小泉八雲 夢飛行 (岡田哲蔵訳)
[やぶちゃん注:本篇(原題“Levitation”。私は心霊学や超能力絡みの妖しい語句である「空中浮揚」と訳してもみたい衝動に駆られる)は一九〇〇(明治三三)年七月にボストンの「リトル・ブラウン社」(LITTLE,BROWN AND COMPANY)から出版された作品集“SHADOWINGS”(名詞「shadowing」には「影」以外には「人影」・「影法師」・「影を附けること」・「尾行」などの意味がある。本作品集の訳は概ね「影」が多いが、平井呈一氏は「明暗」と訳しておられ、私も漠然とした「影」よりも、作品群の持つ感性上の印象としてのグラデーションから「明暗」の方が相応しいと思う。来日後の第七作品集)の第一パート“STORIES FROM STRANGE BOOKS”・第二パート“JAPANESE STUDIES”(「日本に就いての研究」)の次の最終第三パート“FANTASIES”の第四話目に配された作品である。本作品集は“Internet Archive”のこちら(出版社及びクレジットの入った扉表紙を示した)で全篇視認できる(本篇はここから)。活字化されたものは“Project Gutenberg”のこちらで全篇が読める(本篇はここから)。
底本は英文サイト“Internet Archive”のこちらにある、第一書房が昭和一一(一九三六)年十一月に刊行した「家庭版小泉八雲全集」(全十二巻)の第七巻の画像データをPDFで落として視認した。
訳者岡田哲藏氏については先行する「小泉八雲 夜光蟲(岡田哲蔵訳)」の私の冒頭注を参照されたい。
傍点「○」は太字下線に、傍点「ヽ」は太字に代えた。]
夢 飛 行
或る階上の窓から私は黃色の家屋の街路を眺めて居た、――或る植民地の舊式な、狹い街路、その瓦の屋根の上には椰子の梢が見えて居た。影は何處にも無い、日が出て居らぬ、――ただ早い黃昏の樣な灰色の柔らかい光ばかり。
突如、私は窓から落下する自分を見た。私の心臟は恐ろしさに惱ましく一躍りした。然るに窓から舗道迄の距離が豫想より餘程長く、私は恐れながら、不思議に思ひ出した。それでも落ち、落ちつづけた、が恐れた擊突は來たらぬ。それから恐れが止んで、妙な快さとなつた。私は急に落下せずに、ただ流れ下るのがわかつた。その上に私は足を前にして浮いて居る、降る[やぶちゃん注:「くだる」。]うちに向きが變つたに違ひない。終に石に觸れたが、極めて輕く、しかも片足だけで、すぐに私はその觸接でまた上に行つた、軒の高さに登つた。人々は立ち止つて私を見つめた。私は人間以上の力の歡喜を覺えた、しばらくは神の樣に感じた。
それから徐ろに降りはじめ、私の下に集まる人の顏が見えると、見物人の頭上を越えて、街路を飛行するやうに急に決心を促れさた。再び私は泡沫[やぶちゃん注:「しぶき」或いは「うたかた」。]の如く昇り、それから同じ衝動で、自ら驚くばかりの距隨まで一大弧線を描いて流れた。私は少しも風を感ぜぬ、ただ勝利の運動の喜びを感ずるばかり。再び鋪道に觸れて一躍して百ヤード[やぶちゃん注:凡そ九十一メートル半。]ばかり翔つた。それから街路の端末に達して、囘轉して驚くき高度の長い緩かな空中飛躍をして、大きく舞つて飛び返つた。街路は死せる如く靜であつた、多くの人々が仰ぎ見て居たが、何人も談るものは無い。人々は私の業蹟を何と思つたらう、また如何に容易にその事が出來たかを知つたら何といふだらう。全く偶然に私はその仕方を知つた、それが行蹟と見えたのは外の何人も曾てそれを試みたものがないだけの事だ。本能的に私はこの發見に到れる由來に就て何か談るのは不謹愼なことだと感じた。そのとき街路の不思議に靜肅な眞意が判かりそめた。私は自分に云ふた。
