小泉八雲 伊藤則助の話 (大谷正信譯) 附・原拠「當日奇觀」の「伊藤帶刀中將、重衡の姬と冥婚」
[やぶちゃん注:やぶちゃん注:本篇(原題“ THE STORY OF ITŌ NORISUKÉ ”は一九〇五(明治三八)年十月にボストン及びニュー・ヨークの「ホートン・ミフリン社」(HOUGHTON MIFFLIN AND COMPANY)刊の“ THE ROMANCE OF THE MILKY WAY AND OTHER STUDIES & STORIES ”(「『天の河の恋物語』そして別の研究と物語」。来日後の第十二作品集)の五番目に配されたものである。本作品集は“Internet Archive”のこちら(目次ページを示した)で全篇視認でき(本篇はここから)、活字化されたものは“Project Gutenberg”のこちらで全篇が読める(本篇はここから)。小泉八雲は、この前年の明治三七(一九〇四)年九月二十六日に心臓発作(狭心症)のため五十四歳で亡くなっており、このブログ・カテゴリ「小泉八雲」で完遂した「神國日本」(戸川明三訳。原題は“Japan: An Attempt at Interpretation”(「日本――一つの試論」)に次いで、死後の公刊となった作品集である。
底本は上記英文サイト“Internet Archive”のこちらにある画像データをPDFで落し、視認した。これは第一書房が昭和一二(一九三七)年一月に刊行した「家庭版小泉八雲全集」(全十二巻)の第八巻全篇である。★【2025年4月3日底本変更・前注変更】時間を経て、国立国会図書館デジタルコレクションに本登録し、現行では、以上の第一書房版昭和六(一九三一)年一月に刊行した「學生版小泉八雲全集」(全十二巻)の第七巻が、国立国会図書館デジタルコレクションで公開されてある。(リンクは扉だが、「學生版」の文字はない。しかし、奥附を見て貰うと『學生版 【第二囘豫約】』とあり、『昭和六年一月十日 發行』とあることが確認出来る)、 これが、前掲の底本と同じものであるが、やはり、外国のサイトのそれを底本とするのは、日本人小泉八雲に失礼であると考えた。されば、こちらで、再度、以下の「骨董」の作品群を改めて校正することとする。これが――私の小泉八雲への「義」――である。なお、之よりも前の元版の全集等が先行しているものの、私がそれらと比べた結果、実は先行する同社の「小泉八雲全集」のそれらは、訳が一部で異なっており、訳者等によって、かなりの補正・追加がされていることが、今回の正字補正作業の中で、はっきりと判って来た。いや、同じ「家庭版」と名打ったネット上の画像データでも、驚いたことに、有意に異なっていたのである。そうした意味でも――完全な仕切り直しの総点検――が必要であると決したものである。従って、旧前振りの括弧・鍵括弧の問題も、拡大とガンマ補正で確認し、正確を期する。本作はここから。
訳者大谷正信氏については、「小泉八雲 燒津にて 大谷正信譯」の私の冒頭注を参照されたい。
標題であるが、原拠(後掲)の表記は、「伊藤則資の話」で、現行の訳では、そちらになっている。
原注は最後に一つだけあるが、本文注に挿入し、四字下げポイント落ちであるのを、本文と同ポイントで、頭から示した。
最後に小泉八雲旧蔵本を底本に原拠を示した。【2025年4月3日追記】後に、私は原拠である都賀庭鐘の「席上奇觀」を総て電子化注した。本作の原拠である「伊藤帶刀中將、重衡の姬と冥婚」も、新たにゼロから電子化注してあるので、そちらを決定版として、最後に見られたい。]
伊 藤 則 助 の 話
山城の國宇治町に、六百年許り前に、その祖先は平家の、伊藤帶刀則助といふ若い士が住まつて居た。伊藤は美男子で氣だでがやさしく、中中、學問があつて武藝に長けてゐた。が一家は貧しく、高責な武人間[やぶちゃん注:「ぶじんかん」。]に、彼に眷顧を與へるものが一人も無かつたから、その前途の望みは乏しかつた。文學の硏究に身を委ね、(日本の物語作者の言ふ)『ただ風月を友と』して、極く質素な生活(くらし)をして居つた。
[やぶちゃん注:「伊藤帶刀則助」不詳。冒頭注で述べた通り、原拠は『伊藤帶刀』(たてはき)『則資』とする。
「眷顧」(けんこ)は「贔屓」(ひいき)の意。特別に目をかけて呉れる人のこと。]
或る秋の夕暮、琴引山といふ小山の近處をただ一人散步して居ると、たまたま同じ路を辿つて居る少女に追ひ付いた。その子は立派な服裝(なり)をしてゐて、年の頃は十二か十三ぐらゐに思はれた。伊藤はそれに會釋して、『日が直ぐ暮れますよ、お孃さん、それに此處は少し淋しい處です。道に迷つたのですか』と言つた。その子は晴れやかな笑顏をして見上げて、そんな事はと云つた樣子をして、『い〻え。私はこの近處に御奉公を致して居りまミヤヅカヒで御座います。もう少し行けばよう御座います』と返事した。
[やぶちゃん注:「琴引山」「ことひきやま」。「琴彈山」とも。雅氏のブログ「月詣草紙」の「涙河をわたる 京都、奈良編 その2 日野」に、この附近は『平重衡卿の北の方』であった『藤原輔子(当時女性の名前は伏せられるので役職名の大納言典侍と呼ばれてることが多い)と』重衡が『斬首の前日に最後の再会を果たした地で』とあり、『一の谷の戦いで捕えられ』、『鎌倉に送られていた重衡が、壇ノ浦での平家滅亡後南都の要請で奈良に送られる途中のこと』で、『二人が再開した場所に流れていた川は後にこの逸話から『合場川』』と名付けられ、『大納言典侍が重衡の行列を涙ながらに琴を弾き見送った丘陵を『琴弾山』と名付けられた』と伝える、とある。また、「京都府宇治郡名蹟志」を引用され(原書に当たれないので、一部に手を加えさせて貰って整序した)、
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相場川(合場川)
醐南端にあり、平重衡源氏の囚虜となり、鎌倉より南都に送らるるとき、內室、此處に要して對面せしより、此稱あり。
琴彈山
相場川背後の丘卽ち之れなり、内室、重衡に別るに臨み、琴を山下に彈きし別離を惜みし所として此稱あり。
石田岡(琴彈山)
琴曳山一帯の地を伝ふ、古來和歌の名區なり。
重衡墓
小字外山街道十三番地民家の裏に在り。重衡、義經に囚われ、木津の邊りに斬らる。內室、その首級をこの地に葬り、佛心寺に居り、其瞑福を祈る。今、其佛心寺、なし。
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とあるとある。以下、「平家物語」の「重衡被斬(きられ)」の二人の印象的な哀しい再会が引かれるので、是非参照されたい。その後で、『合場川のバス停』の『すぐ後方がこ』の『琴弾山だと、伏見区のwebのあ』ったとあるので、この附近(グーグル・マップ・データの航空写真)かと思われる。現在は平地となっていって、丘陵らしきものも、残念ながら全く見られない。東南近くに「重衡塚」(グーグル・マップ・データ)がある。]
その子がミヤヅカヒといふ言葉を使つたので、伊藤はその女の子は高位な方に奉公して居るに相違ないと知つたが、どんな名家も其附近に住まつて居ることを聞いたことが無いから、その子の云ふことを怪しんだ。だが、ただかう云つた、『私は私の家(うち)のある宇治ヘ今歸るところです。此處は大變淋しい處ですから、途中、一緖に行つて上げませう』
