歌)

 

雪や こんこや、

霰や こんこ!

お前(まへ)の背戶で、

團子も煮える、

小豆も煮える、

山人(やまど)は戾る。

赤子(あかご)はほえる、

杓子は見えず、

やれ、いそがしやな! (出雲)

[やぶちゃん注:「山人(やまど)」は広義の「山野で働く人」・「薪を採りに山に入る人」・「木樵(きこり)」の意の日本各地での方言であるが、ここは「赤子」の対表現であるから広義の最初の意味の野良仕事をしている大人たちを指すものと私は解する。

「杓子」はまず第一に仕事から帰れば、水を一杯ということか。]

 

星さん、星さん、

一つ星で出ぬもんぢや、

千も萬も出るもんぢや。(伊賀。星の歌)

附記 日沒後星のきらめきそめる時に歌ふ。

 

お月さま、

觀音堂下りて、

まんま あがれ!

まんまかいやなら、

あんもなら三つ吳れう! (信濃。月の歌)

[やぶちゃん注:最終行は、恒文社版(一九七五年刊)の平井呈一氏「日本のわらべ歌」の訳では、『餅(あんも)なら三つくりょう!』となっている。原文の表記は平井氏の方が正確で、小泉八雲は以下の英訳部(底本ではこの篇の「わらべ歌」に限らず、作品集総てに亙って詩歌のそれは完全にカットされている)で“a,mmochi”(「餡餅」)とし、さらにそれに注を附して“Rice-cakes stuffed with a mixture of sugaer and bean-flour.”(「砂糖と豆を粉にしたものをミックスしてそれを詰めたお餅」)とと至れり尽くせりしてある。小泉八雲が冒頭で危惧した通り、今の子どもたちの中には、この訳を見ても、「あんもってなんだ?」と首を傾げる者が有意にいるであろう。……八雲先生、先生の懼れておられた通り、日本は最早、日本ではなくなってしまいました…………

 

お月さま、いくつ

十三 ななつ、

そりやまだ若い、

若船へ乘つて、

唐(から)まで渡れ! (紀伊)

 

お月さま 桃色、

誰(だれ)が言うた、あまが言うた、

あまの口 引裂け! (土佐)

 

お月さま、お月さま、

もうし、もうし、

猫と鼠と位置升樽さげて、

冨士の山を今越えた。 (周防)

附記 雲が月の上か通る時歌ふ。猫と鼠といふは――子供の繪本に出て來るやうな――遊び好きの化物であること言ふまでも無い。この歌の目的は、――月に顏をまた出させやうといふのである。こんなののどんなものよりか面白い、出雲の月の歌が自分の『心』に載せてある。

[やぶちゃん注:最後に言っているのは、明治二九(一八九六)年に刊行した本邦での第三作品集「心」(“Kokoro”)に所収された小説“The Nun of the Temple of Amida”(「阿弥陀寺の尼さん」)の中に出るそれである。ここでは“Internet Archive”からPDF画像で入手した「小泉八雲全集」(第一書房元版)第四巻(昭和二(一九二七)年刊)所収の「第五章 阿彌陀寺の比丘尼」(石川林四郎訳)それを底本とした。

   *

ののさん(或はお月さん)いくつ。

十三 ここのつ。

それはまだ 若いよ、

わかいも 道理。

赤い色の帶と、

白い色の帶と、

腰にしやんと結んで、

馬にやる いやいや。

牛にやる いやいや。

   *

これに小泉八雲の原註が一つと、石川氏の複数の訳註が附しているのでそれも示す。

   *

註[やぶちゃん注:「赤い色の帶と、」に註記号。] 派手な色の帶は子供だけが締めるので斯ういふ。

譯者註一 「十三ここのつ」はありふれた「十三七つ」に比して口調も惡しく數の漢字も異樣ながら、出雲では今も斯く歌つてゐる由。

譯者註二 原文のローマ綴をその儘に譯せば「若いえも道理」となるが、原文の「いえ」の二音は松江の方言の「い」の間のびしたのを、著者がその儘に音譯したものである、との落合貞三郎氏の說明を附記して置く。

