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2019/10/16

小泉八雲 「蜻蛉」のその「四」  (大谷正信譯)


[やぶちゃん注:本篇については、「蜻蛉」のその「一」の私の冒頭注を参照されたい。]

 

       

 

 前揭の作は多くは舊作家のである。此題目での近代の發句で、それと同じやうな技巧の無い、繪のやうな性質を有つたものは至つて尠い。舊詩人は、繁忙な此の現代には、不可能な忍耐力と生新な好奇心とを以てして、蜻蛉の習慣を眺めて居たやうに思はれる。彼等は蜻蛉のあらゆる習慣や特性に就いて――一度止まらうと選んだ場處はどんな場處でも、續けさまに幾度もそれへ立ち還るその妙な性癖のやうな、そんな事に就いてすら――句を詠んだ。時には彼等はその翅の美はしきを賞めて之を提婆或は佛敎の天使の翼にたぐへ、時には彼等はその飛翔の輕い極みの優美さを――その運動の靈の如くに靜かに輕いことを――讚へ、そして時には彼等はその怒[やぶちゃん注:「いかり」。]の地蜂のやうな樣子を、或はその睇視[やぶちゃん注:「ていし」、ここは「横目(複眼を横に向けて)で見ること」の意。]の化物のやうな妙な樣を嘲弄した。彼等は蜻蛉が、その進行の方向を變じ得る不思議な仕方や、或はトンボガヘリ(蜻蛉がへり)といふ新語を思ひつかせた、突然翅を裏返す妙な仕方を注意して眺めた。その飛行の――眼にはとまらで唯々矢と早き色の針のきらめさとしか見えぬ、――眼くるめく如き早さに、彼等は無常に對する比喩を見出した。が、此の電光の如き飛行は短い距離しか續かぬこと、また蜻蛉は追跡を受けなければ遠く行くことは滅多しないもので、一日中一と處を飛び𢌞ることを好むこと、を彼等は認めた。彼等の或る者は、蜻蛉は日暮れに悉く明かるい方へ群れ飛ぶ事を、また日が地平線へ沈む時には――高みからして消えて行く光耀の最後の一見を得んと望むが如くに――空高く上がること、を句に詠む價値があると考へた。彼等は蜻蛉は花は少しも顧みずして、花の上よりも寧ろ杭か石の上に止まり勝ちなこと、に注目した。また彼等は壁の棧や牛の角にとまつて何が面白いのだらうと怪しんだ。それからまた彼等は杖や石で攻擊される折りの――其危險物から去りもするがまた同樣に屢〻その方へ飛んで來る――その愚鈍さに驚いた。だが彼等は蜘蛛の巢にかかつてのその奮鬪に同情して、網を衝き破るのを見て喜んだ。次記の例は、幾百の作中から選んだのであるが、此の奇異な硏究の廣汎な範圍を暗示する役に立つことと思ふ。

[やぶちゃん注:思うのだが、今に至るまで、ここまで――精緻に心を込めて――近世発句の視線の属性と、蜻蛉の生態を、過不足なく解析した近現代の俳諧評者を知らない。まあ、柴田宵曲がいるが、彼は、どこか、小泉八雲を正当には評価していないことが、彼の言い回しから各所で感ずるので、その辺りはちょっと嫌いだ。彼は生粋の江戸っ子だから(といっても、彼は明治三〇(一八九七)年生まれである)、内心、「毛唐は好かねえ」ということだったのだろうな。なお、私はブログ・カテゴリ「柴田宵曲Ⅰ」と同「Ⅱ」で、半端なく電子化注をしているから、これ位のことは言う権利はあるつもりだ。

「前揭の作は多くは舊作家のである」「三」に載る三十四句中には、訳者である大谷正信(繞石)の句が三句、彼の創った俳句会「碧雲会」絡みの新作句が二句、虚子が一句で、この五句は当時の「現代俳句」である。それ以外にも句柄(用語)から見て当時の、或いは、ごく直近の近代俳句と思しいものが、二、三見受けられるから、四分の一弱ほどは、当時の現代俳人のものと私は考える。本書の執筆時から見て「舊作家」は江戸後期以前でなくてはならぬ。さすれば、これは謂いとして有意に問題がある