『この靜肅は夢の靜肅である、これは夢であることがよく判かる。以前にもこんな夢を見たことを覺えて居る。然しこの力の發見は夢では無い、これは默示だ。……今や飛行を覺えた以上は、水泳家が泳ぐことを忘れられぬと同じく忘れ得まい。明朝、町の屋根の上を飛んで行つて人々を驚かしてやら』
朝になつた、窓から飛び出ようと堅く決心して、私は目覺めた。然し床を離れるや否や身體的關係の知識が忘れた感覺の如く還つて來て、私は何等の發見をしたのでもないといふ眞實をいやいやながら承認せねばならなくさせた。
これはか〻る夢の初めのものでも終りのものでも無い。ただそれが特に生き活きして居たので、私は此種のものの良い例として、談の爲めにそれを選んだ。私は今も折々飛ぶ、――時には野を越え流れを越えて、――時にはよく知つて居る街道を通じて、そしてその夢は屹度過去に於ける似たる夢の記憶を伴なひ、尙ほまた眞に祕密を發見したのだ、本當に新たな能力を得たのだとの確信が件なふのである。私は自らにいふ、「今度こそ間違ひは無い、目が覺めた後屹度飛べるのだ。以前外の夢のときには度々祕密と覺えたと思つても目覺めると直ぐ忘れるばかりであつたが、今度こそは忘れないに全く極つて居る』と、そしてその確信は自分が床を離れる時迄實際に殘つて居るが、床から起きて體を動かして見ると直ぐ重力の恐ろしい現實を思ひ出す。
此經驗の最も奇妙な點は浮揚の感覺である。それは例へば微溫湯の中で浮沈する樣な、流れ行く如き感覺である、そして何等努力して居る樣な感じが無い。それは嬉しいことだ、然しまだ何か物足らなく思ふ。私は低空飛行者である、鼯鼠[やぶちゃん注:原文“a pteromys”。岡田氏は「むささび」と読ませていると推察する。但し、現行ではこの原文の単語では「ももんが」と読むのが正しい。現行の分類上では、「ムササビ」は齧歯(ネズミ)目リス科リス亜科Sciurinae の Pteromyini 族ムササビ属 Petaurista であるのに対し、「モモンガ」はモモンガ族モモンガ属 Pteromys であって、ここで小泉八雲が示すそれは現行では「モモンガ」の類を指す語となるからである。但し、実は「ムササビ」類はごく最近まで、一部でモモンガ亜科 Pteromyinae に位置付けられていた経緯があり、生物種に対する貧困な認識しかない一般的な英語圏では、恐らく現在でも両者をひっくるめてこの「pteromys」で呼んでいる可能性が極めて高いものと私は考える。両者の違いや博物誌は私の「和漢三才圖會第四十二 原禽類 䴎鼠(むささび・ももか)(ムササビ・モモンガ)」を参照されたい。]や飛の魚[やぶちゃん注:原文“a flying-fish”。条鰭綱新鰭亜綱棘鰭上目ダツ目トビウオ科 Exocoetidae のトビウオ類。]の如く進行するのみ、然もそれらよりずつと遲く、それに衝動を新たにする爲めに時々地を踐まねばならぬ。二十五尺乃至三十尺[やぶちゃん注:原文単位はこの数字のままで“feet”。あまり変わらないが、厳密にフィートから換算すると、七・六二~九・一四メートルとなる。]の高さに揚がることは殆ど無い、大槪は地面を掠つて[やぶちゃん注:「かすつて」。]行くに過ぎぬ。僅に數百ヤアド[やぶちゃん注:百ヤードは九十一・四四メートル。六掛けで五百四十九メートル前後か。]行く每に地に觸れるのは樂しい掠り過ぎである、然し私はいつもぼんやりと、下の地が重苦しく自分を牽いて居る樣に感ずる。
