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2019/10/31

ブログ1280000アクセス突破記念 梅崎春生 贋(にせ)の季節

 

[やぶちゃん注:本篇は昭和二二(一九四七)年十一月号『日本小説』に初出で、後の第一作品集「櫻島」に所収された。

 底本は昭和五九(一九八四)年沖積舎刊「梅崎春生全集第二巻」を用いた。

 一部本文に私のオリジナルな注を附した。

 本篇には台詞の中に現在は使用すべきでない身体障碍者に対する差別用語「不具」「片輪」等が使用されているので、そこには批判的な視座も忘れずに読まれんことを乞うものである。

 因みに、底本の埴谷雄高氏の「解説」の末尾で、氏は本篇を非常に高く評価され、『この作品は、戦後の荒廃の時期を感覚の先端でうけとめながらすごした梅崎春生が新しい質の作品の創出にむかう試みを敢えてした一種の先駆的な作品であって、やがてその後、以前に見られぬ大きな骨格をもった幾つかの長篇が書かれることになるあらかじめの準備がみられるのである』と述べておられる。

 なお、本テクストは2006年5月18日のニフティのブログ・アクセス解析開始以来(このブログ「Blog鬼火~日々の迷走」開始自体はその前年の2005年7月6日)、本ブログが1280000アクセスを突破した記念として公開する(ほぼ小泉八雲に特化し続けた今回はアクセスが少し増え、一万回超えが何時もより少し早く来た)。【2019年10月31日 藪野直史】]

 

  (にせ)の季節

 

「お爺さん」に洋服を着せて舞台に出したらどうだろう。それを最初に提案したのは私である。いくら夏場とはいえこんなに入りが悪くては仕様がない。うつかりすると先の町での興行の二の舞だ。すると三五郎が顔色を変えて反対した。

「いくら何でもそんな大それたことが出来ますかい。そいつは人間様に対する冒瀆(ぼうとく)だ」

 人間様とは何だろう。冒瀆とはなにか。守るべきそんなぎりぎりの一線を、此の三五郎がまだ保っているのかと思うと、冷たい可笑(おか)しさがおのずと湧き上って来るのを感じたが、考えて見ると此処の団長にしても団員の面々にしても、最後のよりどころとしているのは矢張りこんな種類の奇妙な辻凄(つじつま)のあわない自尊心なので、こういう私といえども本当のところでは此の類を洩れないのかも知れない。しかし人間を他の動物から画然と区別する一線などというものは、各自がてんでに思い込んだ妄想に過ぎなくて、人類の祖先は猿猴類(えんこうるい)だというが、それは数百万年も前のことだと皆安心している。案外二千六百年もさかのぼれば身体の端に尻尾をつけていたかも知れないのだ。三五郎が血相を変えるなどとは笑止な話だと私が言い返そうとしたら、それまで黙っていた団長が腕組をぱらりと解いて口を開いた。

「そいつは思い付だ。史記にも沐猴(もっこう)にして冠すという文句がある位だからな、見物衆がさぞかし面白がるだろうて」

[やぶちゃん注:「史記」の「項羽本紀」の、秦を滅ぼした直後の叙述に基づく。以下に示す。

   *

居數日、項王見秦宮室皆以燒殘破、又心懷思、欲東歸。曰、富貴不歸故鄕、如衣繡夜行。誰知之者。說者曰、人言、楚人沐猴而冠耳。果然。項王聞之、烹說者。

(居して數日、項王、秦の宮室、皆、以つて燒けて殘破(ざんぱ)せるを見、又、心に懷思(くわいし)して、東に歸らむと欲す。曰はく、「富貴にして故鄕に帰らざるは、繡(しふ)を衣(き)て夜(よる)行くがごとし。誰(たれ)か之れを知る者ぞ。」と。說者(ぜいしや)曰はく、「人は言ふ、『楚人(そひと)は沐猴(もつこう)して冠(かん)するのみ』と。果して然かり。」と。項王、之れを聞き、說者を烹る。)

   *

訳しておく。

   *

 項羽は自ら焼亡させて荒廃した秦の都咸陽を眺め、そのさまに興醒めし、俄かに懐郷の念、抑え難く、

「大望を叶え、富貴の身となった今、懐かしい故郷楚に帰らぬというのは、凡そ、錦の晴れ着を着ながら、闇夜を行くのと同じことだ、誰が認めて呉れようものか。」

と言った。すると、側近のある遊説家が、

「ある者が言っておったが、『楚で生まれた者は、所詮、冠(かんむり)をつけた「猿」と同じだ』と。なるほどな、その通りだわい。」[やぶちゃん注:「猿が冠を被って気取って王と称しても、中身は所詮、猿は猿に過ぎぬ」という、粗野な人間を激しく嘲った揶揄である。]

と呟いた。

 これを聴いた項羽は、この男を釜茹での刑に処した。

   *

とあるのに基づく。]

 あたりを見廻して暗い皮肉な笑いかたをした。団長のうしろの衣裳箱の上には「お爺さん」が背をまるめて踞(うずくま)っていて、時々薄赤い瞼をあけて一座をぼんやり見廻したり、長い腕を伸ばして飛び交う蠅(はえ)をパッと捕えたり、自分のことが話題になっている事には、全然素知らぬ風情であった。もっとも素知らぬのが当然で、此の「お爺さん」というのは人類ではない。昔から此の曲馬団にいる、言わば子飼いの老猿のことなのである。

 もともと此の曲馬団は動物運が非常に悪くて、膃肭臍(オットセイ)に水をやり忘れて殺してしまったり、大金を出して算術の出来る馬を買い込んだらその後の訓練が悪かったのか神経衰弱を起して、使いものにならなくなったり、昔は自転車に乗れる猿も一匹いたのだが、御贔屓(ごひいき)から贈られたマカロニを五封度(ポンド)[やぶちゃん注:約二キロ五十七グラム弱。]もいちどきに食べて、胃を破裂させて死んでしまった。無病息災なのは此の「お爺さん」だけで、その代りこれは芸当は何にも出来ない。教えこんでやろうと随分(ずいぶん)訓練にも手がけたが、教えれば教える程「お爺さん」は頑固に身を固くして、たたいてもすかしても言う事を聞きはしない。ついにはしゃがみこんで、そうそう無理言ってわたしをいじめて下さるな、と言いたげな悲しい眼付で見上げるから、大抵そこで妙な気持になって匙(さじ)を投げてしまう。こいつには覚える能力が無い訳ではないのだ、覚える気持が全然ないのだと、手を焼いた団長が憎々しげに呟いたのを聞いた事があるが、これは私も同感だ。しかし遊ばしておく訳にも行かないので、奇術や曲芸の時などには舞台の片隅に箱を出して、その上にすわらせて置くが、そんな時でも「お爺さん」は観客を意識する風もなく、背中をかいてみたり蠅を捕えたりして独りで遊んでいる。老いの一徹という感じがする。「お爺さん」の腰には細い鎖が巻きつけてあって、その端はしっかと柱にとめられている。何故と言うと此の「お爺さん」には執拗な逃亡癖があって、思い立つと矢も盾もたまらなくなるらしい。此の前の町でも油断を見すまして脱走を企て、皆は大騒ぎであった。芸当をやる動物などというものは変になまなましく、親しみにくい厭な感じで、むしろ「お爺さん」の方がけものとしては本物だと私は思うのだが、芸も出来ない癖に逃げたがってばかりいてつくづく厭な猿だというのが皆の意見で、前の興行の惨めな失敗もこいつの為にけちがついたせいだと言い出す始末であった。

 全く此の前の町での興行はひどかった。何しろ入りがほとんど無く、場所が町有地という訳で町の役人らが財政困難を糊塗(こと)するためにおそろしく高い場所代を吹っかけて来たりして、天幕などを抵当に入れて金を借り興行をつづけたのだが、ついにどうにもならず団長の発案で夜逃げを敢行した位である。大言壮語はするがしんは気が弱い団長にしては大決心だったと思うが、場所代も借金も踏み倒しての決行だから、夜半から暁方にかけて大急ぎで天幕をたたみ大道具小道具取りそろえ、私どもは落武者のように敗走した。そしてやっと此処の町の外れにある河原にたどりついたという訳だが、団長は平気な顔を装ってはいるけれども、内心追手が来ないかとびくびくしている証拠には踊子の弓子が、毎日見に来る変な客がある、と報告した時には他処目(よそめ)にも知れる位ぎょっとしたらしい。弓子というのは梯子(はしご)乗りを専門にする若い娘だ。

「しょっちゅう来てるのよ。何時も同じ処にすわって私達の方は見ずに、ぼんやり舞台の隅っこを眺めていたり、天井を見上げたりするのよ。あの人何処かで見たことがあるわ。きっと前の町で見たんだわ。ああ、あの人は前の町の町長さんにそっくりだわ」

 話半ばにして団長は奇妙な叫声を上げ、あわてて飛んで行って舞台の袖から客席を眺めていたが、やがて打萎(うちしお)れて戻って来て、どうもそうらしいと頭をかかえているから、側から三五郎が、他人の空似ということもありますからと慰めるとそれで元気を取戻したのか、急に笑い声を立てたり変にはしゃいだりしたということだ。何しろ借金のことになれは天幕その他を差押えられて、曲馬団は潰滅することは必定だから、団長が一時的な惑乱に落ちたのも無理はない。しかし潰滅の予感がかえって団長に度胸をつけたらしく、その後は変に落着きはらって団長は皮肉な目付ばかりをキラキラさせている。その癖何でもないことにひどく神経質に腹を立てて怒鳴ったりするのだ。「お爺さん」に洋服を着せたらという私の提案に賛成したというのも、勿論(もちろん)確乎とした興行上の成算がある訳ではなくて、一か八かやってみようと考えたに違いないのである。しかし沐猴にして冠すなどと酒落(しゃ)れた事を彼は言ったが、此の言葉が此の場合持つおそろしい意味など感じている訳はないのだ。三五郎にだって判りはしないだろう。しかし三五郎は道化師だから、それを言葉としてではなく漠然と感じているかも知れない。

 三五郎は誠も落魄(らくはく)した道化師で、近頃は頓に芸に自信を失って来たようだ。曲芸師として私が此の曲馬団に入団した頃は、三五郎はまだ若くて颯爽とした道化師で、人気を一身に集めているような具合だった。その頃私は彼にこんな質問をしたことがある。

「道化とはつまり嗤(わら)われることなんだね」

「いいえ、道化とは人を嗤う精神ですよ」

 若い日の三五郎は眉宇[やぶちゃん注:「びう」。「宇」は「軒(のき)」。眉(まゆ)を目の軒と見立てて「まゆの辺り」「眉」の意。]に自信の程を見せてそう答えた。ところが近来、特に終戦後の観客は三五郎の芸を全然嗤はず、観衆の気持をはかりかねて彼は懊悩(おうのう)[やぶちゃん注:悩み悶えること。「煩悶」に同じい。]している様子だったが、ある日舞台で切羽つまって無意識に演じたある動作がワッと受けて以来、彼はその動作を芸の基調とすることに決心したと、ある晩三五郎は酔っぱらって私に告白した。

「俺はその仕草を無意識でやったんだがね、そいつは俺が発明したんじゃない、どこかで誰かがやった仕草だと、後でいろいろ心の中を探り廻しているうちに、ハッと突き当って驚いたね俺は。何だと思う。『お爺さん』の動作だったんだよ、それは」

 そして三五郎はたとえようもない悲しい表情をした。沈痛な声になって先を続けた。

「俺にはお客の気持が判らなくなってしまった。昔の客はそんなものじゃなかった。もし今の客が猿の真似なぞを喜ぶんなら、俺はそうやるより仕方がないのさ。だから俺は、俺は『お爺さん』の真似をやって行く」

 それから三五郎は暇さえあれば「お爺さん」の挙動をつぶさに観察していることが多かったが、その眼付は私が見る処によると、むしろ兇暴な殺気と憎悪に満ちあふれているように見えた。三五郎は「お爺さん」を憎むと同時に、その真似で生計を立てている自分を憎まずに居れないに決っているのだ。そう私は思う。その「お爺さん」が洋服を着用して舞台に現われたらどうだろう。本物が現われたら偽物が生彩を失うのは当然で、猿の猿真似などしている三五郎は直ちに面目を失うだろう。その予感が彼をして、人間様に対する冒瀆だなどと苦しまぎれを言わせたに違いない。しかし私がこんな提案をしたのはもともと三五郎を困らせようとする気では毛頭ないので、近頃入りが少いのも芸が偽物だから鑑賞に堪えないのだろうと察したから、それなら本物を見せてやろうとふと思い付いただけで、実を言えは私も「お爺さん」が洋服着た処を想像すると、背徳不倫に似た感じに堪え難くなる。それを超えて私が提案したというのも胸の底を探れば此の曲馬団の連中を幽かながらも憎む気持が私にあるらしいからで、当初の道化精神を忘れた三五郎や、いらいらして皮肉ばかり飛ばしている団長や、弓子に思いをかけている癖に女には眼もくれない風を見せたがる力業士(ちからわざし)の三光や、その他の面々の哀しい在り様を私がある感じをもつてしか眺め得ないからである。全く此の曲馬団でまっとうなのは私だけだと思うのだが、考えてみると周囲をうとみながらなお踏み止っている私が一番可笑しな存在かも知れない。私は私に絶望しているのだ。だから私は人間にも絶望しているのだろう。その絶望を確めたい為にも私は「お爺さん」に洋服を着せて舞台に立たせたくて仕様がないのである。それを見て観客は何を感じるだろう。痛烈な感じで眼が真黒になってしまうだろうと想像すると、私は年甲斐もなく胸がわくわくするのだが、しかし考えれば私は三五郎同様、観客の何が判って居るというのだろう。木戸銭を払って中に入りながら舞台に背を向けて、昼寝をしたり将棋をさしたりする近頃のお客の心理が私には判らない。戦争前私が曲芸師だった頃はそんなお客は居なかった。戦争に引っぱり出され、そして片腕を失って復員して来た私は、曲芸も出来ずに雑用夫みたいな形で再び此の曲馬団に雇われているのだから、舞台から客と対峙(たいじ)することはなくなったが、三五郎の言うように戦争このかたお客の様子が変ったというのも、思えばこの世に不思議が満ち満ちていて、かえって曲馬団の中に不思議が見出せないからではないのか。不思議を失った曲馬団ほど惨めなものはない。舞台に背を向けて将棋をさす男の方が、舞台の芸当よりもつと曲馬的だ。戦争以来娑婆(しゃば)の人間はすっかり変った。私が理解出来ない歪(ひず)みみたいなものを皆持っている。今日だってそうだ。舞台がはねて私が河原に出て夕涼みしていると、一人の老紳士が土手から降りて来て私に近づいた。

「つかぬことをお伺い致しますが」

 見ると此の暑いのにスパッツなど着けている。身なりの良い老人であった。

[やぶちゃん注:「スパッツ」spats。ここは本篇の最後の方の描写から、文字通り、山や雨天時に於いて足首と靴との間から雪や小石などが入るのを防ぐための、あの覆いであることが判る。]

「お宅でお使いになっているあの猿ですがな、あれを私にゆずって頂く訳には参りませんでしょうかな」

 少し突飛な申出なので私が黙っていると老人はあわてたようにしゃべり出した。それによると老紳士には十六年前に死去した父親があって、その風貌姿勢があの「お爺さん」にそっくりだという訳である。あの腕の長いところといい顱頂(ろちょう)に毛がうすれかけた具合といい、びっくりする程似ていて、眺めて居ると風樹の思いに堪え難いから、何とぞ自分の孝心にめでて金はいくらでも出すからゆずってほしいという話であった。冗談言っているのかと思ったら声音[やぶちゃん注:「こわいろ」。]は真剣で、私も返答に困って言葉を濁しておいたが、仲仲諦(あきら)めて呉れないので大層弱った。真者だか偽者だか判らない。とにかく人間離れがしている、こんな異常な人間に比べると、「お爺さん」の方がよっぽど人間らしい。沐猴(もっこう)にして冠すとはあの時団長が不用意に引用した文句だが、沐猴にして人間服を着用した徒輩の前であの「お爺さん」がどんな演技をして見せるのかと、その光景の予想は私に一種終末的な感じを伴って迫って来る。胸に幽かに尾を引く感じをたどって行けば、私は同時に此の曲馬団の潰滅を漠然たる形で予感しているのだ。その形の中で、私をふくめたおのもおのもが自らの醜く哀しい露床を、戛然(かつぜん)[やぶちゃん注:堅い物が触れ合って音を発するさま。]と掘りあてることが出来るだろうと、私は切に妄想しているのである。

 

 表方に聞くと、此の町には小さな洋服屋が一軒あるきりだという。身仕度をして出かけようとすると三五郎が呼止めた。

「洋服屋に行くのか」

 そうだと答えると、三五郎は厭な顔をして手を曲げ、耳のうしろをしきりに搔いた。それがそつくり「お爺さん」の仕草であつた。始めは人真似で莨(たばこ)を喫(の)んだものが不知不識(しらずしらず)の中にニコチン中毒に陥るように、三五郎の一挙一動にはもはや牢固[やぶちゃん注:「ろうこ」。がっしりとしていて丈夫・堅固なさま。]として「お爺さん」が根を張っているらしい。当人が意識していないだけそれは末路的な感じが深かった。「あんなやくざな猿を舞台に引っぱり出して何が面白いんだ」三五郎はうめくようにいった。「どうしてそんな厭なことを思い付くのだろう。戦争に行ってからお前もずいぶん性格が変ったな」

 三五郎はちらちら瞳をあげて私の右袖をぬすみ見た。私の右袖は中身がないから、袋のように肩から下っているはかりだ。三五郎のそんな眼付を私は非常に好まない。

「だって此のままの入りでは曲馬団も解散だよ。変ったところを見せなければ人は来やしない。解散となれはお前も飯の食い上げだ」

「だからよ、お爺さんに芸が出来るのなら洋服着せて出すのもいいだろうさ。何にも出来ないものを出すなんて悪どいふざけ方だ」

「どのみち今時の世の中はふざけだよ」と私は答えた。

「ふざけるなら徹底的にふざけたがいいのだ」

「そんなものじゃない」と三五郎はいらだたしげに頭を振った。「ここは少くとも曲馬団だよ。水族館とは違う。鳥目(ちょうもく)をはらってお客が見に来るのは、俺達の芸だ」

 芸とは何だろう。お客が見に来ない芸など有りやしない。人の見ていない処でやる芸などというものは、単に動作にすぎない。芸とはうぬぼれの凝集したようなもので、三五郎がことさら自らの芸を強調するのは、きっとうぬぼれを失い始めた証拠だと思ったから、

「芸とは何か三五郎には判るのか。芸とは、そいつは自信ということだよ」

「ああ、そうだよ」低い声になった。

「また人生とは自信のことだよ。生きるということは自信をなくさないということだ」

 少しあざけりの調子がこもったので、私もむっとして、

「ふん、俺が自信をなくしているというわけかね」

「お前は立派な曲芸師だった」急に顔を上げて三五郎は私をまっすぐ見た。「片腕をなくして曲芸が出来なくなったといって、何かを恨んだりしてはいけない」

「恨んだりはしないぞ。そんな処で俺がよろめくものか。俺は今でも芸人だよ。人間だよ。だから俺はまっとうなものしか認めないのだ」

「お爺さんを出すことがまっとうだと言うのか」

「陰武者の芸よりはまっとうだろう」

「陰武者?」三五郎の眼が俄に鋭くひかった。が、直ぐ力無く首を垂れた。「陰武者だっていいさ。本物なんかいやしない。本物は贋物(にせもの)さ。陰武者だって落伍するより立派だろう」

 身体を硬くして私が立っていると、三五郎も立ち上って私の肩に掌をおいた。袋の袖がふらふらと揺れた。

「此の曲馬団もどうせ解散だということは、俺もはっきり知っている。今日もあの変な客が来ているのだ。前の町から、様子をうかがいにやって来ているのだ。舞台からそいつの眼付を見ればすぐ判る。見物に来たものの眼の色じゃない。団長がいらいらしているのもそれだ。気の毒な話じゃないか。此処が潰れるのは団長の責任じゃない。といっても俺の責任じゃないよ。此の曲馬団も自然と命数が尽きたんだ。使命が既に終ったのだ。俺は二十年近く道化をやってきた。俺は一所懸命やってきた。俺は仕事を投げ出さなかった。しかし此処がつぶれたら、俺はきっぱり此の商売から足を洗うよ。仕事を、自分を投げ出さなかったということだけが、俺の心には残るだろう。だから、此の最後の舞台を、俺はあんな芸無猿の茶番で終らせたくないのだ。俺の為にも、団長の為にも、そしてお前の為にも」

 三五郎は私の肩から掌をすべりおとすと、ふらふらした歩き方で小舎の中に入って行った。その後姿がやはり「お爺さん」にそっくりであった。ふと胸に迫るものを押えながら外に出ると、水の涸(か)れた河床からの照り返しがぎらぎらと眼にしみた。草いきれを分けて土手にのぼり私は暑い往還をてくてく歩き出した。

 埃(ほこり)をかむった夾竹桃(きょうちくとう)の花が軒並に連なる街道を一町[やぶちゃん注:百九メートル。]程も歩くと、もはや背中は汗びっしょりになった。落伍者より陰武者の方が立派だと言い切った時三五郎は痛い眼付でまた私の袖をぬすみ見たが、あれは私を憐んでいるつもりなのか。腕がないばかりに再び曲芸師として立てないことを、私は落伍したとは考えない。少くとも頭の中ではそうは思わぬ。自分を失ってエピゴネン[やぶちゃん注:ドイツ語「Epigonen」。思想・文学・芸術などでの卑称としての「追随者」「独創性のない模倣者」「亜流」の意の蔑称。語源はギリシャ語(ラテン文字転写)「epigonos」で「後に生まれた者」の意。]に落ちた三五郎の方が落伍者だと、歩きながらそう胸の中で叫ぶ度に、私はちょん切れた肩のあたりに力を入れるのだが、しかし三五郎はたしかにそこらで自分を胡麻化(ごまか)しているに違いないのだ。自分を投げ出さなかったということを心に刻んで、それで足を洗おうなどあまり虫が良すぎる。三五郎が「お爺さん」を眺める眼があんなに憎しみにあふれているのも、三五郎は自分の絶望と対面するのが恐いのだと、そう思うと何故か山彦のように虚(むな)しいものが磅礴(ほうはく)[やぶちゃん注:広がって満ちること。満ち塞がること。]と私の胸の空洞に拡がって来た。

 

 教えられた道を歩いて行くと洋服屋は直ぐに見つかった。深い板廂(いたびさし)にとりついて蝉が一匹一所懸命に鳴いていた。出て来た洋服屋は山羊に似た顔をした大きな男で、その癖大変横柄な口を利いた。私がただ、洋服を仕立てて買いたい旨を申述べると、小さな眼で私を見詰めていたが、「君は闇屋か」と突っぱなすように言った。

 私が黙っていると更に重ねて、「いまどき闇屋ででもなければ背広は作れないからな」

「闇屋じゃないよ。俺は廃兵ですよ」

 服屋は私の右袖に気が付いたように眼をうつした。そして誰でもが作るあの表情をちらと顔に走らせたが、すぐ眼を外(そ)らして、

「気の毒だが猶(なお)のこと駄目だ。服の仕立というものはバランスの芸術だからな。腕の無い男の服など俺は作りたくない」

「作ってもらうのは私じゃない。私は使いの者ですよ。注文主は町外れで待っている」

 服屋は暫(しばら)く黙っていたがやがて、

「その注文主というのは君みたいな不具じゃないだろうな」

「いいえ、ちゃんと手足が揃っていますよ」

「――一言断って置くが、俺の仕立に注文はつけさせないよ。好きな型に作っても良いのなら引受けよう」

 注文つけないから好きなように作って呉れと私が答え、それから服屋と一緒に表に出て、また乾いた埃道(ほこりみち)を取って返した。歩きながら服屋は、自分は戦争中にも国民服の仕立を全然やらなかったと言って威張った。国民服ですら仕立てなかったのだから、現在派手な闇屋服など死んでも作る気にならないと言った。現代ほど洋服が侮辱された型で作られている時代はない。今の仕立職人は皆自棄(やけ)っぱちで作製に従事しているんだ。良心のある服屋など居やしない。

「俺が拵(こしら)えるのは英国風の高雅な型の服だ」

 終戦後そんな服を製作したことがないから、今度の注文は大層楽しみだと、始めて汚ない歯を見せて笑った。何だかその感じは下司で、言葉の横柄なのも生得のものでなく、変につくった感じで、あまりいい気分ではなかったが、こうして単純に喜んでいる処を見れば私は何だか後ろめたくなって、いろいろ言いそびれているうちに土手まで来た。川風に吹かれて踞(うずくま)った爬虫類(はちゅうるい)のような汚れた天幕小舎が眼の下にあった。何だサアカスじゃないかと言いながら、それでも服屋は土手の斜面を私について山羊のように駆け降りた。

 楽屋に入ると、団長は椅子に腰かけて腕を組み、埴輪(はにわ)みたいな顔で私達を見た。服屋ですよと私が言うと団長は立ち上ったが、顔色は悪く無表情のままだった。側には力業士(ちからわざし)の三光が、しょげたように腰をかけていた。さげすんだような薄笑いを浮べて楽屋を見廻していた服屋が、立ち上った団長に向って口をひらいた。

「洋服作りたいと言うのはお前さんかね」

「私じゃない」と団長は悲しそうな声で答えた。「私には服を新調する余裕はない。作って貰いたいのは、彼奴(あいつ)のだ」

 団長の顎(あご)のしゃくるまま、楽屋の隅に視線を走らせた瞬間、そこで服屋はあきらかに驚愕したらしかった。二三歩後すざりをしたが忽ち振返って私をにらみつけた。

「君達はきっと俺をからかっているんだな」

「からかいはしませんよ」汚ないものを踏み潰すような厭な気分に囚われながら私は言い返した。「前もつてお猿さんだと断らなかったのは悪いけど、とにかくあいつに似合う高雅な服をお願いしたいのです」

 幽かに鎖がじゃらじやら鳴って「お爺さん」が身じろぎをしたらしい。長い腕で膝を抱え、脅(おび)えたような瞳を此方に向け、高い声でキキッと鳴いた。こいつは鳴くだけしか出来ないんだと、低い呟きにふと惜しみが籠ったと思うと、団長は片手の鞭(むち)を威嚇するようにふり上げた。「お爺さん」は掌を額にあて燃えるような眼付で見返した。私はその時自分の手指がふるえるのに気が付いた。

「猿の洋服を俺に作らせようというのか」やがて落着きを取戻したらしく変に冷たい険のある声になって服屋が言った。

「この俺に、あの猿の洋服を」

「何故猿の服が作れないんだ」団長が突然聞きとがめていらいらした顔をふりむけた。「猿の服だって何だって、仕事に打込んでひけを取らないということは立派な事だ」

「そりゃ立派な事だろう。しかし俺はこれでも芸術家だぜ」

 その言葉を聞いた時団長の頰に毒々しい笑いがのぼって来た。鞭を上げて猿を指した。

「あいつだって芸術家だよ。お前さんにひけは取らない」

「ふざけるのはよしましょう。あの猿が何故芸術家なんだ」

「芸術というのは感動の表現だからな。あいつは何も芸当は出来ないけれど、洋服を着て舞台に現われるだけで、あいつは見物に痛烈な感銘を与えるのだそうだ。此処では唯一つの、天成の芸術家だよ」

 そう言い終ると団長は、何故かへんに冷たい視線でじろりと私にながしめを呉れた。服屋は黙って「お爺さん」の方を一心に見詰めていた。暑いのか服屋の額には大粒の汗が並んでふき上っていた。そしてそれは次々に頰に流れ落ちた。舞台の方からは破れたラッパの音が流れて来る。気の毒なようないら立たしいような変てこな感じに堪え難くなった時、やがて服屋が低い声で口を開いた。

「作れというなら作ってやりましょう。その代り少し高いですぞ」

「いくら位だ」

 服屋はふと小さな眼を宙に浮かせたが、直ぐはっきり叫んだ。

「二万円だ」

 団長の頰から急にうす笑いの影が消えて、もとの埴輪のような顔に戻った。鞭の先で長靴をぴしりと打った。

「よし払ってやろう。但し出来上ってからの話だ」

 寸法を取る時「お爺さん」はキャッキャツと叫んであはばれるので、止むなく私たちが手で押えていなけれはならなかった。「お爺さん」は顔を皺(しわ)だらけに歪めて身体を私の手の中でむくむく動かしたが、ただれた目蓋(まぶた)の端にうすい涙を溜め、訴えるようないろを眼いっぱいにたたえていた。服屋は蒼い顔になり、唇を嚙みながら黙々として寸法を取った。舞台から降りて来た三五郎も道化服のままそれを眺めていた。

 寸法を計り終えると服屋は直ぐ立ち上って出て行こうとしたが、振り返って拳を握って顔の前で二三度振った。

「お前たちが着てるよりもっともっと立派な洋服を、俺は此の猿につくってやるぞ。その時になって驚くな。ちゃんと金を用意して置け」

 服屋の肩を怒らせた後姿は入口の斜光を乱し、そして天幕の外に消えて行った。それを見送っていた団長が、何を思ったのか突然大きな声で叫んだ。

「誰か金箱を持って来い」

 三光が持って来た金箱をあけて、団長はその中を掌でかき廻した。

「皆見てみろ。いくらも入っていやしねえ」

「どうもすみません」と三光があやまった。

「あやまって済むことだと思うか」

 それから団長はしゃべっているうちに段々亢奮して来たらしく、椅子を立ち上ったり歩き廻ったりした。団長がたかぶっているのは、今の服屋の軒捨台辞(すてぜりふ)のためだけではなく、傍で三光が逞(たくま)しい肩をすぼめてしょげているところから見れば、どんなことが起ったのかと思っていると、今日の舞台で、三光が力業士のくせに重量上げで飛入りのお客に敗北し、懸賞金二千円を持って行かれたという話である。もっとも三光は先日まで麻疹(はしか)にかかっていて、こんな年頃になって麻疹にかかるとは可笑(おか)しな話だが、こんなに筋肉だけ畸形(きけい)的に発達したような男の内部にはどこか弱い未熟なところがあるのだろう、そのせいで体力も衰えていたに違いない。団長は鞭で長靴をしきりにひっぱたいた。

「懸賞金が惜しいだけで私は言っているのじゃない。専門家が素人に負かされる、そんな阿呆な話があるか。私が借金したり夜逃げまでして曲馬精神を盛り立てて行こうとしているのに、お前たちは内部から私に煮湯を吞ませるようなことばかりをする。此処へ来てもう借金が出来たぞ。四五日も経てはあの先刻のインチキな洋服屋にも二万円作らねばならん。寄席をのぞいて見ろ。どれだけお客が入っているか。(此処で団長は眉をしかめた。あの変な客というのを思い出したのだろう)お前たちは皆目自信をなくしているのだ。自信をやくざなものと掏(す)りかえているんだ。お前たちは皆偽者だ。お前もだ。お前もだ。(団長は一人一人指さしながら)お前達は揃いも揃って、みな糞土(ふんど)の牆(しょう)だ!」

「糞土の牆、とは何でございましょう」床に踞(うずくま)っていた三光がおそるおそる訊ねた。

うんこの垣根のことだ!」と団長は怒鳴り返した。

[やぶちゃん注:「糞土の牆」「糞土の牆は杇(ぬ)るべからず」。「論語」の「公冶長」出典の比喩。但し、「糞土」はダイレクトな「くそ」の意ではなく比喩。「ぼろぼろに腐った土塀は上塗りができない」で、「なまけ者は教育しても甲斐がない」という譬え。

   *

宰予晝寢。子曰、「朽木不可雕也。糞土之牆不可杇也。於予與何誅。」。

(宰予(さいよ)[やぶちゃん注:孔子の弟子の名。]、晝、寢(い)ぬ。子、曰はく、「朽木(きうぼく)は雕(ゑ)るべからざるなり。糞土の牆(しやう)は杇るべからざるなり。

予に於いてか、何(なん)ぞ誅(せ)めん。」と。)

   *

「杇」は本来は「鏝(こて)」のこと。ここは動詞。鏝で腐った土塀を上塗りする。「誅」ここは「責める・叱る」の意。]

「私も糞土のなんとかでしょうか」楽屋の隅っこから三五郎もかなしげに限を光らせて声を上げた。

「勿論そうだ。糞土以外のものであるか。お前の芸など全くのくすぐりだ。下司(げす)だ。あれで自信あるつもりかも知れんが、俺からみれば全くの遼東(りょうとう)の豕(いのこ)だ」ぐるっと見廻して今度は私の方を鋭く鞭でさした。「お前がまた、うんこだ」

[やぶちゃん注:「遼東(りょうとう)の豕」「遼東之豕」。狭い世界で育ち、他の世界を知らないため、自分だけ優れていると思い込んで、得意になっていること。独り善がり。「遼東」の「遼」は「遼河」で河の名。その東の現在の遼寧省南部地方の広域地名。「豕」は「豚」。出典は「後漢書」の「朱浮伝(しゅふでん)」に出る故事。昔、遼東地方の人が、飼っている豚が白い頭の豚を生んだのをたいそう珍しく思って、これを天子に献上しようと、河東(山西省)まで行ったところ、豚の群れに出会い、それが、皆、白い頭の豚だったので、自分の無知を恥じて帰ったという話に基づく。]

 ぎょつとして私が団長を見返していると、団長は眼をきらきら光らせながら鋭い口調で畳みかけた。

「猿に洋服を着せようなど、第一その思い付が気に食わん。ことに野卑な復讐の企みだ」

「だって良い思い付だとあの時賛成したではありませんか」

「賛成などするものか。お前の心根にぎょつとした位だ。嘘をつくのもいい加減に止せ。此の前の町で猿をわざと逃がしたのもお前だろう」

 言うことが一々肯綮(こうけい)にあたって来たから私は驚きながら、

[やぶちゃん注:「肯綮」物事の急所。肝心要の箇所。「肯」は「骨に附いた肉」で、「綮」は「筋肉と骨とを結ぶ筋や腱のような部分」を指す。「荘子」の「養生主」を出典とする。料理の名人の庖丁(ほうてい)が梁の恵王の前で牛を料理した際、その神技を褒めたところが、肯綮に刃物を当てさえすれば、自然に骨肉は切り離せると答えた話による。]

「そりや私じゃありませんよ。私が逃がすわけがない。結び目をひとりで解いて逃げ出したんですよ」

「まだ嘘を言うとる。お前が結び目をゆるめていた処を見たものも居るぞ」

 誰が告口したのかと思わず四周(まわり)を見廻すと、一座の眼がみんな射るように私にささって来て、これも団長の巧妙なわなかも知れぬと私がどぎまぎ考えをまとめかけた時、幸い団長の鉾先(ほこさき)が私を外れて再び三光に向ったからぼろを出さずに済んだが、今度は三光が毒舌に堪えかねて、毎日芋や雑粉を食わせられそれで人並の力が出る訳があろうか、と言い返したのをきっかけに一座は混乱に陥って、服屋にはらう二万円で白米を買えと怒鳴るやら、女の子が泣き出すやら、舞台の方は穴だらけで、止むなくいつもより二時間も早く打出太鼓を鳴らして客を追い出したのも、まだ夕陽があかあかと河原の玉萄黍(とうもろこし)の葉末を染めている程の時刻であった。

[やぶちゃん注:「雑粉」小麦粉以外の本来は食用にしないような穀類を粉末にしたもの。]

 

 こんな訳で「お爺さん」の服を注文したのが私の独断みたいな形になったが、考えてみるとすべての責任は団長にある訳なので、私は提案者だとはいえあとの点では雑用を果したにすぎないのだ。それにも拘らず一座の面々が私を眺める取付は変に険をもつていて、集っている処に私が入って行くと、急に皆黙りこんでしまったりする。まさか私を憎んでいる訳ではないだろうが、どうも変だ。そして言葉の行きがかり上、二万円払ってやると怒鳴ってから団長が、急にすべてに強腰[やぶちゃん注:「つよごし」。]になったのも、おそらく捨身の心境に到達したからに違いなく、あるいは洋服だけ受取って再び夜逃げを決行するつもりではないかとも想像された。しかしそれにも私には割切れない部分がある。暑熱と食物のせいか皆も何か元気がなくなって、演技の張りも何時しか失われているらしかった。相変らず客席の入りも悪いようで、楽屋に聞えて来る拍手の音もまばらである。楽屋のすみでは「お爺さん」が、物憂(ものう)げに鎖でつながれていた。

「此の前『お爺さん』を逃がそうとしたというのは本当なの」

 弓子が舞台用の赤い胴着をつけたまま、私に近づいて、低い声で聞いた。楽屋の壁になっている天幕の帆布の止金が朽ちかけていて、川風にともすればあおられそうになるのを、私は苦心して修繕しようとしていたのだ。私は金槌を置いて憮然(ぶぜん)として答えた。

「あんなに逃げたがっているものを繋いで置くことは、可哀そうだと思わないかね」

「そりゃ思うわ。しかし此処にいれば人蔘(にんじん)の尻尾だって何だって食べられるのに、なぜ逃げたがるんでしょうね」

「お爺さんは一人になりたいのだよ」

 金槌を取上げて又私は釘を打ちつけた。調べて見ると止金は次々朽ちていて、皆外(はず)れそうになっているのであった。弓子は可憐な溜息をついた。

「なぜ近頃皆あんなに苛々(いらいら)して、怒鳴ってばかりいるんでしょうねえ」

「人間だってぎりぎりの処は一人なんだよ。傷つけ合っているのは表面だけだよ」

「何だか皆憎み合ってるようだわ。三光さんはお爺さんを猿鍋にして食っちまうと言ってるわ」

「本当のことが判れば皆憎み合わなくて済むのだよ。何でもないことなんだ」

「貴方だって人を憎んでるんじゃないこと」と弓子がぽつんと言った。「だってお爺さんに洋服着せるようなことを考え出すんですもの」

 金槌を振う私の左手にふと力が籠(こも)って、気がつくと弓子は私の右袖を揺れないように指で押えていた。微かな苦痛が胸を走るのを感じながら、少し邪慳(じゃけん)に私はそれを振離した。

「俺は皆が好きなのだ。好きだからいやなんだ。俺は一人だと判っているから尚のこと此の団が離れられないんだよ」

「だって此処も潰れるわ。三五郎さんがそう言ったわよ。古里に帰って百姓するんだって。あんたはどうするの」

 白粉焼けのした弓子の顔が変に年増くさく醜く見えた。

「あなたは昔はとても腕の良い曲芸師だったんですってね。それも三五郎さんから聞いたわ」

「早く楽屋へお帰り、三光が見ている」

 天幕小舎の骨組になっている木材もほとんど朽ちかけていて、止金はいくら打ちつけても直ぐにゆるむものらしかった。女なんか腐った止金みたいなものだと腹立たしく、やがて金槌をほうり出して私も楽屋に入った。「お爺さん」は今舞台を降りて来た処で、鎖の端を三光に握られ、床を四足でヒョコヒョコと這っていた。私は眼をそらした。私はその時、「お爺さん」に服を着せるような思い付を次第に後悔し始めていたのである。そんな事をやって何になるだろう。洋服を着た猿などは子供の絵本の中だけで結構で、強いて笑いたければ三五郎の猿芸でも眺めれば結構なのだ。服を着た猿の痛烈な幻影は私の予感の中で真黒に光るだけで、現実に舞台に「お爺さん」が出たとしても、後味の悪い笑い声をのこしたまま、やがて観た人の脳裡から薄れてしまうだろう。ひとりよがりで私が考えていたように、その舞台によってお客が殺到することは先ずないであろう。そうなれば二万円の洋服などというものは、ぼろ片[やぶちゃん注:「ぼろきれ」。]よりも価値がなくなって、落語の蜜柑の袋のように大事にそれを抱えて、再び山越えして夜逃げを敢行する羽目になるかも知れない。しかし本当を言えば、それは始めから私に判っていたことなのだ。茶番というのは「お爺さん」を舞台に出すことではなくて、まことにそのことだと思うと、団長が私をののしって野卑な復讐と言った言葉が、俄(にわか)に鋭い悲しみとなって胸に突き刺さって来た。復讐とは何だろう。私のような現実から手痛いしかえしを受けている身にとって、私は自分も他人もひっくるめて人間というものに弱々しく嘲けり返すのがせい一杯で、それをすら野卑と言うならば、こんな羽目に落ちてもまだ絶望せず無感覚な営みをつづけて行こうという一座の連中は何と言っていいのだろう。それを思うとすべては朽木に止金をつけるよりもっと果敢ない感が湧き上って来るのだが、此の無感動な錯綜の中であの変な服屋が作る洋服だけが着々裁(た)たれつつあるのだと気付くと、私は奇妙な焮衝(きんしょう)を押え難く、居ても立っても居られない気持になってまた身仕度して服屋の店に出かけて行った。

[やぶちゃん注:「落語の蜜柑の袋」上方落語の知られた名品「千両蜜柑」のエンディング。ウィキの「千両蜜柑」の「上方版」の終りの部分を参照されたい。

「焮衝」原義は身体の一局部が赤くはれ、熱をもって痛むこと、炎症であるが、ここは感覚上の譬え。]

 御免と言って店に入ると、あの服屋は裁刀[やぶちゃん注:「たちがたな」。衣服を縫う時、布を裁ち切るのに用いる刀。鑿を太くしたようなずんぐりした形状を成す。]を逆手に握って裁台にかぶさっていたが、血走った小さい眼を上げてじろりと私をにらんだ。見るとあの洋服らしく、すでに七分通り出来上っているようすである。服屋はそれを私の眼前でピラピラ振って見せ、怒ったような口調で言った。

「どうだ。よく見ろ。こんな立派な服が近頃あるか」

 子供服の型とも違う変に凝縮した形の服だが、生地は茶色の上等のホウムスパンであった。仕立は丹念に出来ているらしく、服屋の顔はむくんで無精髭が密生しているところから見れば、或いは精をつめて此の仕事にかかっているのかも知れなかった。こんな仕事に精魂つめているらしいことが、何故か突然私の嫌悪を烈しくそそった。服を手にとり私は気持を殺しながら裏返して見た。

[やぶちゃん注:「ホウムスパン」homespun。手織り布。]

「なるほど立派な仕立ですね。少し形が可笑しいが」

「あたりまえよ。猿の身体に合せて作ったんだ」

 バランスが取れていないような気がする、と言いかけて私は口をつぐんだ。服屋の山羊のような眼が、簒奪(さんだつ)者のそれのように光ったからである。暫(しばら)くして私は服屋の店を離れた。

 又暑い街道をてくてく歩きながら考えていると、汗がやたらに滲(にじ)み出て、佗(わび)しい片側町に莢竹桃(きょうちくとう)だけが重く汚れた花をつけているのが、いやに暑苦しく思われた。一体あの男にあんなに精魂詰めさせる情熱とは何か。芸術の名に於て猿公の洋服をつくるなど、悪魔に魅入られた者ですら考え得ない悲惨な行事だが、考えてみると一度は逃がしてやろうと試みもしながら、今度は改めてあの「お爺さん」にストレート・ジャケットみたいな洋服を着せてやろうと思い付く私自身も、言わば同じく情熱の奇怪な偏向から逃れられないでいるのだろう。裁刀を逆手にかまえてあの服屋が確めようとしているのは、服型のバランスではなくて、胸にしまった平衡器の狂った目盛なのだろう。そう思うと私は腹に重たく沈みこんで来るものを感じながら疲れた瞼をあげると、埃の街道を小うるさく行き交う荷馬車の響きが耳におちて、荷曳(にびき)も馬も嘔(は)きたくなるような黄色い麦藁帽(むぎわらぼう)をかむっているのが何とも目に恥みた。掌を額にかざして陽を避けながら歩いて来るうち、曲角に小さな風呂屋があって、私はやり切れなくなって何となくそこへ飛び込んだ。毎夕河原で水は浴びているのだが、脂肪の層で身体中がべとべとになつているような気がする。狭い脱衣所で衣類を脱ぎ、ぬるい湯槽に顎(あご)までひたると私は思わず大きな溜息が出た。咽喉(のど)のところまで何か黒いかたまりが上って来るような気がする。手拭いで顔をぬらして、ふと見ると私の顔の前に、湯から生え出た茸みたいな首があつて、あはっというような咳(せき)をして、待ちかまえたように私に話しかけた。

[やぶちゃん注:「ストレート・ジャケット」「straightjacke」。凶暴な人を拘束する手段として、腕を胴体に固く縛り付けるために使われるジャケットのような拘束着のこと。]

「そこでこないだの話はどうなりましたかな」

 何のことだか判らない。人違いをしているのだろうと思つて私が他をむいていると、

「お金のことならなんぼでもお出し致しますがな」

 それではっと思い出すと、それは少し驚いたことにはあのスパッツを着けた老紳士の顔であった。生真面目そうな口調でおそろしく抑揚のない声なので、心の中では何を考えているのか知らないが、それにしても、まだこんなことを言っているのかと私は束の間の平静を乱されて少し腹立たしくなって来たが、男の首は探るように私を眺め廻しているのであった。先程の服屋といい此の老人といい、何と妙な処に力感を入れて来るのだろうと、黙って手拭いで頭を濡らしながら見返しているうちに、ふと私の胸にある企みが湧いて来て、私はよく考えもしないで口を開いていた。

「なんぼでもって、いくら位出す積りです」

「そりや、二千でも三千でも、おっしゃるだけすぐ持って参りますよ」

「二万円なら如何ですか」

 大へん驚いたらしく老人は変な咳を二三度したが、「二万円。二万円」と探るように呟き始めた。比の前の時は少しねじが狂った感じであったが、今日は顔だけ眺めているせいか仲々まっとうな感じで、ふとこちらが狂っているような錯覚に落ちた。たかが一匹の猿に二万円出せなど、少し気が変らしいと、老人が考えているのではないかと思うと、少し居づらくなって湯槽を出ようとしたら、老人は手拭いで湯をぴちゃぴちゃ叩(たた)きながら、

「いやあ、またいずれ」確かな声音であった。

 追われるように服を着けながら、思えば異常も正常も人間の決めた約束ごとで、ことに今の乱世では各自が自分の信じることを行うことが真実で、他人を異常と思うこと自身が既に正常ではないのかも知れないと考えた。そしてあの老人が、どうにか二万円持って来るのではないかという気が一寸したが、風呂屋の外に出てみたらもう老人のことなど忘れてしまった。また暑い道を歩いた。

 河原の天幕小舎にもどって楽屋に入ると、雰囲気が何となくざわざわしているから、弓子をつかまえてどうしたのだと訊ねると、また「お爺さん」が逃亡しようとしたのだと言う。柱につないだ鎖の環がどういう訳かはずれていて、やっと追いつめて捕えたけれども、ずいぶん引搔かれたものもいるらしい。私が居れば或いは私に疑いがかかる処だが、此の前のいきさつもあつて今度は三光に疑いがかかり、それで一揉(ひとも)めしたとの話だ。見ると三光は渋団扇(うちわ)のように張った肩を柱にもたせ、衣裳箱につながれた「お爺さん」の顔をじっとにらんでいた。あの日以来団長の命令で、懸賞力比べの演(だ)し物は廃止となり、そのため三光はひどく自尊心を傷つけられたらしく、楽屋で休んでいる時など突然大声を立てて衣裳箱を目よりも高く持ち上げてみたり、夕食の粉団子を他人の五六倍も食べて見せたり、少し奇矯な行為が多かったが、しかし私には三光が猿の鎖を解いたとは信じられない。三光の持っている自意識とは、せいぜい惚れた女にさげすんだポーズを見せる程度の気持の裏返しなので、猿の鎖を解き放つような高遠で愚劣な所業を犯す筈がない。頃日(けいじち)揚言したというように思い立てば猿鍋にしていきなり食ってしまうに違いないのだ。眺めている中に私は此の古びた麵麭(パン)のような筋肉のかたまりが大へん気の毒になって来たので、慰めてやろうと思って近づいて行くと、「お爺さん」をにらんでいたように見えた彼の眼は実はぼんやり疲れをたたえていて、見開いているだけで、私の跫音(あしおと)に鈍く振り向いたが、それと認めるとへんに物憂い調子でひとりごとのように言った。今まで考えていたことの続きを、ふと脈絡もなく口にしたという具合だった。

うんこの垣根とは、ありゃ何のことだい」

 そして打ちのめされたような笑いを頰にうかべたが、今度は聞えるか聞えないほどの幽かな声でささやいた。

「今朝は弓子と何をひそひそ話してたんだい。俺の悪口か」

 こう私にささやきかけながら、その癖三光の眼は遠くばかり見ていて、私の方は少しも眺めていないのであった。この男が猿の鎖を解くわけがないのだ。誰か他の人間が解いたに違いないのだ。誰だか判らないし、勿論私ではない。しかしそれはどうも三五郎であるらしい。その後の情勢から見て何となく私はそう思う。

 それはそれから三日後のことで、客を打出して後、川上の農家から物交(ぶつこう)[やぶちゃん注:物々交換。]で仕入れた焼酎を、私が河原で夕涼みがてら傾けようと楽屋の裏口まで出て来ると、今まで河水を浴びていたらしく三五郎が身体を拭きながら戻って来るのとぱったり逢った。三五郎は私が抱えた瓶をじろりと眺めたが、一寸険しい声になって、何処へ行くのだ、と私に聞いた。河原で飲もうと思う旨を答えたら、硬ばった笑いを頰に浮べて、

「なるほどな。祝い酒という訳か」

 ひどくさげすむような調子なので、まだ「お爺さん」のことにこだわっているのかと、私も悲しく立ち向う気配を見せて、

「そりや悪かったな。しかし酒でも飲まなきゃ自信が出せないからな」

「酒のむのはお前の勝手だが、洋服の進行状態は一体どうだい」

「もう仮縫(かりぬい)が出来上って来る頃だ。気になるのか」

「しかしそれをお前は爺さんに着せるつもりか。爺さんが舞台に出る前に此の曲馬団が潰れることは、お前だって百も承知だろ」

「そんな事が俺に判るものか。どうせ潰れるものなら俺は只あの気の毒な爺さんに一度は晴の舞台を踏ませてやりたいと思うだけよ」

「そいつは存分ひねくれた言い方だな。そんな事ばかり考えているから、爺さんが腹を立てて逃げ出そうとするんだ」

 さては鎖を切ったのは三五郎だな、と私がその時気が付いてそう言おうとすると、三五郎はおっかぶせて、

「で、売渡しの話はもう済んだのか」

「それはどういう意味なんだ」

「白ばくれているな。何もかも判っているんだぞ。前の町の追手と何時の間にかこそこそ連絡しやがって」

 言う事の意外に私は驚きながら、

「お前が言うのは町長に似たという男か」

「そうよ。団長が怒っているのもそのせいだ」

 私の思い付に賛成して置きながら、あの時それを覆(くつが)えして私を罵(ののし)った団長を、私は絶望しかかった人間の末期的症状とばかり思っていたのだが、しかしそれにしてはどうも変だと感じられたのも、こんな奇妙な罠(わな)があったのかとむしろ可笑(おか)しくなりながら、

「お前達はほんとにやくざな人間だな。そんな出鱈目(でたらめ)をなぜ信じ込んでいるのか。祝い酒とはそんな積りで言ったのか」

「まだ白を切る。では聞くが此の前猿を逃がしかけた男が、何で発心して洋服を着せようというんだ。そんな男の言うことが信用出来るか」

「そりゃ、お、おれの心の問題だ。お前に何の関係があるか。お前の怒った顔はお爺さんそつくりだぞ。俺の真似して爺さんの鎖を切ったりして、自分だけ無傷でいようなど飛んでもない話だ。道化とは嗤(わら)う精神だと言ったじゃないか。嗤う精神とはな、自分を投げ出す処から始まるんだ」

「いいようなことをよくしゃべるな。片腕投げ出すみたいに行くものか」

「そんな事を言うのか。三五郎。そんな眼付で俺を見るのは止せ」

 三五郎はキラキラ光る眼で私の右袖をじっと眺めていたが、

「お前は俺を憎んでるんじゃないだろう。お前は失われた自分の片腕を憎んでいるのだ」

「そう思うならそれで結構だ。たとえばお前がお爺さんを憎むようにな」

「憎むものか。傾が憎むものは人間のひねくれた根性だ。はっきり言って置くが、此処が潰れて皆失業者になって、その時一番困るのは片輪のお前だぜ。俺なんざどうでもなる」

「三五郎」と私は呼びかけた。「俺はな、俺の右袖をチラチラ気の毒そうに眺められるより、今のように片輪だとはっきり言って呉れる方がよっぽど有難いのだ。ところがお前は、片輪などと言ったら俺が参ると思っているのだろう。俺は此処を潰そうなどと、そんなけちな事を考えゃしない。俺が潰したいのは他のものだ。そう言ったってお前には判りゃしない。まだお前は、俺が追手と密談したなどと、痴(たわ)けた中傷を信じているだろう」

 そう言い捨てると私は瓶を抱きかえ、背中いっぱいに三五郎の視線を感じながら歩き出した。私の心は重く暗かった。何か私の知らない罠みたいなものが周到にあちこち張りめぐらされていて、それが人と人との関係を縦横に歪めているらしいのだが、その歪んだ流れの中に私も何時しか引きこまれて、何にも判らないうちに私は溺れかかっているらしい。人間は誤解の形でしか他人を解釈出来ないものだろうけれども、ことによると私は私自身を誤解しているのではなかろうかという疑念が、荒涼たる形で私の頭の中に拡がって来た。

 私は河原の夏草の薄い斜面に腰をおろした。ここから天幕小舎は一望の間に見えるのである。斜陽を受けた天幕はその灰色の生地をかくして、緑や金にきらめいて見えるのだ。生地に残った胡粉(ごふん)が光線の加減で輝くのである。私は瓶の栓を口で抜き、静かに唇をあてた。咽喉(のど)を焼いて強烈な液体が胃に流れて行った。そして暫(しばら)くすると身体中が熱く疼(うず)いて来た。私はまた静かに唇をあてる。

 先刻の会話が何かかなしく後味を引いていた。私は酔いが次第に廻って来るのを感じながら、右袖を後ろにはねた。なぜ私はあんな心にもないことをしやべったりするのだろう。あの痛いもののように私の腕をぬすみ見るたくさんの眼を、私はその時想い出していた。私は憐れまれたくないのだ。酔いに沈んだ頭の片隅でそう考えた。憐れみを憎むこととは、しかし何だろう。それを拒むことで私は何を得たのか。そして私が探りあてたと思ったものは鉱石の露床ではなくて、何かどろどろした汚物であったのかも知れないのだ。

「糞土の牆(しょう)だって何だって良いや」と私は呟いた。そうしてまた瓶を傾けた。その時瞼のうらに突然、延々と重なりつづく黄色の宏壮な壁の幻が蜃気楼(しんきろう)のように浮び上って来た。それは私が大陸で、片腕を失った瞬間に眺めていた城壁にも似ていたが、またもっとなまなましく身に迫る堆積(たいせき)のようでもあった。ある灼熱感が私いっぱいを満たしていた。その束の間の幻を破って、雲を脱けた斜陽が河水を弾(はじ)いた直光となつて、ぎらぎらと瞼に沁みて来た。 

 

「お爺さん」の洋服が出来上って来たのはその翌日のことである。昼過ぎから風が立って河原の玉萄黍(とうもろこし)がいっせいになびいた。天幕小舎の上を風が乾いた音を立てて渡り、その度に帆布はばたばたと騒いだ。

 舞台の袖の床に釘が出ていて、せんから往き帰りに靴が傷(いた)むということなので、釘抜で私が引抜きかけていると、出を待っていた弓子が気味悪そうな声を立てて、

「また来てるわ。あの人」

 と呟くのが聞えた。何だいと私が訊ねると、弓子は変な表情で私を向き、しばらく黙っていたが、

「あの人よ。町長さんよ」

 冷淡な口調で、その眼付も今まで弓子に見たことがない堅い色であった。私がどうかしたのかと立ち上り、袖から客席をのぞくと平土間には四十人程の客がまばらに散っていて、その一角を弓子は鋭く指しながら、耳の傍で低く険しくささやいた。

「こないだあの人と河原で話してたというんじゃないの」

 その言い方が変に憎しみに満ちているので、もうこんな女の子にまでその中傷は行き渡っているのかと、弓子の指す方向に瞳を定めたとたん、私は思わず何か叫びかけて口を抑えたのだ。

 粗板を渡した腰掛の上に上体を少し反(そ)り、顔をあちこち動かしているのは、紛(まぎ)れもなくあのスパッツの老紳士であった。そして、彼の視線が偶然、袖からのぞいた私に落ちたらしく、頭を固定させたまま腰を浮かすらしかった。

 あわてて顔をひっこめて弓子と顔を合わすと、先刻からじっと私の挙動を見詰めていたらしい弓子は、唇を一寸歪めてはきすてるように言った。

「あんたも変な人ね」

 変なのは私じゃない、皆じゃないかと、私は急に可笑しくなって来て、返事もしないで弓子を見返している中、考えてみると誤解の内容があまり簡単なので、弁明すればするほど、私は疑いを増されるような具合で、だいいち親爺に似ているから猿をゆずってくれなどと、いくら血迷った一座の人でも信用しないだろう。そしてそれを私が半ば信じているということをどんな風に説明したらいいのだろうと考えていると、何か訳の判らない不安なものがじわじわと私の胸の中に拡がって来た。それは奇妙に浅く底が割れたからくりの奥に、自分等の漠然とした脅(おび)えをあの老紳士に仮託していた一座の人々の心情の在り方が、俄に破局的な感じで私を貫いて来たのである。

 それは誠(まこと)にいやな予感を伴っていたので、それを押し殺しながら顔を背けて私はもとの仕事に取りかかろうとした時だった。私はきっと可怖(こわ)い表情をつくっていたに違いないと思う。縛って釘抜を拾い上げようとしたら、弓子が急に大きく息を引いたので、首をねじむけようとすると、楽屋の天井を洩れる青い光が少し乱れて、裏口の扉がぎいと鳴った。そして背光に黒く浮き上ってきたのは、身体の恰好であの服屋だとすぐに判った。釘抜を取りおとして私は立ち上った。釘抜は床でポクッとにぶい音を立てた。

「仮縫だ」と服屋は私を認めて静かな声で言った。「猿をつれて来い」

 近づいて見ると風の為か服屋の髪はばらばらに乱れていて、小脇には小さな洋服箱をかかえていた。床におろして開くと白い縫糸の筋を入れた小さな洋服が、服屋の憎悪のかたまりのように茶色に整然と畳まれて納っていた。服屋は長い指で髪を乱暴にかき上げた。

 暫くすると団長やその他の連中がぐるりに集って来た。舞台では三五郎の芸が今終る処らしく、散らばった笑い声が風の音に交って流れて来た。

「お爺さん」は服屋が入って来た時から、此の前の日の記憶を取戻すらしく、三本足[やぶちゃん注:ステッキを突いているのである。]で立ち上ってしきりに身をしざらせた。そして帆布の壁に背をあててこちらを燃えるような眼で眺めた。風が吹きつける度に「お爺さん」の部分をのこして、帆布は内側にわかれてふくらんで来た。それは丁度厨子(ずし)の中に納った邪神の形であった。「お爺さん」の眼は緑玉のようにきらきら光った。

 弱い者を犯すような厭な気持に堪えながら、鳴き叫ぶ「お爺さん」を私はしっかと押えつけていた。手の中で柔かい癖にこりこりした「お爺さん」の肉体が神経的に慄えていた。妙に官能的な嗜虐(しぎゃく)と、それへの嫌悪が一緒になって、私は力みながら服を着せる服屋の据を眺めていた。それはもやしのように青白く長い指であった。それを見守る皆の顔が、いちように私と同じ表情を浮べていることを、私は皮膚ではっきり感じ取っていた。

 チョッキの釦(ぼたん)がはめられ、上衣の袖を通す時、細い「お爺さん」の腕の毛が、逆さにざらざらとけば立った。手首まで抑えられた「お爺さん」の薄赤い掌が、私の右袖の袋の先をしっかり握りしめていた。

 発作のような鳴声が次第に低くなってきた。服を着せるために外した鎖が、衣裳箱からずるずると流れ落ちた。着付が終ったのだ。

 私は汗でべとつく手を離して立ち上った。

 何時舞台から降りて来たのか、三五郎が道化服のままひっそりと私の側に立つていた。赤インキを丸く塗った頰がそのまま硬ばって、一寸別人のように見えた。

「似合うじゃないか。立たせて見ろ」

 団長がかすれた声で言った。ひどく苦しそうな表情であった。

 その時裏扉をコツコツと叩く音がした。風に交った礫(つぶて)が吹きつけるのかと思ったら、間を置いてまた叩く音がした。

「誰だね」と私が怒鳴った。

 ギイと鳴って扉が半分開き、半白の頭がゆるやかに現われて来た。そして身体が扉を押して入って来た。私は逆光の中でその男の細い縞ズボンと赤靴の間に、うす白く汚れたスパッツを見た。しまった、という感じが起る前に私は周囲のざわめきが一挙に凝縮する気配を感じて、思わず身体を硬くした。いま時どんなつもりで此の老人は此処に入って来たのか。先刻私を見て腰を浮かしかけた姿が急によみがえって来た時、もはや老人は私に視線を定めて、例の生真面目そうな抑揚のない口調で口を開いた。

「つかんことをお願いに上りましたが、あのお金の話でございますが――」

 そして老人は此の座の変な気配に気付いたらしかった。そこで言葉を切ると頭をかしげてうかがうような瞳色となったが、衣裳箱の上の「お爺さん」を直ぐに認めたらしい。二三歩前に出ながら間のぬけた感嘆の声を立てた。

「ほお。洋服を着ておいでになる」

「お金の話とは何だ」

 団長がかすれた声で誰に言うとなくあえいだ。誰もしんとして返事しなかった。

 皆の視線が私に集中しているので、身じろぎも出来ないのだが、しかし私が何とか口を開けば一挙に混乱におちるだろうという重苦しい予感が、なおのこと私をしめつけていた。私は瞼[やぶちゃん注:ママ。これでもシチュエーションからは私はおかしくないと思う。]をやっと動かして「お爺さん」に視線をうつした。「お爺さん」は衣裳箱の上に後足で立ち上っていた。そしてしきりに服の胸の部分をかきむしる動作を操り返していたが、脚が何か重みに堪えかねてくず折れるようすであった。ズボンの先からは黒い蹠(あし)がふるえていた。胸をかく動作は何かもだえる形に見えた。その姿体は人間のもだえる姿よりもつと深く真面目であった。錐(きり)を刺されるような苦痛を感じながら、私はじっと眼を動かさないでいた。「お爺さん」を眺めていることよりも、それに視線をしばられていることの方が苦しかった。私は頰の先にも、三五郎の刺し通すような視線をぴりぴり感じているのである。

 またひとしきり風が吹きおこって、天幕に砂利を吹きつけた。帆布が鳴りながらふくれ上る。朽ちた止金が厭な軋(きし)みを立てつづけたと思った時、釘がはじけ飛んだらしく微かな音が木材にぶっつかり、帆布の一部がぱっと捲(まく)れてひらひらと翻(ひるがえ)った。風はそこからどっと吹き入った。思わず顔をおおおうとして、私は「お爺さん」の脚が急激に曲げられたのを見た瞬間、「お爺さん」の身体は黒いかたまりになって風に逆(さから)って外の方に飛んだ。

「逃げた!」

 誰の声だか判らない。視界が突然入り乱れて、私も立ち上ろうとした時、糞ッと言う声と共に道化服の華美な色調が一ばいに迫って来て、何だかそこらが無茶苦茶になって、人の足や手が動き廻り、音が鳴りひびいて皆が猿を追っかけるらしい。何が何だか判らない中に私はしっかと三五郎から組み伏せられていた。

「貴様が。貴様が!」

 あえぎながら罵る三五郎の身体から、私は左肩を下にして抑えつけられていた。三五郎の両脚は私の胴をからんでいて、私の咽喉首(のどくび)を三五郎の熱い手がしめつけていたのだ。床が肩に烈しく当り、骨がごろごろと無気味な音を立てた。三五郎の指がきつく咽喉に食い込んで来るので、私は左手を床から抜こうとあせるのだが、右肩の支えがないので、ただ上半身がくねるだけであるらしい。汗で滑るのを追っかけ追っかけ、三五郎の指が頸動脈(けいどうみゃく)を圧して来て、私はもう少しで頭がしびれるような気持に落ちながら、顔を必死の努力で横に倒した。捲れ上った天幕の穴から、土手の一部が区切られて見えた。

 その一瞬の区切られた風景の中で、土手の端を「お爺さん」は茶色の服をまとったまま凄まじい速力で駆けていた。豆粒ほどの上衣の裾が風にはためいていた。その七八間[やぶちゃん注:約十三~十四メートル半。]後を色んな人が走っていた。長靴をつけた団長もいたし、細いズボンの老人もいたし、髪をなびかせた服屋もいた。両手を上にあげるような走り方で、皆そろって大豆粒ほどに見えた。頭に血が来ないせいか風景が黄色く色褪(いろあ)せて、古絵のような現実感のうすい背景の中を、小さい人と小さいけものは素晴らしい速度で駆けていた。土手は黄色く色彩を喪(うしな)い、まるで城壁みたいに凹凸がなかった。もはや幻影に近い黄色の城壁の上をさんさんたる陽光にまみれながら駆け行く群像の影絵は、既に人間やけものの属性を失って、奇怪な悪夢のような人形芝居の一場面であった。

 ある灼熱(しゃくねつ)が身体から手脚の先に電流のように走った。言いようもない深い烈しい悲哀の念が私の胸を荒々しくこすり上げて、私は充血した顔から頭から、汗とも涙とも知れぬ熱いものをいっぱい吹き出しながら、はずみをつけて三五郎をはねとばすと、左手をあげて転がった三五郎の身体の上に猛然と摑(つか)みかかって行った。

  

小泉八雲 夢飛行  (岡田哲藏譯)

 

[やぶちゃん注:本篇(原題“ Levitation ”。私は心霊学や超能力絡みの妖しい語句である「空中浮揚」と訳してもみたい衝動に駆られる)は一九〇〇(明治三三)年七月にボストンの「リトル・ブラウン社」(LITTLE,BROWN AND COMPANY)から出版された作品集“ SHADOWINGS ”(名詞「shadowing」には「影」以外には「人影」・「影法師」・「影を附けること」・「尾行」などの意味がある。本作品集の訳は概ね「影」が多いが、平井呈一氏は「明暗」と訳しておられ、私も漠然とした「影」よりも、作品群の持つ感性上の印象としてのグラデーションから「明暗」の方が相応しいと思う。来日後の第七作品集)の第一パート“ STORIES FROM STRANGE BOOKS ”・第二パート“ JAPANESE STUDIES ”(「日本に就いての研究」)の次の最終第三パート“ FANTASIES ”の第四話目に配された作品である。本作品集は“Internet Archive”のこちら(出版社及びクレジットの入った扉表紙を示した)で全篇視認できる(本篇はここから)。活字化されたものは“Project Gutenberg”のこちらで全篇が読める(本篇はここから)。

 底本は英文サイト“Internet Archive”のこちらにある、第一書房が昭和一一(一九三六)年十一月に刊行した「家庭版小泉八雲全集」(全十二巻)の第七巻の画像データをPDFで落として視認した。【2025年4月16日:底本変更・正字化不全・ミスタイプ・オリジナル注全補正】時間を経て、国立国会図書館デジタルコレクションに本登録し、現行では、以上の第一書房版昭和一一(一九三六)年十一月に刊行した「家庭版小泉八雲全集」(全十二巻)の第七巻が、国立国会図書館デジタルコレクションで公開されてある。(リンクは扉だが、「家庭版」の文字はない。しかし、奥附を見て貰うと『家庭版』とあり、『昭和十一年十一月二十七日 發 行』とあることが確認出来る)、これが、前掲の底本と同じものであるが、やはり、外国のサイトのそれを底本とするのは、日本人小泉八雲に失礼であると考えた。されば、こちらで、再度、以下の「骨董」の作品群を改めて校正することとする。これが――私の小泉八雲への「義」――である。なお、これよりも前の元版の全集等が先行しているものの、私がそれらと比べた結果、実は先行する同社の「小泉八雲全集」のそれらは、訳が一部で異なっており、訳者等によって、かなりの補正・追加がされていることが、今回の正字補正作業の中で、はっきりと判って来た。いや、同じ「家庭版」と名打ったネット上の画像データでも、驚いたことに、有意に異なっていたのである。そうした意味でも――完全な仕切り直しの総点検――が必要であると決したものである。従って、旧前振りの括弧・鍵括弧の問題も、拡大とガンマ補正で確認し、正確を期する。本作はここから。添え辞附きパート中標題はここ

 訳者岡田哲藏氏については先行する「小泉八雲 夜光蟲(岡田哲藏訳)」の私の冒頭注を参照されたい。

 傍点「○」は太字下線に、傍点「﹅」は太字に代えた。

 

 

 

   夢 飛 行

 

 或る階上の窓から私は黃色の家屋の街路を眺めて居た、――或る植民地の舊式な、狹い街路、その瓦の屋根の上には椰子の梢が見えて居た。影は何處にも無い、日が出て居らぬ、――ただ早い黃昏の樣な灰色の柔らかい光ばかり。

 突如、私は窓から落下する自分を見た。私の心臟は恐ろしさに惱ましく一躍りした。然るに窓から舗道迄の距離が豫想より餘程長く、私は恐れながら、不思議に思ひ出した。それでも落ち、落ちつづけた、が恐れた擊突は來たらぬ。それから恐れが止んで、妙な快さとなつた。私は急に落下せずに、ただ流れ下るのがわかつた。その上に私は足を前にして浮いて居る、降る[やぶちゃん注:「くだる」。]うちに向きが變つたに違ひない。終に石に觸れたが、極めて輕く、しかも片足だけで、すぐに私はその觸接でまた上に行つた、軒の高さに登つた。人々は立ち止つて私を見つめた。私は人間以上の力の歡喜を覺えた、しばらくは神の樣に感じた。

 それから徐ろに降りはじめ、私の下に集まる人の顏が見えると、見物人の頭上を越えて、街路を飛行するやうに急に決心を促されさた。再び私は泡沫[やぶちゃん注:「しぶき」或いは「うたかた」。]の如く昇り、それから同じ衝動で、自ら驚くばかりの距離まで一大弧線を描いて流れた。私は少しも風を感ぜぬ、ただ勝利の運動の喜びを感ずるばかり。再び鋪道に觸れて一躍して百ヤード[やぶちゃん注:凡そ九十一メートル半。]ばかり翔つた。それから街路の端末に達して、囘轉して驚くべき高度の長い緩かな空中飛躍をして、大きく舞つて飛び返つた。街路は死せる如く靜であつた、多くの人々が仰ぎ見て居たが、何人も談るものは無い。人々は私の業蹟を何と思つたらう、また如何に容易にその事が出來たかを知つたら何といふだらう。全く偶然に私はその仕方を知つた、それが行蹟と見えたのは外の何人も曾てそれを試みたものがないだけの事だ。本能的に私はこの發見に到れる由來に就て何か談るのは不謹愼なことだと感じた。そのとき街路の不思議に靜肅な眞意が判かりそめた。私は自分に云ふた。

 『この靜肅は靜肅である、これは夢であることがよく判かる。以前にもこんな夢を見たことを覺えて居る。然しこの力の發見は夢では無い、これは默示だ。……今や飛行を覺えた以上は、水泳家が泳ぐことを忘れられぬと同じく忘れ得まい。明朝、町の屋根の上を飛んで行つて人々を驚かしてやらう』

 朝になつた、窓から飛び出ようと堅く決心して、私は目覺めた。然し床を離れるや否や身體的關係の知識が忘れた感覺の如く還つて來て、私は何等の發見をしたのでもないといふ眞實をいやいやながら承認せねばならなくさせた。

 

 これはか〻る夢の初めのものでも終りのものでも無い。ただそれが特に生き活きして居たので、私は此種のものの良い例として、談の爲めにそれを選んだ。私は今も折々飛ぶ、――時には野を越え流れを越えて、――時にはよく知つて居る街道を通じて、そしてその夢は屹度過去に於ける似たる夢の記憶を伴なひ、尙ほまた眞に祕密を發見したのだ、本當に新たな能力を得たのだとの確信が伴なふのである。私は自らにいふ、『今度こそ間違ひは無い、目が覺めた後屹度飛べるのだ。以前外の夢のときには度々祕密と覺えたと思つても目覺めると直ぐ忘れるばかりであつたが、今度こそは忘れないに全く極つて居る』と、そしてその確信は自分が床を離れる時迄實際に殘つて居るが、床から起きて體を動かして見ると直ぐ重力の恐ろしい現實を思ひ出す。

 

 此經驗の最も奇妙な點は浮揚の感覺である。それは例へば微溫湯の中で浮沈する樣な、流れ行く如き感覺である、そして何等努力して居る樣な感じが無い。それは嬉しいことだ、然しまだ何か物足らなく思ふ。私は低空飛行者である、鼯鼠や飛の魚の如く進行するのみ、然もそれらよりずつと遲く、それに衝動を新たにする爲めに時々地を踐まねばならぬ。二十五尺乃至三十尺[やぶちゃん注:原文単位はこの数字のままで“feet”。あまり変わらないが、厳密にフィートから換算すると、七・六二~九・一四メートルとなる。]の高さに揚がることは殆ど無い、大槪は地面を掠つて[やぶちゃん注:「かすつて」。]行くに過ぎぬ。僅に數百ヤアド[やぶちゃん注:百ヤードは九十一・四四メートル。六掛けで五百四十九メートル前後か。]行く每に地に觸れるのは樂しい掠り過ぎである、然し私はいつもぼんやりと、下の地が重苦しく自分を牽いて居る樣に感ずる。

[やぶちゃん注:「鼯鼠」原文“a pteromys”。岡田氏は「むささび」と読ませていると推察する。但し、現行では、この原文の単語は、「ももんが」と読むのが正しい。現行の分類上では、

「ムササビ」は齧歯(ネズミ)目リス科リス亜科 Sciurinae  Pteromyini 族ムササビ属 Petaurista

であるのに対し、

「モモンガ」はリス亜科モモンガ族モモンガ属 Pteromys 

であって、ここで小泉八雲が示すそれは、現行では、「モモンガ」の類を指す語となるからである。但し、実は「ムササビ」類はごく最近まで、一部でモモンガ亜科 Pteromyinae に位置付けられていた経緯があり、生物種に対する貧困な認識しかない一般的な英語圏では、恐らく現在でも、両者をひっくるめて、この「pteromys」で呼んでいる可能性が極めて高いものと私は考えている。両者の違いや、博物誌は、私の「和漢三才圖會第四十二 原禽類 䴎鼠(むささび・ももか)(ムササビ・モモンガ)」を参照されたい。

「飛の魚」「とびのうを」。原文“a flying-fish”。条鰭綱新鰭亜綱棘鰭上目ダツ目トビウオ科 Exocoetidae のトビウオ類。]

 要するに多くの夢中飛行者等の經驗は大槪私と同樣であつた。もつと勝れた力を得るといつた人は一人だけであつた。彼は山々を越えて、峯から峯へ鳶の如く飛ぶといつた。外に私の尋ねた人々は皆低く――長い抛物線的の弧を描いて――飛ぶ、然もこれさへ時々地に觸れるのだといつた。彼等は槪ねまた、彼等の飛行は先づ墮落の想像から、または止むを得ず飛び下ることから始まるといふ、そして四人までも階段の頂からいつも出發するのだと云つた。

[やぶちゃん注:嘗つて少年期より親しんで著作の殆んど読んだフロイトは、飛行の夢を「性的高揚感の象徴」としょぼく一刀両断したが、後にスライドして読み耽ったユングの著作では、ポジティヴな自己啓発認識の象徴として、高く評価している。私は、高校時代に始めて、二十代後半まで、夢記述をしており、大学ノートで三冊分以上ある。その中で私は、しばしば空中浮揚――しかも、高高度の雲の上を飛行する夢を――度々、見た。ただこれらは、総て、偏愛する芥川龍之介の「杜子春」(リンク先は私のサイト版。なお、私は原拠である李復言の杜子春訓読語註もサイト版で公開してある)の、杜子春が鐵冠子に連れられて飛翔するシークエンスそのままの使い回しであって、それ以外の異様な飛翔夢は、見たことがないのである。因みに、誰かさんの小説ではないが、年を食った近頃は、飛ぶ夢は全く見ない。「やっぱり、フロイト説が正しい!」などという勿れ。それこそ、夢のシステムにあっては、睡眠中の覚醒している私の超自我が、今は、フロイト説を否定しているが故に、見ないのだ、と私はフラットに思っているからである。寧ろ、小泉八雲が言うように、飛翔する夢は、人間にとって原初的なもので、健全なる精神には――良い――とは思う。]

          *

        *

          *

 幾萬年の間も人類はかく夜間飛行をして居た。實際生活の何れの經驗とも極めて緣無き想像的運動が如何にして睡眠の生活の普汎的經驗となつたのであらうか。

 空中運動の或る種の記憶印象――例へば跳躍又は鞦韆乘[やぶちゃん注:「ぶらんごのり」と訓じておく。]の快活な經驗――が夢に甦つて擴大され引展されて飛行の幻覺を生じたのかも知れぬ。我々は實際の時間に於ける夢の繼續する間は極めて短いことを知る。然し睡眠中の半生命に於ては――(夢魔は或る驚くべき例外を呈するが)――實際の腦作用の迅速なる閃めきと潑剌[やぶちゃん注:「はつらつ」。]たる戰慄と比すれば、漠然たる意識の燻ぶる如きものあるに過ぎぬ、――そして夢みる頭腦には時間は擴大して思はる〻こと、恰もそれが昆蟲の弱き意識に關係的に擴大さる〻と同じであらう。墜落の感覺の何等かの記憶と、之に伴なふ恐怖の記憶が偶然睡眠中に甦るとすると、感覺及び感情の夢中の延長が――自然の結果なる擊突によつて遮られぬときは――空中運動の他の記憶、愉快な記憶すら再現するに足るのであらう。そして更に此等は長き幻影の一切の事件と光景とを呈するに足る相關的記憶の別の連合を刺戟することにならう。

 然しこの假說は覺醒時の何れの經驗とも異れる性質の或る感情及び觀念を十分に說明するに足らぬであらう。例へば、努力せずに隨意に運動する樂み、全然不可能事の樂み、重量全く輕減せる奇怪なる悅びなどは說明が難い。更にまたこの假說は跳躍又は落下の感覺から起こらざる、槪ね快く無い夢中飛行の經驗を說明することを得ぬ。例へば夢魔に魘はれて[やぶちゃん注:「おそはれて」。]居る間に夢みる者が動く力も談る力も無くなつて、實に我が身體が空に舉げられ、心に抱く恐怖の力によつて浮流される樣なことが起こる。また夢みる者が全く形體としての存在を有せぬ夢がある。私も全く身體を有せず、――見ることもなく聲もなき幻となり、黃昏の時に山路に徨ひ[やぶちゃん注:「さまよひ」。]、小さな呻き聲して孤客を驚かさうとしたことがあつた。その感覺は全く意志の行爲のみで空中を通つて動くのであつた、地の表に觸れることも無い、そして私は路上約一尺のところを滑り行くと思つた。

 

 人間よりも昔の生命の狀態、卽ち重量ある生命が羽翼ありて地上を低く、重げに飛びたる狀態の有機的記憶をもつて夢中飛行の旅情の一部分が解釋されやうか。

 それとも萬有に浸徹する超靈が外の時には眠つて居て、睡眠時の稀有なる瞬間に於てのみ頭腦中に目覺むと想像し得ようか、限られたる人間意識は目に見ゆる太陽光線の分光景に美はしく比せられ、若し優越なる感覺が進化せば、現に見えざるその以上及び以下の色の全帶が見ゆるならんと思はれる、そして神祕論者は我々より偉大なる心ある者の見る紫外線又は赤外緣が瞬時夢に見らると稱す。確に我々各自に存する宇宙の生命は空間と時間の一切の形式に於ける一切のもののであつた。恐らくは太陽よりも古き事物の漠たる感覺記憶――卽ちそれは既に消滅したる遊星、そこには重力が稀薄で、自發的運動の正規の樣式は我々の飛行の夢の實現の樣であつた、その遊星の記憶を睡眠の中に搔き起こすことありと、我々は信ぜんと欲するのであらう……

 

 

小泉八雲 ゴシック建築の恐怖  (岡田哲藏譯)

 

[やぶちゃん注:本篇(原題“ Gothic Horror ”)は一九〇〇(明治三三)年七月にボストンの「リトル・ブラウン社」(LITTLE,BROWN AND COMPANY)から出版された作品集“ SHADOWINGS ”(名詞「shadowing」には「影」以外には「人影」・「影法師」・「影を附けること」・「尾行」などの意味がある。本作品集の訳は概ね「影」が多いが、平井呈一氏は「明暗」と訳しておられ、私も漠然とした「影」よりも、作品群の持つ感性上の印象としてのグラデーションから「明暗」の方が相応しいと思う。来日後の第七作品集)の第一パート“ STORIES FROM STRANGE BOOKS ”・第二パート“ JAPANESE STUDIES ”(「日本に就いての研究」)の次の最終第三パート“ FANTASIES ”の第三話目に配された作品である。本作品集は“Internet Archive”のこちら(出版社及びクレジットの入った扉表紙を示した)で全篇視認できる(本篇はここから)。活字化されたものは“Project Gutenberg”のこちらで全篇が読める(本篇はここから)。

 底本は英文サイト“Internet Archive”のこちらにある、第一書房が昭和一一(一九三六)年十一月に刊行した「家庭版小泉八雲全集」(全十二巻)の第七巻の画像データをPDFで落として視認した。【2025年4月15日:底本変更・正字化不全・ミスタイプ・オリジナル注全補正】時間を経て、国立国会図書館デジタルコレクションに本登録し、現行では、以上の第一書房版昭和一一(一九三六)年十一月に刊行した「家庭版小泉八雲全集」(全十二巻)の第七巻が、国立国会図書館デジタルコレクションで公開されてある。(リンクは扉だが、「家庭版」の文字はない。しかし、奥附を見て貰うと『家庭版』とあり、『昭和十一年十一月二十七日 發 行』とあることが確認出来る)、これが、前掲の底本と同じものであるが、やはり、外国のサイトのそれを底本とするのは、日本人小泉八雲に失礼であると考えた。されば、こちらで、再度、以下の「骨董」の作品群を改めて校正することとする。これが――私の小泉八雲への「義」――である。なお、これよりも前の元版の全集等が先行しているものの、私がそれらと比べた結果、実は先行する同社の「小泉八雲全集」のそれらは、訳が一部で異なっており、訳者等によって、かなりの補正・追加がされていることが、今回の正字補正作業の中で、はっきりと判って来た。いや、同じ「家庭版」と名打ったネット上の画像データでも、驚いたことに、有意に異なっていたのである。そうした意味でも――完全な仕切り直しの総点検――が必要であると決したものである。従って、旧前振りの括弧・鍵括弧の問題も、拡大とガンマ補正で確認し、正確を期する。本作はここから。添え辞附きパート中標題はここ

 訳者岡田哲藏氏については先行する「小泉八雲 夜光蟲(岡田哲蔵訳)」の私の冒頭注を参照されたい。

 傍点「﹅」は太字に、傍点「○」(最後に一箇所ある)は太字下線に代えた。

 なお、小泉八雲の大のキリスト教嫌いは夙に知られるが、ウィキの「小泉八雲」から引いておくと、一八五〇年、当時イギリス保護領(現在はギリシャ)であったレフカダ島で生まれた彼は、翌年、『父の西インド転属のため、この年末より』、『母と通訳代わりの女中に伴われ、父の実家へ向かうべく出立。途中パリを経て』一八五二年八月、『両親とともに父の家があるダブリンに到着』し、ここに『移住し、幼少時代を同地で過ご』した。父チャールス・ブッシュ・ハーン(Charles Bush Hearnn 一八一八年~一八六六年:アイルランド人で英国陸軍軍医補)が『西インドに赴任中の』一八五四年(彼は僅か四歳であった)、『精神を病んだ母』ローザ・カシマティ(Rosa Antonia Cassimati 一八二三年~一八八二年)『がギリシアへ帰国し、間もなく離婚が成立。以後、ハーンは両親にはほとんど会うことなく、父方の大叔母サラ・ブレナン』Sarah Brenane『に厳格なカトリック文化の中で育てられた。この経験が原因で、少年時代のハーンはキリスト教嫌いになり、ケルト原教のドルイド教に傾倒するようになった』とある。しかし、本篇を読むに、彼のキリスト教への生理的拒否感は――実は――教会建築や、その荘厳(しょうごん)が幼少期に彼に与えた――グロテスクな感性的トラウマにこそ――その淵源の核心の一つを持つ――と考えてよいように思われるのである。]

 

 

   ゴシック建築の恐怖

 

 

       

 敎義問答(カテキズムス)で所謂理性年齡に達せしよりずつと以前に私は、いやいやながら屢〻敎堂に連れて行かれた。その敎堂は頗る古くて、私にはその內部が四十年前に惡夢の樣に見えた通り明瞭に今も目に見える。其處ではじめて私はゴシック建築の或る形式が誘起する特殊の恐怖を知つた……私は horror(恐怖)といふ語を古典的の意に用ゐる、卽ち幽靈の恐ろしさといふその昔の意味である。

[やぶちゃん注:「ゴシック建築」“Gothic”は、本来は「野蛮・未開」の意を表わす中世イタリア人の語に由来するもので、美術史では、ロマネスクに続くヨーロッパ中世美術の様式を指す。聖堂建築が最も典型的で、交差肋骨で支えられた穹窿(きゅうりゅう:vault(ボールト))や、高く空に向かって尖って伸びる尖塔(アーチ)など、垂直線から生じる上昇効果の強調を特色とする。

「敎義問答(カテキズムス)」“catechisms”。キリスト教信仰を洗礼、又は、堅信礼志願者、或いは、子どもたちに教えるための書物を指し、ここは、まさにその類を指すのである。もともと口頭で教えたところから、文書となっても問答体の形式をとったものが多い。但し、この語はギリシア語の「カテェケイン」に由来し、「問答」の意味はなく、「響く」「聞かせる」を意味する。

「理性年齡」“the age of reason”。但し、特定の若年齢を指すものではない。それはキリスト教の教義を信に理解出来る「魂の年齢」を指すからである。]

 私の子供心の想像は、此經驗の一番はじめの日に、恐怖の根源を置くことが出來た。窓の枯凋[やぶちゃん注:「こてう(こちょう)」。枯れて凋(しぼ)むこと。凋落。]して尖れる形が直に私を怖れさせた。その輪廓に私が眠るときに私を苦しめるお化けの形が見えた、そして直に怪物とゴシック敎堂との間に或る恐ろしい類似を想像する樣になつた。すると高い戶口にも通廊の穹窿形にも、屋根の肋骨形にも交會線にも、私は外のもつと手荒い恐怖の暗示を見出した。𢌞廊の上に影の如く高く聳ゆる、オルガンの前面さへも恐ろしい物と思はれた。『御前は何が恐ろしいのか』と突然訊かれて答へなければならぬとしたら、私は『あの尖つてるところ』と囁いたであらう。それより外に說明が出來た筈は無い、私はただあの尖頭が恐ろしかつたことを知る。

[やぶちゃん注:これは、所謂、「先端恐怖症」が、最初の小泉八雲の精神疾患であったことを如実に示す。私の大学時代の先輩は、かなり、重いそれで、こっそりと鉛筆を削って鋭くしたものを隠しておいて、彼の目の前にすっと出した瞬間、顔が真っ青になったのを思い出す。調べたところ、重度のそれでは、東京タワーを見ただけで気持ちが悪くなることがあるとあった。ただ、私は、その発症機序には、何らかの別な体験が関わっているのではないかと考えている。「乙吉の達磨」で既に述べたが、小泉八雲は左目を十五歳の時、就学していたダラム大学セント・カスバーツ・カレッジ(St. Cuthbert's College。後のアショウ(Ushaw)・カレッジ)の回転ブランコで遊んでいる最中、ロープの結び目が左眼に当たって失明した。以後、左眼の色が右眼とは異なるようになったため、写真は右側からのみ撮らせるようになったのであるが、体験が前後するものの、この失明経験が、少なくとも幼少期の尖ったものに対する恐怖が、後出しのトラウマとして駄目出しで固執化させたとも言えるのではないかと考えている。それは、次の段落の彼の語りが、如実にそうしたフィード・バックを惹起したことを証明していると感ずるのである。

 其の敎堂で私の感じたことは私が化物を信じて居る間は勿論、それが私の心に眞の謎とはなり得なかつた。然るに迷信的恐怖の年を過ぎて久しき後、他のゴシック的經驗が子供の感情を別に復活させ、それは子供の想像でこの感情を說明し去ることは出來ぬと思はせて私を驚かした。それから私の好奇心が起こつた、そして私は恐怖の何等かの合理的原因を發見しようと試みた。私は多くの書を讀み、多く質問したが、神祕はただ深くなるのみであつた。

 建築に關する書は全く失望であつた。その中で見たことよりも、ゴシック建築の恐ろしさに言及した純然たる小說の方が私に印象を殘した、――特に或る作者がゴシック敎堂の內面を夜間に見ると或る巨大な動物の骸骨の内部に居る樣な觀念を抱くといつた告白、及び敎堂の窓を目に比し、その戶を『人を喰ふ』大きな口に比した、よく評判になつて居る比較を尤もと思つた。此等の想像は餘り說明にはならぬ、それらは漠然たる暗示以上に開展されぬ、然しそれらは感情に訴ふるところがあつて、慥に[やぶちゃん注:「たしかに」。]或る眞に觸れて居ると感じた。眞にゴシック伽藍の建築は骨の構造と不思議に似て居る。そしてそれが心に與へる一般の印象は生命の印象である。然しこの生命の印象または感覺は定義を下しかねる、――何等有機的な生命の感覺でなくて、隱れたる魔の生命のそれである。そしてその生命の表現は構造の尖頭部にあると私は感じた。

[やぶちゃん注:「ゴシック建築の恐ろしさに言及した純然たる小說」以下に小泉八雲が挙げる二例の具体的な作品や作家を不学な私は言い当てることが出来ない。識者の御教授を切に乞うものである。]

 高さ、暗さ、大いさの影響で感情を解說しようとする企ては、私には何の價値も無かつた、何故ならば何れのゴシックの伽藍よりも高く大きく、且つ暗くて、建築の別種に屬する、例へば埃及[やぶちゃん注:「エジプト」。]建築の如きものは同樣の印象を生ぜぬからである。故に恐怖はゴシック作りに全く特有の或るものに因るのであつて、この或るものが穹窿の頂上に徨つて[やぶちゃん注:「さまよつて」。]居るのであることは確實だと私は感じた。

 或る宗敎家なる友人が云ふた、『左樣、ゴシック建築は恐ろしい。それは基督敎の信仰の示現である爲めである。他の何れの宗敎的建築も精神の憧憬を象徵するものは無い。ただゴシックがそれを具象して居る。各部盡く攀ぢまた跳る[やぶちゃん注:「はねあがる」。]、上の方はすべて翔り[やぶちゃん注:「かけり」。]また火の如く光つて居る……』と。私は答へた、『君の言には餘程眞があるかも知れぬ、然しそれは私を惑はす謎には觸れない。何故に精神の憧憬を象徵する形が恐怖を生ずるのであらう。何故に基督敎の法悅の表現が驚愕を覺えさすのであらう』と。

 

 尙ほ外の多くの假說を試みても無効であつた。それで私は恐怖の祕密は何となく穹窿の尖頭部に屬すると思はる〻單純にして粗野な悟りに返つた。然し幾年もそれが判からないで居た。終に、終に[やぶちゃん注:強調形として、孰れも「つひに」と読みたい。]或る熱帶地の早朝に、私が椰子樹の堂々たる一群を眺めて居たとき、思ひがけなくそれが現はれて來た。それでもつと前にどうして謎を解けなかつたかと我が愚さに驚いた。

 

 

       

 多くの椰子の種類の特徵は繪や寫眞で見慣れて居た。然しアメリカの熱帶地の巨大な椰子は、今の繪で示す方法では適切に現はし得ぬ、それは實物を見ねばならぬ。高さ二百呎[やぶちゃん注:「フィート。約六十一メートル。]もある椰子を描くことも寫眞に撮ることも出來ぬ。

[やぶちゃん注:通常の単子葉植物綱ヤシ目ヤシ科 Arecaceae のヤシ類は高いもので三十メートルほどが標準であるが、調べたところ、コロンビアのココラ渓谷(Valle de Cocora:標高二千四百メートル)に植生するコロンビアの国樹でもあるヤシ科 Ceroxylon 属ワックス・パーム Ceroxylon quindiuense の高さは六十メートルにまで達することがあると、英文ウィキの同種の記載にあった。但し、同種はコロンビアやペール―北部のアンデス山脈に植生するので、小泉八雲が見たものは本種ではないから、別種ではある。二百フィートはやや誇張があるのかも知れぬ。]

 か〻る樹の群を熱帶森林の自然の環境ではじめて見るのは偉大な驚異であつて、驚いて物が言へなくなる。溫帶で見る何物も――カリフオリニヤの斜面地のもつと巨大な生長すらも[やぶちゃん注:「巨大に成長する別な植物すらも」の意。]――あの偉大な柱列の魔の如き嚴肅さに接する爲めに我々の想像を準備させ難い。その石に似た灰色の幹は一本每に完全な柱である、――但しその柱の洪大な優美は人間の作物に比すべきものが無い。この巨大な柱の天に冲する[やぶちゃん注:「ちゆうする」。空高く上がている。]を仰ぐには、頭をづつと背ろに引いて、綠の薄明りの深淵を通して上へ上へと見上げ、終に森の屋根たる枝や攀援莖の無限の交錯の中の切れ目を超えて遙に――柱頭をわづかに眩視する、それは蒼空の電氣の觀念を暗示する程に目映ゆい空に擴げられた綠の羽の傘。

[やぶちゃん注:『カリフオリニヤの斜面地のもつと巨大な生長すらも[やぶちゃん注:「巨大に成長する別な植物すらも」の意。]』これは高さ百メートル近くにもなる世界有数の大高木でアメリカ合衆国西海岸の海岸山脈に自生する裸子植物門マツ綱マツ目ヒノキ科セコイア属セコイアSequoia sempervirens を指していよう。

「攀援莖」「はんゑんけい」。巻き髭や不定根などによって他の物に絡み付いて伸びる茎。葡萄・葛(かずら)・木蔦などに見られるような蔓状の延伸する茎の一部。朝顔の茎などのように茎自体が他物に巻きついて伸びるものをも指す。]

 

 か〻る視覺が刺戟する感情、それは驚異と呼ぶには餘りに强く、享樂と呼ぶには餘りに氣味惡るい、この感情は何であらう。その最初の衝動が過ぎて――その中に籠められた種種の要素が差の廣い諸〻の觀念の群を動かし出すときに、はじめてそれが如何に複雜であつたかを覺える。個人の經驗に屬する多くの印象は、疑も無くそのうちに甦る、但しそれと共にもつと影の如き感覺の群、――有機的記憶の集積も立ち返る、――何となればこの感情を惹き起こす熱帶地の形態は人類よりももつと古き歷史を有つて居る故に。

 明らかに辨別さる〻樣になる感情の第二要素の一は美的である。そしてこれはその總體として恐るべく美の感覺と名づけ得よう。たしかにその見慣れぬ生命の光景、――沈默にして莫大に、太陽に向つて巨大な渴仰をもて延び上がり、巨人(タイタンス)と爭つて光を求め、下の薄暗いところに這ふ甲蟲に對すると同じく、人間などは見向きもせぬその光景は、一見して覺えられ、永久に忘れられぬ或る簡單な驚くべき詩句のリズムの樣に心魂に徹する。然しその享樂は、その最も生き活きしたときですら、奇妙な不安に掩はれる。怪奇、蒼白、裸形で、滑かに擴がる柱の姿は蛇の生の如く、意識ある生を暗示する。我々がその形の冲天の線を眺めて――忍び行く波動の或る徵候、波動のある起原を見附けはせぬかとの漠然たる恐れを覺ゆ。その疑を視覺と理性とが、力を合はせて修正する。然り、そこに運動はある、そして非凡な生命もある、――但し太陽のみを求むる生命――巨大なる日に向つて眞直に、噴泉の吹き出る如く迸る[やぶちゃん注:「ほとばしる」。]生命。

[やぶちゃん注:「巨人(タイタンス)」“Titans”。ティーターン(ラテン文字転写:Tītān)はギリシア・ローマ神話に登場する神々で、ウーラノス(天)の王権を簒奪したクロノスを始め、オリュンポスの神々に先行する古えの神々である。巨大な体を持つとされる。]

 

 

       

 私自らの經驗の間に享樂の波に混ずる或る感情、――それは力と莊嚴と勝利の觀念に關はる感情――が宗敎的敬畏の微かな感覺を伴なふことを認めた。思ふに近代の美感は宗敎的感情主義の種々の遺傳的元素と入れ交つて居るので、敬畏の感情と離れて美の認識は起こり得ぬ程である。それは何れにしても、私が眺めて居るうちにか〻る感情が自ら判然となつた、――そして直に大なる灰色の幹が通廊の巨大な柱と變じ、夢の高所から突然、私の上にゴシック的恐怖の古い暗い戰慄が降つた[やぶちゃん注:「くだつた」。]。

 それが消え去る前に、私はそれは薄暗がりに立ち上る、それ等の巨大の幹を見た爲めに昔の伽藍の或る記憶が甦つた爲めであることを認めた。然し高さも、暗がりも、記憶を越えた何物をも說明し得なかつた。それ等の椰子程に高く、しかし上に古典的な圓柱上部を支へた柱はゴシック的恐怖に似たる不安の感覺を呼び起こし得ぬ。このことは慥だと私は思つた、――何故なら私は何等の困難無く直にか〻る建築の表面を想像し得たからである。然るに忽ち心の中の畫が亂れた。私は圓柱の間の各〻の空處に軒緣が上方に腕を差し出し、そしてそれがまた圓くなりまた、尖りて巨大な穹窿の列になると見た、――すると再び暗い戰慄が私の上に降つた。同時に私の心に神祕の解釋が閃めき出た。私はゴシック建築の恐怖は奇怪な運動の恐怖なることを了解した、――そして恐ろしさは穹窿の尖頭に有ると思つたのは、か〻る運動の觀念は主として穹窿の弧線が相觸る〻非凡の角[やぶちゃん注:「かく」。角度。]によつて暗示される爲めであることを知つた。

 

 熟練せる眼にはゴシックの穹窿の弧線は植物生長の或る弧識線と著しき類似あることが判かる、――恐らく梅が枝の弧線が特に暗示されやう。然し建築形式は何等の植物の比較が說明するより以上のことを暗示することに注意せよ。二條の梅の梢の相違ふは實にゴシック穹窿の一種を作るらしい、けれどそんな短い穹窿の效果は著しく無い。眞のゴシック穹窿の不可思議なる印象を自然が反復せんとせば相觸る〻冠部の枝は、弧線の長さに於ても、彈力性の力に於ても、植物界に存する其種の何れよりも遙に超過することを要す。ゴジック穹窿の見映[やぶちゃん注:「みばえ」。]は全く勢力の暗示に賴る。二つの短き芽生[やぶちゃん注:「めばえ」。]の線の交叉はただ發育の微弱なる力を暗示し得るのみ、然るに中世の高き穹窿は直に自然のそれに超過する發揚力を示すと見ゆ。而してゴシック建築の恐怖は發成する生命の暗示にのみ存せずして、超自然的なる莫大なる勢力の暗示に存す。

 

 いふ迄もなくゴシック形式の不思議さに壓迫された子供は、未だ受けたる印象を解剖することは出來ぬ。彼は了解することなくして嚇かされる。彼は尖頭や弧線が植物生長の本則の甚だしき誇張を表はす故に恐ろしいのであることなどを察し得ぬ。彼れは形が生きて居る如く見ゆる故に恐る、されどこの恐怖を如何に表示すべきかを知らぬ。何故かと思ふことなく、彼れはこの無言なる力の表現が到るところに上方を指し、且つ貫いて居るのが自然で無いことを感ず。彼れの驚かされし想像力には建築物は睡眠の幻影の如く擴がりて見え、人を嚇す目的を以て高く高く上るかと思はる。人の手に造らると雖、それは死せる石の集塊たるに止まらず、思考し威嚇する或る者、そのうちに交じり、それは暗影ある惡意、多樣の怪物、巨大な崇拜物體となつたのである。

 

2019/10/30

小泉八雲 群集の神祕  (岡田哲藏譯)


[やぶちゃん注:本篇(原題“ A Mystery of Crowds ”)は一九〇〇(明治三三)年七月にボストンの「リトル・ブラウン社」(LITTLE,BROWN AND COMPANY)から出版された作品集“ SHADOWINGS ”(名詞「shadowing」には「影」以外には「人影」・「影法師」・「影を附けること」・「尾行」などの意味がある。本作品集の訳は概ね「影」が多いが、平井呈一氏は「明暗」と訳しておられ、私も漠然とした「影」よりも、作品群の持つ感性上の印象としてのグラデーションから「明暗」の方が相応しいと思う。来日後の第七作品集)の第一パート“ STORIES FROM STRANGE BOOKS ”・第二パート“ JAPANESE STUDIES ”(「日本に就いての研究」)の次の最終第三パート“FANTASIES”の二話目に配された作品である。本作品集は“Internet Archive”のこちら(出版社及びクレジットの入った扉表紙を示した)で全篇視認できる(本篇はここから)。活字化されたものは“Project Gutenberg”のこちらで全篇が読める(本篇はここから)。

 底本は英文サイト“Internet Archive”のこちらにある、第一書房が昭和一一(一九三六)年十一月に刊行した「家庭版小泉八雲全集」(全十二巻)の第七巻の画像データをPDFで落として視認した。【2025年4月15日:底本変更・正字化不全・ミスタイプ・オリジナル注全補正】時間を経て、国立国会図書館デジタルコレクションに本登録し、現行では、以上の第一書房版昭和一一(一九三六)年十一月に刊行した「家庭版小泉八雲全集」(全十二巻)の第七巻が、国立国会図書館デジタルコレクションで公開されてある。(リンクは扉だが、「家庭版」の文字はない。しかし、奥附を見て貰うと『家庭版』とあり、『昭和十一年十一月二十七日 發 行』とあることが確認出来る)、これが、前掲の底本と同じものであるが、やはり、外国のサイトのそれを底本とするのは、日本人小泉八雲に失礼であると考えた。されば、こちらで、再度、以下の「骨董」の作品群を改めて校正することとする。これが――私の小泉八雲への「義」――である。なお、これよりも前の元版の全集等が先行しているものの、私がそれらと比べた結果、実は先行する同社の「小泉八雲全集」のそれらは、訳が一部で異なっており、訳者等によって、かなりの補正・追加がされていることが、今回の正字補正作業の中で、はっきりと判って来た。いや、同じ「家庭版」と名打ったネット上の画像データでも、驚いたことに、有意に異なっていたのである。そうした意味でも――完全な仕切り直しの総点検――が必要であると決したものである。従って、旧前振りの括弧・鍵括弧の問題も、拡大とガンマ補正で確認し、正確を期する。本作はここから。添え辞附きパート中標題はここ

 訳者岡田哲藏氏については先行する「小泉八雲 夜光蟲(岡田哲藏譯)」の私の冒頭注を参照されたい。

 傍点「○」(これのみ)は太字に代えた。]

 

 

   群集の神祕

 

 橋の欄干に倚り下の流の皺や靨[やぶちゃん注:「えくぼ」。水面の潮流の干渉で生じた窪んだ部分。]を眺めたことのある人は、其水は瞬間每に變はりながら微動する表面の姿はいつも變らぬことに心惹かれなかつたものは無からう。此光景の神祕に魅力がある、そしてそれを考究する價がある。それ等の振動する型は我々の存在の謎の象徴である。我々のうちに於ても物質は絕えず無限の流と過ぎて變はりゆく、然るに形は、常に種々內に相鬩ぐ[やぶちゃん注:「あひせめぐ」。]力に激せられながら、多年に亘りそのま〻に殘る。

 また或る大都の街路に注ぎては脈搏つ人間の流を觀て誰れか同じく魅せられぬものがあらう。これもまたその流と反流と渦卷を有つ、――それらは都の勞作の海のさす潮と引く潮とにより或は强く或は弱くなる。然し我々にとつてより大なる光景の引力は實は運動の神祕ではなくて、寧ろ人間の神祕である。外面の觀察者としては我々は主として過ぎ行く形や顏に――それ等が人格を暗示し、それらが同情または反感を思はせることに感興を有つ。まもなく我々は一般の流を思はなくなる。何故ならば人間の流の原子は我々の目に見え、我々は彼等の步むを見、彼等の運動は我々自らの步行の經驗で十分說明せらると考へる。然るに目に見ゆる個人の運動は、いつも見えぬ水の分子のそれより一層神祕である。――私は運動の一切の形式はつまり不可解であることは忘れて居らぬ、私はただ意志に賴ると想像されて居る運動に就ての我々の普通の關係的知識は、水流の原子の行動に關して我々の有ち得る關係的知識よりも、もつと少いといふ事實に言及して居るだけである。

 

 大都會に往んだ人は誰れでも、人通りの多い大通を過ぐる人間の流を調節する運動の或る法則の有ることに氣がついて居る、(我々は目前の目的の爲めには、馬蹄や車輪の音喧しき[やぶちゃん注:「かまびすしき」或は「やかましき」。]、生命ある川の複雜な中流に就て考へなくともよい、私は唯だ側方の流に就てのみ談らうとする)そのどちらかの步道にて、群集は自然に上りと下りの二つの流に別かれる。一方に行く人々は右側を通り、他方に行く人々は左側を通る。此等二つの流の何れかと共に動けば速かに進めるが、我々はそれに反對しては行かれぬ、唯だ醉漢や狂人のみがそんなことをする。二つの流の間には、壓力の理によつて、個人が互に左に右に斷えず自己排除を行つて居る。かく讓り且つ逸れる樣は、二重の流を畫くときに上りと下りとの電光形の中間線で示されやう。この不斷の讓步がありてこそ進行は可能になる、それが無くては相反する兩流が忽ち側面の壓力の爲めに互に立ち止まりになる。然しこの系統的な自己排除が硏究の價あるところは街の角に於ての如く二つの群集の流が相互に交錯する點である。誰れでもこの現象を認めるが、それに就て考へる人は少い。誰れなりと本氣に之を考へる人は其處に神祕の存することを見出すであらう、――それは如何なる個人の經驗も十分には說明し得ぬ神祕。

 

 大都會の人の群れる街路の何れにても、幾千の人々が互に擦れ違ふ爲めに左に右に斷えずわきに寄る。か〻る群中、二人の人間が反對方向から向かひ合つて來るとき次の三の場合の何れかが起こる、――卽ち、相互に讓るか、一人が他の爲めに讓るか、または兩方とも調和するつもりで同時に同方向に步み出で、その誤を改めるとてまた直ぐ誤を反覆し、互に人を遮りつづけて、そのうちに其愚を悟つた方が立ち留まるか、または稍〻激昂した方が相手を一方に押し退ける。然しか〻る誤は比較的に少く、槪して必要な讓步が速かに正し行はれる。

 勿論すべて此の自己排除を調節する或る一般法則がなければならぬ、――それは最小抵抗の方向に於ける運動の普汎の法則と一致する法則である。我々はこの事を覺るには何れの人の群れる街路でも半時間も注目せば足る。然し法則はさう容易に見出されまたは形造られぬ、この現象には種々の謎がある。

 

 我々が群集運動を嚴密に硏究すれば、相逢うて一人が道を讓る場合は、二人共に道を讓る場合より餘程少いことを認めるであらう。然し少し反省すると、相互讓步の場合でも一人の方が必らず相手より早く讓るに相違ない、――但し聳動[やぶちゃん注:「しようどう(しょうどう)」。驚かし動揺させること。また、恐れ動揺すること。]表現の時の差は――屢〻然る如く――全く判からぬ程であらう。蓋し身體上及び精神上の性格の總量は二人の人間に於て精密に同一であり得ぬからである。如何なる二人も知覺と意志の能力が全く同じであることはない、また精神上及び身體上の活動に現はる〻經驗の性質が全く同じであることも無い。故に一見すれば相互讓步と見ゆる場合にも、讓步は實は連續的であつて同時では無い。こ〻に『個人方程式』と呼ばる〻事が、相互讓步のあらゆる場合に一人は必らず他人よりさきに讓ることを證明するとも、それで讓步が相互的で無い場合の個人の聳動の神祕を毫も說明せぬ、我々は或る時は自分に向つて來る人に讓步させ、また他の時には此方で讓步せねばならなくなるのは何故なるかをそれは說明せぬ。この感情の起原は何か。

[やぶちゃん注:「個人方程式」これは原文では“the "personal equation"”で、これは現行では一般的には個人差(個人誤差)と訳される。平井呈一氏は恒文社版(一九七五年刊)の本篇の訳「人ごみの神秘」のここでは、『かりに「個人方程式」と名づけるものがあったとしたら、相互譲歩のあらゆる場合に、一方がかならず相手よりも先に譲歩することが立証されるかもしれない。』と訳しておられる。しかし、小学館「日本大百科全書」の「個人差」の中に「個人差研究の歴史」があり、そこには『その科学的研究は19世紀から始まった。天文学者F・W・ベッセルは1816年にグリニジ天文台の観測記録を調べているうち、1796年に同天文台助手の1人が観測の時間誤差が大きい(およそ0.8秒)ために解雇されるという事件に気づいた。この事実を研究した結果、観測者ごとに恒常的な誤差があることを発見し、個人差を表す式を』「個人方程式」と名付けた、とあるのである。『その後、F・ゴルトンは、遺伝研究のために身体的・精神的諸特性の計測法を考案した。さらにJ・M・キャッテルは1890年に個人差測定の方法を心理検査(メンタルテスト)と名づけた。さらに1905年にA・ビネーが知能検査を作成して以来、知能、適性、学力、興味、人格など』、『各種の心理検査が作成されるようになった。また、個人差と』、『その要因を研究する差異心理学はW・シュテルンによって1900年、11年、21年に体系化された』とあった。従って、これは決して批判的な比喩で小泉八雲が勝手に造語したものではない、ということが判った。]

 曾て一人の友が此問題をば、街路の群中、相逢ふ各〻の二人間に眼の決鬪が行はれるといふ巧妙な說で解決せんと試みた。然し彼の說は千のか〻る場合のうち五六の場合の心理的事實を說明するにも足らぬと思ふ。濃厚な群中相互に急ぎ合ふ人々の大多數は人の顏を見ることは稀である、唯だ無關心の閑人[やぶちゃん注:「ひまじん」。]のみがそんなことをする時を有つて居る。幾百の人が實際眼を路面に注いで街路を過ぎて行く。要するに急いで行く人は容貌を瞬時に見て、それによつて行動する樣なことは無い、――彼れは通常彼れ自らの思ひに沈んで居る。……私は自己の場合を反覆して硏究した。群中にあつて私は人の顏を見ることは稀で、それで何等の意識的觀察なくして、私は何時道を讓るべきか、また何時我に向かひ來る人が道を讓つてくれるかを知ることが出來る。私の知識はたしかに直覺的である――唯だの感情の知識である、そして私は、あの盲目的能力、それによつて眞の暗の中で、人が未だ手を觸れずして巨きな物の近接するを知る能力以外、それと比較すべきものを知らぬ。私の直覺は殆ど誤る事は無い。若し私が之に從ふことを躊躇すれば必らず衝突の結果を來たす。

 更に、私の自動的または少くとも半意識的行動が理性的行爲に變はる時、――もつと明らかに云へば、何時でも私が自分の運動を考へ始めるときは、必らず間違ひをする。何か外の事を考へて居るときのみ、――私が殆ど自動的に行動して居るときのみ、私は群衆の中を容易に縫つて行かれる。實際、私一個の經驗によれば濃厚な群衆の中を迅速に、且つ安全に通らせるのは、全く意識的觀察によらず、ただ理性的ならぬ直覺的知覺に由ることを悟る。然るに何れの直覺的行爲も遺傳的知識、卽ち過去の生命の經驗を代表するものであるが、此場合にはそれが無數の過去の生命の經驗である。

 全然數へられぬ程……何故私はさう考へるか、それは群中に自己を直覺的に指導する此能力は人間とずつと劣等の動物と共通のものであるので、それが人間よりも極めて古き能力でなければならぬ進化的の證據である。牛や鹿や羊の群は相互讓步の同一現象を我々に示すではないか。また鳥の群、特に群居性の鳥、烏や雀や、野鳩もさうではないか。また魚の群も、蜂、蟻、白蟻の樣な蟲の中に於てすら我々は直覺的自己排除の同一法則を學び得る。讓步は何れの場合にも想像もされぬ程に古い遺傳の經驗を尙ほ代表するに相違ない。か〻る遺傳の全過程の跡をたどる事が出來れば、我々は此地球上の感覺ある生命の最初に溯るにとどまらず、尙ほ遙かに、無感覺物質の歷史にまでも、更に元素の原子中に蓄へらる〻神祕傾向の原始的進化までも戾らねばなるまい。か〻る原子は多數抵抗の點として、不可解の力の不可解な組み合はせとしてのみ我々は知る。原子の諸傾向すら疑も無く遺傳の集積を示す――然しここに至れば無限の謎の永遠の障壁に突き當たつて思考は停止する。

 

[やぶちゃん注:非常に面白い考察である。私は小泉八雲のそれが、ある意味で遺伝子のレベルで伝えられているとする原型理論、生物は遺伝子のヴィークル(乗り物)に過ぎないという現在の遺伝子生物学の核心にさえ、通底するもののように読めるのである。因みに、精神分析学でユングが「集合的無意識」を主張するのは、本書の刊行より十年ほど後のことである。恐らく小泉八雲が今に生きていたなら、怪しげなユングの対人間に仮定される諸仮説などよりも、遙かに、最先端の過激な分子生物学の方にこそ、シンパシーを寄せる気がしてならないのである。]

小泉八雲 夜光蟲 (岡田哲藏譯) / これより作品集「影」の最終パート標題「幻想」に入る

 

[やぶちゃん注:本篇(原題“ Noctilucæ ”(ノクティルセウェーイ)。Noctiluca(ノクティルゥーカ)の複数形。なお、「æ」は「a」と「e」の合字。古典ラテン語には二重母音「ae」があったが、紀元前からすでに単一の母音になる傾向が見られ、後期ラテン語になると単母音[ɛː]と発音されることが一般的になった。古典期に置いても、現代に置いても、ラテン語の「ae」は二文字として分けて綴られるが、中世ヨーロッパにおいては単母音化した「ae」を合字「æ」 で表記することが行われ、現在でも、詩語や古語的雰囲気を出すために使用されることが、しばしばある。「夜光虫」。夜光虫については、本冒頭注末に記す)は一九〇〇(明治三三)年七月にボストンの「リトル・ブラウン社」(LITTLE,BROWN AND COMPANY)から出版された作品集“ SHADOWINGS ”(名詞「shadowing」には「影」以外には「人影」・「影法師」・「影を附けること」・「尾行」などの意味がある。本作品集の訳は概ね「影」が多いが、平井呈一氏は「明暗」と訳しておられ、私も漠然とした「影」よりも、作品群の持つ感性上の印象としてのグラデーションから「明暗」の方が相応しいと思う。来日後の第七作品集)の第一パート“ STORIES FROM STRANGE BOOKS ”・第二パート“ JAPANESE STUDIES ”(「日本に就いての研究」)の次の最終第三パート“ FANTASIES ”の巻頭に配された作品である。本作品集は“Internet Archive”のこちら(出版社及びクレジットの入った扉表紙を示した)で全篇視認できる(添辞のあるパート標題“FANTASIES”はここで、本篇はここから)。活字化されたものは“Project Gutenberg”のこちらで全篇が読める(本篇はここから)。

 底本は英文サイト“Internet Archive”のこちらにある、第一書房が昭和一一(一九三六)年十一月に刊行した「家庭版小泉八雲全集」(全十二巻)の第七巻の画像データをPDFで落として視認した。【2025年4月15日:底本変更・正字化不全・ミスタイプ・オリジナル注全補正】時間を経て、国立国会図書館デジタルコレクションに本登録し、現行では、以上の第一書房版昭和一一(一九三六)年十一月に刊行した「家庭版小泉八雲全集」(全十二巻)の第七巻が、国立国会図書館デジタルコレクションで公開されてある。(リンクは扉だが、「家庭版」の文字はない。しかし、奥附を見て貰うと『家庭版』とあり、『昭和十一年十一月二十七日 發 行』とあることが確認出来る)、これが、前掲の底本と同じものであるが、やはり、外国のサイトのそれを底本とするのは、日本人小泉八雲に失礼であると考えた。されば、こちらで、再度、以下の「骨董」の作品群を改めて校正することとする。これが――私の小泉八雲への「義」――である。なお、これよりも前の元版の全集等が先行しているものの、私がそれらと比べた結果、実は先行する同社の「小泉八雲全集」のそれらは、訳が一部で異なっており、訳者等によって、かなりの補正・追加がされていることが、今回の正字補正作業の中で、はっきりと判って来た。いや、同じ「家庭版」と名打ったネット上の画像データでも、驚いたことに、有意に異なっていたのである。そうした意味でも――完全な仕切り直しの総点検――が必要であると決したものである。従って、旧前振りの括弧・鍵括弧の問題も、拡大とガンマ補正で確認し、正確を期する。本作はここから。添え辞附きパート中標題はここ

 訳者岡田哲藏氏は明治二(一八六九)年生まれで昭和二〇(一九四五)年十月没の英文学者。千葉県佐倉市生まれで、東京帝国大学文科大学哲学科選科卒。通訳官として明治三七(一九〇四)年の日露戦争に従軍し、その後、陸軍大学校教官や青山学院・早稲田大学講師などを務めた。英詩文をよくし、昭和一〇(一九三五)年に出版された最初の「万葉集」の英訳として有名な‘ Three Handred Manyo Poems ’ などの著書がある。

 傍点「○」(これのみ)は太字に代えた。

 英語の「Noctilucæ」は、アルベオラータ渦鞭毛植物門ヤコウチュウ綱ヤコウチュウ目ヤコウチュウ科ヤコウチュウ属 Noctiluca に属するヤコウチュウ類、及び、近縁属(ヤコウチュウ科Noctilucaceae には他にLeptophyllus 属と Pronoctiluca 属の全三属が含まれる。但し、他属の発光機序は不明のようである)の総称である。本邦の近海で大発生する和名ヤコウチュウは Noctiluca scintillans である。属名はラテン語の「noctis」(夜)と「lucens」(光る)の合成語。ウィキの「ヤコウチュウ」によれば、『原生生物としては非常に大きく、巨大な液胞』『で満たされた細胞は直径』一~二ミリメートル『に達する。外形はほぼ球形で』、一『ヶ所』、『くぼんだ部分がある。くぼんだ部分の近くには細胞質が集中していて、むしろ』、『それ以外の丸い部分が細胞としては膨張した姿と見ていい。くぼんだ部分の細胞質からは、放射状に原形質の糸が伸び、網目状に周辺に広がるのが見える。くぼんだ部分からは』一『本の触手が伸びる。細胞内に共生藻として緑藻の仲間を保持している場合もあるが、緑藻の葉緑体は消滅しており、光合成産物の宿主への還流は無い。細胞は触手(tentacle)を備え、それを用いて他の原生生物や藻類を捕食する。触手とは別に』、二『本の鞭毛を持つが』、こちらは殆んど『目立たない』。『特異な点としては、他の渦鞭毛藻と異なり、細胞核が渦鞭毛藻核ではない(間期に染色体が凝集しない)普通の真核であるとともに、通常の細胞は核相が2nである。複相の細胞が特徴的である一方、単相の細胞はごく一般的な渦鞭毛藻の形である』。『他の生物発光と同様、発光は』ホタルと同じく「ルシフェリン(luciferin)―ルシフェラーゼ(luciferase)反応」(後者の酵素によって酸化されて発光。因みに、この名は「堕天使・悪魔」である「ルシファー」(Lucifer:原義は「光りをもたらす者」である)に由来する)によるが、『ヤコウチュウは物理的な刺激に』反応して『光る特徴があるため、波打ち際で特に明るく光る様子を見る事ができる。または、ヤコウチュウのいる水面に石を投げても発光を促すことが可能である』。『海産で沿岸域に普通』に棲息する『代表的な赤潮形成種である。大発生時には海水を鉄錆色に変え、時にトマトジュースと形容されるほど濃く毒々しい赤茶色を呈する。春~夏の水温上昇期に大発生するが、海水中の栄養塩濃度との因果関係は小さく、ヤコウチュウの赤潮発生が』、『即ち』、『富栄養化を意味する訳ではない。比較的頻繁に見られるが、規模も小さく毒性もないため』、昼間の見た目の強烈さの割りには、『被害はあまり問題にならないことが多い』。『ヤコウチュウは大型で軽く、海水面付近に多く分布する。そのため』、『風の影響を受けやすく、湾や沿岸部に容易に吹き溜まる。この特徴が海水面の局所的な変色を促すと共に、夜間に見られる発光を強く美しいものにしている。発光は、細胞内に散在する脂質性の顆粒によるものであるが、なんらかの適応的意義が論じられたことはなく、単なる代謝産物とも言われる』。『通常は二分裂による無性生殖を行う。有性生殖時には遊走細胞が放出されるが、これは一般的な渦鞭毛藻の形態をしており、核も渦鞭毛藻核である』とある(引用部の下線は私が附した)。海を泳ぐことの好きだった(「燒津にて」では、無謀にも夜の沖の精霊流しにまで達している)小泉八雲にとって、夜光虫は我々などよりも遙かに親しい身近なものであったはずである。但し、本篇は夜光虫の博物誌ではない例によって、八雲独特の深遠な霊的にして哲学的な生命と宇宙に就いての随想である。なお、瞥見した銭本健二氏が担当された小泉八雲の年譜(一九八八年恒文社刊「ラフカディオ・ハーン著作集 第十五巻」所収)によれば、本篇は明治三二(一八九)年八月の焼津での夜の水泳中に見た夜光虫の体験に基づくものであるらしい。

 

 

  幻 想

     人々各〻流を下り

     空しく想ひまた夢む

     時の川が

     その水面に彼の生る〻前に過ぎ

     彼の目閉づる後に達すならん

     國土を

         マシウ・アァノルド (『未來』より)

[やぶちゃん注:添辞は底本ではポイント落ち。

「マシウ・アァノルド」マシュー・アーノルド(Matthew Arnold 一八二二年~一八八八年)はイギリスの耽美派詩人の代表にして文明批評家。本引用元(但し、引用元は原本には記されていない。岡田氏のサーヴィスである)である詩篇“ The Future ”は、英文サイト「POETRY FOUNDATION」のこちらで全篇が読める。引用は第三連の冒頭部であるが、八雲の原本では、

   . . . Vainly does each, as he glides,
   Fable and dream
   Of the lands which the River of Time
   Had left ere he woke on its breast,
   Or shall reach when his eyes have
     been closed.

となっており、「時の川」の“river”が大文字となって、全体が固有名詞化されてあることが判る。思うに小泉八雲の確信犯であろう。]

 

 

   夜 光 蟲

 

 月いまだ昇らず、夜の大空に星湧くが如く、いとも明かるき銀河の橋を渡し、風立たず、見渡す限り海は火の漣波立てて駛る[やぶちゃん注:「はせる」。]、幽冥の美の幻覺。波頭のみ輝き、その間は全く黑く、しかも照明は驚くばかり。波動は槪ね燭の熖のごとく黃なれど、紅に射る光もまたあり、――しかして蒼、また橙黃[やぶちゃん注:音なら「たうくわう(とうこう)」だが、個人的には「だいだい」と当て訓したい。]、また鮮綠。一切の蜒々たる[やぶちゃん注:「えんえんたる」。「蜿蜒(ゑんえん)」に同じい。]煌き[やぶちゃん注:「きらめき」。]は、多量の水の脈搏ならで、多數の意志の努力かと思はれ――意識ある怪しき物の疾き移ろひ――冥界の深淵に龍の生の限りなく踠き[やぶちゃん注:「もがき」。]且つ群れ動くかと疑はる。

 實に生命がその光景の奇怪な光彩を呈して居るのであつた――それは無數の生命、しかも幽靈の如く纎細のもの――限りなき生命、しかも蜉蝣[やぶちゃん注:「かげろふ」。]のそれ、空の線までも水の全面に亘り絕え間あらぬ變遷のうちに燃えては消ゆる、なほその上なる更に廣き深淵には異る無數の光が異る分光の色に鼓動して居た。

 

 見守りつ〻私は驚きまた夢みた。私はとの巨大なる燦爛[やぶちゃん注:「さんらん」。美しく煌(きら)めき輝くさま。]のうちに表現された究極の靈を想ふた――それが我が上には、分解せる過去の恐ろしき融合によりて輝く諸〻の系統となり、再生すべき生命の濛氣[やぶちゃん注:「もうき」。霧や霞のようなものがもうもうと立ち籠めるさま。]を包んで蘇り、また我れの下には、流星の迸り[やぶちゃん注:「ほとばしり」。]、星座、またそれより冷たき光の星雲の質となつて動くを想ひ――遂には私は大陽星の千萬年にも、不斷の分解の流にあつては、消えゆく一の夜光蟲の瞬時の閃光に勝さる何者ありやと疑ふにいたつた。

 この疑と共にすら幻覺は變つた。私はもはや火の振動する昔の東洋の海を見ずに、永遠の夜と廣さ、深さ、高さを一にするかの潮流を見た――のの岸邊なく時間なき海。億萬の太陽の光の靄――銀河の穹窿[やぶちゃん注:「きゆうりゆう」。弓形に見える宇宙の天空。]――それは無限の潮の流に於ける單一の燻ぶる[やぶちゃん注:「ふすぶる」或いは「くすぶる」。私は前者で読みたい。]波動であつた。

 

 また起こる一の變化、私はもはや諸〻の太陽の濛氣の如き波動を見ず、私の周りに無限の閃光を放つて流れ且つ震へる生ける暗を見た、そして閃光の一つ一つが心臟の如く鼓動し、――海の火の彩りの如き色を打ち出して居た。そして一切の物の射る如き光は照明の振動する絲の如く無限の神祕のうちに流れ去つた。

 それで私は自己もまた燐の一點――測られぬ流に浮かぶ泡沫[やぶちゃん注:「うたかた」。]の如き閃きであることを知つた、――そして我がものたりし光は思想の變化每に色の移ろへることを見た。時には紅玉と輝き、時には靑玉、忽ちそれが黃玉の熖となるかと見れば、また碧玉の火となる、そして變化の理由は十分に悟れなかつた。然し地上の生命を思へば光は赤く燃ゆるかと見え、天上の存在――靈の美と靈の幸[やぶちゃん注:「さひはひ」と訓読したい。]との存在――を思へば蒼と紫の不滅のリズムと燃ゆるかと思はれた。

 

 然し凡ての視界に白光[やぶちゃん注:「びやくかう」と読んでおく。]は全く無かつた。そして私は不思議に思つた。

 そのとき一のが私にいうた――

 『白は高位のもの、億萬の混合によりて成る。その燃ゆるを助成するは汝の役目。汝の燃ゆる色と汝の價値と正に相同じ。汝の生くる間は瞬時のみ、されど汝の脈搏の光は生き續く、その光明の時の汝の思により、汝は神々るものとなる』

 

[やぶちゃん注:「神々」と「造」のみに傍点「○」がある。原文は“Maker of Gods”であるから、岡田氏の確信犯(小泉八雲の力点を押さえたもの)であろうことが判る。]

小泉八雲 日本の古い歌  (大谷正信譯) ~(その2) / 日本の古い歌~了

 

[やぶちゃん注:本篇については「小泉八雲 日本の古い歌(大谷正信譯)~(その1)」の私の冒頭注を参照されたい。]

 

 通俗な歌――殊に田舍の踊にうたふ歌――には記憶を助ける工夫(くふう)に作られて居る種類のが多い。節(せつ)の數は普通は十で、一節(せつ)々々の第一の綴音がその句の前に置いてある數詞の第一綴音と音(おん)に於て同じなやうにしてあるのである。時には漢語の數詞を用ひ、時には日本語の數詞を用ひる。が、その規則は必らずしも完全に守られては居らぬ。次記の例に於て一(いち[やぶちゃん注:これはルビ。])(ヒトツ)[やぶちゃん注:これはルビではなく、本文。]といふ日本語の初の二綴音を有つて居る第一句の最初の二綴音の一致はただ意味での一致であることを觀らる〻であらう。イチといふは漢語の數詞であるから。

 

  漁師師の歌譯者註七 (下總國銚子町註一

一(ひと)つとせ、

  一(いち)番船へ積み込んで、

  川口おしこむ大矢聲註二

       この大註三漁船(たいれふぶね)!

二つとせ、

  二葉の冲から外川(とはが)まで註四

  續いて押し込む大矢聲、

       この大漁船!

三つとせ、

  みな一同に招(まねぎ)をあげ、

  通はせ船の賑かさ、

       この大漁船!

四つとせ、

  夜晝(よるひる)焚いても焚きあまる、

  三バイ一挺(ちよ)の大鰯、

       この大漁船!

五つとせ、

  何時來て見ても乾鰯場(ほしかば)に、

  あき間(ま)隙間(すきま)は更に無い、

        この大漁船!

六つとせ、

  六時(むつ)から六時(むつ)まで粕割(かすわり)が、

  大割(おほわり)小割で手に追はれ、

        この大漁船!

七つとせ、

  名高き利根川一面に、

  粕や油を積み送る、

        この大漁船!

八つとせ、

  八手舟(やてぶね)註五の冲合若衆が、

  萬祝(まんしゆく)揃へて宮まゐり、

        この大漁船!

九つとせ、

  此浦守(まも)る川口の、

  明神利益(りやく)を現はする、

        この大漁船!

 

註一 銚子といふは可なり重要な町で利根川の河口に位して居る。鰯漁で名高い。鰯といふはサアディンの大いさの魚で主としてその油の爲めに漁獲する。此海岸で採れる油の量は大したものである。煮て油を搾るのである。その搾滓は肥料として內地へ送られる。

[やぶちゃん注:「サアディン」“sardine”。所謂、広義の「イワシ(鰯)」類を指す。この単語は、世界的な魚類学で厳密に示すと、条鰭綱 Actinopterygii ニシン目 Clupeiformes ニシン科 Clupeidae ニシン亜科 Clupeinae に属する、ヤマトミズン属 Amblygaster ・ギンイワシ属 Dussumieria ・エスクアローサ(ホワイト・サーディン)属 Escualosa ・サルディナ(ヨーロッパ・マイワシ)属 Sardina ・サッパ属 Sardinella ・マイワシ属 Sardinops の六属に含まれる小魚類の総称である。以上はウィキの「サーディン」に拠った。但し、そこにも記載があるが、サッパ属サッパ Sardinella zunasi (漢字では「鯯」と書くが、圧倒的に「ママカリ」(飯借)の通称の方が通りがいい)は、日本の漁師はママカリを「イワシ」とは呼ばない。

註二 櫓を漕いでゐる水夫全體の合唱を『矢聲』と呼ぶ。

註三 形容詞『大』は『漁』を形容するので、『船』を形容するのでは無い。

註四 恐らくは『外川』は利根川河畔の銚子から遠くは無い、外川といふ川の口の村を指すのであらう。この兩河は堀割で結合されて居る。川を意味して居るのか、村を意味して居るのか、文句の上では明白で無い。

註五 ヤタイとは宗敎的行列に於て綱で曳く裝飾された車に與へる名である。ここのヤタイブネはそんな車に載せた小舟の雛形か、或は宗敎的行列でのそんな裝飾をした小舟か、を意味するもののやう思はれる。自分は美保關で、或る宗敎的行列の時祭り屋臺の上に載せてあつた、本當の小舟を見たことがある。

譯者註七 第一節『一番船へ積み込んで』は『一番づつで積み立てて』とも歌ふ。第二節『二葉の沖から外川まで、續いて押込む大矢聲』は『二葉の沖側外川まで、續いて押込む大鰯』とも歌ふ。

[やぶちゃん注:「招(まねき)」は底本では「まねぎ」となっているが、原本に従い、特異的に濁音を除去した。但し、サイト「世界の民謡・童謡」の「銚子大漁節」の歌詞及び動画で唄われているそれは「まね」である。拍子から言っても「まねき」の三音はなかろうと思った。なお、以下、同ページに丁寧な語釈まで載っていた(「招(まね)」は漁師の特殊な用語なのだ!)。引用させて戴く。

   《引用開始》

「大矢声」とは、弓矢を射るときに出るうなりのようなかけ声。

「二間の沖」[やぶちゃん注:動画のテロップでは『二葉』と出ており、それも同義であるらしい。注をする手間が省けた。とは、夫婦ケ鼻(めどがはな)[やぶちゃん注:千葉県銚子市川口町(グーグル・マップ・データ。以下同じ)。]から黒生(くろはい)[やぶちゃん注:千葉県銚子市黒生町(くろはいちょう)。前者は利根川河口(右岸)であるが、後者は、そこから時計回りに回り込んだ地区である。]までの海の総称。

「招(まね)」とは、鰯の大漁を知らせる目印、「通わせ船」は、運搬船のこと。

「干鰯場(ほしかば)」とは、生イワシをそのまま海岸等の砂地に干して肥料を作る場所。

「粕割」とは、生イワシを大釜で煮て、それを圧搾機で締めると〆粕ができる。それを割って天日に干したもの。

「万祝」とは、網主から漁夫たちに贈られる大漁祝いの衣装のこと。

「八手」とは、八手網(やつであみ/はちだあみ)のこと。2艘以上の漁船により操業される大型の張網。

   《引用終了》

「外川」これは黒生を南に犬吠崎を廻り込んだところにある、現在の千葉県銚子市外川町(とかわ(とがわ)まち:郵政では前者)の外川港のことであろう。残念ながら、「八手」は以上の引用の通りで、「舟」ではなく、「魚網」の名である。リンク先の写真を見る限り、少なくとも、現行では「ヤタイ」というのは、神輿(みこし)である。従って、小泉八雲の「註」の四・五は、二つとも、見当違いの誤りである。

 

 少くとも百年前に作られた或る子供歌に此の歌詞的排列の一層奇異な一例がある。江戶の小娘共は手毬を弄びながらその歌をうたつたものである。今日と雖も、東京の靜かな街路でならどんな街路でも、それと同じ手毬遊戲を女の子がして居るのを見ることが出來る。歌の拍子に合はせて巧みに手で打つて、殆ど垂直な線にいつも手毬が彈き上がるやうにし續ける。上手な者は一突(ひとつき)も仕損ぜずに、その歌をうたひ終はることが出來なければならぬ。仕損ずるとその手毬を今一人の者に讓らなければならぬ。面白い『手毬歌』が澤山にあるが、次記の古風な、永く忘られて居る歌は道德的な一珍品である。

[やぶちゃん注:以下は「註」表記がないが、小泉八雲の挿入注であって(底本ポイント落ち四字下げ)、本文ではない。]

 

上記のがより普通な遊び法(かた)であるが、他の形式が澤山にある。時には二人で一緖に同じ手毬を――彈(はず)む毬をかたみがはりに[やぶちゃん注:「互(かたみ)替(がは)り」で所謂「かわりばんこ」、代わる代わるにすることの意。]突いて――もてあそぶ。

 

一つとや、

  人は孝なを人といふ、

  恩を知らねば孝ならじ。

二つとや、

  富士よち高き父の恩、

  常に思うて忘れまじ。

三つとや、

  水うみ却て淺しとは、

  母の恩ぞや思ふべし。

四つとや、

  よしや貧しく暮らすとも、

  直ぐなる道を曲ぐるまじ。

五つとや、

  いつも心の變はらぬを、

  誠の人と思ふべし。

六つとや、

  空しく月日(つきひ)を暮らしなば、

  後(のち)の嘆(なげき)と知りぬべし。

七つとや、

  慈悲(なさけ)は人の爲めならで、

  我が身の爲めと思ふべし。

八つとや、

  厄難無量の禍(わざはひ)も、

  心(こころ)善(ぜん)なら逃るべし。

九つとや、

  心(こころ)詞(ことば)の直ぐならば、

  神や佛も守るべし。

十とや、

  貴(たふと)い人と成るならば、

  孝行者(かうかうもの)といはるべし。

 

註 ヒト(パアスン)は男にも女にも用ひ、屢〻「人々」(ピイプル)「人類」(マンカインド)の意にも用ふる。「人といふ」の「人」は「人間」(ヒユウマン・ビイング)の意。

 

 讀者は『「手毬歌」にさへ道德敎訓の反復を要求し得る訓練はどんなにか恐ろしくやかましいものだらう』と思はれるかも知れぬ。いかにも七(しち)やかましい、――が然し此の世界がこれまで見たことの無い程の非常にうるはしい型の女をそれが造り出したのである。

 

 或る踊歌ではその復唱句は各節(せつ)の最後の一行又は最後の一行の一部分の反復だけで出來て居る。次記の珍奇な物語歌はそれを實行して居る一例で、且つまた吟詠文の或る句の處へ揷入されて居る妙な擬音的合唱があるが爲め、一層特色のあるものである。

 

  鐘卷踊歌 (伊賀國名賀郡)

京山伏(きやうやまぶし)は熊野へ參る。

白(しろ)たか濱が長者屋(ちやうじや)へ腰掛けて、

三つになる姬抱きそめて、

妻(つま)にしよというて戲(じや)れられた、

     (合唱)戲(じや)れられた。

それから山伏や諸國を𢌞(めぐ)る。

その姬が十三といふ年又まゐり來て、

姬よ姬よ約束の姬よ。

連れておいきやれお山伏。

     (合唱)お山伏。

いままたまゐる、また參る。

こんど下向にや連れていこ、

     (合唱)連れていこ。

それから山伏逃げられて。

早よ早よ急げば早よ。

田なべみなべを早打越して、

小松原まで逃げられた、

     (合唱)逃げられた。

  カツカラ、カツカラ、カツカラ、カッカ!

[やぶちゃん注:「伊賀國名賀郡」旧三重県名賀郡(ながぐん)。位置はウィキの「名賀郡」の地図で確認されたい。道成寺伝説が、紀伊半島を東に回り込んだ山間部に伝承しているのはなかなか面白い。因みに私は、道成寺伝承のフリークで、サイトに「道成寺鐘中 Doujyou-ji Chronicl というページも作っているので、是非、お訪ねあられたい。

「みなべ」旧南部(みなべ)町、現在の和歌山県日高郡みなべ町(ちょう)。田部市に北西で接する。

「小松原」地名ではなく、道成寺近辺の一般名詞としての謂いととっておく。

 以下も底本ではポイント落ちの挿入注。]

 

特殊の合唱といつたやうなものになつて居る此の綴音は、全く擬聲に他ならぬもので、非常に早く走つて居る下駄穿きの跫の音を現はすつもりのものでゐる。

 

それから姬が追ひかけて、

早よ早よ急げば早よ。

田なべみなべを早打越して、

小松原まで追ひかけたさ、

     (合唱)追ひかけたさ。

それから山ぶしや逃げられて、

あもだの川まで逃げられて、

あもだの川の船頭を賴む。

後から姬が追ひかけ來(く)るに、

渡して給(たも)るな船頭殿や、

     (合唱)船頭殿や。

  デボク、デボク、デボク、デン、デン!

[やぶちゃん注:「あもだの川」不詳。日高川の異名としても見当らない。識者の御教授を乞う。感覚的には「阿彌陀川」かな? と感じはする。しかし、それとすると、阿彌陀の川が、姬を瞋恚の大蛇にしてしまう、というのは、余りにも「あもだ」ならぬ「なんだかな」という気がしてしまう。

 以下、同前。本文ではなく、注。]

 

此の擬聲は、適當な身振をして、踊手が皆、合唱するのであるが、渡守か漕ぐ櫓の音を現したものである。綴音そのものには何の意味も無い。

 

それから姬が追ひけて、

あもだの川で追ひかけて。

あの船(ふね)出しやれ、この船出しやれ。

あの船出さぬ、この船出さぬ、

女人(によにん)禁じの船でそろ、

     (合唱)船でそろ。

渡さにや渡る、渡さにや渡る。

あおもだの川にや渡りよ[やぶちゃん注:「料」。]が御座る。

はいたる草履を手に持ちて、

はいろと思(おも)たら蛇(じや)になりて、

十二の角(つの)が生(は)えそろた、

     (合唱)生えそろた。

それから山ぶしや逃げられて、

道成寺でらまで逃げられて、

道成寺でらの同職衆(どうじゆくしゆ)を賴む。

後(あと)から姬が追ひかけ來るに、

隱してたもれよどじゆくしゆ、

     (合唱)どじゆくしゆ。

それから同職衆が御相談なさる。

釣鐘下(お)ろしてかくされた、

     (合唱)かくされた。

それから姬が追ひかけて、

道成寺でらまで追ひかけて、

御門(ごもん)のけあげにしばらく立ちて、

庭なる鐘を不思議と思(おも)て、

一卷(ひとまき)まこよ、二卷まこよ。

三卷と卷いたら湯になりたさ、

     (合唱)湯になりたさ。

鐘卷寺の緣起をきけば、

日本の浦にや姬多(お)いけれど、

長老が娘が蛇(じや)になりたてさ、

     (合唱)蛇になりたてさ。

鐘卷踊はこれまでさ、

     (合唱)これまでさ。

 

註 この傳說は古今幾多の日本劇の材題となつて居る。元の話は斯うである。安珍といふ僧が無謀にも淸姬といふ乙女に戀情を起こさせ、僧たる身の故に結婚することが出來ないが爲めに、娘が言ひ寄れぬやう逃げて身の安全を求めた。淸姬は挫かれた熱情の激しさに、火のやうな龍蛇に姿を變じた。そしてその姿でその僧を追跡して、(今の紀州の)熊野の道成寺といふ寺へ行く。僧は其處の大鐘の下へ身を隱して居るのである。がその龍蛇はその鐘を卷くと、その鐘は直ぐに赤熱して、中なる僧の身體は全く燒けてしまつた。

此の粗笨[やぶちゃん注:「そほん」。大まかでぞんざいなこと。細かいところまで行き届いていないこと。粗雑。]な物語歌では淸姬は――長者、卽ちその村の金持たる――一旅宿主人の娘となつて居る。そして僧の安珍は山伏に變はつて居る。山伏といふのは眞言宗と呼ぶ妙な宗派の一處不在の僧で――神道佛敎兩方を奉じて居る、諸國巡禮歷の、惡魔拂兼賣卜者である、否、少くともあつた。近年その職を行ふことを法律で禁じられたから、本當の山伏は今に滅多に眼にすることは出來ぬ。

道成寺は巡禮者が參詣する有名な寺で、紀州の西岸の御坊(ごぼう)から遠くは無い。安珍と龍蛇との出來事は十世紀の初にあつたとの事である。

[やぶちゃん注:「御門(ごもん)のけあげ」「けあげ」は「階段の一段の高さ」を謂うから、ここは登る階(きざはし)の一段目のことを指すと読む。但し、一段目からは、寺内の鐘は見えない。とすれば、これは門を一気に駆け上がった最後の一段でとすべきであろう。

「山伏といふのは眞言宗と呼ぶ妙な宗派の一處不在の僧で――神道佛敎兩方を奉じて居る、諸國巡禮歷の、惡魔拂兼賣卜者である、否、少くともあつた。」原文は“The Yamabushi are, or at least were, wandering priests of the strange sect called Shugendo,—itinerant exorcists and diviners, professing both Shinto and Buddhism.”でおかしい。真言宗からクレームが附きますぜ、大谷先生! ちゃんと! 「修驗道」でっせ! 原文は!!

 

 自分は街路(とほり)を歌ひあるく本當の物語歌(バラツド)の――方々ぶらつきあるく三味線彈(ひき)が普通に歌ふやうな物語歌の――たつた一つの見本を與へよう。これは音格が不規則に出來て居て、一行の長さ十二綴音から十六綴音に至つて居るが、多くは十三綴音である。その作の年代は分からぬ。が、その子供時分にその歌はれるのを聞いたことを覺えて居る老人の話では、天保(一八三〇――四三)時代に流行つたといふ。節(せつ)には分かれて居ないけれども、不規則な間を置いて休止があつて、其處の處でヤンレイといふ復唱句がある。

 

  お吉(きち)淸三(せいざ)くどき

今度サアエヽ哀れな情死(しんぢゆう)ばなし、

國は京都にその名も高き、

糸屋與右衞門有德(うとく)な暮らし、

店も賑か 暮らしも繁昌(はんじやう)、

一人娘にお吉(きち)というて、

年は十六 今咲く花よ、

見世の番頭に淸三(せいざ)というて、

年は二十二で男の盛り、

        ヤンレイ!

 

器量(きりやう)よければお吉が見染め、

通(かよ)ふ通ふが度(たび)重なれば、

親の耳へもそろそろはいり、

これを聞いては儘にはならぬ、

        ヤンレイ!

 

そこでお吉を一間(ま)へ呼んで、

店(みせ)の淸三と譯(わけ)あるさうな、

思ひ切る氣か切らぬかお吉、

        ヤンレイ!

 

これさ母(かか)さ何言はさんす、

俺(わし)と淸三とその仲仲(なかなか)は、

墨と紙とのしみたが仲よ、

何が何でも離れはしない、

        ヤンレイ!

 

奧の一間(ま)へ淸三を呼んで、

其方(そち)を呼ぶのは別儀ぢや無いが、

內の娘のよいきをはらし、

夫(それ)を聞いては置かれはしない、

仕舞うて行かんせ今日(こんにち)かぎり、

        ヤンレイ!

[やぶちゃん注:三行目の小泉八雲の英訳は“You have turned the mind of our daughter away from what is right;”で「お前は儂(わし)娘を心をまっとうなものから遠ざけおった」の意。富山県滑川市の「新川古代神」(にいかわこだじん)踊りの唄の歌詞がこちらで読めるが、その途中に出る「お吉清三口説」の当該部では、「家の娘のよい気を晴らし」と漢字表記されている。これではこの一行、意味が繋がらないが、或いは不吉な禍々しいことを口に出すことを言上げとして嫌ったことから、「内の娘にちょっかいを出してそのまっとうな気(心)を曇らした」の謂いであろうか? 或いは「よいき」を「醉(よ)ひ氣」と採って、「内の娘を恋に酔わせてはらした(=まんまとその目的を遂げた)」の意か?]

 

じたい淸三は大阪生(うま)れ、

物も言はずに唯だハイハイと、

家(いへ)へ歸りて七日五日經つて、

お吉思うて病氣となりて、

是非も叶はぬ相果てました。

        ヤンレイ!

 

お吉とろとろ眠りし處(とこ)へ、

夢か現(うつつ)か 淸三が姿、

枕元へと顯はれました、

そこでお吉は不圖眼をさまし、

見れば淸三が姿は見えず、

        ヤンレイ!

 

さらばそれから淸三が方(かた)へ、

親の手許を忍んで行きやる、

        ヤンレイ!

 

在(ざい)ヘサアエヽはいれば船場(ふなば)が御座る、

船にや乘らんで陸路(りくぢ)を行きやる、

急ぐ程なく大阪町よ、

淸三やかたは何處かと聞けば、

橋のもとより二軒目で御座る、

        ヤンレイ!

 

淸三やかたの前にとなれば、

笠を片手に腰をば屈め、

御免なされと腰打かけて、

淸三やかたは此處かと聞けば、

        ヤンレイ!

 

物の哀れや淸三が母は、

數珠を片手に唯だ泣きながら、

若い女中(ぢよちゆう)は何處から御座る、

        ヤンレイ!

 

わたしや京都の糸屋の娘、

淸三さんには譯(わけ)ある故に、

遠い處を尋ねて來たよ、

どりぞ淸三さんに逢はせてお吳れ、

        ヤンレイ!

 

そちが尋ねる淸三は果てて、

今日は淸三が七日で御座る、

聞いてお吉はただ泣くばかり、

        ヤンレイ!

 

さらばこれから墓所(はかしよ)へ參り、

立てた塔婆にすがりて泣けば、

        ヤンレイ!

 

人の思(おもひ)は恐ろし物よ、

淸三墓所(はかしよ)は二つに割れて、

其處へ淸三が顯はれ出でて、

        ヤンレイ!

[やぶちゃん注:以下、同前。原注。]

 

「ヰリアムとマアジヨリイ」(チヤイルド編第二卷一五一頁參照)といふ古い英吉利の物語歌に、墓が開いたり閉ぢむりすることに就いての珍らしい想像が詠まれて居る。

   後をしたひて 路たかくひくく

       墓綠なる    墓場に着きぬ。

   深き墓石   打ち聞かれぬ、

       見ればヰリアム 寢ねてぞありし。

とある。

[やぶちゃん注:ここは原注全文(訳では前がカットされている)を引いて見る。

   *

  In the original:—Hito no omoi wa osoroshi mono yo! — ("how fearful a thing is the thinking of a person!").  The word omoi, used here in the sense of "longing," refers to the weird power of Seiza's dying wish to see his sweetheart. Even after his burial, this longing has the strength to burst open the tomb.

 ― In the old English ballad of "William and Marjorie" (see Child: vol. ii. p. 151) there is also a remarkable fancy about the opening and closing of a grave:

    She followed him high, she followed him low,

     Till she came to yon churchyard green;

    And there the deep grave opened up,

     And young William he lay down.

   *

暴虎馮河で訳してみると、

   *

 オリジナルは、「ひとの思いは恐ろしものよ!」(「人の思いはどれほど恐ろしいことか!」)。ここで「思慕」という意味で使われている「思い」という言葉は、死にゆく折りの清三の、恋人に会いたいという一心の、既にこの世のものでない異様な力を指している。彼の埋葬後も、この切なる願いは墓を破り裂く力を持っているのである。

 ――「ウィリアムとマージョリー」という古いイギリスのバラード(チャイルド編、第二巻百五十一ページを参照)にも、墓が開いたり、閉じたりすることについての、驚くべき着想がある。――

 彼女は彼を、高く跳ぶように追い、また、低く屈むように追いかける、

   彼女が向うの教会の緑なす庭を越えて来たれば、

 かしこの奥津城(おくつき)は瞬く間に開かれた、

   そうして若きウィリアムがそこに横になっている。

   *

小泉八雲の引用元の編者は恐らく、アメリカの文献学者フランシス・ジェームズ・チャイルド(Francis James Child 一八二五年~一八九六年)であろう。ウィキの「フランシス・ジェームズ・チャイルド」によれば、バラッド(ballad:イギリスなどで伝承されてきた物語や寓意のある歌。通常、詩の語りや語るような曲調を持つ。過去の出来事についての韻文による叙事詩であり、武勇伝・ロマンス・社会諷刺・政治が主題とされているが、その内容は殆んど必然的に破局が訪れるようになっている。ここはウィキの「バラッド」に拠った)『研究の権威で、整理番号チャイルド番号はブリテン諸島・アメリカの系統の民謡を分類するときの重要な指標とな』っているとある。而して引用原本は彼が一八五七年から翌年にかけて大成した“ English and Scottish Ballads ”であろうと思われる。]

 

其處へ來たのはお吉ぢやないか、

遠い處を能く來で吳れた、

お吉泣くなよ 泣いたるとても、

どうで此世で添はれはすまい、

わしを思はば香花(かうはな)立てて、

來る命日に囘向を賴む、

        ヤンレイ!

 

と言(い)うて淸三が姿は消える、

これさ待たしやれこれ待たさんせ、

そなたばかりは一人(ひとり)はやぬ、

わしも一緖に行かねばならぬ、

        ヤンレイ!

[やぶちゃん注:以下、同前。原注。]

 

この挿話と『うるはしのヰリアムの魂』(チャイルド編。第二卷二四八頁)の結末とを比較されたい。

 

   「此處に居たまへ 立ち去りますな』

       操正しき  マゲリト呌ぶ。

     頰靑ざめぬ、  眼(まなこ)をとぢぬ

        やはき手を延べ、呼吸絕え果てぬ。

とある。

[やぶちゃん注:ここも原注全文を引いて見る。

   *

  With this episode compare the close of the English ballad "Sweet William's Ghost" (Child: vol. ii., page 148): —

    "O stay, my only true love, stay!"

     The constant Margaret cried:

    Wan grew her cheeks; she closed her een,

     Stretched her soft limbs, and died.

   *

訳してみる。

   *

 このエピソードを、イギリスのバラッド「華麗なるウィリアムの幽霊」の終章と比較して見よう(チャイルド編。㐧二巻百四十八ページ)。

 「おお、とどまれよ! 我の唯一人のまことに愛する人よ、とどまれ!」

   絶え間なくマーガレットは哭き叫んだ、

 蒼ざめた彼女の両頰、彼女は両の目を閉じ、

   しなやかなその彼女のみ手を伸ばして、そして、身罷った。

   *

先の訳ともに、一部の詩の訳語については、平井呈一氏の恒文社版(一九七五年刊)の訳(「日本の古い歌謡」)にある氏の意訳のそれを参考にさせて戴いた。]

 

寺の大門(おほもん)四五丁離れ、

小石拾うて袂へ入れて、

前のお濠(ほり)へ身を捨てまする、

        ヤンレイ!

[やぶちゃん注:「四五丁」四百三十四~五百四十五・五メートル。

 なお、悲しい情話唄は、他にも例えば、サイト「雑学の世界」のここに「お吉清三口説」(おきちせいざくどき)として二種が見出せる。この話は越後瞽女(ごぜ)の口説として広まったことが知られ、飴売などによってさらに「越後節」として諸国に流行ったものであることが、板垣俊一氏の論文「幕末江戸の唄本屋 ―吉田屋小吉が発行した唄本について―」PDF)に載る。なお、底本の大谷氏の「あとがき」(左ページ九行目以降)には、『なほ文末の『繪卷踊歌』と『お吉淸三くどき』とは、原文には散文譯だけ揭げてあるのであるが、これはそれを逐字譯とはせずに――殊にその後者の原歌を知つて居る者は多分譯者だけで、今後原歌を知らうにも知れまいから、――原歌を揭げることにした。』と書かれてあるのである。まさにこの訳者を得てこそ、この唄は原型が残ったのだと言えるのである。

                                                                                                     

 自分は佛敎的なのを二つ引用して、人の餘り知らぬ歌の野原へのこの短時の遠出(とほで)を終はることとしよう。初のは多分十二世紀の末か十三世紀の初かに作られ『源平盛衰記』といふ有名な書物のうちにあるものである。『今樣』といふ音格で――卽ち、七綴音と五綴音とのかはるがはるの短い句(七、五。七、五。七、五。と無制限)で書かれて居る。今一つの哲理的な作品は十六世の『隆達節(ふし)』といふ歌集から採つたものである。

 

  一 (今やう詞)

樣(さま)も心も 變はるかな!

落つる淚は    瀧の水、

妙法巡華の    池となり、

弘誓の船に    棹さして、

沈む我が身を   乘せ給へ!

 

  二 (文祿年間――一五九二―九六――のもの)

誰れか再び花咲かん

   あただ夢の間の

        露の身に。

 

[やぶちゃん注:「『源平盛衰記』といふ有名な書物のうちにあるもの」これは「平家物語」の特異な異本である「源平盛衰記」の「卷第九 康賴熊野詣」の中にある。平康頼(生没年不詳)は平安末から鎌倉前期の歌人で官人。中原頼季の息子か。正治二(一二〇〇)年には生存している。仏教説話集「寶物集」の編者に目される。衛門府官人・検非違使を経て、後白河院近習として活躍し、「今様」を後白河法皇に習い、「猿楽狂い」と綽名されるほどに芸能に熱中した。治承元(一一七七)年、平家打倒を企てた「鹿ケ谷の謀議」に連座し、藤原成経・俊寛とともに鬼界ケ島に流され、配流の途中で出家している。法名は性照。後に赦されて治承三(一一七九)年に帰洛した。「平家物語」では、以後、東山双林寺辺りに住んだとする。文治二(一一八六)年には源頼朝から阿波国麻殖保(おえのほう:「保」は中世期の国衙領の一種。元来は天領をで、私領を「庄」と呼んだのに対して用いられた行政名)の保司に任ぜられている(以上は「朝日日本歴史人物事典」に拠る)。以下、所持する三弥井書店版を参考に、カタカナをひらがなにし、漢字を恣意的に正字化して前後を示す。踊り字「く」は正字化した。

   *

近津井、湯河、音無の瀧、飛瀧權現に至まで、和光の誓を憑つゝ、いはのはざま、苔の筵、杉の村立(むらだち)、常葉の松、神の惠の靑榊、八千代を契る濱椿、心にかゝり目に及(および)、さもと覺る處をば、窪津王子より、八十餘所に御座(おはします)王子々々と拜つゝ、榊幣挾れたる心の內こそ哀れなれ。奉幣御神樂なんどこそ、力無れば不ㇾ叶と、王子王子の御前にて、馴子舞(なれこまひ)[やぶちゃん注:旅人が社寺の前を通る際に手向けとして踊る舞いのこと。]計(ばかり)をばつかまつらる。康賴は洛中無雙の舞也けり。魍魎鬼神もとらけ、善神護法もめで給計(ばかり)なりければ、昔今の事思出で、

  さまも心も替かな、

  落る淚は瀧の水、

  妙法蓮華の池と成、

  弘誓の舟に竿指て、

  沈(しづむ)我等をのせ給へ

と、舞澄して泣ければ、少將も諸共に、淚をぞ流しける。

   *

「今樣」(いまやう)平安末期に流行した声楽。その当時として「今様」(いまよう)、つまり「現代風」という意味で名づけられたもの。七五調四句の詞型を特徴とし、鼓などの伴奏で歌うこともある。白拍子などによって歌われ、貴族にも広まり、後白河法皇はその歌詞を「梁塵秘抄」に採録している。

「文祿年間――一五九二―九六――」開始年は一五九三年の誤り。]

2019/10/29

小泉八雲 日本の古い歌  (大谷正信譯) ~ (その1)

 

[やぶちゃん注:本篇(原題“ Old Japanese Songs ”)は一九〇〇(明治三三)年七月にボストンの「リトル・ブラウン社」(LITTLE,BROWN AND COMPANY)から出版された作品集“ SHADOWINGS ”(名詞「shadowing」には「影」以外には「人影」・「影法師」・「影を附けること」・「尾行」などの意味がある。本作品集の訳は概ね「影」が多いが、平井呈一氏は「明暗」と訳しておられ、私も漠然とした「影」よりも、作品群の持つ感性上の印象としてのグラデーションから「明暗」の方が相応しいと思う。来日後の第七作品集)の第二パート“ JAPANESE STUDIES ”の掉尾第三話として配された作品である。本作品集は“Internet Archive”のこちら(出版社及びクレジットと献辞の入ったページを示した)で全篇視認できる(本篇はここから)。活字化されたものは“Project Gutenberg”のこちらで全篇が読める(本篇はここから)。

 底本は英文サイト“Internet Archive”のこちらにある、第一書房が昭和一一(一九三六)年十一月に刊行した「家庭版小泉八雲全集」(全十二巻)の第七巻の画像データをPDFで落として視認した。【2025年4月14日:底本変更・正字化不全・ミスタイプ・オリジナル注全補正】時間を経て、国立国会図書館デジタルコレクションに本登録し、現行では、以上の第一書房版昭和一一(一九三六)年十一月に刊行した「家庭版小泉八雲全集」(全十二巻)の第七巻が、国立国会図書館デジタルコレクションで公開されてある。(リンクは扉だが、「家庭版」の文字はない。しかし、奥附を見て貰うと『家庭版』とあり、『昭和十一年十一月二十七日 發 行』とあることが確認出来る)、これが、前掲の底本と同じものであるが、やはり、外国のサイトのそれを底本とするのは、日本人小泉八雲に失礼であると考えた。されば、こちらで、再度、以下の「骨董」の作品群を改めて校正することとする。これが――私の小泉八雲への「義」――である。なお、これよりも前の元版の全集等が先行しているものの、私がそれらと比べた結果、実は先行する同社の「小泉八雲全集」のそれらは、訳が一部で異なっており、訳者等によって、かなりの補正・追加がされていることが、今回の正字補正作業の中で、はっきりと判って来た。いや、同じ「家庭版」と名打ったネット上の画像データでも、驚いたことに、有意に異なっていたのである。そうした意味でも――完全な仕切り直しの総点検――が必要であると決したものである。従って、旧前振りの括弧・鍵括弧の問題も、拡大とガンマ補正で確認し、正確を期する。本作はここから。添え辞附きパート中標題はここ。なお、公開当時は、各歌曲の注を、殆んど、行っていなかった(私は本邦の歌曲の知識が貧困である)ので、今回、大幅に(と言っても、小泉八雲が入手した資料の原拠(恐らくは訳者大谷氏が提供したものとは思われる)が全く分からないので、ネット上の参考記事リンクのみの箇所も多いのは、悪しからず)付注した。

 訳者大谷正信氏については、「小泉八雲 燒津にて 大谷正信譯」の私の冒頭注を参照されたい。

 傍点「﹅」は太字に代えた。踊り字「く」は正字化した。また、最後に纏めてあるポイント落ち字下げの「譯者註」は適切な位置に本文同ポイントで行頭まで引き上げて示した。また一部が(例えば、最初のフランス歌謡の英訳や小泉八雲自身の丸括弧による割注)がポイント落ちであるが、概ね本文と同ポイントで示した(長過ぎる場合は、ブラウザの不具合が生ずる虞れがあるので、ポイントを落とした)。歌謡の一部は(底本は全体が四字下げ)ブラウザの不具合を考え、上に引き上げた。

 かなり長い作品なので、分割して示すこととし、全体の公開が長引くのが厭なので、注はごくストイックに附すこととした。]

 

 

   日本の古い歌

 

 今年の正月元日の朝、見ると自分の机上に、自分が教へて居る文學科の一靑年詩人からの非常に嬉しい贈物が二品載つて居る。一品は新しい着物にとの織物――我が西洋の讀者が一度も見たことの無いやうな織物――の一卷(まき)である。その褐色の經(たて)は木綿絲であるが、緯(よこ)は不規則に黑の斑點のある白い柔らかい紙糸である。細かに檢べて見ると、その黑い斑點は支那文字や日本文字であることが判かる。といふのはその紙型の緯糸(よこいと)は、字の書いてある表面を外側にして、手際よく撚つて細い紐にしてある肉筆物――歌の肉筆物――で出來て居るからである。地合のその白と黑と褐色との全體としての感じは暖か味のある灰鼠[やぶちゃん注:「はいねず」。原文は“a warm mouse-grey
”。マウス・グレーは、茶色みを帯びた灰色。]である。出雲の多くの家庭でこれと似寄つた織物を家族用に製するのであるが、此の一卷(まき)は自分のその生徒の母が特に自分の爲めに織つたのである。頗る氣持ちのいい冬着になるであらう。そしてそれを着て居る時は、恰も神が日の光を纏うて居るが如くに、自分は文字通りに詩歌を身に纏うて居ることにならう。

[やぶちゃん注:「自分が教へて居る文學科の一靑年詩人」これはまず間違いなく、訳者である俳人(俳号は繞石)でもあった大谷正信のことである。彼は松江市末次本町生まれで、島根県尋常中学校での小泉八雲の教え子であり、学生の中でも最もハーンの信任を得た人物の一人であった。後、京都第三高等学校から学制改革で仙台第二高等学校へ転じた(第三高等学校・第二高等学校では同級生に高浜虚子と河東碧梧桐がおり、この頃から俳句への傾倒が始まっている)。明治二九(一八九六)年に第二高等学校を卒業すると、東京帝国大学英文学科に入学したが、まさに同年、小泉八雲が同大学に赴任し、再会を果たしていたのである。まさに大谷は小泉八雲の直弟子と言ってよいのである。大谷は、また、この東京大学在学中に正岡子規に出会い、本格的に俳句の道に精進することとなったのであった。]

 他の一品はこれまた詩歌であるが、その原形を侶つで居る詩歌である。餘り人の知らぬ書物から蒐めたもので、その殆ど全部が復唱句(くりかへしく)を有つて居るといふ事實からして殊に興味のある日本の歌の筆寫した驚嘆す可き蒐集なのである。舊いのもあり新しいのもあり――いくつもの異常な物語歌(バラツド)、多くの踊歌、それから驚く許り種々雜多な戀歌を含んで居て――幾百の作品から成つて居る。感情に於ても構造に於ても、自分が、今迄の書物で、飜譯して見本を既に提供した日本の歌に類似して居るものは唯だの一つも無い。その形式は、多くの場合、奇妙にも不規則である。がその不規則さはそれ獨得の一種奇異な妙趣を有たぬ[やぶちゃん注:「もたぬ」。]でも無い。

 

 自分はさういふ作品の一つにはそれが情操的に珍らしい性質を有つて居るが爲めと、また一つにはその構造法が奇異なので、その方面に我々は得る所がありうるが爲めとで――實例を提供しようと思ふ。古い方の歌(古代の劇詩譯者註一から拔萃した)は殊に注目に値するやう自分には思はれる。思想若しくは感情とその發言とは極めて單純であるが、反覆と途切れとの原始的な手段に賴つて、頗る著しい效果が奏せられて居る。次記の見本のうち特に注意に値すると自分に思はせる事は、第一節の三行目で始まつて居て途中一種の和唱句で中斷されて居る句が、次の節で繰り返されて言ひ終へられて居る遣り方である。恐らくはこの休止は、二重の和唱句がある英吉利の物語歌の或る物が、或はかの有名な

 

    Au jardin de mon père—

      Vole, mon cœur, vole!

    Il y a un pommier doux,

      Tout doux!

〔ふる里の父の園生へ――

         飛べ、わが心よ、飛べ!

    そこにに林檎の木があつて

         甘い甘い實がなる!〕

 

のやうな佛蘭西歐の妙な古い形式が與へる效果を、西洋の讀者に思ひ出させることであらう。然し日本の歌では途切れ句の反覆は、日本の舞踊の動作が西洋のどんな輪舞とも同じからぬ如く、この佛蘭西の作品の效果とは同じからぬ夢見るやうな悠々とした效果を奏する。

 

譯者註一 劇詩(ドラアマ)とあれど寧ろ謠ひ物とあるべきもの。

[やぶちゃん注:以上のフランス語のそれは、フランスのブルターニュ地方で採集された民謡の冒頭の一部である。フランス語の“Wikitrad”のここに、以下のように電子化されてある。

   *

Derrièr' chez mon père, vole, vole, mon cœur vole !
Derrière chez mon père, y a t'un pommier doux,
      Et you, tout doux ! Tout doux, et you !
      Y a t'un pommier doux.

Trois belles princesses, sont couchées dessous,

– Ça, dit la première, je crois qu'il fait jour.

– Ça, dit la deuxième, j'entends le tambour !

– Ça, dit la troisième, c'est mon ami doux.

Il va-t-à la guerre, combattre pour nous.

S'il gagne bataille, aura mes amours.

Qu'il perde ou qu'il gagne, les aura toujours !

   *

日本語訳は、リンク先で機械翻訳でも十全に判る。]

 

  彼乃行(かのゆく) (十一世紀のものでゐらう)

かの行くは

雁(かり)か鵠(くぐひ)か

雁ならば。

(覆唱句) ハンヤ、トウトウ。

      ハンヤ、トウトウ。

 

雁ならば

名のりぞせまし

猶ほくぐひなりや

(覆唱句) トウトウ。

[やぶちゃん注:この唄、後の竹久夢二の小曲絵本「三味線草」(大正四(一九一五)年新潮社)の中に、

   *

かのゆくは雁か鵠か

雁ならばはれやとうとう。

雁ならば名のりぞせまし

なほ鵠なりや

はれやとうとう。

   *

と全く同じ形で載る。如何にも小唄で、小泉八雲の謂うような十一世紀というのはちょっと溯り過ぎのようにも感ずるが、後で出る催馬楽の一篇などとの親和性を感じさせることは、させる。

「雁」広義のガン(「鴈」「雁」)は、鳥綱 Carinatae 亜綱 Neornithes 下綱 Neognathae 小綱カモ目カモ科ガン亜科 Anserinae の水鳥の中で、カモ(カモ目カモ亜目カモ科 Anatidae の仲間、或いはその内のマガモ属 Anas より大きく、ハクチョウ(カモ科 Anserinae 亜科ハクチョウ属 Cygnus の六種、及びカモハクチョウ
Coscoroba 属の一種の全七種)より小さい種群を総称する。博物誌は私の「和漢三才圖會第四十一 水禽類 鴈(かり・がん)〔ガン〕」を参照されたい。

「鵠(くぐひ)」は、広義の「白鳥」(鳥綱カモ目カモ科ハクチョウ属 Cygnus 或いはそれに類似した白い鳥)の古名であるが、辞書によっては、特にハクチョウ属コハクチョウ(小白鳥)亜種コハクチョウ Cygnus columbianus bewickii とする。私も個体の大きさから、コハクチョウを採る。博物誌は私の「和漢三才圖會第四十一 水禽類 鵠(くぐひ)(コハクチョウ)」を参照されたい。]

 

 上記の形式での古い敍情詩は澤山にある。構造は異つて居るが、これ亦古い劇詩から採つた別な歌を次に揭げよう。これには復唱句は無いが、句の同じく特有な中絕がある。そしてその四つ拍子の反覆の效果は情緖的に感銘が深い。

 

  磯 等(いそら)

いそらが崎に

鯛釣る海士(あま)も

鯛釣る海士も

 

我妹子(わぎもこ)がためと

鯛釣る海士も

鯛釣る海士も。

[やぶちゃん注:この歌は、「神樂歌(かぐらうた)」の中の一つ。サイト「紅玉薔薇屋敷」内の「梁塵秘抄口伝集巻第十一(その四)」に詳しいので、そちらを見られたい。

 

 が然し次記の古歌では、言ひ終へて居ない句の異常な反覆と、二重の中絕とで、前のよりも猶ほ一層著しい效果を得て居る。自分はこれほど純然と自然なものは想像が出來ぬ。實に此の單純な發言の寫實は殆ど哀切の性質を有つて居る。

 

  總 角(あげまき) (古い敍情劇詩――年代不明)

 總角(あげまき)を

早稻田にやりてヤ

 其(そ)をもふと譯者註二

 そをもふと

 そをちふと

 そをもふと

 そをもふと

 

 そをもふと

何もせずして

 春日すら

 春日すら

 春日すら

 春日すら

 春日すら。

 

註 昔は、男の子は兩の顳顬[やぶちゃん注:「こめかみ」。]の處だけ一總の垂れ髮を殘して頭を綺麗に剃るが習慣であつた。そんな垂れ髮を「アゲマキ」と呼んだもので、總(ふさ)といふ意味の語である。ところがしまひには其語が男兒或は童といふ意味を有つやうになつた。この歌のやうな歌では――丁度英國の少女がその愛人のことを「マイ・ディア・ラツド」或は「マイ・ダアリング・ボイ』と言ふやうに、なつかしみいとほしみての言葉として使用されて居るのである。

譯者註二 「もふと」は「おもふと」の意。

[やぶちゃん注:houteki氏のブログ『雅楽研究所「研楽庵」』の「総角」を参照されたい。

「ラツド」“lad”。「若者・少年・(年齢に関係なく)男・元気のいい男・大胆な男」等の意を持つ。]

 

 反覆と覆唱句との他の形式を次記の二つの敍情詩が提供して居る。

 

  鬢多多良(びんだたら) (十二世紀に作られしものと想はる〻もの)

 びんだたらむ

あゆかせばこそ

あゆかせばこそ

愛敬(あいぎやう)づいたれ。

   ヤレコ トウトウ。

   ヤレコ トウトウ。

[やぶちゃん注:この歌は、本来は「郢曲」(えいきょく)「鬢多多良」と呼ばれたもの。「郢曲」の起源は中国で、「郢」は古代の春秋時代の楚の都の名であったが、淫(みだ)らな土地柄であったところであったことから、転じて「賤しい音楽」「はやり歌」「俗曲」を指した。それが、本邦に伝わり、平安・鎌倉期の「謡い物」の総称となり、狭義には「早歌」(そうか:宴会曲)又は「朗詠」の意で用いられた。広義には平安初期には、神楽(かぐら)・催馬楽(さいばら:元々、各地に古くからあった民謡・風俗歌に、外来楽器の伴奏を加えた形式の歌謡)・風俗歌・朗詠をさし、中期には「今様」(いまよう)も加わり、後期には多くの雑芸も附加され、鎌倉時代には「早歌」として好まれ、加えられた。曲名の「鬢多多良(びんだたら)」は「びんざさら」(編木・拍板)と同義で、原義は民俗芸能の打楽器の一つを指し、短冊形の薄い板を数十枚連ねて上方を紐で綴じ合わせたもの。両端を握って振り合わせて音を出す。単に「ささら」とも言う。また、その「びんざさら」を持って行う歌を伴う、「田楽踊」(でんがくおどり)を指す。これも、そうしたものの一曲(以上は、概ね、所持する小学館「日本国語大辞典」の記載を参考にした)。]

 

 

  樣は天人 (多分十六世紀のもの)

樣(さま)は天人(てんにん)。

  ソレソレ

  トントロリ。

 

乙女の姿

雲の通ひ路

ちらと見た。

  トントロリ。

 

乙女の姿

雲の通ひ路

ちらと見た。

  トントロリ。

[やぶちゃん注:調べても、見当たらないが、思いつきに過ぎないが、このルーツは、「大嘗祭」(おおなめさい)や「新嘗祭」(にいなめさい)の際、「豊明節会」(とよあけのせちえ)で行われる、本邦の雅楽の中でただ一つの複数の女性によって演ぜられる「五節の舞」(ごせちのまい)ではないかと思われる。それが、武家や市井に伝播変形する中で、かくくだけたオノマトペイアを添えた歌詞が生じたものではなかろうか。ウィキの「五節舞」によれば、『天武天皇の時代、吉野に天女が現れて袖を五度振って舞ったのが由来との説が、平安中期にあった』。五『度、袖を振るのは呪術的であり、新嘗祭の前日に行われる鎮魂祭とも同じ意味があるという説もあ』り、「年中行事秘抄」には『「乙女ども乙女さびすも唐玉を袂に巻きて乙女さびすも」という歌謡が載せられており、この歌にあわせて舞われたもののようである』とあり、なにより、そこにも掲げられてあるが、「百人一首」で知られた(第十二歌・原拠「古今和歌集」「卷十七 雜歌上」)僧正遍昭の五節舞の情景を詠じた

   五節のまひひめを見てよめる

 あまつかぜ雲のかよひぢ吹きとぢよ

      をとめの姿しばしとどめむ

を、インスパイアしているのが、はっきり感じられるからである。

 

 自分が次に選んだのは年月不明の戀歌からである。時代は鎌倉時代(一一八六――一三三二)である。この斷片は、佛敎の言葉が引いてあるのと、節(せつ)の形式が甚だ規則正しいのとが主として目立つて居る。

 

 まことやら

鹿島の港に

彌勒の船が

着いて御座りまうす。

   ヨノ!

  サア、イヨエイ、イヨエイ!

  サア、イヨエイ、イヨエイ!

 

 ほばしらは

黃金(こがね)のほばしら

帆には法華經の

五のまんまきもの。

  サア、イヨエイ、イヨエイ!

  サア、イヨエイ、イヨエイ!

  …………………………………

[やぶちゃん注:歌詞が完全な一致を見るわけではないが、文化庁の「鹿島みろく 調査報告書 平成二十五年度文化庁「変容の危機にある無形の民俗文化財の記録作成の推進事業」(PDF:8.06MB)の中に「鹿島の港に」「弥勒の舟」「黄金の」「法華経」の歌詞を確認出来る。詳しくはそちらを見られたいが、この歌詞は、鹿島神宮に関わる古くからある「みろく踊り」の歌詞であることは間違いない。その分布は、茨城県・千葉県・埼玉県・東京都・神奈川県、及び、静岡県等の関東南部に広く現存するものである。

 

 奇妙な復唱句があつて、他の點で興味があるのは、『サイバラ』といふ奇妙な一類の敍情劇詩譯者註三の一つたる、今一つの『あげまき』といふ名の歌である。これには稍〻『放恣』といふ缺點があるが、殆ど同年代に作られたらしく思はれる我がエリザベス朝の歌の世人が賞讃するもののうちの或る物よりも餘計に非難を受くべきものとは自分は考へぬ。

譯者註三 劇詩は謠ひ物とあるべきもの。

[やぶちゃん注:「サイバラ」催馬楽。日本の雅楽の種目の一つで、平安時代に貴族の間で盛んに歌われた声楽曲。アジア大陸から伝来した唐楽・高麗楽(こまがく)風の旋律に日本の民謡や童謡の歌詞を当て嵌めたものが多い。発生の時期は平安初期に溯るが、平安中期以後、特に源雅信の活躍した九〇〇年代から鎌倉初期にかけて盛行した。歌い方には藤家(とうけ)と源家(げんけ)の二つの流儀があり、その曲目も数十曲に及んだ。歌の内容は恋愛歌・祝儀歌などさまざまで、饗宴の性質によって歌われる歌が決っていて、後には一種の故実として固定化したが、室町時代に途絶した。その後、寛永三(一六二六)年に「伊勢海(いせのうみ)」が再興されて以来、今日までに十曲が宮内庁楽部に伝わる。曲は歌のリーダー(句頭)が曲の冒頭部分を独唱し、次に、全員の拍節的斉唱となる。伴奏楽器は現行は竜笛・篳篥(ひちりき)・笙・琵琶・箏・笏拍子を用いる。現行の十曲の催馬楽は双調 (そうぢょう:ト音)を主音とする呂(りょ)の歌「安名尊(あなとう)」・「山城」・「席田(むしろだ)」・「蓑山」・「田中井戸」・「美作(みまさか)」などと、平調(ひょうぢょう:ホ音)を主音とする律の歌「伊勢海」・「更衣」・「大芹(おおせり)」・「西寺」に二分類されている(以上は「ブリタニカ国際大百科事典」に拠った)。

「放恣」「はうし(ほうし)」は「勝手気ままで乱れていること」の意。以下に見る通り、この歌、性的なニュアンスがあからさまである。

「我がエリザベス朝の歌の世人が賞讃するもののうちの或る物よりも餘計に非難を受くべきものとは自分は考へぬ」具体には英文学に不学にして知らぬが、ネットの英語辞書の“bawdy”(猥褻な)の例文に、“They published a collection of Elizabethan bawdy.”とあり、訳に、『彼らはエリザベス朝の猥褻な事柄の収集を発刊した。』とあった。]

 

  總 角(あげまき) (多分十六世紀のもの)

あげまきや

   トウトウ!譯者註四

尋(ひろ)ばかりや

   トウトウ!

放(さか)寢たれども

まろび逢ひにけり

   トウトウ!

かより逢ひにけり。譯者註五

   トウトウ!

 

譯者註四 原英文に「トントン」あるは誤。

譯者註五 「かより」の「か」は接頭語。「かより逢ひ」は「寄り逢ひ」なり。

[やぶちゃん注:本歌については、柴田稔氏のブログの『「翁」を観る前に知っておきたいこと ③ <「翁」の舞台経過 その2>』を参照されたい。

「尋(ひろ)」は中国や本邦に於いての両手を広げた長さを指す古い長さの単位。「尋」の解字もまさにその意味である。ここは「總角」をした少年少女は、孰れも、距離を離して寝ていたものだったが、ころこっろと転(まろ)び合って、互いに逢い、そうして「か寄る」=寄り添って(一説に「ゆらゆら揺れ動いて」。性的ニュアンスが濃厚に感じられる)逢うことができたのだ、の謂いであろう。]

 

 自分が次に揭げる一群の選擇は『地方の歌』から成つて居る。『地方の歌』とは自分にそれを蒐めて吳れた生徒の心では、特殊な郡或は國に固有な歌といふ積りである。いづれも――前に揭げた作品よりも古くはないけれども――古いもので、その興味は主として情緖的なところに在る。が、讀者は氣附かれるであらうが、妙な復唱句のあるのが數々ある。此種の歌は殊に村の踊に――盆踊や豐年踊に――歌ふものである。

 

  戀 歌 (越後國)

花か蝶々か

蝶々か花か

   ドンドン!

來てはちらちら迷はせる

來てはちらちら迷はせる。

   サウカネ、ドンドン!

 

  戀 歌 (紀伊國小川村)

聲はすれども

姿は見えぬ

深野のきりぎりす!

 

註 キリギリスは非常に音樂的な音を出す一種のグラスホパアである。色が全く草色だから、近く鳴いて居る時でも、之を見るのは困難である。此歌に田畠で仕事をしてゐながら歌をうたふ百姓の愉快な習慣を仄めかせて居るのである。

[やぶちゃん注:「紀伊國小川村」中世以来の荘園であった和歌山県の海草郡旧小川村、現在の和歌山県海草郡紀美野町(きみのちょう)のこの附近(グーグル・マップ・データ。以下同じ)であろう。

「グラスホパア」“grasshopper”は、英語圏では広く「バッタ」・「イナゴ」・「キリギリス」総てを指す。魚と同じで、日本と異なり、世界的には、それぞれの虫類を細かく指示する語は、ない、のである。]

 

  戀 歌 (陸奧國津輕郡)

私(わし)の心と

冲來る舟は

らくに見せても

  苦が絕えぬ。

 

  戀 歌 (周防國井關村)

淚ぼして

辛苦を語る

可哀らしさが

  ましまする!

[やぶちゃん注:山口県山口市の阿知須(あじす)井関(いせき)か。]

 

  戀 歌 (駿河國御殿場村)

花や能く聽け

性(しやう)あるならば

人がふさぐに

  何ぜひらく。

 

  古の東京の歌

いやなお方の

親切よりか

好いたお方の

  無理がよい。

 

  戀 歌 (石見國)

可愛らしさよ

螢の蟲は

忍ぶ繩手に

  灯をともす。

 

  おどけ歌 (信濃國)

 あの山かげで

 光るは何ぢや

月か星か螢の蟲か

 月でも無いが

 星でも無いが

姑のお婆の眼が光る――

 (合唱) 眼が光る!

 

  かへり踊 (讃岐國)

かへり踊(文字通りでは「變へる踊」又は「歸る踊」)の眞の意味は自分は確とに知らぬ。

おれが姑(しうとめ)のたけちなや!

   (合唱) たけちなや!

流る〻水にも繪をかけと!

流る〻水に繪をかかば

あなたはそら夜の星ぞ讀め!

        星ぞ讀め!

お庭踊はいざをどららう!

        チヤン、チヤン!

        チヤチヤ!

        ヨイトセ!

        ヨイトセ!

誰(た)ぞやお裏(うら)に竹伐るは?

   (合唱) 竹伐るは?

おれが殿御(とのご)のうゑ竹を

        うゑ竹を?

お庭踊はいざをどらう!

        チヤン、チヤン!

        チヤチヤ!

        ヨイトセ!

        ヨイトセ!

おれが姑(しうとめ)のたけちなや!

        たけちなや!

岩を袴にたち縫へと!

岩を袴にたち縫へば

あなたは小砂を糸に縒(よ)れ!

        糸に縒れ!

お庭踊はいざをどらう!

        チヤン、チヤン!

        チヤチヤ!

        ヨイトセ!

        ヨイトセ!

