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« ブログ1270000アクセス突破記念 小泉八雲 日本からの手紙  (大谷正信訳) / 作品集「天の河緣起そのほか」全オリジナル電子化注~完遂 | トップページ | 昭和一二(一九三七)年一月第一書房刊「家庭版 小泉八雲全集」(全十二巻)第八巻の大谷正信氏の「あとがき」 / 同第八巻全電子化終了 »

2019/10/08

昭和一二(一九三七)年一月第一書房刊「家庭版 小泉八雲全集」(全十二巻)第八巻の田部隆次氏の「あとがき」

 

[やぶちゃん注:以下は、本ブログ・カテゴリ「小泉八雲」で小泉八雲の後期の作品集「骨董」「怪談」「天の河緣起そのほか」三作の全電子化注の底本とした(英文サイトInternet Archive”のこちらにある画像データをPDFで落として視認した)、第一書房が昭和一二(一九三七)年一月に刊行した「家庭版小泉八雲全集」(全十二巻)の第八巻の「あとがき」である。本巻の訳者は田部隆次・大谷正信・戸川明三の三氏であるが、「あとがき」は田部・大谷氏に二名のみである(戸川氏は「耳無芳一の話」・「貉」・「葬られた祕密」の三篇のみの担当であったので、恐らく「あとがき」は辞退されたものと考えられる)。

 傍点「ヽ」は太字に代えた。

 一部にごく簡単に注を附し、読者の便を考慮し、特異的に本文内に各話その他へのリンクを初出部に設けた(リンクの関係上、一部で半角空けを行った)。

 

 

  あ と が き

 

 『骨董』も『怪談』も原著者ヘルンが命名して、その漢字も同時にのせた原名そのままである。

 『骨董』は明治三十四年[やぶちゃん注:一九〇一年。]、書肆マクミランからロンドンとニユ^ヨークとで同時に出版された。マクミランの方でヘルンが送つた墓地の寫眞「獏」の繪の外に、當時在英の日本畫家伊藤氏、片岡氏などの繪を多く入れたので、ヘルンは甚だ喜ばなかつたと云はれる。この集中には以前雜誌に揭載されたものは一篇もなく、何れも始めてこの單行本に於て發表されたものばかりである。

[やぶちゃん注:「伊藤氏」この謂いからすると、各話の前後に配された絵を描いた、佐賀有田の生まれの画家江藤源次郎(えとうげんじろう 慶応三(一八六七)年~大正一三(一九二四)年)の「江藤」の誤りである。ウィキの「江藤源次郎」にも、はっきりと『画家として生計を立てるのは楽でなく、絵画も高い値で売れないため、彼は日本関連の小説の挿絵画家としても活動した』とし、『ラフカディオ・ハーン(小泉八雲)著「骨董」の挿絵など多数ある』と明記されてある。しかも田部の謂いには別な誤りがあり、彼は『在英』ではなく、「在米」でなくてはならないのである(彼は二度遊学しているが、孰れもアメリカである)。小泉八雲が意志に反して挿入された彼の挿絵を「甚だ喜ばなかつた」というのは少し意外ではあった。確かにしかし、予期せぬ絵図が作品のイメージを捻じ曲げてしまう危険性を持つことを考えれば、当然とは言える。例えば人物などが読む前からそれで固着されてしまうのは小泉八雲にとって堪えられぬことであったには違いない。

「片岡氏」不詳。しかし、だとすると、「餓鬼」に配された、私が「貞景」と判読した(初代歌川国貞の門人で江戸後期の浮世絵師)、この絵しかない(或いは表紙絵か?)。識者の御教授を乞う。]

 「古い物語」中、出所の今分つて居るものでは、「幽靈瀧」「忠五郞のはなし」は、「文藝くらぶ」第七卷中の諸國奇談のうち、「茶碗の中」 「生靈」 「蠅のはなし」(大谷氏譯)は「新著聞集」、「常識」は「宇治拾遺物語」、「おかめのはなし」は「新選百物語」から取つてある。材料はこれによつたと云ふだけで、その實殆んど全くこれを改造して居る事は云ふまでもない。

