大和本草卷之十三 魚之下 海鰌 (クジラ)
【外】海鰌 倭名イサナドリ昔ハクジラヲモリニテツカス弓ニテ
射ル死乄浦ニヨルイスナトリナリ古哥ニモヨメリ近江ノ
湖ニイサナトリヲヨメルハ磯菜取ナリ月山叢談ニ捕
巨鰍㳒アリ本邦ニクシラヲトル法ト同閩書曰巨能
吞舟日中閃鬐鬣若簸朱※噴沫飛洒成雨其來
[やぶちゃん注:「※」=「方」+「廣」。電子化途中で不審を覚えたので、複数の同一文脈の複数の漢籍に当たったところ、「※」は「旗」であったので、訓読ではそれに代えた。]
也移如山嶽乍出乍没舟行相値必鳴金鼓以怖
之云云刳為油○今案順和名抄以鯨鯢クシラトス
崔約古今注鯨鯢大者長十里小者數丈一生數
萬子異物志曰雄為鯨雌為鯢○海鰌魚之最大
者泥鰌之最小者雖大小不同其形狀相似故
以海鰌称ス日本ニテ海鰌其品凡六種アリ其内
大小アリ慶長年中筑紫諸浦ノ漁人初テホコヲ
以テツキ得テ油ヲトリ肉ヲスツ其後肉ヲ食シ
腸ト骨ヲスツ又其後ワタヲ食ス其後頭骨ヲ
食ス又クシラノヒケト云ハノトノ下ナルヲサナリ噐用ト
ス皮ハ黑シ其内ニ白肉アリ又白肉ノ下ニ赤肉アリ味
有好否冬春捕之春月最多シ海鰌ノ腸ノ名多
シ百尋ト云長キ腸アリ可食凡鯨ノ油貧士賤
民以爲燈油甚利民用○海鰌性熱肥膩多膏油
食之生熱動風發瘡生痰多食難消化能傷脾胃
病人及有脾積瘡疥者婦人有崩漏帶下病者不
可食其近尾白肉味最好塩藏日久者夏月食之
味美能峻補脾胃肥健於人虛冷無積滯人宜食
止久瀉若新病濕熱盛者不可食
○やぶちゃんの書き下し文
【外】海鰌(くじら) 倭名「いさなどり」。昔は、「くじら」を、もりにて、つかす、弓にて射る、死して、浦に、よる。「いすなとり」なり。古哥にも、よめり。近江の湖〔(うみ)〕に「いさなとり」をよめるは、「磯菜取(いそなどり)」なり。「月山叢談」に巨鰍を捕る㳒〔(はう)〕[やぶちゃん注:「法」の異体字。]あり。本邦に「クシラ」をとる法と、同じ。「閩書〔(びんしよ)〕」に曰はく、『巨〔(おほきなる)〕は能く舟を吞む。日中、鬐〔(ひれ)〕・鬣〔(たてがみ)〕を閃(ひらめ)かす。朱〔(あか)き〕旗を簸(あふ)る[やぶちゃん注:「煽(あお)る」の意。]がごとく、沫〔(しぶき)〕を噴して飛〔ばし〕洒〔そそぎ〕て雨と成し、其れ、來たるなり。移〔るに〕山嶽のごとく、出〔でつ〕、没〔しつ〕、す。舟の行き、相ひ値〔(あ)〕へば、必ず、金鼓を鳴らして、以つて之れを怖(をど)すと』云云〔(うんぬん)〕。刳〔(くり)〕て、油と為す。
○今、案ずるに、順が「和名抄」、「鯨鯢」を以つて「くしら」とす。崔約が「古今注」に『鯨鯢〔(げいげい)〕の大なる者、長さ十里。小なる者、數丈。一〔(いつ)〕に、數萬子を生む』〔と〕。「異物志」に曰はく、『雄を「鯨」と為し、雌を「鯢」と為す』〔と〕。
○海鰌(くじら)は、魚の最大なる者〔なり〕。泥鰌は最小なる者〔なり〕。大小〔は〕同じからずと雖も、其の形狀、相ひ似る。故に「海鰌」を以つて称す。日本にて海鰌、其の品、凡そ六種あり。其の内、大小あり。慶長年中、筑紫諸浦の漁人、初めて「ほこ」を以つて、つき、得て、油をとり、肉を、すつ。其の後、肉を食し、腸と骨を、すつ。又、其の後、「わた」を食す。其の後、頭骨を食す。又、「くじらのひげ」と云ふは、のどの下なる「をさ」なり。噐用とす。皮は黑し。其の内に白肉あり。又、白肉の下に赤肉あり。味、好否〔(かうひ)〕有り。冬・春、之れを捕へ、春月、最も多し。海鰌の腸〔(はらわた)〕の名、多し。「百尋〔(ひやくひろ)〕」と云ふ、長き腸あり。食ふべし。凡そ、鯨の油、貧士賤民、以つて燈油と爲し、甚だ民用に利〔せり〕。