[やぶちゃん注:「たけちなや!」の「たけち」を小泉八雲は“the cruelty”(残酷・冷酷)と訳している。これは、ここでは、古語「猛し」の訛りで、「激しい・荒っぽい」の意であろう。]

 

  お寺踊 (伊賀國上野町)

お寺へまゐりて御門(ごもん)を見れば、

御門は臼かね扉(とびら)はこがね、

御門は氣高(けだか)いお寺かいな。

        お寺かいな!

お寺へまゐりて御庭を見れば、

せりせり小松は四方に榮え、

一(いち)の小枝へ四十雀(しじふから)が巢を

        巢をかけた。譯者註六

お寺へ參りて泉水見れば、

色々の小ばなを集めてござる、

めんめにその色咲き分ける、

        咲きわける。

お寺へ參りて書院を見れば、

いろいろの小鳥を集めてござる、

めんめにその音(ね)をいだしける、

        いだしける。

お寺へまゐりて客殿(きやくでん)見れば、

か〻ヘの屛風にゆえんをすゑて、

御經あそばすありがたや!

        ありがたや!

 

註 四十雀は英詩のマンチュリアン・グレイト・ティツト。その巢を邪魔せずその雛を保護しやれば、そが巢をつくる庭の持主に幸福を齎すといふ。

譯者註六 原歌は此一節は「お寺へ參りて御庭を見れば、せりせり小松は四方へ榮え、一の小枝へ四十雀は巢に巢をかけて、其子が育てばお寺繁昌、お寺はんじよ」なり。そのまゝ逐字譯しては行數他の節よりも多くなる爲め都合よく自由譯されしなり。

[やぶちゃん注:この「お寺踊」というのは、聴いたことがない。調べても判らない。識者の御教授を乞うものである。

「四十雀(しじふから)」スズメ目スズメ亜目シジュウカラ科シジュウカラ属シジュウカラ Parus minor であるが、本邦産は現在、四亜種が留鳥として棲息する。代表種は亜種シジュウカラ Parus minor minor(アムール川流域から朝鮮半島・長江流域・四川省にかけてと、日本(北海道・本州・四国・九州・壱岐・隠岐・対馬・伊豆諸島・五島列島・佐渡島)及びサハリンに分布)に分布する(他の三亜種は南西諸島島嶼部限定の固有種)。博物誌は私の「和漢三才圖會第四十三 林禽類 四十雀(しじふから)(シジュウカラ・附ゴジュウカラ)」を参照。

「マンチュリアン・グレイト・ティツト」“The Manchurian great tit.”(「満州産四十雀」)。「great tit」はシジュウカラ属 Parus のシジュウカラ類の総称(「tit」はシジュウカラ科 Paridae のそれ)。]

2019/10/28

地獄で仏! 奇蹟の三上工務店さまに感謝する!

9月9日未明の台風15号は私の高台の家の裏の斜面にあった五メートルほどの枝垂れ桜の木を根こそぎ倒した(因みに屋根の一部も損壊した。とある業者に頼んだが、未だに直しに来て呉れない) 。斜面に倒れかかったそれは落下の恐れがあったことから、十日後に拝み倒して来て貰った造園業者に16万円で処理して貰ったものの、斜面はズル剝けになって、土留めをしないと土地の崩落の危険があると言われた。三日後、20キロのバラスと40リットルの黒土を近くのホーム・センターで買い、山用のザックで運んで(生涯で二十数キロを背負ったのは、二十代の終りの友人らとの山行の時以来二度目だった。腰がいかれた)抉れた穴に入れたところが、あっという間に総てを吞み込んだ。逆に恐ろしくなった。即座にとある業者に土留めを頼んだ。二週間ほど経った今月の上旬、やっと下見に来た。しかし「重機が入れないのでやれない」とケンモホロロに言い放って5分で帰ってしまった。打ちのめされた。その日のうちにネットでやってくれそうなところを探した。ふと、目にとまったのは平塚の三上工務店のサイトであった。まさしく「藁にも縋る」思いで電話をした。すると、何と、翌日に下見に来て呉れた。前の業者のことを話した。すると、「それは『やれない』のではなくて、『やりたくない』んですよ。大手の会社ほど、面倒がって、こうした工事はやらないでしょうね」と言われながら、しかし即座に請け負って呉れた。今日、朝八時から始めて、半日がかりで奇蹟のような手仕事の職人技で、驚くべき綺麗な土留めをして下さった。私はこの数十年来、こんなに胸のすくような感動を覚えたことはなかったことをここに告白する。ここに記して、心から、感謝の意を表するものであり、多くの困っている方々にも、是非、この平塚の「三上工務店」をご紹介したく思い、一筆するものである。

小泉八雲 日本の女の名 (岡田哲藏譯) その「三」と「四」 / 日本の女の名~了

 

[やぶちゃん注:本篇については、『小泉八雲 日本の女の名 (岡田哲藏譯) その「一」』の私の冒頭注を参照されたい。なお、末尾注の最後の方に改行して添えたものの中に、

   *

華族女學校の方の名も同校卒業者名簿を參照して見たが今考へ難きものが少からぬ。

   *

と、本パートと関連のある註があるので、再度、ここに記しておく。]

 

 

       

 現代貴族の名の例として私は明治十九年から二十七年迄[やぶちゃん注:一八八六年から一八九四年まで。]の間に發行せられた華族女學校の報告を參照した。華族女學校は同族以外の女子も入學を許して居るが、私は硏究の目的の爲めに華族のみの名を百四十七だけ選んだ。

 三字四字の名は此等の中に稀であること、また現代の貴族の二字の呼び名は、發音も說明も一般の呼び名と差別が無いことが注意されやう。然し漢字で書くと外の女と餘程異るものがある。それは多くは複雜で見慣れぬ文字で書かれる爲めである。その樣な精妙の文字を用ゆることは主として次の表に見る如き同音異義の名が比較的多いことの說明になる。

[やぶちゃん注:以下、総てのリストは、底本では、各ページ三段で記載されているが、一段で示した。]

 

    華族女學校生徒の個人名

秋子

明子

晨(アキ)子

朝子

綾子

千春子

近子

千鶴子

[やぶちゃん注:原本に従えば、「ちづるこ」である。]

千代子

えい子(鐘聲)〔?〕

悅子

藤子

福子

文子

芙蓉子

冬子

花子

華子

治子

春子

はる子(遠く離るの意)〔?〕

[やぶちゃん注:岡田氏は疑問符を示しているが、「遙子」で奇異でも何でもない。]

初子

秀子

英子

博子

廣子

久子

ひさ子(繼續の意)

星子

育子

今子

五百子

[やぶちゃん注:「いほこ」。]

糸子

龜子

周子

[やぶちゃん注:「かねこ」。]

鐘子

かた子(條件)〔?〕

一(カズ)子

數子

和子

淸子

孝(日本語を知らぬ讀者に說明しかねるが、音調の都合で子を省く、この名の音が一つの時も二つの時も)

[やぶちゃん注:「孝」は原文では“ kō ”と表記されている。ここで小泉八雲が謂っているのは「こー」の時も「こう」の時も、ということである。]

鴻子

琴子

國子

京子

萬千

[やぶちゃん注:「まち」。]

誠(マコト)

正子

まさ子(信任の意)〔?〕

增子

また子(完全にの意)〔?〕

[やぶちゃん注:「全」は人名で「また」と読むから、疑問はない。]

松子

三千子

嶺子

光子

美代子

元子

長子

永子(永生)

波子

直子

によ子(神道にも佛敎にもある何にても望むものを授くといふ如意寶珠より取れる名、地藏も此珠を有つ。『東方聖書』第十一卷なる大善見王の經第一章のヴエルリアの珠と同じ物ならん譯者註一一

譯者註一一 『東方聖書』第十一卷は第七卷の誤ならん。パリ語より譯せるヴイナナ本文といふ本文に、佛敎の Futtas といふものあり、その第六 Legend of thc Grcat King or Gloly Mahâ-Sadassana Suttanta.「大善王經」といふ)あり。この大王を阿難陀といひ、七種の寶あり。その一をVcluria 卽寶珠といふとあり。但し『によ子』といふ名が果して如意寶珠より取りしものか疑はしい。

[やぶちゃん注:「東方聖書」は『東方聖典叢書』(‘ Sacred Books of the East ’)で、ドイツ生まれで、イギリスに帰化したインド学者(サンスクリット文献学者)・東洋学者・比較言語学者・比較宗教学者・仏教学者であったフリードリヒ・マックス・ミュラー(Friedrich Max Müller 一八二三年~一九〇〇年)によって編集され、オックスフォード大学出版局によって一八七九年から一九一〇年にかけて刊行された、アジアの諸宗教の聖典の英語翻訳を集成した全五十巻からなる壮大な叢書。ヒンドゥー教・仏教・道教・儒教・ゾロアスター教・ジャイナ教・イスラム教の主要な聖典を収録している(ウィキの「東方聖典叢書」に拠る)。

「パリ語」パーリ語。インド・ヨーロッパ語族のインド語派に属する言語で、現在は死語。Pali。中期インド語であるプラークリット語の一つで、南方仏教聖典の用言語として知られる。アショーカ王石柱、サンスクリット劇中の諸方言との比較、釈迦との関係等から、パーリ語は北部インドのマガダ方言又はウッジャイニー方言に基づくとされる(平凡社「百科事典マイペディア」に拠る)。]

のぶ子(多量)〔?〕

延子

範子

縫子

沖子

貞子

定子

櫻子

里子

さと子(辨別)[やぶちゃん注:「識子(さとこ)」。]

せき子(大の意)〔?〕

[やぶちゃん注:この「せき子」は「碩子」ではあるまいか。「碩」という漢語は「大きくてすぐれている」で、小泉八雲の解説と一致する。]

節子

茂子

繁子(繁榮)

茂(シゲ)子(豐富なる生長)

[やぶちゃん注:表記が前と重なるのは如何なものか。平井呈一氏はここを『成(しげ)子』とされており、躓かない。]

しげ子(生長)〔?〕

しげ子(芳香)〔?〕

[やぶちゃん注:岡田氏の訳はちょっとおかしい。リストでは“ Shigé-ko ”の同音のそれは四名分しかないのに、ここでは五名出ているからである。最初の「茂子」は衍字ではなかろうか? なお、平井呈一氏は『馥(しげ)子』と漢字を当てる。]

しき子(愼)〔?〕

島子

新子

靜子

靜江

園子

末子

[やぶちゃん注:これは底本では「未子」であるが、原文は“Suë-ko”なので、明らかな誤植と断じ、特異的に訂した

助子

澄子

すみ子(眞實)

澄江

錫子

鈴子

鈴音

[やぶちゃん注:「すずね」。]

高子

孝(タカ)子

たか子(貴き意)

竹子

瀧子

玉子

珠子

爲子

[やぶちゃん注:原本に従うなら「民子」である。]

たね子(成功)〔?〕

達子

多鶴子

[やぶちゃん注:原本に従うと「たつるこ」、だが、通常は「たづこ」である。]

田鶴子

[やぶちゃん注:読みは同前。]

輝子

鐡子

時子

留子

富子

友子

敏子

豐子

常子

つね子「前と同義別字」〔?〕

[やぶちゃん注:「庸子」・「彝子」・「每子」等が想起出来る。平井氏は『節(つね)子』とする。]

つね子(眞實)

[やぶちゃん注:漢字を想起出来ない。]

鶴子

艷子

卯女

[やぶちゃん注:原本に従えば、二字で「うめ」。小泉八雲は解説で“Female Hare”(雌兎)とする。]

梅子

八千子

八十子

八十四子

[やぶちゃん注:原本に従うなら「やそしこ」と読む。]

保子

寧子

安子

米子

賴子

よし(卓越)〔?〕

[やぶちゃん注:「優(よし)」か?]

芳子

良子

愛(ヨシ)子

淑(ヨシ)子

よし子(悅)

慶(ヨシ)子

よし子(幸)

[やぶちゃん注:「吉子」・「嘉子」等が想起出来る。]

よし子(輝きて明)〔?〕

幸(ユキ)子

雪子

行子

豐(ユタカ)

 

 

       

 本論のはじめに私は純然たる美的の呼び名の好まれぬ理由は一面に極めて詩的の名が藝娼妓につけられる習俗の爲めであらうといつた。それで或る外人の誤解を正す目的で私は藝妓の名に就て二三の攻究を試みる。

 藝妓の名は――他の名の類の如く――好奇的興味に充ち、またそれだけで眞に美しいが、尊敬と正反對の職業と聯想する爲めに全然俗化してしまつた。嚴密に云へば、此等の名は本硏究の問題と全く關係が無い。それは實は個人名で無くて、唯だ職業の名稱に過ぎず、呼び名で無くて藝名であるからである。

[やぶちゃん注:以下の太字は底本では傍点「○」。]

 か〻る名の大部分はある接頭字、接尾字の特徵がある。例へば左の如きものがある。

 ㈠ 上にをつける、若草、若鶴、若紫、若駒の類。

 ㈡ 上にをつける、小艷、小花、小櫻の類。

 ㈢ 下に[やぶちゃん注:「りょう」(原文音読)。]をつける、(登り龍は特に成功の象徴である)、玉龍、花龍、金龍の類。

 ㈣ 下に[やぶちゃん注:「じ」。]をつける、歌治、しんね治(?)、勝治の類。

[やぶちゃん注:「しんね治」平井氏は『〆治』とする。]

 ㈤ 下にをつける、玉助、駒助の類。

 ㈥ 下にをつける、歌吉、玉吉の類。

 ㈦ 下にをつける、三菊[やぶちゃん注:「みつぎく」。]、雛菊、小菊の類。

 ㈧ 下にをつける、駒鶴、小鶴、糸鶴の類。

か〻る形式は說明の助にならう。然しまだ外のがある。藝名は槪ね二つの漢字で書いて、三音又は四音に讀む。五音の藝名も折々ある、二音だけのは少く舞妓には稀である。而してか〻る職業的の名は何等道德的の意義あることは殆ど無い、これらは長壽、富、快樂、若さ、幸運などに關はる物の意義で、恐らく特に幸福に關係が多い。

 

 近年都の藝妓の或る者のうちには上品なを名の下につけることが流行となり、又は貴族的の呼び名を名乘るものさへ現はれて來た。一八八九年[やぶちゃん注:明治二十二年。]に東京の一新聞は法律の手段でこの事實を停止することを論じた。この事がこの問題に關にする公衆の感情の證明を與ふると見られよう。

 

小泉八雲 日本の女の名 (岡田哲藏譯) その「二」

 

[やぶちゃん注:本篇については、『小泉八雲 日本の女の名 (岡田哲藏譯) その「一」』の私の冒頭注を参照されたい。なお、本文内の原「註」は底本では四字下げポイント落ちであるが、引き上げて同ポイントで示した。文中内の( )の原注や訳者の疑問を示す『〔?〕』(これは末尾注の最後の方に改行して、

   *

ほ本文中著者の自註は槪ね日本語の明でゐるが、我が讀者に不用のものは省き、あるものは略記した、そのうち誤解も往々あれどそれらはそのま〻になしおき、不明のものに〔?〕を附けておいた。華族女學校の方の名も同校卒業者名簿を參照して見たが今考へ難きものが少からぬ。

   *

とある)もポイント落ちであるが、同じ仕儀とした(以下、この注記は省略する)。

 なお、私が読みが振れると判断して添えた読み以外に、読み方に迷う箇所があれば、“Project Gutenberg”の本篇で原綴りを確認されたい。

 

      

 

 日本の女の名に關しての重要な規則の若干を今舉げて見ねばならぬ。

 此等の呼び名の大多數は假名二字の語である。中流及びそれ以下の相當の身分の女の個人名は殆ど凡て二字、但し或る奇妙な接尾音をつけて延ばす場合は別である、そのことは後に言ふ。以前には三字又はそれ以上の名は上流の女のものであつた。然るに今日は上流の間にても二字だけの女の名が流行して居る。

 二字の女の名は敬稱として上にオを、下にサンをつけるのが習慣である。オ松サン、オ梅サンなどと。然し三字の名には敬稱のオをつけず、菊枝といふ名の女はオ菊枝サンでなしに、ただ菊枝サンと呼ぶ。

 

註 或る親密の場合にはオもサンも省く。目上の人が目下の人を呼ぶときも同じで、淑女が召使をオ米(ヨネ)サンと呼ばず、ただ米(ヨネ)と呼ぶ。

 

 貴夫人の名の上に敬稱のオをつけることはもはや以前の樣で無い。それは名が唯一言であるときでもさうである。呼び名の上に何もつけないで下に敬稱として子の字をつける。富といふ名の農家の娘は同輩からオ富サンと呼ばれる。同名の淑女は富子と呼ばれる。例へば華族女學校敎頭下田夫人は歌といふ美しい名を有つ[やぶちゃん注:「もつ」。]。彼女は手紙に下田歌子と書かれ、自らも返書に同じ樣に署名する。日本の習慣では家の苗字はいつも個人の名の上におかれて西洋とは反對である。

[やぶちゃん注:「下田歌子」(嘉永七(一八五四)年~昭和一一(一九三六)年)は教育者。美濃岩村藩儒者平尾鍒蔵(じゅうぞう)の娘。祖父は儒学者にして尊王論を唱えた東条琴台(きんだい)。幼名は鉐(せき)。明治五(一八七二)年、女官となり、皇后から歌子の名をうける。旧丸亀藩士で剣術師であった下田猛雄(四年後、病没)と結婚。明治十四年に桃夭女塾を開設、明治十八年には華族女学校(女子学習院の前身)の設立に参画し、教授・学監となった。明治三十一年、一般の女子のために帝国婦人協会を設立し、翌年には附属の実践女学校(実践女子大学の前身)を創立した。著作に「香雪叢書」「家政學」などがある。]

 名の下につけるは漢字で書いて子供の意であるが、同音の漢字のと混じてはならぬ。は屢〻舞妓の名に見ゆる。この上品なの字は愛撫的に物を小さく見る語の價があると私は言つて見たい。それで愛子といふ名はスペンサァの仙女王(フェアリ・クイン)のアモレタ(Amoretta)によくあたると思ふ。それは何れにしても、節、貞の如き日本淑女は今日はオ節、オ貞と呼ばれずに、節子、貞子と呼ばれる。然るに民衆の女が節子、貞子などと署名すれば笑はれるにきまつて居る。それは節子夫人、貞子夫人といふ意味になるからである。

[やぶちゃん注:「スペンサァの仙女王(フェアリ・クイン)のアモレタ(Amoretta)」原文“the "Amoretta" of Spenser's Faerie Queene.”。イングランドの詩人エドマンド・スペンサー(Edmund Spenser 一五五二年頃~一五九九年)が当時のイングランド女王エリザベスⅠ世に捧げた、一五九〇年(初版)刊のアレゴリーをふんだんに用いた長詩「妖精の女王」(‘ The Faerie Queene ’)は全六巻と断篇からなる長編叙事詩で、アーサー王物語を題材にしている。本来は全十二巻で構成を予定し、各巻で十二の徳を描く予定であったが、最終的(追加された二版は一五九六年、最終の第三版は彼の死後の一六〇九年刊)には「神聖」・「節制」・「貞節」・「友情」・「正義」・「礼節」の六パートのみが詠まれた。参照したウィキの「妖精の女王」によれば、『作品の中で「グローリアーナ」と呼ばれるのは、他ならぬ女王エリザベス』Ⅰ世その人であるという。本詩は『高く評価され』、『テューダー家はアーサー王の子孫だと褒め称えている』とある。英文サイト「Renascence Editions」のこちらで全篇が活字化されたもので読める。「Amoretta」(アモレッタ)は同詩に登場する双子の娘の名で、恐らくは、ギリシア神話の「愛」の神「エロス」のラテン語「アモル」(Amor)由来であろう。]

 私は中流及びそれ以下の女の呼び名の上に敬稱のオをつけるといつた。車屋の妻でも多分オ何サンといはれるであらう。然しオに關するこの一般の規則には著しい例外がある。或る地方では二字の通常の呼び名の終に妙な字を加へて三字にするが、か〻る三字名の上には決してオをつけぬ、例へば紀伊國和歌山の娘は通常呼び名の下にエをつける、それは江、灣、時には河の意である。それで波江、富江、佳江、靜江、玉江などの名を見る。また地名により野又は原の意なるノを多くの女の名につける所がある。吉野、梅野、靜野、浦野、歌野などが此類の模範的の名である。波江とか菊野とかいふ娘は、オ波江サン、オ菊野サンとは呼ばれず、ただ波江サン、菊野サンと呼ばる。

 

註 「江」と「枝」とは混同してはならぬ。『枝』もまた多くの通常の名につけられる。漢字を見ぬと例せばタマエといふ名が玉枝だか玉江だか判らぬ。

 

 サンはもと形式、外見の意の『樣』を略したのだが、女の名の下につけると英語の Miss 又は Mrs.に當たる。男の名の下につけると少くも英語の Mr. に當たり、或はそれ以上の意があらう。『樣』といふ略さない形は男女とも高貴の人の名の下にも、神々の名の下にも用ゐらる。神道の神は神樣といはる、それを譯せば The  Lords  Supreme [やぶちゃん注:「最高の君主さま」。]であろう。地藏菩薩は地藏樣と呼ばる。淑女にも樣をつける。例せば綾子といふ淑女は當然綾子樣と呼ばる。然し淑女の名が子を除いて三字以上の時は子又は樣をつけぬ例である。菖蒲[やぶちゃん注:「あやめ」。]夫人は菖蒲子樣とはいはれず、もつと音の良い菖蒲樣又は菖蒲子と呼ばる。

 

註 しかし菖蒲樣の方が通例だが、此形式は知らぬ人が口語で呼ぶときには用ゐぬ、手紙ならさう書いてよい。槪して子の方が敬意を表した形である。

 

 名の上下の文字に關してはそれだけとして、私はこれから女の名の類別を試みよう、先づ普通の呼び名からはじめる。此等の名が特に興味があるわけは、それが倫理學や美學に關して民族感情のあるものを示し、また日本の習慣に關する奇妙な事實を說明するに足るからである。私は先づ純然道德的の意義の名を第一位におく、それは槪ね子供がその名にふさはしいものになれとの望でつけられたのである。然し次の表は決して完全と認むべきで無く、ただ代表的のものを舉ぐるに過ぎぬ。それから或る名の理由は說明が出來ず、それは私にも私の日本の友人にも謎であつたことを告白しておく。

[やぶちゃん注:以下、三段で掲げられてあるが、一段で示した。後の方も、皆、同じなので、この注は示さない。]

    道德及び禮節の名

オ愛

オ智慧

オ忠

オ仁

オ順

オカイヨウ(赦しの意)〔?〕

[やぶちゃん注:平井呈一氏は恒文社版(一九七五年刊)の「日本の女性の名」でこれに注され、『Forgiveness—pardon とあるから、お海容か?』とする。「海容」は、「海が広くて何物でも受け容(い)れる如くに寛大な心で相手の罪やあやまちを許すこと」の意で、現代では殆んど書簡の用語となっている。「海恕(かいじょ)」に同じいから、これは或いは、手紙の末尾に奥付として記されたそれを、小泉八雲は女性名と見誤ったものではなかろうか?

オ賢(道德的分別の意にて)

オ孝

オ正

オ道

オ直

オ信

[やぶちゃん注:原文“ O-Nobu ”。]

オ禮(古き漢字の意にて)

オ烈

オ良

オ貞(サダ)

オ誠

オ信(シン)

オ靜

オ節

オ爲

[やぶちゃん注:原文“ O-Tamé ”。]

オ貞(テイ)

オ德

オ友

オ常

オ安

オ良(ヨシ)

オよし(尊敬の意)〔?〕

 

 次の表は一見すると實際よりは混種と見ゆるであらう。それは前の表よりもつと變化多き名稱を含む。然し殆ど凡ての呼び名は何か善良な性質、または或る將來の幸福に關はり、親達が子がその德を示すことを冀ひ[やぶちゃん注:「こひねがひ」。]、或はその幸に與る[やぶちゃん注:「あづかる」。]に足ることを望んでつけたのである。その後者の類に美代、正代の如き幸運の名が屬して居る。

 

    個人の性質又は親の希望を表はす諸名

[やぶちゃん注:以下の丸括弧の長い解説は、原本では、二行割注である。以下、同じ。]

オ篤

オ近

オ千賀

オ長

オ大

オ傳

オエ(幸福の意)〔?〕

オ榮

オ艷[やぶちゃん注:「おえん」。]

オ延

オ越

オ悅

オ福

オ源

オ早

オ秀

秀代

オ廣

オ久

勇(イサム)

オ甚(ジン)〔?〕

龜代

オ兼(一時に二つのことを爲すの意)

オかた

オ勝

オ慶

オ敬

オ謙

オ吉

オ君

オきわ(顯著の意)〔?〕

オ淸    }

淸(キヨシ)}

[やぶちゃん注:以上の下方の記号二つは、底本では下方で大きな「}」一つで括られてあることを示した。

オくる(來る人、「口笛吹かば我れ來る」と英詩にあるに似たれどもさにあらず、家庭にての從順の意あらん)

[やぶちゃん注:「口笛吹かば我れ來る」“O whistle, and I'll come to you, my lad”は、私の偏愛するスコットランドの国民的詩人ロバート・バーンズ(Robert Burns 一七五九年~一七九六年)の詩篇の題名と一節。英文のバーンズのサイトのこちらで読める。]

オ丸

オ正

正代

オ益

オ三枝

オ幹

オ三緖 [やぶちゃん注:「おみを」。]

オ滿

オみわ(先見)〔?〕

オ三輪(佛敎の名らしけれど、佛敎的の呼び名は殆どなき筈)

オ美代

深雪(ミユキ)(雪積もれる後の靜寂の意にて美しき名)

オ元

オ仲

オ賴(ライ)

オ樂(諺に「樂は苦の種」といへば、この名あるはいぶかし)

オ幸(サチ)

オ才

オ咲

オ淸

オ勢

オ仙

オ茂

オしめ(全―最上善)〔?〕[やぶちゃん注:「―」はダッシュ。]

オ新

オ眞

オ品

しるし(證)譯者註一〇

譯者註一〇 この誤は前述の(三)の通り。

オ賤

オ正

オ俊

オスキ(愛さる)〔?〕

オ助

オ澄

オ捨(必ずしも拾はれし捨兒にあらず、子供續きて死せし後に生まれし子を特更に[やぶちゃん注:「ことさらに」。]一度捨てて拾ふときは其子よく生長すとて、然する[やぶちゃん注:「しかする」。]習はしあり)

オ妙

オ尊(タカ)〔?〕

[やぶちゃん注:岡田氏の疑問の意図が判らぬ。普通にある女性名である。]

オ高



[やぶちゃん注:「たから」。寧ろ、この方が不審。「おほう」なら判るが?]

オ玉

玉枝

常磐(磐の如く動かぬ道德的の意、この名は源義経の母の名として知らる)

[やぶちゃん注:うーん、八雲先生、これは「常磐木(ときわぎ)」で、「変わらぬ生」を指す方が、民俗社会では、先ではないでしょうか? それと、岡田先生にも一言、義経の母の名は「常盤」と漢字表記しますよ?]

オ富

オ敏

オ妻

オ賴(ヨリ)

オ若

 

 地名卽ち地理名は普通であるが、此等は特に說明が無い。子の生地の爲めに、または親の家のありし地の爲めに、方角や地位に關する昔の支那の哲學に屬する信仰の爲めに、傳統的習慣の爲めに、または神道の宗敎と聯關する觀念の爲めに樣々の名がつけられる。

[やぶちゃん注:「昔の支那の哲學に屬する信仰」陰陽五行説に基づく方位・四神相応の地形に基づく名を指していよう。]

 

    地  名

オ富士

オ濱

オ市

オ伊豫

オ河

オ岸

オ際(キハ)

オ國

オ京

オ町

松江

オ南(ミナ)(南の略)

オ峯

オ宮〔神道〕(一の宮に關係あるかと思ふ)

オ門(關の如く、或る門の傍に住む爲めかと想像す)

オ村

オ波(不運なりとかいふことの外は不明)

[やぶちゃん注:割注、意味不明。]

浪速

オ西

オりん

オ崎

オ里

オ澤

オ關

繁木(シゲキ)

オ島

オ園

オ瀧

オ谷

オ塚

オ山

 

 次の表はそれに含まる〻呼び名の性質に關はる上に於ては奇異なる混合である。或る名は眞に美的で快い。或る名はただ工業的である。少數は極めて不快な綽名とも認めらる。

 

    物の名及び特に女に屬する職業の名

綾子又はオ綾(京都の綾錦のことか)

オ文

オ房

オ糸

オ鎌(農家に多き名)

オ釜(婢の名、婢はその娘をも婢にするつもりにて育つる故に、かかる醜き名もあり)

オ絹

オ琴

オ鍋

オ縫

オしめ(飾り結び)〔?〕

[やぶちゃん注:これは「お〆」で、後に出る「オ留」、また「オ末」と同じく、これ以上、子がもう生れないようにという意味とするのが一般的解釈であろう。]

オ染

オ樽

 

 次の表は全く物質名詞を名としたものから成る。そのうち或る呼び名は私にはその寓意が判からない。槪言すれば貴い物質を示す呼び名、例へば銀や金の如きは美名である。石、岩、鐡の如き普通の貴い物質を示すのは性質の確實とか强力とかを暗示する。然し岩といふ名は時には長壽又は家族の生命の永續を願ふの象徵として用ゐらる。砂といふ奇名は個人の剛さ(グリツト)と關係なく、それは半ば道德的、半ば美的である。細かい砂、特に色のついた砂はこの造園の仙境たる日本に於て大いに貴ばれ、いつも汚塵なく美しくしておいて、園丁の外は踐んではならぬ[やぶちゃん注:「ふんではならぬ」。]場所にはさういふ砂が敷いてある。

 

    人の名として用ゐられたる物質名詞

オ銀

オ石

オ岩

オかね

オ風(この奇名の理由不明。)

オ金

オ瑠璃又は瑠璃子(これはエスメラルダと同じき美感を含まず、瑠璃は槪ね綠ではなくて靑、るり色は通常深い菫色)

[やぶちゃん注:「エスメラルダ」“Esmeralda”。欧米の男性又は女性の名。宝石の「エメラルド」を指す古フランス語 “esmeraude”(音写「エメラゥード」)を直接の語源とする。]

オりゆう(精金屬)〔?〕

[やぶちゃん注:「りゆう」は以下の説明では、全く不明。漢字も浮かばない。「精金屬」とは、精錬された金属の意だろう。]

オ砂糖〔?〕

オ石(セキ)

オ鹽

オ砂

オ錫

オ種

オ鐡

 

 次の五の呼び名は美名である、但し文字の上では知的の業に屬する物を意味す。少くもそのうち四は、西洋で文學の美といふ何物よりも、寧ろ書法、それは天下無双の極東の書法に關はる。

 

    文學の名

オ文(ブン)

オ筆

オ文(フミ)

オ書く〔?〕

オ歌

 

 數に關はる名は多々あるが頗る興味あるものである。此等は更に誕生の順序又は時を示す名と、祝賀の名とにあらまし二分される。一、三、六、八などの呼び名は槪して誕生の順序による。但し時には誕生の日取りを示す。例へば私はオ六といふ人を知つて居るが、その人はその家の第六子であつたのではなくて、明治六年六月六日に此世に生まれたので、この名をつけられた。それから表に二、五、九が無いことがわかるがオ二、オ五、オ九などいふのは日本人には馬鹿らしくて考へられぬ。私はよくは知らぬがそれは不快な洒落を暗示する爲めかもしれぬ。だがオ二の代はりにオ次といふ名があつて、次の表にも見ゆる。八十から千、及びそれ以上にいたる數を示す名は祝賀の名である。それらは名の持主が極めて長壽であること、又はその子孫が幾百年も榮える樣にとの願を寓したのである。

[やぶちゃん注:「それは不快な洒落を暗示する爲めかもしれぬ」「オ二」は「鬼」、「オ五」の「ゴ」は「誤」、「オ九」は「御灸」或いは「窮」「舊」「臭」辺りの通音だからか。]

 

    數字及び數に關する語

オ一

オ三

オ三つ

オ四つ

オ六

オ七 [やぶちゃん注:原文“ O-Shichi ”。]

オ八

オ十

オ五十(父五十歲にて舉げし長子の意なる事あり)

[やぶちゃん注:原文“ O-Iso ”。]

オ八十 [やぶちゃん注:原文“ O-Yaso ”。]

オ百

オ八百

オ千

オ三千

八千代

オ重(シゲ)

オ八重

オ數

オ皆

オ半(英語のベタァ・ハァフの意かと思はるべきも、これは父が半右衞門又は半兵衞にて其名の一部をとれるならむ)

[やぶちゃん注:“Better half”は「連れ合い」、特に「妻」の意。]

オ幾

 

    誕生の順序に關する他の名

 

オ初

オ次

オ仲

オ留

オ末

 

 次の名の二類のうち或る者は多分美名であらう。然し時にはか〻る名は誕生の時又は季節の關係だけでつけられる。そして此類の或る特別の呼び名の理由は人每に尋ねて見ねば定め難い。

 

    時及び季節に關する名

オ春

オ夏

オ秋

オ冬

オ朝

オ朝(テウ)

オ宵(ヨヒ)

オ小夜(サヨ)

オ今

オ時

オ年

 

 實在する又は神話的なる動物の名が呼び名のまた一類となつて居る。此程の名は槪ねその動物の表象する性質か器量かを養ふ樣にとの望でつけられる。龍、虎、熊などの名は槪ね外の性質よりは寧ろ道德性を示す積りである。鯉の道德的象徵はよく知られて居て、ここに說明を要せぬ。龜と鶴の名は長壽に關はる。駒はそれが奇妙に思はれ樣が愛撫の名である。

[やぶちゃん注:「熊」の「道德性」というのは、恐らく「龍」「虎」と同様、本邦に於ける陸生動物の頂点に立つ象徴的存在であり、民俗社会では、自然界の支配的存在と考えられるからであろう。また、私の「和漢三才圖會卷第三十八 獸類 熊(くま)(ツキノワグマ・ヒグマ)」によれば、『其の子を生(う)むこと、甚だ容-易(やす)く、自らの手を以つて抓(つま)み出だす。故に、人、熊の掌を用ひて、臨産の傍らに置く。亦、安産の義を取るものなり』とあるのは、これ、女性名に相応しいとも言えるであろう。

 

    鳥、魚、などの動物の名

 

千鳥

オ龜

オ鯉

オ駒

オ熊

オ龍(リユウ)

[やぶちゃん注:ルビは誤り。原文は“ O-Ryō ”であるから、「おりょう」或いは「おれう」。]

オ鹿

オ鯛

オ鷹

オ章魚(タコ)〔?〕

[やぶちゃん注:流石にこれはなかろうと思いますが? 八雲先生……。]

オ龍(タツ)

オ虎

オ鳥

オ鶴(縮めてオツといふことありこの頃東京にては子供を呼ぶごとくツチヤンといふを習とす)

オ鷲

 

 花又は果、植物又は木の名なる呼び名すら槪ね美的の意味の名よりは、寧ろ道德又は祝賀の名である。梅花は婦德の標章である、菊は長壽、松は長壽及び恒常、竹は忠信、杉は正直、柳は溫順及び形の優美を示す。蓮と櫻の花の象徵は恐らく熟知されて居よう。然し『花』や『瓣』[やぶちゃん注:原文“ Ben  (“Petal”) ”。この「Petal」(ペェタル)は「花びら」の意。]は眞に美しい意である、百合は外國に於ての如く日本にでも婦人の優雅の標章となつて居る。

 

    花 の 名

菖蒲

[やぶちゃん注:「あやめ」。]

[やぶちゃん注:「蘅」とあるが、原文は“ Azami ”で、“ Thistle-Flower ”(ティーソル・フラワー)であるから、アザミ、「薊」である。「蘅」は漢語としては、コショウ目ウマノスズクサ科属カンアオイ属 Asarum の、本邦には自生しない中国産の中文名「杜衡」Asarum forbesii を指すが、全然、関係ない。そもそも、こんな漢字、日本人の女性に使わんだろ!]

オ瓣

オ藤

オ花

オ菊

オ蘭

オ蓮

[やぶちゃん注:「おれん」。]

櫻子

オ梅

オ百合

 

     植物、果實、及び本の名

オ稻

オ萱 [やぶちゃん注:「おかや」。]

オ榧(カヤ)

オ栗

オ桑

オ槇

オ豆

オ桃(これは百(モモ)の誤字かも測られず)

オ楢

オ柳

早苗

オ核(サネ)

オ篠

オ菅

オ杉

オ竹

オ蔦

オ八重(花の名に相違なけれど、こゝでは八重櫻の略ならんか)

オ米(ヨネ)

若菜

 

 光又は色を示す名は我々には凡ての呼び名の中、最美的と思はる。それは多分日本人にもさう思はれるのであらう。だが此等の名すらその關係的意味が一見して判かるのでは無い。色は昔の自然哲學に於て道德的及び其他の價値を有つ、而して西洋人の心にはただ光彩又は美をのみ暗示する名稱が實に道德的又は社會的に顯著なることに關はり、さういふ名の娘が光榮あるものになれかしとの望にも關はるのである。

 

    光輝を示す名

オ三日(ミカ)(三日月の略ならむ)

オ光

オ霜

オ照

オ月

オ艷(ツヤ)

 

    色彩の名

オ藍

オ赤

オ色

オ紺

オ黑

綠(貴族的の名なれど中流にも見出さる)

紫(特に貴族的の名、但し華族女學校の名簿に見えず、色の名は槪して少き故階級に關はらずこゝに集む)

オ白

 

 次の最終の一類は種々奇異な謎を含む。日本の娘は時には家紋によりて名をつけられる。紋章學が此等呼び名の一二を說明し得よう。但し或る娘が舟と呼ばる〻理由は私は確に推察し得ぬ。或る讀者はニイチエの『アンジエリンと呼ばる〻小舟』を思出づるかもしれぬ。

 

   アンジエリン――人はさう我を呼ぶ――

   今は舟、かつて少女、

   (嗚呼、いつまでも少女!)

   漕ぐ人を思ふ、あなたこなた、

   立派に出來てる車が𢌞る。

[やぶちゃん注:哲学者フリードリヒ・ヴィルヘルム・ニーチェ(Friedrich Wilhelm Nietzsche 一八四四年~一九〇〇年)の一八八二年初めに書かれた詩篇“ Die kleine Brigg, genannt das Engelchen ”(『「小天使」号と呼ばれる小さな帆船』)。の第一連目。「車」は操舵舵輪のことで、愛の廻(めぐ)るのを、それに掛けたもの。ドイツ語ウィキソースのこちらで原詩が読める。]

 

 然しか〻る空想は日本人の心には入るまい。だが私は家紋の表のうちに舟を示す意匠の變種二つ、箭を示すもの二十、弓を示すもの二つを見る。

 

    分類又は說明の困難なるもの

オ服(これはオ縫オ染と同類ならんか但し確ならず)

オ舟

オ雛(愛撫の名、人形―紙人形、但し雛祭の雛もあり)

[やぶちゃん注:注の「―」はダッシュ。]

オ此(コノ)

[やぶちゃん注:ここ以下、原本とは順序が異なってごちゃごちゃになってしまっている原本を見られたい。]

オ雷

[やぶちゃん注:「おらい」。]

オ類

オ鈴(美しき音の爲めに名づく、子供の守り袋に小さき鈴をつけ、その步むごとに鳴る美しき風習)

鈴枝

オ民

オとし(鏃)〔?〕

[やぶちゃん注:「鏃」は矢尻のこと。]

オ對(ツイ)

オ尙

オ鳴(雷鳴)

[やぶちゃん注:「おなり」。]

オにほ(駕籠)〔?〕

[やぶちゃん注:この「?」は原文にもある。]

オ唯

手卷

[やぶちゃん注:「たまき」。]

オ綱

オ弓

 

 貴族の名に移るに先き立ち日本の名の昔の規則を舉げよう。それは奇妙な規則で前の諸表中の種々の謎を解くに助になるやも知れぬ。此規則は以前は男女とも總ての人名に應用された。本論に於てそれを十分に說明する譯にはいかぬ。滿足な說明には少くも五十頁を要す。然し最も簡單に云へば、この規則は、個人の帶ぶる名のはじめの文字が支那の哲學の意に於て、その人の所謂性(シヤウ)と思はる〻もの、卽ち星占術で定められた性質と一致すべしといふにある。その必要なる一致は漢字の意味でなくて發音で定まるのである。此問題の困難なることは幾らか次の表で覺られるであらう。

 


Mojitogogyou

 

日本文字と五行との發音的關係

[やぶちゃん注:【2025年4月14日改稿・画像変更】以下、本邦の易学の姓名判断に基づくものらしい五行と五十音の関係を示す図が、底本のここに載る。新底本から高度画像を取り込み、補正を加えたものを上に示した。★【2025年4月18日・画像を旧版に回復】以上の本文新底本の同巻は、著作権存続である『送信サービスで閲覧可能』『国立国会図書館内/図書館・個人送信限定』であるため(思うに、この国立国会図書館デジタルコレクション(旧「国立国会図書館近代デジタルライブラリー」)に最初に公開された際には、どこかの記載者・訳者の著作権が存続していたため――確実と思われる一つは巻末に貼付けられてある『月報』と思われる。冒頭の「邦譯小泉八雲全集に就て」の筆者佐藤春夫は公開当時は著作権継続であったから)、許可を得ないと画像の転載は出来ない。従って、不本意ながら、本篇中の表画像を転写することは出来ない。しかし、上記で述べた通り、モノクロームの“Internet Archive”版の方が、圧倒的に『鮮明』であるから、八雲先生も肯んじて貰えるものと信ずる。一応、以上の図が鮮明でない箇所があるので、私が示した関係表の関係を以下に解説しておく。]

 

「一、木性」→カ行とガ行

「二、火性」→タ行とダ行・ナ行・ラ行

「三、土性」→ア行・カ行とガ行・ヤ行・ワ行

「四、金性」→サ行とザ行

「五.水性」→ハ行とバ行とパ行・マ行

と対応している。また、原文の英文の

“PHONETIC RELATION OF THE FIVE ELEMENTAL-NATURES TO THE JAPANESE SYLLABARY”

の図の方が遙かに見易いので、“Project Gutenberg”版にある図版をトリミングして、

Illus159

以上に示しておいた。]

2019/10/27

小泉八雲 日本の女の名 (岡田哲藏譯) その「一」

 

[やぶちゃん注:本篇(原題“ Japanese Female Names ”)は一九〇〇(明治三三)年七月にボストンの「リトル・ブラウン社」(LITTLE,BROWN AND COMPANY)から出版された作品集“ SHADOWINGS ”(名詞「shadowing」には「影」以外には「人影」・「影法師」・「影を附けること」・「尾行」などの意味がある。本作品集の訳は概ね「影」が多いが、平井呈一氏は「明暗」と訳しておられ、私も漠然とした「影」よりも、作品群の持つ感性上の印象としてのグラデーションから「明暗」の方が相応しいと思う。来日後の第七作品集)の第一パート“ STORIES FROM STRANGE BOOKS ”の次、第二パート“ JAPANESE STUDIES ”(「日本に就いての研究」)の二番目に配された作品である(この前の同パート(底本訳表記「日本硏究」)巻頭の第一話の力作で私の偏愛する“SÉMI”(「蟬」(大谷正信訳))は、既に三回分割(その「一」その「二」その「三」と「四」)で電子化注(図版附き)を終わっている。また、同「日本硏究」の標題の後の添辞は「蟬」の「一」の冒頭注の最後を参照されたい。本作品集は“Internet Archive”のこちら(出版社及びクレジットの入った扉表紙を示した)で全篇視認できる(本篇はここから)。活字化されたものは“Project Gutenberg”のこちらで全篇が読める(本篇はここから)。

 底本は英文サイト“Internet Archive”のこちらにある、第一書房が昭和一一(一九三六)年十一月に刊行した「家庭版小泉八雲全集」(全十二巻)の第七巻の画像データをPDFで落として視認した。【2025年4月14日:底本変更・正字化不全・ミスタイプ・オリジナル注全補正】時間を経て、国立国会図書館デジタルコレクションに本登録し、現行では、以上の第一書房版昭和一一(一九三六)年十一月に刊行した「家庭版小泉八雲全集」(全十二巻)の第七巻が、国立国会図書館デジタルコレクションで公開されてある。(リンクは扉だが、「家庭版」の文字はない。しかし、奥附を見て貰うと『家庭版』とあり、『昭和十一年十一月二十七日 發 行』とあることが確認出来る)、これが、前掲の底本と同じものであるが、やはり、外国のサイトのそれを底本とするのは、日本人小泉八雲に失礼であると考えた。されば、こちらで、再度、以下の「骨董」の作品群を改めて校正することとする。これが――私の小泉八雲への「義」――である。なお、これよりも前の元版の全集等が先行しているものの、私がそれらと比べた結果、実は先行する同社の「小泉八雲全集」のそれらは、訳が一部で異なっており、訳者等によって、かなりの補正・追加がされていることが、今回の正字補正作業の中で、はっきりと判って来た。いや、同じ「家庭版」と名打ったネット上の画像データでも、驚いたことに、有意に異なっていたのである。そうした意味でも――完全な仕切り直しの総点検――が必要であると決したものである。従って、旧前振りの括弧・鍵括弧の問題も、拡大とガンマ補正で確認し、正確を期する。本作はここから。添え辞附きパート中標題はここ

 訳者岡田哲藏氏は明治二(一八六九)年生まれで昭和二〇(一九四五)年十月没の英文学者。千葉県佐倉市生まれで、東京帝国大学文科大学哲学科選科卒。通訳官として明治三七(一九〇四)年の日露戦争に従軍し、その後、陸軍大学校教官や青山学院・早稲田大学講師などを務めた。英詩文をよくし、昭和一〇(一九三五)年に出版された最初の「万葉集」の英訳として有名な‘ Three Handred Manyo Poems ’」などの著書がある。

 傍点「﹅」は太字に代えた。本文内に盛んに出る名前のリストは、概ね三段組みで示されてあるが、原則、一段で示した。

 また、巻末に字下げポイント落ちで配されてある「譯者註」は適切な位置に引き上げて、本文と同ポイントで挿入した。

 なお、岡田氏も注で述べられているように、ここでの小泉八雲の謂いには、よく意味が通じてこない部分(そのような女性名があるのか? と疑問に思う表記や解釈)があるが、それをいちいち注しているとエンドレスになるので、その辺りの疑問箇所は、やや抑制して注を附さなかった。私が何もかも判っていて注を附していないわけではないことをここでは特異的に表明しておく。但し、他の小泉八雲の電子化注では、自分が判らないところは、徹底して注で解明しているつもりである)。★【2025年4月14日追記】以上のように述べたが、やはり、今の私には、注したい箇所が是非とも欲しいと感じたものが散見するため、注を大幅に増やした。正直、小泉八雲の作品中、読者が困難な強力な暗号解読の場面に立ち会っているような、最も読み難い(一部で訳者も困っている意味不明の対象語が連発する)作品である。覚悟されたい。

 提示資料が長くなるので、章ごとに示す。

 なお、瞥見した銭本健二氏が担当された小泉八雲の年譜(一九八八年恒文社刊「ラフカディオ・ハーン著作集 第十五巻」所収)によれば、本篇は明治三二(一八九九)年六月の執筆であるらしい。]

 

 

   日本の女の名

 

 

       

 日本では或る種の娘を薔薇娘と人がいふ。我が讀者はテニスンの『娘の薔薇の蕾の園の女王薔薇』譯者註一を思つて、薔薇が表象する女性に就いての日本と英國との觀察の類似を想像するかも知れぬ。然しその樣な類似は全く無い。薔薇娘といふのは女が優しくて可愛い爲めでも無く、顏を紅くする爲めでも無く、薔薇の樣である爲めでも無い。実は薔薇色の顏は日本では賞でられぬ。いな、女が薔薇に比べられるのは主として薔薇に刺ある爲めである。日本の薔薇を摘まふとする人は指を傷つけ勝ちである。薔薇娘を我が有にしようとする男はもつとひどく怪我をし、死に到ることさへおる。單獨で武器も携へずに虎に出會ふは薔薇娘の愛撫を誘ふに勝る。

譯者註一 テニスン作“Maud”ⅩⅩⅡ,Ⅸ の第一行。

【訳者注の最終附記の二条】(底本のここ

 尙ほ本文注著者の自註は槪ね日本語の說明であるが、我が讀者に不用のものは省き、あるものは略記した。そのうち誤解も往々あれどそれらはそのま〻になしおき、不明のものは(?)を附けておいた。華族文學校の方の名も同校卒業者名簿を參照して見たが今考へ難きものが少からぬ。

 本文のはじめの薔薇娘のことは小泉夫人が何か物の本にて讀みしかと思ふことを著者に告げられしによるらしといふ。

[やぶちゃん注:本篇最後に纏められている「譯者註」の一番最後に改行して載るものを、かく示した。

「テニスン」ヴィクトリア朝時代のイギリスの詩人で男爵のアルフレッド・テニスン(Alfred Tennyson 一八〇九年~一八九二年)。

「娘の薔薇の蕾の園の女王薔薇」“queen-rose of the rosebud-garden of girls,”。但し、岡田氏の訳注は誤りがあり、一八五五年刊の詩集“ Maud モード:女の名である「Matilda」の愛称)の引用章は「ⅩⅩⅡ」ではなく、「ⅩⅩⅢ」である。Internet Archive”の原本詩集画像のこちらの左下の「9」の冒頭である。こちらで東照氏訳の詩集「モード」の全訳が読め、当該章は句全体は以下(引用使用許諾がある。途中に打たれている行数はカットした)。

   *

9

少女ばかりの蕾の庭におわす女王薔薇よ、

こちらにいらっしゃい、踊りは終わった、

繻子のつやと真珠の光に包まれた

百合と薔薇の女王を兼ねた女王よ。

巻き毛ごと陽にさらした、小さな頭を、

花々にきらめかせ、そして花々の太陽であれ。

   *

「薔薇娘」私は、このような日本語の用法を聴いたことがないが、「綺麗な薔薇には棘がある」や「薔薇のような(棘のある危険な)女」と言った言い回しは、無論、文章や会話で聴いたことはある(私は使ったことはないが)。但し、こうした表現は、江戸時代の表現では、私は管見したことはなく、近代(明治)以降の言い回しであろうと、私には思われる。それ以前に有意な汎用使用例があることを御存知の方は、是非、その例を御教授願いたい。ウィキの「バラ」によれば、双子葉植物綱バラ目バラ科Rosaceaeバラ属のうち、日本原産の種はノイバラ(野茨) Rosa multiflora・テリハノイバラ(照葉野茨) Rosa luciae・ハマナス Rosa rugosa のみであるが、『中国で栽培されていたバラも』、『その多くは』、『江戸時代までに日本に渡来している』。『江戸時代には身分・職業を問わず園芸が流行したが、中国原産のバラであるモッコウバラ』(木香茨・木香薔薇:Rosa banksiae )・『コウシンバラ』(庚申薔薇:Rosa chinensis )『などが園芸品種として栽培されていた。江戸時代に日本を訪れたドイツ人ケンペルも「日本でバラが栽培されている」ことを記録している。また与謝蕪村が「愁いつつ岡にのぼれば花いばら」の句を残している』。『このように日本人にゆかりのある植物であるが、バラが日本でも愛好されるようになるのは明治以降である』とある。しかし、この蕪村の句は安永三(一七七四)年四月の作であるが、「花いばら」はロケーションから見ても、中国渡来の栽培種なんぞではなく、まず、ノイバラ(テリハノイバラの可能性もある)であろうから、ここに記すべきものではない。因みに、二十代の頃、大和和紀さんの素晴らしい漫画「あさきゆめみし」を読んだ際、嫉妬にかられた六条御息所が、自邸の前栽に飛び降り、明らかに赤い薔薇(としか見えない)を口に銜えてしまうシークエンスは、衝撃的であったが、それ以上に、違和感の方が、私には強く感じられたのであった。平安時代に、前栽に有意に赤い今のようなバラらしい「薔薇」が植栽されていたとは思えなかったからである。但し、「横浜市こども植物園」の公式ブログの「バラ園にて...4月」に、コウシンバラの解説に、『最初に中国からもたらされた四季咲きバラ』四『種のうちのひとつ』で、『かなり古い時代に日本に渡来したようで、各地で古い株が見られ』るとあったので、ウィキの渡来江戸時代説とは、激しく異なることになる。バラの専門家の御意見を切に望むものである。

 さて薔薇娘の名稱は、西洋の花と人の比較の多くのものより比喩として餘程合理的であるが、それが西洋の詩的慣例及び感情的習慣と合致せぬので不思議に思はれるに過ぎぬ。由來日本の比喩や隱喩は一目瞭然たるものでない事はあらゆる多くの例があるが、これもその一例である。そして此事は特に呼び名、卽ち日本の女の個人名によく例證される。呼び名が木、鳥、花などの名と等しくあつても、そんな個人の名稱が日本人の想像に對して、それらと同じ英語が同樣の場合に英人の想像に起こし來る樣な觀念を起こすとは云はれない。譯して特に美はしく我々に思はる〻呼び名のうち、美感の爲めに與へられたのはほんの小數である。多くの人々は今もさう思つて居るが、日本の娘は通常、花や優しい灌木や其他の美しい物の名をつけられると思ふのは正しく無い。美的の名は用ゐられて居るが、呼び名の多くは美的で無い。數年前に若い日本の學者がこの問題に關する興味ある論文譯者註二を發表した。彼は女子高等師範學校[やぶちゃん注:現在の「お茶の水女子大学」の前身。]の約四百名の學生、それは帝國の各地方から集まつた女子の個人名を集め、その表のうちに五十乃至六十の名のみが美的性質を帶ぶることを見た。然しそれ等に就ても彼は注意してそれが『美感を起こす』といひ、美的の理由でつけられたとはいはぬ。それ等の中には、崎、峯、岸、濱、國など元來の地名も、鶴、田鶴、千鶴、また吉野、織野、しるし(證)譯者註三、眞砂などの名もある。西洋人に美的と思はれるのは此等のうちに殆ど無い。恐らく何れももと美的の理由でつけられたのではあるまい。『鶴』といふ字の名は長壽に關はる名で美の名で無い。『野』を語尾とする名の多くは道德的性質に關する名である。私は眞に美的なる呼び名が一割五分もあるかすら疑ふ。それよりずつと大多數のものは道德的又は心理的性質を示す名である。順良、親切、巧妙、怜悧は屢〻呼び名に出づる。然し形態の愛嬌を意味し、また美的觀念のみ暗示する名稱は比較的に例が少い。思ふに全く美的な名は藝娼妓につけられるので、爲めに俗化したことも一理由であらう。然し家庭道德が今も日本の道德的評價に於て重要なことが恰も西洋の中世の生活に於て宗敎の信仰を重んじたるに比すべきこと、それがたしかに主要なる理由である。理論に於てのみならず、日常の實際に於ても道德の美は遙に形態の美の上に置かれる、そして娘が妻に選ばれるのは美貌よりはむしろその家庭的の性質による。中流社會に於て餘り美的の名は善良なる意味に思はれぬ。貧しき社會ではその樣な名はとても相當と思はれぬ。高貴の婦人は之と變はつて、ずつと詩的な名を帶ぶる特權がある。それでも貴族の呼び名の多くもまた美的よりは道德的である。

譯者註二 譯者が『哲學雜誌』第十三卷、第百四十號(明治三十一年十月)第百四十一號(同十一月)第百四十二號(同十二月)に揭げたる『美感の硏究』と題する論文。そのうち『女の名』に關する一部はこゝに參照せらる。

譯者註三 原文はなりしが右の雜誌にと誤植せられし爲め、そのま〻著者は、しるし(證)としたのである。[やぶちゃん注:太字は底本では傍点「●」である。]

[やぶちゃん注:「『野』を語尾とする名の多くは道德的性質に關する名である」「野」には「飾らないそのまま」の意味はあるから、「虚飾を必要としない素朴な美しさ」ととって、それを以って「道德的」だと言っているようである。]

 

 然し呼び名の硏究に於ける第一の大いなる困難は、それを飜譯するの困難である。それには日本口語の知識も餘り役に立たぬ。漢語の知識はまた缺いてはならぬ。假名のみで書いた名の意味は槪ね推察もしかねる。其名の漢字のみがそれを說明し得る。さきにいふた日本の論文家は二百十三名の表から三十六の名譯者註四を投げ捨てねばならなかつた。その理由はただこれら三十六の名が假名のみで書いてあつて解釋がつかぬからであつた。假名は發音を示すのみで、女の名の發音は多くの場合に何物をも說明せぬ。羅馬字に譯すと、一の呼び名が二、三、または五、六の異ることを意味し得る。表から捨てられた名の一つはバンカであつた。バンカは盤何(植物)譯者註五でもあり(それは綺麗な名)、また晚霞でもあり得る。も一つ捨てられたユカはユカブツ(貴い)譯者註六の略でもあれば、床でもあり得る。第三の例、ノチは未來の意にもなるが、後裔にも、外種々の意にもなる。我が讀者は後に揭ぐる名の表のうちに外の多くの同音異義の語を見出すことが出來よう。例へばアイは羅馬字では愛か藍か、チヨウは蝶か、超か、長か、エイは銳か英か、ケイは慶か敬か、サトは里か砂糖か、トシは年か鏃か、タカは高、尊、鷹の何れかを意味す。現に日本語を羅馬字で書くに主要なる、そしてとても避けられぬ障礙は國語にある同音異義の語が夥しいことである。何れか和英の良辭書を一見しさへすればこの困難の重大なることが判かる。例を增さぬ爲めに私はただチヨウと綴る語が十九あること、キが二十一、ト又はトウが二十五、コ又はコウが四十九にも及ぶことを挙げておく。

譯者註四 三十三種の名。そのうち同名二人が三つありし爲め、三十六人となりしことの誤。

譯者註五 原名は假名の『ばんか』にあらず、漢字の『盤何』なりしが、意味判然せず、不明の部に入れおきしもの。著者はそれを植物と見た。

譯者註六 ユカブツの意不明。ならぬことは確である。[やぶちゃん注:太字は底本では傍点「●」である。これ、「ヨカブツ」で、「良か者」ではなかろうか?]

 

 然し私が既に暗示した如く女の名の眞義は、漢字の助をかりて爲せる字譯を以てしても確實にはなり難い。例へばカガミ(鏡)といふ名は淸淨の心の意で、それは西洋の意味でなくて、儒敎の意味での淸淨である。ウメ(梅花)は婦人の貞德に關はる名である。マツ(松)は名として樹の美に關はらず、その常綠の葉が老いて盛んなるしるしなるによる。タケ(竹)は竹が幾百年の久しき間、幸福の表象であつたので子に命名される。セン(仙森の精)は西洋人の想像には興ある響だが實は父母がその娘及びその子孫の爲め長壽を願ふ意に外ならぬ。森の精は數千年も生きると想像されて居るから……また、多くの名は奇妙なものでその持主または名附け人の何れかに問はねば意味がわからぬ、そして時には本來の意義が久しき前に忘れられて居て、一切の穿鑿は無效に歸する。

 更に問題に深入りするに先き立ち、私は先づさきの東京の論文家の名の表を揭げる、それは前後の敬稱を廢してアルファベツト順にする。普通の名でその中に載つて居らぬ類もあるが、此表は今も尙ほ好んで用ゐらる〻多くの呼び名の文字を示し、且つ私が既に注意を呼んでおいた事實の若干を說明するに足りやう。

 

  女子高等師範學校生徒及び卒業者(一八八〇年――一八九五年)の名の選集

[やぶちゃん注:底本では、ページ内で三段に記されてあるが、一段で示した(冒頭のみに「同名人數」を示し、あとはカットした)。なお、先に示した、末尾の「譯者註」の最後の方の一条を再掲しておく。

   *

尙ほ本文中著者の自註は槪ね日本語の說明でゐるが、我が讀者に不用のものは省き、あるものは略記した、そのうち誤解も往々あれどそれらはそのま〻になしおき、不明のものに〔?〕を附けておいた。華族女學校[やぶちゃん注:現在の学習院女子大学の前身。明治一八(一八八五)年に明治天皇の皇后昭憲皇太后の命により華族の子女を教育する目的で設けられた。]の方の名も同校卒業者名簿を參照して見たが今考へ難きものが少からぬ。

   *]

       同名人數

藍       一

愛       一

赤助      一 [やぶちゃん注:「あすけ」か?]

朝       一

淺       二

逢       二

文(ブン)    一

近       五

千歲      一

千代      一

千鶴      一

蝶       一

長       一

頴       一

英       二

悅       一

筆       一

富士      一

藤       一

蕗       一

福       二

文(フミ)    五

文野      一

房       三

銀       二

濱       三

花       三

春江      一

初       二

英(ヒデ)   四

秀       二

久野      二

市       四

育       三

稻       三

石       一

糸       四

岩       一

順       一

鏡       三

鎌       一

龜       二

龜代      一

勘      一一譯者註七

譯者註七 勘の數一一とあるは一の誤。

假名      二

兼       三譯者註八

譯者註八 著者はを金屬の靑銅だと思つて、さう譯したが、こゝはもとの通りにしておく。[やぶちゃん注:太字は底本では傍点「●」。]

勝       二

かざし     一譯者註九

譯者註九 鈿、鈖などの名ありしを著者は釵と見誤りしならむ。

數       一

敬       三

謙       一

菊       六

菊枝      一

菊野      一

君       一

金       四

絹       一

岸       二

喜代      一

淸       五

鑅(クワウ)   一 [やぶちゃん注:現代仮名遣「コウ」。鐘が鳴る音の形容。

孝      一一

好       一

駒       一

こめ      一

琴       四

熊       一

組       一

都(クニ)    一

國       三

倉       一

倉野      一

栗       一

桑       一

正       三

眞砂      一

增枝      一

松       二

道       四

三枝      一

幹枝      一

峯       二

光       五

光枝      一

盛江      一

仲       四

波       一

信       六

延       一

延枝      一

縫       一

織野      一 [やぶちゃん注:「しの」か。]

樂       三

連       一

陸       一

祿       一

龍       一

隆       三

貞       八

崎       一

作       三

里       二

澤       一

勢       一

關       三

仙       三

節       二

鎭       一

靜       二

重       二

鹿       二

鹿江      一

しめ      一

眞       一

品       一

しな(德)〔?〕 一

篠       一

しるし(證)譯者註一〇

譯者註一〇 この誤は前述の(三)の通り。

俊       一

末       二

杉       一

捨       一

鈴       八

錫       一

鈴江      一

妙       一

たか(德)〔?〕 二

高       九

竹       一

玉       一

環       一

爲       三

谷       一

田鶴      一

鐡       四

德       二

留       一

富       三

富壽      一 [やぶちゃん注:「とみよし」か?]

友       四

虎       一

豐       三

次       二

綱       一

常      一〇

鶴       四

梅       一

梅ケ枝     一

梅野      二

浦野      一

牛       一

歌       一

若菜      一

八重      一

安       一

陽       一

米       四

良       一

芳野      一

勇       一

百合      一

 

 右の表に於いて恒常、忍耐、及び孝德に關はる名が最も多數なる事が注目されやう。

 

小泉八雲 鮫人(さめびと)の感謝  (田部隆次譯) 附・原拠 曲亭馬琴「鮫人(かうじん)」

[やぶちゃん注:本篇(原題“ The Gratitude of the Samébito ”)は一九〇〇(明治三三)年七月にボストンの「リトル・ブラウン社」(LITTLE,BROWN AND COMPANY)から出版された作品集“ SHADOWINGS ”(名詞「shadowing」には「影」以外には「人影」・「影法師」・「影を附けること」・「尾行」などの意味がある。本作品集の訳は概ね「影」が多いが、平井呈一氏は「明暗」と訳しておられ、私も漠然とした「影」よりも、作品群の持つ感性上の印象としてのグラデーションから「明暗」の方が相応しいと思う。来日後の第七作品集)の第一パート“ STORIES FROM STRANGE BOOKS ”最終の第六話に配された作品である。本作品集は“Internet Archive”のこちら(出版社及びクレジットの入った扉表紙を示した)で全篇視認できる(本篇はここから。原拠を記した添書のある標題ページで示した。そこには“ The original of this story may be found in the book called Kibun-Anbaiyoshi ”(「この原話は「奇聞 塩梅余史」の中に見出されたものである」。「奇聞」は「綺聞」でもいいか)とある。但し、正確な書名は曲亭馬琴著の「戲聞鹽槑餘史(おとしばなしあんばいよし)」である。活字化されたものは“Project Gutenberg”のこちらで全篇が読める(本篇はここから)。

 底本は英文サイト“Internet Archive”のこちらにある、第一書房が昭和一一(一九三六)年十一月に刊行した「家庭版小泉八雲全集」(全十二巻)の第七巻の画像データをPDFで落として視認した。【2025年4月13日:底本変更・正字化不全・ミスタイプ・オリジナル注全補正】時間を経て、国立国会図書館デジタルコレクションに本登録し、現行では、以上の第一書房版昭和一一(一九三六)年十一月に刊行した「家庭版小泉八雲全集」(全十二巻)の第七巻が、国立国会図書館デジタルコレクションで公開されてある。(リンクは扉だが、「家庭版」の文字はない。しかし、奥附を見て貰うと『家庭版』とあり、『昭和十一年十一月二十七日 發 行』とあることが確認出来る)、これが、前掲の底本と同じものであるが、やはり、外国のサイトのそれを底本とするのは、日本人小泉八雲に失礼であると考えた。されば、こちらで、再度、以下の「骨董」の作品群を改めて校正することとする。これが――私の小泉八雲への「義」――である。なお、これよりも前の元版の全集等が先行しているものの、私がそれらと比べた結果、実は先行する同社の「小泉八雲全集」のそれらは、訳が一部で異なっており、訳者等によって、かなりの補正・追加がされていることが、今回の正字補正作業の中で、はっきりと判って来た。いや、同じ「家庭版」と名打ったネット上の画像データでも、驚いたことに、有意に異なっていたのである。そうした意味でも――完全な仕切り直しの総点検――が必要であると決したものである。従って、旧前振りの括弧・鍵括弧の問題も、拡大とガンマ補正で確認し、正確を期する。本作はここから。

 田部隆次(たなべりゅうじ 明治八(一八七五)年~昭和三二(一九五七)年)氏については、先に電子化した「人形の墓」の私の冒頭注を参照されたい。

 傍点「﹅」は太字に代えた。

 なお、本篇の原拠は、以上に示した通り、曲亭馬琴の戯作集「戲聞鹽槑餘史(おとしばなしあんばいよし)」の「鮫人(かうじん)」である(その原拠同定は平井呈一氏の恒文社版「日本雑記 他」の「参考資料」に拠った)。末尾にそれを国立国会図書館デジタルコレクションの画像で視認して附した。]

 

 

   鮫人の感謝

 

 昔、近江の國に俵屋藤太郞と云ふ人があつた。家は名高い石山寺に遠くない、琵琶湖の岸にあつた。彼には相應の財產もあつて、安樂に暮らしてゐたが、二十九歲にもなつて未だ獨身であつた。彼の大野心は絕世の美人を娶る事であつたから、氣に入る少女を見出す事ができなかつた。

[やぶちゃん注:「鮫人」(普通は「かうじん(こうじん)」の音読みが一般的で、原拠もそれであるから、小泉八雲の「さめびと」は彼のオリジナルな読みである)についてはネタバレになるので、後に回す。

「俵屋藤太郞」藤原俵藤太秀郷(寛平三(八九一)年?~天徳二(九五八)年又は正暦二(九九一)年)に引っ掛けたネーミング。秀郷には知られた「百足退治」の伝説があるが、この話(原話)はその内容の各所をパロディ化したものと言える。ウィキの「藤原秀郷」によれば、室町期に原話が成立したと思われる御伽草子「俵藤太物語」(絵入り刊本は寛永(一六二四年~一六四四年)頃の板行)に『みえる百足退治伝説は』、『琵琶湖のそばの近江国瀬田の唐橋に大蛇が横たわり、人々は怖れて橋を渡れなくなったが、そこを通りかかった俵藤太は臆することなく大蛇を踏みつけて渡ってしまった。大蛇は人に姿を変え、一族が三上山の百足に苦しめられていると訴え、藤太を見込んで百足退治を懇願した。藤太は強弓をつがえて射掛けたが、一の矢、二の矢は跳ね返されて通用せず、三本目の矢に唾をつけて射ると効を奏し、百足を倒した。礼として、米の尽きることのない俵や使っても尽きることのない巻絹などの宝物を贈られた。竜宮にも招かれ、赤銅の釣鐘も追贈され、これを三井寺(園城寺)に奉納した』という筋書きである。『俵藤太の百足退治の説話の初出は』「太平記」『十五巻といわれる』が、やはり室町時代に成立したと思われる「俵藤太物語」の『古絵巻のほうが早期に成立した可能性もあるという意見もある』。『御伽草子系の絵巻や版本所収の「俵藤太物語」に伝わり、説話はさらに広まった』。『御伽草子では、助けをもとめた大蛇は、琵琶湖に通じる竜宮に棲む者で、女性の姿に化身して藤太の前に現れる。そして百足退治が成就したのちに藤太を竜宮に招待する』。ところが、「太平記」では、『大蛇は小男の姿でまみえて』、『早々に藤太を竜宮に連れていき、そこで百足が出現すると』、『藤太が退治するという展開になっている』。「俵藤太物語」では、百足を退治した後、『竜女から無尽の絹・俵・鍋を賜ったのち、竜宮に連れていかれ、そこでさらに金札(こがねざね)』『の鎧や太刀を授か』っている。勢田唐橋(せたからはし:本文に出る「瀨多の長橋」は古異名)を東詰の南直近にある勢田橋龍宮秀郷社(グーグル・マップ・データ。以下同じ)は彼を祭神としている。

「石山寺」滋賀県大津市石山寺(いしやまでら:瀬田唐橋の一キロメートルほど南)の真言宗石光山石山寺。]

 或日、瀨多の長橋を通ると、欄干に近く蹲つて居る妙な物を見た。その物は體は人間のやうだが、墨のやうに黑く、顏は鬼のやうであつた、眼は碧玉の如く綠で、鬚は龍の鬚のやうであつた。藤太郞は初めは餘程驚いた。しかし彼を見るその綠の眼は餘程やさしかつたので、彼は少しためらつたあとで、その動物に問を發して見た。そこで、それが彼に答へて云つた、『私は鮫人(さめびと)です、ついこの間まで、八大龍王に仕へて龍宮の小役人を務めてゐましたが、私の犯した小さい過ちのために、龍宮から放逐され、それから又海からも追放される事になりました。それ以來私はこの邊に、――食物を得る事も、臥すべき場所さへもなく、――漂泊して居ります。どうか哀れと思召して、住居を見出せるやうに助けて下さい、それから何か喰べる物を頂かして下さい、御願です』

 この懇願は如何にも悲しい調子と、如何にも卑下した樣子で云はれたので、藤太郞の心は動いた。『一緖に來い』彼は云つた。『庭に大きい深い池があるから、そこに好きな程いつまでもゐたらよい、食物は澤山あげる』

 鮫人は藤太郞について、その家に行つて、池が餘程氣に入つたらしかつた。

 それから、殆んで半年程、この奇妙な客は池に棲んで、藤太郞から海の動物の好きさうな食物を每日貰つてゐた。

[やぶちゃん注:以下の割注は底本では四字下げポイント落ちである。]

 

〔もとの話のこの點から見ると、鮫人は怪物ではなく、同情のある男性の人間のやうに書いてある〕

 

 ところでその年の七月に、近くの大津の町の三井寺と云ふ大きな寺に女人詣があつた、藤太郞はその佛事を見物に大津に出かけた。そこに集まつた大勢の女や娘のうちに、彼は非常に美しい人を見つけた。十七歲ばかりに見えた、顏は雪のやうに白くて淸かつた。口のやさしさは見る者をして、その聲は『梅の木に囀る鶯のやうに美し』からうと思はせた。藤太郞は見ると共に戀に陷つた。彼女が寺を離れた時、彼は適當な距離で彼女のあとをつけて行つて見ると、彼女は母と共に、近所の瀨田村の或家に數日の間逗留して居る事を發見した。村人の或者に問うて、彼は彼女の名が珠名(たまな)である事、獨身である事、それから彼女の家族は彼女が普通の人と結婚する事を喜ばない事、――そのわけは一萬の珠玉を入れた箱を結納として要求してゐたから、――を知る事ができた。

[やぶちゃん注:「三井寺」現在の滋賀県大津市園城寺町にある天台寺門宗総本山長等山園城寺(おんじょうじ)の別名。唐橋の北西六キロメートル強。七世紀に大友氏の氏寺として草創され、九世紀に唐から帰国した留学僧円珍(天台寺門宗宗祖)によって再興された寺。「三井寺」の通称は、この寺に涌く霊泉が天智・天武・持統の三代の天皇の産湯として使われたことから、「御井(みゐ)の寺」と言われていたものが、転じて三井寺となったとされる。

「女人詣」女性は、どれほど功徳・修行を積んでも男性に生まれ変わった後でなくては往生出来ないとする「変生男子」(へんじょうなんし)説に見るように、仏教には草創当時から強い男尊女卑の宗教であり、女人結界は勿論、大寺や名刹では、永く、女人の通常の参詣を禁じていたところも多かった。「女人詣(にょにんもうで)」(小泉八雲のは原文でそう訓じている。原拠は「をんなもふで」(ママ))は、そうした戒律の中でも、特に礼拝が女性にも許された特異日を指す。

「瀨田村」滋賀県栗太郡にあった旧瀬田町附近。現在の大津市南東部の瀬田附近。琵琶湖の南西端沿岸・瀬田川左岸に当たる。]

 

 この事を聞いて藤太郞は大層落膽して家に歸つた。娘の兩親が要求する妙な結納の事を考へれば考へる程、彼は彼女を妻にする事は決して望まれないやうに感じた。たとへ全國中に一萬の珠玉があるとしても、大きな大名ででもなければそれを集める事は望まれなかつた。

 しかしただ一時間も藤太郞は、その美しい人の面影を彼の心から忘れる事ができなかつた。喰べる事も眠る事もできない程、その面影が彼を惱ました、日が立つに隨つて益〻はつきりするやうであつた。そしてたうとう彼は病氣になつた、――枕から頭が上らない程の病氣になつた。それから彼は醫者を迎へた。

 丁寧に診察してから、醫師は驚きの叫びをあげた。『どんな病氣でもそれぞれ適當な處方はあるが、戀の病だけは別です。あなたの病氣はたしかに戀煩ひです。直しやうはない。昔、瑯瑘王伯與はこの病で死んだが、あなたもその人のやうに、死ぬ用意をせねばならない』さう云つて醫者は、藤太郞に何の藥も與へないで、去つた。

[やぶちゃん注:「瑯瑘王伯與」「瑘」の字は不審。中国で秦代から唐代にかけて現在の山東省東南部と江蘇省東北部に跨る地域(この中央辺り)に置かれた琅邪郡は、「琅琊」「瑯邪」「瑯琊」「琅」等と書くが、「瑯瑘」は私は知らない。或いは誤植かも知れない。また、実は「與」も不審である。確かに原文は“Rōya-Ō Hakuyo”であるが、調べて見ると、これは「與」ではなく「輿」が正しい(平井呈一氏は恒文社版の「鮫人の恩返し」で正しく『伯輿』と訳されておられる。これも或いは誤植の可能性が高いか)。「世說新語」の「任誕第二十三」の掉尾に(所持する明治書院「新釈漢文大系」第七十八巻「世説新語」に拠る)、

王長史登茅山、大慟哭曰、「琅邪王伯輿終當爲情死」。

(王長史、茅山(ばうざん)に登り、大いに慟哭して曰はく、「琅邪(らうや)の王伯輿(わうはくよ)は、終(つひ)に當に情の爲めに死すべし。」と。)

がそれである。しかも困ったことに原話の馬琴は「情死」の意味を全く取り違えているのである。まず、「王長史」は、ここで叫んでいる本人、則ち、「琅邪の王伯輿」で、彼は東晋(三一七年~四二〇年)末期の、太子中庶子や司徒左長史を歴任した琅邪出身の官人にして武将であった王廞(おうきん:丞相王導の孫)であり、中文ウィキの「王廞」に経緯が語られてあるが、晋の政権内抗争の中で、王恭が義兵を起こそうとして、母の喪中にあった王廞を無理に挙兵させたのであったが、敵が亡くなったために、兵をおさめ、再び王廞を喪に服させようとした。それに激しく怒った王廞が死を賭して王恭に戦いを挑んだ。その折りの覚悟の叫びがこれで、同書の注釈書「世説解捃拾」にも『情死、鈔曰、猶ㇾ言憤死』とあって、「情死」は怒りの激「情」の中で「死」ぬぞ! という決死の開戦への台詞なのである。因みに、王廞は破れて、行方知れずとなった模様である。馬琴にして激しくイタい誤認に見えるが、博覧強記の戯作者馬琴なれば、それを知っていた上でやらかした半可通の医師の大ボケ描写で、ちょっとインク臭いいやらしいパロディとするべきだろう。

 

 この時、庭の池に棲んでゐた鮫人は主人の病氣を聞いて、藤太郞の看護をしに、家に入つて來た。そして彼は夜となく晝となくこの上もない愛情をもつて看護した。しかし彼はその病氣の原因も重大な事も知らなかつたが、一週間ばかりして、藤太郞は自分の命數ももうつきたと思つて、こんな永訣の言葉を發した、――

 『こんなに長くお前の世話をする事になつたのも、前世からの不思議の緣であらう。しかし私の病氣は今餘程惡い、そして每日惡くなるばかり、私の生命は夕を待たぬ間に消ゆる朝の露のやうだ。それでお前のために、私は心配して居る。これまでお前を養つて來たが、私が死んだあと誰も世話して養つてくれる者はなからう。……氣の毒だ。……あ〻、この世ではいつでも思ふ事がままにならぬ』

 藤太郞がかう云ふや否や、鮫人は妙な苦しみの叫びを發して烈しく泣き出した。そして泣き出すと共に、大きな血の淚が綠の眼から流れて出て、彼の黑い頰を傳うて床の上に落ちた。落ちる時は血であつたが、落ちてからは固く輝いて綺麗になつた、――貴い價の珠玉、眞赤な火のやうなすばらしい紅玉(ルビー)になつた。卽ち海の人が泣く時には、その淚は寶石になるのであつた。

 その時、藤太郞はこの不思議を見て、元氣が囘復したやうに、驚きかつ喜んだ。彼は床から跳び起きて、鮫人の淚を拾つて數へ始めた、同時に『病氣は直つた。もう死なぬ、死なぬ』と叫びながら。

[やぶちゃん注:鮫人は中国の伝説では、南海に棲むとされる人魚に似た想像上の生き物(男女いる)で、常に機 (はた) を織り、しばしば泣き、その涙が落ちて玉になるとされる。]

 そこで鮫人は非常に驚いて、泣くを止めて藤太郞にこの不思議に直つた理由を說明して貰ふやうに願つた、そこで藤太郞は三井寺で見た若い女の事、その女の家族によつて要求された異常な結納の事を話した。藤太郞は加へた、『私の望みは到底逹せられないと思つた。しかし今、お前が泣いてくれたので、私は澤山の寶石を得る事ができた、それで私はあの女を娶る事ができると思ふ。ただ――未だ寶石が足りない、それで賴むからもう少し泣いて貰ひたい、必要な數だけにしたいから』

 しかしこの要求に對して鮫人は頭を振つて、驚きと非難の調子で答へた、――

 『私は賣女[やぶちゃん注:「ばいた」。原文“harlot”。「遊女・売春婦」の意。]のやうに、――何時でも好きな時に泣く事ができるとお考になるのですか。いや、違ひます。賣女は人をだますために淚を流します、しかし海の者は本當の悲しみを感じないで泣く事はできません。あなたが亡くなられると思つて、心に本當の悲しみを感じたので泣きました。しかし病が直つたと云はれたので、もう泣く事ができません』

 『それぢやどうしたらいゝだらう』藤太郞は悲しさうに問うた。『一萬の珠玉がなければ、あの女を娶る事はできない』

 鮫人は暫らく默つて考へてゐた。それから云つた、――

 『聞いて下さい。今日はどうしても、もう泣けません。しかし明日一緖に酒と肴をもつて瀨田の長橋に參りませう。暫らく一緖に橋の上に休んで、酒を飮みながら、はるかに龍宮の方を望んで、そこで樂しい月日を送つた事を考へて、故鄕を慕ふ心が出て來れば――私は泣けます』

 藤太郞は喜んで承諾した。

 翌朝二人は酒肴を澤山携へて、瀨田の橋に行つた、そしてそこに休んで宴を開いた。酒を澤山飮んでから、鮫人は龍宮の方を眺めて、過去の事を想ひ出した。そして次第に心を弱くする酒の力で、過ぎ去つた樂しい日の記憶が彼の胸に一杯になつた、そして彼は盛んに泣く事ができた。そして彼の流した大きな赤い淚は、紅玉(ルビー)の雨となつて橋の上に落ちた。そして藤太郞は落ちるに隨つてそれを拾つて箱の中に入れた、そして數へて見たら、正に一萬の數に逹した。その時彼は喜びの叫びを發した。

 殆んど同時に、はるかの湖上から、樂しい音樂が聞えた、そして沖の方に、湖上から、何か雲の形のやうな、落日の色の宮殿が浮んだ。

 直ちに鮫人は橋の欄干の上に跳び上つて、眺めて、喜んで笑つた。それから藤太郞の方に向つて、云つた、――

 『龍宮國に大赦があつたに相違ありません、王樣逹は私を呼んでゐます。それで今お別れをいたします。御高恩に報ゆる事が少しできたので嬉しく思ひます』

 かう云つて彼は橋から跳び下りた、そして再び彼を見た人はなかつた。しかし藤太郞は珠名(たまな)の兩親に紅玉の箱を贈つて彼女を娶つた。

[やぶちゃん注:以下、原拠である曲亭馬琴の寛政一一(一七九九)年板行の戯作集「戲聞鹽槑餘史(おとぎばなしあんばいよし)」の「鮫人(かうじん)」である(但し、馬琴は「こうじん」と読みを振っている)。それを国立国会図書館デジタルコレクションのこちらの画像(活字本ではなく、版本)で視認して附す。読み易くするため、一部の句点を読点に代え、句読点も増やし、記号等も追加し、段落を成形した。読みは振れると判断したもののみとした。約物(やくもの)及び踊り字「く」は正字化した。歴史的仮名遣の誤り(非常に多い)は総てママである。■は判読不能字。

   *

  ○鮫人(こうじん)

 むかし、俵屋藤太郞といふものあり。常に美婦を娶(めと)らんことをねがひしも、いまだ、その鳳(あいて)を得ず。

 ある日、瀨田の橋をわたりけるに、かたはらなる砂のうへに、一個(ひとり)の漢子(おとこ)、眠(ねむり)居たり。

 その形狀(かたち)みるに、碧(みどり)の眼(まなこ)、蟒(うはゞみ)の鬚、滿身、墨のごとく黑くして、鬼に似たり。

 喚起(よびおこ)して、

「何者ぞ。」

と問へば、そのもの、對(こたへ)て、

「我は海中の鮫人(こうじん)なり。八大龍王につかへて、龍宮の小吏(やくにん)なりしが、いさゝか、罪あつて龍宮を所放(おひださ)れ、今、漂泊して、此ところに吟來(さまよひきた)りたり。あはれ、一扁の慈悲心をたれて救ひ給へかし。」

と、手を合(あはせ)て賴(たのみ)ければ、藤太郞も了得(さすが)不便(ふびん)にや思ひけん、遂に鮫人を伴ひ、わが家(や)へ立(たち)かへり、幸ひ、庭に些(すこし)ばかりの泉水ありければ、そのうちへ入れ、養(かひ)おきけり。

 却說(かくて)、その秋七月のことなりしが、藤太郞、三井寺の女人詣(をんなもふで)を見物に行たりしに、參詣おほきその中(なか)に、一個(ひとり)の美女、としは二八ばかり[やぶちゃん注:十六歳。]とみへ、『山は西施が破瓜(はくわ)[やぶちゃん注:女性の十六歳の異称。]のごとし』と、白樂天が口遊(くちずさみ)たるおもかげにて[やぶちゃん注:原詩不詳。]、滿身(すがた)、淸らななる雪かと疑ひ、言語(ものいふこへ)は鶯の、梅(むめ)の木傳ふ風情なれば、藤太郞、看一(ひとめ)看(みる)より、眼中、忽ち、春を生じ、迹(あと)をつけて行(ゆき)てみれば、八早瀨(やばせ)[やぶちゃん注:矢橋(やばし)。最後にそれで出る。滋賀県南西部、草津市西部の琵琶湖の南端の東岸にある地区。昔の琵琶湖の港で、江戸時代には東海道の近道となった大津-矢橋間の渡船場として栄えた。近江八景の「矢橋帰帆」で知られる。]あたりに、よしありげなる廬(いをり)をむすびて、母子(おやこ)二口(ふたりぐらし)とみへたれば、密(ひそか)に合壁(となり)の老媼(ばゞ)に便(たより)て、その思ひを通(かよは)せけるに、渠(かれ)、元(もと)より、對(むこ)を撰(えら)みて、いまだ、嫁(よめら)ず。女児(むすめ)の名を「珠名(たまな)」といへば、只(たゞ)のぞむところは、萬顆(まんりう)[やぶちゃん注:一万粒。]の明玉(めいぎよく)を納聘(ぢさん)にする人あらば、壻(むこ)にせんとの難題。鳴乎(あゝ)、藤太郞、假令(たとへ)產を破りて千金をつむとも、萬粒の明玉、いかで容易(たやすく)求得(もとめゑ)んやうあらざれば、■悶(うれひもだへ)[やぶちゃん注: ここの右頁の三行目最下部。恒文社版参考資料では『憂悶』とするが、「憂」には見えない。]て、ついに相思病(きやみ)となり、枕も、さらに、あがらねば、さつそく、医師(いしや)をまねきて、容子を問ふに、医師、脉(みやく)を診(とつ)て、大きに駭(おどろ)き、

「雜症(ざつせう)は医(なをる)べし、相思病(さうしびやう)は活(き)がたし。むかし、瑯琊(ろうや)王伯輿(わうはくよ)、情(じやう)のために、死す。君が病ひ、唯(たゞ)、空手(てをむなしく)して薨(し)を俟(また)んのみ。」

と、袖をはらつて立かへる。

 却說(かくて)、藤太郞が泉水にいたりし鮫人(かうじん)は、主人の疾(やまひ)重しときゝ、昼夜、枕にそふて、看病すれば、藤太郞もその志(こゝろざし)を感じ、

「誠(まこと)に不思議の緣によつて、汝をやしなふこと、既に半歲(はんねん)におよべり。しかるに、わが病、日々に重く、旦露(あさつゆ)夕(ゆふべ)をまたぬ、牽牛花(あさがほ)の杖とたのみしかひもなく、われ亡後(なきあと)は、誰(たれ)あつて汝を養ふものも、なし。実(げ)にまゝならぬ世なりけり。」

[やぶちゃん注:「牽牛花(あさがほ)」中国の古医書「名醫別錄」によれば、昔、ある農夫が朝顔の種を服用して病気が治ったことから、自分の水牛を牽き連れて朝顔の生えていた畑にお礼を言いに行ったことによる異名とする。確かに朝顔(ナス目ヒルガオ科ヒルガオ亜科 Ipomoeeae 連サツマイモ属アサガオ Ipomoea nil )の種子は「牽牛子」(けにごし/けんごし)と呼ぶ生薬として用いられ、「日本薬局方」にも収録されており、粉末にして、下剤や利尿剤として薬用にするが、主成分のファルビチンやコンボルブリンは毒性が強く、熱を加えても変化せず、嘔吐・下痢・腹痛・血圧低下を引き起こすので、素人処方は厳に慎むべきものである。]

と、かきくどきて申すにそ、鮫人、この言(ことば)を聞よりも、失聲(わつとばかり)、泣出(なきいだ)し、鬼燈(ほうづき)ほどの血の淚、蘓々(はらはら)と落せしが、たちまち、光輝(きかりかゞやき)て、粒々(りうりう)、みな、珠(たま)となる。

 藤太郞、これをみるよりも、襖(よぎ)はねのけて、

「岸破(がば)」[やぶちゃん注:オノマトペイア。]

と起(おき)、

「わが病、既に愈(いへ)たり。」

 鮫人、よろこんで、その譯をきくに、藤太郞、ありし事ども、說話(ものがたり)、

「万粒(りう)のたまなければ、想ふ女、家にそふことならず。夫(それ)ゆへにこそ、右(かく)は愁(うれひ)にしづみしに、今、憶(おもは)ずも、汝が淚、珠となりしゆへ、吾願(わがねがひ)、既に成就せり。然共[やぶちゃん注:「しかれども」。]、恨むらくは、珠の数(かず)、いまだそろはず。爲(ため)に、今、一たび、哭(ない)て、積日(ひごろ)の※悶[やぶちゃん注:ここの左頁二行目下部。「※」は恐らく「グリフウィキ」のこれで「鬱」の異体字である。]をはらさせくれよ。」

と、たのめば、鮫人、不肯((かむりをふり)、

「君、古人の書を、みたまはずや。『海中に鮫人あり、哭則(なくときは)、淚、珠(たま)となる』。かゝる一奇事(ふしぎ)ありといへども、その、實情より出たる悲しみにあらされば、一滴の淚も、こぼしがたし。かの娼妓(けいせい)の漂蝶(きやく)を騙(だま)す作獒(てくだ)を以て泣(なく)がごときは、小的們(わがともがら)、かりそめにも、なすことあたわず。しかれども、大恩ある花主(ごしゆじん)の、月老(なかだち)となるなみだなれば、われに一ツの通風(くふう)あり。明日、酒殽(さけさかな)を携へ、瀨田の橋にゆき、はるかに海上(かいしやう)を眺望(のぞみ)なば、古鄕(こきやう)をしたふ實情のかなしみ出て、淚の落(おつ)る事、あるべし。」

と、いひければ、藤太郞、大きに歡び、早旦(さつそく)、酒肉(さけさかな)を携へ、瀨田の橋の眞中(まんなか)にて、鮫人とさし向ひ、海上を眺望す。鮫人、盃(さかづき)をあげて、杳(はるか)の澳(をき)を打ながめ、

「煙波(えんぱ)、汨沒(べきぼつ)[やぶちゃん注:水中に沈むこと。]して、わが家、いつくにかある[やぶちゃん注:「何處(いづく)にか在る」。]。鳴呼(あら)、なつかしの龍都(ふるさと)や。」

と、歸思(きし)、しきりに箭(や)のごとく、泫然(げんぜん)として[やぶちゃん注:涙がはらはらと零(こぼ)れるさま。さめざめと泣くさま。]一たび實働(なげけ)ば、紅淚(なんだ)おちて、蘓々々(はらはらはら)、忽(たちまち)化(け)して、珠となる。

 藤太郞、よろこび、珠をとつて玉盤(きよくはん)に盛り、數(かず)をみるに、既に万顆(まんりう)に充(みち)たり。

 かゝる所に、海上(かいせう)、赤城(せきじやう)霞(かすみ)起(おこつ)て[やぶちゃん注:赤くなった山(龍宮世界のそれ)に霞がかかって。]、蜃氣樓、珊瑚嶌(さんごとう)[やぶちゃん注:龍宮世界の珊瑚で出来た空想の島であろう。]をめぐり、音樂、しきりに聞へければ、鮫人、欄干に躍騰(おどりあがり)、

「有がたや。『龍宮に吉事あつて、龍王の赦免ありて、われを召す』と。君が半年の高恩、今、報じたり。歸去來(さらば)、歸去來。」

と、いひ捨(すて)て、海中に飛入(とびいり)ツヽ、行衞もしらずなりければ、藤太郞、いそぎ、彼(かの)万顆(まんりう)の珠(たま)を携へ、矢橋(やばし)へと[やぶちゃん注:「へ」が「と」のルビのようにあるように見える。「へ」を入れて読む。]急ぎけるが、さるにても、万粒の珠を聘(ぢさん)[やぶちゃん注:「持参」か。結納金か。]にのそむ[やぶちゃん注:「のぞむ」。望む。]といふも不解(がてんゆかず)。かの女児母子(むすめおやこ)が世業(せうばい)は何であらふと、珠を入(いれ)た盆を引(ひつ)かゝへ、廓(みせ)のほうを私(そつと)のぞけば、商賣は、かんろふ糖。

   *

最後のサゲの「かんろふ糖」は不詳。「甘露糖」という砂糖か菓子か、はたまた、飴の製造業か販売業かの商標か。何か洒落が掛かけてあるのであろうが、判らぬ。識者の御教授を乞うものである。]

2019/10/26

小泉八雲 辨天の同情  (田部隆次譯)

 

[やぶちゃん注:本篇(原題“ The Sympathy of Benten ”)は一九〇〇(明治三三)年七月にボストンの「リトル・ブラウン社」(LITTLE,BROWN AND COMPANY)から出版された作品集“ SHADOWINGS ”(名詞「shadowing」には「影」以外には「人影」・「影法師」・「影を附けること」・「尾行」などの意味がある。本作品集の訳は概ね「影」が多いが、平井呈一氏は「明暗」と訳しておられ、私も漠然とした「影」よりも、作品群の持つ感性上の印象としてのグラデーションから「明暗」の方が相応しいと思う。来日後の第七作品集)の第一パート“ STORIES FROM STRANGE BOOKS ”第五話に配された作品である。本作品集は“Internet Archive”のこちら(出版社及びクレジットの入った扉表紙を示した)で全篇視認できる(本篇はここから。原拠を記した添書のある標題ページで示した。そこには“ The original story is in the Otogi-Hyaku-Monogatari ”(「原話は「御伽百物語」の中にある」)とある。活字化されたものは“Project Gutenberg”のこちらで全篇が読める(本篇はここから)。

 底本は英文サイト“Internet Archive”のこちらにある、第一書房が昭和一一(一九三六)年十一月に刊行した「家庭版小泉八雲全集」(全十二巻)の第七巻の画像データをPDFで落として視認した。【2025年4月13日:底本変更・正字化不全・ミスタイプ・オリジナル注全補正】時間を経て、国立国会図書館デジタルコレクションに本登録し、現行では、以上の第一書房版昭和一一(一九三六)年十一月に刊行した「家庭版小泉八雲全集」(全十二巻)の第七巻が、国立国会図書館デジタルコレクションで公開されてある。(リンクは扉だが、「家庭版」の文字はない。しかし、奥附を見て貰うと『家庭版』とあり、『昭和十一年十一月二十七日 發 行』とあることが確認出来る)、これが、前掲の底本と同じものであるが、やはり、外国のサイトのそれを底本とするのは、日本人小泉八雲に失礼であると考えた。されば、こちらで、再度、以下の「骨董」の作品群を改めて校正することとする。これが――私の小泉八雲への「義」――である。なお、これよりも前の元版の全集等が先行しているものの、私がそれらと比べた結果、実は先行する同社の「小泉八雲全集」のそれらは、訳が一部で異なっており、訳者等によって、かなりの補正・追加がされていることが、今回の正字補正作業の中で、はっきりと判って来た。いや、同じ「家庭版」と名打ったネット上の画像データでも、驚いたことに、有意に異なっていたのである。そうした意味でも――完全な仕切り直しの総点検――が必要であると決したものである。従って、旧前振りの括弧・鍵括弧の問題も、拡大とガンマ補正で確認し、正確を期する。本作はここから。

 田部隆次(たなべりゅうじ 明治八(一八七五)年~昭和三二(一九五七)年)氏については先に電子化した「人形の墓」の私の冒頭注を参照されたい。

 傍点「﹅」は太字に代えた。

 なお、本篇の原拠である怪談集「御伽百物語」については、私は既にブログ・カテゴリ「怪奇談集」で全電子化注を、昨年、終えており、原拠はその中の「御伽百物語卷之二 宿世(すくせ)の緣」である。「御伽百物語」の作者青木鷺水(ろすい 万治元(一六五八)年~享保一八(一七三三)年)は江戸前・中期の俳人で浮世草子作家。名は五省、通称は次右衛門、号は白梅園(はくばいえん)。京都に住んだ。俳諧は野々口立圃(りゅうほ)或いは伊藤信徳門下であったと思われるが、松尾芭蕉を尊崇し、元禄一〇(一六九七)年跋の「誹林良材集」の中では、彼は芭蕉を「日東の杜子美なり、今の世の西行なり」(日本の杜甫であり、今の世の西行である)と述べている(「早稲田大学古典総合データベース」の同書原典の当該頁画像を見よ。但し、彼が芭蕉の俳諧に倣おうとした形跡は殆ど認められない)。「俳諧新式」「誹諧指南大全」などの多くの俳書を刊行したが、元禄後期からは、浮世草子作者として活躍、本書や「諸國因果物語」(六巻)・「古今堪忍記」(七巻)・「新玉櫛笥」(六巻)などを書いた。「御伽百物語」は宝永三(一七〇六)年に江戸で開版したものである。私の以上の電子化注は所持する三種類の校本を「早稲田大学古典総合データベース」の同書の原典画像と厳密に校合したもので(「青木鷺水 御伽百物語 始動 / 序・目録」の冒頭の私の注を参照)、ここで新たに電子化する必要性を感じないし、注もそちらで尽きていると感じている

 

 

   辨天の同情

 

 京都に名高い大通寺と云ふ寺があつた。淸和天皇の第五の皇子貞純親王が僧として、その一生の大部分をそこで送らせ給ふた、それから多くの名高い人々の墓がその境內に見出される。

[やぶちゃん注:「大通寺」真言宗万祥山遍照心院大通寺。通称「尼寺」。ここ(グーグル・マップ・データ)。但し、廃仏毀釈に遇い、現在位置はここではなく、旧地は明治四四(一九一一)年に旧国鉄用地となり、六孫王神社だけを残して現在地に移転して逼塞したものである。詳しくは「御伽百物語卷之二 宿世の緣」の私の注を参照されたい。

「淸和天皇」(嘉祥三(八五〇)年~元慶四(八八一)年)は第五十六代天皇。

「第五の皇子貞純親王」(貞観一五(八七三)年?~延喜一六(九一六)年)。上総・常陸の太守や中務卿・兵部卿を歴任したが、位階は四品に留まった。経基・経生の両王子が共に源姓を賜与され臣籍降下したことから、清和源氏の祖の一人となっている。但し、実際には大通寺が彼の宅地だったのではなく、寺の南隣りに彼の邸宅があったのである。「御伽百物語卷之二 宿世の緣」の私の大通寺の注の引用を参照されたい。]

 しかし現在の建物は昔の寺ではない。もとの寺は千年たつてから、大破に及んだので、元祿十四年(西暦一七〇一年)に全部改築される事になつた。

 その改築の祝ひに大佛事が行はれた、その佛事に參詣した數千の人々のうちに學者で詩人の花垣梅秀と云ふ若い人がゐた。彼は新しく造られた庭園なども𢌞りあるいて、何でも喜んで見て居るうちに、以前屢々飮んだ事のある泉に到着した。彼はその時、泉の𢌞りの土地は掘りかへされて、四角な池になつて居る事、それから池の一端に木の札を立てて『誕生水』と書いてある事を見て驚いた。それから又小さいが甚だ立派な辨天の社が池の側に建ててある事を見た。彼がこの新しい社を眺めて居るうちに、不意に一陣の風が彼の足もとに一枚の短册を吹き寄せた、その上にはつぎの歌が書いてあつた、――

[やぶちゃん注:「花垣梅秀(はながきばいしう)」不詳。

「誕生水」これは現在の六孫王神社の境内に「誕生水弁財天社」(グーグル・マップ・データ)として現存する。源経基の嫡男で多田源氏の祖である、源満仲(延喜一二(九一二)年?~長徳三(九九七)年)の産湯に使った「誕生水」の意。詳しくは「御伽百物語卷之二 宿世の緣」の私の注を参照されたい。]

 

    しるしあれと

    いはひぞそむる玉箒

    とる手ばかりの

    ちぎりなれども

 

 この歌――名高い俊成卿の作つた初戀の歌――は彼に取つては珍らしくはなかつた、しかしそれは女の手で、しかもそんなに巧みに短册に書いてあつたので、彼は殆んど夢かとばかり驚いたのであつた。文字の形にある或物、――何とも云へない優美、――はこどもとおとなの間の若い時を暗示してゐた、それから墨の淸い立派な色は書いた人の心の淸さ[やぶちゃん注:「きよらかさ」と訓じておく。]と善良な事を表はして居るやうであつた。

[やぶちゃん注:「しるしあれといはひそ初るたまはゝきとるてばかりのちぎりなりとも」藤原俊成の「長秋詠藻」の下の「右大臣家百首」に見出せる。整序すると、

 驗(しるし)あれと祝ひぞ初(そ)むる玉箒(たまははき)

           取る手ばかりの契りなりとも

である。和歌嫌いの私にはよく意味が判らぬのだが、王朝和歌文学が専攻であった妻の協力を得て、牽強付会に解釈してみると、まずは取り敢えず、「玉箒(たまははき)」の「玉」は単なる美称ととっておき、「箒」はまさに「箒」(ほうき)で、幼い子が悪戯に「ははき取る手」、箒を互いにその手に握って引っ張り合うような「ばかり」、だけの、他愛のない無邪気な「契り」(初恋の別な属性としての「はかない縁(えにし)」の意も含むか。いや、だからこそ汚れなき初恋の象徴とも言えよう)であったとしても、「驗あれ」と――私の恋に、どうか相手の方が、答えて呉れますように――と「祝ひぞ初むる」――恐らくは、ここには本来の「玉箒」(たまばはき(たはははき):正月の初子(はつね)の日に大切なお蚕さまのいる蚕室を掃くのに用いた玉の飾りをつけた「祝ひぞ初むる」箒のこと)という年初の祝祭の祭具の意が込められているように私には感じられる――といった意味か? 大方の御叱正を俟つ(以上も「御伽百物語卷之二 宿世の緣」の私の注で記したものである)。]

 梅秀は丁寧に短册を疊んで、家にもつて歸つた。見れば見る程、始めよりも一層立派に見えた。書道に關する彼の知識から判斷すれば、この歌は、甚だ若い、甚だ賢い、そして多分甚だ心の素直な少女の書いた物に相違なかつた。しかしこの判斷は、彼の心に甚だ綺麗な人の面影を作るに充分であつた、そして彼は見ぬ戀にあこがれる事になつた。それから、彼の第一の決心は、その歌の筆者をさがしてできる事ならその人を妻に娶る事であつた。……しかしどうしてその女を見出す事ができよう。その女は何者だらう。どこに居るのだらう。彼女をさがす事のできる望みはただ神佛の加護によるより外はなかつた。

 しかし、神佛も喜んで加護を垂れ給ふ事が、そのうちに彼の心に浮んで來た。この短册は彼が辨天樣の堂の前に立つて居る間に、彼のところへ來たのであつた、そして戀人同志が幸福なる結合を得ようとしていつも參詣するのはこの神樣であつた。さう考へたので、この神樣にお助けを願ふ事にした。彼は直ちに、寺の境內の誕生水の辨天の堂へ參詣して、眞心をこめて、こんなお祈をした、――『辨天樣、お願です、――この短册を書いた若い人はどこに居るか、見出せるやうにお助けを願ひます、――たとへ僅かの間でも、彼女に會ふただ一度の機會でも私に與へて下さい』それから、この祈をしたあとで、彼は辨天樣に七日參りを始めた、同時に終夜參籠して禮拜のうちに、第七夜を過さうと誓つた。

 

 さて第七夜に、――彼の夜明しをした時、――靜かさの最も深い時に、彼は寺の總門に聲があつて案內を呼んで居るのを聞いた。內部から別の聲が答へた、門は開いた、そして梅秀は立派な風采の老人が徐々たる步調で近づいで來るのを見た。この老いて尊い人は水干に指貫を着て、雪のやうな頭に烏帽子を冠つてゐた。辨天の堂について、彼はその前に跪いて何か命令を待つて居るやうであつた。それから宮の外側の扉が開いた、そのうしろの內部の神殿を隱してゐた簾は半ば卷き上つた、それから一人の稚兒(ちご)――昔風に長い髮を束ねた綺麗な男の子――が現れた。彼はそこに立つて澄み渡つた大きな聲で老人に云つた、――

[やぶちゃん注:「水干」「水干狩衣(すいかんかりぎぬ)」の略。平安後期から江戸時代まで用いられた男子用の和服の一種。当初は庶民のものであったが、後に公家の、さらに鎌倉時代頃からは武家にも用いられるようになった。地は古くは麻布・葛布が多かったが、時代が下るとともに華麗になって平絹・紗・綾を用いた。また、狩衣でありながら、上衣を下袴に着込めるのも、この服装の特色である(「ブリタニカ国際大百科事典」に拠った)。

「指貫」「指貫の袴(さしぬきのはかま)」の略。「裾に紐を差抜く」の意で、裾を締め括ることが出来るように紐を通した袴をさす。「奴袴(ぬばかま)」とも称し、麻布製のものは「布袴」(ほうこ)とも呼んだ。原型は奈良時代の「括緒」(くくりお)「の袴」とされている。平安時代以後になると、衣冠・直衣(のうし)・狩衣・水干などとともに着用され、地質も綺(あやぎぬ)・綾・絹など次第に豪華なものになっていった(同前)。]

『ここに、その現在の境遇に不相應な、そして外の方法では達せられさうにない願を祈つて居る者がある。しかしその若者は不便(ふびん)に思ふから、何とかしてやる方法はないか、それで御身は召されたのである。宿世の緣もあるやうなら宜しく兩方を引會せて貰ひたい』

 この命令を受けて、老人は恭しく稚兒に敬禮してから、立ち上つて、左の長い袖の袂から赤い紐を取り出した。この紐の一端で梅秀の體を縛るやうに卷いた。他端を御灯(とう[やぶちゃん注:「灯」のみのルビであるから、「おとう」。])の火に燃した、その紐が燃えて居る間に、彼は暗がりから誰かを呼ぶやうに、三度手で招いた。

 直ちに寺の方向に來る足音が聞えて來た、そしてすぐに一人の少女が現れた、――美しい十六七歲の少女であつた。彼女はしとやかに、しかし甚だはにかんで、――扇で口のあたりを隱しながら近づいた、そして彼女は梅秀の側に坐つた。それから稚兒は梅秀に向つて云つた、――

 『この頃御身は甚だ心を痛めて、及ばぬ戀に身を苦しめてゐた。そのやうな不幸をそのままに見捨て置く事もできないので、月下の翁を招いて短册のぬしに引合せる事にした。その人は今御身の側に來て居る』

 かう云つて稚兒は簾のうしろに退いた。それから老人は來た時と同じやうに歸つた、そして少女もそのあとに續いた。同時に梅秀は曉を知らせる寺の大梵鐘を聞いた。彼は誕生水の辨天堂の前に感謝のために平伏した、それから――樂しい夢からさめた心地で、――彼がそれ程會ひたいと熱心に祈つた美しい人を見る事ができたのを喜びながら、――又再び會ふ事ができないのではないかと考へて心配もしながら、歸途についた。

 しかし門から往來へ出るや否や、彼は自分と同じ方向に獨りで行く少女を見た。そして曉のほの暗きうちにも、彼は直ちに辨天堂で引合はされた人である事を認めた。彼女に追ひつかうとして步を早めた時、彼女はふり向いて、しとやかなお辭儀をして彼に挨拶した。その時彼は始めて彼女に話しかけてみた、そこで彼女は彼に返事をしたが、その聲の美はしさで彼の心は喜びで滿たされた。未だ靜かな往來を彼等は樂しさうに話しながら步いて、遂に梅秀が住宅まで來た。そこで彼は止つて――少女に自分の望みと恐れとを語つた。微笑しながら、彼女は尋ねた、――『私あなたの妻になるために呼びよせられた事を御存じないのですか』それから彼女は彼と一緖に入つた。

 

 彼の妻になつてから、彼女はやさしい智慧と情けで、思ひの外に彼を喜ばせてくれた。その上、彼は自分の想像以上に、彼女の遙かに敎養のある事を發見した。それ程手蹟の立派である以外に、美しい繪を描く事ができた、生花、刺繡、音樂の諸藝に通じてゐた、織る事も縫ふ事もできた、それから家事に關する一切の事を知つてゐた。

 

 この若い二人が會つたのは秋の初めであつた、そして彼等は冬の季節の始まるまで仲睦じく暮らしてゐた。この三月の間、彼等の平和を亂す何物もなかつた。このやさしい妻に對する梅秀の愛は、時と共にただ强くなるばかりであつた。しかも、不思議にも、彼は彼女の經歷を知らなかつた、――彼女の家族についても少しも知らなかつた。こんな事については彼女は決して云はなかつた、そして神佛から授かつたから、彼女に問ふのは不適當であると想像した。しかし、月下の翁もその外の者も――彼が恐れてゐたやうに――彼女を取り返しには來なかつた。何人も彼女に關して問合す事もしなかつた。それから隣人達は、どう云ふわけか分らないが、彼女の存在を全然知らないかのやうにしてゐた。

 梅秀は凡てこんな事を不思議に思つた。しかしもつと不思議な經驗は彼を待つてゐた。

 或冬の朝、彼は京都のやや邊鄙な場所を通つて居る時、大聲で自分の名を呼ぶ人を聞いた。見ると或人の家の門から一人の下男が彼に向つて手招きをしてゐた。梅秀はその男を知らない、それに京都のこの邊で知人は一人もないから、彼に取つてはそんな突然の招きは驚き以上であつた。しかし下男は、進んで來て、最上の敬意を表して彼に挨拶して、云つた、『主人はあなたにお目にかかりたいと申して居ります、どうぞ暫らくお入り下さい』少しためらつたあとで、梅秀は案內されるままにその家へ入つた。家の主人らしい立派な身なりの威嚴のある人が、玄關へ出て彼を歡迎して、それから客間へ案內した。初對面の挨拶が交換されたあとで、主人は彼をこんなに突然招いた事の無禮の云ひわけをして、云つた、――

 『こんな風にお呼び申したのは實に無禮に思はれるに相違ありませんが、實は辨天樣からのお告げによる事と固く信じてこんな事をいたしました次第で、多分御容赦下さる事と存じます。これからお話いたしませう。

 『私、娘を一人もつて居りますが、十七ばかりになります、手も相應に書きます、その外の事も一通りいたします、人並の女でございます。どうか良い緣をもとめて幸福にしてやりたいと思つて辨天樣にお祈を致しました、それから京都の辨天堂へ悉く娘の書いた短册を奉納いたしました。それから幾晚かあとで、辨天樣が夢に現れてお告げがありました、「祈は聞いたから、お前の娘の夫になる人に娘をもう引合せて置いた。冬になればその人は來る」紹介が濟んだと云ふこの證言が分らなかつたから、私は少し疑ひました、私はこの夢は意味のない普通の夢に過ぎないのだらうと思ひました。しかし昨夜又私は夢に辨天樣を見ました、そしてそのお告げに「明日、さきに云つて置いた若い人がこの町へ來る、その時うちへ招じ入れて娘の婿になつてくれるやうに云ふ方がよい。良い靑年だから、後には今よりはずつと高い位に上るやうになる」とありました。それから辨天樣はお名前、年齡、生れ所をお聞かせになつて、容貌や着物を詳しく云つて下さいましたので、私が申しきかせた指圖で、下男は造作なくあなたが分りました』

 

 この說明は、梅秀を納得させないで當惑させるばかりであつた、彼はただその家の主人が彼に敬意を表する事を云つた事に對する形式的返禮の言葉しか云へなかつた。しかし主人が娘に紹介するりもりで別室へ彼を誘つた時、彼の當惑は極度に達した。それでも彼はその紹介を程よく謝絕する事はできなかつた。彼はこんな異常な場合に自分にはすでに妻がある事、――正しく辨天樣から授かつた妻、彼が別れる事などは考へて見る事もできない妻のある事を云ひ出すわけには行かなかつた。そこで默つてびくびくしながら、その示された部屋へ主人のあとからついて行つた。

 その家の娘に紹介された時、その娘と云ふのは實は彼がすでに妻として居るその人と同じ人である事を發見した時の彼の驚きは、どんなであつたらう。

 

 同じ、――しかし同じではない

 月下翁によつて紹介された彼女はただ愛人の魂であつた。

 今、父の家で結婚する事になつた彼女は體であつた。

 

 辨天はその信者のためにこの奇蹟を行つたのであつた。

         *

       *

         *

 もとの話は色々の事を說明をしないままにして、突然終つて居る。その結末は餘程感心しない。本當の乙女が自分の靈の結婚生活の間にどんな精神上の經驗をしたかについて、讀者は多少知りたい。それからその靈がどうなつたか、――それは續いて兩立の存在をしたかどうか、或はそれが夫の歸りを辛抱して待つてゐたかどうか、或はそれが本當の花嫁のところへ訪問に來たかどうかを讀者は知りたい。そして書物にはこれ等の事については何も云つてない。しかし日本の友人はこの奇蹟をこんな風に說明する、――

 『魂の花嫁は實際短册からできたのであつた。それで本當の少女は辨天堂での會合については少しも知らないと云ふ事はあり得べき事である。短册の上にその美しい文字を書いた時に、彼女の魂の幾分はそこへ移つた。それだから書いた物から、書いた人の精靈を呼び起す事ができたのであつた』

 

[やぶちゃん注:最後の友人は本質的に小泉八雲の疑問に何ら、答えていない。ただ、八雲は文字に霊魂が宿るという点に興味を持ち、それを肯んずることは出来た。私は小泉八雲の解かれない最後の不満がよく分かる。小泉八雲は霊界を否定しない。しかし、現実界と霊界とが接するに際して、そこに一つの粛然とした誤りのない共時性(シンクロニティ)があるはずであり、それは基本的に、相互を矛盾・齟齬させたり、一方を無化するような、無情なことは決してあってはならぬ、という驚くべき優しさを持った世界観に裏打ちされている稀有の人物――それが小泉八雲その人なのである。

小泉八雲 屍に乘る人  (田部隆次譯) / 原拠及びリンクで原々拠を提示

 

[やぶちゃん注:本篇(原題“ The Corpse-Rider ”。「死体に騎(の)る者」。田部訳の「屍」は「しかばね」と訓じておく)は一九〇〇(明治三三)年七月にボストンの「リトル・ブラウン社」(LITTLE,BROWN AND COMPANY)から出版された作品集“ SHADOWINGS ”(名詞「shadowing」には「影」以外には「人影」・「影法師」・「影を附けること」・「尾行」などの意味がある。本作品集の訳は概ね「影」が多いが、平井呈一氏は「明暗」と訳しておられ、私も漠然とした「影」よりも、作品群の持つ感性上の印象としてのグラデーションから「明暗」の方が相応しいと思う。来日後の第七作品集)の第一パート“ STORIES FROM STRANGE BOOKS ”第四話に配された作品である。本作品集は“Internet Archive”のこちら(出版社及びクレジットの入った扉表紙を示した)で全篇視認できる(本篇はここから。注のついた標題ページを示した。なお、この注では“ From the Konséki-Monogatari ”となっている)。活字化されたものは“Project Gutenberg”のこちらで全篇が読める(本篇はここから)。

 底本は英文サイト“Internet Archive”のこちらにある、第一書房が昭和一一(一九三六)年十一月に刊行した「家庭版小泉八雲全集」(全十二巻)の第七巻の画像データをPDFで落として視認した。【2025年4月13日:底本変更・正字化不全・ミスタイプ・オリジナル注全補正】時間を経て、国立国会図書館デジタルコレクションに本登録し、現行では、以上の第一書房版昭和一一(一九三六)年十一月に刊行した「家庭版小泉八雲全集」(全十二巻)の第七巻が、国立国会図書館デジタルコレクションで公開されてある。(リンクは扉だが、「家庭版」の文字はない。しかし、奥附を見て貰うと『家庭版』とあり、『昭和十一年十一月二十七日 發 行』とあることが確認出来る)、これが、前掲の底本と同じものであるが、やはり、外国のサイトのそれを底本とするのは、日本人小泉八雲に失礼であると考えた。されば、こちらで、再度、以下の「骨董」の作品群を改めて校正することとする。これが――私の小泉八雲への「義」――である。なお、これよりも前の元版の全集等が先行しているものの、私がそれらと比べた結果、実は先行する同社の「小泉八雲全集」のそれらは、訳が一部で異なっており、訳者等によって、かなりの補正・追加がされていることが、今回の正字補正作業の中で、はっきりと判って来た。いや、同じ「家庭版」と名打ったネット上の画像データでも、驚いたことに、有意に異なっていたのである。そうした意味でも――完全な仕切り直しの総点検――が必要であると決したものである。従って、旧前振りの括弧・鍵括弧の問題も、拡大とガンマ補正で確認し、正確を期する。本作はここから。

 田部隆次(たなべりゅうじ 明治八(一八七五)年~昭和三二(一九五七)年)氏については先に電子化した「人形の墓」の私の冒頭注を参照されたい。

 傍点「﹅」は太字に代えた。

 なお、本篇はその原々拠を『「今昔物語集」卷第二十四 人妻成惡靈除其害陰陽師語第二十』(人の妻(め)、惡靈と成り、其の害を除く陰陽師(おむやうじ)の語(こと)第二十)に拠っている。それは本篇公開に先立って、こちらで原文・語注及び私のオリジナル現代語訳附きで公開しておいたので、未読の方は、小泉八雲の本篇を読まれた後に読まれんことをお勧めするものであるが、さても、何故に「原々拠」と述べたかというと、小泉八雲が本篇を書くに際して参考にしたものが、当該作の杜撰な簡略型再話版に拠るものだからである。一九九〇年講談社学術文庫刊の小泉八雲著・平川祐弘編「怪談・奇談」の布村(ぬのむら)弘氏の解説によれば、本篇の直接の参考原拠は江戸前期の神道家・国学者で考証随筆「廣益俗說辯」で知られる井沢長秀(享保一五(一七三一)年~寛文八(一六六八)年)の考訂纂註になる「今昔物語」(但し、刊本は東京書肆明治三〇(一八九七)年刊の第二版と近代の出版物)の上巻「世俗傳」の中の「人妻成惡靈除其害陰陽師語」『より』とする。同じく原拠に同書を用いた、本作品集の巻頭の一篇「和解」の解説で、同じ布村氏は、同書は『誤植が多い』と述べておられ、実際、後に示す通り、衍字や誤字が見られ、何より、内容の短縮化の中で、叙述に有意な改変が加えられてしまっている。なお、「朝日日本歴史人物事典」の井沢の記載には、『肥後熊本藩士井沢勘兵衛の子』で、『山崎闇斎の門人に神道を学んだ』。宝永三(一七〇六)年の「本朝俗説弁」の出版以後、旺盛な著述活動に入り、「神道天瓊矛記(しんとうあめのぬほこのき)」などの神道書は、「菊池佐々軍記」などの軍記物、「武士訓」などの教訓書、「本朝俚諺」などの辞書、「肥後地志略」などの地誌と、幅広く活躍した。また、「今昔物語」を出版しており、これは校訂の杜撰さをしばしば非難されるが(調べて見ると、同時代から後代にかけて批判された具体的記載が見出せる)、それまで極めて狭い範囲でしか流布していなかった「今昔物語集」を江戸前期以降の読書界に提供した功績は決して小さくないともあった。当初、小泉八雲が実際に原拠としたそれを見ようと調べたが、残念ながら、小泉八雲旧蔵の現物を所有している富山大学の「ヘルン文庫」でも、国立国会図書館デジタルコレクションでもネットに公開されていないことが判った。そこで、「ヘルン文庫」版のそれに従って、新字体で活字化されてある、上記講談社学術文庫版の中のそれを、恣意的に漢字を概ね正字化して、本篇の末に掲げておいた。まず、先に掲げた私の『「今昔物語集」卷第二十四 人妻成惡靈除其害陰陽師語第二十』と比較して戴ければ、「和解」のケースほどではないにしても、その貧相さが、お判り戴けるものと思う。いや! 正直言うと、この場合も、原拠は読まずに、「今昔物語集」の原々拠を読む方がよいとさえ、私は思うものである。

 さても以上のような状況なので、ここで言っておくが、小泉八雲は杜撰な圧縮版の再話原拠をもとにしつつも、冒頭に、恨みに思い死にした女の遺体にリアルに触れるような描写をするという、意想外のアクロバティックなシークエンスから始めて、例の「今昔物語」特有の辛気臭い常套的説明導入を拒んで、美事に読者を初っ端から異界へと引き込むことに成功している。小泉八雲の多くの怪談群の中にあって、ステロタイプに陥らぬよう、微妙な変化を感じさせるように、ちょっとしたところで細工がなされてある点(例えば、女の死は元夫の旅の間という設定、女の怨みを凝集させる初段の慄っとするほど素敵なこと、陰陽師が事前に女の遺体を検分していること、時間経過をきっちりと描写していること、陰陽師が男に遺体を見せる時や、背に騎せて仕儀を指示するシーン、女の背での男の聴覚的恐怖などの、随所に映像作品のようなリアルな描写を、かっちりとオリジナルに挿入していること等々)でも着目すべきものである。そうして、最後に記者を指弾する八雲の優しさがスパイスとしても利いて、「小泉八雲! 流石!!」と、思わず、掛け声をかけたくなる感じも、是非、味わって戴きたい。また、この作品には、私は――母ローザを離別し、精神に変調を来たさせた許し難い父への憎しみ――が漂ってもいるように、読めるのである。

 

 

   屍に乘る人

 

 身體は氷のやうに冷(つめた)かつた、心臟は長い間打たなくなつて居る、しかしその外には死の徵し[やぶちゃん注:「しるし」と訓じたい。]は何もない。誰もその女を葬る事を云ひ出しもしない。彼女は離別された事を悲んで怒つて死んだのであつた。彼女を葬むる事は無駄であつたらう、――その理由はその死にかけて居る人の復讐の決して死ぬ事のない最後の願は、どんな墓をも寸斷し、どんな重い墓石をも破碎したであらうから。彼女が臥してゐた家の近くに住んで居る人々は、彼等の家から逃げ出した。彼等は彼女を離別した男の歸つて來るのを、彼女がただ待つて居る事を知つてゐた。

 彼女の死んだ時に彼は旅に出てゐた。彼が歸つて來て、その話を聞いた時に、恐怖に打たれた。『日の暮れないうちに助けて貰はなければ』彼は考へた、『女は私を八つ裂きにするだらう』それは未だやうやく辰の刻[やぶちゃん注:午前八時前後。]であつた。しかし一刻も油斷してはならない事を知つてゐた。

 彼は直ちに或陰陽師のところへ行つて助力を願つた。陰陽師は死んだ女の話を聞いて、その死體を見た。彼は懇願者に云つた、――『一大危險があなたの身の上に迫つてゐます。私はあなたを助けるやうにやつて見るつもりだが、私の云ふ事を何でもするやうに約束して貰ひたい。あなたの助かる方法はただ一つしかない。恐ろしいやり方です。しかしあなたがそれを試みる勇氣がないと、女はあなたを八つ裂きにします。勇氣があれば、夕方日の暮れないうちに、又來て下さい』男は震へた、しかし彼は何でも要求される事をする約束とした。

 

 夕方、陰陽師は死體の置いてある家へ彼と一緖に行つた。陰陽師は雨戶をあけて、その男に入るやうに云つた。速かに暗くなりかけてゐた。『いやです』男は頭から足まで震はせながら、息を切らして云つた、――『女を見る事もいやです』『見るどころではなく、もつとやるべき事があります』陰陽師は云つた、――『あなたは從ふ約束でした。お入りなさい』彼は無理にその震へる男を家に入れて、死骸のわきへ彼をつれて行つた。

 

 死んだ女が伏俯し[やぶちゃん注:「うつぶし」と読んでおく。]に寢てゐた。『さあ、あなたは跨がりなさい』陰陽師は云つた、『馬に乘るやうに、しつかり脊中に坐りなさい。……さあ、――さうしなければならない』男は陰陽師が支へねばならない程震へた――ひどく震へたが、それでも從つた。『さあ、女の髮を手にもちなさい』陰陽師は命じた、――『半分は右手に、半分は左り手に。……さう。……手綱のやうにしつかり摑んで。手にそれを卷いて――兩手とも――しつかり。さうするのです。よく聽きなさい。明日の朝までさうしてゐなければならない。夜になると色々恐ろしい事がある――色々ある。しかしどんな事があつても、髮をはなしてはならない。はなせば、――たとヘ一秒でも、――女はあなたを八つ裂きにしてしまひます』

 陰陽師はそれから何か不思議な文句をその死骸の耳にささやいて、それからその乘手に云つた、――『さあ、私は自分のために、ここを去つてあなたを一人にして行く。そのままにして居るのです。……何よりも女の髮をはなさない事を忘れないで』それから彼は戶を閉めて――出て行つた。

 

 何時間も、その男は黑い恐怖を抱いて屍の上に乘つた、――そして夜の靜けさは彼の𢌞りに段々深くなつて、遂に彼はそれを破るために叫んだ。直ちにその死體は彼を投げ落すために、下から跳び上つた。そして死んだ女は大聲で叫んだ、『あ〻重い。しかしあいつを今ここへ連れて來る』

 それからすつくと立ち上つて、雨戶のところへ飛んで行つて、それを明け放つて、夜の中へ飛び出した、――いつでもその男の重みを脊負ひながら。しかし男は、眼を閉ぢて、手に彼女の長い髮を――固く、固く、――卷いてゐた、――呻く事もできない程の恐怖心を抱いてゐたが。どこまで行つたのか、彼は知らなかつた。彼は何物も見なかつた、彼はただ暗黑の中で彼女のはだしの音、――ピチヤ、ピチヤ、――及び、走りながらヒーヒー息をする聲しか聞えなかつた。

 たうとう踵[やぶちゃん注:「きびす」。]をかへして、家に走り込んで、始めと同じやうに床(ゆか)の上に倒れた。鷄[やぶちゃん注:「にはとり」。]の鳴き始めるまで男の下に喘(あへ)ぎ呻いてゐた。それから靜かになつた。

 しかし男は齒の根も合はないで、陰陽師が夜明に來るまで彼女の上に坐つてゐた。『それで髮をはなさなかつたね』――陰陽師は非常に喜んで云つた。『それはよい。……さあ、もう立つても宜しい』彼は再び屍の耳にささやいた、それから男に云つた、――『恐ろしい一夜であつたに相違ない、しかし外に救ふ方法はなかつた。これからさき、女の復讐からはもう安心しても宜しい』

 

           *

         *

           *

 この話の結末は道德的に滿足な物と私は考へない。この屍に乘つた男は發狂したとも、彼の髮は白くなつたとも書いてない、私共はただ『男泣く泣く陰陽師を拜しけり」と告げられて居る。その話に附いて居る註解も失望すべき物である。日本の作者は云ふ、『その人(屍に乘つた人)の孫今にあり、その陰陽師の孫も、大宿直(おほとのゐ)と云ふ所〔多分おほとのゐ村と云ふのであらう〕に今にありとなん語り傳へたるとかや』

 この村の名は今日の日本のどんな地名錄にも見當らない。しかし多くの町と村の名はこの話が書かれて以來變つて居る。

 

[やぶちゃん注:最後の「大宿直」を村名としたのだけは小泉八雲の誤認である。私の『「今昔物語集」卷第二十四 人妻成惡靈除其害陰陽師語第二十』の注を参照されたい。古今の怪奇談や現代の都市伝説が、それが実話であるとするためによくやるように、実在する役所の名を挙げたのである。

 以下、冒頭注で示した上記、講談社学術文庫版の中の、原拠である井沢長秀考訂纂註になる「今昔物語」(東京書肆明治三〇(一八九七)年刊第二版)の上巻「世俗傳」の中の「人妻成惡靈除其害陰陽師語」(人の妻(つま)、惡靈と成り、其の害を除く陰陽師の語(こと))、恣意的に漢字を概ね正字化し、句点を読点に変更し(底本は句点のみ配されてある)、さらに読点を増やし、記号を追加して段落も成形して掲げる。歴史的仮名遣の誤りや表記の不審箇所は総てママである。踊り字「く」は正字化した。但し、底本のカタカナ「ハ」はひらがなに直した。「は」の変体仮名は「ハ」に見えるが、これのみをカタカナで表記する価値を、私は、今回は、認めない、と考えたからである。

   *

 今はむかし、ある者、年ごろの妻をさりはなれけり。

 妻、ふかく怨(うらみ)をなして、なげきかなしみけるほどに、そのおもひのつもりにて、病(やまひ)つきて、久しくなやみて、死(し)しけり。

 其女は、父母(ちゝはゝ)も、したしきもの、なかりければ、死骸(しがい)をとりかへし、すつることもなく、家のうちに有けり。いかなる故にや、其かばね、肉(にく)も髮(かみ)もおちずして、常(つね)にかはらざりけり。

 隣家(りんか)の人、物のひまよりのぞき見て、おそるゝ事かぎりなし。死(しゝ)てより後(のち)、家の內に光(ひかり)ありて、鳴(なり)ければ、隣(となり)の人もおそれて、にげまよひけり。

[やぶちゃん注:肉も落ちないのでは、遺体が全く腐敗現象を呈さなかったことになり、原話と激しく異なっており、全くあり得ない話(ミイラ化や白蠟化した遺体の中には極めて稀に一見そうしたものが見られることがあるが、それは特殊な環境下でしか起こり得ず、大気中に放置された人間の遺体は、どのような環境下よりも速やかに変色・膨張・腐敗が順調に進行する)として改変されてしまっていることが判る。小泉八雲はそこも踏襲してしまっているものの、不思議にその違和感は、この原拠ほどではない。八雲はそれを女の怨みの情念の強さに基づくものへと、語りの中で自然にスライドさせているからであろう。

 其夫(おつと)、これを聞て、

「かれは、思い死(しゝ)したる[やぶちゃん注:底本にママ注記有り。]ものなれば、かならず、我をとりころすべし。いかにもして此靈(れい)の難(なん)をのがればや。」

とて、ある陰陽師(をんみやうじ)のもとに行て、此事を語(かたり)て打たのみけるに、陰陽師、いはく、

「此事、きはめて大事なり。しかはあれども、かくのたまふことなれば、かまへ、こゝろむべし。たゞし、きはめて、おそろしき事なり。それを、かまへて、念(ねん)じ給へ。」

とて、日くれて、陰陽師、かの死人(しにん)のある家に、夫(おつと)を具(ぐ)してゆきぬ。

 男は、外にて聞たるだに、身毛(みのけ)竪立(よだち)ておそろしきに、まして、その家にゆかん事、たえてなりがたけれども、陰陽師に身をまかせて、おづおづ、ゆきて見るに、げにも死人は髮(かみ)もおちず、骨肉(こつにく)もつらなりて、臥(ふし)たり。

 陰陽師、男を、死骸の背(せ)に、馬に乘(のり)たるやうにのせて、死人の髮(かみ)を、手にまきて、ひかへさせ、

「ゆめゆめ、はなつことなかれ。」

と、をしへて、物をよみかけて、

「われ、爰[やぶちゃん注:「ここ」。]に來るまで、かくて有べし。さだめて、おそろしきこと、あらん。それを、念すべし。」

といひ置て、陰陽師は出て去ぬ。

 男は、せんかたなく、生たるこゝちはせねど、是非(ぜひ)なく、死人に乘(のり)て、髮をひかへて居たり。

 しかる間に、夜に入ぬ。

 夜半にもならんとおもふころ、此死人、

「あな、おもしや。」

と、いふまゝに、つと、立て、

「其奴(やつ)、もとめて來らむ。」

と、いひて、はしり出ぬ。

 男は、陰陽師がをしへのまゝに、髮をはなたずしてある程に、死人、立歸て、もとの家に來りて、おなじやうに、ふしたり。

 おそろしなどいへば、おろかなり。

 されども、男は、敎(おしへ)のまゝに、髮をはなさず、背(せ)に乘(のり)て居けるうちに、鷄なきければ、死人、聲をせず、なりぬ。

 すでに夜も明けるころ、陰陽師、來て、

「今夜、さだめて、おそろしき事、侍りつらん。髮は、はなさゞりしや。」

と問(とふ)。

 男、はななさゞるよしを答(こた)ふ[やぶちゃん注:底本は「なな」の部分にママ注記を打つ。]。そのときに、陰陽師、また、死(し)人に、物をよ見かけてのち[やぶちゃん注:底本は「見」の右下にママ注記を打つ。呪文を「讀(誦)み」だから、確かにおかしい。]、

「今は、いざ給へ。」

と、いひて、男をかき具して家にかへりて、

「のたまふ事、わりなければ、かく、はからひつるなり。今は、さらにおそれ給ふべからず。」

と、いひける。

 男、なくなく、陰陽師を拜(はい)しけり。

 かくて、事なくして、くらしけり。

 是、ちかき事なるべし。その人の孫、今にあり。其陰陽師の孫も「大宿直(おほとくのゐ[やぶちゃん注:底本、ママ注記有り。])」といふ所に今に有となん。かたり傳えたるとや。

   *]

「今昔物語集」卷第二十四 人妻成惡靈除其害陰陽師語第二十

 

[やぶちゃん注:底本は歴史的仮名遣の読みの確認の便から、「日本古典文学全集」第二十四巻「今昔物語集 三」第五版昭和五四(一九七九)年(初版は昭和四九(一九六四)年)刊。校注・訳/馬淵和夫・国東文麿・今野達)を参考に切り替える。但し、恣意的に漢字を概ね正字化し、漢文脈は訓読し、読み易く、読みの一部を送り仮名で出し、読みは甚だ読みが振れるか、或いは判読の困難なものにのみとした。参考底本の一部の記号については、追加・変更も行い、改行も増やした。□は原本の意識的欠字。]

 

「今昔物語集」卷第二十七 人の妻(め)、惡靈と成り、其の害を除く陰陽師(おむやうじ)の語(こと)第二十

 

 今は昔、□□と云ふ者、有けり。年來(としごろ)棲みける妻を去り離れにけり。

 妻、深く怨みを成して歎き悲しみける程に、其の思ひに病み付きて、月來(つきごろ)、惱みて、思ひ死にけり。

 其の女、父母(ぶも)も無く、親しき者も無かりければ、死にたりけるを、取り隱し、棄つる事も無くて、屋(や)の内に有りけるが、髮も落ちずして本(もと)の如く付きたりけり。骨、皆、次(つづ)きかへりて、離れざりけり。

 隣りの人、物の迫(はざま)より、此れを臨(のぞ)きて見けるに、恐(お)ぢ怖るゝ事、限り無し。

 亦、其の家(いへ)の内、常に眞(ま)□□[やぶちゃん注:「さを」か。「眞靑(まさを)」。]に光る事、有りけり。

 亦、常に物鳴(ものな)りなむど、有りければ、隣りの人も恐ぢて逃げ迷(まど)ひけり。

 而るに、其の夫(をうと)、此の事を聞きて、半(なから)は死する心地して、

「何(いか)にしてか、此の靈(りやう)の難をば遁るべからむ。我を怨みて思ひ死(しに)に死(しに)たる者なれば、我は、彼れに取られなむとす。」

と恐ぢ怖れて、□□と云ふ陰陽師(おむやうじ)の許(もと)に行きて、此の事を語りて、難を遁るべき事を云ひければ、陰陽師の云はく、

「此の事、極めて遁れ難き事にこそ侍るなれ。然(さ)は有れども、此く宣ふ事也(なり)、構へ試みむ。但し、其の爲に極めては怖しき事なむど、爲(す)る。其れを、構へて、念じ給へ。」

と云ひて、日の入る程に、陰陽師、彼の死人の有る家に、此の夫(をうと)の男を搔き具して將(ゐ)て行きぬ。

 男(をとこ)、外(ほか)にて聞きつるだに、頭(かしら)の毛太りて怖ろしきに、增して、其の家へ行かむ、極めて怖ろしく堪へ難けれども、陰陽師に偏へに身を任せて行きぬ。

 見れば、實(まこと)に、死人の髮、落ちずして、骨、次(つづ)きかへりて、臥したり。

 背に馬に乘る樣(やう)に乘せつ。

 然(さ)て、其の死人の髮を强く引(ひ)かへさせ、

「努々(ゆめゆめ)、放つ事、なかれ。」

と敎へて、物を讀み懸け愼(つつし)びて、

「自(みづから)が此(ここ)に來(こ)むまでは、此(か)くて有れ。定めて、怖しき事、有らむとす。其れを念じて、有れ。」

と云ひ置きて、陰陽師は出でて去りぬ。

 男、爲(せ)む方(かた)無く、生きたるにも非らで、死人に乘りて、髮を捕へて、有り。

 而る間、夜(よる)に入りぬ。

『夜半に成りぬらむ。』

と思ふ程に、此の死人、

「穴(あな)、重しや。」

と、云ふままに、立ち走りて云はく、

「い、其奴(そやつ)求めて、來たらむ。」

と云ひて、走り出でぬ。

 何(いづく)とも思(おぼ)へず、遙かに行く。

 然(しか)れども、陰陽師の敎(をし)へしまゝに、髮を捕へて有る程に、死人、返りぬ。本の家に來たりて、同じ樣に臥す。

 男、怖ろしなど云へば愚か也。物も思へねども、念じて、髮を放たずして、背に乘りて有るに、鷄(とり)、鳴きぬれば、死人、音も爲(せ)ず成りぬ。

 然(さ)る程に、夜(よ)明けぬれば、陰陽師、來たりて云はく、

「今夜(こよひ)、定めて怖ろしき事、侍りつらむ。髮、放たずなりぬや。」

と問へば、男、放たざりつる由(よし)を答ふ。

 其の時に、陰陽師、亦、死人に、物を讀み懸け愼しみて後(のち)、

「今は、去來(いざ)、給へ。」

と云ひて、男を搔き具して家に返りぬ。

 陰陽師の云はく、

「今は、更に恐れ給ふべからず。宣ふ事の去り難ければ也(なり)。」

となむ云ひける。

 男、泣々(なくなく)、陰陽師を拜しけり。

 其の後(のち)、男、敢へて事無くして、久しく有りけり。

 此れ、近き事なるべし。其の人の孫(そん)、今に世に有り。亦、其の陰陽師の孫も、大宿直(おほとのゐ)と云ふ所に今に有んなり、となむ語り傳へたるとや。

 

□やぶちゃん注(注には底本の他に池上洵一編「今昔物語集」(岩波文庫二〇〇一年刊)の「本朝部 下」も一部参考にした)

・「月來(つきごろ)」「数ヶ月の間」の意。

・「取り隱し、棄つる事も無くて」遺体を始末したり、葬送することもなくて。外に出して風葬にするか、土饅頭にして埋葬するのが当時(平安後期)の普通の葬送である。このように屋内に遺体をそのまま放置する例は普通ではない。

・「骨、皆、次(つづ)きかへりて、離れざりけり」参考底本の頭注に『いわゆる連骨で、死後も白骨が離散せず』(普通、仏教の「九相図絵巻」などでは「散骨相」と称し、通常の風葬にした遺体は獣や虫類に食われてばらばらになり、風雨に曝されて飛び散るものとされる)、『生前同様に骨格の各部が連なっていたことをいう。当時』、『連骨は神秘的なものとされ、死者が常人ならざることの証とされた』とするが、池上氏は脚注で、『全部つながったままで離れなかった。連骨は髪の毛とともに、恨みを残して死んだ悪霊の象徴』とする。後者の方がここには相応しい注である。後代のものであるが、西行に仮託された作者不詳の説話集「撰集抄(せんじゅうしょう)」(鎌倉後期の成立(推定)で興福寺に関わりのあった僧の作かとする説がある)の巻五の「第十五 西行於高野奥造人事」(西行、高野の奥に於いて人を造る事」で、ブットビの、西行が独りで淋しいから、散骨となった、人々の骨を全身分、拾い集めて、骨を総て綴り合わせて人の形に成形し、反魂(はんごん)の呪法を以ってフランケンシュタインの怪物みたような人造人間を作ったものの、『人の姿には似侍れども、色も惡しく、すべて心も侍ら』ず、『聲はあれども、弦管のごとし』という人に似て人に似ざる忌まわしいものであった、と出るのを思い出した。

・「物鳴(ものな)り」屋鳴(やな)り。ポルターガイスト(ドイツ語:Poltergeist:騒ぐ幽霊)である。

・「此の靈(りやう)の難」死霊の祟り。しかし「我を怨みて思ひ死(しに)に死(しに)たる者なれば、我は、彼れに取られなむとす」と彼が認識してからには、そうした怨み死にした数ヶ月の修羅を彼に伝えた者の存在がなくてはならない。この隣人がそれか。隣人が、以上の怪異現象を恐れて家(女の隣家)を離れたとすれば、その恨みつらみを籠めて、宛て付けにそれを男に伝えるようにした可能性は、これ、如何にもありそうなことではある。

・「構へて」前もって準備を整えて。ある態度をとってその状況に応じて、の意。

・「念じ給へ」「(恐ろしいことは必ず起こるのでありますが)きっと我慢をなされよ!」の意。

・「搔き具して」単に「一緒に引き連れて」の意。

・「外(ほか)にて」人(ここは陰陽師)から。

・「頭(かしら)の毛太りて怖ろしきに」髪の毛がそそげ立つような当時の一般的な恐怖感の形容。芥川龍之介の「羅生門」で、下人が女の死骸らしいものから髪を抜いているのを見出だしたシークエンスで、『舊記の記者の語を借りれば、「頭身(とうしん)の毛も太る」やうに感じたのである』と記すのが、よく知られる。

・「物を讀み懸け愼(つつし)びて」何か、呪文のようなもの(効果があるかどうかは疑わしいが、悪霊を祓い鎮めようとするような型通りのそれであろう)を唱えて。

・「い、其奴(そやつ)求めて、來たらむ」「い」は感動詞「いざ」と同義。

と云ひて、走り出でぬ。

・「思(おぼ)へず」ママ。歴史的仮名遣は「思ゆ」の未然形であるから、「思えず」が正しい。

・『其の時に、陰陽師、亦、死人に、物を讀み懸け愼しみて後(のち)、「今は、去來(いざ)、給へ。」』ここでは呪文が効果を持っている。則ち、恨んでいる元夫の姿を現世に於いて見出せないことが、逆に霊の彼へ怨みの執心をずらしたところに、間髪を入れず、この呪言が霊の活動を永遠に(現世に於いてという条件付きで)封印をすることとなるのである。しかし……男が死んだ後は……私はその限りではないと思う。

・「今夜(こよひ)」ここは「昨夜」の意。

・「宣ふ事の去り難ければ也(なり)」(困難な呪噤(じゆごん)であったが、)懇請されたことが、如何にも等閑視出来ぬあったから(かくも危険な手法を採らざるを得なかったから)です。

・「孫(そん)」ここは単に「子孫」「後裔」の意。後も無論、同じい。

・「大宿直(おほとのゐ)」参考底本頭注に、『大内裏』の中の、『主殿寮』(とのもづかさ:令制の官司。宮内省に属し、内裏の庭の掃除・湯沐・薪油調達などを司った役所。頭・助・允・大少属以下の役職があり、釜殿・湯屋があった)『の南、内教坊』(宮中で舞姫を置いて、女楽・踏歌などを教えて練習させた所。坊家(ぼうけ))『の西』に、『「大宿直」がみえる』『が』、『これに当たるか。とすれば、大内裏警護の者の詰所のあった区域である』とある。

・「今に有んなり」この「なり」は伝聞の助動詞で、前の原型「有る」は、従って、終止形ではなく、連体形である。

 

□やぶちゃん現代語訳(参考底本の訳を一部で参考にはしたが、基本、オリジナル訳である)

 

「今昔物語集」巻第二十七 人の妻、悪霊と成るも、その害を除いた陰陽師(おんみょうじ)の語(こと)第二十

 

 今となっては……もう……昔のこととなってしまったが、何某(なにがし)と申す者がおったが、長年、連れ添っておった妻を離縁してしまった。

 妻は、このことを、深く恨み、歎き悲しんでおったが、その思いの昂じて、遂には病いを発し、数ヶ月、患った挙句、思い死(じ)にしてしまった。

 亡くなったこの女は、父母もなく、親しい者もおらざれば、誰一人、亡骸(なきがら)を引き取って始末したり、葬ることもえせず、家の中に放っておかれたのであったが、その亡骸、髪も抜け落つることなく、生きていた時と同じように附いていたままであった。また、その骨も、皆、散ずることなく、完全に繋がったままに、離れずあったのであった。

 隣りの人が、戸の隙間より、これを覗き見したところが、これ、言いようもなく、怖れおののいて御座った。

 また、その家の内は、常に、妖しく真っ青に光ることも御座った。……

 また、常に、理由もわからず、屋鳴りなどすることがあったによって、隣りの人も、これ、恐れて逃げ惑う始末で御座った。……

 さても、ところが、その前の夫、この話を聞いて、半ば、死にそうな心持ちがして、

「どうしたら、この死霊(しりょう)の祟りから、遁(のが)れることができるじゃろう? 俺を怨んで思い死(じに)に死んだる女じゃから……俺は……きっと、その霊に憑(と)り殺されてしまうに違いない!」

と、怖れ戦(おのの)き、何某(なにがし)と申す陰陽師のもとに行き、このことを正直に語って、悪霊の難(なん)から遁るることの出来る手立てを問うた。

 陰陽師は、

「このこと、これ、極めて遁れ難きことにて御座る。……かくは申せど、これほどまでに仰せらるるのであってみれば、……よし! 何かそれに応じた策を考えてみることと致しましょうぞ!……但し、そのためには、これ、極めて、怖ろしいことを『致す』ことになりまする。――その覚悟をしっかりと持って――ことに当たり――一所懸命に我慢なされよ!」

と、言うた。

 日の沈む頃おい、陰陽師は、かの死人(しびと)のいる家に、この男をともに引き連れて行った。

 男にとっては、これ、人からちょっと聴いただけでさえ、髪の毛が太うなるほどに怖ろしいのに加え、ましてや、その遺骸のある家へ行くなんどということは、極めて怖ろしく、堪え難かったのだが、偏えにこの陰陽師に、身を任せ、従って行ったのであった。

 行って見てみると、まことに、死人(しびと)の髪の毛は、これ、抜け落ちずして、骨もまた、これ、繋がったままに横たわっておった。

 すると、陰陽師は――

――その遺体の背に!

――男を馬に騎(の)るようにして!

――乗せた!

――そして!

――死人の髪の毛を!

――しっかと!

――握らせ!

「決して!――放さぬように!」

と、言い聞かせて、何やらん、呪文を唱えて、祈禱を成して後(のち)、

「――我らが――ここに戻ってくるまでは――このままでおられよ。……必ず、怖ろしいこと、これ、起こるであろう。――が――それを凝っと――我慢しておられよ!」

と言い残すや、陰陽師は出て行ってしまった!…………

 男は仕方なく、生きた心地もせぬままに、死人(しびと)に跨ったまま、その遺骸の髪の毛を摑んでおった。……

 やがて、夜になった。

『真夜中になったか。』

と思う頃おいであった。……

――この死人!

――「アアッツ! 重(オモ)タイ!」

――と、言うや否や!

――立ち上って走り出し!

――「イザ! ア奴(ヤツ)ヲ捜シニ! 参ロウゾ!」

――と口走って、家を走り出でる!

――どことも分からぬまま!

――どんどん! どんどん!

――遙か遠くへ! と!

――走り行く!

 しかし、男は、陰陽師の教えたままに、

――髪の毛を!

――しっかと!

――摑んいた!

――摑んだままで! いた!

……と!

……そのうちに……死人(しびと)は引き返し始めた。

……そうして……もとの家に戻ると……前と同じように……横たわったのであった。…………

……男の心持ち? それはもう!……「怖ろしい」などと言うのも、これ、愚かなほどじゃて!

……何が何やら、これ、分からぬままに、ともかくも――只管(ひたすら)――死人の髪の毛を放さずして――背中に跨っておるうち……

……やがて……鶏(にわとり)が鳴くや!

……死人は

……声を発せずなり

……静かになったのであった。…………

 かくして、夜も明けたところに、かの陰陽師が来たって、言うことには、

「――昨夜は、さぞ、怖ろしきこと、これ、御座ったろう! 髪の毛を――放さずに――おりましたか?」

と問うたので、男は、放さなかった旨、答えた。

 すると、陰陽師は、また、死人(しびと)に向かい、先に誦したような呪文を唱えて祈祈禱をして後、

「今はもう! 終った! さあ! 帰りましょうぞ!」

と言って、心穏やかな様子で、男を連れ、家へと帰った。

 帰り着くと、陰陽師は言う。

「今はもう、さらに怖るること、これ、御座らぬ! 貴殿の仰せられたそれが、あまりのことにお気の毒で御座ったによって、かく、致いたので御座る。」

と、言ったという。

 男は、泣く泣く、陰陽師を頻りに拝んだ。

 その後(のち)、この男には何の障(さわ)りもなく、長生きしたという。

 この話は、これ、ごく最近のことと思われる。この男の子孫は今でも生きておる。また、その陰陽師の子孫もまた、大宿直(おおとのい)という役所に今もいるそうだ、と、かく語り伝えているということである。

 

小泉八雲 衝立(ついたて)の乙女  (田部隆次譯)


[やぶちゃん注:本篇(原題“ The Screen-Maiden ”)は一九〇〇(明治三三)年七月にボストンの「リトル・ブラウン社」(LITTLE,BROWN AND COMPANY)から出版された作品集“ SHADOWINGS ”(名詞「shadowing」には「影」以外には「人影」・「影法師」・「影を附けること」・「尾行」などの意味がある。本作品集の訳は概ね「影」が多いが、平井呈一氏は「明暗」と訳しておられ、私も漠然とした「影」よりも、作品群の持つ感性上の印象としてのグラデーションから「明暗」の方が相応しいと思う。来日後の第七作品集)の第一パート“ STORIES FROM STRANGE BOOKS ”第三話に配された作品である。本作品集は“Internet Archive”のこちら(出版社及びクレジットの入った扉表紙を示した)で全篇視認できる(本篇はここから。原拠を記した添書のある標題ページで示した。そこには“Related in the Otogi-Hyaku-Monogatari”(「御伽百物語」の話に関連づけた(基づいた)(作)」)とある。活字化されたものは“Project Gutenberg”のこちらで全篇が読める(本篇はここから)。

 底本は英文サイト“Internet Archive”のこちらにある、第一書房が昭和一一(一九三六)年十一月に刊行した「家庭版小泉八雲全集」(全十二巻)の第七巻の画像データをPDFで落として視認した。【2025年4月13日:底本変更・正字化不全・ミスタイプ・オリジナル注全補正】時間を経て、国立国会図書館デジタルコレクションに本登録し、現行では、以上の第一書房版昭和一一(一九三六)年十一月に刊行した「家庭版小泉八雲全集」(全十二巻)の第七巻が、国立国会図書館デジタルコレクションで公開されてある。(リンクは扉だが、「家庭版」の文字はない。しかし、奥附を見て貰うと『家庭版』とあり、『昭和十一年十一月二十七日 發 行』とあることが確認出来る)、これが、前掲の底本と同じものであるが、やはり、外国のサイトのそれを底本とするのは、日本人小泉八雲に失礼であると考えた。されば、こちらで、再度、以下の「骨董」の作品群を改めて校正することとする。これが――私の小泉八雲への「義」――である。なお、これよりも前の元版の全集等が先行しているものの、私がそれらと比べた結果、実は先行する同社の「小泉八雲全集」のそれらは、訳が一部で異なっており、訳者等によって、かなりの補正・追加がされていることが、今回の正字補正作業の中で、はっきりと判って来た。いや、同じ「家庭版」と名打ったネット上の画像データでも、驚いたことに、有意に異なっていたのである。そうした意味でも――完全な仕切り直しの総点検――が必要であると決したものである。従って、旧前振りの括弧・鍵括弧の問題も、拡大とガンマ補正で確認し、正確を期する。本作はここから。

 田部隆次(たなべりゅうじ 明治八(一八七五)年~昭和三二(一九五七)年)氏については先に電子化した「人形の墓」の私の冒頭注を参照されたい。

 傍点「﹅」は太字に代えた。

 なお、本篇の原拠である怪談集「御伽百物語」については、私は既にブログ・カテゴリ「怪奇談集」で全電子化注を、昨年、終えており、原拠はその中の「御伽百物語卷之四 繪の婦人に契る」である。冒頭にも出る本怪談集の作者青木鷺水(あおきろすい 万治元(一六五八)年~享保一八(一七三三)年)は江戸前・中期の俳人で浮世草子作家。名は五省、通称は次右衛門、白梅園(はくばいえん)は号。京都に住んだ。俳諧は野々口立圃或いは伊藤信徳門下であったと思われるが、松尾芭蕉を尊崇し、元禄一〇(一六九七)年跋の「誹林良材集」の中では、彼は芭蕉を「日東の杜子美なり、今の世の西行なり」(日本の杜甫であり、今の世の西行である)と述べている(「早稲田大学古典総合データベース」の同書原典の当該頁画像を見られたい。但し、彼が芭蕉の俳諧に倣おうとした形跡は殆ど認められない)。「俳諧新式」「誹諧指南大全」などの多くの俳書を刊行したが、元禄後期からは、浮世草子作者として活躍、本書や「諸國因果物語」(六巻)・「古今堪忍記」(七巻)・「新玉櫛笥」(六巻)などを書いた。「御伽百物語」は宝永三(一七〇六)年に江戸で開版したものである。私の以上の電子化注は所持する三種類の校本を「早稲田大学古典総合データベース」の同書の原典画像と厳密に校合したもので(「青木鷺水 御伽百物語 始動 / 序・目録」の冒頭の私の注を参照)、ここで新たに電子化する必要性を感じないなお、冒頭、「菱川吉兵衞師宣」と出るが、実は底本では「宣」が「宜」になってしまっている(誤植であろう)。無論、江戸初期の知られた浮世絵師菱川師宣(ひしかわもろのぶ ?~元禄七(一六九四)年)のことである(詳しくは「御伽百物語卷之四 繪の婦人に契る」の私の注を参照)。これは田部のサーヴィス(原文は“Hishigawa Kichibei”で雅号は出ないのである)が裏目に出たものである。以下、判らない語句その他は原拠の私の注を見られたいが、この原話について、私はそこで、『この話柄、正直、怪奇談としてはあまり上手いと思わない。前段の』グダグダした感じが、『私には退屈で、後段のファンタジーのハッピー・エンドも、早回しで、却って、「だから何?」と感動が著しく減衰してしまっている。私なら、枕を半分以下に削ぎ落とし、絵の美女の出現のシークエンスを精緻に描写するな、と思う』と述べた。比較されれば、小泉八雲の本篇は、まさに――主人公の男が女をそうしたように――私が切望した通りに――優れた原話の圧縮と原話にない配慮が成されてあることに気づかれるであろう。なお、美花の如何にもな表現や、何よりも作中に出る奇体な――百軒の違う酒屋で買つた酒云々――という老学者の如何にも道教の道士が示しそうなそれ――でお判りになる通り、この原話自体が本邦のものではなく、元末の一三六六年に書かれた陶宗儀の随筆「輟耕錄」巻十一にある幻想譚「鬼室」を翻案したものなのである(白文原文をリンク先で示してある)。]

 

 

   衝立の乙女

 

 古い日本の作者、白梅園鷺水は云ふ、――

 『支那と日本の書物に――古代現代兩方の――澤山の話がある、それは繪が餘りに綺麗なので、見る人に神祕的な力を及ぼす話である。そしてこんな綺麗な繪に關して、――名高い畫家の描いた花鳥の繪でも、人物の繪でも、――さらに云はれて居る事は、そこに描かれた動物や人物は、その紙や絹から離れて色々の事をする、――それでその繪は、その繪の意志で、實際生きて出ると云ふのである。昔から誰にでも知られて居るこの種類の話を、今ここにくりかへす事はしない。しかし現代に於ても、菱川吉兵衞師宣の描いた繪――「菱川の繪姿」――の評判はこの國では博く知られて居る』

 彼はそれから進んでその所謂繪姿の一つに關するつぎの話を述べる、――

 

 京都に篤敬[やぶちゃん注:「とくけい」。但し、原文は“Tokkei”で「とっけい」である。しかし、原拠は「とくけい」であるので、それで示した。]と云ふ名の若い學生がゐた。彼は室町と云ふ町に住みなれてゐた。或夕方、人を訪れて侵る途中、古道具屋の店先に賣物に出でゐた古い衝立に目が目にとまつた。それはただ紙の衝立てあつたが、その上に描いてあつた若い女の全身像が、若い人の心を捉へたのであつた。賣價は安かつた、篤敬は衝立を買つて、家へもつて歸つた。

 自分獨りの淋しい部屋に置いて、その衝立を眺めて居ると、その繪よりも一層綺麗に見えるやうであつた。たしかにそれは本當の似顏、――十六七歲の少女の肖像であつた、繪の中の髮、眼、睫(まつげ)、口のどの小さい點までも、賞讃に餘る程丁寧に眞に迫るやうに描いてあつた。まなじりは『愛を求むる芙蓉の花のやう』であつた、唇は『丹花の微笑のやう』であつた、若い顏全體は何とも云へない程美はしかつた。そこに描いてある元の少女がそれ程に美しかつたら、見る程の人は何人も心を奪はれたであらう。そして篤敬は彼女はこのやうに美しかつたに相違ないと信じた、――卽ち、その姿は、話しかける人だれにでも、今にも返答する用意をして居るやうに、――生きて居るやうに見えたのであつた。

[やぶちゃん注:「自分獨りの淋しい部屋に置いて、その衝立を眺めて居ると、その繪よりも一層綺麗に見えるやうであつた。」訳が半可通である。原文は“When he looked again at the screen, in the solitude of his own room, the picture seemed to him much more beautiful than before.”だから、「先ほど(店先に売られてあった時)よりも」の謂いである。

「口のどの」原文は最後が、ただ“mouth”であるから、「口」「の」で切れて、「どの」と前掲総てを指している。欲を言えば、「口の」の後に読点が欲しい。

「丹花」は「たんくわ(たんか)」。美しい赤い紅色の花の意の一般名詞。]

 

 繪を眺めて居ると、次第に彼はその魅力によつて魅せられるのを覺えた。『實際この世の中にこん美しい人が居るのだらうか』彼は獨りでつぶやいた、(暫らくの間でも)(日本の作者は「露の間」と云つて居る)自分の腕でこの女を抱く事ができたら、喜んで自分の生命――いや、千年の生命――をも捧げたいのだが』結局、彼はその繪を戀するやうになつた、――卽ちその繪が表はして居る人でなければ、どの女をも決して愛する事はできないと感ずる程にその繪を戀した。しかしその人は未だ生きて居るとしても、もはやその繪には似てゐないだらう、恐らく彼女は彼が生れるずつと以前に葬られたかも知れない。

 

 しかし、每日この望みのない熱情が彼に生長して來た。飮食も睡眠もできなくなつた、これまで興味をもつてゐた學問硏究にも心を向ける事ができなかつた。彼は、何時間でも繪の前に坐つて、――外の事は一切なげやつて、或は忘れて、――その繪に話しかけてゐた。そしてたうとう病氣になつた――自分でも死ぬだらうと思ふ程の病氣になつた。

 

 さて篤敬の友人の間に、古い繪や若い人の心について多くの不思議な事を知つて居る一人の尊敬すべき老人の學者がゐた。この老人の學者が、篤敬の病氣を聞いて、彼を訪問した、そして衝立を見て、その事の起りをさとつた。それから篤敬は問はれるままに、一切の事を白狀して、そして公言した、――『こんな女を見つけられなかつたら、私は死にます』

 老人は云つた、

 『その繪は菱川吉兵衞が描いた物だ、――寫生だ。その描かれた人物はもうこの世にゐない。しかし菱川吉兵衞はその女の姿ばかりでなく、心も描いた、それからその女の魂が繪の中に生きて居ると云はれる。それで君はその女を自分の物にする事ができると、私は思ふ』

 篤敬は床から半分起き上つて、相手の顏を見つめた。

 『君はその女に名をつけねばならない』老人は續けた、――『そして每日その繪の前に坐つて、一心不亂にその女の事を思うて、君がつけた名で靜かにその女を呼ぶのだ、返事をするまで……』

 『返事をする!』息をしないで驚いて、この愛人は叫んだ。

 『さうとも』助言者は答へた、『女は必ず返事します。しかし君は、女が返事したら、私がこれから云ふ物を贈るやうに用意してゐなければならない。……』

[やぶちゃん注:「します」はママ。強い確信と相手の安堵を齎すために、田部は、ここを、かくしたのだろうが、やはりこの部分的敬体は違和感が強過ぎる。「する」とすべきである。次の次の老人の台詞の「步いて出ます」も「步いて出て來る」でよい。]

 『私は女に生命(いのち)をやります』篤敬は叫んだ。

 『いや』老人は云つた、――『君は百軒の違つた酒店で買つた酒を一杯女にさし出さねばならない。さうすると、女はその酒を受けるために衝立から步いて出ます。それから先きは、どうすればよいか、多分女は自分で君に云つてくれるだらう』

 さう云つて老人は去つた。その助言は篤敬を絕望から救つた。直ちに彼は繪の前に坐つて、女の名を呼んで――(どんな名だか、日本の作者がそれを告げる事を忘れて居る)――甚だやさしく、度々くりかへした。その日は返事はなかつた、その翌日も、又その翌々日も。しかし篤敬は信仰も忍耐も失はなかつた、それから幾日も經たあとで、或夕方突然、それが、その名に答へた、――

 『はい』

 それから早く、早く、百軒の違つた酒店から買つた酒を少し、小さい盃に注いで、恭しく彼女に捧げた。そこで女は衝立から出て、部屋の疊の上を步いて、篤敬の手から杯を取るために跪いて、――やさしい微笑と共に問うた、

 『どうして、そんなに私を愛して下さるの』

 日本の作者は云ふ、『彼女は繪より遙かにもつと綺麗であつた、――爪のさきまでも綺麗、――心も氣分も又綺麗、――この世の誰よりも綺麗であつた』篤敬は彼女の問に對して何と返事したか書いてない、それは想像に任せるのである。

 

 『しかし、あなたは私をぢきにお倦きになるのぢやありませんか』彼女は問うた。

 『生きて居る間は決して』彼は抗言した。

 『それからあとは――』彼女は主張した、――卽ち日本の花嫁はただ一生の間の愛だけでは滿足しないから。

 『お互に誓ひませう』彼は懇願した、『七生の間變らないやうに』

 『あなたが何か不親切な事をなさると』彼女は云つた、『私衝立に歸ります』

 

 彼等はお互に誓つた。私は篤敬は忠實な人であつたと思ふ、――花嫁は衝立へ歸らなかつたからである。衝立の上に彼女のゐた場所は空地になつたままであつた。

 

 日本の作者は叫ぶ、

 『この世にこんな事の起るのは、なんと稀有な事であらう』

 

2019/10/25

小泉八雲 普賢菩薩の話  (田部隆次譯)

 

[やぶちゃん注:本篇(原題“ A Legend of Fugen-Bosatsu ”(「普賢菩薩の伝説」)は一九〇〇(明治三三)年七月にボストンの「リトル・ブラウン社」(LITTLE,BROWN AND COMPANY)から出版された作品集“ SHADOWINGS ”(名詞「shadowing」には「影」以外には「人影」・「影法師」・「影を附けること」・「尾行」などの意味がある。本作品集の訳は概ね「影」が多いが、平井呈一氏は「明暗」と訳しておられ、私も漠然とした「影」よりも、作品群の持つ感性上の印象としてのグラデーションから「明暗」の方が相応しいと思う。来日後の第七作品集)の第一パート“ STORIES FROM STRANGE BOOKS ”第二話に配された作品である。本作品集は“Internet Archive”のこちら(出版社及びクレジットの入った扉表紙を示した)で全篇視認できる(本篇はここから)。活字化されたものは“Project Gutenberg”のこちらで全篇が読める(本篇はここから)。

 底本は英文サイト“Internet Archive”のこちらにある、第一書房が昭和一一(一九三六)年十一月に刊行した「家庭版小泉八雲全集」(全十二巻)の第七巻の画像データをPDFで落として視認した。【2025年4月13日:底本変更・正字化不全・ミスタイプ・オリジナル注全補正】時間を経て、国立国会図書館デジタルコレクションに本登録し、現行では、以上の第一書房版昭和一一(一九三六)年十一月に刊行した「家庭版小泉八雲全集」(全十二巻)の第七巻が、国立国会図書館デジタルコレクションで公開されてある。(リンクは扉だが、「家庭版」の文字はない。しかし、奥附を見て貰うと『家庭版』とあり、『昭和十一年十一月二十七日 發 行』とあることが確認出来る)、これが、前掲の底本と同じものであるが、やはり、外国のサイトのそれを底本とするのは、日本人小泉八雲に失礼であると考えた。されば、こちらで、再度、以下の「骨董」の作品群を改めて校正することとする。これが――私の小泉八雲への「義」――である。なお、これよりも前の元版の全集等が先行しているものの、私がそれらと比べた結果、実は先行する同社の「小泉八雲全集」のそれらは、訳が一部で異なっており、訳者等によって、かなりの補正・追加がされていることが、今回の正字補正作業の中で、はっきりと判って来た。いや、同じ「家庭版」と名打ったネット上の画像データでも、驚いたことに、有意に異なっていたのである。そうした意味でも――完全な仕切り直しの総点検――が必要であると決したものである。従って、旧前振りの括弧・鍵括弧の問題も、拡大とガンマ補正で確認し、正確を期する。本作はここから。

 田部隆次(たなべりゅうじ 明治八(一八七五)年~昭和三二(一九五七)年)氏については先に電子化した「人形の墓」の私の冒頭注を参照されたい。

 原註は末尾にポイント落ち字下げであるが、当該段落末に移し、同ポイント行頭からで示した。

 最後に原拠となった「十訓抄」を掲げた。]

 

 

   普賢菩薩の物語

 

 昔、播磨の國に、性空上人[やぶちゃん注:「しやうくうしやうにん」。]と云ふ甚だ信心深い博學な僧が住んでゐた。長い間彼は妙法蓮華經の普賢菩薩の章について每日默想した、そして現身[やぶちゃん注:「げんしん」。]の普賢菩薩を、又聖い[やぶちゃん注:「きよい」。]經文原註に述べてある姿そのままを、拜する事のいつか得られるやうに、每朝每晚いつも祈つてゐた。

原註 この僧の願は多分「妙法蓮華經」の「普賢菩薩勸發品」と云ふ章にある約束によつて起されたのであらう。『その時に、普賢菩薩、佛に白して言さく[やぶちゃん注:「まうしていひさく」。仰せられて言われたことには。]「もしこの人この經を讀誦せば、我その時に六牙の白象王に乘つて、大菩薩衆と共に、その所に到つて、自ら身を現じて、供養し守護してその心を安慰せん、また法華經を供養せんがための故なり、この人もし坐してこの經を思惟せば、その時に我また白象に乘つてその人の前に現ぜん、その人もし法華經に於て一句一偈をも忘失する所あらば、我まさにこれを敎つて[やぶちゃん注:ママ。「敎へて」の誤植か。]ともに讀誦しかへつて通利せしむべし」……』しかしこの約束は「後の五百歲濁惡世の中に於て」の事である。

[やぶちゃん注:原註の引くそれは「法華經」の下巻の本篇部の掉尾「普賢菩薩勸發品(ふげんぼさつかんぼつほん)第二十八」の一節。

「普賢菩薩」はサンスクリット語ラテン文字転写で「samantabhadra」(サマンタバドラ)。大乗仏教に於ける菩薩の一尊であるが、本邦では文殊菩薩とともに釈迦如来の脇侍として祀られることが多く、「法(カルマ)」の守護者とされる。ウィキの「普賢菩薩」によれば、『梵名のサマンタバドラとは「普く賢い者」の意味であり、彼の世界にあまねく現れ』、『仏の慈悲と理智を顕して人々を救う賢者である事を意味する。また、女人成仏を説く』「法華經」『に登場することから、特に女性の信仰を集めた。密教では菩提心(真理を究めて悟りを求めようという心)の象徴とされ、同じ性格を持つ金剛薩埵と同一視される。そのため』、『普賢菩薩は』、『しばしば金剛薩埵の別名でもある金剛手菩薩』『と呼ばれる。「遍吉(へんきち)」という異名があり、滅罪の利益がある』。『独尊としては、蓮華座を乗せた六牙』(ろくげ)の白象(びゃくぞう)に『結跏趺坐して合掌する姿で描かれるのが、最も一般的である。密教では、左手に宝剣を立てた蓮茎を持』す『る姿や、金剛薩埵と全く同じ左手に五鈷鈴、右手に五鈷杵を執る姿で表』は『される他、如意や蓮華、経典を手に持つ作例も見られる』。『日本では平安中期以降、女性の救済を説く』「法華經」『の普及によって、主に貴婦人たちからの信仰を集めた。日本では絵画・彫像とも作例が多く、彫像の作例としては、大倉集古館の平安時代後期の木像(国宝)などがある。より密教的な姿として「普賢延命菩薩」という尊格があり』、二十二『手を持つ強力な尊とされ、日本でも作例は少なくない』。『普賢菩薩の眷属は十羅刹女とされ、また時として十羅刹女たちの母鬼子母神も眷属とされる。初期の十羅刹女は唐装束であるが、国風の影響を受けた和装の羅刹女の作例も多い。これは』「法華經」『において普賢菩薩と十羅刹女が共に「法華経を護持する者を守る」と誓っていることによるが、これらの女神がそばにいることも、 女性からの信仰を厚くする一因となった』とある。

「性空上人」性空(しょうくう 延喜一〇(九一〇)年~寛弘四(一〇〇七)年)は平安中期の天台僧。父は従四位下の橘善根(たちんばなのよしもと)。俗名は橘善行。京都生まれ。「書写上人」の称がよく知られる。出家は遅く、三十六歳の時に慈恵大師(元三大師)良源に師事して剃髪し、霧島山や筑前国脊振山で修行した後、康保三(九六六)年に播磨国書写山(しょしゃさん)に入山、国司藤原季孝の帰依を受けて書写山圓教寺(えんぎょうじ)を創建、花山法皇・源信(恵心僧都)・慶滋保胤らの参詣を受けている。天元三(九八〇)年には蔵賀上人とともに比叡山根本中堂の落慶法要に参列している。早くから山岳仏教を背景とする聖(ひじり)の系統に属する法華経持経者として知られ、存命中から多くの霊験があったことが伝えられている。播磨国弥勒寺で九十八歳で示寂(以上はウィキの「性空に拠った)。

「現身」現身仏(げんしんぶつ)のこと。仮に父母所生の肉身をとった人間に似た、この世に仮に現われた仏を指す。釈迦はその例。「応身仏」(おうじんぶつ)とも呼ぶ。

「通利」よく物事に通じて利益を得ること。

「後の五百歲濁惡世」これは古来、議論のあるところで「正法(しょうぼう)千年・像法(ぞうぼう:「正法」に似て非なる状態の意。教えや修行が行なわれるのみで、悟りを得る者がいなくなること)千年・末法万年」説から言えば、「末法の初めの五百年」のように見えるが、万年の五百年では、末法の無化状況下では全く意味を成さない(教化する価値がない)からか、これを像法の前半半分とする説が強かったようである。しかし、「後の」が「正法」ではなく、この全体に掛かるものと採るならば、「末法」の「後の」、「法が絶えた一万二千年の後の五百年」となる。ただ、「濁惡世」は「じよくあくせ」で「五濁悪世」(ごじょくあくせ)のことで、通常、これは「五つの汚(けが)れに満ちた悪い世」の意で、やはり「末法」を指すから、やはり「末法の初め」ということになる。よく分らぬ。なお、「五濁」は「劫濁(こうじょく:時代の汚れ。以下の「四濁」の起こる時の穢(けが)れ)・煩悩濁(ぼんのうじょく:貪りや怒りなど人の浅ましさが蔓延る穢れ)・衆生濁(しゅじょうじょく:心身が弱くなり、苦しみ多く、人性の資質が低下する穢れ)・見濁(けんじょく:誤った悪い思想・考えのみが満ちる穢れ)・命濁(みょうじょく:寿命が短くなる穢れ。最後には人の寿命は十年になるという)を指す。仏教は、その前・中期の新経典の中で、異様に厳密な数値規定を前教義との整合性をせず、非論理的になってしまった結果、特に後の方便された経義的言説が致命的に自己撞着(論理的数値矛盾)を起こしており、鼻白むことが甚だ多い。]

 或晚讀經の間に眠氣を催ふした、曲彔(きよくろく)にもたれながら眠つた。そして夢を見た、そして夢のうちに聲があつて、普賢菩薩を見るためには、神崎[やぶちゃん注:「かんざき」。]の町に住む『遊女の長者』として知られた或遊女の家に行くべき事を彼に告げた。さめると直ちに、彼は神崎へ行く決心をした、――そしてできるだけ急いで、彼は翌日の夕方、町に着いた。

[やぶちゃん注:「曲彔」「曲椂」とも書く。法会の際などに僧が用いる椅子。背凭れ部分を半円形に曲げ、脚をX字形に交差させたものが多い。原本では“ kyōsoku ”とあり、原注でも僧が読経看経(かんきん)の際に経机にする「脇息」の説明がなされている。凭れていることから、田部氏は現行のそれをイメージされるとまずいと考え、確信犯で意訳されたのであろうが、ここは大仰な「曲彔」よりも「脇息」の方がよい。実はそもそもが、後に示す通り、原拠でも「脇息」(「けうそく」。歴史的仮名遣は「けふそく」が正しい)なのである。

「神崎」古くより知られた遊女のいた場所。河川交通の要所にいて、身を売って生業(なりわい)としていた。特にこの神崎と、その近くの、西行の逸話で知られる現在の神崎川の淀川からの分岐に当たる江口の遊女が有名である。現在の兵庫県尼崎市神崎町(グーグル・マップ・データ。「遊女塚」にポイントした。以下同じ)。性空が本拠地とした書写山はここであるから、直線でも七十五キロメートルはある。一日で着ける距離ではない。或いは夢を見たのは、行脚の途次で、ここに近いところでのことであったという設定なのかも知れない。

「遊女の長者」一種の源氏名或いは世間の通称か。所謂、江戸時代の遊廓の花魁や太夫各を「長者」と呼んでいるのを、安易に適用したように感じられる。]

 彼が遊女の家に入ると、そこにはすでに大勢の人の集まつて居るのを見た――大槪はこの女の美しいと云ふ評判を聞いて、神崎へ引きよせられた人達であつた。彼等は宴會をしてゐた、そして遊女は小さい鼓を打つてゐたが、彼女はそれを甚だ巧みに使つて、歌を歌つてゐた、その言葉はかうであつた、――

[やぶちゃん注:訳に省略があり、極めてよろしくない。最後の部分は原本では“The song which she sang was an old Japanese song about a famous shrine in the town of Murozumi; and the words were these:—”で、「彼女の歌っているその歌は室積(むろづみ)の町にある有名な神社についての古い日本の歌で、その歌詞はこうである。」である。「室積」は山口県光市室積で、ここで古い神社となると、室積の氏神である早長八幡宮(はやおさはちまんぐう;グーグル・マップ・データ)だが、それでも室町時代の文安元(一四四四)年の勧請であるから違う。これは神社に拘るのが誤りかと思い、調べたところ、「港別みなと文化アーカイブス―室積漁港」の宮本雅明氏の『室積(光漁港)の「みなと文化」(PDF)の「第1章 室積港の整備と利用の沿革」の「1.古代・中世の室積港」によれば、『周防五浦の一つ室積は穏やかな室積湾(御手洗湾)に面し、砂嘴をなす象鼻ヶ岬によって周防灘からの風を遮られた天然の良港で、古来、瀬戸内海航路の要衝を占める港町として繁栄した。室積の名が見えるのは、12 世紀半ば成立の『本朝無題詩』に「於室積泊即事」とあるのが最初で、港の南側を限る峨媚山一帯の風光明媚な景色とともに、平安時代から詩歌にも歌われてきた。以来、「海の菩薩」として広く信仰を集めてきた普賢寺への参詣客や、内陸や大陸との交易に従事する商人・海賊の寄港地として大いに賑わってきた』。『古代から中世にかけて、町の発展の礎となったのは寺社であった。寛弘 3 年(1006)開創とされる普賢寺は、漂着した普賢菩薩の像を本尊とし、創建後ほどなく峨媚山麓に伽藍を構え、漁民や航海者の信仰を広く集めた。室積はこの普賢寺の門前町としての性格を併せもっていた』。『後に町並みのもう一つの核をなした早長八幡宮も、文安元年(1444)宇佐八幡宮から勧請の際、普賢寺の近くに奉られた。宮ノ脇の御旅所がその故地ともいう。中世から近世初頭にかけての室積の町並みは、普賢寺一帯を中心として展開したと推定される。この普賢寺領は、近世に入っても安堵されたが、室積は大半が萩藩の蔵人地となった』とあった。しかし、この普賢寺(神仏習合期であるから、神社があったとしておかしくはない)の開創も性空示寂の前年である。ところが、同前資料の『第2章 「みなと文化」の要素別概要』の「(2)信仰」の「普賢寺」の項には、『普賢寺は漂着した普賢菩薩の像を祀った播州書写山の性空上人によって寛弘 3 (1006)年に創建されたと伝えられる。当初は大多和羅山にあったが、暫くして峨嵋山麓の現在地に移され、「海の菩薩」として漁民や航海者の信仰を広く集めた。藩政期には毛利氏の祈願所として、寺領九石五斗、切米五石を給され、藩直営の御手普請寺として遇され』現在は『臨済宗建仁寺派に属す』とあるから、神仏習合期でもあり、この普賢寺のもとの位置にあったであろうかも知れぬ神社(私は地形から見て高い確率で漂着神或いは御崎神ではなかろうかと推理する)のことを指すとまずは考えて誤りがあるとは言えまい。「山口県」公式サイト内の「山口の文化財」の「普賢寺庭園」のページの解説「室積と普賢寺について」にも、『室積半島は、もと島であった峨嵋山が砂州の発達によって陸繋化して形成された。峨嵋山の先に伸びた砂嘴(象鼻ケ岬)に囲まれた半島の内側が御手洗湾で、天然の良港、室積港となり、古代・中世から瀬戸内海の交通の要所としての役割を果たしてきた』。『峨嵋山の麓に普賢寺があり、室積港に臨んでいる。寛弘3年(1006)、播磨国の書写山円教寺(兵庫県姫路市)の性空上人』『の開基という。境内普賢堂の本尊普賢菩薩には、性空が室積の海から引き揚げたという伝承がある。近畿・九州に分布がまたがる性空伝承の一事例である』。『この普賢菩薩像は、はじめ大多和羅山(今の峨嵋山とも、大峰山ともいう)に一宇を営んで安置されたが、「薩州沙門禅宗大林玄宥」』長久二(一〇四一)入寂)『が、現在地へ移転したと伝える(『防長風土注進案』)。現境内の形成時期はよくわかっていないが』、諸古文書資料から、『普賢寺が室町時代に室積の地に存在していたことは確かである』。『山号の峨嵋山は、普賢菩薩出現の地という唐土の峨嵋山になぞらえたもので』、『四川省峨嵋山は中国仏教聖地のひとつであり、名勝の地としても知られる』。『藩政時代には、毛利家の祈願所として寺領9石5斗、切米5石を与えられ、藩直営の普請寺として寺格が高かった』。『なお、普賢堂は、その周囲を堀割で囲まれ、潮の干満によって海水が出入りする。普賢堂の楼門、参道は海に向かって東面しており、堀割造成の排土をつかって築造された「普賢波止」で、海上からの参拝者を迎える。性空入寂にちなむ毎年5月の普賢祭には、盛大な農具市や露天市がたつが、近世には「普賢市」として知られており、今も多くの人手で賑わう。いずれも海上安全の信仰の場としての当寺の性格を示すものである』とある。さらに、尾崎家連氏の「山口の伝説 お宮やお寺にまつわる話シリーズ」の「ふげんさま」を読むと、伝説上では、この現在の普賢寺のある御手洗湾周辺のロケーションで間違いないのである。なお、現在、この半島の御手洗湾にカーブして南から突き出る象鼻ヶ岬(グーグル・マップ・データ)には性空上人と、この遊女に関わる歌碑が建つという。]

 

    周防むろづみの中なるみたら井に

    風は吠かねど

    さ〻ら波立つ

[やぶちゃん注:「みたら井」この唄の原文は、

 Within the sacred water-tank of Murozumi in Suwō,

 Even though no wind be blowing,

 The surface of the water is always  rippling.

で、小泉八雲はこの“ the sacred water-tank ”(「神聖なる水槽(みずおけ)」)に注して、

  Mitarai.  Mitarai (or mitarashi) is the name especially given to the water-tanks, or water-fonts—of stone or bronze—placed before Shintō shrines in order that the worshipper may purify his lips and hands before making prayer. Buddhist tanks are not so named.

