小泉八雲 化け物の歌 (後書き部) (大谷正信譯) / 化け物の歌~了
[やぶちゃん注:本篇の詳細は『小泉八雲 化け物の歌 序・「一 キツネビ」(大谷正信譯)』の私の冒頭注を参照されたい。]
上記の狂歌を詠ましめた說話、及び民間信仰の殆んど凡ては支那から來たもののやうに思はれる。そして木の精の日本物語も大部分は、その根本を支那に有つて居るやうである。東洋の花の精また木の精は、まだ西洋の讀者には少ししか知られてゐないから、次記の支那物語は或は興味あるものと思はれるかも知れぬ。
日本の書物では唐の武三思と呼ばれて居る――花が好きなので有名な――支那の學者があつた。殊に牝丹が好きで、極はめて巧みに、また根氣よくそれを栽培した。
〔ピオニイに此處では――日本で大いに尊む花の――牝丹をいふ。八世紀の頃、支那から輸入されたといふことで、五百を下らざる變種が今日本の庭園師によつて栽培されて居る〕
或る日のこと眉目頗る美はしい少女が武三思の家へ來て、使つて吳れと賴んだ。譯があつて賤しい勤めを求めなければならぬやうになつたのであるが、文學敎育を受けた身であるから、出來るなら學者の家に傭はれたいのであると言ふのであつた。武三思はその美くしさに惚れて、それ以上何も問ひ糺しもせずに自分の家へ入れた。使つて見るとただ善良な召使といふだけでは無く、その藝能を思つて見ると、貴紳の邸宅か或はまた王侯の宮殿で育つて來た者ではなからうか、と武三思に思はれる程であつた。禮儀作法は申し分無く知つて居り、位最も高い貴婦人だけが敎はるやうな、優雅な藝事を心得ていて、書にも繪にもあらゆる種類の詩歌を作ることにも驚くばかりに巧みであつた。武三思はやがて、その女を戀ひするやうになり、どうしたらその女は喜ぶかと、そればかり考へた。學問友達や他のえらい訪問客がその家へ來ると、その客をもてなさせにいつも、この新參の召使を呼ぶのであつたが、その姿を見たものは何れも、皆その溫雅と愛敬とに非常に驚いた。
或る日武三思は有名な道術數師の、狄仁傑といふえらい人の訪問を受けた。ところが、その召使は主人の呼ぶのに應じなかつた。武三思は、狄仁傑に見せて感心させようと思つて、自分で探しに行つた。が、何處にも居なかつた。家中搜しても居なかつたので、武三思は客間へ戾るといふと、廊下をその前を音も無しにするすると通つて行く、その召使の姿が不意に見えた。そこでその名を呼んで後を追うて出た。するとその召使は半ば振り返つて、蜘蛛のやうに壁へ身を平たくくつつけた。そして武三思が其處へ行くと、後ろへ壁の中へと沒して行つて、――壁土の上へ描いた繪のやうに平らに――色の附いて居る影のほか、眼に見えるものは何も殘つて居なかつた。だが、その影が唇と眼とを動かして、小聲でかう言つた。
『御召しに從ひませんで誠に申し譯がありません。……私は人間では無いので御座います。――私は牡丹の魂で御座います。あなたが牡丹をあんなにも可愛がつて下さいましたから、それで人間の形になつて、あなたにお仕へ申すことが出來ました。ところが、今あの狄仁傑が參りました――あの人は恐ろしく禮儀正しい人で御座いまして――私はもうこの姿をして居ることが出來ません。……私は私の出で來た元の處へ歸らなければなりません』
さう言つて壁の中へ沈み込んで、全く消えてしまつた。その居た處にはありのままの壁土のほか、何も無かつた。そして武三思はその召使の姿を二度と見なかつた。
この話は日本人が『開天遺事』と呼んで居る支那の書物に載つて居る。
[やぶちゃん注:ここに出る話は「古今百物語評判卷之一 第五 こだま幷彭侯と云ふ獸附狄仁傑の事」に出ており、そこで武三思・狄仁傑(孰れも実在の人物である。因みに、小泉八雲は後者を“Teki-Shin-Ketsu”と記すが、採らない)を詳細に注しているので、そちらを参照されたい。そこで「開天遺事」にも注して、『正しくは「開元天寶遺事」。小学館「日本大百科全書」によれば、『盛唐の栄華を物語る遺聞を集めた書。五代の翰林(かんりん)学士などを歴任した王仁裕(じんゆう)』(八八〇年~九五六年)『が、後唐(こうとう)』(九二三年~九三六年)『の荘宗のとき、秦』『州節度判官となり、長安に至って民間に伝わる話を捜集し』、百五十九『条を得て』、『本書にまとめたという』。但し、『南宋』『の洪邁』(こうまい 一一二三年~一二〇二年)は『本書を王仁裕の名に仮託したものと述べている。玄宗、楊貴妃』『の逸話をはじめ、盛唐時代への憧憬』『が生んだ風聞、説話として味わうべき記事が多い』とある。但し、以上の牡丹の精の話は、中文サイトの「開元天寶遺事」の原文を調べて見ても、見当たらなかった。話柄の類型は、唐代伝奇や後の志怪小説(特に浮かぶのは「聊齋志異」辺り)にありがちなものではある。