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2019/10/22

小泉八雲 漂流  (大谷正信譯)

 

[やぶちゃん注:本篇(原題“ Drifting ”)は一九〇一(明治三四)年十月にボストンの「リトル・ブラウン社」(LITTLE,BROWN AND COMPANY)から出版された作品集“ A JAPANESE MISCELLANY ”(「日本雑記」。来日後の第八作品集)の第一パート“ Strange Stories ”(「奇談」・全六話)・第二パート“Folklore Gleanings”(「民俗伝承拾遺集」・全三篇)に次ぎ、最後の三番目に配された“ Studies Here and There ”(「ここかしこに関わる研究」。底本では「隨筆ここかしこ」)の第四話である。本作品集は“Internet Archive”のこちら(出版社及びクレジットの入ったページを示した)で全篇視認できる(本篇はここから)。活字化されたものは、整序されたものは見当たらない(同前の“Internet Archive”には本作品集のフル・テクスト・ヴァージョンはあるにはあるのであるが、OCRによる読み込みで、誤まり多く、美しくなく、読み難く、また、味気ない)。

底本は英文サイト“Internet Archive”のこちらにある、第一書房が昭和一一(一九三六)年十一月に刊行した「家庭版小泉八雲全集」(全十二巻)の第七巻の画像データをPDFで落として視認した【2025年4月11日:底本変更・正字化不全・ミスタイプ・オリジナル注全補正】時間を経て、国立国会図書館デジタルコレクションに本登録し、現行では、以上の第一書房版昭和一一(一九三六)年十一月に刊行した「家庭版小泉八雲全集」(全十二巻)の第七巻が、国立国会図書館デジタルコレクションで公開されてある。(リンクは扉だが、「家庭版」の文字はない。しかし、奥附を見て貰うと『家庭版』とあり、『昭和十一年十一月二十七日 發 行』とあることが確認出来る)、これが、前掲の底本と同じものであるが、やはり、外国のサイトのそれを底本とするのは、日本人小泉八雲に失礼であると考えた。されば、こちらで、再度、以下の「骨董」の作品群を改めて校正することとする。これが――私の小泉八雲への「義」――である。なお、これよりも前の元版の全集等が先行しているものの、私がそれらと比べた結果、実は先行する同社の「小泉八雲全集」のそれらは、訳が一部で異なっており、訳者等によって、かなりの補正・追加がされていることが、今回の正字補正作業の中で、はっきりと判って来た。いや、同じ「家庭版」と名打ったネット上の画像データでも、驚いたことに、有意に異なっていたのである。そうした意味でも――完全な仕切り直しの総点検――が必要であると決したものである。従って、旧前振りの括弧・鍵括弧の問題も、拡大とガンマ補正で確認し、正確を期する。本作はここから。

 訳者大谷正信氏については、「小泉八雲 燒津にて 大谷正信譯」の私の冒頭注を参照されたい。また、本ロケーションである焼津と小泉八雲に就いても同篇冒頭注で腑に落ちて戴けるものと存ずる。

 一部、特異的に底本にはない「!」の後の一字空けを行った。]

 

 

   漂 流

 

 颱風が襲ひつつあつた。そこで自分は岸打つ大波を見んと大風に防波壁の上に坐つて居た。そして老人の天野甚助が自分の橫に坐つて居た。東南は一面に何處も黑味を帶びた靑の薄暗がりで、唯だ海だけは一種朽葉色の妙な色をして居た。巨大な濤が既に山と高まつて推し寄せつつあつた、百碼[やぶちゃん注:「ヤード」。九十一・四四メートル。]離れたところでそれが雷と地震とのやうな音を立てて崩れ碎け、その飛沫[やぶちゃん注:「しぶき」。]を傾斜面一面に布と展べ[やぶちゃん注:「のべ」。]散らせて、二人の顏を濡らす。どどんと長く打ち碎ける度每に、ヂヤヂヤヂヤヂヤと引いて行く砂利の音は正しく全速力で走つて居る列車の音のやうであつた。自分は怖ろしくなる、と甚助に言つた。すると甚助はにこりと笑つた。

 