と記す。訳してみると、

 みたらい。 みたらい(みたらし)は、神社の前に置かれた水を溜める装置、又は石や青銅でできた聖水盤に特に与えられた名で、これは参拝者が、お参りをする前に、唇と手をその水で清めるためのものである。仏寺のそれはそうは呼ばれていない。

ここで小泉八雲が言うのは「御手洗」(神社)と「手水鉢(ちょうずばち)」(寺)との区別であるが、但し、「手水鉢(ちょうずばち)」は神社のものをも指す。しかし、原文に則すなら、「みたらい」であり、歴史的仮名遣に拘るなら、「御手洗」であるからして、「みたらひ」で、孰れにしても田部の表記「みたら井」(みたらゐ)というのは、私は、全く以って、いただけないのである。

 

 その聲の美しいので、驚いて喜ばない者はなかつた。離れて席を取つてゐた僧がそれを聽いて感心して居ると、女は突然彼女の眼を彼の方へ向けて彼を見まもつた。同時に彼は彼女の姿が六牙の白象[やぶちゃん注:「びやくざう」。]に乘つた普賢菩薩の姿に變つて、眉間から光明を放つて宇宙のはてまでも貫くやうに思はれた。そしてやはり彼女は歌つた――しかしその歌は今變つてゐた、そしてその文句は僧の耳にはこんな風に響いた、

 

    實相無漏の大海に

    五塵六欲の風は吹かねど

    隨緣眞如の浪の立たぬ時なし

[やぶちゃん注:「實相無漏」万物の真実の姿は、迷いを離れた清浄の境界(きょうがい)にあるということ。また、その境界。宇宙万物の真の実在は一切の煩悩・穢れを離れて清浄であることを示す。

「五塵六欲」「五塵」(色(しき)・声(しょう)・香・味・触(そく)の「五境」のこと。人間の不完全な感官印象が、塵(ちり)のように人の心を汚すことからいう)と、色欲(見かけ上の色や形をもつものに執着すること及び性欲に執着すること)・形貌(ぎょうみょう)欲(見かけ上の美しい容姿や物の格好・形に執着すること)・威儀姿態欲(過度に礼則に拘ってそれを他人に強要することに執着すること)・言語音声(げんごおんじょう)欲(美辞麗句を好んで耳触りのいい言葉にばかり執着すること)・細滑欲(人の些細な失敗を喜んだり、些細な事物に執着すること)・人想欲(恋慕に執着すること)の、貪欲のもととなる「六欲」のこと。

「隨緣眞如」本来は絶対不変である真如(不変真如)が、対象との縁に応じて、種々の現われ方をすること。]

 

 聖い光明のために眩まされて、僧は眼を閉ぢてゐた、しかし目蓋を通して彼はやはり明らかに菩薩の姿を見る事ができた。再び彼が眼を開くと、その姿が見えなかつた、彼はただ鼓をもつた少女を見て、むろづみの水に關する歌を聞くだけであつた。しかし彼が眼を閉ぢる每に六牙[やぶちゃん注:「ろくげ」。]の象に乘つた普賢菩薩を見て、實相無漏の大海の神祕な歌を聞く事ができた。そこに居る外の人々は、遊女を見るだけであつた、彼等はその幻は見なかつた。

 それから歌ひ妓[やぶちゃん注:「うたひめ」。]は突然その宴席から消えた、――誰もいつ、どうしてか知らなかつた。その時から酒宴は止んだ、そして哀愁が歡樂に代つた。その少女をさがして待つたが無駄であつたので、人々は悲しんで解散した。最後に、僧はその夜の情緖に惑亂されて歸途についた。しかし彼が一步門を出ると、遊女が彼の前に現れて云つた、――『今夜御覽になつた事は、未だ誰にも口外してはなりません』これだけ云つてから、彼女は消え去つた、――芳しい香が空中に殘つた。

          *

       *

          *

 以上の物語を書いた僧は、それにつぎのやうな註釋を加へて居る。――遊女の境遇は男の慾を滿足させるやうな賤しい哀れな物である。それだから、どうしてこんな女が菩薩の化身と思ふ事ができよう。しかし私共は佛菩薩はこの世に於て無數の違つた形となつて現れる事を忘れてはならない、人を正しい道へ導いて迷の危險から救ふためには、如何に下等な賤しむべき形をもその聖い慈悲の目的のために選ぶ事を忘れてはならない。

[やぶちゃん注:「以上の物語を書いた僧」以下に示す原拠「十訓抄」(じっきんしょう)は鎌倉中期に成立した説話集で、全三巻。建長四(一二五二)年の序文がある。約二百八十の説話を「心操振舞を定むべき事」以下、十条の教訓の下(もと)に分類配列し、説話ごとに著者の見解を加えてある。儒教的立場が表に立つが、王朝文化を憧憬する個条や、反対に極めて実際的な乱世の処世術などを説く個条も目立つ。所収の説話は先行する「今昔物語集」・「江談抄」・「袋草紙」(ふくろさうし/ふくろざうし:平安後期の歌学書。全二巻。藤原清輔著。平治元(1159)年までに成立。歌会の作法・歌人の逸話などを集成したもの)以下の平安期の文献によるものが多い(以上は「ブリタニカ国際大百科事典」に拠った)。作者は、写本の一つである「妙覚寺本」奥書によって六波羅二﨟(ろくはらにろう)左衛門入道とするのが通説で、この名は幕府御家人湯浅宗業(ゆあさむねなり 建久六 (一一九五)年~?:紀伊国保田荘(現在の和歌山県有田市)を本拠とし、保田次郎左衛門尉と呼ばれ、在京して六波羅探題に仕えた。弘長二(一二六二)年に出家し、明恵に帰依して智眼と号した。荘内に星尾寺を草創し、その開基の経緯をしるした「智眼置文」が高山寺に残っている)の通称ともされるが、一方で、公卿・儒学者であった菅原為長(保元三(一一五八)年~寛元四(一二四六)年:父は大学頭菅原長守。その家は菅原氏より出、是綱を家祖とする高辻家。一時は九条家に仕えた。兵部少輔・式部少輔・大内記などを経て元久元(一二〇四)年、文章博士(もんじょうはかせ)となった。同年、土御門天皇の侍読となり、以後、五代の天皇の侍読を勤め、建暦元(一二一一)年、従三位に叙し、公卿に列した。菅原氏が公卿となったのは、まさに道真以来のことであった。備後権守・大蔵卿を経て、承久三(一二二一)年には正三位・式部大輔となった。この頃、北条政子の求めに応じて「貞觀政要」を和訳して献じている。後鳥羽・順徳院に近侍した為長が「承久の乱」後に咎めを受けなかったのは、こうした幕府の求めに応じる才覚を備えていたからと思われる。また、九条道家の政権が成立すると、平経高・吉田為経らとともに長きに亙ってこれを補佐した。官は参議、位は正二位にまで昇り、「国之元老」として重んじられた(ここは「朝日日本歴史人物事典」に拠る))とする説もある。但し、菅原為長だとすると、彼は「僧」では、ない。

 小泉八雲が原拠としたのは、同書の巻上の「第三不ㇾ可ㇾ侮人倫叓」(第三 人倫を侮(あなど)るべからざる叓(こと))の中の、三分の二の部分である(最後の部分は性空についての別エピソードである。但し、やはり普賢菩薩に絡みはある)。以下、富山大学「ヘルン文庫」の小泉八雲旧蔵本を視認して(ここからダウン・ロード出来る『2112_3十訓集(上巻第3篇) (4.7 MB)』の「14」コマ目以下)示す。読みは朱で振られてあり、後人のものであるからして、特に振れると判断したもののみとした(誤読あり!)。句読点や記号(濁点を含む。但し、唄は清音のままで示した)を附し、段落も成形した。歴史的仮名遣の誤りはママである。踊り字「く」は正字化した。小泉八雲がカットした最後のパートも電子化した。そこ出る右手の小さな添書(黒字であるから、原本割注)は【 】で示した。

   *

 書寫の性空上人、生身(しやふしん)の普賢をのみ見たてまつらむと、寢(いね)てもさめても祈請(きせひ)し給ひけるに、或夜、轉讀につかれて、經を拳(にぎり)ながら、けうそくにかゝりて、しばし、まどろみたまへる夢に、

「生身(せふしん)の普賢を見奉らむとおもはゞ、神﨑(かんざき)遊女の長者をみるべき。」

よし、しめすとみて、夢、さめぬ。

 奇異の思(おもひ)をなして、かしこへ行(ゆき)、とひて、長者が家におはしつきたれば、只今、京より上日(のぼるひ)の[やぶちゃん注:日の昇るような「勢い」「豪勢な」の形容であろう。]輩(ともがら)、下(くだり)て、遊宴・亂舞の程なり。

 長者、よこしき[やぶちゃん注:横隣りの控えの座敷であろう。]に居て、鼓をうち、亂拍子の次第をとる。其詞に云、

  周防むろつみの中なみゝぬに風はふかねとさゝら波立

上人、閑所(かんじよ)に居て、掌(たなごゝろ)を合(あはせ)て、信仰恭敬(しんこふくけふ)して、目をふさぎて居たまへり。

 此時、長者、忽(たちまち)に普賢菩薩の形に現(げん)じて、六牙(ろくげ)の白象(びやくぞう)にのりて眉間(みけん)より光を放(はなち)て、道俗男女(どふぞくなんによ)をてらす。

 則、みめう音聲(おんじやう)を出して、[やぶちゃん注:以下は改行や字下げがないが、前に合わせた。]

  實相無漏の大海に五塵六欲の風はふかねとも隨緣眞如の波たゝぬ時なし

と仰らる。

 感淚をさへがたくて、眼(まなこ)を開(ひらい)てみれば、又、もとのごとく、女人のすがたとなりて、周防むろすみの詞を出す。

 眼をとづる時は、又、菩薩の形を現(げん)じて、法文(ほふもん)のべたまふ。

 かくのごとく、度々、敬礼をなして、泣々[やぶちゃん注:ここの一字目には朱で「くらひ」と振るが、「位」と誤読した甚だ一昨日来たようなトンデモ読みである。]、かへりたまふとき、長者、俄に座をたちて、閑道(かんどふ)より、上人のもとへ來て、

「口外に及からず。」

と、いひて、則、死(し)しぬ。

 異香、空にみちて、はなはだ、かうばし。

 長者、頓滅(とんめつ)の間、遊宴、興さめて、悲淚におぼれて、歸路に、まどひたまひけりとなん。

 長者女人(によにん)、好色のたぐひなれば、誰(など)かは、これを、權者(ごんしや)の化儀(くわぎ)と、しらむ。

 形を、まちまちに、わかちて、生(しやう)を利する、これ、佛菩薩の化導(けどふ)なり。

 されば、いやしきには、よらぬ事なり。かやうのためにして心得つべし。

✕[やぶちゃん注:以下が小泉八雲がカットした別話である。]

 此上人は、無智の人なり。法文、いひきかせんとて、惠心僧都【大和國葛木郡人】・檀那僧都おはして、

「住果(ぢふくわ)の緣覺(ゑんがく)は佛所へいたる歟。」

と、とはれければ、

「いたりも、いたらずも、いかでも候なん。無益(むやく)なり。」

と、いはれければ、

「法文をさたしてこそ、惠眼(ゑがん)をば、ひらく事にて侍れ。かやうの中には候はじ、とて、まいりはべるなり。」

といひければ、上人、

「かやうの法文は、普賢のおはしまして解脫したまふなり。」

と、こたふ時に、惠心、歸敬(きけふ)のおもひにたへず、礼拜(らいはい)したまふ。

 檀那、

「此聖、ほめ申させたまふ。」

と申されければ、

   身色如金山 端嚴甚微妙

   如淨瑠璃中 内現眞金像

[やぶちゃん注:読みに従うと、

 身色(しんしき)如(によ)金山(きんざん)

 端嚴(たんごん)甚(じん)微妙(みめふ)

 如(によ)淨瑠璃(ぜふるり)中(ちふ)

 內現(ないげん)眞金像(しんきんざふ)

であるが、所持する一九四二年岩波文庫刊の永積安明校訂「十訓抄」に従って訓読すると(一部に〔 〕で送り仮名を補った。三・四句目で跨って返読しているため、文章式で示した)、

 身色、金山のごとく、端嚴、甚だ微妙なり。淨瑠璃中〔の〕內に眞金像を現ずるがごとし。

となる。]

といふ伽陀を頌(じゆ)しておがまれけるとぞ。

   *

 原話と小泉八雲の本篇の違いは、性空が「遊女の長者」に普賢菩薩を見る(感得する)シークエンスで、

原話では、少し離れた静かなところにいる性空が、彼女の乱拍子の舞いをするのを目をつぶって見ない中で出現するという特殊感覚で処理しているのに対し、八雲は、彼女が歌を歌っていると、ふと気づけば、彼女が性空を凝っと見つめていることに気づいた、その瞬間に出現するという、非常にビジュアルな印象的処理を施している点

であり、また、

★「遊女の長者」が原話では「死(し)しぬ」とショッキングに出るのに対して、小泉八雲は、そのコーダで、彼女を幻しのように消して、如何にも美しい点

である。これは孰れも、原話よりも遙かに優れた演出であると言える。以下、小泉八雲のカットした部分の注を附しておく。

・「惠心僧都」「往生要集」の著者で、本邦の浄土教の祖とされる天台僧源信(天慶五(九四二)年~寛仁元(一〇一七)年)。

・「檀那僧都」覚連(天暦七(九五三)年~寛弘四(一〇〇七)年)。後述の竹村牧男氏の論文に拠った。

・「住果の緣覺」の「緣覺」は、仏の教えに依ることなく独力で十二因縁を悟り、しかもそれを他人に説かない修行者を指し、菩薩の下に位置する存在とされるもので、恐らくは以下、そうした「正しく縁覚にある者の存在は遂には真の仏の正法(しょうぼう)の境地に至ることが出来るか?」と問うたのであろう。一種の公案、禅問答である。

・「伽陀」は「かだ」でサンスクリット語「gāthā」の漢音写。「偈(げ)」・「諷頌(ふじゅ)」とも漢訳する。ここは、法会などで唱えられる仏徳を賛嘆して教理を述べる韻文で、旋律をつけたものを指す。

 なお、竹村牧男氏の講演筆記「書写山の一遍上人」(PDF。東洋大学の学術雑誌『東洋学論叢』第三十八号・二〇一三年三月発行)に、この後の部分について、『源信らが教理の議論をしてこそ悟りの眼も開けてくるというのに対し、性空は普賢菩薩が問題を解決してくれるというのでしょう。普賢菩薩に出会えば、議論も何も要らないということだと思います。このような言葉は、実際に普賢菩薩に出会っていたからいえる言葉だという感じがします』とあり、ここのエピソードの意味が、私には、やっと判然とした。また、『ちなみに、性空は晩年のことですが、源信を書写山に呼んで、自分の持っていた書物を供養させています。性空は源信に書物を供養させて、源信が帰っていく途中、亡くなるのでした』とあり、何かしみじみとしたものをも感じた。竹村氏の講演筆記は性空の伝記パートがあり、講演であるため、非常に判り易く、この普賢菩薩との邂逅談も無論、語られてある。是非、読まれたい。

2019/10/24

小泉八雲作品集「影」 始動 / 献辞及び「珍しい書物からの話」の「和解」 附・原拠

 

[やぶちゃん注:本篇(原題“ The Reconciliation ”は一九〇〇(明治三三)年七月にボストンの「リトル・ブラウン社」(LITTLE,BROWN AND COMPANY)から出版された作品集“ SHADOWINGS ”(名詞「shadowing」には「影」以外には「人影」・「影法師」・「影を附けること」・「尾行」などの意味がある。本作品集の訳は概ね「影」が多いが、平井呈一氏は「明暗」と訳しておられ、私も漠然とした「影」よりも、作品群の持つ感性上の印象としてのグラデーションから「明暗」の方が相応しいと思う。来日後の第七作品集)の第一パート“ STORIES FROM STRANGE BOOKS ”の最初に配された作品である。本作品集は“Internet Archive”のこちら(出版社及びクレジットと献辞の入ったページを示した)で全篇視認できる(本篇はここから。附言のついた標題ページを示した。なお、この添辞では“ The original story is to be found in the curious volume entitled Konséki-Monogatari ”「この原話は奇妙な(好奇心をそそる)「今昔(こんせき)物語」という名の大冊の物語に発見したものである。」となっている。無論、「こんじゃくものがたり」が正しい。原拠は後述する)。活字化されたものは“Project Gutenberg”のこちらで全篇が読める(本篇はここから)。

 底本は英文サイト“Internet Archive”のこちらにある、第一書房が昭和一一(一九三六)年十一月に刊行した「家庭版小泉八雲全集」(全十二巻)の第七巻の画像データをPDFで落として視認した。【2025年4月12日:底本変更・正字化不全・ミスタイプ・オリジナル注全補正】時間を経て、国立国会図書館デジタルコレクションに本登録し、現行では、以上の第一書房版昭和一一(一九三六)年十一月に刊行した「家庭版小泉八雲全集」(全十二巻)の第七巻が、国立国会図書館デジタルコレクションで公開されてある。(リンクは扉だが、「家庭版」の文字はない。しかし、奥附を見て貰うと『家庭版』とあり、『昭和十一年十一月二十七日 發 行』とあることが確認出来る)、これが、前掲の底本と同じものであるが、やはり、外国のサイトのそれを底本とするのは、日本人小泉八雲に失礼であると考えた。されば、こちらで、再度、以下の「骨董」の作品群を改めて校正することとする。これが――私の小泉八雲への「義」――である。なお、これよりも前の元版の全集等が先行しているものの、私がそれらと比べた結果、実は先行する同社の「小泉八雲全集」のそれらは、訳が一部で異なっており、訳者等によって、かなりの補正・追加がされていることが、今回の正字補正作業の中で、はっきりと判って来た。いや、同じ「家庭版」と名打ったネット上の画像データでも、驚いたことに、有意に異なっていたのである。そうした意味でも――完全な仕切り直しの総点検――が必要であると決したものである。従って、旧前振りの括弧・鍵括弧の問題も、拡大とガンマ補正で確認し、正確を期する。本作はここから。

 田部隆次(たなべりゅうじ 明治八(一八七五)年~昭和三二(一九五七)年)氏については先に電子化した「人形の墓」の私の冒頭注を参照されたい。

 本作品集の電子化では、一部の「!」の後に字空けがない場合、特異的に一字空けを施した箇所がある。これはここでのみ述べ、以下の諸篇では繰り返さない。

 なお、本篇はその原々拠を『「今昔物語集」卷第二十七 人妻死後會舊夫語 第二十四』(人の妻(め)死にて後(のち)、舊(もと)の夫(をうと)に會ふ語(こと) 第二十四)に拠っている。それは本篇公開に先立って、こちらで原文・語注及び私のオリジナル現代語訳附きで公開しておいたので、未読の方は、小泉八雲の本篇を読まれた後に読まれんことをお勧めするものであるが、さても、何故に「原々拠」と述べたかというと、小泉八雲が本篇を書くに際して参考にしたものが、当該作の非常に杜撰な簡略型再話版に拠るものだからである。一九九〇年講談社学術文庫刊の小泉八雲著・平川祐弘編「怪談・奇談」の布村(ぬのむら)弘氏の解説によれば、本篇の直接の参考原拠は江戸前期の神道家・国学者で考証随筆「廣益俗說辯」で知られる井沢長秀(享保一五(一七三一)年~寛文八(一六六八)年)の考訂纂註になる「今昔物語」(但し、刊本は東京書肆明治三〇(一八九七)年刊の第二版と近代の出版物)の『上巻「怪異伝」の中の』「凶妻靈値鷹夫話」(これはトンデモなく致命的な誤植だらけで、本文には「亡妻靈値舊夫語」(亡妻の靈、舊夫に値(あ)ふ語(こと))とあるとする)とし、同書は『本話の題名に見られるように誤植が多い』と述べておられる。なお、「朝日日本歴史人物事典」の井沢長秀の記載には、『肥後熊本藩士井沢勘兵衛の子』で、『山崎闇斎の門人に神道を学んだ』。宝永三(一七〇六)年の「本朝俗說辯」の出版以後、旺盛な著述活動に入り、「神道天瓊矛記(しんたうあめのぬほこのき)」などの神道書は、「菊池佐々軍記」などの軍記物、「武士訓」などの教訓書、「本朝俚諺」などの辞書、「肥後地志略」などの地誌と、幅広く活躍した。また、「今昔物語」を出版しており、これは校訂の杜撰さをしばしば非難されるが(調べて見ると、同時代から後代にかけて批判された具体的記載が見出せる)、それまで極めて狭い範囲でしか流布していなかった「今昔物語集」を江戸前期以降の読書界に提供した功績は決して小さくないともあった。当初、小泉八雲が実際に原拠としたそれを見ようと調べたが、残念ながら、小泉八雲旧蔵の現物を所有している富山大学の「ヘルン文庫」でも、国立国会図書館デジタルコレクションでもネットに公開されていないことが判った。そこで、「ヘルン文庫」版のそれに従って、新字体で活字化されてある、上記講談社学術文庫版の中のそれを、恣意的に漢字を概ね正字化して、本篇の末に掲げておいた。まず、先に掲げた私の『「今昔物語集」卷第二十七 人妻死後會舊夫語 第二十四』と比較して戴ければ、その杜撰さは、お判り戴けるものと思う。いや! 正直言うと、それは読まないで、「今昔物語集」の原々拠を読むほうがよいとさえ、私は、思うぐらい、下劣なシロモノである。

 さても以上のような状況なので、ここで言っておくが、小泉八雲は杜撰な圧縮版の再話原拠を想像で美事に復元したばかりでなく、原々拠になかった男と女の感情面での追慕や表白表現の機微を驚くべき正確さで、映像を見るように、優れた脚本家のように、生の声で再現することに成功している。私は全体の整序性と展開の無駄の無さ(しかも勘所をオリジナルに押さえてある)に於いて、その話柄の完成度と美しさは、「今昔物語集」の原話を凌駕していると言ってさえよいと感じるものである。また、小泉八雲が京に向かうに先立って後妻を実家へ戻す際に、後妻との間には「(子供はなかつた)」(原文“(she had given him no children)”)とわざわざオリジナルに割注を入れていることにも着目せねばならない。これは――小泉八雲自身が身に染みて感じているところの「男」としての、否、「人間」としての絶対の道徳であり、厳守されねばならない規範であり、何をさておいてその子の魂の平穏のために守られねばならないものであるから――に他ならないからある。

 

 

   

 

 

 捧 呈

  ミッチヱル・マックドーナルド主計監(米軍海軍)へ

 

   マックドナルド樣

   ここに私は「珍しい日本の話をもう

   少し」と云ふ御註文に應ずるやうに

   試みました。作者の親愛の又一つの

   記念として、どうぞこの書物を受け

   て下さい。

      ラフカディオ・ヘルン

             (小泉八雲)

      日本、東京、  一九〇〇年一月一日

[やぶちゃん注:底本の標題「影」はここ、以上の献辞部分はここ。後者はブログ・ブラウザでの不具合を考え、一部の改行及び開始位置を再現していない。詳細献辞はポイントが有意に小さいが、本文ポイントと同じにした。

「ミッチヱル・マックドーナルド主計監」原本原文の綴りは、“MITCHELL McDONALD”(ここ)。ミッチェル・マクドナルド(一八五三年~大正一二(一九二三)年)はアメリカ海軍でハーンの親友。関田かおる氏の論文「小泉八雲のチェンバレン宛未発表書簡 ―翻刻および解説―」(PDFでダウン・ロード可能)の注によれば(そこでは彼の名前の綴りは「Mitchel Macdonald」となっている)、アメリカ合衆国海軍主計大佐として日本に駐在し(明治二一(一八八八)年から一八九一年、明治三〇(一八九七)年から一九〇〇年、明治三五(一九〇二)年から一九〇五年、明治四四(一九一一)年から大正三(一九一四)年の四期間)、『退職後は日本に永住を決意して』、大正九(一九二〇)年に『横浜「グランド・ホテル」の社長に』就任したが、大正十二年九月一日の「関東大震災」で『ホテルの建物と運命を共にし』、『歿している。彼は』、『八雲にチェンバレンを紹介して以来,八雲の生涯を通じて最大の友人にな』った。『八雲の生存中は勿論』、『彼の死後も八雲の家族に対して物心ともに援助』した。『八雲は彼の好意に謝して』、作品集『『知られぬ日本の面影』と『影』を献呈している。二冊も献呈されているのはマクドナルド』ただ『一人である』とあるとあった。また、サイト「熊本アイルランド協会」の小泉八雲熊本旧居館長宮崎啓子氏の「ハーン雑話」に、彼は『ハーンが来日した時、エリザベス・ビスランド』(小泉八雲の親友でアメリカの女性ジャーナリスト、新聞・雑誌の編集者でもあったエリザベス・ビスランド(ビズランド)・ウェットモア(Elizabeth Bisland Wetmore 一八六一年~一九二九年:詳しくは、私の『小泉八雲 落合貞三郎他訳 「知られぬ日本の面影」 第二十四章 魂について(全)』の挿入注(「昔、ここを平井呈一氏の訳で読んだ若き日の私は、……」で始まるもの)を参照されたい)『の紹介状をもって横浜海軍病院勤務のマクドナルドを訪問して以来の友人です。ハーンが帝国大学講師となって上京してからは,東京と横浜とをお互いに行き来し』、『信頼関係を深めていきました。マクドナルドは雨森』信成(あめのもりのぶしげ 安政五(一八五八)年~明治三六(一九〇六)年:私の電子化注『昭和六(一九三一)年一月第一書房刊「學生版 小泉八雲全集」(全十二巻)第七卷の大谷正信氏の「あとがき」』の本文及び私の注を参照されたい)『とも親しく、二人はハーン一家と一緒に海水浴に行き、皆で楽しく一日を過ごしたこともありました。ハーンは子供のように喜んで、得意の泳ぎを披露したそうです』。『ハーンの没後は、小泉家の遺産管理人として遺族を支えました。ハーンの帝大講義録も彼の尽力で出版が実現しました』。大正九(一九二〇)年に『横浜グランドホテルの社長に就任。生涯を独身で通したマクドナルドは、ハーンの長男・一雄を我が子のように可愛がりました』とある。]

 

 

   珍らしい書物からの話

        心の爐の中に、昔、彼は不思

        議な石の燃ゆるのを見た……

            ヱミール・ヴヱルハーレン

[やぶちゃん注:中パート標題。以上の添辞は原本では以下の通り、フランス語表記である。

   Il avait vu brûler d'étranges pierres,

   Jadis, dans les brasiers de la pensée . . .

                    ÉMILE VERHAEREN

「ヱミール・ヴヱルハーレン」はベルギーの詩人(文筆ではフランス語を用いた)エミール・ヴェルハーレン(一八五五年~一九一六年)。高踏派の影響を受け、故郷の素朴で美しい田園を写実的に歌った「フランドルの女たち」(‘ Les Flamandes ’:一八八三年)、病による苦悩や絶望を歌った「黒い炬火」(‘ Les Flambeaux noirs ’:一八九〇年)を発表、その後、社会に目を向け、「錯覚の村々」(‘ Les Villages illusoires ’:一八九五年)や「触手ある都」(‘’Les Villes tentaculaires:一八九五年)で自然を破壊する近代化に対する田園の悲哀を歌ったが、以後、人間の行動とエネルギーを賛美するようになり、「騒然たる力」(‘ Les Forces tumultueuses ’:一九〇二年)、「至上律」(‘ Les Rythmes souverains ’:一九一〇年)などを発表し、アメリカのホイットマンに比せられた(以上は「ブリタニカ国際大百科事典」に拠った)。以上の引用は‘ Celui de la fatigue ’(「疲れたその人」か)の第四連の冒頭。フランス語サイト“Les Grands classiques”のこちらで原文詩篇全体が読める。]

 

 

   和 解

 

 昔、京都に、若い武士があつた、主家の沒落のために貧しくなつたので、遠國の守[やぶちゃん注:「かみ」。]になつて下る人に仕へる事になつた。都を去る時、この武士は妻を離別した、――善良にして綺麗な女であつた、――實は立身のために別の緣組をしようと思つたのであつた。それから或家柄の娘と結婚して、自分の任地へ連れて行つた。

 しかしこの武士が、愛情の價値を充分理解しないでそれ程無造作に捨て去つたのは、無分別な靑年時代で、苦しい貧乏を經驗して居る時であつた。彼の第二の結婚は幸福ではなかつた。彼の新しい妻は冷酷で我儘であつた、そして彼は京都時代の事を考へて名殘惜しさにたへなかつた。それから彼はやはり第一の妻を愛して居る事――第二の妻を愛する事のできる以上に彼女を愛して居る事を發見した、そして自分が如何に義理知らずで、又恩知らずであるかを感じて來た。彼の後悔は次第に悔恨となつて、彼に心の平和を與へなかつた。彼がつれなくした女の記憶――彼女の物靜かな言葉、彼女の微笑、彼女のやさしい美はしい振舞、彼女の非難の打ちどころない忍耐、――それがたえず彼を惱ました。時々彼は彼女があの困窮の時分に夜晝働いて彼を助けた時のやうに、彼女が機を織つて居るのを夢に見た、もつと度々見たのは、彼女が哀れな破れた袖で淚をかくしながら、彼が彼女を捨てて來たあの淋しい小さい部屋にただ獨りで坐つて居る姿であつた。公務の間にも、彼の心は彼女の方へさまようて行つた、それから彼は彼女がどうして暮らして居るだらう、何をして居るだらうと考へて見た。再緣はしてゐないだらう、それからどうしても自分を赦さないと云ふ事もなからうと何となしに思つた。それから彼はひそかにできるだけ早く京都に歸つて彼女をさがして見よう、――そして彼女に赦しを願つて、つれ戾して、償ひのために何でもできるだけの事をしようと決心した。しかし歲月は過ぎた。

 たうとう守の任期も滿ちたので、この武士の役目も一先づ終つた。『さあこれから自分の愛する者のところへ歸る』彼は自分で誓つた。『あれを離別した事は何と云ふ殘酷な――何と云ふ馬鹿な事であつたらう』彼は第二の妻(子供はなかつた)をその親許へ歸して、京都へ急いだ、それから、旅裝束を取り換へる暇も惜んで――直ちに昔の妻をさがしに出かけた。

 彼女の昔、住んでゐた町に着いた時は、夜は深くなつてゐた、――九月十日の夜であつた、――そして都は墓地のやうに靜かであつた。しかし明月が一切の物をあかるくした、そして造作なく家が見つかつた。住む人がないやうであつた、屋根には高草が生えてゐた。彼は雨戶をたたいたが、誰も答へる者はなかつた。それから、戶は內から締りはしてない事が分つたので、彼は押しあけて入つた。入口の間には疊も何もなかつた、寒い風が板の間の隙から吹いて來た、月の光は床の間の壁の粗い割目から洩れて來た。外の部屋は皆同じやうに荒れ果ててゐた。この家はどう見ても住む人はないやうであつた。それでも武士はその家のずつと奥にあるもう一つの部屋、――彼の妻のいつも休息所であつた甚だ小さい部屋へ行つて見ようと決心した。その境になつて居るふすまに近づくと、彼はその中にあかりの見えたので驚いた。彼はふすまを開いて驚きの叫びを上げた。卽ち彼はそこに彼女が――行燈のあかりのわきで針仕事をして居るのを見たのであつた。彼女の眼は同時に彼の眼と合つた、そして嬉しさうな微笑をもつて、彼女は彼に挨拶した、――ただこれだけ聞いた――『いつ京都へお歸りになつて? こんな暗いところを通つてどうして道が分りましたか』こんなに歲月はたつたが少しも彼女は變つてゐなかつた。やはり彼に取つて最もなつかしい彼女の記憶の通り、美しく又若く見えた、――しかし、どの記憶よりもなつかしい彼女の音樂のやうな聲が、嬉しさの驚きで震ひを帶びて彼の耳に達した。

 それから喜んで彼は彼女のわきに坐つて、彼女に一切の事、――どんなに深く彼の我儘で後悔して居るか、――彼女がゐないで彼はどんなに不幸であつたか、――どんなにたえず彼女と別れた事を殘念に思つたか、――どんなに長い間償ひをしようと思つて色々工夫してゐたか――を話した。――その間彼女を抱でさすつて、くりかへしくりかへし彼女の容赦を願つた。彼女はそれに答へて、彼が心で願つた通り、愛のこもつたやさしさで、――そんなに自分を責める事を止めるやうに賴んだ。彼女のためにそんなに苦むのはいけないと彼女は云つた。彼女はいつでも彼の妻となる資格はないと感じて居ると云つた。それでも彼が彼女と別れたのは、ただ貧乏のためである事を知つてゐた、彼が彼女と一緖にゐた間は彼はいつでも親切であつた、それから彼女は彼の幸福を祈る事を決して忘れた事はない、もし償ひをすると云はれるやうな理由が假りにあるとしても、かうして來て貰つた事が何よりの償ひになるのであつた、――たとへほんの暫らくでもかうして又會はれる事が何よりも嬉しいと彼女は云つた。彼は喜びの笑をもつて云つた、『ほんの暫らく! ――いや七生の間と云つて貰ひたい[やぶちゃん注:「!」の後のダッシュとの間の字空けは底本のママ。]。お前の方でいやでなければ、いつまでも――いつまでも、一緖にゐようと思つで歸つて來たのだ。どんな事があつても、もう別れない。今では金もある、友達もある、貧乏を恐れるに及ばない。明日荷物がここへ來る、家來達もここへ來てお前の世話をしてくれる、そしたらこの家を綺麗にしよう。……今夜は』彼は云ひわけのやうにつけ加へた、『着物も着換へないで、――實はただお前に會つて、この事を云ひたいばかりに――こんなにおそく來た』彼女はかう云はれて大層喜んだやうであつた、そして今度は彼女の方で、彼が去つてから京都にあつた事を色々話した、――ただ自分の悲しかつた事は避けて、それについて語る事はやさしく拒んだ。二人は夜ずつとおそくまで話し込んだ、それから彼女は、南に面した暖い部屋、――それは以前彼等の新婚の部屋であつた部屋へ彼を案內した。『この家には誰も世話をする人はないのかね』彼女が彼のために床をのべるのを見て、彼は尋ねた。『い〻え』[やぶちゃん注:英語の否定疑問文へのそれを馬鹿正直に訳したもの。「はい」とすべきところである。]彼女は快活に笑ひながら答へた、『女中など置くわけに參りません、――それで全く一人で暮らしてゐます』『明日から女中を澤山置いて上げる』彼は云つた、――『よい女中、――それから何でもお前の要(い)る物』彼等は休むために橫になつたが、――眠るためではなかつた、彼等は眠られない程お互に澤山話す事があり餘つてゐた、――それで彼等は過去現在將來の事を語つた、遂にあかつきの白むやうになつた、それから我知らず武士は眼を閉ぢて眠つた。

 

 眼が覺めた時、日光は雨戶のすき間から流れ込んでゐた、非常に驚いた事は、彼は落ちかかつて居る床板の上に敷物もなく寢てゐた事であつた。……彼はただ夢を見たのであらうか。いや、彼女はそこにゐた。彼女は眠つてゐた。……彼は彼女の上に屈んだ、――そして見た、――そして叫んだ、――そのわけは、その眠つて居る人に顏がなかつたからであつた。……彼の前に、經かたびらだけに包まれた女の屍、――骨と長い黑い絡(から)んだ髮の外、殆んど何も殘つてゐない程乾枯(ひから)びた屍が橫になつてゐた。

       *         *

            *

 次第に、――彼があかるいところに、ぞつとして胸が惡くなるやうな氣もちで立つて居るうちに、――氷のやうな恐怖がたへ難き絕望、烈しい苦痛となつたので、彼は自分を嘲弄して居る疑惑の影をつかまうとした。その近所を知らない風を裝うて、彼は妻の住んでゐた家へ行く道を尋ねて見た。

[やぶちゃん注:「氷のやうな恐怖が」は底本では「氷のやう恐怖が」。脱字と断じて特異的に補った。]

 尋ねられた人は云つた、『その家には誰もゐません。何年か前に都を去つた或武士の妻の家でした。その武士が出かける前に、外の女を娶るために、その女を離別しました、女は大層惱んで病氣になりました。女は京都に親戚もなく、世話する人もなかつたやうです、それでその年の秋、――九月の十日に亡くなりました。……』

 

[やぶちゃん注:冒頭注で述べた通りの仕儀で、井沢長秀考訂纂註になる「今昔物語」(東京書肆明治三〇(一八九七)年刊の第二版)の上巻「怪異傳」中の「亡妻靈値舊夫語」(亡妻の靈、舊夫に値(あ)ふ語(こと))を以下に示す。句点のみはママ。踊り字「く」は正字化した。読み易さを、一応、考えて、段落を成形し記号等も附した。読みは総てを附してある。

   *

 今はむかし。京にありける侍(さふらひ)身まづしくて有つくかたもなかりしが。知たる人ある國の守になりてくだるを賴みて。某國にくだらんとしけるが。これまで具(ぐ)したりける妻は若くて。かたち心ばえもらうたかりしかども。まづしさのあまりにかれを去て。たよりある侍のむすめを要(めと)りて。それを相具して國にくだりけり。

 かくて月日たつにしたがひて。京に捨てくだりにしもとの妻が事。わりなく戀しくて。にはかに見まほしくおぼえければ。

『疾(とく)のぼりてかれを見はや。いかにしてかあるらん』

と身をそぐごとくなりしかば。よろづ心すごくて過しける程に。月日も過て任(にん)もおはりぬれば。守の供としてのぼりけり。

 おとこ思ひけるは。

『我よしなくもとの妻を去けり。京にかへりのぼらば。やがて行てすまん』

と思ひて。上(のぼ)るやおそきと。後の妻をは家にやりて。その身は旅裝束(たびしやうぞく)のまゝにて。舊妻がもとに行ぬ。

 家の門は閉(とぢ)たれば這(はい)入て見るに。ありしにかはりて家もあやしくあれて。人住たる氣色もなし。是を見るにいよいよ物あはれに。心ぼそき事かきりなし。

 頃は九月中の十日の事なれば。月もあかく夜ひやゝかに心ぐるしき程なり。

 家の內に入て見れば。常に居たりし所に妻ひとり居て又人なし。

 妻男を見て。うらみたる氣色もなく。うれしげにて。

「こは何とておはしつるぞ。いつ上り給ひたるぞ」

といへば。男國にて年比思ひつる事どもをいひて。

「今はかくてすむべし。固より持のぼりたる物は明日とりよせん。從者などをもよぶべし。今夜まづ此由申さんとて參りつるなり」

といへば。妻よろこびて。年比の物語どもして。夜も更(ふけ)ぬれば南面の方に行てともにふしたり。

 男

「爰には人はなきか」

と問ば。女

「わりなき有樣にて過しつれば。さかはるゝ[やぶちゃん注:底本にママ注記あり。「つかはるゝ」の誤植であろう。]者もなし」

と答(こたへ)つゝ。

 こしかた行末のことを終夜(よもすがら)かたる程に。曉(あかつき)になりて。ともに寢(ね)入ぬ。

 間もなく夜明て。日のさし入たるに男おどろきて。妻を見るに。

 枯々(かれがれ)としたる死人なり。

「こはいかに」

とおそろしければ。起走つて躍り下(をり)て。

「僻目(ひがめ)か」

と見れ共うたがひなき死人なり。

 其時に水干袴(すいかんばかま)を着て。隣(となり)の小家に行て。今はじめて尋るやうにて。

「此隣の人はいかゞ成しぞ。家に人はなきや」

と問ければ。

「其人は年比の男の去て。遠國にくたりしを思ひ入てなげきし程に。病つきてありけれども。いらふ人もなくて。此夏うせ侍りぬ。死骸(しがい)をを[やぶちゃん注:ママ。衍字。]取て捨るものもなければ。いまだ有なり」

といひしかば。男いよいよおそれてにげ歸けり。

 實になにおそろしかりなん。年比の思ひにたゝずして。魂(たましひ)のとゞまりて逢(あい[やぶちゃん注:ママ。])たりけむ。あはれなる事なりとかたり傳へたると也。

   *]

「今昔物語集」卷第二十七 人妻死後會舊夫語第二十四

 

[やぶちゃん注:底本は歴史的仮名遣の読みの確認の便から、「日本古典文学全集」第二十四巻「今昔物語集 四」第四版昭和五四(一九七九)年(初版は昭和五一(一九七六)年)刊。校注・訳/馬淵和夫・国東文麿・今野達)を参考に切り替える。但し、恣意的に漢字を概ね正字化し、漢文脈は訓読し、読み易く、読みの一部を送り仮名で出し、読みは甚だ読みが振れるか、或いは判読の困難なものにのみとした。参考底本の一部の記号については、追加・変更も行い、改行も増やした。□は原本の意識的欠字。]

 

「今昔物語集」卷第二十七 人の妻(め)死にて後(のち)、舊(もと)の夫(をうと)に會ふ語(こと)第二十四

 

 今は昔、京に有りける生侍(なまさぶらひ)、年來(としごろ)、身、貧しくして、世に有り付く方も無かりける程に、思ひ懸(か)けず、□の□と云ひける人、□の國の守(かみ)に成りにけり。

 彼の侍、年來、此の守を相ひ知りたりければ、守の許(もと)に行きたりければ、守の云はく、

「此くて京に有り付く方も無くて有るよりは、我が任國(にむごく)に將(ゐ)て行きて、聊かの事をも顧みむ。年來も、糸惜(いとほ)しと思ひつれども、我れも叶はぬ身にて過ぐしつるに、此くて任國に下れば、具せむと思ふは、何(いか)に。」

と。侍、

「糸(いと)喜(うれ)しき事に候ふ也。」

と云ひて、既に下らむと爲る程に、侍、年來、棲みける妻(め)の有りけるが、不合(ふがふ)は堪へ難かりけれども、年も若く、形(かた)ち・有樣も宜しく、心樣(こころざま)なども勞(らう)たかりければ、身の貧しさをも顧みずして、互ひに去り難く思ひ渡りけるに、男、遠き國へ下りなむと爲るに、此の妻を去りて、忽ちに、便り有る他(ほか)の妻を儲(まう)けてけり。

 其の妻、萬(よろづ)の事を繚(あつか)ひて出だし立てければ、其の妻を具して國に下りにけり。國に有りける間、事に觸れて便り付けにけり。

 此くて思ふ樣にて過ぐしける程に、此の京に棄て下りにし本(もと)の妻の、破無(わりな)く戀しく成りて、俄かに見ま欲(ほし)く思(おぼ)えければ、

「疾(と)く上りて彼れを見ばや。何にしてか有らむ。」

と、肝身(きもみ)を剝(そ)ぐ如く也ければ、萬(よろ)づ、心すごくて過ぐしける程に、墓無(はかな)く月日も過ぎて、任(にむ)も畢(は)てぬれば、守の上りける共(とも)に、侍も上りぬ。

『我れ、由無く本の妻を去りけり。京に返り上らむまゝに、やがて行きて棲まむ。』

と思ひ取りてければ、上るや遲きと、妻をば家に遣りて、男は旅の裝束(しやうぞく)乍ら、彼(か)の本の妻(め)の許に行きぬ。

 家の門(かど)は開きたれば、這ひ入りて見れば、有りし樣(やう)にも無く、家も奇異(あさまし)く荒れて、人、住みたる氣色も、無し。

 此れを見るに、彌(いよい)よ、哀れにて、心細き事、限り無し。九月(ながつき)の中(なか)の十日許りの事なれば、月も極(いみ)じく明(あか)し。夜冷(よさむ)にて、哀れに心苦しき程也。

 家の內に入りて見れば、居たりし所に、妻(め)、獨り、居たり。

 亦、人、無し。

 妻、男を見て、恨みたる氣色も無く、喜氣(うれしげ)に思へる樣(やう)にて、

「此れは。何(い)かで御(おは)しつるぞ。何(い)つ上り給ひたるぞ。」

と云へば、男、國にて、年來、思ひつる事共を云ひて、

「今は此くて棲まむ。國より持て上ぼりたる物共も、今日・明日、取り寄せむ。從者(じうしや)などをも呼ばむ。今夜(こよひ)は只(ただ)此の由許(よしばか)りを申さむとて、來つる也。」

と云へば、妻(め)、喜(うれ)しと思ひたる氣色にて、年來の物語などして、夜(よ)も深更(ふけ)ぬれば、

「今は、去來(いざ)、寢(ね)なむ。」

とて、南面(みなみおもて)の方に行きて、二人、搔き抱(いだ)きて臥しぬ。

 男、

「此(ここ)には、人は、無きか。」

と問へば、女、

「破無(わりな)き有樣にて過ぐしつれば、仕(つか)はるる者も、無し。」

と云ひて、長き夜に、終夜(よもすがら)語らふ程に、例よりは身に染(そ)む樣(やう)に哀れに思ゆ。

 此(かか)る程に、曉(あかつき)に成りぬれば、共に寢入りぬ。

 夜の明くらむも知らで、寢たる程に、夜も明けて、日も出にけり。

 夜前(やぜん)、人も無かりしかば、蔀(しとみ)の本(もと)をば立て、上をば下(おろ)さざりけるに、日の鑭々(きらきら)と指し入りたるに、男、打ち驚きて見れば、搔き抱きて寢たる人は、枯々(かれがれ)として、骨と皮と許りなる死人也けり。

「此(こ)は何(いか)に。」

と思ひて、奇異(あさま)く怖しき事、云はむ方無ければ、衣(ころも)を搔き抱きて、起き走りて、下に踊り下りて、

「若し、僻目(ひがめ)か。」

と、見れども、實(まこと)に死人(しにん)也。

 其の時に、忩(いそ)ぎて、水干袴(すいかんはかま)を着て、走り出でて、隣りなる小家(こいへ)に立ち入りて、今、始めて、尋ぬる樣(やう)にて、

「『此の隣りなりし人は、何(いづ)こに侍るか』と聞き給ふ。其の家には人も無きか。」

と問ひければ、其の家の人の云はく、

「其の人は、年來の男の去りて、遠き國に下りにしかば、其れを思ひ入りて歎きし程に、病み付きて有りしを、繚(あつか)ふ人も無くて、此の夏、失せにしを、取りて棄つる人も無ければ、未だ然(さ)て有るを、恐れて、寄る人も無くて、家は徒(いたづら)にて侍る也。」

と云ふを聞くに、彌(いよい)よ怖しき事、限り無し。然(さ)て、云ふ甲斐無くて、返りにけり。

 實(まこと)に、何に怖ろしかりけむ。

 魂(たましひ)の留(とど)まりて、會ひたりけるにこそは。

 思ふに、年來の思ひに堪へずして、必ず、嫁(とつ)ぎてむかし。

 此(かか)る希有(けう)の事なむ、有りける。

 然(しか)れば、然樣(さやう)なる事の有らむをば、尙ほ、尋ねて行くべき也、となむ語り傳へたるとや。

 

□やぶちゃん注(注には底本の他に池上洵一編「今昔物語集」(岩波文庫二〇〇一年刊)の「本朝部 下」も一部参考にした)

〇本篇はその前半部は遠く「伊勢物語」の第二十四段の所謂、「梓弓」の話や、その前の第二十三段の知られた「筒井筒」の流れを汲みつつ、後半、死者との肉の交わりを持つという「今昔物語集」でも、かなり正統派の怪奇談に仕上がっている。言わずもがな、これは後代の上田秋成の「雨月物語」の「浅茅が宿」に於いて美事に蘇生している(私は原拠と言ってよいと考えている)。なお、小泉八雲は、この話の杜撰な後代の再話本をもとに、「和解」(原題“ The Reconciliation ”)という小説を書いている。それは、この直後に、小泉八雲作品集「影」 始動 / 献辞及び「珍しい書物からの話」の「和解」 附・原拠』として電子化注したので見られたい。

・「生侍(なまさぶらひ)」若くて身分の低い侍。

・「世に有り付く方」生計を立てるべく身を寄せる職。

・「國の守(かみ)」以下、見る通り、京にあって肩書きの遙任国守ではなく、現地に実際に赴いた受領(ずりょう)階級の実務国守。

に成りにけり。

・「糸惜(いとほ)しと」外見、気の毒なことだと。

・「叶はぬ身にて」経済的に不如意な身で。そなたを雇う余裕はなかったというのである。

・「棲みける妻(め)」妻問い婚で通い結ばれていた妻。

・「不合(ふがふ)」原義から転じて「思うように行かなぬこと・不幸せなこと」から、ここは具体的に「貧しいこと・貧乏」の意。

・「勞(らう)たかりければ」漢字なら「﨟たし」がいい。「愛らしく可愛いかったので」。

・「忽ちに、便り有る他(ほか)の妻を儲(まう)けてけり」掌を返すように、「便り」=家政能力や経済上のゆとりを持っていた別な家の女を、急遽、妻としたことを指す。

・「其の妻」以下で「萬(よろづ)の事を繚(あつか)ひて」(旅立ちに際しての諸費用を出してまめに世話して面倒を見)「出だし立てければ」(出発の物的な準備を万端整えて呉れたので)「其の妻を具して國に下りにけり」と続くので、元の妻ではなく、俄か妻の法を指す。

・「事に觸れて」何かにつけて。次の語句から「経済的な場面・状況にあっては」の条件を指す。

・「便り付けにけり」経済的に豊かになった。

・「思ふ樣にて」物質的には満足して。

・「破無(わりな)く」「破」は借字で「理(ことわり)」の「わり」。無茶苦茶に。常軌を逸する如く。

・「肝身(きもみ)を剝(そ)ぐ如く」参考底本注に『悲痛な感情の形容。体内の内臓とを剥ぎ分けるような、という意であろう』とある。

・「心すごくて」如何なる物や対象によっても満たされない、心情の虚ろな感じを示す。

・「やがて」「軈て・頓て」。「そのまま」或いは「直ぐに・直ちに」。私は後者で採る。

・「思ひ取りてければ」予め心に決めていたので。

・「上るや遲きと」『京へ上るのが時間がかかって遅い!』とさえ思うままに。則ち、京へ着くや否や、「直ぐに」の意。

・「妻をば家に遣りて」この妻は二番目(本話で)の妻。逆にまた、掌を返すように彼女を実家へ戻してしまったのである。一貫して男はこの女の良さを口にしていないから、経済力はあったものの、連れ合いとしての魅力には全く欠いていたものらしい。

・「九月(ながつき)の中(なか)の十日」九月二十日。新暦では十月の中下旬に相当する。

・「例よりは身に染む樣(やう)に哀れに思ゆ」嘗つて貧しいながらも、ともに暮らしていた頃の慕わしさに比べると、よほど身に染みごと、哀れを感じた。

・「蔀(しとみ)の本(もと)をば立て。上をば下(おろ)さざりけるに」蔀は上下二枚の雨戸のような大きな板からなる建具。当時は下は日常でも固定しておき、上の部分だけを釣り戸にしてあったものが多い。ここではその上蔀が下げて閉鎖されていなかった、上部が開放されていたことを言う。

・「鑭々(きらきら)と」「鑭」(音「ラン」)は光り耀くさまを指す。

・「打ち驚きて」驚いたのではない。「目を覚まして」の意である。

・「衣(ころも)」男自身の衣服。

・「僻目(ひがめ)か」「見間違いであったか?」。

・「忩(いそ)ぎて」「忩」(音は「ソウ」)は「窓(まど)」・「慌てる」・「纏める」の意。正字は「悤」。

・「水干袴(すいかんはかま)」これで一語と採る。糊を使わずに水張りにして干した絹で作った狩衣(かりぎぬ)の一種で、男子の平服。上衣(水干部)は盤領(まるえり)の懸け合わせを組紐で結び留めるのを特色とし、袖付けなどの縫い合わせ目が綻びぬように組紐で結んで菊綴(きくとじ)とし、裾を袴の内に着込むが、ここはその水干と袴とが一対(セット)になったもの。

・『「『此の隣りなりし人は、何(いづ)こに侍るか』と聞き給ふ。其の家には人も無きか。」』やや衍文が疑われるが、善意に解釈すれば、「さても、ちょっと、『ここのとなりにいた人は、どこにおらるるか』とお聞き申します。そこの家には、誰も、おらぬのか、ね?」でもおかしくはない。何気ない、気にもしていないという風を含んだ迂遠な謂いとして有り得る。

・「繚(あつか)ふ人」ここは日常の世話をする人や看病をする人の意。

・「取りて棄つる」どこぞへ遺体を葬ってやる。

・「未だ然(さ)て有る」遺体を放置したままにしていることを言う。遺体がごろごろ転がっているのは、末法の世とされた平安後期の荒廃した京では、頗る日常的な風景である。

・「家は徒(いたづら)にて侍る」遺体もそのままであれば、死後、誰も住まず(「徒」は無人の謂い)、空き家のままであったことを言う。

・「嫁(とつ)ぎてむかし」枕を交わした(つるんだ)のに違いない。

・「然樣(さやう)なる事の有らむをば、尙ほ、尋て行くべき也、となむ語り傳へたるとや」参考底本注には、『最後緒教訓的語句であるが、「そういう希有のこともあるから、やはり長い間』、『御無沙汰した所で』あっても(或いは、あればこそ)、『尋ねて行くのがよい」ということで、単なる宗教的とか道義的とかいう以上に、猟奇的な精神がのぞいているようである』とある。「猟奇的」という部分は微妙に留保したいが、確かに「今昔物語集」の最終評言としてかなり奇異な部類に属するものであることは疑いない。

 

 

□やぶちゃん現代語訳(参考底本の訳を一部で参考にはしたが、基本、オリジナル訳である。改行をさらに増やしており、記号も多用した)

 

「今昔物語集」巻第二十七 人の妻、死して後(のち)、もとの夫に会う語(こと) 第二十四

 

 今となっては……もう……昔のこととなってしまったが、京におった若き身分の低い侍、長年、貧しくして、世を渡る相応の職にもありつくことが出来ずにおったところが、思ひがけず、何の傍(なにがし)という人が、何とかという国の国守となった。

 かの侍は、ずっと長いこと、この国守となった人物をよく知っていたので、その国守のもとを訪ねたところ、国守の言うことに、

「かくも京にあって、職に就くことも出来ずにおるよりは、我が任国に、ともに従い行きて、僅かばかりの面倒を見てやることも出来ようかと思うのだ。この長年、そちのことを気の毒とは思うておったれど、我れ自身も勝手不如意にて過ごしておったのだが、かく、任国に下ることとなったれば、連れて参ろうと存ずるが、如何に?」

とのこと。されば、侍も、

「それは! まっこと! ありがたいことで御座いまする!」

と肯んじ、いよいよ任国へ向けて下ろうということとなった。

 さてもしかし、この侍には、長年、連れ添うて御座った妻があった。長年月の貧乏暮しは堪えがたいものであったけれども、彼女は年も若く、見目・形もよろしく、心映えも如何にも優美であったによって、互いの身の貧しさをも顧みず、ともに去りがたく思って暮らしてきたのであった。

 が、侍は、このたび、遠国へと下ることとなったところが、あろうことか、この妻を捨て、俄かに、裕福なる他(ほか)の女を妻としてしまった。

 その新しい妻が、何くれとなく下向の用意を、これ、万端、調えて送り出そうとしてくれたことから、侍は、その妻を連れて、かの国へと下ったのであった。

 国にあった間は、何かにつけ、暮らしは豊かにはなって行った。

 

 かくも思い通りに満足のゆく暮らしを送ってはいたが、侍は、どこかで、心に虚ろな感じがしていた。

 その理由(わけ)は、かくも京で捨てて下向したもとの妻のことが、何故か、無性に恋しくなったからであった。

 さすれば、俄かに、かのもとの妻に見たい、逢いたいという思いが募ったによって、

「早く京に上って、かの女に逢いたい! 今頃、一体、どうしておるであろう?!」

と、骨身を削るような掛恋(けんれん)の情に襲われ、何につけても、心の鬱々として過ぎるうちに、何時しか、月日も過ぎて、かの某(なにがし)の国守の任も終わったので、国守が京に上るのに従い、ともに侍も京へ帰った。

『我れは、理に適った理由もなしに、もとの妻を捨ててしまったのだった! 京に帰り着いたら、そのまま直ちに、かの女のもとへ行き、ともに暮らそうぞ!』

と、決心していたによって、京に到着するや否や、今まで一緒にいた妻をば、実家へと追い帰し、男は、旅の装束のまま、かのもとの妻のもとに訪ねて行ったのであった。

 家の門(もん)は開いていたので、中に入って見ると、在りし日とはさま変わりて、家も呆れんばかりに荒れ果てて、およそ、人の住んでいるような気配さえもないのであった。

 この荒廃した様子を見るに、いよいよ、ものの哀れを覚え、言いようもないほどに心細くなったのであった。

 九月(ながつき)の二十日ばかりのことであったから、月もたいそう明るい。夜の気配は冷え冷えとし、激しい哀れさが胸を打つほどであった。

 ところが!――

 家の内に入って見ると、彼女が嘗つて座っていたところに、妻は、ただ独り、同じように座っていた!――

 他に、人影は、ない。――

 妻は、男を見て、恨んでいる気色(けしき)も見せず、嬉しそうに思っている様子で、

「これは! また、どうしてここにお出でになられましたか?! 何時(いつ)、京へお上りなさいました?!」

と言うので、男は、かの任国に於いて、ずっと思い続けてきたことどもを語り、

「これからは、一緒に住もうな。任国から持って参った物どもなども、今日・明日中にはとり寄せる! 従者などをも呼ぼうぞ! 今夜(こよい)は、ただ、このことばかりを申そうとて、来たのだよ!」

と言うと、妻は、さも、嬉しいと思っている様子で、互いに、別れる前の思い出や別れてからの侘しさなんどを物語りなどして、夜(よ)も更けたので、

「さあ、さ! 伴寝しよう!」

と、家の南面(みなみおもて)の方に行き、二人、抱(だ)き合って横になった。

 男は、

「……ここには……人は……おらんのか?」

と問うと、女は、

「このように貧しい有様のままに暮らして御座いましたれば、召し使わるる者なども、おりません。」

と言った。

 秋の夜の長きに、終夜(よもすがら)、語り合ううち、男は、嘗つて、一緒に暮らした貧しかった頃よりも、ずっと身に染みて哀れに感ずるのであった。

 かくするうち、暁(あかつき)方になったので、ともに寝入った。

 

 夜が明くるのも知らずに寝ていたか、夜もすっかり明けて、日も、出ていた。

 昨夜は、召し使いもおらずなれば、蔀(しとみ)の下戸(しもと)ばかり立てて、上戸(うへど)は下(おろ)していなかったのであるが、そこから、日の光りがきらきらと指し入ってきたので、男は――ふっと――眼を覚ました。……

――かき抱いて寝たはずの妻は……

――すっかり枯々(かれがれ)に干乾びた……

――骨と皮ばかりの……

――死人――なのであった。……

「……こ、これは!……な、なんということだッツ!!……」

と、驚くと同時に、あまりの怖しさに、言いようもなければ、脱いだ自分の衣服を慌ててかき抱いて、起き、走って、縁から庭に踊り下って、

「……も、もしや……見間違えたか?」

と、振り返って見たけれども、……

――真(まこと)に死人(しにん)なのであった。

 そこで、急ぎ、水干袴(すいかんばかま)を着、走り出で、隣りの小家(こいえ)に立ち寄って、あたかも今、始めてここに尋ねて来たようにして、

「一つ、お聞き致します……この隣りにおられた人は、何処(いづこ)におられますか?……あそこの家には、誰も住んではおりませんか?……」

と訊ねた。

 すると、その家の人が言うことには、

「そこな人は、長年連れ添うておった男が、そこな人を捨てて、遠き国に下ったによって、その悲しみがため、深く思い込み、歎くうち、病みついておったを、世話する人ものぅしての、……そうさ、この夏、亡くなってしもうたじゃ。……じゃが、その骸(むくろ)をとって葬る人もなければの、未だ、そも、そのまんま、あるじゃて。……じゃが、皆、怖がっての。寄る人もなく、家は、まだ、空き家のまんまで御座いますじゃ。……」

と、答えた。

 その謂いを聴くだに、男は、いよいよ、言いようもなく怖ろしくなった。さればこそ、何のしようもなくて、男は帰ったのであった。

 本当に、如何ばかりか、怖ろしかったことであろうぞ。

 これは、まさしく、魂(たましい)が、この世に留(とど)まり続け、男に会ったに、これ、相違ない!

 思うに、長き年月、妻の霊魂は、男への思いに堪えかねて、必ずや、この夫と、枕を交わしたのでもあったろう。

 かくも希有(けう)の不思議が、これ、あるものなのである!

 さればこそ、さようなこともあるのであるからして、まず、長い年月、無沙汰致いておっても、その人を訪ねに行くのは、当然のことなのだ、と、かく語り伝えているということである。

 

2019/10/23

小泉八雲 日本の病院に於て  (田部隆次譯) / 作品集「日本雜記」全電子化注~了

[やぶちゃん注:本篇(原題“ In a Japanese Hospital ”(「日本の病院にて」))は一九〇一(明治三四)年十月にボストンの「リトル・ブラウン社」(LITTLE,BROWN AND COMPANY)から出版された作品集“A JAPANESE MISCELLANY”(「日本雑記」。来日後の第八作品集)の第一パート“ Strange Stories ”(「奇談」・全六話)・第二パート“ Folklore Gleanings ”(「民俗伝承拾遺集」・全三篇)に次ぎ、最後の三番目に配された“Studies Here and There”(「ここかしこに関わる研究」。底本では「隨筆ここかしこ」)の最終話第六話である(本篇を以って本作品集の本文は終わっている)。本作品集は“Internet Archive”のこちら(出版社及びクレジットの入ったページを示した)で全篇視認できる(本篇はここから)。活字化されたものは、整序されたものは見当たらない(同前の“Internet Archive”には本作品集のフル・テクスト・ヴァージョンはあるにはあるのであるが、OCRによる読み込みで、誤まり多く、美しくなく、読み難く、また、味気ない)。

 底本は英文サイト“Internet Archive”のこちらにある、第一書房が昭和一一(一九三六)年十一月に刊行した「家庭版小泉八雲全集」(全十二巻)の第七巻の画像データをPDFで落として視認した【2025年4月11日:底本変更・正字化不全・ミスタイプ・オリジナル注全補正】時間を経て、国立国会図書館デジタルコレクションに本登録し、現行では、以上の第一書房版昭和一一(一九三六)年十一月に刊行した「家庭版小泉八雲全集」(全十二巻)の第七巻が、国立国会図書館デジタルコレクションで公開されてある。(リンクは扉だが、「家庭版」の文字はない。しかし、奥附を見て貰うと『家庭版』とあり、『昭和十一年十一月二十七日 發 行』とあることが確認出来る)、これが、前掲の底本と同じものであるが、やはり、外国のサイトのそれを底本とするのは、日本人小泉八雲に失礼であると考えた。されば、こちらで、再度、以下の「骨董」の作品群を改めて校正することとする。これが――私の小泉八雲への「義」――である。なお、これよりも前の元版の全集等が先行しているものの、私がそれらと比べた結果、実は先行する同社の「小泉八雲全集」のそれらは、訳が一部で異なっており、訳者等によって、かなりの補正・追加がされていることが、今回の正字補正作業の中で、はっきりと判って来た。いや、同じ「家庭版」と名打ったネット上の画像データでも、驚いたことに、有意に異なっていたのである。そうした意味でも――完全な仕切り直しの総点検――が必要であると決したものである。従って、旧前振りの括弧・鍵括弧の問題も、拡大とガンマ補正で確認し、正確を期する。本作はここから。

 田部隆次(たなべりゅうじ 明治八(一八七五)年~昭和三二(一九五七)年)氏については先に電子化した「人形の墓」の私の冒頭注を参照されたい。

 傍点「﹅」は太字に代えた。

 なお、底本の田部隆次氏の「あとがき」に、本篇は『二男の巖君が書生につれられて散步中、過つて怪我をしたので、ヘルンがつれて番町の木澤病院に赴いた時の話である。この時から木澤院長を信じて、子供の病氣でも、女中の病氣でも、自分の齒痛でも外科專門の木澤院長にかかるやうになつた。最後に心臟病で亡くなつた時も木澤』敏『院長にかかつたのであつた。『この人にかかつてなら死んでも遺憾ない』と云つてゐた』とある。また、瞥見した銭本健二氏が担当された小泉八雲の年譜(一九八八年恒文社刊「ラフカディオ・ハーン著作集 第十五巻」所収)によれば、この事故は明治三二(一八九九)年十二月四日のことで、富久町内の崖から落ちて腕を挫いたとも、乳母車から転落して肩甲骨脱臼したともされるとある。]

 

 

   日本の病院に於て

 

 

       

 ……その晚の最終の患者が、――未だ四つにはならない男の兒が、――看護婦や外科醫達に微笑とやさしいちやほやで迎へられたのだが、それには彼は少しも應じない。……彼は恐れ、且つ、怒つて居る――殊に怒つて居る――今夜こんな病院に來たので。誰か無分別な人が、芝居に連れて行くのだと云つて聞かせた、――彼は途中、嬉しさの餘り、腕の痛みも忘れて歌を歌つた、――ところでここは芝居ではない。ここには醫者が居る――人に痛い事とする醫者が居る。……彼はびくびくしないで、裸にされて、診察を受けた、しかし電燈の下の、何だか低い臺の上で、橫にならねばならないと云はれ時に、彼は甚だ烈しく『いや――』と叫ぶ。……彼の祖先から遺傳した經驗は、敵らしい者の面前に橫になる事は宜しくない事を彼に敎へて居る、それから同じ遺傳の智慧によつて、その外科醫の微笑は欺く目的である事を判じた。……『この臺の上はようございますよ』――すかすやうに若い看護婦は云ふ、――『綺麗な赤いきれを御覽なさい』『いや――』とこの小さい人はくりかへす――こんな風に美的情操に訴へられたのでただ益〻警戒するやうになつたのである。……そこで彼等は――外科醫が二人、看護婦が二人、――手をかけて、巧みに彼を抱き上げて、――赤いきれのかかつて居る臺のところへもつて行く。そこで彼は彼の小さい戰の叫びをあげる、――彼に戰士の祖先の血が流れて居る、――そして腕に怪我をして居るにも拘らず、最も勇敢に戰つて、一同を驚かせる。しかし、見よ、一枚の白いぬれたきれが、彼の眼と口にかかる、――彼は叫ぶ事ができない、――それから鼻腔のあたりには妙に氣もちのよい香がする、――そして人の聲や電燈の光は遠く、ずつと遠くへ浮んで行つた、――そして彼は沈んで、沈んで、波のやうな暗がりへ沈んで行く。……小さな手足は力がなくなる、――この痲藥の力に反對しようと肺が戰ふために、しばらく胸が速く上る、それから一切の運動が止まる。……そこできれが除かれる、顏は再び現れる――怒りと苦痛はそこから悉く消えて居る。そのやうに、死人の眠りを見守つて居る小さい佛達が微笑して居る。……手早く折れた骨の兩端はことんと合された、――繃帶と脫脂綿とギブス、それから又繃帯は熟練な手によつて速かに施された、――顏や小さい手は海綿で洗はれた。それから未だ知覺のない患者は毛布に包まれて、そこから連れ出された。……入場から退場までの間、十二分半。

 

 始めて見られた物としては一つも平凡な物はない、そしてその出來事の眞に苦痛のない詳細事――その叫びの壓抑、意志の突然の痲痺、それからあとその小さい顏の蒼白なる靜穩――は陰暗な風に想像を動かすやうに、悲劇らしく見えた。……毒刄の一擊は、沈默と微笑の眠りとの全く同じ結果を生じたであらう。過去の救へきれぬ時代に於て、數へきれぬ程度々[やぶちゃん注:「たびたび」。]それと同じ事が行はれたに相違ない、――數へきれぬ程度々、激情に驅られた人が、倒れた人の突然の激情の去つたあとの美を見て、その行爲の永久の結果を認めたに相違ない。……『天の盡(つく)るまで目覺めず睡眠(ねむり)をもさまさざるなり』『天の盡るまで』譯者註――しかしそのあとは。その以後は――或は。しかし決して同一ではない。……

譯者註 約百紀十四章十二節

[やぶちゃん注:『天の盡(つく)るまで目覺めず睡眠(ねむり)をもさまさざるなり』の箇所であるが、ルビを附す関係上、ルビのある部分には、傍点「﹅」は打てないから、事実上は、『天の盡(つく)るまで目覺めず、睡眠(ねむり)をもさまさざるなり』となるのだが、如何にもおかしいので、ここでは、総てを太字とした。

「譯者註」は最後に字下げポイント落ちで附されてあるが、ここへ移動した。「約百紀」(「紀」はママ)は「ヨブき」と読む。私が、唯一、旧約聖書の中で

偏愛するものである。]

 しかし私はその個性、自我の不意の停止によつては感動よりはむしろ驚愕した、――それによつて現れた神祕のためである。一瞬時に、――或藥品の吸入のために、――聲、運動、意志、思想、凡ての快樂苦痛及び記憶が存在しなくなる。蕾のやうな感覺の全生命、――無數の年代からの或は貴い遺傳を有せる小さい頭腦のかよわい機關、――は正しく死に觸れられたやうに、窒息して止まつたのである。そしてそこに殘つた物は、どこ見ても、ただの形、見せかけの物、――偶像のかすかな無意識の微笑をもつた彫塑的肉體の人形である。…

[やぶちゃん注:最後の三点リーダはママ。後にも出るのでママとした。]

 

 路傍、或は墓石の上に夢みる小さい石佛の顏は、日本の子供の柔かな魅力を有して居る。それは眠つた子供の顏に似て居る、――そして讀者は、日本の子供の寢顏を見て、淸澄な容貌の不思議な美、――眼蓋と唇の線の朧ろにやさしいところ、――を理解したに相違ない。佛師の技術に於て、その神々しい平和な容貌は、眠れる子供を美しくして居るその影のやうな微笑から暗示されたのである。

 

 

       

 偶像の記憶は、當然偶像がただ象徵するその力を想ひ出させた、そしてやがて私は、神の眼から見れば、人間の一生の全行路は、私が今目擊した事件と餘程似て居るやうに考へた、――來る、叫ぶ、もがく、それから死の痲藥のために急に人性が消える。(私は宇宙大の神靈について云つて居るのではない、その神靈から見れば、太陽の燃え出して消滅するまでの間は、夜の螢の光ほど程短かく見えるだらう、私はただ擬人の神を意味するのである)――ハーバート・スペンサーに隨へば、小さい蚊の意識は、一秒の一萬分の一から一萬五千分の一までの間の時間を識別する事ができる。蚊と人間の割合程、人間よりも精神的に優れた生類に取つては、一時代もただ一瞬時に見えないだらうか。こんな生類に取つては、人類の存在は、發芽と凋落、――速かにしてたえざる出現と消滅の連續、――冷却して行く行星[やぶちゃん注:「かうせい(こうせい)」。惑星の異称。]の表面に固有なる醱酵の單なる現象、――としての外は、苟くも認められる事があるだらうか。勿論、私供が顯微鏡の下で醱酵を硏究するやうに、この優れた生類が多少その現象を詳細に硏究するとすれば、小兒の笑が直ちに髑髏の笑と變るとは見ないだらう、――しかし、私は想像するに、最初の薔薇色の筋肉の微笑と、最後の骨の不景氣な笑との間に、心理學的にどんな事が起るとしても、それは私共に取つて一秒間に蚊の翼が一萬囘もしくは一萬五千囘振動するのが識別できないと同じやうに、その優れた生類に取つて識別できないだらう。宇宙の神、或はただ一つの世界の神、或はただ一つの世界の神でも、私共が小さい一滴の腐敗した水の中に動いて居る生命に同情する以上に、私共の情緖に同情ができるかどうかを私は疑ふ。…

[やぶちゃん注:「薔薇色」は底本では「薇薔色」である。一般的な語順に特異的に代えた。

「ハーバート・スペンサー」小泉八雲が心酔するイギリスの哲学者で社会学の創始者の一人としても知られるハーバート・スペンサー(Herbert Spencer 一八二〇年~一九〇三年)。私の『小泉八雲 落合貞三郎訳 「知られぬ日本の面影」 第十五章 狐 (一五)』の私の注を参照されたい。私がこのブログ・カテゴリ「小泉八雲」で完遂した「神國日本」(戸川明三訳。原題は“ Japan: An Attempt at Interpretation ”(「日本――一つの試論」)。英文原本は小泉八雲の没した明治三七(一九〇四)年九月二十六日(満五十四歳)の同九月にニュー・ヨークのマクミラン社(THE MACMILLAN COMPANY)から刊行された)もスペンサーの思想哲学の強い影響を受けたものである。]

 

 しかし、再び土に朽ちて歸る前に、ただ一瞬時明るいところで泣いて笑ふために、土から出て來るやうに思はれるこの人間は、神の眼から見て何であらう。一億年の間に、何か形のない一點の原始的粘泥[やぶちゃん注:「えんでい」。粘り気の強い泥(どろ)。]から進化して來た形である。しかし、こんな風に進化して來た事を知つてゐても、少しも人生の祕密その物、――その數百萬世紀の間、破壞に反抗して戰つた意識の祕密、――死滅に抵抗しようとして、愈々益〻驚くべき複雜なる本質、愈々益〻さらに驚くべき複雜なる心意を工夫して造り上げ、――そしてたうとう、最初の一瞬時の期限から、百年の人間の生命が可能になるまで、その生命の期間を延ばす事ができた――その祕密を說明してゐない。意識は謎のうちの謎である。思想は感覺の複合であると說明されて居る。しかし知覺し得べき最も簡單なる感覺も、それ自身複合の複合或は結果である、――或る融合のおどろき、――混淆のひらめきである、――そして生命の神祕は依然として謎のうちの最も不可解な、最も恐ろしい、最も凄まじい物である。

 

 その神祕の恐怖から、私共の祖先はつぎのやうな恐ろしい命令を發して、彼等の世界を救はうとした、――『劒と火の苦痛を受けぬやう、――永久の死の危險を冒かさぬやう、――汝は考ふる事勿れ

 しかし東洋のもつと古い智慧は宣言した、

 『下界の子よ汝に生を與へし海について考ふる事を恐るる事勿れ汝が生れ出でて汝が再び融けて歸るべき混沌を見て汝は汝の實在は無窮にして又永久に一なる事を知れ。……』

 

[やぶちゃん注:最後の二つの引用元は私は不詳。識者の御教授を乞うものである。]

小泉八雲 乙吉の達磨  (田部隆次譯)

 

[やぶちゃん注:本篇(原題“ Otokichi'S Daruma ”(「橋の上にて」))は一九〇一(明治三四)年十月にボストンの「リトル・ブラウン社」(LITTLE,BROWN AND COMPANY)から出版された作品集“ A JAPANESE MISCELLANY ”(「日本雑記」。来日後の第八作品集)の第一パート“ Strange Stories ”(「奇談」・全六話)・第二パート“ Folklore Gleanings ”(「民俗伝承拾遺集」・全三篇)に次ぎ、最後の三番目に配された“ Studies Here and There ”(「ここかしこに関わる研究」。底本では「隨筆ここかしこ」)の第五話である。本作品集は“Internet Archive”のこちら(出版社及びクレジットの入ったページを示した)で全篇視認できる(本篇はここから)。活字化されたものは、整序されたものは見当たらない(同前の“Internet Archive”には本作品集のフル・テクスト・ヴァージョンはあるにはあるのであるが、OCRによる読み込みで、誤まり多く、美しくなく、読み難く、また、味気ない)。

 底本は英文サイト“Internet Archive”のこちらにある、第一書房が昭和一一(一九三六)年十一月に刊行した「家庭版小泉八雲全集」(全十二巻)の第七巻の画像データをPDFで落として視認した【2025年4月11日:底本変更・正字化不全・ミスタイプ・オリジナル注全補正】時間を経て、国立国会図書館デジタルコレクションに本登録し、現行では、以上の第一書房版昭和一一(一九三六)年十一月に刊行した「家庭版小泉八雲全集」(全十二巻)の第七巻が、国立国会図書館デジタルコレクションで公開されてある。(リンクは扉だが、「家庭版」の文字はない。しかし、奥附を見て貰うと『家庭版』とあり、『昭和十一年十一月二十七日 發 行』とあることが確認出来る)、これが、前掲の底本と同じものであるが、やはり、外国のサイトのそれを底本とするのは、日本人小泉八雲に失礼であると考えた。されば、こちらで、再度、以下の「骨董」の作品群を改めて校正することとする。これが――私の小泉八雲への「義」――である。なお、これよりも前の元版の全集等が先行しているものの、私がそれらと比べた結果、実は先行する同社の「小泉八雲全集」のそれらは、訳が一部で異なっており、訳者等によって、かなりの補正・追加がされていることが、今回の正字補正作業の中で、はっきりと判って来た。いや、同じ「家庭版」と名打ったネット上の画像データでも、驚いたことに、有意に異なっていたのである。そうした意味でも――完全な仕切り直しの総点検――が必要であると決したものである。従って、旧前振りの括弧・鍵括弧の問題も、拡大とガンマ補正で確認し、正確を期する。本作はここから。

 田部隆次(たなべりゅうじ 明治八(一八七五)年~昭和三二(一九五七)年)氏については先に電子化した「人形の墓」の私の冒頭注を参照されたい。

 最後に傍点「◦」の部分があるが、ここはそれしかないが、敢えて太字下線とした。その意味はお判り戴けるであろう。

 なお、本篇には原本で全部で五葉の挿絵が入っている。底本でも珍しくその内の四葉(雪達磨は一葉に二図)を採録している。ここでは原本のPDF画像からトリミングした五葉総てを適切と判断した箇所に挿入した(原本の配置位置や順序を、その叙述と展開に合わせて私の独断で変更してある。この配置が原本よりも正しく効果があると私は勝手に考えている)。なお、底本が採用していないのは“TOY-DARUMA”(『玩具の「だるま」』)とキャプションする小さな一枚である。因みに、他はトリミングのみであるが、この“TOY-DARUMA”の一枚はやや焼けた感じの原文ページにあるため、補正を加えて下地を白くし、ラインも濃く補正して、見易くしてある。キャプションは一目瞭然なので特に訳していない。★【2025年4月18日追記】以上の本文新底本の同巻は、著作権存続である『送信サービスで閲覧可能』『国立国会図書館内/図書館・個人送信限定』であるため(思うに、この国立国会図書館デジタルコレクション(旧「国立国会図書館近代デジタルライブラリー」)に最初に公開された際には、どこかの記載者・訳者の著作権が存続していたため――確実と思われる一つは巻末に貼付けられてある『月報』と思われる。冒頭の「邦譯小泉八雲全集に就て」の筆者佐藤春夫は公開当時は著作権継続であったから)、許可を得ないと画像の転載は出来ない。従って、不本意ながら、本篇中の画像を(三箇所ある。ここと、ここと、ここである)転写することは出来ない。しかし、モノクロームの“Internet Archive”版の方が、圧倒的に『鮮明』であるから、八雲先生も肯んじて貰えるものと信ずる。

 なお、底本の田部隆次の「あとがき」によれば、『この乙吉は大正十一』(一九二二)『年一月に死去して、今は』『燒津で名高い鰹節問屋となつて居るが、屋號は今も』「山乙」『であると聞いて居る』とし、また、『篇末に出て居る乙吉の娘は、その後長く小泉家に仕へて、今では東京の人に嫁して居る』とあった。]

 

 

   乙吉の達磨


       

 子供等の喜んだのは、昨夜ひどく雪が降つたので、日本の詩人の所謂『銀世界』が私共のためにできたからであつた。――實際これ等の詩人の冬を面白く讃める[やぶちゃん注:「ほめる」。]ところに誇張はない。卽ち日本では冬は美しい、――空想的に美しいからである。冬は『自然の死』について陰氣な想像を起す事はない、――自然は大寒[やぶちゃん注:「だいかん」。原文“the Period of Greatest Cold”であるから、二十四節気のそれを指している。旧暦の概ね十二月後半で太陽暦で一月二十日か二十一日に当たる。]の一時にも、最も明らかに生きて居るからである。今は『骸骨の森』[やぶちゃん注:原文“skeleton-woods,” 。]の光景と呈して、審美の眼を惱ます事はない、――卽ち森は多く常磐木[やぶちゃん注:「ときはぎ」。]であるからである。それから雪は、――松の葉に柔かに積つたり、或は竹に暫らくその重さのためにしなやかに撓んだ[やぶちゃん注:「たわんだ」。]姿を表はさせたりして、――決して極東の詩人に、屍衣の物凄い想像を暗示する事はない。全く日本の冬の特別の魅力は、――森と庭園の變らない綠色の上に、想像のできない奇怪な形に積る、――この雪でできる。

 今朝私の二人の書生、光(あき)と新美(にひみ)はなぐさみに雪達磨を造つて子供等を喜ばせてゐた、私もそれを見て面白かつた。雪達磨を造る規則は古い簡單な物である。先づ大きな雪の球、――なるべくは、直徑三尺から四尺の、――を造る、――それが達磨の坐つた體になる。それから、直徑二尺ばかりの少し小さい雪球を造る、それが頭になる、そこでこの小さい方を今一つの上にのせる、――兩方とも落着くやうに、下の方の𢌞りヘ一面に雪をつめ込む。二つのたどんが達磨の眼になる、それから同じ材料のいくつかの不規則な破片で鼻や口を造るに充分である。最後に、その大きな腹に穴をあけて、臍を表はす、そしてその中に蠟燭をともして入れて置く。蠟燭の熱が次第にこの穴を大きくする。……

[やぶちゃん注:「書生、光(あき)と新美(にひみ)」前者は、「小泉八雲 草雲雀 大谷正信譯 附・やぶちゃん注」に名が登場する書生で、後者は「冊子『無限大』 アーカイブ[ラフカディオ・ハーン(小泉八雲)特集(88号:1991年発行)]の小泉時氏(小泉八雲の孫)の「写真で見る/ハーンの生涯」の二十八~二十九ページ相当箇所(後者に写真)にセツ夫人の横に立つ学生服姿を見ることが出来る。底本の訳者田部氏の「あとがき」に、『光(あき)は玉木光榮(あきひで)の事』で、彼は『親戚に當るので、光ちやんと呼ばれてゐた。當時早稻田の學生、今は大阪の會社員』とあり、『新美の方は、新美資良(すけよし)と云ふ一高の學生であつたが、後』、『病死した』とあった。]

 しかし私は雪達磨と云ふ言葉を說明する事を忘れてゐた。『達磨』は――梵語の『ボドヒドハルマ』の日本譯――菩提達磨の略語である。

[やぶちゃん注:菩提達磨の注は、以下の小泉八雲の解説の後に回す。

 

Yukidaruma

 

 達磨は大迦葉から續いた佛敎の第二十八代の祖師であつた。梁の朝の第一年〔西暦五二〇年[やぶちゃん注:小泉八雲の誤りか誤植。梁建国の初年は五〇二年。後注参照。]〕佛敎の宣敎師として支那へ行つた、それから支那であの禪の宗門を開いた、――この宗門の敎は『以心傳心』の敎と云はれて居る、卽ち書いたり、話したりする言葉によらないで傳へられるのである。南條文雄[やぶちゃん注:原文“Bunyiu Nanjio”。歴史的仮名遣なら「なんぜうぶんゆう」。]博士は、その『佛敎の十二宗の歷史』に云つて居る、――『大乘佛敎の凡ての敎の外に、如何な言語にもよらないで續いて來た一條の明らかな祕密の敎がある。この敎によれば、人は自分の心によつて直ちに佛心、或は佛性に達する所謂鍵を見なければならない』禪の敎の傳說は不思議である。佛が靈鷲山[やぶちゃん注:「りやうじゆせん」。]で說敎をして居る頃、その前に突然大梵天王が現れて佛に黃金色の花を捧げて、同時に法を說く事を願つた。佛はその聖い[やぶちゃん注:「きよい」。]花を受けて、それを手にしたが、一言も語らなかつた。そこで大衆は佛の沈默を不思議に思つた。獨り尊い迦葉のみ破顏微笑した。そこで佛は尊い迦葉に云つた、――『吾に正法眼藏涅槃妙心[やぶちゃん注:「しやうばふげんざうねはんみやうしん」。]あり、今汝に附屬す』……そこでただ心だけで、その敎は迦葉に傳はつた、それから心だけで迦葉は阿難陀に傳へた、それからあと、心だけで祖師から祖師へと傳はつて達磨に及んだ、達磨はその相續者である第二の支那のその宗門の祖師に傳へた。達磨は日本にも來たと云ふ人がある、しかしこれは殆んど根據がないやうである。とにかく禪宗は第八世紀前には、日本に來なかつた。

 達磨に關する多くの俗說のうちで、最も名高いのは、九年間引續き默想してゐたので、足が脫落したと云ふ話である。そのために達磨の形は足のないやうに造られる。

[やぶちゃん注:「ボドヒドハルマ」(原本表記“Boddhidharma”)「菩提達磨」(生没年不詳)は中国の禅宗の開祖とされる、インドから中国へ来たインド人僧。名のカタカナ音写は現行「ボーディダルマ」(サンスクリット語ラテン文字転写:Boddhi-dharma)。「達摩」とも書く。小学館「日本大百科全書」より引く。『六世紀の初め、西域』『より華北に渡来し、洛陽』『を中心に活動した。唐代中期、円覚大師と諡(おくりな)される。従来』十一『世紀にまとめられる伝承説話以外に、伝記も思想も不明であったが』、二十『世紀に入って』、『敦煌』『で発見された語録によって、壁観(へきかん)とよばれる独自の禅法と、弟子たちとの問答が確認され、その実像が明らかとなる。同時代の仏教が煩瑣』『な哲学体系に傾くなかで、壁が何ものも寄せ付けぬように、本来清浄な自性に目覚め、ずばり成仏せよと説く、平易な口語の宗教運動家であった。あたかも』八『世紀より』九『世紀にかけて、急激な社会変革の時代に、人々は新仏教の理想を達磨に求め、不立文字(ふりゅうもんじ)、教外別伝(きょうげべつでん)』、『直指人心(じきしにんしん』:心の奥底にある本心や仏心を直ちに正しく指し示すこと『)、見性成仏(けんしょうじょうぶつ』:『ずばりと、自己の心をつかむことによって、自己が本来は仏であると気づくこと)の四句に、その教義と歴史をまとめる。達磨は仏陀』『より』二十八『代の祖師で、正法』(しょうぼう)『を伝えるために中国に渡来する。南海を経て南朝の梁』(五〇二年~五五七年:江南にあった王朝)『に至り、仏教学の最高峰武帝(蕭衍(しょうえん))と問答するが、正法を伝えるに足らずとし、ひそかに北魏』『の嵩山(すうざん)の少林寺で、のちに第二祖となる慧可(えか)に会ったともいう。慧可が達磨に入門を求めて顧みられず、一臂(いっぴ)を断って誠を示した説話や、「私は心が落ち着きません、どうか私の心を落ち着かせてください。君の落ち着かぬ心を、ひとつ俺』『にみせてくれ、そうすれば落ち着かせてやる。それはどこを探しても、みつけることができません。俺はいま、君の心を落ち着かせ終わった」という、慧可との安心問答は有名である。達磨の禅の特色は、そうした対話の語気にあり、やがて人々は、祖師西来意(達磨は中国に何をもたらしたか)を問うようになる。この問いに答えることが禅宗のすべてである』。『達磨はさらに日本にきて、聖徳太子と問答したとされ、平安末期に達磨宗がおこって、鎌倉新仏教の先駆けとなる。禅宗史の発展が達磨の人と思想を理想化し、新しい祖師像を生むのである。近世日本で、頭から全身に紅衣をかぶり』、『坐禅』『する起きあがり小法師(こぼし)の人形で知られる福(ふく)達磨の民俗信仰がおこり、宗派を超えて広く日常化』した。『祖師達磨の新しい理想化の一つである』とある。

「大迦葉」原文“Kâsyapa”。「迦葉」に同じ。摩訶迦葉。サンスクリット語ラテン文字転写で Mahākāśyapa(マハーカーシャパ)。釈迦の十大弟子の一人。仏教教団に於ける釈迦の後継(仏教第二祖)とされ、釈迦の死後、初めての結集(第一結集。経典の編纂事業を行った)の座長を務めた。「頭陀第一」と称され、衣食住にとらわれず、清貧の修行を行ったとされる。

「南條文雄」(なんじょう ぶんゆう 嘉永二(一八四九)年~昭和似(一九二七)年)は仏教学者・宗教家。ウィキの「南条文雄」によれば、『近代以前からの伝統的な仏教研究の上に、西洋近代の実証的・客観的な学問体系と方法論を初めて導入した。早い時期から仏典の原典であるサンスクリット(梵語)テキストの存在に注目。主要な漢訳経典との対校を行なうとともに、それらの成果をヨーロッパの学界に広く紹介するなど、近代的な仏教研究の基礎形成に大きな役割を果たした』。『美濃国大垣船町(現・岐阜県大垣市)の誓運寺(真宗大谷派)に生まれ』、『幼時より漢学・仏典の才に優れ』た。彼が一年学んだ『京都東本願寺の高倉学寮』『で教鞭を取っていた福井県憶念寺南条神興の養子となり』、『南条姓に改姓、再び学寮に赴き』、『護法場でキリスト教など仏教以外の諸学を修めた』。明治九(一八七六)年、『同僚の笠原研寿とともにサンスクリット(梵語)研究のため』、『渡英、オックスフォード大学のマックス・ミューラーのもとでヨーロッパにおける近代的な仏教研究の手法を学び、漢訳仏典の英訳、梵語仏典と漢訳仏典の対校等に従事した。特に』一八八三年に『イギリスで出版された英訳』「大明三藏聖敎目錄』(“ Chinese Translation of Buddhist Tripitaka, the sacred canon of the Buddhist in China” )は“ Nanjo-Catalog ”」と称され、現在なお』、『仏教学者・サンスクリット学者・東洋学者に珍重される。翌年、オックスフォード大学よりマスター・オブ・アーツの称号を授与され、帰国』した。明治一八(一八八五)年より、『東京帝国大学文科大学で梵語学の嘱託講師とな』った。二年後には『インド・中国の仏教遺跡を探訪』し、明治二二(一八八九)年には『文部省より日本第』一『号の文学博士の称号を授与され』ている。明治三四(一九〇一)年に『東本願寺が真宗大学(現、大谷大学)を京都から東京巣鴨に移転開設すると、同大学の教授に就任。初代学監清沢満之と協力して、関連諸学との緊密な連繋の上に立つ近代的な仏教研究・教育機関の創設に力を注』ぎ、二年後には『真宗大学第』二『代学監に就任』、『その後も京都に戻った同大学(のちに真宗大谷大学、大谷大学と改称)の学長を』『務め、学長在任は通算』十八『年近くに及んだ。この間、所属する真宗大谷派において学事体制の整備に』尽力し、『仏教学・東洋学の学界において近代的な仏教研究の必要性を説き、その教育・普及に勉めた。また』、『各地・各方面において行なった活発な講話や執筆活動は、いずれも深い学識と信仰に裏打ちされ、多くの人を惹きつけた』とある。「佛敎の十二宗の歷史」は明治一九(一八八六)に東京で刊行された“ A short history of the twelve Japanese Buddhist sects ”である。“Internet archive”のこちらで英文原本が読める

「靈鷲山」(りょうじゅせん)サンスクリット語ラテン文字転写“Gṛdhrakūṭa-parvata”の漢訳。古代インドのマガダ国の首都であった王舎城の北東にあり、釈迦が「法華経」などを説いた山。山頂の形が鷲に似るとも、また、山中に鷲がいたことから、この名があるとされる。現在のビハール州中部のラジギールにある。

「大梵天王」大梵天(色界四禅天の中の初禅天にあって梵輔天・梵衆天を従える天。もとはヒンドゥー教の神概念)の王。淫欲を離れて清浄潔白な神王とされる。

「正法眼藏涅槃妙心」原文“the wonderful thought of Nirvâna, the Eye of the True Law,”。「真理を見通す知恵の眼によって悟られた秘蔵の法(「正法眼藏」)と、煩悩・妄想の束縛から脱した心の寂けさ・悟りの境地(「涅槃妙心」)の意。

「阿難陀」阿難に同じ。Ānanda(アーナンダ)。釈迦の十大弟子の一人で、釈迦の侍者として常に説法を聴いていたことから、「多聞(たもん)第一」と称せられた。禅宗では迦葉の跡を継いで、仏法付法蔵の第三祖とされる。「阿難陀」は漢語意訳では「歓喜」「慶喜」とも記される。

「禪宗は第八世紀前には、日本に來なかつた」古くは飛鳥時代に道照(白雉四(六五三)年に遣唐使の一員として入唐、玄奘三蔵に師事した)が、法相宗(玄奘の弟子の慈恩大師が開いた宗派)や成実宗(じょうじつしゅう:中国十三宗・日本の南都六宗の一つ)とともに禅を学び、帰朝後(斉明天皇六(六六〇)年)頃)、南都七大寺の一つである奈良の元興寺に禅院を設けている。小泉八雲が言っているのは、最澄が延暦二三(八〇四)年に入唐し、翌年帰朝して本邦に円・密・禅・戒の四宗を伝えたことを指していよう。但し、一般には、鎌倉時代に日本臨済宗の開祖明菴栄西(みんなんえいさい)が臨済宗黄龍派の嗣法(しほう)の印可を受け、建久二(一一九一)年に帰朝した時に日本の禅宗は始まったとされる。

「九年間引續き默想してゐたので、足が脫落したと云ふ話である」達磨が面壁九年の座禅によって手足が腐ってしまったというのは民間の伝説に過ぎない。また、私は遙かに、雪舟の絵「慧可圖臂圖」(けいかだんぴず)で知られる、慧可の方の「雪中斷臂」(慧可は嵩山の少林寺で面壁していた達磨に面会し、弟子入りを請うたが、達磨は断った。そこで慧可は自らの左腕を切り落として捧げ、弟子入りの願いが俗情や世知によるものではない覚悟を示して入門を許されたとする伝説)の方が凄絶であると思っている。

 

Toydaruma

 

 たしかに達磨は尊敬の資格を多く有する。しかし極東の美術家やおもちや屋は、彼等が滑稽感に耽る時に、この尊敬の資格が干涉して來る事を許さなかつた、――疑もなく、この滑稽感は足がないと云ふ話からもとは起つたのであつた。數百年間、この達磨の傳統的不幸はをかしい繪やをかしい彫刻の主題となつて居る、そして代々の日本の子供は、達磨のおもちやをもつて面白がつて來た、そのおもちやはどんなに投げ出されてもいつも坐るやうに再び起き上るやうに工夫してある。今も一般のおもちやであるこの『起き上り小法師』は、もとは同じ道理でできた『不倒翁』と云ふ支那のおもちゃから造られた、或は改造されたのであらう。十四世紀に作られたと知られて居る『饅頭食』[やぶちゃん注:原文“ Manjū-Kui ”。]と云ふ日本の狂言に、『起き上り小法師』の事が記して居る[やぶちゃん注:ママ。]。しかしこのおもちやの昔の形は達磨を表はした物とは思はれない。しかし十七世紀からの子供の歌があつて、それは達磨のおもちやは二百年以上も一般に知られて居る事を證明して居る、――

 

    一(ひ)に二(ふ)に

    ふんだん達磨が

    ひるも夜も

    赤い頭巾かぶりすんまいた

 

 この小さい歌から、おもちやの形が十七世紀以來餘り變つてゐない事が分るやうだ、達磨はやはり頭巾を冠つて、――一面に、顏だけ除いて――やはり赤く塗つてある。

[やぶちゃん注:「起き上り小法師」や「不倒翁」については、先行する『小泉八雲 日本の子供の歌  (大谷正信譯) 六(「子守歌」)及び後書き部』の私の「おきあがりこぼし」の注を参照されたい。

「『饅頭食』と云ふ日本の狂言に、『起き上り小法師』の事が記して居る」小学館「日本国語大辞典」に「饅頭」で『狂言。大蔵流。都で饅頭売りに饅頭をすすめられた田舎者は、うまいかどうか食ってみせたら買おうという。饅頭売りはふるまってもらえると思い』、『全部食べ、代金を田舎者に請求する。田舎者は自分が食べたのではないから知らぬと言い、さらには刀に手をかけて饅頭売りをおどし立ち去る。「狂言記」で「饅頭食い」』とある。台本を見ることが出来ないので、どのように書かれているかは不明。【2025年4月12日追記】個人ブログと思しい「江戸期版本を読む」の『野村八良校「狂言記外編」4-8 饅頭食』で台本が視認出来る。]

 すでに述べた雪達磨と、おもちやの達磨(大槪は張子でできて居る)の外に、無數のをかしい色々の達磨がある、殆んど凡ての種類の材料で、型に造られたり、彫刻になつたりして居る、それから大きさも、袋物の金具になる五分程の長さの金屬の達磨から、日本の煙草屋が、店の看板に使ふ二三尺もある大きな木製の達磨まである。……このやうに、面壁九年の聖い傳說を、民間藝術が、不都合にも、嘲つて居る。

 

       

 私の庭の雪達磨は、何年か前に、私が東海岸の或漁村で、樂しい一夏を送つた時に發見した甚だ妙な達磨の事を私に想ひ出させる。そこには宿屋がなかつた、しかし或魚屋の主人の乙吉と云ふ男が、私に二階を貸して、不思議な程色々に料理した魚の御馳走をしてくれた。

[やぶちゃん注:ここは「小泉八雲 燒津にて 大谷正信譯 附・やぶちゃん注」の私の冒頭注をまず参照されたい。瞥見した銭本健二氏が担当された小泉八雲の年譜(一九八八年恒文社刊「ラフカディオ・ハーン著作集 第十五巻」所収)によれば、これは明治三三(一九〇〇)年八月の体験に基づくとある。]

 或朝、乙吉は私を店に呼んで大層見事な魴鮄(ほうぼう)を見せた。……讀者は何か魴鮄に類した物を見た事があろだらうか。それは餘り大きな蝶か蛾に似て居るので、よくよく見なければ、それは魚、――かながしらの一種の魚で、蟲ではない事が本當には分らない。翼(つばさ)のやうに對になつて並んで居る四つの鰭がある、――上の一對は黑くて、それに空色の鮮やかな斑點がある、下の一對は濃紅[やぶちゃん注:「こいくれなゐ」と訓じておく。]である。それから又、蝶のやうに脚があるやうだ、――その細い脚で、早く走り𢌞る。……

[やぶちゃん注: 条鰭綱新鰭亜綱棘鰭上目カサゴ目コチ亜目ホウボウ科ホウボウ属ホウボウ Chelidonichthys spinosus。小泉八雲は胸鰭が二対四枚あるように錯覚している(無理もないとは思う)が、無論、胸鰭は一対しかない、その大きな前部は半円形を成しており、翼のように水平方向に広がり、色も鮮やかな青緑色を呈し、青の縁取りと斑点に彩られている(私は二十センチ大のそれ釣ったことがあるが、釣り上げて弱ると、この目眩めく美しいこれらの鮮やかな色は儚く消えてしまうのである。従って、八雲は生魚を視認したことが判る)。胸鰭の一番下の軟条三対は鮮やかな紅色を呈し、前部からほぼ完全に遊離し、太く発達しており、これを脚のように動かして海底を「歩く」ことが出来る。これを小泉八雲は誤認したのである。因みに、私はホウボウの刺身が大好物である。

「かながしら」カサゴ目ホウボウ科カナガシラ属 Lepidotrigla にはカナド Lepidotrigla guentheri・トゲカナガシラ Lepidotrigla japonica・オニカナガシラ Lepidotrigla kishinouyei 等の多くの種(十一種)が含まれるが、代表種としてのカナガシラ Lepidotrigla microptera を挙げておけば問題ないであろう。確かに両者はよく似ているが、ホウボウ科 Triglidae の魚は概して鱗が細かいが、ホウボウのそれはカナガシラのそれよりも遙かに細かい。また、カナガシラの胸鰭はホウボウほど色が鮮やかでなく、単に赤いので、生魚ならば識別は容易い。]

 『喰べられますか』私は尋ねた。

 『へい』乙吉は答へた、――『これを御馳走にさし上げます』

 〔どんな質問を受けても、――否定の答を要する質問にでも、――乙吉は『へい』と云ふ感嘆詞を以てその答を始める、――それが同情と好意の調子を以て云はれるので、聞く者に直ちに凡て人の世の辛酸を忘れさせる程である〕

 それから私は店へ歸つて、うろうろしながら色々の物を眺めた。一方には棚が何段もあつて、干物の箱、食用の海藻の包み、草鞋草履の束、酒德利、ラムネの壜などのせてある。その反對の側のずつと上に、神棚があつた、その神棚の下に、達磨の赤い像のある少し小さい棚のある事に氣がついた。たしかにその像はおもちやではなかつた、その前に供物もあつた。私は達磨が家の神となつて居るのを見ても驚かなかつた、――私は日本の各地で、疱瘡にかかつて居る子供のために、達磨に祈る事を知つてゐたからであつた。しかし、私は乙吉の達磨の特別の樣子に餘程驚いた、それは眼が一つしかなかつたからである、――大きな恐ろしい眼で、その店の薄暗がりの中で、大きな梟の眼のやうに、にらんで居るやうであつた。それは右の眼であつた、そして光澤のある紙で造つてあつた。左の眼の窩(あな)は白い空洞であつた。

[やぶちゃん注:「疱瘡にかかつて居る子供のために、達磨に祈る」中国で疱瘡除けには赤い色のものが効果があるとされていたため、伝来とともに、「赤く」塗られた並外れた善知識の達磨が天然痘に効験があると考えられたのである。実際には他の一部の縁起物と同じく、一種の悪疫悪霊退散の魔除けの装置として機能していたものであり、本来のその呪力から言えば、両目を入れてこそ、その呪力を発揮出来るはずである。目を入れないというのは、根本的には不合理であり、運不運を左右させるアイテムとして零落した旧神仏の一形態の例とは言えるであろう。不審に思う方のために謂い添えておくと、実際に達磨を製造している職人や会社の複数の記載にも、両目をしっかりと入れて飾るのがよい、と書かれてあるのである。なお、小泉八雲は左目を十五歳の時、就学していたダラム大学セント・カスバーツ・カレッジ(St. Cuthbert's College。後のアショウ(Ushaw)・カレッジ)の回転ブランコで遊んでいる最中、ロープの結び目が左眼に当たって失明した。以後、左眼の色が右眼とは異なるようになったため、写真は右側からのみ撮らせるようになったのであるが、この達磨の左目が「ない」というのは、彼のトラウマとの関係性が特に意識されているものと考えてよい。

 

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 それで私は乙吉に呼びかけた、

 『乙吉さん、――子供等は達磨樣の左の眼をたたき潰したのですか』

 『へい、へい』乙吉は眞魚板(まないた)へ上等の鰹を取り上げながら、氣の毒相に[やぶちゃん注:「さうに」。]笑[やぶちゃん注:「ゑみ」。]を含んだ『初めから、左の眼はございません』

 『こんな風に造つてあつたのですか』私は尋ねた。

 『へい』乙吉は答へた――その時、彼の長い庖丁は、銀白の魚の胴を音もさせないで、すーつと通りぬけた、――『こちらでは、盲目の達磨しか造りません。私もあの達磨を買ひました時には、眼はありませんでした。昨年大漁のあとで、――右の眼を造つて上げました』

 『しかし、何故兩方の眼を造つてあげなかつたのかね』私は尋ねた、――『たつた一つぢや氣の毒のやうだ』

 『へい、へい』手際よく桃色と銀色の肉の一枚一枚をガラスの簾にならべながら、乙吉は答へた、『大層運のよい日が又ございましたら、その時左の眼を入れて上げます』

 それから私は村の通りを步いて、人の家や店をのぞき𢌞つた、そして私は進步發達の色々の階段[やぶちゃん注:ママ。段階とすべきところである。]にある外の色々の達磨を發見した、――眼のないのもあり、一つしかないのもあり、二つあるのもあつた。出雲では實際恩惠を施して、その代り御禮を受ける事になつて居るのは布袋、――大きな腹の安樂の神、――である事を私は思ひ出した。禮拜者の方で感謝すべき理由があると思ふとすぐに、布袋の安樂にもたれた像は柔らかな座蒲團の上に置かれる、そして授かる恩惠の加はる每に、神は一つづつの座蒲團を與へられるのである。しかし達磨には二つ以上の眼が與へられない事を私は思ひついた、三つでは三目小僧と云ふ一種のお化けになる。……達磨に二つの眼と色々の小さな供物が供へられると、その達磨は又眼のない後繼者に店を讓るために片づけられる事が尋ねて見て分つた。眼無し達磨は、眼が欲しさに稼がねばならないから、不思議な事をしてくれると期待されて居る。

 

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 日本にはこんな面白い小さい神が澤山ある、――餘り澤山だからそれを說明するには甚だ大きな書物が必要にならう、そして私はこんな不思議な小さい神々を禮拜する程の人々は大槪は感心すべき程正直である事をこれまで發見して居る。實際私自身の經驗では、神が質朴な神である程、人は益々正直であると云ふ信仰をいつも殆ど正しいとするのである、――しかし私は讀者に輕卒な歸納をして貰ふ事を欲しない。たとへば正直の最上點は、神の消逃點譯者註[やぶちゃん注:「せうたうてん」。]に始まるやうだなどと云ふつもりはない。ただこれだけは敢て云ひたい、卽ち甚だ小さい神、おもちやの神を信仰する事は、素朴なる心の人のする事である、心の質朴なる事はこの險惡なる世界に於て、純粹の善に最も接近して居る。

譯者註。畫では消逃點、或いは合點とも云ふ。並行の二線を正面より見れば、最後は一點となつて消える、それが合點である。信ずる神が段々簡單になつて殆んど神でないやうなのを信ずる人間が一番正直だと歸納されては困ると云ふ意味。

[やぶちゃん注:以上の「譯者註」は本篇末に字下げポイント落ちであるのであるが、ここに移動し、引き上げてポイントも本文と同じにした。

「消逃點」謂わずもがなであるが、透視図法に於ける消失点のこと。]

 

 私がこの村を去る前晚に、乙吉は二ケ月分の御馳走代の勘定書をもつて來た、そしてその勘定は途方もなく安い事が分つた。勿論日本の親切な習慣に隨つて、茶代は期待されてゐた、しかしその事實を考慮のうちに入れて見ても、その勘定書は馬庖馬鹿しく正直な物であつた。私は色々の事を有難く思つて居る心もちを表はすために、私のすべき最少限度は、要求額を倍にする事であつた、そして乙吉の滿足は全く自然で、又同時に相應にしかつべらしかつたから、それは美しい見ものであつた。

[やぶちゃん注:「しかつべらし」近世以降の語で「然りつべくあらし」の転か。「鹿爪らしい」は当て字。ここは「まじめ過ぎて堅苦しい感じがする」の意。]

 私は早い急行列車に乘るために翌朝三時半に起きて着物を着物へた、しかしその夢の時刻にも、暖い朝食が階下で私を待つてゐて、乙吉の小さい色の黑い娘が給仕の用意をして居るのを見た。……私が熱い茶の最後の一杯を飮んだ時に、私の眼は思はず神棚の方へ動いた、そこに小さい燈明が未だ燃えてゐた。その時私は達磨の前にも燈明の燃えて居る事に氣がついた、殆ど同時に達磨が私の方を眞直に見て居る事を認めた――二つの眼で。……

 

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2019/10/22

小泉八雲 漂流  (大谷正信譯)

 

[やぶちゃん注:本篇(原題“ Drifting ”)は一九〇一(明治三四)年十月にボストンの「リトル・ブラウン社」(LITTLE,BROWN AND COMPANY)から出版された作品集“ A JAPANESE MISCELLANY ”(「日本雑記」。来日後の第八作品集)の第一パート“ Strange Stories ”(「奇談」・全六話)・第二パート“Folklore Gleanings”(「民俗伝承拾遺集」・全三篇)に次ぎ、最後の三番目に配された“ Studies Here and There ”(「ここかしこに関わる研究」。底本では「隨筆ここかしこ」)の第四話である。本作品集は“Internet Archive”のこちら(出版社及びクレジットの入ったページを示した)で全篇視認できる(本篇はここから)。活字化されたものは、整序されたものは見当たらない(同前の“Internet Archive”には本作品集のフル・テクスト・ヴァージョンはあるにはあるのであるが、OCRによる読み込みで、誤まり多く、美しくなく、読み難く、また、味気ない)。

底本は英文サイト“Internet Archive”のこちらにある、第一書房が昭和一一(一九三六)年十一月に刊行した「家庭版小泉八雲全集」(全十二巻)の第七巻の画像データをPDFで落として視認した【2025年4月11日:底本変更・正字化不全・ミスタイプ・オリジナル注全補正】時間を経て、国立国会図書館デジタルコレクションに本登録し、現行では、以上の第一書房版昭和一一(一九三六)年十一月に刊行した「家庭版小泉八雲全集」(全十二巻)の第七巻が、国立国会図書館デジタルコレクションで公開されてある。(リンクは扉だが、「家庭版」の文字はない。しかし、奥附を見て貰うと『家庭版』とあり、『昭和十一年十一月二十七日 發 行』とあることが確認出来る)、これが、前掲の底本と同じものであるが、やはり、外国のサイトのそれを底本とするのは、日本人小泉八雲に失礼であると考えた。されば、こちらで、再度、以下の「骨董」の作品群を改めて校正することとする。これが――私の小泉八雲への「義」――である。なお、これよりも前の元版の全集等が先行しているものの、私がそれらと比べた結果、実は先行する同社の「小泉八雲全集」のそれらは、訳が一部で異なっており、訳者等によって、かなりの補正・追加がされていることが、今回の正字補正作業の中で、はっきりと判って来た。いや、同じ「家庭版」と名打ったネット上の画像データでも、驚いたことに、有意に異なっていたのである。そうした意味でも――完全な仕切り直しの総点検――が必要であると決したものである。従って、旧前振りの括弧・鍵括弧の問題も、拡大とガンマ補正で確認し、正確を期する。本作はここから。

 訳者大谷正信氏については、「小泉八雲 燒津にて 大谷正信譯」の私の冒頭注を参照されたい。また、本ロケーションである焼津と小泉八雲に就いても同篇冒頭注で腑に落ちて戴けるものと存ずる。

 一部、特異的に底本にはない「!」の後の一字空けを行った。]

 

 

   漂 流

 

 颱風が襲ひつつあつた。そこで自分は岸打つ大波を見んと大風に防波壁の上に坐つて居た。そして老人の天野甚助が自分の橫に坐つて居た。東南は一面に何處も黑味を帶びた靑の薄暗がりで、唯だ海だけは一種朽葉色の妙な色をして居た。巨大な濤が既に山と高まつて推し寄せつつあつた、百碼[やぶちゃん注:「ヤード」。九十一・四四メートル。]離れたところでそれが雷と地震とのやうな音を立てて崩れ碎け、その飛沫[やぶちゃん注:「しぶき」。]を傾斜面一面に布と展べ[やぶちゃん注:「のべ」。]散らせて、二人の顏を濡らす。どどんと長く打ち碎ける度每に、ヂヤヂヤヂヤヂヤと引いて行く砂利の音は正しく全速力で走つて居る列車の音のやうであつた。自分は怖ろしくなる、と甚助に言つた。すると甚助はにこりと笑つた。

 

 斯う言ふのであつた。『これよりか非道い海で、私は二日二た晚の間泳ぎました。私はその時十九でありました。八人の乘組の中で、助かつたものは私だけでありました。

 『私共の船は福壽丸といふ名の船でありまして――此町の前田甚五郞が有つて居りました。乘組は、一人除けて、皆んな燒津の者でありました。船長は齋藤吉右衞門といつて、六十を越えた男でありました。城(じやう)の腰(こし)に住んで居りました、――丁度此處の後の街路(とほり)であります。も一人老人が乘つて居りました。仁藤正七[やぶちゃん注:原文表記に従えば、「にとうしょうひち」。]といつて、これは新屋(あらや)村に住んで居りました。それから、四十二になる寺屋勘吉が居ました。その弟の巳之助、これは十六の子供でありましたが、これも一緖に居ました。此の寺尾二人は新屋に住んで居たのであります。それから齋藤平吉が居ました、三十になる。それから松四郞といふ男が居りました、――これは周防の男でありましたが、燒津に住み着いて居たのであります。乘組の今一人に鷲野乙吉が居ました。これは城の腰に住まつて居りまして、やつと二十一でありました。私は船の中で一番の年若でありました、――寺尾巳之助を除けては。

[やぶちゃん注:八雲が晩年、避暑に非常に好んだ焼津の定宿(旅宿ではなく、二階を借りた)としていた魚商人山口乙吉(初回の旅は明治三〇(一八九七)年八月で、以後の夏は殆んどここで過ごした。現在、乙吉の家があったところ(現在の静岡県焼津市城之腰(じょうのこし)の民家の前)に「小泉八雲滞在の家跡碑」が建っている(リンクはグーグル・マップ・データ。以下同じ)が、このロケーションはこの乙吉さんの家のすぐ近くの海岸端であると考えてよい。

「新屋(あらや)村」現在の焼津市新屋。城之腰のすぐ北である。]

 『萬延元年――申の歲でありました[やぶちゃん注:一八六〇年。庚申(かのえさる)。]――その七月の十日[やぶちゃん注:グレゴリオ暦で八月二十六日。]の朝燒津から船を乘り出しました――讃岐へ向けて。十一日の夜紀州沖で、東南からの颱風に襲はれました。眞夜中少し前に船は顚覆しました。ひつくらかへる[やぶちゃん注:ママ。]と思つた時、私は船板を一枚とりあげて、それを投げ出して海へ飛び込みました。その折は怖ろしい强い風で、夜は眞つ暗で、やつと二三尺先きが見える許りでありましたが、仕合せにもその板が見つかりまして、それを身體の下へ置きました。と、直ぐに船は沈んでしまひました。私の近くに、海に、鷲野乙吉と、寺尾兄弟と、それから松四郞といふ男が居ました、――皆んな泳いで、他の者の居る樣子は見えませんでした。多分船と一諸に沈んだのでありませう。私共五人は大波と一緖に浮き沈みしながら互に呼び合つて居りました。見ると誰れも板か何かの材木を有つてゐますのに、寺尾勘吉だけ有つて居りません。そこで私は勘吉に「あにき、お前にや子供がある。おりやまだ若い。この板をお前に上げよう」と呼ばはりますと、勘吉は大聲で「此海ぢや板はあぶない――材木を離れて居れ、甚(じん)よ――怪我するかもしれんぞ」と言ひ返しました。――それに返事も出來ぬうちに、黑山のやうな浪がおつかぶさりました。私は長いこと下に居りましたが、また水の上へ出て來た時には、勘吉の姿は見えませんでした。年下の者はまだ泳いで居ました。が私の左手の方にさらはれて行つて居りました。――姿は見えません。互に聲高に呼び合つて居りました。私は浪に隨(つ)いて浮いて居るやうにしました。他の者は私を呼びます――「甚よ! 甚よ!――こつちへ來い!」然し私はそつちの方へ行くのは非常にあぶないことが分かつて居りました。浪が橫から私を打つたんびに下へ沈められましたから。そこで私は呼び返しました――「潮に隨(つ)いて居れ!――流れについて浮いて居れ!」と。が皆んなには解らないやうでありました。――相變はらず「こつちへ來い! こつちへ來い」と言ひます。そしてその聲が一度一度段々遠くからきこえて來ました。私は返事するのが恐はくなりました。……水で死んだ者は、伴侶(つれ)が欲しいと、そんな風に「こつちへ來い! こつちへ來い!」と呼ぶのでありますから。……

 『暫くすると其の呼び聲が止みました。聞こえるものは海と風と雨とだけであります。非常に暗くつて、浪だけ、それもその退(ひ)く時だけ、――高い黑い影のやうに見えて――それがまた一度一度非常に强く身體を下へ引くのでありました。引つぱり方で私はどつちへ向いて行つて宜いか察しました。雨の爲めに浪が大して碎けません。雨が降らずに居たなら、どんな者だつてそんな海では長いこと生きていることは出來ませんでしたらう。一刻一刻と風は非道くなつて、浪は段々高くなりました。――そこで私は其晚夜通し小川の地藏樣にお助けを祈りました。……明かりと仰しやるのですか?――え〻、水に明かりはありましたが、餘計はありません。大きいのです、蠟燭のやうに光る。……

[やぶちゃん注:「小川の地藏樣」現在の静岡県焼津市東小川(こがわ)にある時宗寶城山海蔵寺公式サイト内に、元は『天台宗寶城山安養寺と称し、後白河院の勅願所であったと伝える』とし、『嘉元三』(一三〇五)年『春、時宗二祖真教上人が念仏を広めるため』、『諸国を巡行し』、『当地へ来た折』り、『時の住僧勧海律師』は『上人の徳を慕い』、『徒弟となり、天台宗を改め』、『時宗とした』とある。『本尊は延命地蔵尊』で、『明応九』(一五〇〇)年に、『漁師が城之腰沖で地蔵尊をすくいあげ、当寺へ』納めたという。『当寺に寄せられた、海と地蔵の奇縁により』、『安養寺から海蔵寺へと改称されたという』。『当寺は徳川家(旧紀州家)、西尾家(旧遠州横須賀城主)、本多家(旧田中城主)などの帰依が厚く、その宝物が残る』とした後に、何んと! 『小泉八雲の作品「漂流」の主人公、天野甚助が』安政六(一八五九)年(本話より一年前)、『勢州沖(現在の三重県)で難船、舟の板子に命を托して助かり、記念のために奉納した板が残る』とあるではないか! この主人公天野甚助は実在し、実際の体験談を基にしていることが明らかとなるのである! 現在、その板は「焼津小泉八雲記念館」に収蔵されており、ここ焼津市観光協会ブログ内の画像)で写真が見られる!また、「焼津市」公式サイト内の「小川のお地蔵さん」には、明応九年『の夏のことです』。城之腰村の沖の海で、『毎晩なにか』、光っているもの『があり、村の人たちは、いったいなんだろうかと、ふしぎがっていました』。『そんなことがつづいたある日、吉平さんという漁師が鰯をとるために網をしかけて、さて引きあげようかとしたところ、何かずっしりと重たいものが網にかかっていました。見ると』一『メートルほどもある木のお地蔵さんでした』。『吉平さんはびっくりして、急いで引きあげ、思わず手を合わせておがみました。そして、小さな仮のお堂を建ててまつりました』。『それからしばらくしてからのこと、村人の一人が夢をみました。夢の中にお地蔵さんがあらわれて、「この浦の西にある安養寺は、わたしと縁のあるお寺である。わたしをそこに移したなら、きっとおまえたちを守ってやろう。願いごともかなえてやろう」と言いました』。『村の人たちはこれを聞き、「ありがたいことだ。ぜひ安養寺におまつりしよう」といって、そのお地蔵さんをお寺に運びました』。『海からあがったお地蔵さん…。こんなふしぎな縁があったので、それから海蔵寺とよばれるようになりました』とある。同市公式サイト内には「甚助さんの板子」という詳しい実録ページもあるが、それは本篇を読まれた後から読んだ方がよろしいかと存ずる。本文にも出るが、別な記事を見ると、実際の甚助も三日後に救われるまで、ひたすら、小川の地蔵さまを念じ続けた、ともある。さすれば、この段落の最後の「……明かりと仰しやるのですか?――え〻、水に明かりはありましたが、餘計はありません。大きいのです、蠟燭のやうに光る。……」という甚助が見た不思議な光とは……まさに……地蔵の霊光だった――のではあるまいか?! なお、瞥見した銭本健二氏が担当された小泉八雲の年譜(一九八八年恒文社刊「ラフカディオ・ハーン著作集 第十五巻」所収)の明治三三(一九〇〇)年の八月の条に『山口乙吉の向かいの家で酒屋を営む天野勘助から福寿丸の遭難と漂流の体験を聞いたのも、この頃である』と明記されているのである。

 『夜明けに、見ると海は非道い色で――濁つた綠色をして居ました。浪は小山のやうでありました。そして風は恐ろしい强さでした。雨と飛沫[やぶちゃん注:「しぶき」。]とで水の上に霧が出來て居て、地平線は見えません。然し見える處に陸があつても、浮いて居ようとするよりほかに、何も出來なかつたでせう。腹が空(す)きました、――非常に空きました。その空腹(すきばら)の苦さが直ぐと堪へられぬ程非道くなりました。その日一日私は、風と雨の下に漂つて、大波と一緖に浮かんだり沈んだりしました。でも陸は影形も見えません。何處へ行きをるのか分かりませでした。そんな空では西も東も判りやしません。

 『暗くなつてから風は凪ぎました。が、雨は相變はらず土砂降りて、眞つ黑です。空腹の苦さは通つてしまひました[やぶちゃん注:「空き過ぎて逆に消え去ってしまいました」の意。]。が、弱つてしまひました――沈むに相違無いと思つた程弱りました。すると私を呼ぶ聲が聞こえました――丁度前の晚に私を呼んだと同じやうに――「こつちへ來い!――こつちへ來い!」と。……すると突然に、福壽丸の者が四人見えました――泳いで居るのではありません、私の橫に立つて居るのであります、――寺尾勘吉と、寺尾巳之助と、鷲野乙吉と、それから松四郞といふ男と。皆んな私を怒つた顏して見て居るのであります。そして巳之助といふ男の子が、叱るやうに、大聲で「此處へ私は舵を取りつけねばならぬ。お前、甚之助[やぶちゃん注:ママ。]、お前は何もせずに眠つてばかり居る」といふのであります。すると寺尾勘吉が――これは私が板をやらうと言つた男でありますが――それが或る掛物を兩手に持つて私の上へ身體を屈めて、それを半分展(ひろ)げて「甚よ。此處に私は阿彌陀樣の繪圖を有つて居る。見い。さあ本當にお前は念佛を唱へねばならぬぞ!」と言ひました。口のきき方が奇妙でありました、――恐ろしいと思はせるやうな。私は佛樣のお姿を見て、恐はごは念佛を唱へました、―――南無阿彌陀佛、南無阿彌陀佛と。と同時に痛みが、火傷の痛みのやうな痛みが、私の股と腰とを刺しました。見ると私は板から轉び出て海の中へ落ちて居りました。その痛みはカツヲノヱボシがさせたのでありました。……一度もカツヲノヱボシを御覽になつたことが無いのでありますか。ヱボシ、神主さんが冠る、あの恰好した水母であります。カツヲ(鰹)がそれを食ふから、カツヲノヱボシと私共は言つて居ります。そいつが何處かへ出て來ると、漁夫は鰹が澤山に捕れるぞと思ひます。體軀(からだ)は硝子のやうに透いて居りますが、下の處に紫色の緣飾[やぶちゃん注:「ふちかざり」。]のやうなものと、長い紫色の紐があります。こいつが身體へ觸はると、その痛さは非道いもので、長い間とれません。……その痛さでよみがへりました。若しそれに刺されなかつたら、私は二度と眼を覺さなかつたかも知れません。私は又板の上へ乘りましたそして小川の地藏樣と金比羅樣とへお祈りしました。それで朝まで目をさまして居ることが出來ました。

[やぶちゃん注:「カツヲノヱボシ」私の得意分野である。海棲動物中で思いつく種を一つ挙げよ、と言われたら、私がまず真っ先に思い浮かべる種といってよい。それほど海産無脊椎動物フリークの私がマニアックに好きな生き物である。強力な刺胞毒を持つ刺胞動物門 Cnidaria ヒドロ虫綱 Hydrozoa クダクラゲ目 Siphonophora 嚢泳亜目 Cystonectae カツオノエボシ科 Physaliidae カツオノエボシ属 Physalia カツオノエボシ Physalia physalis(Linnaeus, 1758)。英名を“Portuguese Man O' War”(単に“Man-Of-War”とも)他に“Bluebottle”・“Bluebubble”などと呼ぶ。詳しくは、「生物學講話 丘淺次郎 第六章 詐欺 一 色の僞り~(5)」の私の長い注を参照されたい。なお、和名「カツオノエボシ」は、「鰹」がやってくるまで被っていた「烏帽子」の謂いで、鰹漁の盛んな三浦半島や伊豆半島では、本州の太平洋沿岸に鰹が黒潮に乗って沿岸部へ到来する時期に、まず、このクラゲが先に沿岸部に漂着し、その直後に鰹が獲れ始めるところから、その気胞を豊漁の予祝的に儀式正装の烏帽子に見たてて、かく呼ぶようになったものである。断言は出来ないが、私はカツオはカツオノエボシを摂餌はしないと思う(ちっちゃな可愛いアオミノウミウシ(綺麗な格好しているくせに刺胞を発射させることなく、体内に取り入れる「盗刺胞」をやらかすのだ。この不思議な機序は実は判っていないのだが、私は何らかの情報(細胞質内の酵素或いは遺伝情報)を刺胞に与えて異物認識をしないようにさせているのではないかと私は考えている。そんなの非科学的だって?! いやいや! ウミウシの中には細胞核の情報を盗んでクラゲの刺胞を自己武器に転用するトンデモない「盗核」がほぼ確実視されているウミウシがいるんだッツうの! 嘘だと思うなら、私の「盗核という夢魔」を読みな!)や、カツオノエボシと共生するなどと言われている(私は「共生」という考え方には異義がある)、当該種の刺胞毒に耐性を持ち、平気で刺胞体垂下部に棲んでいるスズキ目エボシダイ科エボシダイ属エボシダイ Nomeus gronovii(こいつがカツオノエボシの刺胞体をついばんで食うことはずっと昔からよく知られているのだ。だからこれはやはり寄生というべきなのだ、と私は声を大にして言いたいのである。因みに、観察によって、エボシダイが時にカツオノエボシの刺胞にやられて食われているケースも昔からあるのである)なんてえのが、いることは、いるがね。

 『夜明け前に雨が歇んで、空が霽れ始めました。星が少し見えましたから。東雲[やぶちゃん注:「しののめ」。]に又睡くなりました。が、頭を打たれて眼が覺めました。大きな海鳥が私を突つついたのであります。日は雲の後ろに昇つて居りました。浪は早靜かになつて居りました。やがてのこと、小さな鳶色の鳥が私の顏の橫を飛びました、――海岸に居る鳥であります(その本當の名は私は知りません)そこで、陸が見えるに相違無いと思ひました。後ろを見ましたら山が見えました。その恰好が何處の山とも私には判かりません。靑いから――八九里は離れて居るやうに思はれました。私はそれを當てに泳がうと決心しました――岸まで行ける見込みはありませんでしたけれども。又ひもじくもなりました――恐ろしくひもじく!

[やぶちゃん注:小型で白い部分が少ない鳶色の海鳥となると、ミズナギドリ目ミズナギドリ科オオミズナギドリ Calonectris leucomelas 辺りか。]

 『私は何時間も何時間もその山目當てに泳ぎました。又も眠つてしまひました。が、今度も海鳥が私を突つつきました。一日泳ぎました。夕暮近く、山の樣子から、山に近寄つて來よる事が判りました。が、岸まで行くには二日かかると思ひました。とても駄目だと殆ど諦めようとして居る時に、不圖船が見えました――大きな帆船であります。私の方指して走つて居るのでありましたが、もつと早く泳ぐことが出來なければ、間はるか離れて、行き過ぎてしまふだらうと思ひました。これを外づしては助かる見込みはもうありません。そこで板は棄ててしまつて、出來るだけ早く泳ぎました。船から二丁[やぶちゃん注:約二百十八メートル。]許りの處へ行けました。それから大聲出して呼ばはりました。だが甲板には人つ子一人見えません。何とも返事がありません。と思ふ間に私の前を通つて行つてしまひました。日は暮れかかつて居ますし、私は絕望しました。すると突然男が一人甲板へ出て來て、私に「泳がうとするな! からだを疲らすな!――小舟を出してやるぞ」と大聲で言ふのであります。見ると、同時に船の帆を下ろしました。嬉しかつたものでありますから、身體に元氣がまた出て來たやうでありました、――一所懸命に泳いで行きました。するとその帆船は小船を下ろしました。そして、その小舟が私の方へ來る時に、一人の男が「ほかに誰れも居ないか――お前何か落としたものは無いか」と大聲でききます。私は「板一枚きりで何も無かつた」と返事しました。……と一緖に私はぐつたりしてしまひました。その小舟の人達が曳きずり上げるのは判かつて居ましたが、口をきくことも身動きすることも出來ませんで、あたりが眞つ暗になつてしまひました。

 

 『一つ時經つとまたあの聲がきこえました――福壽丸の者どもの聲が。――「「甚よ! 甚よ!」と。私はぞつとしました。すると誰れかが私の身體をゆすぶつて「おい! おい! そりや夢だよ」と言ひます。見ると私はその帆船の中で、吊り提燈の下で(夜でありましたから)寢て居りました。――そして私の橫に、見も知らぬ老人が一人、膝ついて、手に飯茶椀を持つて居ます。「少し食つて見なさい」と大變親切に言ひました。私は起きて坐らうと思ひましたが起きられません。そこでその男は自分で、茶椀から、養つて[やぶちゃん注:「よそつて」と当て訓したい。]吳れました。茶椀が空になつた時に、もつと欲しいと言ひました。が、その老人は「今はいけません。――先づ眠(ね)なければいけません」と返事しました。ほかの誰れかに「私が言ふまで、もう何もやつてはならぬぞ。餘計食はせると、死ぬるから」といふ聲がきこえました。私はまた眠りました。そしてその夜もう二度飯を貰ひました――軟らかく炊いた飯を――一度に小さな茶椀に一パイ。

 『翌け[やぶちゃん注:「あけ」。]の朝私はよほど丈夫な氣持ちになりました。そして飯を持つて來て吳れたその老人が來て私に訊ねました。船の沈沒の話を聞き、私が海の中に居た時間のことを聞いて、非常に私を憫れんで吳れました。その二日二た晚の間に、二十五里以上漂つて居たのだとその男は話しました。「お前さんが棄てた板を探しに行つて拾ひ上げました。屹度お前さんはいつかそれを金比羅樣へ奉納したいのでせう」といふのであります。私は御禮を言ひましたが、燒津の地藏樣の寺へ奉納したいと返事しました。それは私が一番お助けを祈念したのは小川の地藏樣でありましたから。

 『その親切な老人はその帆船の船長で、そしてまたその持主でありまして、紀州のクキ港指して行きをるのでありました。……クキのキは、オニといふ字で、――クキは九つの鬼といふ意味であります、……船の男に皆親切でありました。私はその船へ上がつた時は、褌一つ締めて居るだけで、眞つ裸であります、そこで皆が私に着るものを吳れました。一人の男が下衣を吳れる、もう一人の男が上衣を吳れる、又一人の男が帶を吳れました。幾人かが手拭や草履を吳れました。――それからみんなが寄り合つて、六七兩に上るほどの惠み金を私にこしらへて吳れました。

[やぶちゃん注:「紀州のクキ」九木とも書く。三重県南部、尾鷲市東部の漁業地区の旧村名で、現在の三重県尾鷲市九鬼町(くきちょう)。急峻な紀伊山地が沈水したリアス湾入の奥にあり、かつては水運に頼った。南北朝時代から江戸時代にかけて勇名を馳せた九鬼水軍発祥の地として知られる。大敷網によるブリ漁が主で、今はハマチや真珠の養殖も行われている。

「六七兩」幕末の一両はインフレで現在の二万八千円相当まで下落していたが、それでも十六万八千円~十九万六千円相当となる。]

 『九鬼へ着きますと――綺麗な小さな處であります、名前は變でありますが――船長は私を上等の旅籠屋へ連れて行きました。そこで二三日休息しますと私は元の通り丈夫になりました。するとその村の長[やぶちゃん注:「おさ」。]が、その當時の名で言ふと地頭でありますが、それが私を呼びによこして、私の身の上を聞いて、これを書き付けさせました。事の報告書を燒津村の地頭へ送つてやらなければならぬ、それから後で國へ送り還す途[やぶちゃん注:「みち」。手だて。]を考へよう、と私に言ふのであります。處がその播州の船長は、私の生命を助けたその船長は、自分の船で送り屆けたい、それから又地頭への使者の役目を引き受けたい、と申し出ました。で、二人の間に大分論判がありました。當時は電信もありませんし、郵便もありません。わざわざ使ひの者(ヒキヤク)を、九鬼から燒津へ送るには、少くて五十兩はかかりましたらう。ところが一方にまた、そんな事に特別な法律や慣習が――今頃の法律とは餘程異つた法律があつたものであります。そのうち燒津の船が一艘近くの荒坂[やぶちゃん注:「あらさか」。]へ入つて來ました。そして九鬼の女で、折よく荒坂に居た者が、私が九鬼に居るといふことを燒津の船長に話したのであります。それから燒津の船が九鬼へ來ました。そこで地頭は燒津の船長に託して、――命令の書面をそれに渡して――私を送り還すことに決心しました。

[やぶちゃん注:「五十兩」先の換算で百四十万円にもなる。飛脚費用が驚くほど高額であったことが判る。実際、サイト「江戸時代campus」のこちらを見ると、江戸時代の平均値であろうが、『江戸から大坂まで一番早い便で飛脚を走らせたら、その料金は』『仕立(いまでいうチャーター便)の正三日限』り『という』、『実質』、『まる二日で届く便をつかうと、なんと料金は銀700匁(約140万円)もかか』ったとあるから、この甚助の謂いは大袈裟ではないことが判る。

「荒坂」現在の、九鬼の南西十キロメートルにある三重県熊野市二木島町附近と思われる。]

 

 『全體で、私が燒津へ歸つた時は福壽丸が沈沒してから、一箇月ばかり經つて居りました。港へは夜着きましら。直ぐとは家へ歸りませんでした。家の者が恐ろしがつたでありませうから。尤も私共の船が沈沒したといふ確かとした消息(たより)は燒津に屆いては居りませんでしたが、船に隨(つ)いて居た物を澤山漁船が拾ひ上げて居りました。それにその颱風は非常に突然に來て、海は非道い荒でありましたから、福壽丸は沈沒したのだ、乘つて居た者は皆んな死んだのだ、と皆んな信じて居たのであります。……他の者は誰れ一人その後たよりがありませんでした。……私は其晚或る友達の家へ行きました。そして翌けの朝双親と兄弟とへ言傳[やぶちゃん注:「いひづて」。]をしました。すると皆んな迎へに來て吳れました。……

 

 『每年一度私は讃岐の金比羅樣へ參詣します。難船に助かつた者は皆んな御禮に參詣します。それから小川の地藏樣のお寺へは每度參詣します。明日私と一緖にお出になれば、その板をお見せ致しませう』

 

[やぶちゃん注:作中内の主人公天野甚助が作中で示される遭難漂流の万延元(一八六〇)年当時、数え十九であったとするのを信ずるならば、本書刊行当時の明治三四(一九〇一)年でも、満五十九歳となり、小泉八雲がこの天野勘助に逢って、実際にこの話を聴いた可能性はすこぶる高いと私は考える。又聴きであったとしても、この話――舟幽霊の怪奇談含みの実話としても――勝れた名掌品であることに何の瑕疵もない。]

小泉八雲 海のほとりにて (大谷正信譯)

 

[やぶちゃん注:本篇(原題“ Beside the Sea ”)は一九〇一(明治三四)年十月にボストンの「リトル・ブラウン社」(LITTLE,BROWN AND COMPANY)から出版された作品集“ A JAPANESE MISCELLANY ”(「日本雑記」。来日後の第八作品集)の第一パート“ Strange Stories ”(「奇談」・全六話)・第二パート“ Folklore Gleanings ”(「民俗伝承拾遺集」・全三篇)に次ぎ、最後の三番目に配された“ Studies Here and There ”(「ここかしこに関わる研究」。底本では「隨筆ここかしこ」)の第三話である。本作品集は“Internet Archive”のこちら(出版社及びクレジットの入ったページを示した)で全篇視認できる(本篇はここから)。活字化されたものは、整序されたものは見当たらない(同前の“Internet Archive”には本作品集のフル・テクスト・ヴァージョンはあるにはあるのであるが、OCRによる読み込みで、誤まり多く、美しくなく、読み難く、また、味気ない)。

底本は英文サイト“Internet Archive”のこちらにある、第一書房が昭和一一(一九三六)年十一月に刊行した「家庭版小泉八雲全集」(全十二巻)の第七巻の画像データをPDFで落として視認した【2025年4月11日:底本変更・正字化不全・ミスタイプ・オリジナル注全補正】時間を経て、国立国会図書館デジタルコレクションに本登録し、現行では、以上の第一書房版昭和一一(一九三六)年十一月に刊行した「家庭版小泉八雲全集」(全十二巻)の第七巻が、国立国会図書館デジタルコレクションで公開されてある。(リンクは扉だが、「家庭版」の文字はない。しかし、奥附を見て貰うと『家庭版』とあり、『昭和十一年十一月二十七日 發 行』とあることが確認出来る)、これが、前掲の底本と同じものであるが、やはり、外国のサイトのそれを底本とするのは、日本人小泉八雲に失礼であると考えた。されば、こちらで、再度、以下の「骨董」の作品群を改めて校正することとする。これが――私の小泉八雲への「義」――である。なお、これよりも前の元版の全集等が先行しているものの、私がそれらと比べた結果、実は先行する同社の「小泉八雲全集」のそれらは、訳が一部で異なっており、訳者等によって、かなりの補正・追加がされていることが、今回の正字補正作業の中で、はっきりと判って来た。いや、同じ「家庭版」と名打ったネット上の画像データでも、驚いたことに、有意に異なっていたのである。そうした意味でも――完全な仕切り直しの総点検――が必要であると決したものである。従って、旧前振りの括弧・鍵括弧の問題も、拡大とガンマ補正で確認し、正確を期する。本作はここから。

 訳者大谷正信氏については、「小泉八雲 燒津にて 大谷正信譯」の私の冒頭注を参照されたい。

 傍点「﹅」は太字に代えた。

 また、本篇には本文に語られる、基本、小泉八雲が原画を描き、後に友人に補正して貰ったと記す“THE FEAST OF THE GHOSTS”(「霊たちの餐(さん)・霊たちへの馳走」)とキャプションする絵が原本には挿入されてある(旧底本・新底本ともに所収しない)。先の“Internet Archive”のPDFから画像を取り込み、やや見難いので、補正を加えたものを、「一」の適切と思われる位置に挿入しておいた。

 

   海のほとりにて

 

        

 燒津の溺死者全體の爲めに、午後の二時に、濱邊でセガキ法要を營むと僧侶が豫告して居たのであつた。燒津は――(日本最古の歷史に『ヤキヅ』といふ名で記載されて居る)舊い處である――それで燒津の漁夫共は、幾千年の間、その大海へ人身御供を几帳面に捧げ來たつて居るのである。で僧侶の此の豫告が、佛敎よりも遙かに古い或る物を――溺死者の靈魂は波と共に永久に動いて居るといふ想像を――自分に懷ひ[やぶちゃん注:「おもひ」。]出させた。この信仰に據ると、燒津沖の海は精靈で一杯になつて居るに相違無い。……

[やぶちゃん注:本ロケーションに就いては、「小泉八雲 燒津にて 大谷正信譯 附・やぶちゃん注」の私の冒頭注、及び、そのリンク先を参照して戴ければ、納得されるものと存ずる。また、瞥見した銭本健二氏が担当された小泉八雲の年譜(一九八八年恒文社刊「ラフカディオ・ハーン著作集 第十五巻」所収)によれば、本篇は明治三三(一九〇〇)年八月十日の体験に基づくものであるらしい

「日本最古の歷史に『ヤキヅ』といふ名で記載されて居る」「古事記」の景行天皇の「倭建命の東征」の下りの、草薙の剣の霊験譚として知られる箇所に出る。

   *

故爾到相武國之時。其國造詐白。於此野中。有大沼。住是沼中之神。甚道速振神也。於是看行其神。入坐其野。爾其國造。火著其野。故知見欺而。解開其姨倭比賣命之所給嚢口而見者。火打有其囊。於是先以其御刀苅撥草。以其火打而。打出火。著向火而。燒退。還出。皆切滅。其國造等。卽著火燒。故其地者。於今謂燒津也。

   *

 故(かれ)、爾(ここ)に相武國(さがむのくに)に到りましし時、その國造(くにのみやつこ)、詐(いつは)りて白(まう)さく、

「この野の中に、大きなる沼、有り。この沼の中に住める神、甚(いと)道速振(ちはやぶ)る神なり。」

と。

 是(ここ)に其の神を看行(みそな)はしに、其の野に入り坐(ま)しき。

 爾(ここ)に其の國造、火を其の野に著けぬ。

 故(かれ)、欺(あざむ)かえぬと知らして、その姨(みをば)倭比賣命(やまとひめのみこと)の給ひし囊(ふくろ)の口を解き開けて見たまへば、火打(ひうち)、その裏(うち)に有り。

 是に、先づ、その御刀(みはかし)もちて、草を苅り撥(はら)ひ、その火打もちて、火を打ち出で、向火(むかへび)を著(つ)けて、燒き退(そ)けて、還り出でまして、皆、其の國造(くにのみやつこ)等を切り滅ぼし、卽ち、火、著けて、燒きたまひき。

 故(かれ)、今に「燒津(やきづ)」と謂ふ。

   *

但し、ここには「相武」(後の相模国)とするので、現在の焼津と同定するにはやや疑問がある。但し、「日本書紀」では「駿河」とあり、それならば、問題はない。]

 自分は準備を見に午後早く海岸へ行つた。見ると大勢の人がはや既に集つて居た。それは燒けるやうな七月の日で――一點の雲も見えず、岸の傾斜面の荒い砂利は赫々たる日の光の下に、爐から搔き出したばかりの鑛滓(かなくそ)のやうな熱を放射して居つた。だが唐金[やぶちゃん注:「からかね」。]のあらゆる色合に焦げて居るその漁夫共は、日光を何とも思つて居なかつた。燒け焦げるやうな石の上に坐つて待つて居るのであつた。海は退潮[やぶちゃん注:「ひきしほ」。]で、――緩い、長い、のろい漣[やぶちゃん注:「さざなみ」。]に動いて――穩かであつた。

 

 海邊には、高さ四呎[やぶちゃん注:「フィート」。約一メートル二十一センチメートル。]許りの、粗末な祭壇樣のものが建つて居て、その上に、白木の馬鹿に大きなヰハイ卽ち葬禮用の牌札が、――その背面を海に向けて――置いてあつた。その位牌には、大きな支那文字で、三界の萬の(無數の)靈に位する處(座處)といふ意味のサンガイバンレイヰといふ字が書いてあつた。種々な食物のお供へ物がその位牌の前に置いてあつた、――その中には、椀に盛つた飯、餅、茄子、梨があり、新しい蓮の葉の上へ盛り上げて、所謂ヒヤクミノオンジキが一と山あつた。これは名は百種の異つた滋味といふ意味ではあるが、實際は飯と薄く刻んだ茄子と交ぜ合はせたものである。飯の椀には小さな箸が突き刺してあつて、それへ色紙の切つたのが附けてあつた。それからまた蠟燭、香爐、幾把かの線香、水の入つた器、シキミといふ聖木の小枝が揷してある一對の竹筒、のあるのも見えた。そして水の入つて居る器の橫に、この法要の規程に從つてお供物へ水を撒き散らす爲めの、ミソハギ一束置いてあるのであつた。

[やぶちゃん注:「サンガイバンレイヰ」「三界萬靈位」。

「ヒヤクミノオンジキ」「百味の飮食」。

「シキミ」樒。常緑木本のマツブサ科シキミ属シキミ Illicium anisatum 。仏前に供えることで知られる。ウィキの「シキミ」によれば、その由来は、『空海が青蓮華の代用として密教の修法に使った。青蓮花は天竺の無熱池にあるとされ、その花に似ているので仏前の供養用に使われた』というが、『なにより』、『年中』、『継続して美しく、手に入れやすい』ことから、『日本では』民俗社会で『古来より』、『この枝葉を仏前墓前に供えている』とある。なお、本種はその全植物体が危険な有毒植物でもあることはあまり知られていない。リンク先を見られたい。

「ミソハギ」禊萩。フトモモ目ミソハギ科ミソハギ属ミソハギ Lythrum anceps ウィキの「ミソハギ」によれば、『お盆の』頃、『紅紫色』の六『弁の小さい花を先端部の葉腋に多数つける』。『盆花としてよく使われ、ボンバナ、ショウリョウバナ(精霊花)などの名もある。ミソハギの和名の由来はハギに似て』いて、『禊(みそぎ)に使ったことから禊萩、または溝に生えることから溝萩によるといわれる』とある。]

 祭壇を支へて居る四本柱の一本一本へ、伐りたての竹が一本づつ結びつけてあり、此の祭壇の右と左とに、他の何本かの竹が濱へ、立ててあり、その竹のどれにも支那文字が書き記してある旗が結び附けてあつた。祭壇の四隅の竹の旗には、四天王――西方の守護神增長天王、東方の守護神持國天王、北方の守護神多聞天王、南方の守護神廣目天王――の名とその屬性とが書いてあつた。

 祭壇の正面には、長さ二十呎幅十五呎[やぶちゃん注:六・九メートル×四・五七メートル。]許りの濱の地面を蔽ふやうに莚が敷いてあつて、此の莚敷の地面の上には、僧侶に日が當たらぬやうに、紺木綿の日覆が絹で吊り上げてあつた。自分は此の祭壇とお供物の略圖(これは後で日本の或る友人に訂して貰ひ緻密にして貰つた)を書く爲めに、その日覆の下にしばらくしやがんで居た。

 

The-feast-of-the-ghosts

 

 法要は定刻には始まらなかつた。僧侶がその姿を現はしたのは三時近くであつたに相違無い。全體で七人、いづれも大儀式の法衣で、そして鐘、經卷、床几、經臺、その他の必要什器を手にして居る小僧が附き隨つて居つた。僧侶と小僧とは紺の日覆の下に座を取り、見物人は、日を浴びて、外に立つて居た。僧侶のうち、たつた一人――主僧――が祭壇に面して坐つて、小僧をつれた他の者共は、――互に向かひ合つて、二列になるやう――主僧の左右に坐つた。

 

 

       

 祭壇の上のお供物を置きなほしたり、線香に火をつけたりする序開きが濟んでから、本當の儀式は佛敎の讃歌卽ち伽陀で始つた。これはヒヤクシギと鐘の音に連れて合唱するの

[やぶちゃん注:「伽陀」サンスクリット語のラテン文字転写で「gāthā」の漢音写。「偈(げ)」「諷頌(ふじゅ)」と訳す。本来は「詩句からなる経文で十二分経の一つ」を指す他、広く「法会などで唱えられる、仏徳を賛嘆し、教理を述べる韻文で、旋律をつけたもの」を言う(小学館「大辞泉」に拠る)。

 以下の文中挿入注は底本では、四字下げポイント落ちである。上に引き上げ、ポイントは少し下げ、途中で改行した。]

ヒヤウシギといふは堅い水の小さな切れで、それを
早く打ち合せて鋭い涸れた音を續けさまに出して、
合圖にも音樂的な目的にも使ふもの。

である。鐘は二つで、一つは深い音を出す大きな鐘、今一つは頗る美しい音を出す小さな鐘で、これは小さな男の子が受け持つて居つた。大きな鐘はゆつくり敲き、小さな鐘は早く響かす。そして拍子木は殆どカスタネトの如くにカチカチと早く打つのであつた。そして此の異常な器樂につれて、同音で役僧總てが唱へる伽陀の感銘は、奇異でもあつたが、それに劣らず印象的でもあつた。――

 

    ビクビクニ

    ホッシンホウヂ

    イッキジヤウジキ

    フセジッバウ

    キウジンコクウ

    シウヘンホフカイ

    ミヂンセッチウ

    イッサイコクド

    イッサイガキ

    センバウキウメツ

    サンセンチシユ

    ナイシクソウヤ

    シヨキシントウ

    シヤウライシフシ

    ……………………

[やぶちゃん注:中文サイトの「CBETA 漢文大藏經」の「施諸餓鬼飲食及水法」の「第一卷」に拠れば、漢字表記は以下(一部の漢字を通常の正字表記に改めた)。本訳ではカットされてうるが、小泉八雲は、後の訳で、この伽陀全文を訳しているので、小泉八雲が示した後の部分に相当する部分も添えたが、そこでは、一字空けで改行せずに繋げた。

 比丘比丘尼

 發心奉持

 一器淨食

 普施十方

 窮盡虛空

 周遍法界

 微塵刹中

 所有國土

 一切餓鬼

 先亡久遠

[やぶちゃん注:小泉八雲の表記に従えば「久滅」か。]

 山川地主

 乃至曠野

 諸鬼神等

 請來集此

 我今悲愍 普施汝食 願汝各各 受我此食 轉將供養 盡虛空界 以佛及聖 一切有情 汝與有情 普皆飽滿 亦願汝身 乘此呪食 離苦解脫 生天受樂 十方淨土 隨意遊往 發菩提心 行菩提道 當來作佛 永莫退轉 前得道者 誓相度脫 又願汝等 晝夜恒常 擁護於我 滿我所願 願施此食 所生功德 普將𢌞施 法界有情 與諸有情 平等共有 共諸有情 同將此福 盡將𢌞向 眞如法界 無上菩提 一切智智 願速成佛 勿招餘果 願乘此法 疾得成佛

   *]

 

 此の朗々たる短い音律は、神佛招致祈願の若しくは呪文の合唱には、殊に能く適應して居るやうに自分に思はれた。實際が施餓鬼供養の此の伽陀は、次記の自由譯で明白に知れるやうに、正銘[やぶちゃん注:「しやうめい」。正真正銘。]な呪文であつた。――

[やぶちゃん注:以下、底本では、訳は全体が三字下げのポイント落ちである。「!」の後に字空けがないが、特異的に補った。]

 

『我等比丘比丘尼共、淸淨な食物を盛つた此の器を忝しく[やぶちゃん注:「忝」はママ。「うやうやしく」と読んでいようから、「恭」とあるべきところである。]捧げて十萬世界に住み給ふ、又その周圍の法界に住み給ふ、且つ又大地の――寺院のうちの微塵をも除くこと無く――あらゆる處に住み給ふ、誰れをも除かで、一切の餓鬼達に之をお供へ申す。また死に去つて久しきを經たる者共の靈にも、――且つは又山の、河の、土地の、また曠野の大靈にも、お供へ申す。かるが故に、願はくは、諸餓鬼よ。近づき來たつて此處に集ひ給はんことを! 我等は、我等の憐憫同情の餘り、卿等[やぶちゃん注:「けいら」。餓鬼を含む自然界の迷う霊や鬼神ら(後でそれよりもより拡大して諸仏諸神や有情(うじょう)の対象を含んで呼び掛けている)に敬意を表して呼んだもの。]に食物を供へんことを願ふ。卿等の各〻が此の我等の食物の捧げ物を味はひ給はんことを欲するなり。且つ又我等は、虛空界に住み給ふ一切の諸佛及び一切の諸聖に歸敬し奉りて、卿等並びに一切の有情の者共が滿足を得んやう祈願すべし。卿等の總てが、陀羅尼吟唱の功德によりて、且つは此の捧げまつる食物を味はひ給ふ功德によりて、より高き智慧を獲[やぶちゃん注:「え」。]、あらゆる苦を免れ、直に天界に生を得給ひ――其處に於てあらゆる至福を知り、隨意に十萬界に遊住し、到る處に歡喜を見出し給はんやう、我等は祈願すべし。菩提心を發し給へ! 開悟の道を踏み給へ! 佛果を得給へ! 再び退轉し給ふこと勿れ! 中途に躊躇し給ふこと勿れ! 卿等のうち先づ斯の道に入り給ふ者をして各〻殘れる者を導き、かくて解脫するやう誓はしめ給へ! 尙ほまた我等卿等に懇願す、卿等日夜に我等を擁護し給はんことを。また今とても我等を助けて、此の食物を卿等に與へんとの我等の願望を達せしめ給へ、――此行爲のもたらす功德が、法界に住み給ふ一切の者に及ばんやう、且つ又、此の功德の力が、その一切法界眞理を擴むる[やぶちゃん注:「ひろむる」。]に效あらんやう、また其處なる一切の者に無上菩提を得しめ、一切智を得しむるに效あらんやう。――斯くて我等は、今後卿等のあらゆる行爲が卿等に佛果を得しむる功德を卿等に與へんやう、今や祈願すなり。斯くて我等は卿等が疾かに[やぶちゃん注:「すみやかに」。]成佛し給はんことを願望すなり』

 

 それから此法要のうちで一番奇妙な部分が始つた、――それは、或る陀羅尼、卽ち呪文的な梵語で出來て居る威力のある詩句、の吟誦と共に、お供物に水を振り撒いて之を捧げる儀式である。式の此部分は短かつた。が、その委細を詳述するには多大な紙面を要する、――主僧の唱へる言葉や身振りが一々法式に據つて爲されるからである。例を舉ぐれば、その僧の手と指とは、どんな陀羅尼を唱へる時でも、その間その特殊な陀羅尼に對して規定されて居る成る位置に保たれて居なければならぬのである。だがこの複雜な儀式の主要な事實は大略次記の如くである。

 

 先づ第一に、精靈を『十方世界』から呼び出す『召請の陀羅尼』を七遍唱へる。これを誦する間は、主僧はその右手を差出して、拇指の尖と中指の尖とをくつつけて、餘の指三本は伸ばして居なければならぬ。それから、前とは異つて居るが、同じく不思議な身振りをして、『開地獄門』の陀羅尼を唱へる。次にセカンロ文卽ち『甘露施與』の陀羅尼を繰り返す。此の經文の力によつて、お供への食物が、精靈共の爲めに、上天的甘露飮食に變ずるものと想像されて居るのである。そして、その後で、『五種如來』に招致祈願を三度唱へる。

 

    曩謨寶勝如來――除慳貪業福德圓滿!

    曩謨妙色身如來――破醜陋形相好圓滿!

    曩謨甘露王如來――灌法身心令受快樂!

    曩謨廣博身如來――咽喉寬大受妙味!

    曩謨離怖畏如來――恐怖悉除離餓鬼趣!

 

[やぶちゃん注:『甘露施與』は一般には「施甘露」と呼ぶ。

「『五種如來』に招致祈願を三度唱へる」は、一部推定(一部は信頼出来る仏教サイトを参考にした)で現代仮名遣で読みを振っておく(ダッシュは字空けにし、「!」は除去した)

 

曩謨(のうまく)寶勝如來(ほうしょうにょらい) 除慳貪業福智圓滿(じょけんとんごうふくちえんまん)

曩謨妙色身如來(みょうしきしんにょらい) 破醜陋形相好圓滿(はしゅるぎょうそうごうえんまん)

曩謨甘露王如來(かんろおうにょらい) 灌法身心令受快樂(かんぽうしんじんりょうじゅけらく)

曩謨廣博身如來(こうばくしんにょらい) 咽喉寬大飮食受用(いんこうかんだいおんじきじゅゆう)

曩謨離怖畏如來(りふいにょらい) 恐怖悉除離餓鬼趣(くふしつじょりがきしゅ)

 

なお、頭にある「のうまく」は、サンスクリット語で「お辞儀する、敬礼する、崇拝する」の意の漢訳。]

 

 『梵行餓鬼問辯』といふ書に、

 『衆僧斯く五種如來の御名を唱へ了はれば、佛の威力によりて、一切の餓鬼は前生の罪業を脫し、無量の福德を享け、妙色廣博を得、一切の怖畏を免れ、美妙の甘露と變じたる供物を味ひ得、直に淨土に生る〻ことを得べし』とある。

[やぶちゃん注:「梵行餓鬼問辯」不詳だが、思うに、これは真言僧で高野山真言宗第五世で、戒律や浄土教にも通じた空華子雲蓮社妙龍諦忍(宝永二(一七〇五)年~天明六(一七八六)年)の著である「盆供施餓鬼問辯」(明和六(一七六九)年成立)のことではあるまいか?]

 

 五種如來の招致訴願をしてから又別な法句を唱へる。そしてその吟誦中にお供物を一つづつ退(さ)げる。(祭壇から取り下ろしてからは、之を柳の木、桃の木、若しくは柘榴の木の下へ置いてはならぬといふ神祕的な規則がある)最後に『退散指令』の陀羅尼を七たび唱へる。その時主僧は、勝手に歸つて宜いといふ精靈への合圖に、一度一度爪彈きをする。之をハツケン卽ち『撥遣』と呼んで居る。

[やぶちゃん注:「若しくは」の箇所は、底本では、「若しく 」と空欄になっているが、脱字と断じ、「は」を補った。次の注を参照のこと。

なお、底本の大谷氏の「あとがき」に、ここで小泉八雲は『『之を柳の木、桃の水、若しくは拓榴の木の下へ置いてはならぬといふ神祕的な規則がある』と書いて居るが、『施餓鬼通覽』には『地を拂ひ棚を造る。長さ三尺に過ぐべからず。但桃樹柘榴の外用ふることなかれ。鬼神おそれてこれを食ふことを得ず』とある。原著者の思ひ誤り乎』とある。]

 

 

       

 勾配の急な此處の海岸では海は遠くは退かぬ。尤も恐ろしく高上りして、町內へ溢れ込むことが屢〻あつて、そのより穩かな氣分には信用が置けぬ。で、用心の爲め、位牌臺の脚は深く濱へ突きさしてあつたのである。事實は此の警戒の無駄でなかつたことを證明した。といふのは、僧侶達の遲刻の爲めに、潮が變はる頃にやつとのこと儀式が始つたからである。伽陀を合唱して居る頃にさへ、海は早暗澹として荒れ模樣を見せて來て、やがて――外の大海が應答をするかのやう――岸打つ大浪の雷音が、誦文者の聲と鏗鏘[やぶちゃん注:「かうさう(こうそう)」と読み、鐘や石或いは琴などの楽器が鳴り響くさま。]たる鐘の音とを突然推しつぶした。直ぐと別な大浪が海岸に沿うてドドンと碎けた――と、また別なのがぶつかつた。それで陀羅尼を唱へて居る間は、法要は波の碎ける間々にだけきこえるので、碎けた波の白泡は傾斜面を一面に蔽うて、祭壇數步のうちへ迄もサツと迫つて來るのであつた。……

 

 自分は又しても死者と海との漠たる關係の舊い信仰を考へて居るのであつた。その瞬間には、その原始的な想像の方が、餓鬼界の存在を說く佛說――怖ろしい困苦の三十六階段があるといふ、飢渴に苦み[やぶちゃん注:「くるしみ」。]火炎に惱む餓鬼の群集があるといふ――その凄い傳說よりも、遙かに道理に適つた且つ又人情に適したものに思はれた。……否、不憫な死者共!――何が故に彼等は人間の判斷によつて斯く醜陋なものとされ、そんな境涯に置かれるのであるか。死者は水や風や雲に混じつて居るのであると夢み――或は花の心に生命を與へて居るのであると思ひ――或は果物の頰の色を染めて居るのであると考ヘ――或は寂しい森の中で蟬と共に鳴き叫んで居るのであると懷ひ――或は夏の黃昏に蚊の群と共に幽かに唸つて居るのであると想ふ方が、この方が一層賢い又親切な考へ方である。……自分は飢渴に苦む靈魂が在ることを信じない――いや、信ずることを欲せぬ。……靈魂は、死が手を觸れる刹那に、碎けて靈魂の微塵となつてしまふものと自分は思つて居る。尤もその微分子は、疑も無く、其後他の微塵と結合して他の靈魂と成りはするであらう。……でも自分は、此世から消え去つた物のより粗雜な物質すらも、それがどんなに分解し或は飛散しても、或は强風に疾走し、或は雲霧に漂蕩[やぶちゃん注:「へうたう(ひょうとう)」。彷徨うこと。流離(さすら)うこと。]し、或は木の葉に震慄し、或は海の光に明滅し、或はヂヤラヂヤラ響く砂利に漂白し悶えもがいて雷なす大浪に何處かの荒凉たる海岸で飜弄されて居るのであつて――全然死滅してしまふものとは思ひ込むことは自分にはどうしても出來ないのである。……

 

 儀式が濟むと、或る一人の漁夫が輕々と日覆の柱のうちの一本の頂上へ登つた。そして其處で輕業師のやうに旨く身體の釣合を取つて、群集に向つて澤山の頗る小さな餅を雨と投げ出した。それを子供等は笑ひ聲高く立てながら奪ひ合つた。あの儀式のあんな氣味のわるいに嚴肅の後でのことだから、この突然の歡喜の大聲は殆どびつくりする程であつた。だが自分は之をも極めて自然な、愉快な、また人情に適つたことだと思つた。そんなことを考へて居る間に、かの七人の僧は紅紫の色うつくしい行列をして去り、――小僧共は、その後から、臺や床几や鐘の重さに大儀さうに足をひきずつて行つた。直ぐと群集は――餅は分配されてそれぞれ懷のものとなつたから――散つてしまつた。――それから、祭壇、日覆、莚、いづれも取り去られた。――そして驚く許りの短時間に、此の不思議な儀式のあらゆる痕跡が消えてしまつたのであつた。……自分はあたりを見𢌞はした。――濱に居る者は自分一人であつた。……歸つて來る潮の音のほかには――平和で居たのを、覺まされて無限の苦痛を覺ゆる、名のつけやうのない或る『生き物』が發するやうな、偉大なぞつとするやうな、唸り聲のほかには――何の音もきこえなかつた。

 

[やぶちゃん注:私は……最後には……遂に浜辺の実景が……小泉八雲自身の――死生観の感傷の心象風景――へと……スライドして行く本篇に――妙に――惹かれるのである…………

小泉八雲 お大の例  (田部隆次譯)

 

[やぶちゃん注:本篇(原題“ The Cace of Odai ”(「橋の上にて」))は一九〇一(明治三四)年十月にボストンの「リトル・ブラウン社」(LITTLE,BROWN AND COMPANY)から出版された作品集“ A JAPANESE MISCELLANY ”(「日本雑記」。来日後の第八作品集)の第一パート“ Strange Stories ”(「奇談」・全六話)・第二パート“ Folklore Gleanings ”(「民俗伝承拾遺集」・全三篇)に次ぎ、最後の三番目に配された“ Studies Here and There ”(「ここかしこに関わる研究」。底本では「隨筆ここかしこ」)の第二話である。本作品集は“Internet Archive”のこちら(出版社及びクレジットの入ったページを示した)で全篇視認できる(本篇はここから。ここでは本文ページではなく、添辞の附くその前の標題ページで示した)。活字化されたものは、整序されたものは見当たらない(今まで紹介していないが、同前の“Internet Archive”には本作品集のフル・テクスト・ヴァージョンはあるにはあるのであるが、OCRによる読み込みで、誤まり多く、美しくなく、読み難く、また、味気ない)。

底本は英文サイト“Internet Archive”のこちらにある、第一書房が昭和一一(一九三六)年十一月に刊行した「家庭版小泉八雲全集」(全十二巻)の第七巻の画像データをPDFで落として視認した【2025年4月11日:底本変更・正字化不全・ミスタイプ・オリジナル注全補正】時間を経て、国立国会図書館デジタルコレクションに本登録し、現行では、以上の第一書房版昭和一一(一九三六)年十一月に刊行した「家庭版小泉八雲全集」(全十二巻)の第七巻が、国立国会図書館デジタルコレクションで公開されてある。(リンクは扉だが、「家庭版」の文字はない。しかし、奥附を見て貰うと『家庭版』とあり、『昭和十一年十一月二十七日 發 行』とあることが確認出来る)、これが、前掲の底本と同じものであるが、やはり、外国のサイトのそれを底本とするのは、日本人小泉八雲に失礼であると考えた。されば、こちらで、再度、以下の「骨董」の作品群を改めて校正することとする。これが――私の小泉八雲への「義」――である。なお、これよりも前の元版の全集等が先行しているものの、私がそれらと比べた結果、実は先行する同社の「小泉八雲全集」のそれらは、訳が一部で異なっており、訳者等によって、かなりの補正・追加がされていることが、今回の正字補正作業の中で、はっきりと判って来た。いや、同じ「家庭版」と名打ったネット上の画像データでも、驚いたことに、有意に異なっていたのである。そうした意味でも――完全な仕切り直しの総点検――が必要であると決したものである。従って、旧前振りの括弧・鍵括弧の問題も、拡大とガンマ補正で確認し、正確を期する。本作はここから。

 田部隆次(たなべりゅうじ 明治八(一八七五)年~昭和三二(一九五七)年)氏については先に電子化した「人形の墓」の私の冒頭注を参照されたい。

 なお、田部氏は冒頭添辞(聖書の二つの引用。キリスト教嫌い小泉八雲にして一見、特異点に見えるが、話を読めば、その提示は皮肉としてよく判るものである)を標題の添辞ではなく、以下の通り、本文の前書のように、本文と同ポイントで一字下げ二行で掲げているのも特異点である。

 一箇所ある「譯者註」は最後に字下げポイント落ちであるが、当該段落末に同ポイント引き上げで移した。

 なお、底本の田部隆次氏の「あとがき」によれば、これは主人公の名を変えてあるが、松江であった事実談であるとある。実は、「あとがき」には、もっと詳しい記載があるが、★ネタバレになるので、★後でリンクを見られんことを、★強く望む。

 

 

   お 大 の 例

 

 『汝の父母を敬へ』――申命記五章十六節

 『我が子よ、汝の父の敎をきけ、汝の母の法(おきて)を棄ることなかれ』――箴言一章八節

[やぶちゃん注:「申命記」(しんめいき)は旧約聖書中の一書。「モーセ五書」の一書として最後の五番目に配されてきている。「ブリタニカ国際大百科事典」によれば(コンマを句点に代えた)、『書名の』「申命記」は『ギリシア語からつけたもので,語源が示すところによると「第』二『の律法」』、『というよりは』、『律法の「写し」,あるいは「繰返し」という意味がある』。「申命記」の『起源については』、『ユダの王ヨシヤによる宗教改革』(紀元前六二一年)に関する「列王紀 下」(二十二章と二十三章)の『物語との関係が早くから論じられていたが、デ・ウュッテらの研究によって、改革の基準とされた』「律法の書」は「申命記」であると確認されている。『したがって、その起源は異論もあるが、ほぼ』起原前八世紀末乃至起原前七世紀に『求められる』という。「申命記」は『モーセの説教という形式をとるが,内容的には大きく』三『部に分れ』、まず、一~十一章で『十戒と唯一の神ヤハウェへの絶対的服従が説かれ』、十二~二十六章で『モアブでの契約律法が』、二十七~三十二章では『律法を果すべき動機とその遵守に対する応報が、そして最後に』三十二『章ではモーセの歌が記されている』。「申命記」の『神学は、唯一神ヤハウェのまったき恵みによって選ばれた「神の民」の神学であり、それはシェマ・イスラエル』、則ち、『「イスラエルよ』、『聞け。我らの神、主は唯一人の主なり。汝心を尽し』、『精神を尽し』、『力を尽して』、『汝の神、主を愛すべし」』 (六章の四と五)と『いう言葉に代表される』。「申命記」は『王国の制度が部族の自由を脅かし、アッシリアの圧迫が増大するという新しい状況のもとで、一つの神、一つの民族、唯一の祭儀という古いアンフィクティオニー(宗教を中心とする種族連合)の理念を』、『再び』、『力強く掲げたものであった』とある。小泉八雲の原文では引用は“"Honor thy father and thy mother." — Deut. v. 16.”。「Deut.」は「Deuteronomy」は「申命記」の英訳。

「箴言」(しんげん/英語:Mishle/Proverbs)は旧約聖書の一書で、旧約聖書内でも「知恵文学」の代表的一書である。「ブリタニカ国際大百科事典」によれば(コンマを句点に代えた)、『マソラ本文では諸書の真理と呼ばれるものの一書、セプトゥアギンタでは文学の一書。箴言の原語メシャーリームは「比喩」あるいは「格言」の意。第』一『章の表題から』、『古来』、「箴言」の『著者はソロモン』(イスラエル統一王国第三代目の王(在位紀元前九六一年~紀元前九二二年))『とされていたが、実際はいくつかの箴言集の集成であり、ソロモン自身がそれとどのような関係に立つかは不明である。内容は』①『知恵の賛美』(一~九章)、②『ソロモンの箴言』、③『知恵ある者の言』、④『ソロモンの箴言』、⑤』マッサの人ヤケの子アグルの言』、⑥『マッサの王レムエルの言』、⑦『賢い妻をたたえたアクロスティックの詩(アルファベット詩歌)二『大別される』。「箴言」の成立した時代は』、恐らく『バビロン捕囚』(紀元前五九七年から紀元前五三八年に亙ってイスラエルのユダヤの人々がバビロニア王ネブカドネザルによってバビロニアに捕囚となった事件)『後で、内外ともに悲観すべき状況にあり』、『伝統的信仰は動揺し』、『道徳的退廃も著しかった。この危機にあたり,預言者に代る教師たち(知恵ある者)は、神を恐れる以上の知恵はない』、『という伝統的信仰に立脚しながら』、『実際的処世訓を説き、若いユダヤ人を指導した』とある。小泉八雲の原文は“"Hear the instruction of thy father, and forsake not the law of thy mother." ―Proverbs 1. 8.”。]

 

 

       

 

 お大は佛壇の燈明と香爐と水入れをわきへやつて、そのうしろの小さい御厨子を開いた。そのうちに、彼女の一族の位牌があつた。――合せて五つの位牌があつた、それから觀音菩薩の黃金の姿がそのうしろに微笑しながら立つてゐた、祖父母の位牌が左の方、兩親のが右の方にあつた、そしてその間に皆幸福であつた時分に一緖に遊んだり喧嘩したり笑つたり泣いたりした小さい弟の戒名のある小さい位牌があつた。それから、又その御厨子には多くの祖先の戒名の書いてある卷物もあつた。お大はその御厨子の前で、幼少の時から合掌をする事になれてゐた。

 この位牌と卷物は、以前は父の愛情と母の撫育よりも、――彼女の幼少の時代を養育し、彼女を脊負うて祭と云ふ祭につれて行き、彼女を喜ばせる事を工夫し、彼女の色々の小さい悲しみを慰め、歌をうたつて彼女の不機嫌を直してくれて、いつも愛情にみちた、いつも辛抱强い、いつもにこにこした老人達のどの記憶よりも、――可愛いいたづらの弟の笑と淚、やさしい呼び聲、高い呼び聲、走る音よりも、――祖先の凡ての傳說よりも、お大の信仰にとつては、大きな、遙かに大きな意味をもつてゐたのである。

 その理由は、それ等の物は過去の人々が目に見えないでも實際に存在する事、――目に見えない同情とやさしさの現れ、――生者の悅びと悲しみに應ずる死者の悅びと憂を意味したからである。これまで夕方の薄暗がりの時、其位牌の前に燈明をともす事をつねとしてゐた時、いかに度々その小さい焰が、それ自身の力によらないで動くのを見たであらう。

 

 しかし位牌は信心深い想像に取つてはただの表象以上の物ででもある。變質、變態の不思議な可能性がそれに存して居る。死から生へうつる間、魂の一時の宿ともなる、香の浸み込んで居る木の纎緯[やぶちゃん注:ママ。「せんい」。原文“fibre”(ファイバー)で、これは木材の木質繊維のことを指す。]の一つ一つは、見えない潜在の生命を、もつて生きて居る。靈の意志はそれに生命を與へる事もある。愛の力によつて位牌は肉と血とにかはる事もある。位牌の助けにより、葬られた母が暗夜にそのみどり子に乳を與へるために歸つて來る。位牌の助けによつて、火葬の薪で消えた女が、その許嫁の夫と結婚するために歸つて來る事がある、――更に有難くも、男の兒を與へる事さへもある譯者註。位牌の力によつて、死んだ家來が零落から主人な救ふために永眠の墳墓から歸つて來る事もある。それから愛や忠がその意志を果してから、その人は消える、――その肉體は再び見たところただの位牌となる。

譯者註 「知られぬ日本の面影」第二十五章第七章參照。

[やぶちゃん注:私の『小泉八雲 落合貞三郎他訳 「知られぬ日本の面影」 第二十五章 幽靈と化け物について(七)』を参照されたい。]

 

 凡てこの事をお大は知つて覺えてゐた筈である。恐らく覺えてゐた、彼女が御厨子から位牌と卷物を取り出して、窓から下の河へ落した時に泣いたからである。流れがそれを運び去つた時、彼女はそのあとを貝送るに忍びなかつた。

 

 

       

 

 お大は二人の英國の女宣敎師の命によつてかうしたのであつた、その人々は色々親切を裝うて彼女を基督敎徒としようと說いたのであつた。(改宗者は祖先の位階を埋めるか棄てるやうにいつでも命ぜられた)それ等の宣敎師にこの地方で始めて發見した唯一人の改宗者のお大に、助手として一ケ月三圓の給料をやる約束をした、お大は讀み書きができたからであつた。彼女の手の働きでは一ケ月二圓以上を儲ける事が到底できなかつた、そしてその中から小さい古道具屋の二階を借りて二十五錢の間代を拂はねばならなかつた。そこへ兩親の死後、彼女は家財と祖先の位牌を携へて行つた。生きる爲めには彼女は全く一所懸命に働かねばならなかつた、しかし一ケ月三圓あれば甚だ安樂に暮す事ができた、そして女の宣敎師は彼女のために部屋を與へた。彼女は人が自分の改宗を氣にかけるとは考へなかつた。

[やぶちゃん注:「三圓」以前に示したが、明治三〇(一八九七)年頃の小学校訓導(教員)や巡査の初任給は月八円から九円ほどで、一人前の大工や熟練した工場技師で月二十円位だったとし、そこから庶民にとっての一円を現在の二万円程度の価値はあったとする信頼出来る推定換算値によれば、六万円相当となる。]

 實際彼等は餘り頓着しなかつた。彼等は基督敎については何も知らなかつた、そして知らうともしなかつた、彼等はお大が外國婦人の眞似をする程愚かである事を嘲り笑つただけであつた。彼等は彼女を馬鹿と考へて惡意のない嘲りをした。そして彼女が河に位牌を投げるのを見られたその日までは、彼等は引續きただ面白半分に彼女を嘲つてゐた。その日から彼等は笑ふのを止めた、彼等はその動機や論じないで、その行爲それ自身を判斷した。彼等の判斷は卽座の、一致の、無言の物であつた。彼等はお大に一言の非難をも云はなかつた。彼等は彼女の存在を無視しただけであつた。

 

 日本の社會の道德的憤怒はいつも烈しい憤怒、――それ自身をすぐに燃やしてしまうやうな種類の憤怒とはきまらない。冷たい事もある。お大の場合では、それは氷の厚くなる時のやうに冷たい、無言の重い物であつた。何人も[やぶちゃん注:「なんぴとも」。]口には云はなかつた。全く自發的、本能的であつた。しかし一般の感情は、こんな風に言葉に譯する事ができたであらう、――

 

 『この極東に於て、人間社會は、太古より、過去に對する現在の感謝、死者に對する生者の尊敬、祖先に對する子孫の愛情を要求するその信條の力によつて結合されて居る。この目に見える世界のあなたまで、親に對する子の義務、主人に對する從者の義務、君主に對する臣下の義務が及んで居る。かるが故に家庭の相談に於て、國體の會議に於て、裁判の高き座席に於て、都會の支配に於て、國の政治に於て、死者は座長となるのである。

 

 『孝行と云ふ至高の德に反し、――祖先の宗敎に反し、――凡ての信仰と感謝と尊敬と義務とに反し、――彼女の種族の凡ての道德的經驗に反して、――お大は赦すべからざる罪を犯した。それ故人は彼女を見て汚れたる者、……――往來の犬、屋根の上の猫よりも親切を施す價値のない者――と見なすべきである、卽ちこれ等の物も、その低い程度に於て義務愛情の道を守るが故である。

 『お大は彼女の死者に對して感謝の言葉、愛のささやき、娘としての尊敬を拒絕した。それ故今後永久、生者は彼女に挨拶の言葉、普通の會釋、やさしい答を拒絕せねばならない。

 『お大は彼女を生んだ父の記念、彼女がその乳を飮んだ母の記念、彼女の幼年時代を撫育したおとな達、彼女を姉と呼んだ小さき者の記念を嘲つた。彼女は愛情を嘲つた。それ故凡ての愛、凡ての情あるつとめは彼女には與へられない。

 『彼女を生んだ父の魂、彼女を生んだ母の魂に、。お大は屋根の蔭、食物の氣、水の捧物を拒ん與へなかつた。丁度その通り彼女には屋根の蔭、食物の授與、氣分を爽快ならしむる一杯の物も與へられない。

 『そして丁度彼女が死者を投げ捨てたと同じく生者は彼女を投げ捨てるべきである。殘骸の如く邪魔物にさるべきである、――何人も顧みない、何人も葬らない、何人も憐まない、何人も神や佛にそのために祈らない小さい腐肉の如く。餓鬼の如く彼女はあるべきである、――塵塚の中をあさつて食物を求むる少食(せうじき)餓鬼の如く。生きながら地獄のうちに入るべきである、――しかも彼女の地獄は唯一人の地獄、淋しい地獄、火の淋しさに呪はれたる魂を圍む孤獨の地獄であるべきである。――

[やぶちゃん注:「少食(せうじき)餓鬼」原文“ Shōjiki-Gaki ”。これは餓鬼の三大分類の内の一つである、穢れた血や膿、人間の糞尿や嘔吐物、人の死体などの不浄なごく僅かなもののみを食うことが許されている餓鬼とされる「少財(しょうざい)餓鬼」のことであろう(他は無財餓鬼(飲食しようとするとその対象が炎などになって、食べることが全くできない餓鬼)と多財餓鬼(人の遺した余り物や人から施されたものを食べることができる餓鬼)。]

 

 

       

 

 思ひがけなく宣敎師の女達はお大に自活すべき事を通知して來た。恐らく彼女は最善をつくしたらう、しかしたしかに彼女は彼等に何の役にも立たなかつた、そして彼等は有能な助手を要した。その上彼等は暫らくその地を去らうとしてゐた、そして彼女を一緖につれて行く事はできなかつた。たしかに彼女は單に基督敎徒であるために一ケ月三圓貰へると思ふ程愚かである筈はなかつた。……

 お大は泣いた、それで彼等は彼女に勇敢であれ、正しき道を蹈めと敎へた。彼女は職を求むる事はできないと云つた、彼等は勤勉にして正直な人はこの忙しい世界に於て、就職難に苦しむに及ばないと告げた。それから絕望的恐怖の餘り、彼女は彼等に彼等の理解する事のできない、そして頑强に信じようとしない事實を告げた。彼女は危難のさし迫つて居る事を告げた、そこで彼等は彼女が全然堕落した事を告白したと信じて、彼等のできる限りの冷酷さを以て答へた。これは彼等の誤解であつた。この少女に惡德の分子は一點もない、愛すべき弱點と小兒らしい輕信とは彼女の最も惡い缺點であつた。實際彼女は助力を要した、早くそれを要した、甚しくそれ要した。しかし彼等は只彼女が金錢をほしがるとのみ考へた、そしてその金錢を得られない時には、罪を犯すとおどかしたとのみ考へた。彼女にはいつも前金で拂つてあるから、彼等は彼女に何にも負うてゐない、そして彼等はこれ以上何等の種類の助けをも與へない理由が立派にあると想像した。

 そこで彼等は彼女を外に出してしまつた。すでに彼女はその家財を賣つた。もう何(なん)にも賣る物はない、ただ着て居る一枚の着物及び役に立たない足袋の數足あるだけ、その足袋は宣敎師の女達が若い女が素足で居るのを見られるのは不作法であると思つて、彼女に買はせたのであつた。(彼等は又日本風に髮を結ふことが不信心に見えるので、忌まはしき束髮に結ふ事を餘儀なくもさせた)

 

 孝行の道に反した行があつたと公然判定された日本の少女はどうなるだらう。不貞と公然判ぜられた英國の少女はどうなるだらう。……

 

 勿論お大は强かつたら、袂に石を入れて河に投じたかも知れない、――そのやうな境遇では、さうするのが立派なやりかたであつたらう。或は喉を切つたかも知れない、――その方がもつと立派だ、それには勇氣と熟練と兩方要るから。しかし彼女の階級の改宗者の多數の如く、お大は弱かつた、この人種の勇氣は彼女には缺乏してゐた。彼女は未だ生きてゐたかつた、そしてその生きる權利を主張するために、世の中と爭ふ事のできる强い型の人ではなかつた。彼女の過失を充分誓つて改めた後でも、彼女には取るべき道が只一つしかなかつた。

 

 願はれた値段の三分の一で、お大の肉體を買つた人は云つた、――

 『私の商賣はこの上もなく恥づべき商賣です。しかしこんな商賣へも、お前さんがしたやうな事をした女は入れられません。私のうちへお前さんを入れたら、お客は來なくなります、そして事が色々面倒になります。だから大阪へお前さんをやりませう、そこへ行けば分らないから、そして大阪のうちでお金を拂つてくれます。……』

 

 そんなにしてお大は、都會の肉欲の坩堝(るつぼ)の中に投げられて永久に消えた。……多分彼女はどの外國宣敎師でも皆理解するやうに試むべき事實の一例を示すために存在したのである。

 

2019/10/21

小泉八雲 橋の上  (田部隆次譯)

 

[やぶちゃん注:本篇(原題“ On a Bridge ”(「橋の上にて」))は一九〇一(明治三四)年十月にボストンの「リトル・ブラウン社」(LITTLE,BROWN AND COMPANY)から出版された作品集“ A JAPANESE MISCELLANY ”(「日本雑記」。来日後の第八作品集)の第一パート“ Strange Stories ”(「奇談」・全六話)・第二パート“ Folklore Gleanings ”(「民俗伝承拾遺集」・全三篇)に次ぎ、最後の三番目に配された“ Studies Here and There ”(「ここかしこに関わる研究」。底本では「隨筆ここかしこ」)の第一話である。本作品集は“Internet Archive”のこちら(出版社及びクレジットの入ったページを示した)で全篇視認できる(本篇はここから)。活字化されたものは、整序されたものは見当たらない(今まで紹介していないが、同前の“Internet Archive”には本作品集のフル・テクスト・ヴァージョンはあるにはあるのであるが、OCRによる読み込みで、誤まり多く、美しくなく、読み難く、また、味気ない)。

底本は英文サイト“Internet Archive”のこちらにある、第一書房が昭和一一(一九三六)年十一月に刊行した「家庭版小泉八雲全集」(全十二巻)の第七巻の画像データをPDFで落として視認した【2025年4月11日:底本変更・正字化不全・ミスタイプ・オリジナル注全補正】時間を経て、国立国会図書館デジタルコレクションに本登録し、現行では、以上の第一書房版昭和一一(一九三六)年十一月に刊行した「家庭版小泉八雲全集」(全十二巻)の第七巻が、国立国会図書館デジタルコレクションで公開されてある。(リンクは扉だが、「家庭版」の文字はない。しかし、奥附を見て貰うと『家庭版』とあり、『昭和十一年十一月二十七日 發 行』とあることが確認出来る)、これが、前掲の底本と同じものであるが、やはり、外国のサイトのそれを底本とするのは、日本人小泉八雲に失礼であると考えた。されば、こちらで、再度、以下の「骨董」の作品群を改めて校正することとする。これが――私の小泉八雲への「義」――である。なお、これよりも前の元版の全集等が先行しているものの、私がそれらと比べた結果、実は先行する同社の「小泉八雲全集」のそれらは、訳が一部で異なっており、訳者等によって、かなりの補正・追加がされていることが、今回の正字補正作業の中で、はっきりと判って来た。いや、同じ「家庭版」と名打ったネット上の画像データでも、驚いたことに、有意に異なっていたのである。そうした意味でも――完全な仕切り直しの総点検――が必要であると決したものである。従って、旧前振りの括弧・鍵括弧の問題も、拡大とガンマ補正で確認し、正確を期する。本作はここから。 底本では、中パート標題は以下の通り、「隨筆ここかしこ」と訳してある。

 田部隆次(たなべりゅうじ 明治八(一八七五)年~昭和三二(一九五七)年)氏については先に電子化した「人形の墓」の私の冒頭注を参照されたい。

 なお、底本の田部氏の「あとがき」に、『「橋の上」は熊本見聞談の一つ、車夫平七はヘルン家でいつも雇うた實在の人物、話も事實談』とある。]

 

 

  隨筆ここかしこ

 

 

   橋の上

 

 私の老車夫、平七が熊本近傍の或名高い寺へ私をのせて行くところであつた。

 白川にかかつて居る駱駝の背のやうに曲つた、ものさびた橋へ來た、そこで私は暫らくそこの風景を樂しむために橋の上で止まる事を平七に命じた。夏の空の下で、電光のやうに白い溢れるやうな日光に浸された土の色は、殆んどまぼろしのやうに綺麗に見えた。橋の下には淺い川が、色々の綠の蔭になつた灰色の石の河底を、からからざわざわ、音をたてて流れた。前方には赤白い道が、肥後の大平野をとり卷いて居る高い靑い山脈の方へ、森を通つたり、村を通つたりして、うねつて居るのが交々[やぶちゃん注:「こもごも」。]見えたり消えたりしてゐた。うしろには澤山の屋根が遙かに靑く入り交つて居る熊本があつた、――ただ遙かの森の山の綠に對して城の綺麗な白い輪廓がはつきり現れてゐた。……中で見て居ると、熊本はきたないところだが、その夏の日に私が見たやうに見ると、霞と夢でできたまぼろしの都である。……

[やぶちゃん注:小泉八雲(当時は未だLafcadio Hearn。彼の帰化手続きの完了と小泉八雲への改名は明治二九(一八九六)年二月十日)は明治二四(一八九一)年四十一歳の時、島根尋常中学校英語教師の職を辞し、妻セツとその家族を伴い、熊本の第五高等学校へ赴任するため、十一月十九日に熊本に着き、同月二十五日に熊本市手取本町の借家に入った。現在の熊本市中央区安政町(ごく北直近で手取本町と接する)に彼の住んだ「小泉八雲熊本旧居」(グーグル・マップ・データ。以下同じ)がある。白川はその南東のすぐ近くを貫流する川である。本篇のロケーションとそれらの位置関係を考慮するなら、「熊本近傍の或名高い寺」で、当時もそうであった寺とすれば、木原不動(尊)の通称で親しまれている、熊本市南区富合町木原にある天台宗長寿寺が一つの候補とはなろう(ここだとする根拠はない)。そうした場合、このロケーションの「橋」は白川のどこの橋かと推理するに、県道二十ニ号が白川に架橋するこの橋から、下流の熊本駅東直近の白川橋、或いは、その上流で旧居により近い、七つほどの橋の孰れかと、まずは考えられようか(ここと後のシーンから、熊本城とその市街・周囲の山地が眺望出来る橋でなくてはならぬが、私は行ったことがないので判らぬ)。但し、ノンフィクション風の随筆であっても、小泉八雲は実景を見た通りには描かないこともあり、作品によっては、ロケーションをとんでもない別な場所(例えば、嘗つていた松江)に移して語っている場合もあるから、私の推理自体は馬鹿正直に過ぎるかも知れぬ。ただ、「白川にかかつて居る駱駝の背のやうに曲つた、ものさびた橋」は、実景と考えてよい。ここで熊本城や山地が見えるとすると、白川橋が、地図上からはしっくりはくるのである。しかし、旧のそれらの橋の画像を見られぬので、やはり、特定は出来ない。識者の御教授を乞うのもである。]

 

 額をふきながら平七は云つた。『二十二年前、いや二十三年前、私はここに立つて町の燃えるのを見ました』

 『夜ですか』私は尋ねた。

 『い〻え』老人は云つた『午後でした、雨の日でした。戰爭中で、町は燃えて居りました』

 『誰が戰爭してゐたのです』

 『城の兵隊が薩摩の人達と戰爭をしてゐました。私共は玉をよけるために、地面に穴を掘つて、その中にゐました。薩摩の人達は山の上に大砲を据ゑました、それから城內の兵隊がそれを打つたので、玉は私共の頭の上を通つて行きました、町は皆燒けました』

 『ところで君はどうしてここへ來合せたのか』

 『私は逃げて來たのです。私は獨りでこの橋まで走つて來ました。ここから三里程ある私の兄の農場へ行けると思つたのです。ところがここで止められました』

 『誰が止めたのです』

 『薩摩の人達です、――誰だか分りません。橋へ參りますと三人の農夫がゐました、――私は農夫だと思つたのです、――それが欄干によりかかつてゐました、大きな笠と蓑をつけて草鞋をはいてゐました。私は丁寧に言葉をかけました、すると一人は頭をぐるりと𢌞して、私に「ここに止まつてゐろ」と申しました。それだけでした、外の人は何も申しません。それから私はその人達は農夫でない事が分つて恐ろしくなりました』

 『どうして農夫でない事が分つたのです』

 『蓑の下に長い刀を――大層長い刀をかくしてゐました。大層背の高い人達でした。橋によりかかつて川を見下してゐました。私もそばに立つてゐました、丁度そこの左の方の三番目の柱のわきで、その人達と同じ事をしてゐました。誰も物を云ひません。そして長い間欄干によりかかつて立つてゐました』

 『どれ程』

 『はつきり分りませんが――長かつたに相違ありません。私は町が燃えて居るのを見ました。その間私に物を云ふ者も、亦私を見る者もありませんでした。皆水を見つめてゐました、すると速足で騎兵の將校が來ました、ずつとあたりを見ながら。……』

 『町から?』

 『はい、そのうしろの道をずつと。……その三人の人達は笠の下から見てゐましたが頭は動かしませんでした、川を見下して居るふりをしてゐました。ところが馬が橋にかかるその時、三人がふり向いて躍りかかりました、そして一人は馬の轡をつかむ、一人はその將校の腕を押へる、一人はその首を斬り落す、ほんのちよつとの間に。……』

 『その將校の首を?』

 『はい、聲を出す間もないうちに首は落ちました。……そんな早業を見た事はありません。三人とも一言も發しませんでした』

 『それから』

 『それからその死骸を欄干の上から川へほうりました。そして一人が馬をなぐりました、ひどく、そこで馬は馳け出しました。……』

 『町の方へ?』

 『い〻え、馬は橋向うの村の方へずつと追ひやられました。首は川へ投げ棄てないで、一人の薩摩の人はこれを蓑の下へ入れてもつてゐました。……それから皆、前の通り欄干によりかかつて見下してゐました。私の膝はふるへました。三人の武士は一言も物を云ひませんでした。私にはその息も聞えませんでした。私は顏を見るのを恐ろしく思ひました、私は川を見續けてゐました。……少したつて又馬が聞えました、そして私の胸が騷いで氣もちが惡くなりました、――それから見上げると、大層速く又一人の騎兵が往來をずつとやつて來ました。それが橋にかかるまで誰も動きません、すると忽ちのうちに首が落ちました、死骸は川にほうり込まれ、馬は追ひやられました事は、全く前の通りでした。そんな風にして三人殺されました。それから武士は橋を立ち去りました』

 『君も一緖に行きましたか』

 『い〻え、その人達は三人目を殺すとすぐに出かけました、――首を携へて、――私には目もくれませんでした。私はその人達がずつと遠くなるまで、動く事もできないで、橋の上に立ちすくんでゐました。それから私は燃えて居る町へ走つて歸りました、私は一所懸命に走りました。そこで薩摩の軍勢が退却中と云ふ事を聞きました。すぐあとで東京から軍隊が參りました。それで私も何か仕事が手につきました、私は兵隊のために草鞋を運びました』

 『橋の上で殺されたのを君が見たと云ふ、その人達は誰でしたか』

 『存じません』

 『君は尋ねて見ようとした事はないのかね』

 『ありません』再び額をふきながら、平七は云つた『戰爭がすんで餘程になるまで、その事をちつとも云ひませんでした』

 『そりやどうして?』私は追究した。

 平七は驚いた顏をして、分らない氣の毒な人だと云ふ風ににつこりして答へた。

 『と申しますのは、さうするのが、まちがつてゐたでせう、――恩知らずのやうな事になりましたでせうからね』

 私は當然叱られたやうな氣がした。

 そして私共は旅行を續けた。

 

[やぶちゃん注:西南戦争に於ける熊本城攻防戦は明治一〇(一八七七)年、薩摩軍の急襲直前の二月十九日に、熊本鎮台が守る熊本城内で謎の火災が起こり(現在に至るまで原因不明)、烈風の中、櫓に延焼、天守までも焼失した後、翌々日の二十一日の夜半から二十二日の早暁にかけて、薩軍の大隊が順次、熊本に向けて発し、熊本城を包囲している。二十二日の夜明け前、鎮台側が砲撃を以って開始されて、各地で無数の遊撃戦・白兵戦が繰り広げられた。三月一日から三月三十一日までは、かの田原坂・吉次峠の激戦が続いたが、四月十七日、官軍が熊本城を開放、薩摩軍は熊本から敗走した(以上はウィキの「西南戦争」を参考にした)。平七の体験は事実に即するならば、このまさに四月半ばのことと考えられる。平七は開口一番、「二十二年前、いや二十三年前」と言っているが、これ自体が既に小泉八雲による時制補正がなされている。本作品集刊行は明治三四(一九〇一)年十月であり、その二十三年前は数えで本書刊行年から戻って、明治十年に合うようになっているからである。小泉八雲は熊本五高を既に明治二七(一八九四)年十月に辞め、神戸のクロニクル社に転職している。その後、僅か三ヶ月後の翌年一月には過労から眼を患い、同社を退社した。同年十二月に東京帝国大学文科大学の外山正一学長から英文学講師としての招聘を伝えられ、翌明治二十九年九月七日に当該職に就くために東京に着いており、本書刊行時も現職であった。

小泉八雲  (大谷正信譯) 六(「子守歌」)、及び、後書き部 / 日本の子供の歌~了

 

[やぶちゃん注:本篇については、『小泉八雲 日本の子供の歌  (大谷正信譯) 序・一(「天と天象との歌」)』を参照されたい。]

 

 

       

 

       子守唄

 子守唄文學には、國といふこと或は人種といふことと離れて、一種特別な心理的興味が附隨して居る。子守唄は母の慈愛の事前の發言であるから、愛情經驗の最も古い形式を現はして居ると言つてよい。そして殆どいづれの時いづれの場所に於ても、此種の民間歌謠の本質的特性は、如何なる種類の社會的變化にも、殆ど影響されて居ない。それが物語風であらうとただの音響であらうと、意味があらうが無意味であらうが、その文句は子供の心がそれを見て不思議に感ずる、見慣れて居るものに――例へば馬或は牛、木或は花、月と星、鳥或は蝶、街路や庭園の眺め、といふやうなものに――何等かの關係を大抵は有つて居る。子守唄は愛撫の一と言葉を述べて、次に從順(すなほ)ならば褒美を與へるとの約束と、だだをこねる結果として危險があるぞとの仄めかしとを交互に述べて、それを反復して居るが常である。その約束は食物か玩具かに就いてで、脅かしの罰はその母が加へるのでは無くて、いけずな子供を罰する力のある魔物か化物かである。日本の子守唄は、この槪則に對して、何等著しい例外を提供しはせぬ。が、奇妙な空想に富んでゐて、一種明らかに東洋的な性質を具へて居る。

 

 歐洲の讀者は、短いそんな歌の初めに『ネンネ』とか『ネンネコ』とかいふ綴音が出て來るのに、或は驚かる〻ことであらう。それは、佛蘭西の搖籃(ベルシユズ)の歌は多くは、殆ど同じ音の、『ネネ』といふ綴音で始まつて居るからである。(佛蘭西の――或る地方の方言では『ネンナ』とか『ノノ』とか發音する――『ネネ』といふ語は、多く南部佛蘭西の母親が使ふ。北部佛蘭西で、それに相當する語は『ドド』である)が、固よりのこと佛蘭西語の『ネネ』と日本語の『ネンネ』との間には、何等實際の語原的關係があるのでは無い。『ネンネコ』といふ日本語の句は、眠るといふ意味の『ネル』といふ動詞の一綴音と、赤ん坊といふ意味の『ネンネ』或は『ネンネイ』といふ語の一綴音と、子といふ意味の『コ』といふ語の、結合から成つて居るのである。『眠れよ、赤ん坊よ』といふがその言葉の眞の意味である。

 

附記 「ネネ」其他の佛蘭西語に就いては、ティエルソー氏の「佛蘭西俗謠史(イストアアル・ド・ラ・シヤンソン・ボブレエル・アン・フランス)」一三六――三七頁及び其後を參照されたい。

[やぶちゃん注:「搖籃(ベルシユズ)」原文(ここの右ページ二行目)は“ berceuses ”。音写するなら「ベルスゥーズ」。もと動詞の“bercer”の女性形。女性形名詞として「子どもを揺すりながら寝かしつける女」或いは「半自動的に動く揺り籠」のこと。但し、別に、これで音楽用語としては「子守唄」の意もある。されば、ここは本来なら「搖籃の歌」の四字に「ベルシユズ」をルビとして附すのが適切と思われる。

「ネネ」“ néné ”。これは“ nishons ”とともにフランス語の卑俗語で「女の胸・乳房」の意。

「ネンナ」原文“ nenna ”。但し、発音と言っているのでこれが綴りなのではなく、“ néné ”を訛っての謂いである。

「ノノ」原文“ nono ”。同前。

「ドド」原文“ dodo ”。これは「眠る」の意の動詞“ dormir ”(ドゥルミール)が元の「児童語」の名詞で、「ねんね」或いは「ベッド」の意。私の所持する普通の仏日辞書に載る。

『ティエルソー氏の「佛蘭西俗謠史(イストアアル・ド・ラ・シヤンソン・ボブレエル・アン・フランス)」』“ Tiersot’s Histoire de la Chanson Populaire en France ”。フランスの音楽学者・作曲家で民族音楽学研究の先駆者であったジュリアン・ティェルソー(Julien Tiersot 一八五七年~一九三六年)の、初期の民謡史研究の一書。一八八九年刊。Internet Archive」のこちらが参照元(楽譜附き)。]

 

ねんね、ねんねと

寢る子は可愛い!