「提婆」原文“devas”。提婆達多(だいばだった/デーヴァダッタ/略称:提婆)は釈迦の弟子であったが、後に違背したとされる人物。厳格な生活規則を定め、釈迦仏の仏教から分離した彼の教団は、後世にまで存続した。参照したウィキの「提婆達多」によれば、小乗仏教では、『提婆達多の末路については、自らの所業を後悔して釈迦に謝罪しに行くものの、祇園精舎の入り口にあった蓮池の付近で地面が裂け、地獄から噴き出た火に包まれ』、『提婆達多は「わが骨をもって、いのちをもって、かの最上の人、神の神、人を調御する者、あまねく一切を見る人、百の福相をもつ人、そんな仏に、帰依したてまつる」(ミリンダ王の問いでは『全身全霊をもって、かの最勝の者、神々に超えすぐれた神、調御をうける人の御者、普く見る眼をもつ者、百の善福の特徴をもつ者、そのブッダに、わたしは生命のあらん限り帰依します』)と詩を唱えて、アヴィーチ地獄(無間地獄)に落ちた』(この時、『提婆達多に従っていた』五百『家族の侍者も、一緒に地獄へ落ちた』とする)とあり、地獄から輪廻して、現世の虫である蜻蛉に転生するというのは、すこぶる納得は出来る。なお、続けて、『釈迦は提婆達多が自分の元で出家した場合、一時は地獄に落ちるものの最終的に苦しみから脱すると知り、あえて出家を許したと』もあり、『提婆達多は死ぬ前に前述の詩を述べて釈迦に帰依したため、地獄を脱したのちにアッティサラという「独覚」になると』もあるらしい。また、大乗仏教、則ち、本邦では、『「法華経」提婆達多品第十二で』、『提婆達多は天王如来(devarāja)という名前の仏となるという未来成仏が説かれている。これは、のちの日本仏教、特に鎌倉以後の諸宗に大きな影響を与え、この期以後の禅、念仏、日蓮の各宗は、この悪人の成仏を主張している』。『また、「讃阿弥陀仏偈和讃」(親鸞著)では、「仏説観無量寿経」に登場する阿弥陀如来、観音菩薩、勢至菩薩、ガウタマ・シッダールタ(釈迦如来)、プールナ、マハーマウドガリヤーヤナ、アーナンダ、ビンビサーラ、ヴァイデーヒー、ジーヴァカ、チャンドラプラディーパ、アジャータシャトル、雨行大臣、守門者と共に、デーヴァダッタが浄土教を興起せられた』十五『人の聖者として列せられている』とある。未来仏であるから、その過程に過ぎない現世の蜻蛉であっても、何ら、問題はない。……にしても、今時、提婆達多を口にする市井の仏教徒は、まんず、稀だろうな……

「佛敎の天使」原文“Buddhist angels”。飛天辺りをイメージしていよう。

 以下の七ヶ所ある前書は、底本では、総てポイント落ち。この前書は第一句目のすぐ脇に附されてあるが、これでは、第幾の前書の如く見えててしまうので、後を一行空けてある。なお、今までと同様で、原本には発句・和歌の作者名は、一切、付随しない。訳者大谷正信(繞石)が添えたものである。]

 

   蜻蛉と日光

 

 蜻蛉や日の射す方へ立つて行く (『今人名家發句九百題』ニアリ)

[やぶちゃん注:丸括弧部分は底本では二行ポイント落ち割注。既注だが、分割公開しているので再掲しておくと、「今人(きんじん)名家(めいか)發句九百題」は明治一六(一八八三)年に東京の万笈閣(ばんきゅうかく)刊の過日庵祖郷(そきょう)編・小簑庵碓嶺補校になる類題発句集。但し、先立つ嘉永二(一八四九)年に出版願いが既に出されているから(サイト「ADEACアデック)」の「西尾市岩瀬文庫」の「古典籍書誌データベース」のこちらに拠る)、内容は幕末期のものである。【2025年追記】国立国会図書館デジタルコレクションで原本を視認したところ、「生類之部」の「蜻蛉」のここで、