 斯う言ふのであつた。『これよりか非道い海で、私は二日二た晚の間泳ぎました。私はその時十九でありました。八人の乘組の中で、助かつたものは私だけでありました。

 『私共の船は福壽丸といふ名の船でありまして――此町の前田甚五郞が有つて居りました。乘組は、一人除けて、皆んな燒津の者でありました。船長は齋藤吉右衞門といつて、六十を越えた男でありました。城(じやう)の腰(こし)に住んで居りました、――丁度此處の後の街路(とほり)であります。も一人老人が乘つて居りました。仁藤正七[やぶちゃん注:原文表記に従えば、「にとうしょうひち」。]といつて、これは新屋(あらや)村に住んで居りました。それから、四十二になる寺屋勘吉が居ました。その弟の巳之助、これは十六の子供でありましたが、これも一緖に居ました。此の寺尾二人は新屋に住んで居たのであります。それから齋藤平吉が居ました、三十になる。それから松四郞といふ男が居りました、――これは周防の男でありましたが、燒津に住み着いて居たのであります。乘組の今一人に鷲野乙吉が居ました。これは城の腰に住まつて居りまして、やつと二十一でありました。私は船の中で一番の年若でありました、――寺尾巳之助を除けては。

[やぶちゃん注:八雲が晩年、避暑に非常に好んだ焼津の定宿(旅宿ではなく、二階を借りた)としていた魚商人山口乙吉(初回の旅は明治三〇(一八九七)年八月で、以後の夏は殆んどここで過ごした。現在、乙吉の家があったところ(現在の静岡県焼津市城之腰(じょうのこし)の民家の前)に「小泉八雲滞在の家跡碑」が建っている(リンクはグーグル・マップ・データ。以下同じ)が、このロケーションはこの乙吉さんの家のすぐ近くの海岸端であると考えてよい。

「新屋(あらや)村」現在の焼津市新屋。城之腰のすぐ北である。]

 『萬延元年――申の歲でありました[やぶちゃん注:一八六〇年。庚申(かのえさる)。]――その七月の十日[やぶちゃん注:グレゴリオ暦で八月二十六日。]の朝燒津から船を乘り出しました――讃岐へ向けて。十一日の夜紀州沖で、東南からの颱風に襲はれました。眞夜中少し前に船は顚覆しました。ひつくらかへる[やぶちゃん注:ママ。]と思つた時、私は船板を一枚とりあげて、それを投げ出して海へ飛び込みました。その折は怖ろしい强い風で、夜は眞つ暗で、やつと二三尺先きが見える許りでありましたが、仕合せにもその板が見つかりまして、それを身體の下へ置きました。と、直ぐに船は沈んでしまひました。私の近くに、海に、鷲野乙吉と、寺尾兄弟と、それから松四郞といふ男が居ました、――皆んな泳いで、他の者の居る樣子は見えませんでした。多分船と一諸に沈んだのでありませう。私共五人は大波と一緖に浮き沈みしながら互に呼び合つて居りました。見ると誰れも板か何かの材木を有つてゐますのに、寺尾勘吉だけ有つて居りません。そこで私は勘吉に「あにき、お前にや子供がある。おりやまだ若い。この板をお前に上げよう」と呼ばはりますと、勘吉は大聲で「此海ぢや板はあぶない――材木を離れて居れ、甚(じん)よ――怪我するかもしれんぞ」と言ひ返しました。――それに返事も出來ぬうちに、黑山のやうな浪がおつかぶさりました。私は長いこと下に居りましたが、また水の上へ出て來た時には、勘吉の姿は見えませんでした。年下の者はまだ泳いで居ました。が私の左手の方にさらはれて行つて居りました。――姿は見えません。互に聲高に呼び合つて居りました。私は浪に隨(つ)いて浮いて居るやうにしました。他の者は私を呼びます――「甚よ! 甚よ!――こつちへ來い!」然し私はそつちの方へ行くのは非常にあぶないことが分かつて居りました。浪が橫から私を打つたんびに下へ沈められましたから。そこで私は呼び返しました――「潮に隨(つ)いて居れ!――流れについて浮いて居れ!」と。が皆んなには解らないやうでありました。――相變はらず「こつちへ來い! こつちへ來い」と言ひます。そしてその聲が一度一度段々遠くからきこえて來ました。私は返事するのが恐はくなりました。……水で死んだ者は、伴侶(つれ)が欲しいと、そんな風に「こつちへ來い! こつちへ來い!」と呼ぶのでありますから。……