起きて泣く子は

面(つら)憎い! (伊勢)

 

ねんねこ、ねんねこ!

    ねんねこや!

寢たらお母(かか)へ

    連れて行(い)なあ!

起きたら ががまが

    とつて囓(か)まあ! (出雲)

附記 ガガマといふは或る化物の出雲名である。これに古代の「ゴゴメ」といふ語の轉訛はではなからうかと思ふ。ゴゴメといふは原始的神道信仰の或る妖怪で、冥界の魔女である。

[やぶちゃん注:「ガガマ」「ゴゴメ」は恐らく黄泉醜女(よもつしこめ)のことであろう

 

寢たか、寢なんだか、

枕に問へば、

枕もの言うた、

寢たというた。 (京都)

 

ねんねこ、ねんねこ、

    ねんねこよ!

己(おら)が赤ん坊は

    いつ出來た?

三月さくらの

    咲く時に、

道理でお顏が

    さくら色! (武藏)

 

ねんねん、ねんねん、

    ねんねんよ!

ねんねした子に

    羽子板(はごいた)と羽子(はね)と!

ねんねせぬ子に

    羽子ばかり! (讃岐)

 

ねんねんよう!

    ころころよ!

ねんねん小山の

    雉子の子は

啼くとお鷹にとられるよ! (信濃)

 

附記 雉子といふは美しい綠色のフエザントで、屢〻その啼聲で、その居場處を獵師に洩らす。だから「雉子も啼かねば打たれまい』といふ諺がある。

[やぶちゃん注:「フエザント」“pheasant”は鳥綱キジ目キジ科 Phasianidae のキジ類(及びその肉)を指す英語。

 次は一行空けがないが、挿入した。]

 

ねんねこ、ねんねこ、

    ねんねこや!

あちら向いてもやあま山!

こちら向いてもやあま山!

やあまの中(なか)に何がある?

椎やどんぐり榧(かあや)の實! (出雲)

 

附記 椎はライヴ・オークの一種。カヤはユウの一種。

[やぶちゃん注:「かあや」は原文では“kaya”であるが、大谷氏が知っている唄の韻律として、この音を選んで補正した確信犯のものであろう(彼は松江市末次本町生まれである)。

「椎」「ライヴ・オークの一種」“live-oak”。ブナ目ブナ科シイ属 Castanopsis で、本邦には関東以西にツブラジイ(コジイ)Castanopsis cuspidataと、シイ属の中では最も北に進出している(福島県・新潟県佐渡島にまで生育地がある)スダジイ(ナガジイ・イタジイ)Castanopsis sieboldii の二種が植生する。「ライヴ(リヴ)・オーク」はアメリカの太平洋岸からメキシコにかけて分布するブナ科コナラ属Quercus の常緑のオーク。バージニア州の州木。学名はメキシコ産が Quercus virginiana、カリフォルニア産が Quercus agrifolia。属名で異なっているので言うまでもないが、「live-oak」ではない。但し、シイは広義には「オーク(材)」には含まれるから、大まかにそう言ったものであろう。

「カヤはユウ」裸子植物門マツ綱マツ目イチイ科カヤ属カヤ Torreya nucifera。「ユウ」は日本語ではなく、英語“yew”で、狭義にはイチイ科イチイ属 Taxus を指す語で、同じイチイ科 Taxaceae としては仲間であり、カヤは“Japanese nutmeg-yew”の英名で呼ばれる。]

 

ねんねこせ、

    ねんねこせ!

寢んねのお守(もり)は

何處(どこ)へ行(い)た?

山を越えて

    鄕(さと)へ行(い)た!

鄕(さと)の土產に

    何貰うた?

でんでん太鼓に

    古つづみ!

おきあがりこぼしに

    犬張子! (出雲)

 

附記 「デンデン太鼓」は圓い淺いドラム。ツヅミは頗る妙な恰好のハンド・ドラム。こゝにいふ玩具ドラムは固より本當のものよりか餘程小さい。オキアガリコボシといふは相撲取の姿をした小さなもので、どんなに投げても眞直に立つやうに重みが入れてあるもの。

[やぶちゃん注:最後の解説の頭の「附記」はないが、補った。

「おきあがりこぼし」「起きあがり小法師」。小学館「日本大百科全書」によれば、『張り子製の小法師人形の底に、土のおもりをつけた玩具』で、『倒しても』、『すぐ起き上がるのでこの名がついた。原型は中国の酒胡子(しゅこし)に始まるといわれる。酒胡子は唐代からの木製人形で、尻』『がとがっている。盤中で転がしてしばらく舞ったのちに倒れると、その静止した方向の座にある者が杯(さかずき)を受けるという遊びに用いられた。明代』『に紙張り子でつくられるようになり、酒席の玩具となった。室町時代に日本に渡来、転がしても起き上がることから、不老長生の意味で不倒翁とよんだが、童形(小法師)につくり変えられて子供の玩具となった。「小法師」とは子供の意である。当時の狂言』「長光(ながみつ)」に、『「なに、おきあがりこぼしじゃ、子供たちの土産』『にこれがよかろう」とあり、子供向きの玩具に商品化された。江戸時代初期に京坂地方では摂津の津村(大阪市)が産地として知られた。やがて上方』『から江戸へ伝えられ、広い社会層に迎えられた。「おきあがりこぼうし」「おきあがりこぶし」などともよばれ、玩具以外に「七転び八起き」の縁起と結び付いて置物にされ、七福神や達磨』『の姿のものもつくられた』とある。但し、ウィキの「起き上がり小法師」では、『福島県会津地方に古くから伝わる縁起物・郷土玩具の一つで』、『起姫(おきひめ)ともいう。会津の人にとっては「赤べこ」の次に馴染みのある郷土玩具であ』り、『古くは』四百『年前に会津藩主・蒲生氏郷が藩士に小法師を作らせ』、『正月に売らせたのがはじまりと言われる』とある。汎日本的な「起き上がりこぼし人形」のルーツの説明としては、前者の方が納得出来る。]

 

寢んねんさんせよ!

今日は二十五日!

明日(あす)はこの子の宮參り!

宮へ參らばどういうて拜む?

この子一代まめなよに! (伊勢)

 

ねんねこ、ねんねこ、

    ねんねこよ!

己(おら)が赤坊の

    寢た留守に、

小豆をよなげて、

    米といで、

赤の飯(まんま)に

    魚(とと)添へて、

赤のいい子に

    吳れるぞへ! (武藏)

[やぶちゃん注:「よなげて」「淘げて」。「よなぐ」は「米を水に入れてゆすって研(と)ぐ」・「水に入れて掻き混ぜて細かいものなどを揺らして選り分ける」・「より分けて悪いものを捨てる」の意。]

 

自家(うち)の此の子の

    枕の模樣!

梅にうぐひす

    松に鶴!

梅に慣れても

    櫻はいやいや!

同じ花でも

    散りやすい! (越前)

 

附記 櫻は、だから、不吉な模樣である。民間傳說の地方的小片がこの作で窺はれる。普通には、櫻は幸福な徽號と考へられて居る。この關係に於て、蓮の花の模樣は不吉だと思はれて居る、ことを述べてもよからう。子供の衣物の模樣には、決してそれを見ること出來ぬ。その花の繪すら殆ど部屋に掛けることをしない。その理由は、蓮は佛敎の表象的な花であるから、墓石に彫る。そして葬式の行列に一つの徽號として持ち運ぶ。

 

ねんねこ、ねんねこ、

    ねんねこや!

この子何故(なあ)して

    泣くやら?

お乳が足らぬか?

    おままが足らぬか?

今にお父(とつあ)んの大殿の

    お歸りに、

飴や、お菓子や、

    ヒイヒイや、

ガラガラ、投ぐれば

    フイと立つ、

おきあがりこぼし!

ねんねこ、ねんねこ、

    ねんねんや! (出雲。松江)

[やぶちゃん注:「ヒイヒイ」不詳。小学館「日本国語大辞典」の「ひいひい」に、馬を表わす幼児語とし、「ひんひん」と同じとするから、馬の玩具か。]

 

善い子だ、さん子だ!

    壯健(まめ)な子だ!

まめで育てた

    お子だもの!

寢るとねり餅

    くれてやる!

泣くと長持

    しよはせるぞ!

怒(おこ)ると怒(おこ)り蟲

    吳れてやる! (靜岡市)

 

附記 この作の主たる面白味は句が頭韻を踏んで構成されて居る點にある。妙な言葉のたはむれが方々にある。マメは發音では「豆」とも「壯健」とも意味する。同樣にオコリは「怒り」とも「瘧」とも意味する。オコリムシは「瘧蟲」で、寒氣と熱とを起こすと思はれて居る、或る大きな蛾の普通名である。

[やぶちゃん注:「さん子」不詳。識者の御教授を乞う。

『オコリムシは「瘧蟲」で、寒氣と熱とを起こすと思はれて居る、或る大きな蛾の普通名である』この冤罪の蛾の種は不詳。そもそも「瘧」はマラリアを指す。いろいろ調べたが、判らない。識者の御教授を乞う。因みに、柳田國男の「蟷螂考」に、新潟方言でカマキリを指す語として、「オコリムシ」が挙がっている。言っておくと、ここでは、赤ん坊(というより子守する子)にとっては、「ガ」より、「カマキリ」の方が忌まわしい虫であろうから、その意味かも知れない。

 

坊やはいい子だ、

    ねんねしな!

この子の可愛さ

    限り無い!

山での木の數、

    榧の數!

天へ上(のぼ)つて

    星の數!

沼津へ下れば

    千本松!

千本松原、小松原!

松葉の數より

    まだ可愛ぃ! (駿河)

 

お寢んね、お寢んね

    お寢んねや!

宵には早(とう)から

    御寢(しん)なり、

あさまは早(とう)から

    お目ざめて、

御目覺のお褒美に

    なあに何?

お乳の出花を

    上げませうぞ!

お乳の出ばなが

    おいやなら、

鷄(にはとり)蹴合はせ

    お目にかきよ!

鷄蹴合はせ

    おいやなら、

御菓子澤山

    おあがりか? (出雲。大名の子に歌つた子守唄)

 

附記 出雲松江で人のいふのを書き寫したもの。此の一篇の本來の面白味は、その奇妙なそして全く飜譯不可能な敬語にある。

 

ねんねんよ!

    ころころよ!

ねんねん小山の

    兎(うさぎ)は、

なあぜに御耳が

    お長いね?

お母(か)さんのお腹(なか)に

    居た時に、

枇杷の實 笹の實

    喰べまして、

それで御耳が

    お長いよ! (東京)

 

附記 この歌の出雲で歌ふのが自分の「知られぬ日本の面影」第二卷にある。出雲で歌ふのがこれよりも面白い。東京で變つた文句のがある。

[やぶちゃん注:私の「小泉八雲 落合貞三郎他訳 「知られぬ日本の面影」 第二十三章 伯耆から隱岐ヘ (二十七)」を参照されたいが、そこでの採取地は出雲でも隠岐でのもので、短いので、唄だけを以下に引いておく。

   *

ねんねこ、お山の

    兎の子、

なぜまたお耳が

    長いやら、

おつかさんのおなかに

    居る時に、

枇把の葉笹の葉

    喰べたそな、

それでお耳が

    長いそな

   *]

 

ねんねん、ころいち、

    天滿の市よ!

大根揃へて

    船に積み、

船に積んだら

    何處まで行(い)きやる?

木津や難波の

    橋の下(した)!

橋の下には

    お龜が居やる!

お龜とりたや

    竹欲しや!

竹が欲しけりや

    竹屋へ行(い)きやれ!

竹は何でも

    御座ります! (攝津)

 

お月さん いくつ?

十三 ななつ!

まだ年 若い!

あの子を 產んで、

この子を 產んで、

だれに 抱かしよ?

お萬に 抱かしよ!

お萬 何處へ行た?

油買ひに 茶買ひに!

油屋の 前で

すべつて ころんで、

油一升 こぼした!

その油 どうした?

太郞どんの 犬と、

次郞どんの 犬と、

皆なめて しまつた!

その犬 どうした?

太鼓に 張つて、

あちの方でも どんどこどん!

こちの方でも どんどこどん!

    たたいたとさ! (東京)

 

ねんねんや! ころころや!

ねんねの生まれた その日には、

赤いお飯(まんま)に 魚(とと)添へて、

父(とと)樣のお箸で あげましよか?

ととさまのお箸は ととくさい!

母(はは)樣のお箸で あげましよか?

母さまのお箸は 乳くさい!

姉(あね)さまのお箸で 上げましよう!

ねんねん、ころころ、ねんねしよう! (岐阜)

 

ねんねこ、さんねこ、

    酒屋の子!

酒屋をいやなら

    嫁にやろ!

嫁の道具は

    何々ぞ?

簞笥、長持、

    ひつ、とだな!

琉球づつみが

    六荷(ろくか)ある!

風呂敷包は

    數知れず!

それほどこしらへ

    やるほどにや、

一生去られて

    戾るなよ!

そりやまたお母(か)さん

    どうよくな!

千石(ごく)積んだる

    船さへも、

風が變はれば

    戾るもの! (攝津)

 

附記 琉球で製造する種々な織物は日本で珍重せられる。小さな贈物は普通それを木綿か絹かの四角な切れに包んで持つて行く。それは大きなハンケチに似たもので、それをフロシキと呼ぶ。

[やぶちゃん注:「琉球づつみ」「琉球包」。]

 

千疊座敷の

    唐紙(からかみ)そだち!

坊ちやまも善(よ)い子に

    なる時は、

地面をふやして

    土藏(くら)たてて、

土藏(くら)の隣に

    松植ゑて、

松の隣に

    竹植ゑて、

竹の隣に

    梅植ゑて、

梅の小枝に

    鈴下げて、

その鈴ちやらちやら

    鳴る時は、

ぼつちやまもさぞさぞ

    嬉しかろ! (東京の子守唄)

 

金柑、蜜柑、

    なんぼ喰べた?

お寺の二階で

    三つ喰べた!

そのお寺は

    だれが建てた?

八幡(はちまん)長者の

    末(おと)娘!

末(おと)が嫁入り

    する時にや、

なんがい寺町

    シヤラシヤラと

短い寺町

    シヤラシヤラと

シヤラシヤラ雪駄の

    緖が切れた!

姉(あね)さんたてて

    呉れんかな?

たてて遣るこた

    やろけんど、

針も無ければ

    糸も無い!

針は針屋で

    買うてやる!

糸は糸屋で

    買うてやる!

針は針屋の

    腐れ針!

糸は糸屋の

    くされ糸!

姉さん雪駄に

    血がついた!

それは血ぢや無い

    紅(べに)ぢやもの!

大阪紅こそ

    色よけれ!

色のよい程

    値(ね)が高い!(博多市)

 

附記 セツタとは輕くはあるが頗る丈夫な草履で、その皮の踵の處へ薄い金屬が附けて强めてあるもの。ベニは主として唇に塗る。

 

 さて、結論のつもりで述べさせて貰ひたい事は、この稍〻長たらしい一文を起草する際、讀者に或る新しい經驗を――日本の市(まち)の街路を初めて通(とほ)つた時の經驗に稍〻似寄つた經驗を――提供しようと希望し得るだけであつた。

 日本の街路の初めての一般的印象は、多くの人には、奇異と云はんよりは寧ろ茫漠といつたものであるに相違無い。優れて銳敏な五感を有つて居なければ――例へばピエール・ロティの視力の如き視力を有つて居なければ、その街路を通つて居る間に見たものを、極少ししか記憶して居ることが出來ず、殆ど何物をも理解することが出來ぬ。にも拘らず、驚きもして居り面白くも感じて居ることが判かる。――何故とは知らずに、豆仙人國の、奇怪な土地の漢字を――意想外の魅力を――を感ずる。

[やぶちゃん注:「ピエール・ロティ」小泉八雲の来日影響を与えたとされる小説「お菊さん」で知られるピエール・ロティ(Pierre Loti 一八五〇年~一九二三年)はフランスの海軍士官で作家。これはペン・ネームで本名はルイ・マリー=ジュリアン・ヴィオー(Louis Marie-Julien Viaud)。職務で世界各地を回り、その航海中に訪れた土地を題材にした小説・紀行文を多く書き残した。

「豆仙人國」原文は“the elfish and the odd”と形容詞を名詞的に用いている。「ちっちゃい小妖精と風変わりな場所」の謂いであろう。]

 さで、自分が引用した子供歌全部のうちで、明らかに讀者の注意を惹いたものは、恐らくは五つ六つにも上るまい。歿餘のものに就いては、多分殆ど記憶にとどまるまい。が、若しこの一聯の歌を、假令[やぶちゃん注:「けりやう(けりょう)」。仮初・いい加減であること。「たとひ」が一般的読み方だが、「や」には繋がらないので、やむなく、こう読んでおく。]や急速に且つ皮相的にでも、讀まれたならば、丁度日本の街路を初めて見た後に續いて起こつて來る感じに似ぬでも無い、或る一般的印象或は漠たる感念を得られたであらう。――諸君のとは別なそして測り知ることの出來ぬ人性の朧氣な推測を妙に心を誘ひはするが、永久に諸君のものとは異つた、別な人種精神を、――である。

 

2019/10/20

小泉八雲 日本の子供の歌  (大谷正信譯) 五(「羽子突歌と手毬歌」)

 

[やぶちゃん注:本篇については、『小泉八雲 日本の子供の歌  (大谷正信譯) 序・一(「天氣と天象との歌」)』を参照されたい。]

 

 

       

 

       羽子突歌と手毬歌

 

 正月の休暇時分には、幾組もの少女が羽子を突いたり、手毬の種々な遊戲をしたりして居るので、街路はまことに美はしくなる。袖の長い、色取りの多樣な、晴衣をまとうて居るそんな少女共よりも美はしいものは、何も想像が出來にくからう。蛾か蝶の非常に燦爛たるものだけがそれに比べられよう。さういふ少女の優美さと上品さとを描くのに東京の畫工は甚だ巧みで、年ごとにそんな畫工は、手毬をついて居る少女共の群集の(時の流行も見せて)新しい着色の版畫や、或は、羽子板を手に、飛んで行くその羽毛の球(たま)を見やつて居る、花の脣を半ば開き、微笑む顏と輝く眼とを上に向けて居る、仙女のやうな少女の繪、を提供して我々を悅ばせる。それでも實物の方が時にはその繪よりも愛らしいこともあらう。それから、嗚呼! どんなにか驚嘆すべき羽子板を時々見ることが出來ることか! 或る山水、或る庭園、或る古代の貴公子の夢、かと思ふやうなのをば、絹のモザイク細工でその裏に貼り附けてある!

 が、その妙味は眼へだけのものでは無い。――さういふ仙女達は、遊戲を爲しながら、節奏と旋律とが不思議な、聞いて實に面白い、そして(西洋人の耳には)記憶することの不可能な、短い歌をうたふのである。

 

 此等の奇妙な短い歌は、多くは、つぎつぎの行又は句の最初の綴音が、その行又は句の順位を示して居る數詞の最初の綴音と同じになるやうに構成されて居る。最も普通に用ひられる日本の數詞はヒトツ、フタツ、ミツ、ヨツ、イツツ、ムツ、ナナツ、ヤツ、ココノツ、トヲである。が、種々な實例に於て支那の數詞[やぶちゃん注:本邦の漢字の「音読み」のこと。]が用ひられて居る。卽ち、イチ、ニ、サン、シ、ゴ、ロク、シチ、ハチ、ク、ジフである。そして色々の作品にその二組の數詞が交ぜて用ひてある。行又は句の一つづつを歌ふと共に、羽子板なり球なり、それを一度突くことになつて居る。『チヤウ』(偶數)といふ言葉は普通は十たび突くことを意味して居るやうである、――が、この意味は必ずしも明白では無い。

[やぶちゃん注:「『チヤウ』(偶數)といふ言葉は普通は十たび突くことを意味して居る」不詳。小学館「日本国語大辞典」の「丁」を見ると、魚商人仲間の隠語で「十」を表わすとあるが、理由は書かれていないが、関係はありそうだ。

 以下に再録する複数の歌の読みについて、大谷氏は基本、当該文字(列)の綴り音の初めの字音のみを示して、後を省略している場合が多いので、注意されたい。読みが判らない場合は、原本画像(ここ以降)を確認されたい。但し、これは彼が不親切なのではなく、小泉八雲が原本で斜体にしている数の呼称音の掛けてある斜体部のみをルビ化していることがそれで判然とする。]

 

一(ひ)人來な!

二(ふ)人來な!

見(み)て行きな!

寄(よ)つて行きな!

何(い)時來て、

六(む)づかし!

七(なな)藥(や)師!

此(こ)處のまで!

十(と)よ! (東京。羽子突歌)

 

一(ひ)人來な!

二(ふ)人來な!

見(み)て行きな!

寄(よ)つて行きな!

何(い)時來て見ても、

七(な)子帶を、

矢(や)車に締めて、

ここのよで、

一丁! (京都。羽子突歌)

 

附記 ナナコはうねうねの光澤のある、一種の思い綾織の絹。ミテモの「ミ」といふ綴音がこの歌ではムツ(六)の最初の綴音の「ム」の代りになつて居る。

 

一(ひ)と目!

二(ふ)と目!

目證(めあかし)!

嫁(よ)御!

いつ屋の

六指(むさし)!

なな屋の

矢(や)指!

ここの屋

とを! (京都。羽突歌)

 

比(ひ)良屋彥兵衞!

中根のお豐(とよ)!

三度目に負けて、

あべこべちんちくりん!

ちんちくりんのちんちくりん!

一(ひ)人子に 双(ふ)見!

見(み)渡す 嫁(よ)御!

何(い)時來て 見(み)ても、

七(な)子の帶を、

矢(や)の字に 締めて、

此(こ)の家を 通(と)る! (信濃。羽子突歌)

 

附記 此歌にいうて居る「ヤ」は平假名の「ヤ」である。帶のこの結び方は今も流行つて居て、「やの字結び」といつて居る。

[やぶちゃん注:グーグル画像検索「矢の字結び 帯」をリンクさせておく。]

 

 時には有名な十ケ寺の名、或は十體の神佛の名、或は月の名すら――次記の例に見る如く――この款へ立てる目的に用ひる。

 

一(い)に一(い)畑お藥師樣よ!

二(に)には日(に)本の日光樣よ!

三(さ)に讃(さ)岐の金比羅樣よ!

四(し)には信濃(し)の善光寺樣!

いつつ江(え)の島辨天樣よ!

六(ろ)に六(ろ)角堂の觀音樣よ!

ななつ七(な)浦の天神樣よ!

八(や)つ八(や)幡の八幡樣よ!

ここのつ 高野(かうや)の弘法樣よ!

十(と)で 處(と)の氏神樣よ!

掛けた願なら解かねばならぬ! (東京。手毬歌)

 

附記 この作品の變形が殆ど日本到る處にあるやうである。

[やぶちゃん注:「高野(かうや)」は原本は口語音で“Kōya”となっているのだから、この読みのルビはよくない。大谷氏は寧ろ、妙なところで歴史的仮名遣に拘らずに「こ」だけを振るべきであった。

 

正月 門松、

二月 初午、

三月 節句、

四月 お釋迦、

五月 幟、

六月 天王、

七月 七夕、

八月 八朔、

九月 菊月、

十月 蛭子講、

霜月 師走、

ここので 一丁よ! (京都。羽子突歌)

 

附記 カドマツ卽ち「門松」は新年の元日に家の正門の前へ樹てる[やぶちゃん注:「たてる」。]。ハツウマは稻の神の大祭。三月の節句は雛祭ともいふ。佛陀の誕生日は四月八日に祝ふ[やぶちゃん注:「灌仏会」のこと。]。幟は男の兒の祭。ノボリは布で象徴的な模樣が附いて居る。男兒の出生を祝つて揭げる。東京ではノボリの代りに紙又は布で造つた鯉を用ひる。天王は市又は郡の守護神に普通與へる名。七夕の織姬はヹガの星。エビスは勞働の守護神。

[やぶちゃん注:「八朔」「はつさく」は陰暦八月朔日(ついたち)の称。この日にその年の新穀を収めて祝うのが、大切な農事の儀式であった。

「菊月」旧暦九月(長月)の異称。節句中、最も重要な吉日である九月九日(陰陽説で最大の陽数が重なる目出度い日)「重陽の節句」(菊の節句)があることに由来するものと推察される。

「蛭子講」「えびすかう」は神無月(旧暦十月)に、出雲に赴かない「留守神」とされた「えびす神」(他に「夷」「戎」「胡」「恵比須」「恵比寿」「恵美須」などとも表記する)或いは「竈神(かまどがみ)」を祀って、一年の無事を感謝し、五穀豊穣・大漁・商売繁盛を祈願する。地方や職種或いは寺社によって異なるものの、概ね旧暦十月二十日に配する。漁師や商人が集団で祭祀を行う「講」の一つとして近世に時に発達した信仰結社的祭祀要素も含まれるが、本来の「えびす講」は各家庭内での祭祀行為であったものと思われる。

「ヹガ」「こと座」の主星ベガ(Vega)。織女(しょくじょ)星。

 以下、行空けがないが、施した。]

 

大黑樣といふ人は、

一に俵を踏んまへて、

二ににつこりと笑うて、

三に杯(さ)いただいて、

四つで世(よ)の中よいやうに、

五つで泉(い)の湧くやうに、

六つで無(む)病息災に、

七つ何(な)事無いやうに、

八つで屋(や)敷を平らげて、

九つこ倉を推し立てて、

十(と)でとつくり治まつた。 (信濃。手毬歌)

[やぶちゃん注:「杯(さ)」は「さかづき」。

「こ倉」小倉。小蔵。]

 

 最後に記した此歌は、祈願の言葉を手毬歌に變形した珍らしい一例である。初めの四行を除いては、その文句は、一語一語、昔のサムラヒが唱へた文句――どんなサムラヒも每日唱へた家內での祈願の文句――である。……に反して次に記すものの中には、殆ど無意味詩(ナンセンス・ヴアス)といつても宜いものが二三ある。

[やぶちゃん注:「無意味詩(ナンセンス・ヴアス)」“nansense-verses”。「無意味な詩篇」。意味をあまり問題にせず、発音・韻・言い回しの面白さを主眼に置いた戯れ歌。]

 

ひや、ふや、

おこまさん!

たばこの煙は

丈八さん! (越前。羽子突歌)

 

附記 この歌は『お駒才三』といふ通俗な戲曲に關係して居る。その戲曲の女主人公お駒は美しい女なのだが、その父の店の番頭丈八なるものの奸策の爲め、不幸な最期を見る。丈八は芝居では種種の場に、火鉢の前に坐つてで[やぶちゃん注:「ままで」の意であろう。]盛んに煙草を吸かす[やぶちゃん注:「ふかす」。]。

[やぶちゃん注:「お駒才三」こう表記した場合は「おこま・さいざ」と読む。浄瑠璃・歌舞伎の登場人物。材木問屋の娘お駒が、手代の才三と密通し、婿の喜蔵を殺害、お駒は黄八丈の着物を着て市中引き回しとなる。享保一二(一七二七)年に江戸日本橋で起きた「白子屋お熊」の事件を素材としたもので、人形浄瑠璃「戀娘昔八丈(こいむすめむかしはちじやう)」(松貫四(まつ かんし)・吉田角丸(かどまる)の合作。安永四(一七七五)年・江戸・外記座初演)や「木場綺娘好」(これで「きはちじょうふりそでごのみ」と読む:天保九(一八三八)年・江戸・河原崎座初演)などとして上演された。ウィキの「恋娘昔八丈」が詳しい。]

 

一月二月、

三月さくら、

柳の下(した)で

化粧して十(とを)よ! (信濃。羽子突歌)

 

ひや 彥兵衞!

はげたか 次郞兵衞!

次郞べの頭(あたま)は

なぜはげたか?

親が邪慳で

火へくベた! (信濃。羽子究歌)

 

ひい、ふう、みい、よ。

よもの景色を、

春と眺めて、

梅にうぐひす、

法法華經と囀る。

明日(あす)は 祇園の

二軒茶屋で、

琴や三味線、

はやしテンテン、

てまりうた。

歌の中山、

ちよ五に五十で、

ちよ六――六――六!

ちよ七――七――七!

ちよ八――八――八!

ちよ九に九十で、

ちよつと百ついた! (京都。手毬歌)

 

附記 うぐひすの啼聲に關して、この文の前にある、佛敎に緣のある名、の一文を讀まれたい。この歌でのチヨはチヨウと同じで、偶數か又は全る[やぶちゃん注:「まる」。行きつくところの。]十の意味。

 

うぐひすや! うぐひすや!

たまたま都へ上(のぼ)る時、

梅の小技に晝寢して、

お千代に何々着せてやる?

上衣(うはぎ)は紺々 紺縮緬!

下着(したぎ)はちんちんちんちりめん!

それを着せてやつたれば、

道でころぶか 手を突くか?

殿さんが通(とほ)たら御辭儀せよ!

おん馬が來たらば傍(わき)へ寄れ!

手習子供をかまふなよ!

かまふと草紙でぶたれるぞ!

先づ先づ一貫お貸し申した! (靜岡。手毬歌)

 

附記 昔の一貫は一千文(もん)、だからその値は百セントの一弗(ドル)と似たもの。

[やぶちゃん注:「一貫」「百セント」=「一弗(ドル)」江戸初・中期にかけての金一両(四千文)を現在の十万円に相当とする資料があり、一貫文は千文であるから二万五千円相当(但し、幕末にかけては激しいインフレとあったので、一貫文は七千円程度相当まで落ちる)。本作品集が刊行された明治三四(一九〇一)年前年の為替レートは一ドルは二円、当時、白米十キログラムは一円強。]

 

一(ひ)つ挽(ひ)いた豆

    粉にした豆!

二(ふ)つ踏(ふ)んだ豆

    つぶれた豆!

三(み)つ味(み)噌豆

    ふくれた豆!

四(よ)つ選(よ)つた豆

    綺麗な豆!

五(い)つ炒(い)つた豆

    腹切つた豆!

六(む)つ貰(も)うた豆

    得(とく)した豆!

七(な)つ生(な)つた豆

    莢つき豆!

八(や)つ與(や)つた豆

    損した豆!

九(こ)つ買(か)うた豆

    錢出した豆!

十(と)で取(と)つた豆

    盜人(ぬすと)した豆! (越前)

[やぶちゃん注:「買(か)うた豆」は原文“Kōta mamé”で、やはり歴史的仮名遣なぞに代えずに、そのまま「こ」だけを振るべきであった。]

 

 次に抜萃する――手毬歌の一番好い――のの興味は前のとは全く性質を異にして居る。作(さく)の仕組は英國のあの有名な子供歌『わたしの好きなは、アの字附き』の仕組に似ぬでも無い。演者の想像的機智次第で、無限に擴げたり或は變更したり、出來るのである。

[やぶちゃん注:「わたしの好きなは、アの字附き」原文は“I love my love with an A”。平井呈一氏は『わたしの好きなの、A がつく』と訳しておられる。イングランドの童謡。かのルイス・キャロル(Lewis Carroll 一八三二年~一八九八年)が「言葉遊び」としては流行らせたものらしい。

 以下の「甲の遊戲者。」「乙の遊戲者。」はポイント落ちで(再現した)、以下の歌本文より一字分上から記されてある(則ち、本篇本文で三字下げ位置から)。それを表現するために、ここでは以下、歌本文を一字下げで示した。途中の解説挿入もポイント落ちであるが、これは同ポイントで示した。但し、ブラウザの不具合を考え、途中で改行した。

 

甲の遊戲者。

 おかん、かん、かん、

 加賀樣屋敷ぢや。

 おけさ米搗く、

 小糠が落ちる。

 なんとて落ちる?

 ささしちく竹!

 ささはちく竹!

 向うの向うの、

 格子づくりの、

 白壁づくりの、

 赤い暖簾のかかつた、

 お姬樣まで、

 お〻渡し――

 もうす――す――す――の――す!

 

   此處で手毬をこの娘に渡すと、その娘は
   それを受け取つて斯う歌ひ出す。

 

乙の遊戲者。

 受け取つた! 受け取つた!

 受け取りた!

 大事のお毬を受け取つた!

 あ〻受け取つた!

 蝶や花やと

 おそだて申して、

 おかへし申して、

 今夜の晚から、

 紙もいらずみ、

 硯もいらずみ、

 針三本、

 絹糸三筋に、

 おん馬が三匹、

 お籠が三挺、

 のりかへひつかへ、

 向うの向うの、

 格子づくりの、

 柿の暖簾の

   ? さんまで、

 お〻渡し

 もうす――す――す――の――す! (東京。手毬歌)

 

附記 シチクダケ、ハチクダケ、共に竹の名。ササは一種の小さな竹。シチクダケは黑い竹、ハチクダケは紫がかつた竹である。が、此の歌では同語とも擬聲である。「ササ」といふ綴音は、米搗きが足で揚げた時の木造の大きな臼が軋る音。シチクダケ、ハチクダケは、槌の落つる音や、打たれてどしんといふ音やらを現はしたもの。?の處で、次にその毬を渡してやる女の子の名を言ふのである。

[やぶちゃん注:「シチクダケ」「紫竹竹」であるが、「黒竹」、単子葉植物綱イネ目イネ科タケ亜科タケ連マダケ属クロチク Phyllostachys nigra の異名。竹本体の直径二~三センチメートルほどで、高さは三~五メートルほどになる。初め、本体は緑色で、夏を過ぎると、徐々に黒くなり、二年ほどで真っ黒になる。日当りの良い乾燥地では特に鮮やかな黒色となる。伐採後も黒い色は変わらず、庭園に植栽されたり、建築用や装飾用に利用され、工芸品の素材とされる。主産地は高知県中土佐町と和歌山県日高町(以上はウィキの「クロチク」に拠った)。

「ハチクダケ」「淡竹竹」。前のマダケ属クロチクの変種ハチク Phyllostachys nigra var. henonis ウィキの「ハチク」によれば、『中国原産の竹の一種。黄河流域以南に広く分布し、日本ではモウソウチク』(マダケ属モウソウチク Phyllostachys heterocycla f. pubescens :「f.」は「forma」の略号で「品種」であることを示す)・『マダケ』(マダケ属マダケ Phyllostachys bambusoides )『に次いで』、『各地でよく植栽されている。北海道南部以南に分布し、モウソウチクよりも耐寒性を有するため』、『特に日本海側に多い。川岸や山地では野生化しているものもある。別名アワダケ、呉竹(くれたけ)』。『直径は』三~十センチメートル、高さは十~十五メートルほどであるが、高いものは二十メートルに『なるものもある。節の輪は』二個で、節の間は二十~四十センチメートル。若い本体部には『白い粉があり、各節から枝が』二『本出る』という『特徴を有する』。勝宝三(七五〇)年『頃には日本にあったことが知られているが、起源は不明』。『細く割れるため』、『茶筅などの茶道用具、花器に利用されるほか、枝が細かく分枝するため』、『竹箒として利用される。 正倉院の呉竹笙、呉竹竿、彫刻尺八、天平宝物の筆などはハチク製と鑑定されている。また、内側の薄皮は竹紙と呼ばれ、笛の響孔に張り』、『音の響きを良くするほか、漢方薬としても使用される』。『ハチクの筍(タケノコ)は食用で径が約』三~十センチメートルで、最盛期は五月中旬から六月上旬頃となる。『主に孟宗竹のピークが過ぎた』頃『に出回り始める。皮は紫色で』、『まばらに毛があり、掘り出したばかりの筍はクセが無く』、『生食も可能だが、時間の経過につれ』、『えぐみが増すため』、『あく抜きが必要となる。筍は』、『マダケと比べると』、『やや太くずんぐりとしている。また』、『出始めの時期がやや早いこと、マダケでは皮にある黒い斑点がない事や』、『色の違いで見分けがつく』。『開花周期は、マダケなどと同様に約』百二十『年とされており、開花後は一斉に枯死することが知られている』とある。]

小泉八雲 日本の子供の歌  (大谷正信譯) 四(「物語の歌」)

 

[やぶちゃん注:本篇については、『小泉八雲 日本の子供の歌  (大谷正信譯) 序・一(「天氣と天象との歌」)』を参照されたい。]

 

 

   


   物語の歌

 

おらが隣の 千松は、

近江の軍(いくさ)に 賴まれて、

一年經つても まだ來ない、

二年經つても まだ來ない、

三年經つたら 首が來た。 (銚子)

[やぶちゃん注:「近江の軍」最も古くで、関東から派兵された戦さとしては、まずは源義仲と源頼朝が派遣した東国諸将との間で近江国粟津において戦われた「粟津の戦い」(寿永三(一一八四)年一月二十日)であろう。「平家物語」などで物語性の強い万民の知る「戦さ」としては、これが群を抜くものと思う。その後、南北朝プレ期の建武政権期の延元元/建武三(一三三六)年九月中旬から二十九日にかけて、近江国で建武政権の新田義貞・脇屋義助らと、足利方の小笠原貞宗・佐々木導誉らとの間で行われた文字通りの「近江の戦い」はある。その後だと、永禄一一(一五六八年)九月十二日に足利義昭を奉じて上洛の途にあった織田信長と近江守護六角義賢・義治父子との間で行なわれた、信長の「天下布武」が実践された最初の戦いにして、戦国時代最後の合戦とされる「観音寺城の戦い」(別称「箕作(みつくり)城の戦い」)がある。また、三年経って首だけが帰ってきたというのは、相当に大規模な知られた大きな戦さであることを考えれば、「関ヶ原の戦い」の前哨戦となった近江国大津城を巡って争われた「大津城の戦い」(慶長五(一六〇〇)年九月七日から同月十五日)が挙げられる。千葉氏などの房総の関東豪族が支配した民が、関西方面の戦さに駆り出されること自体は、「大津城の戦い」以降、全く違和感はない。]

 

向うの山に

猿が三匹とうまつて、

前なる猿は物知らず。

後(あと)の猿も物知らず。

中の小猿がよう物知つて、

ござれともだち花見に行こや!

花はどこ花?

地藏の前のさくら花。

一と枝折ればパツと散る。

二た枝折ればパツと散る。

三枝がさきかに日が暮れて、

どつちの紺屋(こうや)に宿とろか?

束の紺屋に宿とろか?

南の紺屋に宿とろか?

殿さんの紺屋に宿とつて、

晝は短し 夜は長し。

あかづき起きて空見たら、

ぎつこのばつこのきいせんご。

船どもさらへて帆を掛けつ。

帆掛船のつりものは、

白織、赤織、赤地の

交じつた つばかたな。 (出雲)

 

附記 一行飜譯を爲し得なかつたのがある。ギツコノバツコノキイセンゴである。多分文句が訛つたのであらう。この唄と同種類のが澤山に在る。こんな種類のをランドンネの不完全な形式のもの――發展の初期のランドンネ――と言つてよくはなからうか。

[やぶちゃん注:「あかづき」は原文のママの音写。暁。

「ぎつこのばつこのきいせんご」は艪を漕ぐオノマトペイア(擬音語)、或いは漕ぐ際のそれに基づく掛け声であろう。

「ランドンネ」先に出たフランス語の(chanson)“randonnée”で、一種のエンドレスに循環するような唄のこと。]

 

やれ腹が立つ! 立つならば、

硯と筆とを 手に持つて、

思ふことをば 書き置いて、

紫川へ 身を投げた!

下(した)から雜魚が つ〻くやら、

上(うへ)から鴉が つ〻くやら!

つ〻いた鴉は 何處へ行(い)た?

森木の下へ麥蒔きに!

何石(なんごく)何石蒔いて來た?

二千石 蒔いて來た!

二千石の 能(のう)には、

寺の前で 子を產んだ!

住持の衣へ 血がついて、

雨垂水で 洗つて、

香爐の火で 炙つて、

香爐の火が 足らいで、

油火で 炙つて、

油火が 足らいで、

竃(くど)の火で 炙つて、

竃の火が 足らいで、

炬燵の火で 炙つて。 (出雲)

 

附記 自殺をする前にその動機を說明する手紙を書く習慣が詠み込んである。炬燵は四角な物で、四方と上とは木の棒で出來て居り、下には金屬製の火鉢か鍋を置き、それへ炭火を入れる。上へは重い布團を掛ける。その布團の下へ膝を入れて幾人もがそのまはりに坐つて暖まることが出來る。大きさは一呎[やぶちゃん注:「フィート」(単数なのでここは“foot”)。三十・四八センチメートル。]平方から二呎平方に至る。辭書は不合理にもこれを「一種のハース」と書いて居る。これはハースでは無い。が、西部日本では西洋のハースが占めて居る地位をその家で占めてゐる――一家の者が冬の夜そのまはりに集まるから。

[やぶちゃん注:「紫川」不詳。調べたが、出雲にはないと思われる。異名か。なお、原文は“murasaki-ga”であるから、「紫河」とも思われるが、音数律が悪いので「gawa」の小泉八雲の脱字か。平井呈一氏も『むらさき川』とする。

「ハース」“hearth”。原義は「炉床・暖炉に敷かれた石や煉瓦の床」。転じて家庭の団欒の中心である「炉辺」や「家庭」の意でも用いる。ここでは、無論、「囲炉裏」を指す。]

 

猫が桑名へ 參るとて、

桑名の道で 灯が消えて、

とぼしてもとぼしてもとぼらいで、

茶屋の緣へと 腰かけて、

水を一パイお吳れんか?

水をやるのは 易いけど、

釣瓶の底が 拔けました。

やれやれきつい 姉さんぢや!

お茶を一ぷく お吳れんか?

御茶をやるのは 易いけど、

茶釜の底が 拔けました。

やれやれきつい 姉さんぢや!

煙草を一ぷく お吳れんか?

煙草をやるのは 易いけど、

煙管(きせる)の首が 拔けました。

やれやれきつい 姉さんぢや!

 ひい――ふう――みい――いつ――むう――なな――やあ――

 この――とう! (伊勢)

 

附記 『姉さん』は宿屋の女中に向つて今なほ用ひられて居る敬稱。アネサンの略のネイサンといふを一層屢〻使用する。ひいふうの數はこの歌と共に行ふ遊戲に關係のあるもの。

 

 固よりの事上記の物語に述べて居る猫は化猫――多樣な姿に身を現じ得る力を有つて居る猫――である。それが人間の姿をして旅をして居る。が其假相は茶屋の女中の看破する所となつて女中はそれに答へるのに化物に對して答へる道を以てする。……化物若しくは幽靈が桶か他の容物(いれもの)かを乞ふなら直接それを拒むのは宜しくない。それを與へる前に忘れずに其容物(いれもの)の底を拔かなければならぬ、――で無いと其結果は取り返しのつかぬ物である。[やぶちゃん注:以下、一行空きになっている。]

 

 それで想ひ出すが、蛙や鳥が美しい少女に戀をしたり、種類の異つた動物が結婚したりする、ことを語つて居る西洋のお伽噺に關して、時折皮相な批評を下す者がある。そんな途方も無い不合理な物語は兒童の讀み物には不適當であり、なほまた藝術的價値を全く失はせる、といふのである。が、そんなお伽噺の多數は、その起原を溯つて東洋に求めることが出來るものである。ところが、東洋人の心には――動物の中で意の儘に人間の姿に現じ得るものが澤山あると信ぜられて居ることだから――人間と人間ならぬものとの結婚、といふ考には少しも不合理なところは無いのである。極東人の信仰では、一切の生はであつて、それを包んで居る形態はただ一時の狀態である。極東人の信仰に就いて幾分かの知識を有つて居ないでは、日本のお伽噺の眞の妙味は了解が出來ぬ。兎に角、飜譯でそれを讀む折は、必らず日本の藝術家の圖解のあるので讀まなければならぬ。ただの本文だけでは不可解に終はることを、その圖解が大いに說明して吳れるであらう。

 

附記 この信仰は佛敎よりも古い。が、佛敎は餘程それを承認して居る。佛門に入らんと欲する者に對して、以前問ふことになつて居た問の一つは、「毘奈耶」に據ると、斯うであつた。『お前は人間か?』

[やぶちゃん注:「一生の生はであつて」の「一」の下線太字は底本では傍点「◦」である。読みは「いつ」としたい。
「毘奈耶」「びなや」。サンスクリット語(ラテン文字転写:vinaya)の漢音訳。「律」と訳す。比丘・比丘尼に関する仏が制定した禁戒を指す。漢訳されたものに「四分律」・「五分律」・「十誦律」・「摩訶僧祇律」の四つがあり、現存しない「解脱律」(迦葉遺部律」(かしょういぶりつ:「迦葉遺律」「伽葉惟律」とも言う)を加えて、「五部律」という。]

 

 次記の歌には蛇が或る人の娘の姿を執つて居る話がある。蛇女や龍女の話は日本文學に甚だ多い。多分この歌も前の歌も、古い小說か戲曲かを懷ひ出して作つたものであらう。

 

向うの小澤に 蛇(じや)が立つて、

八幡長者の 末娘(おとむすめ)。

巧(よ)くも立つたり 企(たく)んだり。

手には二本の 珠(たま)を持ち、

足には黃金(こがね)の 靴を穿(は)き、

あ〻呼べ、かう呼べと、言ひながら、

山くれ町くれ 行つたれば、

草刈殿御に 行きあつて、

帶を下され 殿御さま!

帶も笠も 易い事、

己(おれ)の女房に なるならば、

朝は起きて 髮結うて、

花の咲くまで 寢て持ちよ! (信濃)

[やぶちゃん注:「末娘(おとむすめ)」「おとむすめ」は通常は「弟娘・乙娘」と書く。広義には長女に対して「それより下の娘・娘たち」を指すが、一般に、この手の物語での設定では、漢字通りの「末子(ばっし)の娘」を特に指す。]

2019/10/19

小泉八雲 日本の子供の歌  (大谷正信譯) 三(「種々な遊戲歌」)

 

[やぶちゃん注:本篇については、『小泉八雲 日本の子供の歌  (大谷正信譯) 序・一(「天氣と天象との歌」)』を参照されたい。]

 

       

      種々な遊戲歌

 遊戲歌は――戶外或は戶內の種々な遊戲と共にうたふ歌は――その數頗る多い。自分が蒐めたものだけでも二百以上を含んで居る。物語の體(てい)のもあり、問答になつて居るのもある。佛蘭西人が『かぞへうた(シヤンソン・ニヌメラテイフ)』若しくは『循環うた(ランドンネイ)』と呼んで居るあの部類に類するのもある。分類の不可能なのも少しある。そして最も顯著なものの中に頗る奇怪なのがあつて――西洋の子供がうたふどんな物とも全く類を異にして居るから――澤山の註釋の助を藉りても、日本人の生活を知つて居られぬ讀者には、了解が出來なからうと思ふほどである。が、次に記載する一聯の見本はこの範疇(カテゴリ)に屬する子供歌の珍妙さと多方面とを示して餘あることと思ふ。

[やぶちゃん注:「かぞへうた(シヤンソン・ニヌメラテイフ)」原文“ chanson énumérative ”。音写するなら「シャンソン・エニメルティーヴ」(私は一応、大学では第一外国語をフランス語でとった。もうすっかり忘れたが)。男性形では「énumératif」、小泉八雲の示したのは女性形。「chanson」が女性名詞だからである。意味は「列挙された」という形容詞である。

「循環うた(ランドンネイ)」原文(chanson)“ randonnée ”。音写するなら「ルンドネエ」で、原義は「狩り立てられた獲物がぐるぐると逃げ回ること・小旅行・遠出・遠乗り」の意の名詞である。ここは一種のエンドレスに循環する唄の謂いであろう。]

 

泣き蟲、毛蟲!

はさんで棄てろ! (泣く子に向つて歌ふ)

 

附記 百足蟲、毛蟲その他の不快な訪客は日本では鐡のチヨプ・ステッキか火箸で棄てる。

[やぶちゃん注:「チヨプ・ステッキ」原文は“chop-sticks”だから、「チョップ・スティックス」で「鉄製の箸」である。但し、「ステッキ」は英語では「stick」であるから、問題ない。いやいや、咬まれたり、刺されたりするのは勘弁だから、尖端と距離のある「鉄製のゴミばさみ」の方がいいと思うよ。]

 

歸(い)のる、いのる!

いながさきに鬼(おに)が居る!

あと見りや蛇(じや)が居る! (家を出るのを恐がる子に向つて歌ふ)

[やぶちゃん注:「いのる」これは「去(い)ぬる」の訛りで、古語の「来る」「行く」の意。]

 

蓮華の花開(ひい)らいた!

ひいらいた、ひいらいた!

ひいらいたと思つたら、

やつとこさとつぼんだ! (踊歌)

 

附記 この蓮華の歌は、皆手をつないで、內側へ向いて圓を卽ち踊の環を造つて居る一組の子供が歌ふ。歌が始まるとその圓が次第に擴がる。が、「ヤツトコサ」といふ言葉で、みんな一緖に走り込んで、同時に手を引つぱつてその環を閉づる。

 

梅干さんといふ人は、

足から顏まで皺よつて、

        皺よつて、

あれは酸い、これは酸い、

        すい、すい、すい! (遊戲歌)

 

チンカン、チンカラ、鍛冶屋の子、

裸で飛び出す風呂屋の子…… (遊戲歌)

 

附記 いろんな商賣の名をあげての或る「數へ歌」の斷片のやうである。

 

鍛冶どん、かぢどん、

火一つごしやれ!

火は無い無いや!

あの山越えて。

この山越えて、

火は此處ここに在る! (遊戲歌)

 

附記 この歌は或る器用なそしてむつかしい指の遊びに伴なふて歌ふ。英國の「ダンス・サムキン・ダンス!」の子供遊に全然似ないでも無いが、もつと込み入つて居る。兩手を使ふ。

[やぶちゃん注:「ダンス・サムキン・ダンス!」“ Dance, Thumbkin, dance! ”(「踊って、親指さん、踊って!」)。サイト「うたまっぷ.com」のこちらで英文と訳(全ひらがな)が載り、あかり氏のブログ「英語はともだち、むずかしくないよ!あかりんの英語子育てブログ」のこちらを見るに、指(指人形)遊びであることが判る。You Tube のVarious Artists - Topic氏の「DANCE THUMBKIN DANCE(えいごであそぼ)」で歌が聴ける。平井呈一氏は恒文社版の「日本のわらべ歌」のこの唄の後に訳注を附され、小泉八雲の採録したこの唄の指遊びについて、『よくわからないが、両手の指を逆に組みあわせ、上に出した親指と人さし指で相手の指を強く押し締めて、「ぬるいか、熱いか」といって遊ぶ指遊びがある。あれに似たものではないかと思う』と記しておられる。検索したところ、サイト「ASOPPA!」のこちらに「手あそび歌あそび」として「あついかな ぬるいかな」が図解されて説明されているが、平井氏の言っているものとは異なり、一人遊びである。]

 

中(なか)の、中の小佛は

なぜまたがゞんだ?

親の日に蝦たべて、

それでまたかゞんだ!  (踊歌)

 

附記 親の命日と盆とには善良な佛敎信者は魚はどんな魚も食はぬ。

 

なはりなはりの小佛は

なぜ丈(せ)が低い?

親の日に魚(とと)食つて、

それで丈(せ)が低いそな! (前のと同種)

[やぶちゃん注:平凡社「世界大百科事典」の「回りの小仏」に(コンマを読点に代えた)、『日本の伝統遊戯の一つ。〈まわりまわりのこぼとけ〉〈なかのなかのこぼとけ〉〈なかのなかのじぞうさん〉、あるいは単に〈こぼとけ〉ともいう。〈かごめかごめ〉と同様の遊びで、子どもたちが手をつないで輪をつくり、その輪の中に目隠しをした小仏(地蔵あるいは小坊とも)が』、一人、入って、『まわりを子どもたちがはやしことばを歌いながらめぐり、歌が終わってかがんだところを小仏がその』一『人をつかまえ』、『名を当て、当てられたものが小仏となる。はやしことばは地方によって違いがあるが、東京地方では〈まわりまわりの小仏はなぜせいがひくい、親の日にとと食ってまま食って、それでせいがひくいな、うしろにいるものだあれ〉とはやす。元来は小仏のほうも〈線香、抹香』『、花抹香、しきみの花でおさまった〉といいながら』、『任意のところから外の人を数え、その最後の者が次に中に入って小仏となった。肉親の忌日には精進』『せよとのいましめの意味を含むものと思われ』宝暦一〇(一七六〇)年の『土御門泰邦の』「東行說話」では、『転輪蔵(一切経をおさめる回転式書架)を』一『回転すれば』、『経文を読んだことに相当する功徳(くどく)があるという故事に起源するという』とある。You Tube のfurusatomonogatari氏の「中の中の小仏は」小泉八雲の示した「蝦」で歌っている。また、柳田國男の「こども風土記」(昭和七(一九四二)年朝日新聞社刊)の「中の中の小佛」と、続く「地藏あそび」に以下のようにある(「ちくま文庫」版全集第二十三巻(一九九〇年刊)に拠った)。【2025年4月8日改稿】以下については、既存の新字新仮名のものを元に、国立国会図書館デジタルコレクションの同原本を視認して正規表現に代えたここから二篇は続きになっている。注も増やした。

   *

   中の中の小佛

 西洋の子どもの中にも、まだ幾種かの当てもの遊び(Guessing Games)[やぶちゃん注:「当てっこ(推理)遊び」。]が残つてゐることは、かういふことを書いた本によくいふが、あちらではもうその起りを說明することが出來なくなつてゐる。日本ならそれが簡單にわかるのである。

 子供が手を繫いで輪になって、ぐるぐる廻る遊び、全國どこにもある「中の中の小佛」といふものなどは、鹿の⻆を幾分か複雜にして、たくさんの兒が一緖に樂しめるようにしただけで、やはり問答が中心であった。六十年も前に私などが唱となえていた詞(ことば)は、

   中の中の小坊さん なァぜに背が低い

   親の逮夜にとゝ食くうて それで背が低い

といふのであつたが、この文句は皆さんの覺えてをられるのと、多分は大同小異であらう。あるひは[やぶちゃん注:ママ。以下も同じ。]魚の代りに「海老食うて」といふ者もあるやうだが、いづれにしたところで父母の命日に、そんな物を食べる人は昔は一人もゐなかつた。それがをかしいので何遍も何遍も、同じ歌ばかりをくり返してゐたけれども、大阪でも東京でも、そのあとに添へて、

    うしろにゐる者だァれ

または「うしろの正面だァれ」といって、その兒の名を當てさせるものが多かつた。あるひは目隱しをさせ、もしくは顏を兩手で掩はせて、正面に踞(しやが)んだ兒を誰さんと、いはせることにしてゐたかとも思はれる。鹿兒島縣の田舍などでは、それでこの遊戲をマメエダレとも呼んでゐた。マメエダレはすなはち眞前誰[やぶちゃん注:「ま(ん)まへだれ」。]である。

 遊びは後に少しづつ改良せられてゐる。中の小坊の手にお盆を持たせて、誰それさん御茶あがれと言はせたり、又は一つ一つ手を繫いだところを探つて、こゝは何門と尋ねる問答を重ね、答へによつてそこを切つて出るやうな遊び方もあつた。いづれも小兒が自分たちで考へ出したもので、そんなことに世話を燒く成人はゐなかつたらうと思ふ。それから蓮華の花は開いたといひ、または「かごめ・かごめ」といふ文句に取換へたりしたのも、あんまり上手だから別に作者があつたやうに考へる人もあるか知らぬが、私たちは、なほ、かれらの中の天才が興に乘じて言ひはじめた言葉が、自然に採用せられて傳はつたものと思つてゐる。遊びはもともと輪を作つて開いたり莟んだり、立つたり屈んだりするのが眼目であつた。さうして歌は、またその動作と、完全に間拍子[やぶちゃん注:「あひびやうし」。]があつてゐる。作者が外にあつたらうと思はれぬのである。

[やぶちゃん注:「鹿の⻆」参考原本で先行する「鹿・鹿・⻆・何本」が、それ。ここから。短いので、以下に示す。「⻆」と「角」が混在するのはママ。

      ※ ※ ※

       鹿・鹿・⻆・何 本


 一昨年の九月、米國ミズリー大學のブリウスタアといふ未知の人から面白い手紙の問合せを受けた。もしか日本にはかういふ子供の遊戲はありませんかといふ尋ねである。一人の子が目隱しをして立つてゐると、その後にゐる別の子が、ある簡單な文句で拍子をとつて背なかを叩きその手で何本かの指を出して、その數を目隱しの子に當てさせる。英語では問ひの文句が

    How many horns has the buck?「いかに・多くの・角を・牡鹿が・持つか」

 ドイツのも全くこれと同じだが、國語のちがひで一言葉少く、イタリアでは四言葉、スウェーデンやトルコなどは二言葉で、やはり意味は鹿の角の數を訊くことになってゐる。目隱しをする代りに壁にもたれ、又四よつん這ひになつて、その背に跨つて、指を立てゝ問ふ例もある。もう長いあひだかゝつて調べてゐると見えて、これ以外にスコツトランド、アイルランド、米合衆國、フランス、ベルギー、オランダ、ギリシア、セルビア、ヘルツエゴビナ、エストニア、スペイン、ポルトガルにも同じ遊びのあることを確かめたといつてゐる。日本にももしかそれがあつたら、面白いと思ふがどうかといふ質問である。

 古い文献では、ペトロニユウスの諷刺詩の一つにも出てゐるといふ話である。あつたらなるほど面白いが、どうも未だ聞いたことがないやうだ、と皆がいふので、一應さういふ返事をして置いて、なほ念のために「民閒傳承」の會報にこの手紙を譯して載せておくと、ほどなく二ヶ所から、あるという報知がやつて來た。ありませんなどといふ答へはめつたに出來るものでないといふことを、しみじみと我々は經驗したのである。

 滋賀縣の今津近くの村では、少くとも二十年ほど前まで、この遊びをしたといふことを、長濱女學校の三田村君が先づ知らせてくれた。じやんけんに負けた一人の子は、窓のへりなどにつかまつて身を曲げてゐると、勝つた方の子がそれに馬乘りになつて、指を出して、その數を下の子にいひ當てさせ、それが當るまではこの問答をくりかへし、あたれば今度は上の子が答へる番にまはるのださうである。馬乘りになるだけで、もう背なかは打たなかつたらしいが、やはりその文句は

    鹿・鹿・角・何本

と、くぎつて唱へてゐたといふ。

     ※ ※ ※

「逮夜」は「大夜」などとも書き、本來は葬儀の前夜を指したが、現在では、年忌などの前夜のことを言う。ここは両義で採るべきであろう。]

   *

       地 藏 あ そ び

「中の中の小坊さん」は、私などは弘法樣のことかと思つてゐた。これを小佛と唱へてゐた子供の、近所にあることも知つてゐたのである。山梨縣ではそれを又

    中の中の地藏さん

とうたひ、その「中の地藏」が後で周圍の子の頭を叩きまはつて

    外の外の小僧ども なぜ背が小さいな云々

といつてゐたさうである。茨城縣で地藏遊びといつたのもこれで、一人をまん中にかがませて目かくしをさせ周圍の輪の子供が廻りながら、やはり「なぜに背が低い」を唱へる。さうしてその運動をやめるや否や、中の地藏が一人をとらへてだれさんと名をあてる。それが的中すると地藏が代ることは盲鬼[やぶちゃん注:「めくらおに」。]の一種とよく似てゐる。福島縣海岸地方の地藏遊びのことは、前に「日本の傳說」の中にも述べておいた。これは輪の子どもが口を揃へて「中の中の」の代りに

    お乘りやァれ地藏樣

といふ言葉を唱へる。乘るとはその兒へ地藏樣に乘り移つて下さいといふことであつた。さうするうちにまん中の兒は、次第次第に地藏樣になつてくる。すなはち自分ではなくなつて、色々のことを言ひ出すのである。さうなると他の子供は口々に

    物敎へにござつたか地藏さま 遊びにござつたか地藏さま

と唱へ、皆で面白く歌つたり踊つたりするのだが、元は紛失物などの見つからぬのを、かうして中の中の地藏樣に尋ねたこともあつたといふ。

 古い人類學雜誌に出ていたのはもとは仙臺附近の農村で、田植休みの日などに若い男女が集まつて、大人ばかりでこの地藏遊びをしてゐたさうである。これとても遊びで、信心からではなかつたが、まん中にやゝお人よしといふやうな若い者を坐らせ、ほかの者が輪になつて何か一つの文句をくりかえしくりかへし唱へてゐると、しまひには今いふ催眠狀態に入つて、自分でなくなつて色々の受返事をする。いずれ男女の問題などの、罪もない笑ふやうなことを尋ねてそれに思ひがけない答へがあるので面白かつたのであらうが、それが今一つ山奧の村へ入つて行くと、まじめな信心者だけで集まっつて、この中座(なかざ)のいふことを聽いてゐた。それが昔の世にひろく行はれた神の口寄せといふものゝ方式だつたので、つまりは子どもがその眞似をくりかへして、形だけでも、これを最近まで持ち傳へてゐてくれたのであつた。

   *

この柳田國男の最後のシャーマニズム起原説は非常に承服出来るものである。「遊び」の原型は、恐らく悉くが、そこに濫觴すると、私は考えている。

 

ゆらすや百足蟲(むかで)!

頭(あたま)は 茶臼、

尾(を)はヒコヒコよ! (紀伊。百足蟲踊)

附記 この百足蟲踊は銘々がその前の人の帶を捉へて居て、一列に並んで居る大勢の子供がやる。その先頭の者は手に、百足蟲の頸のつもりの、何か茶臼に似た恰好の物を持つて居る。本當の茶臼では遊戲には重過ぎよう。

[やぶちゃん注:「むかで」のルビは「百足」にしか附されていないが、「むかでむし」では、歌詞の拍子に合わないから、三文字へのそれと断じた。]

 

地藏さん、地藏さん、

おまへの水を、

どんどと汲んで、

松葉に入れて、

まつくりかへた! (出雲。踊歌)

 

附記 これは普通小さな女の子供が歌ふ。歌を歌ふ者は、二人づつ、歌ひながら手を持ち合うて、面と向かひ合つて立つ。「マツクリカヘタ」で、背中向きになるやうに、手ははづさずに、轉ずる。

 

一がさいた! 二がさいた!

三がさいた! 四がさいた!

五がさいた! 六がさいた!

七がさいた! 蜂が刺いた!

熊蜂がさいた! とかげが刺いた! (手遊歌)

 

附記 ハチは發音では「八」とも 「蜂」とも意味する。

[やぶちゃん注:謂わずと知れるが、「熊蜂」(くまばち)の「く」が「九」、「とかげ」の「と」が「十」に通ずる。原本では英訳の間に間に手遊びの方法が記されてある(ここの左上の中部。英文は記号がごちゃついて読み難いので示さない)。しかし、平井呈一氏はそれを纏めて唄の後に訳して出しておられる。以下である。

   《引用開始》

 この歌は、「一が刺いた」で、一方の子が右手を相手の右手の上におき、「二が刺いた」で、左手を右手の上に、「三が刺いた」で、左手を左手の上に、「四が刺いた」で、下の右手を上に出しておき、「五が刺いた」で、相手が同じしぐさをし、「六が刺いた」「七が刺いた」とつづいて、「蜂が刺いた」で、いちばん上におかれた手が相手の手をピシャリと打つ。「熊蜂」ではしっぺ返しをし、「トカゲが刺いた」では力強くしたたかに打つ。

   《引用終了》

また、百ページもある強力な「兵庫県のわらべ歌」(PDFの九十ページに、伊丹市採取の、酷似した手遊び唄が載る。

   *

一が刺した 二が刺した 三が刺した

四が刺した 五が刺した 六が刺した

七が刺した 蜂が刺した ブ~ン

   *

これについて、後に遊び方が書かれてあり、『県下全域で歌われている指遊びの歌です。歌にあわせて手の甲を順につまんでいき、8(蜂)の番で強くつねります。そのとき「蜂ブンブン」といって蜂のように両手で飛ぶまねをします』とある。]

 

此處は何處(どこ)の細道ぢや?

天神さまの細道ぢや。

一寸(ちよつと)通して下しやんせ!

御用の無いもの通しません!

天神さんへ願かけて、

御札納めに參ります。

おまへの家(うち)は何處ぢやいな?

箱根のお關で御座ります。

そんなら通りやれ、通りやれ!

行きはよいよい、歸りは恐い! (遊戲歌)

 

附記 箱根には古昔武人の番所があつて、どんな旅人も其處で、通る前に、身の上を語らなければならなかつた。

 

こな子よい子だ、何處の子だ?

問屋八兵衞(とんやはちべゑ)の末娘(いもむすめ)!

なんとよい子だ、器用(きよう)な子だ!

機巧(きよう)に育つて來たほどに、

親に十貫、子に五貫、

せめておばばに四十五貫。

四十五貫のお金を何にする?

廉い米買うて船に積み、

船は白金(しろかね)、艪は黃金(こがね)、

あさあ、押せ押せ、都まで!

都もどりに何もろた?

一にかんざし、二に鏡、

三に更紗の帶もろた!

絎(く)けてくだされ、おばばさん!

くけうくけうと思へども、

帶に短し、たすきに長し、

山田藥師の鐘の緖に! (出雲。遊戲歌)

 

附記 一貫は古昔は銅錢千に當つて居た。祖母に澤山な贈物をする事が、日本の家庭では子供の若い時分の仕附けは祖父母に、殊に祖母に普通に任せられてゐたことを思ひ出させる。更紗は一種のキヤラコ或はチンツ。タスキといふは仕事をする時の間日本の長い袖を後ろへ結はへるに使ふ紐。ヤクシはバイシヤギヤラガの日本名。(バイシヤギヤラガは文字通りでは「醫王」の意味)ヤクシ卽ちヤクシニヨライは日本の非常に人氣のある佛で、醫治の佛として特に人が祈る。

[やぶちゃん注:「問屋八兵衞(とんやはちべゑ)」「はち」の「ち」のルビは底本では見えない。原本に従った。

「末娘(いもむすめ)」これ原文は“otomusumé”である。平井呈一氏は『乙(おと)娘』と訳しておられる「乙娘」は「次女以下の娘のこと」である。これだろう。大谷氏の「いも」は意訳である。

「絎(く)けて」「絎ける」「絎け縫いをする」の意。「絎け縫い」とは、布の端を折り込んで表側に縫い目が見えないようにする縫い方を指す。

「山田藥師」日本三大薬師の一つである西予市宇和町西山田にある「山田薬師」(善福寺:グーグル・マップ・データ。以下同じ)。後の二つは、出雲市の「一畑薬師」、及び、久留米市の「永勝寺」である。

「キヤラコ」平織綿織物の一種。キャリコ(英語:calico)の俗称。インドで初めて生産され、集産地のカリカット Calicut から輸出されたことから、この名がある。インド更紗はこのキャラコに捺染(なつせん)したもの。イギリスでは白綿布をキャラコと称し、アメリカでは一般の綿布や捺染した綿布を広義にキャラコと呼んでいる。日本ではイギリスから最初に輸入されたキャラコが漂白品であったので、キャラコ、則ち、漂白品となっている。キャラコは織り上げた後、漂白し、仕上げ糊をつけて織り目を潰し、平滑な表面に仕上げる。光沢に富み、地は薄いが、耐久力がある。古くより足袋などに,無地染のものは着物や夜具の裏地に使われている(平凡社「世界大百科事典」に拠る)。

「チンツ」英語でインド更紗を「chintz」と呼ぶ。

「バイシヤギヤラガ」原文“ Bhaiṣagyaraga ”。現行の薬師如来のサンスクリット語ラテン文字転写は“Bhaiṣajyaguru”で、カタカナ音写は「バイシャジヤグル」である。]

 

小僧、小僧、子一人ごしやれ!

どの子が欲しけりや?

その子が欲しいわ!

何添へて養う?

鯛そへてやしなはう!

それは骨があつていけね!

そんなら鯛が骨なら、

烏賊そへてやしなはう!

それはむしの大毒!

それなら殿樣の二階で、

毛氈(もうせん)敷いて手習さしよぞ!

手がよごれていけぬ!

そんなら殿樣の二階で、

毛氈(もうせん)敷いて砂糖餅!

そんなら遣(や)ろぞ! (遊戲歌)

[やぶちゃん注:「それはむしの大毒!」不審。「疳の虫」の大毒なら願ってもないわけだが、小泉八雲の英訳文のそこを見ると、“cuttle-fish”は“That would be very bad for the stomach of the child.”となっており、「胃に非常に良くない」と言っている。弱った胃には頭足類は消化悪いかなぁ? ネットで調べると、確かに「イカは消化が悪い」とする記載はあるものの、栄養学的には、そんな事実はない。ただ、イカ特有の歯ごたえから、よく噛まずに飲み込んでしまうと、消化器官に負担がかかることがある、とあったから、その辺りからか? 個人的には、イカに多く寄生するアニサキスは――これ――確かに! チョー! ヤバい! 私は大学一年生の時、実体験した。ハンパなく! イカい、基! イタいゾッツ!!!

「砂糖餅」讃岐地方の名産らしい。黒砂糖を細かく砕いて、それを餅を搗く際に投入したもの(投入する砂糖の量は茶碗一杯が標準とも)らしい。]

 

千艘や萬艘!

お船がぎつちりで、

ぎつちりぎつちり漕げば、

お惠比須か、大黑か、

こちや福の神! (新年の歌)

 

 

  古昔の東京の盆踊歌

 

   

盆の十六日 遊ばせぬ親は

木佛(きぶつ)金佛(かなぶつ) 石佛(いしぼとけ)、

      石佛(いしぼとけ)!

 

 

   

盆、盆、盆の十六日

お閻魔樣へ、

參ろとしたら、

數珠の緖が切れて、

鼻緖が切れて、

南無阿彌如來!

手で拜む、手で拜む!

[やぶちゃん注:四行目であるが、底本では「草履の緖が切れて、」なんだが、『次行とダブって如何にも面白くないなぁ?』と思って、思わず、原文を見ると、(原文では五行目。ここ(右ページの最終行))、“Zuzu no o ga kirété,”だぞ!?

大谷先生? 「ずず」を「ぞうり」の誤記と誤認されたのではありませんかね? これ、「ずず」で、数珠(じゅず:現行でも「ずず」とも発音する)でしょう! 特異的に訂しました!

因みに、平井呈一先生は、ちゃんと『数珠(じゅず)の緒が切れて、』と訳しておられますから!!]

 

 

   

お盆が來たら、髮結うておくれ!

島田がよいか? 唐子(からこ)がよいか?

島田もいやよ! 唐子もいやよ!

お江戶ではやるおさげ髮!

 

附記 シマダは花嫁の結ふ髷。カラコワゲは古風な髷で、その名の示す如く支那來のものであらう。文字通りでは「唐の子の髷」[やぶちゃん注:句点なしはママ。]サゲガミとはだらりと垂らした髮。太古に貴婦人がその髮をしてゐた。

[やぶちゃん注:「唐子」髻(もとどり)から上を二つに分け、頭上で二つの輪に作ったもの。本来は元服前の子どもの髪形であったが、近世以後、輪が一つとなって婦人の髪形にもなった。引用したネットの「精選版 日本国語大辞典」の挿絵を見られたい。]

 

 

   

一の丸越えて、二の丸越えて、

三の丸先きへ、掘井戶掘つて、

堀は掘井戶、釣瓶は黃金(こがね)、

黃金の先きへ 蜻蛉がとまつて、

やれそれ蜻蛉! それそれとんぼ!

飛ばなきや羽(はね)を きりぎりす!

きりこが燈籠、きりこが燈籠!

きりこが燈籠! どなたの細工?

御(み)あかし樣の 御(お)手細工!

 

附記 日本の城のまはりの防禦線に內から外へかぞへる。きりこ燈籠は一種の四角又は多角形の提燈。

[やぶちゃん注:「御(み)あかし樣の」大谷の確信犯の変更。原本は“O-Akasi Sama no”である。しかし、「御燈明樣」は「みあかしさま」が穏当ではある。しかし、孰れにしても、意味がよく分らぬ。そもそもが御灯明は神仏に供える灯火であるから、それから転用して神仏自らが造ったというのでは――ナンジャラホイ?――だろう? だいたい、ロケーションが城の中から、だんだんに離れてゆくわけで、どうも、奇妙だし?……ウン? これって、城主の――埋蔵金――隠し金の位置を――判じ物にした暗号化かッツ!?! 判らぬ……識者の御教授を乞う。

 

   

長い、長い! 兩國橋長い!

長い兩國橋 納凉(すずみ)に出たら、

お子樣がたが、屋形(やかた)の船で、

彈くや語るや、やれ面白や!

やれ面白や! 盆踊!

 

   

柳の下(した)の 鴛鴦樣(さん)は、

朝日に照らされてお色が黑い!

お色が黑けりやがんぐり傘おさし!

がんぐり傘 いやよ!

がんぐり傘 いやよ!

お江戶ではやる蛇の日傘!

        蛇の日傘!

 

附記 どんな傘をガングリガサといふのか自分は知らぬ。ジヤノメガサとは、頂から四五吋[やぶちゃん注:「インチ」。十センチメートル強から十三センチメートル弱。]の處につけたバンドを殘して餘は黑く塗つた紙張の傘。だから開くと、黑い圓を取り卷いて居るこの白い環が、形が蛇の目に似る。

[やぶちゃん注:「ガングリガサ」不詳。思うに、何かを繰り抜いたような、ただ柿渋紙をドーム状に貼った畳めない起きっぱなしの傘なのではなかろうか?]

 

 

   

こなたの屋敷は 綺麗な屋敷!

奧の間で三味線、中(なか)の間で踊、

臺處までち笛太鼓 笛太鼓!

 

おほやまの、おほ山の お紺さんは、

何處へ行つた? お隣へ、

お薯(いも)をたべに 行きました!

お〻可笑し、お〻可笑し! (東京の遊戲歌)

[やぶちゃん注:ここに本作品集原本冒頭に配された本唄の挿絵(扉の前。ここ)を掲げておく(“Internet Archive”のこちらにある。画像データ(PDF)からトリミングしたもの)。絵の作者は右下の落款から浮世絵師宮川春汀(みやがわしゅんてい 明治六(一八七三)年~大正三(一九一四)年)である。画中右上の題箋は「子供風俗」か。落款の脇の雅号揮毫は「春汀畫日人」であろう。ウィキの「宮川春汀」によれば、『洗圭、春汀、漁史と号し、Sとも記す。三河国(現・愛知県)渥美郡畠村(現・田原市福江町)に廻船業と薬種問屋を営んでいた豪商・渡辺家に生まれた。名は守吉』。明治一一(一八七八)年に『母が絶家となっていた宮川家を継いだため、守吉も宮川を名乗る』。十二『歳の時、敷知郡誠明教育会主催の展覧会で作文・図画の一等賞を受賞』、十四歳の時には『漢書の筆写を好んで』、『絵を模写』した。明治二三(一八九〇)年、『得意としていた画業を志し』て『上京、富岡永洗について絵を学んだ』。『春汀が画家となった理由は不明だが、同郷の日本画家・渡辺小華に憧れたからとする説がある。以来、写生を専らにして』、『浮世人物を究め、特に好んで柔らかいタッチの子供絵を描いたほか、美人画を得意としている』。『最初は師から「蓬斎洗圭」の名を与えられ』たが、明治二八(一八九五)年に『「宮川春汀」に改名した』。『作画期は』明治二〇(一八八七)年『代から亡くなる年までで』、明治二十年代から明治三十年代に『かけては「風俗通」、「美人十二ヶ月」、「風俗錦絵雑帖」などの風俗画の他、雑誌口絵、新聞挿絵を描いている。こうした画業の傍ら、柳田國男、田山花袋、国木田独歩、徳田秋声、桐生悠々ら多くの若い文人たちと交流を重ねていった』。『また』、『作家・巌谷小波と知り合い』、明治三一(一八九八)年五月には、『小波が主催する「木曜会」に入会し、彼らと作品を批評したり』、『句会を開いた』(小泉八雲の本作品集刊行は明治三四(一九〇一)年で、まさに彼の絶頂期であった)。しかし、明治三八(一九〇五)年、『最愛の長女が電車事故で亡くなった』『事が、生来』、『生真面目で神経質、そして多少の癇癪持ちだった春汀の心に、生涯重荷となってのしかかった。また』、大正二(一九一三)年には『院展出品を目指して制作に意欲を燃やすも、振るわず』、『次第に神経が蝕まれていく。翌年正月に発病、入院するも快方に向かわず』、『生涯を閉じた。享年は数えで』四十二であった、とある。彼の作品は「浮世絵検索」のこちらで三百三十一点をカラーで見ることが出来る(捜したが、本絵はない)。この原図も実際のそれは非常に美しいものであることがこれらからよく想像される。

Okonsan

 

向うの山の、

相撲取り花は、

エンヤラと引けば、

お手々が切れる、

お手々が切れた。

お藥 無いか?

赤いのもある、

白いのもある。

同じくなれば、

赤いのにしようよ。 (東京の遊戲歌)

[やぶちゃん注:「相撲取り花」キントラノオ目スミレ科 Violaceae のスミレ類、或いはスミレ属 Viola、或いは、その中の一種であるスミレ Viola mandshurica を指す。距(キョ)と呼ばれるスミレの花の後ろにある突起部分を引っ掛けあって、切れるまで引っ張りっこをして遊ぶことに由来する異名である。

 

向うの山の、

かはづ鳴くが、

なして鳴くか?

寒うて鳴くか?

ひもじて鳴くか?

ひもじきや田つくれ!

田つくりやきたない!

きたなきや洗へ!

洗や つめたい![やぶちゃん注:「洗や」は「あらうや」。]

つめたきや 暖(あた)れ!

あたりや 熱い!

あつきや 退(しざ)れ!

しざりや蚤が食ふ!

蚤が食(く)や殺せ!

殺しや可哀(かは)い!

可愛(かは)域や抱いて寢(ね)!

抱いて寢りや蚤が食ふ!

蚤が食(く)や殺せ!

…………………… (出雲の問答歌)

[やぶちゃん注:最後の「問答歌」で判る通り、これは一行が台詞で二人(或いはそれ以上)の人物のやり取りの形式を実は採っている。原本を見れば一目瞭然で、一行が総て“ ”で括ってあるのである。されば、ここは大谷氏は煩を厭わず、全行に『 』を附すべきであったと考える。平井呈一氏はちゃんと全行に「 」を附しておられる。

 

 

 自分が蒐集した此の部類のものの中で特に最も奇異なものは、子供が遊戲歌としてうたふ一種の哲學的問答の歌である。多分これは子供の敎育が主として佛敎僧侶の手に委ねられてゐた時代、そして殆ど寺といふ寺がすべて兼ねてまた學校であつたか、或はそれに附屬して居る學校を有つてゐたか、した時代からして殘存して居るものであらう。作品そのものには甚だしく珍らしい處はない。西洋人の心にこれを奇異だと思はせるのは、その題目の選擇に――遊戲歌としては驚くべき題目たるに――在るのである。

 この題目は、その溫顏を殆ど到る處の路傍に、また數限りない佛敎の墓地に、見ることの出來る彼(あ)の地藏菩薩(ボダィサットヷ・クシティガルバ)の無限無窮(インフイニテイ)である。屢〻十字路に於て、またなほ多く墓地に於て、一體の地藏で無くして、各〻の像(すがた)が一々異つた神祕的表號を有つて居る、一列の六體を見るであらう。この六體の地藏卽ちロクヂザウは、地藏菩薩は自己を幾體にも增して、同時に六道の一切衆生を――卽ち、宇宙全界を――能化し給ふといふ敎(をしへ)を象徵したものである。が、より高等な儒敎敎理に據ると『佛陀のほかに實在無く、實在のほかに佛陀無』しである。一切の諸佛一切の菩薩は實はただである[やぶちゃん注:「」は傍点「◦」である。以下も同じ。]。――一切の物質、一切の生、一切の心はただである。だから六道の地藏といふもを多樣に表現しただけのものであるばかりか、彼も亦絕對である。……そんな思想が子供の遊戲歌に具體化されて居るのはや〻驚嘆すべきである。が、古い通俗な佛敎文學には全くこれと同樣に驚くべきものが數々あるのである。

[やぶちゃん注:「地藏菩薩(ボダィサットヷ・クシティガルバ)」“Bodhisattva Kshitigarbha”。地蔵菩薩のサンスクリット語ラテン文字転写の一つの現行表記は「Bodhisattva Kṣitigarbha」である。釈迦の入滅後から五十六億七千万年の後に弥勒菩薩が如来となって世に現れて総ての衆生を救うまで間、無仏の世に住み、六道の衆生を教え導くことを誓いとした菩薩である。中国では唐末、日本では平安中期から盛んに信仰された。

「無限無窮(インフイニテイ)」“infinity”。「無限・無限大・無限遠・無数・無量」の意。]

 

橋の下(した)の地藏、

鼠に頭(あたま)を囓じられて、

鼠こそ地獄だ!

鼠 地獄だら、

何しに猫に捕られべな?

猫こそ地藏よ!

猫は地藏だら、

何しに犬に捕られべな?

犬こそ地獄よ!

犬は地獄だら、

何しに狼に捕られべな?

狼こそ地藏よ!

狼 地藏だら、

何しに火にまかれべな?

火こそ地藏よ!

火は地獄だら、

何しに水に消されべな?

水こそ地藏よ!

水は 地藏だら、

何しに人に飮まれべな?

人こそ地獄よ!

人は地藏だら、

何しに地獄拜むべな?

眞(ほん)の地獄は六地藏! (陸奥)

[やぶちゃん注:この論理は――確かに――凄絶であり――私は正鵠を射ていると感ずる……。

小泉八雲 日本の子供の歌  (大谷正信譯) 二(「動物に關した歌」)

 

[やぶちゃん注:本篇については、『小泉八雲 日本の子供の歌  (大谷正信譯) 序・一(「天氣と天象との歌」)』を参照されたい。]

 

       

 

      動物に關した歌

 昆蟲と爬蟲、鳥と獸とに關した子供歌は――日本の殆どどの村もこの部類に属する歌を一つ二つ銘々に有つて居るから――その數驚くべきものがある。その大多數は二行乃至八行の短いものである。其うちの好いのは同種類の英國の子守唄――例を舉ぐれば、『蝙蝠、蝙蝠! わしの帽子の下へ來い!』[やぶちゃん注:底本は「!」の後に字空けはないが、特異的に挿入した。以下、同じ仕儀を施しても注しない。]――『てんたうむし、てんたうむし、飛んで歸れ!』――『クツクウ、クツクウ! お前何をする?』――『かささぎ止(とま)つた、梨の木に』等等のやうな子守唄――を思ひ出させる。次に記す拔萃のうち、我々の子供歌の多數のものよりも古いのが隨分澤山あるやうである。殆どこの何れもの變種が非常に多い。

附記 動植物に關した出雲の歌の小蒐集が自分の「世に知られぬ日本の面影」の中の「日本の庭」にあるから、參照されたい。

[やぶちゃん注:私の『小泉八雲 落合貞三郎他訳 「知られぬ日本の面影」 第十六章 日本の庭 (九)』・同『(一一)』・同『(一二)』・同『(一三)』を参照されたい。]

 

鳩ぽつぽ、

豆がたべたい! (東京。鳩の歌)

 

烏、かあらす、勘三郞!

親の恩を忘れなよ! (東京。烏の歌)

 

附記 勘三郞といふは極めてありふれた固有名である。此處では多分ただ音の關係でこの烏へ附けたのであらう。この歌は疑も無く「烏に反哺の孝あり」から思ひ附いたものである。年老いた烏は自分で餌を求めることが出來なくなると、その子が養つてやるといふことである。烏が群を爲して日暮に飛んで居るのを見ると子供が之を歌ふ。

[やぶちゃん注:底本では「勘三郞」に「」記号が附されてあるが、相当する原註は存在しない。「附記」がそれに当たるが、目障りなので省略した。後にも同様の箇所があり、同じように処理したが、それはもう注さない。

「烏に反哺の孝あり」「反哺」(はんぽ)は口移しで餌を与えることを言う。成長した鴉は自分にして呉れたように口移しで老いた親に餌を与えて己れの恩を返す(「養を返へす」)という「事文類聚」(宋の祝穆(しゅくぼく)編になる類書(字書)。百七十巻。一二四六年成立)などに載る故事に基づくもので、鴉さえ親の恩に報いる、況や人をや、という謂い。「慈烏反哺(じうはんぽ)」という四字熟語でも知られる。しばしば鳩の譬えと合わせて「鳩に三枝の礼あり、烏に反哺の孝あり」(前者は「子鳩は育てて呉れた親鳩に敬意を表して、必ず親鳥より三本も下の枝に止まる」とする謂い)とも言う。小泉八雲は、既にこれを『小泉八雲 落合貞三郎他訳 「知られぬ日本の面影」 第十六章 日本の庭 (一三)』で語っている。但し、残念ながら、実際にはそんなことはしない。鳥は巣立ちすれば、親鳥とは縁がなくなり、実の親や兄弟とも喧嘩や餌の奪い合いをする。この誤認については、「生物學講話 丘淺次郞 第十七章 親子(7) 三 子の飼育(Ⅱ)」(私の電子化注)で丘先生は『昔から『「からす」に反哺の孝がある』といひ傳へたのは恐らく、鳥類の親が雛の口の中へ餌を移し入れてやる所を遠方から見て、子が親を養ふのかと思ひ誤つたためであらう。烏類に限らず如何なる動物にも、子が生長し終つた後に、老耄して生き殘つて居る親に餌を與へて養ふものは、決して一種たりともない。それはかゝることをしても種族の維持のためには何の役にも立たぬのみか、餌が少くて生活の困難な場合には、却つて種族のために明に不利益になるからであらう』と述べておられる。]

 

五郞助ほうこ、

むだぼうこ! (東京。烏の歌)

[やぶちゃん注:原文は、

 Gorosuké-hokō

 Muda-bōkō !

であるから、正確には「ほうこ」は「ほうこー」、「むだぼうこ!」は「むだぼうこー!」である。]

 

雀はちゆうちゆう忠三郞!

鳥はかあかあ勘三郞!

とんびは外山の鐘た〻き!

一日た〻いて米一升!

        粟一升! (伊勢。烏の歌)

附記 『鳶はとうとう藤三郞』とも歌ふ。藤三郞といふ名は、忠三部勘三郞同樣、實際にある名である。

 

 勘三郞、忠三郞、五郞助といふ人名は男子に普通見る名である。チユウといふ音(おん)に似た雀の銳い啼聲が、前記の子供歌に忠三郞といふ名を使はうと、初めに思はせたに相違無い。そして烏の啼聲は『カ』といふ綴音のやうにきこえるから、烏を勘三郞と呼んだのであらうが、梟に附けた名――五郞助――には妙な傳說がある。古昔或るえらいサムラヒの邸內に五郞助といふ家來があつた。この五郞助生まれ付き愚鈍で、大切な勤務(つとめ)を託された極の最初に、大失策をやって重大な損害を招いた。爲めに誰れも彼れもが嘲り笑つて辱かしめた。そこで到頭自殺した。その後その靈が、今呼ばれて居る名前の小さな梟になって、夜通しその梟は全く絕望の調子で、

 

五郞助奉公

無駄奉公!

 

と叫ぶ、といふのである。

[やぶちゃん注:「綴音」「ていおん」或いは「てつおん」と読み、「二つ以上の単音が結合して生じた音」を指す。

「大切な勤務(つとめ)を託された極」(きよく)「の最初に」原文は“the very first time that a duty of importance was confided to him”。「極めて大切な務めを言いつかったその一番大切な初っ端に」の意。]

 

附記 烏は普通カハ! カハ!(川! 川!)――「川へ行かう、川へ行かう」といふ意味で――と啼くと言はれて居ることを書いてもよからう。烏の啼聲は實際『カハ』といふ語の音に能く似て居る。

 

兎、うさぎ!

何を見てはねる?

十五夜のお月さま見てはねる!

        ヒヨイ、ヒヨイ! (東京。兎の歌)

 

附記 「ヒヨイ、ヒヨイ」の言葉で歌つて居る者皆、飛ぶ。

 

雀のあつまり、チイチイ、パツパ!

だれにあたつても怒(おこ)るなよ!

怒るなら最初(はじめ)から加(よ)らんがよい。 (東京。雀の歌)

 

附記 チイは雀が怒つた時の啼聲を現はすに發明した擬聲である。パツパはその翼を早くはたく音を意味して居る。

 

白(しろ)鷺、白鷺、

なぜ首が長い?

ひだるて長い。

ひだるきや田打て。

田打ちや泥(どろ)がつく。

泥がつきや拂へ。

はらや痛い。 (伊勢。白鷺の歌)

 

蟇(ひき)さん蟇さん、出てごんせ!

出んにや熟艾(もぐさ)すゑるぞ! (土佐。蟇の歌)

[やぶちゃん注:「熟艾(もぐさ)」ヨモギ(キク目キク科キク亜科ヨモギ属 ヨモギ変種ヨモギ Artemisia indica var. maximowiczii 。但し、「もぐさ」用には同属種のヤマヨモギ Artemisia montana も使われる)は高さ五十センチメートルから一メートルほどに成長すると、全体にあった白色の丁字毛(ちょうじもう)は葉の下面だけとなる。これらを採取して陰干しにして乾燥させ、臼でよく搗くと、葉肉・葉脈は細かな粉となり、葉裏の長い毛は縺(もつ)れて綿状の塊となる。これを篩(ふるい)に掛けて、毛だけを分離したものが「さらしもぐさ」又は「熟艾(じゅくがい)」と呼ばれ、灸に使用される材料となる、と小学館「日本大百科全書」の「もぐさ」にある。]

 

鳶、鳶、舞うて見せ!

あしたの晚に、

鴉にかくして鼠やる! (出雲。鳶の歌)

 

蝙蝠來い! 酒飮ましよ!

酒が無きや、樽振らしよ! (出雲。蝙蝠の歌)

 

螢來い、水飮ましよ!

あつちの水はにがいぞ!

こつちの水はあまいぞ!

廿い方へ飛んで來い! (出雲。螢の歌)

 

螢來い! つち蟲來い!

己(おの)が光で狀もって來い! (伊勢。螢の歌)

 

附記 「ツチムシ」は文字通りでは「地蟲」であるが、此の歌では多分「螢」であらう。

[やぶちゃん注:「つち蟲」は小泉八雲の推察する通りであるが、狭義には「土蛍」(つちぼたる)で、翅が退化したホタルの♀の成虫又は幼虫を指す。幼虫の形状は蛆状で、水中又は水辺の草むらに棲み、巻貝などを捕食する。彼らも多くは発光をする。

「狀」は「じやう(じょう)」で原文は“a letter”であるから、「手紙」である。但し、私はこの歌を知らないし、何故、「手紙」なのかも説明は出来ない。識者の御教授を乞うものである。]

 

おほわた來い! 來い!

豆食はしよ!

おまんまがいやなら魚くはしよ! (東京)

 

附記 「おほわた」(御綿)といふに、その尾に、綿の總[やぶちゃん注:「ふさ」。]に似た白い絨毛の突出を有つた紫色の小さな蠅である。

[やぶちゃん注:ここで小泉八雲が言っているのは、恐らく、半翅(カメムシ)目腹吻亜目アブラムシ上科アブラムシ科 Prociphilus 属トドノネオオワタムシ(椴之根大綿虫)Prociphilus oriens などに代表される「雪虫」と思われる。一般には、同前種は北海道や東北地方を中心に知られるが、ウィキの「雪虫」を見ると、『雪虫(ゆきむし)とは、アブラムシ(カメムシ目ヨコバイ亜目アブラムシ上科』Aphidoidea『のうち、白腺物質を分泌する腺が存在するものの通称』で、『体長』五ミリメートル『前後の全身が、綿で包まれたようになる』とあり、さらに、『この虫の呼び名としては、他に綿虫』、『東京地域のオオワタやシーラッコ、シロコババ、京都地域の白子屋お駒はん、伊勢地域のオナツコジョロ、水戸地域のオユキコジョロがある他』、『ユキンコ、しろばんばといった俗称もある』とあるので、小泉八雲のそれが東京での採取であっても、何ら問題ない。]

 

蝶々、蝶々、

菜の葉にとまれ!

菜の葉がいやなら手にとまれ! (蝶の歌)

附記 「ナ」といふ名は種々異つた野菜に與へてある名であるが、此處では多分蕪菁を指して居るのであらう。この歌に日本の殆ど到る處で歌ふ。

[やぶちゃん注:「蕪菁」は「かぶ」。原文“Japanese turnip”。アブラナ目アブラナ科アブラナ属ラパ変種カブ(アジア系)Brassica rapa var. glabra 。確かにそれでも間違いとは言わないものの、しかし、我々は、百%、カブの近縁種のアブラナ属ラパ変種アブラナ Brassica rapa var. nippo-oleifera を指すと認識しているはずである。他ではいろいろ原文を補正して修正訳している大谷にして、私は不審な気がちょっとするのである。

 

蝶々とんぼも鳥のうち。

山に囀るのは

まつむし、すずむし、轡蟲。

    オツチヨコ、チヨイ、ノ、チョイ! (東京の歌)

 

あつちへ行くと、

閻魔がにらむ。

こつちへ來ると、

ゆるしてやるぞ! (蜻蛉を追ふ時歌ふ)

 

鹽や! 鉄漿(かね)や!

やんま かへせ! (東京。蜻蛉の歌)

 

附記 この歌は頗る古い。ここに名ざしてある蜻蛉の事は前に載つて居る蜻蛉の文にある。

[やぶちゃん注:私の『小泉八雲 作品集「日本雜錄」 / 民間傳說拾遺 / 「蜻蛉」(大谷正信譯)の「一」』を指す。]

 

まいまいつぶろ!

お湯屋の前に、

喧嘩があるから、

角(つの)出せ、槍出せ! (東京。蝸牛の歌)

[やぶちゃん注:「お湯屋」小泉八雲は原文で “O-yuya”とするが、正しく東京方言ならば、「湯屋」は「ゆうや」であるから「O-yuuya」とすべきかとも思う。]

 

蛙(かへる)が鳴くから

かへろ! (東京。蛙の歌)

 

附記 この歌には言葉のたはむれがある。「カヘル」は發音しただけでは「歸る」とも「蛙」とも意味する。「カヘロ」はその動詞の未來形である。

[やぶちゃん注:「未來形」確かに時制的にはそうだが、口語の推量の助動詞「う」であるから、ここは、「話者の意志・決定を表わす」とすべきところである。]

 

つぶ、つぶ、山へ行け!

おりやいやだ、われ行け!

去年の春も行つたれば、

鴉と申す黑鳥(くろどり)が、

あつちへつ〻き、つんまはし、

こつちへつ〻き、つんまはし、

二度と行くまい、あの山へ。 (信濃。蝸牛の歌)

 

つくつくばうさんな、

なんゆう啼くか?

親が無いか? 子が無いか?

親も御座る、子も御座る。

おいとし殿御を有つたれば、

鷹匠(たかじやう)にとられて今日七日(けふなぬか)、

七日と思へば四十九日!

四十九日の錢金(ぜにかね)を、

どうして遣ふたらよからうか?

たかい米買うて船に積む。

廉い米買うて船に積む。

船は何處船、大阪船。

大阪船こそ 價(ね)がよけれ。 (筑前。つくつくばうしといふ蟬の歌)

 

附記 この珍らしい蟬に就いての記事が自分の「影」の中の「セミ」といふ文にあるから參照されたい。また、この歌には死後四十九日日に營む佛敎の法要のことが詠みこんである。

[やぶちゃん注:「附記」のそれは『小泉八雲 蟬 (大谷正信譯) 全四章~その「二」』(リンク先は私の電子化注)を指す。「影」は明治三三(一九〇〇)年に出版された作品集“ SHADOWINGS ”(「影」:来日後の第七作品集)で、その第二パートである“ JAPANESESTUDIES ”(「日本の研究」)の冒頭に配されたのが“ SÉMI ”である。なお、このわらべ唄、かなり内容的に気になるので、検索して見たが、見当たらない。識者の御教授を乞うものである。]

小泉八雲 日本の子供の歌  (大谷正信譯) 序・一(「天氣と天象との歌」)

 

[やぶちゃん注:本篇(原題“ Songs of Japanese Children ”。「植物と動物の仏教上での名称」)は一九〇一(明治三四)年十月にボストンの「リトル・ブラウン社」(LITTLE,BROWN AND COMPANY)から出版された作品集“ A JAPANESE MISCELLANY ”(「日本雑記」。来日後の第八作品集)の第一パート「奇談」(全六話)の次のパート“ Folklore Gleanings ”(「民俗伝承拾遺集」)全三篇の三番目に配されたものである。本作品集は“Internet Archive”のこちら(出版社及びクレジットの入ったページを示した)で全篇視認できる(本篇はここから)。活字化されたものは、整序されたものは見当たらない(今まで紹介していないが、同前の“Internet Archive”には本作品集のフル・テクスト・ヴァージョンはあるにはあるのであるが、OCRによる読み込みで、誤まり多く、美しくなく、読み難く、また、味気ない)。

 底本は英文サイト“Internet Archive”のこちらにある、第一書房が昭和一一(一九三六)年十一月に刊行した「家庭版小泉八雲全集」(全十二巻)の第七巻の画像データをPDFで落として視認した【2025年4月7日:底本変更・正字化不全・ミスタイプ・オリジナル注全補正】時間を経て、国立国会図書館デジタルコレクションに本登録し、現行では、以上の第一書房版昭和一一(一九三六)年十一月に刊行した「家庭版小泉八雲全集」(全十二巻)の第七巻が、国立国会図書館デジタルコレクションで公開されてある。(リンクは扉だが、「家庭版」の文字はない。しかし、奥附を見て貰うと『家庭版』とあり、『昭和十一年十一月二十七日 發 行』とあることが確認出来る)、これが、前掲の底本と同じものであるが、やはり、外国のサイトのそれを底本とするのは、日本人小泉八雲に失礼であると考えた。されば、こちらで、再度、以下の「骨董」の作品群を改めて校正することとする。これが――私の小泉八雲への「義」――である。なお、これよりも前の元版の全集等が先行しているものの、私がそれらと比べた結果、実は先行する同社の「小泉八雲全集」のそれらは、訳が一部で異なっており、訳者等によって、かなりの補正・追加がされていることが、今回の正字補正作業の中で、はっきりと判って来た。いや、同じ「家庭版」と名打ったネット上の画像データでも、驚いたことに、有意に異なっていたのである。そうした意味でも――完全な仕切り直しの総点検――が必要であると決したものである。従って、旧前振りの括弧・鍵括弧の問題も、拡大とガンマ補正で確認し、正確を期する。本作はここから。 底本では、中パート標題は以下の通り、「民間傳說拾遺」と訳してある。底本ではパート標題は「民間傳說拾遺」と訳してある。

 訳者大谷正信氏については、「小泉八雲 燒津にて 大谷正信譯」の私の冒頭注を参照されたい。

 傍点「﹅」は太字に代えた。踊り字「く」「ぐ」は正字化した。

 なお、全体に亙ってわらべ歌の引用や、それに末尾行末等に附された丸括弧注記及び後の「附記」とされたポイント落ちの解説は、全体が五字下げで行われいるが、総て頭まで引き上げ、丸括弧注記も「附記」も同ポイントとした。特にその仕儀によって讀み難くなったり、誤読する箇所は殆んどないと思われるが、その虞れがある箇所では注記した。

 また、本篇は長い(序と第「一」章から後書きを含む第「六」章まで)ので分割し、また、例外的に全電子化を速やかにすることを念頭に置き、まずは注はストイックに必要最小限度に留めることとした。後に気に掛かった箇所には追記をすることとして、である。

 

 

   日本の子供の歌

 

 二萬七千の小學校の影響を受けて、日本の古い民間文學は、物の本に載つて居ない歌と傳說との文學は、急速に人の記憶から消え去りつ〻ある。自分だけの追憶のうちにさへ、我が英國の子供部屋の文學に稍〻相當する、この口[やぶちゃん注:「くち」。]の上の文學の一種が、新規な物事の爲めに大なる影響を蒙つて居る。自分が初めて日本へ來た時は、――家庭の敎は普通祖父祖母に任されて居るから――子供達はその祖父祖母どもに敎はつた古い歌をうたつて居つた。ところが今日は、街路や寺院の庭で遊んで居る小さな者共は、學校の敎室で敎はつた新しい歌を――西洋の音階に依つて書いた譜に合ふやうな歌を――歌つて居る。――だから、それよりか遙かに興味の多い明治前の歌は、今はただ稀にしか耳にすることが出來ぬ。

[やぶちゃん注:『文部省年報』によれば、本書が書かれた時より十六年も前の明治一八(一八八五)年の時点で、小学校数は実に、二万八千二百八十三校もあった。因みに平成三〇(二〇一八)年度の文部科学省の公式データを見ると、現在の日本の小学校数は国公立・私立総てをひっくるめて二万九十五校(公立の分校を含む)しかない。【2025年4月8日追記】因みに、同じ最新データ(2023年版)で、小学校の総数はさらに経って、一万八千九百八十校まで減っていた。たった四年で、でだ!]

 ではあるが、そんな歌は――一つにはそんな歌の多數が急に癈止することの出來ぬ遊戲と離すことの出來ぬ關係がある爲めと――一つには一度もオルガンを彈ずる學校敎師に就いて學んだことが無く、その上子供達が古昔の小曲を歌ふのを聽くのが好きな、喜ばしい祖父祖母が幾百萬人とまだ生きて居る爲め――全然忘れられては居ない。が、そんな面白い老人達がその祖先の居場所へ呼び寄せられてしまへば、それが敎へた歌は歌はれなくなるであらうと思ふ。幸にも日本の民間傳說硏究家はそんな口傳の文學を保存するに努力して居る。そしてその勞苦が自分をしてこの一文を企て得さしたのである。

 

 自分の爲めに注意して筆寫しまた飜譯された、非常に澤山な舊時の子供歌及び無意味な詩歌[やぶちゃん注:原文“nonsense-verses”。「戲(ざ)れ歌」と訳したいところだ。]のうち、次記の順序に六項目に類集して、可なり代表的な選擇をするやうにと力めた[やぶちゃん注:「つとめた」。]。

  一、天氣と天象との歌。

  二、動物に關した歌。

  三、種々な遊戲歌。

  四、物語の歌。

  五、羽子突歌と手毬歌。

  六、子守唄。

 

 この分類は、殊に第三類に關しては、甚だ漠として居る。が、作品の多くがその性質不思議にも不確實なものであるから、先づこれで宜いとしてよからうと思ふ。

 言ふまでも無く、その平易な英譯は、書物の頁の間に壓し乾かした花がその自然の環境に在つての生きた花を示すと同じ程度に於て、ただその日本の詩歌の槪念を與へ得るに過ぎぬ。脚韻の無い句の奇妙な節奏(リズム)、日本の言葉の飾り氣無さ、小鳥の囀の如くに記憶しにくい短い妙な節(ふし)、一緖に歌って居る多勢の子供聲の氣持ちのいい晴れやかさ、――これ等が手傳って原歌の妙趣を爲すのであるが、それがどれも同樣に寫し現はすことの出來ぬものである。

 自分のこの選擇のうちに餘程異國的(エキゾテイツク)な處が發見されるかも知れぬ。が、讀者はまた、既に熟知して居らる〻子供歌を懷ひ出させるやうな處を、何處か見出さる〻ことであらう。一體子供といふものは、全世界到る處、或る種の題目に對しては殆ど全く同じやうに考へまた感じるもので、似寄った經驗を詠じるものである。殆どどんな國でも、子供は日と月とに就いて――風と雨とに就いて――鳥と獸(けもの)とに就いて――花と木と小川とに就いて、それからまた、水を汲むとか火を熾(おこ)すとか料理するとか洗濯するとかいふやうな日常の家事に就いて、歌ふものである。でも、そんな範圍內に在つてすらも、日本の子供文學と他國の子供文學との差異の方が、類似の方より餘程興味がある、といふことが判かるであらう信ずる。

 

   

  天氣と天象との歌

 

夕燒け、こやけ、

あした天氣になあれ。 (東京。日暮の歌)

 

  附記 この短い歌は、笑しい夕燒の折、自分の近處で子供が今なほうたふ歌である。

[やぶちゃん注:「こやけ」は底本では「こうやけ」であるが、原文も“Ko-yaké!”となっており、「こうやけ」は或いは大谷の原音サーヴィス(「こーやけ」の長音部再現)のつもりなのかも知れないが、我々には激しい違和感があるので、特異的に「こやけ」に訂した。]

 

天狗さん、風おくれ、

風が無きや、錢おくれ。 (伊賀。紙鳶揚げ歌)

 

附記 東京で紙鳶を揚げる折『風の神は弱いな』と歌ふ。出雲では『大山(だいせん)の山から大風(おほかぜ)吹いて來いよう』と歌ふ。

[やぶちゃん注:「紙鳶」は音は「シエン」であるが、「たこ」或いは「いか」と当て訓しておく。]

 

雨、雨、降りやめ!

お寺の前の

柿の木の下(もと)で

雉子の子が啼くぞ! (土佐。雨の歌)

 

雪はちらちら!

雲は灰だらけ! (伊豆。雪の歌)

 

雪や こんこや、

霰や こんこ!

お前(まへ)の背戶で、

團子も煮える、

小豆も煮える、

山人(やまど)は戾る。

赤子(あかご)はほえる、

杓子は見えず、

やれ、いそがしやな! (出雲)

[やぶちゃん注:「山人(やまど)」は広義の「山野で働く人」・「薪を採りに山に入る人」・「木樵(きこり)」の意の日本各地での方言であるが、ここは「赤子」の対表現であるから広義の最初の意味の野良仕事をしている大人たちを指すものと、私は、解する。

「杓子」(しやくし)は、まず、第一に仕事から帰れば、水を一杯ということか。]

 

星さん、星さん、

一つ星で出ぬもんぢや、

千も萬も出るもんぢや。 (伊賀。星の歌)

附記 日沒後星のきらめきそめる時に歌ふ。

[やぶちゃん注:この歌は、宮澤賢治の童話「双子の星」の「一」に、酷似した形で、

   *

「星さん星さん一つの星で出ぬもんだ。
 千も万もででるもんだ。」
 下で別の子供が叫んでいます。もう西の山はまっ黒です。あちこち星がちらちら現われました。

   *

と出る(全文は「青空文庫」のこちらで読める)。]

 

お月さま、

觀音堂下りて、

まんま あがれ!

まんまかいやなら、

あんもなら三つ吳れう! (信濃。月の歌)

[やぶちゃん注:最終行は、恒文社版(一九七五年刊)の平井呈一氏「日本のわらべ歌」の訳では、『餅(あんも)なら三つくりょう!』となっている。原文の表記は平井氏の方が正確で、小泉八雲は以下の英訳部(底本では、この篇の「わらべ歌」に限らず、作品集総てに亙って詩歌のそれは完全にカットされている)で“a,mmochi”(「餡餅」)とし、さらにそれに注を附して“Rice-cakes stuffed with a mixture of sugaer and bean-flour.”(「砂糖と豆を粉にしたものをミックスしてそれを詰めたお餅」)と、至れり尽くせりなのである。小泉八雲が冒頭で危惧した通り、今の子どもたちの中には、この訳を見ても、「あんもってなんだ?」と首を傾げる者が、殆んど、であろう。……八雲先生……先生の懼れておられた通りでした……日本は最早……日本では……なくなってしまいました…………

 

お月さま、いくつ

十三 ななつ、

そりやまだ若い、

若船へ乘つて、

唐(から)まで渡れ! (紀伊)

 

お月さま 桃色、

誰(だれ)が言うた、あまが言うた、

あまの口 引裂け! (土佐)

 

お月さま、お月さま、

もうし、もうし、

猫と鼠と一升樽さげて、

冨士の山を今越えた。 (周防)

附記 雲が月の上か通る時歌ふ。猫と鼠といふは――子供の繪本に出て來るやうな――遊び好きの化物であること言ふまでも無い。この歌の目的は、――月に顏をまた出させやうといふのである。こんなののどんなものよりか面白い、出雲の月の歌が自分の『心』に載せてある。

[やぶちゃん注:最後に言っているのは、明治二九(一八九六)年に刊行した本邦での第三作品集「心」(“ Kokoro ”)に所収された小説“ The Nun of the Temple of Amida ”(「阿弥陀寺の尼さん」)の中に出るそれである。ここでは“Internet Archive”からPDF画像で入手した【2025年4月8日:底本変更】国立国会図書館デジタルコレクションの「小泉八雲全集」(第一書房元版)第四巻(昭和二(一九二七)年刊)所収の「第五章 阿彌陀寺の比丘尼」(石川林四郎訳)それを底本とした。ここから。二箇所にある原註・訳者註記号はカットした。

   *

ののさん(或はお月さん)いくつ。

十三 ここのつ。

それはまだ 若いよ、

わかいも 道理。

赤い色の帶と、

白い色の帶と、

腰にしやんと結んで、

馬にやる いやいや。

牛にやる いやいや。

   *

これに小泉八雲の原註が一つと、石川氏の複数の訳註が附しているので、それも示す。

   *

註[やぶちゃん注:「赤い色の帶と、」に註記号。] 派手な色の帶は子供だけが締めるので斯ういふ。

譯者註一 『十三ここのつ』はありふれた『十三七つ』に比して口調も惡しく數の漢字も異樣ながら、出雲では今も斯く歌つてゐる由。

譯者註二 原文のローマ綴をその儘に譯せば『若いも道理』となるが、原文の『いえ』の二音は松江の方言の『い』の間のびしたのを、著者がその儘に音譯したものである、との落合貞三郞氏の說明を附記して置く。

   *

【追記】「小泉八雲 阿彌陀寺の比丘尼 (石川林四郞譯)」は電子化注した。]

2019/10/18

小泉八雲 佛敎に緣のある動植物  (大谷正信譯) /その3 ~「佛敎に緣のある動植物」~了

[やぶちゃん注:本篇については「小泉八雲 佛敎に緣のある動植物(大谷正信譯)/その1」の私の冒頭注を見られたい。]

 

 佛敎に緣のある名のうち、名そのものに非常に興味があるけれども、寺院の什物に關係があつたり、佛敎の勤行に使ふ特別な器具に關係があつたりするので、圖解の助を藉らんでは、西洋の讀者には了解の出來ないのがある。例を舉ぐれば普通サンコマツ(三鈷松)として知られて居る木の名の如きそれである。サンコ(梵語ではヷジラ)といふ語は、黃銅製の或る器具であつて、古典に見える雷電に、兩端に叉を附けたものに、似た恰好のもので、或る特別の式の場合に超自然力の表現として僧が用ひるものである。美しいグラス・スボンヂ學名ハイアロネマ・シーボルディに附けてあるホツスガイ(拂子貝)もまたさうで、拂子にそれが似て居るからである。拂子といふは佛敎の勤行に用ひる、白い長い毛で造つた塵拂ひやうのものである。それからまた、コロモセミ(衣蟬)と呼ばれて居る、小さな蟲のその立派な名もさうで、翼を收めて休んで居る折のその蟲の普通の形と色とは、實際に『コロモ』を着て居る僧侶の姿を偲ばせる。が、この蟲を實地見、また斯う述べてあるやうな『コロモ』を見なければ、この名稱の圖畫的價値を鑑賞することは出來なからう。

[やぶちゃん注:「サンコマツ(三鈷松)として知られて居る木の名」これは固有の種名ではなく、一般に知られている名勝個体木では、高野山の壇上伽藍にある「金堂」と「御影堂」の間に聳え立つ「三鈷の松」の巨木である。この松には、以下のような高野山創建に纏わる空海伝説の一つが語られてある。空海が唐での修行を終えて帰国する際、師の恵果和尚から贈られた密教法具の一種である「三鈷杵(さんこしょ)」(もとはインドの投擲用武具或いは雷霆神インドラの所持物であったが、仏教では密教で特に採り入れられ、煩悩を打ち破って菩提心を表わすための法具として盛んに使用される。杵(きね)の形をした中央の握り部分の両端に鈷(鋭い突起)を形成したもので、両端の鈷数や形状によって独鈷杵(とっこしょ)・三鈷杵・五鈷杵(私はタイで求めた青銅製のそれを所持している)・九鈷杵・宝珠杵・塔杵・九頭竜杵などの別がある。リンクはグーグル画像検索「三鈷杵」)を東の空に向けて投じた(時に、大同元(八〇六)年)。彼が投げたのは「我、漏らすことなく受け継いだる密教を広めんがため、ふさわしき地に飛び至るべし」という願いを込めてのものであったという。帰国後、空海がその三鈷杵を探し求めたところ、弘仁七(八一六)年頃、高野山の松の木に掛かっていることが分かり、それによって高野山が真言密教の道場として開かれるようになり、この松を「三鈷の松」と称するようになったとする。実際、通常の松の葉は二本であるが、ここの松は三本あって、三鈷杵の先端が中鈷と左右の脇鈷と三つに分かれているのとミミクリーであるとされる。但し、この高野の「三鈷の松」は通称「三葉黒松」などと呼ばれる、植物学的には裸子植物門マツ亜門マツ綱マツ亜綱マツ目マツ科マツ属クロマツ Pinus thunbergii の園芸品種の一つで、ここに限らず、各地にある。私も二十年ほど前、京都市左京区にある浄土宗の「永観堂」(正しくは聖衆来迎山(しょうじゅらいごうさん)禅林寺(前身は真言宗)で拾ったそれを居間に飾ってある。

「ヷジラ」原文“ vadjra ”。現行のサンスクリット語ラテン文字転写では“vajra”で、カタカナ音写は「バジュラ」。通常は先に説明した独鈷杵を指す。

「美しいグラス・スボンヂ學名ハイアロネマ・シーボルディに附けてあるホツスガイ(拂子貝)」原文“the name Hossugai, or“Hossu-sbhell”, given to the beautiful glass-sponge”。これは、貝ではなく、小泉八雲も言っているように深海産のガラス様の海綿類の一種である、 

海綿動物門六放海綿(ガラス海綿)綱両盤亜綱両盤目ホッスガイ科ホッスガイHyalonema sieboldi

 である。英名を“glass-rope sponge”と呼び、柄が長く、僧侶の持つ払子(「ほっす」は唐音。獣毛や麻などを束ねて柄をつけたもので、本来はインドで虫や塵などを払うのに用いた。本邦では真宗以外の高僧が用い、煩悩を払う法具とする)に似ていることに由来する。この根毛基底部(即ち、「柄」の部分)には一種の珊瑚虫である、

 刺胞動物門花虫綱六放サンゴ亜綱イソギンチャク目イマイソギンチャク亜目無足盤族 Athenaria のコンボウイソギンチャク(棍棒磯巾着)科カイメンイソギンチャク Epizoanthus fatuus

が着生する。荒俣宏氏の「世界大博物図鑑別巻2 水生無脊椎動物」の「ホッスガイ」の項によれば、一八三二年、イギリスの博物学者J.E.グレイは、このホッスガイの柄に共生するイソギンチャクをホッスガイ Hyalonema sieboldi のポリプと誤認し、本種を軟質サンゴである花虫綱ウミトサカ(八放サンゴ)亜綱ヤギ(海楊)目 Gorgonacea の一種として記載してしまった。後、一八五〇年にフランスの博物学者A.ヴァランシエンヌにより本種がカイメンであり、ポリプ状のものは共生するサンゴ虫類であることを明らかにした、とあり、次のように解説されている(アラビア数字を漢数字に、ピリオドとカンマを句読点を直した)。『このホッスガイは日本にも分布する。相模湾に産するホッスガイは、明治時代の江の島の土産店でも売られていた。《動物学雑誌》第二三号(明治二三年九月)によると、これらはたいてい、延縄(はえなわ)の鉤(はり)にかかったものを商っていたという』。『B.H.チェンバレン《日本事物誌》第六版(一九三九)でも、日本の数ある美しい珍品のなかで筆頭にあげられるのが、江の島の土産物屋の店頭を飾るホッスガイだとされている』とある。私は三十五年前の七月、嘗つて恋人と訪れた江の島のとある店で、美しい完品のそれを見た。以上は私の七年前の仕儀「生物學講話 丘淺次郞 四 寄生と共棲 五 共棲~(2)の2」の私の注に少し手を加えた。リンク先にはモノクロームであるが、図もある。【2025年4月8日追記】ホッスガイのカラー画像はネット上では、なかなか見られないので、サイト「カラパイア」の『深海の仏具、白毛がふさふさ生えている相模湾に生息する「ホッスガイ」』に動画(レアで必見!)と画像があるので、是非、見られたい!

「コロモセミ(衣蟬)」現行、これはセミ亜科エゾゼミ族クマゼミ属クマゼミ Cryptotympana facialis の異名として同定比定されている。同種については、私の『小泉八雲 蟬 (大谷正信譯) 全四章~その「二」』を参照されたい。優れた歴史民俗学者であられる礫川全次(こいしかわぜんじ)氏のブログ「礫川全次のコラムと名言」の「横浜市磯子区ではクマゼミのことをオキョーゼミといった」では、『土の香』第一六巻第六号(昭和一〇(一九三五)年十二月発行)から高島春雄の「熊蟬の方言」という文章に、クマゼミの異名として『オキョーゼミ(横浜市磯子区)』、『カタビラ(京都市、京都府船井郡富本村、大阪府北河内郡四条畷村、泉北郡東陶器村、南河内郡狭山村、富田林町、中河内郡高安村、三島郡春日村、三宅村、愛知県東春日井郡小牧町、三重県河芸郡、兵庫県西宮市、兵庫県御影町、岡山県小田邯、愛媛、門司市、小倉市、福岡県企救郡)カタビラシェビ(肥前)カタビラゼミ(京都府船井郡八木町)』、『コロモゼミ(徳島県名東郡八万村、伊勢)』とあり、最後にこれが出ている。]

 

 或る二三の鳥に餘程佛敎に緣のある名が附けてある。鳥類學者にはユウリソトマス・オリエンタリスとして知られて居るもので、その啼聲が『ブツポフソウ』といふ語を唱へるのに似て居るからといふので、『ブツポフソウ』と名づけられて居る鳥がある。此語は梵語の『トゥリラトナ』或は『ラトナトゥラヤ』(三寶)に相當する日本語であつて、『ブ』といふ擬音はブツ(佛)、『ポフ』はホフ(法)、『ソウ』は僧である。この鳥はまたサムポウテウ(三寶鳥)と呼ばれて居る。『三寶』といふ語はトゥリラトナの文字譯である。これとは異つた鳥で、自分がその學名を知らないものに、ジヒシンテウ(慈悲心鳥)といふがある。その啼聲が佛の形容詞の一つたる、ジヒシン(慈悲心)といふ句を發音するに似て居るからである。自分への報告者は『この鳥は日光の附近にだけ棲んで居て、其處では夏には絕えず「汝、慈悲心! 汝、慈悲心!」[やぶちゃん注:前の「!」の後には底本では字空けがない。特異的に補った。]と鳴いて居るのを聞くことが出來る』と書いて居る。……殆ど同じほど興味のあるのは、日本詩人が能く褒め歌うて居るククウの一種たる、ホトトギス(學名ククルス・ボリオセフアラス)に附けてある佛敎に緣のある普通名である。ムジヤウドリ(無常の鳥)と呼ばれて居るのである。此名はその啼聲から來て居るとは思はれぬ。啼聲は普通には、『もう本尊を掛けたか』といふ意味の『ホンゾンカケタカ』だと解釋されて居るからである。(ホンゾンといふは、この鳥が年々出現する時より少し前の、四月の八日に寺院に掛ける聖畫である)自分にはこの名は『死の鳥』といふ意味で附けたものとする方が當たつて居さうに考へられる。といふのは、『ムジヤウ』といふ語は、變はるといふので、また死といふ意味も有つて居る。そしてホトトギスは靈の世界から來ると想像されて居る妙な事實の爲めに、この意味を强く思ひ浮かばしめられたのである。またタマムカヘドリ(魂迎へ鳥)とも呼ばれて居る。死者の靈魂がシデの山を越えて魂の川へ旅して行く時それを出迎へる、と思はれて居るからである。ホトトギスに就いては靈的な俗說や空想が澤山ある。そしてこの無氣味な民間俗說は、ホトトギスが五十二も異つた名を! 州々[やぶちゃん注:「くにぐに」。]で有つて居る理由を說明するに足るであらう[やぶちゃん注:「名を!」の後の字空けは底本にはない。特異的に挿入した。]。

[やぶちゃん注:「ユウリソトマス・オリエンタリス」( Eurystomus orientalis )「その啼聲が『ブツポフソウ』といふ語を唱へるのに似て居るからといふので、『ブツポフソウ』と名づけられて居る鳥がある」これは所謂、「姿の仏法僧(ブッポウソウ)」である、

ブッポウソウ目ブッポウソウ科ブッポウソウ属ブッポウソウ Eurystomus orientalis

である。御存じの通り、真の「声の仏法僧」は、

フクロウ目フクロウ科コノハズク属コノハズク Otus scops

である。但し、これが判明したのは、本書が刊行された明治三四(一九〇一)年から隔てること、実に三十四年も後のことである。ウィキの「ブッポウソウ」から引くと、『森の中で夜間「ブッ・ポウ・ソウ」と聞こえ、仏・法・僧の三宝を象徴するとされた鳥の鳴き声がこの鳥の声であると信じられてきたため、この名が付けられた。しかし、実際のブッポウソウをよく観察しても「ゲッゲッゲッ」といった汚く濁った音の鳴き声』『しか発せず』、『件の鳴き声を直接発することが確認できないため、声のブッポウソウの正体は長く謎とされた』。『結局のところ、この鳴き声の主はフクロウ目のコノハズクであり、このことが明らかになったのはラジオ放送が契機となった』。昭和一〇(一九三五)年六月七日、『日本放送協会名古屋中央放送局(現在のNHK名古屋放送局)は愛知県南設楽郡鳳来寺村(現在の新城市)の鳳来寺山で「ブッ・ポウ・ソウ」と鳴く鳥の鳴き声の実況中継を全国放送で行った』。『その放送を聞き、鳴き声の主を探した者が、同年』六月十二日に『山梨県神座山で、「ブッ・ポウ・ソウ」と鳴く鳥を撃ち落としたところ、声の主がコノハズクであることが分かった』。『時を同じくし、放送を聴いていた人の中から「うちの飼っている鳥と同じ鳴き声をする」という人がでてきた』。六月十日に『その飼っている鳥を鳥類学者黒田長禮が借り受け見せてもらうとその鳥はコノハズクであり、山梨県神座山で撃ち落とされたのと同日である』六月十二日の『早朝に、この鳥が「ブッ・ポウ・ソウ」と鳴くところを確認した』。『そのコノハズクは東京・浅草の傘店で飼われていたもので、生放送中、ラジオから聴こえてきた鳴き声に誘われて同じように鳴き出したという』、『この二つの事柄がその後に行われた日本鳥学会で発表され、長年の謎だった鳴き声「ブッ・ポウ・ソウ」の主はコノハズクだということが初めて判明した』のであった。私はこのエピソードが何故か、非常に好きだ。

「此語は梵語の『トゥリラトナ』或は『ラトナトゥラヤ』(三寶)に相當する日本語であつて」原文“ This word is a Japanese equivalent for the Sanscrit term Triratna or Ratnatraya ”。「さんぼう」と濁るのが一般的であるが、「さんぽう」でもよい。サンスクリット語の「トリーニ・ラトナーニ」(ラテン文字転写:tri ratnni)、「トリ・ラトナ」(tri-ratna)」、「ラトナ・トラヤ」(ratna-traya:これは主に仏教とほぼ同時期にインドに起こった宗教で、マハーヴィーラ(ヴァルダマーナ 紀元前六世紀~紀元前五世紀)を祖師と仰ぎ、特にアヒンサー(不害)の禁戒を厳守するなど、徹底した苦行・禁欲主義で知られる)の三宝を指す語)の訳であり、「三種の宝」の意。仏(ブッダ:Buddha)と法(ダルマ:Dharma)と僧(サンガ:Sagha:仏教修行者集団)の三つをいう。この三つは仏教徒が尊崇すべき基本であるので、世の宝に譬えて三宝と称する。「仏宝」とは、悟りを開いた人で仏教の教主を、「法宝」とはその仏の教えで真実の理法を、「僧宝」とは仏の教えのもとで修行する出家者の和合の教団を指す。古く原始仏教に於いては仏教を構成する根本的要素と考えられ、後代には三宝の見方について種々な解釈が行われた。三宝はそれぞれ別なものであると見做す説(別相三宝)、本質的に同一であるとみなす説(一体三宝)、或いは、仏像と経巻と出家者は仏教を維持し伝えていく意味での三宝であるとみなす説(住持三宝)などがある。三宝は仏教のあるところ、必ず存在し、三宝に帰依すること(「三帰依」または「三帰」と称する)は仏教への入信の最初の要件とされる(以上は主文を小学館「日本大百科全書」に拠った)。

「これとは異つた鳥で、自分がその學名を知らないものに、ジヒシンテウ(慈悲心鳥)といふがある」私の七年前の「耳囊 卷之四 慈悲心鳥の事」の注で、カッコウ目カッコウ科カッコウ属ジュウイチ Cuculus fugax とした。成鳥は全長凡そ三二センチメートル。頭部から背面にかけては濃灰色の羽毛で覆われ、胸部から腹面にかけての羽毛は赤みを帯びる。胸部には鱗模様を持つ。幼鳥は胸部から腹面にかけて縦縞が入っている。脚は黄色で脚指は前二本後二本の対し足。托卵する。日光では初夏(五月中旬)に渡って来て囀るが、和名も異名ジヒシンチョウも、その鳴き声のオノマトペイアである。サイト「日光野鳥研究会」の「ジュウイチ」のページには、江戸時代に書かれた日光ガイドブック「日光山志」に日光はジュウイチの産地とあり、また『この鳥は「神山に住む霊鳥で、自らの名を呼ぶ」』などとされ、『「仏法僧」と鳴くと思われていたブッポウソウ、「法、法華経」と鳴くウグイスを加えて、日本三霊鳥として』崇められたとする。同族類では『ウグイス以外は、身近な鳥ではないだけに色々想像され、神格化された部分があったと思』われ、特に江戸時代有数の霊場であった日光に棲むことから格別な霊鳥と意識されたと考えられるとあり、また、「日光山志」『には、ジュウイチのいるところとして「荒沢、寂光、栗山辺にも多く(中略)人家のあるところでは声を聞くことは希なり」と書かれてい』るとも記す。リンク先では慈悲心鳥の鳴き声もダウン・ロード出来る。神霊の声を耳を澄ませてお聴きあれ。但し、他の音源を聴くに、私には「ヒュイチィ! ヒュイチィイ!」と聴こえ、また、連続して囀ると、本文でも触れているようにテンポと音程が徐々に早く高くなるように思われる。

「ククウ」原文“cuckoo”。カッコウのこと。カッコウ目カッコウ科 Cuculidae 或いはカッコウ属 Cuculus 、或いは、種としてのカッコウ Cuculus canorus を指す語。博物誌は私の「和漢三才圖會第四十三 林禽類 鳲鳩(ふふどり・つつどり)(カッコウ)」を読まれたい。

「ホトトギス(學名ククルス・ボリオセフアラス)」カッコウ属ホトトギス Cuculus poliocephalus 。博物誌は私の「和漢三才圖會第四十三 林禽類 杜鵑(ほととぎす)」を読まれたい。

「ムジヤウドリ(無常の鳥)」ホトトギスの異名には「無常鳥(むじょうとり)」が事実ある。

「四月の八日に寺院に掛ける聖畫」釈迦の誕生を祝う灌仏会(かんぶつえ)の会式の一齣。現行でも毎年四月八日に行われ、一般的には「花祭り」の名で知られる。ゴータマ・シッダッタが旧暦四月八日に生誕したとする伝承に基づくもので、「降誕会(ごうたんえ)」「仏生会(ぶっしょうえ)」「浴仏会(よくぶつえ)」「龍華会(りゅうげえ)」「花会式(はなえしき)」といった別名もある。現行の灌仏会では草花で飾った花御堂(はなみどう)の中に甘茶を満たした灌仏桶の中央へ誕生仏の像を安置し、それに柄杓で甘茶を掛けて祝うのが通常である。

「自分にはこの名は『死の鳥』といふ意味で附けたものとする方が當たつて居さうに考へられる。といふのは、『ムジヤウ』といふ語は、變はるといふので、また死といふ意味も有つて居る。そしてホトトギスは靈の世界から來ると想像されて居る妙な事實の爲めに、この意味を强く思ひ浮かばしめられたのである。またタマムカヘドリ(魂迎へ鳥)とも呼ばれて居る。死者の靈魂がシデの山を越えて魂の川へ旅して行く時それを出迎へる、と思はれて居るからである」古く、ホトトギスが「渡り鳥」であることが分からなった頃、「ホトトギスは秋に死んで春に生き返るもの」と思われていたらしい。そこから「死出の鳥」「冥土の鳥」と表現されることがあったようである(後には「山奥に住み、春に里に出てくる」とする山の神と田の神の相互置換に親和性を持ったものに変化したようでもある。)。また、中国由来の「杜宇」「蜀魂」「不如帰」も見るからに不吉であるが、「和漢三才圖會第四十三 林禽類 杜鵑(ほととぎす)」で注した通り、これらは中国のある伝説に基づく。長江流域に「蜀」という傾いた国(秦以前にあった古蜀)があり、そこに「杜宇」という男が現われ、農耕を指導して蜀を再興して帝王となって望帝と呼ばれた。後に長江の氾濫を治めるのを得意とする男に帝位を譲り、望帝のほうは山中に隠棲した。後、死んだ杜宇の霊「魂」はホトトギスと化し、農耕を始める季節が来ると、それを民に告げるために、鋭い声で民に注意を促して鳴くようになったという。また、後に、蜀が秦によって滅ぼされてしまったことを知った杜宇の化身のホトトギスは嘆き悲しみ、「不如帰去」(帰り去(ゆ)くに如かず: 何よりも故国へ帰るのが一番よいことだ)と鳴きながら、血を吐いた、血を吐くまで鳴いた、などと言い伝え、ホトトギスの口の中が赤いのはそのためだ、と言われるようになったともされるのである。他にも、悲劇的な本邦のホトトギス転生伝承譚「時鳥と兄弟」の話もある(私の「郭公の歌 伊良子清白 (附初出形)」の注を参照。この「郭公」は詩篇本文で「ほととぎす」と訓じている。清白もそこで「汝は醜き冥府(よみ)の鳥」と詠んでいる。その私の注でもホトトギスの冥界性を記してある)。さらに言えば、民俗社会に於いて、ホトトギスがそうした不吉でネガティヴな一面を持っているのは、彼らの習性にも関係するものであろう。奇体な自分で子を育てない托卵については既に万葉時代に知られていたし、彼らが夜や雨の日にも平気で鳴いていること、しかも一ヶ所に留まらずに飛び回りながら鳴くためにその姿を現認し難いいことなどが、霊的なもの闇の世界と結びついていると考えられたというのは腑に落ちるのである。

「ホトトギスが五十二も異つた名を!」このリスト! ここに残しておいて欲しかった!]

 英語のナイティンゲールの一變種たるもので、日本の歌謠者總てのうちで一番聲のうるはしいウグヒスは、何等佛敎に緣のある俗名を有つて居るやうには見えぬ。が、その笛(フルート)のやうな啼聲は、ニチレン卽ちホツケ宗の大聖典たる、妙法蓮華經の普通名ホケキヤウといふ語を發音するのだ、と云はれて居る。そして佛敎の篤信は、この鳥は妙法蓮華の經を讃へて一生を送ると言ひ張る。だから、ウグヒスは實際佛敎に緣のある鳥だと思はれて居る。他の鳥で佛敎に少し緣があるやうに思はれる鳥は、ボンナフサギ(煩惱鷺)といふ異常な名稱が與へてある雪白の鷺である。『ボンナフ』とは浮世の願望、色欲、情欲の佛語で、どうしてそれがこの鳥の名に見えて居るか、自分は言ふことが出來ぬ。

[やぶちゃん注:「英語のナイティンゲールの一變種たるもので、日本の歌謠者總てのうちで一番聲のうるはしいウグヒス」誤り。別名「夜鳴鶯(よなきうぐいす)」や「墓場鳥」という有り難くない別名でも呼ばれる「西洋のウグイス」と称されるほどに鳴き声の美しい鳥、「ナイチンゲール」(英語:Nightingale)は日本では「小夜啼鳥(さよなきどり)」と呼び(本邦には棲息しない)、スズメ目ヒタキ科 Luscinia 属サヨナキドリ Luscinia megarhynchos であるが、ウグイスはスズメ目ウグイス科ウグイス属ウグイス Horornis diphone である。博物誌は私の「和漢三才圖會第四十三 林禽類 鶯(うぐひす)(ウグイス)」を見られたい。

「ボンナフサギ(煩惱鷺)」サギ亜目サギ科サンカノゴイ亜科ヨシゴイ属ヨシゴイ Ixobrychus sinensis の異名博物誌は私の「和漢三才圖會第四十二 原禽類 𪇆𪄻(さやつきどり)(ヨシゴイ)」を見られたい。因みに私は彼らの葦の擬態がお気に入り! さても。動画で幾つかのヨシゴイの鳴き声を聴いたが、遠くの人を呼ぶような、何かもの悲しさのある叫びに感じた。気のせいかと思って検索すると、サイト「C.E.C.」の「徒然野鳥記」の「ヨシゴイ」に、その声は『「オーツ、オーツ」ともの悲しく聞こえます。ゴイサギ』(類)『の古名で、「凡悩鷺(ぼんのうさぎ)」と呼ばれることがあるのは、この鳴き声に由来するのではないでしょうか』とあった(嘗つて近代まで「ヨシゴイ」は「ゴイサギ」(サギ亜科イサギ属ゴイサギ Nycticorax nycticorax )の類と誤認されていたようである)。]

 

 斯んな佛敎に緣のある名の起原を推測するの困難は、例證の助けを藉りなくては想像すら及ばぬ。その文字通りの意味は、多くの場合、硏究を誤らす用を爲すに過ぎぬ。例へば、槌のやうな頭をした鱶[やぶちゃん注:「ふか」。]は、九州海岸地方では、ネムブツバウ(念佛坊)といふ異常な名稱で知られて居る。『ネムブツ』といふ語は、多くの宗派の信心者が祈禱として、殊に死者に對する祈禱として、口に唱へる『ナム・アミダ・ブツ!』(アミダ佛に敬禮)といふ祈願の名である。で、[やぶちゃん注:ここは底本では読点ではなく、巨大な「﹅」であるが、誤植と断じて特異的に変えた。] 凄みを仄めかすネムブツバウといふ名は、リトレに從へば、鱶の近代佛蘭西語は――元來は(千六百六十七年ペール・ドゥテルトルの述ぶる處に據ると)鱶に捕られた人間にはその鎭魂の祈禱を唱へるほか他の策が無い、といふ意味が籠もつて居る名稱たる――『レクイエム』の訛つたのである、といふことを自分に思ひ出させた[やぶちゃん注:フランス語の「鮫」は“Requin”(ルゥカン)で、「レクイエム(鎮魂歌)」は“Requiem”(レキュイエム)。]。が念佛坊といふ佛敎に緣のある名が、それと同じ樣な意味をや〻含んで居はせぬか、と思つた自分は間違つて居つた。この言葉の眞の意味はこの怪物が有つて居る佛敎的な別な名――シユモクザメ(撞木(しゆもく)鮫)――に依つて證明されて居る。『シユモク』といふ語は、僧が念佛や他の祈禱を唱へる間鉦を打つ、T字形の槌を意味するのである(信心深い家では、家の内の佛壇の前で念佛を唱へる間に、鉦を鳴らすのに同じ種類の槌を用ひることを述べてもよからう)シユモクザメ(撞木鮫)の別名としてメムブツバウといふ語を思ひ附かせたのは、祈願の言葉を唱へる間に斯く撞木と鉦とを使用するが爲めであつた。だからネムブツバウの眞の意義は『念佛坊』では無くして『撞木坊』なのである。

[やぶちゃん注:「槌のやうな頭をした鱶」軟骨魚綱メジロザメ目シュモクザメ科 Sphyrnidae のシュモクザメ類。“Hammerhead shark”の英名で知られるシュモクザメ類は世界で二属九種いるが、本邦で見られるのはシュモクザメ属 Sphyrna のシロシュモクザメ  Sphyrna zygaena・ヒラシュモクザメ Sphyrna mokarran・アカシュモクザメ Sphyrna lewini の三種ほどである。一言言っておくと、本種は、かなり古くから人を襲う、と信じられている向きがあるが、私はそれに強い疑義を感じている。一九八二年八月に熊本県天草郡大矢野町沖の羽干島(グーグル・マップ・データ)近くで十三歳の女子中学生が襲われて死亡したケース(三人の子をヨットの船尾に結んだロープに繋いで曳航して遊ばせていた際の事故という少し特殊な状況下での不幸であった)では、シュモクザメが疑われているが、確定されてはおらず、シュモクザメが人を襲った事例は殆んど見当たらない。人を襲うシーンが出る小説も私は知っているが、如何にも造り物臭い、いやな小説であった。寧ろ、シュモクザメの奇体な頭部が、凶悪な印象を生んでいるだけのように私には思われてならない。ダイバーなどが襲われたケースも私は、知らない。但し、シュモクザメはサメとしては珍しく、群れを成して行動し、時にその数は数百匹のレベルに及ぶこともある。それらが大型個体であった場合、そのインパクトは絶大で、熟練したダイバーでも「慄っとした」という証言を聴いたことはある。幾つかの記載に、人間にとっては潜在的に危険、と記すものが見られることは事実では、ある

「凄みを仄めかすネムブツバウといふ名は、リトレに從へば、鱶の近代佛蘭西語は――元來は(千六百六十七年ペール・ドゥテルトルの述ぶる處に據ると)鱶に捕られた人間にはその鎭魂の祈禱を唱へるほか他の策が無い、といふ意味が籠もつて居る名稱たる――『レクイエム』の訛つたのである、といふことを自分に思ひ出させた。」ここの原文は、

The grim suggestiveness of the name Nembutsu-bō reminded me that the modem French word for shark is, according to Littrè, only a corruption of “Requiem,”— the appellation originally implying  (as stated by Père Dutertre in 1667)  that for the man caught by a shark there was nothing to be done except to chant his requiem.

である。「リトレ」は辞書編纂者で哲学者でもあったエーミール・マクシミリアン・ポール・リトレ(Émile Maximilien Paul Littré 一八〇一八年~一八八一年)であろう。「ペール・ドゥテルトル」は不詳。フランス人植物学者にジャン=バプティステ・デュ・テルトレ(Jean-Baptiste Du Tertre 一六一〇 年~一六八七年)なら、いる。

「だからネムブツバウの眞の意義は『念佛坊』では無くして『撞木坊』なのである」最後にちょっと遊ぶ。前の引用で判る通り、小泉八雲は日本語をローマ字で表記する場合には口語音に合わせた表記をしている。従って「念佛坊」は“ Nembutsu-bō ”なのである。訳のように歴史的仮名遣を使われると、「ばう」でダメだが、「ぼう」なら、違う可能性を指示出来る。則ち、鉦を叩くための「棒」で「念仏棒」である。まあ、比叡山の千日回峰で被る奇体な前後に長い被り笠(未開の蓮華の葉を象ったものとされる)のミミクリーを考えると、シュモクザメは「僧」でもあろうが。お後がよろしいようで……。

2019/10/17

小泉八雲 佛敎に緣のある動植物  (大谷正信譯) /その2

 

[やぶちゃん注:本篇については「小泉八雲 仏教に縁のある動植物(大谷正信譯)/その1」の私の冒頭注を見られたい。]

 

 眞言宗の日本の大祖師クウカイ卽ちコウボフダイシは、またその名簿の中に一つの地位を有つて居る。コウボフムギ(弘法大師の麥)は學名カレツキス・マクロセフアラの普通名であり、栗の一變種がコウボフダイシ、クハズ、ノ、クリ(弘法大師食はずの栗)と呼ばれて居る。

[やぶちゃん注:「名簿」小泉八雲が仏教由来の動植物の名称と判断して自身で蒐集した、本篇執筆のスタートとなった自筆資料であるリストを指す。

「コウボフムギ(弘法大師の麥)は學名カレツキス・マクロセフアラの普通名であり、」原文“ Kōbō-mugi, or“Wheat of Kōbōdaishi,”is a common name for the Carex macrocepbala ; ”。

単子葉植物綱イネ目カヤツリグサ科コウボウムギ節スゲ属コウボウムギ Carex kobomugi

である。かなりよく発達した砂浜海岸に植生する代表的海浜植物である。ウィキの「コウボウムギ」によれば、『名前の弘法麦の由来は、かつて茎の基部の分解した葉鞘の繊維が筆を作るのに使われた事から、筆ならば』、『弘法大師(空海)様だ、というようなことであるらしい。別名としてフデクサというのもある』とある。小泉八雲の“ Carex macrocepbala 」は、恐らく、嘗つて同種の変種としてコウボウムギが扱われていた際の原種名と思われる。欧文の書籍の本種の注に“ Carex macrocepbala var. kobomugi という記載を見出せるからである。脱線だが、私は「弘法麦」というと、無条件反射で、偏愛する芥川龍之介の「彼」を想起してしまう人間である。

「栗の一變種がコウボフダイシ、クハズ、ノ、クリ(弘法大師食はずの栗)と呼ばれて居る。」原文は“ a variety of chestnut is called Kōbōdaisbi-kawazu-no-kuri, ―“The Chestnut that Kōbōdaishi did not eat. ”で「kawazu」はママ。これはムクロジ目ムクロジ科トチノキ属トチノキ Aesculus turbinata の地方異名である。月刊『杉』WEB版の岩井淳治氏の『いろいろな樹木とその利用/第18回 「トチノキ」』に、多様な異名一覧が出る中に、「コウボウダイシクワズノクリ」がある。岩井氏は『コウボウダイシという言葉が出てきますが、ある日、栗を煮ていたおばあさんのところに行脚していた弘法大師が通りがかり、栗を所望したところ』、『「これは苦いからダメだ」と断ったため、それ以後』、『苦くなったとの話があります』と記しておられる。そこで栃餅(とちもち)の製法が詳しく記されている通り、縄文以来、食用とされてきたが、渋抜き(トチの実にはサポニン・アロインを含み、直接、食用することは出来ない)をするために非常な手間がかかる。それを以って「食わずの栗」としたものである。この話、私は四国の話として知っている。過去に電子化したものの中に確かにあったはずなのだが、見出せない。発見次第、追記する。

 

 植物または生物の名で佛敎の習慣、傳說、儀式若しくは信仰に關係を有つたのが多くある。バウズ(僧。英語のボンズの原[やぶちゃん注:「もと」。])といふ語が種々な植物名に與へられて居る。異つた三つもの草に、日本の方々異つた處で、バウズグサ(僧の草)の名を附けて居る。筑前の方言では一種の海龜をウミバウズ(海の僧)と呼んで居る。序だから言ふが、この一名は日本の繪本に能く出て來る或る神話的な海の怪物にも與へて居る名である。佛敎傳說のある有名なボオ・トジィの名は、日本では學名フイクス・レリジオサに與へられて居る計りで無く、普通にボダイジュ(ボデイドゥルマ)と呼んで居る學名ティリア・ミクエリアナにも與へられて居る。春分(しゆんぶん)の佛敎大祭卽ちヒガン(彼岸)の祭は、その時分に開花する二種の植物に名を提供して居る。ヒガンザクラ(彼岸櫻)(學名プルヌス・ミクエリアナ)とヒガンバナ卽ち『彼岸の花』(學名ライコリス・ラディアタ)とがそれである。我々英人が『ヂヨッブス・ティアズ』と唱へて居るものは日本ではズズダマ卽ち數珠玉と呼ばれて居り、鳩の一種に――恐らく其斑紋の故であらう――ズズカケバト(數珠掛け鳩)といふがある。學名アリウム・ヸクトリアレはギヤクジヤニンニク(行者の葫[やぶちゃん注:「大蒜」(ニンニク)を指す別字。]。『ギヤウジヤ』とは英語のハアミツトを言ふ佛敎の言葉)と呼ばれて居り、英國のブリーディング・ハートの日本の普通名はケマンサウ卽ち『華鬘草』である。多分その花がケマンに、卽ち佛陀の像の頭上に置く裝飾の華鬘に、似て居るからの稱呼であらう。恐らくは斯んな佛敎的稱呼のうちで一番奇妙なのは、英語のヲータア・エーラムが有つて居るものであらう。その日本名コクウゼンサウは文字通りに言ふと『坐禪をして居る小さな草』である。

[やぶちゃん注:「バウズ(僧。英語のボンズの原])」“The word bōzu, "priest" — (the origin of our word “bonze””。「bonze」(バァンズ)は英語で「仏教の僧侶」を指し、日本語由来である。なお、「priest」は広義には「聖職者」であるが、狭義には「カトリックの司祭」を指す。

「異つた三つもの草に、日本の方々異つた處で、バウズグサ(僧の草)の名を附けて居る」「坊主草」の異名を持つものは、ネットで調べると、

〇シダ植物門トクサ綱トクサ目トクサ科トクサ属スギナ Equisetum arvense

〇コショウ目ドクダミ科ドクダミ属ドクダミ Houttuynia cordata

〇シソ目シソ科クサギ(臭木)属クサギ Clerodendrum trichotomum

・単子葉植物綱イネ目ホシクサ科ホシクサ属 Eriocaulon のホシクサ(星草)類

・単子葉植物綱ラン目ラン科オニノヤガラ(鬼の矢柄)属オニノヤガラ Gastrodia elata(薬用植物)

等があった(他にも恐らくは別な種の地方名にあろうとは思う)。スギナ以外は、花や萼や果実の様子を坊主の頭や僧衣に見立てたものであるが、臭気があったり、スギナのように雑草であったりするところを見ると、僧を卑称した「糞坊主」の傾向が強く感じられるようにも思う。まず、小泉八雲の言う三種は、誰もが、今でも知っている馴染みの、頭の三種と見て差し支えあるまいとは思う。

「筑前の方言では一種の海龜をウミバウズ(海の僧)と呼んで居る」大槻文彦の「言海」に、

   *

うみ-ば(ボ)うず(名)海坊主 ㈠うみがめノ大ナルモノ。(筑前)㈡海上ニ現ハルト云フ妖怪ノ名。

   *

と出るから、小泉八雲の言う「一種」は、爬虫綱カメ目潜頸亜目ウミガメ上科 Chelonioidea の大型成体個体の意で採るべきであろう。

「佛敎傳說のある有名なボオ・トジィ」“The name of the famous Bo-tree of Buddhist”。「Bo-tree」は、ブッダが、その木の根元に座って悟りを得たとされる「菩提樹」の英名。

「日本では學名フイクス・レリジオサに與へられて居る」イラクサ目クワ科イチジク属インドボダイジュ Ficus religiosa。ブッダ菩提(=発心)所縁のそれは本種である。

「普通にボダイジュ(ボデイドゥルマ)と呼んで居る學名ティリア・ミクエリアナにも與へられて居る」中国原産で、以上の真正の「菩提樹」の代わりに日本の寺院では盛んに植えられている、アオイ目アオイ科 Tilioideae 亜科シナノキ属ボダイジュ Tilia miqueliana のこと。御覧の通り、真のインドボダイジュとは類縁関係は全くない。一説に、日本へは臨済宗の開祖である栄西が中国から持ち帰ったと伝えられている。

「ヒガンザクラ(彼岸櫻)(學名プルヌス・ミクエリアナ)」““Higan cherry-tree”( Prunus miqueliana )”。“ Prunus miqueliana ”は野生種であるバラ亜綱バラ目バラ科サクラ属シダレザクラ Cerasus itosakura のシノニムであり、「彼岸桜」、則ち、サクラ属エドヒガンも同じく Cerasus itosakura であるから、問題ない。

「ヒガンバナ卽ち『彼岸の花』(學名ライコリス・ラディアタ)」単子葉植物綱キジカクシ目ヒガンバナ科ヒガンバナ亜科ヒガンバナ連ヒガンバナ属ヒガンバナ Lycoris radiata 。学名は音写するなら「リコリス・ラジアータ」である。私は六年前、本種の本邦での異名を調べたことがある。「曼珠沙華逍遙」を見られたい。……そうだ……先だって、家の斜面に亡き母が植えた白い曼珠沙華が咲いていた……「白い曼珠沙華」の花言葉は……赤いヒガンバナのいいところ、しかないのだ……「また会う日を楽しみに」……「想うはあなた一人」……アリスよ……その通りに……なってしまったなぁ…………

「我々英人が『ヂヨッブス・ティアズ』と唱へて居るものは日本ではズズダマ卽ち數珠玉と呼ばれて居り」「ヂヨッブス・ティアズ」の原文は“Job's Tears”。「ヨブの涙」! これは辛気臭い和名より遙かにいい! いやいや! 英名だけじゃないんだ! 学名も、

単子葉植物綱イネ目イネ科ジュズダマ属ジュズダマ Coix lacryma-jobi

なんだ! 種小名中の「lacryma」(ラクリマ)もラテン語で「涙」の意なのだ! 私は幼年期の記憶に繋がっているジュズダマが、大好きなのだ!

「ズズカケバト(數珠掛け鳩)」ハト目ハト科キジバト属ジュズカケバト Streptopelia risoria 。全体に淡い灰褐色であるが、後頸部に半月状の黒輪があることに由る和名である。

「學名アリウム・ヸクトリアレはギヤクジヤニンニク(行者の葫。『ギヤウジヤ』とは英語のハアミツトを言ふ佛敎の言葉)と呼ばれて居り、」“ The Allium victoriale is called Gyojaninnihu, or“Hermit's garlic”(“gyōja”being the Buddhist term for hermit) ; ”。単子葉植物綱キジカクシ目ヒガンバナ科ネギ亜科ネギ属ギョウジャニンニク亜種ギョウジャニンニク Allium victorialis subsp. platyphyllum 。小泉八雲の表示した学名は標準種のシノニムである。

「英國のブリーディング・ハートの日本の普通名はケマンサウ卽ち『華鬘草』である」“ the popular Japanese name for the Bleeding-heart is Keman-sō ”。キンポウゲ目ケシ科ケマンソウ亜科ケマンソウ属ケマンソウ Lamprocapnos spectabilis ウィキの「ケマンソウ」によれば、花期は四~六月で、『斜めに伸びた総状花序にコマクサに似たハート型の花を付ける。花茎はアーチ状に湾曲する。花茎一本に花が最大で』十五『輪ほど釣り下がって咲き、あたかも鯛が釣竿にぶら下がっているように見える』ことから「タイツリソウ(鯛釣草)」の異名も持つ、但し、『全草、特に根茎と葉にビククリン、プロトピンなどを含』む有毒植物である。

「ケマン」「佛陀の像の頭上に置く裝飾の華鬘」仏堂における荘厳具のひとつ。「花鬘」「花縵」とも書く。梵語の「クスマ・マーラー」の漢訳で、「倶蘇摩摩羅」と音写される(倶蘇摩が花、摩羅が「蔓」、「髪飾り」の意)。金銅・牛革製の円形又は楕円形のものに、唐草や蓮華を透かし彫りにして、下縁に総状の金物や鈴を垂らしたものである。参照したウィキの「華鬘」によれば、『元々は生花で造られたリング状の環(花環)で、装身具であったものが僧などに対して布施されたものと考えられている。本来』、『僧は出家したものであり』、『自分の身を飾ることができないことから、布施された花環を仏を祀る仏堂を飾るものへと変化したものと見られる。それが恒常化して、中国や日本では金銅製などの金属でできたものや、木製・皮製のものなどで造られるようになった。インドでもさまざまな素材で作られていた』。『形状は、主に団扇型でその頂に紐で吊るすための環がついており、宝相華文や蓮華文などのほか、迦陵頻伽や種子などが施されたものがあり、揚巻結が付されている』とある(リンク元に画像有り)。

「英語のヲータア・エーラムが有つて居るものであらう。その日本名コクウゼンサウは文字通りに言ふと『坐禪をして居る小さな草』である。」原文は、

“Perhaps the water-arum has the most curious of all such Buddhist appellations : its Japanese name, Kokuzen-so literally signifies the“Small-sitting-in-Dhyâna--meditation-plant.”

である。「water-arum」は外観は小型のミズバショウ(サトイモ科ミズバショウ属ミズバショウ Lysichiton camtschatcensis )といった形態をしている、単子葉植物綱オモダカ亜綱オモダカ目サトイモ科ヒメカイウ属ヒメカイウ Calla palustris を指し、当該種は「ミズザゼン」(水座禅)の異名を持っている。]

 

 センニン(普通之を英語ではジイニアスとかフエアリとか譯するが、本來はリシである。リシとは難行苦行の效によつて超自然的な威力を得て、その生命無限な者)といふ語はたまたま植物名に見える。英語のクレマティスの一變種にセンニンサウ(仙人草)といふがあり、英語のカクタスの一種にセンニンシヤウ(仙人掌)といふ奇怪な名稱を貰つて居るのがある。

[やぶちゃん注:面倒なので、最初に全文を原文で示す。

 The word Sennin,— commonly translated as “Genius”or“Fairy,”but originally meaning Rishi, — a being who has acquired supernatural power and unlimited life by force of ascetic practices, — occasionally appears in plant-names. A variety of Clematis is known as Sennin-sō, or“Fairy-weed”;  and a kind of cactus has received the grotesque appellation of Sennin-shō, or“Sennin's-Palm,”—  the paim of the hand being referred to.

「Genius」天才・鬼才・非凡な才能の持ち主。

「Fairy」フェアリー。妖精。

「リシ」「Rishi」サンスクリット語の英訳。ヴェーダ聖典を感得したとされる神話伝説上の「聖者」あるいは「賢者達」を指し、漢訳仏典などでは「仙人」などとも訳され、インド学では「聖賢」などと訳される(ここはウィキの「リシ」に拠った)。

「クレマティス」「Clematis」キンポウゲ目キンポウゲ科キンポウゲ亜科 Anemoneae センニンソウ属 Clematisウィキの「クレマチス」によれば、『園芸用語としては、このセンニンソウ属の蔓性多年草のうち、花が大きく観賞価値の高い品種の総称』で、『修景用のつる植物として人気があり、「蔓性植物の女王」と呼ばれている』とある。

「センニンサウ(仙人草)」センニンソウ属センニンソウ Clematis ternifloraウィキの「センニンソウ」によれば、蔓『性の半低木』の一種で、『属名(Clematis)は「若枝」を意味し、種小名(terniflora)は』「三枚葉の」を『意味する』。『和名は痩果に付く綿毛を仙人の髭に見たてたことに由来する』。『別名が「ウマクワズ(馬食わず)」、有毒植物で』『馬や牛が絶対に口にしないこと』に由来する、とある。

「英語のカクタスの一種にセンニンシヤウ(仙人掌)といふ奇怪な名稱を貰つて居るのがある」「cactus」はサボテン(ナデシコ目サボテン科 Cactaceae)のこと。思うに、「仙人掌」に最もふさわしいのは、サボテン科の中でも、ウチワサボテン亜科オプンティア属オプンティアOpuntia のそれであろう。学名属名のグーグル画像検索をリンクさせておく。]

 

 人間を食ふ鬼といふ意味の梵語のヤクシヤといふ語は、その日本化された形のヤシヤとなつて、種々な植物名に見える。學名アルドゥス・フイルマの毬果[やぶちゃん注:「きうくわ(きゅうか)」。]は、繪畫的にヤシヤブシ(夜叉節(ぶし))と呼ばれて居り、或る水草はヤシヤビシヤク(夜叉柄杓)といふ妙な名で知られて居る。

[やぶちゃん注:やはり原文総てを示す。

 The Sanscrit term Yaksha, signifying a mandevouring demon, appears in several plant-names under its Japanese form, — Yasha.  The cone of the Aldus firma is picturesquely called Yashabushi, or “Yaksha's-joint”;  and a water-plant b known by the curious name of Yasba- bishaku, or “Yaksha's Ladle.”