   *]

2019/10/18

小泉八雲 仏教に縁のある動植物  (大谷正信訳) /その3 ~「仏教に縁のある動植物」~了

小泉八雲 仏教に縁のある動植物  (大谷正信訳) /その3 ~「仏教に縁のある動植物」~了

[やぶちゃん注:本篇については「小泉八雲 仏教に縁のある動植物(大谷正信訳)/その1」の私の冒頭注を見られたい。]

 

 佛敎に緣のある名のうち、名そのものに非常に興味があるけれども、寺院の什物に關係があつたり、佛敎の勤行に使ふ特別な器具に關係があつたりするので、圖解の助を藉らんでは、西洋の讀者には了解の出來ないのがある。例を舉ぐれぱ普通サンコマツ(三鈷松)として知られて居る木の名の如きそれである。サンコ(梵語ではヷジラ)といふ語は、黃銅製の或る器具であつて、古典に見える雷電に、兩端に叉を附けたものに、似た恰好のもので、或る特別の式の場合に超自然力の表現として僧が用ひるものである。美しいグラス・スボンヂ學名ハイアロネマ・シーボルディに附けてあるホツスガイ(拂子貝)もまたさうで、拂子にそれが似て居るからである。拂子といふは佛敎の勤行に用ひる、白い長い毛で造つた塵拂ひやうのものである。それからまた、コロモセミ(衣蟬)と呼ばれて居る、小さな蟲のその立派な名もさうで、翼を收めて休んで居る折のその蟲の普通の形と色とは、實際に『コロモ』を着て居る僧侶の姿を偲ばせる。が、この蟲を實地見、また斯う述べてあるやうな『コロモ』を見なければ、この名稱の圖畫的價値を鑑賞することは出來なからう。

[やぶちゃん注:「サンコマツ(三鈷松)として知られて居る木の名」これは固有の種名ではなく、一般に知られている名勝個体木では、高野山の壇上伽藍にある「金堂」と「御影堂」の間に聳え立つ「三鈷の松」の巨木である。この松には以下のような高野山創建に纏わる空海伝説の一つが語られてある。空海が唐での修行を終えて帰国する際、師の恵果和尚から贈られた密教法具の一種である「三鈷杵(さんこしょ)」(もとはインドの投擲用武具或いは雷霆神インドラの所持物であったが、仏教では密教で特に採り入れられ、煩悩を打ち破って菩提心を表わすための法具として盛んに使用される。杵(きね)の形をした中央の握り部分の両端に鈷(鋭い突起)を形成したもので、両端の鈷数や形状によって独鈷杵(とっこしょ)・三鈷杵・五鈷杵(私はタイで求めた青銅製のそれを所持している)・九鈷杵・宝珠杵・塔杵・九頭竜杵などの別がある。リンクはグーグル画像検索「三鈷杵」)を東の空に向けて投じた(時に、大同元(八〇六)年)。彼が投げたのは「我、漏らすことなく受け継いだる密教を広めんがため、ふさわしき地に飛び至るべし」という願いを込めてのものであったという。帰国後、空海がその三鈷杵を探し求めたところ、弘仁七(八一六)年頃、高野山の松の木に掛かっていることが分かり、それによって高野山が真言密教の道場として開かれるようになり、この松を「三鈷の松」と称するようになったとする。実際、通常の松の葉は二本であるが、ここの松は三本あって、三鈷杵の先端が中鈷と左右の脇鈷と三つに分かれているのとミミクリーであるとされる。但し、この高野の「三鈷の松」は通称「三葉黒松」などと呼ばれる、植物学的には裸子植物門マツ亜門マツ綱マツ亜綱マツ目マツ科マツ属クロマツ Pinus thunbergii の園芸品種の一つで、ここに限らず、各地にある。私も二十年ほど前、京都市左京区にある浄土宗の「永観堂」(正しくは聖衆来迎山(しょうじゅらいごうさん)禅林寺(前身は真言宗)で拾ったそれを居間に飾ってある。