その子はその申し出を喜んだらしく、しとやかに御禮を述べた。で、話しながら二人は一緖に步んで行つた。その子は天氣の事、花の事、蝶蝶の事、鳥の事、一度、宇治へ見物に行つた事、自分が生れた都の名所の事を話した。伊藤には、その子の爽やかなお喋舌(しゃべり)を聽いて居ると、時間が愉快に經つて行つた。やがて、その道の或る曲り目で、二人は若木の杜[やぶちゃん注:「もり」。]で大變に暗い小村へ入つた。
〔此處で、自分は、此話を中斷して、諸君に話さなければならぬ事がある。日本には、晴れ切つた非常に暑い天氣の折にも、いつまでも暗くて居る田舍村があつて、其暗さは實地にそれを見なければ讀者には想像が出來ぬといふ事である。東京の近處にさへ、そんな村は澤山ある。そんな村から少し離れると家は一軒も無い。常磐木[やぶちゃん注:「ときはぎ」。常緑樹。]の茂つた杜のほか、何んにも見えぬ。其杜は、普通若い杉と竹とから成つて居るが、暴風の害を蒙らぬやう其村を被ひ、且つまた種種な目的に材木を供給する用を爲して居る。木は密植してあるから、幹と幹との間を通つて行く餘地が無い。帆柱のやうに眞直ぐに立つて居て、日を遮る屋根をつくるほどに、其頂部を交じへて居る。草葺きの田舍家は何れも皆、植林中の空いた地を占めていて、其樹木が其まはりに家の高さの倍の垣を造つて居る。其樹木の下は、眞つ晝間でもいつも薄暗がりで、家は朝か夕方かは半ば蔭になつて居る。殆んど不安の念を起こさせるこんな村の第一印象は、それ獨特の一種の薄氣味惡るい妙味を有つて居る、其透明な暗がりでは無くて、其靜けさである。家數は五十も百もあることがあらう。しかし何も見えず何んの音も聞えず、ただ、眼には見えぬ小鳥の囀り、時たまの鷄の啼き聲、蟬の叫びがあるだけである。だが、蟬もへ其杜を餘りに暗いと思ふのか、微かに啼く。日を愛する蟲だから、村の外の樹木を好むのである。自分は云ひ忘れたが、時に眼に見えぬ梭[やぶちゃん注:「ひ」。機織りのシャトル。]の――チヤカトン、チヤカトンといふ――音を耳にすることがあらう。――が、其聞き慣れた音が、この大なる綠の無言のうちに在つては、仙鄕のもののやうに思はれる。其靜寂の理由は人が家に居ないといふただそれだけである。大人は、弱い老人少しを除いて、凡て、女は赤ん坊を背に負うて、近處の野畠へ行つて居り、子供の大部分は、多分一哩[やぶちゃん注:「マイル」。約千六百九メートル。]より少からぬ遠くの一番近い學校に行つて居る。實際、こんな薄暗いひつそりした村に居ると、誰れしも『世の養ひを享けたる太古の人は、何物も求むるところ無く、世また物澤に、――人は無爲にして萬物化育し、――其靜かなること深淵の如く、國人すべて皆心安らかなりき。』といふ管子の文に書いてある情態の不思議な永存を眼前に視て居るやうな氣がする〕
[やぶちゃん注:「管子」(くわんし(かんし))春秋時代の斉の宰相管仲の著と伝えられる書。全七十六編。先秦から秦・漢時代にかけての政治・経済・文化などが、儒家・道家・法家・陰陽家など複数の思想的立場から記述されている。実際には漢代までの間に多くの人の手によって記述追補編纂された書である)の巻第十三の、次の一節。
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夫正人無求之也。故能虛無。虛無無形。謂之道、化育萬物、謂之德。
(夫(そ)れ、正人は之れを求むる無し。故に能く虛無たり。虛無、形、無し。之れを「道」と謂ひ、萬物を化育する、之れを「德」と謂ふ。)
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鬼丸紀氏の論文「『管子』四篇における養生説について」(『日本中國學會報第三十五集』(一九八三年発行)所収。PDFでダウン・ロード可能)の本条の解説に(一部に濁点を打った)、『虛靜の道はもとは自然界の法則であり、それによって自然現象か成り立つものであったが、同時に人がそれを守り行うことによって、人文現象に正しく對應できるようになる。人はこのような考え方のもとに、人事に自然界の法則を導入し、人と自然界との合一を理想とした結果、人事と自然現象とは連續的なものとなり、相互に影響を及ぼし合うようになった。「萬物を化育」するのは、本來、自然現象に屬するものであるが、ここでは「義」、「禮」、「法」なとの人間社會の中で守り行うべき規範と竝べて、聖人の「德」として說かれている。人は虛靜の法を守り行うことによって、人間の諸事を誤りなくなし遂げると同時に、萬物を化育することもできるという考え方が現われている。自然界の理法を體得することは、自然界と一體となることてあり、そこで自然現象にまで人の力が及ぶわけである』とある。「虚静」とは、元来は「荘子」の思想の一つで、欲望を一切捨て去って、心の中に不信や疑念などがなく、落ち着いて、自然のあるがままの世界に身を委ねることを謂う語である。
「世また物澤に」「よ、また、もの、さはに」で、前の「管子」の言葉に即すなら、「無為自然」から「無一物即無尽蔵」という意味で、私は採る。]
………伊藤がその村へ著いた時は餘程暗かつた。日は早、沈んでしまつて、夕燒けはその樹木の蔭では薄明りも與へて居なかつたからである。その子はその大道に通じて居る狹い小路を指さして『あの、御深切な御旦那樣、私はこちらへ參らなければなりません』と云つた。『それでは家まで送つて行つて上げよう』と伊藤は答へて、行く手を見ながらといふより探りながら、その子と一緖にその小路へ曲つた。ところが、その女の子は頓て[やぶちゃん注:「やがて」。]、その暗がりにぼんやり見える小さな門の前で――其先に在る住家の光(あかり)が見える格子作りの門の前で停つた。『私が御奉公致して居ります御邸は此處で御座います。ここまで遠く寄り道をして下すつたことで御座いますから、入つて少し御休みになつて下さいませんか』と云つた、伊藤はそれを諾した。この手輕な招きを嬉しく感じ、どんな立派な身分の人がこんな淋しい村にわざわざ住まふことにしたものか知りたいと思つた。高位の一家が、政府に不滿を抱くとか、政治上の紛紜[やぶちゃん注:「ふんうん」或いは連声(れんじょう)で「ふんぬん」。物事が入り乱れていること。事態が縺(もつ)れること。もめ事。]があるとかで、時にこんな風に引退することがあると知つて居たから、自分の眼の前のこの邸に住まつて居る人達の身の上も、さうであらうと想像した。其年若い道伴れ[やぶちゃん注:「みちづれ」。]が、開けて吳れた門を潛ると[やぶちゃん注:「くぐると」。]、四角な大きな庭があつた。うねうね小川が橫ぎつて居る、山水の景を小さく模した、其造り微かに見分けられた。『ほんの一寸の間、御待ちになつて下さいまし。御出でのことを申しに參りますから』と其子は云つて、家の方へ急いで行つた。廣廣した家ではあつたが、餘程古さうで、それに今とは異つた時代の建て方であつた。引き戶は閉(し)めて無かつたが、光(あかり)のして居る家(うち)の中は、緣の正面に亘つて美くしい簾が掛かつて居るので見えなかつた。其簾のうしろに影がいくつか――女の影がいくつか――動いて居た。――すると、不意に琴の音が夜に波打つて響いて來た。其彈き方が如何にも輕くまた旨いので、伊藤は自分の耳を信ずることが殆んど出來なかつた。耳を欹てて[やぶちゃん注:「そばだてて」。]居るうちに、うつとりするやうないい氣持ちが――妙に哀れの籠もつたいい氣持ちがして來た。どんな女でも、どうしてあんなに彈くことが覺えられたらうと怪しんだ――彈き手は女なのか知らと怪しんだ――自分は、この世の音樂を聽いて居るのか知らとさへ怪しんだ。魔力がその音と共に、自分の血の中へ入つたやうに思はれたからである。