 『暫くすると其の呼び聲が止みました。聞こえるものは海と風と雨とだけであります。非常に暗くつて、浪だけ、それもその退(ひ)く時だけ、――高い黑い影のやうに見えて――それがまた一度一度非常に强く身體を下へ引くのでありました。引つぱり方で私はどつちへ向いて行つて宜いか察しました。雨の爲めに浪が大して碎けません。雨が降らずに居たなら、どんな者だつてそんな海では長いこと生きていることは出來ませんでしたらう。一刻一刻と風は非道くなつて、浪は段々高くなりました。――そこで私は其晚夜通し小川の地藏樣にお助けを祈りました。……明かりと仰しやるのですか?――え〻、水に明かりはありましたが、餘計はありません。大きいのです、蠟燭のやうに光る。……

[やぶちゃん注:「小川の地藏樣」現在の静岡県焼津市東小川(こがわ)にある時宗寶城山海蔵寺公式サイト内に、元は『天台宗寶城山安養寺と称し、後白河院の勅願所であったと伝える』とし、『嘉元三』(一三〇五)年『春、時宗二祖真教上人が念仏を広めるため』、『諸国を巡行し』、『当地へ来た折』り、『時の住僧勧海律師』は『上人の徳を慕い』、『徒弟となり、天台宗を改め』、『時宗とした』とある。『本尊は延命地蔵尊』で、『明応九』(一五〇〇)年に、『漁師が城之腰沖で地蔵尊をすくいあげ、当寺へ』納めたという。『当寺に寄せられた、海と地蔵の奇縁により』、『安養寺から海蔵寺へと改称されたという』。『当寺は徳川家(旧紀州家)、西尾家(旧遠州横須賀城主)、本多家(旧田中城主)などの帰依が厚く、その宝物が残る』とした後に、何んと! 『小泉八雲の作品「漂流」の主人公、天野甚助が』安政六(一八五九)年(本話より一年前)、『勢州沖(現在の三重県)で難船、舟の板子に命を托して助かり、記念のために奉納した板が残る』とあるではないか! この主人公天野甚助は実在し、実際の体験談を基にしていることが明らかとなるのである! 現在、その板は「焼津小泉八雲記念館」に収蔵されており、ここ焼津市観光協会ブログ内の画像)で写真が見られる!また、「焼津市」公式サイト内の「小川のお地蔵さん」には、明応九年『の夏のことです』。城之腰村の沖の海で、『毎晩なにか』、光っているもの『があり、村の人たちは、いったいなんだろうかと、ふしぎがっていました』。『そんなことがつづいたある日、吉平さんという漁師が鰯をとるために網をしかけて、さて引きあげようかとしたところ、何かずっしりと重たいものが網にかかっていました。見ると』一『メートルほどもある木のお地蔵さんでした』。『吉平さんはびっくりして、急いで引きあげ、思わず手を合わせておがみました。そして、小さな仮のお堂を建ててまつりました』。『それからしばらくしてからのこと、村人の一人が夢をみました。夢の中にお地蔵さんがあらわれて、「この浦の西にある安養寺は、わたしと縁のあるお寺である。わたしをそこに移したなら、きっとおまえたちを守ってやろう。願いごともかなえてやろう」と言いました』。『村の人たちはこれを聞き、「ありがたいことだ。ぜひ安養寺におまつりしよう」といって、そのお地蔵さんをお寺に運びました』。『海からあがったお地蔵さん…。こんなふしぎな縁があったので、それから海蔵寺とよばれるようになりました』とある。同市公式サイト内には「甚助さんの板子」という詳しい実録ページもあるが、それは本篇を読まれた後から読んだ方がよろしいかと存ずる。本文にも出るが、別な記事を見ると、実際の甚助も三日後に救われるまで、ひたすら、小川の地蔵さまを念じ続けた、ともある。さすれば、この段落の最後の「……明かりと仰しやるのですか?――え〻、水に明かりはありましたが、餘計はありません。大きいのです、蠟燭のやうに光る。……」という甚助が見た不思議な光とは……まさに……地蔵の霊光だった――のではあるまいか?! なお、瞥見した銭本健二氏が担当された小泉八雲の年譜(一九八八年恒文社刊「ラフカディオ・ハーン著作集 第十五巻」所収)の明治三三(一九〇〇)年の八月の条に『山口乙吉の向かいの家で酒屋を営む天野勘助から福寿丸の遭難と漂流の体験を聞いたのも、この頃である』と明記されているのである。