 「茶碗の中」の如きも原文は一ペーヂにも足らぬ筋書のやうだが、纏まつた話であるのを、ヘルンはあの通り、作り直した。「おかめのはなし」の女主人公も原文によれば、嫉妬深い怒り易い、生前より死後に到るまで、夫を苦しめ通した惡女の標本のやうな女で、原作者はびどくこれを憎んで居る。その題も「嫉妬にまさる梵字の功力」と云ふ佛敎經文の有難さの宣傳めいて居るが、へルンの英譯の讀者は、この若くして死んだ不幸なおかめに同情をこそすれ、どうして憎めよう。

 「或女の日記」は、その記者であつた不幸な婦人の亡くなつたあとへ行つた後妻が、以前小泉家の奉公人であつたため、先妻の針箱で發見したこの日記を小泉夫人に示したのであつた。のちヘルンは夫人と共にこの人の墓に詣でた。もとより原日本文のたどたどしいものである事は、所々にある文章、歌、發句で分るが、ヘルンに取つてこの日記が興味のあるものであつたと同じく、西洋の讀者にも深い感動を與へて、本當の「ヒユマン・ドキユメント」と云はれたものであつた。原英文には脚註非常に多く、「三々九度」「相合傘」等の說明まで詳しく出て居るが、日本の讀者に必要でないものは多く省略した。

 「露の一滴」は佛敎の世界觀、「默想」は母性愛に關する考察、「眞夜中」は死に關する考察。「餓鬼」 「草雲雀」(大谷氏譯)「病理上の事」の諸篇はヘルンの哲學に深い根底を有せるヘルン獨步の小品、世界の何人もこの人の墨を摩するものはない。

[やぶちゃん注:「墨を摩する」(すみをまする)は「同等のレベルすれすれになるほど近づく。迫る。接近する」の意。]

 「尋常の事」に出て居る老僧は、當時牛込區富久町八番地臨濟宗妙心寺派道林寺の住職であつた丹羽雙明師の話によつたものである。この人當時七十歲前後、その閱歷は小說のやうであつた。卽ち文久三年[やぶちゃん注:一八六三年。]二月師が京都等持院の僧であつた時、浪士、伊豫の人三輪田綱一郞(女子敎育家三輪田眞佐子の夫)、江戶の人師岡節齋、會津の人大庭恭平等、平田篤胤の多くの門人と共に數十人相謀つて、その寺院に押入り、そこに安置してあつた足利尊氏、義詮、義滿の木像の首を斬つて三條大橋に梟け[やぶちゃん注:「かけ」。]、同時に勤王の宣言を出すと云ふ事件が起つた。そのためかどうか、師は等持院を去り還俗して裁判官となつた。東京で「高橋お傳」の裁判をもした。その後又僧籍に戾つて、終に道林寺の住職となつたが、師の前に中原南天棒師が、この寺の住職であつた。雙明師は學者であり、又詩人であつた。詩は淡窓門下の第一人であつたと云はれる。大正元年八月八日、八十三歲で遷化した。この雙明師から材料を得たと思はれるもの、ヘルンの富久町時代の作の所々に散見する。

[やぶちゃん注:「牛込區富久町」現在の東京都新宿区富久町(グーグル・マップ・データ。以下同じ)。既に注した通り、小泉八雲の東京での最初の五年間の旧居があった町である。

「道林寺」昭和二〇(一九四五)年の空襲によって堂宇及・伽藍を消失し、現在は東京都町田市相原町に移転している。

「丹羽雙明」詳細事蹟は田部の以上の記載以上のものを見出せなかった。

「等持院」現在の京都市北区等持院北町にある臨済宗萬年山等持院。足利氏の菩提寺で、足利尊氏の墓所としても知られる。以下に語られるのは「足利三代木像梟首事件」で、文久三(一八六三)年二月二十二日のこと、等持院にあった室町幕府初代将軍足利尊氏・第二代将軍義詮(よしあきら)、第三代義満の木像の首と位牌が奪取され、賀茂川の河原に晒された事件。足利氏に仮託して徳川討幕の意を表現したもので、幕末の尊攘運動の一つであったが、京都守護職にあった会津藩主松平容保は厳重な捜査を命じ、同年八月、犯人は概ね捕縛され、処刑された(お預け・幽閉を含む)。詳しくはウィキの「足利三代木像梟首事件」を見られたい。