そのやさしい音樂は歇んだ[やぶちゃん注:「やんだ」。]。すると、それと殆んど同時にあの小さな宮仕が其橫に來て居ることを知つた。『おはひり下さるやうにとのことで御座います』と云ふのであつた。入口へ案內されて行つて、其處で草履を脫ぐと、ラウヂヨ卽ち其一家の召使頭だと伊藤が思つた年長けた女が、閾際[やぶちゃん注:「しきゐぎは」。]まで迎へに出た。其老女はそれから部屋を幾つか通つて、家の裏側の大きな明かるい部屋へ連れて行つて、何度も恭しく辭儀して、高位の人が坐る上席に就いて吳れと乞ふのであつた。部屋が物物しげなのと、其裝飾の珍らしい、美しさとに驚いた。やがて、女中が幾人か出て茶菓を供へて吳れたが、前へ置かれた荼椀も他の器物も稀れな高價な細工のもので、且つ亦、其持主が高位な人だと知れる模樣で飾りがしてあることに氣付いた。どんな氣高い人がこんな淋しい隱退處を選んだものだらう、どん事がこんな孤獨を望ませるやうにしたものだらう、と段段怪しんで來た。ところが、老女は
『あなたは宇治の伊藤樣だと――あの伊藤帶刀則助樣だと思ひますが、違ひますか』
と訊ねて突然その囘想を妨げた。
伊藤は如何にもと頭を下げた。自分の名をあの小宮仕に云ひはしなかつたのであるし、それにその訊ね方にまたびつくりした。
老女は言葉を續けて云つた。『どうか、私の御尋ねを失禮だとは思つて下さいますな。私のやうな老人はいろんな事を御尋ねしてもいいので御座いませう、不都合な珍らしがりで無くて。あなたが此家に御出になつた時、あなたのお顏に見覺えがあると思ひました。だから、他の事をお話しする前に、疑ひを晴らすだけにお名前を御伺ひ致したので御座います。御話し致したい大切な事が御座います。あなたはよくこの村をお通りになるので、私共の若い姬君樣が或る朝あなたの御通りになるのを不圖、御覽になりまして、その時からといふもの、晝も夜もあなたの事を考へておいでになります。本當に、餘り心思ひになつて病氣におなりで、私共は大變に心配して居ります。其爲めに、あなたのお名前とお住居を見つけるやう取り計らひまして、手紙を差し上げようとして居る處ヘ――どうで、御座いませう、思ひがけも無い!――あなたがあの召使と一緖に私共の門へ御出で下さいました。まあ、あなたに御會ひしてどんなに嬉しいか到底も口には申し上げられません。あまりに仕合せで本當だとは思へないくらゐで御座います。實際、かうして御會ひ出來たのはエンムスビノカミの――仕合せな緣組みの絲の結びを繋いで下さる、あの出雲の神樣の――惠みの御計ひに違ひないと私は思ひます。そんな仕合せな運が、あなたをこちらヘ御連れ申したことで御座いますから、否(いや)とは仰せになりは致しますまい――そんな緣組みの――姬君樣のお心をお喜ばせ申す――邪魔が何も無いのなら』
その當座、伊藤には、どう返答していいか分らなかつた。その老女が若し本當のことを云つたのなら、異常な機會が、其身に捧げられて居るのであつた。非常な熱情あればこそ、高家の息女が、自分と[やぶちゃん注:「おのづと」と訓じておく。]求めて、富も無ければ、何んの前途の望みも無い、主人無しの名も無い士の愛を求めなされるのである。だが一方また、女の弱味に附け込んで、己が利を增さうとするのは男の面目とすべきことでは無い。それにまた、事情が氣掛りな不思議である。だが、かう思ひ掛けない申し出をどう斷わつていいか少からず心を惱ました。暫く無言で居てから返事した。
『私には妻はありませんし、許嫁はありませんし、どんな女とも何の關係もありませんから、邪魔は少しも無い譯であはります。今まで私は兩親と暮して來て居りますが、緣談の事は兩親は一度も話したことはありません。知つて置いて戴かねばなりませんが、私は貧乏士で、高位の方方の間に私を庇護して下さる方がありませんし、身の境遇のよくなる機會が見つかるまでは、妻を娶らうとは思つて居ませんでした。御申し出の事は、私に取つて光榮至極ではありますが、私はまだ高貴な姬君に思つていただくに足らぬ身だと思うて居ります、とかう申し上げるほかはありません』
老女はその言葉を聞いて滿足に思つたらしく微笑して、かう返事した。
『姬君樣に御會ひになるまで、御極めにならぬがおよろしいで御座いませう。御會ひになつたなら多分、御躊躇(ためらひ)にはなりますまい。どうか、私と一緖にお出になつて下さいませんか、姬君樣へ御引き合せ致しますから』
前のよりも大きな別な客間へ案內されたが、行つて見ると御馳走の支度が出來てゐて、上座へ就かせられてから一寸の間、獨り其處へ待たされた。老女は姬君樣を連れて歸つて來た。その若い女主人分を始めて一目見た時、伊藤は庭に居て琴の音を聽いた時覺えた、あの不思議な驚きと悅びとの身戰ひを再び感じた。こんな美しい人は一度も夢にも見たことが無かつたのである。綿雲を通して見る月の光りの如く、光りがその身から出て、その衣裳を通して輝いて居るやうであり、その解けて、垂れて居る髮の毛は身動きにつれて搖れて、春のそよ風に動く枝垂れ柳の枝のやうであり、その唇は朝露を帶びた桃の花のやうであつた。伊藤はその姿を眺め見て恍惚とした。正(しやう)のアマノカハラノオリヒメの姿を――輝く天の川の傍に住む織女の姿を見て居るのでは無いかと思つた。
にこにこしてその老母[やぶちゃん注:ママ。後では「老女」。]は、その美しい姬の方へ向いたが、姬は眼を伏せ、頰を赧く[やぶちゃん注:「あかく」]して默つたままで居るので、姬に向つてかう云ふのであつた。
『どうで御座いませう、あなた! こんな事があらうとは少しも望みも出來ない折に、あなたが會ひたいと仰しやるその當のお方が、自分から、お越しになつたので御座いますよ。こんな運のいいことは全く、神樣の御心からでなければ、出來る筈は御座いません。それを思ふと嬉しくて、泣きたくなります』
[やぶちゃん注:「!」の後に底本では字空けはない。特異的に挿入した。後の三箇所も同じように処理した。以下では注さない。]
老女は聲に出して咽び泣いた。そして、袖で淚を拭ひながら、言葉を續けて、
『それで、これからあなた方お二人のなさることはただ――どちらもおいやだ、といふことはありますまいが、おいやで無いななら――互に約束をして、そして、一緖に婚禮のお祝ひをなさることで御座います』
と言つた。
伊蒔は無言で答へた。自分の前に坐つて居る、その比類無しの眼に見える物が、その意志を痺らせ、その舌を縛つてしまつたのである。召使の女達が器物や酒を携へて入つて來た。婚禮の膳部が二人の前に竝べられ、固めの杯が取り交はされた。それでも伊藤は元のやうに失神したやうになつてゐた。此珍事の不思議さと、新婦の麗はしさの驚きとがまだ、その頭を混亂させてゐた。未だ嘗て覺えたことの無い一種の嬉しさが――大なる靜寂の如くに――その胸に一杯になつた。が、段段と、そのいつもの落著きを囘復して、それからは困らずに話をすることが出來るやうになつた。酒を遠慮無くお相伴して、今までその心を抑へて居た疑惑と恐怖を、卑下してではあつたが陽氣に、思ひ切つて話した。その間その新婦はもとの如く月の光りのやうに靜かにしてゐて、眼は決して上げず、物を言ひかけられると赤面か、微笑かして、それに應へるだけであつた。