 『夜明けに、見ると海は非道い色で――濁つた綠色をして居ました。浪は小山のやうでありました。そして風は恐ろしい强さでした。雨と飛沫[やぶちゃん注:「しぶき」。]とで水の上に霧が出來て居て、地平線は見えません。然し見える處に陸があつても、浮いて居ようとするよりほかに、何も出來なかつたでせう。腹が空(す)きました、――非常に空きました。その空腹(すきばら)の苦さが直ぐと堪へられぬ程非道くなりました。その日一日私は、風と雨の下に漂つて、大波と一緖に浮かんだり沈んだりしました。でも陸は影形も見えません。何處へ行きをるのか分かりませでした。そんな空では西も東も判りやしません。

 『暗くなつてから風は凪ぎました。が、雨は相變はらず土砂降りて、眞つ黑です。空腹の苦さは通つてしまひました[やぶちゃん注:「空き過ぎて逆に消え去ってしまいました」の意。]。が、弱つてしまひました――沈むに相違無いと思つた程弱りました。すると私を呼ぶ聲が聞こえました――丁度前の晚に私を呼んだと同じやうに――「こつちへ來い!――こつちへ來い!」と。……すると突然に、福壽丸の者が四人見えました――泳いで居るのではありません、私の橫に立つて居るのであります、――寺尾勘吉と、寺尾巳之助と、鷲野乙吉と、それから松四郞といふ男と。皆んな私を怒つた顏して見て居るのであります。そして巳之助といふ男の子が、叱るやうに、大聲で「此處へ私は舵を取りつけねばならぬ。お前、甚之助[やぶちゃん注:ママ。]、お前は何もせずに眠つてばかり居る」といふのであります。すると寺尾勘吉が――これは私が板をやらうと言つた男でありますが――それが或る掛物を兩手に持つて私の上へ身體を屈めて、それを半分展(ひろ)げて「甚よ。此處に私は阿彌陀樣の繪圖を有つて居る。見い。さあ本當にお前は念佛を唱へねばならぬぞ!」と言ひました。口のきき方が奇妙でありました、――恐ろしいと思はせるやうな。私は佛樣のお姿を見て、恐はごは念佛を唱へました、―――南無阿彌陀佛、南無阿彌陀佛と。と同時に痛みが、火傷の痛みのやうな痛みが、私の股と腰とを刺しました。見ると私は板から轉び出て海の中へ落ちて居りました。その痛みはカツヲノヱボシがさせたのでありました。……一度もカツヲノヱボシを御覽になつたことが無いのでありますか。ヱボシ、神主さんが冠る、あの恰好した水母であります。カツヲ(鰹)がそれを食ふから、カツヲノヱボシと私共は言つて居ります。そいつが何處かへ出て來ると、漁夫は鰹が澤山に捕れるぞと思ひます。體軀(からだ)は硝子のやうに透いて居りますが、下の處に紫色の緣飾[やぶちゃん注:「ふちかざり」。]のやうなものと、長い紫色の紐があります。こいつが身體へ觸はると、その痛さは非道いもので、長い間とれません。……その痛さでよみがへりました。若しそれに刺されなかつたら、私は二度と眼を覺さなかつたかも知れません。私は又板の上へ乘りましたそして小川の地藏樣と金比羅樣とへお祈りしました。それで朝まで目をさまして居ることが出來ました。

