小泉八雲 辨天の同情 (田部隆次譯)
[やぶちゃん注:本篇(原題“ The Sympathy of Benten ”)は一九〇〇(明治三三)年七月にボストンの「リトル・ブラウン社」(LITTLE,BROWN AND COMPANY)から出版された作品集“ SHADOWINGS ”(名詞「shadowing」には「影」以外には「人影」・「影法師」・「影を附けること」・「尾行」などの意味がある。本作品集の訳は概ね「影」が多いが、平井呈一氏は「明暗」と訳しておられ、私も漠然とした「影」よりも、作品群の持つ感性上の印象としてのグラデーションから「明暗」の方が相応しいと思う。来日後の第七作品集)の第一パート“ STORIES FROM STRANGE BOOKS ”第五話に配された作品である。本作品集は“Internet Archive”のこちら(出版社及びクレジットの入った扉表紙を示した)で全篇視認できる(本篇はここから。原拠を記した添書のある標題ページで示した。そこには“ The original story is in the Otogi-Hyaku-Monogatari ”(「原話は「御伽百物語」の中にある」)とある。活字化されたものは“Project Gutenberg”のこちらで全篇が読める(本篇はここから)。
底本は英文サイト“Internet Archive”のこちらにある、第一書房が昭和一一(一九三六)年十一月に刊行した「家庭版小泉八雲全集」(全十二巻)の第七巻の画像データをPDFで落として視認した。【2025年4月13日:底本変更・正字化不全・ミスタイプ・オリジナル注全補正】時間を経て、国立国会図書館デジタルコレクションに本登録し、現行では、以上の第一書房版昭和一一(一九三六)年十一月に刊行した「家庭版小泉八雲全集」(全十二巻)の第七巻が、国立国会図書館デジタルコレクションで公開されてある。(リンクは扉だが、「家庭版」の文字はない。しかし、奥附を見て貰うと『家庭版』とあり、『昭和十一年十一月二十七日 發 行』とあることが確認出来る)、これが、前掲の底本と同じものであるが、やはり、外国のサイトのそれを底本とするのは、日本人小泉八雲に失礼であると考えた。されば、こちらで、再度、以下の「骨董」の作品群を改めて校正することとする。これが――私の小泉八雲への「義」――である。なお、これよりも前の元版の全集等が先行しているものの、私がそれらと比べた結果、実は先行する同社の「小泉八雲全集」のそれらは、訳が一部で異なっており、訳者等によって、かなりの補正・追加がされていることが、今回の正字補正作業の中で、はっきりと判って来た。いや、同じ「家庭版」と名打ったネット上の画像データでも、驚いたことに、有意に異なっていたのである。そうした意味でも――完全な仕切り直しの総点検――が必要であると決したものである。従って、旧前振りの括弧・鍵括弧の問題も、拡大とガンマ補正で確認し、正確を期する。本作はここから。
田部隆次(たなべりゅうじ 明治八(一八七五)年~昭和三二(一九五七)年)氏については先に電子化した「人形の墓」の私の冒頭注を参照されたい。
傍点「﹅」は太字に代えた。
なお、本篇の原拠である怪談集「御伽百物語」については、私は既にブログ・カテゴリ「怪奇談集」で全電子化注を、昨年、終えており、原拠はその中の「御伽百物語卷之二 宿世(すくせ)の緣」である。「御伽百物語」の作者青木鷺水(ろすい 万治元(一六五八)年~享保一八(一七三三)年)は江戸前・中期の俳人で浮世草子作家。名は五省、通称は次右衛門、号は白梅園(はくばいえん)。京都に住んだ。俳諧は野々口立圃(りゅうほ)或いは伊藤信徳門下であったと思われるが、松尾芭蕉を尊崇し、元禄一〇(一六九七)年跋の「誹林良材集」の中では、彼は芭蕉を「日東の杜子美なり、今の世の西行なり」(日本の杜甫であり、今の世の西行である)と述べている(「早稲田大学古典総合データベース」の同書原典の当該頁画像を見よ。但し、彼が芭蕉の俳諧に倣おうとした形跡は殆ど認められない)。