「ヷジラ」原文“vadjra”。現行のサンスクリット語ラテン文字転写では「vajra」でカタカナ音写は「バジュラ」。通常は先に説明した独鈷杵を指す。

「美しいグラス・スボンヂ學名ハイアロネマ・シーボルディに附けてあるホツスガイ(拂子貝)」原文“the name Hossugai, or“Hossu-sbhell”, given to the beautiful glass-sponge”。これは、貝ではなく、小泉八雲も言っているように深海産のガラス様の海綿類の一種である、 

海綿動物門六放海綿(ガラス海綿)綱両盤亜綱両盤目ホッスガイ科ホッスガイHyalonema sieboldi

 である。英名を“glass-rope sponge”と呼び、柄が長く、僧侶の持つ払子(「ほっす」は唐音。獣毛や麻などを束ねて柄をつけたもので、本来はインドで虫や塵などを払うのに用いた。本邦では真宗以外の高僧が用い、煩悩を払う法具とする)に似ていることに由来する。この根毛基底部(即ち、「柄」の部分)には一種の珊瑚虫である、

 刺胞動物門花虫綱六放サンゴ亜綱イソギンチャク目イマイソギンチャク亜目無足盤族 Athenaria のコンボウイソギンチャク(棍棒磯巾着)科カイメンイソギンチャク Epizoanthus fatuus が着生する。荒俣宏氏の「世界大博物図鑑別巻2 水生無脊椎動物」の「ホッスガイ」の項によれば、一八三二年、イギリスの博物学者J.E.グレイは、このホッスガイの柄に共生するイソギンチャクをホッスガイHyalonema sieboldi のポリプと誤認し、本種を軟質サンゴである花虫綱ウミトサカ(八放サンゴ)亜綱ヤギ(海楊)目 Gorgonacea の一種として記載してしまった。後、一八五〇年にフランスの博物学者A.ヴァランシエンヌにより本種がカイメンであり、ポリプ状のものは共生するサンゴ虫類であることを明らかにした、とあり、次のように解説されている(アラビア数字を漢数字に、ピリオドとカンマを句読点を直した)。『このホッスガイは日本にも分布する。相模湾に産するホッスガイは、明治時代の江の島の土産店でも売られていた。《動物学雑誌》第二三号(明治二三年九月)によると、これらはたいてい、延縄(はえなわ)の鉤(はり)にかかったものを商っていたという』。『B.H.チェンバレン《日本事物誌》第六版(一九三九)でも、日本の数ある美しい珍品のなかで筆頭にあげられるのが、江の島の土産物屋の店頭を飾るホッスガイだとされている』とある。私は三十五年前の七月、嘗つて恋人と訪れた江の島のとある店で、美しい完品のそれを見た。以上は私の七年前の仕儀「生物學講話 丘淺次郎 四 寄生と共棲 五 共棲~(2)の2」の私の注に少し手を加えた。リンク先にはモノクロームであるが、図もある。

「コロモセミ(衣蟬)」現行、これはセミ亜科エゾゼミ族クマゼミ属クマゼミ Cryptotympana facialis の異名として同定比定されている。同種については、私の『小泉八雲 蟬 (大谷正信訳) 全四章~その「二」』を参照されたい。優れた歴史民俗学者であられる礫川全次(こいしかわぜんじ)氏のブログ「礫川全次のコラムと名言」の「横浜市磯子区ではクマゼミのことをオキョーゼミといった」では、『土の香』第一六巻第六号(昭和一〇(一九三五)年十二月発行)から高島春雄の「熊蟬の方言」という文章に、クマゼミの異名として『オキョーゼミ(横浜市磯子区)』、『カタビラ(京都市、京都府船井郡富本村、大阪府北河内郡四条畷村、泉北郡東陶器村、南河内郡狭山村、富田林町、中河内郡高安村、三島郡春日村、三宅村、愛知県東春日井郡小牧町、三重県河芸郡、兵庫県西宮市、兵庫県御影町、岡山県小田邯、愛媛、門司市、小倉市、福岡県企救郡)カタビラシェビ(肥前)カタビラゼミ(京都府船井郡八木町)』、『コロモゼミ(徳島県名東郡八万村、伊勢)』とあり、最後にこれが出ている。]