○海鰌、性、熱。肥〔なる〕膩〔(あぶら)に〕、膏油、多し。之れを食へば、熱を生じ、風〔(ふう)〕を動かす。瘡を發し、痰を生ず。多く食へば、消化し難し。能く脾胃を傷つく。病人及び脾積〔(ひしやく)〕・瘡疥の有る者、婦人の崩漏(ほうろう)・帶下〔(こしけ)〕の病ひ有る者、食ふべからず。其の尾の近くの白肉、味、最も好し。塩藏〔して〕日〔の〕久〔しき〕者、夏月、之れを食へば、味、美〔(よ)〕し。能く脾胃を峻補し、人を肥健す。虛冷〔にして〕積滯の無き人、宜しく食ふべし。久しき瀉を止む。若〔(も)〕し、新病〔にして〕濕熱〔の〕盛〔んなる〕者〔は〕、食ふべからず。
[やぶちゃん注:哺乳綱獣亜綱真獣下綱ローラシア獣上目 Laurasiatheria 偶蹄(鯨偶蹄)目クジラ亜目Cetacea のクジラ類。その下位でヒゲクジラ下目 Mysticeti(シロナガスクジラ(白長須鯨。ナガスクジラ科ナガスクジラ属シロナガスクジラ Balaenoptera musculus)等)・ハクジラ下目 Odontoceti(マッコウクジラ(ハクジラ小目マッコウクジラ科マッコウクジラ属マッコウクジラ Physeter microcephalus)やイルカ類(シャチ(マイルカ科シャチ亜科シャチ属シャチ Orcinus orca)も含まれる)等)に分かれる。但し、益軒は後で「イルカ」を独立項として出すので、それは除外される。
「いさなどり」濁音は底本のママ。また、これを「くじら」の古名とするのは、おかしい。「いさな」でよい。「いさなとり」(鯨魚取り・勇魚取り)は、言わずもがな、元は「クジラを捕る場所。漁」の意で、「海」・「浜」・「灘(なだ)」に掛かる枕詞である。
「いすなとり」文脈から見ると、益軒は、最終的に大型の鯨は銛や弓を放って後、浦に寄ってくるのを待つので、「居漁り(ゐすなどり)」(「すなどる」は「魚貝類を漁ること」の意である)と謂っているように思われるが、これは牽強付会としか思えない。小学館「日本国語大辞典」にも出ない。
「古哥にも、よめり」「万葉集」に十七首に詠み込まれている。不思議に惹かれる一首を紹介する。巻第十六の詠み人知らずの「無常の歌二首」の一つ、旋頭歌である(三九五二番)。
鯨魚取り海や死にする山や死にする死ぬれこそ海は潮(しほ)干(ひ)て山は枯れすれ
大いなる自然にも死があるという釈教歌であう。
「近江の湖〔(うみ)〕」謂わずもがな、琵琶湖。
「磯菜取(いそなどり)」岸辺の水中に植生する食用に供される(ここは)淡水産水藻類や顕花植物の水草類を採ることを言っている。
「月山叢談」清の文人李文鳳撰。散逸しているものか、原文に当たることが出来なかった。