「三輪田綱一郞」三輪田元綱(文政一一(一八二八)年~明治一二(一八七九)年)は幕末・維新期の勤王家。通称、綱一郎。伊予生まれ。伊予松山日尾八幡祠官の子。京に出、大国隆正に学び、国学を修め、勤王の志士となって活動した。本事件に関わり、但馬国豊岡に幽閉された。慶応三(一八六七)年(明治元年前年)に放免され、維新後は神祇権少祐から外務権大丞を歴任した。贈従五位。

「三輪田眞佐子」(天保一四(一八四三)年~昭和二(一九二七)年)は明治・大正期の女子教育者。京の儒医宇田栗園(りつえん)の娘。明治二(一八六九)年、三輪田元綱と結婚したが、十年後に死別、明治一三(一八八〇)年に松山で「明倫学舎」を設立した。明治二〇(一八八七)年、上京して「翠松学舎」を開き、漢学を教えた。明治三五(一九〇二)年、「三輪田女学校」(現在の「三輪田学園」)を創立し、良妻賢母教育を教授した。著作に「女子の本分」など。

「師岡節齋」師岡正胤(もろおかまさたね 文政一二(一八二九)年~明治三二(一八九九)年)は国学者・勤王家で医師。通称は豊輔、節斎は号。ウィキの「師岡正胤」によれば、江戸の医家の子として生まれた。京で大国隆正に国学を学んだのち、嘉永五(一八五二)年に江戸「気吹舎」の平田銕胤(かねたね:平田篤胤の養子)に『入門して「篤胤没後の門人」となった。幕末期には同門の有志とともに尊王攘夷運動に奔走し、常に銕胤の近くにあって、さまざまな江戸情報を銕胤にもたらした』。『正胤の妻の兄が若年寄加納久徴(上総国一宮藩主)の取次頭取だった関係上、江戸幕府の内部情報を入手することができたのであ』った。本事件の主犯者の一人であったが、『正胤は厳刑に処せられるところを』、『公卿や土佐藩主・長州藩主などの計らいで』、『信濃国上田藩に禁固』六『年の身となった』。慶応三(一八六七)年の「王政復古」の大号令ののちは、『赦免され』、『新政府に出仕し、刑法官から監察司知事・弾正台大巡察などを歴任した』明治六(一八七三)年には、『京都松尾大社の大宮司となり、神道の振興に力を注いだ』。『なお、幕末から明治維新にかけての正胤は島崎藤村の小説『夜明け前』に、主人公青山半蔵(藤村の父島崎正樹がモデルとされる)の同志として実名で登場している』。後、『宮内省文学御用掛』や『伊勢神宮の本部教授となり、愛媛皇典講究所教授も務めた』。また、娘の師岡千代子』(明治八(一八七五)年~昭和三五(一九六〇)年)『は、社会主義者幸徳秋水の』二『度目の妻(のちに離縁)であ』ったとある。最後の一節はクるものがある。

「大庭恭平」(おおばきょうへい 天保元(一八三〇)年~明治三五(一九〇二)年)は会津藩密偵ウィキの「大庭恭平」によれば、文久二(一八六二)年に藩主松平容保が『京都守護職に任じられて上洛すると、これより先に上洛』した。『会津藩の重臣である田中玄清や野村左兵衛の密命で』、『浪人となって京都で活動する過激派の攘夷浪人の監視を行なうためだったとされている』。ところが、本『事件が起こり、大庭も犯人の』一『人であったため』、『捕縛されて信濃国上田藩に流罪となった』。慶応四(一八六八)年から「戊辰戦争」が『始まると』、『新政府軍は、大庭を釈放した』。『大庭は古屋佐久左衛門が率いる衝鋒隊に加わり』、『各地で戦功を立てた。会津藩が劣勢になると』、『仙台に赴き』、『援軍を願い出るが、既に仙台藩に戦闘の意志はない。そのため、同盟を結んでいた庄内藩へ赴き』、『会津藩救済を願い出る。だが、逆に庄内藩により牢獄へ送られ』、『越後高田に謹慎処分となった』。『会津藩が敗れると』、『死者の埋葬など』の『戦後処理に尽力し』、『会津藩は戊辰戦争で新政府により改易とされたが、大庭は会津藩の再興に尽力したという後年の逸話が広ま』った。明治三(一八七〇)年、『斗南藩として再興が認められると、刑法掛として出仕した』。『明治政府においても』、『多くの官職には就いたが、退職し、函館で隠棲生活を送った。晩年は室蘭にいる弟のもとで過ごしていたという』とある。