[やぶちゃん注:「カツヲノヱボシ」私の得意分野である。海棲動物中で思いつく種を一つ挙げよ、と言われたら、私がまず真っ先に思い浮かべる種といってよい。それほど海産無脊椎動物フリークの私がマニアックに好きな生き物である。強力な刺胞毒を持つ刺胞動物門 Cnidaria ヒドロ虫綱 Hydrozoa クダクラゲ目 Siphonophora 嚢泳亜目 Cystonectae カツオノエボシ科 Physaliidae カツオノエボシ属 Physalia カツオノエボシ Physalia physalis(Linnaeus, 1758)。英名を“Portuguese Man O' War”(単に“Man-Of-War”とも)他に“Bluebottle”・“Bluebubble”などと呼ぶ。詳しくは、「生物學講話 丘淺次郎 第六章 詐欺 一 色の僞り~(5)」の私の長い注を参照されたい。なお、和名「カツオノエボシ」は、「鰹」がやってくるまで被っていた「烏帽子」の謂いで、鰹漁の盛んな三浦半島や伊豆半島では、本州の太平洋沿岸に鰹が黒潮に乗って沿岸部へ到来する時期に、まず、このクラゲが先に沿岸部に漂着し、その直後に鰹が獲れ始めるところから、その気胞を豊漁の予祝的に儀式正装の烏帽子に見たてて、かく呼ぶようになったものである。断言は出来ないが、私はカツオはカツオノエボシを摂餌はしないと思う(ちっちゃな可愛いアオミノウミウシ(綺麗な格好しているくせに刺胞を発射させることなく、体内に取り入れる「盗刺胞」をやらかすのだ。この不思議な機序は実は判っていないのだが、私は何らかの情報(細胞質内の酵素或いは遺伝情報)を刺胞に与えて異物認識をしないようにさせているのではないかと私は考えている。そんなの非科学的だって?! いやいや! ウミウシの中には細胞核の情報を盗んでクラゲの刺胞を自己武器に転用するトンデモない「盗核」がほぼ確実視されているウミウシがいるんだッツうの! 嘘だと思うなら、私の「盗核という夢魔」を読みな!)や、カツオノエボシと共生するなどと言われている(私は「共生」という考え方には異義がある)、当該種の刺胞毒に耐性を持ち、平気で刺胞体垂下部に棲んでいるスズキ目エボシダイ科エボシダイ属エボシダイ Nomeus gronovii(こいつがカツオノエボシの刺胞体をついばんで食うことはずっと昔からよく知られているのだ。だからこれはやはり寄生というべきなのだ、と私は声を大にして言いたいのである。因みに、観察によって、エボシダイが時にカツオノエボシの刺胞にやられて食われているケースも昔からあるのである)なんてえのが、いることは、いるがね。

 『夜明け前に雨が歇んで、空が霽れ始めました。星が少し見えましたから。東雲[やぶちゃん注:「しののめ」。]に又睡くなりました。が、頭を打たれて眼が覺めました。大きな海鳥が私を突つついたのであります。日は雲の後ろに昇つて居りました。浪は早靜かになつて居りました。やがてのこと、小さな鳶色の鳥が私の顏の橫を飛びました、――海岸に居る鳥であります(その本當の名は私は知りません)そこで、陸が見えるに相違無いと思ひました。後ろを見ましたら山が見えました。その恰好が何處の山とも私には判かりません。靑いから――八九里は離れて居るやうに思はれました。私はそれを當てに泳がうと決心しました――岸まで行ける見込みはありませんでしたけれども。又ひもじくもなりました――恐ろしくひもじく!