「巨鰍」この「鰍」の字は現行では通常、「カジカ」(条鰭綱カサゴ目カジカ科カジカ属カジカ Cottus pollux)を指すが、別に「ドジョウ」(条鰭綱骨鰾上目コイ目ドジョウ科ドジョウ属ドジョウ亜種ドジョウ Misgurnus anguillicaudatus)の意もある。
「閩書」明の何喬遠撰になる福建省の地誌「閩書南産志」。
「刳〔(くり)〕て」皮下の脂肪層に穴を空けて、それを抉(えぐ)り採ることを言っていよう。
「油と為す」後の箇所で、利用の変遷が語られてあるが、恐らく長く(一部の漁民以外は)鯨油を採取する目的のみでクジラ漁が行われていたことを意味している。嘗て下劣なアメリカがやっていたことと同じだ。その肉を日本に売り、私の世代までは小学校の給食に三日に上げず、鯨肉が出たものだった。因みに、私は捕鯨賛成派である。科学的にもミンククジラは増え過ぎており、北洋の生態系を壊しつつあることは、世界の鯨類学者が認めている。今もアメリカ物資汚染のお蔭で、私は鯨肉が大好きだ。
『順が「和名抄」、「鯨鯢」を以つて「くしら」とす』「和名類聚鈔」の巻第十九の「鱗介部第三十 竜魚類第二百三十六」に、
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鯨鯢(くちら) 「唐韻」に云はく、『大魚雄曰鯨【「渠」・「京」の反。】雌を「鯢」【音「蜺」。和名「久知良」。】と曰ふ』〔と〕。「淮南子」に曰はく、『鯨鯢、魚の王なり』〔と〕。
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とある。
「崔約」「崔豹」の誤り。晋(二六五年~四二〇年)の学者。晋恵帝(在位:二九〇年~三〇七年)の時に太子太傅丞に至っている。「古今注」は全三巻。
「長さ十里」当時の一里は約四百メートル強。それでもデカ過ぎ。
「數丈」当時の一丈は二メートル強。
「一〔(いつ)〕に、數萬子を生む」一度に数万の子を産む。あり得ない。
「異物志」三国時代の沈瑩(しんえい)の浙江臨海郡の地方地誌「臨海水土異物志」か。史上初の台湾の歴史・社会・住民状況を記載するものとして注目されるものである。
「日本にて海鰌、其の品、凡そ六種あり」サイト「くじら」のこちらで見ると、イルカ類を除いても(益軒は後で「海豚」の独立項を立てている)、本邦に棲息するクジラ類は十七種を数える。六種なんだから、益軒先生、名を挙げといてくれりゃあ、いいものを! まあ、
セミクジラ(背美鯨/勢美鯨:ヒゲクジラ亜目セミクジラ科セミクジラ属セミクジラ Eubalaena japonica)
コククジラ(克鯨/児童鯨:ヒゲクジラ亜目ナガスクジラ上科コククジラ科コククジラ属コククジラ Eschrichtius robustus)
シロナガスクジラ(白長須鯨:ナガスクジラ科ナガスクジラ属シロナガスクジラ Balaenoptera musculus)
ナガスクジラ(長須鯨:ナガスクジラ属ナガスクジラ Balaenoptera physalus)
ザトウクジラナ(座頭鯨:ナガスクジラ科ザトウクジラ属ザトウクジラ Megaptera novaeangliae)
マッコウクジラ(マッコウクジラ科マッコウクジラ属マッコウクジラ Physeter microcephalus)
かなあ?