 

 或る二三の鳥に餘程佛敎に緣のある名が附けてある。鳥類學者にはユウリソトマス・オリエンタリスとして知られて居るもので、その啼聲が『ブツポフソウ』といふ語を唱へるのに似て居るからといふので、『ブツポフソウ』と名づけられて居る鳥がある。此語は梵語の『トゥリラトナ』或は『ラトナトゥラヤ』(三寶)に相當する日本語であつて、『ブ』といふ擬音はブツ(佛)、『ポフ』はホフ(法)、『ソウ』は僧である。この鳥はまたサムポウテウ(三寶鳥)と呼ばれて居る。『三寶』といふ語はトゥリラトナの文字譯である。これとは異つた鳥で、自分がその學名を知らないものに、ジヒシンテウ(慈悲心鳥)といふがある。その啼聲が佛の形容詞の一つたる、ジヒシン(慈悲心)といふ句を發音するに似て居るからである。自分への報告者は『この鳥は日光の附近にだけ棲んで居て、其處では夏には絕えず「汝、慈悲心! 汝、慈悲心!」[やぶちゃん注:前の「!」の後には底本では字空けがない。特異的に補った。]と鳴いて居るのを聞くことが出來る』と書いて居る。……殆ど同じほど興味のあるのは、日本詩人が能く褒め歌うて居るククウの一種たる、ホトトギス(學名ククルス・ボリオセフアラス)に附けてある佛敎に緣のある普通名である。ムジヤウドリ(無常の鳥)と呼ばれて居るのである。此名はその啼聲から來て居るとは思はれぬ。啼聲は普通には、『もう本尊を掛けたか』といふ意味の『ホンゾンカケタカ』だと解釋されて居るからである。(ホンゾンといふは、この鳥が年々出現する時より少し前の、四月の八日に寺院に掛ける聖畫である)自分にはこの名は『死の鳥』といふ意味で附けたものとする方が當たつて居さうに考へられる。といふのは、『ムジヤウ』といふ語は、變はるといふので、また死といふ意味も有つて居る。そしてホトトギスは靈の世界から來ると想像されて居る妙な事實の爲めに、この意味を强く思ひ浮かばしめられたのである。またタマムカヘドリ(魂迎へ鳥)とも呼ばれて居る。死者の靈魂がシデの山を越えて魂の川へ旅して行く時それを出迎へる、と思はれて居るからである。ホトトギスに就いては靈的な俗說や空想が澤山ある。そしてこの無氣味な民間俗說は、ホトトギスが五十二も異つた名を! 州々[やぶちゃん注:「くにぐに」。]で有つて居る理由を說明するに足るであらう[やぶちゃん注:「名を!」の後の字空けは底本にはない。特異的に挿入した。]。

[やぶちゃん注:「ユウリソトマス・オリエンタリス」(Eurystomus orientalis)「その啼聲が『ブツポフソウ』といふ語を唱へるのに似て居るからといふので、『ブツポフソウ』と名づけられて居る鳥がある」これは所謂、「姿の仏法僧(ブッポウソウ)」である、