[やぶちゃん注:小型で白い部分が少ない鳶色の海鳥となると、ミズナギドリ目ミズナギドリ科オオミズナギドリ Calonectris leucomelas 辺りか。]

 『私は何時間も何時間もその山目當てに泳ぎました。又も眠つてしまひました。が、今度も海鳥が私を突つつきました。一日泳ぎました。夕暮近く、山の樣子から、山に近寄つて來よる事が判りました。が、岸まで行くには二日かかると思ひました。とても駄目だと殆ど諦めようとして居る時に、不圖船が見えました――大きな帆船であります。私の方指して走つて居るのでありましたが、もつと早く泳ぐことが出來なければ、間はるか離れて、行き過ぎてしまふだらうと思ひました。これを外づしては助かる見込みはもうありません。そこで板は棄ててしまつて、出來るだけ早く泳ぎました。船から二丁[やぶちゃん注:約二百十八メートル。]許りの處へ行けました。それから大聲出して呼ばはりました。だが甲板には人つ子一人見えません。何とも返事がありません。と思ふ間に私の前を通つて行つてしまひました。日は暮れかかつて居ますし、私は絕望しました。すると突然男が一人甲板へ出て來て、私に「泳がうとするな! からだを疲らすな!――小舟を出してやるぞ」と大聲で言ふのであります。見ると、同時に船の帆を下ろしました。嬉しかつたものでありますから、身體に元氣がまた出て來たやうでありました、――一所懸命に泳いで行きました。するとその帆船は小船を下ろしました。そして、その小舟が私の方へ來る時に、一人の男が「ほかに誰れも居ないか――お前何か落としたものは無いか」と大聲でききます。私は「板一枚きりで何も無かつた」と返事しました。……と一緖に私はぐつたりしてしまひました。その小舟の人達が曳きずり上げるのは判かつて居ましたが、口をきくことも身動きすることも出來ませんで、あたりが眞つ暗になつてしまひました。

 

 『一つ時經つとまたあの聲がきこえました――福壽丸の者どもの聲が。――「「甚よ! 甚よ!」と。私はぞつとしました。すると誰れかが私の身體をゆすぶつて「おい! おい! そりや夢だよ」と言ひます。見ると私はその帆船の中で、吊り提燈の下で(夜でありましたから)寢て居りました。――そして私の橫に、見も知らぬ老人が一人、膝ついて、手に飯茶椀を持つて居ます。「少し食つて見なさい」と大變親切に言ひました。私は起きて坐らうと思ひましたが起きられません。そこでその男は自分で、茶椀から、養つて[やぶちゃん注:「よそつて」と当て訓したい。]吳れました。茶椀が空になつた時に、もつと欲しいと言ひました。が、その老人は「今はいけません。――先づ眠(ね)なければいけません」と返事しました。ほかの誰れかに「私が言ふまで、もう何もやつてはならぬぞ。餘計食はせると、死ぬるから」といふ聲がきこえました。私はまた眠りました。そしてその夜もう二度飯を貰ひました――軟らかく炊いた飯を――一度に小さな茶椀に一パイ。

 『翌け[やぶちゃん注:「あけ」。]の朝私はよほど丈夫な氣持ちになりました。そして飯を持つて來て吳れたその老人が來て私に訊ねました。船の沈沒の話を聞き、私が海の中に居た時間のことを聞いて、非常に私を憫れんで吳れました。その二日二た晚の間に、二十五里以上漂つて居たのだとその男は話しました。「お前さんが棄てた板を探しに行つて拾ひ上げました。屹度お前さんはいつかそれを金比羅樣へ奉納したいのでせう」といふのであります。私は御禮を言ひましたが、燒津の地藏樣の寺へ奉納したいと返事しました。それは私が一番お助けを祈念したのは小川の地藏樣でありましたから。

 『その親切な老人はその帆船の船長で、そしてまたその持主でありまして、紀州のクキ港指して行きをるのでありました。……クキのキは、オニといふ字で、――クキは九つの鬼といふ意味であります、……船の男に皆親切でありました。私はその船へ上がつた時は、褌一つ締めて居るだけで、眞つ裸であります、そこで皆が私に着るものを吳れました。一人の男が下衣を吳れる、もう一人の男が上衣を吳れる、又一人の男が帶を吳れました。幾人かが手拭や草履を吳れました。――それからみんなが寄り合つて、六七兩に上るほどの惠み金を私にこしらへて吳れました。

[やぶちゃん注:「紀州のクキ」九木とも書く。三重県南部、尾鷲市東部の漁業地区の旧村名で、現在の三重県尾鷲市九鬼町(くきちょう)。急峻な紀伊山地が沈水したリアス湾入の奥にあり、かつては水運に頼った。南北朝時代から江戸時代にかけて勇名を馳せた九鬼水軍発祥の地として知られる。大敷網によるブリ漁が主で、今はハマチや真珠の養殖も行われている。