「人間を食ふ鬼といふ意味の梵語のヤクシヤ」夜叉(サンスクリット語ラテン文字転写:yakṣa/パーリ語同前yakkha/「暴悪」「捷疾鬼」「威徳」等と漢訳される)は古代インド神話の鬼神。「薬叉(やくしゃ)」とも称する。後に仏教に取り入れられて護法善神の一尊となった。ウィキの「夜叉」によれば、『夜叉には男と女があり、男はヤクシャ(Yaksa)、女はヤクシーもしくはヤクシニーと呼ばれる。財宝の神クベーラ(毘沙門天)の眷属と言われ、その性格は仏教に取り入れられてからも変わらなかったが、一方で人を食らう鬼神の性格も併せ持った。ヤクシャは鬼神である反面、人間に恩恵をもたらす存在と考えられていた。森林に棲む神霊であり、樹木に関係するため、聖樹と共に絵図化されることも多い。また水との関係もあり、「水を崇拝する(yasy-)」といわれたので、yaksya と名づけられたという語源説もある。バラモン教の精舎の前門には一対の夜叉像を置き、これを守護させていたといい、現在の金剛力士像はその名残であるともいう』とある。

「アルドゥス・フイルマ」「Aldus firmaブナ目カバノキ科ハンノキ属ヤシャブシ Alnus firma。漢字表記は「夜叉五倍子」が一般的。ウィキの「ヤシャブシ」によれば、『ヤシャブシ(夜叉五倍子)の名の由来は、熟した果穂が夜叉にも似ていることから。また果穂はタンニンを多く含み、五倍子』(フシ:ムクロジ目ウルシ科ヌルデ属ヌルデ変種ヌルデ Rhus javanica var. chinensis の葉に昆虫綱半翅(カメムシ)目同翅(ヨコバイ)亜目吻亜目アブラムシ上科アブラムシ科ワタアブラ亜科ゴバイシアブラ属ヌルデシロアブラムシ Schlechtendalia chinensis が寄生すると、大きな虫癭(ちゅうえい)を作り、そこには黒紫色のアブラムシが多数、詰まっている。この虫癭はタンニンを豊富に含み、革鞣(なめ)しや黒色染料の原料となる)『の代用(タンニンを多く含有する五倍子は古来、黒色の顔料、お歯黒などに使われてきた)としたためといわれる』とある。

「毬果」「球果」とも書く。マツやスギなどに見られる、球形や楕円形をした果実を指す。通常は松傘のように胚珠が成熟して木化した鱗片を附け、それに二個の種子が出来る。木化せずに肉質となる種もある。

「水草」「ヤシヤビシヤク(夜叉柄杓)」「水草」は不審。寄生性落葉低木になら、ユキノシタ目ユキノシタ科スグリ属ヤシャビシャク Ribes ambiguum がある。本種については、サイト「岡山理科大学 生物地球学部 生物地球学科 旧植物生態研究室(波田研)」内のこちらを参照されたい。水草のヤシャビシャクを知っておられる方があれば、是非、御教授願いたい。

 

 植物、鳥類、魚類併びに蟲類の日本名に――丁度英吉利の民間の言葉に、デヴルス・エプロンとかデヴル・ウツドとかデヴルス・フインガとかデヴルス・ホースとかデヴルス・グーニング・ニードルとかいふやうな植物名昆蟲名があるやうに ――英語のディモン或はデヴルに營たる佛敎語の『オニ』といふ語を接頭字に附けて居るのが甚だ多い。英語のタイガ・リリーは日本ではそれと同樣奇妙なオニユリ(鬼百合)といふ名を有つて居る。英語のコイツクスの一種はオニズズダマ(鬼の數珠玉)と呼ばれて居る。英語のバー・マリゴールドはオニバリ(鬼の針)と呼ばれて居り、一種の水草で蓮の繁殖に害を與へるものを通常オニバス(鬼蓮)と唱へて居る。このオニといふ接頭字は、多分幾百もの植物併びに動物の俗名に、附けられて居ることであらう。自分が集めたものでもその數七十一を下らぬ。が然し、そのうち興味のあるものは尠い。

[やぶちゃん注:最初に「ディモン」と「デヴル」の違いを示しておく。「Demon」(デーモン)はギリシャ語の「ダイアモーン」が語源で、本来は「精霊」・「鬼神」を意味する広汎に善でも悪でもあった超自然的存在を指したが、宗教・神話・伝承などに組み込まれて、零落し、「悪霊」を指すようになったもの。一方の「Devil」(デヴィル/デビル)は、ヘブライ語の「サタン」のギリシャ語訳「ディアボロス」が語源とされ、もとから「邪悪」という概念を人格化したものであり、主にキリスト教に於いて唯一神ヤハゥエに敵対する邪悪な存在を指す。

「デヴルス・エプロン」原文“Devil's-apron”。海藻の昆布類、不等毛植物門褐藻綱コンブ目コンブ科 Laminariaceae のコンブ類を広く指す。平井呈一氏の恒文社版の訳(一九七五年)「動植物の仏教的名称」では、平井氏は丸括弧で割注を入れておられ、そこでは『(赤エイの一種)』とされておられる。膝を打ちたくなるほどありそうな異名なのだが、調べてみても、ヒトでも死に至ることがある有毒な棘を持ったエプロン状のアカエイ(Red stingray:軟骨魚綱板鰓亜綱トビエイ目アカエイ科アカエイ属アカエイ Dasyatis akajei )や、その近縁種に、英名で「悪魔のエプロン」というのは見当たらなかった。ちょっと淋しかった。

「デヴル・ウツド」“Devil-wood”。シソ目モクセイ科 Cartrema Cartrema Americana英文ウィキの同種に別名を“devilwood”とする。由来は判らないが、早春に咲くその花は、強烈な芳香を放つらしいから、それに由来するか。しかし、平井氏は割注で『(ヌルデ)』とされておられる。これは無論、ムクロジ目ウルシ科ヌルデ属ヌルデ変種ヌルデ Rhus javanica var. chinensis のことだ。ウルシ(ウルシ属ウルシ Toxicodendron vernicifluum)ほどではないが、稀にかぶれる人もいる。しかし、「悪魔の」と冠するほどではあるまい。

「デヴルス・フインガ」“Devil's-fingers”。菌界担子菌門菌蕈(きんじん)亜門真正担子菌綱スッポンタケ目スッポンタケ科アカカゴタケ属Clathrus archeri のこと。同種の英文ウィキに別名を“devil's fingers”とする。他に、「Octopus Stinkhorn fungi」の異名を持ち、本邦の記事では「タコスッポンタケ」(正式和名は恐らくまだない)などと呼んでいるものもある。オーストラリアとタスマニアを原産地とし、現在は北米・アジア・ヨーロッパなど世界各国に広がっている。悪臭を放ち(蠅媒(じょうばい)茸である)、その卵形の本体から赤い如何にもタコ足っぽいエグい胞子体を放散する器官が延び出して展開する。私はよく訪ねるサイト「カラパイア」の『キノコホラーサスペンス:「悪魔の指」の異名を持ち、強烈な死臭を放つキノコ「タコスッポンタケ」』で六年前に動画を見て知っていた。この動画はまだおとなしい方である。毒があるわけでも(逆に食用可)、実際に臭さが判るわけでもないが、かなり強烈である。リンクを見るかどうかは、さて、自己責任で。但し、平井氏は『(サボテンの一種)』とされておられる。【追記】私は、この注を書いた数年後、京の大原野の竹林で、同科のスッポンタケ属キヌガサタケ Phallus indusiatus の展開の妙技を親しく観察した。美しかった。

「デヴルス・ホース」“Devil's-horse”。これは「Devil's coach horse beetle」(「悪魔の馬車馬甲虫」)のことではなかろうか? 本邦には棲息しない鞘翅(コウチュウ)目カブトムシ亜目ハネカクシ下目ハネカクシ上科ハネカクシ科 Ocypus Ocypus olens 英文ウィキの同種の記載を見ると、“Devil's steed”の別名が見える。「steed」は「乗馬用の馬」の意である。本種は腹部に二つの臭腺を持っていてそこから悪臭を放ち、また、強力な顎を持っており、咬まれるとかなり痛むとある。また、本種は中世以降、実際に悪魔との関係性が伝承として語られているらしい。さらに、イギリスの伝承では、「イヴが食べた林檎の種を、この虫が食った」と伝えるともあり、それこそ「原罪の虫」なのである。平井氏は『(カマキリ)』とされるが、う~ん、流石に、それでは、この恐るべき虫と対するには――役不足――という感じがする。

「デヴルス・グーニング・ニードル」“Devll's-daming-needle”。「daming-needle」は「dam」(繕う)ための「needle」(針)で、「かがり針」のことである。さても、これは意外なことに(というか、私は小さな時から、時々は、トンボを捕まえることは出来ても、その翅の生えている背を――凝っと見ているうちに――気持ちが悪くなる気弱な少年であったのだが)「トンボ」の悪しき異名らしい。平凡社「世界大百科事典」の「蜻蛉」を見ると(コンマを読点に代えた)、『欧米では元来、トンボを益虫としたり、勇ましい、あるいは魅力のある虫と考えることはなかった。子どもがトンボとりに夢中になることはないといってよい。トンボはむしろ不吉な、気味の悪い虫であるとされることが多く、その別名として、英語 darning needle(〈かがり針〉の意)とか、同じく英語 devil’s darning needle、ドイツ語 Teufelsnadel、フランス語 aiguille du diable(いずれも〈悪魔のかがり針〉の意)とか、英語 witch’s needle(〈魔女の針〉の意)というのがある。これはトンボがその長いしっぽを』、『針のように使って、人間の耳を縫いつけてしまうとか、子どもがうそをついたり、いけないことをいったりすると唇を縫ってしまうという俗信に由来する。親がそういって小さい子を脅すことがあった。北アメリカでは mosquitohawk(〈蚊取り鷹〉の意)と呼ぶことがあり,これは日本人にも理解しやすいが、snake doctor(〈蛇の先生〉あるいは〈蛇の医者〉の意)という奇異な別名もある。蛇に危険が近づくと』、『トンボがそれを蛇に知らせてやるという迷信に基づく。同様に flyingadder および adder fly(〈飛ぶマムシ〉の意)ともいう』。『フランスの古い迷信でもトンボと爬虫類や両生類などが結びつけられることが多く、おそれられ、いやがられてきたようである。サンショウウオとトンボを同じ名で呼び、かまれると危険であると思っている地方や、洗濯女などが、トンボに』「刺されないよう」に『おまじないの文句を唱えていた地方がある。またトンボの翅で手が切れるとか、トンボに額を打たれると必ず死ぬ』、『とかいわれていた』とある。平井氏は『(北米の一地方にいるカトンボの一種)』とかなり細かく、絶対的自信を持って割注されておられる。平井氏には具体に種を指定して欲しかった。

「英語のタイガ・リリー」“The tiger-lily”「は日本ではそれと同樣奇妙なオニユリ(鬼百合)といふ名を有つて居る」単子葉植物綱ユリ目ユリ科ユリ属オニユリ Lilium lancifolium のこと。和名の由来については、花びらに黒い斑点模様が沢山あり、橙色がかかった赤めの花びらに、黒のだんだらの斑点が目立つ点、花の色や形がやや特異に反って見えること等から、「赤鬼」を連想させたとする説があるが、本邦の接頭語としての「鬼」は「オニヤンマ」のように「大きい・強い」という傾向が強いから、これは同属のヒメユリ(姫百合:Lilium concolorと比べて「大きい」という意味とする説を私は支持したい。この用法については、次の段落で小泉八雲も述べている。

「英語のコイツクス」(coix)「の一種はオニズズダマ(鬼の數珠玉)と呼ばれて居る」coix」は既出既注の単子葉植物綱イネ目イネ科ジュズダマ属ジュズダマ Coix lacryma-jobi の属名。斜体になっていないが、これは「Coix seed」などと「ジュズダマ」の一般名詞としての使用法があるから、まあ、問題ない。と言うより、当時は学名を斜体にするのは、絶対規則ではなかった。

「英語のバー・マリゴールド」(bur-marigold)「はオニバリ(鬼の針)と呼ばれて居り」Bur marigold」は、黄色の花を咲かせ、毛皮や衣服にくっつく刺(とげ)のある実(所謂、ご存じ「ひっつき虫」である)を持つ、キク亜綱キク目キク科キク亜科センダングサ属 Bidens の数種の植物の総称。サイト「跡見群芳譜」の「せんだんぐさ(栴檀草)」( Bidens biternata )の「訓」の項に、小野蘭山述の「本草綱目啓蒙」を引いて『鬼針草に、「センダングサ キツネバリ備後 カラスバリ奥州 石クサ越後 オニバリ キツネノヤ キツネノヤリ ハサミグサ ヌスビト播州。衣服ニ』實『ノ著モノヲ』總『テヌスビトゝ云、イトロベトモ云 キツネノハリ同上 モノツキ長州 オニノヤ藝州 モノグルヒ』豐『前 シブツカミ勢州 ヤブヌスビト ヌスビトノハリ共ニ同上」』と、冒頭に「鬼針」が出ている

「オニバス(鬼蓮)」スイレン目スイレン科オニバス属オニバス Euryale ferox 「蓮の繁殖に害を與へるもの」を「鬼」の由来のように小泉八雲は書いているが、この「鬼」は、植物全体に大きな刺(遂げ)が生えていることに由来し、特に水面に広がる大きな葉の表裏に生える刺は実際に硬く鋭い。ウィキの「オニバス」によれば、『農家にとってオニバスは、しばしば排除の対象になることがある。ジュンサイなどの水草を採取したりなど、池で農作業を行う場合、巨大な葉を持つオニバスは邪魔でしかないうえ、鋭いトゲが全体に生えているために嫌われる羽目になる。また、オニバスの葉が水面を覆い』、『水中が酸欠状態になったため、魚が死んで異臭を放つようになり、周囲の住民から苦情が出たという話もある』。『水が少ない地域に作られるため池では水位の低下は死活問題に直結するが、オニバスの巨大な葉は水を蒸散させてしまうとされて歓迎されないこともあった』とある。しかし、『日本では、環境の悪化や埋め立てなどで全国的に自生地の消滅が相次ぎ』、『絶滅が危惧されており』、本邦では、嘗つては『宮城県が日本での北限だったが』、『絶滅してしまい、現在では新潟県新潟市が北限となっている』とある。]

 

 日本の佛敎で認められて居る一種の化物(ばけもの)を意味して居る、キジン或はキシンといふ語は、同じくまた接頭字として使用されて居る。例を舉ぐれば、英語のニードル・グラスの一種はキシンサウ(鬼神草)として知られて居る。一種の女化物を意味して居る、今一つの佛語のキヂヨといふ語が、或る蘭の普通名に見えて居る。キヂヨラン(鬼女蘭)がそれである。それからまた、鬼(おに)とか化物とかの意味の語の省略のキといふ接頭字があつて、これが時々植物名に現はれて居る。例へば學名パルダンサス・チネンシスは日本ではキセン(意味は『鬼扇』)と呼ばれて居る。こんな惡魔に因んだ名は、ただ單にその恰好が醜惡であるか異常であるかの爲めでは無く、著しく大きいが爲めに植物なり動物なりに與へてあるといふことは、述べて置く價値がある。例へば一種の告天子[やぶちゃん注:「ひばり」。]をオニヒバリ(鬼告天子)と呼んで居るのは、偶〻それが普通の野告天子[やぶちゃん注:「のひばり」。]よりも餘程大きいからである。また非常に大きな或る蜻蛉を同じ理由でオニヤンマ(鬼蜻蛉)と名づけて居る。

[やぶちゃん注:「英語のニードル・グラス」(needle-grass)「の一種はキシンサウ(鬼神草)として知られて居る」needle-grass」は単子葉植物綱イネ目イネ科イチゴツナギ亜科 Pooideae に属する Stipeae Stipa 属の中の、細く伸びた草体を持つ一群を指す。但し、同属そのものは本邦には植生しないようであるから、小泉八雲の言う「一種」は誤りである(実際、以下に見る通り、縁もゆかりもない双子葉植物綱の全くの別種である)。ここまでは英文ウィキの「Stipaに拠った。そこに、同属を構成するグループとして「feather grass」・needle grass・「spear grass」を掲げてある。「キシンサウ(鬼神草)」はキク科センダングサ属コバノセンダングサ Bidens bipinnata の異名個人サイト「三河の植物観察」のこちらがよい。

「キヂヨラン(鬼女蘭)」キク亜綱リンドウ目ガガイモ科キジョラン属キジョラン Marsdenia tomentosa ウィキの「キジョラン」によれば、蔓『性の多年草の』一『種』で、『有毒』。『木質になる』。『葉は対生し、卵円形で大きく、基部は円脚か浅い心脚、全体としてはややハート形に近くなる。葉の表面は深緑で、無毛、少しつやがある。花は葉腋から出て』、二~三センチメートルの『短い柄の先に散形の花序をつける。個々の花は白で、径約』四ミリメートルで、花期は八~十一月。『花に対して果実は大きく、楕円形で長さ』十三~十五センチメートルにもなり、蔓から『ぶらさがる。キジョランの実は冬が近づくと、はじけて中から綿毛が飛び出す。和名は、その綿毛の白毛を鬼女の髪に見立てたことに由来する』。『朝鮮半島南部と日本に分布する。日本では関東以西の本州、四国、九州、沖縄に分布する』。『照葉樹林の林内から林縁に生え、木にも登るが、樹冠を覆うような生え方はしない。長距離移動することで知られているチョウのアサギマダラ』(鱗翅(チョウ)目アゲハチョウ上科タテハチョウ科マダラチョウ亜科アサギマダラ属アサギマダラ Parantica sita )『の幼虫の食草とされ、卵が産み付けられる』とあるから、八雲先生……鬼女、どころか……鬼子母神、ですよ…………

なお、小泉八雲は「或る蘭の普通名」と言っているが、本種は「蘭(ラン)」とつくものの、ラン(単子葉植物綱キジカクシ目ラン科 Orchidaceae)とは縁もゆかりもないので注意されたい。

「學名パルダンサス・チネンシス」( Pardanthus chimnsis )「は日本ではキセン(意味は『鬼扇』)と呼ばれて居る」「鬼扇」とか「きせん」の異名では全く検索に掛かってこなかったが、小泉八雲が学名を記して呉れていたお蔭で発見出来た。現在は属が変更され、単子葉植物綱キジカクシ目アヤメ科アヤメ属ヒオウギ Iris domestica の旧学名のシノニム英文ウィキの「Iris domesticaの「Synonyms」に出る)である。ウィキの「ヒオウギ」によれば、『従来はヒオウギ』(檜扇)『属(Belamcanda)に属するとされ、B. chinensisの学名を与えられていたが』二〇〇五『年になって』、『分子生物学によるDNA解析の結果から』、『アヤメ属に編入され、現在の学名となった』とある。『ヒオウギは山野の草地や海岸に自生する多年草で』、高さ六十~百二十『センチメートル程度。葉は長く扇状に広がり、宮廷人が持つ檜扇に似ていることから命名されたとされる』。『別名に烏扇(からすおうぎ)』がある。『花は』八『月ごろ咲き、直径』五~六『センチメートル程度。花被片はオレンジ色で赤い斑点があり放射状に開く。午前中に咲き夕方にはしぼむ一日花である。種子は』四『ミリメートル程度で黒く艶がある。本州・四国・九州に分布する』。『黒い種子は俗に射干玉(ぬばたま・ぬぼたま・むばたま)と呼ばれ、和歌では「黒」や「夜」にかかる枕詞としても知られる。烏羽玉、野干玉、夜干玉などとも書く』。『和菓子の烏羽玉(うばたま)はヒオウギの実を模したもので、丸めた餡を求肥で包んで砂糖をかけたものや』、『黒砂糖の漉し餡に寒天をかけたものなどがある』。『花が美しいため』、『しばしば栽培され、生花店でも販売される。関西地方中心に名古屋から広島にかけて、生け花の』七『月初旬の代表的な花材である』。『特に京都の祇園祭や大阪の天神祭では、床の間や軒先に飾る花として愛好されている』。『生花はほとんどが徳島県神山町産のものである』とある。

「告天子」スズメ目スズメ亜目ヒバリ科ヒバリ属ヒバリ Alauda arvensis であるが、本邦には、

亜種ヒバリ Alauda arvensis japonica

が周年生息(留鳥)し(北部個体群や積雪地帯に分布する個体群は、冬季になると、南下する)、他に、

亜種カラフトチュウヒバリ Alauda arvensis lonnbergi

亜種オオヒバリ Alauda arvensis pekinensis

が冬季に越冬のために本州以南へ飛来(冬鳥)もするから、ここで「オニヒバリ(鬼告天子)」と呼んでいるのは、大きなヒバリではなくて、有意に体が大きい最後のオオヒバリである可能性も視野に入れておく必要がある。なお、雲雀(ヒバリ)の博物誌は、私の「和漢三才圖會第四十二 原禽類 鷚(ひばり)(ヒバリ)」を参照されたい。

「オニヤンマ(鬼蜻蛉)」『小泉八雲/民間伝説拾遺/「蜻蛉」(大谷正信訳)の「一」』の「十四」や「六、トノサマトンボ」を参照。

 

 動物幷びに植物の佛敎に緣のある名に靈的なのが多い。或る綠色の可愛らしい螽蟖[やぶちゃん注:「きりぎりす」。]にホトケノウマ(佛の馬)といふがある。この蟲の頭は恰好が馬の頭に奇妙に似て居る。が、『ホトケ』といふ語は――俗衆の信仰では善人は總て佛になると想はれて居るから――死者の靈といふ意味を有つて居る。だから、ホトケノウマといふ名の本當の意味は『死者の馬』である。さて、七月の三日間の死者の祭中、靈のうちで、昆蟲の助を藉るか[やぶちゃん注:「たすけをかりるか」。]、又は實際昆蟲の姿となつて、己が家鄕を或は己が前の友人の家を訪ふものが多い、と信ぜられて居る。で、この螽蟖の名は影の如き訪客が馬として用ゐる、といふ意を實際含んで居るのである。……それからまた、シヤウリヤウといふ語――佛式に據つて祀る祖先の靈の總稱、――と或る蜻蛉の名と一緖になつて居るのを見る。シヤウリヤウヤンマ(祖先の靈の蜻蛉)がそれである。シヤウライトンボ(精靈蜻蛉)も、似た意味の言葉のキヤンマも、同じくまたその蟲と不可見世界との關係を仄めかす積(つも)りの名である。等しく薄氣味わるいのは、京都の方言での、英語のモール・クリケットの名である。多分その蟲の地下生活で思ひついた名であらう、――シヤウライムシ(精靈蟲)と呼ばれて居るのである。植物の名稱のうちに。ユウレイダケ(幽靈竹)とか、ユウレイバナ(幽靈花)とか、いふやうな名がまたある。後者は花車な[やぶちゃん注:「きやしや(きゃしゃ)」。「華奢」に同じ当て字。]一種の茸の名で、不適切な名では無いと思ふ。

[やぶちゃん注:「螽蟖」原文“grasshopper”。英語では、「バッタ」・「イナゴ」・「キリギリス」総てを指す。

「ホトケノウマ(佛の馬)」既に『小泉八雲 落合貞三郎他訳 「知られぬ日本の面影」 第十六章 日本の庭 (一一)』にも登場している。そこで私は本種を、

キリギリス科ウマオイ属ハヤシノウマオイ Hexacentrus japonicus

或いは、

ハタケノウマオイ Hexacentrus unicolor

に比定同定した。因みに、前者の名を私は「スイッチョン」と覚えており、「スィーーーッ・チョン」と長く延して鳴き、後者は「シッチョン・シッチョン」と短く鳴く。彼らの御面相は、確かに、馬っぽく、ネットを調べると、「ウマオイ」を出雲では「ホトケノウマ」と言うという記載も現認出来たと記してある。基本的にこれでいいと今も思っている。

「シヤウリヤウヤンマ(祖先の靈の蜻蛉)」「シヤウライトンボ(精靈蜻蛉)」「キヤンマ」『小泉八雲/民間傳說拾遺/「蜻蛉」(大谷正信譯)の「一」』の「十六、シヤウリヤウトンボ」や「十五、キヤムマ」や、当該末の小泉八雲の記述を参照されたい。

「モール・クリケット」“mole-cricket”(改行でダッシュが入っているから、小泉八雲は“molecricket”の積りかも知れない。直翅(バッタ)目剣弁(キリギリス)亜目コオロギ上科ケラ(螻)科 Gryllotalpidae のケラ類であるが、本邦産のそれは、グリルロタルパ(ケラ)属ケラ Gryllotalpa orientalis 属名は「Gryllo」の部分が「コオロギ」、「talpa」が「モグラ」(哺乳綱ガリネズミ形目モグラ科 Talpidae)を意味し、英名の「Mole cricket」も「モグラコオロギ」の意である。私はあの、夜、地面の黄泉に繋がる地下から聞こえてくる「ジー……」「ビー……」というケラの声が、好きだ。

「シヤウライムシ(精靈蟲)と呼ばれて居る」京都では先祖の精霊を「お精霊(しょらい)さん」と呼ぶ。今もそうだ。しかし、もうケラを「しょうらいむし」と呼ぶ京都人は、いなくなってしまったのかも知れない。ネットには全く掛かってこない。何か淋しい気がした。

「ユウレイダケ(幽靈竹)」竹ではなく、ツツジ目ツツジ科シャクジョウソウ亜科ギンリョウソウ属ギンリョウソウ Monotropastrum humile、「銀竜草」の異名である。腐生植物(saprophyte:菌根を形成して生活に必要な有機物を菌類から得ることで生活をする植物群)の代表種である。葉緑素を持たない青白い不思議なそれはまさに「幽霊竹」に相応しい。私は丹沢登山で何度も見かけた。ウィキの「ギンリョウソウ」画像をリンクさせておく。

「ユウレイバナ(幽靈花)」「花車な一種の茸の名」既に出した曼珠沙華(ヒガンバナ)の異名にあるが、ここは「きのこ」とはっきり限定している。しかし、キノコの「ユウレイバナ」を私は知らないのだ。しかも、前のギンリョウソウの異名の一つに「ユウレイバナ」があることも知っているのだ。翻って――素人は「ギンリョウソウ」を見たら「きのこ」と誤認しないだろうか?――私は「誤認する」と思う。――とすれば――小泉八雲は、この「ユウレイダケ(幽靈竹)」と「ユウレイバナ(幽靈花)」が同一のものとは思わずに、前者には実際の「タケ類」を想定誤認し、後者を茸みたような青白く細くて華奢な「銀竜草」を「茸」と誤認して、かく述べたものではなかったろうか? キノコの「ユウレイバナ」があると言われる方は、是非、御教授あられたい。

2019/10/16

小泉八雲 佛敎に緣のある動植物  (大谷正信譯) / その1

 

[やぶちゃん注:本篇(原題“ Buddhist Names of Plants and Animals ”。「植物と動物の仏教上での名称」)は一九〇一(明治三四)年十月にボストンの「リトル・ブラウン社」(LITTLE,BROWN AND COMPANY)から出版された作品集“ A JAPANESE MISCELLANY ”(「日本雑記」。来日後の第八作品集)の冒頭パート「奇談」(全六話)の次のパート“ Folklore Gleanings ”(「民俗伝承拾遺集」)全三篇の二番目に配されたものである。本作品集は“Internet Archive”のこちら(出版社及びクレジットの入ったページを示した)で全篇視認できる(本篇はここから)。活字化されたものは、整序されたものは見当たらない(今まで紹介していないが、同前の“Internet Archive”にはフル・テクスト・ヴァージョンはあるにはあるのであるが、OCRによる読み込みで、誤まり多く、美しくなく、読み難く、また、味気ない)。

 底本は英文サイト“Internet Archive”のこちらにある、第一書房が昭和一一(一九三六)年十一月に刊行した「家庭版小泉八雲全集」(全十二巻)の第七巻の画像データをPDFで落として視認した【2025年4月7日:底本変更・正字化不全・ミスタイプ・オリジナル注全補正】時間を経て、国立国会図書館デジタルコレクションに本登録し、現行では、以上の第一書房版昭和一一(一九三六)年十一月に刊行した「家庭版小泉八雲全集」(全十二巻)の第七巻が、国立国会図書館デジタルコレクションで公開されてある。(リンクは扉だが、「家庭版」の文字はない。しかし、奥附を見て貰うと『家庭版』とあり、『昭和十一年十一月二十七日 發 行』とあることが確認出来る)、これが、前掲の底本と同じものであるが、やはり、外国のサイトのそれを底本とするのは、日本人小泉八雲に失礼であると考えた。されば、こちらで、再度、以下の「骨董」の作品群を改めて校正することとする。これが――私の小泉八雲への「義」――である。なお、これよりも前の元版の全集等が先行しているものの、私がそれらと比べた結果、実は先行する同社の「小泉八雲全集」のそれらは、訳が一部で異なっており、訳者等によって、かなりの補正・追加がされていることが、今回の正字補正作業の中で、はっきりと判って来た。いや、同じ「家庭版」と名打ったネット上の画像データでも、驚いたことに、有意に異なっていたのである。そうした意味でも――完全な仕切り直しの総点検――が必要であると決したものである。従って、旧前振りの括弧・鍵括弧の問題も、拡大とガンマ補正で確認し、正確を期する。本作はここから。 底本では、中パート標題は以下の通り、「民間傳說拾遺」と訳してある。底本ではパート標題は「民間傳說拾遺」と訳してある。

 訳者大谷正信氏については、「小泉八雲 燒津にて 大谷正信譯」の私の冒頭注を参照されたい。

 傍点「﹅」は太字に代えた。

 本文内に神経症的に注を挿入した。やり始めてみて、これ、今までになく、原文・訳文にかなりの問題点(私が拘りたくなる部類の、である)があるので、分割して示すことにした。なお、瞥見した銭本健二氏が担当された小泉八雲の年譜(一九八八年恒文社刊「ラフカディオ・ハーン著作集 第十五巻」所収)によれば、本篇は明治三三(一九〇〇)年四月の執筆とある。]

 

 

  佛敎に緣のある動植物の名

 

 一時(いつとき)自分は日本の動植物に附けてある佛敎に緣のある名の語彙を編纂したいと思つて、その著作の材料を蒐め始めた。が、其時は自分はそんな事業の實際の困難に就いて餘り知つてゐなかつた。そのうちの唯だ一つを述べて見れば、日本の殆ど何れの州にも他の州とは異つた民間語があつて、その差異が或る植物昆蟲爬蟲類禽鳥に附けてある名にさへ見えて居る。そんな名は、固よりのこと、百姓や漁夫の口から聽き取らなければならぬもので、自分が爲(し)ようと思つて居る事は民間傳說硏究會の堅忍な勞力に依らなければ、決して立派には爲し得られないのである。で、今のところ自分は、豫ての[やぶちゃん注:「かねての」。]志の語彙は作ることが出來ないで、この問題に對する二三の一般的註釋で甘んじなければならぬことになつて居る。

[やぶちゃん注:「民間傳說硏究會」原文“a folklore society”。これは「とある民間伝承の研究者の集まり」程度の意味であろう。何故なら、現在の「日本民俗学会」の発足は戦後の昭和二四(一九四九)年(平井呈一氏の恒文社版の訳「動植物の仏教的名称」では、ここは『民俗学会』と訳されているが、これは全く事実に反するのである)その前身は昭和一〇(一九三五)年に柳田國男の還暦を機に開催された「民俗學講習會」に参集した全国の研究者の要望によって結成された「民間傳承の會」(私はブログ・カテゴリ「柳田國男」で337件の電子化注を公開している)であった。則ち、本「日本雑記」が刊行された明治三四(一九〇一)年にはそのような研究団体、大谷が仰々しく訳すようなこんな研究会や組織・集団は、実は影も形もなかったのである。日本の民俗学の先駆けとも称される、かの佐々木喜善原作の柳田國男の発表した「遠野物語」でさえ、本書刊行の九年後の明治四三(一九一〇)年の発表だったのである(私はブログ・カテゴリ「佐々木喜善で「遠野物語」の全電子化オリジナル注を終わっている)。しかも、戦後の高度経済成長と公害による急速な自然破壊と地方の限界集落化によって、伝統的民俗社会は殆んどが矮小化され、解体され、今現在、日本の民俗学は、たかだか百年も経たぬうちに、早くも――「死に体」――或いは――消滅した言語の秘術的伝承集団――のように堕してしまっていると言っても過言ではないと私は思っているのである。現在の民俗学者を標榜する輩は実に今から百十八年も前に小泉八雲が謙遜して述べている次の段落を肝に銘ずるべきである!

 が、恐らくは此註釋は――それに對して所要の學識も手段も自分が持たなかつた一事業の殘物ながらも――極東の民間俗說といふ此の未着手の地域への未來の開拓者には少くとも暗示的價値はあるであらう。

 

 佛といふ名は數々の木や植物の名稱に見えて居る。マルブシユカン(佛の圓い指)といふは――その果實の恰好が甚だ能く、それに似て居るが爲めさう名づけられた一種の檸檬樹(レモン・トリイ)の名である。扶桑はブツソウゲ(佛の桑)と呼ばれて居り、岩苔の一變種は普通ホトケノツメ及びブツカウサウといふ――兩方とも「佛の指の爪」といふ意味の――繪のやうに美しい名によつて知られて居る。一種の藷[やぶちゃん注:「いも」。]は――その名稱を適當な漢字で書くと『佛の手の薯』といふ意味を有つ――ツクネイモと呼ばれて居り、つめくさの一變種にホトケノザ(佛の座)といふ名を戴いて居るのがある。

[やぶちゃん注:「マルブシユカン」丸仏手柑(マルブシュカン)は、

被子植物門双子葉植物綱ムクロジ目ミカン科ミカン属シトロン Citrus medica 変種 Citrus medica var. sarcodactylis 

の正式和名である。ウィキの「シトロン」によれば、『漢名は枸櫞(くえん)。レモン』(ミカン属レモン Citrus limon )『と類縁関係にある』。『原産はインド東部、ガンジス川上流の高地。しかし紀元前にはすでにローマや中国に伝来していた。またアメリカ大陸にはコロンブスによる到達以降に伝わった。日本では「本草図譜」(』文政一一(一八二八)年成立『)に記載されているので、江戸時代以前に伝わっていたと思われる』。『枝にはとげが多い。葉は淡黄緑色、細長い楕円形で縁に細かいぎざぎざ(鋸歯)がある。新芽や花は淡紫色を帯びている品種が多く、花弁は細長い』。『熟した果実の表面は黄色く、形状は品種により様々だが、一般に紡錘形で重さは』百五十~二百グラムで、『頂部に乳頭が発達している。果皮はやわらかいが分厚く、果肉が少なく、果汁も少ない。また』、『果肉がかなりすっぱい品種とそうでない品種がある』。『ユダヤ教では一部の品種の果実をエトログ』『と呼び、「仮庵の祭り」で新年初めての降雨を祈願する儀式に用いる四種の植物の』一『つとする』。現代『フランス語でシトロン(Citron)と言った場合は』、『本種ではなく』、『レモンを指す。現在のフランス語でシトロンを示す場合はセドラ(Cédrat)と呼ぶ』とある。【2025年4月7日追記】私は、昨年起動した暴虎馮河のブログ・カテゴリ『「和漢三才圖會」植物部』の「和漢三才圖會卷第八十七 山果類 佛手柑」を電子化注を終えているので、是非、見られたい。

「扶桑はブツソウゲ(佛の桑)と呼ばれて居り」これは、

双子葉植物綱ビワモドキ亜綱アオイ目アオイ科フヨウ属ブッソウゲ Hibiscus rosa-sinensis

である。ウィキの「ブッソウゲ」によれば、「仏桑花」「扶桑花」「仏桑華」とも書き、沖縄では「赤花」とも呼ぶ。『ハイビスカスとも言うが、フヨウ属の学名・英名が Hibiscus であることから、この名前は類似のフヨウ属植物を漠然と指すこともあって、複雑なアオイ科の園芸種群の総称ともなっている』。『極めて変異に富み』、八千『以上の園芸品種が知られているが、一般的には高さ』二~五メートルに『達する熱帯性低木で、全株無毛ときに有毛、葉は広卵形から狭卵形あるいは楕円形で先端は尖る』。『花は戸外では夏から秋に咲くが、温室では温度が高ければ周年開花する。小さいものでは直径』五センチメートル、『大きいものでは』二十センチメートル『に及び、らっぱ状または杯状に開き、花柱は突出する。花が垂れるもの、横向きのもの、上向きのものなど変化に富む。花色は白、桃、紅、黄、橙黄色など様々である。通常、不稔性で結実しないことが多い』。五『裂の萼の外側を、色のついた苞葉が取り巻いているので、萼が』二『重になっているように見える。よく目立つ大きな花は花弁が』五『枚で、筒状に合体した雄蕊の先にソラマメのような形の葯がついていて、雌蕊は』五『裂する。果実は』五『室の豆果で、多数の種子が入っている』。『中国南部原産の説やインド洋諸島で発生した雑種植物であるとの説もあるが、原産地は不明である。本土への渡来は、慶長年間(』一六一〇『年頃)に薩摩藩主島津家久が琉球産ブッソウゲを徳川家康に献じたのが最初の記録として残っているという』。『ほぼ一年中咲くマレーシアでは、マレー語でブンガ・ラヤと呼び、国花として制定して』おり、『親しまれている花のひとつである』。『日本では南部を除き』、『戸外で越冬できないため、鉢植えとして冬は温室で育てる』。『沖縄県では庭木、生垣とする。沖縄南部では後生花(ぐそうばな)と呼ばれ、死人の後生の幸福を願って』、『墓地に植栽する習慣がある』。『中国では赤花種の花を食用染料としてシソなどと同様に用い、また熱帯アジアでは靴をみがくのに利用するといわれ、shoe flower の別名がある』とある。【2025年4月7日追記】先と同じく、ブログ・カテゴリ『「和漢三才圖會」植物部』の『「和漢三才圖會」植物部 卷第八十四 灌木類 扶桑』を電子化注を終えているので、是非、見られたい。

「岩苔の一變種は普通ホトケノツメ及びブツカウサウといふ」それぞれ「仏の爪」、「仏甲草」(ぶっこうそう)で、小泉八雲は孰れも――「岩苔」(原文は“rock-moss”)――と言っているが――これは、コケ類ではなく――れっきとした多肉の多年草である

双子葉植物綱ユキノシタ目ベンケイソウ科イワレンゲ属 Orostachys のイワレンゲ類の異名

である。ウィキの「イワレンゲ」によれば、『開花すれば枯死』してしまう『一稔性植物』で、『花後に葉腋から腋芽や走出枝をだして繁殖する。地下に根茎はない。根出葉は顕著なロゼット状に開き、葉を密生させる。葉に葉柄がなく、葉の先端が歯牙状または針状にとがることがある。ロゼットの中央の軸部分が円錐状に伸長して花茎になり、多数の花を密につける。花序には葉状の苞がつき、花柄の基部に小苞がある。短日性で、秋咲き。花序の下の方から順に咲いていく。萼は緑色の肉質で、裂片は』五『個で基部で合生する。花弁は』五『個で、白色、まれに紅色または黄色をおび、花弁全長の基部の』四分の一『ほどが合生する。雄蕊は』二『輪で』十『個あり、葯は』二『室で底着し、縦に裂ける。雌蕊は』五『個でほぼ離生し、子房の基部は柄状に細まり、背面に蜜腺がある。果実は』五『個の袋果になり、子房は花』の『時と変わらない形状をしている。種子は楕円形で長さ約』一ミリメートルに『なる』。『ウラル山脈以東のシベリア、中国大陸、朝鮮半島から日本にかけて分布する』。『分布地の内陸部または海岸部の岩上に生育する。建物の屋根上に生えるものもある』。『属名 Orostachys は、ギリシャ語で』(以下、ラテン文字転写)『Oros「山」とStachys「穂」による合成語で、「山に生え、穂状花序であること」からによる』。『この属に属する種は、The Plant List, Orostachys では』十二『種、日本の植物学者大場秀章は、『改訂新版 日本の野生植物 2』では一部の種を変種やその他の属として扱い』、八『種あるとしている』とある。

「佛の手の薯」「ツクネイモ」お馴染みの

単子葉植物綱ヤマノイモ目ヤマノイモ科ヤマノイモ属ナガイモ Dioscorea polystachya の品種である、中国原産の丸みを帯びた形状の Dioscorea opposite の地方名

である。「つくね芋」の外、「大和芋」・「伊勢芋」・「丹波芋」などが同種の品種の代表例である。「つくねいも」は小泉八雲の謂う通り、「仏掌薯」と漢字表記もする。

つめくさの一變種にホトケノザ(佛の座)といふ名を戴いて居るのがある」この場合の「佛の座」は、

シソ目シソ科オドリコソウ亜科オドリコソウ属亜属 Amplexicaule 節ホトケノザ Lamium amplexicaule

を指しているものと考える。但し、小泉八雲の「つめくさの一變種」(“a variety of clover”)というのは誤りで、所謂、

「クローバー」はマメ目マメ科マメ亜科シャジクソウ属 Trifolium

である。しかし、敢えて小泉八雲がそう言い間違えたのは、同じような草体や花のつき方をしているからこそ誤認したものと考えられるから、上記のホトケノザで採った。

一方、「春の七草」の食用になる「佛の座」の方は、

キク亜綱キク目キク科ヤブタビラコ属コオニタビラコ Lapsana apogonoides

で、全くの別種である。コオニタビラコは、クローバーとは、およそ似ておらず、素人でも誤認することはあり得ない。

ホトケノザの学名検索

と、

コオニタビラコの学名検索

をリンクしておく。ただ、絶対に、これでいいかどうかは、不安が残る。以上の語り口からは、小泉八雲の周辺(松江・熊本・神戸・東京)では、圧倒的に「春の七草」の「仏の座」=コオニタビラコを標準和名と信じている人が、有意に多くいたのでなければ、かくも自信を断言することはあり得ないし、そもそも、出雲人であり俳人でもある、かなり冷静にして詳細な訳者註を添えている大谷正信が、この箇所に、何らの疑義・誤認訳註を附していないからである。

 

 菩薩や他の佛敎の神々(デイヸニテイ)の名がまた植物と動物との稱呼に見出される。クワンノン(梵語のアヷロキテシヷラ)といふ名はクワンノンチク(觀音の竹)といふ語に見え、種類の異つた數々の植物が、州を異にして、クワンノンサウ(觀音の草)といふ名で知られて居る。フゲン(梵語のサマンタバドラ)といふ名は樹の一變種に與へられて居る、――フゲンザクラ(普賢櫻)がそれである。ダイモクケンレン(梵語のマハモウドガルヤアヤナ)といふ――普通にはモクレンと短くして用ひる――名は、モクレンとして知られて居るフィクス・ピュミラの普通名にも用ひられ、また通常ハクモクレン(白い木蓮)と呼んで居る、マグノリア・コンスピキュアの普通名にも用ひられて居る。プラアマといふ――日本の佛敎では梵天として知られて居る――名は一種の陸稻の名稱に見えて居る。卽ち梵天米(ぼんてんまい)である。ボダイダルマ(ボディダルマ)の名は、ダルマサウ(達磨の草)(英語のスワンプ・キヤベヂ)の名に保存されて居ると同樣に、ダルマギク(達磨の菊)(學名アステル・スパテュフオーリウム)といふ俗稱に保存されて居る。また此祖師の名を有つて居る魚が二種ある。一は學名プリアカンサス・ニフヲニウスといふ魚で、之をダルマダイ(達磨の鯛)と呼んで居り、今一つは學名シナンセイア・エロサといふ魚で、之を普通ダルマカサゴと言うて居る。『カサゴ』は本當は學問の方ではセバスタス・イネルミスと名づけて居る魚の名である。が然し、上に揭げた名稱の何れよりも妙な名稱は米の蟲の一種に附けて居る普通名コクウザウである。『虛空藏』といふはかの大菩薩アカサブラティシシタの日本名である。

[やぶちゃん注:「神々(デイヸニテイ)」原文“divinities”(単数形“divinity”。音写するなら「ディヴィニティ」)は「神性・神格・神威・神徳」の意。

「クワンノン(梵語のアヷロキテシヷラ)」原文“Kwannon (Âvalokitesvara)”。「觀世音菩薩」のサンスクリット語のラテン文字表記は現行では「Avalokiteśvara」。音写は「アヴァローキテーシュヴァラ」。

「クワンノンチク(觀音の竹)」単子葉植物綱ヤシ目ヤシ科カンノンチク属カンノンチク Rhapis excelsa 。漢字は「観音竹」であるが、ご覧の通り、タケの仲間ではなく、ヤシ科植物の小型種である。ウィキの「カンノンチク」によれば、『掌状複葉の葉はお椀のように上に反り、少数にだけ裂ける。古くから栽培され、古典園芸植物としての品種も多い』。『南中国原産で』、『日本では鉢植えで栽培され』、『日本本土には江戸時代(』十七世紀半ば『)に琉球を経由して持ち込まれた』とある。

「種類の異つた數々の植物が、州を異にして、クワンノンサウ(觀音の草)といふ名で知られて居る」よく知られた種としては、

単子葉植物綱キジカクシ目キジカクシ科スズラン亜科キチジョウソウ属キチジョウソウ Reineckea carnea の異名

である。ウィキの「キチジョウソウ」によれば、『日本国内では』、『関東から九州、また中国の林内に自生し、栽培されることもある』。『家に植えておいて花が咲くと縁起がよいといわれるので』「吉祥草(きちじょうそう)」の『名がある』。『地下茎が長くのびて広がり、細長い葉が根元から出』、『花は秋に咲く。根元にヤブランにやや似た穂状花序を出し、下部は両性花、上部は雌蕊のない雄花が混じり、茎は紫色。花は白い花被が基部で合生し筒状となり、先は』六『裂して反り返り』、六『本の雄蕊が突き出る』。『果実は赤紫色の液果』とある。なお、私は不審なのだが、「吉祥草」の漢字列であるとすれば、明治以前の民草の間では、圧倒的に「きつしやうさう(きっしょうそう)」と書き、発音されたとしか思えないのに、この当たり前の読み・異名読みが、ネットでは掛かってこないことである。識者の御教授を乞うものである。

「フゲン(梵語のサマンタバドラ)」“Fugen (Samantabhadra)”。普賢菩薩。

「フゲンザクラ(普賢櫻)」桜の古い品種の一つである八重の普賢象桜(或いは単に「フゲンゾウ」とも呼ぶ)のことであろう。バラ目バラ科サクラ属フゲンゾウ Cerasus Sato-zakura Group ‘Albo-rosea’(シノニム Cerasus × lannesiana )である。ウィキの「フゲンゾウ」によれば、『雌しべが花の中央から』二『本出ており、細い葉のように葉化している。この雌しべが普賢菩薩の乗る普賢象の鼻に似ている事からこの名前がつけられた』。『異称に普賢堂というものがある』とあり、普賢菩薩本体が和名の語源ではない。また、そこには『室町時代には既に知られていたとされ』、『サトザクラの中でもかなり古い分類に入る』とある。しかし、私の、幕末に完成した鎌倉周辺地誌「鎌倉攬勝考卷之十一附錄」の金沢文庫のある称名寺にあった(近現代に至って移植されたものがあったが、完全に枯死して絶えたことが確認されているはずである)名木「普賢象櫻」について(古い作製物なので、正字不全を訂した)、

   *

堂の前、西の方にあり。八重なり。花の心中より、新綠二葉を出したり。【園太曆】に、延文二年[やぶちゃん注:南北朝の北朝の元号。南朝は「正平十二年」。ユリウス暦一三五七年。]三月十九日に。南庭へ櫻樹を渡し栽(うう)。殊絕の美花也。號「鎌倉櫻」とあり。按に、稱名寺に在櫻樹なるにや。昔鎌倉勝長壽院永福寺の庭前へ、櫻を多く植られ、右大臣家渡御有て櫻花を賞せられ、和歌を詠じ給ふと、往々見えたり。仍て「鎌倉櫻」と有は是ならん歟(か)。又、按るに、延文の頃迄有(あり)しにや。「鎌倉櫻」と稱せしものは、一樣ならぬ珍花なりし由。勝長壽院などは、將軍家御所より遠からぬゆゑ、正慶の兵燹(へいせん)にて、皆、燒亡して絕たり、といふ。延文の頃の櫻は、古えの※樹にや。

[やぶちゃん注:「※」=〔上〕(くさかんむり)+〔中〕「執」+〔下〕「木」。これは恐らく「しふじゆ」「でふじゆ」と読み、「※」は木が生い茂る形容であろう(「蓻」の字義から類推した)。]

とあるのである。これは文脈に従うなら、延文の頃まで勝長寿院(跡)に残っていたというのは、正にその実朝が花見をした昔、「植えられてその頃までに生い茂っていた」桜で、それこそ正しく本当の「鎌倉桜」であったのであろうか、の意であろうと思われる。「正慶の兵燹」というのは正慶二年が元弘三(一三三三)年で鎌倉幕府の滅亡を指していることを指す。とすると、どうも叙述が前後、おかしいように私は思う。幕府滅亡で焼燼し尽して完全にその桜が「絕」えたのなら、「延文の頃迄有」つたという伝承は嘘ということになるのではなかろうか?――但し、ここは金澤の稱名寺にあったものであるから、或いは、生き延びた可能性は、十分にある。実際に、この同時には近代まで、生き残っていたという事実記載が民間にあるのである。さらに、逆に、もし、この話を極めて善意に希望的にこの伝承を読み解くなら、或いは鎌倉前期、三代将軍実朝の時代に既に日本に(本種は日本原産である)普賢象桜が花見に堪える成木(群)として、あった可能性もあることになるのである。

「ダイモクケンレン(梵語のマハモウドガルヤアヤナ)といふ――普通にはモクレンと短くして用ひる――名は、モクレンとして知られて居るフィクス・ピュミラの普通名」“The name of Dai-Mokukenren (Mahamaudgalyâyana), ―shortened by popular usage into Mokuren, — figures both in the common appellation of the Ficus pumila,”。「Mahamaudgalyâyana」は釈迦仏の十大弟子の一人である目犍連(もくけんれん:これが正式)のサンスクリットのラテン文字転写。小泉八雲が言う通り、一般には略した目連(Maudgalyāyana:モードガリヤーヤナ)で呼ばれることが多い。但し、ここ、うっかり、この「モクレン」を、

✕モクレン亜綱モクレン目モクレン科モクレン亜科モクレン属モクレン Magnolia quinquepeta と勘違いしないように注意しなくてはならない(正直、私の読者の誰彼もそう読み飛ばしておられなかったか?) 

ご覧の通り、学名が異なるでしょう? この「Ficus pumila」というのは、常緑蔓性木本である

〇マンサク亜綱イラクサ目クワ科イチジク属オオイタビ Ficus pumila (漢字表記:大木蓮子・大崖石榴)

を指すのである(東南アジア原産)。
ウィキの「オオイタビの写真をご覧あれ(これ、私は、日本のどこかで見たことがある)。疑う方は、中文の当該種薜荔のウィキを見られよ。「別名」の項に「木蓮」とある。しかし、私は思うのだが、この「木蓮」が大「目連」由来であるという小泉八雲の謂いには、微妙に賛同を留保したくなるのだ。日本語の発音は一致しても、由来が同じとは言えないし、そのような両者を関連づける古文献を私は知らないからである。そのようなものがあるのであれば、是非、お教え願いたい。敢えて言えば、実の形が仏像っぽくはあるのだが。

「ハクモクレン(白い木蓮)と呼んで居る、マグノリア・コンスピキュアの普通名にも用ひられて居る」“and in that of the Magnolia conspicua, usually called Hakumokuren, or "White-Mokuren."”。こちらは正しく

モクレン亜綱モクレン目モクレン科モクレン亜科モクレン属ハクモクレン Magnolia denudata

である。種小名が違うって? 大丈夫! シノニムだ。こちら(英文サイト「The Plant List」)を見られよ。しかし、前注の最後の疑義は解消されない

「プラアマといふ――日本の佛敎では梵天として知られて居る――名は一種の陸稻の名稱に見えて居る。卽ち梵天米(ぼんてんまい)である」“The name of Brahma, — known to Japanese Buddhism as Bonten, — appears in the designation of a kind of upland rice, Bonten-mai.”。梵天は仏教の守護神である天部の一人。もと、古代インドの神「ブラフマー」が仏教に取り入れられたもの。「梵」は「brahma」の音写。「ブラフマー」は古代インドに於いて「万物実存の根源」とされた「ブラフマン」を神格化したもの。「梵天米」については、小学館「日本国語大辞典」に『陸稲(おかぼ)の一種か。野稲(のしね)』として、例文を「和訓栞」(江戸後期(最終完成は作者没(安永五(一七七六)年)から十一年後)の国語辞書。全九十三巻。谷川士清(ことすが)編。安永六(一七七七)年から明治二〇(一八八七)年に刊行された)として『のしね〈略〉又梵天米と名く』とある。現在はないらしい。種(たね)も保存されていないということらしい。不審だ。小泉八雲は明らかにその米を見ているようなのに?

「ボダイダルマ(ボディダルマ)の名は、ダルマサウ(達磨の草)(英語のスワンプ・キヤベデ)の名に保存されて居ると同樣に、ダルマギク(達磨の菊)(學名アステル・スパテュフオーリウム)といふ俗稱に保存されて居る。」ここの原文は“The memory of Bōdai-Daruma (Bôdhidharma) is preserved in the popular appellation of the Aster spatufolium, called Daruma-giku, or " Daruma's chrysanthemum,"— as well as in the name of the swampcabbage, Daruma-sō, or " Daruma's plant."”となっていて、何かちょっと混乱している感じがする。菩提達磨(サンスクリット語のラテン文字転写:bodhidharma:ボーディダルマ)は中国禅宗の開祖とされているインド人仏教僧。所謂、達磨(或いは「達摩」)大師のことである。「ダルマ」はサンスクリット語で「法(カルマ)」を表わす言葉である。「ダルマサウ」は

単子葉植物綱オモダカ亜綱オモダカ目サトイモ科ザゼンソウ属ザゼンソウ Symplocarpus renifolius

のこと。同種は開花時期の発熱時に、悪臭と熱によって、花粉をハエに媒介させる蠅媒花(じょうばいか)である。全草に悪臭があることから、英語では「Skunk Cabbage」(スカンク・キャベッジ(=キャベツ))の異名がある。しかし、原文の「swampcabbage」とは英和辞典では「空芯菜」(ナス目ヒルガオ科属サツマイモ属ヨウサイ(蕹菜:「空心菜」は異名)Ipomoea aquatica )のことだ。だが、これを逐語訳するなら、「沼地のキャベツ」で、湿地に植生するザゼンソウにしっくりくるように見えてくる。学名表記が全然違う理由は、よく分らない。シノニムではない。そもそもが「 Aster 」というのはキク目キク科キク亜科シオン連シオン属 Aster で、ザゼンソウとは全く明後日(アサッテ)である。この学名の問題(但し、これは深刻)を除いて、整理すると、一つ見えてくるのは、

「ダルマギク(達磨の菊)」というのは、ザゼンソウの異名・俗名であるという事実

である。大谷の「同樣に」という訳には誤解を招く可能性があるという点である(別な種にその名を用いているという意味で読めてしまう瑕疵があるという虞れである)。大谷の訳は無理矢理、削ぎ離して、辻褄を合わせたように感じられないでもない気がするということなのである。日本語は難しいですよ、八雲先生。

「學名プリアカンサス・ニフヲニウスといふ魚で、之をダルマダイ(達磨の鯛)と呼んで居り」以下と合わせて原文を示すと、“Two fishes also have been named after this patriarch : the Priacantbus Nipbonius, which is called Daruma-dai, or "Daruma's sea-bream" ; and the Synanceia erosa, popularly known as Darumakasago, —”である(「Priacantbus Nipbonius」の種小名の頭が大文字なのはママ)。でもね! これって!

硬骨魚綱条鰭亜綱刺鰭上目スズキ亜目キントキダイ科クルマダイ属クルマダイ Pristigenys niphonia

でっせ?! 小泉八雲先生!? 「ダルマ」でなくて「クルマ」でっせ? これは達磨どころか仏教とは関係ありまへんがな! 和名由来は単に丸くて車輪のようだから、でんがな いつも同定比定でお世話になっている「ぼうずコンニャクの市場魚貝類図鑑」の、クルマダイをリンクさせておく。

「學名シナンセイア・エロサといふ魚で、之を普通ダルマカサゴと言うて居る」条鰭綱カサゴ目カサゴ亜目オニオコゼ科ダルマオコゼ属ダルマオコゼ Erosa erosa 。これが現行の学名であるが、小泉八雲の「Synanceia erosa」はそのシノニムであるから、問題ない。サイト「Private Aquarium」のダルマオコゼをリンクさせておく。小さいが、背鰭の棘の毒は強く、かなりの危険種である。大の大人が大声出して泣いていたのを、ずうっと昔、見たことがある。

「『カサゴ』は本當は學問の方ではセバスタス・イネルミスと名づけて居る魚の名である」“" kasago" being properly the name of the fish scientifically called sebastes inermis.”。小泉八雲は魚類はあまり得意でないようだ。これは「カサゴ」ではなくカサゴの仲間ではあるが、「カサゴ」とは呼ばない。「メバル」である。

条鰭綱新鰭亜綱棘鰭上目カサゴ目カサゴ亜目フサカサゴ科 Scorpaenidae(又は)メバル科 Sebastidae メバル属メバル(アカメバル)Sebastes inermis

同属の近縁種シロメバル Sebastes cheni 

クロメバル Sebastes ventricosus

の三種の孰れかを指す。これらの三種については、私の「大和本草卷之十三 魚之下 目バル (メバル・シロメバル・クロメバル・ウスメバル)」の私の注を見られたい。

「米の蟲の一種に附けて居る普通名コクウザウである。『虛空藏』といふはかの大菩薩アカサブラティシシタの日本名である」れは全く以って、おかしい。「穀象虫」、即ち、本邦に棲息する種としては

鞘翅(コウチュウ(甲虫))目多食(カブトムシ)亜目ゾウムシ上科オサゾウムシ科 Dryophthoridae オサゾウムシ亜科コクゾウムシ族コクゾウムシ属コクゾウムシ Sitophilus zeamais 及びココクゾウムシ Sitophilus oryzae の二種が代表

となるが、彼らは、小学生でも知っていることで、その特異な形状から「ゾウ」のシミュラクラからきた「穀象」なのであって、私は「虚空蔵」由来では、私は、全くないと認識しているからである。私は滅多に八雲先生には異論を唱えないが、こればかりは、読んでいて、牽強付会と言わざるを得ない気がしているのである。「そうではない。小泉八雲は正しい。」とされる方がいれば、お教え願いたい。

 ボサツ(菩薩)といふ名はまた二三の植物の名に見えて居る。薔薇の一種にボサツイバラ(菩薩の茨)といふのがあり、米の一種にボサツといふのがある。

[やぶちゃん注:バラ亜綱バラ目バラ科バラ亜科バラ属ノイバラ変種サクラバラ Rosa multiflora var. platyphylla の異名である。私が植物サイトとして非常に信頼しているサイト「跡見群芳譜」の「さくらばら(桜茨)」を見られたい。そこに別名として「ボサツイバラ」が挙げられている。しかし、私は漢名の「七姉妹」の方が好きだ。]

 ラカン(梵語のアルハツト)は、いろいろな植物名の接頭字(プリフイツクス)となつて居る。ラカンハク(羅漢柏)は學名スヤ・ドロブラタの普通名である。ラカンシヨウ(羅漢松)は學名ポドカルプス・マクロフイラの普通の稱呼であり、ラカンマキ(羅漢槇。『マキ』は學名ボドカルプス・チネンシスの日本名)は英語のアムブレラ・パインに與へてある名である。それから、その學名を自分は發見出來ない或る木の實が方々の州でラカン(羅漢)と呼ばれて居る。それはその恰好が寺の境內にある羅漢の粗末な石位に妙に能く似て居るからである。

[やぶちゃん注:「ラカン(梵語のアルハツト)」“The term Rakan (Arhat)”。「羅漢」で「阿羅漢」(サンスクリット語ラテン文字転写「arhat」の漢音写)の略称。「應供」(おうぐ)と意訳される。「供養と尊敬を受けるに値する人」の意で、剃髪し、袈裟を着た僧形で像形される。中国・日本では「十六羅漢」・「十八羅漢」・「五百羅漢」のように仏道修行者の集団を指し、禅宗の流通に伴い、多数、制作された。十六羅漢の信仰と羅漢図は唐代に始まり、五代に貫休が、その名手として知られて流布した。本邦では、中国からの将来品や、その転写などの遺品が多く、特に鎌倉時代以降、隆盛した。

「接頭字(プリフイツクス)」“prefix”。接頭辞で、ここは「氏名の前に附ける敬称」を指す。

「ラカンハク(羅漢柏)は學名スヤ・ドロブラタの普通名である」“ Rakan-haku, or " Arhat's oak," is the popular name of the Thuya dolobrata. ”。

マツ門マツ綱マツ目ヒノキ科アスナロ属アスナロ Thujopsis dolabrata

のこと。本邦の漢字表記では「翌檜」が知られるが、現代中国語でも漢名は「羅漢柏」である。

「ラカンシヨウ(羅漢松)は學名ポドカルプス・マクロフイラの普通の稱呼」“ Rakan-shō, or " Arhat's Pine," is the common appellation of the Podocarpus macropbylla; ”。

裸子植物門マツ綱マツ目マキ科マキ属イヌマキ Podocarpus macrophyllus

のシノニム。本邦の漢字表記では「犬槇」であるが、現代中国語でも漢名は「羅漢松」である。

「ラカンマキ(羅漢槇。『マキ』は學名ボドカルプス・チネンシスの日本名)は英語のアムブレラ・パインに與へてある名である」“ and the name Rahan-maki, or " Arhat's maki" ("maki" being the Japanese name for the podocarpus cbinensis) — has been given to the umbrella-pine. ”。

マツ目マキ科マキ属ラカンマキ Podocarpus macrophyllus var. maki

で、学名の相違はシノニムか、後の修整であろう。個人サイト「かのんの樹木図鑑」のこちらがよい。

「その學名を自分は發見出來ない或る木の實が方々の州でラカン(羅漢)と呼ばれて居る。それはその恰好が寺の境内にある羅漢の粗末な石位に妙に能く似て居るからである」私が直ちに想起したのは、ウリ目ウリ科ラカンカ属ラカンカ Siraitia grosvenorii であったが、本種は中国広西省桂林周辺にしか植生しないとされる蔓性植物で、本邦には植生しないから、違う。何だろう? 識者の御教授を乞うものである。]

小泉八雲 「蜻蛉」のその「五」  (大谷正信譯) / 「蜻蛉」~了

 

[やぶちゃん注:本篇については、「蜻蛉」のその「一」の私の冒頭注を参照されたい。]

 

       

 

 蜻蛉を捕ることは幾百年の間、日本の兒童の好きな娯樂となつて居る。時候が暑くなると始つて、秋の大部分の間續く。それに就いての――小さな狩手どもの無思慮を述べた、古い詩が澤山にある。今日も、他の數世紀間と同じに、その追跡の面白さが、兒童を色々な難儀な目に會はす。棘や泥穴や沼を顧みずに――暑さもものともせずに――飯時すら思はずに――土手を轉がり落ちたり、溝へはまつたり、引搔いたり、非常に身體を汚ごしたりする。

 

 飯時も戾り忘れてとんぼつり   樂遊

 

 裸子の蜻蛉釣りけり晝の辻    闌更

 

[やぶちゃん注:「樂遊」不詳。

「闌更」高桑闌更(享保一一(一七二六)年~寛政一〇(一七九八)年)は加賀金沢の商家の生まれ。蕉風の復興に努め、天明の俳諧中興に貢献した。編著「芭蕉翁消息集」「俳諧世説」・句集「半化坊発句集」など。彼は芭蕉の高雅を慕い、粉飾なき平明達意の、「ありのまま」を詠むことを節とした。本句はまさにそのモットーを強く感じさせる写生句として、映像が確かに見える佳品である。]

 

 然し此の遊びに關しての最も有名な句は人を感動せしめる性質のものである。これは加賀の有名な女俳人千代がその小さな子を亡くしてから作りたものである。

 

 とんぼつり今日は何處まで行つたやら

 

 此句は母の感情を言明はせずに、暗示するやうにしたものである。蜻蛉を追ひ走つて居る多勢の子を見て、常にその遊びを一緖にした自分の死んだ子のことを思ひ、――無限無窮の神祕へ出て行つたあの子の靈はどうなつたのか知らと怪しむ。何處へ行つたのであらう。あの世でどんな遊びをして樂しんで居るのであらうか今は。

[やぶちゃん注:加賀千代女(元禄一六(一七〇三)年~安永四(一七七五)年)は加賀の松任(まっとう)の表具屋福増屋六左衛門(一説に六兵衛)の娘。美人の誉れが高かった。五十一歳頃に剃髪して千代尼と呼ばれた。半睡・支考・廬元坊らの教えを受けた。通説では十八歳の頃に金沢藩の足軽福岡弥八に嫁し、一子をもうけたが、夫や子に死別して松任に帰ったとも、結婚しなかったという説もある。としても、小泉八雲の鑑賞はまさに哀切々たるものがある。瞼の(瞼にさえ空ろな)母ローザと自身とを転換して美事である。なお、竹内玄玄一編「俳家奇人談」(文化一三(一八一六)年板行)の「巻下」の「千代女」では、

 蜻蛉釣今日はどこまで行つたやら

の表記で載る。]

 

 蜻蛉は時には網で捕り、時にはその先きへ鳥黐[やぶちゃん注:「とりもち」。]を塗つた竹竿で捕り、時には輕い杖か棒でた〻き落としても捕る。棒切れを使ふ事は、然し、普通善いとはされて居らぬ。蟲の身體に傷がつくからで、不必要に傷める事は、多分死者に緣のあるものと想像されて居るが爲め、不吉な事だと考へられて居るからである。蜻蛉捕りの――主として西部諸國で行はれて居る――頗る有效な方法は、捕つた雌の蜻蛉を囮に使ふ法である。長い糸の一端に雌の尾を結び附け、その糸の他の一端を曲り易い竿の先きへ結びつける。その竿を或る特別な振りやうをして振り𢌞はすと、糸一パイの長さで羽を立てていつも其雌を飛び𢌞はらせて置く事が出來る。すると雄が直ぐと惹き寄せられる。それが雌へつかまるや否や、すぐその竿を輕くしやくると、二匹とも釣手の手中へはいる。雌一匹を囮にして續けさまに八匹十匹の雄を捕るは容易な事である。

[やぶちゃん注:「鳥黐」バラ亜綱ニシキギ目モチノキ科モチノキ属モチノキ Ilex integra や、マンサク亜綱ヤマグルマ目ヤマグルマ科ヤマグルマ属ヤマグルマ Trochodendron aralioides などの樹皮から抽出した粘着性物質。前者から得たものは、白いので「シロモチ」或いは「ホンモチ」、後者からのそれは、赤いので「アカモチ」と呼称する。ウィキの「鳥黐によれば、『鳥がとまる木の枝などに塗っておいて脚がくっついて飛べなくなったところを捕まえたり、黐竿(もちざお)と呼ばれる長い竿の先に塗りつけて獲物を直接くっつけたりする。古くから洋の東西を問わず植物の樹皮や果実などを原料に作られてきた』。『日本においても鳥黐は古くから使われており、もともと日本語で「もち」という言葉は』この「鳥黐」の『ことを指していたが、派生した用法である食品の餅の方が主流になってからは』、「鳥取黐」又は「鳥黐」と『呼ばれるようになったといわれている』とある。]

 この蜻蛉狩をして居る間に子供は蜻蛉を呼ぴ寄せの短い歌を普通歌ふ。そんな歌は隨分にあつて、地方によつて異ふ[やぶちゃん注:「ちがふ」。]。此種類の歌で出雲で歌ふのは、第三世紀に、神功皇后の軍勢が朝鮮を征服したといふ傳說に奇妙にも關係のあるものである。雄の蜻蛉を斯う呼びかけるのである。――

[やぶちゃん注:以下、引用・註(ポイント落ち)は四字下げであるが、完全に上に引き上げた。]

 

『こな、男將高麗(をんじよかうらい)――東(あづま)の女頭(めとう)に――負けて逃げるは――恥ぢや無いかや』

註 此歌は『知られぬ日本の面影』第二卷に引用。

[やぶちゃん注:私の原文附きのオリジナル注の「小泉八雲 落合貞三郎他訳 「知られぬ日本の面影」 第十六章 日本の庭 (一一)」を参照されたい。]

 東京では現今蜻蛉の小獵者は普通次の歌をうたふ。

 

    とんぼ! とんぼ!

        お泊り!

    明日(あした)の市に

    しほから買うて

    ねぶらしよ!

[やぶちゃん注:私は前の唄も、これも、知らないが、秦恒平氏が「梁塵秘抄 信仰と愛欲の歌謡」の一節で、四三八番の歌(以下は『新潮日本古典集成』のそれを参考に、漢字を恣意的に正字化して示した。秦氏の引用とは一部が異なる)、

   *

 ゐよ ゐよ 蜻蛉(とんばう)よ

 堅鹽(かたしほ)參らむ

 さてゐたれ はたらかで

 簾篠(すだれしの)の先に

 馬の尾縒(よ)り合はせて

 かい付けて

 童(わらはべ) 冠者(くわじや)ばらに繰(く)らせて

 遊ばせん

   *

を挙げられ、『蜻蛉に呼びかけている「うた」です。とんぼと塩との縁は、私も知りませんでしたが、「塩買うてねぶらしよ」とか「塩焼いて食わそ」とか、蜻蛉に歌いかける童謡が高知県や兵庫県などに残っているそうです』とあり、『じっとしてろよ蜻蛉。塩をやるからじっとしてろよ、動くなよ。お前を、簾の、あの細い篠竹の先に 馬の尾を糸によって、くくりつけて、子どもたちにくる くる回して遊ばせてやるんだからな』と訳された後、『なんとも無邪気なはなしです』と述べておられる。「塩」が登場するのは、既にこの平安末期頃には「しおからとんぼ」(種としてのシオカラトンボ Orthetrum albistylum speciosum を指していたかどうかは判らぬが)の呼称が存在したことを物語るものかも知れない。

 子供はまた蜻蛉の幼蟲を捕へて面白がる。この幼蟲の普通名は澤山にあるが、東京では通常タイコムシ卽ち太鼓蟲と呼んで居る。水の中でその前足を動かす有樣が人間が太鼓をた〻く折の腕の動かしやうに似て居るからである。

[やぶちゃん注:「タイコムシ」ヤゴ(水蠆)蜻蛉(トンボ)目Odonata の、特に不均翅(トンボ)亜目 Anisoptera に属するトンボ類の幼虫を指す通称俗称。肉食性の水生昆虫として知られる。「ヤゴ」の語源は、成虫であるトンボを表す「ヤンマの子」を略して「ヤゴ」と称された。その別名(異名和名)が「タイコムシ」なのであるが、これは、肉食性の水棲昆虫である正式和名「タイコウチ」、則ち、半翅(カメムシ)目異翅(カメムシ)亜目タイコウチ下目 タイコウチ上科タイコウチ科タイコウチ属タイコウチ Laccotrephes japonensis とは関係がない(脱線だが、正統なタイコウチは別名を「ワラジムシ」とも呼ぶが、これも甲殻亜門軟甲(エビ)綱真軟甲亜綱フクロエビ上目等脚(ワラジムシ)目 Isopoda のワラジムシ類とも無関係である)。ウィキの「ヤゴによれば、『様々な形のものがあるが、共通する特徴としては』、①『下唇が折り畳み式になっており、先端にある鋏状の牙で獲物を捕らえることができる。ヤゴはすべて肉食で、普段は折り畳まれている下唇を瞬時に伸ばすことで、離れた距離から獲物を捕食する。そのスピードと精度は日本国内の水生昆虫の中では屈指であり、狩りのスケールを度外視すれば非常に獰猛な捕食者と言って差し支えない』という点と、②多くは『鰓があり、呼吸のために空気に触れる必要がない(鰓を体内に持つ種類もいる)』という点である。]

 蜻蛉を捕る頗る珍らしい工夫は紀伊の國の子供がやる方法である。長い髮毛を――女の髮毛を――一本貰つ來て、其兩端へ非常に小さな小石をくつつけて、小さな小さなボーラスのやうなものを造る。そして之を空高く投げ上げる。蜻蛉は自分の前をすいと通つて行く此物へ飛びかかつて來る、が、それを摑むが早いか、その髮毛が身體へ倦きついて、小石の重さで地上へ落ちる。蜻蛉をボーラスで捕る此手段を日本外の何處かで用ひて居るかどうか自分は怪しむ。

[やぶちゃん注:「ボーラス」原文“bolas”。“bola”の複数形。ウィキの「ボーラ(武器)によれば、『ボーラ(bola)は、複数のロープの先端に球状のおもりを取り付けた狩猟用アイテム、もしくは投擲武器』で、二個或いは三個の『丸石または金属球またはゴムや木の錘を、革紐やロープや鎖やワイヤーなどで繋ぎ』、三『個の場合は同じ長さの紐で三つ又になるように作る。おもりが石の場合は、皮でくるんで紐を結びつけることもある』。『東南アジアが発祥とされるが、エスキモーや南米パンパス地帯のインディオもダチョウ狩り等の狩猟目的で使用していた。また、スペイン人がヨーロッパから持ち込んだ馬が野馬となって数が増えると』、『それらを狩る際にもに石』三『個のボーラが用いられるようになった他、スペイン人と先住民の子孫で牧畜に従事したガウチョ達は先住民との戦いや』、『内戦の際も武器として使用した』。『イヌイットのボーラは主に野鳥を捕獲することを目的としている。小形動物の狩猟用はケラウイタウティンと呼ばれる』。『南米では』二『つ球のボーラをソマイ』、三『つ球のボーラをアチコと呼んでいる。インカ帝国では遠戦の主力武器だった』。『ボーラに相当する、日本の伝統的な分銅鎖系武器は』「微塵(みじん)」と『呼ばれている。直径』四センチメートル『ほどの中央の輪に、長さ』三十五センチメートル『ほどの』三『本の分銅鎖が付いた、主に忍者が用いた隠し武器(神社に奉納されて、実物・技ともに伝承)で、先端の錘は』二・五センチメートル『程度のものがある。扱い方次第では』、『敵の骨を木っ端微塵に打ち砕く威力をも発揮しうるため、この名が付けられたとされる』とある。これは注なしには意味が解らぬから、これは不親切である。平井呈一氏は『投げなわのようなもの』と意訳されているが、この方が遙かに判りがいい。

 以上で、「蜻蛉」は全篇を終わっている。]

小泉八雲 「蜻蛉」のその「四」  (大谷正信譯)


[やぶちゃん注:本篇については、「蜻蛉」のその「一」の私の冒頭注を参照されたい。]

 

       

 

 前揭の作は多くは舊作家のである。此題目での近代の發句で、それと同じやうな技巧の無い、繪のやうな性質を有つたものは至つて尠い。舊詩人は、繁忙な此の現代には、不可能な忍耐力と生新な好奇心とを以てして、蜻蛉の習慣を眺めて居たやうに思はれる。彼等は蜻蛉のあらゆる習慣や特性に就いて――一度止まらうと選んだ場處はどんな場處でも、續けさまに幾度もそれへ立ち還るその妙な性癖のやうな、そんな事に就いてすら――句を詠んだ。時には彼等はその翅の美はしきを賞めて之を提婆或は佛敎の天使の翼にたぐへ、時には彼等はその飛翔の輕い極みの優美さを――その運動の靈の如くに靜かに輕いことを――讚へ、そして時には彼等はその怒[やぶちゃん注:「いかり」。]の地蜂のやうな樣子を、或はその睇視[やぶちゃん注:「ていし」、ここは「横目(複眼を横に向けて)で見ること」の意。]の化物のやうな妙な樣を嘲弄した。彼等は蜻蛉が、その進行の方向を變じ得る不思議な仕方や、或はトンボガヘリ(蜻蛉がへり)といふ新語を思ひつかせた、突然翅を裏返す妙な仕方を注意して眺めた。その飛行の――眼にはとまらで唯々矢と早き色の針のきらめさとしか見えぬ、――眼くるめく如き早さに、彼等は無常に對する比喩を見出した。が、此の電光の如き飛行は短い距離しか續かぬこと、また蜻蛉は追跡を受けなければ遠く行くことは滅多しないもので、一日中一と處を飛び𢌞ることを好むこと、を彼等は認めた。彼等の或る者は、蜻蛉は日暮れに悉く明かるい方へ群れ飛ぶ事を、また日が地平線へ沈む時には――高みからして消えて行く光耀の最後の一見を得んと望むが如くに――空高く上がること、を句に詠む價値があると考へた。彼等は蜻蛉は花は少しも顧みずして、花の上よりも寧ろ杭か石の上に止まり勝ちなこと、に注目した。また彼等は壁の棧や牛の角にとまつて何が面白いのだらうと怪しんだ。それからまた彼等は杖や石で攻擊される折りの――其危險物から去りもするがまた同樣に屢〻その方へ飛んで來る――その愚鈍さに驚いた。だが彼等は蜘蛛の巢にかかつてのその奮鬪に同情して、網を衝き破るのを見て喜んだ。次記の例は、幾百の作中から選んだのであるが、此の奇異な硏究の廣汎な範圍を暗示する役に立つことと思ふ。

[やぶちゃん注:思うのだが、今に至るまで、ここまで――精緻に心を込めて――近世発句の視線の属性と、蜻蛉の生態を、過不足なく解析した近現代の俳諧評者を知らない。まあ、柴田宵曲がいるが、彼は、どこか、小泉八雲を正当には評価していないことが、彼の言い回しから各所で感ずるので、その辺りはちょっと嫌いだ。彼は生粋の江戸っ子だから(といっても、彼は明治三〇(一八九七)年生まれである)、内心、「毛唐は好かねえ」ということだったのだろうな。なお、私はブログ・カテゴリ「柴田宵曲Ⅰ」と同「Ⅱ」で、半端なく電子化注をしているから、これ位のことは言う権利はあるつもりだ。

「前揭の作は多くは舊作家のである」「三」に載る三十四句中には、訳者である大谷正信(繞石)の句が三句、彼の創った俳句会「碧雲会」絡みの新作句が二句、虚子が一句で、この五句は当時の「現代俳句」である。それ以外にも句柄(用語)から見て当時の、或いは、ごく直近の近代俳句と思しいものが、二、三見受けられるから、四分の一弱ほどは、当時の現代俳人のものと私は考える。本書の執筆時から見て「舊作家」は江戸後期以前でなくてはならぬ。さすれば、これは謂いとして有意に問題がある

「提婆」原文“devas”。提婆達多(だいばだった/デーヴァダッタ/略称:提婆)は釈迦の弟子であったが、後に違背したとされる人物。厳格な生活規則を定め、釈迦仏の仏教から分離した彼の教団は、後世にまで存続した。参照したウィキの「提婆達多」によれば、小乗仏教では、『提婆達多の末路については、自らの所業を後悔して釈迦に謝罪しに行くものの、祇園精舎の入り口にあった蓮池の付近で地面が裂け、地獄から噴き出た火に包まれ』、『提婆達多は「わが骨をもって、いのちをもって、かの最上の人、神の神、人を調御する者、あまねく一切を見る人、百の福相をもつ人、そんな仏に、帰依したてまつる」(ミリンダ王の問いでは『全身全霊をもって、かの最勝の者、神々に超えすぐれた神、調御をうける人の御者、普く見る眼をもつ者、百の善福の特徴をもつ者、そのブッダに、わたしは生命のあらん限り帰依します』)と詩を唱えて、アヴィーチ地獄(無間地獄)に落ちた』(この時、『提婆達多に従っていた』五百『家族の侍者も、一緒に地獄へ落ちた』とする)とあり、地獄から輪廻して、現世の虫である蜻蛉に転生するというのは、すこぶる納得は出来る。なお、続けて、『釈迦は提婆達多が自分の元で出家した場合、一時は地獄に落ちるものの最終的に苦しみから脱すると知り、あえて出家を許したと』もあり、『提婆達多は死ぬ前に前述の詩を述べて釈迦に帰依したため、地獄を脱したのちにアッティサラという「独覚」になると』もあるらしい。また、大乗仏教、則ち、本邦では、『「法華経」提婆達多品第十二で』、『提婆達多は天王如来(devarāja)という名前の仏となるという未来成仏が説かれている。これは、のちの日本仏教、特に鎌倉以後の諸宗に大きな影響を与え、この期以後の禅、念仏、日蓮の各宗は、この悪人の成仏を主張している』。『また、「讃阿弥陀仏偈和讃」(親鸞著)では、「仏説観無量寿経」に登場する阿弥陀如来、観音菩薩、勢至菩薩、ガウタマ・シッダールタ(釈迦如来)、プールナ、マハーマウドガリヤーヤナ、アーナンダ、ビンビサーラ、ヴァイデーヒー、ジーヴァカ、チャンドラプラディーパ、アジャータシャトル、雨行大臣、守門者と共に、デーヴァダッタが浄土教を興起せられた』十五『人の聖者として列せられている』とある。未来仏であるから、その過程に過ぎない現世の蜻蛉であっても、何ら、問題はない。……にしても、今時、提婆達多を口にする市井の仏教徒は、まんず、稀だろうな……

「佛敎の天使」原文“Buddhist angels”。飛天辺りをイメージしていよう。

 以下の七ヶ所ある前書は、底本では、総てポイント落ち。この前書は第一句目のすぐ脇に附されてあるが、これでは、第幾の前書の如く見えててしまうので、後を一行空けてある。なお、今までと同様で、原本には発句・和歌の作者名は、一切、付随しない。訳者大谷正信(繞石)が添えたものである。]

 

   蜻蛉と日光

 

 蜻蛉や日の射す方へ立つて行く (『今人名家發句九百題』ニアリ)

[やぶちゃん注:丸括弧部分は底本では二行ポイント落ち割注。既注だが、分割公開しているので再掲しておくと、「今人(きんじん)名家(めいか)發句九百題」は明治一六(一八八三)年に東京の万笈閣(ばんきゅうかく)刊の過日庵祖郷(そきょう)編・小簑庵碓嶺補校になる類題発句集。但し、先立つ嘉永二(一八四九)年に出版願いが既に出されているから(サイト「ADEACアデック)」の「西尾市岩瀬文庫」の「古典籍書誌データベース」のこちらに拠る)、内容は幕末期のものである。【2025年追記】国立国会図書館デジタルコレクションで原本を視認したところ、「生類之部」の「蜻蛉」のここで、

 蜻蛉や日の射すかたへ起て行 國彥

とあった。「方」は「かた」であり、「はう」ではないことが判る。「國彥」は不詳。

 

 日あたりの土手やひねもすとんぼとぶ 繞石

 

 五六尺己が雲井の蜻蛉かな      蓼太

[やぶちゃん注:大島蓼太(りょうた 享保三(一七一八)年~天明七(一七八七)年)は信濃生まれ。本姓は吉川、名は陽喬、通称は平助、別号に宜来・老鳥・豊来など。雪中庵第二代桜井吏登(りとう)に入門し、延享四(一七四七)年、雪中庵第三代を継いだ。松尾芭蕉所縁の地を吟行した。俳書を多く編集し、門人も三千人を超えた。]

 

 蜻蛉の向きを揃へる西日かな     嵐外

[やぶちゃん注:辻嵐外(つじらんがい 明和七(一七七〇)年~弘化二(一八四五)年)は越前出身。名は利三郎、通称は政輔、別号に六庵・北亭・南無庵。高桑闌更・加藤暁台・五味可都里(かつり)に学んだ。甲府に住んで、多くの門人を育てて「甲斐の山八先生」と呼ばれた。]

 

 蜻蛉や空に離れて暮れかかり     太無

[やぶちゃん注:既出既注。古川太無(たいむ ?~安永三(一七七四)年)。常陸水戸の人。佐久間柳居の門人で、芭蕉資料を模刻した「鹿島詣」や撰集「星なゝくさ」などを著わした。別号に秋瓜・吐花・義斎・松籟庵(二代目)などがある。]

 

 星一つ見るまであそぶとんぼかな   左梁

[やぶちゃん注:中村左梁。号に蝸牛庵。それ以外は、私は、不詳。]

 

 遠山やとんぼつい行きついかへる   秋之坊

[やぶちゃん注:秋之坊(生没年不詳)は金沢の俳人。「奥の細道」で芭蕉が金沢を訪れた折り、現地で入門した金沢蕉門の一人。前田藩の武士であったが、後に武士を捨て、髪を剃って「秋之坊」と称し、蓮昌寺境内に隠棲した。幻住庵滞在中の芭蕉を訪ねた際、芭蕉が見せた句に名品「やがて死ぬけしきは見えず蟬の聲」がある(伊藤洋氏の優れたサイト「芭蕉DB」の「関係人名集」のこちらに拠った)。]

 

 行きあうてどちらもそれるとんぼかな(『俳諧古今六百題』ニアリ)

[やぶちゃん注:丸括弧及び再掲仕儀同前。「俳諧古今六百題」は大津で明一六(一八八三)年に出版された渓斎阿嚢(けいさいあのう)編の恐らくは類題発句集。【2025年追記】国立国会図書館デジタルコレクションで原本を視認したところ、「秋」の「蜻蛉」のここで、

 行あふてとちらもそれる蜻蛉哉 サカミ如〻

とあった。相模の「如々」は不詳。

 

 並ぶかと見えてはそれる蜻蛉かな   貞山

[やぶちゃん注:桐淵貞山(きりぶちていざん 寛文一二(一六七二)年~寛延二(一七四九)年)か。江戸前・中期の俳人で上野の人。本姓は岡田。別号に蘆丸舎・桐淵閣・湖月亭。江戸に住み、松永尺山の江戸遊吟の際に入門した。編著に「江戶名所」「俳諧其傘(はいかいそのからかさ)」「誹諧手挑燈」等がある。]

 

 

   戀の歌にあるもの

 

 かげろふのかげとも我はなりにけり

  あるかなきかの君がなさけに 長延(『鴨川三郞集』)

[やぶちゃん注:下句は六字下にあるが、ブラウザの不具合が生ずるので、総て、引き上げた。丸括弧部分は底本ではポイント落ち。以下同じ。江戸後期の歌人中川長延(なかがわながのぶ 文化元(一八〇四)年~慶応四(一八六八)年)であろう。京の人。本姓は進藤。号は蓼花園。家は代々近衛家の諸大夫(しょだいぶ)を務め、天保三(一八三二)年、宮内少輔となる。香川景樹の門に学び、安政三(一八五六)年には「近世歌人師弟一覧」を刊行している。作品は「青藍集」「秋草集」などにある。

「鴨川三郞集」嘉永四 (一八五一)年板行の長澤伴雄編輯になる類題和歌選歌集「類題鴨川三郎集」。]

 

 覺束な夢かうつ〻かかげろふの

  ほのめくよりもはかなかりしは 讀人不知(『怜野集』)

[やぶちゃん注:「讀人不知」も底本ではポイント落ち。「怜野集」(れいやしふ(れいやしゅう))は江戸後期の歌集。全十二巻。清原雄風編。文化三(一八〇六)年板行。「万葉集」及び勅撰集などから集めた秀歌約一万五千首を「四季」・「恋」・「雑」に類題して収録した選歌集。初学者に広く活用された。「類題怜野集」とも呼ぶ。この一首の出典は未詳。【2025年4月6日削除・追記】調べた結果、これは、「古今和歌六帖」(十世紀の終わり近くの円融・花山・一条天皇の頃の成立か)の「第五 雜思」にある一首であることが判明した(日文研の「和歌データベース」のここの、ガイド・ナンバー「02592」)。]

 

 蜻蛉や身をも焦がさずなきもせず   鳥醉

[やぶちゃん注:発句だが、ここに配されてある。白井鳥酔(ちょうすい 元禄一四(一七〇一)年~明和六(一七六九)年)は江戸中期の俳人。上総国埴生郡地引の旗本知行所の郷代官を務める家に生まれた。本名は喜右衛門信興。享保六(一七二一)年、家督を継ぐが、僅か五年後の享保十一年に弟に家督を譲り、若くして剃髪し、江戸に出た。佐久間柳居(後に句が出る)の門に入り、俳諧に専念した。柳居とともに天明の俳諧復興の魁となった。延享三(一七四六)年及び翌年、信州を訪れ、宝暦年間(一七五一年~一七六四年)には下野国の、松尾芭蕉も訪れた西行の「遊行柳」を訪ねている。明和三(一七六六)年四月には鹿島神宮に芭蕉句碑を建立している。明和五(一七六八)年三月、相模国大磯宿の鴫立庵を再興し、同所に住した。示寂は江戸(以上はウィキの「白井鳥酔」に拠った)。]

 

 

   奇異と美

 

 蜻蛉の顏はおほかた眼玉かな     知足

[やぶちゃん注:下里知足(しもざとちそく 寛永一七(一六四〇)年?~宝永元(一七〇四)年)は江戸前期の俳人。通称は勘兵衛、後に金右衛門。諱は吉親。尾張国鳴海村の庄屋を務める傍ら、井原西鶴や松尾芭蕉ら、多くの俳人・文人と交流した。「鳴海六俳仙」の一人。現存する西鶴の書翰七通のうちの四通は知足に宛てたものである(以上はウィキの「下里知足」に拠った)。伊藤洋氏の「芭蕉DB」の「関係人名集」のこちらには、『鳴海(現在名古屋市緑区鳴海町)の門人。鳴海は東海道の宿場であった。下里』(伊藤氏は「しもさと」と清音で振っている)『知足は、千代倉という屋号の造り酒屋の当主で富豪であった』。芭蕉は、「笈の小文」の『旅の途次』、彼のところに『休息して』おり、『彼に宛てた芭蕉の真蹟書簡』六『通がある。なお、知足自筆の』「知足斎日々記」の延宝八年七月三日の条に、『芭蕉宛に自著』「大柿鳴海桑名名古屋四ツ替り」を『送った記録があり、その自著内の句寄稿者』欄『には』、『松尾桃青の所在について、江戸』の「小田原町 小澤太郎兵衛店、松尾桃青」とする『記述があるので、これがこの時期の芭蕉の動静の貴重な記録となっている』ともあった。私はブログ・カテゴリ「松尾芭蕉」で『「笈の小文」の旅シンクロニティ』を完遂しているが、「笈の小文」の旅では、芭蕉は貞亨四年十月二十五日(新暦一六八七年十一月二十九日)に江戸深川を出立、同年十一月四日に鳴海宿で、この尾張鳴海の古参蕉門であった千代倉屋下里知足邸に泊まっている。また、芭蕉の「笈の小文」の名吟、

 旅人と我名よばれん初しぐれ

があるが、安藤次男は「芭蕉百五十句」に於いて、この句につき、『そのとき旅立の吟を記念に』この知足に『書与えたものらしい』とし、この『前書は芭蕉が、謡曲にまず出てくる旅僧の風体を以て己が行脚の好みとしたことを知らせてくれる興味ある例で』あるとする。前書は、

   *

  神無月(かんなづき)の初、空(そら)

  定めなきけしき、身は風葉(ふうえふ)

  の行末(ゆくすゑ)なき心地(ここち)

  して

   *

である。首肯出来る(以上は私の同句の古い電子化注で注したものである)。]

 

 聲無きを蜻蛉無念に見ゆるかな    可昌

[やぶちゃん注:「可昌」は近江商人西川利右衛門家分家西川庄六家第三代目当主西川庄六(しょうろく 元禄七(一六九四)年~寛政七(一七九五)年)の俳号。庄六家最盛期を築くとともに、俳諧においても多くの秀作を残した人物。近江国蒲生郡八幡(現在の滋賀県近江八幡市)に生まれた。幼名を五郎と称した。父は庄六家の本家に当たる四代目西川利右衛門数常。十六歳の時に二代目西川庄六(通称。利兵衛)の養嗣子となり、享保七(一七四四)年に養父の死去により、家督を継ぎ、三代目西川庄六を名乗り、諱を数久と改めている。祖業である畳表・縁地・蚊帳の他に琉球黒糖を取り扱い、貴重品である砂糖は引く手数多で商いは盛況を極めた。また、実父である四代目利右衛門の支援を得て、江戸日本橋に出店し、西川庄六家の最盛期を築いたとされる。また、原元佃房(げんげんつくだ)の門に入り、多くの秀句を残し、北陸・中国地方の俳人とよく交わり、加賀千代女とも交友があったと伝えられる。出店や商い先への往来に伴い、各地で吟行を行った。当時、近江商人の家庭では、謡曲・和歌・俳諧・囲碁・蹴鞠・浄瑠璃・華道・茶道等を嗜み、家業のために高度な商才が必要とされるとともに、高度な教養も求められたのであった(以上はウィキの「西川庄六(3代)」に拠った)。]

 

 蟬にまけぬ羽衣もちし蜻蛉かな    太無

 

   蜻蛉の輕さ

 

 燕より蜻蛉は物も動かさず      西洋

[やぶちゃん注:「西洋」不詳。]

 

 蜻蛉や鳥の踏まれぬ枝の先      太無

 

   蜻蛉の愚鈍

 

 打つ杖の先にとまりしとんぼかな   康瓢

[やぶちゃん注:「康瓢」不詳。]

 

 立歸る蜻蛉とまる礫かな       鵡白

[やぶちゃん注:「礫」は「つぶて」。「鵡白」不詳。]

 

   蜻蛉と蜘蛛

 

 蜘の巢のあたりに遊ぶ蜻蛉かな    波音

[やぶちゃん注:「波音」不詳。]

 

 さ〻がにの網をはづれてとんぼかな  麥波

[やぶちゃん注:「麥波」不詳。]

 

 蜘垣も破るきほひや鬼とんぼ     雅勇

[やぶちゃん注:「雅勇」不詳。因みに平井呈一氏は恒文社版「トンボ」では、作者を『雅男』とするが、こんな俳号は軽蔑される気がするので、平井氏が、この大谷氏の訳で添えた、この雅号を見誤ったものであろう。【2025年4月6日追記】なお、サイト「光mandara」のRICOH GR III氏の投稿「なぜこうなってしまった?」の応答された投稿者のコメントを紹介されて、『トンボによる蜘蛛の捕食について、次のようなコメントをいただきました』と前置きされ、『「アオヤンマに関しては何度か蜘蛛の巣を襲って蜘蛛の巣を突き破り』、『主の蜘蛛を見事に捉え』、『あっという間に食べてしまうシーンを観察できたことがあります。ネアカヨシヤンマと共に蜘蛛狩りの名手ではありますが、時には失敗して蜘蛛の餌食になってしまうこともあるそうです。一方、同じヤンマの仲間でも有名なギンヤンマやオニヤンマ(厳密にはオニヤンマはオニヤンマの仲間)は、蜘蛛の巣にかかるとあっけなく命を落としてしまうようです。」そして「また、こういった大型のトンボ以外にも蜘蛛を好んで捕食する種類がいます。意外にも』、『ひ弱なイトトンボの仲間です。彼らは飛翔能力が低いため、空中を飛んでいる虫を捕食するのは苦手で、草むらの葉っぱの先などに止まっている蜘蛛を突いて食べているのをよく目にします。」』とあった。ヤンマは、さも、ありなんであるが、まさかイトトンボが蜘蛛を捕食するというのは、驚きだ!

 

   花を顧みぬこと

 

 蜻蛉や花野にも眼は細らせず     柳居

[やぶちゃん注:佐久間柳居(りゅうきょ 貞享三(一六八六)年~延享五(一七四八)年)は江戸中期の幕臣で俳人。名は長利。通称は三郎左衛門、別号に松籟庵・長水・眠柳など。貴志沾洲(せんしゅう)の門に入ったが、江戸座の俳風に飽き足らず、中川宗瑞(そうずい)らと「五色墨」を出した。後、中川乙由(おつゆう)の門下となり、蕉風の復古を志し、松尾芭蕉五十回忌に俳諧集「同光忌」を撰している。]

 

 蜻蛉や花には寄らで石の上      湖上堂

[やぶちゃん注:「湖上堂」不詳。]

 

 蜻蛉や花無き杭に住みならひ     柳居

 

 寢た牛の角にはなれぬやんまかな   花鐘

[やぶちゃん注:「花鐘」不詳。]

 

 杭の先何か味はふとんぼかな     榮木

[やぶちゃん注:「榮木」不詳。]

 

 固よりのこと此等の作品は美的感念に訴ふところ洵に[やぶちゃん注:「まことに」。]僅かである。多くは、珍らしいだけのものである。然し此等は古い日本の精神を幾分了解するに役に立つ。幾世紀の久しき、昆蟲の習慣を觀察し、且つそれに關する斯んな句を作つて悅樂を見出し得た此國民は、人生の單純な快樂を我々より遙か能く理解して居るに相違無い。彼等は我が西洋の大詩人が記述して居るやうには自然の魔力を記述し得なかつた。だが、その悲哀の無い此世の美を感じ、また物事を知りたがる幸福な子供等のやうに、その美を喜び得たのである。

 若し彼等日本人が我々が蜻蛉を見得る如くに見得たならば――若し彼等が寶石のやうな單眼を持つたその小鬼の如き頭や、その驚嘆すべき複眼や、その不思議な口を、顯微鏡の下に眺め得たならば、この動物はどんなにかもつと異常なものに彼等に思へたことであらう!……でも、我々は賢いが爲めに此等奇妙な詩人の作品を彩る自然觀察のあのなまな初心(うぶ)な快樂を得なかつたのであるけれども、此の蟲の眞の驚異に就いては彼等よりもさう大して賢くも無いのである。我々は唯だこの蟲に關する我々の無智の絕大さを一層精確に評價し得るだけである。蜻蛉の複眼には此世界がどんなに見えるものか、それを我々に示して吳れる、彩色版畫のある博物學書を手にすることを我々はいつか希望し得るであらうか。

[やぶちゃん注:「單眼」トンボ類は通常、大きな複眼の間の前方部に、小さな三つの単眼を持っている。

「蜻蛉の複眼には此世界がどんなに見えるものか」現在の最新の研究では、トンボの複眼は、上下左右前後の殆どが見えており(後部の一部が死角となってはいる)、以前に想像されていた以上に、色彩も驚くべき多量に見えるらしい(紫外線も認識出来るのだ)。四十メートル先の対象も見分けることが出来るという。また、昆虫類一般は、時間分解能を発達させており、人間が動く様子などは、ストップモーションのように見えているらしい。海外サイトの動画で、トンボの視覚をヴァーチャル化したというカラー映像を見たが、まさしく、マジ、幻想的なものであった(但し、脳での処理方法が異なるはずだから、鵜呑みにはできなかったが)。]

2019/10/15

小泉八雲 「蜻蛉」のその「二」・「三」  (大谷正信譯)

 

[やぶちゃん注:本篇については、「蜻蛉」のその「一」の私の冒頭注を参照されたい。以下、本「蜻蛉」終りまでの引用される発句、その他の引用は、底本では四字下げであるが、ブラウザの不具合を考え、上に引き上げた。字配も再現していないことをお断りしておく。]

 

 

       

 蜻蛉は異つた種類のが時期を異にして出る。そして殆ど例外無しに、一層美しい種類のが一番後れて出現する。日本の蜻蛉全部を古昔の作家は一々の主要な色に從つて四種類に、――黃、綠(或は靑)、黑(或は濃い色)及び赤に――部類分けをして居る。黃な色合のが一番早く現はれ、綠色の、靑いの、それから黑いのは極暑になつて初めて出で、赤いのが一番後れて出て、去るのも一番後で、秋の末になつてやつと無くなるといふことである。漠然一般的に、如上の叙述は觀察の結果として承認し得らる〻ものである。が然し、蜻蛉は一般には秋の蟲となつて居る。蜻蛉の異名のうちに『秋の蟲』といふ意味の、アキツムシといふ名がある程である。そしてこの稱呼は實際適切である。といふ譯は、人の注意を惹く程に蜻蛉が群を爲して現はれるのは、秋になつてからのことであるからである。が、詩人には、秋の眞の蜻蛉は赤蜻蛉である。

 

 秋の季の赤蜻蛉に定まりぬ   白雄

 

 己が身に秋を染めぬく蜻蛉かな 麥醉

 

 秋の日の染めた色なり赤蜻蛉  桂秋

 

[やぶちゃん注:原本では作者名は載らない。俳人でもあった訳者大谷氏のサーヴィスである(以下、同じ)。

「白雄」加舎白雄(かやしらお 元文三(一七三八)年~寛政三(一七九一)年)は信濃国上田藩江戸詰藩士の次男として江戸深川に生まれた。諱を吉春或いは競、通称を五郎吉、別号に昨鳥・春秋庵・白尾坊・露柱庵など。父の祖母方の姓をとって「平田忠次郎」と名乗ったこともある。 与謝蕪村・大島蓼太などとともに「中興五傑」及び「天明の六俳客」の一人とされる。かの第五代「鴫立庵」庵主。明和二(一七六五)年に松露庵烏明及びその師白井鳥酔に師事した。安永四(一七七五)年、鳥酔の七回忌に松露門を破門されると、江戸を去って自身の門人を引き連れ、諸国を行脚した。安永九年、江戸日本橋鉄砲町に「春秋庵」を開いて自立し、関東に一大勢力を築き、建部巣兆・倉田葛三らの門人を育成した(ここはウィキの「加舎白雄」に拠った)。句は諸データを見ると、

 秋の季の赤とんぼうに定りぬ

の表記が正しいようである。

「麥醉」岡田麦酔。詳細事蹟不詳。

「桂秋」不詳。]

 或る日本詩人が『春は眼の季節で、秋は耳の季節である』と言うて居る。いふ心は、春は樹々の花や朝霞の魔力が眼を樂ましめ[やぶちゃん注:「たのしましめ」。]、秋は耳が無數の蟲の音樂に魅せられる、といふのである。が、此詩人は進んで、秋の此快樂は憂愁を帶びて居ると言ふ。その哀れ氣な聲は消えし幾年の、また消えし幾多の顏の、記憶を喚起し、斯くて佛敎思想に無常の敎理を思はせる。春は約束と希望との時期であり、秋は懷舊と哀惜との時である。そしてまた、秋の特殊な蟲が卽ち音を立てぬ蜻蛉が出て來る事は――聲の季節に聲無きものが出て來ることは――變化の姿を一層無氣味にするばかりである。到る處に微小な稻妻の聲無きひらめきが――地面の上を、はてし無き妖術を織り編むが如くに、絕えず交錯する色のきらめきが――見られる、斯く古の一詩人は述べて居る。

 

 くれなゐのかげろふ走る蜻蛉かな 吳莚

 

[やぶちゃん注:「或る日本詩人が……」私は不学にしてこれが誰の如何なる書に出るか知らない。識者の御教授を乞う。

「秋の此快樂は憂愁を帶びて居る」これは「淮南子」に「春女悲、秋士哀而知物化」(春、女(ぢよ)は悲しみ、秋、士は哀(かな)しみ、而して「物化」を知る)に淵源の一つを求められる古い東洋の精神感懐である。「物化」は、道家思想に於いては「万物の変化などというものは、実際には本質の絶対的な変化などは存在せず、見かけ上の下らない物の変化現象があるだけのことであること」を示す。

「吳莚」不詳。この句は赤蜻蛉の目眩めく群飛を陽炎(かげろう)に譬えたものであろう。]

 

 

       

 十世紀以上の間、日本人は蜻蛉の詩を作つて居る。そして此題目は今日の靑年詩人にも依然好かれて居るものである。蜻蛉を詠んだもので現存して居る一番古い歌は、千四百四十年前、雄略天皇がお作りになつたものだと言はれて居る。或る日天皇が狩獵をされて居た時、と舊記にあるが、一匹の虻が來て御腕を咋つた[やぶちゃん注:「くつた」。咬んだ。]。すると其處へ蜻蛉が一匹其虻へ飛びかかつて來て、それを咋つてしまつた。そこで天皇は大臣達にその蜻蛉を讚めた歌を作れと命じ給うた。だが皆がどうやつていいか躊躇して居るので、自ら其蜻蛉を稱へた[やぶちゃん注:「たたへた」。]歌をお作りになつた。其御歌の結末は斯うである。

 

 波賦武志謀(はふむしも)、飫裒枳瀰儞(おほきみに)、磨都羅符(まつらふ)

 儺我柯陀播於柯武(ながかたはおかむ)、婀岐豆斯麻野麻登(あきつしまやまと)

 

 そして、その忠義な蜻蛉の爲めに、此事のおりた處は、アキツノ卽ち「蜻蛉の野」と名づけられて居る。

[やぶちゃん注:以上は、「日本書紀」の雄略天皇四年(機械換算四六〇年)の以下、

   *

秋八月辛卯朔戊申、行幸吉野宮。庚戌、幸于河上小野。命虞人駈獸、欲躬射而待、虻疾飛來、噆天皇臂、於是、蜻蛉忽然飛來、囓虻將去。天皇嘉厥有心、詔群臣曰「爲朕、讚蜻蛉歌賦之。」。群臣莫能敢賦者、天皇乃口號曰、

野麼等能 嗚武羅能陀該儞 之々符須登 拕例柯 舉能居登 飫裒磨陛儞麻嗚須【一本、以飫裒磨陛儞麼鳴須、易飫裒枳彌儞麻嗚須。】 飫裒枳瀰簸 賊據嗚枳舸斯題 柁磨々枳能 阿娯羅儞陀々伺【一本、以陀々伺、易伊麻伺也。】 施都魔枳能 阿娯羅儞陀々伺 斯々魔都登 倭我伊麻西麼 佐謂麻都登 倭我陀々西麼 陀倶符羅爾 阿武柯枳都枳 曾能阿武嗚 婀枳豆波野俱譬 波賦武志謀 飫裒枳瀰儞磨都羅符 儺我柯陀播 於柯武 婀岐豆斯麻野麻登【一本、以婆賦武志謀以下、易「舸矩能御等 儺儞於婆武登 蘇羅瀰豆 野磨等能矩儞嗚 婀岐豆斯麻登以符」。】

因讚蜻蛉、名此地爲蜻蛉野。

   *

歌の訓読部をサイト「J-TEXTS 日本文学電子図書館」の国史大系版から引く。

   *

やまとの をむらのたけに ししふすと たれかこのこと おほまへにまをす【あるふみに、「おほまへにまをす」をもちて「おほきみにまをす」にかふ。】 おほきみは そこをきかして たままきの あぐらにたたし【あるふみに、「たたし」をもちて「いまし」にかふ。】 しつまきの あぐらにたたし ししまつと わがいませば さゐまつと わがたたせば たくぶらに あむかきつき そのあむを あきづはやくひ はふむしも おほきみにまつらふ ながかたはおかむ あきづしまやまと【あるふみに、「はふむしも」よりしもをもちて「かくのごと なにおはむと そらみつ やまとのくにを あきづしまといふ」にかふ。】

   *

歌は、擅恣企画(センシキカク)運営・上田恣氏管理のサイト「日本神話・神社まとめ」の「トンボが虻を食べて飛び去る歌」にある漢字かな混じり文を参考にし(別本異形の割注は五月蠅いので除去した)、前後の文は平井呈一氏の恒文社版訳(「トンボ」)の訳注等を参考にして自然流で訓読した。

   *

 

 秋八月辛卯(かのとう))朔(つひたち)戊申(つちのえさる)[やぶちゃん注:十八日。]、吉野宮に行幸(みゆきまし)す。庚戌(かのえいぬ)[やぶちゃん注:二十日。]、河上小野(かはかみのをぬ)に幸(いでま)す。虞人(かりうど)に命(おほ)せて獸(しし)を駈(か)らしめ、躬(みづか)ら射むと欲して待ちたまふに、虻(あむ)、疾(と)く飛び來たりて、天皇(すめらみこと)の臂(ただむき)を噆(く)ふ。是(ここ)に於いて、蜻蛉(あきづ)、忽然(たちまち)に飛び來たりて、虻を囓(く)ひて將(も)て去(い)ぬ。天皇、厥(そ)の心有るをことを嘉(よろこ)びたまひて、群臣(まへつぎみたち)に詔(みことの)りして曰(のたま)はく、

「朕(あ)が爲めに、蜻蛉(あきつ)の讚(ほ)め歌、賦(よ)みせよ。」

 群臣、能く敢へて賦(よ)む者莫し。天皇、乃(すなは)ち、口づから號(うた)はれて曰はく、

倭(やまと)の 峰群(おむら)の嶽(たけ)に 猪鹿(しし)伏すと 誰(たれ)か このこと 大前に奏(まを)す 大君は そこを聞かして 玉纏(たままき)の 胡床(あぐら)に立たし 倭文纏(しづまき)の 胡床に立たし 猪鹿待つと 我がいませば さ猪(ゐ)待つと 我が立たたせば 手腓(たくふら)に 虻(あむ)かきつき その虻を 蜻蛉(あきづ)早(はや)咋(く)ひ 這ふ蟲も 大君(おほきみ)に順(まつら)ふ 汝(な)が形(かた)は 置かむ 蜻蛉嶋倭(あきづしまやまと)

 因りて蜻蛉(あきづ)を讚(ほ)めて、此の地(ところ)を名づけて「蜻蛉野(あきづの)」と爲さしむ。

   *

同サイトには全現代語訳が載るが、その内、以上の歌部分の訳のみを引用させて戴く(同じく合成した)。

   *

大和の峰が連なった嶽に猪や鹿がいる。誰がこのことを大前に申し上げたのか? 大君はそれを聞いて、綺麗な玉で飾った胡床(アゴラ=椅子)に立ち……日本に昔からある「シツ」という綺麗な布を貼った胡床(アゴラ=椅子)に立って、猪や鹿を待っている。私が座って猪を待っている。私が立っていると、手に虻が噛み付いて、その虻を蜻蛉がサっと食べてしまう。昆虫までもが大君に従う。お前の形を名前に置こうではないか。蜻蛉嶋倭(アキヅシマヤマト)と名付けよう。

   *

また、ウィキの「トンボ」の「呼称」によれば、「古事記」には、『雄略天皇の腕にたかったアブを食い殺したトンボのエピソードがあり、やはり「倭の国を蜻蛉島(あきつしま)と」呼んだとしている』として以下の歌を載せる(連続させ、漢字の一部を正字化し、読みも独自に歴史的仮名遣で振った)。

   *

み吉野の 袁牟漏(をむろ)が岳に 猪鹿(しし)伏すと 誰(たれ)ぞ 大前(おほまへ)に奏(まを)す やすみしし 我が大君の 猪鹿(しし)待つと 吳座(あぐら)にいまし 白栲(しろたへ)の 衣手(そて)着そなふ 手腓(たこむら)に 虻(あむ)かきつき その虻を 蜻蛉(あきづ)早(はや)咋(く)ひ かくの如(ごと) 名に負はむと そらみつ 倭(やまと)の國を 蜻蛉島(あきづしま)とふ

   *

「手腓」は腕の内側の肉の脹れている部分のこと。]

 

 雄略天皇が物せられたといふ歌は、ナガウタ卽ち長歌[やぶちゃん注:「ちやうか」。]といふ形式で書かれて居る。が、近時の蜻蛉の歌は大半もつと短い形式で書かれて居る。短い形式には三通りあつて、三十一綴音から或る古來の短歌、二十六綴音の通俗な都々逸[やぶちゃん注:「どどいつ」。]、それからたつた十七綴音の發句である。蜻蛉の詩の大多數は發句である。此題目を都々逸で詠んだ詩は殆ど無い。そして――言ふも不思議であるが!――古典的な短歌で詠んだものは實際頗る尠い[やぶちゃん注:「すくない」。]。此の一文に引用して居る詩歌全體並びになほ幾百首の詩歌を自分の爲めに蒐めた友人は、蜻蛉の短歌一首を見つけ了ほせる[やぶちゃん注:「おほせる」。]までに、帝國國書館で三十一字詩の書を五十二卷讀んだと言うて居る。そして、なほ一層進んで穿鑿をした後、到頭その友人は短歌でのそんな詩をやつと十二ばかり發見し得たのであつた。

[やぶちゃん注:「綴音」「ていおん」或いは「てつおん」と読み、「二つ以上の単音が結合して生じた音」を指す。

「都々逸」は俗曲の一種。最も代表的な座敷歌で、典型的な近世歌謡調であり、七・七・七・五の型を持つ。十八世紀末に名古屋の熱田で流行した「潮来(いたこ)節」に由来する。天保年間(一八三一年~一八四五年)に都々逸坊扇歌が江戸の寄席で新しい曲風で歌って以来、普及した。言わずもがな、発句の成立より、ずっと後である。]

 此の理由は、詩の上の古來の囚襲に求めねばならぬのである。日本の三十一字詩は幾百年間決定されて居る法則に從つて作られる。詩に取扱ふ殆どあらゆる題目は、四季のどれか一つに幾分の關係を持して考察すべき事を、此の法則が要求して居る。そして是は或る一定の分類法に――繪畫にも詩歌にも認許されて居る、長い間確定されて居る取り合はせの因襲に――從つて爲されなければならぬ。例へば、黃鳥[やぶちゃん注:「うぐひす」。]は梅と一緖にして述べるか描くかする。雀は竹と一緖に、時鳥[やぶちゃん注:「ほととぎす」。]は月と一緖に、蛙は雨と、蝶は花と、蝙蝠は柳と、といつた譯(わけ)である。日本の子供はどんな子供でも、こんな規則に就いて少しは心得て居る。さて、蜻蛉に就いては、どうしたもりか、そんな規則が短歌では明白に決定されて居らぬ。尤も繪では、或は手桶の緣に止まつて居たり、或は熟した稻の穗に止まつて居り、して居るのを屢〻見るが。その上また、詩歌の題目の分類の上に於て、蜻蛉はムシ(蟲――蟲としいへば[やぶちゃん注:「し」は強意の間投助詞(副助詞)。]、詩人は何か啼く蟲を意味することに殆どいつもなつて居るのである)の中に入れては無くて、雜の中に入れてある。雜といふのは非常に廣い意義の語で――馬、猫、犬、猿、鳥、雀、龜、蛇、蛙等、要するに殆どあらゆる動物を包含して居るのである。

 蜻蛉の短歌の稀なことは斯く說明され得るのである。然し何が故に都々逸では蜻蛉が殆ど無視されて居るのであらうか。この詩形は通例戀の題目にのみ用ひられて居る、といふ理由からなのであらう。聲を立てぬ蜻蛉は、戀愛詩人には啼く聲が――殊にその啼き聲が或る夜の逢引の記憶に殘つて居る所の夜の蟋蟀が――鼓吹するやうな、あんな空想を思ひ浮かばしめ得ないからであらう。自分が蒐めて貰つた幾百の蜻蛉の時のうちで、直接或は間接に、戀の題に關係して居るのは七つしか無い。しかもその七つのうちに二十六字詩のものは唯だの一つも無いのである。

[やぶちゃん注:「都々逸」「は通例戀の題目にのみ用ひられて居る」都々逸は別名を「情歌(じょうか)」とも呼び、この属性は、成立の初期に於いて特に遊廓で流行したことが関係している。]

 然しホックといふ――十七字音に限られた――形式では、蜻蛉の詩は初秋の蜻蛉そのものの如くに殆ど無數である。といふのは、此の詩格では、旨意[やぶちゃん注:「しい」。主旨。意図。考え。趣き。]にも方法にも、作者に殆ど何等の拘束が置かれて居らぬ。發句に就いての殆ど唯一の規則は――それも決して嚴格なものでは無いが――句は一つの小さな言葉での繪でなければならぬといふこと、――見たり感じたりしたものの記憶を復活すべきものでなければならぬこと――感覺の或る經驗に訴へるものでなければならぬこと、である。自分がこれから引用する發句の大多數は、確に此要求を充たして居る。讀者は、それが眞の繪である――浮世繪派の手法の小さな色彩畫である――事を知らる〻であらう。實際次記の俳句の殆どいづれもが、日本の畫伯が二た筆[やぶちゃん注:「ふたふで」。]三筆使へば面白い繪になり得るものである。

[やぶちゃん注:以下の前書は底本ではポイント落ち。]

 

   蜻蛉に關した繪畫詩

 

 稻の穗の蜻蛉とまり垂れにけり  繞石

[やぶちゃん注:「繞石」は「ぎやうせき(ぎょうせき)」(或いは「じょうせき」とも読んだ。孰れも現代仮名遣で示した)で、これは実は英文学者で本篇の訳者たる大谷正信の俳人としての俳号である。「蜻蛉」は原文“Tombō”で「とんぼう」である。以下、音数律とご自身の趣味に合わせて、各自、好みで、適宜、「とんぼう」「とんぼ」に読み換えられたい。]

 

 蜻蛉の枝についたり忘れ鍬    素麿

[やぶちゃん注:下野の烏山藩第五代藩主大久保忠成(ただしげ 明和三(一七六六)年~嘉永四(一八五一)年)は文人大名で、書画をよくし、発句もものし、「素麿(丸)」と号したが、彼か。三点対象を配した、なかなかの佳句と私は思う。]

 

 蜻蛉の嗅いで行きけりすて草鞋  許白

[やぶちゃん注:「許白」不詳。]

 

 袖につく墨か尾花にかねとんぼ (『懷子』所載)

[やぶちゃん注:「懷子」(ふところご)は江戸初期の、京の裕福な撰糸商人で俳人であった松江重頼(しげより 慶長七(一六〇二)年~延宝八(一六八〇)年)が万治三(一六六〇)年に板行した俳諧撰集で、古歌の一部を取り入れて詠んだ句などを集めてある。国立国会図書館デジタルコレクションの原本画像を視認したところ、巻十の「秌」(あき:秋)の「蜻蛉」の部立てのこちら(右端)に、作者を「法元」(「法」は判読の自信がない)として、

 袖につく墨か尾花にかね蜻蛉

と出るのを探し当てた。「かね蜻蛉」は恐らく「一」の「十八」の「カネツケトンボ」で、そこで私はハグロトンボ Calopteryx atrata の異名で採った。同種の色といい、本句柄にも、よく合う。

 

 日は斜め關屋の槍に蜻蛉かな   蕪村

[やぶちゃん注:岩波文庫刊の尾形仂(つとむ)校注「蕪村句集」に、

 日は斜(ななめ)關屋の鎗(やり)にとんぼかな

の表記で載り、創作年月を安永六(一七七七)年七~八月とする。]

 

 蜻蛉の草に倦んでや牛の角    太無

[やぶちゃん注:古川太無(たいむ ?~安永三(一七七四)年)。常陸水戸の人。佐久間柳居の門人で、芭蕉資料を模刻した「鹿島詣」や撰集「星なゝくさ」などを著わした。別号に秋瓜・吐花・義斎・松籟庵(二代目)などがあり、ネット上のある資料では彼を「太蕪」と記している。]

 

 垣竹の一本長き蜻蛉哉      芦雀

[やぶちゃん注:「芦雀」不詳。]

 

 垣竹と蜻蛉と映る障子かな   (碧雲會廣募句中のもの)

[やぶちゃん注:丸括弧部分は底本では二行ポイント落ち割注。

「碧雲會」正岡子規の直弟子であった訳者大谷正信(繞石)は、東京帝国大学英文学科卒業後の二十二歳の明治三〇(一八九七)年に松江に帰省するや、出雲俳壇の中心的な俳人であった奈倉梧月に勧めて、全国で五番目の俳句会である『碧雲會』を発足させている。]

 

 釣鐘に一時休む蜻蛉かな     梅路

[やぶちゃん注:「梅路」中森梅路(?~延享四(一七四七) 年)。思文閣「美術人名辞典」に、『俳人。神風館五世。乙由に学び』、『会北に次いで神風館五世を継ぐ。魚商を営んでいたが』、『文雅の才あり、伊勢音頭の作者として知られる。延享』三(一七四六)年に、『凉袋』(りょうたい:江戸中期の国学者・読本作者・俳人・絵師として有名な建部綾足(たけべあやたり 享保四(一七一九)年~安永三(一七七四)年)の俳号。本姓は喜多村、名は久域、通称は金五。江戸で生まれて弘前で育ったが、二十四歳以後は江戸を本拠地として諸国を遊歴、国学では賀茂真淵に師事した。また、読本の先駆的作品「本朝水滸傳」「西山物語(にしやまものがたり)」を著わし、絵は長崎で学び、初期の南画の鼓吹者の一人となった。多くの紀行文を著すなど、多方面に活躍した)『は伊勢に梅路を尋ねて入門して以来、伊勢風に傾倒し、又崇敬した事は「俳仙窟」でうかがわれる。著書に』「南仙錄」があるとある。]

 

 尾を以て鐘に向へる蜻蛉かな   來川

[やぶちゃん注:「來川」不詳。撞木を擬えたが、ちょっと態(わざ)とらしい作為を感ずる。]

 

 なき人のしるしの竹に蜻蛉かな  几董

[やぶちゃん注:高井几董(きとう 寛保元(一七四一)年~寛政元(一七八九)年)は与謝蕪村の高弟。京都生まれ。別号に塩山亭・高子舎・春夜楼・晋明など。父几圭に学び、明和七(一七七〇)年、蕪村に入門、師風に忠実で、蕪村派の殆んどの撰集を編集し、蕉門の榎本其角に私淑し、大島蓼太・久村暁台らと親交を結んだ。蕪村没後、三代目夜半亭を継いだ。切れがないが、蜻蛉に霊を感じた古来の日本人や小泉八雲らには、しみじみとくるであろう一句である。]

 

 往つては來て蜻蛉絕えず船の網  太巢

[やぶちゃん注:「太巢」不詳。個人的には、映像が誰にも想起される、好ましい一句である。【2026年1月10日追記】Facebookで知り合いになった方(女性)から、昨日、この人物についての見解に就いての御意見を頂戴した。それにお答えするために、未明から、いろいろ調べた結果、一つ、これが、高井几菫の別号である、とする、記事を一つだけ見出した。国立国会図書館デジタルコレクションの「さへづり」(沼波瓊音著・南江堂書店・一九〇五年刊)のここである。そこで、この句を、沼波は、句の前に『几董の句』とし、『イッテワ來て蜻蛉絕えず舟の綱』を出し、小泉八雲の英訳を出し(以下では「Internet archive」の原本の右ページ(101ページ)の当該部(上から六行目)をもとに、その表記通りの音写部分をも添えて以下に示しておく)、

   *

Itté wa kité

Tombŭō taëzu 

     Funé no tsuna.

   About the ropes of the ship the dragon-flies cease not to come and go.

   *

その後に、『太巢の句』として、『往きてはこヽではイテワと訓むべきである。イッテワとしてあるのは誤である。)』と添えているのである。従って、沼波は「太巢」は「几董」の別号としているのである。しかし、私は、沼波が俳人ではなく、歌人であること、また、私の嫌いな強烈な国粋主義者であったことから(私の祖母は『潮音』の歌人でしたので、厭でもよく読まされたものだった)、信頼を、今一つ、持てないのである。私は、本未明、ネット及び国立国会図書館デジタルコレクションで、多様なフレーズを用いて近現代の俳諧書を調べたが、「太巢」を「几董」とする資料を見出すことは出来なかった。されば、『私には「不詳」とせざるを得ないのです。』とその方にはお答えしておいた。☆識者の方で、「太巢」が「几董」の別号であること、この句を「几董」=「太巢」であることを証明する信頼出来る書籍記載を御存知の方は、お教え下さることを切に願うものである。

 

 蜻蛉や舟は流れて止まらず    靑扇

[やぶちゃん注:「止まらず」「とどまらず」。焦点がどっちつかずなところを敢えて狙ったのであろうが、映像が見えてこない憾みがある。「靑扇」は不詳。]

 

 蜻蛉や帆柱當てに遠く行く    梅室

[やぶちゃん注:桜井梅室(ばいしつ 明和六(一七六九)年~嘉永五(一八五二)年)。江戸後期の俳人。名は能充(よしあつ)。別号は素蕊(信)・方円斎・陸々など。金沢生まれで、刀研師として加賀藩に仕えた。父について幼時より俳諧に親しみ、十六歳の頃、高桑闌更の門に入り、後、師から槐庵(かいあん)の号を与えられている。致仕後、京に出て、俳諧に励み、天保五(一八三四)年頃までの十余年間は招きを受けて江戸に住んだが、再び京に戻って定住、風交を広め、貴顕と交わって、嘉永四(一八五一)年には、二条家から「花の下(もと)宗匠」の称号を贈られている。]

 

 蜻蛉や日の影出來て波の上   (『今人名家發句九百題』ニアリ)

[やぶちゃん注:丸括弧は同前。「今人(きんじん)名家(めいか)發句九百題」は、明治一六(一八八三)年に東京の万笈閣(ばんきゅうかく)刊の過日庵祖郷(そきょう)編・小簑庵碓嶺補校になる類題発句集。但し、先立つ嘉永二(一八四九)年に出版願いが既に出されているから(サイト「ADEACアデック)」の「西尾市岩瀬文庫」の「古典籍書誌データベース」のこちらに拠る)、内容は幕末期のものである。]

 

 綿とりの笠や蜻蛉の一つづつ   也有

[やぶちゃん注:横井也有(よこいやゆう(歴史的仮名遣「よこゐやいう」):元禄一五(一七〇二)年~天明三(一七八三)年)は江戸中期の俳人。私の『小泉八雲 蟬 (大谷正信訳) 全四章~その「二」』の注を参照されたい。也有らしい動きのある一幅の絵である。]

 

 流れ行く泡に夢見る蜻蛉かな   仙溪

[やぶちゃん注:「仙溪」不詳。]

 

 浮草の花にあそぶや赤とんぼ   雨柳

 

 蜻蛉の一としほ赤し淵の上   (『俳諧古今六百題』ニアリ)

[やぶちゃん注:丸括弧同前。「俳諧古今六百題」は、大津で、明治一六(一八八三)年に出版された渓斎阿嚢(けいさいあのう:事績不詳)編の類題発句集。【2025年4月6日追記】国立国会図書館デジタルコレクションで原本が視認出来るので探してみたところ、「秋」の「蜻蛉」のここ(第一句)に、

 とんほう乃一入赤し渕のうへ イセ一 幽

の表記で、あった。「一幽」は不詳だが、作者の号は判った。

 

 釣り下手の竿に來て寢る蜻蛉かな 也有

[やぶちゃん注:悪くない諧謔句である。俳画を添えたくなる。]

 

 蜻蛉の葉裏に淋し秋時雨     白圖

[やぶちゃん注:「白圖」「はくと」であろうが、不詳。]

 

 蜻蛉の十ばかりつく枯枝かな   士朗

[やぶちゃん注:加藤暁台門下で名古屋の俳壇を主導した井上士朗(寛保二(一七四二)年~文化九(一八一二)年)。枯れ枝に葉や花が咲いたような切り取りが上手い。]

 

 よそごとの鳴子に逃げる蜻蛉かな 民花

[やぶちゃん注:「民花」不詳。]

 

 靑空や蚊ほど群れとぶ赤蜻蛉   繞石

 

 古墓や赤とんぼ飛ぶ枯樒    (碧雲會廣募句中ノモノ)

[やぶちゃん注:丸括弧同前。「枯樒」は「かれしきみ」。常緑木本のマツブサ科シキミ属シキミ Illicium anisatum 。仏前に供えることで知られる。ウィキの「シキミ」によれば、その由来は、『空海が青蓮華の代用として密教の修法に使った。青蓮花は天竺の無熱池にあるとされ、その花に似ているので仏前の供養用に使われた』というが、『なにより』、『年中』、『継続して美しく、手に入れやすい』ことから、『日本では』民俗社会で『古来より』、『この枝葉を仏前墓前に供えている』とある。なお、本種は、その全植物体が危険な有毒植物でもあることはあまり知られていない。リンク先を見られたい。]

 

 淋しさをとんぼ飛ぶなり墓の上  繞石

 

 蜻蛉飛んで事無き村の日午なり  虛子

 

 タづく日薄きとんぼの羽影かな  花朗

[やぶちゃん注:「花朗」不詳。]

 

 蜻蛉の壁をか〻ゆる西日かな   沾荷

[やぶちゃん注:「沾荷」(せんか)。「續猿蓑」や芭蕉との歌仙などに見られ、恐らくは、宗因門下で傑出し、芭蕉とも親しかった内藤露沾の弟子であろう。]

 

 蜻蛉とる入日に鷄の眼付かな   成美

[やぶちゃん注:夏目成美(寛延二(一七四九)年~文化一三(一八一七)は江戸中・後期の俳人。名は包嘉、通称は井筒屋八郎右衛門(第五代)。別号に随斎・不随斎など。江戸蔵前の札差井筒屋に生まれ、十六歳で家督を継いだ。父に学び、俳諧独行の旅人と称し、特定の派に属さなかった。加舎白雄・加藤暁台らと親交を結び、小林一茶を援助したことでも知られる。]

 

 蜻蛉の舞ふや入日の一世界    倚菊

[やぶちゃん注:「倚菊」不詳。]

 

 生壁に夕日射すなら赤とんぼ  芦帆

 

註 これは小さな色彩習作である。塗りたての壁の色は暖かい灰色と想はれて居る。

[やぶちゃん注:註は底本ではポイント落ち。「芦帆」不詳。]

 

 出る月と入る日の間や赤とんぼ  二丘

[やぶちゃん注:出羽最上漆山の大地主であった半沢久次郎二丘(?~安政三(一八五六)年)か。]

 

 タ影や流れにひたすとんぼの尾  如泊

[やぶちゃん注:「如泊」不詳。]

2019/10/14

小泉八雲 作品集「日本雜錄」 / 民間傳說拾遺 / 「蜻蛉」(大谷正信譯)の「一」

 

[やぶちゃん注:本篇(原題“ Dragon-flies ”。「蜻蛉(とんぼ)」)は一九〇一(明治三四)年十月にボストンの「リトル・ブラウン社」(LITTLE,BROWN AND COMPANY)から出版された作品集“ A JAPANESE MISCELLANY ”(「日本雑記」。来日後の第八作品集)の冒頭パート「奇談」(全六話)の次のパート“ Folklore Gleanings ”(「民俗伝承拾遺集」)全三篇の最初に配されたものである。本作品集は“Internet Archive”のこちら(出版社及びクレジットの入ったページを示した)で全篇視認できる(本篇はここから)。活字化されたものは、整序されたものは見当たらない(今まで紹介していないが、同前の“Internet Archive”にはフル・テクスト・ヴァージョンはあるにはあるのであるが、OCRによる読み込みで、誤まりが甚だ多く、美しくなく、読み難く、味気ないのである)。

 底本は英文サイト“Internet Archive”のこちらにある、第一書房が昭和一一(一九三六)年十一月に刊行した「家庭版小泉八雲全集」(全十二巻)の第七巻の画像データをPDFで落として視認した【2025年4月5日:底本変更・正字化不全・ミスタイプ・オリジナル注全補正】時間を経て、国立国会図書館デジタルコレクションに本登録し、現行では、以上の第一書房版昭和一一(一九三六)年十一月に刊行した「家庭版小泉八雲全集」(全十二巻)の第七巻が、国立国会図書館デジタルコレクションで公開されてある。(リンクは扉だが、「家庭版」の文字はない。しかし、奥附を見て貰うと『家庭版』とあり、『昭和十一年十一月二十七日 發 行』とあることが確認出来る)、これが、前掲の底本と同じものであるが、やはり、外国のサイトのそれを底本とするのは、日本人小泉八雲に失礼であると考えた。されば、こちらで、再度、以下の「骨董」の作品群を改めて校正することとする。これが――私の小泉八雲への「義」――である。なお、これよりも前の元版の全集等が先行しているものの、私がそれらと比べた結果、実は先行する同社の「小泉八雲全集」のそれらは、訳が一部で異なっており、訳者等によって、かなりの補正・追加がされていることが、今回の正字補正作業の中で、はっきりと判って来た。いや、同じ「家庭版」と名打ったネット上の画像データでも、驚いたことに、有意に異なっていたのである。そうした意味でも――完全な仕切り直しの総点検――が必要であると決したものである。従って、旧前振りの括弧・鍵括弧の問題も、拡大とガンマ補正で確認し、正確を期する。本作はここから。 底本では、中パート標題は以下の通り、「民間傳說拾遺」と訳してある。

 訳者大谷正信氏については、「小泉八雲 燒津にて 大谷正信譯」の私の冒頭注を参照されたい。

 傍点「﹅」は太字に代えた。また、本文にはトンボ類の博物画的ないい挿絵が六葉入っており、これはどうしても併載したく思い、“Internet Archive”で入手出来る全画像(PDF)から、挿絵画部分のみをトリミングして適切な位置に配した。キャプションは原文を示して、訳を添えた。

 本文内に禁欲的に(と思いつつ、結局、神経症的になると思う)注を挿入した。

 本篇は全五章から成るので、分割して示すこととした。なお、瞥見した銭本健二氏が担当された小泉八雲の年譜(一九八八年恒文社刊「ラフカディオ・ハーン著作集 第十五巻」所収)によれば、本篇は明治三三(一九〇〇)年四月下旬の完成とある。]

 

 

  民間傳說拾遺

 

 

  蜻 蛉

 

       

 

 日本の古名の一つにアキツシマといふがある。それは『蜻蛉の島』といふ意味で、そして蜻蛉といふ意義の文字で書き現はされて居る。この蟲は、今はトンボといつて居るが、古代に於てはアキツと呼んだものである。思ふに、このアキツシマ卽ち『蜻蛉の島』といふ名は、同じくアキツシマと發音はするが、異つた文字を用ひて書き現はされて居る『豐穰な國』といふ意味を有つた、なほ一册古い日本の稱呼からして、聲音上思ひ附いたものであらう。それは兎も角、約二千六百年前に、神武天皇が大和の國を眺望しに或る山へ登られて、國の蜻蜓のとなめせるに似たり、と御附の人達に御述べになつたといふ傳說がある。この御言葉があつたので、大和の國は蜻蜓洲と言はれるやうになつた、しまひには此名が全土に及ぶやうになつた。そして蜻蛉は今日に至る迄も依然この帝國の徵號となつて居る。

[やぶちゃん注:「蜻蛉」(とんぼ)は昆虫綱 Insecta 蜻蛉(トンボ)目 Odonata の、均翅(イトトンボ)亜目 Zygoptera・均不均翅(ムカシトンボ)亜目 Anisozygoptera・不均翅(トンボ)亜目 Anisoptera に属するトンボ類。全世界で約五千種、本邦にはその内、二百種近くが棲息している。なお、ウィキの「トンボ」によれば、「とんぼ」の古称の由来は『諸説あり、たとえば以下のようなものがある』とする。『「飛羽」>トビハ>トンバウ>トンボ』という説、『「飛ぶ穂」>トブホ>トンボ』という説、『「飛ぶ棒」>トンボウ>トンボ』という説、『湿地や沼を意味するダンブリ、ドンブ、タンブ>トンボ』という説、『秋津島が東方にある地であることからトウホウ>トンボ』という説、『高いところから落下して宙返りのツブリ、トブリ>トンボ』という説などである』。『なお、漢字では「蜻蛉」と書くが、この字はカゲロウを指すものでもあって、とくに近代以前の旧い文献では「トンボはカゲロウの俗称」であるとして、両者を同一視している』。『例えば』、『新井白石による物名語源事典『東雅』(二十・蟲豸)には、「蜻蛉 カゲロウ。古にはアキツといひ後にはカゲロウといふ。即今俗にトンボウといひて東国の方言には今もヱンバといひ、また赤卒(』セキソツ/『赤とんぼ)をばイナゲンザともいふ也」とあり、カゲロウをトンボの異称としている風である』。なお、かく普通に一般人が用いた場合の「カゲロウ」とは、真正の「カゲロウ」類である、 有翅亜綱旧翅下綱 Ephemeropteroidea 上目蜉蝣(カゲロウ)目 Ephemeroptera の仲間に、その成虫の形状に非常によく似ている、真正でない「カゲロウ」である、有翅昆虫亜綱内翅上目脈翅(アミメカゲロウ)目脈翅亜(アミメカゲロウ)亜目クサカゲロウ科 Chrysopidae に属するクサカゲロウ類及び、脈翅(アミメカゲロウ)目ウスバカゲロウ上科ウスバカゲロウ科 Myrmeleontidae に属するウスバカゲロウ類を加えたものを指す。この「カゲロウ」の真正・非真正の問題は、私は、さんざん、いろいろなところで注してきたので、ここでは繰り返さない。未読の方は、最も最近にその決定版として詳細に注した、「生物學講話 丘淺次郞 第十九章 個體の死(4) 三 壽 命」の私の冒頭注『「かげろふ」の幼蟲は二年もかかつて水中で生長する』以下をお読み戴きたい

「アキツシマ」秋津島。日本の古称。古くは日本語としては珍しく「あきづしま」と濁った。小学館「日本大百科全書」によると、通説では、「日本書紀」の第六代孝安天皇の「葛城室之秋津嶋宮(かづらきのむろのあきつしまのみや)」の記事と、神武紀三十一年、同地に於ける秋津島の称の起源伝承をもとに、秋津を奈良県御所(ごせ)市内の地名とし、この地名が大和、さらに日本の総称、また大和にかかる枕詞となったと説いているが、しかし、孝安天皇の宮については「日本書紀」が『都を室(むろ)の地に遷(うつ)す。是(ここ)を秋津島宮といふ』と述べており、これは秋津を地名とは見做し難く、また、神武紀の称も「浦安国、細戈千足国」の称と並べられていて(後掲注参照)、寧ろ、賛称の一つに過ぎないと見るのが相応しい。上記の例と記紀雄略天皇の条の蜻蛉(あきづ)(=トンボ)にかけた起源伝承(「古事記」では雄略天皇の腕に食いついたアブを食い殺したトンボのエピソードがあり、そこで倭の国を蜻蛉島(あきつしま)と呼んだと出る)を除けば、他のすべてが大和の語とともに使用されているのも、賛称であるためであろう。その語義については、水辺の農耕平地のことを指す「アクツ」と関連させる説、秋=実りと解する説などがあるが、未詳である。国号としての単独使用は平安以後と考えられている。なお、耶馬(やま)=野馬(やま/陽炎)→蜻蛉(かげろう)→蜻蛉(とんぼ)と転義されたものとして、起源を耶馬台国の称に求める説もあるという。

「神武天皇が大和の國を眺望しに或る山へ登られて、……」「日本書紀」巻第三の終りの方に神武天皇三十一年(機械換算紀元前六三〇年)相当の条に、

   *

 卅有一年四月乙酉(きのととり)朔(つひたち)、皇(すめらみこと)輿巡幸(めぐりいで)ます。因りて、腋上嗛間丘(わきのかみのほほまのをか)に登りまして、國の狀(かたち)を𢌞(めぐ)らし望(おほ)せて曰(のたま)はく、

「妍哉(あなにゑや)、國、獲(み)えつ。內木錦(うつゆふ)の眞迮國(まさきくに)と雖も、猶ほ、蜻蛉(あきつ)の臀呫(となめ)ごとくもあるか。」

是れに由りて始めて「秋津洲(あきつしま)」の號有り。昔、伊弉諾尊(いさなきのみこと)此の國を目(なづ)けて曰(のたま)はく、『日本(やまと)は浦安國(うらやすのくに)、細戈千足國(くはしほこちたるくに)、磯輪上秀眞國(しわかみほつまくに)。』と。復た、大己貴大神(おほむなちのおほかみ)之れを目けて曰はく、』『玉牆內國(たまがきのうちつくに)。』と。饒速日命(にぎはやひのみこと)、天磐船(あまのいはふね)に乘りて、太虛(おほそら)翔行(めぐ)りて、是の鄕(くに)を睨(おせ)りて降りたまふに及至(いた)りて、故(か)れ[やぶちゃん注:そのために。]、因りて目づけて『虛空見日本國(そらみつのやまとのくに)』と曰ふと。

   *

とある。「蜻蛉(あきつ)の臀呫(となめ)」はトンボの交尾行動を言ったもの。♂が尾端の附属器で♀の頭部(複眼の後部)挟んで、♀の生殖器♂が自身の副性器に差しこんだ形(私にはハート形に見える)を、雄雌が互いの尻を嘗めているように古代人は見たのである。

「蜻蜓」これも「とんぼ(う)」と読む。「蜻蛉」と区別する場合は、大型の「やんま」で訓ずる。「蜓」は大型のトンボに対して用いられることが多い。にしても、何故、大谷は「蜻蛉」と「蜻蜓」を混在させているのかが、全く、分からない。区別して使い分けている訳ではない。不審である。なお、底本は一部で「蜓」ではなく、おぞましい長い虫(ゲジやムカデ)やヤモリ(彼は好き)を指す「蜒」で誤植しているように見える箇所が散見されるが、ここは特異的に総てを正しく「蜓」とした。

 日本は、文字返りの意味で、蜻蜓の國と呼ばれる値値を充分に有つて居る。といふは、レインが詩的に述べて居るやうに、日本は『脈翅類愛好者にはまことのエルドラアド』だからである。恐らくは京北兩溫帶のどの國も、日本ほど多種類の蜻蛉を所持しては居まい。また熱帶國すらも、日本の種類の或る種の、ものより、もつと珍らしく美しい蜻蛉を造り得るかどうか、自分は怪しむものである。自分がこれまで見たうちで一番驚嘆すべき蜻蛉は、昨夏靜岡で捕つた一カロプテリツクスであつた。土地の人は『黑トンボ』と呼んで居るものであつた。が、その色は實際は非常に濃い紫色であつた。天鵞絨[やぶちゃん注:「ビロウド(ビロード)」。]のやうな紫色のその細長い翅は――觸つて見ても――不思議な或る花の花瓣のやうに思はれた。縫針のやうにか細いその紫色の體は、光澤無しの金の点線の裝飾を有つて居つた。頭部と胸部とは眼の覺めるやうな金綠であつたが、眼は磨きをかけた金の球そつくりであつた。脚は、肢部に直角を爲して、丁度豆仙人の櫛の齒のやうな、何とも言へぬ纎細な棘がその內側を緣取つて居た。それは餘りに微妙なものだつたので、その平和を亂したことに一種の後悔の念を自分は覺え――神界に屬する者に要らぬ手出しをしたやうに感じ――た程であつた。――で、自分は直ぐとそのとまつて居た灌木へ返してやつた。……此の特殊な蜻蛉は燒津町の近くの淸流の附近だけに棲んで居るといふことである。が、然しこれは多くの可愛らしい變種の一つたるに過ぎぬのである。

[やぶちゃん注:「レイン」恐らくは、ドイツの地理学者で日本研究家として知られるヨハネス・ユストゥス・ライン(Johannes Justus Rein 一八五三年~一九一八年)である。明治七(一八七四)年にプロイセン王国政府の命により、日本の工芸調査を名目に来日し、工芸研究の傍ら、北海道を除く日本各地を精力的に旅行し、地理や産物を調査した。明治十年に帰国し、マールブルク大学地理学教授・ボン大学地理学教授を務め、多くの日本人ドイツ留学生の世話をした。以下の出典は不詳。【2020年1月9日追記】いつもお世話になっているT氏より出店元の情報を戴いた。この引用は彼の著書“ Japan nach reisen und studien im auftrage der königlich preussischen regierung dargestellt ” (二巻本)の第一巻の英訳“ Japan : travels and researches undertaken at the cost of the Prussian government ”』(「日本:プロイセン政府の費用に拠りて行われた旅行と研究」)の中の、“ THE PHYSIOGRAPHY OF JAPAN “(「日本の自然地誌」)の“ F. INSECTS AND SPIDERS ”(「昆虫類と蛛形(クモ)類」)のp203にある第二パラグラフ、

   Japan is a true Eldorado to the neuroptera fancier. The abundance of water in the rice-fields appears essentially to promote the development of the larvre of the dragon-flies (Tombo), as well as of those of the Ephemera. A kind of dragon-fly larva, called Magotaro-mushi (Magotaro’s insect), is celebrated throughout Japan, and is employed as a remedy against the diseases of children.

に基づくものである、ということを御教授戴いた。以上を訳してみると、現代の分類学からは、かなり問題のあるものではあるが(後注する)、言葉を添えて表記も現行の分類名に直して示すなら、

   *

 日本は、ネウロプテラ(脈翅(アミメカゲロウ)目)Neuroptera の愛好家にとっては真の「エルドラド」(黄金鄕)である。 田圃の水の豊かさは、本質的には、トンボ(日本語「蜻蛉(とんぼ)」)の幼虫と、エフェメラ(カゲロウ(蜉蝣)目)Ephemeroptera の幼虫の発生・成長を促すように見受けられる。「孫太郎虫」(マゴタロウ・インセクト)と呼ばれる一種のトンボの幼虫は、日本全国で著名なものであって、子供たちの病気に対する治療薬として使用されている。

   *

ここで「Neuroptera」と「Ephemera」(この語の元はギリシャ語で本虫である「蜉蝣(カゲロウ)」 を指し、原義は「 epi(英語の「on」)」+「hemera(day:その日一日)」であって、カゲロウの寿命の短さに由来する。一般名詞「ephemera」 は配られるチラシやパンフレットなどを意味し、「その日一日だけの一時的なもの」であることによる謂いである)、及び、広義の「トンボ」が異様な混交を以って使用されているのは、そもそもがリンネがそれらを似たような葉脈状の翅を持つことから同一の昆虫群として一緒くたにして「Neuroptera」に分類した、古典的な、形態や大まかな習性の人為観察による恣意的分類によるものであって、それがまだ尾を引いていた結果なのである。現行では既に注で述べた通り、アミメカゲロウ(網目蜉蝣)目 Neuroptera とカゲロウ(蜉蝣)目 Ephemeroptera とは一部の種が形状や生態で酷似するものの、全く系統の異なる生物群であり、そして蜻蛉(トンボ)目 Odonata も全く独立していて、以上の三つは一グループに纏めて認識されることはなく、この何でもトンボの仲間にしてしまうラインの叙述は、今となっては、時代遅れで誤っていると言わざるを得ない。さらに、指摘するならば幼虫が古くから「孫太郎虫」と呼ばれて子供の疳に効く民間薬とされるヘビトンボは、アミメカゲロウ(脈翅)上目広翅(ヘビトンボ)目ヘビトンボ科ヘビトンボ亜科ヘビトンボ属 Protohermes のヘビトンボ類は御覧の通り、「トンボの仲間」ではなく、強いて言いたいとするなら、「アミメカゲロウ」の仲間と言わずばなるまい。

 なお、T氏に御礼申し上げる。

「エルドラアド」“Eldorado”。「エル・ドラード(El Dorado)」。大航海時代、スペインに伝わったアンデスの奥地に存在するとされた伝説上の黄金境。語源は十六世紀頃まで南米アンデス地方に存在した「チブチャ」文化(「ムイスカ」文化)に伝わっていた「黄金の人」の意の言葉に基づくもの。

「カロプテリツクス」“ Calepteryx ”。小泉八雲の繊細な描写でお判りなったことと思うが、所謂、「糸トンボ」と我々が読んでいる仲間の内の、イトトンボ亜目カワトンボ上科カワトンボ科カワトンボ亜科アオハダトンボ(青膚蜻蛉)属 Calopteryx を指す。インセクターの方は、八雲の記載で種同定が可能なのかも知れぬが、私は昆虫には詳しくないので同定比定は控える。アオハダトンボ Calopteryx japonica か、ハグロトンボ Calopteryx atrata か。]

 

 だが、より美妙な蜻蛉は稀に目にするもので、且つ日本文學に出て來ることは滅多に無い。――それで自分が讀者の興味を呼び得るのは、ただ蜻蜓の詩歌と、民間傳說との方面に於てのみである。自分は蜻蜓の談論を古風な日本流儀で試みたいのである。そして自分が――奇妙な書物と永く人に忘られて居る圖畫との助を藉りて――此題目に就いても知り得た僅少の知識は、大半は、より普通な種類に關してである。

 

 だが蜻蛉文學を論述する前に蜻蛉の名稱に就いて少しく語る必要があらう。日本の古書は五十種許りを名ざさうとする。『蟲譜圖說』には實際その數に近い蜻蛉の彩色繪があるのである。が此書には、蜻蛉に似て居る蟲で、不穩當にも蜻蛉の部に入れてあるのが數々あり、又同一種の雄と雌とに異つた名が與へられて居るやうに思へる例が少からずある。之に反して、異つた種類の蜻蛉が四つも同じ普通名を有つて居るのを自分は知つて居る。そこで如上の事實を眼中に置いて居て、次記の目錄は先づ完全なものと思つてよからうと自分は敢て考へるのである。――

[やぶちゃん注:「蟲譜圖說」江戸後期の旗本で博物学者飯室昌栩(いいむろまさのぶ 寛政元(一七八九)年~安政六(一八五九)年)作の安政三(一八五六)年序を持つ昆虫図譜。飯室は江戸市ケ谷に住み、設楽(しだら)甚左衛門に学び、天保七(一八三六)年、越中富山藩主前田利保の主宰する博物研究会『赭鞭(しゃべん)會』に参加した。本「蟲譜圖說」は日本最初の体系的に分類された虫類図鑑である。同図説は国立国会図書館デジタルコレクションにもあるが、各ページを見るには「早稲田大学図書館古典籍総合データベース」の方が使い勝手がよい。同書の「卷之四 卵生蟲類七」の巻頭に「蜻蛉類」が載る。全体を一画面で見たい場合はこちらでPDF。なお、それに遙かに先行する、私の寺島良安の「和漢三才圖會卷第五十二 蟲部 蜻蛉」も以下の読解の助けとなると思われるのでリンクさせておく。

 以下、底本では、全体が三字下げでボイント落ちである。完全に引き上げて、同ボイントで示した。なお、私は昆虫は守備範囲外なので、素人考えで推測して注している。誤りがあれば、御指摘戴けると幸いである。]

 

一、ムギワラトンボ(或は單にトンボ)卽ち麥藁蜻蛉――その身體が形も色も稍〻麥藁に似て居るので斯の[やぶちゃん注:「この」。]名がある。――これは多分蜻蛉のうちで一番普通なもので、且つ最も早く現はれるものであらう。

[やぶちゃん注:初っ端から悪いけれど、小泉八雲先生は冒頭から前段で指弾した誤りを御自身で犯してしまっている。恐らくは飯室の配列に習って(「蟲譜圖說」の当該頁。以下、断らなければ、総て早稲田の当該書画像である)、これを頭に持ってきたものであろう。無論、民間での蜻蛉の呼称のリストとなれば、特に問題はないものの、敢えて前段で同一種の異名(性的二型に基づくとしても)を問題視し、以下の自身のリストを、ある意味で昆虫学的にトンボ類の「完全なもの」と自負する以上は、性的二型を指示していないからには、やはりやや瑕疵の趣はある。さても則ち、これは次の「二」で掲げる、日本産亜種である、トンボ科ヨツボシトンボ亜科シオカラトンボ属シオカラトンボ亜種シオカラトンボ Orthetrum albistylum speciosum ♀の異名である。ウィキの「シオカラトンボ」によれば、同種は♀や未成熟の♂では、『黄色に小さな黒い斑紋が散在するため、「ムギワラトンボ(麦藁蜻蛉)」とも呼ばれ』、『複眼は緑色で』ある。

 なお、この日本産トンボに就いての小泉八雲のリストは近代昆虫学のトンボ学の中でも、市井の非専門家の記載の中では有意に意義を持つものと思われ、専門家やインセクタ―の方の考察比定論文が当然あるのではなかろうかと、ネット検索を掛けたが、見当たらない。同じく、小泉八雲が概ね原拠として使用した飯室昌栩の「蟲譜圖說」の「蜻蛉」パートも、論文か解説が有りそうなものと思ったが、残念ながら、やはりネット上には見当たらないのだ。御存じの方があれば、お教え願いたい。

二、シホカラトンボ或はシホトンボ――卽ち、鹽辛蜻蛉或は鹽蜻蛉――尾の尖が鹽に浸つて居たやうな色をして居るので斯の名がある。シオカラとは鹽に漬けられた一種の魚の食品である。

[やぶちゃん注:同前の、亜種シオカラトンボ Orthetrum albistylum speciosum の♂の異名である。ウィキの「シオカラトンボ」によれば、♂は『老熟するにつれて、体全体が黒色となり、胸部から腹部前方が灰白色の粉で覆われるようになってツートンカラーの色彩となる。この粉を塩に見立てたのが名前の由来である。塩辛との関係はない』とある。以下に、原本にある以上の二つ(くどいが、二種ではない)の画像を示す。挿絵では順序が逆転している。

 以下、総ての挿絵パートでは前後を一行空けた。]

Plate1_20191014195901

[やぶちゃん注:キャプションを電子化する。

    Plate  1

Ⅰ.  SHIO-TOMBŌ (“ Salt D.

Ⅱ.  MUGIWARA-TOMBŌ (“ Barley -straw ”)

訳す。「D.」は「Dragon-fly」の略と採った。「TOMBŌ」は江戸以前の「とんぼう」を採りたかったが、長音符なので間が抜けているが、「とんぼー」とした(原本本文でも総てが“Tombō”表記である)。

    図版 1

Ⅰ しほ・とんぼー(「塩」蜻蛉)

Ⅱ むぎわら・とんぼー(「麦の藁」)

「Barley」麦(コムギ・オオムギ・ライムギ・エンバクなどの、一見、外見の類似したイネ科 Poaceae 植物の総称)は、英語では「oat」・「wheat」・「barley」が用いられはするが、この単語は狭義には単子葉植物綱イネ目イネ科オオムギ属オオムギ Hordeum vulgare を指す。但し、本邦の「麦藁」は広義のそれであるから、かく訳しておいた。]

三、キノトンボ、卽ち黃蜻蛉――まつ黃では無く、黃色い線や條のある赤味がかつた蜻蛉である。

[やぶちゃん注:「キノトンボ」原文“ Kino-Tombō ”。「ノ」は性質を表わす格助詞の「の」。トンボ目トンボ科アカネ属キトンボ  Sympetrum croceolum個人サイト「神戸のトンボ」の「キトンボ」によれば、本邦では『北海道・本州・四国・九州に分布』し、『海外では朝鮮半島,中国に分布する』が、『分布域の連続性から見て,朝鮮半島のものは日本のものと同じと見てよいであろう』とされる。『翅の前縁に沿って黄橙色帯が存在』し、『また翅のつけ根から結節』、『または』、『それを超えるくらいにまで黄橙色の部分が広がる.胸部・腹部はほとんど黒条斑が見られない』。『♂では成熟すると』、『腹部背面などが赤色になる』。『♀の産卵弁は幅広く、また下方に突き出ている』とある。]

四、アヲトンボ。アヲといふ言葉は靑にも綠にも使ふ。で、異つた二種類の蜻蛉を――一つは綠。一つは金屬質の靑いのを――此名で呼んで居る。

[やぶちゃん注:緑色のというのは、恐らくトンボ亜目ヤンマ科アオヤンマ Aeschnophlebia longistigma を指していると見てよかろう。金属光沢で異なった種で「靑いの」というのであれば、思い出すのは、トンボ目カワトンボ科アオハダトンボ属アオハダトンボ GCalopteryx virgo であるが(先の「神戸のトンボ」の「アオハダトンボ」の画像等を参照されたい)、同色の金属光沢は多種で見られるので同定比定は控える。]

五、コシアキトンボ――腰明蜻蛉。普通斯く呼ばれて居る蜻蛉は黑と黃との斑のものである。

[やぶちゃん注: トンボ科ベニトンボ亜科コシアキトンボ属コシアキトンボ Pseudothemis zonata ウィキの「コシアキトンボ」によれば、『腰空蜻蛉』とあり、『東南アジアから東アジアに広く分布するが、北海道には分布しない』。『全身は黒色で、腹部の白い部分が空いているように見えるために名づけられた。成熟したオスは腹部の付け根が白色、メスと未成熟のオスは黄色』。『腹部の白い部分を、暗闇に輝く電灯に見立てて、「電気トンボ」と呼ぶ地方もある。木立に囲まれた池や沼などに生息し』、『市街地の公園の池でも見られる』。『未成熟な成虫とオスはホバリングしながら』、『生息水域上の狭い範囲を長時間飛翔する』とある。]

六、トノサマトンボ――殿樣蜻蛉。恐らくその色が美しいが爲めであらうが、種類の異つた澤山の蜻蛉を此名で呼んで居る。コシアキ卽ち腰明といふ名も、これと同樣、種々な變種の數々に與へられて居る。

[やぶちゃん注:不均翅(トンボ)亜目オニヤンマ科オニヤンマ属オニヤンマ Anotogaster sieboldii を始めとして大型のヤンマ類や、やはり大型のヤンマ上科サナエトンボ科 Gomphidae の複数の種に対して、多くの地方でこの名が汎用されている。

七、コムギトンボ、卽ち小麥蜻蛉。――麦藁蜻蛉よりか少し小さい。

[やぶちゃん注:飯室の「蟲譜圖說」のこちらに『コムギワラトンボ』『ムギガラトンボ』と出るものであろう。そこには『此亦ムキワラトンボノ一種ニシテ身丈ノ文』(もん)『異なる者ニシテ小麥藁トンボと云大暑ノ比稀ニ在リ飛フコト髙クシテ採得ガタシ』とある。また、小野蘭山述の「重修本草綱目啓蒙」の「卷之二十七」の「蟲之二」の「蜻蛉」のここ(国立国会図書館デジタルコレクションの当該頁画像)に、『身黑ク白糝(シロキコ)』(白い粉)『アルモノヲ シホカラトンボト云一名シホ【備前】シホカイ【加州】又豫州ニテハ身ニ灰ト黑ノ橫斑アルモノヲ シホカラトンボト云 又一種身ニ黃ト黑ノ橫斑アルモノヲ コムギトンボト云一名ムギハラトンボ【共豫州】』とある。「神戸のトンボ」のこちらシオヤトンボ Orthetrum japonicum の解説)、『北海道・本州・四国では,本種以外のシオカラトンボ属では,シオカラトンボ Orthetrum albistylum speciosum とオオシオカラトンボ Orthetrum melania しかみられない』とあるから、「少し小さい」とあるからには、オオシオカラトンボは除外でき、調べて見ると、シオカラトンボに比べて、シオヤトンボの方が小柄で腹部が扁平で短いとあったので、シオカラトンボの若年個体でなければ、シオヤトンボの可能性が高いと言えようか。]




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[やぶちゃん注:キャプションを電子化する。

    Plate  2

Ⅰ.  KINO -TOMBŌ

Ⅱ.  KO-MUGI-TOMBō

訳す。

    図版 2

Ⅰ きの・とんぼー

Ⅱ こむぎ・とんぼー

しかし、この「Ⅱ」の画は、どう見ても、上記本文で比定したシオカラトンボ属ではない。こんな特異な斑点を持つ種は、私は現に見たことがないから判らない。識者の御教授を乞う。これ、しかし、飯室の「蟲譜圖說」のそれを不正確に転写したもののように見える。よく似た有意に大きな円紋があるからである。

 

八、ツマグロトンボ、卽ち褄黑蜻蛉。翅の端が黑いか又は濃い赤い色かなので、斯う呼ばれて居る蜻蛉で種類の異つた、居るのがある。

[やぶちゃん注:飯室の「蟲譜圖說」のこちらに『ツマクロトンボ』として出、『此亦江雞』(右頁の(コムギワラトンボ/ムギワラトンボに記された漢名。則ち、「七」の注で示した通り、それはシオカラトンボ属 Orthetrum である)『トノサマトンボノ如クニテ只翅ノ先黑クシテヤヽ大ナルモノツマグロトンボト云』とある。あまり翅の褄黒は目立つ感じではないが、オオシオカラトンボ Orthetrum melania が候補とはなろうか。しかし、それが「赤」いというのは、小泉八雲の言うように別種であろう(そうした別種候補まで私は捜すだけの知識も余裕もない。悪しからず)。]

九、クロトンボ、卽ち黑蜻蛉。クロといふ語は色の濃い意味にも、黑い意味にも用ひるから、濃紅色の蜻蛉にも、濃紫色の蜻蛉にも、此名が與へられて居るのは不思議では無い。

[やぶちゃん注:直ちに想起する種は、イトトンボ亜目カワトンボ上科カワトンボ科カワトンボ亜科アオハダトンボ属ハグロトンボ Calopteryx atrata ではある。現在も別名を「クロトンボ」と言う。但し、後の「十三」にハグロトンボは出る。]

十、カラカサトンボ、卽ち傘蜻蛉。この蜻蛉の身體は、形も色も、細かに割つた竹で骨組が出來て居て、それへ厚い油紙を張つたカラカサといふ傘をすぼめたのに似て居るといふことである。

[やぶちゃん注:不詳。似た種を想起出来ない。ところがこれ、飯室の「蟲譜圖說」のそれを見ると、『蜓』『カラカサトンボ』と標題するも、後のキャプションが『鉛山縣志云六足四翼……」に始まって異例の漢文が記され、最後に改行して『啓蒙圖ニ載スルモノ』とあって、これは本邦産トンボでない可能性が高い気がしてきた。だって、この「鉛山縣志」というのは「江西省鉛山縣志」で清の連柱等纂の華中地方の地方誌だからである(無論、本邦にも棲息するのかも知れぬが、判らぬ)。中文で「蜓」で調べても、蜻蛉の総称であって、種名は見出せなかった。

十一、テフトンボ、――卽ち蝶蜻蛉。翅のが蛾か蝶の翅模樣に似て居るので、この名を有つて居るのだから、同じ名でゐて種類の異つて居るのがある。

[やぶちゃん注:トンボ科チョウトンボ亜科チョウトンボ属チョウトンボ Rhyothemis fuliginosa が筆頭に挙げられるウィキの「チョウトンボ」によれば、『翅は青紫色でつけ根から先端部にかけて黒く、強い金属光沢を持つ。前翅は細長く、後翅は幅広い。腹部は細くて短い。腹長は』二~二・五センチメートルほどで、出現期は六~九月、羽化は六月中旬頃から『始まる。朝鮮半島、中国に分布し、日本では本州、四国、九州にかけて分布する。おもに平地から丘陵地にかけての植生豊かな池沼などで見られる。チョウのようにひらひらと飛ぶので』、『この和名がついている。日本以外にも、近縁種が多数存在する』とある。]

十二、シヤウジヤウトンボ、鮮やかな赤い色の或る蜻蛉を斯う呼んで居る。色が赤いので此名があるのである。支那及び日本の動物神話に於て、シヤウジヤウといふのは、人間以下のものではあるが、動物以上のもので、――姿をいふと、深紅な長い髮を生やした、巖疊な[やぶちゃん注:「ぐわんじやう」な。]子供のやうである。この深紅の髮毛から不思議な赤の染料加とれると言はれは居る。此の猩々は非常に酒が好きだと想像されて居る。そして日本の美術では此の動物は酒壺のあたりで踊つて居る處を普通は見せてある。

[やぶちゃん注:トンボ科アカネ亜科ショウジョウトンボ属タイリクショウジョウトンボ亜種ショウジョウトンボ Crocothemis servilia mariannaeウィキの「ショウジョウトンボ」によれば、『オスは和名の』伝承上の妖獣『ショウジョウ(猩猩)』(私の「和漢三才圖會 卷第四十 寓類 恠類  寺島良安」の「猩猩」を参照されたい。詳しく解説し、モデル動物も考証した)『から連想できるように真っ赤だが、メスはハクビシンを連想させる茶色である』。『オスは単独で池の縁に強い縄張りを持ち、縄張りの縁に沿って力強く哨戒飛行をする。他のオスが飛来すると斜め』二十センチメートル『弱の距離に位置関係を保ち、地形に合わせて低空編隊(にらみ合い)飛行を見せる。やや下側を飛ぶのが地主である。時に激しく羽音を立てて格闘するが、メスの飛来にはおおらかである。交尾は、概ね向かい合って上下飛行を繰り返した後、やや高く』二メートル『位に上昇し、オス同士の格闘よりやや弱く縺れ合い、数秒以内ですませているように見える。おつながり飛行は観察できない。交尾後にメスは飛びながらアオミドロなどの水草を腹の先でこするように産卵する。オスは、産卵中のメスの上空』一メートル『未満でホバリングし、他者(虫)の接近を許さない。雄の飛翔は速くてパワフルであり、風に乗ってゆっくり飛ぶことはなく、哨戒飛行の後はすぐに縄張り内のお気に入りの基点に止まり警戒を続ける。メスは同じオスの縄張りに居座らないで』、『産卵後はさっさと移動する。また、飛翔はオスに比べて緩やかである』。『羽化直後は黄色がかって羽もキラキラで初々しい。飛翔は弱々しく、午前中の最初の飛行でツバメやスズメの餌食になることが多く観察できる。飛翔後の晩は、巣立った池の周囲の開けた草地の地面から』十センチメートル『内外の高さの草の上に水平に止まっていることが多く、見つけやすい。草陰等に露を避けるようにぶら下がって止まっているのではない。概ね』二、三日で『姿を消す』。『ヤゴは、水底より水草に留まって生息している』。『食物は、肉眼では微小(ミジンコの』十分の一『程度)な動物プランクトンを希にみる程度の水盤でも冬を越し、十分に成長し』、『成熟する』。四『月の雨上がりの数日後の晴れた日には、一坪程の産卵繁殖池から』七~八『メートル離れた伸びたスズメノカタビラ』(単子葉植物綱イネ目イネ科イチゴツナギ属スズメノカタビラ Poa annua )『の(水没しない)繁茂地の湿った地面上でヤゴを発見することが多々あり、歩行は素早いので、陸上での採餌活動も推測される』とある。]

十三、ハクロトンボ、卽ち羽黑蜻蛉。

[やぶちゃん注:「九」の注で示した、イトトンボ亜目カワトンボ上科カワトンボ科カワトンボ亜科アオハダトンボ属ハグロトンボ Calopteryx atrata と思うのだが、しかし、飯室の「虫譜図説」のそれを見るに、所謂、イトトンボ型でなく、『形状赤卒』(アカトンボの異名)『ニ似テ』いるとし、図にも本文にも両後翅に五つ(実際には画には各六つ見える)の白い有意な円状の斑点がある。少なくとも、飯室の示すそれはハグロトンボではないと断言できる。なお、このハグロトンボ相当の小泉八雲の原本の挿絵は第五図であるが、本文と一致させるためにここに持ってきた

 


Plate5_20191014200001

[やぶちゃん注:キャプションを電子化する。

 Plate  5

HAGRUO-TOMBŌ

訳す。

 図版 5

はぐろ・とんぼー

この図も、明らかに飯室の「虫譜図説」の上下を入れ替えた写しである。]

 

十四、オニヤムマ、卽ち鬼ヤムマ。日本の蜻蛉のうちで一番大きなものである。どつちかといふと不快な色をして居る。身體は黑くて、あざやかな黃色い條がある。

[やぶちゃん注:日本最大のトンボとして知られる、不均翅(トンボ)亜目オニヤンマ科オニヤンマ属オニヤンマ Anotogaster sieboldii Sélys, 1854。種小名は、近代黎明期日本の生物研究に貢献したフィリップ・フランツ・フォン・ズィーボルト(Philipp Franz Balthasar von Siebold 一七九六年~一八六六年)に捧げられたものである。]

十五、キヤムマ、卽ち鬼ヤムマ。キエムマともいふ。エムマといふは死界の王で靈魂の審判者である。

[やぶちゃん注:この「キ」は通常、我々の知識では「鬼」ではなく、「黃(黄)」とすべきところではなかろうか? そうでないと、小泉八雲には悪いが、前との区別がつかなくなるからである。しかも、これは私はヤンマ類ではなく、トンボ目トンボ科アカネ属キトンボ Sympetrum croceolum ではあるまいかと今は思っている。何故、「今は」と言ったというと、私は先の寺島良安の「和漢三才圖會卷第五十二 蟲部 蜻蛉」に注して、

   *

・「胡黎(きやんま)」「小にして黃なる者なり」ここでのこれは、ネット情報を見る限りでは、特定の種ではなく、不均翅(トンボ)亜目トンボ科ヨツボシトンボ亜科シオカラトンボ属シオカラトンボ亜種(日本産)Orthetrum albistylum speciosum 或いはシオカラトンボ属オオシオカラトンボ Orthetrum triangulare melaniaの♀ではないかと思われる。トンボ科アカネ属キトンボ(黄蜻蛉)Sympetrum croceolum の和名があるが、この種は体部は赤く、翅の半分近くが黄色味を帯びたもので、この記載とはどうも一致しないように思われる。

   *

としたからである。寺島の文章は小泉八雲とそれは異なるから、別に新たに考証し直しても別段、そちらに影響はないとも考えてはいる。]

十六、シヤウリヤウトンボ、卽ち精靈蜻蛉。此名は、似よつた意味の、も一つの名、シヤウライ蜻蛉と共に、自分の知つて居るところでは、多くの種類の蜻蛉に與へられて居るやうである。

[やぶちゃん注:小学館「日本大百科全書」で朝比奈正二郎氏は「ショウリョウトンボ」(精霊蜻蛉)について、『昆虫のトンボのうち、夏季精霊会のころに多数現れるものをさすらしいが、その種類を正確に指示することは困難である』。七、八『月の候に』、『水田の上などをおびただしく徘徊』『するウスバキトンボなどをさすのかも知れない』とある。トンボ科ハネビロトンボ亜科ハネビロトンボ族ウスバキトンボ(薄羽黄蜻蛉)属ウスバキトンボ Pantala flavescens は、ウィキの「ウスバキトンボ」によれば(下線太字は私が附した)、『全世界の熱帯・温帯地域に広く分布する汎存種の一つで』、『日本のほとんどの地域では、毎年春から秋にかけて個体数を大きく増加させるが、冬には姿を消す』。『お盆の頃に成虫がたくさん発生することから、「精霊とんぼ」「盆とんぼ」などとも呼ばれる。「ご先祖様の使い」として、捕獲しないよう言い伝える地方もある。分類上ではいわゆる「赤とんぼ」ではないが、混称で「赤とんぼ」と呼ぶ人もいる』。『成虫の体長は』五センチメートル『ほど、翅の長さは』四センチメートル『ほどの中型のトンボである。和名のとおり、翅は薄く透明で、体のわりに大きい。全身が淡黄褐色で、腹部の背中側に黒い縦線があり、それを横切って細い横しまが多数走る。また、成熟したオス成虫は背中側にやや赤みがかるものもいる』とある。リンク先に写真がある。

「シヤウライ蜻蛉」は同じく「精霊蜻蛉」と漢字表記するようで、ネット上の記載では、京都での「精霊」の訛りであるらしいともあった。平井呈一氏の恒文社版「トンボ」でも、ここは『ショウライ・トンボ(精霊トンボ)』と訳しておられる。というより、原文自体が“ Sōrai-tambō, or " Dragon-fly of the Dead,"”となっているのを、大谷氏が勝手に省略してしまっているのである。これは痛い。

十七、ユウレイトンボ――卽ち幽靈蜻蛉 種々な蜻蛉がこの名で呼ばれて居る。或る美しいカロプテリツクスで、その音無しに黑く飛ぶのが影の動くが如くに――蜻蛉の影の動くが如くに――思ひ誤らるゝやうな一種のカロプテリツクスの場合には、此名は殊に適切である、と自分は思つた。實際此の黑い蜻蛉に此名を附けたのは、影を幽靈だと思つた、原始的な思想を思はせる爲めであつたのかも知れぬ。

[やぶちゃん注:後の「二十」の「ヤナギジヤラウ」の注を参照のこと。

「カロプテリツクス」“ Calepteryx ”。既出既注であるが、再度、注しておくと、所謂、「糸トンボ」と我々が読んでいる仲間の内の、イトトンボ亜目カワトンボ上科カワトンボ科カワトンボ亜科アオハダトンボ(青膚蜻蛉)属 Calopteryx 。私はやはり真っ先にハグロトンボ Calopteryx atrata を想起する。

 

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[やぶちゃん注:キャプションを電子化する。

    Plate  3

YUREI-TOMBŌ(“GhostD.)or

KURO-TOMBŌ(“blackD.

訳す。

    図版 3

ゆうれい・とんぼー((幽霊」蜻蛉)又は

くろ・とんぼー(「黒」蜻蛉)

しかし、このキャプションでは、幽霊蜻蛉と黒蜻蛉(本文「九」)は同一種の異名であるように採れてしまう。まあ、小泉八雲の記載からは、それでも問題はないのだが。]

 

十八、カネツケトンボ或はオハグロトンボ。どつちも古昔夫のある婦人が齒を黑くする爲めに用ひた調劑に關係のある名である。だから御齒黑蜻蛉と譯していい譯である。オハグロ(御齒黑)或は鐡漿は齒を染めるに用ひる浸劑を呼ぶ普通の言葉であつた。カネヲツケルといふは、その品物を用ひる、或はもつと文字通りに言へば、『附着』するといふことである。だからカネツケトンボといふ稱呼は、鐡漿附け蜻蛉と譯しても宜い[やぶちゃん注:「よい」。]。此の蜻蛉の翅は半黑で、半分印氣[やぶちゃん注:インキ。]に浸けたやうに見える。同じく繪のやうな、コウヤ卽ち紺屋といふ別名がある。

[やぶちゃん注:現行、これらは狭義には、やはり、直前のハグロトンボ Calopteryx atrata の異名であるようである。「鐡漿」(おはぐろ/かね)「お歯黒」に就いては、私の「日本その日その日 E.S.モース(石川欣一訳) 第二十五章 東京に関する覚書(6) 天象台の私の居室/鉄漿附けのスケッチ」の本文・挿絵・私の注を参照されたい。]

 

Plater4

[やぶちゃん注:「Ⅰ」は「十二」だが、「Ⅱ」がここに出るので、ここに配した。キャプションを電子化する。

    Plate  4

Ⅰ.  SHōJō -TOMBŌ

Ⅱ.  KANÉ-TUKÉ-TOMBō(“stained-with-KanèD.)

訳す。

    図版 4

Ⅰ しょーじょー・とんぼー

Ⅱ かね・つけ・とんぼー(「鉄漿(かね)を附けた」蜻蛉)]

 

十九、タノカミトンボ、卽ち田の神蜻蛉。赤と黃とが雜つた色の蜻蛉につけた名である。

[やぶちゃん注:小野蘭山述の「重修本草綱目啓蒙」の「卷之二十七」の「蟲之二」の「蜻蛉」のここ(国立国会図書館デジタルコレクションの当該頁画像)に、『赤卒』=赤蜻蛉の異名を列挙する中に『タノカミトンボ【會津】』と見出せるから、トンボ科アカネ(アカトンボ)属  Sympetrum の多様な赤蜻蛉類を指すと見てよい。ウィキの「赤とんぼ」によれば、世界では約五十種が記載されており、日本では二十一種が記録されているとして、リストが載る。狭義には、アカネ属アキアカネ Sympetrum frequens を指して俗に「赤とんぼ」と呼ぶ傾向がある。]

二十、ヤナギヂヨラウ、卽ち柳女郞。美しいが氣味の惡るい名である。といふのは、柳女郞といふは柳の木の靈であるから。非常に優美な蜻蛉で此の名で呼ばれて居るのが二種あると思ふ。

[やぶちゃん注:飯室の「蟲譜圖說」のそれを見るに、『ヤナギ女﨟』(「女郎」ではないぞ! 大谷先生! 八雲先生も、ちゃんと、“lady”って記してますよ!)『シヤウリヤウトンボ』とあって、

   *

淺水陰湿ノ地ニ生ス夏秋ノ間羣飛す深黑色ニシテリアリ其翅イカニモ力ナク疲労ノ状ナレハ俗に幽霊トンボト名ヅク

   *

とキャプションするのだ。私はその内容と、画の形状・色を見るに、これは間違いなく、

トンボ類ではなく、広義のカゲロウ類を指している

と断言できる。この広義の「カゲロウ」(真正・非真正を含む)の問題は、私はさんざんいろいろなところで注してきたので、ここでは繰り返さない。未読の方は、最も最近にその決定版として詳細に注した、「生物學講話 丘淺次郞 第十九章 個體の死(4) 三 壽 命」の私の冒頭注『「かげろふ」の幼蟲は二年もかかつて水中で生長する』以下をお読み戴きたい。]

二十一、セキイシシヤ。卽ち赤衣使者。

[やぶちゃん注:中国での「赤とんぼ」の異称。「赤とんぼ」は夏の終ろうとする頃に決まって飛んで来るので、赤い衣を着たこの秋の季節の到来を告げる使者として擬人化して呼んだもの。]

二十二、ヤムマトンボ、此名は類語を重ねたやうなものである。ヤムマは大きな蜻蛉で、トンボはどんな蜻蜓でもさう呼ぶ。これは興味のある綠色をした蜻蛉につけた名である。出雲では之をヲンジヤウと呼んで居る。

[やぶちゃん注:「ヤムマ」はトンボ亜目ヤンマ科 Aeshnidae のヤンマ類(本邦産はウィキの「ヤンマ」を見られたい。主な種として十七種が挙がっている。既に述べた通り、門外漢の私にはそれらを識別して細かく比定同定する力はない)とオニヤンマ科 Cordulegastridae のオニヤンマ属オニヤンマ Anotogaster sieboldii を含む。]

二十三、クルマヤムマ、卽ち車ヤムマ、――尾に圓盤のやうな附屬物があるのでさう呼んだものであらう。

[やぶちゃん注:これは尾部の附属物でピンときた。トンボ亜目 Anisoptera 下目ヤンマ上科サナエトンボ(早苗蜻蛉)科ウチワヤンマ(団扇蜻蜓)亜科ウチワヤンマ属ウチワヤンマ Sinictinogomphus clavatus である。ウィキの「ウチワヤンマ」によれば、『中国、朝鮮半島、日本』(本州・四国・九州)『ネパール、ミャンマー、タイ、ベトナム、ロシア北東部に分布する』。『名称に「ヤンマ」と付くが、サナエトンボの仲間である事は、頭部の複眼が接していない事からも判る。単に体が大柄なトンボ=ヤンマという思い込みから、ヤンマの名を付けられたに過ぎない。同じような思い込みで名がつけられたサナエトンボの仲間ではコオニヤンマ』(サナエトンボ科 Hageniinae 亜科コオニヤンマ属コオニヤンマ Sieboldius albardae)『がいるが、長時間飛行するヤンマ科に比べ、サナエトンボの仲間らしく、ある程度』、『飛翔したら』、『すぐに止まって休むという行動からも見分けられる』。全長は七~八・七センチメートルで、腹長は四・九~六センチメートル、後翅長は四~五・一センチメートル。『脚には黄斑がある』。『オス、メスともに腹部の第』八『節には、黄色を黒色で縁取ったうちわ状の広がりがある』。『オスは水辺の岸近くの枝先などに留まる。平地、丘陵地の深くて水面の開けた池や湖(湖底は砂泥で少し汚れた水質)に生息する』。『成熟したオスは縄張りをもち、水面から出た杭などの突起物の先端に静止して占有する。交尾も同様な場所の先端で静止して行う。その後、交尾態のまま飛び回って』、『産卵場所となる水面の浮遊物を探し、見つけると連結を解いて産卵する。産卵はメス単独で行われ、ホバリングをしながら』、『腹部の先で間欠的に浮遊物を打つ。卵は、糸で連なっている。卵の期間は』一~二『週間程度であり、幼虫で』一~二『年間を過ごす。幼虫は水深の深いところで生活する』とある。この団扇状突起は実際にパタパタと可動する(捕獲された方の記録にある)なお、十数件のインセクターの方の「ウチワエンマ」記載を縦覧したが、遂に、この団扇状突起の機能を説明されたものに出逢えなかった。御存じの方は、御教授願いたい。]

二十四、アカトンボ、卽ち赤蜻蛉。種々な種類に此名を今つけて居る。だが殊に赤蜻蛉と古の詩人が言うて居るのは、小さな蜻蛉で、屢〻群を爲して居るものである。

[やぶちゃん注:既注。]

 

Plate6

[やぶちゃん注:キャプションを電子化する。

    Plate  6

Ⅰ. SÉKI-I-SHISHA(“ Red-Robed Messenger ”)

Ⅱ. AKA-TOMBŌ

訳す。

    図版 6

Ⅰ せき・い・ししゃ

Ⅱ あか・とんぼー

「Ⅰ」は前の「二十一」。]

 

二十五、トウスミトンボ、卽ち燈心蜻蛉。非常に小さい。古風な日本のラムプに使用するか細い、木の髓の心(しん)に身體が似て居るので此名があるのである。

[やぶちゃん注:「か細い」でお判りの通り、トンボ目均翅(イトトンボ)亜目イトトンボ科Agrionidae のイトトンボ類の内、特に小型の種類を俗に「トウスミトンボ」と呼ぶようである(イトトンボ全体を古くはそう呼んだとする記載もあった)。イトトンボ類は、本邦では、二十七種が知られ、体長約二センチメートルのヒメイトトンボ Agriocnemis pygmaea が「トウスミトンボ」(「トウスミ」は「豆娘」と書いたり、「とうしみ」と呼んだりするが、小泉八雲の謂うように、これは「灯心蜻蛉」「とうしんとんぼ」が訛ったものと考えるのが自然に思われる)その代表種か。]

二十六、モノサシトンボ、卽ち尺蜻蛉。これもまた甚だ小さな蜻蛉である。關節の條(すぢ)の十あるその身體がこの名を思ひ附かせたのである。――普通竹で出來て居る尋常一般の日本の物指は、甚だ幅の狹いもので、ただ十スン卽ち十吋[やぶちゃん注:「インチ」。しかし、この換算はいい加減。「一寸」は三十・三センチメートルであるのに、十インチは二十五・四センチメートルである。]に區劃されて居る。

[やぶちゃん注:均翅(イトトンボ)亜目モノサシトンボ科モノサシトンボ属モノサシトンボ Copera annulataウィキの「モノサシトンボ」によれば、『中国、朝鮮半島、日本に分布する』。『日本では、北海道、本州、四国、九州に広く分布する』が、『小笠原諸島と南西諸島での生息は確認されていない』。『成虫は中型で』、『イトトンボ亜目』Zygoptera『の中では大きい』。『秋に出現する個体は小さい』。『近縁種のオオオモノサシトンボ(学名:Copera tokyoensis (Asahina, 1848))』『と形態が酷似する』。『腹部に物差しのような等間隔』『の環状紋があり』、『和名』「物差し」『の由来となっている』。『後頭部に青白い斑紋があり』『複眼は左右に離れていて、複眼の内側に波状の斑紋がある』。『前翅と後翅は同じ形で同じ大きさ』で、『翅に黄色と黒の斑紋があり、若い個体の斑紋は赤色』を呈する。全長は♂で三・九~五センチメートル、腹長三・一~四センチメートル、後翅長は一・八~二・六センチメートル。『成熟すると』、『斑紋が水色となる』。『中脚と後脚の脛節は白くやや拡がる』。『腹部第』九『節』と第十『節が青白い』。『斑紋が黒化した個体も時々見られる』。♀の成虫は殆んど♂に同じ(孰れもごく少しだけ大きい)』で、『黄緑色と水色の個体がいる』。「ヤゴ」の『全長は約』二・七センチメートルで、『木の葉』のような三『枚の尾鰓は長大な柳葉状で、長さは腹長とほぼ同じ』。『下唇はスプーン形』を呈する。『平地から丘陵地にかけて分布』し、『河川の中流域の樹林に囲まれた池、沼や湿地』『でよく見られ』、『岸辺が暗い環境を好む』。『成熟したオスは縄張りを持ち』、『水辺の植物に翅を閉じて』『静止し、時々』、『周囲を飛翔してメスを探す』。『他のオスが近づくと追い払う』。『メスを見つけたオスは連結し、植物に止まって移精と交尾を行う』。『交尾は午前中に行われることが多い』。『交尾後』、『連結態のまま』、『水面付近の植物に産卵したり、メス単独で産卵したりする』。『ヤゴは捕獲されると』、『脚を縮め、U字型に体を曲げて死んだふりをする』。『生物化学的酸素要求量(BOD)が10-20 (mg/l)の汚れた止水の水質環境に生育する』。『卵期間は』一~二『週間程度』で、『幼虫(ヤゴ)期間は』四ヶ月から一年程度(一年に一、二世代を経過する)、『幼虫で越冬する』。『成虫の主な出現期間は』五月末から九月であるが、ライフ・サイクルから、四月や十~十一月に『見られることもある』とある。]

二十七、ベニトンボ、色が赤い爲めにつけたもので、淡紅色の美しい蜻蛉である。ベニといふは日本の女の子が或る場合にそれを脣や頰に少しつける一種の臙脂である。

[やぶちゃん注:トンボ科ベニトンボ亜科ベニトンボ属ベニトンボ Trithemis aurora 。参照したウィキの「ベニトンボ」によれば、『湖沼や湿地などで見られる中型のトンボ。体長は約』四センチメートルで、『胸部には黒い縞模様があり、尾の先は黒くなる』。『羽の基部は茶褐色に色づく』。『オスの成虫は体色が赤紫色になるが、メスの体色はオレンジ色となる』とある。♂は、かなり特徴的な色で、小泉八雲が「臙脂」と言っているのが納得出来る。]

二十八、メクラトンボ、卽ち盲蜻蛉。この名を有つた[やぶちゃん注:「もつた」。]蜻蛉は決して盲目では無い。然しその大きな身體を不細工に室内の品物へぶつつけるので、一時(いつとき)視力の無いものと想像されて居たのである。

[やぶちゃん注:ネット検索を掛けると、各地で「イトトンボ」類をこう呼んでいることが判った(差別和名でそのうち、消滅してしまうであろうが)。しかし、飯室の「蟲譜圖說」のそれを見るに、これは「イトトンボ」類ではない。小泉八雲はこのキャプションをもとに本文も書いているから、小泉八雲自身は「イトトンボ」の類とは思っていないものと、私は思う。

二十九、カトンボ。卽ち蚊蜻蛉。――多分、亞米利加のモスキイトホークと同じ意味のものであらう。

[やぶちゃん注:無論、トンボではなく、双翅(ハエ)目糸角(カ)亜目ガガンボ下目ガガンボ上科ガガンボ科 Tipulidae のガガンボ亜科 Tipulinae・シリブトガガンボ亜科 Cylindrotominae・ヒメガガンボ亜科 Limoniinae に属するガガンボ類の異名。

「モスキイトホーク」不審。原文は“Mosquito Dragon-fly”。しかし、アメリカ英語にこの単語は見出せない。そこで大谷氏の訳から“Mosquito hawk”で画像検索を掛けたところ、バッチリ「ガガンボ」のオン・パレードとなった! 英語では“Crane fly”とも呼ぶ。]

三十。クロヤマトンボ、卽ち黑山蜻蛉。――ヤマトンボ卽ち山蜻蛉といふがあるが、これは大抵綠色をして居るので、それと區別する爲めに斯く呼んだものであらう。

[やぶちゃん注:不詳。小泉八雲は殆んど緑色と言っているから、彼の認識は、ヤンマ、或いは、オニヤンマ類であろう。飯室の「蟲譜圖說」のこれで、これは寧ろ、キャプションも含めて「五」の「コシアキ・トンボ」(コシアキトンボ Pseudothemis zonata)に見えるのだが?

三十一、コヤマトンボ、卽ち小山蜻蛉。形も色も山蜻蛉に似て小さい。

[やぶちゃん注:トンボ目ヤマトンボ科コヤマトンボ属コヤマトンボ Macromia amphigena amphigena 「神戸のトンボ」のこちらを見られたい。

「山蜻蛉」ヤマトンボ科 Macromiidae はあるが、ヤマトンボという和名の種のトンボはいないようである。]

三十二、ツケテダン。ダンといふ語は雜色の織物への總名である。でツケテダンとは『色んな色の衣物を着たもの』と大まかに譯してもよからう。

[やぶちゃん注:飯室の「蟲譜圖說」のここに出る。画はヤンマ系。しかし、キャプションから、これも、本邦産じゃないみたいなので、深追いしない。悪しからず。流石に――疲れた…………

 【2019年10月15日16:27追記】今になって、迂闊にも本篇「蜻蛉」の最後で、大谷氏が纏めてこれらの「蜻蛉」類に就いての訳注(一つに纏められてある)を附しているのに気づいた(則ち、以上の注はあくまで私独自の探究によるものである)。現在、取り敢えず、その訳者注をテクスト化したので、以下に取り敢えず示しておく。一見して分かる通り、学名が異なるものがある。これはシノニムであったり、後に学名変更が行われたものも含まれるが、拡大してみても、脱字としか思えない奇体な学名もある。明日以降、それらに就いては、私の個々の注を附して示したいと思うが、今日のところは、「譯者註」を追加するに留める(奇体な部分もそのままに示す。学名の綴りは拡大して確認した)。底本ではポイント落ち字下げであるが、本文と同じにした。学名が斜体になっていないのもママである。【同日21:21追記】気持ちが悪いので、酒を飲むのを切り上げて、注を附した。

譯者註 ムギワラトンボは學名 Orthctrum japonicus. シホカラトンボは別種では無く、麥藁蜻蛉の雄である。キノトンボは學名 Diplax croccola. アヲトンボは――學名上此名は無い。コシアキトンボの學名は Pseudothemis zonata。『蟲譜圖說』には、之をトノサマトンボともいふ人あり。トノサマトンボは腰が白い。キノトンボの一變種か。コムギトンボ――麥藁蜻蛉の一變種か。動物學上にはこの名は無いやうである。ツマグロトンボは殿樣蜻蛉の翅の尖端が黑いもの。クロトンボとカラカサトンボとは譯者には學名不詳。テフトンボの學名は Rhyothemis fuliginosus. 全身淡黑して翅の先き白し、と『蟲譜圖說』には書いてある。シヤウジヤウトンボの學名は Crocothemis servillia. ハグロトンボの學名は譯者はこれを知らぬ。オニヤムマの學名は Anotogaster Sieboldii[やぶちゃん注:種小名の頭文字大文字はママ。]. オホヤマトンボともいふ。キヤムマは「鬼ヤンマ」とあるが、鬼(き)では無く、黃(き)であらう。キトンボともいつて、黃色で、翅も淡黃、大小の黑點がその翅にゐる。學名未詳。シヤウリヤウトンボは、『言海』に據ると、キヤムマと同じものらしい。精靈祭頃に見るのにこの名を與へるのではあるまいか。ユウレイトンボ――動物學上にはこの名を見ぬ。カネツケトンボの學名は Calopteryz atrata[やぶちゃん注:ママ。]. タノカミトンボ――『蟲譜圖說』には、形キノトンボに似て、身丹黃、尻に黑斑あり、足黑く、翅赭色、とあれども、會津地方で或る種のもに與ヘて居る地方名らしい。ヤナキヂヤラウ 學名は譯者には分からぬ。セキイシシヤは別種では無く、猩々蜻蛉の別名である。ヤムマトンボの學名は Anax pa thenope[やぶちゃん注:属名はママ。脱字であろう。]. キンヤムマとも呼ぶ。クルマヤムマの學名は譯者には未詳。アカトンボ――これは種の名では無くて、小さな赤い色の蜻蛉の總稱かと思ふ。トウスミトンボの學名は  Agrion quadrigerum. モノサシトンボ――動物學上この名は無いやうである。ベニトンボもメクラトンボも動物學上認めぬもののやうである。前者は或は Psilocnemis annulata か。カトンボは實は蜻蛉では無い。蜉蝣科のものである。異名 Heptagenio binotata. 亞米利加のモスキイトホークと同意味のものでもらう、と原著者は言うて居るが、モスキイトホークは蚊を好んで食ふ一種の蜻蛉。日本のこのカトンボは蚊のやうに、小さいからこの名を有つて居るのであらう。クロヤマトンボの學名は譯者之を知らぬ。コヤマトンボの學名は Epophthalmiaa mphigena. ツケテダンといふは實は譯者にも不明である。『蟲譜圖說』に載つてゐたので、當時そのまま、譯者は原著者に報道したのであつた。

[やぶちゃん補足注:「ムギワラトンボは學名 Orthctrum japonicus」ありそうな感じだったが、欧文のリストを見たが、シオカラトンボOrthetrum albistylum speciosum のシノニムにはこれは見当たらなかった。或いは、大谷氏は、同属のシオヤトンボ Orthetrum japonicum japonicum を二名法で表記したものを誤認したのではなかろうかとも思われる。

「シホカラトンボは別種では無く、麥藁蜻蛉の雄である」私が注した通りで正しい。

「キノトンボは學名 Diplax croccola」キトンボ Sympetrum croceolum のシノニムには見当たらない。感じからは、大きな属名変更が行われた可能性があり、その際に種小名の綴りも変更されたのかも知れない。にしても、シノニムは記載ととして残る筈だが、「 Diplax 」属自体が全く見当たらない。不審。

「アヲトンボは」「學名上此名は無い」正しい。

「コシアキトンボの學名は Pseudothemis zonata」正しい。

「トノサマトンボは腰が白い。キノトンボの一變種か」私は注で「不均翅(トンボ)亜目オニヤンマ科オニヤンマ属オニヤンマ Anotogaster sieboldii を始めとして大型のヤンマ類や、やはり大型のヤンマ上科サナエトンボ科 Gomphidae の複数の種に対して、多くの地方でこの名が汎用されている」と述べた。それが孰れであっても、属名どころか科レベルのタクソンが異なるので変種ではなく、全くの別種となる。

「コムギトンボ――麥藁蜻蛉の一變種か。動物學上にはこの名は無いやうである」私は注でこれをシオヤトンボ Orthetrum japonicum の異名の可能性が大とした。同種は「麥藁蜻蛉」=シオカラトンボ属の一種であるから、もし私の同定が正しいとすれば、変種ではなくて同属の別種となる。

「ツマグロトンボは殿樣蜻蛉の翅の尖端が黑いもの」大谷氏は「殿樣蜻蛉」の同定を誤っているので、この説明は学術的には無効となる。

「クロトンボとカラカサトンボとは譯者には學名不詳」私は前者の候補の一つして、イトトンボ亜目カワトンボ上科カワトンボ科カワトンボ亜科アオハダトンボ属ハグロトンボ Calopteryx atrata を挙げた(あくまで名前の印象からではある)。後者は注で示唆したように、これは中国産種であって本邦には棲息せず、和名はない、とするのが結果した私の判断である。

「テフトンボの學名は Rhyothemis fuliginosus」現行は Rhyothemis fuliginosa で、種小名の末尾が異なるが、如何にもありそうな綴りであり、洋書の一部の種名索引を見るに、チョウトンボの古いシノニムであった可能性が高い。

「シヤウジヤウトンボの學名は Crocothemis servillia」現行は三名法で Crocothemis servilia mariannae であるから、正しい。

「ハグロトンボの學名は譯者はこれを知らぬ」実在するハグロトンボの学名は示した通り、Calopteryx atrata である。しかし、注で留保した通り、本種であるかどうかは怪しい。

「オニヤムマの學名は Anotogaster Sieboldii」正しいが、種小名の頭文字大文字は誤り。ただ、古記録を見ると、種小名を大文字化するものはしばしば認められる。

『キヤムマは「鬼ヤンマ」とあるが、鬼(き)では無く、黃(き)であらう』私も注でそう述べた。但し、「學名未詳」とあるが、私はこれはヤンマ類ではなく、トンボ目トンボ科アカネ属キトンボ Sympetrum croceolum ではあるまいか、という注を附した。そちらを見られたい。

「シヤウリヤウトンボは、『言海』に據ると、キヤムマと同じものらしい」所持する「言海」を見ると、『しやうりやうとんぼ』の項に『きやんまニ同ジ』とある。そこで「きやんま」の項を見ると、『黃蜻蜓』『とんぼうノ一個、やんまヨリ小クシテ、紅黃ナリ、初秋イ多ク飛ブ、聖靈祭ノ頃ナレバしやうりやうとんぼノ名モアリ。又、きとんぼ。胡黎』(「胡黎」には右に二重線)とある。

「ユウレイトンボ」「動物學上にはこの名を見ぬ」私は「二十、ヤナギヂヨラウ」の注で述べた通り、広義のカゲロウ類を指すものと考えている。これは確信に近い。

「カネツケトンボの學名は Calopteryz atrata」注で述べた通り、現行のハグロトンボ Calopteryx atrata の異名と私は考えている。大谷氏もそう考えたわけであるが、学名の属名が致命的におかしい。これは発音が出来ない。恐らく、植字ミスと思われる。

「タノカミトンボ」「會津地方で或る種のもに與ヘて居る地方名らしい」大谷氏は恐らく、私が注した「本草綱目啓蒙」を見たのだと思う。『タノカミトンボ【會津】』とあるからである。しかし、私はその記載からトンボ科アカネ(アカトンボ)属 Sympetrum の多様な「赤蜻蛉」類を指すと比定した。

「ヤナキヂヤラウ 學名は譯者には分からぬ」判らないはずである。注で示した通り、私はこれはトンボ類ではなく、広義のカゲロウ類と断じているからである。必ず、その注を見られたい。

「セキイシシヤは別種では無く、猩々蜻蛉の別名である」大谷先生、違います。どう考えても、見ても、中国での広義の「赤蜻蛉」の異称ですよ。

「ヤムマトンボの學名は Anax pa thenope」これは完全な植字工のミスである。「Anax pa」はオニヤンマ属 Anotogaster の誤植と見てまずはよいと思うが、問題は種小名で、オニヤンマ Anotogaster sieboldii とは全く異なる。オニヤンマ科 Cordulegastridae ではなく、ヤンマ科 Aeshnidae を調べても、およそ、この綴り字に似たものはいない。不審極まりない。「キンヤムマとも呼ぶ」とあるが、前掲通り、その学名とも一致しない。不審の極みである。

「クルマヤムマの學名は譯者には未詳」私はウチワヤンマ Sinictinogomphus clavatus に自信を以って同定比定した

「アカトンボ」「これは種の名では無くて、小さな赤い色の蜻蛉の總稱かと思ふ」正しい。

「トウスミトンボの學名は  Agrion quadrigerum」私はヒメイトトンボ Agriocnemis pygmaea  とした。綴りが話にならないほど異なるのだが、やはり英文の種索引を見ると、これはシノニムであった可能性が排除出来ない気がした。

「モノサシトンボ――動物學上この名は無いやうである」これは、外れです、大谷先生。モノサシトンボ Copera annulata です。

「ベニトンボもメクラトンボも動物學上認めぬもののやうである。前者は或は Psilocnemis annulata か」前者はベニトンボ Trithemis aurora と私は比定したが、この大谷の言う「Psilocnemis annulata」というのは、どうも、彼が調べる内に、前のモノサシトンボと混同して誤認して注してしまった可能性が極めて高いと私は思う。何故なら、モノサシトンボ Copera annulata、実は現在でも、別属の Psilocnemis の種として扱われる場合があるからである(ウィキの「モノサシトンボ」を参照されたい)。annulata」と「 aurora 」は生理的に気持ちが悪いほど似ているではないか。

「カトンボは實は蜻蛉では無い。蜉蝣科のものである。異名 Heptagenio binotata. 亞米利加のモスキイトホークと同意味のものでもらう、と原著者は言うて居るが、モスキイトホークは蚊を好んで食ふ一種の蜻蛉」「蜉蝣科」は致命的な誤り(或いは当時はそう思われていたか? いや、それはちょっとなかろう。そもそもカゲロウ科というタクソンは少なくとも現在は存在しない(蜉蝣(カゲロウ)目 Ephemeroptera はある)。既に注した通り、ガガンボ類、双翅(ハエ)目糸角(カ)亜目ガガンボ下目ガガンボ上科ガガンボ科 Tipulidae に属する。しかも、注で述べた通り、「亞米利加のモスキイトホークと同意味のものでもらう、と原著者は言うて居」りませんよ! 大谷先生! 小泉八雲は「モスキート・ドラゴン・フライ」って言ってるんですッツ! しかも、「モスキイトホーク」“Mosquito hawk”を逆引きすると、実はこれ、不均翅(トンボ)亜目 Anisoptera に属する多様なトンボ類を指す総称でんがな!