伊藤は老女に向つてかう言つた。
『幾度も獨りで散步をして、この村を通つたことがありますが、この御屋敷の在ることは知りませんでした。それでこちらへ入つてからといふもの、御宅樣がどうしてこんな淋しい住居場をお選びになつたのだらうかと、不思議に思つて居りました。……あなたの姬君樣と、私と互に約束を取り交はしたのに、私が御一家のお名を、まだ知らぬとは可笑しな事に思はれます』
かう云ふと、一抹の影が老女の情け深い顏を橫ぎつた。そして新婦は、それまで殆んど口をきかなかつたが、眞靑になつて非常に心を傷めて居る樣子であつた。暫く無言の後に老女はかう答へた。
『私共の祕密を長く隱して置くことは六つかしいことで御座いませうし、それにあなたは、私共の家の一人におなりになつて居ることで御座いますから、どんなことがあらうと、本當のことをお知らせ致さなければならないと思ひます。では、伊藤樣、申し上げます、あなたの花嫁は、あの不仕合せな三位中將重衡卿の娘なので御座います』
此言葉を――『三位中將重衡卿」といふ言葉を――聞いて此若士は、身體中の血管に氷の寒氣[やぶちゃん注:「さむけ」。]を感じた。平家の將軍であり、政治家であつた重衡卿は、死んで塵土に歸してから三世紀を經て居る。そこで伊藤は突然、身の𢌞りの物凡ては――部屋も燈火も饗宴も――過去の一場の夢である、己が前の姿は人間で無くて、死んだ人間の影である事を知つた。
[やぶちゃん注:「平重衡」(保元二(一一五七)年或いは保元元(一一五六)年~文治元六月二十三日(ユリウス暦一一八五年七月二十一日)享年二十九)は平清盛の五男。母は平時子で宗盛・知盛・徳子らの同母弟。応保二(一一六二)年に叙爵し、尾張守・左馬頭などを経て、治承三(一一七九)年に左近衛権中将、翌年には蔵人頭と累進した。極官が正三位左近衛権中将であったことから「本三位中将」とも称された。文武兼備の人物で、蔵人頭として朝儀・公事をよく処理する一方、源平争乱が勃発すると、武将として奮迅の活躍をし、治承四年五月には、以仁王と源頼政の挙兵を鎮圧し、同年十二月には、興福寺及び東大寺攻撃の総大将となって、大仏殿以下の伽藍を焼き打ちした。このため、仏敵として強い非難を受けた。翌年三月には「墨俣川の戦い」で源行家を撃破し、「平家都落ち」の後も、寿永二(一一八三)年閏十月の「水島合戦」や翌月の「室山合戦」などに於いても勝利を収めた。しかし、翌年二月の「一の谷の戦い」で捕虜となり、兄宗盛のもとに使者を遣わし、三種の神器の返還と源平の和議を試みようとするも、実現せず、翌月、鎌倉に護送された。その人柄から、源頼朝に厚遇されるが、先の怨みを昂じさせた興福・東大両寺の衆徒の強い要求によって、奈良に送られ、南都焼き打ちの張本人として木津川畔で斬首された。「平家物語」は、虜因の身となった重衡を、平家の滅亡を象徴する非運の武将として哀切に描いている(ここは主に「朝日日本歴史人物事典」に拠った)。ウィキの「平重衡」によれば、『重衡は梶原景時によって鎌倉へと護送され、頼朝と引見した。その後、狩野宗茂(茂光の子)に預けられたが、頼朝は重衡の器量に感心して厚遇し、妻の北条政子などは重衡をもてなすために侍女の千手の前を差し出している。頼朝は重衡を慰めるために宴を設け、工藤祐経(宗茂の従兄弟)が鼓を打って今様を謡い、千手の前は琵琶を弾き、重衡が横笛を吹いて楽しませている。『平家物語』は鎌倉での重衡の様子を描いており、千手の前は琵琶を弾き、朗詠を詠って虜囚の重衡を慰め、この貴人を思慕するようになった』とある。
「三世紀」小泉八雲の本篇の時制設定は重衡が没してから――三百年後――の、室町末期(戦国初期)の一四八五年、文明十七年前後辺りという設定になっている。]
が、つぎの瞬間に其氷の如き寒氣は去つてしまつた。蠱惑[やぶちゃん注:「こわく」。人心を怪しい魅力で惑わすこと。誑かすこと。]が歸つて來て、身の𢌞りに深くなつて行くやうであつた。少しも恐れを感じなかつた。その新婦はヨミから――死の黃泉の場處から――彼へ遣つて來やのであつたのに、彼の心は全く奪はれてしまつて居たのであつた。幽靈と結婚するものは、幽靈にならなければならぬ。――しかし、己が前のその美しい幻の額に、心痛の影でも齎らすやうな考へを、言葉なり顏色なりで、洩らすよりか死ぬる方が、一度で無く、幾度でも死ぬる方が、優(ま)しだといふ氣になつて居ることを知つた。その捧ぐる愛情には、少しの疑ひも有たなかつた。優(やさ)しからぬ目的があつての事ならば、騙して爲した方がよかつたらうにと考へると、其愛情が眞實なことがうなづかれるのであつた。が、そんな考へや思ひは瞬時に消えてしまつて、今、身の前に現れ來たつて居る、その不思議な地位をそのまま受け入れて、壽永の昔、重衡の息女が自分を婿と選んだなら、自分が爲したであらう通りに振舞はうと決心した。
[やぶちゃん注:「壽永」。一一八二年から一一八三年まで。重衡の死の「文治」の前の「元暦」の、その前の年号。但し、平家方では「都落ち」した後も、次の「元暦」とその次の「文治」の元号を使用せずに、この「寿永」を、その滅亡まで引き続いて使用していたから、ここは、主人公も祖先は平家であり、霊姫も重衡の娘であるからして、平家滅亡の文治元(一一八五)年三月二十四日まで広げて考えてもよかろう。]
『噫、あれは本當に殘念なことで御座いました。重衡卿樣の無慙な御最期の事は聞いて居ります』
叫んだ。
老女は啜り泣きしながら、答へて言つた。
『え〻本當に無慙な御最期で御座いました。御承知のとほり、乘つておいでになつた馬が矢に當たつて死んで、御主人の上へ倒れました。聲を上げて助けをお求めになりましたが、それまで御恩に暮して居た者共は、危急の際であるのに見棄てて逃げてしまひました。それから俘囚(とりこ)になつて、鎌倉へ送られになりましたが、鎌倉では誠に人を侮つた取扱ひをして、そして到頭、世に亡い人にしてしまひました原註一。奥方と御子――此處に居られます此娘子――とは其時、身を隱して居られました。到る處、平家の者を探して殺したからで御座います。重衡樣のお歿(かく)れの音信が著きますと、母人には心の痛みに堪へかね、其爲めこの娘子さんが、――血緣の方方はいづれもお歿(かく)れになるか、姿をお隱しになるかしまして、――私のほか誰れ一人御世話申し上げる人も無く、御殘りになつたので御座います。その時はやつと五歲になられてゐました。來る年も來る年も、此處から其處へと、巡禮姿で旅してさまよひました。……が、そんな悲しい話は今は折を得ませぬ』
と淚を押し拭ひながら、その乳母は叫んだ。
原註一 重衡は――當時タイラ(卽ちヘイケ)方がしてゐた――都の防禦に勇しく戰つた後、ミナモトの軍勢の將、義經に襲はれて敗れた。家長といふ、弓に熟練な士が重衡の馬を射倒して重衡は、悶へもがくその馬の下敷きになつた。或る伴の者に換へ馬を連れて來るやう賴んだが、その男は逃げて行つた。それから重衡は家長に捕へられ、しまひに賴朝のところへ送られた。賴朝といふは源家の首長で、重衡を籠で鎌倉へ送らせたのである。鎌倉では色色加辱を受けてから、――詩を詠んで殘酷な賴朝の心すら感動せしめ得て――一時は斟酌した待遇を蒙つた。然しその翌年、嘗て淸盛の命によつて、南都の僧と戰つたことがあるので、その南都の僧の乞ひによつて處刑された。