「俳諧新式」「誹諧指南大全」などの多くの俳書を刊行したが、元禄後期からは、浮世草子作者として活躍、本書や「諸國因果物語」(六巻)・「古今堪忍記」(七巻)・「新玉櫛笥」(六巻)などを書いた。「御伽百物語」は宝永三(一七〇六)年に江戸で開版したものである。私の以上の電子化注は所持する三種類の校本を「早稲田大学古典総合データベース」の同書の原典画像と厳密に校合したもので(「青木鷺水 御伽百物語 始動 / 序・目録」の冒頭の私の注を参照)、ここで新たに電子化する必要性を感じないし、注もそちらで尽きていると感じている。]
辨天の同情
京都に名高い大通寺と云ふ寺があつた。淸和天皇の第五の皇子貞純親王が僧として、その一生の大部分をそこで送らせ給ふた、それから多くの名高い人々の墓がその境內に見出される。
[やぶちゃん注:「大通寺」真言宗万祥山遍照心院大通寺。通称「尼寺」。ここ(グーグル・マップ・データ)。但し、廃仏毀釈に遇い、現在位置はここではなく、旧地は明治四四(一九一一)年に旧国鉄用地となり、六孫王神社だけを残して現在地に移転して逼塞したものである。詳しくは「御伽百物語卷之二 宿世の緣」の私の注を参照されたい。
「淸和天皇」(嘉祥三(八五〇)年~元慶四(八八一)年)は第五十六代天皇。
「第五の皇子貞純親王」(貞観一五(八七三)年?~延喜一六(九一六)年)。上総・常陸の太守や中務卿・兵部卿を歴任したが、位階は四品に留まった。経基・経生の両王子が共に源姓を賜与され臣籍降下したことから、清和源氏の祖の一人となっている。但し、実際には大通寺が彼の宅地だったのではなく、寺の南隣りに彼の邸宅があったのである。「御伽百物語卷之二 宿世の緣」の私の大通寺の注の引用を参照されたい。]
しかし現在の建物は昔の寺ではない。もとの寺は千年たつてから、大破に及んだので、元祿十四年(西暦一七〇一年)に全部改築される事になつた。
その改築の祝ひに大佛事が行はれた、その佛事に參詣した數千の人々のうちに學者で詩人の花垣梅秀と云ふ若い人がゐた。彼は新しく造られた庭園なども𢌞りあるいて、何でも喜んで見て居るうちに、以前屢々飮んだ事のある泉に到着した。彼はその時、泉の𢌞りの土地は掘りかへされて、四角な池になつて居る事、それから池の一端に木の札を立てて『誕生水』と書いてある事を見て驚いた。それから又小さいが甚だ立派な辨天の社が池の側に建ててある事を見た。彼がこの新しい社を眺めて居るうちに、不意に一陣の風が彼の足もとに一枚の短册を吹き寄せた、その上にはつぎの歌が書いてあつた、――
[やぶちゃん注:「花垣梅秀(はながきばいしう)」不詳。
「誕生水」これは現在の六孫王神社の境内に「誕生水弁財天社」(グーグル・マップ・データ)として現存する。源経基の嫡男で多田源氏の祖である、源満仲(延喜一二(九一二)年?~長徳三(九九七)年)の産湯に使った「誕生水」の意。詳しくは「御伽百物語卷之二 宿世の緣」の私の注を参照されたい。]
しるしあれと
いはひぞそむる玉箒
とる手ばかりの
ちぎりなれども
この歌――名高い俊成卿の作つた初戀の歌――は彼に取つては珍らしくはなかつた、しかしそれは女の手で、しかもそんなに巧みに短册に書いてあつたので、彼は殆んど夢かとばかり驚いたのであつた。文字の形にある或物、――何とも云へない優美、――はこどもとおとなの間の若い時を暗示してゐた、それから墨の淸い立派な色は書いた人の心の淸さ[やぶちゃん注:「きよらかさ」と訓じておく。]と善良な事を表はして居るやうであつた。
[やぶちゃん注:「しるしあれといはひそ初るたまはゝきとるてばかりのちぎりなりとも」藤原俊成の「長秋詠藻」の下の「右大臣家百首」に見出せる。整序すると、
驗(しるし)あれと祝ひぞ初(そ)むる玉箒(たまははき)
取る手ばかりの契りなりとも