「高橋お傳」(嘉永五(一八五二)年~明治一二(一八七九)年)は上野国利根郡下牧村(現在の群馬県みなかみ町)の高橋九右衛門の養女。慶応三(一八六七)年、九右衛門は高橋波之助を婿養子にしたが、お伝はハンセン病にかかった夫を毒殺したとされ(事実誤認。後述)、その後、浅草蔵前の宿屋で古着商の後藤吉蔵を剃刀(かみそり)で殺害して金を盗み、間もなく捕えられ、市ヶ谷監獄内の刑場で斬首された。その生涯は仮名垣魯文作「高橋阿伝夜叉譚(たかはしおでんやしゃものがたり)」(刑死直後の出版)や河竹黙阿弥作の新作歌舞伎「綴合於伝仮名書(とじあわせおでんのかなぶみ)」(刑死四ヶ月後の五月に新富座で初演)など、多くの読み物で世人の好奇心をそそり、彼女の名は「悪女」「毒婦」の代名詞とされてしまった。しかし実際には夫は病死であり、後藤の殺害も相手に非があった。その辺りはウィキの「高橋お伝」に詳しい。「お伝さん」の復権のためにも是非読まれたい。]

 「夢を食ふもの」の記事は、夫人が上野帝室博物館で、偶然「獏」と云ふ字のある三代將軍家光の枕と云ふものを見て歸つて、獏の夢を食ふ話、こはい夢を見たら獏に食はせる事、或は出雲の傳說によつて南天に喰べて貰ふ話などをしたのが發端であつた。しかしこの篇の初めにある魔の記事は夫人の記憶によれば、當時何かと材料を提供してくれた出雲の人、折戶德三郞(今は故人)と云ふ逓信省の官吏など務めた人から得たものであつた。

[やぶちゃん注:「折戶德三郞」詳細事蹟は私は不詳だが、中井孝子氏の博士学位論文「ハーンのミューズ―「暗号」解読の試み―」(名古屋大学大学院国際言語文化研究科国際多元文化専攻。PDFでダウン・ロード可能)によれば、この人物は小泉八雲の英訳翻訳の重要な協力者の一人で、しばしば小泉八雲の英訳の下書きをして手伝っていたこと、長谷川洋二氏(この方は私の教員の新米時代の同僚の世界史の先生であった)が『「お化けの歌」の英語の下訳が折戸徳三郎であると認めている』とあり、さらに、小泉八雲の長男小泉『一雄の証言では、折戸は表立つことが嫌いで誠実な人柄であった。彼の英訳の、アシスタントとしての「骨折った箇所」が大谷正信の「手柄」として横取りされているとする』とさえあり、さらに『折戸が、1890年』(明治二十三年)『ころから』、『ハーンの民話蒐集に協力し、1895年ころから』は『英訳を提供し』ていたともある人物である。]

 『怪談』は明治三十六年[やぶちゃん注:一九〇三年。但し、これは翌明治三十七年の誤りである。]四月、米國では書肆ハウトン・ミフリン、英國では書肆キーガン・パウル・トンンチ、兩方で出版になつたもの。そのうちの二篇「耳無芳一の話」及び「安藝之助の夢」は少し以前雜誌「大西洋評論」に掲載された。

[やぶちゃん注:「英國では書肆キーガン・パウル・トンンチ」ロンドンの“Kegan,Paul,Trench & Harper”。但し、こちらは英文書誌データを見る限りでは小泉八雲死後の一九〇五年の刊行。

「大西洋評論」“Atlantic Monthly”。一八五七年にマサチューセッツ州ボストンで、同題の文字通り月刊誌として発刊し(当初は奴隷制廃止を掲げた政治的総合文芸雑誌であった)、現在も“The Atlantic”として続いている。英文ウィキの「The Atlanticを参照されたい。]

 「耳無芳一の話」(戶川氏譯)は「臥遊奇談」卷二「琵琶の祕曲、幽靈を泣かしむ」と題するものによつた。この種の話は「骨董」のうちの「おかめのはなし」と同じく佛敎殊に經文の功德を宣傳したもので、日本では時々見られる物語の一つであるが、へルンの靈筆によつて非常に鮮やかなものになつて居る。