[やぶちゃん注:「家長」庄家長(しょうのいえなが 生没年未詳)は武蔵国児玉党(現在の埼玉県本庄市栗崎)の武将。]
『昔が忘れられない年寄り女の愚かな心を御許し下さいませ。御覽なさいませ、私がお育て申した、その小さな娘子が本當に、今は姬君樣におなりになりました。――高倉天皇の結構な御世に暮して居ますれば、この方(かた)にどんな身の運命(さだめ)が除(の)けて置いてあることで御座いませう! では御座いますが、自分の好きな夫をお持ちになりました。それが一番のお仕合せで御座います。……が、時刻が更けました。合𢀷のお床の用意は出來て居ります。朝までは身のお世話を御二人御互に御任せ申し上げなければなりません』
[やぶちゃん注:「高倉天皇の結構な御世」後白河天皇第七皇子で安徳天皇・後鳥羽天皇らの父である高倉天皇(応保元(一一六一)年~治承五(一一八一)年)の在位は仁安三(一一六八)年四月九日から治承四(一一八〇)年三月十八日。皇太后は平清盛の娘滋子(建春門院)。平家滅亡の四年前に病死した。
「合𢀷」読みは「がふきん(ごうきん)」で、本来は「結婚式を挙げること」の意。「礼記」の「昏義」に由来し、「巹」は「巹」とも書き、「結婚式を挙げること」を謂う。瓢(ふくべ)を両分した杯のことで、古代中国で婚礼の際に夫婦が一つずつ手にして汲みかわしたとすることに基づく。但し、ここは「合衾(ごうきん)」と同じで、初夜(の寝具)のこと。]
老女は起ち上つて、客間と次の部屋とを分かつ襖を推し開け、二人を其寢間へ案內した。それから幾度も喜びと祝ひの言葉を述べてさがつたので、伊藤は新婦と二人きりになつた。
一緖に臥せりながら、伊藤はかう云つた。
『あなたが私を夫に有たうと始めてお思ひになつたのは、何時のことで御座いますか』
(萬事が如何にも、眞實らしく見えるので、自分の身の𢌞りに編まれて居る、この幻のことを殆んど、考へなくなつたからである。
女は鳩の啼くやうな聲で答へた。
『我が君樣、私が始めてあなた樣に、御目にかかりましたのは、私の乳母と一緖に參りました、石山寺でで御座いました。あなた樣に御目にかかつたばつかりに、その時その折からこの世が、私には全く變つてしまひました。が、あなたは御覺えになつて居りません。二人が出會つたのはこの世、あなた樣の今の世ではなかつたので御座いますから。ずつとずつと昔のことで御座いました。その時からあなた樣は、幾度も死んだり、生れたりなされて、幾度も美くしい身をお有ち[やぶちゃん注:「おもち」。]になりました。が、私はいつも、今、私を御覽のままで居りました。あなた樣を夫(をつと)にとの强い願ひを掛けたばつかりに、別な身體(からだ)に生れることも、別な境涯の者に生れ變はることも出來なかつたので御座います。我が君樣、私は人間の世の幾代を、あなた樣をお待ち致して居たので御座います』
[やぶちゃん注:「が、私はいつも、今、私を御覽のままで居りました。」ここは、残念ながら、誰もが躓いていしまう訳である。原文は、
But I have remained always that which you see me now:
で、訳すなら、「でも、私は、今、あなたが見ているままの姿でありました。」であろう。平井呈一氏は、『そのあいだ、わが身は、いつも今見やる通りの姿のままにすごしてまいりましたけれど、』と訳されてある。本篇の最初のクライマックスの一つであるだけに、ちょっと惜しい。]
ところが、この花婿はこんな不思議な言葉を聞いても、少しも恐ろしくは思はずに、一生涯、來たらん幾生涯凡てに、その女の腕を自分の身の𢌞りに感じ、その女の愛撫の聲を耳にすることより他の事は何も欲しなかつた。
しかし、寺の鐘の響きが夜の明けたことを報じた。鳥が囀り始め、朝の微風が木木を囁かせた。突然、かの年寄りの乳母が、寢間の襖を明け放つて大聲で、
『お別れになる時刻で御座います。日の目に會うて一緖に御出になつてはなりません、一刻も。お身の破滅で御座います! 互に暇乞ひなさらなければなりません』
一言も云はずに伊藤は、直ぐにも歸らうとした。今、聽いた警戒(いましめ)の意味を朧氣ながら悟つて、身を全く運命に任せた。自分の意志はもはや、自分のものでは無かつた。ただ、その影の如き新婦の心を悅ばせようと望むばかりであつた。
新婦は珍らしい彫刻(ほり)のある、小さな硯を則助の手に置いてかう云つた。
『あなた樣は學者でゐらせられますから、この小さな贈り物も、お蔑(さげす)みはなさるまいと思ひます。これは高倉天皇の御意によつて、私の父が拜領致しましたお品で、古う御座いますから、妙な恰好を致して居ります。父が拜領したものといふだけの理由(わけ)で、私は大切に致しておりました』
伊藤はその返しに、自分の刀の筓を記念として受け取るやうに乞うた。その筓は、梅に鶯の模樣を、金銀の象眼で飾つてあつた。
[やぶちゃん注:「筓」は「かうがい(こうがい)」で、この場合は武家の男性が、太刀や脇差の鞘に差して、飾りとしたり、髪の乱れを整えたり、実践に於いては手裏剣のように投擲して相手を傷つけるのに用いた、ごく小型の小刀風のものを指す。]
それから例の小さな宮仕が、庭の外へ案內にやつて來て、新歸とその乳母とは、家の入口まで一緖に來た。
階段の下で振り返つて別れの辭儀をしようとすると、その老女はかう言つた。
『このつぎの亥の年に、あなたが此處へおいでになつたと、同じ月の同じ日の同じ時刻にまた、お會ひ致しませう。今年は寅の年でありますから、あなたは十年、お待ちにならなければなりません。が、申し上げられない色々の理由(わけ)がありまして、此處では又、御目にかかることは出來ません。私共は京都の近處の、高倉天皇樣や私共の祖先や、私共に仕へてゐるものが、多勢住まつて居る處へ行かうと思つて居ります。平家の者は皆、あなたがお越しになると悅びませう。御約束致しました其日に、籠をお迎ひに差し上げます』
[やぶちゃん注:「今年は寅の年」先の本篇の推定時制の文明一七(一四八五)年前後の寅年は、文明一四(一四八二)年の壬寅(みずのえとら)及び明応三(一四九四)年の甲寅(きのえとら)となり、そこから十年後の亥年は、前者ならば、延徳三年(一四九一)年の辛亥(かのとい)、後者ならば、文亀三(一五〇三)年の癸亥(みづのとい)となる。実は、原拠では、その約定の年の干支を『辛亥』としているので、延徳三年(一四九一)年で決まりである。但し、老女の謂うように、この規制の意味は私には解らぬ。]
伊藤が門を出た時には、村の上に星が輝いて居た。が、往還へ達すると、森閑とした幾哩の野の向うに、黎明の空が明かるくなりつつあるのが見えた。懷に新婦の贈り物を納れて居た。その聲の魅惑が、耳に殘つて居た――そしてそれにも拘らず、不審の手指で觸はつて見て居る、その形見の品が無かつたなら、夜前の思ひ出は眠りの思ひ出である、自分の生命はまだ、自分のものである、と信ずることが出來たであらう。
だが、自分の身を確かに運命づけたのだといふ確信は、少しも遺憾の念を起こさなかつた。ただ、別れの苦しみと、その幻が、自分に再び繰返さるるまでに過ごさなければならぬ春秋の思ひとに心を惱ますだけであつた。十年!――その十年の每日每日が、どんなに長く思へることであらう! その手間取りの神祕は、これを解くことを望み得なかつた。死者の祕密な慣習はただ、神だけが知つておいでになるのである。