 蜻蛉や日の射すかたへ起て行 國彥

とあった。「方」は「かた」であり、「はう」ではないことが判る。「國彥」は不詳。

 

 日あたりの土手やひねもすとんぼとぶ 繞石

 

 五六尺己が雲井の蜻蛉かな      蓼太

[やぶちゃん注:大島蓼太(りょうた 享保三(一七一八)年~天明七(一七八七)年)は信濃生まれ。本姓は吉川、名は陽喬、通称は平助、別号に宜来・老鳥・豊来など。雪中庵第二代桜井吏登(りとう)に入門し、延享四(一七四七)年、雪中庵第三代を継いだ。松尾芭蕉所縁の地を吟行した。俳書を多く編集し、門人も三千人を超えた。]

 

 蜻蛉の向きを揃へる西日かな     嵐外

[やぶちゃん注:辻嵐外(つじらんがい 明和七(一七七〇)年~弘化二(一八四五)年)は越前出身。名は利三郎、通称は政輔、別号に六庵・北亭・南無庵。高桑闌更・加藤暁台・五味可都里(かつり)に学んだ。甲府に住んで、多くの門人を育てて「甲斐の山八先生」と呼ばれた。]

 

 蜻蛉や空に離れて暮れかかり     太無

[やぶちゃん注:既出既注。古川太無(たいむ ?~安永三(一七七四)年)。常陸水戸の人。佐久間柳居の門人で、芭蕉資料を模刻した「鹿島詣」や撰集「星なゝくさ」などを著わした。別号に秋瓜・吐花・義斎・松籟庵(二代目)などがある。]

 

 星一つ見るまであそぶとんぼかな   左梁

[やぶちゃん注:中村左梁。号に蝸牛庵。それ以外は、私は、不詳。]

 

 遠山やとんぼつい行きついかへる   秋之坊

[やぶちゃん注:秋之坊(生没年不詳)は金沢の俳人。「奥の細道」で芭蕉が金沢を訪れた折り、現地で入門した金沢蕉門の一人。前田藩の武士であったが、後に武士を捨て、髪を剃って「秋之坊」と称し、蓮昌寺境内に隠棲した。幻住庵滞在中の芭蕉を訪ねた際、芭蕉が見せた句に名品「やがて死ぬけしきは見えず蟬の聲」がある(伊藤洋氏の優れたサイト「芭蕉DB」の「関係人名集」のこちらに拠った)。]

 

 行きあうてどちらもそれるとんぼかな(『俳諧古今六百題』ニアリ)

[やぶちゃん注:丸括弧及び再掲仕儀同前。「俳諧古今六百題」は大津で明一六(一八八三)年に出版された渓斎阿嚢(けいさいあのう)編の恐らくは類題発句集。【2025年追記】国立国会図書館デジタルコレクションで原本を視認したところ、「秋」の「蜻蛉」のここで、

 行あふてとちらもそれる蜻蛉哉 サカミ如〻

とあった。相模の「如々」は不詳。

 

 並ぶかと見えてはそれる蜻蛉かな   貞山

[やぶちゃん注:桐淵貞山(きりぶちていざん 寛文一二(一六七二)年~寛延二(一七四九)年)か。江戸前・中期の俳人で上野の人。本姓は岡田。別号に蘆丸舎・桐淵閣・湖月亭。江戸に住み、松永尺山の江戸遊吟の際に入門した。編著に「江戶名所」「俳諧其傘(はいかいそのからかさ)」「誹諧手挑燈」等がある。]

 

 

   戀の歌にあるもの

 

 かげろふのかげとも我はなりにけり

  あるかなきかの君がなさけに 長延(『鴨川三郞集』)

[やぶちゃん注:下句は六字下にあるが、ブラウザの不具合が生ずるので、総て、引き上げた。丸括弧部分は底本ではポイント落ち。以下同じ。江戸後期の歌人中川長延(なかがわながのぶ 文化元(一八〇四)年~慶応四(一八六八)年)であろう。京の人。本姓は進藤。号は蓼花園。家は代々近衛家の諸大夫(しょだいぶ)を務め、天保三(一八三二)年、宮内少輔となる。香川景樹の門に学び、安政三(一八五六)年には「近世歌人師弟一覧」を刊行している。作品は「青藍集」「秋草集」などにある。