である。和歌嫌いの私にはよく意味が判らぬのだが、王朝和歌文学が専攻であった妻の協力を得て、牽強付会に解釈してみると、まずは取り敢えず、「玉箒(たまははき)」の「玉」は単なる美称ととっておき、「箒」はまさに「箒」(ほうき)で、幼い子が悪戯に「ははき取る手」、箒を互いにその手に握って引っ張り合うような「ばかり」、だけの、他愛のない無邪気な「契り」(初恋の別な属性としての「はかない縁(えにし)」の意も含むか。いや、だからこそ汚れなき初恋の象徴とも言えよう)であったとしても、「驗あれ」と――私の恋に、どうか相手の方が、答えて呉れますように――と「祝ひぞ初むる」――恐らくは、ここには本来の「玉箒」(たまばはき(たはははき):正月の初子(はつね)の日に大切なお蚕さまのいる蚕室を掃くのに用いた玉の飾りをつけた「祝ひぞ初むる」箒のこと)という年初の祝祭の祭具の意が込められているように私には感じられる――といった意味か? 大方の御叱正を俟つ(以上も「御伽百物語卷之二 宿世の緣」の私の注で記したものである)。]
梅秀は丁寧に短册を疊んで、家にもつて歸つた。見れば見る程、始めよりも一層立派に見えた。書道に關する彼の知識から判斷すれば、この歌は、甚だ若い、甚だ賢い、そして多分甚だ心の素直な少女の書いた物に相違なかつた。しかしこの判斷は、彼の心に甚だ綺麗な人の面影を作るに充分であつた、そして彼は見ぬ戀にあこがれる事になつた。それから、彼の第一の決心は、その歌の筆者をさがしてできる事ならその人を妻に娶る事であつた。……しかしどうしてその女を見出す事ができよう。その女は何者だらう。どこに居るのだらう。彼女をさがす事のできる望みはただ神佛の加護によるより外はなかつた。
しかし、神佛も喜んで加護を垂れ給ふ事が、そのうちに彼の心に浮んで來た。この短册は彼が辨天樣の堂の前に立つて居る間に、彼のところへ來たのであつた、そして戀人同志が幸福なる結合を得ようとしていつも參詣するのはこの神樣であつた。さう考へたので、この神樣にお助けを願ふ事にした。彼は直ちに、寺の境內の誕生水の辨天の堂へ參詣して、眞心をこめて、こんなお祈をした、――『辨天樣、お願です、――この短册を書いた若い人はどこに居るか、見出せるやうにお助けを願ひます、――たとへ僅かの間でも、彼女に會ふただ一度の機會でも私に與へて下さい』それから、この祈をしたあとで、彼は辨天樣に七日參りを始めた、同時に終夜參籠して禮拜のうちに、第七夜を過さうと誓つた。
さて第七夜に、――彼の夜明しをした時、――靜かさの最も深い時に、彼は寺の總門に聲があつて案內を呼んで居るのを聞いた。內部から別の聲が答へた、門は開いた、そして梅秀は立派な風采の老人が徐々たる步調で近づいで來るのを見た。この老いて尊い人は水干に指貫を着て、雪のやうな頭に烏帽子を冠つてゐた。辨天の堂について、彼はその前に跪いて何か命令を待つて居るやうであつた。それから宮の外側の扉が開いた、そのうしろの內部の神殿を隱してゐた簾は半ば卷き上つた、それから一人の稚兒(ちご)――昔風に長い髮を束ねた綺麗な男の子――が現れた。彼はそこに立つて澄み渡つた大きな聲で老人に云つた、――
[やぶちゃん注:「水干」「水干狩衣(すいかんかりぎぬ)」の略。平安後期から江戸時代まで用いられた男子用の和服の一種。当初は庶民のものであったが、後に公家の、さらに鎌倉時代頃からは武家にも用いられるようになった。地は古くは麻布・葛布が多かったが、時代が下るとともに華麗になって平絹・紗・綾を用いた。また、狩衣でありながら、上衣を下袴に着込めるのも、この服装の特色である(「ブリタニカ国際大百科事典」に拠った)。
「指貫」「指貫の袴(さしぬきのはかま)」の略。「裾に紐を差抜く」の意で、裾を締め括ることが出来るように紐を通した袴をさす。「奴袴(ぬばかま)」とも称し、麻布製のものは「布袴」(ほうこ)とも呼んだ。原型は奈良時代の「括緒」(くくりお)「の袴」とされている。平安時代以後になると、衣冠・直衣(のうし)・狩衣・水干などとともに着用され、地質も綺(あやぎぬ)・綾・絹など次第に豪華なものになっていった(同前)。]
『ここに、その現在の境遇に不相應な、そして外の方法では達せられさうにない願を祈つて居る者がある。しかしその若者は不便(ふびん)に思ふから、何とかしてやる方法はないか、それで御身は召されたのである。宿世の緣もあるやうなら宜しく兩方を引會せて貰ひたい』