幾度も幾度も、その獨りの散步の折、伊藤は、過去を今一目見たいものと、朧氣の希望を抱いて、琴引山のその村を訪ねた。だが、二度と、夜も晝も、その暗い小徑にあつた田舍風な門を見つけることは出來なかつた。また、夕燒けに獨り步いて居る、あの小さな宮仕の姿を二度と見ることは出來なかつた。
村の人達は、在りもせぬ家のことを、丁寧に訊ねるものだから、誑かされて居るのだと思つた。高位の方で、この村に今まで住まつて居られた方は一人も無い、と言ふのであつた。その近處に彼が話すやうな、そんな庭は一つもそれまであつたことは無いと言ふ。が、その云ふ場處の近くに、大きな寺が一宇あつたことがある。その墓地の石碑で、今でも見ることの出來るのが少し殘つて居ると言ふ。伊藤は茂つた藪の中に、村人のいふ墓碑を發見した。古風な支那型のもので、苔や地衣に蔽はれて居た。それに刻んである文字は、もはや判讀することが出來なかつた。
自分が遭遇したかの不思議な事件に就いては、伊藤は何人にも語らなかつた。が、その友人や近親は、その容貌も樣子も非常に變つたことを直ぐに認めた。醫者は身體(からだ)には何の病氣も無いと明言したけれども、日一日と靑くなり、また瘠せて來るやうで、顏附は幽靈のやう、起ち居振舞ひは影のやうであつた。もともと、いつも物を考へ込んで、獨りで居たのであるが、この頃は以前に彼が面白がつた事のどれにも――それで名を成さうと希望することの出來た、あの文學の硏究にも冷淡になつたやうに思はれた。その母に――結婚させたなら、その前の野心を鼓舞するかも知れぬ。[やぶちゃん注:句点はママ。]その人生の興味を復活するかも知れぬ、と母は考へたから――自分は生きて居る女には結婚しないといふ約束をしたと話した。かくして歲月は足を引き摺るやうに經つて行つた。
到頭、亥の年が來、秋の季節が來た。が、伊藤にはその好きな獨りでの散步が最早出來なかつた。床から起きることさへ出來なかつた。誰れもその原因を推測することは出來なかつたけれども、その生命(いのち)の潮は次第に引いて行つて、その眠りを屢〻死と間違へるほど、それ程深くまた長く眠つた。
そんな眠りから、或る晴れやかな夕暮れ、子供の聲に目覺まされた。すると今は消えて無いあの庭の門へ、十年前に、案内して吳れた、あの小さな宮仕が床の橫に居るのが見えた。その子は辭儀をして、にこりと笑つて、そしてかう言つた。『京都近くの大原へ、其處に今度のお家がありますが、それへ今夜あなた樣を御迎ひ致しますといふこと、御籠がお迎ひに來て居りますといふこと、それをあなた樣に申し上げるやうにと云ひ付かりました』そして、その子は姿を消した。
伊藤は、自分が日の光りの見えぬ處へ招かれるのであることを知つた。しかし、その傳言が餘りに嬉しかつたので、起き上つてその母を傍へ呼ぶほどの元氣が出た。母へ其時始めて自分の新婦の話を聞かせて、貰つた硯を見せた。自分の棺の中へ納めて下さいと賴んで――そして、やがて死んだ。
その硯は彼と共に埋められた。が、葬式前にこの道の人が調べて見て、それは承安年間(紀元一一七一―一一七五)に造られたもので、それには高倉天皇の時代に居た、或る工人の刻印があると言つた。
[やぶちゃん注:本篇の原拠は、一九九〇年講談社学術文庫刊の小泉八雲著・平川祐弘編「怪談・奇談」の布村弘氏の「解説」によれば、前の「鏡の少女」と同じく、江戸末期の弘化五(一八四八)年一月に板行された、大坂の戯作者で名所図会作者として有名な暁鐘成(あかつきかねなり 寛政五(一七九三)年~万延元(一八六一)年:姓は木村、名は明啓)編の、「當日奇觀」巻之第一巻の第二話「伊藤帶刀(たてわき)中將、重衡の姬と冥婚」である。但し、実は当該原拠自体が、その序文の記載から、それよりもかなり以前に出版された、江戸中期の読本作家で儒学者・医師でもあった文人都賀庭鐘(つがていしょう 享保三(一七一八)年~寛政六(一七九四)年?:大坂の文人。上田秋成は都賀の「古今奇談繁野話(しげしげやわ)」(明和三(一七六六)年板行)に触発されて「雨月物語」を書いたことは有名)著とされる(署名は「草官散人」)「席上奇觀垣根草」を外題を変えただけで、再版・改題したものであることが判明している。今回、元の「席上奇觀垣根草」の活字版画像データも入手したが、特に大きな異同は見当たらぬので、小泉八雲が実際に原拠とした以下で電子化することとした。則ち、富山大学「ヘルン文庫」の旧小泉八雲蔵本の(こちらからダウン・ロード出来る)「當日奇觀」巻之第五を底本として電子化した。但し、読みは五月蠅いので、振れると思われる一部に留めた。歴史的仮名遣の誤りはママである。読み易さを考えて、私が句読点・記号を附加し、段落も成形した。一部に濁音を附した。なお、原拠には古屋敷の前で則資が待っており、そこに少女の奉公人がやってくるところを描いた挿絵がある。
*
伊藤帶刀中將、重衡の姬と冥婚
弘長の頃、宇治の邊(へん)に伊藤何某といふものあり。先祖より平氏の侍なりしが、壽永の後(のち)は、世を宇治に逃(のがれ)て、仕官の望(のぞみ)もなく、風月を友として暮しけり。
[やぶちゃん注:「弘長」は鎌倉中期、文応の後、文永の前で、一二六一年から一二六四年まで。鎌倉幕府将軍は第六代宗尊親王で、執権は第六代北条(赤橋)長時(非得宗。時宗に執権職を譲るまでの一時的な中継ぎで、実際には先の第五代時頼が権力を握っていた)。但し、以下はその末裔であるから、時代はずっと後という設定である。]
それが末(すへ)に、伊藤帶刀則資といふあり。生れ淸げに、心ざま、いと優(ゆ)にやさしき男なり。
或時、所用の事ありて、都に出て[やぶちゃん注:「いでて」。]、暮に及て[やぶちゃん注:「およびて」。]、琴彈(ことひき)山の麓を通るに、年のころ、十五、六才ばかりなる女の童(わらは)、そのかたち、きよらかなるが、只一人、ゆくあり。
帶刀、やがて、袖をひかへて[やぶちゃん注:引いて。]、
「かく暮に及びて、具(ぐ)したる人もなく、いづちへかおはすやらん。」
といふに、
「このあたりに宮仕し侍るものにこそ。」
と答ふるけわひ[やぶちゃん注:様子。]、思ひくだすべき品にはあらじと[やぶちゃん注:不審な判断を下すべき人品ではないようだ、と安心し。]、
「我は宇治(うぢ)のあたりへまかるものなり。道の便(たより)あしからずは、伴ひ參らせん。」
といふに、いなむ色なく、さまざま物語し、もて行うち、松杉の一村(ひとむら)[やぶちゃん注:一塊り。]しげれるほとりに、あやしの編戶ひきつくろひたる許(もと)にて、
「これこそ宮仕(みやづかへ)參らす方なり。道のつかれをも、はらし給ひてんや。」
と、いゝすてゝ、內に入(いる)。
帶刀も、『主(あるじ)は、いかが人やらん』と、みいれたるに、よしある人の隱家(かくれが)と覺(をぼへ)て、庭のけしきも、おのづからなる風情にて、尾花・くず花、露、ちり、やり水に紅葉(もみぢ)うづもれ、霜にうつろひたる菊の籬(まがき)、一重(ひとへ)をへだてゝ、あれたる軒ながらに、簾、なかば、たれて、燈、かすかに、きらめき、琴の音(ね)、ほのかにもるるにぞ、いとゞ、其(その)名(な)、ゆかしく[やぶちゃん注:知りたく思って。]たちやすらひたるに、先の女童(めのわらは)出(いで)て云、
「あるじの御方(かた)にきこへ參らせたれば、『何かは苦しかるべき。こなたへいらせ給へ』と侍る。とく、とく。」