「鴨川三郞集」嘉永四 (一八五一)年板行の長澤伴雄編輯になる類題和歌選歌集「類題鴨川三郎集」。]

 

 覺束な夢かうつ〻かかげろふの

  ほのめくよりもはかなかりしは 讀人不知(『怜野集』)

[やぶちゃん注:「讀人不知」も底本ではポイント落ち。「怜野集」(れいやしふ(れいやしゅう))は江戸後期の歌集。全十二巻。清原雄風編。文化三(一八〇六)年板行。「万葉集」及び勅撰集などから集めた秀歌約一万五千首を「四季」・「恋」・「雑」に類題して収録した選歌集。初学者に広く活用された。「類題怜野集」とも呼ぶ。この一首の出典は未詳。【2025年4月6日削除・追記】調べた結果、これは、「古今和歌六帖」(十世紀の終わり近くの円融・花山・一条天皇の頃の成立か)の「第五 雜思」にある一首であることが判明した(日文研の「和歌データベース」のここの、ガイド・ナンバー「02592」)。]

 

 蜻蛉や身をも焦がさずなきもせず   鳥醉

[やぶちゃん注:発句だが、ここに配されてある。白井鳥酔(ちょうすい 元禄一四(一七〇一)年~明和六(一七六九)年)は江戸中期の俳人。上総国埴生郡地引の旗本知行所の郷代官を務める家に生まれた。本名は喜右衛門信興。享保六(一七二一)年、家督を継ぐが、僅か五年後の享保十一年に弟に家督を譲り、若くして剃髪し、江戸に出た。佐久間柳居(後に句が出る)の門に入り、俳諧に専念した。柳居とともに天明の俳諧復興の魁となった。延享三(一七四六)年及び翌年、信州を訪れ、宝暦年間(一七五一年~一七六四年)には下野国の、松尾芭蕉も訪れた西行の「遊行柳」を訪ねている。明和三(一七六六)年四月には鹿島神宮に芭蕉句碑を建立している。明和五(一七六八)年三月、相模国大磯宿の鴫立庵を再興し、同所に住した。示寂は江戸(以上はウィキの「白井鳥酔」に拠った)。]

 

 

   奇異と美

 

 蜻蛉の顏はおほかた眼玉かな     知足

[やぶちゃん注:下里知足(しもざとちそく 寛永一七(一六四〇)年?~宝永元(一七〇四)年)は江戸前期の俳人。通称は勘兵衛、後に金右衛門。諱は吉親。尾張国鳴海村の庄屋を務める傍ら、井原西鶴や松尾芭蕉ら、多くの俳人・文人と交流した。「鳴海六俳仙」の一人。現存する西鶴の書翰七通のうちの四通は知足に宛てたものである(以上はウィキの「下里知足」に拠った)。伊藤洋氏の「芭蕉DB」の「関係人名集」のこちらには、『鳴海(現在名古屋市緑区鳴海町)の門人。鳴海は東海道の宿場であった。下里』(伊藤氏は「しもさと」と清音で振っている)『知足は、千代倉という屋号の造り酒屋の当主で富豪であった』。芭蕉は、「笈の小文」の『旅の途次』、彼のところに『休息して』おり、『彼に宛てた芭蕉の真蹟書簡』六『通がある。なお、知足自筆の』「知足斎日々記」の延宝八年七月三日の条に、『芭蕉宛に自著』「大柿鳴海桑名名古屋四ツ替り」を『送った記録があり、その自著内の句寄稿者』欄『には』、『松尾桃青の所在について、江戸』の「小田原町 小澤太郎兵衛店、松尾桃青」とする『記述があるので、これがこの時期の芭蕉の動静の貴重な記録となっている』ともあった。私はブログ・カテゴリ「松尾芭蕉」で『「笈の小文」の旅シンクロニティ』を完遂しているが、「笈の小文」の旅では、芭蕉は貞亨四年十月二十五日(新暦一六八七年十一月二十九日)に江戸深川を出立、同年十一月四日に鳴海宿で、この尾張鳴海の古参蕉門であった千代倉屋下里知足邸に泊まっている。また、芭蕉の「笈の小文」の名吟、