「日本のこのカトンボは蚊のやうに、小さいからこの名を有つて居るのであらう」おかしいですよ! 大谷先生! 彼らは「蚊」よりも驚くべく大きいじゃあないですか!?!

「コヤマトンボの學名は Epophthalmiaa mphigena」現行のコヤマトンボは Macromia amphigena amphigena 。「Epophthalmia」なら、トンボの科の属にはあるが、本邦産種は同科にはいないようである。

「ツケテダンといふは實は譯者にも不明である。『蟲譜圖說』に載つてゐたので、當時そのまま、譯者は原著者に報道したのであつた」実状を暴露されましたな、大谷先生。しかし、誠実です。]

 

 上記の目錄のうちで、なほ進んで說明の要ある名は、『死者の蜻蛉』といふ意味のシヤウリヤウトンボ又の名シヤウライトンボだけであらうと思ふ。同じく無氣味なユウレイトンボ卽ち幽靈蜻蛉とは異つて、シヤウライトンボといふ名は、その姿形に關係を有つた名では無くて、或る種の蜻蛉には――翼ある馬として――死者が騎つて[やぶちゃん注:「のつて」。]居るといふ、妙な迷信から來て居るのである。舊曆七月の十三日の朝から十五日の夜半まで――盆會のあひだ――蜻蛉は、その時分にその舊の家を見舞はるミホトケサマ卽ち祖先の靈を背負つて居る、と言はれて居る。だから、佛敎の此の『萬靈節』中は、子供はどんな蜻蛉でもそれを――殊にその折家の內へ偶〻入つて來る蜻蛉を――いぢめることを禁ぜられる。蜻蛉と超自然界との此の想像されて居る關係が、今なほ方々の國に行はれて居る、蜻蛉とる子は『智慧を得ぬ』といふ意味の、古くからの諺を說明する役に立つ。も一つ奇妙な信仰は、或る種の蜻蛉はクワンノンナマ(觀音菩薩)を背に負うて居る、といふ信仰である。――背の斑點模樣が佛像の形に微かに似よりがあるからのことである。

[やぶちゃん注:「佛敎の此の『萬靈節』」原文は“this Buddhist " All-Souls,"”。本来、この「All-Souls」は、キリスト教で全ての死者の魂のために祈りを捧げる「死者の日」または「万霊節(ばんれいせつ:All Soul’s Day)を指す。ローマ・カトリック教会では正式には“The Commemoration of All the Faithful Departed”(「信仰を持って逝った人全ての記念日」)と呼ぶ。大のキリスト教嫌いの小泉八雲が英語圏読者のために使ったのだと思うと、何となく、私は心にチクチクと、痛みを感ずるのである。]

2019/10/13

大和本草卷之十三 魚之下 海鰌 (クジラ)

【外】海鰌 倭名イサナドリ昔ハクジラヲモリニテツカス弓ニテ

 射ル死乄浦ニヨルイスナトリナリ古哥ニモヨメリ近江ノ

 湖ニイサナトリヲヨメルハ磯菜取ナリ月山叢談ニ捕

 巨鰍㳒アリ本邦ニクシラヲトル法ト同閩書曰巨能

 吞舟日中閃鬐鬣若簸朱※噴沫飛洒成雨其來

[やぶちゃん注:「※」=「方」+「廣」。電子化途中で不審を覚えたので、複数の同一文脈の複数の漢籍に当たったところ、「※」は「旗」であったので、訓読ではそれに代えた。

 也移如山嶽乍出乍没舟行相値必鳴金鼓以怖

 之云云刳為油○今案順和名抄以鯨鯢クシラトス

 崔約古今注鯨鯢大者長十里小者數丈一生數

 萬子異物志曰雄為鯨雌為鯢○海鰌魚之最大

 者泥鰌之最小者雖大小不同其形狀相似故

 以海鰌称ス日本ニテ海鰌其品凡六種アリ其内

 大小アリ慶長年中筑紫諸浦ノ漁人初テホコヲ

 以テツキ得テ油ヲトリ肉ヲスツ其後肉ヲ食シ

 腸ト骨ヲスツ又其後ワタヲ食ス其後頭骨ヲ

 食ス又クシラノヒケト云ハノトノ下ナルヲサナリ噐用ト

 ス皮ハ黑シ其内ニ白肉アリ又白肉ノ下ニ赤肉アリ味

 有好否冬春捕之春月最多シ海鰌ノ腸ノ名多

 シ百尋ト云長キ腸アリ可食凡鯨ノ油貧士賤

 民以爲燈油甚利民用○海鰌性熱肥膩多膏油

 食之生熱動風發瘡生痰多食難消化能傷脾胃

 病人及有脾積瘡疥者婦人有崩漏帶下病者不

 可食其近尾白肉味最好塩藏日久者夏月食之

 味美能峻補脾胃肥健於人虛冷無積滯人宜食

 止久瀉若新病濕熱盛者不可食

○やぶちゃんの書き下し文

【外】海鰌(くじら) 倭名「いさなどり」。昔は、「くじら」を、もりにて、つかす、弓にて射る、死して、浦に、よる。「いすなとり」なり。古哥にも、よめり。近江の湖〔(うみ)〕に「いさなとり」をよめるは、「磯菜取(いそなどり)」なり。「月山叢談」に巨鰍を捕る㳒〔(はう)〕[やぶちゃん注:「法」の異体字。]あり。本邦に「クシラ」をとる法と、同じ。「閩書〔(びんしよ)〕」に曰はく、『巨〔(おほきなる)〕は能く舟を吞む。日中、鬐〔(ひれ)〕・鬣〔(たてがみ)〕を閃(ひらめ)かす。朱〔(あか)き〕旗を簸(あふ)る[やぶちゃん注:「煽(あお)る」の意。]がごとく、沫〔(しぶき)〕を噴して飛〔ばし〕洒〔そそぎ〕て雨と成し、其れ、來たるなり。移〔るに〕山嶽のごとく、出〔でつ〕、没〔しつ〕、す。舟の行き、相ひ値〔(あ)〕へば、必ず、金鼓を鳴らして、以つて之れを怖(をど)すと』云云〔(うんぬん)〕。刳〔(くり)〕て、油と為す。

○今、案ずるに、順が「和名抄」、「鯨鯢」を以つて「くしら」とす。崔約が「古今注」に『鯨鯢〔(げいげい)〕の大なる者、長さ十里。小なる者、數丈。一〔(いつ)〕に、數萬子を生む』〔と〕。「異物志」に曰はく、『雄を「鯨」と為し、雌を「鯢」と為す』〔と〕。

○海鰌(くじら)は、魚の最大なる者〔なり〕。泥鰌は最小なる者〔なり〕。大小〔は〕同じからずと雖も、其の形狀、相ひ似る。故に「海鰌」を以つて称す。日本にて海鰌、其の品、凡そ六種あり。其の内、大小あり。慶長年中、筑紫諸浦の漁人、初めて「ほこ」を以つて、つき、得て、油をとり、肉を、すつ。其の後、肉を食し、腸と骨を、すつ。又、其の後、「わた」を食す。其の後、頭骨を食す。又、「くじらのひげ」と云ふは、のどの下なる「をさ」なり。噐用とす。皮は黑し。其の内に白肉あり。又、白肉の下に赤肉あり。味、好否〔(かうひ)〕有り。冬・春、之れを捕へ、春月、最も多し。海鰌の腸〔(はらわた)〕の名、多し。「百尋〔(ひやくひろ)〕」と云ふ、長き腸あり。食ふべし。凡そ、鯨の油、貧士賤民、以つて燈油と爲し、甚だ民用に利〔せり〕。

○海鰌、性、熱。肥〔なる〕膩〔(あぶら)に〕、膏油、多し。之れを食へば、熱を生じ、風〔(ふう)〕を動かす。瘡を發し、痰を生ず。多く食へば、消化し難し。能く脾胃を傷つく。病人及び脾積〔(ひしやく)〕・瘡疥の有る者、婦人の崩漏(ほうろう)・帶下〔(こしけ)〕の病ひ有る者、食ふべからず。其の尾の近くの白肉、味、最も好し。塩藏〔して〕日〔の〕久〔しき〕者、夏月、之れを食へば、味、美〔(よ)〕し。能く脾胃を峻補し、人を肥健す。虛冷〔にして〕積滯の無き人、宜しく食ふべし。久しき瀉を止む。若〔(も)〕し、新病〔にして〕濕熱〔の〕盛〔んなる〕者〔は〕、食ふべからず。

[やぶちゃん注:哺乳綱獣亜綱真獣下綱ローラシア獣上目 Laurasiatheria 偶蹄(鯨偶蹄)目クジラ亜目Cetacea のクジラ類。その下位でヒゲクジラ下目 Mysticeti(シロナガスクジラ(白長須鯨。ナガスクジラ科ナガスクジラ属シロナガスクジラ Balaenoptera musculus)等)・ハクジラ下目 Odontoceti(マッコウクジラ(ハクジラ小目マッコウクジラ科マッコウクジラ属マッコウクジラ Physeter microcephalus)やイルカ類(シャチ(マイルカ科シャチ亜科シャチ属シャチ Orcinus orca)も含まれる)等)に分かれる。但し、益軒は後で「イルカ」を独立項として出すので、それは除外される。

「いさなどり」濁音は底本のママ。また、これを「くじら」の古名とするのは、おかしい。「いさな」でよい。「いさなとり」(鯨魚取り・勇魚取り)は、言わずもがな、元は「クジラを捕る場所。漁」の意で、「海」・「浜」・「灘(なだ)」に掛かる枕詞である。

「いすなとり」文脈から見ると、益軒は、最終的に大型の鯨は銛や弓を放って後、浦に寄ってくるのを待つので、「居漁り(ゐすなどり)」(「すなどる」は「魚貝類を漁ること」の意である)と謂っているように思われるが、これは牽強付会としか思えない。小学館「日本国語大辞典」にも出ない。

「古哥にも、よめり」「万葉集」に十七首に詠み込まれている。不思議に惹かれる一首を紹介する。巻第十六の詠み人知らずの「無常の歌二首」の一つ、旋頭歌である(三九五二番)。

 鯨魚取り海や死にする山や死にする死ぬれこそ海は潮(しほ)干(ひ)て山は枯れすれ

大いなる自然にも死があるという釈教歌であう。

「近江の湖〔(うみ)〕」謂わずもがな、琵琶湖。

「磯菜取(いそなどり)」岸辺の水中に植生する食用に供される(ここは)淡水産水藻類や顕花植物の水草類を採ることを言っている。

「月山叢談」清の文人李文鳳撰。散逸しているものか、原文に当たることが出来なかった。

「巨鰍」この「鰍」の字は現行では通常、「カジカ」(条鰭綱カサゴ目カジカ科カジカ属カジカ Cottus pollux)を指すが、別に「ドジョウ」(条鰭綱骨鰾上目コイ目ドジョウ科ドジョウ属ドジョウ亜種ドジョウ Misgurnus anguillicaudatus)の意もある

「閩書」明の何喬遠撰になる福建省の地誌「閩書南産志」。

「刳〔(くり)〕て」皮下の脂肪層に穴を空けて、それを抉(えぐ)り採ることを言っていよう。

「油と為す」後の箇所で、利用の変遷が語られてあるが、恐らく長く(一部の漁民以外は)鯨油を採取する目的のみでクジラ漁が行われていたことを意味している。嘗て下劣なアメリカがやっていたことと同じだ。その肉を日本に売り、私の世代までは小学校の給食に三日に上げず、鯨肉が出たものだった。因みに、私は捕鯨賛成派である。科学的にもミンククジラは増え過ぎており、北洋の生態系を壊しつつあることは、世界の鯨類学者が認めている。今もアメリカ物資汚染のお蔭で、私は鯨肉が大好きだ。

『順が「和名抄」、「鯨鯢」を以つて「くしら」とす』「和名類聚鈔」の巻第十九の「鱗介部第三十 竜魚類第二百三十六」に、

   *

鯨鯢(くちら) 「唐韻」に云はく、『大魚雄曰鯨【「渠」・「京」の反。】雌を「鯢」【音「蜺」。和名「久知良」。】と曰ふ』〔と〕。「淮南子」に曰はく、『鯨鯢、魚の王なり』〔と〕。

   *

とある。

「崔約」「崔豹」の誤り。晋(二六五年~四二〇年)の学者。晋恵帝(在位:二九〇年~三〇七年)の時に太子太傅丞に至っている。「古今注」は全三巻。

「長さ十里」当時の一里は約四百メートル強。それでもデカ過ぎ。

「數丈」当時の一丈は二メートル強。

「一〔(いつ)〕に、數萬子を生む」一度に数万の子を産む。あり得ない。

「異物志」三国時代の沈瑩(しんえい)の浙江臨海郡の地方地誌「臨海水土異物志」か。史上初の台湾の歴史・社会・住民状況を記載するものとして注目されるものである。

「日本にて海鰌、其の品、凡そ六種あり」サイト「くじら」のこちらで見ると、イルカ類を除いても(益軒は後で「海豚」の独立項を立てている)、本邦に棲息するクジラ類は十七種を数える。六種なんだから、益軒先生、名を挙げといてくれりゃあ、いいものを! まあ、

セミクジラ(背美鯨/勢美鯨:ヒゲクジラ亜目セミクジラ科セミクジラ属セミクジラ Eubalaena japonica

コククジラ(克鯨/児童鯨:ヒゲクジラ亜目ナガスクジラ上科コククジラ科コククジラ属コククジラ Eschrichtius robustus

シロナガスクジラ(白長須鯨:ナガスクジラ科ナガスクジラ属シロナガスクジラ Balaenoptera musculus

ナガスクジラ(長須鯨:ナガスクジラ属ナガスクジラ Balaenoptera physalus

ザトウクジラナ(座頭鯨:ナガスクジラ科ザトウクジラ属ザトウクジラ Megaptera novaeangliae

マッコウクジラ(マッコウクジラ科マッコウクジラ属マッコウクジラ Physeter microcephalus

かなあ?

「慶長」一五九六年から一六一五年。本邦の捕鯨史は縄文時代まで溯る。ウィキの「日本の捕鯨」によれば、約八〇〇〇年前の『縄文前期の遺跡とされる千葉県館山市の稲原貝塚においてイルカの骨に刺さった黒曜石の、簎(やす、矠とも表記)先の石器が出土していること』、約五〇〇〇年前の『縄文前期末から中期初頭には、富山湾に面した石川県真脇遺跡で大量に出土したイルカ骨の研究によって、積極的捕獲があったことが証明されている』とある。『奈良時代に編纂された万葉集においては、鯨は「いさな」または「いさ」と呼称されており、捕鯨を意味する「いさなとり」は海や海辺にかかる枕詞として用いられている』。十一『世紀の文献に、後の醍醐組(房総半島の捕鯨組)の祖先が』八五一『年頃に「王魚」を捕らえていたとする記録もあり、捕鯨のことであろうと推測されている』。『鎌倉時代の鎌倉由比ヶ浜付近では、生活史蹟から、食料の残存物とみられる鯨やイルカの骨が出土している。同時代の日蓮の書状には、房総で取れた鯨類の加工処理がなされているという記述があり、また房総地方の生活具にも鯨の骨を原材料とした物の頻度が増えていることから、この頃には房総に捕鯨が発達していたことやクジラやイルカなどの海産物が鎌倉地方へ流通していたことが推定されている』。『海上において大型の鯨を捕獲する積極的捕鯨が始まった時期についてははっきりとしていないが、少なくとも』十二『世紀には』、『湾の入り口を網で塞いで鯨を捕獲する追い込み漁が行われていた』。さても、この記載と関わる「突き取り式捕鯨時代」の項を見る。『突き取り式とは銛、ヤス、矛(槍)などを使って突いて取る方法であり、縄文時代から離頭式銛などで比較的大きな魚(小型のクジラ類を含む)を捕獲していた。また遺跡などの壁画や土器に描かれた図から縄文や弥生時代に大型のクジラに対し』、『突き取り式捕鯨を行っていたとする説もある』。「鯨記」(明治元(一七六四)年著)に『よれば、大型のクジラに対しての突き取り式捕鯨(銛ではなく矛であった)が最初に行われたのは』、一五七〇年頃(永禄十三年相当。室町時代)の『三河国であり』、六~八艘の『船団で行われていたとされる』。十六『世紀になると』、『鯨肉を料理へ利用した例が文献に見られる。それらの例としては』、永禄四(一五六一)年に『三好義長が邸宅において足利義輝に鯨料理を用意したとする文献が残されている。この他には』、天正一九(一五九一)年に『土佐国の長宗我部元親が豊臣秀吉に対して鯨一頭を献上したとの記述がある。これらはいずれも冬から春にかけてのことであったことから、この時季に日本列島沿いに北上する鯨を獲物とする常習的な捕鯨が開始されていたと見られる。三浦浄心が』慶長一五(一六一四)年に『著したとされる『慶長見聞集』によると、尾張と伊勢では鯨を突いていたが、関東では突くことはなかった。文禄期』(一五九二年~一五九六年)『に尾張の鯨突きの間瀬助兵衛が相模三浦に来て、鯨の突き取り漁が三浦半島に伝わったことが記述されている』。『戦国時代末期にはいると、捕鯨用の銛が利用されるようになる。捕鯨業を開始したのは伊勢湾の熊野水軍を始めとする各地の水軍・海賊出身者たちであった。紀州熊野の太地浦における鯨組の元締であった和田忠兵衛頼元は、慶長一一(一六〇六)年に、『泉州堺(大阪府)の伊右衛門、尾州(愛知県)知多・師崎の伝次と共同で捕鯨用の銛を使った突き取り法よる組織捕鯨(鯨組)を確立し』、「突組」と『呼称された。この後』、元和四(一六一八)年には『忠兵衛頼元の長男、金右衛門頼照が尾州知多・小野浦の羽指(鯨突きの専門職)の与宗次を雇い入れてからは本格化し、これらの捕鯨技術は熊野地方の外、三陸海岸、安房沖、遠州灘、土佐湾、相模国三浦そして長州から九州北部にかけての西海地方などにも伝えられている』(太字下線は私が附した)とある。これから見ると、益軒の「矛突き漁筑紫発祥説」は信じ難い

「頭骨を食す」軟骨部のことであろう。

『「くじらのひげ」と云ふは、のどの下なる「をさ」なり。噐用とす』ヒゲクジラ亜目 Mysticetiのクジラの上顎部に見られる、繊維が板状になった器官。「ひげ板」とも呼ぶ。口腔内の皮膚がヒゲクジラ類に於いて独自に変化したもので、髭や毛とは由来が異なる。濾過摂食のためのフィルターとしての役割を持り、組成は皮膚の角質組織と同じケラチンから成る。上顎の左右に列を成し、それぞれ最大で三百枚程度が生える。「鯨ひげ」は、弾力性などに優れることから、古くから各種の加工材として使用された。参照したウィキの「鯨のひげ」によれば、『古い例としては、正倉院に鯨ひげ製の如意が宝物として収められている。特にセミクジラ科のものは、長くて非常に柔軟かつ弾力があることから重宝され、結果としてセミクジラ科の乱獲の一因ともなった。その後、弾力のある金属線やプラスチックが普及したため、現在では工芸的な用途を除いては需要は殆どない』。以下、使用用途例(一部を加工した)。

・釣竿(日本では、弾力性を生かして釣竿の先端部分に用いられる。現在でも一部で使用されている)

・衣服(整形用の骨に用いる。西洋ではコルセットやクリノリンなどの女性用下着やドレスの腰部に日本では裃の肩などに使用された)

・傘(西洋では傘の骨に用いた。フランス語で「傘の骨」を(os de )baleineというが、これは「鯨」(の「骨」)の意である)

・扇子(本邦で扇子の要(かなめ)として用いていた)

・呉服尺(本邦では着物の仕立て専用の物差しの材料に用いた。「鯨尺」とも呼ばれ、長さの特別独自単位としてその名が残っている。但し、「鯨のひげ」から作られたからとされるが、それは定かではない。鯨尺一尺は曲尺(かねじゃく)の一尺二寸五分に相当し、三十七・八八センチメートル相当である)

・発条(ぜんまい)(江戸時代の日本で「ぜんまい」の材料とされ、からくり人形などに使用された)

・文楽人形(操作索に用いることは有名)

「風〔(ふう)〕を動かす」「風邪」と使うように、漢方で疾患のもととなる悪い邪気を指す。

「瘡」皮膚の湿疹・糜爛。

「脾胃」漢方で広く消化器系を指す語。

「脾積〔(ひしやく)〕」消化器系の、想像上の寄生虫によって発生すると考えられた腫物やしこりの謂いであろう。

「瘡疥」疥瘡で「はたけがさ」、所謂、皮膚病の「はたけ」であろう。主に小児の顔に硬貨大の円形の白い粉を噴いたような発疹が複数個所発する皮膚の炎症性角化症の一つ顔面単純性粃糠疹(ひこうしん)。ウィルス感染原因が疑われているが、感染力はない。私は広汎な一種のアレルギー反応による皮膚疾患をも含んだ症状を指していると考えている。

「崩漏」女性生殖器からの尋常でない出血症状を指す語。

「帶下〔(こしけ)〕」下(お)り物。女性の内部生殖器官から分泌される粘液や組織片などの混合物。病的でないものも含まれる。

「尾の近くの白肉、味、最も好し」所謂、尾の付け根附近の肉で「尾の身」と呼ぶ。現行、一般には刺身を最上とする。私は脂っぽ過ぎて好まない。

「峻補」強い熱性の食材・中薬による保温法。

「積滯」血や痰などの病理上の有害産物が各組織・器官に積み重なって病態を呈していることを指す。

「久しき瀉」慢性の下痢。

「新病」罹患したばかりの病態のことか。

「濕熱」本来は相反してバランスをとるはずの「水」気と「熱」気の双方が体内で過剰になり、相互に融合して重積してしまい、発生する症状を指す。]

大和本草卷之十三 魚之下 鰺 (アジ類)

【和品】

鰺 順和名抄アチト訓ス生東海者形肥大夏秋

 多肉味美冬春味不美以塩漬而乾之亦佳無鱗

 尾上有厚鱗今案性温補發瘡腫痘瘡及諸瘡ヲ

 患ル者不可食又有室鰺嶋鰺味劣

○やぶちゃんの書き下し文

鰺(あぢ) 順〔(したがふ)〕の「和名抄」、「あち」と訓す。東海に生ずる者、形、肥大。夏・秋、肉、多く、味、美〔(よ)し〕。冬・春、味、美からず。塩を以つて漬けて、之れを乾かす。亦、佳なり。鱗、無く、尾の上に、厚き鱗、有り。今、案ずるに、性、温補〔にして〕、瘡腫〔(さうしやう)〕を發す。痘瘡及び諸瘡を患〔(わづらふ)〕る者、食ふべからず。又、室鰺〔(むろあぢ)〕・嶋鰺〔(しまあぢ)〕有り。味、劣れり。

[やぶちゃん注:取り敢えず、条鰭綱スズキ目スズキ亜目アジ科アジ亜科マアジ属マアジ Trachurus japonicus としてよかろう。我々にとって最もお馴染みの食用魚であるが、ウィキの「マアジ」から一部を引用しておく。『成魚の全長は』五十センチメートル『に達するが、よく漁獲されるのは』三十センチメートル『程度までである。体は紡錘形でやや側扁し、頭長は体高より長い。側線は体の中ほどで下方に湾曲し、背鰭第』八『軟条下から尾まで直走する。この側線上には全体に亘って稜鱗(りょうりん : 俗称「ぜんご」「ぜいご」)と呼ばれる棘状の鱗が』六十九個から七十三個『並ぶ。臀鰭の前端部には』二『本の棘条がある。鰓蓋(さいがい、えらぶた)上縁に一つの黒色斑がある。口内では両顎・口骸骨・鋤骨(じょこつ)・舌に細歯がある。背側は緑黒色で腹側は銀白色、中間域は金色である』。『体色と体型は、浅海の岩礁域に定着する「居つき型(瀬付き群)」と、外洋を回遊する「回遊型(沖合回遊群)」で異なる。居つき型は全体的に黄色みが強く、体高が高い。一方、「回遊型」は体色が黒っぽく、前後に細長い体型をしている。例えば東京湾沿岸では居つき型を「キンアジ」「キアジ」、回遊型を「ノドグロ」「クロアジ」などと呼んで区別している』。『ムロアジ属 Decapterus 諸種、メアジ Selar crumenophthalmus 等の類似種がいるが、本種は第二背鰭・臀鰭の後ろに小離鰭が無いこと、側線の全てが稜鱗で覆われること、側線が体の中ほどで大きく下方に湾曲することで区別がつく』。『関西ではマアジを赤アジ、ムロアジを青アジとも呼ぶ』。『北西太平洋の固有種で、北海道から南シナ海までに分布する。特に日本海や東シナ海で個体数が多い』。『地方毎に独立した地方系群もあると考えられ、これらは遺伝子プール・形態・生態・産卵地もわずかずつ異なるとされる。主なものは九州北部群、東シナ海中部群、東シナ海南部群、小さい群として九州南方域、高知沖、関東伊豆付近、瀬戸内海、富山湾がある』。『回遊型は沿岸から沖合の中層・底層を群れで遊泳する。季節に応じた長距離の回遊を行い、春に北上・秋に南下する。一方、居つき型は浅海の岩礁付近に定着し、季節的な回遊をしない。食性は肉食で、動物プランクトン、甲殻類、多毛類、イカ、他の小魚等を捕食する』。『産卵期は地域の気候によって異なり、東シナ海では』一月であるが、『北海道では』八『月となる。早春の東シナ海で仔魚・稚魚が多数見られることから、回遊型は東シナ海で産卵し、これらが黒潮に乗って東アジア沿岸域に分散すると考えられている。産卵数は』成体♀の大きさによって異なり、約十万個から五十六万個に『達する。卵は直径』一ミリメートル弱の『分離浮性卵で』、四十『時間ほどで全長』二・五ミリメートルの『仔魚が孵化する。幼魚は流れ藻に付くことがあり、内湾の浅い海でも見られる』。二~三年で『成熟し、寿命は最長』十二『年という記録がある』。『本種は日本産アジ類の中でも特に漁獲が多く代表種となっていることから「真」が付く』。『新井白石は「アジとは味也、その味の美をいふなりといへり」と記している』。『地方名も多く、アヅ(富山・秋田)、メダマ(東京)、ノドクロ、クロアジ(東京 : 回遊型を指す)キアジ、キンアジ(東京 : 居つき型を指す)、アカアジ(関西 : 稚魚を指す)、ヒラアジ(和歌山・大阪・広島)、ホンアジ(和歌山)、トツカアジ、トツカワ(和歌山)、オオアジ(神戸・松江)、オニアジ(兵庫明石)、ゼンゴ(中国・四国地方)、キンベアジ(鹿児島)、ジンタン(鹿児島 : 稚魚を指す)等がある』。『関アジは豊予海峡で漁獲し、大分県大分市佐賀関で水揚げしたアジの商標である』。なお、アジ亜科 Caranginaeの総説であるウィキの「アジ」の「語源」によれば、『日本語の「アジ」は味が良いことに由来するといわれる』。『「魚」に「参」と書く漢字が当てられるが、この由来は諸説あり、「鱢(ソウ、魚偏に「喿」)」の字の写し間違いであるとする説』、『「おいしくて参ってしまう」の意であるとする説、最も美味の季節が旧暦の』三『月に当たるので』、旁(つくり)に『数字の「参」が使われたとする説などがある』とある。

『順の「和名抄」、「あち」と訓す』源順の「和名類聚鈔」巻十九の「鱗介部第三十」の「龍魚類」第二百三十六に、

   *

鰺(アチ) 崔禹錫が「食經」に云はく、『鰺【「蘇」「遭」の反。「騷」と同じ。和名「阿遲」。】。味、甘温。毒、無し。貌(かたち)、「鯼」に似て、尾に、白剌、相ひ次ぐ者なり。』〔と〕。

   *

とある。「ぜいご」をよく記して、アジ類の記載を思わせるが、しかし、「鯼」(音「ソウ」)はイシモチ(スズキ目スズキ亜目ニベ科シログチ属シログチ Pennahia argentata 或いはニベ科ニベ属ニベ Nibea mitsukurii を指す)の俗字で、イシモチもニベも私はアジ類とは決して似ているとは思わない。

「性、温補〔にして〕、瘡腫を發す」「温補」は漢方で正常な体温を保時させ、補填する性質を謂うが、この文脈ではそれが、「瘡腫」(皮膚が腫れて膿を持った病態)を引き起こす、惹起し易いと言っているようにしか読めない。この「瘡腫」をもっと軽いアレルギ性湿疹と採るにしても、アジ類ではそう頻繁に多数の人に起こるとは考えられないから、この記載は不審である。

「痘瘡」天然痘。

「諸瘡」広義の皮膚の湿疹や糜爛を指す。

「室鰺」狭義にはアジ亜科ムロアジ属ムロアジ Decapterus muroadsi を指すが、ムロアジ属には多くの種が含まれる。ウィキの「ムロアジ」を参照されたい。中でも、クサヤモロDecapterus macarellus は「くさや」の最高級品として賞味される。私も四十年近く前、神津島の製造所で買って民宿で焼いて貰った(同宿の女性二人に大顰蹙を買ったが、宿の主人はにこにこしていた)が、あれは人生最高の「くさや」であった。製造元では「くさや」の漬ける伝来の原液を嘗めさせて貰ったが、非常に美味であったのも忘れられない。

「嶋鰺」しかし、「味、劣れり」はムロアジとともに、断固、抗議する。アジ類ではシマアジは刺身にして最も美味いものですよ! 益軒先生!]

2019/10/12

大和本草卷之十三 魚之下 鮹魚 (ヘラヤガラ・アカヤガラ)

鮹魚 本草ヲ見ルニ關東ニヤカラト云魚是乎細長

 クシテ箭ノ如ク圓ナリ又馬ノ鞭ノ如シ色少アカシ

 觜短ク尾ニマタアリ又觜長キモノアリ肉白シ膈噎ノ

 病ヲ治スト云西州ニモアリタコト訓スルハアヤマリナリ無毒

○やぶちゃんの書き下し文

鮹魚(ヤガラ) 「本草」を見るに、關東に「やがら」と云ふ魚、是れか。細長くして、箭〔(や)〕のごとく、圓〔(まどか)〕なり。又、馬の鞭のごとし。色、少し、あかし。觜〔(くちばし)〕短く、尾に「また」あり。又、觜、長きものあり。肉、白し。膈噎〔(かくいつ)〕の病ひを治すと云ふ。西州にも、あり。「たこ」と訓ずるは、あやまりなり。毒、無し。

[やぶちゃん注:条鰭綱新鰭亜綱棘鰭上目トゲウオ目ヨウジウオ亜目ヤガラ科ヤガラ属 Fistularia のヤガラ類。世界に四種を認めるが、本邦近海では、

アオヤガラ Fistularia commersonii
ヘラヤガラ Aulostomus chinensis
アカヤガラ Fistularia petimba

の三種が知られ、益軒のそれは後者二種である。ウィキの「ヤガラ」によれば、科名ヤガラ科 Fistulariidaeの『由来は、ラテン語の「fistula(パイプ)」』に由来する。『ヤガラ科の魚類はすべて海水魚で、太平洋・インド洋・大西洋の熱帯・亜熱帯域に広く分布する』。上記アカヤガラ『は高級食用魚として珍重される』。ヤガラ科の『類はサンゴ礁や岩礁などの比較的浅い海で生活し、小魚や甲殻類を主に捕食する』。細長い筒状の口を使って、岩やサンゴの間に潜む獲物を吸い込むことに適応している』。『アカヤガラは味の良い魚で』、『入荷量が少ない、白身の高級魚として扱われ』、『椀物、鮨種、刺身で食べられる』。『細長い体と筒状の口』と、『後方に伸長する尾鰭の鰭条が』ヤガラ科の『魚類の特徴で』、『細長い体型をもち、吻(口先)は細長く筒状に発達する』。『最大で全長』一・八メートルに『まで達するが、通常は』一メートル『未満であることが多い』。『近縁のヘラヤガラ科』(ヨウジウオ亜目ヘラヤガラ下目ヘラヤガラ上科ヘラヤガラ科 Aulostomidae)『とよく似た外見を有するものの、ヤガラ類は口』鬚を『もたず、肛門の開口部が』、『腹鰭のすぐ後ろに位置するなど、形態学的な差異は比較的大きい』。『体表には鱗がなく、一部の種類では小突起が列状に並ぶ』。『側線は』、『よく発達し、背部正中に弧を描きながら』、『尾鰭鰭条にまで達する』。『背鰭と臀鰭は棘条を欠き、いずれも』十三~二十『本の軟条で構成され』ている。『尾鰭は二又に分かれ、中央の』二『本の鰭条が著しく伸長する』とある。

「本草」「本草綱目」の、巻四十四の「鱗之三」に、

   *

鮹魚【音「梢」。「拾遺」。】

集解【藏器曰、「出江湖。形似馬鞭、尾有兩岐如鞭鞘。故名。氣味、甘、平。無毒。】

主治【五痔・下血・瘀血在腹。藏器。】

   *

とあるが、「江湖に出づ」というのは淡水魚を指すので、これはヤガラではない(当該種は不詳)。但し、現代中国語ではアカヤガラにこの「鮹魚」を当ててはいる。

「膈噎」「噎」は食物がすぐ喉の附近でつかえて吐く病気を、「膈」は食物が少し下の胸の附近でつかえて吐く病気を指すが、現在では現行の胃癌又は食道癌の類を指していたとされる。しかし、ここは広義の咽喉や気道附近での、咽喉もとの「痞(つか)え」を広汎に指す謂いでとってよかろう。]

小泉八雲 僧興義  (田部隆次譯)

[やぶちゃん注:本篇(原題“The Story of Kōgi the Priest”。「僧興義の話」)は一九〇一(明治三四)年十月にボストンの「リトル・ブラウン社」(LITTLE,BROWN AND COMPANY)から出版された作品集“A JAPANESE MISCELLANY”(「日本雑記」。来日後の第八作品集)の巻頭の「奇談」パートの掉尾である第六話目として置かれたものである。本作品集は“Internet Archive”のこちら(出版社及びクレジットの入ったページを示した)で全篇視認でき(本篇はここから)、活字化されたものとしては、「英語学習者のためのラフカディオ・ハーン(小泉八雲)作品集」のこちらが、本田部訳(同一訳で正字正仮名)と対訳形式でなされており、よろしいかと思われる(海外サイトでも完全活字化されたフラットなベタ・テクストが見当たらない)。

 底本は英文サイト“Internet Archive”のこちらにある、第一書房が昭和一一(一九三六)年十一月に刊行した「家庭版小泉八雲全集」(全十二巻)の第七巻の画像データをPDFで落として視認した実は、私は既に、『柴田宵曲 續妖異博物館 「首なし」(その1) 附 上田秋成「夢應の鯉魚」+小泉八雲「僧興義の話」(英文原文+田部隆次譯)』で、原文と田部氏の訳を電子化している。しかし、今回は、ゼロからやり直してある。 【2025年4月5日:底本変更・正字化不全・ミスタイプ・オリジナル注全補正】時間を経て、国立国会図書館デジタルコレクションに本登録し、現行では、以上の第一書房版昭和一一(一九三六)年十一月に刊行した「家庭版小泉八雲全集」(全十二巻)の第七巻が、国立国会図書館デジタルコレクションで公開されてある。(リンクは扉だが、「家庭版」の文字はない。しかし、奥附を見て貰うと『家庭版』とあり、『昭和十一年十一月二十七日 發 行』とあることが確認出来る)、これが、前掲の底本と同じものであるが、やはり、外国のサイトのそれを底本とするのは、日本人小泉八雲に失礼であると考えた。されば、こちらで、再度、以下の「骨董」の作品群を改めて校正することとする。これが――私の小泉八雲への「義」――である。なお、これよりも前の元版の全集等が先行しているものの、私がそれらと比べた結果、実は先行する同社の「小泉八雲全集」のそれらは、訳が一部で異なっており、訳者等によって、かなりの補正・追加がされていることが、今回の正字補正作業の中で、はっきりと判って来た。いや、同じ「家庭版」と名打ったネット上の画像データでも、驚いたことに、有意に異なっていたのである。そうした意味でも――完全な仕切り直しの総点検――が必要であると決したものである。従って、旧前振りの括弧・鍵括弧の問題も、拡大とガンマ補正で確認し、正確を期する。本作はここから。

 田部隆次(たなべりゅうじ 明治八(一八七五)年~昭和三二(一九五七)年)氏については先に電子化した「人形の墓」の私の冒頭注を参照されたい。

 本篇は知られた上田秋成の「雨月物語」(安永五(一七七六)年板行であるが、執筆は十年前の明和五(一七六八)年であった)の「夢應の鯉魚」(構成としては明末の小説家馮夢龍(ふうむりゅう/ふうぼうりょう 一五七四年~一六四六年)の書いた白話小説「醒世恒言」第二十六の 「薛錄事魚服證仙」(「薛(せつ)錄事、魚服(ぎよふく)して仙を證すること」。録事は主任書記官。「魚服」は魚に化すること。中國哲學書電子化計劃」のここで原文が電子化されてある)、さらに溯る明代の白話小説「古今」の「淵」の辰巻三十五にある「魚服記」(「維基文庫」のこちらで縦書で電子化されてある)、「太平廣記」の「水族類」所収の「薛偉」の三種を勘案して典拠としたもの)を原拠としている(同じくること。中國哲學書電子化計劃」のここで原文が電子化されてある)。「雨月物語」のそれは、サイト「日本古典文学摘集」の原文(新字歴史的仮名遣。現代語訳もある)をお薦めする。私は、「雨月物語」は、恐らく、五種を超える諸本を所持するが、どれも、安易には電子化注出来ないサイト版の「靑頭巾」は例外)ほど、優れたものである。今回も、残念ながら、見送る。

 

 

  僧 興 義

 

 殆んど一千年前、近江の國の名高い三井寺に、興義と云ふ博學の僧がゐた。繪の大家であつた。佛像、山水、花鳥を殆んど同じ程度に巧みに描いたが、魚を描く事が最も得意であつた。天氣の好い日で、佛事の暇のある時には、彼はいつも漁師を雇うて琵琶湖に行き、魚を痛めないやうに捕へさせて大きな盥に放ち、その游ぎ𢌞るのを見て寫生した。繪を描いてから、勞りながら食物を與へて再び、――自分で湖水までもつて行つて、――放つてやるのがつねであつた。彼の魚の繪はたうとう名高くなつたので、人はそれを見に遠くから旅をして來た。しかし彼の凡ての魚の繪のうちで、最も不思議なのは、寫生ではなくて、夢の記憶から描いた物であつた。そのわけは、或日の事、彼が魚の游ぐのを見るために、湖岸に坐つて居るうちに思はずまどろんで、水中の魚と遊んだ夢を見た。眼をさましてから、その夢の記憶が餘りに鮮明であつたので、彼はそれを描く事ができた、そしてお寺の自分の部屋の床の間にかけて置いたこの繪を、彼は『夢應の鯉魚』と呼んだ。

[やぶちゃん注:「殆んど一千年前」小泉八雲の本作品集は明治三四(一九〇一)年の刊行であるが、原拠の上田秋成の「夢應の鯉魚」では「むかし、延長の頃」と始まる。延長は九二三年から九三一年で、醍醐天皇・朱雀天皇の治世、というか、藤原忠平の全盛期である。

「三井寺」現在の滋賀県大津市園城寺町にある天台寺門宗総本山長等山園城寺(おんじょうじ)の別名(グーグル・マップ・データ。以下同じ)。園城寺は七世紀に大友氏の氏寺として草創され、九世紀に唐から帰国した留学僧円珍(天台寺門宗宗祖)によって再興された寺である。「三井寺」の通称は、この寺に涌く霊泉が天智・天武・持統の三代の天皇の産湯として使われたことから「御井」(みい)の寺と言われていたものが、転じて三井寺となったとされる。

「興義」昭和六〇(一九八五)年勉誠社刊の高田衛・稲田篤信編著「大学古典叢書1 新注 雨月物語」の注に、『僧興義曾つて江州三井寺に住み画名有り」(本朝画史)。また』、上田秋成(享保一九(一七三四)年~文化六(一八〇九)年))同じ『の頃の人で、鯉の絵にたくみであつた蛇玉・※史明がモデル』(「※」=「葛」-「人」+「ヒ」)とある。前者は生没年未詳の平安中期の僧で、藤原実範(さねのり)の子で天台僧。康平(一〇五八年~一〇六五年)頃の人。園城寺で学び、京の道澄寺(どうちょうじ)の別当を務め、画をよくしたという人物で(講談社「日本人名大辞典」に拠る)、後者は葛蛇玉(かつじゃぎょく 享保二〇(一七三五)年~安永九(一七八〇)年のことである。ウィキの「葛蛇玉」によれば、葛は江戸中期の絵師で、『大坂の人。名は徹、のち季原。字は子明。洞郭とも号した。鯉の絵を得意としたため「鯉翁」と呼ばれ、上田秋成著『雨月物語』にある「夢応の鯉魚」のモデルと言われる』。『蛇玉の人となりは片山北海による墓碑銘』『によって知られる。木村宗訓の子孫が代々住職を務める浄土真宗の寺・玉泉寺の四代目・宗琳の次男として生まれる。後に長嶋喜右衛門なる者の婿養子となった。長嶋氏の祖は谷八(やつ)氏で、長嶋家の宗家は小早川隆景の子孫であることから、小早川谷八と称した。葛の姓は、この谷八の音「KOZU YATSU」を、葛「KATSU」としたと推測される』(私が馬鹿なのか、この説明、よく分らない。「KOZU」ではなく、「KOKU」なら判るんだけど)『画をはじめ橘守国、および鶴亭に学ぶ。後に宋元の古画を模して一家を成した』。明和三(一七六六)年二月二十二日の『晩、蛇が玉を咥えて来る夢を見て、目覚めると』、『そこに玉があった。これが何の吉祥か分からなかったが、この事件から自ら「蛇玉」と称するようになったという。この逸話を裏付けるように、「蛇玉図」の賛文に木版でこの逸話が記されており、同様の作品が他にもあることから、蛇玉は同図を名刺がわりに相当数』、『描いて配り、自らを売り込もうとしたとも考えられる』。『人柄は風流閑雅で、有閑公子の風があった。晩年には南木綿町に住み、当時の人名録にも名前が記載されている。享年』四十六。『墓所は、下寺町大蓮寺だが、墓石は残っていない。息子の蛇含(じゃがん)も絵師となったというが、その作品は全く知られていない。蛇玉の方も現在確認されている作品は極めて少なく』、たった六『点しかない』とある。リンク元にリストが出るが、その内の二枚は「鯉魚図」である。]

 興義は、彼の魚の繪を一枚も賣る事を喜ばなかつた。山水の繪、鳥の繪、花の繪は喜んで、手放したが、彼はいつも、魚を殺したり、喰べたりするやうな殘酷な者には、生きた魚の繪は賣りたくないと云つてゐた。そして彼の繪を買ひたがる人々は皆魚食の人々であつたから、彼等が如何程金を積んでも、彼はそれには迷はされなかつた。

 

 或夏の事、興義は病氣になつた、それから一週間物言ふ事も、動く事もできなくなつたので、彼は死んだと思はれた。しかし讀經など行はれたあとで、弟子達は體に幾分の溫み[やぶちゃん注:「あたたかみ」。原拠『暖(あたゝか)なるにぞ』。]のある事を發見して、暫らく埋葬を見合す事にして、その死骸らしく思はれる物のわきで、見張をする事に決した。同じ日の午後に、彼は突然蘇生した、そして見張の人々にかう云つて尋ねた、――

 『私が人事不省になつてから、幾日になりますか』

 『三日以上になります』一人の弟子が答へた。『いのちがお絕えになつたと思ひました、それで今朝日頃のお友達、檀家の人々がお寺に集まつておとむらひをいたしました。私達が式を行ひましたが、お體が全く冷たくないから、埋葬は見合せました、それで今さうした事を甚だ喜んでゐます』

 興義は成程とうなづいてから、云つた、

 『誰でもよいから、すぐに平(たひら)の助(すけ)のうちに行つて貰ひたい、そこでは今、若い人達が宴會を開いて居る――(魚を喰べて、酒を飮んで居る)――それで、云つて貰ひたい、――「あるじは蘇生しました、どうか宴會を止めて、卽刻來て下さいませんか、あなた方に珍らしい話をいたしますから」……同時に』――興義は續けて云つた――『助と兄弟達が、何をして居るか、見て來て貰ひたい、――宴會をしてゐないかどうか』

[やぶちゃん注:「助」原拠は『平(たひら)の助の殿』。先の高田・稲田編著「新注 雨月物語」の「助の殿」の注に、『国司の次官』とある。]

 それから一人の弟子が直ちに平の助の家に行つて、助と弟の十郞が、家の子掃守(かもり)[やぶちゃん注:ここは名前。]と一緖に、丁度興義が云つた通り、宴を開いて居る事を見て驚いた。しかし、その使命を聞いて三人は、直ちに酒肴をそのままにして、寺へ急いだ。興義は床から座蒲團に移つてゐたが、三人を見て歡迎の微笑を浮ベた、それから、暫らくお祝と御禮の言葉を交換したあとで、興義は助に云つた、

 『これから二三と尋ねする事があるが、どうか聞かせて下さい。第一に、今日あなたは漁師の文四[やぶちゃん注:「ぶんし」。]から魚を買ひませんでしたか』

 『はい、買ひました』助は答へた――『しかしどうして御存じですか』

 『少し待つて下さい』僧は云つた。……『その漁師の文四が今日、籠の中に三尺程の長さの魚を入れて、お宅の門へ入つた。午後の未だ早い時分でしたが、丁度あなたと十郞樣が碁を始めたところでした、――それから掃守が桃を喰べでゐながらその碁を見てゐました――さうでしたらう』

 『その通りです』助と掃守は益〻驚いて、一緖に叫んだ。

 『それから掃守がその大かな魚を見て』興義は續いて云つた、『すぐにそれを買ふ事にした、それから代を拂ふ時に、文四に皿に入れた桃をいくつか與へて、酒を三盃飮ませてやりました。それから料理人を呼んだら、その人は魚を見て感心しました、それからあなたの命令で、それを膾(なます)にして、御馳走の用意をしました。……私の云つた通りぢやありませんか』

 『さうです』助は答へた、「しかしあなたが、今日私のうちであつた事をどうして御存じですか、實に驚きます。どうかこんな事がどうして分りましたか聞かして下さい』

 『さあ、これからが私の話です』僧は云つた。[御承知の通り殆んど皆の人達は私を死んだと思ひました、――あなたも私のとむらひに來てくれましたね。しかし、三日前に私はそんなにひどく惡いとは思はなかつた、ただ弱つて、非常に熱いと思つたので、外へ出て少し涼まうと思つた。それから骨を折つて床から起き上つて、――杖にすがつて、――出かけたやうです。……事によればこれは想像かも知れない、しかしやがてその事は皆さん御自分で判斷ができませう、私はただあつた事を何でもその通りに述べるつもりです。私がうちからあかるい外へ出ると、全く輕くなつたやうな、――籠や網から逃げ出した鳥のやうに輕くなつたやうな氣がした。私は段々行くうちに湖水に達した、水は靑くて綺麗だつたから、しきりに游いで見たくなつた。着物を脫いで跳び込んで、そこら邊泳ぎ出した、それから、私は非常に早く、非常に巧みに游げるので驚いた――ところが實は、病氣の前は游ぐ事はいつも非常に下手であつた。……皆さんは馬鹿な夢物語だと思はれるだらうが――聽いて下さい。……私がこんなに新しい力が出て來たので不思議に思つて居るうちに、氣がついて見ると、私の下にも𢌞りにも綺麗な魚が澤山游いでゐた、私は不意に幸福な魚が羨しくなつて來た、――どんなに人がよく游げると云つたところで、魚のやうに、水の下で面白くは遊ばれないと思つた。丁度その時、甚だ大きな魚が私の目の前の水面に頭を上げて、人間の聲で私にかう云つて話しかけた、――「あなたの願は何でもなく叶ひます、暫らくそこでお待ち下さい」それから、その魚は下の方へ行つて見えなくなつた、そこで私は待つてゐた。暫らくして湖水の底から、――私に物を云つたあの大きな魚の背中に乘つて、――王公のやうな冠と禮服を着けた人が浮かび上つて來て、私に云つた、――『暫らく魚の境遇になつて見たいとの御身の願を知しめされた[やぶちゃん注:「しろし召(め)された」。]龍宮王から使をもつて來た。御身は多くの魚の生命を救つて、生物への同情をいつも示して居るから、神は今御身に水界の樂み[やぶちゃん注:「たのしみ」。]を得させるために黃金の鯉の服を授け下さる。しかし御身は魚を喰ベたり、又魚でつくつた食物を喰べたりしないやうに注意せねばならない、――どんなによい香がしても、――それから漁師へ捕へられないやうに、又どうかして體(からだ)を害をする事のないやうにやはり注意せねばならない』かう云つて、その使者と魚は下の方へ行つて、深い水の中に消え失せた。私は自分を顧みると、私の全身が金のやうに輝く鱗で包まれてゐた、――私には鰭があつた、――私は實際黃金の鯉と化して居る事に氣がついた。それから、私の好きなところ、どこへでも游げる事が分つた。

 『それから、私が游いで、澤山の各所を訪れたらしい。〔ここで、原文には、近江八景を說明した歌のやうな文句が入れてある[やぶちゃん注:近江八景は「石山秋月」(いしやまのしゅうげつ:以下「の」を入れて読む)・「勢多(瀬田)夕照」・「粟津晴嵐」・「矢橋(やばせの)帰帆」・「三井晩鐘」・「唐崎夜雨」・「堅田(かたたの)落雁」・「比良暮雪」の名数。ウィキの「近江八景」で江戸後期の浮世絵師歌川広重の代表作である、錦絵名所絵揃物「近江八景」が見られる。]〕時々私は靑い水の面で躍る日光を見たり、或は風から遮ぎられた靜かな水面に反映する山や木の美しい影を見たりしただけで滿足した。……私は殊に島の岸――沖津島か竹生島か、どちらかの[やぶちゃん注:「沖津島」現在の滋賀県近江八幡市沖島町(おきしまちょう)の沖島。「竹生島」滋賀県長浜市早崎町にある竹生島(ちくぶしま)(ともにグーグル・マップ・データ)。]――岸が赤い壁のやうに水の中に映つてゐたのを覺えて居る。……時々私は岸に餘り近づいたので、通つて行く人の顏を見たり聲を聞いたりする事ができた、時々私は水の上に眠つてゐて、近づいて來る櫂[やぶちゃん注:「かい」。]の音に驚かされた事もある。夜になれば、美しい月の眺めがあつた、しかし私は片瀨[やぶちゃん注:有意に水深の浅い潟瀬の一般名詞でとっておく。]の漁舟のかがり火の近づいて來るのには幾度か驚かされた。天氣の惡い時には、下の方へ、――ずつと下の方へ、――一千尺も、[やぶちゃん注:三百三メートルであるが、残念ながら現在の琵琶湖の最深部は北湖の西側の安曇川沖付近で百四メートルである。]――行つて湖の底で遊ぶ事にした。しかしこんな風に二三日面白く遊び𢌞つてゐたあとで、私は非常に空腹になつて來た、それで私は何か喰べる物をさがさうと思つて、この近所へ歸つて來た。丁度その時漁師の文四が釣をしてゐた、そして私は水の中に垂れてゐた鉤[やぶちゃん注:「はり」。]に近づいた。それには何か餌がついてゐて、よい香がした。私は同時に龍宮王の警告を想ひ出して、獨り言[やぶちゃん注:「ひとりごと」。]を云ひながら、游ぎ去つた、――「どうあつても魚の入れてある食物は喰べてはならない」それでも私の飢は非常に烈しくなつて來たので、私は誘惑に勝つ事ができなくなつた、それで又鉤のところへ游ぎかへつて、考へた、――「たとへ、文四が私を捕へても、私に害を加へる事はあるまい、――古い友達だから」私は鉤から餌を外す事はできなかつた、しかし餌の好い香は到底私が辛抱できない程であつた、それで私はがぶりと全部を一呑みにした。さうするとすぐに、文四は糸を引いて、私を捕へた。私は彼に向つて叫んだ、――「何をするんだ、――痛いぢやないか」――しかし彼には聞えなかつたらしい、直ちに私の顎に糸を通した。それから籠の中へ私を投げ入れて、お宅へ持つて行つたのです。そこで籠を開いた時、あなたと十郞樣が南の部屋で碁を打つてゐて、それを掃守が――桃を喰べながら――見物して居るのが見えた。そのうちに皆さんが私を見に椽側へ出て來て、そんな大きな魚を見て喜びましたね。私はできるだけ大聲で皆さんに、――「私は魚ぢやない、――興義だ、――僧興義だ、どうか寺へかへしてくれ」と叫んだが、皆さんが喜んで手をたたいて私の言葉には頓着しなかつた。それから料理人は臺所へもつて行つて、荒々しく俎板(まないた)の上に私を投げ出したが、そこには恐ろしく銳い庖丁が置いてあつた。左の手で、彼は私を押へて、右の手で庖丁を取り上げた、――そして私は彼に叫んだ、――「どうしてそんなに殘酷に私を殺すのだ。私は佛の弟子だ、――助けてくれ」しかし同時に私はその庖丁で二つに割られるのを――非常な痛さとともに――覺えた、――そしてその時突然眠がさめた、そしてここの寺に歸つてゐた』

 

 僧がこの通り話を終つた時、兄弟は不思議に思つた、そして助は云つた――『今から思へば、なる程私達が見て居る間、魚の顎が始終動いてゐた、しかし聲は聞えなかつた。……それではあの魚の殘りは湖水に捨てるやうに、家へ使を出さねばならない』

 

 興義はすぐに病氣が直つた、そしてそれから又澤山の繪を描いた。死後餘程たつてから、彼の魚の繪が或時湖水に偶然落ちた事があつた、すると魚の形がその地の絹や紙から直ちに離れて游ぎ去つたと傳へられて居る。

[やぶちゃん注:この田部氏の訳は、興義の台詞がすこぶる良い。逐語訳的なのが――この場合は――実は非常に良いのだ。何故か? まるで小泉八雲が、たどたどしい日本語を喋るように感じられるからだ。この興義は――実は――小泉八雲自身なのだ。小泉八雲が水泳が大好きだったことはご存じの通り。「荘周、夢に胡蝶となる」張りに、ここでは「八雲、夢に鯉魚(りぎょ)となる」の気持ちで書いたに相違ないからなのである。]

小泉八雲 梅津忠兵衞  (田部隆次譯) 附・原拠「通俗佛敎百科全書」上卷


[やぶちゃん注:本篇(原題“ The story of Umétsu Chūbei ”。「梅津忠兵衛の話」)は一九〇一(明治三四)年十月にボストンの「リトル・ブラウン社」(LITTLE,BROWN AND COMPANY)から出版された作品集“ A JAPANESE MISCELLANY ”(「日本雑記」。来日後の第八作品集)の冒頭パート「奇談」(原題“ Strange Stories ”)の第五話に置かれたものである。本作品集は“Internet Archive”のこちら(出版社及びクレジットの入ったページを示した)で全篇視認できる(本篇はここから)。活字化されたものとしては、「英語学習者のためのラフカディオ・ハーン(小泉八雲)作品集」のこちらが、本田部訳(同一訳で正字正仮名)と対訳形式でなされており、よろしいかと思われる(海外サイトでも完全活字化されたフラットなベタ・テクストが見当たらない)。

 底本は英文サイト“Internet Archive”のこちらにある、第一書房が昭和一一(一九三六)年十一月に刊行した「家庭版小泉八雲全集」(全十二巻)の第七巻の画像データをPDFで落として視認した。 【2025年4月5日:底本変更・正字化不全・ミスタイプ・オリジナル注全補正】時間を経て、国立国会図書館デジタルコレクションに本登録し、現行では、以上の第一書房版昭和一一(一九三六)年十一月に刊行した「家庭版小泉八雲全集」(全十二巻)の第七巻が、国立国会図書館デジタルコレクションで公開されてある。(リンクは扉だが、「家庭版」の文字はない。しかし、奥附を見て貰うと『家庭版』とあり、『昭和十一年十一月二十七日 發 行』とあることが確認出来る)、これが、前掲の底本と同じものであるが、やはり、外国のサイトのそれを底本とするのは、日本人小泉八雲に失礼であると考えた。されば、こちらで、再度、以下の「骨董」の作品群を改めて校正することとする。これが――私の小泉八雲への「義」――である。なお、これよりも前の元版の全集等が先行しているものの、私がそれらと比べた結果、実は先行する同社の「小泉八雲全集」のそれらは、訳が一部で異なっており、訳者等によって、かなりの補正・追加がされていることが、今回の正字補正作業の中で、はっきりと判って来た。いや、同じ「家庭版」と名打ったネット上の画像データでも、驚いたことに、有意に異なっていたのである。そうした意味でも――完全な仕切り直しの総点検――が必要であると決したものである。従って、旧前振りの括弧・鍵括弧の問題も、拡大とガンマ補正で確認し、正確を期する。本作はここから。

 田部隆次(たなべりゅうじ 明治八(一八七五)年~昭和三二(一九五七)年)氏については、先に電子化した「人形の墓」の私の冒頭注を参照されたい。

 傍点「ヽ」は太字に代えた。

 最後に原拠を示した。]

 

 

  梅津忠兵衞

 

 梅津忠兵衞は非常な力量と勇氣のある若い武士であつた。彼は戶村十太夫と云ふ地頭に仕へてゐた、その居城は出羽の國橫手の近傍の高い山の上にあつた。家中はその山の下に小さい町をつくつてゐた。

 忠兵衞は城門の夜番[やぶちゃん注:「やばん」。宿直(とのい)。]に選ばれた一人であつた。夜番には二通りあつた、――第一のは夕方に始まつて夜中に終り、第二のは夜中に始まつてあけ方に終るのであつた。

 或時、忠兵衞が第二の夜番に當つて居る時、不思議な事件に遇つた。眞夜中に夜番の務めにつかうとして山を上つて居る間に、彼は城の方へ行く曲つた道の最後の曲り角に一人の女が立つて居るのを見た。彼女は一人の子供を抱いてゐて、誰か人を待ち合せて居るやうであつた。そんな時刻に、そんな淋しい場所に女の居る事は、最も特別な事情でもなければ、說明のできない事であつた、そして忠兵衞は化け物は暮れてから人をだまして殺すために女の姿になる事を思ひ合せた。それで彼は目の前の女と見える物も本當に女であるかどうかを疑つた、それで彼女が彼の方へ話しかけるやうに急いで來たのを見て、彼は一言も云はないでやりすごさうとした。しかし、女が彼の名を呼んで、甚だやさしい聲で、つぎのやうに云つた時に、彼は餘り驚いてさうはできなかつた、――『梅津殿、私は今夜大層困つてゐます、そしてせねばならぬ難儀な務めがあります、どうかほんの暫らくこの子供をもつてゐて下さいませんか』そして女は子供を彼にさし出した。

 忠兵衞はこの大層若さうに見える女を知らなかつた、彼はその魅力のある知らない聲を怪しんだ、超自然的誘惑を怪しんだ、何でも怪しんで見た、――しかし彼は元來深切であつた、そして化け物を恐れて、深切なる行爲を控える[やぶちゃん注:ママ。]のは卑怯だと思つた。返事もしないで子供を受取つた。『歸つて來るまでもつてゐて下さい』女が云つた、『すぐ歸ります』『もつてゐませう』彼は答へた、それから直ちに女は彼からふり向いて、彼が殆ど自分の眼を疑つた程、輕く、早く音もさせずにその道を離れて、飛ぶやうに山を下つて行つた。忽ちのうちに彼女は見えなくなつた。

[やぶちゃん注:「直ちに女は彼からふり向いて、」原文は“immediately the woman turned from him,”で、「直ぐに彼女は彼から離れ」或いは「直ちに彼女は彼に背を向けて」が至当である。]

 忠兵衞はその時始めて子供を見た。餘り小さくて、生れたばかりのやうに見えた。抱かれらまま甚だ靜かにしてゐた、少しも泣かなかつた。

 不意にそれが大きくなるやうに思はれた。彼は再びそれを見た。……否、それはやはり小さい物であつた。そして動きもしなかつた。何故大きくなつたと思つたのであらう。

 そのつぎにその理由が分つた、――そして彼は全身ぞつとするのを覺えた。子供は大きくなるのではなかつた、それは重くなるのであつた[やぶちゃん注:傍点「﹅」は前の「、」から「のであつ」まで打たれているが、誤植と断じ、かく補正した。]。……始めのうちそれはただ七八百目のやうであつたが、つぎにその重さが次第に二倍になり――三倍になり――四倍になつた。もう五貫目より輕い事はないと思はれて來た、――そしてやはりそれが重さを加へて行つた。……十貫[やぶちゃん注:一貫は三・七五キログラムであるから、五十六・二五キログラム。以下の経過部は注しない。]、――十五貫、――二十貫。……忠兵衞はだまされた事を知つた、――彼は人間と話したのではない事、――その子供は人間でない事を知つた。しかし約束は約束だ、武士たる者は約束は守らねばならない。そこで彼は子供を抱いてゐた、子供は刻々重くなつた、……三十貫――四十貫――五十貫。……どうなつて行くのか見當がつかなかつた、しかし彼は恐れない事、力の續く限り子供ははなさない事を決心した。……六十貫、――七十貫、――八十貫[やぶちゃん注:ぴったり三百キログラム。]。彼の筋肉は緊張の餘り震へ始めた、それでも重さが增して行つた。……『南無阿彌陀佛』彼は呻いた――『南無阿彌陀佛、――南無阿彌陀佛』彼がこの唱名を三度目に唱へた時、その重さは一時に消えた、そして彼は空手でぼんやり立つてゐた、――卽ち子供は不思議にも消えたのであつた。しかし殆ど同時に、その不可思議な女が、行つた時のやうに、又早く歸つて來るのを見た。やはり息をきらしながら、彼女は彼のところへ來た、その時始めて彼は彼女が甚だ美しい事を見た、――しかし彼女の額に汗が流れてゐた、そして彼女の袖には、今まで働いてゐたやうに、たすきがかかつてゐた。

 『梅津殿』彼女は云つた、『甚だ大きなお蔭に預かつた。私はここの氏神だが、今夜氏子の一人がお產をするので、私に助けを祈つた。しかしその骨折は中々であつた、私一人の力では、その氏子を助ける事ができない事が分つた、――それでお前の力量と勇氣を見込んで賴んだわけだ。そしてお前の手に置いたのは未だ生れ出ない子供であつた、それから始めて子供が段々重くなつて行くのを覺えた時分は、產門が閉ぢてゐたので大層危い時であつた。子供が餘り重くなつて、もうこれ以上その重さにたえられないと絕望した時、――丁度その時、母が死んだやうで、一族の者皆泣いたのであつた。その一時「南無阿彌陀佛」の唱名を三度お前が唱へてくれた、――そして三度目に、佛の力が助けとなつたので、產門が開いた。……それでお前のしてくれた恩は、適當に應じたい。勇氣のある武士に取つては力量より有用な物はあるまい、それ故お前ばかりでなく、お前の子供にも、子供の子供にも、大力量を授ける事にする』

 それから、この約束をして氏神は消えた。

[やぶちゃん注:「母が死んだやうで、」思うに、後掲する原拠では、妊婦は死んだようには読めない。この原文を見ると、“the mother seemed to be dead,”で、これは寧ろ、「その母(妊婦)は死んだように見受けられて」或いは「死に瀕しているように見え」であって、実は妊婦である母も助かったと私には読める。恒文社版の平井呈一氏の訳も、『産婦の一命あわや絶えなんとして、』であり、講談社学術文庫の池田美代子氏の訳でも、『母親は死に瀕し、』である。田部氏も実は「母が死んだやうに見えて、」の謂いで訳したものではないか。小泉八雲の母ローザの喪失の心傷体験から考えても、敢えてここで彼が、原拠を変えて、その母を死んだとする可能性は――私は――百%――ない――と考えている。

 

 梅津忠兵衞は非常に不思議に思ひながら、城の方へ進んだ。勤務を終つて、朝の祈りをする前に、いつものやうに顏と手を洗ひにかかつた。使つてゐた手拭をしぽらうとすると、その强い物が二つにきれたので驚いた。そのきれたのを重ねて、しぼつて見た、丁度ぬれ紙のやうに――又それがきれた。彼は四枚重ねてしぼつて見たが、結果は同じであつた。やがて、唐金[やぶちゃん注:「からかね」。青銅。]や鐡の色々の物を扱つて見ると、粘土のやうに彼の思ふ通りになる事を見て、彼は約束の通り大力を充分に授けられた事、それから物に觸れる時注意しないと手の中でつぶれる事をさとつた。

 うちに歸つてから、その夜その土地で出產があつたかどうか尋ねて見た。そして彼は丁度その事件のあつた時刻に出產のあつた事、それからその事情は氏神から聞いた通りであつた事を知つた。

 

 梅津忠兵衞の子供等は父の大力を相續した。彼の子孫の多くは――皆著しく强い人々だが――今この話の書かれた時、出羽の國に未だ住してゐた。

 

[やぶちゃん注:「梅津忠兵衞」ウィキの「妹尾兼忠」(せおかねただ)に以下のようにある。『秋田県横手市に残る伝説に登場する人物である。通称が五郎兵衛であることから、妹尾五郎兵衛兼忠(せおごろべえかねただ)とも呼ばれている。また、怪力であったため』、『「大力妹尾兼忠(だいりきせおかねただ)」とも呼ばれている』。『昔、横手の武士、妹尾五郎兵衛兼忠』『が、用事があってまだ人気のない早朝に家を出た。蛇の崎橋(じゃのさきばし)』(現在位置は、ここ。グーグル・マップ・データ。当該ウィキによれば、『旧橋から下流へ約』七十メートル地点とする。また、『後三年合戦において源義家がつり橋ごと落とされ、蛇篭によって助かったという伝承がこの地にあることから』、『この頃(』九百『年以上前)には既に架橋されていたと見られる』。『橋の名前の由来は「蛇の崎淵」からで、蛇篭の伝承の他に大蛇と河童が争った伝承や、産女の妖怪の伝承もある』とある。横手城の南西直近である)『を歩いていると、向こうから赤ん坊を抱いた女性が歩いてきて、兼忠にしばらく赤ん坊を抱いていてほしいと頼んできた。他に誰もいなかったため、兼忠はやむを得ず』、『赤ん坊を預かった』。『女性が去った後、兼忠は次第に赤ん坊が重くなってくるのに気付いた。さらに赤ん坊が成人のような目つきをし、兼忠の喉元をにらむため、危険を感じた兼忠は、小柄(小さな刀)を抜いて口にくわえた。赤ん坊の重みはいよいよ増し、ついに耐えきれなくなり思わず念仏を唱えた。小半時(』一『時間)ほどしてようやく女性が蛇の崎橋に戻ってきて赤ん坊を受け取り、お礼にお金を渡そうとしたため』、『兼忠が固辞すると、女性は「自分は土地の氏神で、いま氏子のひとりが難産で苦しんでいたので助けを求められた。あなたに預けた子はまだ産まれていない子で、だんだん重くなったのは母親が危険なときだった。あなたの念仏のおかげで親子ともども助かりました。子々孫々にわたり、力をあげます」と言って手ぬぐいを差し出した。兼忠は受け取って、用事のために急いで橋を去った』。『翌朝、兼忠は顔を洗おうとして、前日もらった手ぬぐいを思い出し、それで顔を洗った。手ぬぐいを絞ったところ簡単に切れてしまったので、兼忠は「力をあげます」という昨日の女性の言葉の意味を理解した。手ぬぐいが弱いのではなく、兼忠の力が強くなっていたのだった』。『横手城内で兼忠の怪力が評判になったころ、植木に使う大木を運搬中に蛇の崎橋で欄干に引っかかって』、『どちらにも動けなくなる出来事があった。兼忠が』丁度『通りかかり、大木を移動させようと必死に作業する人夫に、通行の邪魔であると声をかけた。人夫はつい、良くない言葉で返事をしたため、武士の兼忠はその無礼に怒り、大木を持ち上げるなり橋の下の横手川』『の川原に投げ落としてしまった。この大木を引き上げるのに』五十『人の人夫が』三『日かかったという』。元和八(一六二二)年の弾圧を受けた宗教系集団による「大眼宗一揆」(だいがんしゅういっき)の際、『兼忠は』二『間余りの角材を手に持って蛇の崎橋の上に立ち、一揆の信者たちをにらみつけ、追いのけて功名をあげた』『とも、また、兼忠の下駄は』、一『斗余り入る味噌桶の台ほどの大きさだったとも伝わる』。『ある雨の日、兼忠が足駄を履いて傘を右手に持ち、左の手の平に大石を乗せて、急な七曲がりの坂を苦もなく登って横手城』『へ登城する姿が、人々を驚かせたという。現在横手公園の一部となっている横手城本丸跡(秋田神社境内)には「大力無双妹尾兼忠」と刻まれた石碑と、彼が片手で運んだとされる大きな石が残っている』。ところが、『ある日、兼忠が横手川の関門の大扉をもってみなぎり落ちてくる水をささえ、押し戻してその力を誇示していた。このありさまを川岸で見ていた』一『人の老翁が笑いながら「上流をささえるより、下流を押し戻してみよ」と言ったので、兼忠「戻すに何の難しいことがあろうか」と扉を開いて下流に押し戻そうとしたが』、『満水に』一『町ほど流され、これではどうかと思ったとき、大水が渦を巻いたので』、『岸へかけ上がった。老翁すでにそこにはおらず、それ以来、兼忠の力は弱まったという』。『与謝蕪村が』、宝暦四(一七五四)年の「妖怪絵巻」の『なかで「蛇の崎』(じゃのさき)『が橋 うぶめの化物」として描いている』(同ウィキの当該画像はこちら。注に『横手城下町の内町(武家町)と大町、四日町などの外町(町人町)とを分ける横手川にかかる橋。送り盆祭りでも有名。菅江真澄の』「雪の出羽路」に『「蛇の崎」の名の由来が掲載されている。それによれば、大蛇と河童がこの渕で争い、なかなか勝負が着かなかったが、河童が別の渕に移ってヨロヨロとなった大蛇が渕の主になったという説話』に基づくという。ここ(グーグル・マップ・データ。以下同じ))『それによれば、「出羽の国 横手の城下 蛇の崎が橋 うぶめの化物。関口五郎太夫、雨ふる夜、此のばけものに出合、力をさづけられるとぞ。其の後ゑぞか嶋合戦の時、其てがらあらわしけるとぞ。佐竹の家中にその子孫有」と説明をつけている』。『産女(うぶめ)が大力を授けるこの物語は「うぶめの礼物」型に属している。産女は、上述のように、城の山中の氏神だと名乗っている』。以下、注に彼は『佐竹氏家臣』で『兼貞とも。佐竹氏の久保田転封により須田美濃守(須田盛秀)とともに常陸国より従って来た茂木百騎の一人。秋田領横手城下の本町に居を構えたと伝わる』とあり、また、『妹尾五郎兵衛兼忠が大力を授かった話は、広く知られ、幕末から明治にかけて著名であった講談師桃川如燕は、これを粉飾して寄席の高座で「溝口半之丞」(「幽霊半之丞」とも)の題名で口演した。小泉八雲は』「日本奇談」(ママ)の『なかで「梅津忠兵衛」として、この話を掲載しており、柳田國男も』「日本の昔話」(初版は昭和五(一九三〇)年アルス「日本児童文庫」十一の「日本昔話集(上)」として刊行)に『「妹尾五郎兵衛」の伝承を記録している』(題名は「力士と産女」。国立国会図書館デジタルコレクションのここで当該原本の話が視認出来る)とあるから、この妹尾兼忠で間違いない

「戶村十太夫」江戸前期の武将で出羽国久保田藩(秋田藩)士の重臣に、通称を戸村家代々の当主の通称である十太夫を名乗る戸村義国(天正一九(一五九一)年~寛文一〇(一六七一)年)がいる。ウィキの「戸村義国」によれば、『戸村家は藤原秀郷の末裔とされる戸村能通(よしみち)により創始された家系であるが、南北朝時代に入って、南朝方に属した』六『代目の戸村又五郎(実名不詳』『)が宗家の那珂通辰』(なかみちとき)『と共に北朝方の佐竹貞義と戦って自刃し』、『一時』、『断絶した。その後、佐竹義人の三男・大掾満幹』(だいじょうみつとも:水戸城主)『との養子縁組を解消した佐竹義倭(よしやす/よしまさ)が前戸村氏の居城であった常陸国戸村城を再建したことにより、その姓を称して佐竹氏の一族とな』った。父の『義和は文禄の役の際に朝鮮高麗熊川にて病死した(一書には船中とも)。義国は父の顔を知らずに成長する。常陸戸村城より』、慶長七(一六〇二)年に『宗家・佐竹義宣が出羽久保田藩への国替えとなり、これに従い出羽に入』った。慶長10年から慶長十二年に『かけて用水路を完成させた(戸村堰)。主君・義宣と大坂冬の陣に従軍する。今福の戦いにおいて、佐竹軍は苦戦に陥り、刀鍔に銃弾を受けるが』、『怯まずに奮戦し、大坂方の将矢野正倫を討ち取った。その功で』第二『代将軍・徳川秀忠より』、『感状と刀「青江次直」を拝領する。その後、第二代『藩主・佐竹義隆の執政を務め』、寛永八(一六三一)年に『角館の代官として赴く』。寛文九(一六六九)年に『久保田藩が松前藩からの』「シャクシャインの乱」の『鎮圧応援要請を受けて派遣軍が編成されるが、義国は派遣軍の軍将となる。ただし、派遣前に乱が平定されたので派遣は中止となっ』ている。『長男の義宗に先立たれたため、その嫡男(義国の孫)義連が跡を継ぎ』、寛文一二(一六七三)年に横手城代となっている、とある。従って、彼以前の戸村義倭(よしやす/よしまさ)佐竹義人の三男)・義易(義倭の兄・佐竹義俊の五男)・義廣・義知・義和・忠義・義国と、それ以後の久保田藩士の宗家戸村十太夫家で横手城代を務めた、戸村義宗・義連・義輔(義寛)・義見・義孚・義敬・義道(義通)・義效もその候補となる。いや、寧ろ、最後に掲げる原拠では『仙北郡(ごほり)橫手宿の地頭』とある(「地頭」は江戸期にあっては、旗本や御家人といった大名に至らない小領主(概ね一万石未満)のことを意味する語としてあった)から、寧ろ、この義国よりも後の義連以降(義宗は父より早世したので彼ではない可能性が高い)の人物であると考えた方が事蹟には合うように思われるのだが(嘉連は寛文一二(一六七二)年に橫手城に入城しており、それ以降、代々「十太夫」を称した戸村氏の宗家(戸村十太夫家)が明治まで務めてもいる。しかし乍ら、前の注のモデルである伝説上の人物妹尾兼忠の記載には、彼が元和八(一六二二)年の「大眼宗一揆」で活躍したとあるからには、やはり、これは戸村義国と考えるべきかと思う(元和八年当時の義国は満三十一歳。但し、彼自身は横手城主ではない。ただ、この話の主人公は伝説上の人物だから、その辺を問題にしても実際には意味はないと思われる)。橫手城はここなお、元和六(一六二〇)年の「一國一城令」によって久保田藩領でも支城が破却されたが、横手城を重要な拠点と考えた初代藩主佐竹義宣が幕府に働きかけたため、破却を免れている。

 原拠は長岡乗薫(じょうくん)編の「通俗佛敎百科全書」(明治二四(一八九一)年仏教書院編刊。国立国会図書館デジタルコレクションのこちらで当該部の画像が視認出来る)の上巻の「第百八十二 神(うぶがみ)の事」である。以下の電子化では同国立国会図書館デジタルコレクションの画像を視認した。本文はここからである。原拠は読みは総ルビであるが、必要と思われる箇所のみに附した。ベタ文なので、句読点や記号を施し、段落も成形して読み易くした。踊り字「く」は正字化した。歴史的仮名遣の誤りはママである。なお、一部、画像が擦れて見えない部分があったが、それは一九九〇年講談社学術文庫刊の小泉八雲著・平川祐弘編「怪談・奇談」の同原拠を参考に補った。なお、同書は、江戸前期の真宗僧明伝(みょうでん 寛永九(一六三二)年~宝永六(一七〇九)年)の編になる「百通切紙」(全四巻。「淨土顯要鈔」とも称する。延宝九(一六八一)年成立、天和三(一六八三)年板行された。浄土真宗本願寺派の安心と行事について問答形式を以って百箇条で記述したもので、真宗の立場から浄土宗の教義と行事を対比していることから、その当時の浄土宗の法式と習俗などを知る重要な資料とされる)と、江戸後期の真宗僧で京の大行寺(だいぎょうじ)の、教団に二人しか存在しない学頭の一人であった博覧強記の学僧信暁僧都(安永二(一七七三年?~安政五(一八五八)年:「御勸章」や仏光版「敎行信證」の開版もした)の没年板行の「山海里(さんかいり)」(全三十六巻)との二書を合わせて翻刻したものであり、本篇は「山海里」が原拠である。

   *

第百八十二  ○產紳の事

 出羽の國仙北郡(せんほくごほり)橫手宿(よこてしゆく)の地頭戶村十太夫といへるは、佐竹侯の一門なり。其居住は山の上にて、家中は山の下にあり。

 その家敷に、梅津忠兵衞とて、武勇の人、あり。

 馬まわりの役用にて半夜替(はんやがは)りに出勤せらるゝに山をのぼり、道すじ「七曲(なゝまがり)」といふところにて、あやしげなる女にゆきあひける。夜九ツ[やぶちゃん注:定時法・不定時法ともに午前零時。]のかねもなりて、丑みつころともなる折から、女一人(いちにん)、山中(さんちう)をすぐること、つねの人間にはあらず、身をかまえて行(ゆき)ちがはんとするとき、女より梅津氏にいひけるは、

「我、今夜(こよひ)は此(この)ことにつきては、はなはだ辛勞(しんらう)することあり。君の助(たすけ)をたのまんと、今この處にきたりしなり。これを、しばらく、あづかりてたまはれ。」

と、いふ。

 差(さし)いだす物を見れば、いまだ產髮(うぶがみ)もそらざる、生れしまゝの赤子なり。梅津は、まことにあやしみながら、『おくれをとらじ』と、承知して、その子をいだきとりければ、女はよろこび、きゆるがごとく飛行(とびゆ)ける。

 梅津忠兵衞は、子をいだきての出勤もなりがたければ、暫時、たゝずむその間に、今の赤子の重き事、五貫、十貫、十五貫、貳拾貫目、三拾貫、金(かね)とも、石とも、たとへがたくなりけるゆゑ、武勇にたけき忠兵衞も、いふべくもなき奇怪なれば、われをわすれて、おもはずも、

「南無阿彌陀佛、南無阿彌陀佛。」

と、念佛稱(となふ)るそのこゑの、いまだおわるやおわらぬに、重き赤子の、かたちもなく、夢(ゆめ)ごゝろなりける時、かの女、汗をながし、たすきをかけて、はたらきしと見えけるほどの顏色にて、梅津に對して、いひけるは、

「我は、これ、この山中(さんちう)の氏神なり。今夜(こよひ)、この山中の氏子の內に產をするものありけるに、難產としれたるゆゑ、『我(わが)ちからにはかなはじ』と思ふ子細のありけるゆゑ、君をたのみてあづけしは、まだ、うまれざる胎內の一子なり。次第次第に重(おもり)しは、產門、とじて、生(うまれ)かね、親子、ともに、今こそは命(いのち)のかぎり、家內中(かないぢう)、聲をあげたる其時なり、君、はからずも、念佛を稱へたまひし、その聲を、わが神力(じんりき)の助(たすけ)として、難なく、やすやす產(うま)しめたり。思ふ子細のありしとは、君は武門のことなれども、念佛申す人なれば、今夜(こよひ)の助力(じよりき)をたのみしなり。この恩、報じかへさんため、武勇の用の第一は力こそ爲(ため)なるべき力をあたへ、子孫、まづ、そのしるしを、のこさん。」

と、いひつゝ、神女は、うせにけり。

 それより、梅津、出勤して、遲刻ながらも半夜を替(かはり)、翌朝(よくてう)は面(かほ)を洗(あらひ)口そゝぎ、手拭をしぼるに、はからずも、手拭、きれて、二つとなる。又、折(をり)かさねてしぼりけるに、同(おなじ)くきれて、四つとなる。その時、昨夜の「七曲」の山中にて力をもらひしことをしり、神託、まさにあらたなることを、おそれみ、おそれみ、かの山中の民家にいたり、

「昨夜、產せしものやある。」

と、家々をたづぬるに、難產せしものありて、始末をかたる事、すこしも、たがはず。次第次第におもりしも、あやうかりし、その時に、たちまち、安產せしことも符合しける。

 それより、代々、力量の人にすぐるゝこと、奇談といふべし。

 勢州三重郡(みうゑごほり)川北村の醫師吉田玄格老は、若年の時、醫學修行のために諸國をめぐり、佛神(ぶちじん)の靈驗あることを、ことさらにたづねきゝて、道の記をのこされたり。しかも、この梅津の事は、その神女にあひし忠兵衞より、三代目の梅津氏と、ことさらに入魂(じゆこん)[やぶちゃん注:「昵懇」(じっこん)に同じい。]にて、まのあたり、書(かき)つけて、大坂高庵(かうあん)へ來りての物語なり。

[やぶちゃん注:「吉田玄格」不詳。よく似た名前では、林羅山の知人で、豪商角倉了以(すみのくらりょうい)の長男で、江戸初期の土木事業家・儒者・書家・貿易商でもあった角倉素庵(元亀二(一五七一)年~寛永九(一六三二)年)がいる。本姓は吉田、彼の名は与一で、諱は玄之(後に貞順と改めた。素庵は号)。本阿弥光悦に書を学び、角倉流を創始して近世の能書家五人の一人に挙げられる人物であるが、事蹟から彼ではない

「大坂高庵」人物不詳。]

 玄格は篤實なる儒醫にて、浮說(ふせつ)はかたらざる人なるがゆゑに、この事緣(じゑん)を筆(ひつ)せしなり。

 同じく此人のいへるに、奧州八崎(やつさき)のあたりは、人の家に死人あれば、早速に御禮參とて、氏神へゆきて、その神職をたのみ、『今日何の誰何十何歲にて何の時に死去仕候』とて、出產の時より、一生、氏子となし給ひて、あはれみましましたる御禮(おんれい)をのべけるとぞ。これも玄格の道の記にしるして、もちかへられたることなり。もつともなることなり。八ツ崎は三春といふところより、八里程、東にて、佛法も繁昌にて、津島の牛頭天王(ごづてんわう)をも尊敬して、札配(ふだくばり)も、多く、くだれるよし。此地は、いかなるゆゑにや、產婦は多(おほく)、墮胎して、子の育(そだち)かねるところなるゆゑ、秋田城の用達(ようだつ)坪井幸右衞門方(かた)には、子息七人、育(そだち)たるとて、城主より褒美したまへりとぞ。

[やぶちゃん注:「奧州八崎」以下、「三春」の「東」方約三十一キロメートルとあるが、「八崎」は福島県の統計資料編(PDF)を見るに、福島県いわき市小名浜市泉町内に存在することになっている(地図では「八崎」は確認出来ないが、沿岸地区である)。但し、ここは三春からは東南に倍の六十キロメートルほど離れている。違うか。

「津島の牛頭天王(ごづてんわう)」牛頭天王は本邦の神仏習合神の一つ。釈迦の生誕地に因む祇園精舎の守護神とされ、蘇民将来説話の武塔天神と同一視され、薬師如来の垂迹であるとともに、素戔嗚命の本地ともされた。京都東山祇園や播磨国広峰山、愛知県津島市の津島神社(総本社とされる)に祀られ、祇園信仰の神(祇園神)ともされて全国の祇園社・天王社で祀られた。また、陰陽道では天道神と同一視された(以上はウィキの「牛頭天王」に拠った)。こちらのサイトの牛頭天王ページの一番下で、その紙札が見られる。

「秋田城」これは三春城の別称ではないかと思われる。江戸前期の大名秋田家第三代当主秋田俊季は、始め、常陸宍戸藩主であったが正保二(一六四五)年に陸奥三春に移封されているからである。

「用達」御用商人。

「坪井幸右衞門」不詳。]

 京の祇園町(ぎおんまち)にある疫伏社(やくぶせやしろ)といふは、淨藏貴所(じやうざうきしよ)の神靈(しんれい)にて、諸人、これをまつりて、「有卦(うけ)の宮」と稱し、その淨藏は八坂の塔の戌亥(いぬゐ)[やぶちゃん注:北西。]の方へかたぶきよるを、行德(ぎやうとく)にていのり、をこしたる、智人なり。

[やぶちゃん注:「疫伏社」「拾遺都名所圖會」の「卷之二」の「左靑龍首」に、「疫伏社(やくふせのやしろ)」として、『祇園西門の外、北の町にあり』。『疫神(やくじん)、諺(ことわさ)に曰(いはく)、「淨藏貴所(じやうさうきしよ)を祭(まつる)なり」とそ。又、云所は、「文覚法師、行齋(きやうさい)して平家(へいけ)を咒咀(そ)せい地なり」といふ』とある。また、「花洛名勝」の「東山之部  二」には、『祇園(きおん)西楼門の外(そと)、北の町西側(にしかは)にあり。傳云(つたへていふ)、「祈願(きくはん)する時は、時疫(しえき)の病(やまひ)を免(まぬか)るといふ。ゆゑに、疫鬼(えきき)降伏(かうふく)の神なりとそ。一名「うけの宮」と号し、有卦(うけ)』(占い)『に入る人、多く參詣す。其故をしらす』とある(以上は「日文研」のデータベースのこちらの画像データを視認した。句読点は補ったもの)。現在の八坂神社西楼門はここだが、それらしいものは見当たらぬ。

「淨藏貴所」(寛平三(八九一)年~康保元(九六四)年)は平安中期の天台僧。単に浄蔵ともいう。公卿で優れた漢学者であった三善清行の子。一説に、母は嵯峨天皇の孫で、天人が懐中に入る夢を見て身ごもったという。四歳で「千字文」を読み、七歳で父を説得させ、仏門に帰し、熊野・金峯山などの霊山を遍歴して苦行を積んだ。延喜二(九〇二)年、十二歳の時、宇多法皇に謁見し、弟子となった。清涼房玄昭のもとで受戒し、三部大宝などを受け、大恵大法師に就いて、悉曇(しったん)の音韻を習得した。十九歳で比叡山横川(よかわ)に籠り、毎日、法華六部誦経、毎夜、六千反礼拝を行ったという。加持の名手として国家的祈禱から、貴人の病気治療まで、かなりの験徳を発揮したようで、入京した平将門を調伏したとか、死んだ父清行を蘇生させたとかいう、霊験譚が多い。その他、天文・医学・卜筮・管弦・文章などにも才能を発揮したという。また、阿弥陀仏の引接を期して念仏三昧を修し、七十四歳で東山の雲居寺に入滅したと際には、西向きに正念していたとして「往生傳」にも載せられてある(以上は「朝日日本歴史人物事典」に拠った)。

「八坂の塔」八坂神社と清水寺の中間に位置する霊応山法観禅寺(現在は臨済宗)の五重塔の通称。伝承ではこの塔は崇峻天皇五(五九二)年に聖徳太子が如意輪観音の夢告により建てたとされる。]

「塔のかたぶきたるは、疫厲(ゑきれい)流行の兆(きざし)なり。」

とて、延喜(ゑんぎ)の帝より勅命ありて、淨藏、これをうけたまわりて、牛頭天王に禱誓(きせい)[やぶちゃん注:漢字はママ。]ありしこと、諸傳に見えたり。

[やぶちゃん注:「延喜(ゑんぎ)の帝」醍醐天皇(在位:寛平九(八九七)年~延長八(九三〇)年)。「延喜」はその間の九〇一年から九二三年まで。]

 その淨歲の若かりし時、囘國して出雲の國にいたり、社頭にこもりたまへるに、十月のはじめ、神あつまりの折からにて、日本國中の男女(なんによ)に夫婦(ふうふ)の緣を結びたまへるを、耳かたぶけて聞(きあ)るゝに、氏子、氏子の名をよびて、

「誰(たれ)がむすこには、誰がむすめのさだまる。」

など、みな、神のこゝろなりけるに、

「平(たいら)の中興(なかおき)が娘は、淨藏が妻よ。」

と、むすびたまへるより、淨藏貴所は、あさましく、けがらはしくおもひて、

「我、出家の大願ありて修行の本意(ほんゐ)を達せんと欲するに、何とて、妻のあらんや。」

と、つぶやきながら、下向して都にかへり、宮中にて修法(しゆほふ)の時、八歲ばかりの小女(せうぢよ)、茶をはこびて、淨藏にしたしみ、茶の、のみさしをのみけること、こゝろありげに見えけるより、出雲のことをおもひいだし、

『これこそ、かの中興が娘ならん。修行のさまたげ、魔事(まじ)なり。』

とおもひ、小女(せうぢよ)をとらへて、懷中の細刀(こがたな)にて、さしころし、內裏をにげいで、二十餘年、都にかへらず。

 しかれども、いまだ父母のましますゆゑに、恩愛にひかれて、都に入(いり)、つゐに妻帶の身となれるに、子息二人、出生(しゆつしやう)せり。しかるに、その妻なる人の、乳(ちゝ)の下に疵(きづ)あるを、

「何の跡ぞ。」

と、たづぬれば、

「われ、をさなき時、修行者のさしころしたる、あとなりけり。その修行者は、にげさりて、ゆきがたしれず。われは、ふしぎに、いきかへり、今に、ながらへ居るなり。」

と、いへるをきゝて、

「さては。そのとき、さしころせしは我なるに、今は夫婦となることの、神のむすびし緣は、これ、はじめて來(きた)ること、ならず。」

と、八坂の塔をいのるにも、二人の子息を膝へのせ、行力(ぎやうりき)の、をとろへざるを、ためされしとぞ。しかれば、しぬるも、いきるをも、神わざならぬことぞなき。

   *

 八雲は後半の浄蔵の話をカットしている。この後半の話は、ただ話者が前者とお同じで、最後の「しぬるも、いきるをも、神わざならぬことぞなき」という説経(神仏習合時代であるから「神わざ」でよい)という点で共通するだけの奇譚であるから、当然のことではある。しかし、個人的には、後者の話も興味深いし、是非、小泉八雲の手で独立した小品にして貰いたかった気がする。]

2019/10/10

小泉八雲 果心居士  (田部隆次譯) 附・原拠


[やぶちゃん注:本篇(原題“ The story of Kwashin Koji ”。「果心居士の話」)は一九〇一(明治三四)年十月にボストンの「リトル・ブラウン社」(LITTLE,BROWN AND COMPANY)から出版された作品集“ A JAPANESE MISCELLANY ”(「日本雑記」。来日後の第八作品集)の「奇談」の第四話に置かれたものである。本作品集はInternet Archive”のこちら(出版社及びクレジットの入ったページを示した)で全篇視認できる(本篇はここから)。活字化されたものとしては、「英語学習者のためのラフカディオ・ハーン(小泉八雲)作品集」のこちらが、本田部訳(同一訳で正字正仮名)と対訳形式でなされており、よろしいかと思われる(海外サイトでも完全活字化されたフラットなベタ・テクストが見当たらない)。

 底本は英文サイト“Internet Archive”のこちらにある、第一書房が昭和一一(一九三六)年十一月に刊行した「家庭版小泉八雲全集」(全十二巻)の第七巻の画像データをPDFで落として視認した。 【2025年4月5日:底本変更・正字化不全・ミスタイプ・オリジナル注全補正】時間を経て、国立国会図書館デジタルコレクションに本登録し、現行では、以上の第一書房版昭和一一(一九三六)年十一月に刊行した「家庭版小泉八雲全集」(全十二巻)の第七巻が、国立国会図書館デジタルコレクションで公開されてある。(リンクは扉だが、「家庭版」の文字はない。しかし、奥附を見て貰うと『家庭版』とあり、『昭和十一年十一月二十七日 發 行』とあることが確認出来る)、これが、前掲の底本と同じものであるが、やはり、外国のサイトのそれを底本とするのは、日本人小泉八雲に失礼であると考えた。されば、こちらで、再度、以下の「骨董」の作品群を改めて校正することとする。これが――私の小泉八雲への「義」――である。なお、これよりも前の元版の全集等が先行しているものの、私がそれらと比べた結果、実は先行する同社の「小泉八雲全集」のそれらは、訳が一部で異なっており、訳者等によって、かなりの補正・追加がされていることが、今回の正字補正作業の中で、はっきりと判って来た。いや、同じ「家庭版」と名打ったネット上の画像データでも、驚いたことに、有意に異なっていたのである。そうした意味でも――完全な仕切り直しの総点検――が必要であると決したものである。従って、旧前振りの括弧・鍵括弧の問題も、拡大とガンマ補正で確認し、正確を期する。本作はここから。

 田部隆次(たなべりゅうじ 明治八(一八七五)年~昭和三二(一九五七)年)氏については先に電子化した「人形の墓」の私の冒頭注を参照されたい。

 ウィキの「果心居士」によれば、果心居士(生没年不詳)は『室町時代末期に登場した幻術師。七宝行者とも呼ばれる。織田信長、豊臣秀吉、明智光秀、松永久秀らの前で幻術を披露したと記録されているが、実在を疑問視する向きもある』。『安土桃山時代末期のものとされる愚軒による雑話集『義残後覚』には、筑後の生まれとある。大和の興福寺に僧籍を置きながら、外法による幻術に長じたために興福寺を破門されたという。その後、織田信長の家臣を志す思惑があったらしく、信長の前で幻術を披露して信長から絶賛されたが、仕官は許されなかったと言われている。居士の操る幻術は、見る者を例外なく惑わせるほどだったという』。『また、江戸時代の柏崎永以の随筆『古老茶話』によると』、慶長一七(一六一二)年七月に、『因心居士というものが駿府で徳川家康の御前に出たという。家康は既知の相手で、「いくつになるぞ」と尋ねたところ、居士は』八十八『歳と答えた』とあり、『また』、天正一二(一五八四)年六月に、『その存在を危険視した豊臣秀吉に殺害されたという説もある』とある。以下、彼の幻術エピソードも続くが、本篇のネタバレになるので、後で読まれた方がよろしいかと存ずるので、引用しない。

 なお、私は既に『柴田宵曲 妖異博物館 「果心居士」』を電子化注しており、柴田氏の詳細な紹介(小泉八雲の本篇にも触れてある)が面白いので、是非、本篇読後に参照されたいが、実はその注で私は本作の原拠である、近代最後の正統的漢学者の一人で画もよくした石川鴻斎(こうさい 天保四(一八三三)年~大正七(一九一八)年:)の漢文体の重厚な怪奇談集「夜窓鬼談」の「果心居士 黃昏艸(くわうこんさう)」を電子化している。但し、それは国立国会図書館デジタルコレクションの画像を視認して訓読したもので、今回は、小泉八雲旧蔵本を視認してゼロから作り直したものを最後に配した。

 

  果 心 居 士

 

 天正年間[やぶちゃん注:ユリウス暦一五七三年からグレゴリオ暦一五九三年。グレゴリオ暦は一五八二年十月十五日(天正十年九月十二日相当)から施行された。]、京都の北の方の町に、果心居士と云ふ老人がゐた。長い白い鬚をはやして、いつも神官のやうな服裝をしてゐたが、實は佛書を見せて佛敎を說いて生活を營んでゐたのであつた。晴天の日にはいつも祇園の祠の境內で、木に大きな掛物をかけるのが習慣であつた、それは地獄變相の圖であつた。この掛物はそれに描いてある物が悉く眞に迫つて巧妙にできてゐた。そして老人はそれを見に集まつて居る人々に見せて、携へてゐた如意をもつて色々の責苦を詳しく說き示し、凡ての人に佛の敎に從ふやうに勸めて、因果應報の理を說いてゐた。その繪を見て、それについて老人の說敎するのを聞くために、人が群をなして集まつた、そして喜捨を受けるためにその前に敷いてあるむしろは、そこへ投げられた貨幣の山で、表面が見えない程であつた。

 その當時、織田信長が畿內を治めてゐた。彼の侍臣荒川某、祇園の祠へ參詣の途中、偶然そこでその掛物を見て、あとで殿中に歸つてその話をした。信長は荒川の話を聞いて興味を感じ、直ちに果心居士に幅を携へて參上するやうに命じた。

 掛物を見た時、信長はその繪のあざやかさに驚いた事を隱す事はできなかつた、鬼卒及び罪人は實際彼の眼前に動くやうであつた、そして彼は繪の中から叫號の聲を聞いた、そしてそこに猫いてある鮮血は實際流れて居るやうであつた、――それで彼は、その繪が濡れて居るのではないかと指を觸れて見ないわけに行かなかつた。しかし指は汚れなかつた、――卽ち紙は全く乾いて居るからであつた。益々驚いて信長はこの不思議な繪の筆者を尋ねた。果心居士はそれに對して、それは名高い小栗宗丹が、――靈威を得んがために淸水の觀世音に熱心に祈り、百日の間每日齋戒を行つたあとで、――描いた事を答へた。

[やぶちゃん注:「荒川某」後に弟で「荒川武一」も出るが、不詳。織田信長家臣では馬廻衆の荒川頼季(~天正二(一五七四)年:「伊勢長島一向一揆征伐」に参陣して討死)や荒川与十郎等がいる。

「小栗宗丹」小栗宗湛(そうたん 応永二〇(一四一三)年~文明一三(一四八一)年)は室町中期の画僧。「宗丹」とも書く。字は小二郎又は小三郎。「自牧」と号した。小栗満重の子。ウィキの「宗湛」によれば、『鎌倉府(鎌倉公方)の管轄国内の武士でありながら』、『室町幕府の征夷大将軍と直接主従関係を結ぶ京都扶持衆の一つである常陸小栗氏の出身であり、初めは小栗 助重(おぐり すけしげ)という名(俗名)の武将であった。この頃の常陸小栗氏は』、応永三〇(一四二三)年)に『小栗満重が鎌倉公方・足利持氏に対し』、『反乱(小栗満重の乱)を起こして没落していた。その持氏が永享の乱を起こして自害すると、結城氏朝がその遺児(足利春王丸・足利安王丸)を擁して挙兵するが(結城合戦)、満重の子または弟(前者が有力)である助重がこの戦いで武功を立てたことにより、旧領への復帰を許され、家督を継承。しかし』、後の康正元(一四五五)年に『享徳の乱の最中』、『持氏の遺児(春王丸・安王丸の弟)である足利成氏の攻撃を受けて本貫地である小栗御厨荘(現在の茨城県筑西市)を失ってしまい、まもなく出家し』、『宗湛入道と号』した。『出家した宗湛は相国寺に入り、同寺で画僧周文に水墨画を学んだ』、寛正三(一四六二)年、『京都相国寺松泉軒の襖絵を描いて室町幕府』第八『代将軍足利義政に認められ、翌』年に『周文の跡を継いで』、『足利将軍家の御用絵師となった。その後、中央漢画界の権威として高倉御所・雲沢軒・石山寺などで襖絵を作成している』。文明五(一四七三)年『頃までの作画の記録は残っているが、宗湛作の遺品は発見されておらず、宗湛の書き残したものを』、『子の宗継が完成させた旧大徳寺養徳院の襖絵である「芦雁図」六面の内二面のみである。周文が高遠山水を得意としたのに対し、伝宗湛作品は平遠山水を特色としている』とある。

 以下、二行空き。]

 

 

 その掛物をたしかに信長が所望して居る事を見て、荒川はその時果心居士にその幅を信長公に献上してはどうかと尋ねた、しかし老人は大膽に答へた、――『この繪は私のもつて居る唯一の寶で、それを人に見せて少し金を儲ける事ができるのです。今この繪を信長公に献上すれば、私の生計の唯一の方法がなくなります。しかし、信任公が是非お望みとあれば、黃金壹百兩を頂きたい。それだけのお金で、私は何か利益のある商賣でも始めませう。さうでないと、繪はさし上げられません』

 信長はこの答を聞いて、喜ばないやうであつた、そして默つてゐた。荒川はやがて何か公の耳にささやいたが、公は承諾したやうにうなづいた、それから果心居士は少しのお金を賜はつて、御前から引き下がつた。

 

 しかし、老人が屋敷を離れると、荒川はひそかに跡を追つた、――奸計をもつてその繪を奪ひ取るべき機會を得ようとしたのであつた。その機會は來た、果心居士は郊外の山の方へ直ちに通ずる途に偶然さしかかつたからであつた。彼が山の麓の或淋しい場所に達した時、彼は荒川に捕へられた。荒川は彼に云つた、――『その幅に對して黃金百兩を貪るのは何と云ふ慾張りだらう。黃金百兩の代りに、三尺の鐡の一片をやる』それから荒川は劔を拔いて老人を殺して、幅を奪つた。

 

 翌日荒川は掛物を――果心居士が信長の邸を退出する前に包んだ通りに包んだままで、信長に献上した、信長は直ちにそれを展いて掛ける事を命じた。しかし展いて見ると、信長も彼の侍も二人とも、繪は全く無い、ただ白紙だけである事を見て驚くばかりであつた。荒川はどうして、もとの繪が消え失せたか說明ができなかつた、そして彼は――知つてか或は知らないでか――主人を欺いた事について罪があるので、處罸されるときまつた。それで彼は長い間閉門蟄居を命ぜられた。

 

 荒川の閉門の時期が終るか終らないうちに、果心居士が北野の祠の境內にその名高い繪を見せて居ると云ふ通知があつた。荒川は殆んどその耳を信ずる事ができなかつた。しかしその通知を得て、彼の心にどうにかしてその掛物を奪つて、それで先頃の失策を償ふ事ができさうな望みが湧いて來た。そこで彼は急いで從者の幾人かを集めて、寺に急いだ、しかし彼がそこに達した時に、彼は果心居士が去つてしまつたと云はれた。

 幾日か後に、果心居士がその繪を淸水堂で見せて、大きな群集に對して、それについて說敎して居る事が知れて來た。荒川は大急ぎで淸水へ行つた、しかし、そこに着いた時、群集は丁度散つて居るところであつた、――卽ち果心居士は再び消えて、ゐなかつたのであつた。

 たうとう或日の事、荒川は思ひがけなく或酒店で果心居士を認めてそこで彼を捕へた。老人は自分の捕へられたのを見て、機嫌よくただ笑ふだけであつた、そして云つた、――『一緖に行つて上げるが、少し酒を飮むまでお待ちなさい』この要求には、荒川は異存はなかつた、そこで果心居士は十二の大盃を飮みつくして、觀て居る人々を驚かした。十二盃目を飮んでから少し滿足したと云つた、それから荒川は命じて彼を繩でしばつて信長の邸へ連れて行つた。

 邸の取調所で、果心居士は、直ちに奉行の取調を受けた、そして嚴しく責められた。最後に奉行は彼に云つた、――『お前は魔術で人を欺いてゐた事はたしかだ、その犯罪だけで、お前はひどい罸を受ける資格がある。しかしもしお前がその繪を信長公に恭しく献上すれば、今度はお前の罪は大目に見てやる。さもなければ、甚だ重い罸を必ず課する事にする』

 このおどかしを聞いて果心居士は困つたやうな笑方をした、――『人を欺くやうな罪を犯したのは私ではない』それから、荒川に向つて、彼は叫んだ、――『お前こそうそつきだ。お前は繪をさし上げて信長公に諂はうとした[やぶちゃん注:「へつらはうとした」。]、そしてそれを盜むために私を殺さうとした。罪と云つたら、これ程の罪はどこにあるか。幸にして、お前は私を殺す事はできなかつた、しかし、お前の望み通りにできたらその行[やぶちゃん注:「おこなひ」。]に對してどんな辯解ができるか。とにかく、繪を盜んだのはお前だ。私のもつて居る繪はただの寫しだ。お前が繪を盜んでから、信長公に献上する事がいやになつたので、その祕密の行[やぶちゃん注:「ぎやう」。]や心をかくすために、その罪を私に着せて、私が本物の繪を白紙の掛物と取替へたと云つて居るのだ。どこに本物の繪があるか私は知らない。多分お前は知つて居るのだらう』

 かう云はれて、荒川は怒りの餘り、驅け寄つて、果心居士を打たうとしたが、番人等に遮ぎられて果せなかつた。しかしこの不意の怒りの破裂は、奉行に荒川が全く無罪ではあるまいと思はせる事になつた。暫らく、果心居士を獄に下してから、奉行は荒川を嚴しく調べにかかつた。ところで荒川は元來訥辯であつたが、この場合、殊に興奮の餘り、殆ど云ふ事ができないで、吃つたり、撞着[やぶちゃん注:「どうちやく」。前後が相い矛盾すること。辻褄が合わないこと。]したりして、どうしても罪のありさうな形跡を表はした。そこで奉行は、荒川を打つて白狀させるやうに命じた。しかし事實の白狀らしい事も彼にはできさうになかつた。そこで彼は鞭で打たれて、感覺を失つて、死人のやうになつて倒れた。

 

 果心居士は獄にゐて、荒川の事を聞いて笑つた。しかし少ししてから、彼は獄吏に向つて云つた、――『あの荒川と云ふ奴(やつ)は全く姦邪[やぶちゃん注:「かんじや」。心が曲がっていて、よこしまなこと。]の振舞したので、私は態とこの罸を與へて、彼の惡い心根を懲らしてやらうとしたのだ。しかし、荒川は事實を知らないに相違ないから、それで私はよく分るやうに一切の事を說明したいから、それで私はよく分るやうに一切の事を說明しますと今奉行に傳へてくれ給へ』

 それから果心居士は再び奉行の前に連れられて、つぎのやうな宣言をした、――『本當に優れた繪なら、どんな繪にも魂がある、そして、そんな繪には自分の意志があるから、自分に生命を與へてくれた人から、或は又正しい所有者から、離れる事を好まない事がある。眞の畫には魂がある事を證明するやうな話が澤山ある。昔、法眼元信が襖に描いた雀が何羽か飛んで行つて、そのあとが空になつた事はよく知られて居る。掛物に描いてある馬が每夜草を喰ひに出かけた事もよく知られて居る。ところで、今の場合では、事實はかうだと私は信ずる、卽ち信長公は私の掛物の正當の所有者ではなかつたから、繪が信長公の面前で展かれた時、紙の上から自分で消えたのであらう。しかし、もし私が始めに云つた通りの價段、――卽ち黃金壹百兩、――をお出しになれば、その時は私の考では、繪はひとりで今白紙になつて居るところへ現れませう。とにかく、やつて見てはどうです。少しも危い事はない、――繪が現れなければ、金は直ちに返すまでの事だから』

[やぶちゃん注:「法眼元信」室町時代の絵師で狩野派の祖狩野正信の子(長男又は次男)で、狩野派二代目の狩野元信(かのうもとのぶ 文明八(一四七六)年~永禄二(一五五九)年)のこと。京都出身。大炊助、越前守、さらに法眼(ほうげん)に叙せられ、後世、「古法眼(こほうげん)」と通称された。父正信の画風を継承するとともに、漢画の画法を整理しつつ、大和絵の技法を取り入れ(土佐光信の娘千代を妻にしたとも伝えられる)、狩野派の画風の大成し、近世における狩野派繁栄の基礎を築いた人物(ウィキの「狩野元信」に拠った)。

「掛物に描いてある馬が每夜草を喰ひに出かけた事」掛物ではないが、よく知られた話では、九世紀後半の伝説的な名絵師巨勢金岡(こせのかなおか 生没年未詳:宇多天皇や藤原基経・菅原道真・紀長谷雄といった政治家・文人との交流も盛んで、道真の「菅家文草」によれば、造園にも才能を発揮し、貞観一〇(八六八)年から同一四(八七二)年にかけては、神泉苑の作庭を指導したことが記されている。大和絵の確立者とされるものの、真筆は現存しない)が仁和寺御室で壁画に馬を描いたが、夜な夜な、その馬が壁から抜け出て、田の稲を食い荒らすと噂され、事実、朝になると壁画の馬の足が汚れていた。そこで画の馬の眼を刳り抜いたところ、田荒らしがなくなったという話が伝わる。]

 

 こんな妙な斷言を聞いたので、信長は百兩を拂ふ事を命じて、その結果を見るために親しく臨席した。それから掛物は彼の前で展かれた、そして列席者一同の驚いた事には、その繪は、悉く詳細に現れた。しかし色が少しさめて、亡者と鬼卒の形が、前のやうに生きて居るやうでなかつた。この相違を見て、信長公は果心居士に向つて、その理由を說明するやうに求めた、そこで果心居士は答へた、――「始めて御覽になつた繪の價値は、どんな價もつけられない繪の價値でした。しかし御覽になつて居る繪の價値は、正にお拂になつた物――卽ち黃金壹百兩――を表はして居ります。……外に仕方がございません』この答を聞いて列席の人々は、もうこれ以上この老人に反對する事は到底無效である事を感じた。彼は直ちに赦された、そして荒川も亦赦された、彼の受けた罸によつて彼の罪は十二分に償はれたからであつた。

 

 ところで、荒川に武一と云ふ弟がゐたが、――やはり信長の侍であつた。武一は荒川が打たれて獄に入れられたのを非常に怒つて、果心居士を殺さうと決心した。果心居士は再び放免されるや否や、酒屋へ行つて酒を命じた。武一はそのあとから店に入つて、彼を斬り倒し、首を切り落した。それから老人に拂はれた百兩を取つて、武一は首と金とを一緖に風呂敷に包んで、荒川に見せるために家に急いだ。しかし彼が包みを解いて見ると首と思つたのは空(から)の酒德利で、黃金は土塊[やぶちゃん注:「つちくれ」。]であつた。……それから間もなく、首のない體は酒屋から步き出して、――どこへだか、いつだか誰も知らないが、――消え失せた事を聞いて、この兄弟は益々驚くばかりであつた。

 

 一月ばかり後まで、果心居士の事は知られなかつた、その頃になつて、信長公の邸前で、遠雷のやうな大鼾[やぶちゃん注:「おほいびき」。]をして寢て居る一人の泥醉者があつた。一人の侍が、その泥醉者卽ち果心居士である事を發見した。この無禮な犯罪のために、老人は直ちに捕へられて牢に入れられた。それでも眼をさまさない、そして牢で彼は十日十晩間斷なく眠り續けた、――その間たえずその高鼾が餘程遠くまで聞えた。

 

 この頃に、信長公は部下の一人である明智光秀の反逆のために死ぬやうになつたので、光秀がそれから政[やぶちゃん注:「まつりごと」。]を取つた。しかし光秀の權力は十二日しか續かなかつた。

 ところで、光秀が京都の主人になつた時、彼は果心居士の事を聞いた、それから命じて、その囚人を彼の前に出させた。そこで果心居士は新しい君主の面前に呼ばれた、しかし光秀は彼に丁寧な言葉をかけて、賓客として待遇し、そして立派な饗應するやうに命じた[やぶちゃん注:ママ。「を」の脱字かも知れない。]。老人に御馳走をしてから、光秀は彼に云つた、――『聞くところによれば、先生は大層お酒が好きださうです、――一度にどれ程めし上がりますか』果心房士は答へた、――『量はよくは知らんが、醉へば止めます」そこで光秀公は果心居士の前に大盃を置いて、侍臣に命じて老人の飮めるだけ、幾度となく、酒を注がせた、そこで果心居士は、頂いて十度大盃を飮み干して、さらに求めたが、下來は酒が盡きた事を答へた。列席の人々で、この强酒ぶりに驚かない者はなかつた、そこで光秀公は果心居士に尋ねた、『先生、未だ不足ですか』 『はい、少し滿足しました』果心居士は答へた、――『ところで御親切の御返禮として、私の技(わざ)を少し御覽に入れませう。どうかその屛風を見てゐて下さい』彼は大きな八曲屛風を指した、それには近江八景が描いてあつた、そのうちの一つに、湖上遙かに舟を漕いで居る人があつた、――その舟は、屛風の表面では、長さ一寸にも足りなかつた。果心居士は舟の方へ手をあげて招いた、すると舟が突然向き直つて、繪の前面の方へ動き出すのが見えた。近づくに隨つて段々大きくなつた、そして船頭の顏つきが、はつきり認められるやうになつて來た。やはり段々近くなつて來た。――いつまでも大きくなつて、――たうとうそれが近くに見えて來た。それから突然、湖水が溢れて來るやうであつた、――繪から、部屋へ、――そして部屋は洪水になつた、そして水が膝の上まで達したので見物人は急いで着物をかかげた。同時に舟が、――本當の漁船が、――屛風の中から、滑り出すやうであつた、――そして一丁の艪の軋る音が聞えた。やはり部屋の中の洪水は增す一方であつたので、見物人は帶まで水に浸つて立つてゐた。それから舟は果心居士のところへ近づいて來た、そして果心居士はその舟に上つた、そこで船頭はふりかへつて、甚だ速かに漕ぎ去らうとした。それから舟が退いた時、部屋の水は急に低くなつて、――屛風の中へ退却するやうであつた。舟が繪の前面と思はれるところを通過するや否や、部屋は再び乾いた。しかし、やはり繪の中の舟は、繪の中の水の上を滑るやうであつた、――段々遠くへ退いて、段々小さくなつて行つて、たうとう最後に沖の中の一點となつて小さくなつた。それから、それは全く見えなくなつた、そして果心居士はそれと共に消えた。彼は再び日本には現れなかつた。

[やぶちゃん注:本篇の原拠は石川鴻斎(こうさい 天保四(一八三三)年~大正七(一九一八)年:)の漢文体の重厚な怪奇談集「夜窓鬼談」の「下卷」の第五話目の「果心居士 黃昏艸(くわうこんさう)」である。富山大学の「ヘルン文庫」の小泉八雲旧蔵本のそれを用いて、訓読文(原文は訓点附記の漢文。一部で推定で送り仮名を入れた)を以下に示す。一部の難読と判断されるものには私が推定で〔 〕で歴史的仮名遣で読みを振り(丸括弧は石川の附したもの。左ルビのものがあり、それは意味注で、文としては続かないものがあることを断っておく)、句読点や記号・濁点を加え、段落を成形して読み易くしておいた。下線は原本では右に附されてある。

   *

     果心居士 黃昏艸

 天正年間、洛北に、果心居士なる者、有り。年六十餘、葛巾〔かつきん〕道服、鬚髯〔しゆぜん〕、雪のごとし。祇園の祠〔やしろ〕に在りて、樹下に地獄變相〔ぢごくへんさう〕の圖を揭げ、舂(つ)く・磨(ひ)く・割(さ)く・烹(に)る、慘酷の諸刑、歷々として、眞に迫る。人をして戰慄(をのき)に勝〔た〕へざらしむ。居士、自〔みづか〕ら、鈎(によい)を把〔と〕つて、之れを諭示し、因果應報の理〔ことわり〕を說く。善を勸め、惡を懲し、以つて佛道に誘導す。老若〔らうにやく〕の羣集〔ぐんじゆ〕、錢を擲〔なげう〕つこと、山のごとし。

 時に織田信長、畿內を治む。其の臣荒川某、覩〔み〕て之れを奇とし、還りて右府〔うふ〕[やぶちゃん注:信長の称。彼は天正五(一五七七)年十一月十六日に従二位、同月二十日には右大臣兼右近衛大将となった。但し翌六年天正六年一月六日に正二位となるも、同年四月九日には右大臣・右近衛大将の両官を辞任している。これに拘るなら、この五ヶ月間を本話のロケーション時制と採ることも可能である。]に告ぐ。右府、人をして之れを召さしめ、幅を座傍に展〔てん〕す。彩繪、精密、閣魔・羅卒・諸罪人等、殆んど活動するがごとく、觀ること、之れを久しうして、鮮血、迸〔ほとばし〕り出で、呌號、幽かに聞ゆ。試みに手を以つて之れを拭へば、傅着〔ふちやく〕する者なし。右府、大いに怪しみ、乃ち、其の筆者を問へば、曰はく、

「小栗宗丹、淸水觀世音に祈りて、齋戒百日、遂に之れを作る。」

と。右府、之れを欲す。荒川氏をして意を達せしむ。居士曰はく、

「我れ、是の幅を以つて續命〔しよくみやう〕の寶〔たから〕となす。若〔も〕し、之れを亡〔ばう〕せば、簞瓢〔たんへう〕罄(れい/つき[やぶちゃん注:前が右ルビ、後が左ルビ。本字は「虚(むな)しい」の意ある。])空〔くう〕[やぶちゃん注:米を入れる瓢簞が忽ちのうちに空となること。オマンマの食い上げ。])、生を全くすること能はざるなり。」

と。然れども、强いて之れを欲す。

「請ふ、百金を賜へ。以つて、養老の資となさん。然らずんば、愛を割くこと能はず。」[やぶちゃん注:この「愛」はママ。しかしこれ、「爰」の誤字ではあるまいか?

と。右府、喜ばず。荒川、其の貪を怒り、且つ、右府に諂〔へつ〕らひ、將に圖(はか)る所、有らんとし、竊かに其の意を告ぐ。右府、之れを頷〔ぐわん〕す[やぶちゃん注:首を縦に振って許諾した。]。乃〔すなは〕ち、錢を賜ひて之を反〔か〕へす。居士、去る。

 荒川、居士を追ひて往く。日、將に昏れなんとす。漸く山麓に遇ひ、前後二人無き時に、居士を捕へて曰はく、

「汝、一畫を恡(おし)み、百金を貪ぼる。我れ、三尺の鐵、有り。以つて汝に與ふべし。」

と、言(げん)、いまだ竟〔をは〕らざるに、刀を拔きて、路傍に斃(たふ)す。幅を奪ひて還る。

 明日〔みやうじつ〕、右府に進む。右府、喜ぶ。之れを展ずれば、則ち、白紙のみ。荒川、愕然、流汗、衣に透〔とほ〕る。主を欺くの罪を以つて、門を閉ぢて蟄居す。

 居ること、十日、一友人來たり告げて曰はく、

「昨(きのふ)、北野の祠を過ぐ。老樹の下、一道士、幅を揭げ、捨財を集む。容貌・衣服、居士と異ることなし。居士に非ざるを得んや。」

と。

 荒川、大いに怪しみ、前罪を贖〔あがな〕はんと欲し、卒を率て北野に到る。到れば、則ち、渺たり[やぶちゃん注:姿が見えぬ。]。荒川、益々、怒る。然れども、之れを如何ともすること莫し。

 既にして孟蘭盆會〔うらぼんゑ〕に及び、諸寺、佛會〔ぶつゑ〕を修す。或る人、曰はく、

「居士、淸水寺に在りて、塲を設け、俗を誘ふ。」

と。

 荒川、喜ぶ。

 急〔いそぎ〕、徒を從へて到る。往來、紛雜、憧々〔しようしよう〕[やぶちゃん注:うろつくこと。])、織るがごとし。而して其の在る所を見ず。馳驅〔ちく〕索搜するも、相ひ似たる者なし。悒鬱〔いふうつ〕[やぶちゃん注:「憂鬱」に同じい。])として望みを失ふ。歸路、八坂〔やさか〕を過ぐ。居士、一酒肆〔しゆし〕に在りて、榻〔しじ〕[やぶちゃん注:腰掛け。]に坐して飮む。卒、之れを認めて荒川に告ぐ。荒川、之れを窺ふに、果して居士なり。輙〔すなは〕ち、肆に入りて居士を捕ふ。居士、曰はく、

「暫く待て。飮み了りて將に往かんとす。」

と。數十碗を傾け、餐𩟖(むさぼりくら)ひて漸く盡く。曰はく、

「足れり。」

と。卽ち、縛に就きて去る。直ちに廳前〔てうぜん〕に坐す。之れを誚〔せ〕めて曰はく、

「汝、幻術を以つて人を欺く。罪、大惡、極る。若し、眞物を以つて上〔かみ〕に獻ぜば、其の罪を免るべし。若し、匿〔かく〕して譌〔いつは〕らば、應に以つて重刑に處すべし。」

と。居士、呵々大笑して、荒川に謂ひて曰はく、

「我れ、本〔もと〕、罪、無し。汝、主に媚び、我れを殺して幅を奪ふ。其の罪、至重〔しちやう〕なり。我れ、幸ひに傷つかず、今日、有るを致す。我れ、若し、死せば、汝、何を以つてか、罪を贖〔あがな〕ふ。幅のごときは、汝が奪掠〔だつりやく〕に任〔まか〕す。我が有る所は其の稿本〔こうほん〕のみ。汝、反〔かへ〕りて之れを匿し、主を欺くに白紙を以つてす。而して其の罪を掩〔おほ〕はんとす。我れを捕へて幅を求む。我れ、安〔いづく〕んぞ之れを知らんや。」

と。荒川、奮怒〔ふんぬ〕して拷掠〔かうりやう〕[やぶちゃん注:打ち叩いて罪を責めたり、白状させたりすること。]して實(じつ)を得んと欲す。上官、荒川を疑ふ。因つて荒川を詰責(きつせき)す。兩人、紛爭して、判ずること、能はず。乃ち、居士を一室に囚〔しう〕す。嚴に荒川を鞠訊〔きくじん〕[やぶちゃん注:罪を調べ問い糺すこと。]す。荒川、口〔くち〕訥〔とつ〕にして[やぶちゃん注:訥辨。話し方が滑らかでないこと。言葉による主張が苦手なこと。]、冤〔ゑん〕を辯ずること能はず。頗る苦楚〔くそ〕[やぶちゃん注:楚(しもと:鞭)などによる激しい拷問。]を受く。肉、爛れ、骨、折る。殆んど、死に垂〔た〕らんとす。居士、囚に在りて之れを聞き、獄吏に謂ひて曰はく、

「荒川は姦邪の小人たり。我れ、之れを懲さんと欲す。故に一時、酷刑を與ふ。子、上官に告げよ。實は、荒川の知る所に非ず。我れ、明らかに之れを告げん。」

と。

 上官、居士を召して之れを訊〔と〕ふ。

 居士、曰はく、

「名畫、靈、有り。其の主に非ざれば、則ち、留まらず。昔、法眼元信、群雀を畫く。一、二、脫し去る。襖、その痕〔あと〕を遺す。馬を畫けば、馬、夜、出でて艸を喰〔くら〕ふ。是れ、皆、衆人、知る所なり。顧〔かんが〕ふに、右府は其の主に非らず。故に、脫し去るのみ。然れども、初め、百金を以て價を約す。若し、百金を賜へば、或いは原形に復することあらんか。請ふ、試みに我れに百金を賜へ。若し、復せずんば、速やかに返し奉らん。」

と。

 右府、其の言を奇とし、則ち、百金を賜ふ。幅を展ずれば、畫圖、現然たり。然れども、諸〔もろもろ〕を前畫に比すれば、筆勢、神〔しん〕無く、彩澤、太〔はなは〕だ拙なり。仍つて、居士を詰〔なぢ〕る。居士、曰はく、

「前畫は則ち、無價の寶なり。後畫は百金に價する者。安んぞ相ひ同じきを得んや。」

と。

 上官・諸吏、對(こた)ふること能はず。遂に二人を免ず。

 荒川の弟武一は、兄の苛責に遇ひ、筋骨摧折〔さいせつ〕するを悲しみ、居士を讎視〔しうし〕して之れを殺さんと欲し、密かに跡を追ひて往く。

 又、一酒肆に飮むを見る。躍り入つて之れを斫〔き〕る。衆、皆、驚き、散ず。居士、牀下に朴〔たふ〕る。乃ち、其の首を斷じて帛〔きん〕に裹〔つつ〕み、併せて金を奪ひて去り、家に還りて兄に示す。兄、喜ぶ。帛を解へば、則ち、一〔いつ〕の酒壜(さかどつくり)のみ。二人、愕然たり。其の金を見れば、則ち、土塊〔つちくれ〕のみ。武一、切齒して右府に告ぐ。物色して之れを索〔もと〕む。渺〔べう〕として知るべからず。

 之れを久しうして、門側に、一醉人、有り。橫臥して、鼾、雷のごとし。諦觀すれば、則ち、居士なり。急(すみや)かに之れを捕へて獄中に投ず。醒めず。𪖙々(こうこう)[やぶちゃん注:鼾のオノマトペイア。]と四隣を驚かす。十餘日に至るも猶、未だ覺めず。時に、右府、安土(あづち)に在りて將に西征せんとし、軍を率ゐて本能寺に館〔やかた〕す。

 光秀、反し、右府を弑〔しい〕して洛政を執る。居士の仙術有るを聞き、獄を開〔かい〕して之れを召す。

 居士、漸く覺〔さ〕む。乃ち、光秀の館に至る。光秀、酒を勸め、之れを饗して曰はく、

「先生、酒を好む。飮むこと、幾何(いくばく)ぞ。」

と。

 曰はく、

「量、無く、亂〔みだ〕るるに及ばず。」

と。

 光秀、巨盃を出だして、侍をして酒を盛らしめ、隨ひて飮み、隨ひて盛る。數十盃を傾く。缾〔かめ〕[やぶちゃん注:大きな酒壺であろう。]、已に罄〔つ〕きたり。一坐、大いに駭〔おどろ〕く。

 光秀、曰はく、

「先生、未だ足らざるか。」

と。曰はく、

「少實する[やぶちゃん注:少しばかり滿足する。]を覺ゆ。請ふ、一技を呈せん。」

 屛に近江八景を畫ける有り。舟、大いさ寸餘り。居士、手を揚げて之れを招く。舟、搖蕩〔えうたう〕[やぶちゃん注:揺れ動くこと。]として屛を出で、大いさ、數尺に及ぶ。

 而して坐中、水、溢〔あふ〕る。衆、僉〔み〕な、惶駭〔こうがい〕して、袴を褰〔かか〕げて偕立〔かいりつ〕す[やぶちゃん注:一斉に立ち上がった。])。俄然として股を沒す。居士、舟中に在り。偕工〔かいこう〕[やぶちゃん注:「偕」は棹(さお)を指し、ここは「船頭」のこと。]、槳(かぢ)を盪〔うごか〕し、悠然として去り、之(ゆ)く所を知らず。

[やぶちゃん注:以下、原典では全體が一字下げ。]

嘗て曰はく、「西陣に片岡壽安なる者あり。醫を業とし、頗る仙術を好む。一道士、有り。壽菴[やぶちゃん注:ママ。]を見て曰く、

「子、仙骨、有り。宜〔よろ〕しく道を修むべし。」

と。仍(すなは)ち一仙藥を授く。大いさ、棗核(なつめのみ)のごとし。之れを服すれば、身、輕く、神〔しん〕、爽〔さう〕なり。復た、穀食を念〔おも〕はず[やぶちゃん注:空腹にならず。]。一日(いちじつ)、奴〔ど〕[やぶちゃん注:下僕。]と爭ふ。怒り、甚し。杖を以つて之れを擊つ。忽ち、道士あり。

「汝、俗心、未だ脫せず。道に入ること能はず。乃〔すなは〕ち、鉤〔によい〕を擧げて、背を打つ。服する所の仙藥、口より、出づ。道士、取りて去る。是れより復た、食を貪ること、常のごとし。或いは曰く、道士は則ち、果心居士なり、と。

   *

 私は、この屏風中の湖面へと消えて行く果心居士の映像が、すこぶる附きで好きである。私の『柴田宵曲 妖異博物館 「果心居士」』にそのシーンの原拠の挿絵も挿入してある。ご覧あれ。底本であるハーンのそれは「下巻」の「13」である。

小泉八雲 閻魔の庁にて  (田部隆次譯) (原拠を濫觴まで溯ってテッテ的に示した)

 

[やぶちゃん注:本篇(原題“ Before the Supreme Court ”。「最高権威の法廷にて」)は一九〇一(明治三四)年十月にボストンの「リトル・ブラウン社」(LITTLE,BROWN AND COMPANY)から出版された作品集“ A JAPANESE MISCELLANY ”(「日本雑記」。来日後の第八作品集)の冒頭パート「奇談」(原題“ Strange Stories ”)の第三話に置かれたものである。本作品集は“Internet Archive”のこちら(出版社及びクレジットの入ったページを示した)で全篇視認できる(本篇はここから)。活字化されたものとしては、「英語学習者のためのラフカディオ・ハーン(小泉八雲)作品集」のこちらが、本田部訳(同一訳で正字正仮名)と対訳形式でなされており、よろしいかと思われる(海外サイトでも完全活字化されたフラットなベタ・テクストが見当たらない)。

 底本は英文サイト“Internet Archive”のこちらにある、第一書房が昭和一一(一九三六)年十一月に刊行した「家庭版小泉八雲全集」(全十二巻)の第七巻の画像データをPDFで落として視認した。 【2025年4月5日:底本変更・正字化不全・ミスタイプ・オリジナル注全補正】時間を経て、国立国会図書館デジタルコレクションに本登録し、現行では、以上の第一書房版昭和一一(一九三六)年十一月に刊行した「家庭版小泉八雲全集」(全十二巻)の第七巻が、国立国会図書館デジタルコレクションで公開されてある。(リンクは扉だが、「家庭版」の文字はない。しかし、奥附を見て貰うと『家庭版』とあり、『昭和十一年十一月二十七日 發 行』とあることが確認出来る)、これが、前掲の底本と同じものであるが、やはり、外国のサイトのそれを底本とするのは、日本人小泉八雲に失礼であると考えた。されば、こちらで、再度、以下の「骨董」の作品群を改めて校正することとする。これが――私の小泉八雲への「義」――である。なお、これよりも前の元版の全集等が先行しているものの、私がそれらと比べた結果、実は先行する同社の「小泉八雲全集」のそれらは、訳が一部で異なっており、訳者等によって、かなりの補正・追加がされていることが、今回の正字補正作業の中で、はっきりと判って来た。いや、同じ「家庭版」と名打ったネット上の画像データでも、驚いたことに、有意に異なっていたのである。そうした意味でも――完全な仕切り直しの総点検――が必要であると決したものである。従って、旧前振りの括弧・鍵括弧の問題も、拡大とガンマ補正で確認し、正確を期する。本作はここから。

 田部隆次(たなべりゅうじ 明治八(一八七五)年~昭和三二(一九五七)年)氏については先に電子化した「人形の墓」の私の冒頭注を参照されたい。]

 

 

  閻魔の庁にて

 

 名高い佛僧存覺上人の『敎行信證』に云つてある、『人の禮拜する神多く邪神なり、故に三寳に歸依する者は多くこれに仕へず。かかる神を禮拜して恩惠を受けたる者も、後になりて、かかる恩惠は不幸を生ずる事を常に知る』日本靈異記の中に記してある話がこの道理のよい例である。

[やぶちゃん注:以上の一文はママ。「日本靈異記」の前にダッシュが欲しい。

「名高い佛僧存覺上人の『敎行信證』に云つてある、」原文は“THE great Buddhist priest, Mongaku Shonin, says in his book Kyō-gyō Shin-shō :”で、まず僧侶の名が「存覺上人」ではなく、正字でなら恐らく「文覺上人」とあり、しかもご存じの通り、「敎行信證」は親鸞の名著大作であって、作者が違うし、同書を読んだことのある私には、このような記載はないと思う。一九九〇年講談社学術文庫刊の小泉八雲著・平川祐弘編「怪談・奇談」の平川氏の訳の訳者注には、『ハーンが依拠した『通俗仏教百科全書』の第一字』目『が欠字していたため』、小泉八雲にこの話を語った『郞読者が誤って「存覚上人」とハーンに教えた』ために、『英文では』前記のようになったのだとされ、当該書の訳では、『原拠』(最後に掲げる)『に従い、「存覺上人」の『教行信証六要鈔』にあらためた』とある。存覚(そんかく 正応三(一二九〇)年~応安六(一三七三)年)はウィキの「存覚」によれば、『鎌倉時代後期から南北朝時代にかけての浄土真宗の僧である。父は覚如』(「大谷廟堂」の寺院化(本願寺創成)に尽力して本願寺を中心とする浄土真宗教団の基礎を作り、本願寺の実質的な開祖となった甚物(一般に開祖は、親鸞とされるが、親鸞自身に開宗教団形成の意思は全くなく(そもそも「浄土真宗」とは法然の草創した浄土宗の真(まこと)の謂いであって、元来は宗派名でさえなかった)、本願寺成立後、覚如が事実上、創成した宗派である。私は覚如は親鸞の正統な法嗣ではないとさえ考えているほど、親鸞の教えを踏みにじっていると考える人間である)である。『存覚は、初期浄土真宗における優れた教学者で、父覚如を助けて浄土真宗の教線拡大に尽力したが、本願寺留守職や東国における門徒への対応などをめぐり対立し』、二『度の義絶と和解が繰り返された。和解後も本願寺別当職を継承しなかった』。『存覚は終生に』亙って、『教化活動に力を注ぎ、佛光寺の了源への多数の聖教書写を初め、関東や陸奥国・近江国・備後国などで多くの布教活動を行っ』ている、とある。彼の「教行信証六要鈔」は親鸞の「教行信証」の最初の注釈書で、延文五(一三六〇)年に完成されたものである。「豊後 光西寺 釈円爾会 教行信証六要抄会本 大谷派本願寺蔵版」の全文電子データをダウン・ロードして調べたところ、これに相当すると思われる部分を発見した。恣意的に正字化し、一部の歴史的仮名遣を訂し、以下に原文と訓読文(一部のひらがなを漢字に代え、記号・読みを追加した)を示す。

   *

○先涅槃文。卽出經名是別標也。已下皆同。言終不更歸依等者。問。天神地祗世之所貴何誡之乎。答。歸佛陀者釋敎軌範。崇神明者世俗禮奠。内外別故。法度如此。是則月氏晨旦風敎。所崇之神多邪神。故歸三寶者不得事之。故俱舍云。衆人恐所逼多歸依諸仙園苑及藂林孤樹制多等。此歸依非勝。此歸依非尊。不因此歸依能解衆苦。已上。

○先ず、『涅槃』の文、卽ち經名を出だす、是れ、別標なり。已下、皆、同じ。「終不更歸依(しうふかうきえ)」等といふは、問ふ、「天神地祗は世の貴ぶ所なり、何ぞこれを誡むるや。」。答ふ、「佛陀に歸するは釋敎の軌範、神明を崇むるは世俗の禮奠(れいてん)、内外別なる故に、法度、かくの如し。これ、則ち、月氏、晨旦(しんたん)の風敎(ふうけう)、崇むる所の神は多く邪神なり。故に三寶に歸する者は、これに事うることを得ず。故に『俱舍』に云はく、「衆人(しゆじん)は所逼(しよひつ)を恐れて、多く諸仙の園苑、及び藂林(しゆりん)、孤樹、制多[やぶちゃん注:サンスクリット語の漢音写。釈迦の霊跡に造られた一種の建造物で、一般には仏舎利を祀っていない塔を指す。]等に歸依す。この歸依は勝にあらず。この歸依は尊にあらず、この歸依に因りて能く衆苦を解せず。」。已上。

   *

「三寳」仏教で信仰の対象となる最重要のものである「仏」・「法」・「僧」の三つ。「仏」は釈迦、「法」はその説いた経典・教説、「僧」は教えを守る和合衆(僧集団)をいう。本質は一つと説かれており、末世では、物体や現存在に過ぎない「仏像」・「経巻」・「出家」を指す。

「日本靈異記の中に記してある話」最後に掲げる。]

 

 聖武天皇[やぶちゃん注:在位は神亀元(七二四)年~天平勝宝元(七四九)年。]の御世に、讃岐國山田郡に、布敷臣(ふしきのをみ)と云ふ人の一人子に衣女(きぬめ)と云ふ娘がおつた。衣女は容貌のよい大層强い女であつた、しかし彼女が十九になつて間もなく、その地方に危險な病氣が流行して、彼女もそれに襲はれた。兩親や親戚はその時、彼女のために或疫病神に祈つて、その神のためにさまざまの行をして、――彼女を助ける事を願うた。

[やぶちゃん注:「讃岐國山田郡」後の部分は「やまだのこほり」と読みたい。現在の高松市の牟礼町各町を除く、木太町・林町・上林町・三谷町・西植田町・菅沢町以東に当たる。この中央附近(グーグル・マップ・データ)。一部のネット記載では、木田(きた)郡とし、その場合は、さぬき市(昭和)も含まれる。ウィキの「山田郡」の旧郡図も示しておく。]

 數日の間、人事不省になつてゐたあとで、病人の娘は或晚我にかへつて、兩親に自分の見た夢の話をした。彼女は疫病神が現れて、彼女にかう告げた夢を見た、――『お前のうちの人々がお前のために熱心に自分に祈つて、信心深く自分を崇めるから、自分はお前を本當に助けてやりたい。しかしさうするには誰か外の人の生命を與へねばならない。お前と同じ名の誰か外の娘を知つてゐないか』『知つて居ります』衣女は答へた、『鵜足郡に私と同じ名の娘が居ります』『その女を自分に指し示せ』疫病神が云つて、眠れる人に觸(さは)つた、――それから觸(さは)られると共に、彼女は神と一緖に空中に浮んだ、それから忽ちのうちに、二人は鵜足郡の衣女の家の前に行つた。夜であつたが、うちの人々は未だ床についてゐなかつた、そして娘は臺所で何か洗つてゐた。『あれです』と山田郡の衣女が云つた。疫病神が帶にもつてゐた緋袋の中から鑿(のみ)のやうな長い銳い道具を取出して、家に入つて、鵜足郡の衣女の顏にその銳い道具をつき込んだ。そこで鵜足部の衣女は非常に苦悶して床の上に倒れた。山田郡の衣女は眼を覺して、その夢の話をした。

[やぶちゃん注:「鵜足郡」(うたり/うたのこほり)は、現在の丸亀市(土居町・土器町・飯野町各町・飯山町各町・綾歌町各町)、及び、坂出市(川津町)・綾歌郡宇多津町(吉田地区除く)・仲多度郡まんのう町(川東を除く長尾、炭所東、造田以東)附近。先の山田郡の西方に三郡を隔ててあった郡である。ウィキの「鵜足郡」の旧郡図を示しておく。]

 しかし、それを物語つたあとで、彼女は再び人事不省になつた。三日間彼女は何事も分らないでゐた、そして兩親は彼女の囘復を望みなく思つてゐた。その時もう一度彼女は眼を開いて、物を云つた。しかし殆んど同時に彼女は床から起き上つて、物狂はしさうに部屋を見𢌞して、部屋から跳び出して、叫んだ、――『これは私のうちぢやない、――私の兩親ぢやない』……

 

 何か餘程變な事が起つたのであつた。

 鵜足郡の衣女は疫病神の鑿[やぶちゃん注:「のみ」。]にさされて死んだ。兩親は歎き悲しんだ、檀那寺の僧侶達は彼女のために讀經して、遺骸は野外で火葬になつた。それから魂は冥途へ行つて閻魔大王の前に出た。しかし大王はこの少女を見るや否や叫んだ、――「この少女は鵜足郡の衣女だ、こんなに早くここへ連れて來てはならぬ。すぐ娑婆世界へかへせ、今一人の衣女――山田郡の少女を連れて來い』その時鵜足郡の衣女の魂は閻魔大王の前に哀泣して訴へた、――『大王さま、私死にましてから三日以上になります、今頃は私のからだは灰と煙になつて居りますので、――私のからだはございません』 『心配には及ばぬ』畏ろしい大王は答へた、――『お前には山田郡の衣女のからだを與へる、――その女の魂は今すぐここに來る事になつて居るから。お前はからだが燒けた事は氣にかけなくともよい、お前には別の衣女のからだの方がもつともつと好都合だらう』それからかう云ひ終るや否や鵜足郡の衣女の魂は山田郡の衣女のからだに入つて再生した。

 

 ところで山田郡の衣女の兩親は、病人の娘が『これは私のうちぢやない』と叫びながら、叫びながら、跳び上つて驅け出すのを見た時に、――彼等は娘が發狂したと想像した、そして、そのあとから『衣女、お前はどこへ行く、――ちよつと、お待ち、お前は病氣だから、そんなに走つてはいけない』――と呼びながら、走つた。しかし、娘は止まらないで、走り續けて、たうとう鵜足部に行つて、死んだ衣女の家まで來た。そこへ驅け込んで、老人達を見た、それから、お辭儀をして、叫んだ、――『あ〻、うちへ歸つて嬉しい。……父樣も母樣も、お變りませんか』彼等はその女が何者だか分らなかつたから、狂人だと思つた、しかし母はやさしく彼女に問うて云つた、――『お前はどこから來ましたか』『冥途から來ました』衣女は答へた。『私はあなたの娘の衣女です、冥途から歸つて來たのです。しかし今はからだが違つてゐます、母樣』それから彼女はこれまでの話をした、そこで老人達は非常に驚いたが、どう信じてよいか分らなかつた。やがて山田郡の衣女の兩親は娘をさがしながら、その家に來た、それから二人の父と二人の母は一緖に相談して、娘に話をくりかへさせて、何度も質問した。しかしどんな質問に對しても彼女の答は、正しいので、彼女の話は疑はれなくなつて來た。たうとう、山田郡の衣女の母は、病氣の娘が見た妙な夢を述べてから、鵜足郡の衣女の兩親に云つた、――この娘の魂はあなた方のお子さんの魂だと私達は承知します。しかし、御覽の通りからだは私達の娘のからだです。それでこの娘は兩方の家の者ですね。これからはこの娘を兩方の家の娘とするに御同意ありたい』これには鵜足部の兩親も喜んで一致した、そして、その後衣女は兩家の財產を相續した事が記錄に殘つて居る。

 

 佛敎百科全書の著者は云ふ、『この話は日本靈異記第一卷の十二枚目の左のとこに見えて居る』

[やぶちゃん注:「日本靈異記第一卷の十二枚目の左」とあるが、何を間違ったものか、これは「日本靈異記」の「中卷」の「二十五 閻羅王の使の鬼召さるる人の饗を受けて恩を報ずる緣」の誤りである。それも後掲する。

 

[やぶちゃん注:まず、小泉八雲が原拠としたのは、「通俗佛敎百科全書」の「中卷」の「第九十五」の「邪神の事」であるとされる。それをまず、示す。但し、一九九〇年講談社学術文庫刊の小泉八雲著・平川祐弘編「怪談・奇談」の布村(ぬのむら)弘氏の「解説」によれば、その種本は後に示す「日本霊異記」であり、それは「今昔物語集」の巻二十の十八にも採録されてあって(実際には類話はもっと沢山ある)、さらに、その濫觴は、唐代の「冥報記」の「下」に載るものが基である、とするので、さればこそ、その総てを、以下で電子化して示すこととする。

 まずは、「通俗佛敎百科全書」の「中卷」の「第九十五」の「邪神の事」。本書は大分出身の真宗大谷派の僧長岡乗薫(じょうくん)編で、開導書院から明治二三(一八九〇)年に刊行された。但し、これは、江戸前期の真宗僧明伝(みょうでん 寛永九(一六三二)年~宝永六(一七〇九)年)の編になる「百通切紙」(全四巻。「浄土顯要鈔」とも称する。延宝九(一六八一)年の成立で、天和三(一六八三)年に板行された。浄土真宗本願寺派の安心と行事について問答形式を以って百箇条で記述したもので、真宗の立場から浄土宗の教義と行事を対比していることから、その当時の浄土宗の法式と習俗などを知る重要な資料とされる)と、江戸後期の真宗僧で京の大行寺(だいぎょうじ)の、教団に二人しか存在しない「学頭」の一人であった博覧強記の学僧信暁僧都(安永二(一七七三年?~安政五(一八五八)年:「御勧章」や仏光版「敎行信證」の開版もした)の没年板行の「山海里(さんかいり)」(全三十六巻)との二書を合わせて翻刻したものである。以下は、その後者「山海里」の部にある。

 底本は国立国会図書館デジタルコレクションの同書のここから視認した。読みは振れるものに留め、句読点や記号等を補い、段落を成形した。踊り字「く」「ぐ」は正字化した。歴史的仮名遣の誤りはママである。

   *

 第九十五  〇邪神の事

 一 存覺(ぞんかく)上人の「敎行信證六要妙」に曰(いはく)、『月氏(げつし)、晨旦(しんたん)の風敎(ふうけふ)、崇(あがめ)る所の神、多く、邪神なり。故(かるがゆゑ)に三寶に歸する者は、之に事(つかへ)ず。邪神に事る者は損ありて、益なし』と、眞正(しんしやう)邪僞の决判(けつぱん)あり。

 延喜(ゑんぎ)年中[やぶちゃん注:九〇一年~九二三年。]に、源の順(したがふ)が著せる「和名類衆(わみやうるいじゆ)」[やぶちゃん注:源順の漢和辞書「和名類聚鈔」。但し、延喜の後の承平四(九三四)年頃の成立である。当該項は国立国会図書館デジタルコレクションの寛文七(一六六七)年版のここ。]に引證[やぶちゃん注:後の人物による注釈を指す。]の、舊錄たる「日本靈異記」の中に、聖武天皇の御宇(みよ)の時、讚岐國山田郡(やまだごほり)の布敷臣(ふしきのしん)といふ人の女子(むすめ)に衣女(きぬめ)といふあり。その女子、急病のおこりたる時、疫病神(やくびやうがみ)にいのりて、命(いのち)をたすからんがために、さまざまとおこなひ、まつりければ、疫神(やくじん)、夢に告(つげ)て云く、

「汝、われをまつりあがむるがゆゑに、人の命をとりかへて、汝が命をたすくべし。此國に其方(そのはう)と同じ名の者、ある事をしらざるや。」

と、いへり。

 今の病人なる衣女、夢ごゝろにて、こたへけるに、

「同國にては、鵜足郡(うたりこをり)に、われと、名の同じき女子(むすめ)ある事を、しれり。」

と、いふ。

「さあらば。」

とて、疫神(やくじん)、その女子をつれて、鵜足郡の衣女が家に入(いり)て、緋囊(あかきふくろ)より、一尺ばかりの鑿(のみ)を出して、其家の女子(むすめ)なる衣女(きぬめ)が額(ひたひ)に打(うち)たつる、と、おもへば、にわかに、女子(むすめ)は、うちたをれて、なやみ苦(くるし)むありさまなり。

 其時、山田郡の衣女が病氣は、たちどころに平癒(へいゆう[やぶちゃん注:ママ。])して、歸(かへる)と覺(おもへ)て、夢、さめければ、急病人は本覆(ほんぷく)して、常のごとし。

 さて、その鑿をうたれたる鵜足郡の女子の衣女は、あへなく、命(いのち)終(をはり)にけり。

 其親屬らは、あつまりて、なげきけれども、人の命にかへられし事は、ゆめゆめしらぬことなれば、

「定まれる定業(ぢやうがう)のせんかたなし。」

と、野外におくりて、火葬のけむり、あとかたなくぞ、なりける。

 しかるに、その魂は冥土にゆき、爓魔(ゑんま)の前にいたるに、爓魔王、この女子を御覽ありて、[やぶちゃん注:歴史的仮名遣は「えんま」でよい。]

「これは、鵜足郡の衣女なり。今、來(きたる)べき者にあらず。山田の衣女を連來(つれきた)れ。今、來(きた)る鵜足の衣女は、いそぎて、娑婆へかへすべし。」

と、のたまへば、衣女が申(まうし)のぶるには、

「われ事(こと)、死(しに)たるは三日以前のことなれば、死骸は火葬となりたるならん。かへしたまはりても、やどるべき體(からだ)なし。いかゞはせん。」

と、なげきければ、爓魔大王、のたまはく、

「汝、悲しむことなかれ。山田の衣女が死骸(しかばね)に、汝が魂を(たましい[やぶちゃん注:ママ。])やどらせて蘇生(よみがへら)せん。」[やぶちゃん注:「山田の衣女」は実際には死んでいることになっているので「死骸」と呼称しているのであろう。但し、以下のシチュエーションは上手く繋がっておらず、齟齬がある。後に示す「日本霊異記」の方が、理に適った形となっている。]

と、爓魔の聲のおはらぬに、山田の衣女、よみがへる。

 其父母も、親屬も、よろこぶこと、かぎりなし。

 しかるに、よみがへりたる女子の衣女、家の內を見まはして、

「是は、吾家にあらず。我(わが)家は、鵜足にあり。」

とて、かけ出(いで)んとするを、父母、おどろき、いだきとめ、

「汝は、これ、我子(わがこ)なり。何とて、かくはいひけるぞ。」

と、なだめてもなだめても、女子、なかなか、きゝいれず。

 家をかけ出(いで)、鵜足の家にゆきいたり、

「是こそ、吾家(わがや)なりけり。」

と、いひけるを、又、其家の父母は、尙更に、おどろきて、

「我子は三日のさきに、はや、けむりとなり、灰となり、火葬したれば、體(からだ)は、なし。しかるに、體、入來(いりきた)り、『我家なり。我子なり。』といひけるは、不審(いぶかしき)ことなり。」

と、いひけるゆゑ、衣女、ことばをあらためて、冥土へゆきし物がたり、爓魔王の下知(げち)として魂(たましい)を入れかへられし、はじめおわり[やぶちゃん注:ママ。]をいひければ、父母(ちゝはゝ)も聞(きゝ)わけて、いよいよ、落淚にぞ、およびけり。

 山田郡の父母も、あとより、たづね來りて、鵜足郡の父母にむかひて、

「其魂(たましい)は、その兩親の子息なり。其身が我等の產育(うみそだて)、足手(あして)のばせし吾子なれば、兩家の子として、たまはれ。」

と、女子(むすめ)一人に父母(ふぼ)四人、兩家のあとを讓(ゆずり)しと、「日本靈異記」上卷の十二紙(し)の左のところに見えたり。

〇爓魔法王は眞(しん)也(なり)、正(しやう)也。疫病神は邪(じや)也、僞(ぎ)也。

〇善導大師[やぶちゃん注:六一三年生まれで六八一年示寂。唐代の僧で、臨淄(りんし:山東省)の人とされる。中国の浄土教を大成し、称名念仏三昧を唱導した。主著「觀無量壽經疏」。浄土教の濫觴として尊崇される。]の、『臨終正念(しやうねん)、決(けつ)に人命の長短、生(うまれ)てより、下已(このかたすで)に定まれり。何ぞ鬼神を假(かり)て延之耶(これをのべん)や』とあるも、「俱舍論(くしやろん)」[やぶちゃん注:「阿毘達磨(あびだつま)俱舍論」のこと。五世紀頃、インドの世親(せしん)の著作。玄奘訳は全三十巻。小乗仏教の教理の集大成である「大毘婆沙論(だいびばしゃろん)」の綱要を記したもので、法相(ほっそう)宗の基本的教学書。]に、『林、孤樹等(とう)に歸依するは、勝(しやう)にあらず、尊にあらず』とあるも、みな、「六要鈔」の、『損ありて益なき』の義なり。いづれや、釋敎の軌範、ありがたき論釋なり。「現世利益和讃」[やぶちゃん注:親鸞の「淨土和讚」にある「現世利益和讚」十五首。]に、『南無阿彌陀佛をとなふれば、爓魔法王、尊敬(そんきやう)す』[やぶちゃん注:同前の第九首に「南無阿彌陀佛をとなふれば 炎魔法王尊敬す 五道の冥官みなともに よるひるつねにまもるなり」とある。]とありて、まことに爓魔は法王にて、善鬼神(ぜんきじん)なり。今の邪神なるものどもは、願力(がんりき)不思議の信心(しんじむ)は大菩提心なりければ、天地にみてる惡鬼神、みな、ことごとくおそるなり、とある邪惡の鬼神は、天地間(てんちかん)にみちみちて、疫(やまひ)の神などゝいはるゝものどもなり。

   *

 次に、「日本霊異記」(正式名称は「日本國現報善惡靈異記(にほんこくげんほうぜんあくりやういき)」。平安初期に書かれ、伝承された最古の説話集。著者は薬師寺の僧景戒)の上巻の「閻羅王(えんらわう)の使(つかひ)の鬼、召さるる人の饗(あへ)を受けて、恩を報ずる緣第二十四」を示す。参考底本は昭和五二(一九七七)年角川文庫刊の板橋倫行校註本を用いたが、恣意的に概ね漢字を正字化し、読点も増やし、段落を成形した。読みは一部で推定で歴史的仮名遣で附した。

   *

   閻羅王の使の鬼、召さるる人の饗(あへ)を受けて、恩を報ずる緣第二十五

 讚岐の國山田の郡に、布敷(ぬのし)の臣(おみ)衣女(きぬめ)有り。

 聖武天皇の代に、衣女、たちまちに病を得たり。

 時に偉(たたは)しく百味を備けて[やぶちゃん注:たっぷりとした供物としての食物を用意し。]、門の左右に祭り、疫神(やくじん)に賂(まひ)して饗(あへ)す。

 閻羅王の使の鬼、來りて衣女を召す。

 其の鬼、走り疲れて、祭の食(じき)を見て、𰷉(おもね)り就きて、受く。

 鬼、衣女に語りて言はく、

「我、汝の饗を受くるが故に、汝に恩を報いむ。若し、同じ姓、同じ名の人、ありや。」

といふ。

 衣女、答へて言はく、

「同じ國の鵜垂(うたり)の郡に同じ姓の『衣女』あり。」

といふ。

 鬼、衣女を率(ゐ)て、鵜垂の郡の衣女の家に往きて對面す。すなはち、緋(あけ)の囊より一尺の鑿(のみ)を出して、額(ぬか)に打ち立て、すなはち、召し將(ゐ)て去る。

 かの山田の郡の衣女は、かくれて、家に歸りぬ。

 時に閻羅王、待ち校(かむが)へて言はく[やぶちゃん注:待ち受けて取り調べをして言うことには。]、

「こは召せる衣女に非ず。誤りて召せるなり。然れども、暫(しばらく)ここに留まれ。すみやかに往きて山田の郡の衣女を召せ。」

といふ。

 鬼、かくすこと得ず、しきりに[やぶちゃん注:重ねて。再度。]山田の郡の衣女を召して、將(ゐ)て來たる。

 閻羅王、待ち見て言はく、

「まさに是れ、召せる衣女なり。」

といふ。

 往(さき)の、かの鵜垂の郡の衣女は、家に歸れば、三日の頃を經て、鵜垂の郡の衣女の身を燒き失せり。

 更に還りて、閻羅王に愁へて白(まう)さく、

「體(み)を失ひて依りどころなし。」

と、まをす。

 時に、王、問ひて言はく、

「山田の郡の衣女が體ありや。」

といふ。答へて言はく、

「あり。」

といふ。

 王、言はく、

「其を得て、汝が身と、なせ。」

といふ。

 因りて鵜垂の郡の衣女の身となりて、甦(い)く。

 すなはち、言はく、

「こは、我が家にあらず。我が家は鵜垂の郡にあり。」

といふ。

 父母の言はく、

「汝は我が子なり。何の故にか然(しか)言ふ。」

といふ。衣女、なほ聽かず、鵜垂の郡の衣女が家に往きて言はく、

「まさにこは我が家なり。」

と、いふ。

 其の父母、言はく、

「汝は、我が子に、あらず。我が子は燒き滅(う)せり。」

と、いふ。

 ここに衣女、具(つぶさ)に閻羅王の詔(みことのり)の狀を陳(の)ぶ。

 時に、かれこれ、二つの郡の父母、聞きて、諾(うべな)ひ信(う)け、二つの家の財(たから)を許可(ゆる)し、付屬(さず)く。

 故に、現在の衣女、四(よたり)の父母を得、二つの家の寶を得たり。

 饗(あへ)を備へ、鬼に賂(まひ)す。こは、功、虛(むな)しきに非ず。およそ、物、あらば、なほ、賂(まひ)し饗すべし。

 これもまた、奇異の事なり。

   *

 次に「今昔物語集」巻第二十の「岐國女行冥途其魂還付他身語第十八」(讚岐國(さぬきのくに)の女(をむな)、冥途に行きて、其の魂(たましひ)、還へりて他(ほか)の身に付く語(こと)第十八)を示す。小学館「日本古典全集」版を参考に、漢字を概ね正字化し、読みを外に出したりし、記号を増やし、段落も成形した。□は欠字。

   *

 今は昔、讚岐の國山田の郡(こほり)に一人の女、有りけり。姓(しやう)は、「布敷(ぬのしき)」の氏(うぢ)。

 此の女(をむな)、忽ちに身に重き病を受けたり。然かれば、直(うるは)しく□[やぶちゃん注:「百」か。]味を備へて、門の左右に祭りて、疫神(やくじん)を賂(まかな)ひて、此れを饗(あるじ)す。

 而る間、閻魔王の使ひの鬼、其の家に來たりて、此の病ひの女を召す。其の鬼、走り疲れて、此の祭の膳(そなへもの)を見るに、此れに※(おもね)[やぶちゃん注:「※」=「𧡭」の「是」を「面」に入れ替えた字体。]りて、此の膳を食ひつ。

 鬼、既に女を捕へて將(ゐ)て行く間、鬼、女に語らひて云く、

「我れ、汝が膳(そなへもの)を受けつ。此恩を報ぜむと思ふ。若(も)し、同名同姓なる人、有りや。」

と。

 女、答へて云く、

「同じ國の鵜足(うたり)の郡(こほり)に、同じ名、同じ姓(しやう)の女、有り。」

と。

 鬼、此れを聞きて、此の女を引きて、彼(か)の鵜足の郡の女の家に行きて、親(まのあた)り、其の女に向ひて、緋(あけ)の囊より、一尺許りの鑿(のみ)を取り出だして、此の家(いへ)の女の額(ひたひ)に打ち立てて、召して將(ゐ)て去ちぬ。

 彼(か)の山田の郡の女をば、免(ゆる)しつれば、恐々(おづおづ)、家に返る、と思ふ程に、活(よみがへ)りぬ。

 其の時に、閻魔王(えむまわう)、此の鵜足の郡の女を召して來たれるを見て宣はく、

「此れ、召す所の女に非ず。汝(なむ)ぢ、錯(あやま)りて、此れを召せり。然(さ)れば、暫く、此の女を留(とど)めて、彼(か)の山田の郡の女を召すべし。」

と。

 鬼、隱す事能はずして、遂に山田の郡の女を召して、將て來たれり。

 閻魔王、此れを見て宣はく、

「當(まさ)に此れ、召す女也(なり)。彼(か)の鵜足の郡の女をば、返すべし。」

と。

 然(しか)れば、三日を經て、鵜足の郡の女の身を燒き失ひつ。

 然(しか)れば、女の魂(たましひ)、身。無くして、返り入る事能はずして、返りて、閻魔王に申さく、

「我れ、返されたりと云へども、體(むくろ)失せて、寄り付く所、無し。」

と。

 其の時に、王、使ひに問ひて宣はく、

「彼の山田の郡の女の體(むくろ)は、未だ、有りや。」

と。使ひ、答へて云く、

「未だ、有り。」

 王の宣はく、

「然(さ)らば、其の山田の郡の女の身を得て、汝が身と爲すべし。」

と。

 此れに依りて、鵜足の郡の女の魂、山田の郡の女(をむな)の身に入りぬ。

 活(よみがへ)りて云はく、

「此れ、我が家には、非らず。我が家は、鵜足の郡に、有り。」

と。

 父母(ぶも)、活(よみがへ)れる事を喜び悲しぶ間に[やぶちゃん注:嬉し涙を成して喜んだのだが。]、此れを聞きて云はく、

「汝は我が子也(なり)。何の故に此(か)くは云ふぞ。思ひ忘れたるや。」

と。

 女、更に此れを用ゐずして、獨り、家を出でて、鵜足の郡の家に行きぬ。

 其の家の父母(ぶも)、知らぬ女の來たれるを見て、驚き怪しむ間、女の云はく、

「此れ、我が家也。」

と。父母の云はく、

「汝は、我が子に、非ず。我が子は、早(はや)う、燒き失ひてき。」

と。

 其の時に、女、具(つぶさ)に、冥途にして、閻魔王の宣ひし所の言(こと)を語るに、父母、此れを聞きて、泣き悲しむで、生きたりし時の事共(ども)を問ひ聞くに、答ふる所、一事(いちじ)として違(たが)ふ事、無し。

 然かれば、體(むくろ)には非らずと云へども、魂、現(あらは)に其れなれば、父母、喜びて、此れを哀(あはれ)び養ふ事、限り無し。

 又、彼の山田の郡の父母(ぶも)、此れを聞きて、來たりて見るに、正(まさ)しく我が子の體(むくろ)なれば、魂(たましひ)非らずと云へども、形を見て、悲しび愛する事、限り無し。

 然かれば、共に此れを信じて、同じく養ひ、二家(ふたついへ)の財(たから)を領(れう)じてぞ有りける。

 此れを以つての、此の女獨りに付囑(ふぞく)して、現(うつつ)に四人の父母を持ちて、遂に、二家の財を領じてぞ有りける。

 此れを思ふに、饗(あるじ)を備へて鬼を賂(まひな)ふ、此れ、空しき功(くう)[やぶちゃん注:無駄な甲斐のない手立て。]に非らず。其れに依りて、此(か)く有る事也。又、人死にたりと云ふとも、葬する事、忩(いそ)ぐべからず。萬が一にも、自然(おのづか)ら此(かか)る事の有る也、となむ語り傳へたるとや。

   *

最後に、初唐に書かれた「冥報記」(作者は唐臨。六五〇年から六五九年の間、唐の高宗に御史大夫・吏部尚書として仕えた人物。内容は唐・隋の説話を中心に蒐集されたもので、因果応報の理を解く。現在、中国では散逸し、本邦の承和年間(八三四年~八四八年)に入唐した円行が持ち帰った唐写本(高山寺蔵本)が日本にのみ残る現存最古写本とされる。先の「日本靈異記」に書名が出ており、上記以外にも「今昔物語集」の典拠ともなった)の原拠らしいものを示す。

   *

魏郡馬嘉運。以武德六年正月。居家。日晚出大門。忽見兩人。各捉馬一匹。先在門外樹下立。嘉運問。是何人。答云。是東海公使。來迎馬生取。嘉運素有學識。知州里。每有臺使。及四方貴客。多請見之。及是聞召。弗之怪也。

謂使者曰。吾無馬。使者進馬曰。以此迎馬生。嘉運卽樹下。上馬而去。其實倒臥於樹下也。俄至一官曹。將入大門。有男女數十人。在門外。如訟者。有婦人。先與嘉運相識。同郡張公謹妻。姓崔氏。手執文書。謂嘉運曰。馬生尙相識不。昔與張總管交遊。每數相見。總管無狀。非理殺我。我訴天曹。於今三年。

爲王天主救護公謹。故常見抑。今及得申官已追之。不久當至。疑我獨見枉害。

馬生那亦來耶。嘉運知崔氏被殺。及見方知死。使者引入門。門者曰公眠。未可謁。宜引就霍司刑處坐。嘉運見司刑。乃益州行臺郎中霍璋。見嘉運。延坐曰。

此府記室闕。東海公。聞君才學。欲屈爲此官耳。嘉運曰。家貧妻子不立。願君爲言。得免爲幸。璋曰。若爾。使可自陳無學。吾當有以相明。俄有人來云。公眠已起。引嘉運入。見一人在廳事坐。肥短黑色。呼嘉運。前謂曰。聞君才學。

欲相屈爲記室耳。能爲之乎。運拜謝曰。幸甚。但鄙人野。頗以經業。敎授後生。不足以尙管記之任。公曰。識霍璋不。答曰識之。因使召璋。問以嘉運才術。璋曰。平生知其經學。不見作文章。公曰。放馬生歸。卽命追陳子良。嘉運辭出。璋與之別曰。倩君語我家三狗。臨終語汝。賣我所乘馬。作烏浮圖。汝那賣馬自費也。速如我教。造浮圖所三狗。謂其長子也。嘉運因問。向見張公謹妻所云。天主者。爲誰。璋曰。公謹鄕人王五戒者。死爲天主常救公謹。故得至今。今似不免矣。言畢而別。遣使者送嘉運。至一小澀徑。指令由此路歸。嘉運入徑便活。良久能起。時向夜半。妻子皆坐哭。嘉運具言之。其年七月。綿州人。姓陳名子良。暴死。經宿而蘇。自言。見東海公欲用爲記室。辭不識文字。

別有吳人陳子良。善章者。於是命彼捨此。後年吳人陳子良卒死。張公謹亦殂。

二人亡後。嘉運嘗與數人同行。於路忽見官府者。嘉運神色憂怖。唯諾趨走。須之。乃定。同侶問之。答曰。向見者。東海公使人。云欲往益州追人。仍說。子良極訴君。霍司刑爲君被誦讀。君幾不免。賴君贖生之福。故得免也。初嘉運在蜀。蜀人將決池取魚。嘉運時爲人講書。得絹數十匹。因買池魚放之。贖生謂此也。貞觀中。車駕在九城宮。聞之。使中書侍郎岑文本。就問其事。文本具錄。

以奏乞爾。嘉運。後爲國子博士卒官。

   *

私は細部まで読みこなせるわけではないが、これ、あまり似ているとは思われない。寧ろ、他の唐代伝奇や、後代の志怪小説の方に、本篇に酷似したものは、あるように思われる。]

2019/10/09

小泉八雲 破約  (田部隆次譯)

[やぶちゃん注:本篇(原題“Of A Promise Broken”。「破られた約束」)は一九〇一(明治三四)年十月にボストンの「リトル・ブラウン社」(LITTLE,BROWN AND COMPANY)から出版された作品集“A JAPANESE MISCELLANY”(「日本雑記」。来日後の第八作品集)の冒頭パート「奇談」(原題“Strange Stories ”)の第二話に置かれたものである。本作品集はInternet Archive”のこちら(出版社及びクレジットの入ったページを示した)で全篇視認できる(本篇はここから)。

 本篇は小泉八雲の怪談作品の中で、私が第一に挙げる名篇で(小学校五年の正月に読んだ角川文庫版「怪談・奇談」(田代三千稔(みちとし)氏訳)での本篇の衝撃は今でも忘れられない)、私は既に二〇一二年に私のサイト「鬼火」「心朽窩旧館 やぶちゃんの電子テクスト集:小説・戯曲・評論・随筆・短歌篇」に、

OF A PROMISE BROKEN BY LAFCADIO HEARN(英語原文)

「破られし約束」 小泉八雲原作 藪野直史現代語訳(別に縦書版も作製してある)

を公開しているので、是非、参照されたい(個人的にはこの訳、及び、オリジナル注には、秘かに自信を持っている。今回、本記事の注にも、それを反映追加した)。

なお、この優れた戦慄の真正怪談は、不思議なことに原拠が現在まで明らかにされていないようである。どなたかご存じの方は是非とも御教授願いたい。

   ★   ★   ★

【2025年1月1日:削除線追加・重要修正】昨日未明、かの怪談・妖怪の学術研究をされておられる文化人類学者・民俗学者で、国際日本文化研究センター名誉教授の小松和彦先生から、本記事につき、以上のように、原拠不明としていたことについて、情報提供のメールを頂戴していることに気がついた。私自身、小松先生の御著作を多く読まさせて戴いていただけに、驚天動地で驚いた。先生からのメールを以下に掲げさせて戴く。

   《引用開始》

鬼火さま
はじめまして。小松和彦と申します。私は妖怪研究者で、小泉八雲の研究者ではありませんが、彼の作品が研究対象と関連するので多少は彼の作品について考えてきました。NHKのドラが八雲とその妻をモデルにしていることから、某出版社から短文を頼まれ、それを書き上げたのですが、その作業中、あなたのブログで「この優れた戦慄の真正怪談は、不思議なことに原拠が現在まで明らかにされていないようである。どなたかご存じの方は是非とも御教授願いたい」とあり、驚きました。八雲研究者のあいだではとっくに明らかにされているものと思っていたからです。
 原拠を思われるものを教えて欲しいということですので、私見をお伝えします。どこかに発表したわけではありませんが、おそらく添付のように「諸国百物語」巻之二・九の「豊後の国何がしの女ぼう死骸を漆にて塗りたる事」だと思われます。この話は鳥山石燕の「画図百鬼夜行」の「塗仏」の絵のもとになったもので、その後、妖怪図鑑などでは、この図が「塗仏」という妖怪して広く流布しました。 ブログの記事は10年近く前のものでしたが、調べたところ、その後も原拠不明とされているようですので、お伝えすることにいたしました。お役に立てば幸いです。

   《引用終了》

とあり、当該テクストの画像も添えて下さった。
 而して、それを拝見したところ、甚だ恥ずかしいことに、私が、本記事を書いた、三年前に、全電子化注を行った作品の加工データとしたもの
で、2016年9月20日に公開した「諸國百物語卷之二 九 豐後の國何がしの女ばう死骸を漆にて塗りたる事」であったのである!! しかも、その注の冒頭で、私は、なんと!!

   *

傍らの人々が眠くなり、近づいてくる鉦が鈴となって、後妻の首……これはもう……私の偏愛する小泉八雲の「破られし約束」を直ちに想起させる怪異である(リンク先は私藪野直史の拙訳サイト版)。最後で夫の喉笛を喰い破るところがよい! 胸スカ!!  しかし……これは……それでなくても……マンゴーでもカブれて七転八倒する私には……生理的には「漆」が痛く強烈だ!! 挿絵がなくてよかったと思うぐらい、キョワい!!!

   *

と述べていたのである!! にも、拘わらず、ここでは、以上の通り――原拠不詳――とやらかしてしまっていたのであった!!!

さても。而して、ここで私の大呆けを暴露し、改めて、この追記をするものである。なお、「諸國百物語卷之二 九 豐後の國何がしの女ばう死骸を漆にて塗りたる事」が、Unicode を使いこなしていなかった時期の作製であったので、正字不全があるのを直し、一部の私の注も、不足していると感じた箇所を追加しておいた。

何より、一介の好事家に過ぎない私に、小松先生が、かく、御教授下さったことに、心から御礼申し上げるものである。

   ★   ★   ★

 底本は英文サイト“Internet Archive”のこちらにある、第一書房が昭和一一(一九三六)年十一月に刊行した「家庭版小泉八雲全集」(全十二巻)の第七巻の画像データをPDFで落として視認した。 【2025年4月4日:底本変更・正字化不全・ミスタイプ・オリジナル注全補正】時間を経て、国立国会図書館デジタルコレクションに本登録し、現行では、以上の第一書房版昭和一一(一九三六)年十一月に刊行した「家庭版小泉八雲全集」(全十二巻)の第七巻が、国立国会図書館デジタルコレクションで公開されてある。(リンクは扉だが、「家庭版」の文字はない。しかし、奥附を見て貰うと『家庭版』とあり、『昭和十一年十一月二十七日 發 行』とあることが確認出来る)、これが、前掲の底本と同じものであるが、やはり、外国のサイトのそれを底本とするのは、日本人小泉八雲に失礼であると考えた。されば、こちらで、再度、以下の「骨董」の作品群を改めて校正することとする。これが――私の小泉八雲への「義」――である。なお、これよりも前の元版の全集等が先行しているものの、私がそれらと比べた結果、実は先行する同社の「小泉八雲全集」のそれらは、訳が一部で異なっており、訳者等によって、かなりの補正・追加がされていることが、今回の正字補正作業の中で、はっきりと判って来た。いや、同じ「家庭版」と名打ったネット上の画像データでも、驚いたことに、有意に異なっていたのである。そうした意味でも――完全な仕切り直しの総点検――が必要であると決したものである。従って、旧前振りの括弧・鍵括弧の問題も、拡大とガンマ補正で確認し、正確を期する。本作はここから。

 通常傍点「﹅」は太字に代えた。一部に「◦」傍点があるが、そこは下線太字とした。

 田部隆次(たなべりゅうじ 明治八(一八七五)年~昭和三二(一九五七)年)氏については先に電子化した「人形の墓」の私の冒頭注を参照されたい。]

 

 

  破 約

 

 

       

 『私死ぬ事かまひません』死にかけて居る妻が云つた、――『ただ一つ氣にかかる事があります。私の代りにこのうちへ誰が來るでせう、それが知りたい』

 『愛する妻』悲しんで居る夫は答へた、『誰も代りなどは入れない。もう決して、決して再婚はしない』

 かう云つた時は、彼は心から云つたのであつた、今失ひかけて居る女を愛してゐたからである。

 『武士の誓にかけて?』かすかな微笑をもつて彼女は尋ねた。

 『武士の誓にかけて』彼は答へた、――彼女の靑白いやせた顏を撫でながら。

 『それなら、あなた』彼女は云つた 『あなたは私を庭に埋めて下さいね、――い〻でせう、――あの向うの隅に、私達が植ゑたあの梅の林の近くに。私は先から[やぶちゃん注:「せんから」。]この事を賴みたかつたのですが、もしあなたが再婚なさると、そんな近いところに墓のあるのがおいやでせうと思つたのです。今あなたが再婚しないと約束なさつたから、――それで私遠慮しないで私の願を申します。……私お庭に埋めて欲しい、時々あなたの聲が聞かれるでせうし、又春になつたら花が見られるでせうから』

 『好きなやうにして上げる』彼は答へた、『しかし今からそんな葬式の話は止めよう、もう駄目と云ふ程重いわけでもないのだから』

 『駄目ですよ』彼女は答へた、――『今日朝のうちに死にます。……しかし庭に埋めて下さいますね』

 『宜しい』彼は云つた、――『私共が植ゑた梅の木の影の下に、――そしてそこに立派な墓をたてて上げる』

 『それから小さい鈴を一つ下さいませんか』

 『鈴――?』

 『はい、棺の中へ小さい鈴を入れて下さい、――巡禮のもつて居るやうなあんな小さい鈴。あんなのを下さいませんか』

 『上げよう、そんな小さい鈴を、――それから何か外に欲しい物は』

 『外に何もありません』彼女は云つた、……『あなたいつでもあなたは私に大變親切にして下さいました。もう安心して死なれます』

 それから妻は瞑目して死んだ、――丁度疲れた子供が寢込むやうに無造作に。死んだ時美しい顏をしてゐた、そして頰に微笑があつた。

 

 彼女は庭園に、愛した樹の影の下に埋葬された、そして小さい鈴は一緖に埋められた。墓の上に家の定紋の飾りのある、そして「慈海院梅花明影大姉」と云ふ戒名のある立派な石碑がたてられた。

[やぶちゃん注:「慈海院梅花明影大姊」原文は、

"Great Elder Sister, Luminous-Shadow-of-the-Plum-Flower-Chamber, dwelling in the Mansion of the Great Sea of Compassion."

である。過去の殆んどの訳は、

 慈海院梅花明影大姉

とし、昭和三一(一九五六)年角川文庫刊の田代三千稔氏では、

 慈海院梅花照影大姉

とする。しかし、私はこれを先の現代語訳では、

 慈海院梅花庵照光大姉(正字表記「慈海院梅花庵照光大姊」)

と訳した。私は過去の諸家の邦訳には二箇所の問題点があると考えている一つは、

★ “ Plum-Flower-Chamber ”の“ Chamber ”が訳されていない点

で、今一つは、

★ 戒名である“ Luminous-Shadow ”を果たして『明影』と漢訳することが正当かどうか

という点である。私は孰れの問題も――従来の訳では――納得出来ないのである。前者は、

院殿居士の「殿」は江戸時代の普通の武士階級の妻の戒名としてはあり得ないから、「庵」ではないか

という判断である。更に、従来の『影』という文字が、戒名としては、私には、如何にも「字の座り」が悪いのである(無論、「影」に「光」の意があることは百も承知でである)。更に、

“ Luminous-Shadow ”を凝っと見つめていると――ハーンは「影」という字を一辺倒に「物の影」「陰影」と解釈してしまい、古語としての「影」=「光」の意をここでは失念していたのではないか?

とも思ったのである。そこから、私は、

「影を照らす」ではなく、「遍く仏光が照らし尽くす」というイメージを連想し(言っておくが、田中氏の訳の影響ではなく、全くの私の生理的印象である)て「照光」の訳を導き出した

のである。「明光」でも悪くないが、全くの私の趣味からは、「照光」のほうがピンとくるのである。私の漢訳戒名が致命的に誤りである(戒名としてはあり得ない)とされる方は、その証左をお示し戴いた上で、御教授願えると幸いである。]

 

        *       *

            *

 

 しかし妻の死後一年たたぬうちに、その武士の親戚や友人は、彼に再婚を迫り出した。『未だ若い』彼等は云つた、『そして一人息(むすこ)だ、子供がない。武士は結婚すべき義務がある。子供がなくて死んだら、祖先を祭つたり、供物をしたりする事を誰がするか』

 澤山のそんな申し立てによつて、彼はたうとう再婚するやうに說破された。花嫁は僅か十八であつた、そして庭にある墓の沈默の非難があつたが、深く彼女を愛する事のできる事が分つて來た。

[やぶちゃん注:最終の一文の原文は、

The bride was only seventeen years old; and he found that he could love her dearly, notwithstanding the dumb reproach of the tomb in the garden.