と云(いふ)に、帶刀、よろこびて、內にいるに、六十じばかりと覺しき老女、出(いで)て、奧の殿(との)にいざなふ。
帶刀、いなむことなく座につけば、折敷(をしき)に檞葉(かしはば)しきて、菓物(くだもの)やうのもの、うづたかく盛出(もりいで)て、饗ずるさま、『いよいよ、なみならぬ人のかくれ家。さては高家(かうけ)の人の、妾(おもひもの)を、かくは、しつらひ置(をき)給ふやらん。さるにても、此とし月、往かへりするに、かゝるすまひありとだに、しらぬことのいぶかしさよ』と思ひめぐらすに、老女、居(い)よりて、
「君は、正(まさ)しく伊藤何某(なにがし)の殿(との)にては、をはさずや。」
といふに、帶刀、をどろきてみゆれば、老女、うち笑ひ、
「老らくの心せかれて、あらましをもきこへ侍(はんべ)らねば、いぶかしみ給ふも理(ことはり)なり。君、此あたりを、折々、徃(ゆき)かよひ給ふを、わが賴(たのみ)たる姬君、いつのほどにか、垣間見(かいまみ)給ひ、夜晝となく、戀しく覺(をぼ)しわづらひ給ふことの、やるかたなさに、折もあらば、人傳(ひとづて)ならで、きこへまいらせんとおもふに、甲斐(かい)ありて、女(め)の童が、はからずも伴ひ參らせしは、出雲の神のむすばせ給ひけんゑにしなるらめ。かゝるわびしきすまひを、『うし』とおぼさずば、姬君の心をもなぐさめ給はんや。」
と懇(ねんごろ)にかたるに、
「某(それがし)、はからずも、かく世をしめやかに暮したもふ御隱家(かくれが)をおどろかし奉るつみをも問(とひ/とがめ[やぶちゃん注:前は右ルビ、後は意味注の左ルビ。以下同じ。])給はず、あさからぬ御心ざし、などか、いなみ參らせん、さいわひ、いまだ、さだまる妻とても侍(はんべ)らず、久米(くめ)の岩橋、かけてしたまはらば、渡らでやあるべき。」
[やぶちゃん注:「久米(くめ)の岩橋」「役(えん)の行者」が大和の葛城山から吉野の金峰山(きんぷせん)まで架け渡そうとしたという伝説上の橋。葛城の神が夜間しか働かなかったため、完成しなかったという。多く、和歌で男女の契りが成就しないことのたとえとされる歌枕である。]
といふに、老女、悅びて奧に入、しばしありて、いざなひ參らする上﨟のてりかゞやくばかりのよそほひ、柳の黑髮、春の風になびき、桃花(とうくは)のくちびる、朝の露に濕(うるほ)ひて、よろこびの色、まなじりにはあまれど、すこしは、はぢらひ給ふけしき、春の夜(よ)のおぼろにかすむ月影の風情に、帶刀、目くれ、こころ、飛(とん)で、しらず、月の宮人(みやびと)、天(あま)の河原(かはら)の織女(をりひめ)ならずやと、こゝちまどふに、老女、云、
「かねてより、戀しと覺(おぼ)し給ひし殿の、はからずも來り給ひて、花の下紐(したひも)とくる春に逢ふうれしさ、そだて參らせしわらはが悅び、老が身のくせとて、淚、こぼるゝまでよ。」
とて、酒肴を出して、かりに婚儀を催ふす。
帶刀も、覺へず、數盃(すはい)をかたぶけて後(のち)、うちくつろぎて、
「かゝる山里にかくをはする君は、いかなるかたの世を忍びましますにや。きかまほしさよ。」
といふに、老女、面(をもて)愁ひを含(ふくみ)て、
「とても、つつみはつべき事にも侍らねば、明らかにきこへ參らせん。これこそ、故(こ)三位(さんゐ)中將重衡卿のわすれがたみの君にこそ。」
といふに、帶刀、はじめて、黃泉(よみぢ)の人なることをしるといへども、すこしもあやしまず、なを、その詳(つまびらか)なる事をとヘば、老女、淚をおさへて、云(いはく)、
「君(きみ)も、世(よく)々、恩顧のかたなれば、などかは、わすれ給ふべき。さても、過(すぎ)ぬる治承の秋の嵐に、故內府(こないふ)も、ろくもきえさせ給ひしこそ、くらき夜(よ)に灯(ともしび)うち消(けし)たるここ地して、やすき心もなきうちに、越路(こしぢ)なる木曾の深山(みやま)より、兵、おびたゞしく責(せめ)のぼるといふ程こそあれ、主上・門院をはじめ奉り、一門の人々、そこはかとなく迷ひ出給ひ、我君(わがきみ)も、北の方は都にとゞめ給ひて、御供にをくれじと、名殘はつきぬ有明の、月の都に遷幸の時こそ、めぐり逢ふべしと、ねをのみぞなく、須磨の內裡(だいり)も、さかしきつはものゝ襲ひ奉りて、又もや、うつゝ心もなく、はるばる、西海の波の上にさすらへ給ひ、つゐには吾妻ゑびすの勝(かつ)にのりて、主上(しゆじやう)をもおそれ奉らざるに、賴み覺(おぼ)したる西國のつはものも、山の井の淺きは、人の心にてかはりゆく世のさまを御覽じて、主上は、龍のみやに御座をうつされ、御一門、殘りなく、秋の木の葉のちりどりにならせ給ひし中にも、ひとしほ、心うきは、我君にて、御心もたけくいさみ給ひ、御一門の果(はて)をも見給ひ、『御幸(みゆき)の供奉のしんがりを』と覺(おぼ)し給ひし甲斐もなく、心なきつはものゝ射まいらせし矢に、召(めさ)れたる御馬のおどろきしに、御供にさふらいし者も、さる人心(ひとごゝろ)の折(をり)なれば、餘所(よそ)の時雨(しぐれ)に見なし參らせて、つゐに、おりかさなりて、生捕(いけどり)奉しこそ。今更(いまさら)、心きえて、淚に、むねもふたがれ侍(はんべ)り。ころしも、姬君は、いまだ五つにならせ給ふを[やぶちゃん注:重衡が捕縛されたのは寿永三(一一八四)年であるから、当時、数え五歳として、先に示した本話柄の推定時制の文明一四(一四八二)年(これに限定する理由も注した)から、生きていたら、彼女はこの時、実に二百八十三歳ということになる。]、わらは、いだき參らせ、北の方もろとも、こゝかしこにかくれすみて、いつしか、兵(つはもの)、しりぞき、しら浪(なみ)しづまりて、めでたく、都へかえらせ給ふやらんと、心は、はるか和田(わた)の原、八十嶋(やそしま)かけて行(ゆき)かよふ、つなでもきれて、御一門のうせ給ひしあらまし、我君のとらはれと成[やぶちゃん注:「なり」。]給ひしこと、きくに、夢とも現(うつゝ)とも、わきがたく[やぶちゃん注:信じられず。]、さるにても世のうさをしろしめす神のちかひもをはさば、今一度の見參(げんざん)もと、おもふに、かひなき御運(ごうん)の末、覺(おぼ)ししらぬ罪をかづきて、うきを見給ふ都渡(みやこわた)し。北の方は、それがために、ほどなく、むなしくならせ給ふ。黃泉(よみぢ)の御宮仕(みやづかへ)とおもへども、此君をかしづき參らする人も侍(はんべ)らねば、おしからぬ命(いのち)を深山邊(みやまべ)に、ならの葉ふきわたす草の庵(いほ)、たれとへとてか、呼子鳥(よぶこどり)、淚の雨にかきくれて、あかしくらすうちにも、やうやう生長(をいたち)給ふにつけても、あはれ、昔の世なりせば、いか成[やぶちゃん注:「なる」、]公達をも、むこがねにと、むかしをしのぶそのうちに、きみと、すく世(せ)の契り、たえもせで、せちに戀させ給ふ甲斐ありて、かく、まみヘ給ふことになん侍り。」
と物語(ものがたり)に、姬も、そゞろに淚にくれ給ヘば、帶刀も、覺へず、感傷にたへず、老女、淚をとゞめて、
「かゝるめでたき折に、しづのをだまきくりかへすべき事ならぬを、よしなき長物語(ながものがたり)に、姬君の、さぞや、心なしとや、覺したまふらん。とし頃の、闇路(やみぢ)をてらす春の日に、おもひの氷、うけとけ給へ。」
と、戲(たはむれ)て、老女は一間へ退きぬ。
帶刀、姬の手をとりて閨(ねや)にいれば、そらだきのかほり、ゑならず、いときよらかにかざりたる文臺・草紙・歌集なんど、とりそろへたるに、詠草(えいそう)と覺しくて、