「慶長」一五九六年から一六一五年。本邦の捕鯨史は縄文時代まで溯る。ウィキの「日本の捕鯨」によれば、約八〇〇〇年前の『縄文前期の遺跡とされる千葉県館山市の稲原貝塚においてイルカの骨に刺さった黒曜石の、簎(やす、矠とも表記)先の石器が出土していること』、約五〇〇〇年前の『縄文前期末から中期初頭には、富山湾に面した石川県真脇遺跡で大量に出土したイルカ骨の研究によって、積極的捕獲があったことが証明されている』とある。『奈良時代に編纂された万葉集においては、鯨は「いさな」または「いさ」と呼称されており、捕鯨を意味する「いさなとり」は海や海辺にかかる枕詞として用いられている』。十一『世紀の文献に、後の醍醐組(房総半島の捕鯨組)の祖先が』八五一『年頃に「王魚」を捕らえていたとする記録もあり、捕鯨のことであろうと推測されている』。『鎌倉時代の鎌倉由比ヶ浜付近では、生活史蹟から、食料の残存物とみられる鯨やイルカの骨が出土している。同時代の日蓮の書状には、房総で取れた鯨類の加工処理がなされているという記述があり、また房総地方の生活具にも鯨の骨を原材料とした物の頻度が増えていることから、この頃には房総に捕鯨が発達していたことやクジラやイルカなどの海産物が鎌倉地方へ流通していたことが推定されている』。『海上において大型の鯨を捕獲する積極的捕鯨が始まった時期についてははっきりとしていないが、少なくとも』十二『世紀には』、『湾の入り口を網で塞いで鯨を捕獲する追い込み漁が行われていた』。さても、この記載と関わる「突き取り式捕鯨時代」の項を見る。『突き取り式とは銛、ヤス、矛(槍)などを使って突いて取る方法であり、縄文時代から離頭式銛などで比較的大きな魚(小型のクジラ類を含む)を捕獲していた。また遺跡などの壁画や土器に描かれた図から縄文や弥生時代に大型のクジラに対し』、『突き取り式捕鯨を行っていたとする説もある』。「鯨記」(明治元(一七六四)年著)に『よれば、大型のクジラに対しての突き取り式捕鯨(銛ではなく矛であった)が最初に行われたのは』、一五七〇年頃(永禄十三年相当。室町時代)の『三河国であり』、六~八艘の『船団で行われていたとされる』。十六『世紀になると』、『鯨肉を料理へ利用した例が文献に見られる。それらの例としては』、永禄四(一五六一)年に『三好義長が邸宅において足利義輝に鯨料理を用意したとする文献が残されている。この他には』、天正一九(一五九一)年に『土佐国の長宗我部元親が豊臣秀吉に対して鯨一頭を献上したとの記述がある。これらはいずれも冬から春にかけてのことであったことから、この時季に日本列島沿いに北上する鯨を獲物とする常習的な捕鯨が開始されていたと見られる。三浦浄心が』慶長一五(一六一四)年に『著したとされる『慶長見聞集』によると、尾張と伊勢では鯨を突いていたが、関東では突くことはなかった。文禄期』(一五九二年~一五九六年)『に尾張の鯨突きの間瀬助兵衛が相模三浦に来て、鯨の突き取り漁が三浦半島に伝わったことが記述されている』。『戦国時代末期にはいると、捕鯨用の銛が利用されるようになる。捕鯨業を開始したのは伊勢湾の熊野水軍を始めとする各地の水軍・海賊出身者たちであった。紀州熊野の太地浦における鯨組の元締であった和田忠兵衛頼元は、慶長一一(一六〇六)年に、『泉州堺(大阪府)の伊右衛門、尾州(愛知県)知多・師崎の伝次と共同で捕鯨用の銛を使った突き取り法よる組織捕鯨(鯨組)を確立し』、「突組」と『呼称された。この後』、元和四(一六一八)年には『忠兵衛頼元の長男、金右衛門頼照が尾州知多・小野浦の羽指(鯨突きの専門職)の与宗次を雇い入れてからは本格化し、これらの捕鯨技術は熊野地方の外、三陸海岸、安房沖、遠州灘、土佐湾、相模国三浦そして長州から九州北部にかけての西海地方などにも伝えられている』(太字下線は私が附した)とある。これから見ると、益軒の「矛突き漁筑紫発祥説」は信じ難い。