である。私は、先の現代語訳では、

この度(たび)の嫁ごは、やっと十七になったばかりであったが、彼はこの新しい若き妻を、心より愛し得るという実感を、確かに、持ち得てもいたのであった。……庭の……かの墓からの……無言の呵責を……何処かに感じながらも……。

と訳した。田部氏の訳は、如何にも、生硬に過ぎる。]

 

 

       

 結婚後七日目までは、若い妻の幸福の邪魔が起らなかつた、――七日目になつて、夫は夜、城につめて居る事の必要な或役を命ぜられた。獨り留守居をせねばならなかつた第一夜に、妻は說明のできないやうな不安を感じた、――理由は分らないが、何だか妙に恐ろしかつた。床についても眠られなかつた。何となしにあたりは重苦しかつた、――嵐の前に時としてあるやうな一種名狀し難い重苦しさであつた。

 丑の刻に、彼女は夜外の方で鈴の鳴る音を聞いた、――巡禮の鈴であつた、――そして彼女は今頃何の巡禮が士族屋敷を通るのかと不思議に思つた。やがて、暫らく休んでから、鈴がもつと近くひびいた。明らかに巡禮はこの家に近づいて來るのであつた、――しかし何故道もない裏から近づいて來るのであらうか。……突然犬が妙な恐ろしさうな風に吠え泣きをし出した、――そして夢の恐怖のやうな恐怖が彼女を襲うた[やぶちゃん注:ママ。]。……その鈴の音はたしかに庭であつた。……女中を起しに起きようとした。しかし起きる事もできない、――動く事もできない、――聲をあげる事もできない事が分つた。……そして近く、段々近く、鈴の音が聞えて來た、――そしてあ〻、その犬の吠えやうはどんなであつたらう。……それから影がそつと忍んで來るやうに、その部屋ヘ一人のがそつと入つて來た、――戶と云ふ戶は皆固く閉ざされたまま、それから、ふすまが動きもしないで、――經かたびらを着て、巡禮の鈴をもつた女が。死んでから餘程になるから、眼はない、――そしてほどいた髮の毛は顏の𢌞りに長く垂れてゐた、――そして彼女はその亂れた髮の毛の中から眼なくして見、舌なくして語つた、

 

 『いけないこのうちにゐてはいけない未だ私はこのうちの主婦だ出て行けそして出て行く理由を誰にも云つてはいけないもしあの人に云つたら八つ裂きにする

 

 さう云つて、その幽靈は消えた。花嫁は恐怖のために正氣を失つた。あけ方まで彼女はそのままになつてゐた。

 

 それでも、樂しい日の光を見ると彼女は見たり聞いたりした物の事實を疑つた。云つてはならないと云はれた事の記憶は未だ彼女をそんなにひどく惱ましてゐたので、彼女は夫にも誰にも、その幽靈の事を話す氣にはなれなかつた。しかし彼女はただ恐ろしい夢を見て病氣になつたのだと自分で納得する事が大方できた。

 しかし、翌晚は疑ふ事はできなかつた。再び丑の刻に犬が吠え泣きを始めた、――再び鈴がひびいた、――庭の方から徐ろに近づいて、――再び、聞いて居る彼女は起きて呼ばうとしたが駄目であつた、――再び死者は部屋に來て、小聲で叱つた、――

 

 『出て行けその理由は誰にも云つてはならないもしあの人にそつとでも云つたら八つ裂きにする――』

 

 今度は幽靈は床の近くまで來た、――そして床の上で屈んで、つぶやいて、變な顏をして見せた。……

 翌朝武士が城から歸つた時、彼の若い妻は彼の前に平伏して歎願した、――

 『お願です』彼女は云つた、『こんな事を申上げるのは恩知らずで、失禮ですが、赦して下さい、しかし私を里へ歸して下さい、――今すぐ歸して下さい』

 『ここに何か面白くない事があるかね』夫は心から驚いて尋ねた。『誰か留守中に何か意地の惡い事でもしたかね』

 『そんな事ぢやありません――』彼女はすすり泣きをしながら答へた。『誰でも皆、ここでは私に大變親切にして下さいます。……けれども、私は續いてあなたの妻になつて居られません、――私出て行かねばなりません。……』

 『困つたね』彼は非常に驚いて叫んだ、『このうちで何か面白くない事があるのは甚だ殘念だ。しかし出て行きたい理由が分らない、――誰か大變不親切な事でもしない以上は。……本當に離緣してくれと云ふつもりでないだらうね』

 彼女は震へながら、泣きながら答へた、

 『離緣して下さらなければ、私は死にます』

 彼は暫らく默つてゐた、――どうしてこんな驚くべき事を云ひ出したのであらう。その理由を考へて見ても駄目であつた。それから何の感情をも面に表はさないで答へた、――

 『何も缺點のないお前を兩親の方へ送りかへすのは恥づかしい行[やぶちゃん注:「おこなひ」。]であらう。何かさうして貰ひたい相應な理由を云つてくれたら、――どんな理由でも、わけの分る理由なら宜しいから、――私は離緣狀を書く事ができる。しかし、理由、――相應な理由がなければ、離緣するわけには行かない、――私共の家の名譽は世間の人の口の端にかかつてはならないから』

 そこで彼女は云はずには居られなくなつて來た、そして彼女は一切の事を告げた――恐怖の苦痛のうちにつぎのやうに云ひ足した、――

 『もうあなたに話しましたから、私は殺されます、――殺されます。……』

 勇敢な人であり、又お化けなどを信ずる人ではないが、武士は一時非常に驚いた。しかしその事の簡單な自然の解決が心に浮んで來た。

 『お前は』彼は云つた、『お前は今大層神經を起して居る、誰かつまらない話をした者があるのぢやないか。ただこのうちで、變な夢を見たと云ふわけで、離緣するわけには行かない。しかし留守中にこんな風に苦しんでゐるのは、本當に氣の毒だ。今夜又城へ行かねばならないが、お前一人にしては置かない。お前の部屋にゐて、寢ず番をしてくれる武士を二人云ひつける、そしたら、安心して寢られるだらう。二人ともよい人だから、できるだけの注意をしてくれる』

 それから、夫がそれ程思ひやり深く、又それ程情け深く話してくれたので、妻は自分の恐怖が殆ど恥づかしく恐怖が殆どなくなつて來た程であるた、そしてこの家に止つてゐようと決心した。

 

 

       

 若い妻の保護を托された二人の武士は、大きな、强い、心の單純な人達であつた、――女や子供の保護者として經驗のある人々であつた。彼女の氣を引立てるために、花嫁に面白い話を聞かせた。彼女はこの人達と長い間話した。彼等の面白いおどけで笑つた、そして殆ど彼女の恐怖を忘れた。いよいよ眠るために床についた時、二人の武士はその部屋の一方で屛風のうしろに陣取つて碁を始めた、――彼女の邪魔にならないやうに。小聲で話してゐた。彼女は赤兒のやうに眠つた。

 しかし又、丑の刻に彼女は恐怖のうめきをもつて眼をさました、――例の鈴を聞いたのであつた。……それはもう近くに來てゐた、そして段々近くなつてて來た。彼女は飛び上つた、彼女は叫んだ、――しかしその部屋に動く物はない、――ただ死の如き沈默、――段々と增して行く沈默、――段々と濃くなつて行く沈默、――があるだけであつた。彼女は武士のところへ飛んで行つた、彼等は碁盤の前に、――動かないで、――銘々相手を坐つた目附でにらんでゐた。彼女は彼等に叫んだ、彼等をゆり動かした、彼等は凍りついたやうになつてゐた。……

 

 あとで彼等の云つたところでは、彼等は鈴を聞いた、――花嫁の叫びも聞いた、――起さうとして彼女がゆり動かしたのさへも知つてゐた、――そしてそれにも拘らず動く事も、物云ふ事もでもなかつた。その時から彼等は聞く事も、見る事もできなくなつた、黑い眠りが彼等を捉へたのであつた。

 

        *       *

            *

 

 夜明けになつて、主人は花嫁の部屋に入つて、消えかかつた燈火の光で、血の溜りの中に寢て居る若い妻の首のない死骸を見た。やはり未だ打ちかけの碁を前にして坐りながら二人の武士は眠つてゐた。主人の叫びを聞いて彼等は飛び上つた、そしてぼんやり床の上の恐怖すべき物を見つめてゐた。……

 首はどこにも見當らなかつた、――そしてその物すごい疵は、それが斬り取られたのでなく、もぎ取られた事を示した。血のしたたりはその部屋から椽側の角まで續いて、そこで雨戶は引裂かれたやうであつた。三人はその跡をたどつて庭に出た、――草地を通つて、――砂場を超えて、――𢌞りに花菖蒲のある池の岸に沿うて、――杉と竹との暗い蔭の下へ。そして不意に曲つたところで、彼等は蝙蝠のやうに嘲る[やぶちゃん注:「あざける」。]魔物と面と向つて立つて居る事に氣がついた、卽ち長く埋められた女の姿が、墓の前に棒立ちになつて、――一方の手に鈴をつかみ、他方に血の滴る首をもつて居るのであつた。……暫らくの間、三人は痺れたやうになつて立つてゐた。それから三人の武士は念佛を唱へながら、刀を拔いて、その姿を打つた。直ちにそれは――經かたびら、骨、及び髮の空しい散亂となつて、――地上に崩れた、――そして鈴はその崩壞のうちから、チリンと鳴つて轉がり出た。しかし筋肉のない右の手は、手首から離れながら、なほ放たないで、――その指はやはり血の滴る首をつかんで、――そして黃色の蟹の鋏が落ちた果物をつかんで放たないやうに――爪をたてて、さいなんでゐた。……

          *

        *

          *

 〔『これはひどい話だ』私はそれを物語つた友人に云つた。『一體復讐をしたければ、その死人は、男に對してすべきであつた』

 『男はさう考へます』彼は答へた。『しかし、それは女の感じ方ぢやありません、……』

 彼の云ふところは正しかつた。

 

小泉八雲 作品集「日本雜錄」始動 / 奇談 / 「約束」(田部隆次譯)

 

[やぶちゃん注:本篇(原題“ Of a Promise Kept ”。「守られた約束」)は一九〇一(明治三四)年十月にボストンの「リトル・ブラウン社」(LITTLE,BROWN AND COMPANY)から出版された作品集“ A JAPANESE MISCELLANY ”(「日本雑記」。来日後の第八作品集)の巻頭に置かれたパート「奇談」(原題“ Strange Stories ”)の第一話である。本作品集は“Internet Archive”のこちら(出版社及びクレジットの入ったページを示した)で全篇視認でき(本篇はここから)、活字化されたものとしては、「英語学習者のためのラフカディオ・ハーン(小泉八雲)作品集」のこちらが、本田部訳(同一訳で正字正仮名)と対訳形式でなされてあり、よろしいかと思われる(海外サイトでも完全電子活字化されたフラットなベタ・テクストが見当たらない)。

 底本は英文サイト“Internet Archive”のこちらにある、画像データをPDFで落として視認した【2025年4月4日:底本変更・正字化不全・ミスタイプ・オリジナル注全補正】時間を経て、国立国会図書館デジタルコレクションに本登録し、現行では、以上の第一書房版昭和一一(一九三六)年十一月に刊行した「家庭版小泉八雲全集」(全十二巻)の第七巻が、国立国会図書館デジタルコレクションで公開されてある。(リンクは扉だが、「家庭版」の文字はない。しかし、奥附を見て貰うと『家庭版』とあり、『昭和十一年十一月二十七日 發 行』とあることが確認出来る)、これが、前掲の底本と同じものであるが、やはり、外国のサイトのそれを底本とするのは、日本人小泉八雲に失礼であると考えた。されば、こちらで、再度、以下の「骨董」の作品群を改めて校正することとする。これが――私の小泉八雲への「義」――である。なお、これよりも前の元版の全集等が先行しているものの、私がそれらと比べた結果、実は先行する同社の「小泉八雲全集」のそれらは、訳が一部で異なっており、訳者等によって、かなりの補正・追加がされていることが、今回の正字補正作業の中で、はっきりと判って来た。いや、同じ「家庭版」と名打ったネット上の画像データでも、驚いたことに、有意に異なっていたのである。そうした意味でも――完全な仕切り直しの総点検――が必要であると決したものである。従って、旧前振りの括弧・鍵括弧の問題も、拡大とガンマ補正で確認し、正確を期する。本作はここから。
なお、上記対訳サイトのそれは、原文以外は、全く、参考にも加工用にも使用していないことをお断りしておく。その程度の自己拘束を私は私自身にかけて小泉八雲と向き合っている。

 田部隆次(たなべりゅうじ 明治八(一八七五)年~昭和三二(一九五七)年)氏については先に電子化した「人形の墓」の私の冒頭注を参照されたい。

 本篇は知られた上田秋成の「雨月物語」(安永五(一七七六)年板行であるが、執筆は十年前の明和五(一七六八)年であった)の「菊花の約(ちぎり)」(構成としては明代の馮夢龍(ふうむりゅう/ふうぼうりょう 一五七四年~一六四六年)の白話小説集「古今小說」の第十六話「范巨卿鷄黍死生交」(范巨卿(はんきよけい)鷄黍(けいしよ)死生(しせい)の交(まじは)り)を原拠としている)の話の短縮された翻案であるが、原作のくだくだしいデーティルが大胆に除去されており、究極の男気を鮮やかに浮き彫りにした名掌品怪談となっている。同原作は私自身、同作品集の「靑頭巾」(私はサイト版で原文及び私の現代語訳(但し、雰囲気を保持するために正字正仮名遣である)と、高校教師時代のオリジナル授業ノートを公開している。言っておくが、「靑頭巾」は、その内容(稚児愛・カニバリズム)から高校の古文の教科書には絶対に載らない作品であり、私のそれは独自に教材化したものである)に次いで偏愛するもので、さればこそ、ここに単に安易に原拠として掲げるのには、激しい躊躇を感ずる。近い将来、オリジナルに独立させて電子化して示したい。それまで待てないというお方は、サイト「日本古典文学摘集」の原文現代語訳もある)をお薦めする。 なお、本篇については川澄亜岐子氏の論文『ラフカディオ・ハーン「守られた約束」について―原話と再話の比較から見えるもの―』(PDF)が緻密な解析をされており、必見である。それによれば、『ハーンが自分で原話を読んだ可能性は低く、日本人の家族や知人を通してこの物語を知ったと思われる』とある。その簡略性から見ても至当であろう。

 なお、献辞にある「ヱリザベス・ビスランド・ウヱットモア夫人」とは小泉八雲の親友でアメリカの女性ジャーナリストで新聞・雑誌の編集者でもあったエリザベス・ビスランド(ビズランド)・ウェットモア(Elizabeth Bisland Wetmore 一八六一年~一九二九年)である。詳しくは、私の『小泉八雲 落合貞三郎他訳 「知られぬ日本の面影」 第二十四章 魂について(全)』の挿入注(「昔、ここを平井呈一氏の訳で読んだ若き日の私は、……」で始まるもの)を参照されたい。

 本文内に禁欲的に注を挿入した。]

 

 

  日 本 雜 錄

 

 

  ヱリザベス・ビスランド・ウヱットモア夫人へ

 

 

  奇 談

 

 

  約 束

 

 『この秋早々歸ります』と、數百年前、赤穴(あかな)宗右衞門がその義弟丈部(はせべ)左門と別れる時、云つた。時は春、場所は播磨國加古村。赤穴は出雲の武士であつた、それで彼は鄕里を訪れようと思つた。

[やぶちゃん注:「數百年前」原拠と同じで、本篇でも最後の方で、戦国大名で出雲守護代であった尼子「經久」(あまごつねひさ 長禄二(一四五八)年~天文一〇(一五四一)年)の名と、それに滅ぼされた「以前の君主𪉹冶殿」の名が登場する。「雨月物語」の学術注釈は、その旧主を塩冶掃部介(えんやかもんのすけ ?~文明一八(一四八六)年)、室町から戦国にかけての武将で、通称、荒法師、出雲国守護代で京極氏の家臣であった人物とする。ウィキの「塩冶掃部介」によれば、『出雲の国人』で、文明一六(一四八四)年、『出雲の守護代尼子経久が主君京極政経によって追放された。掃部介は新たな守護代として月山富田城に入城』した。文明十八年の『元旦、毎年恒例の万歳が行われた。しかし、浪人となりながら』、『富田城奪回を狙っていた経久の策で、城で毎年芸能を披露する鉢屋衆は経久と密かに手を組んでおり、尼子軍に夜討ちを仕掛けられた。これにより、掃部介は妻子を殺害した後、自害した。富田城脇に彼の墓が残っている』とある。本作品集の刊行は明治三四(一九〇一)年であるから、四百十五年前後以前の話となる。間違え易いのは、後の「塩冶興久(えんやおきひさ)の乱」で、注意が必要であろうから、一言述べておく。ウィキの「尼子経久によれば、享禄三(一五三〇)年、経久の三男である塩冶興久(えんやおきひさ)『が、反尼子派であることを鮮明にして内紛が勃発した。この時に興久は出雲大社・鰐淵寺・三沢氏・多賀氏・備後の山内氏等の諸勢力を味方に付けており、大規模な反乱であったことが伺える。また、同時期には興久は大内氏に援助を求めており、経久も同じ時期に文を持って伝えている。結局の所、消極的ながら大内氏は経久側を支援する立場になっている。当時の大内氏家臣・陶興房が享禄』三年五月二十八日に『記した書状を見るにしても、興久は経久と真っ向から対立しており、更には経久の攻撃を何度も退けていることが伺える。また、大内氏は両者から支援を求められるも、最終的には経久側を支援しており、尼子氏と和睦している』。『だが、この反乱は』天文三(一五三四)年に『鎮圧され、興久は備後山内氏の甲立城に逃れた後、甥である詮久の攻撃等もあり』、『自害した』とある事件である。

「播磨國加古村」兵庫県加古郡稲美町の大字加古(かこ)附近(グーグル・マップ・データ)。]

 丈部は云つた、――

『あなたの出雲、八雲立つ出雲の國は甚だ遠い。それ故恐らく或定(き)まつたお歸りの日を約束なさる事はむづかしいでせうが、もしその日が分つたら私共は幸に思ひます。さうしたら、私共は歡迎の宴の用意ができます。そしてお出でになるのを門に出て見張つて居られます』

 『さあ、その事については』赤穴は答へた、『私は旅にはよく慣れて居るから、或場所に着くにはどれ程かかるか豫め云ふ事ができます、それで定まつた日にここへ着く事は安心して云へます。重陽の佳節ときめて置いてどうでせう』

 『それは九月九日ですね』丈部は云つた、――『その頃は菊の花も咲くから、一緖に菊見もできます。愉快愉快。……それぢやお歸りは九月九日と約束して下さいますね』

 『九月九日』赤穴は別れの微笑を見せながら、くりかへした。それから彼は播磨の國加古村から、大胯[やぶちゃん注:「おほまた」。]に步き出した、――そして丈部左門とその母は、眼に淚を浮べてそのあとを見送つた。

 

 『月日に關守なし』と古い日本の諺は云ふ。速かに幾月か過ぎ去つた、そして秋――菊花の季節――が來た。そこで九月九日の早朝から、丈部は彼の義兄を歡迎する用意をした。品々の肴を調へ、酒を買ひ、客間を飾り、床の間の花瓶には二色の菊花を插した。その時、これを見てゐた母は云つた、――『出雲の國はここから百里以上もあります。山を越えてそこから來る旅は苦しくて疲れませう、赤穴が今日來る事ができるかどうかは、あてにならない。そんなに骨を折らないで、來るのを待つてからにしてはどうかね』 『いいえ、母樣』丈部は答へた――『赤穴は今日ここへ來ると約束しました、約束を破るやうな人ぢやありません。到着してから用意を始めるのを見たら、私達はあの人の言葉を疑つたと思ひませう、それが恥づかしい』

 

 その日は美はしく、空には一點の雲もなく、空氣は澄み渡つて世界はいつもより千里も廣くなつたやうに思はれた。朝のうち、多くの旅人は村を通つた――武士も幾人かあつた、そして一人一人の通るのを見守つてゐる丈部は、度々赤穴が近づくのを見たやうに思つた。しかし寺の鐘が正午を知らせたが、赤穴は見えなかつた。午後も續いて丈部は見張つて待つて見たが無駄であつた。日は沈んだ、しかしやはり赤穴の來るやうすはなかつた。それでも丈部は門に立つて往來を眺めてゐた。やがて母は來て云つた、――『諺に云ふ通り――男の心は秋の空のやうに早く變る事もあらう。しかし菊の花は明日も未だ鮮かであらうから、もう床についてはどうか、明朝になつてから、又赤穴を待ちたければ、待つ事にしては』 『母樣、お休みなさい』丈部は答へた、――『しかし私はやはり來るとしか信じられません』それから母は寢室に行つて、丈部は門にためらつてゐた。

[やぶちゃん注:「ためらつてゐた」原文は“lingered”。“linger”は「何かが気にかかっ居残る・いつまでも留まろうとする・後に残っている・なかなか去ろうとしない」の意。「躊躇(ためら)ふ」には漢字表記通り、「躊躇(ちゅうちょ)して一つ所をぶらぶらする・うろつく」の意がある。]

 

 夜は晝のやうに澄んでゐた、空には一面に星が動いて、銀河は異樣の光をもつて輝いてゐた、――靜けさを破る物は、ただ小川の音とはるかに吠える犬の聲だけであつた。丈部はやはり待つた、――細い月が近くの山のうしろに沈むのを見るまで待つた。その時やうやく彼は疑ひ恐れ始めた。丁度家に戾らうとした時、彼は遠くからたけの高い人が――甚だ輕く、かつ速く、――近づいて來るのを見た、そして直ちにそれが赤穴である事を認めた。

 『やあ』丈部は彼を迎へるために、跳び出して叫んだ、――『朝から今まで待つてゐました。……やはり約束を守つて下さつたね。……しかし兄樣、あなたはきつと疲れたでせう、――入つて下さい、――何でも用意してあります』彼は客間の正座へ赤穴を案内して、急いで細くなりかけて居るあかりを直した。丈部は續けて云つた、『母は今晚少し疲れて居るので、もう寢ました。しかし、やがて起しませう』赤穴は頭を振つて、不承諾の身振をちよつと示した。『兄樣、それではあなたの好きなやうに致しませう』と丈部は云つて、この旅客の前に暖い酒肴を置いた。赤穴は酒にも肴にも手を觸れないで、暫らく動かないで、默つてゐた。それから、母を起す事を恐れるかのやうに、――ささやきの聲になつて、云つた、――

 『こんなにおそく來るやうになつたわけを、これから云はねばならない。私が出雲へ歸ると、人々は以前の君主𪉹冶殿の厚恩を忘れて、あの冨田城を取つた謀叛人の經久(つねひさ)に媚を呈して居るのを見た。從弟の赤穴丹治[やぶちゃん注:「あかなたんぢ」。]が經久に仕へて、その家臣として富田の城内に住居して居るのを訪れねばならなかつた。彼は私に經久の前に出るやうに勸めた、私は新しい君主の顏を見た事がないから、重にその人の性格を見るためにその勸めに應じた。經久は熟練なる軍師で、非常な勇氣があるが、狡猾で殘忍である。溫は乙の人に仕へる事は決してできない事を知らして置く事を必要と思つた、その面前を下ると、稜は私の從弟に命じて私を留めた、――家の中から私を出さないやうにした。私は九月九日に播磨へ歸る約束のある事を云ひ張つたが、出る事を許してくれなかつた。それで私は夜城から逃げ出さうと思つたが、たえず見張りがついてゐたので、たうとう今日まで約束を果す方法は見出せなかつた。……』

 『今日まで!』丈部は驚いて叫んだ、――『城はここから百里以上もある』

 『さうです』赤穴は答へた、『人は一日に百里を行く事はできない。しかし、約束を守らなければ私はよくは思はれない事を思うた、それから私は「魂よく一日に千里を行く」と云ふ古い諺を思ひ出した。幸にして私は刀を携ふる事を許されてゐた、――それでやうやく私は歸つて來る事ができた。……母上を大事にして下さい』

 かう云つて、彼は立ち上つて同時に消えた。

 その時丈部は赤穴が約束を果すために自殺した事を知つた。

 

 未明に丈部左門は出雲の國富田城に向つて出發した。松江に着いて彼はそこで九月九日に赤穴宗右衞門は城内の赤澤丹治の家で切腹した事を聞いた。それから丈部は赤澤丹治の家に行つて、丹治の信義のない事を責めて、家族の面前で彼を殺して、自分は怪我もしないで逃れた。それから經久がこの話を開いた時、丈部を追はせないやうに命令を出した。卽ち經久自らは亂暴な殘忍な人ではあつたが、外の人の信を愛する事を尊敬して、丈部左門の友情と勇氣を感嘆する事ができたからであつた。

2019/10/08

昭和六(一九三一)年一月第一書房刊「學生版 小泉八雲全集」(全十二巻)第七卷の大谷正信氏の「あとがき」 / 同第七巻全電子化終了

[やぶちゃん注:以下は、本ブログ・カテゴリ「小泉八雲」で小泉八雲の後期の作品集「骨董」「怪談」「天の河緣起そのほか」三作の全電子化注の底本とした(英文サイト“Internet Archive”のこちらにある画像データをPDFで落として視認した)、第一書房が昭和一二(一九三七)年一月に刊行した「家庭版小泉八雲全集」(全十二巻)の第八巻の「あとがき」である。【2025年4月4日底本変更・前注変更】時間を経て、国立国会図書館デジタルコレクションに本登録し、現行では、以上の第一書房版昭和六(一九三一)年一月に刊行した「學生版小泉八雲全集」(全十二巻)の第七巻が、国立国会図書館デジタルコレクションで公開されてある。(リンクは扉だが、「學生版」の文字はない。しかし、奥附を見て貰うと『學生版 【第二囘豫約】』とあり、『昭和六年一月十日 發行』とあることが確認出来る)、 これが、前掲の底本と同じものであるが、やはり、外国のサイトのそれを底本とするのは、日本人小泉八雲に失礼であると考えた。されば、こちらで、再度、以下の「骨董」の作品群を改めて校正することとする。これが――私の小泉八雲への「義」――である。なお、之よりも前の元版の全集等が先行しているものの、私がそれらと比べた結果、実は先行する同社の「小泉八雲全集」のそれらは、訳が一部で異なっており、訳者等によって、かなりの補正・追加がされていることが、今回の正字補正作業の中で、はっきりと判って来た。いや、同じ「家庭版」と名打ったネット上の画像データでも、驚いたことに、有意に異なっていたのである。そうした意味でも――完全な仕切り直しの総点検――が必要であると決したものである。従って、旧前振りの括弧・鍵括弧の問題も、拡大とガンマ補正で確認し、正確を期する。本作はここから。 本巻の訳者は田部隆次・大谷正信・戸川明三の三氏であるが、「あとがき」は田部・大谷氏の二名のみである(戸川氏は「耳無芳一の話」・「貉」・「葬られた祕密」の三篇のみの担当であったので、恐らく「あとがき」は辞退されたものと考えられる)。

 傍点「﹅」は太字に代えた。

 一部にごく簡単に注を附し、読者の便を考慮し、特異的に本文内に各話その他へのリンクを初出部に設けた。

 

 

 『天の河緣起そのほか』は千九百五年原著者歿後、米國では書肆ハウトン・ミフリン、英國では書肆コンスタブルから出版されたもので、「天の河緣起」[やぶちゃん注:私の電子化は以上から全四回分割である。]外五篇、そして「日本からの手紙」といふ一文が附錄となつて居る。そのうち「化け物の歌」[やぶちゃん注:私の電子化は以上から全十五回分割である。]と「鏡の少女」を除いてあとは全部、以前「大西洋評論」に掲載された。

[やぶちゃん注:「千九百五年原著者歿後」小泉八雲は明治三七(一九〇四)年九月二十六日に狭心症の発作で西大久保の自宅で急逝した。満五十四歳であった。

「書肆コンスタブル」ロンドンの“Archibald Constable & Co.”か。

「大西洋評論」前の田部隆次氏の「あとがき」を参照。]

 

 書名をそれに採り、また卷頭にそれを置いたほどあつて「天の河緣起」がその主要な文たること言ふまでも無い。これは夫人の談話と、そして天の河の傳說詩歌に關して出來得る限り廣く諸方から蒐めた材料とを、基として書いたものである。文中引用の和歌は原著では歌詞を五行に羅馬字で發音どほりに揭げ、次にその散文譯を載せてあるのであるが、その散文譯をそのまゝ日本語に逐字譯するのは無意義であるから、歌詞だけ、普通に見るやう二行にして書いて置いた。だが原著者が歌に對して加へて居る脚註は、そのまゝ譯してその個處に置いて置いた。殊にその個處に置かずともと思つたもので、書物の體裁上文末へ掲げることにしたのが五六あることを諒知せられたい。

[やぶちゃん注:最後のそれらは、私の電子化では、適宜、引き上げてある。以下、同じ。]

 「化け物の歌」は讀んで知られるとほり「狂歌百物語」に據つたものである。引用の歌詞に對しては前文同樣に取扱つた。

 「鏡の少女」と「伊藤則助」[やぶちゃん注:ママ。正確には「伊藤則助の話」である。]は、前者は都賀庭鐘著「庭上奇觀垣根草」の第一卷にある「伊藤帶刀中將重衡の姬と冥婚の事」に據つたもの、後者はその第五卷にある「松村兵庫古昔の妖鏡を得たる事」に據つたのである。

[やぶちゃん注:段落の頭は、一字下げになっていないが、前後に合わせて、一字下げとした。また、大谷は原拠ではなく、原拠が用いた先行本を示している。但し、原拠は同書の単なる改題であって、本文は殆んど同じだから、問題はない。]

 「日本からの手紙」は千九百四年八月一日東京發信となつて居るが、申すまでも無く、手紙に擬した文で、事實さる人に郵送したものでは無い。

 『骨董』のうちの「蠅のはなし」は新著聞集卷五、執心篇第十一のうちにある「亡魂蠅となる」に據つたものである。英文は固よりその逐字譯では無い。

 同じく『骨董』のうちの「螢」の文中引用してある和歌俳句には、原文には作者の名が記るして無いのであるが、讀者の知識に資するところがあらうと思つて、譯文にはそれを附記して置いた。

 『怪談』のうち、「蝶」[やぶちゃん注:私の電子化は以上から全三回分割である。]の文中に引用してある俳句は、英文では三行に羅馬字で發音どほりに揭げ、次に散文譯を載せ、脚註も加へてあるのであるが、日本の讀者には原句だけで足りると考へたから、譯文では原句だけ、普通するやうに一行にして、揭げることにした。また原文では作者の名が揭げて無いが、自分の調査の屆くかぎり原作家の名を添へて記るすことにした。そして譯文の終に原文に對して譯者としての註解を三四序でに添へて置いた。

[やぶちゃん注:既に述べているが、大谷正信氏は英文学者であると同時に、曉石の俳号で俳句もものした俳人であった。]

 

 尙ほ斷わつて置きたい事は、本書『天の河緣起そのほか』が限行本として初めて、世に現はれた時には、フエリス・グリインスレツト氏の序文が添へてあつたのであるが、それは言ふまても無く、この全集の本文中に加ふべきものでは無いから、省いたことである。だが讀者の參考に資する處もあらうと思ふから左に逐字譯して揭げて置く。

[やぶちゃん注:「フエリス・グリインスレツト」前の田部氏の「あとがき」を参照。その原本の序文はInternet Archive”のこちらで視認でき、活字化されたものはProject Gutenberg”のこちらの目次の後の“INTRODUCTION”で読める。

 以下は底本では全体が二字下げポイント落ちである。]

 

 日本では小泉八雲として知られて居るラフカデイオ・ヘルンは、千八百五十年六月二十七日にアイオニア郡島の一つのリウカディヤで生れた[やぶちゃん注:原語は“Leucadia in the Ionian Islands”。既に注した通り、現在のギリシャのイオニア諸島の一つであるサンタ・モウラ島(現在のレフカダ島)の町リュカデイア(現在のレフカダ)のこと。]。父は英國陸軍に勤めて居た愛蘭土[やぶちゃん注:「アイルランド」。]生れの軍醫で、母は希臘人であつた。兩親ともヘルンがまだ子供の時分に死んだので[やぶちゃん注:大変な誤りである。或いは小泉八雲はそのように彼に書信で語っていたのかも知れない。母にも父にも捨てられたような形になった小泉八雲には、そう思うことが僅かな慰めででもあったのかも知れない。実際には父チャールズ・ブッシュ・ハーン(Charles Bush Hearn 一八一八年生まれ)は一八六六年に亡くなり(ハーン十六歳)、母ローザ・アントニオ・カシマチ(Rosa Antoniou Kassimatis 一八二九年生まれ)は一八八二年十二月十二日にギリシャのコルフ島の精神病院で亡くなった(ハーン三十二歳)。ローザの墓は小泉八雲の玄孫であられる方のごく最近の探索(その方のブログ記事。是非一読をお薦めする)の結果でも確かな所在は不明のようである。因みに彼女(小泉八雲の玄孫さん。ツイッターで相互フォローしている。若い。結婚間近【後日追記】彼女はアイリシュの方と結婚され、アイルランドにおられます。しかも、その連れ合いの方は、まさに―― Lafcadio Hearn Japanese Gardens”――「小泉八ラフカディオハン庭園」――のツアー・ガイドを、なさっておられるのです!♡!)によれば、ハーンが母と最後に生き別れたのは僅か四歳、父とのそれは七歳であった。哀し過ぎる。]、ヘルンは大叔母に養はれて、僧侶[やぶちゃん注:原文“priesthood”。司祭職。]にするつもりの敎育を受けた。氏の羅典の學識と、そして疑も無く氏の微妙な理解力の或物とは、その訓練に負うて居るのである。が然し、僧侶として一生を送るといふ前途は、その穿鑿的な心と熱烈な氣質とは全く背馳したものであることを直ちに發見して、十九の歲に己が運命を開拓すべく亞米利加へ行つた。一時校正係として働いた後、シンシナティで新聞通信員として職を得た。聞もなく立身して主筆となり、四五年して『タイムス・デモクラツト』の編輯局員に加はるべくニユウオルレアンス[やぶちゃん注:ニューオリンズ。]に赴いた。此處で千八百八十七年まで暮して、その新聞に奇妙な空想的な文や亞刺比亞[やぶちゃん注:「アラビア」。]風の怪異な文を揭げ、種々な雜誌へ論文やスケツチを寄稿し、小さな珍らしい書物を幾つも出版した、そのうちに『異文學遺聞』[やぶちゃん注:前の田部氏の「あとがき」を参照。]とゴオチエの飜譯も含まれてゐる。千八百八十七年の冬、一友に書き送つたやうに、『靈感の蜂蜜を探す小さな文學蜂』なのだから、異國情趣に富んだ國への巡遊を始めた。二ケ年を主として佛領西印度で送り、紐育[やぶちゃん注:「ニュー・ヨーク」。]で或る時期を文學著作に費してから、千八百九十年に或る雜誌ヘ一聯の文章を送るが爲めに日本に赴いた。その國のその驚くべき人民と、自分の氣分が非常に似て居る爲めに、竟に鄕里に在るが如き氣安い氣持を突然感じたらしく思はれる。氏は日本婦人と結婚し、その財產を確實にその家族に讓與し得らる〻やうにと、日木市民權を得、東京帝國大學の敎師となつた。そして引續き顯著な書物を幾册も世に出して、西洋世界への、日本の生活と藝術との眞精神の紹介者となつた。そして千九百四年九月の二十六日に心臟麻痺で死んだ。

[やぶちゃん注:「ゴオチエ」ピエール・ジュール・テオフィル・ゴティエ(Pierre Jules Théophile Gautier 一八一一年~一八七二年)はフランスの詩人・小説家・劇作家・批評家。ハーンは母が亡くなる一八八二年(当時は『タイムズ・デモクラット』社文芸部長であった)にゴティエの“ Une nuit de Cleopatre ”(或る夜のクレオパトラ」。一八三八年作)をメインとした英訳本“ One of Cleopatra's Nights and Other Fantastic Romances ”(『「クレオパトラの一夜」とその他のファンタジックな物語集』)を刊行している。]

 

 目今蒐集中の多數の私信を除いては、この書は、雜誌のうちに、もしくは出版しても宜い程に圓熱して居る原稿のうちに、まだ自分で集めずに置いたヘルンの書き物の全部を含んで居る、が然し、『究極の問題』と題した文章は、無瑕[やぶちゃん注:「むきず」。]なものであり、隨筆として完全なものではあるけれども、原著者は之を未完成だと思つて居た。だから原著者が生きて居たなら、その或る部分は訂正もし敷衍もしたことであらう。

 がこの一卷がその排列と修正に於て、他に比類を見ざる事、著者の精妙なタツチを缺いで[やぶちゃん注:ママ。]居るにしても、それにも拘はらず、その最も特徵的な氣質の全部を見せて居り、また、文體にしても實質に關しても、恐らくはその諸著作のうち最も完成したまた最も有意義なものであらう。

 作者としての初年には、ヘルンはその藝術の理想をば非望的なものであるが如くに、特殊なものと思つて居たのであつた。八十年代の始に早や、氏はニユウオルレアンスからワシントンの僧ヱイランド・ボオル[やぶちゃん注:原文“the Rev. Wayland D. Ball”。一八五八年生まれで一八九三年没の牧師。]に送つた手紙(未發表の)に『古代の愛らしさを愛する者共が、長く胸に抱いて居た夢の――外國の大家を模範とし、北歐語の特徵たるあの力の要素を加へて一層力强くして、或る羅典[やぶちゃん注:ラテン。]の文體を英語で實現するといふ多年の夢の――未來の可能を自分に證明して居る。それは如何なる人と雖も完成する希望は抱けないが、一飜譯者と雖も言語の一新建築の大石工へ、自己の石を運ぶことは出來る』と述べて居る。この理想を實現するのにヘルンは間斷なしの骨折をした。氏はフロオベルとかゴオチエとかいふやうな、文體の妙手の著作に對して微細な解剖的な硏究を與へ、またその雜多な讀書にも一種特別の注意を拂つて選擇した。前述の友に更に再び書いて居る、『想像力に對して强い印象を與ふることをしない書物は決して一册も讀まぬ。が、斬新な、奇妙な、有力な譬喩を含んで居るものならば、題目の如何に拘はらず、どんな書物でも讀む。空想の土壤が無數の落葉に依つて實際に豐饒にさる〻時は、言語の花は自づと咲き出る』斯う言つて居る。最後にテクニツクの困難にまた、絕大な然し分別のある讀書に加ふるに、創作の長い思惟思案の時間を以てした。その日本の友人の雨森信成に、啻に文學的作文についてだけでは無く、廣く一般の藝術についての深い說が、それに含まれて居る文句を書き送つた。斯う言つて居る、――

[やぶちゃん注:「雨森信成」(あめのもりのぶしげ 安政五(一八五八)年~明治三六(一九〇六)年)はプロテスタント源流の一つである「横浜バンド」のメンバー。ウィキの「雨森信成」によれば、『伝道者、宣教師の通訳として活躍した人物で、英語教育者としても活躍した。晩年の小泉八雲の親しい友人としても知られる』。『福井藩士である松原十郎の次男として生まれ』、明治四(一八七一)年に『福井藩藩校である藩校明新館に入学した。この年三月、『藩主松平春嶽の招きでW・E・グリフィスが化学と物理の教師として赴任してきた』。二年後、『廃藩置県により福井藩が消滅すると、雨森は横浜でアメリカ・オランダ改革派教会宣教師S・R・ブラウンの私塾ブラウン塾で英学を学んだ』。『明新館が、中学になり、グリフィスの後輩であるM.N.ワイコフがグリフィスの後任として赴任したので、雨森はワイコフの通訳として呼び戻された』(この年、『信成は元福井藩家老・雨森家の婿養子となっ』ている)。『M・N・ワイコフが新潟英語学校に移動したため、これに同行』、『その後』、『新潟で宣教活動と医療活動をしていたエディンバラ医療宣教会のT・A・パームの通訳兼助手になった』が、『現地人の迫害で説教中に拉致される事件』などがあり、三ヶ月で『ブラウン塾に戻っ』ている。明治八(一八七五)年、『キリスト教徒になったことが原因で雨森家から離縁された。信成は離婚後も雨森姓を名乗り、メアリー・キダーの女学校(現・フェリス女学院)の教師とな』った。明治十年には『築地の東京一致神学校の第一期生にな』り、明治十四年、『ワイコフの先志学校の教師とな』っている。『後に、米国に留学して諸外国を放浪した後、西欧のキリスト教文明に失望し、キリスト教を棄教することになる。晩年は小泉八雲の親友として多くの影響を与えた』。明治三六(一九〇三)年には『横浜グランドホテル内でクリーニング業を営ん』でいた、とある。]

『さて君が書いたスケツチ、若しくは物語について、君がそれに全く不滿足を感ずるのなら、それは恐らくは君が想うて居るものに――表現の不完全に――基くのでは無くて潛在して居る或る思想或ひは情緖なりが君の心の中で、充分にきつかりと、まだ形を成して居らぬといふ事實に基くのであらうと自分は思ふ。君は或るものを感じて居て、その感情を表現することが出來ないのである――その出來ないといふのは、それが何であるかをまだ十分に君が知つて居ないからのことで、他の原因は無いのである。我々は感じて居るとは知らずに物を感ずるもので、また我々の最も力强い情緖は最も漠とした言ひ述べ難いものである。それはさうしなければならぬ理由(わけ)のもので、さういふ情緖は感情の祖先傳來の集積であり、その多種多樣は、――一つの上へまた他の一つが重なつてそれをぼやかし、その力は異常に增大させながらも、それを朧にするからである。……無意識な頭腦作業がそんな潛在的感情或ひは思想を開展するに一番好い作業である。ゆつくり構へて幾度も幾度もその文を書いて居ると、その感情或ひは思想がその過程中に自づと――無意識に――開展することを自分は見て居る。それから又、漠然たるまゝで居るその感情を解剖しようと力める[やぶちゃん注:「つとめる」。]ことが時に屢々價値ある事業である。我々の心を動かすものは何であるか、それを正(まさ)しく理解しようとする努力は時に成功を齎らす。……君が若し何かの感情を――何んでも構はぬ――心の中に强く潛んで居る(一寸入つて來た或る悲しみでも、理由(わけ)の分らぬ喜びでもいゝ)何かの感情を有つて居るなら、それは表現が出來るものだと確信して宜い。固より、或る種の感情はそれを開展するのは困難である。近日、君と相會ふの日、その思想が明白に頭へ來るまでに數月間自分がそれを書いた一頁を君に見せよう。……最上の結果が出て來ると、君はそれに驚くに相違無い。我々の最上の作品は無意識から出來て來るからである』

 こんな硏究と讀書と長時の思索とに依つて、ラフカディオ・ヘルンの散文は、終焉の日まで着々と圓熟して行つた。手際だけを言つても、この一卷はその最も歎賞すべき作品の一であつて、『天の河緣起』の最後の一節の如き、調の高まつた文句の處では、その豐麗な陰欝な音樂、その深甚な暗示は、最も偉大な英國散文のほか、容易に之に匹敵するものを見出し得ぬものである。

 實質に於てもこの一卷は同じく意義に富んだものである。千八百八十四年、氏はその親友の一人へ手紙を書いて、ハアバフト・スペンサアのものを讀んだが爲めに、一切のイズムが心から消え去り、偉大なる疑の漠たる然し萬能な慰藉を得て、理智的に自分の地步を遂に發見し得たと、言つて居る。だから本書中の『究極の問題』――これは言はゞ、本書の屬和絃を打つて居るものであるが――の一文に於て我々は、スペンサアの哲學と心理學との氏への意味の殆んど抒情詩的な表現を有つて居るのである。それには、英國と佛國との心理學と、佛敎と神道との思想との氏獨自の混和があり、氏の著作では、氏自らその書翰の一つに言うて居るやうに、『單に旨く混合して居るのではなくして、化學元素の如くに絕對的に結合して、或る衝動を以て突進し合うて居る』音調がある。そしてこれに於て氏はその最も深い音を出して居るのである。途方も無く大きな科學界を包んで居る恐怖についての氏の堅實な熟視に於て、古い神話と迷信とを喚び起し復活し、その魔力に依つてあの底知れずの暗黑の上へ、消え失せた幾多の太陽の一點の靈光を投ずる氏の力に於て、氏は近代作家のうちでもリユウクレシヤ風な作家であつた。

[やぶちゃん注:「本書の屬和絃を打つて居るもの」原文は“the dominant chord of this volume”で、「本篇の持つ支配的なコード(比喩的な音楽的主調主題を支配する感情表現)」の謂いのようである。

「リユウクレシヤ風な」原文“Lucretian”で「ルクレティウス風の」の意。ティトゥス・ルクレティウス・カルス(ラテン語:Titus Lucretius Carus 紀元前九九年頃~紀元前五五年)は共和政ローマ期の詩人で哲学者。エピクロスの思想を詩「事物の本性について」に著した。ウィキの「ルクレティウス」によれば、『エピクロスの宇宙論を詩の形式で解説』し、『説明の付かない自然現象を見て恐怖を感じ、そこに神々の干渉を見ることから』、『人間の不幸が始まったと論じ、死によってすべては消滅するとの立場から、死後の罰への恐怖から人間を解き放とうとした』。全六巻七千四百行から『なる六歩格詩』「事物の本性について」(ラテン語: De rerum natura )を『著して』、『唯物論的自然哲学と無神論を説いた』とある。]

 外貌では、人としてのヘルンは何等人好きのする男では無かつた。氏の日本人友達の一人が千九百五年十月のアトランティツク誌に描いた、輪廓のきつかりした氏の肖像では、『晚年には稍や肥滿してゐて、丈が低く、せいぜい五呎[やぶちゃん注:「フィート」。一メートル五十二・四センチメートル。]、步く時少し屈み氣味。顏色は少し褐色を帶び、どちらかと云へば毛深い皮膚、細い、尖つた鷲鼻、大きな飛び出た眼、それもその左は盲目で、右は非常な近眼』であつた。

 さう書き送つた雨森信成は、人としてのヘルンで無く、天才としてのヘルンの憶ひ出を書いて居る。氏の最後の著作への此の序言を、それで結ぶのは當を得て居るかと思ふ。『初めて氏の宅で一と晚泊つた時に見た生き生きとした憶ひ出は、自分は永久に失はぬであらう。自分も亦遲くまで起きて居る習慣なので、その晚床へ入つて本を讀んだ。時計は朝の一時を打つた。が、ヘルンの書齋に明(あかり)がして居る。低い、嗄れた咳聲がきこえる。自分は我が友が病氣ではないかと氣遣つた。そこで自分は部屋から出て、友の書齋へ行つた。が然し、若し仕事をして居るなら、邪魔をしたくなかつたから、用心してほんの一寸戶を開けて、覗いて見た。友はその高い机に向つて、鼻を紙に觸れぬ許りにして、切りと[やぶちゃん注:「しきりと」。]書いて居るのが見えた。一枚一枚と書いて行く。暫くして友は頭を上げた。その時自分は何を眼にしたか! それは自分が能う[やぶちゃん注:「よう」。]知つて居たヘルンでは無く、別なヘルンであつた。その顏は不思議なほど白く、その大きな眼は光つて居つた。まるで何か此世ならぬものに接して居る者の如くであつた。

 その平凡らしい顏した男の裡に、魔神の火の如き純潔な或る物が燃えて居たのであり、そしてその炎の中に、塵土の裡から生と詩とを呼び出し、人間の思想の最高な題目を捉へる心が住まつて居たのである』

 

      大正十五年六月   大谷正信

 

[やぶちゃん注:最後の雨森のそれは、鬼気迫るものを感じさせる、貴重な引用である。なお、ブラウザの不具合を考えて最後の署名は底本の字配を再現してはいない。

 以下、底本では、「第八卷要目索引」とあって、英文標題と献辞と邦訳が並んであり(ページ数は無表記)、その後に「小泉八雲全集第八卷飜譯分擔」の表(各篇和名標題のみ)があって、奥附となるが、総て略す。因みに、底本本文前の目次以前の扉標題なども略した。それらを除いて、底本「學生版 小泉八雲全集」「第七卷」の総てを、このブログ・カテゴリ「小泉八雲」で電子化したこととなる。底本の本文冒頭「骨董」の「幽靈瀧の傳說」に手を染めたのが、一月余り前の九月四日であった。他の一切の電子テクストをほぼ完全に停止して、一ヶ月、「骨董」「怪談」「天の河緣起そのほか」の三作品集のオリジナル電子化注を完成し得たのは、私のブログやサイト史の中でも、特異点の速さであったと言ってよい。この一ヶ月、台風で家の斜面の五メートルの枝垂桜が根っこからなぎ倒され、斜面が赤裸になり、屋根が飛ばされ、つらいことばかりであったので(四十年振りの友らとの再会の一時だけが幸せだった)、私は私だけに私独りで褒めてやりたい気がしている。小泉八雲の電子化注は向後も孤独に続ける覚悟である。

昭和六(一九三一)年一月第一書房刊「學生版 小泉八雲全集」(全十二巻)第七卷の田部隆次氏の「あとがき」

 

[やぶちゃん注:以下は、本ブログ・カテゴリ「小泉八雲」で小泉八雲の後期の作品集「骨董」「怪談」「天の河緣起そのほか」三作の全電子化注の底本とした(英文サイト“Internet Archive”のこちらにある画像データをPDFで落として視認した)、第一書房が昭和一二(一九三七)年一月に刊行した「家庭版小泉八雲全集」(全十二巻)の第八巻の「あとがき」である。【2025年4月4日底本変更・前注変更】時間を経て、国立国会図書館デジタルコレクションに本登録し、現行では、以上の第一書房版昭和六(一九三一)年一月に刊行した「學生版小泉八雲全集」(全十二巻)の第七巻が、国立国会図書館デジタルコレクションで公開されてある。(リンクは扉だが、「學生版」の文字はない。しかし、奥附を見て貰うと『學生版 【第二囘豫約】』とあり、『昭和六年一月十日 發行』とあることが確認出来る)、 これが、前掲の底本と同じものであるが、やはり、外国のサイトのそれを底本とするのは、日本人小泉八雲に失礼であると考えた。されば、こちらで、再度、以下の「骨董」の作品群を改めて校正することとする。これが――私の小泉八雲への「義」――である。なお、之よりも前の元版の全集等が先行しているものの、私がそれらと比べた結果、実は先行する同社の「小泉八雲全集」のそれらは、訳が一部で異なっており、訳者等によって、かなりの補正・追加がされていることが、今回の正字補正作業の中で、はっきりと判って来た。いや、同じ「家庭版」と名打ったネット上の画像データでも、驚いたことに、有意に異なっていたのである。そうした意味でも――完全な仕切り直しの総点検――が必要であると決したものである。従って、旧前振りの括弧・鍵括弧の問題も、拡大とガンマ補正で確認し、正確を期する。本作はここから。 本巻の訳者は田部隆次・大谷正信・戸川明三の三氏であるが、「あとがき」は田部・大谷氏の二名のみである(戸川氏は「耳無芳一の話」・「貉」・「葬られた祕密」の三篇のみの担当であったので、恐らく「あとがき」は辞退されたものと考えられる)。

 傍点「﹅」は太字に代えた。

 一部にごく簡単に注を附し、読者の便を考慮し、特異的に本文内に各話その他へのリンクを初出部に設けた(リンクの関係上、一部で半角空けを行った)。

 

 

  あ と が き

 

 『骨董』も『怪談』も原著者ヘルンが命名して、その漢字も同時にのせた原名そのままである。

 『骨董』は明治三十四年[やぶちゃん注:一九〇一年。]、書肆マクミランからロンドンとニユウヨークとで同時に出版された。マクミランの方でヘルンが送つた墓地の寫眞「獏」の繪の外に、當時在英の日本畫家伊藤氏、片岡氏などの繪を多く入れたので、ヘルンは甚だ喜ばなかつたと云はれる。この集中には以前雜誌に揭載されたものは一篇もなく、何れも始めてこの單行本に於て發表されたものばかりである。

[やぶちゃん注:「伊藤氏」この謂いからすると、各話の前後に配された絵を描いた、佐賀有田の生まれの画家江藤源次郎(えとうげんじろう 慶応三(一八六七)年~大正一三(一九二四)年)の「江藤」の誤りである。ウィキの「江藤源次郎」にも、はっきりと『画家として生計を立てるのは楽でなく、絵画も高い値で売れないため、彼は日本関連の小説の挿絵画家としても活動した』とし、『ラフカディオ・ハーン(小泉八雲)著「骨董」の挿絵など多数ある』と明記されてある。しかも田部の謂いには別な誤りがあり、彼は『在英』ではなく、「在米」でなくてはならないのである(彼は二度遊学しているが、孰れもアメリカである)。小泉八雲が意志に反して挿入された彼の挿絵を「甚だ喜ばなかつた」というのは少し意外ではあった。確かにしかし、予期せぬ絵図が作品のイメージを捻じ曲げてしまう危険性を持つことを考えれば、当然とは言える。例えば、人物などが読む前からそれで固着されてしまうのは、小泉八雲にとって堪えられぬことであったには違いない。

「片岡氏」不詳。しかし、だとすると、「餓鬼」に配された、私が「貞景」と判読した(初代歌川国貞の門人で江戸後期の浮世絵師)、この絵しかない(或いは表紙絵か?)。識者の御教授を乞う。]

 

 「古い物語」中、出所の今分つて居るものでは、「幽靈瀧」「忠五郞のはなし」は、「文藝くらぶ」第七卷中の諸國奇談のうち、「茶碗の中」 「生靈」 「蠅のはなし」(大谷氏譯)は「新著聞集」、「常識」は「宇治拾遺物語」、「おかめのはなし」は「新選百物語」から取つてある。材料はこれによつたと云ふだけで、その實殆んど全くこれを改造して居る事は云ふまでもない。

 「茶碗の中」の如きも原文は一ペーヂにも足らぬ筋書のやうだが、纏まつた話であるのを、ヘルンはあの通り、作り直した。「おかめのはなし」の女主人公も原文によれば、嫉妬深い怒り易い、生前より死後に到るまで、夫を苦しめ通した惡女の標本のやうな女で、原作者はびどくこれを憎んで居る。その題も「嫉妬にまさる梵字の功力」と云ふ佛敎經文の有難さの宣傳めいて居るが、へルンの英譯の讀者は、この若くして死んだ不幸なおかめに同情をこそすれ、どうして憎めよう。

 「或女の日記」は、その記者であつた不幸な婦人の亡くなつたあとへ行つた後妻が、以前小泉家の奉公人であつたため、先妻の針箱で發見したこの日記を小泉夫人に示したのであつた。のちヘルンは夫人と共にこの人の墓に詣でた。もとより原日本文のたどたどしいものである事は、所々にある文章、歌、發句で分るが、ヘルンに取つてこの日記が興味のあるものであつたと同じく、西洋の讀者にも深い感動を與へて、本當の「ヒユマン・ドキユメント」と云はれたものであつた。原英文には脚註非常に多く、「三々九度」「相合傘」等の說明まで詳しく出て居るが、日本の讀者に必要でないものは多く省略した。

 「露の一滴」は佛敎の世界觀、「默想」は母性愛に關する考察、「眞夜中」は死に關する考察。「餓鬼」 「草雲雀」(大谷氏譯)「病理上の事」の諸篇はヘルンの哲學に深い根底を有せるヘルン獨步の小品、世界の何人もこの人の墨を摩するものはない。

[やぶちゃん注:「墨を摩する」(すみをまする)は「同等のレベルすれすれになるほど近づく。迫る。接近する」の意。]

 

 「尋常の事」に出て居る老僧は、當時牛込區富久町八番地臨濟宗妙心寺派道林寺の住職であつた丹羽雙明師の話によつたものである。この人當時七十歲前後、その閱歷は小說のやうであつた。卽ち文久三年[やぶちゃん注:一八六三年。]二月師が京都等持院の僧であつた時、浪士、伊豫の人三輪田綱一郞(女子敎育家三輪田眞佐子の夫)、江戶の人師岡節齋、會津の人大庭恭平等、平田篤胤の多くの門人と共に數十人相謀つて、その寺院に押入り、そこに安置してあつた足利尊氏、義詮、義滿の木像の首を斬つて三條大橋に梟け[やぶちゃん注:「かけ」。]、同時に勤王の宣言を出すと云ふ事件が起つた。そのためかどうか、師は等持院を去り還俗して裁判官となつた。東京で「高橋お傳」の裁判をもした。その後又僧籍に戾つて、終に道林寺の住職となつたが、師の前に中原南天棒師が、この寺の住職であつた。雙明師は學者であり、又詩人であつた。詩は淡窓門下の第一人であつたと云はれる。大正元年八月八日、八十三歲で遷化した。この雙明師から材料を得たと思はれるもの、ヘルンの富久町時代の作の所々に散見する。

[やぶちゃん注:「牛込區富久町」現在の東京都新宿区富久町(グーグル・マップ・データ。以下同じ)。既に注した通り、小泉八雲の東京での最初の五年間の旧居があった町である。

「道林寺」昭和二〇(一九四五)年の空襲によって堂宇及び伽藍を消失し、現在は東京都町田市相原町に移転している。

「丹羽雙明」詳細事蹟は田部の以上の記載以上のものを見出せなかった。

「等持院」現在の京都市北区等持院北町にある臨済宗萬年山等持院。足利氏の菩提寺で、足利尊氏の墓所としても知られる。以下に語られるのは「足利三代木像梟首事件」で、文久三(一八六三)年二月二十二日のこと、等持院にあった室町幕府初代将軍足利尊氏・第二代将軍義詮(よしあきら)、第三代義満の木像の首と位牌が奪取され、賀茂川の河原に晒された事件。足利氏に仮託して徳川討幕の意を表現したもので、幕末の尊攘運動の一つであったが、京都守護職にあった会津藩主松平容保は厳重な捜査を命じ、同年八月、犯人は概ね捕縛され、処刑された(お預け・幽閉を含む)。詳しくはウィキの「足利三代木像梟首事件」を見られたい。

「三輪田綱一郞」三輪田元綱(文政一一(一八二八)年~明治一二(一八七九)年)は幕末・維新期の勤王家。通称、綱一郎。伊予生まれ。伊予松山日尾八幡祠官の子。京に出、大国隆正に学び、国学を修め、勤王の志士となって活動した。本事件に関わり、但馬国豊岡に幽閉された。慶応三(一八六七)年(明治元年前年)に放免され、維新後は神祇権少祐から外務権大丞を歴任した。贈従五位。

「三輪田眞佐子」(天保一四(一八四三)年~昭和二(一九二七)年)は明治・大正期の女子教育者。京の儒医宇田栗園(りつえん)の娘。明治二(一八六九)年、三輪田元綱と結婚したが、十年後に死別、明治一三(一八八〇)年に松山で「明倫学舎」を設立した。明治二〇(一八八七)年、上京して「翠松学舎」を開き、漢学を教えた。明治三五(一九〇二)年、「三輪田女学校」(現在の「三輪田学園」)を創立し、良妻賢母教育を教授した。著作に「女子の本分」など。

「師岡節齋」師岡正胤(もろおかまさたね 文政一二(一八二九)年~明治三二(一八九九)年)は国学者・勤王家で医師。通称は豊輔、節斎は号。ウィキの「師岡正胤」によれば、江戸の医家の子として生まれた。京で大国隆正に国学を学んだのち、嘉永五(一八五二)年に江戸「気吹舎」の平田銕胤(かねたね:平田篤胤の養子)に『入門して「篤胤没後の門人」となった。幕末期には同門の有志とともに尊王攘夷運動に奔走し、常に銕胤の近くにあって、さまざまな江戸情報を銕胤にもたらした』。『正胤の妻の兄が若年寄加納久徴(上総国一宮藩主)の取次頭取だった関係上、江戸幕府の内部情報を入手することができたのであ』った。本事件の主犯者の一人であったが、『正胤は厳刑に処せられるところを』、『公卿や土佐藩主・長州藩主などの計らいで』、『信濃国上田藩に禁固』六『年の身となった』。慶応三(一八六七)年の「王政復古」の大号令ののちは、『赦免され』、『新政府に出仕し、刑法官から監察司知事・弾正台大巡察などを歴任した』明治六(一八七三)年には、『京都松尾大社の大宮司となり、神道の振興に力を注いだ』。『なお、幕末から明治維新にかけての正胤は島崎藤村の小説『夜明け前』に、主人公青山半蔵(藤村の父島崎正樹がモデルとされる)の同志として実名で登場している』。後、『宮内省文学御用掛』や『伊勢神宮の本部教授となり、愛媛皇典講究所教授も務めた』。また、娘の師岡千代子』(明治八(一八七五)年~昭和三五(一九六〇)年)『は、社会主義者幸徳秋水の』二『度目の妻(のちに離縁)であ』ったとある。最後の一節はクるものがある。

「大庭恭平」(おおばきょうへい 天保元(一八三〇)年~明治三五(一九〇二)年)は会津藩密偵ウィキの「大庭恭平」によれば、文久二(一八六二)年に藩主松平容保が『京都守護職に任じられて上洛すると、これより先に上洛』した。『会津藩の重臣である田中玄清や野村左兵衛の密命で』、『浪人となって京都で活動する過激派の攘夷浪人の監視を行なうためだったとされている』。ところが、本『事件が起こり、大庭も犯人の』一『人であったため』、『捕縛されて信濃国上田藩に流罪となった』。慶応四(一八六八)年から「戊辰戦争」が『始まると』、『新政府軍は、大庭を釈放した』。『大庭は古屋佐久左衛門が率いる衝鋒隊に加わり』、『各地で戦功を立てた。会津藩が劣勢になると』、『仙台に赴き』、『援軍を願い出るが、既に仙台藩に戦闘の意志はない。そのため、同盟を結んでいた庄内藩へ赴き』、『会津藩救済を願い出る。だが、逆に庄内藩により牢獄へ送られ』、『越後高田に謹慎処分となった』。『会津藩が敗れると』、『死者の埋葬など』の『戦後処理に尽力し』、『会津藩は戊辰戦争で新政府により改易とされたが、大庭は会津藩の再興に尽力したという後年の逸話が広ま』った。明治三(一八七〇)年、『斗南藩として再興が認められると、刑法掛として出仕した』。『明治政府においても』、『多くの官職には就いたが、退職し、函館で隠棲生活を送った。晩年は室蘭にいる弟のもとで過ごしていたという』とある。

「高橋お傳」(嘉永五(一八五二)年~明治一二(一八七九)年)は上野国利根郡下牧村(現在の群馬県みなかみ町)の高橋九右衛門の養女。慶応三(一八六七)年、九右衛門は高橋波之助を婿養子にしたが、お伝はハンセン病にかかった夫を毒殺したとされ(事実誤認。後述)、その後、浅草蔵前の宿屋で古着商の後藤吉蔵を剃刀(かみそり)で殺害して金を盗み、間もなく捕えられ、市ヶ谷監獄内の刑場で斬首された。その生涯は仮名垣魯文作「高橋阿傳夜叉譚(たかはしおでんやしゃものがたり)」(刑死直後の出版)や河竹黙阿弥作の新作歌舞伎「綴合於傳仮名書(とじあわせおでんのかなぶみ)」(刑死四ヶ月後の五月に新富座で初演)など、多くの読み物で世人の好奇心をそそり、彼女の名は「悪女」「毒婦」の代名詞とされてしまった。しかし実際には、夫は病死であり、後藤の殺害も相手に非があった。その辺りはウィキの「高橋お伝」に詳しい。「お伝さん」の復権のためにも、是非、読まれたい。]

 

 「夢を食ふもの」の記事は、夫人が上野帝室博物館で、偶然「獏」と云ふ字のある三代將軍家光の枕と云ふものを見て歸つて、獏の夢を食ふ話、こはい夢を見たら獏に食はせる事、或は出雲の傳說によつて南天に喰べて貰ふ話などをしたのが發端であつた。しかしこの篇の初めにある魔の記事は夫人の記憶によれば、當時何かと材料を提供してくれた出雲の人、折戶德三郞(今は故人)と云ふ遞信省の官吏など務めた人から得たものであつた。

[やぶちゃん注:「折戶德三郞」詳細事蹟は私は不詳だが、中井孝子氏の博士学位論文「ハーンのミューズ―「暗号」解読の試み―」(名古屋大学大学院国際言語文化研究科国際多元文化専攻。PDFでダウン・ロード可能)によれば、この人物は小泉八雲の英訳翻訳の重要な協力者の一人で、しばしば小泉八雲の英訳の下書きをして手伝っていたこと、長谷川洋二氏の「小泉八雲の妻」(昭和六三(一九八八)年今井書店刊。実は、この方は私の教員の新米時代の同僚の世界史の先生で、本書も謹呈されたものである)が『「お化けの歌」の英語の下訳が折戸徳三郎であると認めている』とあり、さらに、小泉八雲の長男小泉『一雄の証言では、折戸は表立つことが嫌いで誠実な人柄であった。彼の英訳の、アシスタントとしての「骨折った箇所」が大谷正信の「手柄」として横取りされているとする』とさえあり、さらに『折戸が、1890年』(明治二十三年)『ころから』、『ハーンの民話蒐集に協力し、1895年ころから』は『英訳を提供し』ていたともある人物である。]

 

 『怪談』は明治三十六年[やぶちゃん注:一九〇三年。但し、これは翌明治三十七年の誤りである。]四月、米國では書肆ハウトン・ミフリン、英國では書肆キーガン・パウル・トレンチ、兩方で出版になつたもの。そのうちの二篇「耳無芳一の話」及び「安藝之助の夢」は少し以前雜誌「大西洋評論」に掲載された。

[やぶちゃん注:「英國では書肆キーガン・パウル・トレンチ」ロンドンの“Kegan,Paul,Trench & Harper”。但し、こちらは英文書誌データを見る限りでは、小泉八雲死後の一九〇五年の刊行。

「大西洋評論」“ Atlantic Monthly ”。一八五七年にマサチューセッツ州ボストンで、同題の文字通り月刊誌として発刊し(当初は奴隷制廃止を掲げた政治的総合文芸雑誌であった)、現在も“ The Atlantic ”として続いている。英文ウィキの「The Atlanticを参照されたい。]

 

 「耳無芳一の話」(戶川氏譯)は「臥遊奇談」卷二「琵琶の祕曲、幽靈を泣かしむ」と題するものによつた。この種の話は「骨董」のうちの「おかめのはなし」と同じく佛敎殊に經文の功德を宣傳したもので、日本では時々見られる物語の一つであるが、へルンの靈筆によつて非常に鮮やかなものになつて居る。

 「貉」(戶川氏譯)は「百物語」第三十三席御山苔松と云ふ人の話によつたもの。原文では貉(むじな)でなく、河獺(かはうそ)になつて居る。その他の點でも違つた處はある。

 「葬られたる祕密」(戶川氏譯)は「新選百物語」によつたもの。原文ではその題に「紫雲たなびく密夫の玉章」とある通り、數十通の密書をかくしてあつた事になつて居るが、英譯では只一通になつて居る。

 「姥櫻」 「十六日櫻」共に「文藝くらぶ」第七諸國奇談から取つたもの。「お貞のはなし」 「鏡と鐘」は「夜窻鬼談」から取つてあるが、前者は、二三の點を除けば殆んど別のものとなつて居る。たとへば、原漢文では杏生と阿貞の關係は、初めは客と妓であり、後には旦那と思ひものであるが、へルンの英譯では、長生とお貞の關係ははるかに美しいものとなつて居る。

 「食人鬼」は「佛敎百科全書」、「ろくろ首」は「怪物輿論」、「靑柳のはなし」は「玉すだれ」より取つてある。「雪女」へルンの序文にある通り、小泉家へ出入した東京府西多摩郡調布村の農夫から聞いたものであつた。

 私はここにヘルンが、これ等の材料を如何に改造し「換骨奪胎」して居るかの一例として「古今著聞集」にある「をしどり」の原文を轉載して讀者の參考に資したい。

[やぶちゃん注:以下、底本では全体が二字下げでポイント落ち。田部はかなりの部分で漢字表記に代えており、読みも殆んど振っていないので、私が原本通りに電子化したものより、却って読み易くなっている。比較されたい。]

 

 陸奥に田村の鄕の住人、馬允(ばぜう)なにがしとかや云ふ男鷹を使ひけるが、鳥を得ずして空しく歸りるに、赤沼と云ふ所にをしどり一つがひゐたりけるを、くるりをもちて射たりければ過たず雄鳥に中りてけり。をしどりをやがてそこにてとりかひて、ゑがらをはゑぶくろに入れて家に歸りぬ。その次の夜の夢にいとなまめきたる女の小さやかなる、枕に來てさめざめと泣きゐたり。あやしくて何人のかくは泣くぞと問ひければ、咋日赤沼にて、させるあやまりも侍らぬに年比の男を殺し給へる、悲しびに堪へずして參りて憂へ申すなり。この思ひによりて我身もながらへ侍るまじきなりとて、一首の歌をとなへて泣く泣く去りにけり。

  日くるればさそひしものをあかぬまのまこもかくれのひとりねぞうき

あはれに不思議に思ふ程に中一日ありて後ゑがらを見ければ、ゑぶくろにをしの雌鳥の腹をおのがはしにて貫きて死にてありけり。これを見てこの馬允やがて髻(もとどり)を切りて出家してけり。この所は前刑部大輔仲能朝臣が領になん侍るなる。

 

 隨筆のうち、「力ばか」はその頃、富久町にその名の白痴の少年がゐたが、その死後、小泉家へ出入の女髮結が來て話した通りを、薪屋の老人の話に擬して書いたもの。生れかはりと云ふ考は色々の形式となつて、日本人のうちに生きて居る事は事實である。

 「日𢌞り」はヘルンの傳記者に取つて有雖い參考になる。

 「蓬萊」は、谷中の美術院の展覽會で買つた蓬萊と題する掛物を眺めながらなした述懷である。

 

 『天の河緣起そのほか』中の「小よりも奇」は、ヘルンの草稿には A Forgiveness(罪を赦す)とあるが、後改めたものらしく察せられる。佛領西印度マルテイニーク島追懷の記事の二つ。サンピヱールを發して島を橫斷したのであつた。フローラン夫人の話はヘルンが夫人にも話した事のある事實談。

[やぶちゃん注:「サンピヱール」Saint-Pierre(サン・ピエール)は西インド諸島のフランス領マルティニーク(Martinique)島にある村。嘗てはマルティニークの県庁所在地だったが、一九〇二年(「骨董」と「怪談」の間である。小泉八雲はその知らせをどう感じたであろう)のプレー山(Montagne Pelée)の火山噴火による火砕流により、ほぼ完全に崩壊してしまった。死者は約三万人、陸上にいた人で生存者はわずか三人だけであったという。 噴火後、マルティニークの県庁は当時は小さな村でしかなかったフォール=ド=フランス(Fort-de-France)に移された。参考にしたウィキの「サン・ピエールマルティニークによれば、『プレー山の噴火が一段落した後』、『復興・再建はされたものの、県庁所在地という政治・経済・文化・交通の中心的地位を失ったこともあり』、『以前のような繫栄を取り戻すことはできなかった』とある。]

 

 最後に、ヘルンの最初の作『異文學遺聞』より最後の作『天の河緣起そのほか』に到るまで、到る所に散在せるが、殊に『骨董』『怪談』に到つて、その絕頂に達して居る怪談について一言したい。

 これ等の怪談の或者は、單に超自然的であり、不思議であると云ふ理由で、(たとへば「ろくろ首」の如き)、或者は輪𢌞の說から來て居るので、(「雉子のはなし」の如き)、又、或者は人間の魂が蝶になつたり、樹木の魂が人間になつたりして(「安藝之助の夢」「靑柳のはなし」の如き)へルンの所謂萬有は一と云ふ思想を表はしてゐるので、――それぞれヘルンの興味をそそつた。しかし、日本の怪談に最も多いから、ヘルンが最も多く取つたものは、執念、念力、殊に最後の一念から起つた怪談である。ヘルンはこれ等の怪談を以て滿足せず、更にそれを說明するために、「術數」の一篇を書いて居る。ヘルンに隨へば、「異常の念力をもつて死ぬ人、殊にその念力をもちながら自殺をする人の魂は、超自然的な力を有する」事になると云ふのが日本人の考方[やぶちゃん注:ママ。]である。卑近な例を見ても、或病にかかつて死んだ人は、その病氣を直す力のある神になる事がある。その理由は、その人の最後の一念はその病を直す事であつたからである。

[やぶちゃん注:「異文學遺聞」小泉八雲(当時は Patrick Lafcadio Hearn)が一八八四年(アメリカ在)、三十四歳の時、初めて翻訳でなく、創作し、刊行した “ Stray Leaves from Strange Literature ”(「奇妙な文学から迷い落ちた葉たち」。何故か、現行では「飛花落葉集」(平井呈一氏のお洒落な意訳か)という訳で出回っている)。]

 その外、これ等の怪談に表はれて居る民間信仰や俗說に對してヘルンは何と考へたであらうか。ヘルンの言を借りて云へば「凡て迷信であれ何であれ、禮拜信仰と云ふ一般思想には愚かな、をかしい分子などは少しもなく、何れも凡て人類が絕對的無限の方へ進まうとする眞面目な感心な向上心を表はしたもの」である。それでヘルンは敬虔なる態度を以て、これらを取扱つて、その背後にある美はしい思想、不思議な精神を眺めて居る。

 それからヘルンは「小說に於ける超自然の價値」と云ふ題の講義のうちにかう云つて居る。「……凡て大藝術にはそのうちに何か靈的な分子がある。……詩人や小說家にして時々讀者に多少怪談的興味を與ふる事のできない人は、決して眞に偉大なる作者でも偉大なる思想家でもない。……」

[やぶちゃん注:以下、三行分の空白がある。]

 

 

 

 なほ『怪談』が出版になつた時、つぎの序文が添へてあつた。ハウトン書肆の顧問文士グリインシレツト氏のものかと思はれるが署名はない。

[やぶちゃん注:以下、底本では引用は凡そ二字下げポイント落ち。この原本原文はInternet Archive”のこちらで視認でき、活字化されたものはProject Gutenberg”のこちらの目次の後の“INTRODUCTION”で読める。最後に“March, 1904.”のクレジットが附されてある。

「グリインシレツト氏」フェリス・ロウェル・グリーンスレット(Ferris Lowell Greenslet 一八七五年~一九五九年) はアメリカの編集者にして作家で、 一九〇二年以降、彼は先の「ホートン・ミフリン社」の文芸顧問兼編集者を延べ五十二年(途中で離任期間が有る)に亙って続けた。]

 

 ラフカデイオ・ヘルンのいみじき日本硏究の新しいこの書物が、偶然世界が日本戰鬪艦最近行動の消息を、緊張せる期待をもつて待つて居る丁度その月に出版された事は、きはどい不思議な𢌞り合せである。ロシヤと日本の現在の戰爭の結果はどうなつても、西洋の武器で武裝して、西洋の意力で身構へした東洋の一國民が、西洋の一大强國に對して愼重に爭つて居ると云ふ事實に意味がある。こんな戰爭が世界の文明に及ぼす結果を豫言する事は、如何に聰明な人にもできない。ただ精々できる事は、目下の戰爭に關係ある複雜なる諸問題の單なる政治的及び統計的の硏究によらないで、むしろこの兩種族の心理を基として、そこに望みと恐れを置いて、できるだけ聰明に、この戰爭に從事せる兩國民の國民性を評價する事だけである。ロシヤ人は數十年に渡りて、歐洲の聽衆を心酔させた文學上の代辯者をもつてゐた。これに反して日本人はツルゲニエフやトルストイのやうな、そんな國民的な、そして世界的に認められた人物をもつてゐない。

 東洋の如何なる種族のうちにも、ラフカデイオ・ヘルンが私共の言葉に日本を飜譯する際に用ゐたよりも、もつと完全な天賦の洞察と同情をもつた、代辯を有した種族がいつかあつたとは思はれない。ヘルンが日本に於ける長い滯在、適應性に富んだ心、詩的想像力、及び驚くべく透明な文體は、文學的事業のうちの最も取扱に注意を要するものに彼を適任ならしめる。彼は驚くべきものを色々見て居る。それを驚くべき文體で語つて居る。現代日本の生活の如何なる點でも、ロシヤとの現在の衝突に關係ある社會上、政治上及び軍事上の問題のどの分子と雖も、彼がアメリカの讀者を喜ばせた著書のうちのどの書物かに明瞭にしてないものは一つもない。

 ヘルンは『怪談』の特色を「不思議な事の硏究と物語」として居る。この書物から想起される事は非常に多い。しかしその大多數はこの不思議と云ふ事實で始まり、又終るものであらう。目次で題名を讀んだだけでも、どこか遠く雛れた處でつかれた梵鐘を聞くやうである。物語の或ものは餘程古いものであるが、それでも目下日本の巡洋艦の甲板に群がつて居る小さい人々の魂と心そのものを照らして居るやうである。しかし物語の多數は、婦人小兒に關して居る、――それは世界で最も良いお伽話が織出されたやさしい材料である。この日本の乙女と妻と、銳い眼の黑い髮の少女と少年、これ等も亦不思議である。彼等は私共と似て居ると共に、又似てゐない、それから空も丘も花も皆私共のと違つて居る。それでも私共に取つて實在でない世界をやさしく透明に靈的に描寫する事に於て、現代作家のうちの殆んど唯一人であるヘルン氏の魔法のやうな文體によつて、精神的實在と云ふ忘れられない感じを與へられる。

 一九〇三年二月「大西洋評論」にパウル・ヱルマ・モーア寄稿の洞察のある美しき論文に於て、ヘルン氏の魔術の祕訣は、彼の技術に『三種の相集まれるもの』があると云ふ事實によると云つてある。『印度の宗敎的本能――特に佛敎――それを歷史が日本の美感に植ゑつけたが、それに對するにヘルンは西洋の科學の解釋精神を以てして居る。それでこの三つのあり來りのものは、彼の心の特別の同情によつて融合されて、一つの豐富な珍奇なもの――以前に知られない一種の心理的感情を文學の方面に紹介した事になる程、それ程稀れなものになつて居る』モーア氏の論文はヘルン氏に認められ、又感謝されて、甚だ高い賞讚を受けた。それでもしここにそれを轉載する事ができるものなら、これ等古い日本の新しい物語の最も啓發的な總論になる事であらう。それ等の物語の正味はモーア氏の云ふ處によれば『印度の物すごき夢と日本の微妙な美と歐洲の假借しない科學とを甚だ不思議に混交した』ものである。

[やぶちゃん注:「パウル・ヱルマ・モーア」Paul Elmer More(一八六四年~一九三七年)アメリカのジャーナリストで評論家。英文ウィキが存在する。]

 

      大正十五年六月   田部隆次

 

[やぶちゃん注:なお、ブラウザの不具合を考えて最後の署名は底本の字配を再現してはいない。「大正十五年」は一九二六年。]

ブログ1270000アクセス突破記念 小泉八雲 日本からの手紙  (大谷正信譯) / 作品集「天の河緣起そのほか」全オリジナル電子化注~完遂

 

[やぶちゃん注:本篇(原題“ A LETTER FROM JAPAN ”は一九〇五(明治三八)年十月にボストン及びニュー・ヨークの「ホートン・ミフリン社」(HOUGHTON MIFFLIN AND COMPANY)刊の“ THE ROMANCE OF THE MILKY WAY AND OTHER STUDIES & STORIES ”(「『天の河の恋物語』そして別の研究と物語」。来日後の第十二作品集)の掉尾に配されたものである。但し、底本最後の大谷氏の「あとがき」(後に電子化する)では本篇は附録と認識されてある。本作品集は“Internet Archive”のこちら(目次ページを示した)で全篇視認でき(本篇はここから)、活字化されたものは“Project Gutenberg”のこちらで全篇が読める(本篇はここから)。小泉八雲は、この前年の明治三七(一九〇四)年九月二十六日に心臓発作(狭心症)のため五十四歳で亡くなっており、このブログ・カテゴリ「小泉八雲」で完遂した「神國日本」(戸川明三訳。原題は“ Japan: An Attempt at Interpretation ”(「日本――一つの試論」)に次いで、死後の公刊となった作品集である。

 底本は上記英文サイト“Internet Archive”のこちらにある画像データをPDFで落し、視認した。これは第一書房が昭和一二(一九三七)年一月に刊行した「家庭版小泉八雲全集」(全十二巻)の第八巻全篇である。★【2025年4月4日底本変更・前注変更】時間を経て、国立国会図書館デジタルコレクションに本登録し、現行では、以上の第一書房版昭和六(一九三一)年一月に刊行した「學生版小泉八雲全集」(全十二巻)の第七巻が、国立国会図書館デジタルコレクションで公開されてある。(リンクは扉だが、「學生版」の文字はない。しかし、奥附を見て貰うと『學生版 【第二囘豫約】』とあり、『昭和六年一月十日 發行』とあることが確認出来る)、これが、前掲の底本と同じものであるが、やはり、外国のサイトのそれを底本とするのは、日本人小泉八雲に失礼であると考えた。されば、こちらで、再度、以下の「骨董」の作品群を改めて校正することとする。これが――私の小泉八雲への「義」――である。なお、之よりも前の元版の全集等が先行しているものの、私がそれらと比べた結果、実は先行する同社の「小泉八雲全集」のそれらは、訳が一部で異なっており、訳者等によって、かなりの補正・追加がされていることが、今回の正字補正作業の中で、はっきりと判って来た。いや、同じ「家庭版」と名打ったネット上の画像データでも、驚いたことに、有意に異なっていたのである。そうした意味でも――完全な仕切り直しの総点検――が必要であると決したものである。従って、旧前振りの括弧・鍵括弧の問題も、拡大とガンマ補正で確認し、正確を期する。本作はここから。

 訳者大谷正信氏については、「小泉八雲 燒津にて 大谷正信譯」の私の冒頭注を参照されたい。

 傍点「﹅」は太字に代えた。標題に添えられたクレジットは底本ではポイント落ちであるが、同ポイントで示した。

 なお、本篇は本テクストは2006年5月18日のニフティのブログ・アクセス解析開始以来(このブログ「Blog鬼火~日々の迷走」開始自体はその前年の2005年7月6日)、本ブログがつい先ほど、1270000アクセスを突破した記念として公開する。【2019年10月8日 藪野直史】]

 

 

  日本からの手紙

 

     東京、千九百四年、八月一日。

 

 綠の平和を破るものは、ただ、遊んで居る子供等の聲と、蟬の銳い啼き聲だけの、この閉靜な町外づれの此處に居ては、總計五十萬人以上の軍隊の間に、近代の最もすさまじい戰爭の一つが、三四百哩[やぶちゃん注:一マイルは約千六百九メートル。四百八十三~六百四十四キロメートル。]離れた處で、今、進行中であること、或は、彼我兩土の間なる海上で一百の戰艦が戰つたといふことを想像するのは困難である。西洋列國中、その最も强大なものと、今なほ精力旺盛な人の多くが懷ひ出せる頃に、やつと西洋の科學を硏究し始めた一國民との間のこの爭鬪は、少くとも一方にとつては、國家の存亡にかかはる爭鬪である。已むを得ぬものであつた、此戰鬪は。或は延期は出來たかも知れぬが、確かに避けることの出來ぬものであつた。東洋と西洋との兩文明を同時に脅やかし得る帝國に――力弱くこれを阻まなければスカンデイナビアを幷呑し、支那を左右する將來を有つて居るやうに思へる、中世建設の一强國に――日本は大膽にも挑戰した。あらゆる工業的文明に對して、この爭鬪は非常に重大なものである。――日本にとつては、恐らくは、その國民的生命の無上の危機である。ところが、日本の艦隊、日本の陸軍が何をして居るか、これは世界は十分に報道に接して居るが、その國民が內に在つて何をして居るかに就いては、筆に上つて居るものは甚だ少い。

[やぶちゃん注:添えられたクレジットは「日露戦争」(明治三七(一九〇四)年二月八日から翌年九月五日まで)の最中で、「旅順攻囲戦」(同年八月十九日から翌年一月一日まで)の直前である。また、執筆当時に住んでいて、小泉八雲の終焉の地となったは、東京都新宿区大久保(グーグル・マップ・データ。以下、同じ)である。以前に述べたが、再掲すると、「新宿観光振興協会」公式サイト内の「小泉八雲旧居跡」によれば、小泉八雲は明治二九(一八九六)年に『日本に帰化し』、『同年、東京帝国大学(東京大学)で英語・英文学を講ずることなって上京。この地に、約』五『年間住み』、『樹木の多い自証院一帯の風景を好んだ八雲は、あたりの開発が進んで住宅が多くなると、西大久保に転居し』たとある。東京都新宿区富久町に自證院はあり、現在の「小泉八雲旧居跡」の碑(成女学園内)はそこから北北東に百三十二メートルである。この孰れかであろう。小泉八雲は必ずしも同時時制で作品を書いていないことは、他の作品でも見られることで、奇異なことでも何でもない。寧ろ、熊本での出来事を松江に移して書いたりもしていることもあるので、ここを事実に照らして実地を孰れかに限定することは、微妙に難しさがあり、まさに小泉八雲こそ「文学的真実」という技巧を、しばしば用いる作家なのである。但し、後で園芸師が多く居住しており、季節になると、躑躅園に大勢の客が来るとあるからは、終焉の地となった西大久保である可能性が。すこぶる高い何故なら、昔からよく訪れるサイト「綺堂事物」の「大久保の躑躅(つつじ)」に、江戸時代後期から、『大久保の躑躅、亀戸天神の藤、堀切の菖蒲』は『江戸の三大花の名所となってい』たとあり、しかも大久保には、明治になってからも明治一六(一八八三)年に『元躑躅園、数年後に、南躑躅園ができた』。明治三六(一九〇三)年には七園にも『増え、花の種類』七千種、『株数は一万を越えるといわれた』とあるからである。このページ、嬉しいことに、最後に、「小泉八雲の西大久保」という短章があり、そこに、小泉八雲が『西大久保に居を構えた』のは明治三五(一九〇二)年三月十九日とする(但し、記載は自證院裏手とあってこれは移転前の位置である)。「西大久保の八雲邸」の写真(第一書房「小泉八雲全集 別巻」(昭和二(一九二七)年版より転載)もある。必見!]

 經驗に乏しい人の觀察には、日本人は何時もと異つたことは、何一つして居らぬやうに見えるであらう。ところが、この不思議な平穩は記錄に値ひするのである。對敵行爲の開始に當つて、非戰鬪員は凡て平常通りその職業に從事するやう、また外部の事件には出來得る限り心を勞しないやうにとの敕語が發せられた。そしてこの命令は一語もそむかれずに遵奉されて居る。或はかく想像する人があらう。此戰爭の犧牲と悲劇と不確實とが、殊に首府の生活にその陰影を投じたのである、と。かく想像するのは當然ではあるが、心配或は意氣沮喪の情態を示すものとては實際に全く何一つ無いのである。それどころか、國民一般の自信が喜ばしげな調子なのを見、また幾度の捷報[やぶちゃん注:「せうほう(しょうほう)」。勝ったという報知。「勝報」に同じ。]に接しても、國民の自負心が感心なほど制御されて居るのを見て誰れしも驚く。西からの海流が、日本人の屍體を其海岸に撒き散らしたことがある。鐡條網の防備のある陣地を襲擊して幾聯隊の兵士が絕滅したことがある。幾艘の戰鬪艦が沈沒したことがある。だが、如何な瞬間に於ても、國民的興奮は徵塵だもこれまでに見ない。人々は正(まさ)しく戰前どほりに、日日のその職業に從事して居る。物事の樂しさうな樣子は、正しく戰前と同じである。芝居や花の展覽は戰前に劣らず、贔屓を有つて居る。市外の生活は何の影響を蒙らず、他の年の夏同樣に、花は咲き、蟬は舞うて居るが、外見では、東京の生活はそれと同樣に、殆んど戰爭の事件の影響を蒙つて居ない。或る大勝利の報道に接した時――その時は花火を揚げ、提燈行列をして祝ふが――その時を除いては、國民的感情の何んの形跡も無い。そして、鈴をリンリン鳴らして走る男が、屢〻新聞號外を配つてあるくことが無ければ、この戰爭の話は凡て惡夢だと思ひ込ひことが出來る位である。

 それでも莫大な苦痛が、必然、あつた、――日本の宗敎たる社會的愛國的義務といふその念が抑制して居る眼に見えず、聲にきこえぬ苦痛があつた。最近の或る十七字詩が語つて居るやうに、勝利の報道は一度一度歡喜と共に苦痛を齎らすに相違無いのである。

       號外の度(たび)敵味方後家が殖え

[やぶちゃん注:この川柳(内容と無季語から俳句ではない)の作者は不詳。]

 この大靜肅と嬉嬉たる淚無さは、この人種のスパルタ以上の鍛練を證明して居るのである。古昔、この國民は、その情緖を隱す計りでは無く、精神的苦痛の如何なる壓迫の下に在つても、楽しさうな聲で物を云ひ、愉快さうな顏を人に見せるやうに訓練されたのであつた。そして彼等は今日もその敎訓を守つて居る。陛下の爲め、祖國の爲めに死ぬる者共を亡くした個人的悲哀を現すのは、今なほ、恥辱と考へられて居るのである。一般公衆は、恰も人氣のあろ芝居の舞臺面を看るやうに、戰爭の事件を觀て居るやうに思へる。興奮はせずして興味を感じて居る。そして、彼等の異常な自制心は『遊戲衝動』の種種な表現に特に示されて居る。到る處劇場は戰爭芝居(實際の事實に基いた)を興行して居り、新聞雜誌は戰爭物語、戰爭小說を載せて居り、活動寫眞は近代の戰爭の驚くべき仕方を見せ、また無數の工藝は、日本の勝利を記念する意匠の藝術品、或は實用品を製造して居る。

 然し現時の心理的情態は――國民的感情の樂しげに見え、面白がつて居るやうにすら見える調子は――どんな一般的敍述によるよりか、尋常普通な事實の記述――自分の日記に書き留めてある日常の事柄の記述――によつてよく示すことが出來る。

 

 寫眞屋が今度ほど多忙なことは、これまで一度も無かつた。受けた注文の半分も應ずることが出來なかつたといふはなしである。戰場へと送り出される幾百千の人は、寫眞を家族の者へ殘して置かう、また、親や子や愛して居る他の人達の寫眞を携へて行かうと思つたのである。過去六箇月の間、國民全體が寫眞を撮りつつあつたのである。

 社會學的に見て興味のある事は、寫眞といふ事が家庭の信仰の詩美に新しき、或る物を加へたといふことである。それが始めて輸入されたときから、寫眞は日本では流行になつた。文明の日本に劣る人種には、寫眞機に恐慌の念を抱かせる迷信が多くあるが、そんな迷信のどんなものも、一新工藝の迅速な發達に何等の障害を提供しなかつた。尤も寫眞に就いて二三の奇妙な民衆信仰があるにはある、――寫眞と寫眞に寫つた人との間に、不可思議な關係があるといふ思想があるにはある。一例を云へば、多人數が一團となつて寫した寫眞の中で、一人が不明瞭にまたは、ぼんやりと撮れて居ると、それは病氣に罹るか、死ねるかする前兆だと考へられて居る。だが、この迷信は、工藝上の價値を有つて居る。といふのは、寫眞屋をして是非とも、その仕事に注意せざるを得ざらしむるからで――特にこの戰爭の場合、寫眞帖に保存して置くといふ目的とは異つた或る目的に、寫眞が必要になるかも知れぬので、誰れも彼もはつきりした立派な寫眞を有ちたい[やぶちゃん注:「もちたい」。]と思ふ場合、殊にさうである。

 過去二十年の間に、死んだ親や兄弟や夫や子供の寫眞を、佛壇の中にある位牌の橫へ立てて置くといふ習慣が次第に出來て來た。それでこの理由の爲めにも、出て行く軍人は、自分の立派な寫眞を殘して置きたいと思ふのである、

 古いさむらひの家庭に在つて、一家の者共の情愛を現す儀式は、死者に奉仕することに限られて居るのではない。或る場合には、家に居ない親や兄弟や夫や許嫁の寫眞を客間の床の上へ置いて、その前へ御馳走を供へる。かかる場合には、寫眞は小さな臺の上に据ゑて置く。そして、その人が現(げん)に、其處に居るかのやうにして、その御馳走をささげる。不在者に食事を供へるといふこの美はしい習慣は多分、肖像を描くどんな藝術よりか古いものであらう。が、この近代の寫眞は、この儀式の人間的詩味を增して居る。封建時代には、不在なその人が出て行つた方角へ向けて――北とか南とか東とか西とかへ向けて――食事を供へるが規則であつた。供へてから間少し置いて、料理した食物の入つて居る器の蓋を揚げて儉べて見る。漆塗りの内側に湯氣の露が濃く附いて居れば、誠に以て結構である。が、若しかその表面が乾いて居ると、それは、その人が死んだ兆[やぶちゃん注:「きざし」。]、肉體を離れた靈が供ヘ物の精氣を吸ひに歸つて來た印(しるし)であると思はれて居た。

 

 恐らく世界の他の何處に見るよりか、『遊戲衝動』が一層强い國にあつて、誰れしもこれを期待したらん如くに、時代精神が其年の花の展覽に發露された。自分の家の附近は、園藝師の居住區であるが、其處の花の陳列を自分は見物に行つた。この區域はその躑躅で有名で、每春その躑躅園は幾千といふ人の足を惹きつける。その時其處で陳列する灌木の、隙き間の無い花の塊(かたまり)と見ゆるものの(それも雪と白いものからして、あらゆる濃淡の度を異にした淡紅色を經て、焰と燃ゆる紫に至るまでの)驚くべき展覽をするからばかりでは無く、人形の陳列が――生きた葉と花とで巧妙に造りなした幾群れの人物の陳列が――あるからである。實物大のこの人形は普通は歷史、或は戲曲の中の有名な事實を象(かたど)つたものである。多くの場合――全體では無いが――人形の身體と衣裳は、或る骨組みのあたりに育ち茂るやうに造り仕立てた枝葉と花とから成つて居る。そして、顏と手足とは何か肉色の造り物で表してあるのである。

 ところが今年は見世物の大多數は、戰爭の場面を象つたものであつた。日本の步兵と馬上のコサツク兵士との戰鬪とか、水雷艇の夜襲とか、戰鬪艦の沈沒とか。此最後に述べた見世物では、露西亞の水兵が荒海の中で一所懸命に泳いで居る處が見せてあつて、板紙づくりの波と泳いで居る人物とは、一本の綱を引張つて上がつたり、下がつたりするやうにしてあり、速射砲のパチパチいふ音は亞鉛の板で、工夫した機械仕掛けで眞似をして居た。

[やぶちゃん注:「速射砲」ここは単装艦載砲のそれ。通常は中口径の砲で、現行では毎分十~四十発以上を発射可能なものを指す。所謂、「アームストロング速射砲」で、これを最初に導入したのはまさに日本海軍で、イギリス海軍よりも早く、日本最初の速射砲搭載艦は装甲巡洋艦「千代田」で、既に日清戦争に於ける「黄海海戦」の勝利に大きく寄与したとされている(ウィキの「速射砲」に拠った)。]

 聞くところに捺ると、東鄕提督は、その職責の爲めに、櫻や梅の花をその季節に見る機會がないので、鉢植ゑの花木を幾つか東京へ注文されたさうで、園藝師は義俠すぎる程これに應じたさうである。

 

 對敵行動の始つた殆んど直ぐ後に、幾千といふ「戰爭畫」――大抵は廉い[やぶちゃん注:「やすい」。]石版畫――が出版された。圖も著色も支那との戰爭の折に發行されたのよりよかつたが、細かしい[やぶちゃん注:ママ。]處は餘程想像的なもので――露西亞の艦隊の樣子なんか全く想像的なものであつた。露西亞の艦隊との交戰の圖は、恐ろしく誇張的なものであつたが、感銘的なものであつた。最も驚くべき物は、一度も戰鬪をしない前に出來た露西亞軍の朝鮮での敗北の多くの繪で、これは畫家が「熱し過ぎて場面を見越して」書いたものであつた。そんな繪には、露軍がその士官を――甚だ立派な顏をして居る士官を――戰場に死んだままに遺棄して、大潰亂を爲して敗走して居る處が描いてあつて、一方、日本の步兵はと見ると、恐ろしく思ひ込んだ顏附きをして、速步で迫つて居る。こんな風に繪で以て勝利を豫言するの當不當、また賢不賢は疑ひを容れ得ることであらう。だが、聞けばかくする習慣は舊い習慣で、誰れもが共同に抱いて居る希望を、かく想像的に實現するのは目出度い事と思はれて居るのであると。兎に角、こんな繪に別に人を欺かうといふ計畫があるのでは無いので、繪はただ、人民一般の勇氣を支へる役に立つので、神も快よく見そなはせ給ふものなのである。

 初めのほど出た繪のうちで、それが今や氣味の惡るい位、實現せられて居るのがある。支那での幾多の戰勝も同樣に豫表されたのであつた。その戰勝は繪師の信念を十分に是認した。……今日戰繪は引き續いて增加して居るが、特性は變つて居る。寫眞の假借無き眞實と戰爭通信員のスケツチとが事實の鮮かさ、烈しさを齎らして藝術家の想像力を助けて居る。見越して書いた繪にはあどけ無い、そして、芝居じみた處があつたが、刻下[やぶちゃん注:「こくか(こっか)」。今現在。目下。]の繪には非常に悲劇的な現實が――一日一日、層一層、悲慘となりつつある現實が――現されて居る。今、この文を書いて居るまでに、日本はただの一度の戰役にも敗北をして居らぬ。が、その戰勝のうち高價な犧牲を拂つて得られたものが少からぬのである。

 戰爭が鼓吹した意匠の裝飾を有つた種種樣樣な品物――櫛、衿止、扇、胸針[やぶちゃん注:原文“brooches”。ブローチ。]、名刺入、財布といつたやうな品物――これをその十が一を數へ立てるのに一卷の書物が要るであらう。麪包菓子[やぶちゃん注:「パンがし」。]や砂糖菓子にも海軍か陸軍かの模樣が捺してあり、商店の硝子窻[やぶちゃん注:「窻」は「窓」の異体字。]又は紙貼り窻には――看板は云ふに及ばずで――日本の勝利の繪がそれに描いてある。夜になると商店の提燈が、その艦隊と陸軍とに對する國民の自負心を聲明する。そして、透し繪や玩具提鐙の新奇な模樣に就いて書けば一章全體を容易に充たすことが出來よう。その燈籠自らの炎が生ずる氣流で𢌞はる、新しい𢌞り燈籠が大變に流行つて來た。その𢌞り燈籠には露軍の防禦陣地を、日本の步兵隊が襲擊して居る處が描いてあつて、燈籠の透し繪が𢌞はる時に絕えず鮮かな閃きをさすやうに、その色紙に開けてあるたが、砲丸の炒裂と機關銃の一齊射擊とを思はせる。

 戰爭が鼓吹した藝術衝動が、西洋人の經驗には全然馴染みの無い方面に、――例を舉ぐれば、婦人の髮飾や衣服の材料の製造に――少々示現されて居る。戰爭畫の裝飾のある反物は實際流行になつて居るのである、――殊に下著にする縮緬と、羽織や袖用の紋模樣の絹の裏地がさうである。それよりももつと注目すべきは新奇な髮留めである。髭留めと私のいふのは、屈り易い金屬で造つた、日本でカンザシと云うて居る二叉の長い飾り物で、これにはそれを頭にする人の年齡に應じて多少飾りがしてあるのである。(若い娘が著ける簪は非常に裝飾的なもので、年老けた[やぶちゃん注:「としたけた」。]女の著けるのは無裝飾か、又は裝飾があつても珊瑚か寶石の珠一つだけである)其新奇な簪は記念用のものだと謂つてもよからう。交叉した日英國旗がその飾りとなつて居るのは日英同盟を祝したものである。もう一つは士官の帽と劒とが飾りになつて居る。一番いいのは戰鬪艦の小さな小さな金屬の模型が上に載つてゐるものである。此戰鬪艦簪は單に、風變りな品といふのでは無い。實際に美しい!

 豫想されたであらうやうに、今年の手拭の模樣の中で、陸海軍に關した題目が主要な位置を占めて居る。海軍の勝利を祝した手拭模樣は特に上出來であつた。模樣は大抵紺地に白でか、白地に黑でかである。一番いいものの一つは――これは紺と白とのであるが――沈沒した鋼鐡艦の檣頭[やぶちゃん注:「しやうとう(しょうとう)」帆柱の先。]を飛び𢌞つて居る、一群の海鷗が現してあるだけで、遙か遠くに水平線に沈まんとして居る日本の軍艦の橫面の輪廓が見せてある、……この圖案で、また他の多くの圖案で、殊に自分が感心したことは、日本の藝術家が、近代の戰艦の特徵を――その恰好の力强い意地惡るげな線を――甲蟲か蝦かの特殊な性質を我我の爲めに捉へたであらうと同樣に、巧に捉へて居る其斬新な方法であつた。かかる鐡の怪物の容貌が與へる眞の印象を――通常普通な描寫手段では現すに甚だ困難な、大いさと力と威嚇との漠たる印象を――一瞥して傳へるだけの誇張が、その線には爲されて居るのである。

 この種の藝術的素畫で飾られて居る手拭のほかに、滑稽な戰爭繪――見てをかしくはあるが惡意は無いポンチ畫或は諷刺畫――のあるいろんな種類の手拭が賣り物とされて居る。放順口の艦隊を始めて攻擊した時に、露軍の士官が幾人か、日本がその先手の攻擊を敢てしようとは夢にも思はずに、大連の芝居を見に行つて居たが、これは世人は記憶して居るであらう。この事件が手拭の圖案の題目とされて居る。手拭の一方の端には、舞曲の踊子のクルクル舞を愉快さうに見入つて居る露西亞人數名の顏の滑稽な素畫がある。他の一端には、港へ歸つて來て、自分達の戰艦の帆柱だけが、水面に見えて居るのを見て居るその司今官共の顏の素畫があるのである。もう一つの手拭を見ると、――外科醫者の家の前で銘銘の喉に剌さつて居る種種な銃劒や、軍刀や、ピストルや、小銃を取つて貰はうといふので順番を待つて居る――魚の行列が描いてある。今一つの手拭の繪は、魚形水雷が與へた、沈沒してゐる巡洋艦の船腹の大穴を、素敵に大きな蟲眼鏡で檢べて居る露西亞の潛水夫を現して居る。こんな繪の橫には、滑稽な歌か物語かが、簡潔な文句で、刷つてあるのである。

[やぶちゃん注:「ポンチ畫」「畫」は「ゑ」。ウィキの「ポンチ絵」によれば、『日本の明治時代に描かれた浮世絵の一種で、滑稽、諷刺的な絵を指した。後の漫画の原点といえる』。『文明開化期に日常使用されるようになった「ポンチ」という言葉は』文久二(一八六二)年に、『横浜でイギリス人』記者『チャールズ・ワーグマン』(Charles Wirgman 一八三二年~一八九一年)『によって創刊された漫画雑誌『ジャパン・パンチ』』(‘ The Japan Punch ’:この「パンチ」とは、恐らく人形劇の「パンチ」で、太っていて背が低く、鍵鼻で背中が曲がっており、乱暴で執念深く、権威に反抗する道化として描かれるイギリスの人形劇にトリック・スターとして登場する人物由来であろう(知られた『ジャパン・パンチ』のトレード・マークに日本人風のそれらしき人物が描かれてある)。イタリアの人形劇の「Pulcinella」(プルチネラ)の影響を受けて「Punchinello」(プルチネッロ)が作られ、十七世紀には「Punch」と名前が短くされたという)『に由来する。この『ジャパン・パンチ』は』明治二〇(一八八七)年まで、実に二十五年間の永きに亙って、『木版刷りで刊行が続いており、幕末刊行号の幾つかに「パンチ」が訛ったカタカナ表記の「ポンチ」という言葉がみられる』という。但し、明治一七(一八八四)年からは『石版刷りとなった。毎号、在日外国人を似顔絵を多用して諷刺して、情報誌としても役立つため』、『居留地在住の外国人に人気を博し、仮名垣魯文ら日本人も関心を持ってみていた』。明治七(一八七四)年、『魯文と河鍋暁斎は『ジャパン・パンチ』に似せた『絵新聞日本地(えしんぶんにっポンチ)』と題した漫画を売り物とした定期刊行物を出版したころには、大多数の日本人がポンチの意味を知っていたに違いなく』、明治一四(一八八一)年に『小林清親が戯画錦絵の『清親ポンチ』シリーズを版行したころには』、「ポンチ」『というのは日常語となっていたといわれる。また』、明治一五(一八八二)年八月からは、『清親が本多錦吉郎の後を継いで常連の投稿家として『團團珍聞』』(まるまるちんぶん)『に風刺画を投稿し始めた。明治の前半期にはポンチは時局風刺画あるいは世相漫画の意味を有しており、それらは『ジャパン・パンチ』の作品を見て影響を受けたものが多数であった。暁斎、清親は『ジャパン・パンチ』を熱心に研究したことが知られ、ポンチの用語は、人民が主導で新国家体制を創ろうとしていた自由民権期に輝いた用語であった。しかし』、明治二二(一八八九)年に『大日本帝国憲法が発布されたことにより』、『自由民権運動は終息を迎え、その後のポンチは次第に諷刺のエネルギーを喪失してゆく。清親はコマ漫画やふき出し入りの漫画を試みたりしたが、諷刺の鋭い漫画は少なく』、明治二十年代末から三十年代に『かけて、子供だましの絵と化したポンチは』、『今泉一瓢、北沢楽天により「漫画」という新しい言葉に代わられていった』とある。]

 あの三井大商店は、こんな圖案の一番いいのを市場へ出したが、その上またフクサといふ、戰爭の美しい記念品を製造した。(フクサといふは或る特別な祝ひ事の折に友人へ送る贈り物へ掛ける裝飾的な絹の蔽ひ物、若しくは包み物で、受けた人はその贈り物だけ受取つてこれは返却するのである)これは最も重い最も高價な絹で出來て居て、適切な裝飾のある包みの中に收められて居る。或る袱紗には全速力を出して居る、日進、春日兩巡洋艦の著色畫がある。それから、もう一つの袱紗には、美しい漢字で、宣戰の詔勅の全文が刷つてある。

[やぶちゃん注:「日進」(にっしん)「春日」(かすが)は、孰れも日露戦争で活躍した旧日本海軍の春日型装甲巡洋艦の二番艦と一番艦。]

 だが此方面の製品のうちで見た一番奇妙な物は女の赤ん坊用の絹著物であつた。紋模樣が織り出してある品物で、少し離れて眺めると、種種な色合が、また同じ色でも濃淡の度を異にした種種な色合が、巧妙に竝置されて居るが爲めに、何んとも言へぬほどに綺麗である。それをよく近寄つて眺めて見るといふと、この巧妙な圖案は全部戰爭畫を組み合せて造り爲してあることが判るのである。否、むしろ、繪の斷片を交ぜ合せて一つの驚歎すべき合成物を爲して居るといつた方がよからう。卽ち海戰とか、燃えて居る戰艦とか、爆發して居る敷設水雷とか、攻擊に向ふ水雷艇とか、日本步兵隊に擊退せられるコサツク兵の襲擊とか、陣地に突入する砲兵隊とか、要塞の强襲とか、霧の中を進軍する兵隊の長い行列とかがあるのである。卽ち血の色、焰の色もあれば、朝靄の色合、夕燒けの色合もあり、眞晝の空の靑もあれば、星のきらめく夜の紫もあり、海の灰色と、野畠の綠とがあり――實に驚歎すべき! 物である。……陸海軍士官の子供なら、こんな著物を著せたとても、さして不都合なことはあるまいと想ふ。でも――何とも云ひやうの無い、物の哀れさ! を感ずることである。

 

 戰爭の玩具は無數である。他に比して一層注目すべきもの三四だけ自分は記載を企て得られよう。

 日本の子供は種種な骨牌[やぶちゃん注:「かるた」。]遊びをする。古いのもあり、餘程新しいのもある。例を舉ぐれば、歌の骨牌[やぶちゃん注:「かるた」。]遊びがある。これは牌一枚一枚に、一つの歌の本文または一つの歌の一部分が、書いである一組の骨牌でする遊戲で、遊戲者は其一組の歌のどんな引用句でも、その作者の名前を記憶して居ることが出來なければならぬ。それから地理に關した骨牌の競技がある。牌一枚一枚に、有名な古蹟や町やお寺の名前が、或はまたそんな處の一寸した繪が、書いてあるが、遊戲者はそれに書いてある場處が何處の縣、何處の國にあるか記憶して居ることが出來なければならぬ。此方面での最近の斬新な品は、露西亞の戰艦の繪のある一組の骨牌で、遊戲者は、書いてある名前の軍艦一艘一艘に就いて、それがどうなつたか――沈沒したか、戰鬪力を失つたか、或は旅順口に閉ぢこめられて居るか――言ふことが出來なければならぬ。

 も一つ別な骨牌遊戲で、その骨牌に日露兩國の戰鬪艦、巡洋艦及び水雷艇が書き現してあるのがある。この勝負に勝つた方は、自分の方へ取つた骨牌を引き裂いて、その『捕獲艦』を破壞してしまふ。然し店にはあらゆる種類の軍艦を幾包みも仕入れて有つて居る。それで一方の國の水雷、驅逐艦或は巡洋艦が悉く戰鬪力を失つた場合には、敗けた方は新艦を外國[やぶちゃん注:対戦相手或いは別な友人。無論、玩具屋も含まれる。]から買ひ求めることが出來るのである。水雷艇一艘約四分の一ペニイなら五艘買へる。

 玩具店は戰鬪艦の模型――木で造つたの、土で造つたの、陶器の、鉛の、錫の――色んな大いさの、色んな値段の――で一杯である。ゼンマイ仕掛けで動く大きいのの中に、敷島だの、富士だの、三笠だのと、日本の戰鬪艦の名の附いたのがある。日本の水雷艇が露西亞の軍艦を沈沒させるやうに出來で居る機械仕掛けの玩具がある。此種類の玩具の廉價なもののうちに、海軍の戰爭を現すに使ふ色砂入りの箱がある。子供は波に似るやうにその砂を敷きならべる。そして砂箱一つ每に鉛で造つた小さな船での二艦隊を買つて吳れる。日本の船は白で、露西亞の船は黑である。水雷の爆發は、小さく切つた朱色の紙片を、その砂の中ヘたてて象どることにしてある。

[やぶちゃん注:「敷島」敷島型戦艦一番艦。第一艦隊第一戦隊所属で日露戦争に参加し、二月九日から「旅順口攻撃」及び「旅順港閉塞作戦」に参加し、八月十日には黄海海戦に、翌明治三八(一九〇五)年五月二十七~二十八日の「日本海海戦」にも参加した。日露戦争では主力戦艦として、「旅順口攻撃」・「旅順港閉塞作戦」・「黄海海戦」・「日本海海戦」と、主な作戦総てに参加している。

「富士」富士型戦艦一番艦。日本海軍が初めて保有した近代的戦艦の一隻で、日本海軍軍艦の中でも最高厚の舷側装甲を持つ(最高四百五十七ミリメートル。後の大和型戦艦でも最大四百十ミリメートルであった)。

「三笠」日露戦争の「日本海海戦」で連合艦隊旗艦を務めた。神奈川県横須賀市に現存し、公開されている。]

 

 非常に貧乏な階級の子供等は手製で玩具を造る。子供に與ふべき玩具の價段と性質とを極めたあの古昔の封建時代の法律(ヰグモア敎授の飜譯がある)が、今此子供等が現すその小器用さを發達せしめるに、與つて[やぶちゃん注:「あづかつて」。]力があつたのではなからうかと、自分は怪しんで居る次第である。つい此間自分の近處で、一群れの子供が、木切れと古釘とで卽製した艦隊でもつて、旅順口の包圍の眞似遊びをして居るのを見た。水のはつてある盥が旅順口になつて居るのであつた。戰鬪艦は、帆柱のつもりに箸が突きたててあり、煙突のつもりに紙を卷いたものがたててある、板切れで象どつてあつた。適當に色で染めてある小さな旗が糊でその帆柱にくつつけてあつた。幾つかの小さな細い木片、その一一に短かい太い釘をたてて煙突と見せてあるのが、水雷艇と想像されて居た。定置の敷設水雷は、各〻長い釘が差し込んである、小さな四角な木切れで現してあつて、この小さな物を、釘の頭を下にして水の中へ落すと、長い間妙なピヨコピヨコした運動を續けるのである。他の四角な木で、短かい釘がかたまつて突きさしてあるのが、浮游水雷になつて居つて、模擬の小さな幾艘かの戰鬪艦が、絲で、浮游水雷を搜索するやうになつて居つた。日本の新聞の插繪が、戰爭の事件を可なり正確に、子供に想像させるのに役立つたのであるといふことは疑ふベくも無い。

[やぶちゃん注:「ヰグモア敎授」アメリカの法学者で証拠法の専門家であったジョン・ヘンリー・ウィグモア(John Henry Wigmore 一八六三年~一九四三年)。ウィキの「ジョン・ヘンリー・ウィグモア」によれば、『カリフォルニア州サンフランシスコ出身。ハーバード大学で学び』、『ボストンで二年間弁護士として働いた後、慶應義塾大学でアメリカ法の教授として大学部法律科の開設に尽力した。慶應義塾大学では比較法や日本法を、特に江戸時代の法を研究しその成果を著わした』。その後、一八九三年に『ノースウェスタン大学法学部に招聘され』、一九〇一年から一九二九年にかけて同大学法学部長を務めた。『他に、アメリカ大学教授協会二代目会長、米国法曹協会の有力会員、同協会国際比較法部会の初代座長等も務め』、一九〇九年には『刑法学および犯罪学に関する国内会議を組織し、アメリカ刑法学犯罪学会を立ち上げ』ている。『その他、ノースウェスタン大学の航空法研究所やシカゴの科学捜査研究所の設立に』も参画している。一九〇四年に彼は“ A Treatise on the Anglo-American System of Evidence in Trials at Common Law ”(「アングロ・アメリカに於ける慣習法裁判での証拠の機序に関する論文」(邦訳は私))を著しているが、『この研究は、証拠法の進展について広範に扱うもので、一般に「ウィグモアの証拠法」として知られている。このウィグモアの証拠法は、今なおコロンビア特別区連邦地方裁判所を含むアメリカの多く裁判所で採用されている上に、日本の刑事手続にも影響を及ぼし』たものである、とある。彼が訳したという「子供に與ふべき玩具の價段と性質とを極めたあの古昔の封建時代の法律」というのは不詳。識者の御教授を乞う。]

 子供の海軍帽は固よりのこと、戰前よりか餘計に流行つて來た。光つた金屬の漢字で、戰鬪艦の名や、或はニツポンテイコク(日本帝國)といふ語を――水兵の帽に附いてゐる文字のやうに列べて――著けてある帽もある。處が、或る帽子には、船の名が英字で出て居る――YASHIMA とか、FUJI とかいつた風に。

 

 殆んど云ひ忘れさうであつたが、戰線へ召し寄せられる兵卒の大部分は、生きて歸る期待は抱いて居ないのであるが、その兵卒も亦遊戲衝動を有つて居るのである。彼等の願ふのは陛下の爲め、國家の爲めに死ぬる者は凡て、其處へ寄り集まるものと信ぜられて居る、セウコソシヤ(招魂社)で記憶せられること、ただそれだけである。戰場への途中、此處の町外づれへ臨時滯在して居た兵士どもは、近處の子供達と戰爭ごつこをする閑[やぶちゃん注:「ひま」。]があつた。(どんな時でも日本の兵卒は子供に甚だ深切で、この邊の子供は、兵卒と一緖に行進をし、一緖に軍歌を歌ひ、そしてどんな眞面目な士官でも子供の敬禮に應ずるものと確信して正式に敬禮する)滯在して居た最終の聯隊が出て行く時に、お別れの喝采を停車場でしに集つた子供等へ玩具を兵隊が分配して吳れた。女の子へは、飾りに陸軍の徽號の附いて居る簪を、男の子へは木造の步兵や錫製の砲兵を吳れた。一番奇妙な贈り物は、『歸つて來れば本當のを持つて來て上げませう』といふ、冗談半分の約束をして吳れた、土細工の小さな、露西亞兵の首であつた。頭の頂きに絲金(いとがね)の小さな輪があつて、それへ護謨[やぶちゃん注:「ゴム」。]の絲をくつつけることの出來るものである。日淸戰爭の時分には、非常に長い辮髮のある土細工の小さな、支那人の頭の模型が流行のおもちやであつた。

 

 今度の戰爭はまた、トコニハといふあの美妙な品物の種種樣樣な新意匠を思ひつかせた。我が讀者のうちには、トコニハ卽ち『床庭』とはどんなものか知つて居らるる人は多くはない。これは庭園を極はめて縮小したもので――二尺平方以內位のもので――瀨戶物又は他の材料の裝飾的な淺い鉢の中にしつらへ、裝飾のつもりで客間の床の上に置くものである。それには小さな池があり、支那型の、背の曲つた橋の架かつた小流があり、森を爲して神社の模型を覆ひかげらして居る、一寸法師的な木が植わつて居り、土燒きの石燈籠の模造があり、草葺き田舍屋の小村の觀すらもあらう。床庭が餘りに小さくない場合には、その池に本當の魚が泳いで居たり、築山の間を手飼ひの龜が這つて居たりするのを見ることも出來よう。時に、その床庭が蓬萊と龍宮とを現して居ることがある。

[やぶちゃん注:私は「床庭」という語では知らない。「盆景」ならよく知っている。古い明治期に作られたいろいろなミニチュア・セットが好きで、小学生の頃、それを一式持っていた祖母にねだってよく拵えたからである。地引網のセットが圧巻だった。]

 今、流行つて來て居る新奇な種類が二つある。一つはその港と要塞とを示した旅順口の模型で、それを見せるのに使ふ材料と一緖に、閉ぢこめられて居る艦隊と、封鎖して居る艦隊とを現す小さな小さな軍艦を、どういふ風に置いたらいいか、その小さな圖面を賣つて吳れるのである。も一つの床庭は、山脈や川や森のある朝鮮か支那かの風景で、澤山の玩具の兵卒――騎兵だの、步兵だの、砲兵だの――あらゆる攻擊防禦の姿勢の兵卒で、戰爭をして居るといふ風に見えるやうに造つてある。小さな留針ほどの大いさの大砲が密(みつ)に置かれて居る土燒きの微小な要塞が高みの陣地を占めて居る。適當に排列すると、見る眼にはパノラマの觀を呈する。前景の兵卒は長さ一寸位、少し遠くのはその半分位の長さ、山の上のは蠅より大きくは無い。

 だが、これまで造られた此種のもので目立つて最も斬新なのは、銀座の或る有名な店で近頃陳列した一種のトコニハである。カイテイノイツケン(海底の一見)といふ題の書いてある貼り札で十分其意匠は判つた。此展覽物のはいつて居るスイボン卽ち『水盆』は海底に似るやうに半ば岩と砂とで充たされて居つて、前景に小さな魚が泳いで居るやうに見せてあつた。少し後ろの方に、高みの上に、龍王の娘の乙姬が多勢の御供の少女に取り圍まれて、海軍の軍服を著て互に握手して居る二人の男――戰爭で死んだ二人の勇士――マカロフ提督と廣瀨中佐――を、幽かな微笑を顏に浮かべて、じつと見て居るのであつた。……此兩人は生前互に尊敬し合つて居たのであるから、靈界での二人の會合をかく現すといふのは面白い思ひ付きであつたのである。

[やぶちゃん注:「マカロフ提督」ロシア帝国海軍中将で海洋学者でもあったスチパーン・オースィパヴィチュ・マカーラフ(Степа́н О́сипович Мака́ров 一八四九年~一九〇四年)。「第二回旅順口閉塞戦」攻防の最中の四月十三日、戦艦「ペトロパブロフスク」で日本艦隊の攻撃に向かったが、主力艦隊を認めるたために旅順港に引き返す途中、日本軍の敷設した機雷に触雷して爆沈、マカロフは将兵五百人とともに戦死した。

「廣瀨中佐」廣瀨武夫(慶応四(一八六八)年~明治三七(一九〇四)年)は旧竹田藩士で裁判官広瀬重武の次男。海軍兵学校卒。横須賀水雷隊艇長(大尉)から軍令部出仕後、ロシアへ留学、「朝日」水雷長(少佐)などを歴任したが、「旅順港閉塞作戦」を実務執行することとなり、自沈船「福井丸」指揮官として砲火をおかして目的位置に達した。しかし、途中、姿が見えなくなった部下の杉野孫七兵曹長(前年に軍艦「朝日」乗組員として、水雷長海軍少佐広瀬と出逢い、意気投合して非常に親しくなっていた。但し、以下に小泉八雲が言う「以前に氏の死を救つたことのある」という事実は私は知らない)を捜すうちに退避が遅れ、頭部にロシア軍の砲弾を受け、ばらばらになって即死した。死後、中佐に進級し、「軍神」に祭り上げられた。]

 

 海軍中佐廣瀨武夫といふ名は、恐らく英米の讀者には馴染みが無からうが、氏は日本の國民的勇士の一人に當然になつて居る。三月の二十七日、旅順港口第二囘閉塞企畫の際、同僚を――以前に氏の死を救つたことのある同僚を――助けんとして居る間に殺された。廣瀨は五年間公使館附海軍武官としてセント・ピイタアスブルグに居て、露西亞の陸海軍社會に幾多の友人を作つて居たのであつた。子供の時分からして其生涯は勉强と義務とに委ねられてあつて、氏の性質には一點利己的な處が無かつたと一般に云はれて居る。その同僚士官の多數の人と違つて、いつ何ん時國家の爲めに生命を棄てよ、と云はれるかも知れぬ者は結婚する道德的權利が無い、といふ意見を持して結婚せずに居た。それに耽つたとして知られて居る唯一の娛楽は身體の鍊磨で、日本中で一番上手な柔術家の一人と認められて居つた。氏の靈に對して人の拂ふ尊敬は、三十六歲で遂げたその勇壯な死の爲めといふよりも、寧ろその一生の勇壯な克己の爲めであつたのである。

[やぶちゃん注:「セント・ピイタアスブルグ」原文“St. Petersburg”。現在のサンクトペテルブルク(Санкт-Петербург:旧レニングラード)のこと。]

 今や氏の肖像畫は數千の家庭に揭げられ、その名は如何なる田舍村でも口にせられて居る。その名はまた萬千といふ數で賣られ行く樣樣な記念品の製造で披露されて居る。例を舉ぐれば、キネンボタン卽ち『記念釦』といふカウス・ボタンに新奇流行のがある。其ボタンは兩方とも、シチシヤウハウコク(七生報國)といふ銘と共に、中佐の微小の肖像畫がついて居るのである。廣瀨は、義務に對するその禁慾的な獻身を非議[やぶちゃん注:論じて非難すること。誹(そし)ること。]した友人に向つて、後醍醐帝の爲めに生命を棄てる前に、七たび生れ代つて君公の爲めに死にたいと述べた楠正成のあの有名な言葉を每度引用したと記されて居る。

 然し廣潮の靈に對して拂はれて居る最高の榮譽は、嘗ては西洋でも、希臘或は羅馬の愛國的勇士がその國人一般の愛を受けて不朽の地位へ高められ得た時は、有り得たが、今では東洋に於てのみ可能なる榮譽である。……氏の肖像が飾りになつて居る瀨戶物の盃が出來て居て、その肖像の下に金の表意文字で、グンシンヒロセチユウサといふ記名がしてある。グンといふ字は戰といふ意味、シンといふ字は――場合によつて『デイヴス』といふ意にも『デウス』といふ意にも用ひられるが――神(ゴツド)といふ意味である。この漢字の句を日本風に讀むと、イクサノカミである。勇敢な精神は絕滅はせぬ、立派に費やした生涯は無駄にはすたらぬ、勇敢な行爲は空[やぶちゃん注:「くう」。]にはならぬ、かう信じて居る幾千萬の人達に、中佐の此嚴正勇壯な靈が眞に神と拜まれて居るかどうか、これは私は分らぬ。然し、兎も角も、人間の愛情と感恩とはこれ以上に進むことは出來ぬので、舊日本は、その爲めに死ぬる甲斐のある榮譽をば、今もなほ與へ得るのであると承認しなければならぬのである。

[やぶちゃん注:『デイヴス』“ divus ”(ディーヴス)。ラテン語で「男の神」。

『デウス』“ deus ”(デウス)はラテン語で、古代ローマでは「神」の一般名称であったが、キリスト教勃興とともに「唯一神」としての意味が強くなった語である。]

 子供の學校はどの學校でも、其處の男女兒童は、行進曲になつて居る廣瀨中佐の歌を今歌つて居る。歌の文句と譜とは小さな本で出版になつて居て、その本の表紙にこの死んだ中佐の肖像畫が載つて居る。到る處で、そして日のうちのどんな時刻にも、其歌を人が歌つて居るのがきこえる。

[やぶちゃん注:以下、底本では全体が二字下げ。]

 

 一言一行潔よく日本帝國軍人の鑑を人に示したる廣瀨中佐は死したるか

 死すとも死せぬ魂は七たび此世に生れ來て國の惠に報いんと歌ひし中佐は死したるか

 我等は神州男兒なり汚れし露兵の彈丸にあたるものかと壯語せしますら武夫は死したるか

 名譽の戰死不朽の名赤心とどめて千軍の神と仰がるる廣潮中佐はなほ死せず

[やぶちゃん注:よく知られているのは文部省唱歌の「廣瀨中佐」で、明治四五(一九一二)年の「尋常小学唱歌 第四学年用」に初出したもの(作詞・作曲不詳)であるが、この軍歌「廣瀨中佐」は大和田健樹作詞・納所弁次郎作曲のもの。ブログ「陸・海軍礼式歌」のこちらで全篇が読める。曲はこちらでMIDIでダウン・ロード出来る。老婆心乍ら、「武夫」は「もののふ」と読む。]

 

 西洋の最も强大な一國を相手として、自國の存亡に關する戰爭をしながら、この不思議な人民の嬉嬉たる自信を見――その指導者の智とその軍隊の勇とに對するその至上の信賴を見――刻下の過失を嘲弄するに當つての、その上機嫌な諷刺を見――刻下の世界震盪的なる事件のうちにあつて、歌舞を見て感ずると同一樣な樂しみを感じ得る。その不思議な度量を見ると――誰れしもかう訊ねたくなる。『國民的敗北をしたなら、その精神上の結果はどうであらう』と。……思ふに、それは事情如何によることであらう。クロパトキンが日本に侵入するといふ、その輕卒な威嚇を實行し得るなら、日本國民は恐らく舉つて[やぶちゃん注:「こぞつて」。]起つであらう。然しさうで無いなら、どんな大不幸を知つても雄雄しく堪へ忍ぶであらう。いつからと知れぬ太古からして、日本は異變の頻繁な國であつた。一瞬時にして幾多の都市を破壞する地震があり、海岸地方の人口悉くを一掃し去る長さ二百哩[やぶちゃん注:三百二十二キロメートル弱。]の海嘯[やぶちゃん注:「かいせう(かいしょう)」。津波。]があり、立派に耕作された田畠の幾百里を浸す洪水があり、幾州を埋沒する噴火があつた。こんな災害が此人種を鍛鍊して甘從[やぶちゃん注:「かんじゆう」。甘んじて従うこと。]と忍耐とを養ひ來たつて居る。そしてまた戰爭のあらゆる不幸を勇ましく堪へ忍ぶ訓練も亦十分に爲し來たつて居る。これまで日本と最も近く接觸し來たつて居る外國國民にすらも、日本の度量は推量されないままで居た。攻擊を耐へ忍ぶその力は、攻擊に反抗するその力よりも或は遙か勝さつて居るのかも知れぬ。

[やぶちゃん注:「クロパトキン」アレクセイ・ニコラエヴィッチ・クロパトキン(Алексей Николаевич Куропаткин 一八四八年~一九二五年)は帝政ロシアの陸軍大臣。日露戦争時のロシア満州軍総司令官を歴任した人物である。

 以上を以って底本である第一書房昭和六(一九三一)年一月刊の「學生版小泉八雲全集」(全十二巻)の第八巻本文は終わっている。]

2019/10/07

小泉八雲 小說よりも奇  (田部隆次譯)

 

[やぶちゃん注:やぶちゃん注:本篇(原題“ STRANGER THAN FICTION ”(「(事実は)小説よりも奇なり」)は一九〇五(明治三八)年十月にボストン及びニュー・ヨークの「ホートン・ミフリン社」(HOUGHTON MIFFLIN AND COMPANY)刊の“ THE ROMANCE OF THE MILKY WAY AND OTHER STUDIES & STORIES ”(「『天の河の恋物語』そして別の研究と物語」。来日後の第十二作品集)の六番目に配されたものである。本作品集はInternet Archive”のこちら(目次ページを示した)で全篇視認でき(本篇はここから)、活字化されたものはProject Gutenberg”のこちらで全篇が読める(本篇はここから)。小泉八雲は、この前年の明治三七(一九〇四)年九月二十六日に心臓発作(狭心症)のため五十四歳で亡くなっており、このブログ・カテゴリ「小泉八雲」で完遂した「神國日本」(戸川明三訳。原題は“ Japan: An Attempt at Interpretation ”(「日本――一つの試論」)に次いで、死後の公刊となった作品集である。

 底本は上記英文サイト“Internet Archive”のこちらにある画像データをPDFで落し、視認した。これは第一書房が昭和一二(一九三七)年一月に刊行した「家庭版小泉八雲全集」(全十二巻)の第八巻全篇である。★【2025年4月4日底本変更・前注変更】時間を経て、国立国会図書館デジタルコレクションに本登録し、現行では、以上の第一書房版昭和六(一九三一)年一月に刊行した「學生版小泉八雲全集」(全十二巻)の第七巻が、国立国会図書館デジタルコレクションで公開されてある。(リンクは扉だが、「學生版」の文字はない。しかし、奥附を見て貰うと『學生版 【第二囘豫約】』とあり、『昭和六年一月十日 發行』とあることが確認出来る)、 これが、前掲の底本と同じものであるが、やはり、外国のサイトのそれを底本とするのは、日本人小泉八雲に失礼であると考えた。されば、こちらで、再度、以下の「骨董」の作品群を改めて校正することとする。これが――私の小泉八雲への「義」――である。なお、之よりも前の元版の全集等が先行しているものの、私がそれらと比べた結果、実は先行する同社の「小泉八雲全集」のそれらは、訳が一部で異なっており、訳者等によって、かなりの補正・追加がされていることが、今回の正字補正作業の中で、はっきりと判って来た。いや、同じ「家庭版」と名打ったネット上の画像データでも、驚いたことに、有意に異なっていたのである。そうした意味でも――完全な仕切り直しの総点検――が必要であると決したものである。従って、旧前振りの括弧・鍵括弧の問題も、拡大とガンマ補正で確認し、正確を期する。本作はここから。

 田部隆次(たなべりゅうじ 明治八(一八七五)年~昭和三二(一九五七)年)氏については、先に電子化した「人形の墓」の私の冒頭注を参照されたい。なお、本底本では、単行本「天の河緣起そのほか」の内、これだけが田部氏の訳で、他は総て大谷正信氏の訳である。理由は不明であるが、これだけが、

来日後の小泉八雲の作品集の中で、若き日の海外での小泉八雲(Patrick Lafcadio Hearn)の体験(彼は三十七歳の一八八七年から一八八九年にかけてフランス領西インド諸島マルティニーク島Martinique:現在もフランスの海外県。カリブ海に浮かぶ西インド諸島のなかのウィンドワード諸島(英語:Windward Islands:「風上の島々」の意)に属する島。リンクはグーグル・マップ・データ)に長い旅をしている)に基づく※日本外での体験に基づく、他にない特異点の一篇※であること、

元版の第一書房全集の第二巻(一巻全部が大谷氏の訳。「奥附」を見よ)所収の、同じロケーションである、一八九〇年の来日直前に刊行した作品集「佛領西インドの二年間」( Two Years in the French West Indies )の訳(訳標題は「マルティニーク・スケツチ」)を大谷が担当していることと

関係があるのかも知れぬ。しかし、寧ろ「そうだったら、大谷氏の訳でいいのじゃないか?」とされる向きもあるかも知れぬが、或いは、ロケ地の異国の異なった雰囲気を訳文にも、特異的に、違った感じで出した方が、読者の印象に新しい感じが生ずるであろうと大谷が考え、敢えて、田部に懇請して、ここだけが、かく田辺訳となったとも言えるのではあるまいか?

 傍点「﹅」は太字に代えた。

 なお、瞥見した銭本健二氏が担当された小泉八雲の年譜(一九八八年恒文社刊「ラフカディオ・ハーン著作集 第十五巻」所収)によれば、本篇は明治三五(一九〇二)年五月八日に執筆されたものであるらしい。]

 

 

  小說よりも奇

 

 本當の西印度日和であつた。私は友人の公證人と二人で島を橫斷してゐた。その道は熱帶の森林から雲まで屈曲して上り、それから再び籐、竹、甘蔗などのある、黃金色に綠の交つた斜面や、紫、靑、灰色の峯のある勝れた風景の地を環なりに下つて、貿易風の盛んに吹く海岸へ出る驚くべき道である。午前中は全部上りであつた、――勇ましい小さい騾馬のために、大槪は馬車のあとから步いた、――それから、海は私共の背後に上つて來て、最後に、たえず高くなつて來る地平線の下に、靑い、菫のやうに靑い、大きな海の壁のやうに見えて來た。暑さは蒸氣浴の暑さのやうであつた。しかし空氣は、その熱帶の香があるので、呼吸するのは愉快であつた、――その香は不思議な樹液の香、土から發する妙な芳ばしい香、香氣あるものの腐敗から起る蒸發、――などからできる香であつた。その上眺望は天國を覘く[やぶちゃん注:「のぞく」。]やうであつた。それからヘゴや竹の蔭になつた峽谷を騷がしく下つて行く激流を見るのも面白かつた。

[やぶちゃん注:「公證人」原文“notary”。契約その他の私権に関する事実を中心に、公的な証明を与える職にある者。法律関係を明確にして、紛争を予防する役割を果たす。その資格・権限などは国や時代によって多種多様で、ローマ法の影響の濃いラテン系に属するフランスなどでは、一般に法律の専門家として扱われている。

「籐」単子葉植物綱ヤシ目ヤシ科トウ連 Calameae に属するトウ類。但し、原文は“cane”(ケイン)で、これは「籐・竹・棕櫚(シュロ)・サトウキビ(甘蔗)などの茎を総称」する語である。以下の「竹」や「甘蔗」も、この一語を意訳して、異国の植物相の種を範疇の外縁まで引き延ばしたものと思われる。

「騾馬」奇蹄目ウマ科ウマ属ラバ Equus asinus × Equus caballus。♂のロバと♀のウマの交雑種の家畜。両親のどちらよりも優れた特徴部分を有し、雑種強勢の代表例とされる。

「ヘゴ」原文“tree-fern”。「木生シダ」。「ヘゴ」は狭義には常緑性大形の木生シダであるシダ植物門シダ綱ヘゴ目ヘゴ科ヘゴ属ヘゴ Cyathea spinulosa を指す。後者の「ヘゴ」類ならば、本邦でも、紀伊半島南部や八丈島を北限として四国・九州南部・屋久島より南等でよく見かける(日本では全六種が植生する)。]

 紅白の蝶のやうな花の咲きみだれた生垣に沿うてできて居る門の前に、友人は馬車を止めた。『ここへ立ち寄らねばならないのだが』彼は云つた、――『一緖に來ませんか』二人は馬車から下りた。友人は鞭の太い方で門をたたいた。門內には、樹蔭のある庭の一方に、母屋の玄關が見える。向うに椰子の竝樹[やぶちゃん注:「なみき」。]と、黃ばんだ甘蔗の幾分が見える。やがて帆木綿のずぼんと大きな麦稈帽[やぶちゃん注:「むぎわらばう」。]の外、何もつけてゐない黑人が、びつこを引きながら門をあけに來た、――そのあとヘピヨピヨ鳴く雛(ひよこ)のむれ、驚くべきむれがついて來た。その大きな麥稈帽の下にある黑人の顏は見えなかつた。しかし、私は彼の手足や體が妙にしなびて、――干からびて、恰も竹のやうに見える事に氣がついた。私は、こんな氣味の惡い人間を見た事はない。それから雛(ひよこ)のついて來る事も不思議であつた。

 『やあ、お前の雛(ひよこ)はいつも元氣だね』公證人が叫んだ、『……フローラン夫人にお目にかかりたい』

[やぶちゃん注:「フローラン夫人」“Madame Floran”。「Floran」はフランス語で「花」。]

 『はい、かしこまりました』その怪物は西印度の土語で、嗄れ聲の返事をした。それから、私共の前をびつこを引いて行つた。その干からびた踵[やぶちゃん注:「かかと」と読んでおく。]のあとから、雛(ひよこ)が悉く跳んだりピヨピヨ鳴いたりしてつづいた。

『あいつは』私の友人は云つた、『八九年前に、毒蛇にかまれたんです。不思議に直つて、いや、先づ、半分直つてから、ずつとやせて骸骨のやうになつて居るのです。あのびつこを引くところを見給へ』

 その骸骨は家のうしろへ見えなくなつた。それから私共は、表玄關に暫く待つてゐた。それから蜂の色の頭巾を卷いて、あやめの色のきものをきた、見るからに立派な混血の女が、夫人は家があついから、庭で休んで下さるやうにと云はれましたと云ひに來た。そこで椅子と小さい卓が、蔭のある處へ置かれた。それから混血の女がレモンや、砂糖シロツプや、林檎液のやうな香のする透明な地作りのラム酒や、厚い赤い粘土製の素燒の壺に入れた氷のやうな冷水などを持つて來た。私の友人は、その飮料の世話をした。それから、女主人は挨拶に來て一緖に坐つた、――造幣局から出たばかりの銀貨のやうな色の髮をした、よい老婦人であつた。私共を歡迎してくれた時の、この微笑のやうな、やさしい微笑を私はこれまでに見た事はない。さうして、私は彼女の昔の西印度の少女時代の方が、果して今の彼女――やさしい皺、臼い髮、それから正直な黑い輝いた眼をした彼女――よりもつと綺麗であり得たかを訝る。……

 

 それからさきの會話は、何かの用件に關する事ばかりであつたので、私は加はる事ができなかつた。公證人はやがて整ふべき事は整へて、それから、その上品な婦人から別れのやさしい言葉を云はれたあとで、私共は出發した。再びみいらのやうな黑人が――小さい彌次馬のやうな雛(ひよこ)を悉く引きつれて――門をあけに私共の前をびつこを引いて行つた。私共が馬車に落着いてからも、その案山子[やぶちゃん注:「かかし」。]のやうな老物のあとを追ふ雛のピヨピヨが未だ聞えてゐた。

 『あれはアフリカの魔術ですかね』私は尋ねた。……『どうして、あの雛をだますのだらう』

 『妙――だね』公證人は、私共の車が走り出した時答へた。『あの黑人は、もう今では少くとも八十になる筈だ。しかしまだもう二十年は生きさうだ、――畜生』

 私の友人のこの言葉――『畜生』――を云つた調子に、餘程驚いたが、それは、この人ほど親切な同情のある、それから不思議に偏見と云ふもののない人はない事を、私は知つてゐたからであつた。これには何か話があるだらうと思つて、默つて待つてゐた。

[やぶちゃん注:「畜生」原文“wretch”(レェッチ)。原義は「哀れな人・みじめな人」であるが、卑称(罵詈雑言)で「恥知らず!・嫌われ者が!・こいつめ!」の意がある。]

 『君』暫くして、その農場を全く離れてから、公證人は云つた。「君の云ふあの老人の魔術使ひ、あれはあの土地で生れた生れながらの奴隷です。あの土地は、私共の訪問した夫人の夫のフローラン氏の財產でした。夫人はその人の從妹で、愛し合つて結婚したものです。結婚して二年程たつた時分に、一揆が起つた(幸に子供がなかつた)――一千八百四十八年の黑人の一揆です、農場の主人が多數殺されたが、フローラン氏は眞先に殺された人の一人でした。それで今日遇つたあの黑人、――君の謂はれたあの老魔術使ひ、――あれが畠を捨てて、一揆に加はつたのです。いゝですか』

 『なる程』私は云つた、『しかし暴民を恐れて、さうしたのかも知れない』

 『さうとも、外のものも皆同じ事をしたんだから。しかしフローラン氏を殺したのはあの男で、――何も理由がないのに、――彎刀で斬り殺したのです。襲はれた時は、フローラン氏が、――畠から一哩[やぶちゃん注:「マイル」。一マイルは約千六百九メートル。]程下つた處を、馬で家へ歸る途中でした。……白面(しらふ)ではフローラン氏に向ふ事などはとてもできない。それで奴は無論醉つて、――氣違ひのやうに醉ぱらつてやつたのです。大槪の黑人は、勇氣をつけると云つて、地蜂を中へ入れて、ラム酒を飮んだものです』

[やぶちゃん注:「彎刀」原文“cutlass”(カットレス)。反り身になった幅広の短剣。昔、船乗りが用いた。農業用具でもあり、カリブ海や中米の熱帯雨林やサトウキビ畑の収穫時にも使用される。同じ用途で、中南米の原住民が使う「マチェーテ」というより大きな鉈もある。]

 『しかし』私はさへぎつた。『その奴が未だフローラン家の農場に居るといふのはどうしたのかね』

 『待ち給へ。軍隊で暴民の取締ができた時、フローラン氏の殺害者をさがしたが、見つからない。奴は甘蔗畠の中に、――フローラン氏の甘蔗畠に、――野鼠のやうに、蛇のやうに――隱れてゐたのだ。或朝、憲兵が未だ彼をさがして居る間に、家に驅け込んで、夫人の前に倒れて、泣いたり叫んだりして「あい、やい、やい、やい、――私は殺しました、――私は殺しました、――あい、やい」丁度此通りの文句を云つたのです。それからお慈悲を願つた。何故フローラン氏を殺したかと尋ねられた時、そんな事をさせたのは、惡魔の故だと云つたのです。……處で、夫人は彼を赦してやつた』

 『どうして、そんなことができたものですかね』私は尋ねた。

 『何しろ、夫人は始めから非常に信心深い、――眞面目に信心深い人でした。「今私がお前を赦して上げるやうに、神樣も私を赦して下さい」と云つただけで、召使達にその男を隱させたり、食物を運ばせたりして、たうとうその騷ぎの終るまで隱し通した。それから元通り仕事に出して、それ以來ずつとあの農場で働いて居るのです。勿論、今では年を取つたから畠では何の役にも立たない、――ただ雛(ひよこ)の世話をするだけですが』

 『しかし、どうして』私は頑張つた、『親類の人達が、夫人にあれを赦させたのですかね』

 『それは、夫人が主張したところでは、あの男は精神的には責任がない、――自分のやつて居る事は何だか分らずに人殺しをした氣の毒な馬鹿者に過ぎない、と云ふのです。それから自分でさへ赦す以上、外の人々はもつと容易に赦せるわけだと主張したのです。それで相談の結果、親類達は夫人の好きなやうに、この事件を處分する事にきめたのです』

 『しかし何故でせう』

 『あの惡者を赦してやると云ふ事に夫人が一種の宗敎的慰安――一種の宗敎的快樂――を見出して居る事を、皆が知つてゐたからですね。夫人は赦してやるばかりでなく、世話をしてやるのが、キリスト敎徒としての義務だと想像したのです。僕等はその考は間違だと思ふが――しかし、その考はよく分つた。……まあ、宗敎と云ふものは、どんな事を人にさせるものかと云ふ、一例になりますな』……

 

 新しい事實に不意に出合ふ事や、前に想像もしなかつた事を何か不意に知覺する事は、心ならざる微笑を起させる事がある。友人が未だ話をして居る間に私は思はず微笑した。すると、善良なる公證人の顏はくもつた。

 『おや、君は笑ふね』彼は叫んだ、――『君はをかしいと思ふのですね。それはいけない、――それは間違つて居る。……しかし、君は信じない。君は、本當の宗敎、――本當のキリスト敎と云ふものはどんなものか分らないのです』

 『失敬、君の話は一言一句疑はない。もし、知らずに笑つたとすれば、それは驚かざるを得ないものがあつたからですよ』……

 『何をさ』彼は眞面目になつて尋ねた。

 『その黑人の驚くべき本能に對してです』

 『あゝ、成程』彼は是認するやうに答へた。『さうです、さうです、動物の猾智、――野獸の本能でした。……廣い世界で、彼を救ふことのできる人は夫人だけであつた』

 『ところで、彼はそれを知つてゐた』私は附け加へて見た。

 『否(いや)――否(いや)――否(いや)』私の友は斷然反對した。――『それを知つてゐたわけはない。ただ感じたのです。……そんな本能は、知識も思想も理解も不可能な頭腦、人間の心ではなく動物の頭腦にあるのです』

 

2019/10/06

小泉八雲 伊藤則助の話  (大谷正信譯) 附・原拠「當日奇觀」の「伊藤帶刀中將、重衡の姬と冥婚」

 

[やぶちゃん注:やぶちゃん注:本篇(原題“ THE STORY OF ITŌ NORISUKÉ ”は一九〇五(明治三八)年十月にボストン及びニュー・ヨークの「ホートン・ミフリン社」(HOUGHTON MIFFLIN AND COMPANY)刊の“ THE ROMANCE OF THE MILKY WAY AND OTHER STUDIES & STORIES ”(「『天の河の恋物語』そして別の研究と物語」。来日後の第十二作品集)の五番目に配されたものである。本作品集は“Internet Archive”のこちら(目次ページを示した)で全篇視認でき(本篇はここから)、活字化されたものは“Project Gutenberg”のこちらで全篇が読める(本篇はここから)。小泉八雲は、この前年の明治三七(一九〇四)年九月二十六日に心臓発作(狭心症)のため五十四歳で亡くなっており、このブログ・カテゴリ「小泉八雲」で完遂した「神國日本」(戸川明三訳。原題は“Japan: An Attempt at Interpretation”(「日本――一つの試論」)に次いで、死後の公刊となった作品集である。

 底本は上記英文サイト“Internet Archive”のこちらにある画像データをPDFで落し、視認した。これは第一書房が昭和一二(一九三七)年一月に刊行した「家庭版小泉八雲全集」(全十二巻)の第八巻全篇である。★【2025年4月3日底本変更・前注変更】時間を経て、国立国会図書館デジタルコレクションに本登録し、現行では、以上の第一書房版昭和六(一九三一)年一月に刊行した「學生版小泉八雲全集」(全十二巻)の第七巻が、国立国会図書館デジタルコレクションで公開されてある。(リンクは扉だが、「學生版」の文字はない。しかし、奥附を見て貰うと『學生版 【第二囘豫約】』とあり、『昭和六年一月十日 發行』とあることが確認出来る)、 これが、前掲の底本と同じものであるが、やはり、外国のサイトのそれを底本とするのは、日本人小泉八雲に失礼であると考えた。されば、こちらで、再度、以下の「骨董」の作品群を改めて校正することとする。これが――私の小泉八雲への「義」――である。なお、之よりも前の元版の全集等が先行しているものの、私がそれらと比べた結果、実は先行する同社の「小泉八雲全集」のそれらは、訳が一部で異なっており、訳者等によって、かなりの補正・追加がされていることが、今回の正字補正作業の中で、はっきりと判って来た。いや、同じ「家庭版」と名打ったネット上の画像データでも、驚いたことに、有意に異なっていたのである。そうした意味でも――完全な仕切り直しの総点検――が必要であると決したものである。従って、旧前振りの括弧・鍵括弧の問題も、拡大とガンマ補正で確認し、正確を期する。本作はここから。

 訳者大谷正信氏については、「小泉八雲 燒津にて 大谷正信譯」の私の冒頭注を参照されたい。

 標題であるが、原拠(後掲)の表記は、「伊藤則資の話」で、現行の訳では、そちらになっている

 原注は最後に一つだけあるが、本文注に挿入し、四字下げポイント落ちであるのを、本文と同ポイントで、頭から示した。

 最後に小泉八雲旧蔵本を底本に原拠を示した。【2025年4月3日追記】後に、私は原拠である都賀庭鐘の「席上奇觀」を総て電子化注した。本作の原拠である「伊藤帶刀中將、重衡の姬と冥婚」も、新たにゼロから電子化注してあるので、そちらを決定版として、最後に見られたい。

 

 

  伊 藤 則 助 の 話

 

 山城の國宇治町に、六百年許り前に、その祖先は平家の、伊藤帶刀則助といふ若い士が住まつて居た。伊藤は美男子で氣だでがやさしく、中中、學問があつて武藝に長けてゐた。が一家は貧しく、高責な武人間[やぶちゃん注:「ぶじんかん」。]に、彼に眷顧を與へるものが一人も無かつたから、その前途の望みは乏しかつた。文學の硏究に身を委ね、(日本の物語作者の言ふ)『ただ風月を友と』して、極く質素な生活(くらし)をして居つた。

[やぶちゃん注:「伊藤帶刀則助」不詳。冒頭注で述べた通り、原拠は『伊藤帶刀』(たてはき)『則資』とする。

「眷顧」(けんこ)は「贔屓」(ひいき)の意。特別に目をかけて呉れる人のこと。]

 或る秋の夕暮、琴引山といふ小山の近處をただ一人散步して居ると、たまたま同じ路を辿つて居る少女に追ひ付いた。その子は立派な服裝(なり)をしてゐて、年の頃は十二か十三ぐらゐに思はれた。伊藤はそれに會釋して、『日が直ぐ暮れますよ、お孃さん、それに此處は少し淋しい處です。道に迷つたのですか』と言つた。その子は晴れやかな笑顏をして見上げて、そんな事はと云つた樣子をして、『い〻え。私はこの近處に御奉公を致して居りまミヤヅカヒで御座います。もう少し行けばよう御座います』と返事した。

[やぶちゃん注:「琴引山」「ことひきやま」。「琴彈山」とも。雅氏のブログ「月詣草紙」の「涙河をわたる 京都、奈良編 その2 日野」に、この附近は『平重衡卿の北の方』であった『藤原輔子(当時女性の名前は伏せられるので役職名の大納言典侍と呼ばれてることが多い)と』重衡が『斬首の前日に最後の再会を果たした地で』とあり、『一の谷の戦いで捕えられ』、『鎌倉に送られていた重衡が、壇ノ浦での平家滅亡後南都の要請で奈良に送られる途中のこと』で、『二人が再開した場所に流れていた川は後にこの逸話から『合場川』』と名付けられ、『大納言典侍が重衡の行列を涙ながらに琴を弾き見送った丘陵を『琴弾山』と名付けられた』と伝える、とある。また、「京都府宇治郡名蹟志」を引用され(原書に当たれないので、一部に手を加えさせて貰って整序した)、

   *

相場川(合場川)

醐南端にあり、平重衡源氏の囚虜となり、鎌倉より南都に送らるるとき、內室、此處に要して對面せしより、此稱あり。

琴彈山

相場川背後の丘卽ち之れなり、内室、重衡に別るに臨み、琴を山下に彈きし別離を惜みし所として此稱あり。

石田岡(琴彈山)

琴曳山一帯の地を伝ふ、古來和歌の名區なり。

重衡墓

小字外山街道十三番地民家の裏に在り。重衡、義經に囚われ、木津の邊りに斬らる。內室、その首級をこの地に葬り、佛心寺に居り、其瞑福を祈る。今、其佛心寺、なし。

   *

とあるとある。以下、「平家物語」の「重衡被斬(きられ)」の二人の印象的な哀しい再会が引かれるので、是非参照されたい。その後で、『合場川のバス停』の『すぐ後方がこ』の『琴弾山だと、伏見区のwebのあ』ったとあるので、この附近(グーグル・マップ・データの航空写真)かと思われる。現在は平地となっていって、丘陵らしきものも、残念ながら全く見られない。東南近くに「重衡塚」(グーグル・マップ・データ)がある。

 その子がミヤヅカヒといふ言葉を使つたので、伊藤はその女の子は高位な方に奉公して居るに相違ないと知つたが、どんな名家も其附近に住まつて居ることを聞いたことが無いから、その子の云ふことを怪しんだ。だが、ただかう云つた、『私は私の家(うち)のある宇治ヘ今歸るところです。此處は大變淋しい處ですから、途中、一緖に行つて上げませう』

 その子はその申し出を喜んだらしく、しとやかに御禮を述べた。で、話しながら二人は一緖に步んで行つた。その子は天氣の事、花の事、蝶蝶の事、鳥の事、一度、宇治へ見物に行つた事、自分が生れた都の名所の事を話した。伊藤には、その子の爽やかなお喋舌(しゃべり)を聽いて居ると、時間が愉快に經つて行つた。やがて、その道の或る曲り目で、二人は若木の杜[やぶちゃん注:「もり」。]で大變に暗い小村へ入つた。

 

〔此處で、自分は、此話を中斷して、諸君に話さなければならぬ事がある。日本には、晴れ切つた非常に暑い天氣の折にも、いつまでも暗くて居る田舍村があつて、其暗さは實地にそれを見なければ讀者には想像が出來ぬといふ事である。東京の近處にさへ、そんな村は澤山ある。そんな村から少し離れると家は一軒も無い。常磐木[やぶちゃん注:「ときはぎ」。常緑樹。]の茂つた杜のほか、何んにも見えぬ。其杜は、普通若い杉と竹とから成つて居るが、暴風の害を蒙らぬやう其村を被ひ、且つまた種種な目的に材木を供給する用を爲して居る。木は密植してあるから、幹と幹との間を通つて行く餘地が無い。帆柱のやうに眞直ぐに立つて居て、日を遮る屋根をつくるほどに、其頂部を交じへて居る。草葺きの田舍家は何れも皆、植林中の空いた地を占めていて、其樹木が其まはりに家の高さの倍の垣を造つて居る。其樹木の下は、眞つ晝間でもいつも薄暗がりで、家は朝か夕方かは半ば蔭になつて居る。殆んど不安の念を起こさせるこんな村の第一印象は、それ獨特の一種の薄氣味惡るい妙味を有つて居る、其透明な暗がりでは無くて、其靜けさである。家數は五十も百もあることがあらう。しかし何も見えず何んの音も聞えず、ただ、眼には見えぬ小鳥の囀り、時たまの鷄の啼き聲、蟬の叫びがあるだけである。だが、蟬もへ其杜を餘りに暗いと思ふのか、微かに啼く。日を愛する蟲だから、村の外の樹木を好むのである。自分は云ひ忘れたが、時に眼に見えぬ梭[やぶちゃん注:「ひ」。機織りのシャトル。]の――チヤカトン、チヤカトンといふ――音を耳にすることがあらう。――が、其聞き慣れた音が、この大なる綠の無言のうちに在つては、仙鄕のもののやうに思はれる。其靜寂の理由は人が家に居ないといふただそれだけである。大人は、弱い老人少しを除いて、凡て、女は赤ん坊を背に負うて、近處の野畠へ行つて居り、子供の大部分は、多分一哩[やぶちゃん注:「マイル」。約千六百九メートル。]より少からぬ遠くの一番近い學校に行つて居る。實際、こんな薄暗いひつそりした村に居ると、誰れしも『世の養ひを享けたる太古の人は、何物も求むるところ無く、世また物澤に、――人は無爲にして萬物化育し、――其靜かなること深淵の如く、國人すべて皆心安らかなりき。』といふ管子の文に書いてある情態の不思議な永存を眼前に視て居るやうな氣がする〕

[やぶちゃん注:「管子」(くわんし(かんし))春秋時代の斉の宰相管仲の著と伝えられる書。全七十六編。先秦から秦・漢時代にかけての政治・経済・文化などが、儒家・道家・法家・陰陽家など複数の思想的立場から記述されている。実際には漢代までの間に多くの人の手によって記述追補編纂された書である)の巻第十三の、次の一節。

   *

夫正人無求之也。故能虛無。虛無無形。謂之道、化育萬物、謂之德。

(夫(そ)れ、正人は之れを求むる無し。故に能く虛無たり。虛無、形、無し。之れを「道」と謂ひ、萬物を化育する、之れを「德」と謂ふ。)

   *

鬼丸紀氏の論文「『管子』四篇における養生説について」(『日本中國學會報第三十五集』(一九八三年発行)所収。PDFでダウン・ロード可能)の本条の解説に(一部に濁点を打った)、『虛靜の道はもとは自然界の法則であり、それによって自然現象か成り立つものであったが、同時に人がそれを守り行うことによって、人文現象に正しく對應できるようになる。人はこのような考え方のもとに、人事に自然界の法則を導入し、人と自然界との合一を理想とした結果、人事と自然現象とは連續的なものとなり、相互に影響を及ぼし合うようになった。「萬物を化育」するのは、本來、自然現象に屬するものであるが、ここでは「義」、「禮」、「法」なとの人間社會の中で守り行うべき規範と竝べて、聖人の「德」として說かれている。人は虛靜の法を守り行うことによって、人間の諸事を誤りなくなし遂げると同時に、萬物を化育することもできるという考え方が現われている。自然界の理法を體得することは、自然界と一體となることてあり、そこで自然現象にまで人の力が及ぶわけである』とある。「虚静」とは、元来は「荘子」の思想の一つで、欲望を一切捨て去って、心の中に不信や疑念などがなく、落ち着いて、自然のあるがままの世界に身を委ねることを謂う語である。

「世また物澤に」「よ、また、もの、さはに」で、前の「管子」の言葉に即すなら、「無為自然」から「無一物即無尽蔵」という意味で、私は採る。]

 

 ………伊藤がその村へ著いた時は餘程暗かつた。日は早、沈んでしまつて、夕燒けはその樹木の蔭では薄明りも與へて居なかつたからである。その子はその大道に通じて居る狹い小路を指さして『あの、御深切な御旦那樣、私はこちらへ參らなければなりません』と云つた。『それでは家まで送つて行つて上げよう』と伊藤は答へて、行く手を見ながらといふより探りながら、その子と一緖にその小路へ曲つた。ところが、その女の子は頓て[やぶちゃん注:「やがて」。]、その暗がりにぼんやり見える小さな門の前で――其先に在る住家の光(あかり)が見える格子作りの門の前で停つた。『私が御奉公致して居ります御邸は此處で御座います。ここまで遠く寄り道をして下すつたことで御座いますから、入つて少し御休みになつて下さいませんか』と云つた、伊藤はそれを諾した。この手輕な招きを嬉しく感じ、どんな立派な身分の人がこんな淋しい村にわざわざ住まふことにしたものか知りたいと思つた。高位の一家が、政府に不滿を抱くとか、政治上の紛紜[やぶちゃん注:「ふんうん」或いは連声(れんじょう)で「ふんぬん」。物事が入り乱れていること。事態が縺(もつ)れること。もめ事。]があるとかで、時にこんな風に引退することがあると知つて居たから、自分の眼の前のこの邸に住まつて居る人達の身の上も、さうであらうと想像した。其年若い道伴れ[やぶちゃん注:「みちづれ」。]が、開けて吳れた門を潛ると[やぶちゃん注:「くぐると」。]、四角な大きな庭があつた。うねうね小川が橫ぎつて居る、山水の景を小さく模した、其造り微かに見分けられた。『ほんの一寸の間、御待ちになつて下さいまし。御出でのことを申しに參りますから』と其子は云つて、家の方へ急いで行つた。廣廣した家ではあつたが、餘程古さうで、それに今とは異つた時代の建て方であつた。引き戶は閉(し)めて無かつたが、光(あかり)のして居る家(うち)の中は、緣の正面に亘つて美くしい簾が掛かつて居るので見えなかつた。其簾のうしろに影がいくつか――女の影がいくつか――動いて居た。――すると、不意に琴の音が夜に波打つて響いて來た。其彈き方が如何にも輕くまた旨いので、伊藤は自分の耳を信ずることが殆んど出來なかつた。耳を欹てて[やぶちゃん注:「そばだてて」。]居るうちに、うつとりするやうないい氣持ちが――妙に哀れの籠もつたいい氣持ちがして來た。どんな女でも、どうしてあんなに彈くことが覺えられたらうと怪しんだ――彈き手は女なのか知らと怪しんだ――自分は、この世の音樂を聽いて居るのか知らとさへ怪しんだ。魔力がその音と共に、自分の血の中へ入つたやうに思はれたからである。

 

 そのやさしい音樂は歇んだ[やぶちゃん注:「やんだ」。]。すると、それと殆んど同時にあの小さな宮仕が其橫に來て居ることを知つた。『おはひり下さるやうにとのことで御座います』と云ふのであつた。入口へ案內されて行つて、其處で草履を脫ぐと、ラウヂヨ卽ち其一家の召使頭だと伊藤が思つた年長けた女が、閾際[やぶちゃん注:「しきゐぎは」。]まで迎へに出た。其老女はそれから部屋を幾つか通つて、家の裏側の大きな明かるい部屋へ連れて行つて、何度も恭しく辭儀して、高位の人が坐る上席に就いて吳れと乞ふのであつた。部屋が物物しげなのと、其裝飾の珍らしい、美しさとに驚いた。やがて、女中が幾人か出て茶菓を供へて吳れたが、前へ置かれた荼椀も他の器物も稀れな高價な細工のもので、且つ亦、其持主が高位な人だと知れる模樣で飾りがしてあることに氣付いた。どんな氣高い人がこんな淋しい隱退處を選んだものだらう、どん事がこんな孤獨を望ませるやうにしたものだらう、と段段怪しんで來た。ところが、老女は

 『あなたは宇治の伊藤樣だと――あの伊藤帶刀則助樣だと思ひますが、違ひますか』

と訊ねて突然その囘想を妨げた。

 伊藤は如何にもと頭を下げた。自分の名をあの小宮仕に云ひはしなかつたのであるし、それにその訊ね方にまたびつくりした。

 老女は言葉を續けて云つた。『どうか、私の御尋ねを失禮だとは思つて下さいますな。私のやうな老人はいろんな事を御尋ねしてもいいので御座いませう、不都合な珍らしがりで無くて。あなたが此家に御出になつた時、あなたのお顏に見覺えがあると思ひました。だから、他の事をお話しする前に、疑ひを晴らすだけにお名前を御伺ひ致したので御座います。御話し致したい大切な事が御座います。あなたはよくこの村をお通りになるので、私共の若い姬君樣が或る朝あなたの御通りになるのを不圖、御覽になりまして、その時からといふもの、晝も夜もあなたの事を考へておいでになります。本當に、餘り心思ひになつて病氣におなりで、私共は大變に心配して居ります。其爲めに、あなたのお名前とお住居を見つけるやう取り計らひまして、手紙を差し上げようとして居る處ヘ――どうで、御座いませう、思ひがけも無い!――あなたがあの召使と一緖に私共の門へ御出で下さいました。まあ、あなたに御會ひしてどんなに嬉しいか到底も口には申し上げられません。あまりに仕合せで本當だとは思へないくらゐで御座います。實際、かうして御會ひ出來たのはエンムスビノカミの――仕合せな緣組みの絲の結びを繋いで下さる、あの出雲の神樣の――惠みの御計ひに違ひないと私は思ひます。そんな仕合せな運が、あなたをこちらヘ御連れ申したことで御座いますから、否(いや)とは仰せになりは致しますまい――そんな緣組みの――姬君樣のお心をお喜ばせ申す――邪魔が何も無いのなら』

 その當座、伊藤には、どう返答していいか分らなかつた。その老女が若し本當のことを云つたのなら、異常な機會が、其身に捧げられて居るのであつた。非常な熱情あればこそ、高家の息女が、自分と[やぶちゃん注:「おのづと」と訓じておく。]求めて、富も無ければ、何んの前途の望みも無い、主人無しの名も無い士の愛を求めなされるのである。だが一方また、女の弱味に附け込んで、己が利を增さうとするのは男の面目とすべきことでは無い。それにまた、事情が氣掛りな不思議である。だが、かう思ひ掛けない申し出をどう斷わつていいか少からず心を惱ました。暫く無言で居てから返事した。

 『私には妻はありませんし、許嫁はありませんし、どんな女とも何の關係もありませんから、邪魔は少しも無い譯であはります。今まで私は兩親と暮して來て居りますが、緣談の事は兩親は一度も話したことはありません。知つて置いて戴かねばなりませんが、私は貧乏士で、高位の方方の間に私を庇護して下さる方がありませんし、身の境遇のよくなる機會が見つかるまでは、妻を娶らうとは思つて居ませんでした。御申し出の事は、私に取つて光榮至極ではありますが、私はまだ高貴な姬君に思つていただくに足らぬ身だと思うて居ります、とかう申し上げるほかはありません』

 老女はその言葉を聞いて滿足に思つたらしく微笑して、かう返事した。

 『姬君樣に御會ひになるまで、御極めにならぬがおよろしいで御座いませう。御會ひになつたなら多分、御躊躇(ためらひ)にはなりますまい。どうか、私と一緖にお出になつて下さいませんか、姬君樣へ御引き合せ致しますから』

 前のよりも大きな別な客間へ案內されたが、行つて見ると御馳走の支度が出來てゐて、上座へ就かせられてから一寸の間、獨り其處へ待たされた。老女は姬君樣を連れて歸つて來た。その若い女主人分を始めて一目見た時、伊藤は庭に居て琴の音を聽いた時覺えた、あの不思議な驚きと悅びとの身戰ひを再び感じた。こんな美しい人は一度も夢にも見たことが無かつたのである。綿雲を通して見る月の光りの如く、光りがその身から出て、その衣裳を通して輝いて居るやうであり、その解けて、垂れて居る髮の毛は身動きにつれて搖れて、春のそよ風に動く枝垂れ柳の枝のやうであり、その唇は朝露を帶びた桃の花のやうであつた。伊藤はその姿を眺め見て恍惚とした。正(しやう)のアマノカハラノオリヒメの姿を――輝く天の川の傍に住む織女の姿を見て居るのでは無いかと思つた。

 にこにこしてその老母[やぶちゃん注:ママ。後では「老女」。]は、その美しい姬の方へ向いたが、姬は眼を伏せ、頰を赧く[やぶちゃん注:「あかく」]して默つたままで居るので、姬に向つてかう云ふのであつた。

 『どうで御座いませう、あなた! こんな事があらうとは少しも望みも出來ない折に、あなたが會ひたいと仰しやるその當のお方が、自分から、お越しになつたので御座いますよ。こんな運のいいことは全く、神樣の御心からでなければ、出來る筈は御座いません。それを思ふと嬉しくて、泣きたくなります』

[やぶちゃん注:「!」の後に底本では字空けはない。特異的に挿入した。後の三箇所も同じように処理した。以下では注さない。]

老女は聲に出して咽び泣いた。そして、袖で淚を拭ひながら、言葉を續けて、

 『それで、これからあなた方お二人のなさることはただ――どちらもおいやだ、といふことはありますまいが、おいやで無いななら――互に約束をして、そして、一緖に婚禮のお祝ひをなさることで御座います』

と言つた。

 

 伊蒔は無言で答へた。自分の前に坐つて居る、その比類無しの眼に見える物が、その意志を痺らせ、その舌を縛つてしまつたのである。召使の女達が器物や酒を携へて入つて來た。婚禮の膳部が二人の前に竝べられ、固めの杯が取り交はされた。それでも伊藤は元のやうに失神したやうになつてゐた。此珍事の不思議さと、新婦の麗はしさの驚きとがまだ、その頭を混亂させてゐた。未だ嘗て覺えたことの無い一種の嬉しさが――大なる靜寂の如くに――その胸に一杯になつた。が、段段と、そのいつもの落著きを囘復して、それからは困らずに話をすることが出來るやうになつた。酒を遠慮無くお相伴して、今までその心を抑へて居た疑惑と恐怖を、卑下してではあつたが陽氣に、思ひ切つて話した。その間その新婦はもとの如く月の光りのやうに靜かにしてゐて、眼は決して上げず、物を言ひかけられると赤面か、微笑かして、それに應へるだけであつた。

 伊藤は老女に向つてかう言つた。

 『幾度も獨りで散步をして、この村を通つたことがありますが、この御屋敷の在ることは知りませんでした。それでこちらへ入つてからといふもの、御宅樣がどうしてこんな淋しい住居場をお選びになつたのだらうかと、不思議に思つて居りました。……あなたの姬君樣と、私と互に約束を取り交はしたのに、私が御一家のお名を、まだ知らぬとは可笑しな事に思はれます』

 かう云ふと、一抹の影が老女の情け深い顏を橫ぎつた。そして新婦は、それまで殆んど口をきかなかつたが、眞靑になつて非常に心を傷めて居る樣子であつた。暫く無言の後に老女はかう答へた。

 『私共の祕密を長く隱して置くことは六つかしいことで御座いませうし、それにあなたは、私共の家の一人におなりになつて居ることで御座いますから、どんなことがあらうと、本當のことをお知らせ致さなければならないと思ひます。では、伊藤樣、申し上げます、あなたの花嫁は、あの不仕合せな三位中將重衡卿の娘なので御座います』

 此言葉を――『三位中將重衡卿」といふ言葉を――聞いて此若士は、身體中の血管に氷の寒氣[やぶちゃん注:「さむけ」。]を感じた。平家の將軍であり、政治家であつた重衡卿は、死んで塵土に歸してから三世紀を經て居る。そこで伊藤は突然、身の𢌞りの物凡ては――部屋も燈火も饗宴も――過去の一場の夢である、己が前の姿は人間で無くて、死んだ人間の影である事を知つた。

[やぶちゃん注:「平重衡」(保元二(一一五七)年或いは保元元(一一五六)年~文治元六月二十三日(ユリウス暦一一八五年七月二十一日)享年二十九)は平清盛の五男。母は平時子で宗盛・知盛・徳子らの同母弟。応保二(一一六二)年に叙爵し、尾張守・左馬頭などを経て、治承三(一一七九)年に左近衛権中将、翌年には蔵人頭と累進した。極官が正三位左近衛権中将であったことから「本三位中将」とも称された。文武兼備の人物で、蔵人頭として朝儀・公事をよく処理する一方、源平争乱が勃発すると、武将として奮迅の活躍をし、治承四年五月には、以仁王と源頼政の挙兵を鎮圧し、同年十二月には、興福寺及び東大寺攻撃の総大将となって、大仏殿以下の伽藍を焼き打ちした。このため、仏敵として強い非難を受けた。翌年三月には「墨俣川の戦い」で源行家を撃破し、「平家都落ち」の後も、寿永二(一一八三)年閏十月の「水島合戦」や翌月の「室山合戦」などに於いても勝利を収めた。しかし、翌年二月の「一の谷の戦い」で捕虜となり、兄宗盛のもとに使者を遣わし、三種の神器の返還と源平の和議を試みようとするも、実現せず、翌月、鎌倉に護送された。その人柄から、源頼朝に厚遇されるが、先の怨みを昂じさせた興福・東大両寺の衆徒の強い要求によって、奈良に送られ、南都焼き打ちの張本人として木津川畔で斬首された。「平家物語」は、虜因の身となった重衡を、平家の滅亡を象徴する非運の武将として哀切に描いている(ここは主に「朝日日本歴史人物事典」に拠った)。ウィキの「平重衡」によれば、『重衡は梶原景時によって鎌倉へと護送され、頼朝と引見した。その後、狩野宗茂(茂光の子)に預けられたが、頼朝は重衡の器量に感心して厚遇し、妻の北条政子などは重衡をもてなすために侍女の千手の前を差し出している。頼朝は重衡を慰めるために宴を設け、工藤祐経(宗茂の従兄弟)が鼓を打って今様を謡い、千手の前は琵琶を弾き、重衡が横笛を吹いて楽しませている。『平家物語』は鎌倉での重衡の様子を描いており、千手の前は琵琶を弾き、朗詠を詠って虜囚の重衡を慰め、この貴人を思慕するようになった』とある。

「三世紀」小泉八雲の本篇の時制設定は重衡が没してから――三百年後――の、室町末期(戦国初期)の一四八五年、文明十七年前後辺りという設定になっている

 

 が、つぎの瞬間に其氷の如き寒氣は去つてしまつた。蠱惑[やぶちゃん注:「こわく」。人心を怪しい魅力で惑わすこと。誑かすこと。]が歸つて來て、身の𢌞りに深くなつて行くやうであつた。少しも恐れを感じなかつた。その新婦はヨミから――死の黃泉の場處から――彼へ遣つて來やのであつたのに、彼の心は全く奪はれてしまつて居たのであつた。幽靈と結婚するものは、幽靈にならなければならぬ。――しかし、己が前のその美しい幻の額に、心痛の影でも齎らすやうな考へを、言葉なり顏色なりで、洩らすよりか死ぬる方が、一度で無く、幾度でも死ぬる方が、優(ま)しだといふ氣になつて居ることを知つた。その捧ぐる愛情には、少しの疑ひも有たなかつた。優(やさ)しからぬ目的があつての事ならば、騙して爲した方がよかつたらうにと考へると、其愛情が眞實なことがうなづかれるのであつた。が、そんな考へや思ひは瞬時に消えてしまつて、今、身の前に現れ來たつて居る、その不思議な地位をそのまま受け入れて、壽永の昔、重衡の息女が自分を婿と選んだなら、自分が爲したであらう通りに振舞はうと決心した。

[やぶちゃん注:「壽永」。一一八二年から一一八三年まで。重衡の死の「文治」の前の「元暦」の、その前の年号。但し、平家方では「都落ち」した後も、次の「元暦」とその次の「文治」の元号を使用せずに、この「寿永」を、その滅亡まで引き続いて使用していたから、ここは、主人公も祖先は平家であり、霊姫も重衡の娘であるからして、平家滅亡の文治元(一一八五)年三月二十四日まで広げて考えてもよかろう。]

 『噫、あれは本當に殘念なことで御座いました。重衡卿樣の無慙な御最期の事は聞いて居ります』

叫んだ。

 老女は啜り泣きしながら、答へて言つた。

 『え〻本當に無慙な御最期で御座いました。御承知のとほり、乘つておいでになつた馬が矢に當たつて死んで、御主人の上へ倒れました。聲を上げて助けをお求めになりましたが、それまで御恩に暮して居た者共は、危急の際であるのに見棄てて逃げてしまひました。それから俘囚(とりこ)になつて、鎌倉へ送られになりましたが、鎌倉では誠に人を侮つた取扱ひをして、そして到頭、世に亡い人にしてしまひました原註一。奥方と御子――此處に居られます此娘子――とは其時、身を隱して居られました。到る處、平家の者を探して殺したからで御座います。重衡樣のお歿(かく)れの音信が著きますと、母人には心の痛みに堪へかね、其爲めこの娘子さんが、――血緣の方方はいづれもお歿(かく)れになるか、姿をお隱しになるかしまして、――私のほか誰れ一人御世話申し上げる人も無く、御殘りになつたので御座います。その時はやつと五歲になられてゐました。來る年も來る年も、此處から其處へと、巡禮姿で旅してさまよひました。……が、そんな悲しい話は今は折を得ませぬ』

と淚を押し拭ひながら、その乳母は叫んだ。

原註一 重衡は――當時タイラ(卽ちヘイケ)方がしてゐた――都の防禦に勇しく戰つた後、ミナモトの軍勢の將、義經に襲はれて敗れた。家長といふ、弓に熟練な士が重衡の馬を射倒して重衡は、悶へもがくその馬の下敷きになつた。或る伴の者に換へ馬を連れて來るやう賴んだが、その男は逃げて行つた。それから重衡は家長に捕へられ、しまひに賴朝のところへ送られた。賴朝といふは源家の首長で、重衡を籠で鎌倉へ送らせたのである。鎌倉では色色加辱を受けてから、――詩を詠んで殘酷な賴朝の心すら感動せしめ得て――一時は斟酌した待遇を蒙つた。然しその翌年、嘗て淸盛の命によつて、南都の僧と戰つたことがあるので、その南都の僧の乞ひによつて處刑された。

[やぶちゃん注:「家長」庄家長(しょうのいえなが 生没年未詳)は武蔵国児玉党(現在の埼玉県本庄市栗崎)の武将。]

 『昔が忘れられない年寄り女の愚かな心を御許し下さいませ。御覽なさいませ、私がお育て申した、その小さな娘子が本當に、今は姬君樣におなりになりました。――高倉天皇の結構な御世に暮して居ますれば、この方(かた)にどんな身の運命(さだめ)が除(の)けて置いてあることで御座いませう! では御座いますが、自分の好きな夫をお持ちになりました。それが一番のお仕合せで御座います。……が、時刻が更けました。合𢀷のお床の用意は出來て居ります。朝までは身のお世話を御二人御互に御任せ申し上げなければなりません』

[やぶちゃん注:「高倉天皇の結構な御世」後白河天皇第七皇子で安徳天皇・後鳥羽天皇らの父である高倉天皇(応保元(一一六一)年~治承五(一一八一)年)の在位は仁安三(一一六八)年四月九日から治承四(一一八〇)年三月十八日。皇太后は平清盛の娘滋子(建春門院)。平家滅亡の四年前に病死した。

「合𢀷」読みは「がふきん(ごうきん)」で、本来は「結婚式を挙げること」の意。「礼記」の「昏義」に由来し、「巹」は「巹」とも書き、「結婚式を挙げること」を謂う。瓢(ふくべ)を両分した杯のことで、古代中国で婚礼の際に夫婦が一つずつ手にして汲みかわしたとすることに基づく。但し、ここは「合衾(ごうきん)」と同じで、初夜(の寝具)のこと。]

 

 老女は起ち上つて、客間と次の部屋とを分かつ襖を推し開け、二人を其寢間へ案內した。それから幾度も喜びと祝ひの言葉を述べてさがつたので、伊藤は新婦と二人きりになつた。

 一緖に臥せりながら、伊藤はかう云つた。

 『あなたが私を夫に有たうと始めてお思ひになつたのは、何時のことで御座いますか』

 (萬事が如何にも、眞實らしく見えるので、自分の身の𢌞りに編まれて居る、この幻のことを殆んど、考へなくなつたからである。

 女は鳩の啼くやうな聲で答へた。

 『我が君樣、私が始めてあなた樣に、御目にかかりましたのは、私の乳母と一緖に參りました、石山寺でで御座いました。あなた樣に御目にかかつたばつかりに、その時その折からこの世が、私には全く變つてしまひました。が、あなたは御覺えになつて居りません。二人が出會つたのはこの世、あなた樣の今の世ではなかつたので御座いますから。ずつとずつと昔のことで御座いました。その時からあなた樣は、幾度も死んだり、生れたりなされて、幾度も美くしい身をお有ち[やぶちゃん注:「おもち」。]になりました。が、私はいつも、今、私を御覽のままで居りました。あなた樣を夫(をつと)にとの强い願ひを掛けたばつかりに、別な身體(からだ)に生れることも、別な境涯の者に生れ變はることも出來なかつたので御座います。我が君樣、私は人間の世の幾代を、あなた樣をお待ち致して居たので御座います』

[やぶちゃん注:「が、私はいつも、今、私を御覽のままで居りました。」ここは、残念ながら、誰もが躓いていしまう訳である。原文は、

But I have remained always that which you see me now:

で、訳すなら、「でも、私は、今、あなたが見ているままの姿でありました。」であろう。平井呈一氏は、『そのあいだ、わが身は、いつも今見やる通りの姿のままにすごしてまいりましたけれど、』と訳されてある。本篇の最初のクライマックスの一つであるだけに、ちょっと惜しい。]

 ところが、この花婿はこんな不思議な言葉を聞いても、少しも恐ろしくは思はずに、一生涯、來たらん幾生涯凡てに、その女の腕を自分の身の𢌞りに感じ、その女の愛撫の聲を耳にすることより他の事は何も欲しなかつた。

 

 しかし、寺の鐘の響きが夜の明けたことを報じた。鳥が囀り始め、朝の微風が木木を囁かせた。突然、かの年寄りの乳母が、寢間の襖を明け放つて大聲で、

 『お別れになる時刻で御座います。日の目に會うて一緖に御出になつてはなりません、一刻も。お身の破滅で御座います! 互に暇乞ひなさらなければなりません』

 一言も云はずに伊藤は、直ぐにも歸らうとした。今、聽いた警戒(いましめ)の意味を朧氣ながら悟つて、身を全く運命に任せた。自分の意志はもはや、自分のものでは無かつた。ただ、その影の如き新婦の心を悅ばせようと望むばかりであつた。

 新婦は珍らしい彫刻(ほり)のある、小さな硯を則助の手に置いてかう云つた。

 『あなた樣は學者でゐらせられますから、この小さな贈り物も、お蔑(さげす)みはなさるまいと思ひます。これは高倉天皇の御意によつて、私の父が拜領致しましたお品で、古う御座いますから、妙な恰好を致して居ります。父が拜領したものといふだけの理由(わけ)で、私は大切に致しておりました』

 伊藤はその返しに、自分の刀の筓を記念として受け取るやうに乞うた。その筓は、梅に鶯の模樣を、金銀の象眼で飾つてあつた。

[やぶちゃん注:「筓」は「かうがい(こうがい)」で、この場合は武家の男性が、太刀や脇差の鞘に差して、飾りとしたり、髪の乱れを整えたり、実践に於いては手裏剣のように投擲して相手を傷つけるのに用いた、ごく小型の小刀風のものを指す。]

 それから例の小さな宮仕が、庭の外へ案內にやつて來て、新歸とその乳母とは、家の入口まで一緖に來た。

 階段の下で振り返つて別れの辭儀をしようとすると、その老女はかう言つた。

 『このつぎの亥の年に、あなたが此處へおいでになつたと、同じ月の同じ日の同じ時刻にまた、お會ひ致しませう。今年は寅の年でありますから、あなたは十年、お待ちにならなければなりません。が、申し上げられない色々の理由(わけ)がありまして、此處では又、御目にかかることは出來ません。私共は京都の近處の、高倉天皇樣や私共の祖先や、私共に仕へてゐるものが、多勢住まつて居る處へ行かうと思つて居ります。平家の者は皆、あなたがお越しになると悅びませう。御約束致しました其日に、籠をお迎ひに差し上げます』

[やぶちゃん注:「今年は寅の年」先の本篇の推定時制の文明一七(一四八五)年前後の寅年は、文明一四(一四八二)年の壬寅(みずのえとら)及び明応三(一四九四)年の甲寅(きのえとら)となり、そこから十年後の亥年は、前者ならば、延徳三年(一四九一)年の辛亥(かのとい)、後者ならば、文亀三(一五〇三)年の癸亥(みづのとい)となる。実は、原拠では、その約定の年の干支を『辛亥』としているので、延徳三年(一四九一)年で決まりである。但し、老女の謂うように、この規制の意味は私には解らぬ。

 

 伊藤が門を出た時には、村の上に星が輝いて居た。が、往還へ達すると、森閑とした幾哩の野の向うに、黎明の空が明かるくなりつつあるのが見えた。懷に新婦の贈り物を納れて居た。その聲の魅惑が、耳に殘つて居た――そしてそれにも拘らず、不審の手指で觸はつて見て居る、その形見の品が無かつたなら、夜前の思ひ出は眠りの思ひ出である、自分の生命はまだ、自分のものである、と信ずることが出來たであらう。

 だが、自分の身を確かに運命づけたのだといふ確信は、少しも遺憾の念を起こさなかつた。ただ、別れの苦しみと、その幻が、自分に再び繰返さるるまでに過ごさなければならぬ春秋の思ひとに心を惱ますだけであつた。十年!――その十年の每日每日が、どんなに長く思へることであらう! その手間取りの神祕は、これを解くことを望み得なかつた。死者の祕密な慣習はただ、神だけが知つておいでになるのである。

 

 幾度も幾度も、その獨りの散步の折、伊藤は、過去を今一目見たいものと、朧氣の希望を抱いて、琴引山のその村を訪ねた。だが、二度と、夜も晝も、その暗い小徑にあつた田舍風な門を見つけることは出來なかつた。また、夕燒けに獨り步いて居る、あの小さな宮仕の姿を二度と見ることは出來なかつた。

 村の人達は、在りもせぬ家のことを、丁寧に訊ねるものだから、誑かされて居るのだと思つた。高位の方で、この村に今まで住まつて居られた方は一人も無い、と言ふのであつた。その近處に彼が話すやうな、そんな庭は一つもそれまであつたことは無いと言ふ。が、その云ふ場處の近くに、大きな寺が一宇あつたことがある。その墓地の石碑で、今でも見ることの出來るのが少し殘つて居ると言ふ。伊藤は茂つた藪の中に、村人のいふ墓碑を發見した。古風な支那型のもので、苔や地衣に蔽はれて居た。それに刻んである文字は、もはや判讀することが出來なかつた。

 自分が遭遇したかの不思議な事件に就いては、伊藤は何人にも語らなかつた。が、その友人や近親は、その容貌も樣子も非常に變つたことを直ぐに認めた。醫者は身體(からだ)には何の病氣も無いと明言したけれども、日一日と靑くなり、また瘠せて來るやうで、顏附は幽靈のやう、起ち居振舞ひは影のやうであつた。もともと、いつも物を考へ込んで、獨りで居たのであるが、この頃は以前に彼が面白がつた事のどれにも――それで名を成さうと希望することの出來た、あの文學の硏究にも冷淡になつたやうに思はれた。その母に――結婚させたなら、その前の野心を鼓舞するかも知れぬ。[やぶちゃん注:句点はママ。]その人生の興味を復活するかも知れぬ、と母は考へたから――自分は生きて居る女には結婚しないといふ約束をしたと話した。かくして歲月は足を引き摺るやうに經つて行つた。

 到頭、亥の年が來、秋の季節が來た。が、伊藤にはその好きな獨りでの散步が最早出來なかつた。床から起きることさへ出來なかつた。誰れもその原因を推測することは出來なかつたけれども、その生命(いのち)の潮は次第に引いて行つて、その眠りを屢〻死と間違へるほど、それ程深くまた長く眠つた。

 そんな眠りから、或る晴れやかな夕暮れ、子供の聲に目覺まされた。すると今は消えて無いあの庭の門へ、十年前に、案内して吳れた、あの小さな宮仕が床の橫に居るのが見えた。その子は辭儀をして、にこりと笑つて、そしてかう言つた。『京都近くの大原へ、其處に今度のお家がありますが、それへ今夜あなた樣を御迎ひ致しますといふこと、御籠がお迎ひに來て居りますといふこと、それをあなた樣に申し上げるやうにと云ひ付かりました』そして、その子は姿を消した。

 伊藤は、自分が日の光りの見えぬ處へ招かれるのであることを知つた。しかし、その傳言が餘りに嬉しかつたので、起き上つてその母を傍へ呼ぶほどの元氣が出た。母へ其時始めて自分の新婦の話を聞かせて、貰つた硯を見せた。自分の棺の中へ納めて下さいと賴んで――そして、やがて死んだ。

 

 その硯は彼と共に埋められた。が、葬式前にこの道の人が調べて見て、それは承安年間(紀元一一七一―一一七五)に造られたもので、それには高倉天皇の時代に居た、或る工人の刻印があると言つた。

 

[やぶちゃん注:本篇の原拠は、一九九〇年講談社学術文庫刊の小泉八雲著・平川祐弘編「怪談・奇談」の布村弘氏の「解説」によれば、前の「鏡の少女」と同じく、江戸末期の弘化五(一八四八)年一月に板行された、大坂の戯作者で名所図会作者として有名な暁鐘成(あかつきかねなり 寛政五(一七九三)年~万延元(一八六一)年:姓は木村、名は明啓)編の、「當日奇觀」巻之第一巻の第二話「伊藤帶刀(たてわき)中將、重衡の姬と冥婚」である。但し、実は当該原拠自体が、その序文の記載から、それよりもかなり以前に出版された、江戸中期の読本作家で儒学者・医師でもあった文人都賀庭鐘(つがていしょう 享保三(一七一八)年~寛政六(一七九四)年?:大坂の文人。上田秋成は都賀の「古今奇談繁野話(しげしげやわ)」(明和三(一七六六)年板行)に触発されて「雨月物語」を書いたことは有名)著とされる(署名は「草官散人」)「席上奇觀垣根草」を外題を変えただけで、再版・改題したものであることが判明している。今回、元の「席上奇觀垣根草」の活字版画像データも入手したが、特に大きな異同は見当たらぬので、小泉八雲が実際に原拠とした以下で電子化することとした。則ち、富山大学「ヘルン文庫」の旧小泉八雲蔵本の(こちらからダウン・ロード出来る)「當日奇觀」巻之第五を底本として電子化した。但し、読みは五月蠅いので、振れると思われる一部に留めた。歴史的仮名遣の誤りはママである。読み易さを考えて、私が句読点・記号を附加し、段落も成形した。一部に濁音を附した。なお、原拠には古屋敷の前で則資が待っており、そこに少女の奉公人がやってくるところを描いた挿絵がある。

   *

   伊藤帶刀中將、重衡の姬と冥婚

 弘長の頃、宇治の邊(へん)に伊藤何某といふものあり。先祖より平氏の侍なりしが、壽永の後(のち)は、世を宇治に逃(のがれ)て、仕官の望(のぞみ)もなく、風月を友として暮しけり。

[やぶちゃん注:「弘長」は鎌倉中期、文応の後、文永の前で、一二六一年から一二六四年まで。鎌倉幕府将軍は第六代宗尊親王で、執権は第六代北条(赤橋)長時(非得宗。時宗に執権職を譲るまでの一時的な中継ぎで、実際には先の第五代時頼が権力を握っていた)。但し、以下はその末裔であるから、時代はずっと後という設定である。]

 それが末(すへ)に、伊藤帶刀則資といふあり。生れ淸げに、心ざま、いと優(ゆ)にやさしき男なり。

 或時、所用の事ありて、都に出て[やぶちゃん注:「いでて」。]、暮に及て[やぶちゃん注:「およびて」。]、琴彈(ことひき)山の麓を通るに、年のころ、十五、六才ばかりなる女の童(わらは)、そのかたち、きよらかなるが、只一人、ゆくあり。