ブッポウソウ目ブッポウソウ科ブッポウソウ属ブッポウソウ Eurystomus orientalis

である。御存じの通り、「声の仏法僧」は、

フクロウ目フクロウ科コノハズク属コノハズク Otus scops

である。但し、これが判明したのは、本書が刊行された明治三四(一九〇一)年から隔てること、実に三十四年も後のことである。ウィキの「ブッポウソウ」から引くと、『森の中で夜間「ブッ・ポウ・ソウ」と聞こえ、仏・法・僧の三宝を象徴するとされた鳥の鳴き声がこの鳥の声であると信じられてきたため、この名が付けられた。しかし、実際のブッポウソウをよく観察しても「ゲッゲッゲッ」といった汚く濁った音の鳴き声』『しか発せず』、『件の鳴き声を直接発することが確認できないため、声のブッポウソウの正体は長く謎とされた』。『結局のところ、この鳴き声の主はフクロウ目のコノハズクであり、このことが明らかになったのはラジオ放送が契機となった』。昭和一〇(一九三五)年六月七日、『日本放送協会名古屋中央放送局(現在のNHK名古屋放送局)は愛知県南設楽郡鳳来寺村(現在の新城市)の鳳来寺山で「ブッ・ポウ・ソウ」と鳴く鳥の鳴き声の実況中継を全国放送で行った』。『その放送を聞き、鳴き声の主を探した者が、同年』六月十二日に『山梨県神座山で、「ブッ・ポウ・ソウ」と鳴く鳥を撃ち落としたところ、声の主がコノハズクであることが分かった』。『時を同じくし、放送を聴いていた人の中から「うちの飼っている鳥と同じ鳴き声をする」という人がでてきた』。六月十日に『その飼っている鳥を鳥類学者黒田長禮が借り受け見せてもらうとその鳥はコノハズクであり、山梨県神座山で撃ち落とされたのと同日である』六月十二日の『早朝に、この鳥が「ブッ・ポウ・ソウ」と鳴くところを確認した』。『そのコノハズクは東京・浅草の傘店で飼われていたもので、生放送中、ラジオから聴こえてきた鳴き声に誘われて同じように鳴き出したという』、『この二つの事柄がその後に行われた日本鳥学会で発表され、長年の謎だった鳴き声「ブッ・ポウ・ソウ」の主はコノハズクだということが初めて判明した』のであった。私はこのエピソードが何故か、非常に好きだ。

「此語は梵語の『トゥリラトナ』或は『ラトナトゥラヤ』(三寶)に相當する日本語であつて」原文“This word is a Japanese equivalent for the Sanscrit term Triratna or Ratnatraya”。「さんぼう」と濁るのが一般的であるが、「さんぽう」でもよい。サンスクリット語の「トリーニ・ラトナーニ」(ラテン文字転写:tri ratnni)、「トリ・ラトナ」(tri-ratna)」、「ラトナ・トラヤ」(ratna-traya:これは主に仏教とほぼ同時期にインドに起こった宗教で、マハーヴィーラ(ヴァルダマーナ 紀元前六世紀~紀元前五世紀)を祖師と仰ぎ、特にアヒンサー(不害)の禁戒を厳守するなど、徹底した苦行・禁欲主義で知られる)の三宝を指す語)の訳であり、「三種の宝」の意。仏(ブッダ:Buddha)と法(ダルマ:Dharma)と僧(サンガ:Sagha:仏教修行者集団)の三つをいう。この三つは仏教徒が尊崇すべき基本であるので、世の宝に譬えて三宝と称する。「仏宝」とは、悟りを開いた人で仏教の教主を、「法宝」とはその仏の教えで真実の理法を、「僧宝」とは仏の教えのもとで修行する出家者の和合の教団を指す。古く原始仏教に於いては仏教を構成する根本的要素と考えられ、後代には三宝の見方について種々な解釈が行われた。三宝はそれぞれ別なものであると見做す説(別相三宝)、本質的に同一であるとみなす説(一体三宝)、或いは、仏像と経巻と出家者は仏教を維持し伝えていく意味での三宝であるとみなす説(住持三宝)などがある。三宝は仏教のあるところ、必ず存在し、三宝に帰依すること(「三帰依」または「三帰」と称する)は仏