識者の御教授を乞う』と書いた。今回、再度調べたが、やはり、ない。ただ、中文サイトで「武三思 狄仁傑 牡丹」で調べると、盛んに京劇関連やドラマ絡みでこの話らしき記載が盛んに認められる。出典を突きとめることは私が中国語が出来ぬのであきらめた。再度、懇請しておく。【2019年10月5日追記】いつも各種テクストに対して情報を下さるT氏よりメールを戴き、本篇の出拠は「太平廣記」の「妖怪三」に載る「素娥」と思われると指摘があった。但し、『「牡丹の魂」ではなく「花月之妖」とかかれていますが』とあり、「太平廣記」の原文とその引用元のデータを示され、最後に『「開天遺事」は、「山岡元隣」の眼晦ましでは』ないか? との御指摘もあった。以下に中文サイトから「太平廣記」の「妖怪三」の「素娥」を一部の字や記号を変更して示す。
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素娥者、武三思之妓人也。三思初得喬氏靑衣窈娘、能歌舞。三思曉知音律、以窈娘歌舞、天下至藝也。未幾、沉於洛水、遂族喬氏之家。左右有舉素娥曰。相州鳳陽門宋媼女、善彈五弦。世之殊色。三思乃以帛三百段往聘焉。素娥既至、三思大悅、遂盛宴以出素娥。公卿大夫畢集、唯納言狄仁傑稱疾不來。三思怒、於座中有言。宴罷、有告仁傑者。明日謁謝三思曰、某昨日宿疾暴作、不果應召。然不覩麗人。亦分也。他後或有良宴、敢不先期到門。素娥聞之。謂三思曰。梁公彊毅之士。非款狎之人。何必固抑其性。再宴不可無、請不召梁公也。三思曰。儻阻我宴、必族其家。後數日、復宴、客未來、梁公果先至。三思特延梁公坐於內寢、徐徐飮酒、待諸賓客。請先出素娥、略觀其藝。遂停杯、設榻召之。有頃。蒼頭出曰。素娥藏匿、不知所在。三思自入召之、皆不見。忽於堂奧隙中聞蘭麝芬馥、乃附耳而聽、卽素娥語音也。細於屬絲。纔能認辨、曰。請公不召梁公、今固召之、不復生也。三思問其由、曰。某非他怪、乃花月之妖。上帝遣求。亦以多言蕩公之心、將興李氏。今梁公乃時之正人、某固不敢見。某嘗爲僕妾、敢無情。願公勉事梁公、勿萌他志。不然。武氏無遺種矣。言迄更問。亦不應也。三思出。見仁傑。稱素娥暴疾。未可出。敬事之禮。仁傑莫知其由。明日、三思密奏其事、則天歎曰。天之所授、不可廢也。出「甘澤謠」。
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出典とする「甘澤謠」は晩唐最末期の官人で伝奇小説を得意とした袁郊の作で、同前の仕儀で原話(やはり標題は「素娥」)を引くと、
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素娥者、武三思之姬人也。三思初得喬氏靑衣窈娘、能歌舞。三思曉知音律、以窈娘歌舞天下至藝也。未幾、沉於洛水、遂族喬氏之家。左右有舉素娥者曰、「相州風陽門宋媼女、善彈五弦、世之殊色。」。三思乃以帛三百段往聘焉。
素娥既至、三思大悅、遂盛宴以出素娥。公卿大夫畢集、唯納言狄仁傑稱疾不來。三思怒、於座中有言。宴罷、有告仁傑者。明日、謝謁三思、曰、「某昨日宿疾暴作、不果應召。然不睹麗人、亦分也。他後或有良宴、敢不先期到門。」。素娥聞之、謂三思曰、「梁公强毅之士、非款狎之人、何必固抑其性。若再宴、可無請召梁公也。」。三思曰、「倘阻我宴、必族其家。」。
後數日、複宴。客未來。梁公果先至。三思特延梁公坐於內寢、徐徐飮酒、待諸賓客。請先出素娥、略觀其藝、遂停杯設榻召之。
有頃、蒼頭出曰、「素娥藏匿、不知所在。」。三思自入召之、皆不見。忽於堂奧隙中聞蘭麝芬馥、乃附耳而聽、卽素娥語音也、細於屬絲、才能認辨、曰、「請公不召梁公、今固召之、某不複生也。」。三思問其由、曰、「某非他怪、乃花月之妖。上帝遣來、亦以多言蕩公之心、將興李氏。今梁公乃時之正人、某固不敢見。某嘗爲僕妾、寧敢無情。願公勉事梁公、勿萌他志。不然、武氏無遺種矣。」。言訖、更問亦不應也。
三思出見仁傑、稱素娥暴疾、未可出。敬事之禮、仁傑莫知其由。明日、三思密奏其事、則天嘆曰、「天之所授、不可廢也。」。
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である。まさに、これこそ原拠であると考えてよい。T氏に深く感謝する。
「ピオニイ」原注原文では“The tree-peony (botan)”とある。「Peony」は、本来、落葉小低木であるユキノシタ目ボタン科ボタン属ボタン Paeonia suffruticosa の英名である。ネイティヴの発音の音写は「ピアニィ」に近い。]
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