「六七兩」幕末の一両はインフレで現在の二万八千円相当まで下落していたが、それでも十六万八千円~十九万六千円相当となる。]

 『九鬼へ着きますと――綺麗な小さな處であります、名前は變でありますが――船長は私を上等の旅籠屋へ連れて行きました。そこで二三日休息しますと私は元の通り丈夫になりました。するとその村の長[やぶちゃん注:「おさ」。]が、その當時の名で言ふと地頭でありますが、それが私を呼びによこして、私の身の上を聞いて、これを書き付けさせました。事の報告書を燒津村の地頭へ送つてやらなければならぬ、それから後で國へ送り還す途[やぶちゃん注:「みち」。手だて。]を考へよう、と私に言ふのであります。處がその播州の船長は、私の生命を助けたその船長は、自分の船で送り屆けたい、それから又地頭への使者の役目を引き受けたい、と申し出ました。で、二人の間に大分論判がありました。當時は電信もありませんし、郵便もありません。わざわざ使ひの者(ヒキヤク)を、九鬼から燒津へ送るには、少くて五十兩はかかりましたらう。ところが一方にまた、そんな事に特別な法律や慣習が――今頃の法律とは餘程異つた法律があつたものであります。そのうち燒津の船が一艘近くの荒坂[やぶちゃん注:「あらさか」。]へ入つて來ました。そして九鬼の女で、折よく荒坂に居た者が、私が九鬼に居るといふことを燒津の船長に話したのであります。それから燒津の船が九鬼へ來ました。そこで地頭は燒津の船長に託して、――命令の書面をそれに渡して――私を送り還すことに決心しました。

[やぶちゃん注:「五十兩」先の換算で百四十万円にもなる。飛脚費用が驚くほど高額であったことが判る。実際、サイト「江戸時代campus」のこちらを見ると、江戸時代の平均値であろうが、『江戸から大坂まで一番早い便で飛脚を走らせたら、その料金は』『仕立(いまでいうチャーター便)の正三日限』り『という』、『実質』、『まる二日で届く便をつかうと、なんと料金は銀700匁(約140万円)もかか』ったとあるから、この甚助の謂いは大袈裟ではないことが判る。

「荒坂」現在の、九鬼の南西十キロメートルにある三重県熊野市二木島町附近と思われる。]

 

 『全體で、私が燒津へ歸つた時は福壽丸が沈沒してから、一箇月ばかり經つて居りました。港へは夜着きましら。直ぐとは家へ歸りませんでした。家の者が恐ろしがつたでありませうから。尤も私共の船が沈沒したといふ確かとした消息(たより)は燒津に屆いては居りませんでしたが、船に隨(つ)いて居た物を澤山漁船が拾ひ上げて居りました。それにその颱風は非常に突然に來て、海は非道い荒でありましたから、福壽丸は沈沒したのだ、乘つて居た者は皆んな死んだのだ、と皆んな信じて居たのであります。……他の者は誰れ一人その後たよりがありませんでした。……私は其晚或る友達の家へ行きました。そして翌けの朝双親と兄弟とへ言傳[やぶちゃん注:「いひづて」。]をしました。すると皆んな迎へに來て吳れました。……

 

 『每年一度私は讃岐の金比羅樣へ參詣します。難船に助かつた者は皆んな御禮に參詣します。それから小川の地藏樣のお寺へは每度參詣します。明日私と一緖にお出になれば、その板をお見せ致しませう』

 

[やぶちゃん注:作中内の主人公天野甚助が作中で示される遭難漂流の万延元(一八六〇)年当時、数え十九であったとするのを信ずるならば、本書刊行当時の明治三四(一九〇一)年でも、満五十九歳となり、小泉八雲がこの天野勘助に逢って、実際にこの話を聴いた可能性はすこぶる高いと私は考える。又聴きであったとしても、この話――舟幽霊の怪奇談含みの実話としても――勝れた名掌品であることに何の瑕疵もない。]

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