「頭骨を食す」軟骨部のことであろう。
『「くじらのひげ」と云ふは、のどの下なる「をさ」なり。噐用とす』ヒゲクジラ亜目 Mysticetiのクジラの上顎部に見られる、繊維が板状になった器官。「ひげ板」とも呼ぶ。口腔内の皮膚がヒゲクジラ類に於いて独自に変化したもので、髭や毛とは由来が異なる。濾過摂食のためのフィルターとしての役割を持り、組成は皮膚の角質組織と同じケラチンから成る。上顎の左右に列を成し、それぞれ最大で三百枚程度が生える。「鯨ひげ」は、弾力性などに優れることから、古くから各種の加工材として使用された。参照したウィキの「鯨のひげ」によれば、『古い例としては、正倉院に鯨ひげ製の如意が宝物として収められている。特にセミクジラ科のものは、長くて非常に柔軟かつ弾力があることから重宝され、結果としてセミクジラ科の乱獲の一因ともなった。その後、弾力のある金属線やプラスチックが普及したため、現在では工芸的な用途を除いては需要は殆どない』。以下、使用用途例(一部を加工した)。
・釣竿(日本では、弾力性を生かして釣竿の先端部分に用いられる。現在でも一部で使用されている)
・衣服(整形用の骨に用いる。西洋ではコルセットやクリノリンなどの女性用下着やドレスの腰部に日本では裃の肩などに使用された)
・傘(西洋では傘の骨に用いた。フランス語で「傘の骨」を(os de )baleineというが、これは「鯨」(の「骨」)の意である)
・扇子(本邦で扇子の要(かなめ)として用いていた)
・呉服尺(本邦では着物の仕立て専用の物差しの材料に用いた。「鯨尺」とも呼ばれ、長さの特別独自単位としてその名が残っている。但し、「鯨のひげ」から作られたからとされるが、それは定かではない。鯨尺一尺は曲尺(かねじゃく)の一尺二寸五分に相当し、三十七・八八センチメートル相当である)
・発条(ぜんまい)(江戸時代の日本で「ぜんまい」の材料とされ、からくり人形などに使用された)
・文楽人形(操作索に用いることは有名)
「風〔(ふう)〕を動かす」「風邪」と使うように、漢方で疾患のもととなる悪い邪気を指す。
「瘡」皮膚の湿疹・糜爛。
「脾胃」漢方で広く消化器系を指す語。
「脾積〔(ひしやく)〕」消化器系の、想像上の寄生虫によって発生すると考えられた腫物やしこりの謂いであろう。
「瘡疥」疥瘡で「はたけがさ」、所謂、皮膚病の「はたけ」であろう。主に小児の顔に硬貨大の円形の白い粉を噴いたような発疹が複数個所発する皮膚の炎症性角化症の一つ顔面単純性粃糠疹(ひこうしん)。ウィルス感染原因が疑われているが、感染力はない。私は広汎な一種のアレルギー反応による皮膚疾患をも含んだ症状を指していると考えている。
「崩漏」女性生殖器からの尋常でない出血症状を指す語。
「帶下〔(こしけ)〕」下(お)り物。女性の内部生殖器官から分泌される粘液や組織片などの混合物。病的でないものも含まれる。
「尾の近くの白肉、味、最も好し」所謂、尾の付け根附近の肉で「尾の身」と呼ぶ。現行、一般には刺身を最上とする。私は脂っぽ過ぎて好まない。
「峻補」強い熱性の食材・中薬による保温法。
「積滯」血や痰などの病理上の有害産物が各組織・器官に積み重なって病態を呈していることを指す。
「久しき瀉」慢性の下痢。
「新病」罹患したばかりの病態のことか。
「濕熱」本来は相反してバランスをとるはずの「水」気と「熱」気の双方が体内で過剰になり、相互に融合して重積してしまい、発生する症状を指す。]
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