この命令を受けて、老人は恭しく稚兒に敬禮してから、立ち上つて、左の長い袖の袂から赤い紐を取り出した。この紐の一端で梅秀の體を縛るやうに卷いた。他端を御灯(とう[やぶちゃん注:「灯」のみのルビであるから、「おとう」。])の火に燃した、その紐が燃えて居る間に、彼は暗がりから誰かを呼ぶやうに、三度手で招いた。
直ちに寺の方向に來る足音が聞えて來た、そしてすぐに一人の少女が現れた、――美しい十六七歲の少女であつた。彼女はしとやかに、しかし甚だはにかんで、――扇で口のあたりを隱しながら近づいた、そして彼女は梅秀の側に坐つた。それから稚兒は梅秀に向つて云つた、――
『この頃御身は甚だ心を痛めて、及ばぬ戀に身を苦しめてゐた。そのやうな不幸をそのままに見捨て置く事もできないので、月下の翁を招いて短册のぬしに引合せる事にした。その人は今御身の側に來て居る』
かう云つて稚兒は簾のうしろに退いた。それから老人は來た時と同じやうに歸つた、そして少女もそのあとに續いた。同時に梅秀は曉を知らせる寺の大梵鐘を聞いた。彼は誕生水の辨天堂の前に感謝のために平伏した、それから――樂しい夢からさめた心地で、――彼がそれ程會ひたいと熱心に祈つた美しい人を見る事ができたのを喜びながら、――又再び會ふ事ができないのではないかと考へて心配もしながら、歸途についた。
しかし門から往來へ出るや否や、彼は自分と同じ方向に獨りで行く少女を見た。そして曉のほの暗きうちにも、彼は直ちに辨天堂で引合はされた人である事を認めた。彼女に追ひつかうとして步を早めた時、彼女はふり向いて、しとやかなお辭儀をして彼に挨拶した。その時彼は始めて彼女に話しかけてみた、そこで彼女は彼に返事をしたが、その聲の美はしさで彼の心は喜びで滿たされた。未だ靜かな往來を彼等は樂しさうに話しながら步いて、遂に梅秀が住宅まで來た。そこで彼は止つて――少女に自分の望みと恐れとを語つた。微笑しながら、彼女は尋ねた、――『私あなたの妻になるために呼びよせられた事を御存じないのですか』それから彼女は彼と一緖に入つた。
彼の妻になつてから、彼女はやさしい智慧と情けで、思ひの外に彼を喜ばせてくれた。その上、彼は自分の想像以上に、彼女の遙かに敎養のある事を發見した。それ程手蹟の立派である以外に、美しい繪を描く事ができた、生花、刺繡、音樂の諸藝に通じてゐた、織る事も縫ふ事もできた、それから家事に關する一切の事を知つてゐた。
この若い二人が會つたのは秋の初めであつた、そして彼等は冬の季節の始まるまで仲睦じく暮らしてゐた。この三月の間、彼等の平和を亂す何物もなかつた。このやさしい妻に對する梅秀の愛は、時と共にただ强くなるばかりであつた。しかも、不思議にも、彼は彼女の經歷を知らなかつた、――彼女の家族についても少しも知らなかつた。こんな事については彼女は決して云はなかつた、そして神佛から授かつたから、彼女に問ふのは不適當であると想像した。しかし、月下の翁もその外の者も――彼が恐れてゐたやうに――彼女を取り返しには來なかつた。何人も彼女に關して問合す事もしなかつた。それから隣人達は、どう云ふわけか分らないが、彼女の存在を全然知らないかのやうにしてゐた。
梅秀は凡てこんな事を不思議に思つた。しかしもつと不思議な經驗は彼を待つてゐた。
或冬の朝、彼は京都のやや邊鄙な場所を通つて居る時、大聲で自分の名を呼ぶ人を聞いた。見ると或人の家の門から一人の下男が彼に向つて手招きをしてゐた。梅秀はその男を知らない、それに京都のこの邊で知人は一人もないから、彼に取つてはそんな突然の招きは驚き以上であつた。しかし下男は、進んで來て、最上の敬意を表して彼に挨拶して、云つた、『主人はあなたにお目にかかりたいと申して居ります、どうぞ暫らくお入り下さい』少しためらつたあとで、梅秀は案內されるままにその家へ入つた。家の主人らしい立派な身なりの威嚴のある人が、玄關へ出て彼を歡迎して、それから客間へ案內した。初對面の挨拶が交換されたあとで、主人は彼をこんなに突然招いた事の無禮の云ひわけをして、云つた、――