 帶刀、やがて、袖をひかへて[やぶちゃん注:引いて。]、

「かく暮に及びて、具(ぐ)したる人もなく、いづちへかおはすやらん。」

といふに、

「このあたりに宮仕し侍るものにこそ。」

と答ふるけわひ[やぶちゃん注:様子。]、思ひくだすべき品にはあらじと[やぶちゃん注:不審な判断を下すべき人品ではないようだ、と安心し。]、

「我は宇治(うぢ)のあたりへまかるものなり。道の便(たより)あしからずは、伴ひ參らせん。」

といふに、いなむ色なく、さまざま物語し、もて行うち、松杉の一村(ひとむら)[やぶちゃん注:一塊り。]しげれるほとりに、あやしの編戶ひきつくろひたる許(もと)にて、

「これこそ宮仕(みやづかへ)參らす方なり。道のつかれをも、はらし給ひてんや。」

と、いゝすてゝ、內に入(いる)。

 帶刀も、『主(あるじ)は、いかが人やらん』と、みいれたるに、よしある人の隱家(かくれが)と覺(をぼへ)て、庭のけしきも、おのづからなる風情にて、尾花・くず花、露、ちり、やり水に紅葉(もみぢ)うづもれ、霜にうつろひたる菊の籬(まがき)、一重(ひとへ)をへだてゝ、あれたる軒ながらに、簾、なかば、たれて、燈、かすかに、きらめき、琴の音(ね)、ほのかにもるるにぞ、いとゞ、其(その)名(な)、ゆかしく[やぶちゃん注:知りたく思って。]たちやすらひたるに、先の女童(めのわらは)出(いで)て云、

「あるじの御方(かた)にきこへ參らせたれば、『何かは苦しかるべき。こなたへいらせ給へ』と侍る。とく、とく。」

と云(いふ)に、帶刀、よろこびて、內にいるに、六十じばかりと覺しき老女、出(いで)て、奧の殿(との)にいざなふ。

 帶刀、いなむことなく座につけば、折敷(をしき)に檞葉(かしはば)しきて、菓物(くだもの)やうのもの、うづたかく盛出(もりいで)て、饗ずるさま、『いよいよ、なみならぬ人のかくれ家。さては高家(かうけ)の人の、妾(おもひもの)を、かくは、しつらひ置(をき)給ふやらん。さるにても、此とし月、往かへりするに、かゝるすまひありとだに、しらぬことのいぶかしさよ』と思ひめぐらすに、老女、居(い)よりて、

「君は、正(まさ)しく伊藤何某(なにがし)の殿(との)にては、をはさずや。」

といふに、帶刀、をどろきてみゆれば、老女、うち笑ひ、

「老らくの心せかれて、あらましをもきこへ侍(はんべ)らねば、いぶかしみ給ふも理(ことはり)なり。君、此あたりを、折々、徃(ゆき)かよひ給ふを、わが賴(たのみ)たる姬君、いつのほどにか、垣間見(かいまみ)給ひ、夜晝となく、戀しく覺(をぼ)しわづらひ給ふことの、やるかたなさに、折もあらば、人傳(ひとづて)ならで、きこへまいらせんとおもふに、甲斐(かい)ありて、女(め)の童が、はからずも伴ひ參らせしは、出雲の神のむすばせ給ひけんゑにしなるらめ。かゝるわびしきすまひを、『うし』とおぼさずば、姬君の心をもなぐさめ給はんや。」

と懇(ねんごろ)にかたるに、

「某(それがし)、はからずも、かく世をしめやかに暮したもふ御隱家(かくれが)をおどろかし奉るつみをも問(とひ/とがめ[やぶちゃん注:前は右ルビ、後は意味注の左ルビ。以下同じ。])給はず、あさからぬ御心ざし、などか、いなみ參らせん、さいわひ、いまだ、さだまる妻とても侍(はんべ)らず、久米(くめ)の岩橋、かけてしたまはらば、渡らでやあるべき。」

[やぶちゃん注:「久米(くめ)の岩橋」「役(えん)の行者」が大和の葛城山から吉野の金峰山(きんぷせん)まで架け渡そうとしたという伝説上の橋。葛城の神が夜間しか働かなかったため、完成しなかったという。多く、和歌で男女の契りが成就しないことのたとえとされる歌枕である。]

といふに、老女、悅びて奧に入、しばしありて、いざなひ參らする上﨟のてりかゞやくばかりのよそほひ、柳の黑髮、春の風になびき、桃花(とうくは)のくちびる、朝の露に濕(うるほ)ひて、よろこびの色、まなじりにはあまれど、すこしは、はぢらひ給ふけしき、春の夜(よ)のおぼろにかすむ月影の風情に、帶刀、目くれ、こころ、飛(とん)で、しらず、月の宮人(みやびと)、天(あま)の河原(かはら)の織女(をりひめ)ならずやと、こゝちまどふに、老女、云、

「かねてより、戀しと覺(おぼ)し給ひし殿の、はからずも來り給ひて、花の下紐(したひも)とくる春に逢ふうれしさ、そだて參らせしわらはが悅び、老が身のくせとて、淚、こぼるゝまでよ。」

とて、酒肴を出して、かりに婚儀を催ふす。

 帶刀も、覺へず、數盃(すはい)をかたぶけて後(のち)、うちくつろぎて、

「かゝる山里にかくをはする君は、いかなるかたの世を忍びましますにや。きかまほしさよ。」

といふに、老女、面(をもて)愁ひを含(ふくみ)て、

「とても、つつみはつべき事にも侍らねば、明らかにきこへ參らせん。これこそ、故(こ)三位(さんゐ)中將重衡卿のわすれがたみの君にこそ。」

といふに、帶刀、はじめて、黃泉(よみぢ)の人なることをしるといへども、すこしもあやしまず、なを、その詳(つまびらか)なる事をとヘば、老女、淚をおさへて、云(いはく)、

「君(きみ)も、世(よく)々、恩顧のかたなれば、などかは、わすれ給ふべき。さても、過(すぎ)ぬる治承の秋の嵐に、故內府(こないふ)も、ろくもきえさせ給ひしこそ、くらき夜(よ)に灯(ともしび)うち消(けし)たるここ地して、やすき心もなきうちに、越路(こしぢ)なる木曾の深山(みやま)より、兵、おびたゞしく責(せめ)のぼるといふ程こそあれ、主上・門院をはじめ奉り、一門の人々、そこはかとなく迷ひ出給ひ、我君(わがきみ)も、北の方は都にとゞめ給ひて、御供にをくれじと、名殘はつきぬ有明の、月の都に遷幸の時こそ、めぐり逢ふべしと、ねをのみぞなく、須磨の內裡(だいり)も、さかしきつはものゝ襲ひ奉りて、又もや、うつゝ心もなく、はるばる、西海の波の上にさすらへ給ひ、つゐには吾妻ゑびすの勝(かつ)にのりて、主上(しゆじやう)をもおそれ奉らざるに、賴み覺(おぼ)したる西國のつはものも、山の井の淺きは、人の心にてかはりゆく世のさまを御覽じて、主上は、龍のみやに御座をうつされ、御一門、殘りなく、秋の木の葉のちりどりにならせ給ひし中にも、ひとしほ、心うきは、我君にて、御心もたけくいさみ給ひ、御一門の果(はて)をも見給ひ、『御幸(みゆき)の供奉のしんがりを』と覺(おぼ)し給ひし甲斐もなく、心なきつはものゝ射まいらせし矢に、召(めさ)れたる御馬のおどろきしに、御供にさふらいし者も、さる人心(ひとごゝろ)の折(をり)なれば、餘所(よそ)の時雨(しぐれ)に見なし參らせて、つゐに、おりかさなりて、生捕(いけどり)奉しこそ。今更(いまさら)、心きえて、淚に、むねもふたがれ侍(はんべ)り。ころしも、姬君は、いまだ五つにならせ給ふを[やぶちゃん注:重衡が捕縛されたのは寿永三(一一八四)年であるから、当時、数え五歳として、先に示した本話柄の推定時制の文明一四(一四八二)年(これに限定する理由も注した)から、生きていたら、彼女はこの時、実に二百八十三歳ということになる。]、わらは、いだき參らせ、北の方もろとも、こゝかしこにかくれすみて、いつしか、兵(つはもの)、しりぞき、しら浪(なみ)しづまりて、めでたく、都へかえらせ給ふやらんと、心は、はるか和田(わた)の原、八十嶋(やそしま)かけて行(ゆき)かよふ、つなでもきれて、御一門のうせ給ひしあらまし、我君のとらはれと成[やぶちゃん注:「なり」。]給ひしこと、きくに、夢とも現(うつゝ)とも、わきがたく[やぶちゃん注:信じられず。]、さるにても世のうさをしろしめす神のちかひもをはさば、今一度の見參(げんざん)もと、おもふに、かひなき御運(ごうん)の末、覺(おぼ)ししらぬ罪をかづきて、うきを見給ふ都渡(みやこわた)し。北の方は、それがために、ほどなく、むなしくならせ給ふ。黃泉(よみぢ)の御宮仕(みやづかへ)とおもへども、此君をかしづき參らする人も侍(はんべ)らねば、おしからぬ命(いのち)を深山邊(みやまべ)に、ならの葉ふきわたす草の庵(いほ)、たれとへとてか、呼子鳥(よぶこどり)、淚の雨にかきくれて、あかしくらすうちにも、やうやう生長(をいたち)給ふにつけても、あはれ、昔の世なりせば、いか成[やぶちゃん注:「なる」、]公達をも、むこがねにと、むかしをしのぶそのうちに、きみと、すく世(せ)の契り、たえもせで、せちに戀させ給ふ甲斐ありて、かく、まみヘ給ふことになん侍り。」

と物語(ものがたり)に、姬も、そゞろに淚にくれ給ヘば、帶刀も、覺へず、感傷にたへず、老女、淚をとゞめて、

「かゝるめでたき折に、しづのをだまきくりかへすべき事ならぬを、よしなき長物語(ながものがたり)に、姬君の、さぞや、心なしとや、覺したまふらん。とし頃の、闇路(やみぢ)をてらす春の日に、おもひの氷、うけとけ給へ。」

と、戲(たはむれ)て、老女は一間へ退きぬ。

 帶刀、姬の手をとりて閨(ねや)にいれば、そらだきのかほり、ゑならず、いときよらかにかざりたる文臺・草紙・歌集なんど、とりそろへたるに、詠草(えいそう)と覺しくて、

[やぶちゃん注:以下の歌はブラウザの不具合を考え、上の句と下の句を分離した。]

  うちもねであふとみる夜の夢もがな

   うつゝの床はひとりわぶとも

  ならひしも物おもふねやのひとりねに

   うきを忍ぶののきの松風

帶刀、硯、引よせて、

  ほのみつる心の色や入初(いりそめ)し

   戀の山路のしをりなるらん

  ゆめかとも猶こそたどれ戀衣

   かさねそめぬる夜半(よは)の現(うつゝ)を

姬、くりかへし吟じて、

「みづからとても、夢うつゝ、ふみまよひたる初尾ばな、染ぬる色の、かはらで。」

と、きこゆるに、

「さるにても、君、いつしか見そめ給ひしにや。」

といふに、姬、うちわらひて、

「君は、まことにしり給ふまじ。過(すぎ)し頃、乳母なるものに具せられて、石山寺に詣でたりしに、君は、とくより、かしこにおはせしが、たがひに、それとみれば、見もし給ひて、岩手の山の岩つゝじ、下(した)もゆるおもひは余所(よそ)にもらさねば、心うくも、さそはれて見うしなひ參らせしより、露、わするゝひまもなく、君は世をへだて給へども、わが身ひとつは、もとの身にして、おもひのけふり、たゆむことなく、幾年月を重ねたりしを、あはれとも見給へ。」

と、きくに、帶刀も、

「すく世より、契りしことよ。」

と、いとゞあはれにおぼへて、新手枕(にいたまくら)をかはすとすれば、八聲(やごゑ)の鳥[やぶちゃん注:夜の明け方に鳴く鷄。]にうちをどろかされぬるに、老女のこえして、

「山本(やまもと)の神ならずとも、晝ははゞかりあり。かさねての見參は、ふす猪のとしの秋にこそ。」

といふに、帶刀、裝束して出(いづ)れば、重ねて、老女、云(いはく)、

「門院(もんゐん)[やぶちゃん注:清盛の娘で安徳天皇の母建礼門院徳子。]、大原の奧にすませ給ひて後は、世のうきよりはまさりしとて、主上をはじめ、一門の人々を、殘りなくむかへ給へば、我君・北の方もろとも、とくより、かしこへ參り居させ給ふ。姬君は其頃、門院、いまだしろしめさゞりしゆへ、めすこともなく、いたづらに此所にひとりすみわび給ふ。折にはまいらせ給へども、彼(かの)御所に姬君の局(つぼね)も侍らず。そのうへ、はかばかしき御供の侍も侍らねば、此年月、むなしく過(すご)し侍り。ちか頃は、此殿(このとの)も、あれまさりたれば、いよいよ、大原の御所にうつらせ給はんことをおもへども、君に、一度、逢瀨のうへにてこそと、まちわびたるけふの見參(げんざん)に侍(はんべ)れば、ねがはくは、大原に參り給ひ、此よし啓(けい)し給ひ、むかえの車、たまはるやうになん、申給へかし。此事、くれぐれ賴參(たのみまい)らす。」

といふに、帶刀、

「露たがへじ。」

と諾(だく)す。

 姬君、床の邊(ほとり)より一面の硯を出して、

「これこそ、高麗(こま)の國より奉りたる『遠山(とをやま)』といふ名硯(めいけん)なるを、高倉のみかど、父上に給はりしとぞ。父上、常々、古硯をめでさせ給ひしゆへ、御最後の時まで『松蔭の硯』を身に添たまひしが、知識と賴(たのみ)たまひたる吉水(よしみづ)[やぶちゃん注:現在の東山区八坂鳥居前東入円山町にある安養寺(グーグル・マップ・データ)。吉水坊と称して法然が三十数年の間ここを本拠に称名念仏を宣揚した。]のひじり法然上人に布施物にさゝげ給ひ、『遠山』は母君の手にのこり、わらは給はりて、朝夕(あさゆふ)、手なれ侍れども、ちぎりは石のかたきによせ、又も見へまいらせんため、ちかごと[やぶちゃん注:誓詞。]に代(かへ)て遣(をく)りまいらす。」

と宣ふに、帶刀も「浪に千鳥」の筓(かうがい)を末(すへ)のかたみにのこして、立出(たちいづ)るに、姬君は、たゞうちふして泣(なき)給ふ。

 老女、さまざますかしまいらすうちに、心つよくも立出(たちいで)たりしが、又、こんために枝折(しをり)して麓(ふもと)に出(いづ)るに、宇治の里には、宵よりかえりのおそきをいぶかり、こゝかしこ尋ねもとむる家の子に行逢(あひ)て、そのやうをたづぬれども、唯(たゞ)、「みちにふみまよひて」とばかり答へて、家にかえりても、其面影のわすれやらず、ゆめかとおもへど、うつり香は、はだへにたしかに、むつごとは耳にのこりて、其人の、今も身に添(そふ)心地して一間なる所に引籠(ひきこもり)て、父母にだに、まみヘざりしが、重ねて琴彈山(ことひきやま)にわけ入て、ありし所と覺しきを尋るに、只、松柏、生茂(をいしげ)り、よもぎみだれ、すゝきむれたちたるほとりに、苔むしたる五輪、かたぶきて、しるしの名もきえて、みヘわかず。

 よらんかたなくかなしきに、今更、わかれたるごとく、うちふして、淚にくれたりしが、さてしもあるべきことならねば、それより直(すぐ)に、大原にまかりて、一門の人々の姓名をしるされし過去帳をみるに、姬の名はもらされたり。

「さては。門院、世にましましたる頃は、いまだ、姬もつゝがなく、その上、おさなくして、壽永の亂、出來(いでき)たれば、しろしめめさゞりしも理(ことはり)なり。」

と、姬の名をしるしのせ、猶も、うしろの山にそとば[やぶちゃん注:「卒塔婆」。]たて、その頃、世にたぐひなきひじりの西山(せいざん)上人ときこえ給ひしを請(しやう)じて、開眼(かいげん)の供養など行ひ、

「これなん、老女が局(つぼね)といひしなるべし。[やぶちゃん注:恐らくは、『老女が言った「かの御所に姬君の局(つぼね)も侍らず」と言った意味は、ここに姫君を供養した塔がないことを婉曲して言ったものだったのだろう』の意であろう。]

と、のこることなく沙汰して、宇治にかえり、再び妻を迎ふることもなく、あけくれ、「遠山の硯」をその人のおもかげ見るごとく、いつくしみ、身をはなさずありしが、十とせ許(ばかり)をへて、辛亥(かのとい)といふとしの秋の頃、いさゝか、風のこゝちしたりしが、させる事にも侍らねば、庭のけしきをも詠めんと、障子、ひらきたるに、過(すぎ)しとしの、女(め)の童(わらは)、いづちともなく、きたりて、

「今宵、御迎ひを參らせんとのことなり。」

と、いふに、帶刀、はじめて猪(ゐ)のとしにといゝしをおもひあはせて、

「さては。今宵に命(いのち)きわまりたり。」

と、はじめて、父母にも、ありし次第を物語(ものがたり)て、

「死したらん後(のち)は、『遠山の硯』をも棺(くはん)にをさめて、大原の山に葬り給へかし。」

と、くれぐれあつらへ置(をき)て、その夜(よ)、俄に身まかりぬ。

 父母、その言葉のごとく、大原に葬りて、多くの僧をやとひて、二人の菩提をねんごろにいのりしが、雨の夜(よ)などには、帶刀、姬の手をとり、女の童をつれて、大原の里・「おぼろの淸水」などのあたりにて、みたるものも侍りしときこえければ、父母、かなしく覺へて、水陸(すいりく/せがき)の薦(せん/ほうじ)[やぶちゃん注:施餓鬼会(せがきえ)。]、法華書寫なんど、いみじき功德を行ひたりしゆへにや、そのゝちは、見たる者もなかりしとぞ、語り傳へ侍(はんべ)る。

   *

私は大の和歌嫌いだが、本篇に限っては、幽魂との相聞歌は、やはりあるべきと存ずる。少し、残念である。

「おぼろの淸水」「朧の清水」寂光院への参道の途中にある泉水で、建礼門院が寂光院に入る道すがら、日が暮れ、月の明かりの中、この泉に姿を映されたという。参照した「京都大原観光保勝会」公式サイト内のこちらに地図がある。]

2019/10/05

小泉八雲 鏡の少女  (大谷正信譯) 附・原拠「當日奇觀」卷之第五の「松村兵庫古井の妖鏡」(原本底本オリジナル版)

 

[やぶちゃん注:やぶちゃん注:本篇(原題“ THE MIRROR MAIDEN ”(「鏡の処女」)は一九〇五(明治三八)年十月にボストン及びニュー・ヨークの「ホートン・ミフリン社」(HOUGHTON MIFFLIN AND COMPANY)刊の“ THE ROMANCE OF THE MILKY WAY AND OTHER STUDIES & STORIES ”(「『天の河の恋物語』そして別の研究と物語」。来日後の第十二作品集)の四番目に配されたものである。本作品集は“Internet Archive”のこちら(目次ページを示した)で全篇視認でき(本篇はここから)、活字化されたものは“Project Gutenberg”のこちらで全篇が読める(本篇はここから)。小泉八雲は、この前年の明治三七(一九〇四)年九月二十六日に心臓発作(狭心症)のため五十四歳で亡くなっており、このブログ・カテゴリ「小泉八雲」で完遂した「神國日本」(戸川明三訳。原題は“ Japan: An Attempt at Interpretation ”(「日本――一つの試論」)に次いで、死後の公刊となった作品集である。

 底本は上記英文サイト“Internet Archive”のこちらにある画像データをPDFで落し、視認した。これは第一書房が昭和一二(一九三七)年一月に刊行した「家庭版小泉八雲全集」(全十二巻)の第八巻全篇である。★【2025年4月3日底本変更・前注変更】時間を経て、国立国会図書館デジタルコレクションに本登録し、現行では、以上の第一書房版昭和六(一九三一)年一月に刊行した「學生版小泉八雲全集」(全十二巻)の第七巻が、国立国会図書館デジタルコレクションで公開されてある。(リンクは扉だが、「學生版」の文字はない。しかし、奥附を見て貰うと『學生版 【第二囘豫約】』とあり、『昭和六年一月十日 發行』とあることが確認出来る)、 これが、前掲の底本と同じものであるが、やはり、外国のサイトのそれを底本とするのは、日本人小泉八雲に失礼であると考えた。されば、こちらで、再度、以下の「骨董」の作品群を改めて校正することとする。これが――私の小泉八雲への「義」――である。なお、之よりも前の元版の全集等が先行しているものの、私がそれらと比べた結果、実は先行する同社の「小泉八雲全集」のそれらは、訳が一部で異なっており、訳者等によって、かなりの補正・追加がされていることが、今回の正字補正作業の中で、はっきりと判って来た。いや、同じ「家庭版」と名打ったネット上の画像データでも、驚いたことに、有意に異なっていたのである。そうした意味でも――完全な仕切り直しの総点検――が必要であると決したものである。従って、旧前振りの括弧・鍵括弧の問題も、拡大とガンマ補正で確認し、正確を期する。本作はここから。

 訳者大谷正信氏については、「小泉八雲 燒津にて 大谷正信譯」の私の冒頭注を参照されたい。

 傍点「﹅」は太字に代えた。挿入原注は四字下げポイント落ちであるが、本文と同ポイントで、頭から示した。

 実は本篇は、既に、私の『柴田宵曲 續妖異博物館 「井の底の鏡」 附 小泉八雲「鏡の少女」原文+大谷正信譯』で、英文原文と、同じ大谷正信氏の後の出版のもの(新潮文庫昭和二五(一九五〇)年古谷綱武編「小泉八雲集 上巻」所収)、及び、原拠をも示してあるのであるが、私はこの付喪神の「彌生」が好きだから、今回は、また、独立記事として、全くのゼロから総てをやり直した最後に掲げる原拠も小泉八雲旧蔵本のそれに拠った。但し、英文原文はそちらを見られたい。

 

 

  鏡の少女

 

 足利將軍時代に南伊勢の大河內明神の神社が頽廢したところ、其國の大名北畠公は戰爭や他の事情の爲めに、其建物の修繕を圖ることが出來なかつた。そこで、其社を預つて居た神官の松村兵庫といふが京都へ行つて、將軍に信用されて居ると知られてゐた、大大名の細川公に助力を求めた。紬川公は其神官を懇切にもてなし、大河內明神の有樣を將軍に言上しようと約束した。然し、兎に角、社殿修理の許可は相當な取調べをし、又、可也手間を取らねば與へられまいと云つて、事が取極められる間、都に止まつて居るやうにと松村に勸めた。其處で松村は家族の者を京都へ呼び寄せて、昔の京極の處に家を一軒借りた。

[やぶちゃん注:「大河内明神」現在の三重県伊勢市辻久留(つじくる)にある、伊勢神宮豊受大神宮(外宮)の摂社志等美神社(しとみじんじゃ)と同じ社地内にある外宮摂社大河内神社(グーグル・マップ・データ)。ウィキの「志等美神社」によれば、『社殿は別であるが、志等美神社と同じ玉垣の中に鎮座している』。『外宮の摂社』十六『社のうち第』八『位である』。本話柄時制より後の『戦国時代に大河内神社が』再び(?)『荒廃した後、上社の境内社であった山神社となった』とあり、さらに、『現在の社名の読みは「おおこうち」であるが、古文書では「オホカハチ」、「オホガフチ」などのフリガナが付されている』ともある。『柴田宵曲 續妖異博物館 「井の底の鏡」 附 小泉八雲「鏡の少女」原文+大谷正信譯』では、大河内城跡近くの大河内神社を比定したが、伊勢神宮の見解をよく考えると、転地されて、ここが後裔と考えるべきと認識した。そちらの記載は弄らずにそのままにしておく。

「北畠公」次注に出現する時制設定であるならば、室町中期の公卿で権大納言・正二位で、伊勢国司北畠家第四代当主にして伊勢国守護大名であった北畠教具(のりとも 応永三〇(一四二三)年~文明三(一四七一)年)となる。ウィキの「北畠教具」によれば、『父が戦死した時は』七『歳とまだ幼少であった為、叔父の大河内顕雅が政務を代行していた』が、嘉吉元(一四四一)年、十九歳で伊勢国司となった。その際、『将軍の足利義教から一字を賜って教具と名乗った。同年、義教が暗殺される事件(嘉吉の乱)が起こると、その首謀者の一人で伊勢国に逃亡してきた赤松教康』『の保護を拒否して自殺に追い込み、幕府に恭順を誓った』。文安五(一四四八)年には『長野氏と所領を巡り』、『合戦を行っている』とあって、設定と合致する。

「松村兵庫」「斎宮歴史博物館」公式サイト内の学芸普及課課長榎村寛之氏の「第17話  伊勢と斎院を結ぶちょっと面白い話」に、本篇の最後に掲げる原拠に基づきつつ、以下のようにある。『三重県の松阪市内、といってもかなり郊外に、大河内城という城跡があります。室町時代に伊勢国司と守護を兼ね、織田信長に滅ぼされるまで伊勢の支配者として栄えた北畠氏の本城だったこともある所です。この国府、つまり大河内城の西南に大河内明神という社があり、北畠家の尊崇厚かったのですが、ご多分に漏れず、戦乱続く室町時代半ば頃には衰微著しく、嘉吉文安の頃』(一四四一年~一四四九年)『には修理もおぼつかないありさまとなっていました』。その頃、『この神社の神主に松村兵庫なる者がおり、室町幕府管領細川家につてがあったので、京に上って窮状を訴えたのですが、嘉吉の乱で六代将軍足利義教が赤松満祐に殺されたり、ほどなく八代将軍として足利義政が就任したりと物情騒然の折からなかなかよい回答も得られず、ただ待つばかりでした。しかし兵庫はもともと風流人でしたので、この際和歌の道を究めようと、京極今出川に寓居したのです』とある。

「細川公」以上の時制設定から、これは若き日の細川勝元(永享二(一四三〇)年~文明五(一四七三)年)と考えてよいように思われる。彼は文安二(一四四五)年に畠山持国(徳本)に代わって十六歳で管領に就任しているが、それ以前に摂津・丹波・讃岐・土佐の守護であったから、「將軍に信用されて居ると知られてゐた、大大名」に矛盾しないからである。

 この家は、綺麗で廣かつたが、長い間、人が住まずに居たのであつた。不吉な家だと世間で言つて居つた。その京極側に井戶が一つあつた。そして、何んとも原因知れずに、その井戶で溺死した前の借家人が幾人もあつたからである、然し松村は、神官のことだから、惡靈など更に恐れず、直ぐと、この新居で居心地よく暮した。

 その年の夏大旱魃があつた。幾月も一滴の雨も五畿內に降らなかつたので、川床は涸れ、井戶は干て[やぶちゃん注:「からびて」と訓じておく。]、この都にさへ水の拂底を見た。ところが、松村の庭の井戶は相違らず水が殆んど一杯で、その――非常に冷たく淸く、微かに靑味帶びて居た――水は泉が供給するらしく思はれた。暑い季節の間、町の方方から水貰ひに多勢人が來たが、松村は欲しいだけいくらでも人に汲ませた。それでも水の供給は減るやうには見えなかつた。

 ところが、或る朝、近處の家から水汲みに來た、年若い下男の死骸が、其井戶に浮んで居るのが見つかつた。自殺の原因は何一つ想像出來なかつたので、松村は、其井戶に就いての面白からぬ話を數數想ひ出して、何か眼に見えぬ怨恨の業ではないか知らと疑ひ始めた。そこで、其まはりに垣を造らせようと思つて、其井戶を調べに行つた。すると、獨りで其處に立つて居る間に、水の中で、何か生きて居る物がするやうに、突然、物が動くので驚いた。其動きがやがて歇むと[やぶちゃん注:「やむと」。]、見た處十九か二十歲ぐらゐの若い女の姿が、其靜かな水面に明らかに映つて居るのが見えた。切りと[やぶちゃん注:「きりと」。しっかりと。「切」は当て字。]お化粧をして居るやうで、脣へ紅(べに)をさすのが判然(はつきり)見えた。初めは其顏は橫顏だけ見えてゐたが、やがてのこと、その女は松村の方を向いてにこりと笑つた。直ぐに其心臟に異常な衝動を感じ、酒に醉つたやうに眩暈[やぶちゃん注:「めまひ」。]がして、――月の光りの如く白くまた美しく、いつも次第に美しさを增すやう思はれ、また闇黑ヘ彼を引き下ろさう、下ろさうとするやう思はれる、そのにこりとした顏だけが殘つて、一切の物が暗くなつた。だが、彼は一所懸命に意志を取り戾して眼を閉ぢた。それから眼を開けて見たら、その顏は消えて居り、世は明かるくなつて居た。そして自分は井桁から下へうつむいて居ることを知つた。あの眩暈(めまひ)がもう一秒續いたなら――あののまぶしい誘惑がもう一秒續いたなら、二度と日の目を見ることは出來なかつたことであらう。……

 家へ歸ると、皆の者にどんな事があらうと、その井戶へ近寄らぬやう、どんな人にもその水を汲ませぬやう命じた。そして、その翌日、丈夫な垣をその井戶のまはりに造らせた。

 

 垣が出來てから一週間許りすると、その長の[やぶちゃん注:「ながの」。]旱天(ひでり)が風と稻光りと雷――全市が、その轟きで地震で顫へるやうに、ふるへたほどの恐ろしい雷――との伴うた大風雨で絕えた。三日三晚その土砂降りと電光と雷鳴とが續き、鴨河は未だ嘗て見ぬほど水嵩が增して、多くの橋を流し去つた。その風雨の三日目の夜、丑の刻に、その神官の家の戶を敲くものがあつて、內へ入れて吳れと賴む女の聲が聞えた。が、松村は井戶での事を思ひ出して、あぶないと思つたから、その哀願に應ずることを召使の者共に禁じた。自分で入口の處へ行つて、かう訊ねた。

 『誰れだ』

 すると女の聲が返事した、

 『御免下さい! 私で御座います――あの彌生で御座います!………松村樣に申し上げたい事が――大切な事が御座いまして、何卒(どうぞ)、開けて下さいませ!』……

 松村は用心して戶を半分開けた。すると井戶から自分を見てにこにこと笑つた、あの美しい顏が見えた。しかし今度はにこにこしては居ないで、大變悲しさうな顏をして居つた。

 『私の家へは、はいらせぬ』と神官は呶鳴つた。『お前は人間では無い。の者だ。……何故、お前はあんなに意地惡るく人を騙して殺さうとするのだ?』

 そのの者は珠のちりんちりん、いふやうな調子のいい聲(タマヲコロガス)で返事した。

 『私の申し上げたいと思ひますのは、その事に就いてで御座います。……私は決して人を害ね[やぶちゃん注:「そこね」。]ようとは思つて居りません。が、古昔(むかし)から毒龍があの井戶に住んで居りました。それがあの井戶の主で御座いました。それであの井戶には水がいつも一杯にあるので御座います。ずつと前に、私はあの水の中へ落ちまして、それであれに仕へることになつたので御座います。自分がその血を飮むやうにと、私に、人を騙して死なせるやうにさせたので御座います。が、今後は信州の鳥井ノ池といふ池に棲むやう神樣が、今度[やぶちゃん注:「このたび」。]、御云ひ付けになりまして、神樣はあれをこの町へ二度と歸らせてはやらぬと御極めになりました。で、御座いますから今夜、あれが去(い)つてしまつてから、あなた樣のお助けを御願ひに、出て來ることが出來たので御座います。その龍が去(い)つてしまひましたから、今、井戶には水が少ししか御座いません。云ひ付けで探させて下されば、私の身體(からだ)が見つかるで御座いませう。どうか、御願ひで御座います、早く私の身體(からだ)を井戶から出して下さいませ。屹度、御恩返しは致しますから』……

 かう言つてその女は闇へ消えた。

[やぶちゃん注:「信州の鳥井ノ池」不詳。識者の御教授を乞う。]

 

 夜明けまでに風雨は過ぎ去つた。日が出た時には澄んだ靑空に雲の痕も無かつた。松村は早朝、井戶掃除屋を呼びに遣つて、井戶の中を搜させた。すると誰れもが驚いたことには井戶は殆んど干涸らびてゐた。容易(たやす)く掃除された。そして其底に頗る古風な髮飾りと妙な恰好の金屬の鏡とが見付かつたが――身體は動物のも人間のも、何んの痕跡も無かつた。

 だが、松村は此鏡が、その神祕の證明を與へはせねか知らと想つた。そんな鏡はいづれも己の魂を有つて居る不思議な品物で――鏡の魂は女性だからである。その鏡は餘程古いもののやうで、錆が厚く著いて居つた。が、神官の命で丁寧に、それを掃除させて見ると、稀なそして高價な細工だといふことが判り、その裏に奇妙な模樣があり、文字も數數あることが知れた。その文字には見分けられなくなつて居るものもあつたが、日附の一部分と、『三月三日』といふ意味の表意文字とは見極はめることが出來た。ところで、三月は昔は彌生(いや增すといふ意味)と云つたもので、祭り日となつて居る三月の三日は、今なほ彌生の節句と呼んで居る。あのの者が自分の名を『彌生』と云つたことを想ひ起こして松村は、自分を訪ねた靈の客は、この鏡の魂に他ならぬ、と殆んど確信した。

 だから、その鏡は靈に對して拂ふべき顧慮を以て、鄭重に取り扱はうと決心した。丁寧に磨きなほさせ、銀を著けなほさせてから、貴重な木でそれを容れる箱を造らせ、その箱を仕舞つて置く別室を家の中に用意させた。すると、その箱を恭しくその部屋へ置いた、丁度その日の晚に、神官が獨りで書齋に坐つて居ると忽然、その彌生が、その前へ姿を現した。前よりも、もつと美しいぐらゐであつたが、その美はしさの光りは、今度は淸い白雲を透して輝く夏の月の光りの如く軟かいものであつた。頭低く、松村に辭儀をしてから、玉のやうな美くしい聲でかう言つた。

 『あなたが、私の獨り住居を救ひ、私の悲しみを除(と)つて下さいましたから、御禮に上りました。……私は、實は、御察しの通り、鏡の魂なので御座います。齊明天皇の御世で御座いました。私は百濟から始めてこちらへ連れて來られたので御座いまして、嵯峨天皇の時まで、御屋敷に住まつて居たので御座いますが、天皇は私を皇居の加茂內親王に御與ヘになつたので御座います。その後、私は藤原家の寶物になりまして、保元時代までさうで

〔齊明天皇の治世は六五五年(紀元)から六六二年まで。嵯峨天皇は八一〇年から八四二年まで。百濟は朝鮮の西南部にあつた古の王國で、初期の日本史によくその名が出て居る。內親王は皇室の血統の方。昔の宮廷階級には高貴な婦人に二十五階級あつて、內親王は席次では第七階であつた〕

[やぶちゃん注:割注が段落途中で入るのは、ママ。以下、同じ。

「保元時代」一一五六年から一一五八年まで。

「加茂內親王」は一般名詞で「賀茂斎院」のことであろうと思われる。賀茂御祖神社(下鴨神社)と賀茂別雷神社(上賀茂神社)の両賀茂神社に奉仕した皇女を指し、伊勢神宮の「斎宮」と併せて「斎王」とも称した。さても嵯峨天皇の多くの内親王の内には、実に初代賀茂斎院と成った第八皇女有智子(うちこ)内親王(大同二(八〇七)年~承和一四(八四七)年)がいるので、彼女である。大同四(八〇九)年に父の嵯峨天皇が即位すると、翌弘仁元(八一〇)年に僅か四歳で賀茂斎院に卜定されている。ウィキの「有智子内親王」によれば、同九年、斎院司が開設され、同一四(八二三)年二月には、三品に叙され、封百戸を賜る(同年四月に嵯峨天皇が譲位)。天長八(八三二)年十二月に病により、退下し、同一〇(八三三)年、二品に昇叙。承和十四年十月二十六日(八四七年十二月七日))に薨去した。享年四十一であった。『有智子内親王は』弘仁元(八一〇)年に起こった「薬子の変」を契機として、『初代賀茂斎院に定められたと言われる。嵯峨天皇の皇子女の中でも豊かな文才に恵まれた皇女で』、弘仁一四(八二三)年、『嵯峨天皇が斎院へ行幸した際に優れた漢詩をものしたことから、感嘆した天皇は内親王を三品に叙したという。その詩作は』「經國集」『などに合計』十『首が遺されており、日本史上数少ない女性漢詩人の一人である』とある。或いは、この「彌生」、才媛にして、どこか、政争の被害者であったかも知れない有智子内親王の魂をも、暗示させているのではなかろうか?

ゐましたが、その時にあの井戶へ落とされたので御座います。あの大戰爭の幾年の間私は

〔幾世紀の間、天皇の好配と宮廷の貴女とは藤原家から選まれた。保元時代は一五六年から一一五九年まで。ここに云ふ戰爭は平家源氏間の、あの有名な戰爭〕

其處に置かれたまま人に忘れられて居たので御座います。そのの主は、元は此邊一帶

〔昔の信仰では湖水や泉にはいづれも眼には見えぬ守護者があつて、時に蛇又は龍の姿を取ると想はれて居た。湖水や池の靈は普通イケノヌシ卽ち『池の主』と云つて居た。此處には『主(ぬし)』といふ名を井戶に棲む龍に與へてあるが、本當は井戶の守護者は水神といふ神である〕

にあつた大池に棲んでゐた毒龍で御座いました。その大池が、お上(かみ)の命令で、家を其處ヘ建てる爲めに、埋められましてから、その龍はあの井戶を我が物にしたので御座います。私はあの井戶へ落ちてから、それへ仕へることになりまして、あれが無理に私に人を多く死なせるやうにしたので御座います。だが、神樣があれを永久に追ひ拂ひになりました。……あの、私に、も一つ御願ひが御座います。私の前の持主と家柄が續いて居りますから、將軍義政公へ私を獻上して下さいませんでせうか、御願ひ致します。最後のこの御深切さへして戴けますれば、私はあなた樣に幸福を持つて參りませう。……が、その上にあなた樣の身に危ういことがあることを御知らせ致します。この家には、明日から、おいでになつてはいけません。この家は壞れますから』……

 そしてかう警戒の言葉を述べると共に、彌生は姿を消した。

[やぶちゃん注:ここで「將軍義政公」と言っていることから、先の注で示した通りの限定期間である嘉吉・文安の頃(一四四一年から一四四九年まで)の内、少なくともこの彌生の懇請のシークエンスは、足利義政が将軍宣下を受けて第八代足利幕府将軍に就任した文安六(一四四九)年四月二十九日よりも後となり、しかも文安六年は七月二十八日(ユリウス暦一四四九年八月十六日)宝徳に改元されるから、物謂いに拘るなら、その僅か三ヶ月に限定することも可能となり、この全体の出来事が「夏」に設定されている以上、この話はまさにその限定期間に合致すると言っても差し支えないとも思われるのである。【2020年10月22日追記】本日、原作の初版に基づき、「都賀庭鐘 席上奇觀 垣根草 巻之五 松村兵庫古井の妖鏡を得たる事」を零から再々電子化注した。その結果として考えるに、この限定は無理があると、今は感じている。詳しくは、その決定版の私の注の時代考証を参照されたい。

 

 松村はこの豫戒によつて利益を享けることが出來た。翌日、自分の家の者共と品物とを別な町へ移した。すると殆んどその直ぐ後に、初めのよりかもつと猛烈なくらゐの暴風が起こつて、その爲めの洪水で、それまで住まつてゐた家は流されてしまつた。

 その後暫くして松村は、細川公の厚意によつて將軍義改に謁見するを得て、その不思議な來歷を紙に書いたものと一緖に、かの鏡を獻上した。そして、その時鏡の魂の豫言が實行された。將軍はこの珍らしい贈り物を大いに喜ばれて、松村へ高價な賜物を與へられたばかりで無く、大河內明神の神殿再建に澤山の寄附金をされたからである。

 

[やぶちゃん注:本篇の原拠は、一九九〇年講談社学術文庫刊の小泉八雲著・平川祐弘編「怪談・奇談」の布村(ぬのむら)弘氏の「解説」によれば、江戸末期の弘化五(一八四八)年一月に板行された、大坂の戯作者で名所図会作者として有名な暁鐘成(あかつきかねなり 寛政五(一七九三)年~万延元(一八六一)年:姓は木村、名は明啓)編の、「當日奇觀」巻之第五巻頭に配された「松村兵庫(まつむらひやうこ)古井(こせい)の妖鏡(ようきやう)」である。但し、実は当該原拠自体が、その序文の記載から、それよりもかなり以前に出版された、江戸中期の読本作家で儒学者・医師でもあった文人都賀庭鐘(つがていしょう 享保三(一七一八)年~寛政六(一七九四)年?:大坂の文人。上田秋成は都賀の「古今奇談繁野話(しげしげやわ)」(明和三(一七六六)年板行)に触発されて「雨月物語」を書いたことは有名)著とされる(署名は「草官散人」)「席上奇觀垣根草」を外題を変えただけで、再版・改題したものである。私は「席上奇觀垣根草」を、昭和二(一九二七)年刊の「日本名著全集」第十巻「怪談名作集」(活字版)を所持しており、比較して見たが、特に大きな異同は見当たらぬので、小泉八雲が実際に原拠とした以下で電子化することとした。

 ここでは富山大学「ヘルン文庫」の旧小泉八雲蔵本の(こちらからダウン・ロード出来る)「當日奇觀」巻之第五を底本として電子化した。但し、読みは五月蠅いので、振れると思われる一部に留めた。歴史的仮名遣の誤り(かなり激しい)はママである。読み易さを考えて、私が句読点・記号を附加し、段落も成形した。一部に濁音を附した。なお、原拠には悪龍が去るその瞬間を描いたと思しい挿絵がある。【2025年4月3日追記】私は後に「都賀庭鐘 席上奇觀 垣根草 卷之五 松村兵庫古井の妖鏡を得たる事」を電子化注し、そこで、出来る限り、正字正仮名となるように、総てを、ブラッシュ・アップし、さらに最新の注も附してある(例えば、ここでは不詳とした「信州の鳥井ノ池」も候補対象を示してある)ので、そちらが、最終決定版となるから、必ず、最後に読まれたい。そちらも、今回に合わせて、先ほど、特別に再補訂しておいた。

   *

      松村兵庫古井の妖鏡

 南勢(なんせい)大河內(をゝかわち)の鄕は、そのかみ、國司の府にて、南朝の頃までは、北畠殿こゝにおはして、一方を領(りやう)じたまふ國府の西南に大河內明神(をゝかはちめうじん)の社(やしろ)あり。國司より宮宇(きうう/やしろ[やぶちゃん注:前が右ルビ、後が意味添え風の左ルビ。以下同じ。])も修理(しゆり)したまひ、神領もあまた寄(よせ)られしが、漸(やうや)く衰廢(すいはい/あれはて)して、嘉吉・文安の頃にいたりては、社頭も雨露(うろ)におかされたまふ風情なりしかば、祠官(しくはん/かんぬし)[やぶちゃん注:神主と同義。]松村兵庫(まつむらへうご)なるもの、都に登りて、時の管領(くはんれい)細川家に由緖あるにたよりて、修造(しゆざう)の事を訴ふるといへども、前(さきのさきの)將軍義教公、赤松がために弑(しい)られたまひ、後嗣(こうし/よつぎ)も、ほどなく、早世(さうせい)ありて、義政公、將軍の職を繼(つぎ)たまふ。打續(うちつゞき)て公(をゝやけ)の事(こと)、繁きに、其事(そのこと)となく、すぎ侍(はんべ)れば、兵庫は、もとより文才もかしこく和哥の道なども幼(いとけなき)より嗜(たしみ/すき[やぶちゃん注:右ルビは「たしなみ」の脱字。])たりしかバ幸(さいはひ)に滯留して、其奧儀(おうぎ)をもきはめんと、京極(きやうごく/てらまち)今出川の北に、寓居(ぐうきよ/かりずみ)して公(をゝやけ)の沙汰を待居(まちゐ)たり。

 旅舘の東北(ひがしきた)にあたりて、一(ひとつ)の古井(こせい/ふるゐ)ありて、むかしより、時々、よく人を溺(をぼ/とる)らすときゝたれども、宅眷(たくけん/かない)とてもなく、從者(じうしや)一人のみなれば、心にも挾(さしはさ)まず、暮しけり。

 其頃、畿內、大(をゝゐ)に旱(ひでり)して、洛中も水に乏しき折(をり)にも、かの古井は涸(かる)ることなく、水(みづ)、藍(あい)のごとくみちたれば、近隣より汲(くみ)とる者、多し。されども、人々、心して汲(くむ)ゆへにや、溺るゝ者もなかりしに、或日(あるひ)、暮(くれ)の頃、隣家(りんか)の婢(ひ)、例のごとく汲(くま)んとして、久しく井中(いちう)を窺ひ居たるを、「あやし」と見るうちに、忽(たちまち)墜(をち)いりて、溺れ死したり。井水(いすい)きわめて深ければ、數日(すじつ)を經て、漸くその死骸をもとめ得たり。

 是より、兵庫、あやまちあらん事を怖れて、垣など、嚴しくしつらひたりしが、去(さる)にても、あやしとおもふより、たちよりて、竊(ひそか)に窺ふに、中(なか)に、年の頃、廿(はたち)ばかりと覺しき女の、なまめけるが、粧飾(さうしよく)、いとうるはしく粧(よそほ)ひて、あり。兵庫をみて、すこし、顏そむけて笑ふ風情(ふぜい)、その艷(えん)なる事、世のたぐひにあらず、魂(たましい)、飛(とび)、こゝろ、動(うごき)て、やがて[やぶちゃん注:そのまま。]、ちかよらんとせしが、おもひあたりて、

『扨は。かくして人を溺らす古井の妖(よう/ぬし)なるべし。あな、をそろし。』

と、急に立(たち)さりて、從者にも、此よし、かたく制して、近付(ちかづか)しめず。

 或夜(よ)、二更[やぶちゃん注:現在の午後九時又は午後十時から二時間を指す。亥の刻。]の頃より、風雨、はなはだ烈しく、樹木を倒(たを)し、屋瓦(をくぐは/やねのかはら)を飛(とば)せ、雨は盆を傾(かたぶ)くるごとく、閃電(せんでん/いなづま)、晝のごとく霹靂(へきれき/はたゝがみ)、をびたゝしく震ひ、天柱(てんちう)も折(くじ)け、地維(ちゆい)[やぶちゃん注:普通は「ちゐ(ちい)」と読み、大地を支えていると考えられた綱を指し、転じて「大地」の意。「天柱」の対語。]も崩るゝかとおもふうちに、天(そら)晴(はれ)て夜も明(あけ)たるに、兵庫、とく起(をき)て、窓を開(あけ)て外面(そとも)を窺ふところ、表に、女の聲して案內を乞ふ。

「誰(たそ)。」

と、とヘば、

「彌生(やよひ)。」

と、答ふ。

 兵庫、あやしみながら、裝束(しやうぞく)して戶をひらき、一間に請(しやう)じて、これを見れば、先に井中にありし女なり。

 兵庫が云(いはく)、

「女郎(ぢよらう)は井中の人にあらずや。何ぞ、みだりに人を惑して殺すや。」

 女、云(いはく)、

「妾(せう)は人をころす者にあらず。此井、毒龍(どくりやう)ありて、むかしより、こゝにすむ。ゆへに大旱(たいかん/をゝひでり)といへども、水、かるゝ事、なし。妾(せう)は中昔(なかむかし)、井に墜(をち)て、遂に龍(りやう)のために役便(えきし/せめつかはる)せられ、やむことを得ずして、色(いろ)を以て、人を惑し、或は、衣裝・粧具(さうぐ/くしかうがい)の類(るい)を以(も)て、欺(あざむ)き、すかして、龍(りやう)の食(くら)ふところに供するのみ。龍(りやう)、人血(にんけつ/ひとのち)をこのみて、妾(せう)をして、これを弁(べん)ぜしむる[やぶちゃん注:処理させる。]。其辛苦、堪(たへ)がたし。昨夜、天帝の命ありて、こゝをさりて、信州鳥居(とりゐ)の池にうつらしむ。今(いま)、井中(ゐちう)、主(ぬし)、なし。此時、君(きみ)、人をして妾(せう)を拯(すくふ)て、井を脱(だつ/のがれ)せしめ給へ。もし、脱することを得ば、おもく、報ひ奉るべし。」

と、いひ終りて、行方(ゆきがた)をしらず。

 兵庫、數人(すにん)をやとひて、井をあばかしむるに、水、涸(かれ)て、一滴も、なし。

 されども、井中、他(た)のものなく、唯(たゞ)簪(けんさん/かうがいかんざし)のるいのみなり。

 漸(やうや)く、底に至りて、一枚の古鏡(こきやう)あり。

 よくよくあらひ淸めて、是をみるに、背に、

「姑洗之鏡(こせんのかゞみ)」

といふ四字の款識(あふしき)[やぶちゃん注:普通は「くわんしき(かんしき)」と読む。「款」は陰刻の銘、「識」は陽刻の銘で、鐘・鼎・鏡などの鋳造部に刻した銘・銘文を指す。]ありて、

「さては『彌生』といひしは、此ゆへなり。」

と、香(かう)を以て其穢汚(ゑを)を清め、匣中(かうちう)[やぶちゃん注:小箱の内。]に安(あん)じ、一間(ひとま)なる所を淸くしつらひて置(をき)たりしに、其夜、女、又、來りて云(いふ)やう、

「君(きみ)の力によりて數(す)百年の苦(くるし)みをのがれて、世に出る[やぶちゃん注:「いづる」。]ことを得侍(えはんべ)るうへ、不淨を淸めて、穢(けがれ)をさりたまひしゆへ、とし月の腥穢れ(せいえ/なまくさきけがれ)をわすれ侍(はんべ)り。そも、此井は、むかし、大(をゝゐ)なる池なりしを、遷都の時、埋(うづ)めたまひ、漸(やうやう)形ばかりをのこしたまふ。都を遷(うつ)したまふときは、八百神(やをよろづ)の神々、きたりたすけ給ふゆへ、其(その)むかしよりすみたりし毒龍(どくりう)も、せんすべなくして、井中(せいちう)をしめて、すまひ侍(はべ)り。妾(せう)は、齊明天皇の時、百濟國(くだらこく)よりわたされて、久しく宮中に祕め置(おか)れしが、嵯峨天皇のときに、皇女賀茂の內親王にたまはり、夫(それ)より後(のち)、兼明(かねあきら)親王[やぶちゃん注:延喜一四(九一四)年生まれで永延元(九八七)年没。醍醐天皇の第十六皇子で、朱雀天皇・村上天皇・源高明の異母兄弟に当たる。一時、臣籍降下して源兼明(かねあきら)と名乗ったが、晩年になって皇籍に復帰し、中務卿となったことから「中書王(ちゅうしょおう)」などと呼ばれた。博学多才で書もよくしたという。]の許(もと)に侍(はんべ)り。遂に藤原家に傳はり、御堂殿(みどうどの)[やぶちゃん注:藤原道長。]、ことに祕藏したまひしが、其後(のち)、保元(ほうげん)の亂に、誤りて、此(この)井に墜(をち)てより、長く毒龍(どくりう)に責(せめ)つかはれて今日(こんにち)にいたる。十二律(りつ)[やぶちゃん注:中国及び日本の古くからの音名。一オクターブ内に半音刻みに十二の音がある。]にかたどりて鑄(ゐ)さしめらるゝ中(うち)、妾(せう)は、『三月三日』に鑄る所の物なり。君(きみ)、妾(せう)を將軍家にすゝめたまはゞ、大(をゝゐ)なる祥(さいわい)を得給ふべし。其上、此所(このところ)、久しくすみたまふ所にあらず。とく、外(ほか)に移り給へ。」

と、懇(ねんごろ)にかたり終りて、かきけすごとくにして、其形をみず。

 兵庫、その詞(ことば)のごとく、翌日、外(ほか)に移りて、事のやうを窺ふに、次の日、故(ゆへ)なくして、地、をちいり、家(いへ)も崩(くずれ)たり。

 ますます、鏡(かゞみ)の靈(れい)にして報ゆるところなるをさとりて、これを將軍家に奉るに、そのころ、義政公、古翫(こぐはん/ふるきどうぐ)を愛したまふ折(をり)なれば、はなはだ賞(しやう)したまひ、傳來するところまであきらかに侍(はんべ)るにぞ、第一の奇寶(きほう)としたまひ、兵庫には、其賞として南勢(なんせい)にて一ケの庄(せう)を神領(じんりやう)によせられ、猶も、社頭再建は公(をゝやけ)より沙汰すべきよしの嚴命をかうむりて、兵庫は本意(ほゐ)のごとく、多年の愁眉(しうび)をひらきぬ。

 其後(のち)、此(この)鏡、故(ゆへ)ありて、大內(をゝち)の家に賜りしが、義隆、戰死の後は、その所在をしらずとぞ、いひつたへ侍(はんべ)る。

   *

大内義隆の戦死は天文二〇(一五五一)年。さても、既に私の『柴田宵曲 續妖異博物館 「井の底の鏡」 附 小泉八雲「鏡の少女」原文+大谷正信譯』の注の最後でも述べたが、講談社学術文庫版の「解説」で布村氏も述べておられる通り、小泉八雲は原拠の展開順序を少し入れ替えた上、細部に手を加えて整合性を出している。最初に発生する不審な井戸での溺死者を「隣家の婢」から「近所の下男」へと変更しているのは、誘惑する「彌生」が女形であるからして八雲の処理の方が腑に落ちるし、彌生の最初の訪問も、原話では嵐の晴れた中であるが、八雲は嵐の中に設定しており、これが、まさに彌生の話中の毒龍移動の最中とマッチして、やはり共時的でダイナミックである。また、エンディングも、原話が大陥没による崩落で家が倒壊するというシークエンスを、龍との絡みを駄目押しに考えたものであろう、激しい大暴風の洪水で、完膚までに押し流されてしまうという、泉鏡花ばりのカタストロフ処理を施しているのも、これまた、小気味よいではないか。

小泉八雲 『究極の問題』  (大谷正信譯)

 

[やぶちゃん注:やぶちゃん注:本篇(原題“ " ULTIMATE QUESTIONS " ”(ダブル・クォーテーション・マーク附きである。大谷訳では再現されていない)は一九〇五(明治三八)年十月にボストン及びニュー・ヨークの「ホートン・ミフリン社」(HOUGHTON MIFFLIN AND COMPANY)刊の“ THE ROMANCE OF THE MILKY WAY AND OTHER STUDIES & STORIES ”(「『天の河の恋物語』そして別の研究と物語」。来日後の第十二作品集)の三番目に配されたものである。本作品集は“Internet Archive”のこちら(目次ページを示した)で全篇視認でき(本篇はここから)、活字化されたものは“Project Gutenberg”のこちらで全篇が読める(本篇はここから)。小泉八雲は、この前年の明治三七(一九〇四)年九月二十六日に心臓発作(狭心症)のため五十四歳で亡くなっており、このブログ・カテゴリ「小泉八雲」で完遂した「神國日本」(戸川明三訳。原題は“ Japan: An Attempt at Interpretation ”(「日本――一つの試論」)に次いで、死後の公刊となった作品集である。

 底本は上記英文サイト“Internet Archive”のこちらにある画像データをPDFで落し、視認した。これは第一書房が昭和一二(一九三七)年一月に刊行した「家庭版小泉八雲全集」(全十二巻)の第八巻全篇である。★【2025年4月1日底本変更・前注変更】時間を経て、国立国会図書館デジタルコレクションに本登録し、現行では、以上の第一書房版昭和六(一九三一)年一月に刊行した「學生版小泉八雲全集」(全十二巻)の第七巻が、国立国会図書館デジタルコレクションで公開されてある。(リンクは扉だが、「學生版」の文字はない。しかし、奥附を見て貰うと『學生版 【第二囘豫約】』とあり、『昭和六年一月十日 發行』とあることが確認出来る)、 これが、前掲の底本と同じものであるが、やはり、外国のサイトのそれを底本とするのは、日本人小泉八雲に失礼であると考えた。されば、こちらで、再度、以下の「骨董」の作品群を改めて校正することとする。これが――私の小泉八雲への「義」――である。なお、之よりも前の元版の全集等が先行しているものの、私がそれらと比べた結果、実は先行する同社の「小泉八雲全集」のそれらは、訳が一部で異なっており、訳者等によって、かなりの補正・追加がされていることが、今回の正字補正作業の中で、はっきりと判って来た。いや、同じ「家庭版」と名打ったネット上の画像データでも、驚いたことに、有意に異なっていたのである。そうした意味でも――完全な仕切り直しの総点検――が必要であると決したものである。従って、旧前振りの括弧・鍵括弧の問題も、拡大とガンマ補正で確認し、正確を期する。本作はここから。

 訳者大谷正信氏については、「小泉八雲 燒津にて 大谷正信譯」の私の冒頭注を参照されたい。

 傍点「﹅」は太字に代えた。

 ブログ標題の二重括弧は私の確信犯である。本文を読まれれば、納得されるであろう。

 

 

  究極の問題


 ずつと前の或る記憶である。……雲無き眞午(ひる)の光りを溶びて居る御影石の建物の間の、鐡のやうに鏗鏗と響く御影石の鋪道を自分は步いて居る。物の影は短かく銳い。その輝かしい暑い空氣はそよとも動かむ。そしてその街路での物の音は、妙に高い自分の跫音だけである。……不意に或る變な感じが――物すべてが虛妄だといふ感じ、卽ち疑ひが――疼かせる衝動といつたやうな風に、自分を襲ふ。鋪道、巨大な切石、鐡栅、眼に見ゆるもの凡て、夢で! ある。光、色、形、重さ、堅さは――感覺に訴へ得る存在物の凡ては――ただ、實在の幻影である。それに對して人間の國語が何等の語をも有たぬ一つの無限な靈性の表現に過ぎぬ。……

[やぶちゃん注:「鏗鏗」「かうかう(こうこう)」。「鏗」は「金石の打ち合う音」の意で、「鐘や硬質の石の音などが鳴り渡るさま」を言う。

「!」の後に字空けがないが、特異的に挿入した。以下の「?」でも同じ仕儀を行った。]

 この經驗は、『綜合哲學』――その讀みやうを或る亞米利加の友人が自分に敎へたのであつたが――の第一卷を硏究して起きて來たのであつた。自分はあれが容易には讀めなかつた。それは一つには自分が思索が遲(のろ)いからでもあるが、主として自分の心がこんな方面に努力を續けて行く、訓練をそれまで蒙つて居なかつたからであつた。『第一原理』を學ぶのに幾月もかかつた。あの叢書のうちの書卷で、これと同じほど骨の折れたのは他に無い。自分は一度に一節――稀に二節――を讀むことにして、前節が確かと解つたと思ふまでは、新規な節を讀むことを敢て爲なかつた。自分の進行は、暗がりにある長く幾つも續いて居る梯子を初めて登る人の進行のやうに、甚だ用心深く又甚だ遲かつた。終に[やぶちゃん注:「つひに」。]光明に達すると、自分は事物に對する不意な新規な視方を得た――物の表面の虛妄を瞬時看ることが出來た。そして其時からしてこの世界が、自分にはもう二度と、それまでと全く同じものとは見えなくなつた。

[やぶちゃん注:『綜合哲學』小泉八雲が深く敬愛するハーバート・スペンサー(Herbert Spencer 一八二〇年~一九〇三年)の一八六〇年刊行の“ System of Synthetic Philosophy ”(「総合哲学体系」)。本書を解説したウィキの「総合哲学体系」によれば、『スペンサーは本書で社会発展を主題としており、社会進化論を基礎とした社会学の理論を提唱した。社会学とは宇宙が進化する終局としての社会有機体の原因と発達について研究する学問として定義し、それを社会の均衡を形態学的に研究する社会静学と、社会の均衡にいたる力を生理学的に研究する社会動学に分かれる。そして有機体として社会が成立しているという把握に基づきながら個人の社会的な機能が相互に関連しながらある種の均衡状態を維持する社会状態を研究し、社会はコミュニケーションに基づいた協働で成立しており、社会の成員の意識は集合体の内部で散在していると特徴付ける。この散在する個々の意識を結合させて機能を分化させながら社会が連携している完全社会の状態をもたらすためには自由競争が必要であると論じた』。従って、『スペンサーにとって社会の全体と個人の自由は矛盾せず』、『結びついていた。社会の変動はこの社会状態の変動であり、強制的な協働に裏付けられた軍事型社会の状態は自発的な協働に裏付けられた産業型社会へと進化すると考えていた。軍事型社会では集権的な社会構造が成立しているものの、産業型社会では文献的な社会構造を備えていながら個々人が緊密に結合している。スペンサーの見解において、産業型社会の具体例は19世紀の近代イギリス社会であった。スペンサーは本書で資本主義の理論を社会学的に捉えることを試みている』とある。]

 

 二十年以上も前のこの記憶と、その時の異常な身戰き[やぶちゃん注:「みおののき」。]とが、世界最大の思索家が我等に遺した最後の、そして前のに劣らず貴重な一册の中にある「究極の問題」といふ論文を讀んで最近また自分に復活して來た。生死の謎は一生の知的勞苦の夕暮れに、その巨大な心へ自づと浮かんで來たのであつて、その謎に就いての氏の最後の發言が、其論文に收められて居る。確かに氏の我我に語らんとする處のものの實質は、或はその「綜合哲學」から推知し得たのかも知れぬ。が、あらゆる深い思索家の心を惱ます問題に關する個人的觀念を著者が述べて居る處に、この最後の論文の特殊の興味が存して居る。恐らくは我我のうちで、氏の純乎として科學的な態度に滿足したままで居れたものは少なからう。『意識といふ形の下(もと)に我我に湧き出づる』力と、萬物を形成するあの知り得べからざる力とは同一不二であるとの氏の言明を十分に受け入れて居ながらも、この師の多くの門弟は、直接氏に向つて『だが、人の身は死ぬると分解して無くなるといふ前途を思つて、あなたはどう御感じになりますか』と質問する或る機會を渇望したに相違無い。ところが、この全く感情的な質問に對して氏は、我我の如何なるものが願ひ得た通り、率直に且つ十分に――恐らくは、より以上に率直にすら――答へて居る。氏は辯解的に斯く述べて居る。『年のいつた人達は共通の多くの囘想を有つて居るに相違無い。自分が今心に有つて居る一囘想は疑ひも無く頗る有りふれたものである。過去幾年間、春、花の蕾が開いて行くのを看て居る時、こんな考へが起こつた、「自分は花の蕾の開くのを二度と、また見るであらうか。自分は未明に鶫[やぶちゃん注:「つぐみ」。]の囀りに目覺さるることが二度と、またあるであらうか」と。最後は長く延期されさうでは無いから、從つて究極の問題を默想する傾向が次第に募つて來る』……それから氏は、『如何にしてか何が故にかとの、また何處よりしてか何處へかとの』此究極の問題は、基督敎の信條を受け入れることの出來ぬ人達の心には、當時の思想が大多數の人の心を占めて居るよりも、もつと廣い容積を占めて居る、と、かう我我に語つて居る。生の問題は絕大なものであるといふ事は、嚴正科學が提供し得る一切の幇助を思索に與へて、自由に且つ廣く、且つ深く思索してもいいとして居る人達だけに明白になるので、其思索家の知識が大きければ大きいほど、此問題は愈〻差し迫つたものに思はれ、恐ろしいものに思はれ、愈〻絕望的に解答不可能なものに思へるのである。ハアバアト・スペンサア自らにはこの問題は、尋常人の心が理解出來ないほどの巨大なものであつたに相違無い。そして死期が近づくに從つて、愈〻刻薄に氏を壓して氣掛りを大ならしめたのである。氏は――これはその壯大な心理學にも、其大著作の他の書卷にも、明らかに仄めかしてあるが――死後、意識ある個性が繼續するといふ如何なる信仰に對しても、何等合理な證據が存在して居ないといふ確信を避けることが出來なかつた。

[やぶちゃん注:ここで標題のダブル・クォーテーション・マーク“ " ULTIMATE QUESTIONS " ”の意味が判然とする。スペンサーの最晩年、死の前年の一九〇二年刊の随想“ Facts and Comments ”(「事実と評言」)の中に、“40. Ultimate Questions?”を見出すことが出来た。“Internet archive”の同書のここからである。

 以下、底本では全体が一字下げであるが、特異的に、前後に私が「*」を附して、小泉八雲の本文と区別した。]

   *

 原始的信仰を硏究して、そして夢が思はす考へからして、覺めると歸つて來て、死ぬると不定の時間の間去つて行く、漂泊する離魂について野蠻人が得て居る結論のほかには、後生といふ觀念には何等の根源が無いことを發見してからは――頭腦と意識との間に存する、測り得べからざる關係を熟考して、そして頭腦の活動無くして意識の存在する證據はこれを得ることは出來ぬといふことを發見してからは、物質組織が不活動になつた後に、なほ、意識が繼續するといふ思想は、我等はこれを放棄せざるを得ざるやうに思はれる。

   *

 この整齊たる[やぶちゃん注:「せいせいたる」。整然と揃っているさま。]發言のうちには、希望の語は一つもない。しかし、これを發展せんと欲する人は發展せしめて、一縷の希望の種(たね)にされようかと思へる、非常に用心して述べてある疑ひが一つ少くとも氏の發言のうちにある。『放棄せざるを得ざるやうに思はれる』といふ用心した文句は、人智の現在の情態[やぶちゃん注:ママ。]では意識の繼續を信ずべき、何等の理由も無いけれども、未來のより大なる或る知識は、それ程に覺束無くは無い前途の望みを抱かしめて吳れるかも知れぬ、といふことを確かに暗示して居る。が、今の今、我等に見えて居る前途には、さすが思索家中のこの最大思索家も二の足を踏んだ。

[やぶちゃん注:同前の引用と同じ。同じ仕儀を施した。引用の後は一行空けがあるのはママ。

   *

 ……死んで意識が無くなると同時に、生存してゐたといふことを知つて居る、といふことが無くなつてしまふといふことは、奇妙なまた嫌はしい[やぶちゃん注:「いとはしい」。]結論のやうに思はれる。自分の末期の一呼吸と共に、誰れもに取つて、自分がこの世に生きて居なかつたのと同じ事になる、といふのだから。

 それからまた、その意識そのものは――それが繼續して居る時間中、それは果して何んであるか。そして、終はる時、それはどうなるか。意識といふは、我我の知識をも我我の想像をも超絕して居る處の、あの無限永久のエネルギイの分化された、そして個個にされた一個の形であるといふ事、そして死ぬると其要素は、其要素が出で來たつた、その無限永久のエネルギイへ逆戾りするといふ事、それを推定し得るのみである。

   *

 

 自分の末期の一呼吸と共に誰れもに取つて自分がこの世に生きて居なかつたと同じ事になる、さうであらうか? 恐らくは、その個人にはさうであらう――その個人の勞力によつて一層賢しくなり[やぶちゃん注:「さかしくなり」。]、一層よくなつた人類には、確かにさうでは無い。……然し、この世界は去つてしまふに相違無い。去つた後でこの世界は宇宙に對して、人類が住つて[やぶちゃん注:「すまつて」。]居なかつたと同じことであらうか。このことは、惑星相互間の未來の交通の可能如何によるかも知れぬ。……しかし幾多の太陽、幾多の惑星より成るこの宇宙全體も亦、死滅しなければならぬのである。死滅した後で字宙全體は、理知ある生物が、その無數の世界の上で勞したり、苦しんだりしたことが無かつたと同じことであらうか。我我は少くとも、生のエネルギイは絕滅出來ないものであるといふ確信を抱いて居り、且つまた、そのエネルギイがまだこれからして開展さるべき幾多の宇宙に於て、別な生と別な思想とを構成する役に立つであらう、といふ鞏固な蓋然信念を抱いて居る。……がしかし、想像の上のあらゆる可能を先づあるものとして置いて――過去のあらゆる因果律に由る存在物と未來のあらゆる因果律に由る存在物との間に、或る理解し得べからざる關係がありさうだといふことをも許容して――この幻の如き生の全體が因果律を超越して居るものに對して、何を意味するかといふ、大きな恐ろしい問題が殘つて居る。稻妻の明滅が夜に何等の記錄を殘さぬが如くに、その闇黑[やぶちゃん注:「あんこく」。]に幾十百千萬億の宇宙が來ては去つて、しかも、存在して居たといふ何等の痕跡も殘さぬかも知れぬ。

 この問題のあらゆる方向に、ハアバアト・スペンサアは思索を與へたに相違無い。が、現在構成されて居る處の人間の智力は、これに何等の解答を提供することは出來ぬ、と明白に公言して居る。この世界がこれまでに產出したうちで、一番大きな心が――人間のあらゆる知識を組織的に排列した、近代科學に革命を與ヘた、唯物論を永久に追ひ拂つた、あらゆる生の靈的渾一[やぶちゃん注:「こんいつ」。いろいろなあらゆるものが融け合って一つになること。「渾」は「混じる」「総て」の意。]を我等に示現した、あらゆる倫理を永遠不易な根抵の上に立て直した心が――蚊蚋[やぶちゃん注:「ぶんぜい」。カやブヨのような小さな存在の謂い。]の歷史、或は一太陽の歷史を、同じ明快さを以て、しかも、同じ普遍的な法式によつて解釋し得た心が生の謎の前へ出ては[やぶちゃん注:「いでては」。]、殆んど子供の心に劣らぬ手緣りない[やぶちゃん注:「たよりない」。]ものであることを自白した。

 が然し、自分にとつては、氏のこの最後の論文の價値は、多くの不確實と多くの蓋然とのその悲壯な敍述のうちに、信念の言明に頗る類せる或る物を誰れも見分けることが出來るといふ事實に存して居る。我我には、頭腦が死んだ後、意識が持續するといふ如何なる信念をも抱くべき根據は、まだ一つも無いと確信しては居るけれども、意識なるものの究極の性質は、依然として測り知ることは出來ぬ、といふことを記憶せよと命ぜられて居る。意識と得見られぬものとの關係は、我我には推測が出來ないけれども、意識といふものは無限なエネルギイの一表現として考へなければならぬこと、また、その要素は、死によつて分解すると、時間の無い、そして量の無い生の根源へ還るのであらうといふこと、を我等は思はせられる。……今日の科學もまた、如何なる物でも存在して居たものは悉く――いつか動物となり、或は植物となつて動いて居た個個の生は悉く――いつか人間の意識の中で動いて居た感情と思想とは悉く――感覺界を越えて、自己記錄を閃めかせたに相違無いと我我に保證して居る。そして、我我はこれを知ることは出來ぬけれども、かかる記錄の最善のものは、永存性を有つやう運命づけられて居るかも知れぬと、想像せざるを得ぬのである。この後の方の題目に就いては、色々と明白な理由があつて、ハアバアト・スペンサアは長く無言のままで居た。しかし、讀者は『第一原理』の最終の第六版の中の、或る顯著な一節――意識は宇宙エエテルのものかも知れぬといふ假說を論じて居らるる一節――を深く考察してよからう。この假說は、氏は輕輕にこれを片付けては居ない。そして、その不妥當なることを證明しながらも、まだ、人間の心では理解の出來ぬ或る眞理を、不完全に現して居るのかも知れぬ、と告げて居るやうである。――かう書いてある、

[やぶちゃん注:「宇宙エエテル」“the cosmic ether”。古代ギリシア時代から二十世紀初頭までの間、実に永く想定され続けた、全世界・全宇宙を満たす一種の物質の名称。古代ギリシャの哲学者アリストテレスは、地水火風に加えて、「エーテル」(「輝く空気の上層」を表わす言葉)を第五の元素とし、天体の構成要素とした。近代では、全宇宙を満たす希薄な物質とされ、ニュートン力学では「エーテル」に対し、「静止する絶対空間」の存在が前提とされた。また、光や電磁波の媒質とも考えられた。しかし、十九世紀末に「マイケルソン=モーリーの実験」で、「エーテル」に対する地球の運動は見出されず、この結果から、「ローレンツ収縮」の仮説を経て、遂に一九〇五年、アインシュタインが「特殊相対性理論」を提唱し、「エーテル」の存在は否定された(ここまでは「ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典」に拠った)。但し、現在でも擬似科学や一部の新興宗教の中に「エーテルの亡霊」が巣食って蠢いているのである。……人間という奴は、まっこと、「執拗(しゅう)ねき悪足掻きをする哀れな因業者である」と、私は、思うのである。

 以下、同前の仕儀を施した。]

   *

 意識が本來具へて居るものは、萬有に滲み亘つて居るエエテルであるといふ假定が、矛盾を有たぬ唯一の假定である。この物は――網膜に於ける光線の作用が證明する如く、――運動をして居る物質の分子に影響され得るもので、そして逆にまた分子の運動に影響を與へ得るものであるといふことを、我我は知つて居る。この假定を追うて行くと、空間凡てに滲み亘つて居る計りで無く、物質凡てに滲みみ亘つて居るこのエエテルは、神經系の或る部分に於て特殊の事情の下に、感情といふものを將來するやうな工合に、神經的變化によつて影響され得るものであつて、且つまた交換的に、さういふ事情の下に神經的變化に影響を與へ得るものである、と假定することが出來よう。然し、若し我我が、この說明を受け入れるならば、感情の潛在勢力は普遍なものであること、また、感情がこのエエテルの中に開展發達して來るといふ事は、或る神經中心に起こる極はめて複雜な事情の下にあつて、始めて出來するものであるといふことを、假定しなければならぬ。が然しこれは、このエエテルは何んであるかを知らぬのであるから、且つ又、最もよく判斷の出來得る人達の自白によれば、これまで造られた假說のうちで、エエテルが有つて居る力悉くを說明する假說は、一つも無いといふことであるから、說明に似たものといふに過ぎぬ。斯の如き說明は、この現象を性質の知れない記號を以て、記號づけるだけのことで、それ以上のことはしないのだと云つてもいい。(『第一原理』、千九百年の確定版七十一章)

 

 幼稚な空虛からして、徐徐に開展進化し來たつたこの複雜な意識は――他の形に於て、生きて居る物共によつて、廣く表現されて居る意識なるものは――如何なる生物でもその發達發育中、無意識な物質と見えるものから現れ出づる處の、そして、意識なるものは或る初步の形に於て遍在なものではなからうかといふ考へを起こさせる處の、この意識なるものは――實に測り知ることの出來ぬものである。(『自傳』第一卷四百七十頁)

   *

 あらゆる近代の思索家の中で、スペンサアは恐らく、有力な證據が支へて居ない假說は、どんな假說もこれに奬勵を與へることを避けるのに、最も用心深い思索家であつた。氏自らの信條の簡單な總額すらも、三つの蓋然の陳述として、至當の差し控へを以てして、漸く發言して居る。卽ち、無限のエネルギイの分化され、個性化された一つの形が意識であるといふ事、意識は死によつて分解して消える事、意識の要素は死後萬有の根源へ還つて行く事、これである。此無限の神祕に對する我我の心的態度に就いては、氏の助言は平明である。我我はこの永遠の大法に身を任せて、『知られざる或る力が仕出かす、この宇宙の過程は無慈悲ではあるが、しかも、そのうちに何處にも報復といふことは見出されぬ』といふことを記憶してゐて、我我が古昔から承け來たつて居る、迷信的恐怖の遺產を征服するに努めなければならぬ、といふのである。(『事實と註釋』二百〇一頁)

 同じその短かい論文のうちに、今一つ殊に興味ある自白がある、――卽ち、空間の恐怖を認知して居る文である。尋常普通の心にすらも、これを理解するのに眞面目な硏究は少しも要らないあの天文學上の驚くべき事實が、我我に思はざるを得ざらしめる處の無限の空間といふ念は、實に人を慄然たらしめるものである。――幾百萬の太陽の赫赫たる光りも、それへ何の光りも何の暖か味も、齎さぬあの永久の夜といふ其茫漠たる觀念である。然しハアバアト・スペンサアの智力には、空間といふ觀念は、比較にならぬほど非常に神祕に、且つ洪大に現れ來たつたのに相違無い。數學家だけが、位置の幾何學竝びに空間關係の神祕が論じてある章の――『假令、生の神祕を貫き得ても、更に一層超絕的な神祕が殘るであらう』といふ悸然[やぶちゃん注:「きぜん」或いは「はつと」と当て訓しているかも知れぬ。怖れや驚きのために、心臓がドキドキするさま。]とするやうな言明の――十分の意義を理解することが出來ることであらう。がしかし、ハアバアト・スペンサアは、そんな幾何學的神祕の槪念を離れて、赤裸裸たる空間そのものの問題が、氏の生涯の夕暮れに、氏には魔攻(まぜめ)となり、消魂事[やぶちゃん注:「せうこんじ」。「驚きや悲しみのあまりに気力を失うこと」或いは「我を忘れて物事に耽ること」の意。両意で私は採る。]となつた、と我我に語つて居る。

[やぶちゃん注:以下、同前の仕儀。]

   *

 ……創造に或は進化に――どちらと考へてもいいが――それに均しく先立つて居て、そして擴がりに於ても、時間に於ても、均しく兩者を無限に超絕して居る、この普遍な構成素其物といふ考へがつぎに起こつて來る。兩者を超絕してといふのは、苟くも考ヘるとなれば、兩者は始めがあつたものと考へなければならぬのに、空間には始めといふものが無かつたからである。想像の力の達し得る限り、四方八方を探求すると、想像の力が橫ぎつた部分は、それに比べれば全く無限小といふべき程の未探索の地が、その先(さき)にある空空漠漠たるこの存在といふ考へは――それに比べれば、我我の測り知り得べからざる恒星系は縮んで、一小點となるやうな空間があるのだといふ考へは壓倒的に絕大で、思ひ想ふに堪へぬ考へである。近年は、根源も原因も無くして無限のがいつからとなく存在し來たつて居るので、その空間はいつまでも存在するに相違ないものだといふ意識は、それを考へまい、それを避けたいといふ感じを自分に起こす。

   *

 無限の空間といふ觀念が、自分の心とは比較を絕して遙かに强大な心に、どんな風に影響を與へ得るものか、これは自分には分らぬ。また、空間關係の諸法則が幾何學者に提出する、或る種の問題の性質はどんなものか、これは自分は推測が出來ぬ。然し、その觀念が自分の弱い想像力の裡に喚起する、恐怖の原因を決定して見ようとすると、自分にはその感情の種種異つた要素を――科學の啓示が我等に思はしめる(合理なまた不合理な)特殊の觀念に對應する特殊の種種な恐怖を――見分けることが出來る。そのうち一つの感じは――恐らくこれがその恐怖心の主要な要素と思ふが――無限の空間を占めて居る、あの言語に絕した見得べからざるものの中(なか)に、永遠永久に閉ぢ籠められて居るといふ考へが起こるのである。

 この感じの背後には、永久に取圍まれて居るといふ考へ以上のことが存して居る。――それからまた、名なきものによつて永久に貫かれ、橫ぎられ、震はされて居るといふ念がある。――その上また、奧の奧の祕密ののどんな小さな分子も、それの永久の接觸を避けることは出來なからうといふ確實さがある。――なほ進んで、自分のが、光線の遠さを以て、光線の速さ以上の速さを以て、あらゆる銀河を越え、科學がそれを用ひて以てその量を示し得るどんな符號も知らぬほど絕大な時間の繼續を越えて突進し得ても、そして更に前へ前へ、上へ下へと飛んで行くことが出來ても、――いつまでも、いつまでも、自分のそのは如何なる邊端にも、決して達し得られない、如何なる中心からも決して、少しも遠のくことが出來ないのだといふ恐ろしい確信がある。といふのは、その無聲境にあつては、大きさと高さと深さと時間と方向とが、悉く呑み込まれ居て、其處では關係といふことは、飛び走つて居る自分の意識のその一小點――原子無しの音響無しの名稱無しの際限無しの潛在勢力の中を獨り脈搏つて居る、恐怖心の一小分子――に對しての外、全く何等の意味も有ち得ないものであるからである。

 それから、その潛在勢力といふ考へが別な性質の恐怖を――無限の可能(ポシビリテイ)といふ恐怖を惹起する。といふのは、恰も物質なるものは、全く無きが如くに物質を通して誰れもその起伏の流れを感ずることが出來ぬほどに微細にではあるが、しかも、それが一秒の分數(ぶんすう)間に爲す振動の數を數へるのに、一生を費やしても足りぬほどに迅速に――脈搏つこの測り知るべからざるものは、無邊際から我我に戰くからである、――そして無限の力が、その最も輕い震ひにも住んで居り、――永遠の重さが、その最も微かなわななきにも、その後ろに迫つて來て居るからである。その幽遠な感觸には、一花の著色[やぶちゃん注:「着色」に同じ。]も或は一宇宙の消滅も等しく造作の無いものであらう。此處ではそれは色彩の妙趣と迷妄とを以て人目を悅ばしめ、其處では一群の巨大な太陽を飛び出させる。人間の心が可能だと考へ得る(しかも、その人間の心なるものは、どの位また物を考へることが出來ないで、永久居なければならぬものか)一切の物が、その底知れぬもののたつた一と振動で如何なる處にも、到る處に、造られ得るのである。……

[やぶちゃん注:「戰く」は「わななく」或いは「をののく」であるが、この語は自動詞で「恐怖・寒さ・興奮などで震える」であるから、日本語として成形するなら、「我々を戰かせるからである」でないと、日本語しては、おかしい。

 

 或る人達が我我に信ぜしめんと欲したやうに、の消滅といふ恐怖が最上の恐怖であるとは眞であらうか。……といふのは、無限の渦卷の中にあつて、自分といふものが永久に存續するといふ思ひは、口之を[やぶちゃん注:「くち、これを」]述ぶべからざる大恐怖を――完全にそれを意識するには餘りに絕大な或る一種の恐怖の忽如たる[やぶちゃん注:「こつじよたる」。俄かなさま。たちまち。突然。忽然。]數刹那を――迅速な、暗い、瞬時的瞥見に於てのみ堪へられる一種の恐怖の惹起するに足るからである。そして、我我は絕對なものと一つである――それの底無しの淵に在つての朧氣なるおののかの點點である――といふ信念は、意識といふものは頭腦の崩壞と共に無くなると思考せざるを得ぬ人達にのみ、慰安の信念となる得るのである。……自分には、知り得べきものの境界線を突破しようと、新らたなる企てを試みる度每に、人間の智慧を否應無しに後戾させる處の、あの偉大な疑惑と恐怖とを率直に云ふを敢てする人は少い(全く無い)やうに思はれる。若しその境界線がだしぬけに突き下げられたなら――知識が突然に且つ洪大に擴められて、その現時の境界を越えたなら――恐らくは我我はその示現に堪へることが出來ないであらう……

 

 パアシヷル・ロオヱル氏の驚く可き書物『火星』は、地球よりも古くて、また進んで居る或る世界の住民と――埋知に於ても道德に於ても、我我よりか遙か高く進化して居て、今なほ我等の科學の裏を搔いて居る幾千の神祕を說明し得る生物の一種と――交信が出來る場合の結果に就いて考へさせる。恐らくは、そんな事があつたなら、我我の全文明よりも幾萬年、或は幾百萬年古い知識の、假令、結果は借り得るとしても、手段は理解することが出來ないであらう。しかし或るより古い惑星からしてより大なる知識が突然到來するといふことは、人類の現在の道德情態の故を以てして、我我にはただ、破滅を齎すに過ぎないことになるのではなからうか。――人種の絕滅といふ結果になりさへもしないであらうか。……

[やぶちゃん注:「パアシヷル・ロオヱル氏の驚く可き書物『火星』」火星人の存在を唱え、「火星の運河」を描いたことで知られる、アメリカのボストン出身の天文学者で日本研究者でもあったパーシヴァル・ローウェル(Percival Lowell 一八五五年~一九一六年)が一八九五年に刊行した“Mars”のこと。ウィキの「パーシヴァル・ローウェル」によれば、彼は明治二二(一八八九)年から明治二六(一八九三)年にかけて(小泉八雲の来日は明治二十三年であるが、彼との実際の接触はなかったものと思われる)、日本を五回訪れ、通算、約三年間滞在した、とある。『来日を決意させたのは大森貝塚を発見した』動物学者でお雇い外国人であったエドワード・シルヴェスター・モース(Edward Sylvester Morse 一八三八年~一九二五年)『の日本についての講演だった。彼は日本において、小泉八雲、アーネスト・フェノロサ、ウィリアム・ビゲロー、バシル・ホール・チェンバレンと交流があった。神道の研究等日本に関する著書も多い』。『日本語を話せないローウェルの日本人観は「没個性」であり、「個性のなさ、自我の弱さ、集団を重んじる、仏教的、子供と老人にふさわしい、独自の思想を持たず輸入と模倣に徹する」と自身の西洋的価値観から断罪する一方で、欧米化し英語を操る日本人エリートたちを「ほとんど西洋人である」という理由から高く評価するといった矛盾と偏見に満ちたものであったが、西洋の読者には広く受け入れられた』とある。ローウェルへの小泉八雲の言及は既に『小泉八雲 落合貞三郎訳 「知られぬ日本の面影」 第十一章 杵築のことゞも (九)』・同『第二十六章 日本人の微笑 (五)』や、後の遺作となった「小泉八雲 神國日本 戶川明三譯 附原文 附やぶちゃん注 (2)  新奇及び魅力」(孰れも私の原文附き電子化注)にも見られ、小泉八雲が終始深い関心を寄せていたことが判る(なお、私はブログでE.S.モース著石川欣一訳「日本その日その日」の全電子化注を完遂している)。因みに、芥川龍之介は本作品集刊行の十九年後、大正一三(一九二四)年十月号『文藝春秋』に「侏儒の言葉」の一節として、火星人のことを書いている。『芥川龍之介「侏儒の言葉」(やぶちゃん合成完全版 附やぶちゃん注釈)  火星』を参照されたい。]

 或る國民の大多數が倫理的にこれを受け入れる準備が出來てゐないうちに、危險なより高等な知識を撒布すれば、保守的本能が常に必ず、これを妨げるといふことは、法則であるやうに思はれる。そして(個人個人の例外はあるものとして)より高い知識を得る力は、そんな知識によりて利益を蒙り得べき德性が進化開展し來たる時、始めて發達するものと想像すべき理由がある。若し、他の世界と知的通話を爲すの力が萬一、今、我我に役に立ち得るならば、我我は早速これを得べきであると想ふ。然し若し、何か不思議な機會で、エエテル電信の或る方法と云つたやうなものを發見して――この力を得ることが早過ぎたならば、その使用は十中八九屹度、禁止せられるであらう……例へて云へば、近くの或る惑星の人間と通信する手段を發見したといふ罪に問はれた人に、中世時代にどんな事が出來したらうか! 想つて見るがいい。確かに其發明者と、その裝置とその記錄とは、焚かれたらう。その勞苦の如何なる痕跡も、記憶も、根絕(ねた)やしされたらう。今日でも、人間の經驗がそれを支へない眞理の突然の發見は、現存して居る確信に全然反對した事實の突然の啓示は、迷信的恐怖の或る狂熱的復活を――科學の呼吸の根を止め、一千年の間、心的闇黑へ世界を再び投げ込むやうな宗敎的な或る恐慌を――惹起することであらう。

[やぶちゃん注:のキリスト教嫌いであった小泉八雲の持つ絶対の恐怖感は、恐らく今も連綿と続く現在的で未来に続く、なまじいにちっとばかり下らない「知識」(現行の先端科学技術をも含む)を持ってしまった人類だけが、それ故に滅亡するまで背負い続ける孤独感に由来するものである。則ち――この無限の大宇宙にあって「人類以外の高等な存在が必ずある」――という科学的根拠を実は持たない待望感(カール・セーガンなどは「ドレイクの方程式」(Drake equation:我々の銀河系に存在し、人類と接触し得る可能性のある地球外文明の数を推定する方程式。一九六一年にアメリカの天文学者フランク・ドレイク(Frank Drake 一九三〇年~)によって考案された。詳しくはウィキの「ドレイクの方程式」を参照)を以ってその存在を「必ずさわにある」としたが、宇宙論的にも生物学的にも、またそれを基にした通常の常識的確率論からも、私は――そうした生命存在と人類の生存の針の頭が一致する時間がある可能性はゼロに等しい――と今は考えている。因みに、私は高校時代まで、宇宙人の存在を信じていた。小学六年生の時、「未確認飛行物体研究調査会」を立ち上げ(『少年マガジン』で募集し、高校三年まで活動し、複数の友人の協力も得て、目撃事件の現地取材も何度か行った。但し、会員は最年少の私を含めて年上の方二名のみだった。それでも、三島由紀夫も会員であった本邦最初の「日本空飛ぶ円盤研究会」の会長荒井欣一氏とも手紙を遣り取りした)が、成人して、人々が地球外の高度に知的な生命体の存在に拘るのは、「宇宙でヒトだけが、独りぼっちなのは、いやだ!」という子供っぽい低次元の孤独感情が生み出したものに過ぎないと考えるようになった。「人類は孤独ではない」と信じたいそれは、原始宗教的意識――さらに言えば――孤独への神経症的フォビアに依拠するものであると断じている。私は同時に、死を恐れない。尊敬していた国語教師の方は死に際し、「宇宙の塵となります」と書かれた葉書を送って去られたが、私は「塵になる」という認識さえ、ない。無神論者である私は、「死」を――ちっぽけな私という生物が物理的に「無」となるに過ぎない――とのみ、冷徹に捉えている人種である。……但し……かく言っても、小泉八雲先生は黙って微笑されるものと信じている。先に示した芥川龍之介の「火星」(小泉八雲の期待を裏切って、芥川龍之介らしくすこぶる絶望的でアイロニックである)を引いて終りとしよう。

   *

 火星の住民の有無を問ふことは我我の五感に感ずることの出來る住民の有無を問ふことである。しかし生命は必ずしも我我の五感に感ずることの出來る條件を具へるとは限つてゐない。もし火星の住民も我我の五感を超越した存在を保つてゐるとすれば、彼等の一群は今夜も亦篠懸[やぶちゃん注:「すずかけ」。]を黃ばませる秋風と共に銀座へ來てゐるかも知れないのである。

   *

2019/10/04

小泉八雲 化け物の歌 (後書き部)  (大谷正信譯) / 化け物の歌~了

 

[やぶちゃん注:本篇の詳細は『小泉八雲 化け物の歌 序・「一 キツネビ」(大谷正信譯)』の私の冒頭注を参照されたい。]

 

 上記の狂歌を詠ましめた說話、及び民間信仰の殆んど凡ては支那から來たもののやうに思はれる。そして木の精の日本物語も大部分は、その根本を支那に有つて居るやうである。東洋の花の精また木の精は、まだ西洋の讀者には少ししか知られてゐないから、次記の支那物語は或は興味あるものと思はれるかも知れぬ。

 

 日本の書物では唐の武三思と呼ばれて居る――花が好きなので有名な――支那の學者があつた。殊に牝丹が好きで、極はめて巧みに、また根氣よくそれを栽培した。

〔ピオニイに此處では――日本で大いに尊む花の――牝丹をいふ。八世紀の頃、支那から輸入されたといふことで、五百を下らざる變種が今日本の庭園師によつて栽培されて居る〕

 或る日のこと眉目頗る美はしい少女が武三思の家へ來て、使つて吳れと賴んだ。譯があつて賤しい勤めを求めなければならぬやうになつたのであるが、文學敎育を受けた身であるから、出來るなら學者の家に傭はれたいのであると言ふのであつた。武三思はその美くしさに惚れて、それ以上何も問ひ糺しもせずに自分の家へ入れた。使つて見るとただ善良な召使といふだけでは無く、その藝能を思つて見ると、貴紳の邸宅か或はまた王侯の宮殿で育つて來た者ではなからうか、と武三思に思はれる程であつた。禮儀作法は申し分無く知つて居り、位最も高い貴婦人だけが敎はるやうな、優雅な藝事を心得ていて、書にも繪にもあらゆる種類の詩歌を作ることにも驚くばかりに巧みであつた。武三思はやがて、その女を戀ひするやうになり、どうしたらその女は喜ぶかと、そればかり考へた。學問友達や他のえらい訪問客がその家へ來ると、その客をもてなさせにいつも、この新參の召使を呼ぶのであつたが、その姿を見たものは何れも、皆その溫雅と愛敬とに非常に驚いた。

 或る日武三思は有名な道術數師の、狄仁傑といふえらい人の訪問を受けた。ところが、その召使は主人の呼ぶのに應じなかつた。武三思は、狄仁傑に見せて感心させようと思つて、自分で探しに行つた。が、何處にも居なかつた。家中搜しても居なかつたので、武三思は客間へ戾るといふと、廊下をその前を音も無しにするすると通つて行く、その召使の姿が不意に見えた。そこでその名を呼んで後を追うて出た。するとその召使は半ば振り返つて、蜘蛛のやうに壁へ身を平たくくつつけた。そして武三思が其處へ行くと、後ろへ壁の中へと沒して行つて、――壁土の上へ描いた繪のやうに平らに――色の附いて居る影のほか、眼に見えるものは何も殘つて居なかつた。だが、その影が唇と眼とを動かして、小聲でかう言つた。

 『御召しに從ひませんで誠に申し譯がありません。……私は人間では無いので御座います。――私は牡丹の魂で御座います。あなたが牡丹をあんなにも可愛がつて下さいましたから、それで人間の形になつて、あなたにお仕へ申すことが出來ました。ところが、今あの狄仁傑が參りました――あの人は恐ろしく禮儀正しい人で御座いまして――私はもうこの姿をして居ることが出來ません。……私は私の出で來た元の處へ歸らなければなりません』

 さう言つて壁の中へ沈み込んで、全く消えてしまつた。その居た處にはありのままの壁土のほか、何も無かつた。そして武三思はその召使の姿を二度と見なかつた。

 この話は日本人が『開天遺事』と呼んで居る支那の書物に載つて居る。

[やぶちゃん注:ここに出る話は「古今百物語評判卷之一 第五 こだま幷彭侯と云ふ獸附狄仁傑の事」に出ており、そこで武三思・狄仁傑(孰れも実在の人物である。因みに、小泉八雲は後者を“Teki-Shin-Ketsu”と記すが、採らない)を詳細に注しているので、そちらを参照されたいそこで「開天遺事」にも注して、『正しくは「開元天寶遺事」。小学館「日本大百科全書」によれば、『盛唐の栄華を物語る遺聞を集めた書。五代の翰林(かんりん)学士などを歴任した王仁裕(じんゆう)』(八八〇年~九五六年)『が、後唐(こうとう)』(九二三年~九三六年)『の荘宗のとき、秦』『州節度判官となり、長安に至って民間に伝わる話を捜集し』、百五十九『条を得て』、『本書にまとめたという』。但し、『南宋』『の洪邁』(こうまい 一一二三年~一二〇二年)は『本書を王仁裕の名に仮託したものと述べている。玄宗、楊貴妃』『の逸話をはじめ、盛唐時代への憧憬』『が生んだ風聞、説話として味わうべき記事が多い』とある。但し、以上の牡丹の精の話は、中文サイトの「開元天寶遺事」の原文を調べて見ても、見当たらなかった。話柄の類型は、唐代伝奇や後の志怪小説(特に浮かぶのは「聊齋志異」辺り)にありがちなものではある。識者の御教授を乞う』と書いた。今回、再度調べたが、やはり、ない。ただ、中文サイトで「武三思 狄仁傑 牡丹」で調べると、盛んに京劇関連やドラマ絡みでこの話らしき記載が盛んに認められる。出典を突きとめることは私が中国語が出来ぬのであきらめた。再度、懇請しておく。【2019年10月5日追記】いつも各種テクストに対して情報を下さるT氏よりメールを戴き、本篇の出拠は「太平廣記」の「妖怪三」に載る「素娥」と思われると指摘があった。但し、『「牡丹の魂」ではなく「花月之妖」とかかれていますが』とあり、「太平廣記」の原文とその引用元のデータを示され、最後に『「開天遺事」は、「山岡元隣」の眼晦ましでは』ないか? との御指摘もあった。以下に中文サイトから「太平廣記」の「妖怪三」の「素娥」を一部の字や記号を変更して示す。

   *

素娥者、武三思之妓人也。三思初得喬氏靑衣窈娘、能歌舞。三思曉知音律、以窈娘歌舞、天下至藝也。未幾、沉於洛水、遂族喬氏之家。左右有舉素娥曰。相州鳳陽門宋媼女、善彈五弦。世之殊色。三思乃以帛三百段往聘焉。素娥既至、三思大悅、遂盛宴以出素娥。公卿大夫畢集、唯納言狄仁傑稱疾不來。三思怒、於座中有言。宴罷、有告仁傑者。明日謁謝三思曰、某昨日宿疾暴作、不果應召。然不覩麗人。亦分也。他後或有良宴、敢不先期到門。素娥聞之。謂三思曰。梁公彊毅之士。非款狎之人。何必固抑其性。再宴不可無、請不召梁公也。三思曰。儻阻我宴、必族其家。後數日、復宴、客未來、梁公果先至。三思特延梁公坐於寢、徐徐飮酒、待諸賓客。請先出素娥、略觀其藝。遂停杯、設榻召之。有頃。蒼頭出曰。素娥藏匿、不知所在。三思自入召之、皆不見。忽於堂奧隙中聞蘭麝芬馥、乃附耳而聽、卽素娥語音也。細於屬絲。纔能認辨、曰。請公不召梁公、今固召之、不復生也。三思問其由、曰。某非他怪、乃花月之妖。上帝遣求。亦以多言蕩公之心、將興李氏。今梁公乃時之正人、某固不敢見。某嘗爲僕妾、敢無情。願公勉事梁公、勿萌他志。不然。武氏無遺種矣。言迄更問。亦不應也。三思出。見仁傑。稱素娥暴疾。未可出。敬事之禮。仁傑莫知其由。明日、三思密奏其事、則天歎曰。天之所授、不可廢也。出「甘澤謠」。

   *

出典とする「甘澤謠」は晩唐最末期の官人で伝奇小説を得意とした袁郊の作で、同前の仕儀で原話(やはり標題は「素娥」)を引くと、

   *

 素娥者、武三思之人也。三思初得喬氏靑衣窈娘、能歌舞。三思曉知音律、以窈娘歌舞天下至藝也。未幾、沉於洛水、遂族喬氏之家。左右有舉素娥者曰、「相州風陽門宋媼女、善彈五弦、世之殊色。」。三思乃以帛三百段往聘焉。

 素娥既至、三思大悅、遂盛宴以出素娥。公卿大夫畢集、唯納言狄仁傑稱疾不來。三思怒、於座中有言。宴罷、有告仁傑者。明日、謝謁三思、曰、「某昨日宿疾暴作、不果應召。然不睹麗人、亦分也。他後或有良宴、敢不先期到門。」。素娥聞之、謂三思曰、「梁公强毅之士、非款狎之人、何必固抑其性。若再宴、可無請召梁公也。」。三思曰、「倘阻我宴、必族其家。」。

 後數日、複宴。客未來。梁公果先至。三思特延梁公坐於內寢、徐徐飮酒、待諸賓客。請先出素娥、略觀其藝、遂停杯設榻召之。

 有頃、蒼頭出曰、「素娥藏匿、不知所在。」。三思自入召之、皆不見。忽於堂奧隙中聞蘭麝芬馥、乃附耳而聽、卽素娥語音也、細於屬絲、才能認辨、曰、「請公不召梁公、今固召之、某不複生也。」。三思問其由、曰、「某非他怪、乃花月之妖。上帝遣來、亦以多言蕩公之心、將興李氏。今梁公乃時之正人、某固不敢見。某嘗爲僕妾、寧敢無情。願公勉事梁公、勿萌他志。不然、武氏無遺種矣。」。言訖、更問亦不應也。

 三思出見仁傑、稱素娥暴疾、未可出。敬事之禮、仁傑莫知其由。明日、三思密奏其事、則天嘆曰、「天之所授、不可廢也。」。

   *

である。まさに、これこそ原拠であると考えてよい。T氏に深く感謝する。

「ピオニイ」原注原文では“The tree-peony (botan)”とある。「Peony」は、本来、落葉小低木であるユキノシタ目ボタン科ボタン属ボタン Paeonia suffruticosa の英名である。ネイティヴの発音の音写は「ピアニィ」に近い。]

小泉八雲 化け物の歌 「一四 フルツバキ」  (大谷正信譯)

 

[やぶちゃん注:本篇の詳細は『小泉八雲 化け物の歌 序・「一 キツネビ」(大谷正信譯)』の私の冒頭注を参照されたい。]

 

    一四 フルツバキ

 昔の日本人には、昔の希臘人同樣、花の精があり、樹の精があつて、それに關した面白い說話がある。また惡意を有つたものが棲つて[やぶちゃん注:「すくつて」。]居る木を――化け物木を――信じて居つた[やぶちゃん注:「をつた」。]。不氣味な木多くあるが中に、あの美しいツバキ(學名カメリア・ジヤポニカ)は不吉な木だとされた。少くとも赤花の種類のは、さうとされてゐた。尤も白花のは評判がよくて珍物として尊重されてゐたものである。その大きな厚ぼつたい深紅の花には、こんな妙な癖がある。色が褪せ始めると、身ごと莖から離れて、どたと耳にきこえる音を立てて落ちる。昔の日本人の想像(こころ)には、この重い赤花が落ちるのは、刀で斬られて、人間の首が落ちるやうに思はれた。そしてその落ちる鈍音は、斬られた首が地を打つ時のどたといふ音のやうだと言はれてゐた。それにも拘らず、椿はそのつやつやした葉が美しいが爲めに、日本の庭には好んで植ゑられたやうであり、またその花は床の飾りに使はれて居た。然しサムラヒの家では軍[やぶちゃん注:「いくさ」。]の間は決して椿を床花に使はぬが規則であつた。

[やぶちゃん注:ツツジ目ツバキ科ツバキ連ツバキ属ヤブツバキ Camellia japonica。]

 讀者は次記の狂歌に於て――これは奇怪な(グロテスク)[やぶちゃん注:ルビ位置はママ。]點に於ては、集中一番のもののやう自分には思へるが――化け椿がフルツバキ卽ち『古椿』と呼ばれて居るに氣が付くであらう。若木は化け物癖は無いもの――そんな癖は幾年經つて始めて發達するもの――と思はれて居た。他の氣味の惡るい木――例へば柳や榎の如き――もまた年經てから始めて危險になると言はれて居た。それと似た信仰が氣味の惡るい動物――子猫の時には無邪氣であるが、年とると魔物になる猫の如き――について行はれて居たものである。

[やぶちゃん注:「奇怪な(グロテスク)」原文は“grotesques”で複数形になっているので可算名詞としての「奇怪なもの」の意。「グロテスク」は語源としては、「地下墓所」や「洞窟」を意味するイタリア語の“grotta”(グロォッタ)、ギリシャ語で「隠れた場所」に遡る、ラテン語の“crypta”(クリプタ:やはり「地下墓所」・「洞窟」の意)に由来する。ここで「洞窟」というのは、西暦六四年の「ローマ大火」の後に、ネロが建設を開始した未完の宮殿群「ドムス・アウレア」(Domus Aurea:黄金宮殿)の部屋と回廊のことを指した。これらは長い間、放置され、地中に埋もれていたが、十五世紀になって再発見されている。参照したウィキの「グロテスク」によれば、この「ドムス・アウレア」には、『人、動物、植物などをモチーフとした装飾壁面が施されており、自然法則や本来の大きさを無視して人から植物へ、さらには魚、動物へと連続して変化する奇妙な模様が見られた』こと、最盛期のルネサンスに当たる十六世紀には、『ラファエロがその模様をバチカン宮殿回廊の内装に取り入れ、これが「地中 = 洞窟(grotto)で発見された古代美術」から「グロテスク装飾」と呼ばれるようになった』こと、更にそうした奇怪な人工物や人口洞穴を庭園に造作することが貴族の間で流行したことから、現行の主な意味合いへと傾いていったのである。]

 

 夜嵐に血しほいただく古椿

    ほたほた落ちる花の生首

〔三句目のフルといふ語には――フル(イ)卽ち『古』といふ形容詞として又フル卽ち「振る」といふ動詞として――二重の勤めを爲せれて居る、ナマクビ(文字通りでは「生な首」)といふ言葉は斬つたばかりの、血がまだ滲んで居る人間の首を意味する〕

[やぶちゃん注:原拠「狂歌百物語」の「古椿」(挿絵は(「中編」の「42」)木の切り口らしきものが怪しい魔性のものに変じたものが描かれてある)の本文に(「50」の左丁二行目)、

 夜嵐に血しほいたゝく古椿ほたほた落る花の生首 □□

狂号判読不能。いろいろ考えたが、だめ。小泉八雲偏愛の一句であるだけに、慎重を期してかくした。是非にも識者の御教授を乞うものである。

 

 草も木も眠れる頃の小夜風に

    眼鼻のうごく古椿かな

〔二つの日本語がメといふ假名で書ける。一つは「芽」の意味、一つは「眼」の意味である。ハナといふ發音も同樣に「花」にもなり「鼻」にもなる。奇怪なものとしては、此歌は確かに成功し居る〕

[やぶちゃん注:挿絵の左中央にあり、

 草も木も

  眠れる比の

   小夜風に

    目鼻の動く

     古椿かな 宝山亭

           金丸

とある。]

 

 ともしびの影あやしげに見えぬるは

    油しぼりし古椿かも

〔アヤシゲはアヤシ卽ち「怪しい」、「不思議な」、「超自然的な」、「疑はしい」といふ形容詞から造つた名詞である。カゲといふ語は「光」と「影」と兩方の意味で――此處では二重の暗示に用ひられて居る。古への日本の燈に用ひた植物性の油は、椿の實から採つたものであつた。讀者は「古椿」といふ言葉は――椿は古くなると化け物の木になると想像されて居るから――「化け椿」といふのと同じだと記憶してゐなければならぬ〕

[やぶちゃん注:挿絵の冒頭に、

 燈火の

  影あやしけに

   みえぬるは

    油しほりし古椿かも

           スンフ

             望月樓

とある。「スンフ」は駿府。

 底本ではこの後に一行空けがあるだけであるが、原本では、このように(“Internet Archive”の当該ページ)大型の「*」の三角頂点配置のブレイクが入って終わって、後書き部になっているので、ここで切る。]

2019/10/03

小泉八雲 化け物の歌 「一三 フダヘガシ」  (大谷正信譯)

 

[やぶちゃん注:本篇の詳細は『小泉八雲 化け物の歌 序・「一 キツネビ」(大谷正信譯)』の私の冒頭注を参照されたい。]

 

      一三 フダヘガシ

〔ヘガシは動詞ヘグ『剝ぐ』の使然形[やぶちゃん注:使役形。]である。フダヘガシといふ言葉は『御札を剝がす化け吻』を意味する。讀者は自分の「靈の日本」のうちにフダヘガシの立派な日本物語があるのを見られるであらう〕

[やぶちゃん注:私が既に電子化した『小泉八雲 惡因緣 (田部隆次譯) 附・「夜窓鬼談」の「牡丹燈」』のこと。]

 家家は聖句や護符で惡靈が入らぬやうに護られて居る。日本のどんな村にも、或は町のどんな橫丁にも。夜、戶が締つて居る時、そんな聖句を見ることが出來る。戶はトブクロヘ推し入れてしまふから、日中は、それを見ることが出來ぬ。さういふ聖句はオフダ(御札)と呼ばれて居る。白い紙片に漢字で書いてあるもので、飯糊でそれを戶に貼るのである。それには種類が多い。經から――例へば『般若波羅密多心經』か『妙法連華經』から――選んだ聖句のもある。陀羅尼――あの魔力のある――からの聖句もある。その家の宗旨を示して居る。祈りの言葉だけのもある。……この外に、種種な小さな聖句や小さな版畫が窻や隙間の上に、或は橫に貼つてあるを見ることが出來る――その或るものは、神道の神の名であり、或るものは象徵的な印畫だけか、又は佛や菩薩の繪である。凡て皆な神聖な護符――オフダ――である。何れもその家を護つて吳れるもので、かく守護されて居る家へは、その御札を除かなければ、化け物も幽靈も夜中、入ることが出來ぬのである。

 執念を有つた幽靈は自分では御札を剝がすことが出來ぬ。が、嚇かしたり、約束事をしたり、賄賂を使つたりして、誰れか人にそれを取り除かせようとつとめる。で、戶から御札を剝がして貰ひたがる幽靈をフダヘガシと呼ぶのである。

 

 へがさんと六字の札を幽靈も

    なんまいだあと數へてぞ見る

 

〔四句目はつぎのやう二樣に讀める。

ナンマイダア――『何枚だ?』

ナム(アム)アイダア――『南無阿彌陀!』

南無阿弥陀佛といふ呼びかけの折りは、眞宗といふ大宗旨の信者が主として唱へるが、他宗の人も、殊に死者に祈りを捧げる時に、これを唱へる。それを唱へる間、祈つて居る人は數珠で祈りの數を數へる。この習慣がカゾヘテ(『數へて』)の語を用ひて仄めかしてある〕

[やぶちゃん注:原拠「狂歌百物語」の「札へかし」の挿絵(「下編」の「42」の左)の右手中ごろの位置から、

 へかさんと 花前亭

  六字の札を  

     幽㚑も

  なんまいたあと

    かそへてそ見る

とある。]

 

 ただいちのかみの御札はさすがにも

    のりけなくともへがしかねけり

[やぶちゃん注:原拠の本文に(「50」の右丁三行目)、

 唯一の神の御札はさすかにものりけなくともへかし兼けり 樣星

とある。狂号の「樣」は自信がない。なお、一九七五年恒文社刊の平井呈一氏の訳(「骨董・怪談」所収の「天の川綺譚」の「化けものの歌」)ではこの句に注を附され、『これには原注がないが、「ノリ」は「糊」と「法(のり)」をかけたものと思われる』とあるのは至当である。]

小泉八雲 化け物の歌 「一二 ウミバウズ」  (大谷正信譯)

 

[やぶちゃん注:本篇の詳細は『小泉八雲 化け物の歌 序・「一 キツネビ」(大谷正信譯)』の私の冒頭注を参照されたい。]

 

     一二 ウミバウズ

 卓の上へ、身を上に脚を下にして大きな章魚[やぶちゃん注:「たこ」。]を載せて見給へ、――さうすると、ウミバウズが卽ち『海の坊主』といふ空想を初めて思ひ付かせた怪異な實物が眼前にあることになる。この姿勢の下の方にぎろつとした眼を有つた、この大きな禿げた軀(からだ)は坊主の剃髮した頭に歪みなりに[やぶちゃん注:「歪んだ風体のままに」の意。]似て居り、下に這うて居る脚(或る種類では黑い蹼[やぶちゃん注:「みづかき」。]で繋がつて居る)は坊主の衣(ころも)のひらひらする動搖を想はしめるからである。……海坊主は日本の化け物文學にまた古風な繪本に隨分と出て來る。天氣の惡るい時、餌食を捉へに、深い海から現れ出るのである。

[やぶちゃん注:蛸を冒頭に出して、すこぶるヴィジュアルに説明し、西欧の読者がイメージし易いようにしている辺りは、流石であるが、しかし、実は原文は“cuttlefish”であって、タコではなく、イカなのである。この翻案は結果した理解の上では正しいと言えるし、小泉八雲の謂いは明らかにイカではなく、タコを説明しているから、いい。小泉八雲は『小泉八雲 落合貞三郎訳 「知られぬ日本の面影」 第二十一章 日本海に沿うて (二)』で海坊主に言及している。そちらの私の注も参照されたい。]

 

 板一重下は地獄にすみぞめの

    ばうずの海に出るぞあやしき

〔洒落の說明が出來かねる。……アヤシイは「怪しい」、「驚く可き」、「超自然的」、「面妖な」、「疑はしい」といふ意味である。初めの二句に、フナイタイチマイシタハヂゴク(「船板ただ一枚の下は地獄」)といふ佛敎的俚諺が用ひてある。(この諺を引用して居る今一つの歌に就いては自分の「佛の畠の落穗」の第八章を見られたい〕

[やぶちゃん注:絵は「中編」の「25」にあり、本文の「海坊主」の掉尾に(「34」の右丁六行目)、

 板一重下は地こくに墨染の坊主の海に出るぞあやしき 懿斎

狂号の判読は正直、自信はない。「懿斎」ならば、「しさい」と読む。「板一重下は地獄」「いたひとへしたはぢごく」だが、普通、現行は「板子(いたご/いたこ)一枚下は地獄」である。「板子」は「和船の舟底に敷く揚げ板」を指す。

「佛の畠の落穗」明治三〇(一八九七)年に刊行した“ GLEANINGS IN BUDDHA-FIELDSSTUDIES OF HAND AND SOUL IN THE FAR EAST ”(「仏陀の畑(仏国土・浄土)の落穂集 極東に於ける手と魂の研究」:来日後の第四作品集)の第八章“VIII BUDDHIST ALLUSIONS IN JAPANESE FOLK-SONG”のここ(“Internet Archive”のこちらに左の206ページ)の六行目にある、

   *

Now they are merry together; but under their boat is Jigoku.

Blow quickly, thou river-wind,—blow a typhoon for my sake!

   *

を指す。訳すなら、

   *

今、彼らは互いに陽気だが、しかし、彼らの舟の下は地獄だ。

吹け! 素早く! 川風よ!――俺のために! 嵐よ! 吹くがいい!

   *

か。“Internet archive”の第一書房家庭版「小泉八雲全集」(昭和一二(一九三七)年刊の第六巻所収・訳者金子健二)の当該部では、以下のように訳されてある。

   *

彼等は一緖に樂んでをるが彼等のボートの下は地獄だ、河風よ早く吹け、私のためにつむじ風よ吹け、(大意)

   *

且つ、その後に『註 地獄は種々の地獄を總稱した佛敎用語である。ここで言つてをることは船板一枚下は地獄といふ句、卽ち海上の危險を形容した句に關係してをる。この歌は嫉妬を皮肉つたものである。ここでいふ船(ボート)は恐らく屋根のある遊覽船で管弦の遊びに用ひられるやうな物であらう。』ともある。【追記】後に、私は「小泉八雲 日本の民謠に現れた佛敎引喩 (金子健二譯)」を電子化注したので、そちらを見られたい。]

小泉八雲 化け物の歌 「一一 バケヂザウ」  (大谷正信譯)

 

[やぶちゃん注:本篇の詳細は『小泉八雲 化け物の歌 序・「一 キツネビ」(大谷正信譯)』の私の冒頭注を参照されたい。

 標題の中に、ここにだけ読点が入っている。]

 

     一一、バケヂザウ

 子どもの亡靈の救主たる地藏菩薩の像は、日本佛敎の中にあつて最も美しい、また最も人間味のあるものの一つである。この佛の彫像は殆んど到る處の村落に、また到る處の路傍に見ることが出來るが、地藏の彫像には――例へば姿を色々に扮して、夜間步き𢌞ると云ふやうな――無氣味なことをするのがあると云はれて居る。さういふ地藏の彫像をバケヂザウと呼ぶ。變形をする地藏といふ意味である。傳統的な繪では、小さな男の子が――その立像が動いて徐ろに自分の方へ頭を屈めるとは思ひもかけずに――地藏の石像の前ヘいつもの餅の御供物を置かうとして居るところが畫いてある。

[やぶちゃん注:絵は、「中編」の「37」の左にある。「化け地蔵」で、日文研の「怪異・妖怪伝承データベース」で検索すると、六件がヒットし、神奈川県大磯・栃木県日光市・同旧三重村大字五十部・大阪市・三重県・茨城県岩井市の旧伝承が見つかる。この内、多くが立ち歩くという怪異を持つようである。小泉八雲は、あたかも一般論のように、「傳統的な繪では、小さな男の子が――その立像が動いて徐ろに自分の方へ頭を屈めるとは思ひもかけずに――地藏の石像の前ヘいつもの餅の御供物を置かうとして居るところが畫いてある」とあるものの、これは実は「狂歌百物語」の「化地藏」の挿絵そのものであって、これが「化け地蔵」のオーソドックスな図版とは、私には、全く、思われない。

 

 何氣なき石の地藏の姿さヘ

    夜は恐ろしき御影とぞなる

〔花崗岩といふ日本語はミカゲである。そしてまた「御ん相(すがた)」とか「尊い樣子」とか何んとかいふ意味を有つて居て、神や天子に對して用ひる、ミカゲといふ尊稱もある。……文字通りではどう譯しても五句目や、後の方の、飜譯の效果を暗示することは出來ぬ。カゲは「影」、「姿」、それから「力」――殊に不可思議な力を意味する。名や神の屬性に附けるミといふ尊稱の接頭語はオオガストと譯してよからう〕

[やぶちゃん注:原拠「狂歌百物語」の「化地藏」の本文に(「中編」の「43」の左丁後ろから二行目)、

 なにけなき石の地藏の姿さヘ夜は恐ろしきみかけとそなる 宝山亭金丸

とある。

「オオガスト」“august”。この場合は形容詞で、「畏敬の念を起こさせるほどに威厳のある、堂々たる」の意。]

小泉八雲 化け物の歌 「十 サカサバシラ」  (大谷正信譯)

 

[やぶちゃん注:本篇の詳細は『小泉八雲 化け物の歌 序・「一 キツネビ」(大谷正信譯)』の私の冒頭注を参照されたい。]

 

     十 サカサバシラ

 サカサバシラといふ(次記の狂歌では屢〻サカバシラと約めてある[やぶちゃん注:「つづめてある」。])言葉は文字通りでは『逆さな柱』を意味する。木の柱は、殊に家の柱は、それを伐つた木の元の位置にして――言ひ換へれば、根に近い方を下にして――建てなければならぬのである。家の柱を逆さに立てることは不吉だと考へられて居る。――古昔はそんな失錯は、『逆さ』柱は有害な事をしようとするものであるから、妖異な不快な結果を惹起するものと信じられて居た。夜は唸つたり、呻いたりし、その裂け目凡てを口のやうに動かし、その節瘤凡てを眼のやうに開く。その上、その魂は(家の柱は悉く魂を有つて居るから)その木材から、その長い體(からだ)を外づして、頭を下にし、顰め面で人を見ながら部屋部屋をうろつきあるく。それだけでは無かつた。サカサバシラは家中の事の凡てを狂はせることを――家庭の爭ひを釀すことを――家の人や召使に不幸をたくらむことを――大工の過失を見付けて直す時までは生きて行くことが殆んど堪へられないやうにすること――知つて居たのである。

[やぶちゃん注:原拠「狂歌逆柱」の挿絵では(「中編」の「6」)、柱に巻きついて、上から降りてきているのは長い髮をした、「怨めしや」風に手を下に垂らした典型的な女の幽霊風体で描かれてある。]

 

 さかばしら建てしは誰ぞや心にも

    ふしある人のしわざなるらん

[やぶちゃん注:挿絵の左最上部に、

 逆はしら

  立てしはたそや  松梅亭

   こゝろにもふし  槇住

    ある人のしわさなるらん

とある。]

 

 飛彈山を伐り來て建てしさかばしら

    何んの工みのしわざなるらん

〔タクミといふ語は、假名で書くと、「大工」といふ意味にもなり、また「陰謀」、「惡るい策略」、「惡るいたくらみ」といふ意味にもなる。だから、二た通りに讀むことが出來る。一つの讀み方では、柱はうつかり麤麤[やぶちゃん注:「そそ」。大まか。但し、字が潰れているため、二字目は別な字の可能性もある。意味からかく採った。]で逆さに建つたといふこと、も一つの讀み方では、惡意があつてさう建てたといふことである〕

[やぶちゃん注:やはり挿絵の右端に、

 飛弾山をきりきて立し逆はしら

   何のたくみのしわさなるらん 金剛舎

                   玉芳

とある。]

 

 うへしたをちがへて建てし柱には

    さかさま事のうれへあらなん

〔サカサマゴトノウレヘは文字通りでは「逆さま事の憂」、サカサマゴト卽ち『逆樣事』といふ言葉は不幸、矛盾、災難、當惑を意味して普通に使ふ言葉である〕

[やぶちゃん注:英文原本でも“Chigaëté tatéshi”であるが、原拠の本文「逆柱」には(「15」の左丁初行)、

 上下を違ひて立し柱にはさかさま事のうれへあらなん 靜渺園

とあって、表記が異なる。これは「たがひて」か、「ちがひて」かであるが、私は前者で採りたい。

 

 壁に耳ありて聞けとかさかしまに

      建てし柱にやなりする音

〔カベニミミアリ(「壁に耳あり」)といふ諺を仄めかして居る。その諺は「他人の事を、内證にでも、言ふ時言ひ方に氣を付けよ」といふ意味〕

[やぶちゃん注:原拠本文に(「15」の左丁の後ろから四行目)、

 壁に耳ありてきけとかさかしまに立し柱に家なりする音 周防 □□園

とある(狂号の頭の二字は私には判読出来ない)。]

 

 賣り家のあるじを訪へば音ありて

    われめが目をあくさかばしら

〔四句目には、自由譯にしても言ひ現せないことを暗示する洒落がある。ワレは場合次第で、「我れ」或は「我の」或は「その有つて居る」を意味するから、ワレ、メ(と別別に書くと)「そのものの眼」ともなる。しかしワレメ(一語の)の裂け目、或は分裂を意味する。サカバシラは「逆柱」を意味する計りで無く、その上逆柱の化け物をも意味することを想起しなければならぬ〕

[やぶちゃん注:原拠本文に(「15」の右丁七行目)、

 賣家のあるしを訪へは音ありてわれめか目をあく逆柱  梅の門花兄

とある。]

 

 

 思ひきやさかさばしらの柱掛

    書きにし歌もやまひありとは

〔「書札に書いてある歌さへ逆樣でゐる」――間違つて居る、といふのである。ハシラカケ(「柱に吊るすもの」)とは美しい材木の薄板で、字が書いてあるか、繪が描いてあるかして、裝飾の爲め柱に吊ゐすものをいふ〕

[やぶちゃん注:挿絵(「6」)左上部中ほどに、

 思ひきや逆柱の

  はしら掛書にし

   哥もやまひありとは

          和風亭

            国吉

とある。]

小泉八雲 化け物の歌 「九 ヤナリ」  (大谷正信譯)

 

[やぶちゃん注:本篇の詳細は『小泉八雲 化け物の歌 序・「一 キツネビ」(大谷正信譯)』の私の冒頭注を参照されたい。]

 

     九 ヤ ナ リ

 ヤナリといふ語の――それは地震中、家屋の震動する音を意味するとだけ我我に語つて――その薄氣味惡るい意義を近時の字書は無視して居る。しかし此語はもと化け物が動かす家の震動の音を意味して居たもので、眼には見えぬ、その震動者も亦ヤナリと呼んで居たのである。判然たる原因無くして或る家が夜中震ひ軋り唸ると、超自然な惡心が外から搖り動かすのだと想像してゐたものである。

[やぶちゃん注:言わずもがな、「家鳴(やな)り」。西洋の心霊学で言うところの「ポルターガイスト(ドイツ語:Poltergeist:「poltern」(騒々しい音を立てる)と「Geist」(霊)で、「騒がしい音を立てる霊」という意味の合成語)である。本邦でも、日本各地の伝承があるかなり古い怪異で、家や家具が理由もなしに揺れ出す現象を妖怪の仕業と捉えたものである。私の「太平百物語卷五 四十五 刑部屋敷ばけ物の事」がよかろう。但し、これは異類と人の地縛霊が正体であることが明かされる特殊なものである。最近の心霊動画は、概ね、目を通しているが、海外のものは、三分の二ほどが、「ポルターガイスト」で、甚だ、面白くない。私は、その内の半数近くは、多食亜目ナガシンクイ上科シバンムシ科 Anobiidae に属する「死番虫」類が家屋を食害する際の音と考えてよいと思っている。外国産のそ奴らは、実際に動画で聴いたが、驚くべき大きな音で……カチ! カチ! コチ! コチ!……悪魔が示す死のカウントダウンとして――古くから恐れられていたのである。

 

 床の間に活けし立ち木も倒れけり

    やなりに山の動く掛物

〔日本の部屋のトコノマといふは裝飾的な、壁の引込(リセス)[やぶちゃん注:四字へのルビ。]久は凹み間(アルゴウ)[やぶちゃん注:三字へのルビ。]といつたやうなもので、其處へ普通には掛物を掛け、花を活けた瓶とか盆栽とかを置く〕

[やぶちゃん注: 原拠「狂歌百物語」の「家鳴」では、挿絵では(「中編」の「38」の右)、髪の逆立った奇体な老いた男の妖怪(零落神っぽい)が柱を揺らしており、その頭部の上に、

 床の間に活し立木も  宝市亭

  たふれけり家鳴りに

    山のうこく掛もの

とある。

「リセス」“recess”。ここでは「壁の凹んだ所」。

「アルゴウ」“alcove”。ここでは「壁などの入りこんで設けられた部分」で、ズバリ、日本の「床の間」の意でも用いられる。]

小泉八雲 化け物の歌 「八 ヘイケガニ」  (大谷正信譯)

 

[やぶちゃん注:本篇の詳細は『小泉八雲 化け物の歌 序・「一 キツネビ」(大谷正信譯)』の私の冒頭注を参照されたい。]

 

     八 ヘイケガニ

 讀者は自分の『骨董』のうちに平家蟹といふ、その甲の上に怒りの顏の輪廓に似て居る種種な皺のある蟹についての一文を見ることが出來る。下ノ關ではこの珍らしい動物の乾したのを賣りに出して居る。……平家蟹は壇ノ浦で死んだ平家の侍の怨みの靈の變化(へんげ)であると云はれて居る。

[やぶちゃん注:「小泉八雲 平家蟹(田部隆次譯)」を参照されたい。]

 

 汐干には勢揃して平家蟹

    浮世の樣を橫ににらみつ

〔此歌の初句の三つ目の發音は「干潮」の意味のヒと、「干て居る濱」の意味のヒカタの役を勤めて居る。セイゾロヒは、羅馬時代の言葉のアキエスの意味での、「合戰整列」を意味する名詞である。……で、セイゾロヒシテは「合戰整列に竝んで」の意味〕

[やぶちゃん注:原拠「狂歌百物語」の「平家蟹」の本文に(絵は「上編」の「6」、句は「14」の左丁の六行目。それにしても、この絵はヒド過ぎる! 描かれている三個体は全部、抱卵(エビ)亜目カニ下目ワタリガニ科ガザミ属ガザミ Portunus trituberculatus だぜッツ!?!)、

 汐干には勢揃ひして平家蟹浮世のさまを橫ににらみつ 下毛小倉 楳良

とある。

「アキエス」原文注のここの前後は“Séïzoroë is a noun signifying "battle-array"—in the sense of the Roman term acies;”。『「せいぞろえ」は、ローマ語の用語「アキエ(ー)ス」の意味で、「戦闘隊列」を意味する名詞で、』の意。「acies」はローマ時代の軍隊の「戦闘隊列」を意味するラテン語表記。]

 

 西海に沈みぬれども平家蟹

    甲羅の色もやはり赤旗

〔ヘイケ卽ち平家の旗は赤かつた。その敵ゲンジ卽ち源家の旗は白かつた〕

[やぶちゃん注:原拠本文に(「14」の左丁二行目)、

 西海に沈みぬれとも平家蟹甲らのいろもやはり赤はた 近江日野 敬㐂

とある。]

 

 まけいくさ無念と胸にはさみける

      顏もまつかになる平家蟹

[やぶちゃん注:原拠原文では第三句は“Hasami ken;—”であり、原拠本文でも(「13」の左丁後ろから三つ目)、

 まけ軍むねんと胸にはさみけん顏もまつかになる平家蟹

になっているから、大谷の誤り。「る」の重なりが五月蠅いので、狂歌としても「ん」でブレイクする方がいい。]

 

 味方みなおしつぶされし平家蟹

    遺恨を胸にはさみもちけり

〔五句目のハサミといふ語の使用は、兼用音の頗るいい見本である、蟹の抓或は鋏刀を意味するハサミといふ名詞があり、隱まうとか、抱くとか、懷くとかいふ意味のハサムといふ動詞がある。(イコンヲイダクは「相手の人に對して遺恨の念を抱く」といふ意味である)此語をその後に來る語とだけつなげて讀むと、ハサミモチケリ卽ち「抓を有つた」といふ句になり、前の語と一緖に讀むと、イコンヲムネニハサミ卽ち「遺恨をその胸に抱く」といふ言ひ現しになる〕

[やぶちゃん注:原拠本文に(「15」の右丁三行目)、

 味方みなおしつふされし平家蟹いこんを胸にはさみ持けり 金鍔

とある。

「抓」は「つめ」と読んでいるとしか思えないが、誤りである。この「抓」という漢語は、あくまで、動詞であり、「つまむ・つねる・ひっ掻くかく・爪でひっ掻く」の意しかない。

「鋏刀」「きやうたう」は「鋏(はさみ)」の意。]

小泉八雲 化け物の歌 「七 フナユウレイ」  (大谷正信譯)

 

[やぶちゃん注:本篇の詳細は『小泉八雲 化け物の歌 序・「一 キツネビ」(大谷正信譯)』の私の冒頭注を参照されたい。]

 

     七 フナユウレイ

 溺死した者の靈魂は、手桶又は柄杓(ヒシヤク)を吳れと云つて、船の後を追ふといふ。手桶又は柄杓を拒絕するのは危險である。が、然しその要求に應ずる前に、その道具の底を打(たた)きのけねばならず、またさうする處をその幽靈に見せてはならぬのである。壞さない手桶又は柄杓を幽靈に投げてやると、船に水を充たせて沈めるのにそれを使ふ。かういふ妖怪を普通フナユウレイ(『船幽靈』)と呼ぶ。

 平家の侍のうち千百八十五年、壇ノ浦の大海戰で死んだものの幽靈は、フナユウレイのうちでも有名である。平家の大將の一人平知盛は、この氣味惡るい役を演じて著名である。古い繪には、部下のつはものの幽靈を從へて、過ぎ行く船を襲はんと波の上を走つて居る姿が描いてある。或る時、義經の有名な家來、辨慶が乘つて居た船を脅やかした。が、辨慶は數珠を用ひてやつと船を救ふことが出來た。數珠の功力がその妖怪を嚇かして追ひ去つたのである。……

 知盛は、船の錨を背に負うて、海の上を步いて居る様に屢〻畫かれて居る。彼とその供の幽靈はその特に管轄して居る領土――下ノ關附近――に無分別にも碇泊する船の錨をいつも拔いて逃げたといふことである。

[やぶちゃん注:船幽霊の言葉こそ出していないが、小泉八雲は既に『小泉八雲 落合貞三郎他訳 「知られぬ日本の面影」 第二十一章 日本海に沿うて (二)』の冒頭で、この知られた「柄杓貸せ」(そこでは「田籠(たご)お吳れ」。「田籠」は担桶(たご)で、水や肥やしなどを入れて天秤棒で担う桶)を既に語っている。「舟幽霊」(私はどうも「舟」と書きたくなる派である)については、私の「怪奇談集」等にも江戸期の怪談に枚挙に暇がないほど、さわに出る。特に一推しは、秀抜な葛飾北斎の戦慄の舟幽霊の挿絵が添えられた「北越奇談 巻之四 怪談 其七(舟幽霊)」であろう。また、『柴田宵曲 妖異博物館 「舟幽靈」』も、総論としては、資料を渉猟してよく書き込んであるもので、本篇の第二段落で語る、知られ謡曲「船弁慶(ふなべんけい)」をも含めて出ており、ここの注代りになるので参照されたい。]

 

 襟もとへ水かけらるゝ心地せり

     柄杓借せてふ船の聲音に

[やぶちゃん注:「聲音」は「こはね」。これは原拠「狂歌百物語」では「舩幽㚑」の挿絵(「上編」の「5」。周囲の波が妖怪化して舟を襲う絵)の左上に、

 襟もとへ

  水かけらるゝ

    こゝちせり

  柄杓かせてふ

    舩の聲ねに 江戶崎

            有文

と出る。]

 

 幽靈に貨す柄杓よりいち早く

    おのれが腰も拔けし船長

[やぶちゃん注:「船長」は「ふなをさ」。原拠は本文に(「上編」の「12」の左丁六行目)、

 幽㚑にかす柄杓よりいち早く己れかこしもぬける船長 結城 椿園

とある。]

 

 辨慶の數珠のくりきに知盛の

    姿も浮む船の幽靈

[やぶちゃん注:本文に(前句の前)、

 弁慶の珠數のくりきに友盛の姿もうかむ舩の幽㚑 語吉窓㐂樽

の表記で載る(友盛」はママ)。]

 

 幽靈は黃なる泉の人ながら

    靑うなばらになどて出づらん

〔死者の下界――卽ちクワウセン――を「黃泉」といふ。この名は漢字二つから成つていて、一つは「黃な」を意味し一つは「泉」を意味する。太洋といふ[やぶちゃん注:ここの訳は『「太洋」を表わす』でないとおかしい。]極く古い言葉は、これは屢神道の或る文に見えるが、『靑海原』である〕

[やぶちゃん注:本文に(「12」の右丁の後ろから四行目)、

 幽㚑は黃なる泉の人なから靑海原になとていつらむ 日光 不二門守黙

とある。]

 

 その姿碇を負うてつきまとふ

     船のへさきや知盛の靈

〔終りの二句には譯の出來ない言葉の戲れがある〕

[やぶちゃん注:原拠本文に()、

 其姿いかりを負てつきまとふ舩の舳やとも盛の㚑 蝶々舍登麿

とある。大谷の注の訳は、続く後の文“The above rendering includes two possible readings.”(上記の箇所の評言は二通りの解釈が出来る。)を省略してしまっている。無論、「友盛」の「とも」が「艫」に掛けられてあって「舳」(「へさき」以外に、これも「とも」とも読む)に応じて、「舳や艫」に知盛の霊が、異常な執念を持って「つきまとふ」という謂いとなるのである。外したのは、後の「怨めしき姿は凄き」の注とダブるからであろうが、不親切である。]

 

 罪深き海に沈みし幽靈の

    浮まんとてや船に縋れる

〔此歌には前記の飜譯が思はせるよりも、もつと凄味があるのである。四句目のウカマンといふ語は、ウカムといふ動詞が二つある[やぶちゃん注:「意味が二つある」の謂い。]のだから、「多分浮ぶであらう」とも、また「多分(救濟といふ佛敎的意味で)助かるであらう」とも譯すことが出來る。昔の迷信に據ると、溺死したものの靈魂は自分が生者を誘惑して死なせる時までは、いつまでも水中に住つて[やぶちゃん注:「すまつて」。]居なければならぬ。溺死した者の幽靈がうまく誰れかを溺死さすと再生することが出來、永久に海を去ることが出來る。この歌の幽靈の叫びは實際は『今多分誰れかを溺死さすことが出來よう』といふ意味である。(これと餘程似寄つた迷信が、ブレトン海岸に在つたといふことである)しつこく又、近く人の後へ跟いて[やぶちゃん注:「ついて」。]來たがる子供や大人のことを、カハデシンダユウレイノヤウニツレヲホシガル(「溺死した人の幽靈のやうに何處へでも跟いて行きたがる」)と普通日本語で言ふ〕

[やぶちゃん注:「縋れる」「すがれる」。原拠本文に(「12」の右丁の三行目)、

 罪ふかき海にしつみし幽㚑のうまんとてや舩にすかれる 美雄

とある。狂号は「よしを」と読むのであろう。]

 

 浮まんと船を慕へる幽靈は

    沈みし人のおもひなるらん

〔この歌ではその種種な言葉の戲れを譯さうにも譯されぬ。が。オモヒといふ語は說明を要する。それは「思」を意味するが、俗語の使ひ方では、死にかかつて居る人の最後の復讐の願望といふことの婉曲な言ひ方に屢用ひられて居る。種種な戲曲でそれを「復讐しようとすゐ魂」といふ意に用ひ來たつて居る。例へば死んだ或る人のことを指して「あれ思が歸つて來た』といふ叫びは、實は「恨んで居るあれの幽靈が見える」といふ意味である〕

[やぶちゃん注:原拠本文に(「12」の右丁二行目)、

 うかまんと舩をしたへる幽㚑は沉みし人のおもひなるらん 下毛葉鹿 其春

とある。「葉鹿」は現在の栃木県足利市葉鹿町(はじかまち)(グーグル・マップ・データ)。]

 

 怨めしき姿は凄き幽靈の

    かぢを邪魔する船のとももり

〔最後の句のトモモリといふ名を用ひて、二重の意味が現してある。トモは船の「艫」の意味、モリは「漏る」の意味である。だから、此歌は知盛の幽靈は船の舵の邪魔するだけでは無く、船を漏らすといふ意味を仄めかして居る〕

[やぶちゃん注:原拠本文に(「12」の右丁七行目)、

 恨めしき姿は凄き幽㚑の楫を邪まする舩のとも盛 無夕垣壁成

とある。]

 

 落入りてうをの餌食となりにけん

    船幽靈もなまくさき風

〔ナマクサキカゼに『生な惡臭』のある風といふ意味であるが、餌の臭ひが此歌の二句目で、仄めかされて居る。此場合文字通りの飜譯は出來ぬ。此作品の技巧は全然暗示的であるから〕

[やぶちゃん注:原拠本文の「舩幽㚑」冒頭に配された一首で(「11」)、

 落入りて魚の餌食となりにけん舩幽㚑もなまくさき風 桃江園金実

とある。因みに、この句の英文訳は、

Having perished in the sea, (those Héïké) would probably have become food for fishes. (Anyhow, whenever) the ship-following ghosts (appear), the wind has a smell of raw fish!

で、

海で滅んだのだから、(これら平家たちは)恐らく、魚たちの餌食(えじき)となってしまったのに違いない。(孰れにせよ、何時(いつ)でも)船を追いかけて来る舟幽霊たち(の、その出現)する時も、やはり、風に生臭い魚の臭いがするものだ!

の意である。]

2019/10/02

小泉八雲 化け物の歌 「六、ユキヲンナ」  (大谷正信譯)

 

[やぶちゃん注:本篇の詳細は『小泉八雲 化け物の歌 序・「一 キツネビ」(大谷正信譯)』の私の冒頭注を参照されたい。]

 

    六、ユキヲンナ

雪女卽ち雪の化け物は種種な姿を採る。然し昔の民間說話の多くのものでは、美くしい變化(へんげ)になつて出て來て居て、それに抱かれると人は死ぬることになつて居る。

〔雪女に就いての頗る珍らしい話を讀者は自分の『怪談』の中に見出すことが出來る〕

[やぶちゃん注:最後は「小泉八雲 雪女(田部隆次譯)」のそれ。]

 

 ゆきをんなよそほふ櫛も厚氷

    さすや氷なるらん

[やぶちゃん注:原拠では、珍しく挿絵(「上編」の「25」の右丁。四角で囲まれた「雪女」の標題がなく、雪女の形象も殆んど描かれていない特異な挿絵頁である)の中に書き込まれた一首で(左上から二首目)、

 雪女裝ふ

  櫛もあつ氷

   さす

    氷なるらん

      文昌堂

       尚 丸

とある。

」「かうがい」(現代仮名遣「こうがい」)と読む。元々は「髪搔(かみか)き」の意で、中国では簪(シン/かんざし)と同一であった。男子の笄は小刀や短刀の鞘に差して、髪の乱れを整えるのに用いた。平安初期、女性に「笄始め」の儀式が定められ、後期には棒の形になったことが「類聚雜要抄」等から知られる。室町時代には三味線の撥の形になり、江戸時代に女子の結髪が盛んになると、棒状の笄を横に挿すようになり、後には反(そ)りのあるもの、両頭で抜き差しの可能な長いもの、耳掻きの付いたものなどが生じ、髪飾りの一つとして使用された。材質は象牙・鼈甲・木・竹・馬の骨・銀・ガラス・クジラの骨など、多種に亙り、珍しいものでは鶴の脛骨で製されたものや、蒔絵を施した高級な装飾品も作られた(以上は「ブリタニカ国際大百科事典」に拠った)。]

 

 本來はくうなるものか雪をんな

    よくよく見れば一物も無し

[やぶちゃん注:これも原拠では挿絵の左上部にあり、

 本來は

  くうなる物か

   雪女よくよく

  みれば一物も

     なし

       藤柴園

         友成

とある。]

 

 夜明ければ消えて行衞は白雪の

    をんなと見しも柳なりけり

〔此處に用ひられて居る、シラユキといふ言葉は日本の詩人がケンヨウゲン(「二重の目的の語」)と呼んで居るものの一例である。直ぐつぎに來る語と結合して『雪と白い女』(シラユキノヲンナ)といふ句を作る。――直ぐ前の語と一緖になつては「何處へ行つたか分らぬ」(ユクヘハシラ〔ズ〕) と讀めることを思はせる〕

[やぶちゃん注:原拠本文の「雪女」に(「33」の左丁の七行目)、

 夜明れは消て行へはしら雪の女と見しも柳なりけり  錢丸

とある。]

 

 雲女見てはやさしく松を折り

    生(なま)竹ひしぐ力ありけり

[やぶちゃん注:これは原拠では挿絵の右最下部にあり、

 雲女みては

  やさしく松ををり   星屋

    生竹ひしく

      ちからありけり

とある。]

 

 寒けさにぞつとはすれど雪女

    雪折の無き柳腰かな

〔ゾツトは文字通りに譯することの困難な語である。恐らく、これに一番近い英語の同意語は『身おののきのする(スリリング)』であらう。ゾツトスルは『人を身戰きさす[やぶちゃん注:「みをののきさす」或いは「みわななきさす」。]』或は『衝動を與へる』或は『戰慄さす』といふ意味である。そして非常に美くしい人のことを『ゾツトスルホドノビジン』卽ち『あの女は見ただけでも人をびくつとさせる程に麗はしい』と云ふ。最後の句のヤナギゴシ(『柳腰』)といふ言葉はほつそりした、たをやかな姿を指すに普通使ふ言葉である。だから讀者は、この言葉の前半は――文脈で、雪の爲め重もく垂れて居る柳の枝の優しさ計りで無く、その上に寒くはあつても立ち停つて歎賞せずには居れぬ、人間の姿の優しさをも暗示して――この歌では巧に二重の役をするやうになつて居ることを見らるるであらう〕

[やぶちゃん注:これも原拠では挿絵の左最下部に配されたもの。但し、

 寒けさにそつとはすれと

  雪女雪をれのなき柳

        こしかも 竜翁

              正澄

末尾が異なる。因みに、この一首、挿絵絵師自身の一首であることが判る。「翁」は「齋」の崩しのようにも見えるが、「翁」の方が明らかに近いように思われるので、そちらで採った。号としてもおかしくはない。]

小泉八雲 化け物の歌 「五 ロクロクビ」  (大谷正信譯)

 

[やぶちゃん注:本篇の詳細は『小泉八雲 化け物の歌 序・「一 キツネビ」(大谷正信譯)』の私の冒頭注を参照されたい。]

 

     五 ロクロクビ

 ロクロクビの語義は英語ではどう飜譯しても指示し難い。ロクロといふ言葉は𢌞轉する多くの物體を――滑車、萬力、絞車、旋盤、陶工の轆轤のやうに同じからぬ物體を――指示してどれにもこれにも、使用せられて居る。ロクロクビを『旋囘する首(ホワアリング ネツク)』とか『旋轉する頸(ロテエチング ネツク)』とか譯しては不滿足である――といふのは、ろくろ頸といふ言葉が、日本人の心に思はせる觀念は、囘轉してその上にまたその囘轉の方向次第で伸びたり縮んだりする首といふ觀念だからである。……この言葉の妖怪的意味はといふと、ロクロクビは⑴頭がその食べる物を探しに四方八方へうろつけるやうに、眠つて居る間にその頸が素敵に長く伸びる人間か、又は⑵その頸を身體から全く離して、後でその頸を身體へ繋ぐことの出來る人間かである。支那の神話では、頸が全く離れることが出來るやうに出來てる人間は、特殊の部類のものであるが、日本の民間說話では、その區別がいつも保たれて居るのでは無い。ろくろ頸が有つて[やぶちゃん注:「もつて」。]居るとされて居る惡るい癖の一つは、夜の燈の油を嘗めるといふ癖である。日本の繪ではろくろ頸は普通は女に描いてある。そして古い書物に、女は自分ではそれと知らず――丁度、夢遊病者が、その事實を自分には氣付かずに、眠つて居る間に步き𢌞るやうに――ろくろ頸になることがあると書いてある。……ろくろ頸についての次記の歌は狂歌百物語の中の二十首の一團から選んだのである。

〔この最後に說明した種類のろくろ頸については、自分の『怪談』の中に日本文から飜譯した珍らしい話がある〕

[やぶちゃん注:「絞車」(かうしや(こうしゃ))は、重い物を引き寄せたり、持ち上げたりするのに用いる大きな巻き上げ機のこと。「車地」「車盤」などとも呼ぶ。原文は“windlass”(ウィンドラス)。英和辞典を見ると、「ウィンチ(winch)」よりも簡単で手回しのものが多い。井戸の水汲み用の釣瓶(つるべ)や、錨の巻き上げ機などとあった。

「旋囘する首(ホワアリング ネツク)」原文“Whirling-Neck”。「Whirli」は自動詞では「ぐるぐると回る・振り回す」「渦を巻く」の意。

「旋轉する頸(ロテエチング ネツク)」原文“Rotating-Neck”。「Rotate」は自動詞では「軸を中心として回転する・循環する」「自転する」の意。

「自分の『怪談』の中に日本文から飜譯した珍らしい話がある」私の強力注附きの「小泉八雲 ろくろ首(田部隆次譯)」を参照されたい。]

 

 寢亂れの長き髮をば振分けて

    千尋にのばすろくろ頸かな

[やぶちゃん注:原拠「狂歌百物語」の「轆轤首」(絵は「上編」の「22」)本文の掉尾に(「29」)、

  寢みたれの長き髮をはふり分て千尋にのはす轆轤首かな 草加 藤田橋丸

とある。

「千尋」「ちひろ」。]

 

 あたま無き化物なりとろくろ頸

       見て驚かん己が姿を

[やぶちゃん注:原拠では(「28」の七行目)、

 かうへ無き化物なりと轆轤首見ておとろかん己かすがたを 靑梅 扇松垣

とある。【2025年4月2日追記】当初、頭の部分は「あたま」と無批判にしていたのだが、どうみても、そうは読めないことに気づいた。これは、「賀」(か)の崩しの上部が欠損したものに、「宇」(う)、「篇」或いは「弊」の上部が欠損したものと判読し、「かうべ」と判読した。識者の護斧正を乞うものである。]

 

 束の間に梁をつたはるろくろ頸

    けたけた笑ふ顏のこわさよ

〔作品中の二重の意味を悉く飜譯することは不可能である。ツカノマは「瞬時に」とか「早く」とかいふ意味でゐる。然しまた「支柱〔ツカ〕の間の場處〔マ〕に」といふことも意味し得るのである。ケタは橫梁を意味するが、ケタケタワラフは嘲るやうに微笑、又は大笑することを意味する。幽靈はケタケタといふ發音をして笑ふといはれて居る〕

[やぶちゃん注:原拠では(「29」の二行目)、

 つかの間に梁をつたはる轆轤首けたけた笑ふ顏のこはさよ 語安臺有恆

で出る。]

 

 六尺の屛風にのびるろくろ頸

    見ては五尺の身をちゞめけり

〔大屛風の普通の丈は日本尺六尺である〕

[やぶちゃん注:これは珍しく原拠の挿絵(「22」)に、この歌通りの、屏風の後ろから延びた轆轤首の首のところから下へ(画面の屏風の左外)書かれてある。但し、この首、元をたどると、画面の右で屏風の内側に下から延びているのが判ることから、この屏風の内に寝ているらしい(盛り上がった衾(ふすま)のみが見える)女の首であると、絵は解釈出来る)に記された一首であるが、

 六尺の屛風にのひる轆轤首

   見ては五尺の身をちゝみけり 花の門

最終句に異同がある。原文を見ると、正しく“Mi wo chijimi-kéri! ”であるからして、俳人でもあった大谷の確信犯的な補正操作の可能性が高いものと思われる

2019/10/01

小泉八雲 化け物の歌 「四 シンキロウ」  (大谷正信譯)

 

[やぶちゃん注:本篇の詳細は『小泉八雲 化け物の歌 序・「一 キツネビ」(大谷正信訳)』の私の冒頭注を参照されたい。]

 

     四 シンキロウ

 シンキロウといふ言葉は『ミラアジユ』の意味に用ひられて居り、また東洋の物語の神仙鄕たる蓬萊の別名として用ひられて居る。日本の神話には蓬萊の蜃氣樓を造り出して、人間を迷はす力があると信じられて居るものが種種ある。古い繪に、蓬萊の幻影をつくる水氣を口から吐かうとして居る處を描いた蟾蜍[やぶちゃん注:「がま」。]を見ることがあらう。

[やぶちゃん注:「ミラアジユ」“mirage”。「蜃気楼・逃げ水」、「幻影・幻想・幻像・妄想」、「儚(はかな)い実現不可能な夢や願望」の意。語源はラテン語の「鏡で見る」の意に基づく。

「蓬萊」は小泉八雲の「蓬萊」を読まれるに若くはない。]

 が、特に常にこの幻像をつくる動物はハマグリ――英語でいふクラムによく似て居る日本の軟體動物である。貝を開いて紫がかつた霧のやうな吐息を空へ送る。するとその霧が形を成して、眞珠貝の色味[やぶちゃん注:「いろみ」。色加減。]で、蓬來と龍宮の宮殿との光りある幻影になる。

[やぶちゃん注:「ハマグリ」軟体動物門斧足(二枚貝)綱異歯亜綱マルスダレガイ科ハマグリ亜科ハマグリ属ハマグリ Meretrix lusoria。博物誌は私のサイト版「和漢三才圖會 卷第四十七 介貝部  寺島良安」の「文蛤(はまぐり)」を見られたい。

「クラム」“clam”は、英語では食用の二枚貝の広義総称である。日本人以外は海産生物の個別名を驚くほど認識していない。ここで小泉八雲がこういった際に欧米の読者が想起するのは、クラム・チャウダーにする本邦のマルスダレガイ科アサリ亜科アサリ属アサリ Ruditapes philippinarum の近縁類と考えてよい。]

 

 蛤の口あく時や蜃氣樓

     世に知られけん龍の宮姬

 

 蜃氣樓龍の都のひながたを

     潮干の沖に見する蛤

〔ヒナガタは殊に「雛形」、「微小な模型」、「圖を引いた圖案」等を意味する〕

[やぶちゃん注:原拠「狂歌百物語」では「蜃氣樓」(絵は「下編」の「23」)の部立てに、前者は(「31」の右丁の三行目)、

 蛤の口あく時やしんき樓世にしられけん龍の宮姬 橋乃屋

で、後者は(「31」の右丁七行目)、

 蜃氣樓龍の都の雛形を汐干の沖にみする蛤 湯嶋山人

の表記で出る。]

小泉八雲 化け物の歌 「三 オホガマ」  (大谷正信譯)

 

[やぶちゃん注:本篇の詳細は『小泉八雲 化け物の歌 序・「一 キツネビ」(大谷正信譯)』の私の冒頭注を参照されたい。]

 

     三 オ ホ ガ マ

 古昔の支那及び日本文學では、蟾蜍[やぶちゃん注:「がま」。]は超自然的な能力を――例へば雲を呼ぶ力、雨を降らす力、極はめて美しい幻影を造り出す魔力のある霧を口から吐く力を――有つて居ると信ぜられて居る。心の善い――尊い人の友の――蟾蜍も居る。だから、日本の藝術では『ガマセンニン』(蟾蜍仙人)といふ有名な仙人は普通は、その肩の上に止まらせたり、或はその橫に蹲らせたり[やぶちゃん注:「うずくまらせたり」。]して居る一匹の白蟾蜍と一諸に現してある。心の惡るい化け物で、人間を死地に誘ふ爲めにいろんな幻影を造り出す蟾蜍も居る。この種の一匹に就いての典型的な物語が自分の著した『骨董』のうちに、『忠五郞の物語』といふ標題で載つて居る。

[やぶちゃん注:最後の句点は底本にはないが、ページ末行末で終わっているせいで、版組上、物理的に打てなかったものと判断し、特異的に打った。標題は「大蝦蟇」。

「蟾蜍」ここは本邦に限ってよいので、生物学的には脊索動物門脊椎動物亜門両生綱無尾目アマガエル上科ヒキガエル科ヒキガエル属ニホンヒキガエル Bufo japonicus に比定してよい。より詳しい(厳密には亜種二種が本邦に棲息する)博物誌は、私の「和漢三才圖會卷第五十四 濕生類 蟾蜍(ひきがへる)」を参照されたい。

「蝦蟇仙人」は中国由来であるが、日本で特に知られる仙人。ウィキの「蝦蟇仙人」によれば、青蛙神(せいあしん)を従えて妖術を使うとされる。左慈に仙術を教わった三国時代の呉の葛玄(一六四年~二四四年)若しくは呂洞賓(りょどうひん 七九六年~?)に『仙術を教わった五代十国時代後梁の劉海蟾をモデルにしているとされる。特に後者は日本でも画題として有名であり、顔輝『蝦蟇鉄拐図』の影響で李鉄拐(鉄拐仙人)と対の形で描かれる事が多い。しかし、両者を一緒に描く典拠は明らかでなく、李鉄拐は八仙に選ばれているが、蝦蟇仙人は八仙に選ばれておらず、中国ではマイナーな仙人である。一方、日本において蝦蟇仙人は仙人の中でも特に人気があり、絵画、装飾品、歌舞伎・浄瑠璃など様々な形で多くの人々に描かれている』とある。

「忠五郞の物語」こちらで電子化注済み。訳者が異なる(田部隆次譯)ので、「忠五郞の話」となっている。]

 

 眼は鏡口は盥の程にあく

    蝦蟇もけしやうの物とこそ知れ

〔ケシヤウといふ日本語が二つある。カナでは同じ字で同じ發音であるが、漢字では非常に異つて居る。カナで書いてあると、ケシヤウノモノといふ言葉は『化粧の物』[やぶちゃん注:「化粧を施した対象」の意。]といふ意味にもなり『化性のもの』『化け物』といふ意味にもなる〕

[やぶちゃん注:原拠「狂歌百物語」では、「蝦蟆」の項で(絵は「上編」の「26」)、

 眼は鏡口は盥のほとにあくかまも化しやうの物とこそしれ 桃實園

と載る(同「35」の六行目)。「盥」は「たらひ(たらい)」。但し、この一首、「鏡」と「盥」で、女性の化粧に必要なものを譬えとして挙げ、しかも累加の係助詞「も」を用いている意図には、化けて装う女性らへの揶揄の諧謔の方が遙かに強いと読むべきである。小泉八雲も、そこを汲んで、かくも、わざわざ、注を施したものと想像する。但し、八雲は非常に優しい人柄であるから、そうした部分へはわざとメスを入れていないのだと思われる。]

小泉八雲 化け物の歌 「二 リコンビヤウ」  (大谷正信譯)

 

[やぶちゃん注:本篇の詳細は『小泉八雲 化け物の歌 序・「一 キツネビ」(大谷正信譯)』の私の冒頭注を参照されたい。]

 

     二 リコンビヤウ

 リコンビヤウといふ言葉は『亡靈』、『幽靈』、『妖怪』といふ意味のリコンといふ語と、『やまひ』、『病氣』といふ意味のビヤウといふ語から成つて居る。殆んど文字通りに譯すれば『幽靈やまひ』であらう。和英字書にはリコンビヤウの意味は『ヒポコンドリア』であると載せであるであらう。そしてこの語をこの近代的意義に實際使用して居る。然し古昔の意味は軀の外の魂をつくる心のやまひであつて、この不氣味な病氣についての奇異な文獻がうんとある。支那でも日本でも、戀が起こした烈しい悲哀か熱望かの力によつて、それに惱まされて居る人の靈が、肉體外の魂を造ることがあると想像されて居たものである。だから、リコンビヤウに罹つて居る者は、丁度、同じな身體を二つ有つて[やぶちゃん注:「もつて」。]居るやうに見えるのである。そしてその二つのうちの一つは家に殘つて居るのに、片方の一つが其家には居ない戀人に會ひに出て行くとされてゐた。多分、離魂や亡魂の原始的信仰は何かの形式で世界到る處に存在するのであらう。然しこの極東の一種は、離魂は戀が起こすもの、その煩ひに罹るものは女だ、と想はれて居るから特別の興味がある。……リコンビヤウといふ言葉は、幽靈を造るとされて居るその心の病にも使用されて居るが、その幽靈にもまた使用されて居るやうである。『靈魂(ゴースト)の病氣(デジイズ)』を意味すると共に『身を離れての魂(ドツペルゲンガア)』を意味するものである。

〔自分の『異國情趣と懷古のことども』のうちに、「禪の一問」と題したこの問題を取扱つた典型的な支那物語――倩といふ少女の物語――があるのを讀者は見らるるであらう〕

[やぶちゃん注:【2025年4月2日追記】実は底本では、以下の注は段落途中に、突如、挿入されているのだが、私は底本全集にしばしば見られる、この方式が、厭でしょうがない。そこで、今回は、総て、段落終了の後に移すこととした。

「リコンビヤウ」言わずもがな、漢字表記は「離魂病」である。所謂、古来からのあくがれ出でづる「いきすだま」「生霊」、心霊学上の「幽体離脱」から、現代の精神疾患の「解離性同一性障害」(Dissociative Identity Disorder)、則ち、旧名称「多重人格障害」に相当するとも言える、通常は人間に発生する怪(疾患)である。

「ヒポコンドリア」原文“hypochondria”。かつては狭義の疾患としての「心気症」(心身症のようには身体的物理的変成疾患を見出すことが出来ない「思い込み」の心因性の精神疾患)や旧「憂鬱症」(双極性障害の鬱期)、及び、広義の「気病み」を指した語で、「ヒポコンデリー」とも呼んだ(これを大昔、小学六年生の私に、「男性のヒステリーを指す語なんだよ」と伯父が言ったが、考えて見ると、全くの嘘なわけだが、私は二、三年の間、それを信じていたのを思い出す)。

「病氣(デジイズ)」ルビの“disease”は、病因や病態が明確で、医学的に定義された疾患を指す。多くの場合、疾患名が付けられており、治療法や診断基準が確立されている狭義の医学的定義語である。

「異國情趣と懷古のことども」明治三一(一八九八)年十月刊の“ Exotics and Retrospectives ”(「異国風物と回想」)。

「禪の一問」原文“A Question in the Zen Texts”。前掲書の第三話。訳は「禪に於ける公案」がよかろう。そこでは、宋代の僧無門慧開(一一八三年~一二六〇年)が編んだ公案集「無門関」の「三十五 倩女離魂(せんぢよりこん)」を枕に、唐代伝奇の名作の一つである中唐に陳玄祐(ちんげんゆう)の「離魂記」の話を小泉八雲は語っている。実はすこぶる幸いなことに、私は「無門関」を「淵藪野狐禅師訳注版」としてトンデモないブットビ訳で全電子化注しており(前のリンク先はブログ分割版だが、サイト一括版もある)、特異的にその注の中で、陳玄祐撰「離魂記」の電子化注もオリジナルにしてある。是非、ご覧あれ!【追記】まず、後に「小泉八雲 禪の一問 (田部隆次譯)」として電子化注した。さらに、ブラッシュ・アップした「無門關 三十五 倩女離魂」のブログ版もあるので、容量が大きいサイト版がキツい方は、そちらで見られたい。

「身を離れての魂(ドツペルゲンガア)」原文の“doppelgänger”はドイツ語で、「二重の歩く者」「二重身」の意。自分自身の姿を現実の外部に於いて自分で見る(見たように感ずる)幻覚。「自己像幻視」である。但し、他者がそれを見る場合でも、かく呼ぶ。【追記】私は、このドッペルゲンガー現象が好きで、かなりの作品を電子化しているが、まず、他では、まず、読めない珍しいものでは、『芥川龍之介が自身のドッペルゲンガーを見たと発言した原拠の座談会記録「芥川龍之介氏の座談」(葛巻義敏編「芥川龍之介未定稿集」版)』がお薦めである。

 

 必須な如上の證明があれば、次記の狂歌の味は了解が出來る。狂歌百物語に載つて居る或る繪には、自分の主人――『離魂病』に罹つて居る女――にお茶を一椀侑めようとして居る[やぶちゃん注:「すすめようとしてゐる」。]下女が描いてある。その下女には自分の前に見えて居る本來の姿と變化(へんげ)の姿との見分けがつかぬ。そこの困却が自分が飜譯した狂歌の初めに暗示されて居る。

 

 こやそれとあやめもわかぬ離魂病

    いづれをつまと引きぞわづらふ

[やぶちゃん注:「狂歌歌百物語」原拠の「離魂病」の部に(絵は「中編」の「2」)、

 こやそれとあやめもわかぬりこん病いつれをつまと引きそ煩ふ 館林 美通歌垣

とある(以上の狂歌は同「9」の右丁最終行にある)。]

 

 二つ無きいのちながらもかけがへの

    からだの見ゆるかげのわづらひ

[やぶちゃん注:同前で「9」の右丁四行目で、

 ふたつなき命ながらもかけかへのからたの見ゆる影のわつらひ 弓の屋

とある。]

 

 長旅のをとをしたひて身二つに

    なるは女のさるりこんびやう

[やぶちゃん注:最終句は原本は“Sāru rikombyō”となっている。同前で「離魂病」本文狂歌の冒頭に配されてあり(「9」)、

 長旅の夫をしたひて身ふたつになるは女のさるりこん病 松の門□子

とある(□は判読出来なかった)。この「さる」は連体詞「然(さ)る」で「当然の如くその通りであるところの」の意であろう。平井呈一氏は長音符を意識されて、恒文社版で、ここの句を「さある離魂病」としておられるが、これでは確実な字余りになるし、原本自体に、そうは書いていない。]

 

 見るかげもなきわづらひのりこんびやう

    おもひのほかに二つ見るかげ

〔病氣で非常に瘦せて居る人のことを日本人はミルカゲモナイ卽ち「その人の人眼に見える影さへ無い」と言ふ。同じ言葉を『見ゐに堪へぬ』といふ意味に使ふ事實からして、今一つの飜譯も可能である。卽ち『この魂の病を煩つて居るあの人の顏は見るに堪へぬが、(今一人の男を)慕ふその内心の戀慕のために、その女の顏が二つ見られる』オモヒノホカといふ句は「期待に反して」といふ意味である。然し、心ひそかに思ひ慕ふといふ戀をも暗示するやう巧に出來て居る〕

[やぶちゃん注:原拠には(同「9」の左丁二行目)、

 見る影もなき煩ひのりこん病思ひのほかにふたつ見る影  夜光

と出る。]

 

 離魂病人に隱して奧座敷

      今おもてへ出さぬかげのわづらひ

〔四句目に妙な言葉の戲れがある。『前』といふ意味のオモテといふ語は、讀むをり、オモツテ卽ち思つてとやうに發音が出來る。だからしてこの文句はかうもまた反譯[やぶちゃん注:「ほんやく」。]してもよからう。『あの女は自分の本當の思ひは家の後ろに隱して置いて、決して家の表では見られぬやうにして居る――(戀の)「影の病」をわづらつて居るのだから』〕

[やぶちゃん注:原拠には(同「9」の右丁五行目)、

 りこん病人に隱して奧座敷今おもてへ出さぬ影のわづらひ  尙丸

と出る。]

 

 身は此處にたまは男に添ひ寢する

    こころもしらが母が介抱

〔四句目に、言ひ現してゐるといふより、ほのめかしてある二重の意味がある。シラガ(「白髮」)はシラヌ(「知らぬ」)をほのめかせて居る〕

[やぶちゃん注:原拠には(同「9」の右丁終りから三行目)、

 身はこゝに魂は男に添寐する心もしらが母が介抱 伊勢大屋浦 實の門松也

とある。]

 

 たまくしげ二つのすがた見せぬるは

    合せ鏡のかげのわづらひ

〔この歌には飜譯の不可能な複雜な暗示がある。日本の女は化粧する時二つ鏡(アハセカガミ)を使用する――その一つは手鏡で、その髮の後ろの方の恰好を、それを大きい方の坐つて居る鏡に反映させて、見せる役をする。然しこの離魂病の場合では、大きな方の鏡に、自分の顏と自分の頭の後ろとよりももつと多くのものを見る。卽ち自分の離れ出て居る魂を見る。この歌は、その二つ鏡の一つが影の病に罹つて二つになつたのかも知れぬといふことを述べて居る。それからまた、鏡とその持主の靈との間に在ると言はれて居る、心靈的同情をもほのめかせて居る〕

[やぶちゃん注:原拠では(同「9」の右丁六行目)、

 玉くしけふたつの姿見せぬるはあはせ鏡の影のわつらひ  有文

この「江戶崎」とは、現在の茨城県稲敷郡江戸崎町(いなしきぐんえどさきまち:グーグル・マップ・データ)。]

小泉八雲 化け物の歌 序・「一 キツネビ」  (大谷正信譯)

 

[やぶちゃん注:やぶちゃん注:本篇(原題“GOBLIN POETRY”(「ゴブリンの詩歌」。ゴブリンは、ヨーロッパの民間伝承に登場する概ね「醜い姿をした悪戯好きで意地悪な小鬼」のこと)は一九〇五(明治三八)年十月にボストン及びニュー・ヨークの「ホートン・ミフリン社」(HOUGHTON MIFFLIN AND COMPANY)刊の“THE ROMANCE OF THE MILKY WAY AND OTHER STUDIES & STORIES”(「『天の河の恋物語』そして別の研究と物語」。来日後の第十二作品集)の二篇目に配されたものである。本作品集はInternet Archive”のこちら(目次ページを示した)で全篇視認でき(本篇はここから)、活字化されたものはProject Gutenberg”のこちらで全篇が読める(本篇はここから)。小泉八雲は、この前年の明治三七(一九〇四)年九月二十六日に心臓発作(狭心症)のため五十四歳で亡くなっており、このブログ・カテゴリ「小泉八雲」で完遂した「神國日本」(戸川明三訳。原題は“Japan: An Attempt at Interpretation”(「日本――一つの試論」)に次いで、死後の公刊となった作品集である。

 底本は上記英文サイト“Internet Archive”のこちらにある画像データをPDFで落し、視認した。これは第一書房が昭和一二(一九三七)年一月に刊行した「家庭版小泉八雲全集」(全十二巻)の第八巻全篇である。★【2025年4月2日底本変更・前注変更】時間を経て、国立国会図書館デジタルコレクションに本登録し、現行では、以上の第一書房版昭和六(一九三一)年一月に刊行した「學生版小泉八雲全集」(全十二巻)の第七巻が、国立国会図書館デジタルコレクションで公開されてある。(リンクは扉だが、「學生版」の文字はない。しかし、奥附を見て貰うと『學生版 【第二囘豫約】』とあり、『昭和六年一月十日 發行』とあることが確認出来る)、 これが、前掲の底本と同じものであるが、やはり、外国のサイトのそれを底本とするのは、日本人小泉八雲に失礼であると考えた。されば、こちらで、再度、以下の「骨董」の作品群を改めて校正することとする。これが――私の小泉八雲への「義」――である。なお、之よりも前の元版の全集等が先行しているものの、私がそれらと比べた結果、実は先行する同社の「小泉八雲全集」のそれらは、訳が一部で異なっており、訳者等によって、かなりの補正・追加がされていることが、今回の正字補正作業の中で、はっきりと判って来た。いや、同じ「家庭版」と名打ったネット上の画像データでも、驚いたことに、有意に異なっていたのである。そうした意味でも――完全な仕切り直しの総点検――が必要であると決したものである。従って、旧前振りの括弧・鍵括弧の問題も、拡大とガンマ補正で確認し、正確を期する。本作はここから。

 訳者大谷正信氏については、「小泉八雲 燒津にて 大谷正信譯」の私の冒頭注を参照されたい。

 傍点「﹅」は太字に代えた。狂歌と小泉八雲の〔 〕書きの注は底本ではポイント落ちで四字下げであるが、上に引き上げて、同ポイントとした。

 本篇は冒頭の序パートと、以下の各個妖怪を一章に仕立てた全十四章と後書きから成るので、各章(序は「一 キツネビ」とカップリングし、後書き部分は独立させた)単位で示すこととした。

 なお、序でも述べられいる本篇の原拠となった嘉永六(一八五三)年跋の妖怪狂歌絵入りアンソロジー「狂歌百物語」(天明老人盡語樓内匠(詳細事蹟は私は不詳)撰/竜齋正澄(りゅうさいまさずみ:詳細事蹟未詳だが、文政・天保期に狂歌本・狂歌摺物などの挿絵が知られている)画/全三冊八編)の旧小泉八雲蔵本は、★富山大学の「ヘルン文庫」にあり、その総て(PDF)をこちらからダウン・ロード出来る。是非、併置して読まれんことを、強く、お勧めする。★私の読者もそれを同時に開いて読んで呉れていることを念頭に置いて、注した(当該画像位置を指示した)からである

 なお、本篇には時代的限界性から、現在では使用されるべきでない、おぞましい差別用語や、それを含む差別的表現が出現するが、そこは(そこでも注記する)批判的視点を以って読まれんことを、くれぐれも謂い添えておく。

 

 

  化け物の歌

 

 最近、ある古本屋を搜り𢌞つて居るうちに、化け物の繪が澤山入つて居る、三册本の化け物歌集を自分は見出した。その歌集の表題はキヤウカヒヤクモノガタリ卽ち『ヒヤクモノガタリの狂歌』である。ヒヤクモノガタリ卽ち「百物語」は幽靈物語の有名な本である。その物語の一つ一つの題に對して時を異にして種種な人が歌を――キヤウカ卽ち『狂歌』といふ種類の歌を――作つた。そして自分が幸にしてその所有者となつた、その三册本を造るために、さういふ歌を集めて出版したのである。歌を集めることは工匠(たくみ)甚五郞といつて、テンメイラウジン(天明老人)といふ文學的匿名の下(もと)に筆を執つた或る人が爲したのである。工匠は文久元年(千八百六十一年)に、八十といふいい年齡(とし)で死んだ。そしてその人が集めたその歌は嘉永六年(千八百五十三年)に出版されたものらしい。挿繪は『涼齋閑人』といふ匿名の下で描いた、正澄(まさずみ)といふ畫工がものしたものである。

[やぶちゃん注:「文久元年(千八百六十一年)に、八十といふいい年齡で死んだ」これは私は数え年の享年と読む。さすれば、工匠甚五郞(原本では、「上編」の序の後の「見越入道」のパートの前の記載(「4」)では「天明老人盡語樓內匠」という表記を用いている)は天明二(一七八二)年生まれということになる。]

 前置きの短かい文から察すると、工匠甚五郞は、この世紀の半ば前に人が顧みなくなつた、嘗ては通俗であつた一種の歌に對する興味を復活せしめん希望を以て、此歌集を出版したものと見える。『キヤウカ』といふ語は『正氣ならぬ』とか『狂へる』とかいふ意味の漢字で書いてあつて、特別な異常な或る一種の滑稽な歌を意味して居る。その形式は三十一文字(五七五七七と列べた)の古典的短歌の形式である。が、題目はいつも古典的の正反對であつて、その藝術的效果は幾多の實例の助けを藉らず[やぶちゃん注:「からず」。]には、說明の出來ない言葉の上の手品の業に賴るのである。工匠が出版した歌集は西洋の讀者には、何等の價値も見出し得られないことを澤山に含んで居る。が、然し、その最善なものは、人をして物凄い問題をもてあそぶフツドの不氣味な器用さを思ひ出させる[やぶちゃん注:読点なしはママ。]特に怪異な或る性質を有つて居る。その性質と、そしてふざけた事を怖ろしい事と交ぜるあの日本人獨特の手段とは、色色な狂歌の本文を、飜譯と註釋とを添へて、羅馬字で再現して始めて感づかせもまた解釋も出來るのである。

[やぶちゃん注:「フツド」トーマス・フッド(Thomas Hood 一七九九年~一八四五年)はロンドン生まれの作家。種々の雑誌の編集に携わり、自身もユーモラスな散文や詩篇を投稿した。詩人で作家のチャールズ・ラム(Charles Lamb 一七七五年~一八三四年)や作家ウィリアム・ヘイズリット(William Hazlitt 一七七八年~一八三〇年)とも親しかった(恒文社版の平井呈一氏の割注に拠る)。サイト「英国バラッド詩アーカイブ」のこちらによれば、『当時のセンセーショナルな話題をユーモアたっぷりの風刺やパロディに仕立てた作品は大変な人気を博し、一流のユーモア作家としての名を知らしめた。"The Dream of Eugene Aram, the Murder"(1829)は、友人を殺したかどで絞首刑に処せられた言語学者Eugene Aram(1704―59)の伝記を基にした作品であり』、『病床で書かれたという二作品 "The Song of Shirt"(1844)』と『"The Bridge of Sighs"(1844)は、 貧しい工場労働者や売春婦の自殺の問題を扱った作品でフッドの名前を後世に残すアンソロジー・ピースである』とある。]

 自分が爲した選擇は、それに就いて英語でまだ殆んど、或は全く、書かれて居ない一類の日本の歌を讀者に紹介することになるからばかりで無く、今なほその大部は穿鑿されずに居る一つの超自然界を少しく瞥見せしめるであらうから、興味あらうと信ずる。極東の迷信と民問說話の知識無くしては、日本の小說或は戲曲、或は詩歌の眞の理解はいつまでも可能とはなり得まい。

 

 この『キヤウカヒヤクモノガタリ』の三册中には幾百と歌がある。が、幽靈と化け物との數は標題が思はせる一百に足りぬ。丁度九十五ある。自分はこの化け物の全部に我が讀者の興味を呼ぶ期待は有て[やぶちゃん注:「もて」。]まいから、自分の選擇は題目の七分の一にも足らぬ。『顏無し赤子』、『長舌少女』、『三ッ目坊主』、『枕動し』、『千頭』、『提燈持ち子僧』、『夜啼石』、『化物鷺』、『化物風』、『龍火』、『山姥』は大して自分を感させなかつた。西洋人の神經には餘りに氣味の惡るい想像を取り扱つて居る狂歌、例へばオブメドリの狂歌の如きは、また單に地方的な傳說を取り扱つて居るものは、自分は省いた。選んだ題目は、國國の民間傳說よりも寧ろ國民的傳說の――(多くは漢土來のものであるが)嘗て廣く日本中に行はれて、屢〻その通俗文學に引用される古い信仰の――ものである。

[やぶちゃん注:「顏無し赤子」原本「狂歌百物語」では「陶子」(とうし)で(「中編」の「21」)、四肢がなく、陶器の花立のような胴で、顏には口だけがある(髪は黒々とさわにある)子どもを、老婆が沐浴させている絵が添えられてある。先天性奇形疾患の短眼症(サイクロプス症)や四肢欠損奇形から形象されたものであろう。小泉八雲は生理的に嫌悪しそうな気が確かにする。

「長舌少女」原本では「舌長娘」で出る(「上編」の「23」)。行灯の油を舐めようとしたところで、後ろを振り向いた長い舌を出した女の絵がある。

「三ツ目坊主」原文は“The Three-Eyed Monk”。原本では単に「三ツ目」であるが(「上編」の「9」)、額に目が三角頂点配置で目が三つあるお小姓風(小坊主の風体にはちょっと見えない)の姿の少年が茶を運ぶ絵が添えられてある。

「枕動し」「まくらうごかし」或いは「まくらゆらし」か。原文は“The Pillow-Mover”。原本では知られた妖怪「枕返し」である(「中編」の「6」)。絵は薄墨で透明な幻怪(あやかし)として描かれてある。

「千頭」原文は“The Thousand Heads”で、原本では「千首」で、塚の下に首(髑髏ではないが、半ば石のようなものである)が九つほど転がっている絵がある(「中編」の「4」)。

「提燈持ち子僧」原本は「提灯小僧」。髪はタワシのようだが、普通の少年だが、持っている提灯が二つの目を持ち、口を開いて鬼火を吐いている(「上編」の「27」)。

「夜啼石」原本は「夜鳴石」の表記(「中編」の「24」)。

「化物鷺」原本は「五位鷺」。妖しサーチライトのような怪光を吐いているゴイサギの絵(「中編」の「5」)。中・大型のサギ類は、多くの怪談で妖怪として出る。冤罪で妖怪扱いされて殺されて人に食われる話などがある。例えば私の「耳囊 卷之七 幽靈を煮て食し事」や、「諸國百物語卷之五 十七 靏のうぐめのばけ物の事」を見られたい。

「化物風」原本の「魔風」であろう(「下編」の「5」)。

「龍火」原本の「竜燈」(「下編」の「7」。)。絵では海上と思われるそこに龍の頭の形の怪火が立ち上っている。

「山姥」これのみ原本と表記が一致する。紅葉の枝を手に持ち、紅葉の衣を着た穏やかな顔立ちの成年女性が山中に立っている絵である(「下編」の「6」)。

「オブメドリ」妖怪にして妖鳥の「姑獲鳥(うぶめ)」で、「産女」「憂婦女鳥」等とも表記する。原本も条目標題は「姑獲鳥」で、挿絵は赤ん坊を抱いた婦人の姿を描く(「上編」の「6」)。「鳥」と附くものの、鳥形象のそれは少なく、概ね、下半身が血だらけの赤子を連れた人形(ひとがた)であることが多い。私のブログ記事では「怪奇談集」を中心に十数種の話を電子化している、最も馴染み深く、産婦の死して亡霊・妖怪となるという点で、個人的には非常に哀れな印象を惹起させる話柄が多いように感ぜられる霊の零落した妖怪である。小泉八雲の「おぶめどり」は不審な表記で、「狂歌百物語」の多くの狂歌でも「うぶめ」で詠みこまれている。高い可能性で小泉八雲自身の聴き取りの誤りのように思われる。

 

     一 キ ツ ネ ビ

 英語のヰル・オ・ザ・ヰスプをキツネビ(『狐火』)と呼ぶ。化け物狐がそれを造ると以前には想はれて居たからである。古の日本の繪では、暗い處をふらふらうろついて、そしてそれが消え行く表面に何の射光も投じない、上の尖つた淡紅い炎に畫いてある。

[やぶちゃん注:原文“Will-o'-the-wisp”。発音音写は「ウィラザ・ウィスプ」が近い。私の小泉八雲 落合貞三郎訳 「知られぬ日本の面影」 第十五章 狐 (五)』の私の「奇怪なる狐火」の注を参照されたい。

 この題目についての次記の狂歌を了解するには、狐の魔力に就いての或る迷信が民間の奇妙な諺を造り出して居て、そのうちに他國者と結婚することに就いての諺が一つあることを知つて居なければならぬ。前には立派な市民はその地方の人と結婚するもので、その地方外の人とは結婚せぬものとされてゐた。だから、此點に關して敢て、傳統的慣習を無視せんとする者は、その地方的憤怒を鎭め宥める[やぶちゃん注:「なだめる」。]ことを困難と思つたものだ。今日でも、長い間生れ故鄕を留守にして居た後で、人の知らぬ嫁を連れて歸つて來る村人は、大抵は世間の者が不快なことを――例へば『ワカラナイモノヲヒツパツテキタ!………ドコノウマノホネダカ?』(『一體何んてものをあの男は引つぱつて來たのだ! 何處であの古い馬の骨を拾ひ上げたんだか?』)とかいふやうな言葉を語るを耳にする。ウマノホネ『古い馬の骨』といふ言葉は說明を要する。

[やぶちゃん注:底本では「來たのだ!」の後には字空けはないが、特異的に挿入した。以下、本篇「化け物の歌」の最後まで、同様の仕儀をしたが、この注は略す。]

 化け物狐は色々な姿を採る力を有つて居るが、人間を騙す目的では、普通は美くしい女の形を採る。人の惚れ惚れするやうな、そんな妖怪を造り出さうと思ふと、古い馬の骨か牛の骨を拾ひ上げて、それを口に啣へる。すると軈て[やぶちゃん注:「やがて」。]その骨が光つて來る。そして女の姿――賣春婦か歌姬かの姿が――そのあたりに出來て來る。……だから、見も知らぬ妻を娶る男についての『どんな古い馬の骨をあれは拾ひ上げたのか』といふ村人の質問は實際は、『どんな淫奔女があの男を魅したか[やぶちゃん注:「だましたか。]』といふことになる。その上に、あの他國者は特珠部落かも知れぬといふ疑念がそれに含まれて居る。或る部類の遊女は、古昔から、主として特殊部落及び其他の非人階級の娘から補給され來たつたものだからである。

[やぶちゃん注:最後の「その上に、……」以下の二文は被差別部落を名指した旧差別呼称が用いられ、そこに当時の一般人の、一部の人々に対する誤ったおぞましい旧時代の(いや、現在でさえそれは亡霊のように生き残っている)差別意識(小泉八雲個人のものではない。寧ろ、彼はこうした差別を憎悪していたものと私は思う)が語られているので、批判的に読まれるよう、お願い申し上げる(以下の小泉八雲の狂歌の次の割注も同様である)。
 なお、ここの示された妖狐絡みの「馬の骨」の語源説のそれは、私も読んだことがあるが、完全に妖狐伝承完成後に後付けされた付会に過ぎない。これは中国由来で、役に立たないものの代表として言われていた言葉に「一に鶏肋(けいろく)、二に馬骨」があったことに基づく。「鶏肋」とはニワトリの肋骨のことで、小いさ過ぎて役に立たず、逆に「馬骨」は、役に立たない上、大き過ぎて処分するにも困る。ここから、本来は「誰にも必要とされず、役に立たない者」の意となった。それが転じて、特に異邦の者で「成人ではあるが、その出自・事蹟・職業・人柄等が一向にわからず胡散臭い」という意味に使われ出し(漢字の「骨」には「人柄」の意もある)、現在のような意味合いに変化したと考えてよい。身近な動物として、古くは「牛の骨」という同義語も頻繁に用いられた。]

 

 灯ともして狐の化けし遊び女(め)は

       いづこの馬の骨にやあるらん

 

〔アソビメ、賣春婦。交字通りでは『遊ぶ女』特珠部落と他の非人階級とが、そんな女の大部分を供給した。この歌の全部の意味はつぎの如くで「提鐙を持つて居るあの若い淫奔女を見い! 見ては美くしい!――然し狐も、その鬼火か燃やして娘の姿になると、見ては美くしい。狐の化けた女が古い馬の骨にほかならぬと丁度同じで、その美しさで人を騙して愚かなことをさせるあの若い娼婦も身は卑しい特殊部落のものかも知れぬ』〕

[やぶちゃん注:原本の絵(「上編」の「5」)の終わった後の、本文の「狐火」の最初に配されてあり(「11」冒頭)、表記は、

 火ともして狐の化けし遊び女はいつこの馬の骨にや有らん 靑梅 槇柱園千本

とある。作者は不詳。]

 

 狐火の燃ゆるにつけてわがたまの

         消ゆるやうなり心ほそ道

 

〔夜遲くなつた旅人が狐火を見て恐れて歌つたものと假定しての作。最後の句は二通りに讀める。ココロホソイは「臆病な」といふ意味。それからホソイミチ(ホソミチ)は「細い道」といふ意味、「淋しい道」といふ意味が含まる〕

[やぶちゃん注:原本では、

 狐火のもゆるにつけて我魂のきゆるやうなり心ほそ道  鬼面亭角有

とある(「11」の右丁の六行目)。作者は不詳(以下、私に判らない場合は、この注を略す)。]

 

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