 旅人と我名よばれん初しぐれ

があるが、安藤次男は「芭蕉百五十句」に於いて、この句につき、『そのとき旅立の吟を記念に』この知足に『書与えたものらしい』とし、この『前書は芭蕉が、謡曲にまず出てくる旅僧の風体を以て己が行脚の好みとしたことを知らせてくれる興味ある例で』あるとする。前書は、

   *

  神無月(かんなづき)の初、空(そら)

  定めなきけしき、身は風葉(ふうえふ)

  の行末(ゆくすゑ)なき心地(ここち)

  して

   *

である。首肯出来る(以上は私の同句の古い電子化注で注したものである)。]

 

 聲無きを蜻蛉無念に見ゆるかな    可昌

[やぶちゃん注:「可昌」は近江商人西川利右衛門家分家西川庄六家第三代目当主西川庄六(しょうろく 元禄七(一六九四)年~寛政七(一七九五)年)の俳号。庄六家最盛期を築くとともに、俳諧においても多くの秀作を残した人物。近江国蒲生郡八幡(現在の滋賀県近江八幡市)に生まれた。幼名を五郎と称した。父は庄六家の本家に当たる四代目西川利右衛門数常。十六歳の時に二代目西川庄六(通称。利兵衛)の養嗣子となり、享保七(一七四四)年に養父の死去により、家督を継ぎ、三代目西川庄六を名乗り、諱を数久と改めている。祖業である畳表・縁地・蚊帳の他に琉球黒糖を取り扱い、貴重品である砂糖は引く手数多で商いは盛況を極めた。また、実父である四代目利右衛門の支援を得て、江戸日本橋に出店し、西川庄六家の最盛期を築いたとされる。また、原元佃房(げんげんつくだ)の門に入り、多くの秀句を残し、北陸・中国地方の俳人とよく交わり、加賀千代女とも交友があったと伝えられる。出店や商い先への往来に伴い、各地で吟行を行った。当時、近江商人の家庭では、謡曲・和歌・俳諧・囲碁・蹴鞠・浄瑠璃・華道・茶道等を嗜み、家業のために高度な商才が必要とされるとともに、高度な教養も求められたのであった(以上はウィキの「西川庄六(3代)」に拠った)。]

 

 蟬にまけぬ羽衣もちし蜻蛉かな    太無

 

   蜻蛉の輕さ

 

 燕より蜻蛉は物も動かさず      西洋

[やぶちゃん注:「西洋」不詳。]

 

 蜻蛉や鳥の踏まれぬ枝の先      太無

 

   蜻蛉の愚鈍

 

 打つ杖の先にとまりしとんぼかな   康瓢

[やぶちゃん注:「康瓢」不詳。]

 

 立歸る蜻蛉とまる礫かな       鵡白

[やぶちゃん注:「礫」は「つぶて」。「鵡白」不詳。]

 

   蜻蛉と蜘蛛

 

 蜘の巢のあたりに遊ぶ蜻蛉かな    波音

[やぶちゃん注:「波音」不詳。]

 

 さ〻がにの網をはづれてとんぼかな  麥波

[やぶちゃん注:「麥波」不詳。]

 

 蜘垣も破るきほひや鬼とんぼ     雅勇

[やぶちゃん注:「雅勇」不詳。因みに平井呈一氏は恒文社版「トンボ」では、作者を『雅男』とするが、こんな俳号は軽蔑される気がするので、平井氏が、この大谷氏の訳で添えた、この雅号を見誤ったものであろう。【2025年4月6日追記】なお、サイト「光mandara」のRICOH GR III氏の投稿「なぜこうなってしまった?」の応答された投稿者のコメントを紹介されて、『トンボによる蜘蛛の捕食について、次のようなコメントをいただきました』と前置きされ、『「アオヤンマに関しては何度か蜘蛛の巣を襲って蜘蛛の巣を突き破り』、『主の蜘蛛を見事に捉え』、『あっという間に食べてしまうシーンを観察できたことがあります。ネアカヨシヤンマと共に蜘蛛狩りの名手ではありますが、時には失敗して蜘蛛の餌食になってしまうこともあるそうです。一方、同じヤンマの仲間でも有名なギンヤンマやオニヤンマ(厳密にはオニヤンマはオニヤンマの仲間)は、蜘蛛の巣にかかるとあっけなく命を落としてしまうようです。」そして「また、こういった大型のトンボ以外にも蜘蛛を好んで捕食する種類がいます。意外にも』、『ひ弱なイトトンボの仲間です。彼らは飛翔能力が低いため、空中を飛んでいる虫を捕食するのは苦手で、草むらの葉っぱの先などに止まっている蜘蛛を突いて食べているのをよく目にします。」』とあった。ヤンマは、さも、ありなんであるが、まさかイトトンボが蜘蛛を捕食するというのは、驚きだ!