『こんな風にお呼び申したのは實に無禮に思はれるに相違ありませんが、實は辨天樣からのお告げによる事と固く信じてこんな事をいたしました次第で、多分御容赦下さる事と存じます。これからお話いたしませう。
『私、娘を一人もつて居りますが、十七ばかりになります、手も相應に書きます、その外の事も一通りいたします、人並の女でございます。どうか良い緣をもとめて幸福にしてやりたいと思つて辨天樣にお祈を致しました、それから京都の辨天堂へ悉く娘の書いた短册を奉納いたしました。それから幾晚かあとで、辨天樣が夢に現れてお告げがありました、「祈は聞いたから、お前の娘の夫になる人に娘をもう引合せて置いた。冬になればその人は來る」紹介が濟んだと云ふこの證言が分らなかつたから、私は少し疑ひました、私はこの夢は意味のない普通の夢に過ぎないのだらうと思ひました。しかし昨夜又私は夢に辨天樣を見ました、そしてそのお告げに「明日、さきに云つて置いた若い人がこの町へ來る、その時うちへ招じ入れて娘の婿になつてくれるやうに云ふ方がよい。良い靑年だから、後には今よりはずつと高い位に上るやうになる」とありました。それから辨天樣はお名前、年齡、生れ所をお聞かせになつて、容貌や着物を詳しく云つて下さいましたので、私が申しきかせた指圖で、下男は造作なくあなたが分りました』
この說明は、梅秀を納得させないで當惑させるばかりであつた、彼はただその家の主人が彼に敬意を表する事を云つた事に對する形式的返禮の言葉しか云へなかつた。しかし主人が娘に紹介するりもりで別室へ彼を誘つた時、彼の當惑は極度に達した。それでも彼はその紹介を程よく謝絕する事はできなかつた。彼はこんな異常な場合に自分にはすでに妻がある事、――正しく辨天樣から授かつた妻、彼が別れる事などは考へて見る事もできない妻のある事を云ひ出すわけには行かなかつた。そこで默つてびくびくしながら、その示された部屋へ主人のあとからついて行つた。
その家の娘に紹介された時、その娘と云ふのは實は彼がすでに妻として居るその人と同じ人である事を發見した時の彼の驚きは、どんなであつたらう。
同じ、――しかし同じではない。
月下翁によつて紹介された彼女はただ愛人の魂であつた。
今、父の家で結婚する事になつた彼女は體であつた。
辨天はその信者のためにこの奇蹟を行つたのであつた。
*
*
*
もとの話は色々の事を說明をしないままにして、突然終つて居る。その結末は餘程感心しない。本當の乙女が自分の靈の結婚生活の間にどんな精神上の經驗をしたかについて、讀者は多少知りたい。それからその靈がどうなつたか、――それは續いて兩立の存在をしたかどうか、或はそれが夫の歸りを辛抱して待つてゐたかどうか、或はそれが本當の花嫁のところへ訪問に來たかどうかを讀者は知りたい。そして書物にはこれ等の事については何も云つてない。しかし日本の友人はこの奇蹟をこんな風に說明する、――
『魂の花嫁は實際短册からできたのであつた。それで本當の少女は辨天堂での會合については少しも知らないと云ふ事はあり得べき事である。短册の上にその美しい文字を書いた時に、彼女の魂の幾分はそこへ移つた。それだから書いた物から、書いた人の精靈を呼び起す事ができたのであつた』
[やぶちゃん注:最後の友人は本質的に小泉八雲の疑問に何ら、答えていない。ただ、八雲は文字に霊魂が宿るという点に興味を持ち、それを肯んずることは出来た。私は小泉八雲の解かれない最後の不満がよく分かる。小泉八雲は霊界を否定しない。しかし、現実界と霊界とが接するに際して、そこに一つの粛然とした誤りのない共時性(シンクロニティ)があるはずであり、それは基本的に、相互を矛盾・齟齬させたり、一方を無化するような、無情なことは決してあってはならぬ、という驚くべき優しさを持った世界観に裏打ちされている稀有の人物――それが小泉八雲その人なのである。]
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