 「貉」(戸川氏譯)は「百物語」第三十三席御山苔松と云ふ人の話によつたもの。原文では貉(むじな)でなく、河獺(かはうそ)になつて居る。その他の點でも違つた處はある。

 「葬られたる祕密」(戶川氏譯)は「新選百物語」によつたもの。原文ではその題に「紫雲たなびく密夫の玉章」とある通り、數十通の密書をかくしてあつた事になつて居るが、英譯では只一通になつて居る。

 「姥櫻」 「十六日櫻」共に「文藝くらぶ」第七諸國奇談から取つたもの。「お貞のはなし」 「鏡と鐘」は「夜窻鬼談」から取つてあるが、前者は、二三の點を除けば殆んど別のものとなつて居る。たとへば、原漢文では杏生と阿貞の關係は、初めは客と妓であり、後には旦那と思ひものであるが、へルンの英譯では、長生とお貞の關係ははるかに美しいものとなつて居る。

 「食人鬼」は「佛敎百科全書」、「ろくろ首」は「怪物輿論」、「靑柳のはなし」は「玉すだれ」より取つてある。「雪女」へルンの序文にある通り、小泉家へ出入した東京府西多摩郡調布村の農夫から聞いたものであつた。

 私はここにヘルンが、これ等の材料を如何に改造し「換骨奪胎」して居るかの一例として「古今著聞集」にある「をしどり」の原文を轉載して讀者の參考に資したい。

[やぶちゃん注:以下、底本では全体が二字下げでポイント落ち。田部はかなりの部分を漢字表記代えており、読みも殆んど振っていないので、私が原本通りに電子化したものより、却って読み易くなっている。]

 

 陸奥に田村の鄕の住人、馬允(ばぜう)なにがしとかや云ふ男鷹を使ひけるが、鳥を得すして空しく歸りるに、赤沼と云ふ所にをしどり一つがひゐたりけるを、くるりをもちて射たりければ過たず雄烏に中りてけり。をしどりをやがてそこにてとりかひて、ゑがらをはゑぶくろに入れて家に歸りぬ。その次の夜の夢にいとなまめきたる女の小さやかなる、枕に來てさめざめと泣きゐたり。あやしくて何人のかくは泣くぞと問ひければ、咋日赤沼にて、させるあやまりも侍らぬに年比の男を殺し給へる、悲しびに堪へずして參りて憂へ申すなり。この思ひによりて我身もながらへ侍るまじきなりとて、一首の歌をとなへて泣く泣く去りにけり。

  日くるればさそひしものをあかぬまのまこもかくれのひとりねぞうき

あはれに不思議に思ふ程に中一日ありて後ゑがらを見ければ、ゑぶくろにをしの雌鳥の腹をおのがはしにて貫きて死にてありけり。これを見てこの馬允やがて髻(もとどり)を切りて出家してけり。この所は前刑部大輔仲能朝臣が領になん侍るなる。

 

 隨筆のうち、「力ばか」はその頃、富久町にその名の白痴の少年がゐたが、その死後、小泉家へ出入の女髮結が來て話した通りを、薪屋の老人の話に擬して書いたもの。生れかはりと云ふ考は色々の形式となつて、日本人のうちに生きて居る事は事實である。

 「日𢌞り」はヘルンの傳記者に取つて有雖い參考になる。

 「蓬萊」は、谷中の美術院の展覽會で買つた蓬萊と題する掛物を眺めながらなした述懷である。

 

 『天の河緣起そのほか』中の「小よりも奇」は、ヘルンの草稿には A Forgiveness(罪を赦す)とあるが、後改めたものらしく察せられる。佛領西印度マルテイニーク島追懷の記事の二つ。サンピヱールを發して島を橫斷したのであつた。フローラン夫人の話はヘルンが夫人にも話した事のある事實談。