[やぶちゃん注:以下の歌はブラウザの不具合を考え、上の句と下の句を分離した。]
うちもねであふとみる夜の夢もがな
うつゝの床はひとりわぶとも
ならひしも物おもふねやのひとりねに
うきを忍ぶののきの松風
帶刀、硯、引よせて、
ほのみつる心の色や入初(いりそめ)し
戀の山路のしをりなるらん
ゆめかとも猶こそたどれ戀衣
かさねそめぬる夜半(よは)の現(うつゝ)を
姬、くりかへし吟じて、
「みづからとても、夢うつゝ、ふみまよひたる初尾ばな、染ぬる色の、かはらで。」
と、きこゆるに、
「さるにても、君、いつしか見そめ給ひしにや。」
といふに、姬、うちわらひて、
「君は、まことにしり給ふまじ。過(すぎ)し頃、乳母なるものに具せられて、石山寺に詣でたりしに、君は、とくより、かしこにおはせしが、たがひに、それとみれば、見もし給ひて、岩手の山の岩つゝじ、下(した)もゆるおもひは余所(よそ)にもらさねば、心うくも、さそはれて見うしなひ參らせしより、露、わするゝひまもなく、君は世をへだて給へども、わが身ひとつは、もとの身にして、おもひのけふり、たゆむことなく、幾年月を重ねたりしを、あはれとも見給へ。」
と、きくに、帶刀も、
「すく世より、契りしことよ。」
と、いとゞあはれにおぼへて、新手枕(にいたまくら)をかはすとすれば、八聲(やごゑ)の鳥[やぶちゃん注:夜の明け方に鳴く鷄。]にうちをどろかされぬるに、老女のこえして、
「山本(やまもと)の神ならずとも、晝ははゞかりあり。かさねての見參は、ふす猪のとしの秋にこそ。」
といふに、帶刀、裝束して出(いづ)れば、重ねて、老女、云(いはく)、
「門院(もんゐん)[やぶちゃん注:清盛の娘で安徳天皇の母建礼門院徳子。]、大原の奧にすませ給ひて後は、世のうきよりはまさりしとて、主上をはじめ、一門の人々を、殘りなくむかへ給へば、我君・北の方もろとも、とくより、かしこへ參り居させ給ふ。姬君は其頃、門院、いまだしろしめさゞりしゆへ、めすこともなく、いたづらに此所にひとりすみわび給ふ。折にはまいらせ給へども、彼(かの)御所に姬君の局(つぼね)も侍らず。そのうへ、はかばかしき御供の侍も侍らねば、此年月、むなしく過(すご)し侍り。ちか頃は、此殿(このとの)も、あれまさりたれば、いよいよ、大原の御所にうつらせ給はんことをおもへども、君に、一度、逢瀨のうへにてこそと、まちわびたるけふの見參(げんざん)に侍(はんべ)れば、ねがはくは、大原に參り給ひ、此よし啓(けい)し給ひ、むかえの車、たまはるやうになん、申給へかし。此事、くれぐれ賴參(たのみまい)らす。」
といふに、帶刀、
「露たがへじ。」
と諾(だく)す。
姬君、床の邊(ほとり)より一面の硯を出して、
「これこそ、高麗(こま)の國より奉りたる『遠山(とをやま)』といふ名硯(めいけん)なるを、高倉のみかど、父上に給はりしとぞ。父上、常々、古硯をめでさせ給ひしゆへ、御最後の時まで『松蔭の硯』を身に添たまひしが、知識と賴(たのみ)たまひたる吉水(よしみづ)[やぶちゃん注:現在の東山区八坂鳥居前東入円山町にある安養寺(グーグル・マップ・データ)。吉水坊と称して法然が三十数年の間ここを本拠に称名念仏を宣揚した。]のひじり法然上人に布施物にさゝげ給ひ、『遠山』は母君の手にのこり、わらは給はりて、朝夕(あさゆふ)、手なれ侍れども、ちぎりは石のかたきによせ、又も見へまいらせんため、ちかごと[やぶちゃん注:誓詞。]に代(かへ)て遣(をく)りまいらす。」
と宣ふに、帶刀も「浪に千鳥」の筓(かうがい)を末(すへ)のかたみにのこして、立出(たちいづ)るに、姬君は、たゞうちふして泣(なき)給ふ。
老女、さまざますかしまいらすうちに、心つよくも立出(たちいで)たりしが、又、こんために枝折(しをり)して麓(ふもと)に出(いづ)るに、宇治の里には、宵よりかえりのおそきをいぶかり、こゝかしこ尋ねもとむる家の子に行逢(あひ)て、そのやうをたづぬれども、唯(たゞ)、「みちにふみまよひて」とばかり答へて、家にかえりても、其面影のわすれやらず、ゆめかとおもへど、うつり香は、はだへにたしかに、むつごとは耳にのこりて、其人の、今も身に添(そふ)心地して一間なる所に引籠(ひきこもり)て、父母にだに、まみヘざりしが、重ねて琴彈山(ことひきやま)にわけ入て、ありし所と覺しきを尋るに、只、松柏、生茂(をいしげ)り、よもぎみだれ、すゝきむれたちたるほとりに、苔むしたる五輪、かたぶきて、しるしの名もきえて、みヘわかず。
よらんかたなくかなしきに、今更、わかれたるごとく、うちふして、淚にくれたりしが、さてしもあるべきことならねば、それより直(すぐ)に、大原にまかりて、一門の人々の姓名をしるされし過去帳をみるに、姬の名はもらされたり。
「さては。門院、世にましましたる頃は、いまだ、姬もつゝがなく、その上、おさなくして、壽永の亂、出來(いでき)たれば、しろしめめさゞりしも理(ことはり)なり。」
と、姬の名をしるしのせ、猶も、うしろの山にそとば[やぶちゃん注:「卒塔婆」。]たて、その頃、世にたぐひなきひじりの西山(せいざん)上人ときこえ給ひしを請(しやう)じて、開眼(かいげん)の供養など行ひ、
「これなん、老女が局(つぼね)といひしなるべし。[やぶちゃん注:恐らくは、『老女が言った「かの御所に姬君の局(つぼね)も侍らず」と言った意味は、ここに姫君を供養した塔がないことを婉曲して言ったものだったのだろう』の意であろう。]
と、のこることなく沙汰して、宇治にかえり、再び妻を迎ふることもなく、あけくれ、「遠山の硯」をその人のおもかげ見るごとく、いつくしみ、身をはなさずありしが、十とせ許(ばかり)をへて、辛亥(かのとい)といふとしの秋の頃、いさゝか、風のこゝちしたりしが、させる事にも侍らねば、庭のけしきをも詠めんと、障子、ひらきたるに、過(すぎ)しとしの、女(め)の童(わらは)、いづちともなく、きたりて、
「今宵、御迎ひを參らせんとのことなり。」
と、いふに、帶刀、はじめて猪(ゐ)のとしにといゝしをおもひあはせて、
「さては。今宵に命(いのち)きわまりたり。」
と、はじめて、父母にも、ありし次第を物語(ものがたり)て、
「死したらん後(のち)は、『遠山の硯』をも棺(くはん)にをさめて、大原の山に葬り給へかし。」
と、くれぐれあつらへ置(をき)て、その夜(よ)、俄に身まかりぬ。
父母、その言葉のごとく、大原に葬りて、多くの僧をやとひて、二人の菩提をねんごろにいのりしが、雨の夜(よ)などには、帶刀、姬の手をとり、女の童をつれて、大原の里・「おぼろの淸水」などのあたりにて、みたるものも侍りしときこえければ、父母、かなしく覺へて、水陸(すいりく/せがき)の薦(せん/ほうじ)[やぶちゃん注:施餓鬼会(せがきえ)。]、法華書寫なんど、いみじき功德を行ひたりしゆへにや、そのゝちは、見たる者もなかりしとぞ、語り傳へ侍(はんべ)る。
*
私は大の和歌嫌いだが、本篇に限っては、幽魂との相聞歌は、やはりあるべきと存ずる。少し、残念である。
「おぼろの淸水」「朧の清水」寂光院への参道の途中にある泉水で、建礼門院が寂光院に入る道すがら、日が暮れ、月の明かりの中、この泉に姿を映されたという。参照した「京都大原観光保勝会」公式サイト内のこちらに地図がある。]
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