 

   花を顧みぬこと

 

 蜻蛉や花野にも眼は細らせず     柳居

[やぶちゃん注:佐久間柳居(りゅうきょ 貞享三(一六八六)年~延享五(一七四八)年)は江戸中期の幕臣で俳人。名は長利。通称は三郎左衛門、別号に松籟庵・長水・眠柳など。貴志沾洲(せんしゅう)の門に入ったが、江戸座の俳風に飽き足らず、中川宗瑞(そうずい)らと「五色墨」を出した。後、中川乙由(おつゆう)の門下となり、蕉風の復古を志し、松尾芭蕉五十回忌に俳諧集「同光忌」を撰している。]

 

 蜻蛉や花には寄らで石の上      湖上堂

[やぶちゃん注:「湖上堂」不詳。]

 

 蜻蛉や花無き杭に住みならひ     柳居

 

 寢た牛の角にはなれぬやんまかな   花鐘

[やぶちゃん注:「花鐘」不詳。]

 

 杭の先何か味はふとんぼかな     榮木

[やぶちゃん注:「榮木」不詳。]

 

 固よりのこと此等の作品は美的感念に訴ふところ洵に[やぶちゃん注:「まことに」。]僅かである。多くは、珍らしいだけのものである。然し此等は古い日本の精神を幾分了解するに役に立つ。幾世紀の久しき、昆蟲の習慣を觀察し、且つそれに關する斯んな句を作つて悅樂を見出し得た此國民は、人生の單純な快樂を我々より遙か能く理解して居るに相違無い。彼等は我が西洋の大詩人が記述して居るやうには自然の魔力を記述し得なかつた。だが、その悲哀の無い此世の美を感じ、また物事を知りたがる幸福な子供等のやうに、その美を喜び得たのである。

 若し彼等日本人が我々が蜻蛉を見得る如くに見得たならば――若し彼等が寶石のやうな單眼を持つたその小鬼の如き頭や、その驚嘆すべき複眼や、その不思議な口を、顯微鏡の下に眺め得たならば、この動物はどんなにかもつと異常なものに彼等に思へたことであらう!……でも、我々は賢いが爲めに此等奇妙な詩人の作品を彩る自然觀察のあのなまな初心(うぶ)な快樂を得なかつたのであるけれども、此の蟲の眞の驚異に就いては彼等よりもさう大して賢くも無いのである。我々は唯だこの蟲に關する我々の無智の絕大さを一層精確に評價し得るだけである。蜻蛉の複眼には此世界がどんなに見えるものか、それを我々に示して吳れる、彩色版畫のある博物學書を手にすることを我々はいつか希望し得るであらうか。

[やぶちゃん注:「單眼」トンボ類は通常、大きな複眼の間の前方部に、小さな三つの単眼を持っている。

「蜻蛉の複眼には此世界がどんなに見えるものか」現在の最新の研究では、トンボの複眼は、上下左右前後の殆どが見えており(後部の一部が死角となってはいる)、以前に想像されていた以上に、色彩も驚くべき多量に見えるらしい(紫外線も認識出来るのだ)。四十メートル先の対象も見分けることが出来るという。また、昆虫類一般は、時間分解能を発達させており、人間が動く様子などは、ストップモーションのように見えているらしい。海外サイトの動画で、トンボの視覚をヴァーチャル化したというカラー映像を見たが、まさしく、マジ、幻想的なものであった(但し、脳での処理方法が異なるはずだから、鵜呑みにはできなかったが)。]

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