[やぶちゃん注:「サンピヱール」Saint-Pierre(サン・ピエール)は西インド諸島のフランス領マルティニーク(Martinique)島にある村。嘗てはマルティニークの県庁所在地だったが、一九〇二年(「骨董」と「怪談」の間である。小泉八雲はその知らせをどう感じたであろう)のプレー山(Montagne Pelée)の火山噴火による火砕流により、ほぼ完全に崩壊してしまった。死者は約三万人、陸上にいた人で生存者はわずか三人だけであったという。 噴火後、マルティニークの県庁は当時は小さな村でしかなかったフォール=ド=フランス(Fort-de-France)に移された。参考にしたウィキの「サン・ピエールマルティニークによれば、『プレー山の噴火が一段落した後』、『復興・再建はされたものの、県庁所在地という政治・経済・文化・交通の中心的地位を失ったこともあり』、『以前のような繫栄を取り戻すことはできなかった』とある。]

 最後に、ヘルンの最初の作『異文學遺聞』より最後の作『天の河緣起そのほか』に到るまで、到る所に散在せるが、殊に『骨董』『怪談』に到つて、その絕頂に達して居る怪談について一言したい。

 これ等の怪談の或者は、單に超自然的であり、不思議であると云ふ理由で、(たとへば「ろくろ首」の如き)、或者は輪𢌞の說から來て居るので、(「雉子のはなし」の如き)、又、或者は人間の魂が蝶になつたり、樹木の魂が人間になつたりして(「安藝之助の夢」「靑柳のはなし」の如き)へルンの所謂萬有は一と云ふ思想を表はしてゐるので、――それぞれヘルンの興味をそそつた。しかし、日本の怪談に最も多いから、ヘルンが最も多く取つたものは、執念、念力、殊に最後の一念から起つた怪談である。ヘルンはこれ等の怪談を以て滿足せず、更にそれを說明するために、「術數」の一篇を書いて居る。ヘルンに隨へば、「異常の念力をもつて死ぬ人、殊にその念力をもちながら自殺をする人の魂は、超自然的な力を有する」事になると云ふのが日本人の考方[やぶちゃん注:ママ。]である。卑近な例を見ても、或病にかかつて死んだ人は、その病氣を直す力のある神になる事がある。その理由は、その人の最後の一念はその病を直す事であつたからである。

[やぶちゃん注:「異文學遺聞」小泉八雲(当時は Patrick Lafcadio Hearn)が一八八四年(アメリカ在)、三十四歳の時、初めて翻訳でなく創作し刊行した “Stray Leaves from Strange Literature”(「奇妙な文学から迷い落ちた葉たち」。何故か、現行では「飛花落葉集」(平井呈一氏のお洒落な意訳か)という訳で出回っている)。]

 その外、これ等の怪談に表はれて居る民間信仰や俗說に對してヘルンは何と考へたであらうか。ヘルンの言を借りて云へば「凡て迷信であれ何であれ、禮拜信仰と云ふ一般思想には愚かな、をかしい分子などは少しもなく、何れも凡て人類が絕對的無限の方へ進まうとする眞面目な感心な向上心を表はしたもの」である。それでヘルンは敬虔なる態度を以て、これらを取扱つて、その背後にある美はしい思想、不思議な精神を眺めて居る。

 それからヘルンは「小說に於ける超自然の價値」と云ふ題の講義のうちにかう云つて居る。「……凡て大藝術にはそのうちに何か靈的な分子がある。……詩人や小說家にして時々讀者に多少怪談的興味を與ふる事のできない人は、決して眞に偉大なる作者でも偉大なる思想家でもない。……」

 

 

     *

 

 なほ『怪談』が出版になつた時、つぎの序文が添へてあつた。ハウトン書肆の顧問文士グリインシレツト氏のものかと思はれるが署名はない。

[やぶちゃん注:以下、底本では引用は凡そ二字下げポイント落ち。この原本原文はInternet Archive”のこちらで視認でき、活字化されたものはProject Gutenberg”のこちらの目次の後の“INTRODUCTION”で読める。最後に“March, 1904.”のクレジットは附されてある。

「グリインシレツト氏」フェリス・ロウェル・グリーンスレット(Ferris Lowell Greenslet 一八七五年~一九五九年) はアメリカの編集者にして作家で、 一九〇二年以降、彼は先の「ホートン・ミフリン社」の文芸顧問兼編集者を延べ五十二年(途中で離任期間が有る)に亙って続けた。]

 