要するに多くの夢中飛行者等の經驗は大槪私と同樣であつた。もつと勝れた力を得るといつた人は一人だけであつた。彼は山々を越えて、峯から峯へ鳶の如く飛ぶといつた。外に私の尋ねた人々は皆低く長い抛物線的の弧を描いて飛ぶ、然もこれさへ時々地に觸れるのだといつた。彼等は槪ねまた、彼等の飛行は先づ墮落の想像から、または止むを得ず飛び下ることから始まるといふ、そして四人までも階段の頂からいつも出發するのだと云つた。
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幾萬年の間も人類はかく夜間飛行をして居た。實際生活の何れの經驗とも極めて緣無き想像的運動が如何にして睡眠の生活の普汎的經驗となつたのであらうか。
空中運動の或る種の記憶印象――例へぱ跳躍又は鞦韆乘[やぶちゃん注:「ぶらんごのり」と訓じておく。]の快活な經驗――が夢に甦つて擴大され引展されて飛行の幻覺を生じたのかも知れぬ。我々は實際の時間に於ける夢の繼續する間は極めて短いことを知る。然し睡眠中の半生命に於ては――(夢魔は或る驚くべきき例外を呈するが)――實際の腦作用の迅速なる閃めきと潑剌[やぶちゃん注:「はつらつ」。]たる戰慄と比すれば、漠然たる意識の燻ぶる如きものあるに過ぎぬ、――そして夢みる頭腦には時間は擴大して思はる〻こと、恰もそれが昆蟲の弱き意識に關係的に擴大さる〻と同じであらう。墜落の感覺の何等かの記憶と、之に伴なふ恐怖の記憶が偶然睡眠中に甦るとすると、感覺及び感情の夢中の延長が――自然の結果なる擊突によつて遮られぬときは――空中運動の他の記憶、愉快な記憶すら再現するに足るのであらう。そして更に此等は長き幻影の一切の事件と光景とを呈するに足る相關的記憶の別の連合を刺戟することにならう。
然しこの假說は覺醒時の何れの經驗とも異れる性質の或る感情及び觀念を十分に說明するに足らぬであらう。例へぱ、努力せずに隨意に運動する樂み、全然不可能事の樂み、重量全く輕減せる奇怪なる悅びなどは說明が難い。更にまたこの假說は跳躍又は落下の感覺から起こらざる、槪ね快く無い夢中飛行の經驗を說明することを得ぬ。例へば夢魔に魘はれて[やぶちゃん注:「おそはれて」。]居る間に夢みる者が動く力も談る力も無くなつて、實に我が身體が空に舉げられ、心に抱く恐怖の力によつて浮流される樣なことが起こる。また夢みる者が全く形體としての存在を有せぬ夢がある。私も全く身體を有せず、――見ることもなく聲もなき幻となり、黃昏の時に山路に徨ひ[やぶちゃん注:「さまよひ」。]、小さな呻き聲して孤客を驚かさうとしたことがあつた。その感覺は全く意志の行爲のみで空中を通つて動くのであつた、地の表に觸れることも無い、そして私は路上約一尺のところを滑り行くと思つた。
人間よりも昔の生命の狀態、卽ち重量ある生命が羽翼ありて地上を低く、重げに飛びたる狀態の有機的記憶をもつて夢中飛行の旅情の一部分が解釋されやうか。
それとも萬有に浸徹する超靈が外の時には眠つて居て、睡眠時の稀有なる瞬間に於てのみ頭腦中に目覺むと想像し得ようか、限られたる人間意識は目に見ゆる太陽光線の分光景に美はしく比せられ、若し優越なる感覺が進化せば、現に見えざるその以上及び以下の色の全帶が見ゆるならんと思はれる、そして神祕論者は我々より偉大なる心ある者の見る紫外線又は赤外緣が瞬時夢に見らると稱す。確に我々各自に存する宇宙の生命は空間と時間の一切の形式に於ける一切のもののであつた。恐らくは太陽よりも古き事物の漠たる感覺記憶――卽ちそれは既に消滅したる遊星、そこには重力が稀薄で、自發的運動の正規の樣式は我々の飛行の夢の實現の樣であつた、その遊星の記憶を睡眠の中に搔き起こすことありと、我々は信ぜんと欲するのであらう……
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