 ラフカデイオ・ヘルンのいみじき日本硏究の新しいこの書物が、偶然世界が日本戰鬪艦最近行動の消息を、緊張せる期待をもつて待つて居る丁度その月に出版された事は、きはどい不思議な𢌞り合せである。ロシヤと日本の現在の戰爭の結果はどうなつても、西洋の武器で武裝して、西洋の意力で身構へした東洋の一國民が、西洋の一大强國に對して愼重に爭つて居ると云ふ事實に意味がある。こんな戰爭が世界の文明に及ぼす結果を豫言する事は、如何に聰明な人にもできない。ただ精々できる事は、目下の戰爭に關係ある複雜なる諸問題の單なる政治的及び統計的の硏究によらないで、むしろこの兩種族の心理を基として、そこに望みと恐れを置いて、できるだけ聰明に、この戰爭に從事せる兩國民の國民性を評價する事だけである。ロシヤ人は數十年に渡りて、歐洲の聽衆を心酔させた文學上の代辯者をもつてゐた。これに反して日本人はツルゲニエフやトルストイのやうな、そんな國民的な、そして世界的に認められた人物をもつてゐない。

 東洋の如何なる種族のうちにも、ラフカデイオ・ヘルンが私共の言葉に日本を飜譯する際に用ゐたよりも、もつと完全な天賦の洞察と同情をもつた、代辯を有した種族がいつかあつたとは思はれない。ヘルンが日本に於ける長い滯在、適應性に富んだ心、詩的想像力、及び驚くべく透明な文體は、文學的事業のうちの最も取扱に注意を要するものに彼を適任ならしめる。彼は驚くべきものを色々見て居る。それを驚くべき文體で語つて居る。現代日本の生活の如何なる點でも、ロシヤとの現在の衝突に關係ある社會上、政治上及び軍事上の問題のどの分子と雖も、彼がアメリカの讀者を喜ばせた著書のうちのどの書物かに明瞭にしてないものは一つもない。

 ヘルンは『怪談』の特色を「不思議な事の硏究と物語」として居る。この書物から想起される事は非常に多い。しかしその大多數はこの不思議と云ふ事實で始まり、又終るものであらう。目次で題名を讀んだだけでも、どこか遠く雛れた處でつかれた梵鐘を聞くやうである。物語の或ものは餘程古いものであるが、それでも目下日本の巡洋艦の甲板に群がつて居る小さい人々の魂と心そのものを照らして居るやうである。しかし物語の多數は、婦人小兒に關して居る、――それは世界で最も良いお伽話が織出されたやさしい材料である。この日本の乙女と妻と、鋭い眼の黑い髮の少女と少年、これ等も亦不思議である。彼等は私共と似て居ると共に、又似てゐない、それから空も丘も花も皆私共のと違つて居る。それでも私共に取つて實在でない世界をやさしく透明に靈的に描寫する事に於て、現代作家のうちの殆んど唯一人であるヘルン氏の魔法のやうな文體によつて、精神的實在と云ふ忘れられない感じを與へられる。

 一九〇三年二月「大西洋評論」にパウル・ヱルマ・モーア寄稿の洞察のある美しき論文に於て、ヘルン氏の魔術の祕訣は、彼の技術に『三種の相集まれるもの』があると云ふ事實によると云つてある。『印度の宗敎的本能――特に佛敎――それを歷史が日本の美感に植ゑつけたが、それに對するにヘルンは西洋の科學の解釋精神を以てして居る。それでこの三つのあり來りのものは、彼の心の特別の同情によつで融合されて、一つの豐富な珍奇なもの――以前に知られない一種の心理的感情を文學の方面に紹介した事になる程、それ程稀れなものになつて居る』モーア氏の論文はヘルン氏に認められ、又感謝されて、甚だ高い賞讚を受けた。それでもしここにそれを轉載する事ができるものなら、これ等古い日本の新しい物語の最も啓發的な總論になる事であらう。それ等の物語の正味はモーア氏の云ふ處によれば『印度の物すごき夢と日本の微妙な美と歐洲の假借しない科學とを甚だ不思議に混交した』ものである。

[やぶちゃん注:「パウル・ヱルマ・モーア」Paul Elmer More(一八六四年~一九三七年)アメリカのジャーナリストで評論家。英文ウィキが存在する。]

 

      大正十五年六月   田部隆次

 

[やぶちゃん注:なお、ブラウザの不具合を考えて最後の署名は底本の字配を再現してはいない。「大正十五年」は一九二六年。]

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